マ ラ ッカ の チ ャイ ニ ー ズ ・カ ピ タ ン の 系 譜
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Ⅰ オ ラ ンダが ジ ャバ 島を 占領 して,バ ク ビアに根拠 を おいた のは1
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年 の ことで あ る。 この と き総督 クー ンJ
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の もとに, 当地 の華僑 を ひ きいて オ ラ ンダ の発 展 に協 力 さ せ るべ く, カ ピタ ンに任命 され たのがSoBe
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で あ った。 そ の漢字 名 は 『開 口巴歴代 史記 』 の ど とき も蘇 明公 につ くるが,1
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年 に墓石 が発見 され た結 果 ,蘇 鳴 関で あ る こ とが 明 らか に されて い る。 カ ピタ ンとはい うまで もな くオ ラ ンダ語 のKapi
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で, 漢字 で は 甲必 丹 と書 く。東 イ ン ド会社 の任命 を受 け,華僑社会 の首 領 と して相 当 の 自治権 限 を与 え られ た もので あ った。蘇 暗 闇は東南 ア ジアのオ ラ ンダ植民地 に おけ る,最 初 のチ ャイニ ーズ ・カ ピ タ ンだ ったので あ る。1
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年 オ ラ ンダ は ポル トガル か らマ ラ ッカを奪 うと,バ タ ビアにおけ る経験 にな らって, そ の地 の華僑 を統率 させ るため にチ ャイニ- ズ ・カ ピタ ンを おいた といわ れ る. これ につ いて も っともよ く引用 され るのは, オ ラ ンダ の束 イ ン ド会 社 の委員 シ ョウテ ンJ
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年 の報告 書 で あ る(
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。 そ れ によれ ば, 当時 マ ラ ッカの華僑 は商 ・工 ・農業者 を含 めて3
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人 で, かれ らは多 く町 の北部 に住 み ノーチ ンNot
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とい う小 商人 が カ ピタ ンに任 ぜ られ ていた。 ノーチ ンは おそ ら く津 州 (福建)の出 身者 で あろ うと想像 され るだけで, その漢字名 も明 らかで な く, また ポル トガル時代 か らす で に カ ピタ ンにな っていたの か, あ るいは オ ラ ンダ の 占領 後 は じめて任 命 され たのか, そ うい っ た ことは全 くわか らな い。 マ ラ ッカの華僑 の間で は,鄭 芳揚 とい うものがオ ラ ンダ統 治後 にお け る最 初 の カ ピタ ンで あ って当地 の華僑勢 力 の基 礎 を築 いた人 と信ぜ られ て い るので あ る。 マ ラ ッカの チ ャイニ-ズ ・カ ピタ ンにつ いて,実地調 査 によ りは じめて系統 的 な記述 を の こ した のは葉 華芽 師(
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で あ った。 それ は"
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に発表 され, の ち シ ンガ ポール のAnnualo
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(中国学 会年刊)1
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年 度 分 に も再 録 され たO そ の後 の マ ラ ッカの チ ャイ ニー ズ ・カ ピタ ンにつ い て書 かれ た もの は, ほ と ん ど この葉 師 の記 述 に よ って い るので あ って,新 しい知見 は加え られ て い な い とい って よい。Vi
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,張 礼 千 の 『馬六 甲史 』 (新 加 披1
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な どを は じめ, 1
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年 出版 のC.
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(黄 存 築) のA Gal
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の ご と き も同株 で あ る. 小には薬 師 の意 見 が誤解 され て い る点 もあ る が, それ は肺 の実地 調 査 そ の ものが不 充 分 な ことに もよ る と思 う。1
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年 ,1
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年 の両 度 にわ た る調 査 の結 果 に も とづ いて , それ に補 正 を加 え る と と もに,新 資 料 を紹介 す る ことが本 稿 の 目的 で あ る。 これ につ い ては,下 記 青 雲事 の金 星 , 禅 道両 師 か ら非 常 な お世 話 にな った ことを 銘記 して感 謝 の しる Lとす る。 マ ラ ッカの チ ャイニ ー ズ ・カ ピタ ンの事 務 所 は, 今 日 もTempl
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にそ の偉 容 を誇 る 青 雲亭Che
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で あ ったo一 般 の華 僑 の問 で は観音 事 のflで呼 ばれ て い るよ うに, 観音 菩 薩 を本 尊 とす る仏 寺 で あ るが, かつ て は 華 僑 社 会 の役所 で あ り 法 廷 で もあ った ので あ る。 また かれ らの精 神 的慰 安 の 中心 で あ る と と もに,共 同 利益 を 擁護す るため の実 力団 結 の拠 点 で あ った とい って もよ い。1
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年 オ ラ ンダ の統 治 が終 りを告 げ, イギ リスの支 配 が は じま る と カ ピタ ン の制度 は廃止 され た が, 華僑 社 会 の運営 は 引 き続 き この青 雲事 を 中心 に行 なわれ た。 華僑 社 会 の有 力者 が亭 主Te
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の名 の もとに, 内部統 制 と対 外 折衝 に あた った ので あ って, かれ らも一般 に は依然 と して カ ピタ ンと呼 ばれ て いた ので あ る。 い ま盲 雲亭 の本 堂 の 帯 後 に歴 代 の カ ピタ ンや亭 主 の神主 (位牌) を安 置 した一 角 が あ るが, これ は1
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世 紀 の申 ごろ 第2代 の亭 主 辞仏 記 (あ ざな は文丹 ) の と きに設 け られ た ので あ る。亭主 の制度 は今世 紀 の は じめ まで あ ったが ,現在 で は純然 た る仏寺 とな って,福建 出身 の僧侶 が 住 して い る。 しか し, マ ラヤ最 古 の 由緒 あ る寺 院 と して い まに盛況 を続 けて い るば か りで な く, 華 僑 の熱心 な支 持 の もとに莫 大 な寺 産 を維 持 して い るので あ る。 つ ぎに車 要 な の は, マ ラ ッカ市 内 の東北 を 占め るBuki
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人 墓地 で あ る。 華僑 は郵 相 が ここに駅 軍 した とい う伝説 と結 びつ けて三 宝山と呼 ん で い るが, 東 につ らな るBuki
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とと もに広 大 な地域 を占め るO この墓地 の歴史 が古 く1
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世 紀,申
国 明代 の末 に まで さか の ぼ る ことは, 今 日な お残 って い るい くつ か の 明代 華僑 の 蓑石 が これ を証 明す るO もち ろん歴 代 チ ャイニ ー ズ ・カ ピタ ンの末 もや は りこ こに あ るわ けで あ って,冒 雲亭 と と もに マ ラ ッカ 華 僑 史 の 宝 庫 とい って よ い。 明代 の 墓 と して も っと も有 名 な のは,
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西 麓 の路 傍 に立 つ黄 氏 夫 妻 の もので あ る。 墓石 には頭 部 に皇明とあ り,中
央 に 額 諜報
左 墓,向か -て右 に壬成
年 仲冬 穀 旦 ,左 に孝 男 黄 震 封 r・t刻 されて い る。 か たわ らには1
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年 に青 雲事 で この墓 を修理 した ときの記念 碑 が あ り, それ に.は 今を- だ た る ことす - 89-7
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で に三 百余年 とみ え る。 す る と当時 の人 は壬戊 の年 を明 の天啓2年 (1621)に あてて いた と考 え られ るので あ って, おそ ら く 誤 りはな いで あろ う。 い ま一 つ皇 明 の文字 を刻 した墓石 が , BukitChinaの西南面 中腹 に あ る。 二 つ並 んだ同形 の墓 の向か って左側 の墓石 の 頭部 に この 2字 がみ え るので あるが,他 の文字 は右 側 の墓石 の もの もともになぜ か故意 に破壊 され ていて 全 く痕跡 を止 めな い。 これ につ いて菓 華芽 師 の記 述 には誤 りが あ るので, の ちに訂正 す るで あ ろ う。 ⅠⅠ 歴代 カ ピタ ンの系譜 や事 跡 を考 え る うえに根本 資料 とな るのは,青雲亭 内に保存 され た神主 (位牌) と BukitChina墓地 の墓石 , それ に若干 の記念 碑 で あ る。 これ ら中心 に伝説 を参照 して,年代 を追 いなが ら順 次 かれ らの事跡 を考証 してみ よ うと思 う。 1. 鄭 芳 揚 この人 は まえに ものべ た よ うに, マ ラ ッカの華僑勢 力 の地盤 をつ くった と信ぜ られ ,青雲事 もかれ が創建 した と伝 え られて い る。 福建省淳 州 の出身 で, 今 日のマ ラ ッカ川 の西 ,Second CrossStreetに居 住 す る商人 で あ った とい うことのほか, くわ しい ことはわ か らな い。 葉華 芽 師 によ る と,BukitChinaに 鄭 カ ピタ ン 夫 妻 の墓 が あ る と してつ ぎの よ うにのべ て い る。 それ はオ メガ型 の墓域 の中に並 ん だ二 つ の墓 か らな って い [て皇 明の文字 が刻 して あ] る。右 側 のはそ の墓石 によ って 主 人公 が鄭 甲必丹 Tay Kapitan で あ る こと,左 側 の は 甲 必 丹 朗准 Kapitan Nyaす なわ ち カ ピタ ン夫 人 で あ る ことがわ か る。 この夫 人 は おそ ら く土 着 の女 だ っ たで あろ う。 また この墓石 が と くに中国史家 の興 味 を ひ くのは, 中国 において さえ非 常 にめず らしい隆武 帝 の年号 が刻 され て い る ことで あ る とい う。 ここに業 師が鄭 甲必 丹夫 妻 の墓 で あ る とい って い る ものは, さきにあげた BukitChina西南面 中腹 の墓 に相違 な いので あ って, そ の墓石 には皇 明 の2字以外 にな に も 認 め られ な い ことは す で に指 摘 した通 りで あ る。 業 師 の 記 述 は, の ちにのべ る青 雲亭 内の神主 の文字 を混 同 した結果 に違 いな い。
また菓 師 は引 き続 いて,つ ぎのよ うにい う。 でay Rap (Kapとは,華僑 間 で一般 に用 い ら れ た Kapitanの 略語 で あ る) は1677年 にマ ラ ッカで死 に,Pulan Besarに 面 し た Bukit Chinaの南 斜面 に葬 られ た。かれ の墓 は あ る期 間忘れ られ,多 くの熱心 な調査 が行 なわれ たが わか らなか ったので あ る。 と ころが, あ る友人 た ち と青雲 亭 当局 な らび にマ ラ ッカの衆陽堂鄭 公 司 の援 助 , と くに青雲 事 にあ る祖先 の位牌 を開 くことを許 され た おか げで,1934年 それ に書 かれた貴重 な資料 が確認 された ので あ った。 この業 師 の ことば にみ え る位牌 につ いて は あ とで 詳 し くのべ るが, と もか く業 師 はそれ によ って鄭 甲必 丹 の後年 と墓 の位 置を確 かめ えた と し, 前記 の皇 明 の2字 を刻 した二 つ の墓 を その夫 妻 の もの と認 めた ので あろ う。 しか し,今 日で は この二 つ の墓 は鄭 甲必 丹 の もの とは考 え られ ていな いので あ って,業 師 の 760 - 9
0-日比 野 :マ ラ ッカ0)チ ャイ ニ ー ス ・カ ピタ ンの系譜 論 文 が発表 され た 1936年 の 翌 年 ,Bukit China の再 斜 面 に新 し く鄭 甲必 丹 の蓋 が再 建 され た ので あ った。 そ の墓 石 には頭 部 に 文Ⅰ九 中央 に穀 考 甲必 丹 明弘鄭公 之豪, 帆 か って左 に龍 飛 歳 次 戊 午 李仲春 吉旦 立,右 に孝 男 文 玄奉 把 とあ る。 さ らに下段 には英 萱 千 百 参十 七 年 栗 陽 堂 重 修 民 国甘 六年 丁丑 立 と刻 した石 が は め こまれ て い る。 柴 陽堂 とは 業 師 もあげ て い る 鄭 公 司 の こと 写真1 鄭 甲 必 丹
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j 某 で,鄭 氏 の同族 会 で あ り, 鄭 氏 は もと もと 河南 省 の柴 陽 を発 祥地 と して い る と ころか ら名づ け られ た もので あ るO そ の同 族会 が この豪 を 竜 修 した ので あ って刻石 には栗 とな って い るが,誤 字 で あ る こ とい うまで もな い。墓石 にみ え る文 山 とは漬 州 龍 渓願 の地 名 で ,本 人 の故郷 を あ らわす 。戊 午 の年は1678年 で ,死 去 の豊 年 で あ る。 この墓 を立 て た年 や,鄭芳 揚 の一 名 を 明弘 とい った ことな どは青 雲 事 の神主 にみ えな い が,衆 陽堂 には何 か資料 で もあ った の で あろ うか。孝 男 文 玄 とい うの は,喪主 の男子 の名 で あ る。 しか し, この某 の位 置が 古 くか ら郵 甲必丹 の墓 の所在 地 と認 め られて いた か ど うか は疑 問 だ と思 う。菓 華 芽 師 もい って い るよ うに, 前記 の二 つ の墓 が理 由 は と もか くと して ,葉 (刷 こよ って鄭 甲必 丹 の もの に比 定 され るまで は, そ の墓 は長 ら くわ か らな か った か らで あ る。 おそ ら く, この比 定 を不 満 と した衆 院 堂 関 係者 が , 青雲事 に あ る神主 に記 され た墓 の位 置な どを参 照して , こ こに新 し くつ くった ので はな いか と思 う。 それ は と もか く, この あた りが鄭氏 一族 の 墓地 だ った ことは誤 りな いで あ ろ う。 とい うの は, この蓋 か ら少 し上 が った と ころに,鄭 甲必 丹 の夫 人 の一 人 と認 め られ る もの の豪 が あ るか らで あ る。墓石 には,時壬成 年 季春立 ,頼 批 露 人維 氏 墓 ,孝 男 文 玄奉 配 とあ り,王 威 は1682年 に あた る と考 え られ る。 青 雲事 には19世 紀 の 中 ご ろ亭 主 の 醇 仏記 に よ ってつ くられ た,4人 の カ ピタ ンの立 派 な神主 が あ り, その一 つ鄭 芳 湯 の もの には,開基 甲田 特授 甲必 丹 諒 芳 揚 鄭 公禄 位 と刻 されて い る。甲
国 とは鳥
六 甲(マ ラ ッカ)の ことで , この人 が マ ラ ッカに おけ る華 僑 の地 盤 を は じめて築 いた のを賞揚 す るた め, この4字 を上 につ けた ので あ る。 そ の神主 は後 部 が 箱 にな って いて ,中 に鄭
氏 関係 の古 い神主 が い くつ か お さめ られ てい
る。 この よ うに歴 代 カ ピタ ン闇 係 の神主 を , そ れ ぞれ子 孫 の家 か ら集 めて ここに安 置 した の は, 拝仏 記 だ といわれ る。 それ らの神主 はいず れ も白木 つ くりで ,表 面 に蓋 を かぶせ小 さい台 の上 に立 て るよ うにな って い る。 まず鄭芳 揚 の ものは, - 91- 761益 顕 考芳 揚 郵 貯君 神主
不 孝 子 玄 奉 杷 [以上蓋]
生 干壬 申年 四月 廿 六 日亥 時
大 明 甲必 丹 鄭 公啓基 葬在 三 賛 山坐 亥 向 巳 卒 於丁 巳年 五 月 初 八 日子 時
とあ り, 生 役年 月 日と三宝 山 (BukitChina)に おけ る風 水 に よ って定 め られ た墓 の位 置を墨 書 す る. そ の後年 を葉 撃方 師 が1677年 (清 康 照16年 ) と した のは正 し く, これ か ら逆 算 す る と 生 年 の壬 中は1632年 (明崇 禎 5年 ) とな る。 おそ ら く46歳 で死 ぬ まで,何年 か にわ た って カ ピ タ ンの職 に あ った ので あ ろ う。 薬 師 が鄭 甲必 丹 の投年 を1677年 と定 め た に もかか わ らず , の ち張 礼千 が そ の 『馬六 甲史 』 に お いて干支 を60年 くりあげて 1617年 (明方 暦45年 ) と し,従 って生 年 を も1572年 (明隆慶 6 年 ) と して以 来 , これ に従 うものが少 な くな い。 そ の理 由 は ポル トガル統 治 時代 に カ ピタ ンに 任 命 され た Tin Kapとい う華 僑 が あ った といわ れ , この Tinは邸 の関南 音 Tayの誤 りだ とす れ ば,Tin Kapは 鄭芳 揚 に比定 す べ きだ とい うので あ る。 この説 は C.S.Wongの A
GalleryofChineseKaPitans(1964)で も受 けつ がれて い るが , の ちに あげ る鄭 芳 揚 の父 の 年 齢 か らみ て も全 く成 立 しな い。 つ ぎは鄭 芳 場 の一人 の夫 人 の神主 で あ る。 額批 編 入 呂氏 神 主 不孝 男 文玄 奉把 [以上蓋 ] 生子 吉年 吉月吉 日 吉 時 甲必 丹 珊圭呂氏 葬在 三 賓 LLl坐 甲向庚 卒 干辛 酉年 十 月十 六 日申時 甲必丹 抑圭Kapitan Nyaとは カ ピタ ンの夫 人 で あ り, 辛 酉 は1681年 (康 照20年 ) に あた るが , 生年 は記 されて いな い。 この人 は漢人風 に 呂氏 と記 されて いて も,土 着 の マ ラヤ人 だ ったで あ ろ うと思 われ る。 この 呂氏 と BukitChinaに墓 の あ る維 氏 とは どの よ うな関係 に あ った のか, また文玄 が どち らの生 ん だ子 な のか , そ の よ うな こと もよ くわ か らな い。 つ ぎに鄭 芳 湯 の父 の神 主 は, 顧考 貞淑 鄭 公 府君 神 主 不 肖男 啓基 奉把 [以上蓋 ] 生 於寓 暦 丙成年 二 月初 八 目成 時 葬在 麻六 甲三 賛 井 山殿 下 看 城坐 卯 向酉 卒 於 隆武 戊子 年 閏三 月 初三未 時 762
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2-E]比 野 :マ ラ ッカの チ ャイ ニ - ズ ・カ ピタ ンの 系 譜 とあ る。鄭 甲 必 丹 は 詩 が 啓基 , あ ざなが芳揚 だ った ことが わか る。 万暦 丙成 (14年) は1586年 , 隆武 戊子 (4年)は 1648年 で ある。隆武 とい うのは明未1645年6月 ,福 州 に
擁
立
され た唐土 の年 号 で あ るが,翌
年8月,唐王 (隆成 育) が汀 州 で捕 虜 とな り,11月 に殺 され る とと もに 自然 に消滅 して し ま ったo しか し,芳湯 の父鄭貞淑 oj故郷 で あ る漬 州 は, こU
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わず か な問 なが ら隆武 朝 の治下 にあ ったので あ る。鄭 貞淑 が はた して隆 武朝 の形 勢 に見 切 りをつ け,満州軍 の進 入 を避 け て マ ラ ッカに逃 れ た ものか, あ るい はす で にそれ以前 か ら商 人 と して マ ラ ッカに根拠 を おいて いたか ほ明 らかで な い。 い ず れ に して も,かれが福建 出身者 と して故郷 に成立 した隆武 一榔 こ好 感 を もって いた のは明 らか で あ って,その滅 亡 後 もな おその年 号 を用 いて いた ので あ る。 な お, さきにあげた鄭 芳湯 の神 主 には,左右 に別 筆 で, 写真2 鄭 甲必月 の父 郵貞淑の神斗 (向か って右 は蓋 ) 批 呉氏語尾娘生 子寓暦 丁亥年 十一月念五 吉 時 (右) 卒干薙 政三年 四月十三 日亥 時 右方下部 に枇 葬在 とあ る。 万 暦 丁亥 (15年) は1587年 で あ るか ら,年 齢 の点 だけか らい えば芳 湯 の父 ,貞淑 の夫 人 と してふ さわ しい 。 も しそ うで あれ ば, この人 は漢人 で夫 に従 って この地 に きたので あろ う. しか し,没年 で あ る薙 政 が薙正 の誤 りだ とすれ ば, その3年 は1725年 で, 135歳 とい う常識で は考 え られ な い長 寿 を とげた ことにな るので あ る。 か りに この呉氏 尾娘 が 鄭貞淑 の夫 人 だ った と して も,なぜ この よ うな 文字 を その男子 で あ る芳湯 の神主 に講‥き こん だ のか, その年 齢 と と もに不 可解 な問題 で あ る。 さ らに芳湯 の子 ,文玄 の神主 もの こっ て い るので,つ いで なが ら紺 介 して お こ う。 墓 考 文貿鄭 公神主 不孝 男 授孟 奉把 [以上苦] 生於 順治丙 申年 伍月初十 口寅時 公諒 賢葬在三 賛 非 望岩墓寿驚喜 卒於康照焼 午年 伍月初九 日巳特 龍冥谷とは鄭氏 の出身地 で あ る福建 省漬 州 の県 名。 文賢 とは賢 と玄は同音 だか ら,文玄 の ことに 相違 な い。 順治 丙 申 (13年 ) は1656年 ,康鷹 庚 午 (29年 ) は1690年。 墓 の位 帯は祖 父 の貞 淑 と 同 じところで あ る。年 没年 ともに清 朝 の年 号 に よ って いて,順治13年 といえばまだ南 明の永明 王 は在世中で あるが, マ ラ ッカ華僑 はそ の永 暦朝 とは関係 を もたなか った一つ の証拠 にな ると - 93- 763思 う。 とい うのは,鄭成功 はオ ラ ンダ人を降服 させ て台湾 を 占領す る1661年 よ りまえか ら, し き りに台湾をね らって いたので あ って,オ ラ ンダの鄭成功 ら明の遺 臣に対 す る警戒 はす こぶ る 厳重 で あ った。オ ランダの支 配下 にあるマ ラ ッカの華僑 は,鄭成功 と,従 って またかれが奉戴 して いた永暦朝 と接触す る ことを おそれ,む しろ清朝 の年号 を用 いて表面 上 はオ ラ ンダに協調 す る態度 を示 した もので あろ う。 2. 李 為 経 鄭芳揚 のあ とをつ いで, カ ピタ ンにな った のは李為経 で ある。青雲事 にある醇仏記 によ って つ くられた神主 には,継理宏基 特授 甲必丹 薄 為経李公禄位 と刻 されて い る。継理 宏基 とは, すなわ ち前任者 の鄭 芳投 のあ とをつ いで, さ らに事業 を拡 張 した とい う意 味で あるO その中に は,つ ぎの李為経夫 妻 の神主 が お さめ られて い る。李為経 の ものは,蓋 には孝 男 肇城 奉把 の文 字 がか ろ うじて読 め るだけだが, 中には, 生 於甫歴韓拾式年 甲寅捌月初拾 日辰 時 父講 馬経字宏輪淡君常 行二 卒 於康殿式拾染年戊辰染月初萱 日午時 とあ り,下部 には6行 に分 けて 葬三 宝 山之左 」 内坐丑発 向T 」未 分金坐 己丑 」向 乙未外坐薬 」子 向丁午分金 」坐 乙丑 向幸夫 と風水説 による墓 の位 置を示 して い る。行二 とは, この人 が排行 の第2,つ ま り男兄弟 の第 2 番 目とい う意 味で ある。生年 は万 歴42年 とい うと1612年 だか ら,前任者 の鄭芳揚 よ り20歳 も年 長で ある。康照27年 は1688年 で あ って, おそ ら く鄭芳揚 のあ とをつ ぎ77歳 の高齢で投す るまで 第2代 カ ピタ ンの任 にあ ったので あろ う。 夫 人 の神主 は, 額批 慈憤太編入宋氏 神主 孝 男 正壕 奉把 [以上蓋] 生 子吉年 吉月吉 日吉暗 語行 亨年 卒干戊 寅年二月廿六 日酉時 とあ り,下部 に李為経 と同 じ場 所 に合葬 した と記 す。正壕 とは, い うまで もな く李為経 のあ と つ ぎの男子 で あ る。夫 人 は宋氏 とい う漢人風 の姓を称 して い るが,生年 も年 齢 もわか らない こ とか らす ると,現地生 まれ のマ ラヤ人 だ ったか も しれな いo正壕 がその子 で あれ ば混血児 とい うことにな るO殻年 の戊 寅 は,亡夫 の墓 に合 葬 した とあるので,李為経 の役 した康願27年以後 に求 め ると1697年 (康無37年) で ある.
李為経夫妻 の墓 は,今 日BukitChinaか ら遺一つ- だてた BukitTempurongの東 にあ る。
4-H比野 :マ ラ ッカU)チ L・イ ニ - ス ・カ ピ タ ンの系誹 烏 地 は よ く整 頓 され て い て 泉 石 に は , 考 才十甘 李 公 域 批 瑞 人 二木氏 と あ る が , 年 月 も喪 主 の 名 もみ られ な い。 お そ ら く こC)j某 は\I/T初の も
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」で は 亡 く, 檀 日日二な って市
建 され たC
/)で あ ろう 。 しか し, 辛 ,為?.封 二つ い て 持 ′華す べ き は 今 日,-
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雲 享 のE恒 ここの人 の り っぱ な幼 iJ即 .ilr_ が 立 って い る こ とで あ る。 中央 に Tま, 叩必 丹 李 公済 博想勲蝕
徳 碑 と あ り,向か って 右 に は4行 に 分け て , 公 設 絹 撞 。 別姓君常 。 銀 同 之 鷺 江 人 山O
困 明季 閑 雅 拾 桑O 遂航 侮 而南
行 。懸車
此 閥 O 加納潜 清。 保 障 著 勘 。借
上 是 慶 。 撫 桜 堤 慈 。簸
溺 是 坑 。損
金 帯 地 o 洋 及幽
冥 。 休 又 有容 。 蕩又無 名 。 用軌 片右 。 垂 芳永 々。 と あ り, 左 に は37人 の 氏 名 を あ げ そt
))あ と に , 頼龍飛乙丑 年 月 口穀且仝 軌 石 と刻 す 。 この 龍 飛 乙乱 と い う年 に つ い て , 薬 草 芽 [凧 ま1685年 (康黙24年 ) と し, 張 礼子C
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川;六甲 写真4 李 甲必月 の頒徳碑(枯木)史∴
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巨隼 僑 輿 関越社 会 n_ (1938,pp.289--290)に これ を1745年 (乾1宴10年 ) に あて て い るC しか し, そ れ が 誤 りで あ る こ と は ま え に あ げ た 李 烏経 の 神主 に よ って明 らか で あ るo す な わ ち , この'Ll(徳,日碑は 当 然 , 李 汽 経 の 隼 存申に 立て られ た も の で あ る とす れ ば , 乙丑 は1685年 を お い て ほ か に 考 え られ ない
。1685年
(康願24年) は そ の死 に さ きだつ 3年 で , か れ は な お カ ピ タ ンの現
職 に あ っ た の で あ る。 な お 龍 飛 と い うU
刃まい か な る意味 か 。 陳 辻 は うえU
)
著 書 の注
(p.290)に , これ は マ ラ ッカ の華僑 が み ず か らつ くっ た隼号 で あ って, 満 州 族 の 侵 入 か ら南
洋 に ー 95--7
6
5
のがれ た華僑 が, 清 朝 の 年 号 を 用 い るのを い さざよ しと しなか ったか らだ と い って い る。 VictorPurcellも これ に従 ったが, 張 礼千 の
『
馬
六 甲史』 は年 号 と認 め るべ きで はな い と し て ,つ ぎの よ うな説 をたて た。 明代 で は民 間で年 号 の あ とに 龍飛 の 2字 をつ けて 天啓 龍飛 甲子 な ど といい,王 朝 の祥瑞 の徴 と した例 が あ るか ら,清 の年 号 を き らった明の道民 た ちは, 明 の 年 号 を と り去 り慣 用 の龍飛 だ けを残 して用 いたので はな いか とい う。 おそ ら く張 礼千 の考 えは あた って い るで あろ う。 た とえ年 号 で はな いに して も, あえて この よ うな文字 を用い たのは, 清 朝 に対 す るひそかな抵抗 を示 した もので あ り,当
時 にお け る南 洋移民 の一 部の傾 向を代表 す る もので あ った。 ' LB徳碑 に もみ え るよ うに,李 為経 には君常 の ほか済 博だ の懲 勲 だ の, い くつ か の名 が あ った よ うで あ る。 そ の本 籍 は銀 同 の鷺江 とあ るが,銀 同 とは福建 省泉 州同安 県 の こと。 同安県 城 は 東西 が広 く南 北 が狭 くて , そ の形 が銀錠 に似 て い るとい うので銀城 とよばれ た。鷺 江 とは今 日 の度 門 Amoy の椎名 で, 当時 は同安県 に所 属 し, また別 名 を嘉 禾 , 禾 浦 な どと もい った ので あ る。 同安県 は古 くか ら南 洋華 僑 の出身地 と して知 られ,バ ク ビアの第 1代 の チ ャイニーズ ・ カ ピタ ンとな った蘇 鳴 尚 も同安 の人 で あ った。李為経 は 明未 の動乱 を避 けて南 洋 にのがれ, マ ラ ッカに根拠 を おいて実力者 とな り, 華僑 の発展 につ くした。 と くに後人 か ら敬慕 され るの は, 「指金 置地,
揮及 幽冥 」す なわ ち 自費 を投 じて今 日の BukitChinaの地 を買 い, 共 同墓 地 と して華僑 団体 に寄付 した ことで あ る。 この功績 に おいて李 為経 の名 は不 朽 の もの とな った が.事 実 マ ラ ッカの華僑社 会 の基 礎 はかれ に よ って確立せ られ たので あ ろ う。 また青雲事 には紫 色 の明朝 の官 服 を きて椅子 に坐 った,等 身 に近 い李為経 の寿像 が かかげ ら れて い る。紙本 で何 度 か補修 を加 え られ た あ とが あ る が, おそ ら くかれ の晩年 の風貌 を忠実 に伝 えた もので あ ろ う。歴 代 カ ピタ ンの画像 と して は, これ が唯一 の もの で あ る。 その上部 には,の ちの カ ピタ ン曽有亮 の 費 が かか げ られて い るが, それ は この画像 がで きて か ら相 当の年 月 を- た李為経 の死 後 に書 かれ た らしい。 ち な み に C.S.Wong のA Gal
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に出て い るその画像 は 原 画 に よ ったので は な く,それ に もとづ いて誰 かがつ くった油 絵半 身像 の 写真 で あ る。 3. 李 正 壕 李 為経 の あ とをつ いだ第 3代 カ ピタ ンは, その子 の 李正壕 で あ った。 す で に李 7.も経 の 夫 人宋氏 の神 主 に7
6
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- 鍾 -写真5 李 甲必丹 の画像日比野 :マ ラ ッ カ の チ ャ イ ニ ー ズ ・カ ピ タ ン の 系 譜 も,名 の 出て い た人 で あ る。 青 雲 亭 に は そ の
神
主 が あ って , 顛 考 甲必 丹 仲 堅 李 公神主
呂呂 仝 奉 配 [以上蓄] 生 於 壬 寅 十 一 月 十 八 日半時 考 謹 正 壕 字 仲堅乳
轟 芳 行 二 宰 於 成 子 曹 月 十 六 LJ亥時 享隼 雄 拾fl染 下 部 に葬 於三 矧 力闘
」坐巳向亥 兼 巽 乾 」川 平巳 辛 亥 分金 と あ る。 蓋 に 書か れ た 本 把者 2人C
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)
名 は読む こ とが で きな い。 壬 寅 は1662年 (康 県 元 年 ),戊十 は1708年 (康 樵47年 )。 李正壕
の カ ピタ ン在 任 期 間 は明らか で な い が , の ち に の べ る よ うに死 後 数 年 ま え に はす で に 隠 退 して い た よ うで あ る。 19世 紀 の申
ご ろ ,青 雲 亭 主 の 辞 仏 記 が 歴 代 カ ピタ ンの神
主 を 亭 内 に集 め , そ の功績 を 鋸 揚 し た と きに も, 初 め この 李 正 壕 の こ とは 人 々の 記 憶 か ら忘 れ られ ていた 。 亭 内 に あ る道 光26年 (1846年 ) の 醇仏 記 の 刻 石 に はつ ぎの よ うに み え る。 この年 , 鄭 芳 揚 , 李 ,?.i経 2公 の 禄 位 を 肯 Jl:亭 内 に安 置 して まつ る こ と と な った が , あ る Elの夢 に見 る と ころが あ り, 姻 戚 の 李 義百官 と い うもの に 聞 くと, 李 為経 の あ とつ ぎで あ った次 男 の芳 とい う もの も, また カ ピタ ンに任 ぜ ら れ た こ とが わ か った 。 そ こで この人 の 神主 を も青 雲 亭 に お いて , 李 為経 に配 享 す る こ とに した とい う。4
. 曽 其 禄 第4代 の カ ピタ ンは , 李 為 経 の女 婿 に あ た る 曽其 禄 で あ る。 この人 は李 為 経 の あ とを受 けて さ らに 華 僑 の 勢 力 を ひ ろ め , 青雲亭の 増 築 や墓 地 の拡 張 に貢献 した。 青 雲 亭 内 の 辞 仏記 に よ っ て つ くられ た神主 に , 仏光 主照
大 檀越 主 曽 詳 其 禄 本 命 突 宮 元 辰昆
君 と あ るの もそ の た め で あ る。 そ の本 来 の 神 主 は こ0
)
l恒こお さめ て な く,別に安 置 して あ って , そ れ に は , 故 薯 期考避 難義土 伯 申曽公神j:
A
艦菊 男鷺芙 仝 承 重 孫 開祖 奉 把 [以上蓋] †患芸 原籍福建 銀 同禾浦年 於崇 禎 突 末 年 拾 月iiu合口貢町 公諒 瑛禄字 伯l
t
府 六神 位 明 卯 日十字染 拾 陸 歳 避 難 麻 六甲牢於
戊 成 年 二 月二 十 日マヽ
下部
に , 時 歳 次 戊 成 染 月 初」 捌Ej斗'・時 葬在 三 費 」 井右 透 尖 筆 焼 山坐 」 巳向亥 分 金 兼選
陀 と あ るO 曽其 禄 は本 土 の戦 乱 と満 州 族 の支 配 を の が れ て きた明朝の 義 土 で あ る こ とを , 最 後 まで斗 - 97- 767張 しそれ を誇 りと して いた の で あ ろ う。崇 禎 突末 は16 年 で1643年 だ か ら,岳 父 の李為経 よ りは30歳 の年 下 で あ った。戊 成 は1718年 ,康 .聖57年 で あ る。 その大 人 の神主 は, 貴 顕批儒 人 曽門李氏 神主 臆菊 不 孝 男農芸 仝 承 重 孫 開祖 等 奉 把 鷹芸 [以上蓋] 生 干草 酉年 十 一 月十 一 日己丑 時 挙 手 批 露 人 詳 成金 神位 行二 甲辰 年 閏四月 初六 日亥 時享年 六 十 有 四 歳 下 部 に時在 次 甲辰 年 」 六 月 初二 日午」 時合 葬 千三 質 井 右 連 尖」筆 城 山坐 巳」 向亥 兼 巽 乾 」 分 金 とあ る。夫 人 の成金 は李 為 経 の第2女 で あ り,辛 酉 は1661年 (康 鮭 写真6 円其 禄 の 神 主 (向か って右は蓋) 元年 ) だか ら,正 壕 よ りは 1歳 の年 上 とな る。 甲辰 は1724年 で宛 正2年 。亡 夫 曽其 禄 の墓 に合 葬 され た の で あ る。 そ の蓋 は BukitChinaの酉 麓 平 面 に広 大 な地 域 を 占めて い る。 墓 石 に は中央 に禾 浦毒 域 , 向 か って右 に耀 及 曽公 ,左 に淑 恵李 氏 とあ る。 禾 浦 とは まえ にのべ た よ うに屠 門 の こと,耀 及 とは後述 の頒 徳 碑 に よ って 曽其 禄 の号 で あ る ことが わ か る。 曽其禄 に も 「大功 徳 主 曽公 頒 祝 碑 」 と題 す る
頚
徳 碑 が あ って,青 雲 事 の 中に立 って い るO そ の文 を節録 す れ ば, (普) 公講 其 禄 。漉 耀 及。吾 同之 鷺 島 曽家湾 入 也 。 邑距 島 尚-水 。余 未 熟 悉 公 之生 平 。客 自甲 来者 休 其 恵 o恩 垂永 久。求 所 以 文之 。 因 貝為 余言 。 公少 有大 志 。卓 撃 不 群 O 遭 槍 桑 。 故避地 甲邦 。解紛 息 争 。 威 取平 蔦 。以 故華 南楽就 之。遂 乗 甲政。章 程 規蓋 。動 有成 績 。未 易 更。 僕 数 請 言 其加恵我人者 。 我人 之 流 寓 於 甲邦 也 。 或善 票 而嚢 空 。則 資 之財 。或務 農 而 空啓 。則 軌 之 力。 或 賭博 而 忘反 .則 設禁 よも之 防。 或死 喪 而無 依。 則 買 山為之葬 。 至 於 甲。 為西 洋所 経 。 舟 栢 往来 0本 苛其 征 。 商旅説 而 出其 塗 。東 西 朔南 堅実 。寧 特 吾 郷戚 属 為 然哉 。 云 々 文章 はや や 邸 で あ るが,撰者 は賜進 士 吏 部 観政年 家 巻 弟 陳大 賓 とあ り, あ とに28人 の立石 者 の 名 を 列 して い る。 その年 は龍飛 歳在 丙成 臓 月 穀 且 とあ るので,1706年 す なわ ち康興45年 で あ る ことは誤 りな い。 撰者 の陳 大 賓 は同安 LEf1-の人 で ,民 国 『同安 保志』
(巻15選挙) 康煤29年 の進 士 の条に , 陳 敬 庵 。官山人 。住 銅魚飾。 安 貧 力 学。潜 於世 味。未 授 官 而卒。 768 - 98-「i比 野 :マ ラ ッ カの チ .二・イ ニ ー ズ ・カ ピ タ ンの 系 譜 写 真7 円其 禄 夫
妻
の 幕 と あ るC こU
)人 が た また ま マ ラ ッカか らノJlr,' 郷した両 人レ
)依頼 に よ って . この頒徳 碑 の 文 を苦い た 山 で あ る。 そ れ に は , 曽甚緑
が オ ラ ンダ佃 とのI
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に /j十力 した とい うよ うな こ とは Li己され て い な い が , 困 窮 した両人 やlllt'l尺 に 対す ろ援助. 惜情C/_)取締上 あ る いは共同基地cJ)締.J宮等 , い ち お う今 日 と も変 わ らな い冊
喬「
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体 の車 業 が あ げ られ て い る。 、rl頼 す で に カ ピタ ン を 申心 に , マ ラ ッカで は福 建 人 の , と くに婁 「'[拍J.身者 の 強い団結
が で きて い た こ とが想 像 され よ う。町政 とい うの は知 六 甲政 串 の 略 で , マ ラ ッカの チ ャイ ニ ー ズ ・カ ヒ タ ンC
j_)こ とで あ る。 碑 文 に衆 望 を に な ってつい に 甲政 を と った と あ る こ とか らす る と,1706年 以 前 , す な わ ち前 什 者 の季:TE:_壕 が死 ぬ (1708)ま え か ら, 代 わ って カ ピタ ンに任 せ られ て い た ことが わ か るO曽其
禄 の 背雲亭
に対 す る貢 献 は 今 日の 本 草-:を建:llr.した こ とで あ って,
軒卜に は「
持崇
古跡」
とい う 自筆 の棚 が か か って い る。 向か って 右 に は時 乙西 歳 fr怖 く殻 刃 ,左 に は 信士 曽其緑宜 と あ る。 乙 の建 宜 と無 関 係 で は な い で あ ろ うo な お市
雲 亨 に は曽其
緑夫妻o
j塑
像 が安
IT■rl'-1.され て い るo明 朝 の '自Ⅷi
を請 け夫 妻 :lJ',-_ん で椅子 に 順 か け た , 高 さ30セ ンチ ば か りuj小 像 で あ って , そ れ ほ ど晩 年 山 もujとは思 わ れ∴な いO 大 人 は李 .闇 革の む す め成 金 で あ ろう 。 そ の 母 の 宋 氏 は ま え に もい った よ うに マ ラヤ人 か も しれ な い とす れ ば , か の女 は 1歳年 下の Il:_壕 と と もに紬 r刷 りごった わ け で あ る。 しか し, こU
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像 か らは , 伯 甲 に そ う した 判 断 を 下 す こ とは で きな い。 曽其
禄 が右 手にもつ
使 l伸 二は 曽六 ′rr,,'左 圧 と記 され て い るが , これ は曽共
禄 の通 称 で , 一 般 に は この 名で 呼 ば れ て い た よ うで あ る。 六とは か jLが 男 兄弟の
第 6番 目だ っ た か らで あ り, 巨 とは 福建 人 が リ十
十の 尊称 と して 名の あ とに つ け る 芋 で あ る。 従 っ て,
福建 人 に は名
そ の もの に膏'の字 を 「 け , あ る い は これ を あや ま って習
憤 的 に 机 の字 を用い る もの が少 な くな いo r)いで に盲 雲 亨 に あ る 曽氏 関 係 の神主 二 - 99 写 真8 円 其 緑 夫 妻 の 像 769つを あげて お こう。 その一 つ は 曽其 禄 の夫 人 の一人 と患 われ る もので, 故母 氏 神主 男 悪妻 仝 把 [以上蓋] 牲 於壬子 年三 月十 八 日子 時 母詩 意 娘 行一 幸 於 甲成年三 月十五口申
時
下 邦に,葬 於三哲」山之後坐」 申向寅兼」)jill]分金 とあ る。蓋 の母 と氏 の間 には, なん ら文字 を書 いた痕跡 が認 め られ ない。氏 を記 して いないの は不 可解 だが,生年 が 明記 されて い る こと か らす ると, この人 は漢人 なので あ ろ うか。生年 の壬子 は1572年 (康 県11年 ),卒年 の 甲戊 は 1754年 (乾 隆16年) と考 え られ るか ら,83歳の長寿 をた もった わ けで あ る。 いま一 つ は 曹其禄 の末子腐芸 の神主 で, 宗 教考 仲植 曽公之神主 葦 要覧誤 仝 奉 把 [以上蓋 ] 生 於康既発未年 正 月甘 八 日未 時 君 名詞字仲 植講腹 芸行 第五 卒 於薙 正 幸亥年 十二 月甘 四 日責時 下部 に下葬在 三 賛井尖 筆」 噛 山本 墳坐 酉 向卯兼 」 庚 申分金 丁 酉丁 卯 とあ る。 尖筆 蟻 LlJ本 墳 と は,父 の 曽其禄 の墓 を さす ので あ ろ う。 曽其 禄 はみず か ら避難 義士 と称 し, 明朝 に対 す る忠節 を守 り通 した人 で あ るの に, その死 後13年 を- た末子 の時代 にな ると,神主 には皇活 の字 が 明 記 されて い るので あ って ,時代 の変 転 を如実 に ものが た るよ うで あ る。 曽其禄 が1718年 に投 して か ら しば ら く,約40年 間 は カ ピタ ンの系譜 が とだえ る。19世 紀 の 中 ご ろ醇 仏記 が 旧家 か ら資料 を集 めた ときに も,す で に この間 の事 情 はよ くわか らなか った に相違 な い。菓 華芽 師 は, 曽其禄 のの ちには そのむす この一人 が カ ピタ ンに任ぜ られ, そのの ちは お そ ら くも う一人 の 哲が あ とをつ ぎ,陳 (承 陽) が それを受 けた とい って い る。 い った い マ ラ ッ カの華僑 の間 には,む か L Tay(鄭 )Rap,Li(李)Kap,ChanLakKoa(曽六 官),Chua(察) Rap,Tan(陳)Kapとい う 5人 の カ ピタ ンが いた とい う伝 えが あ った。 しか し菓 師 の調査 に よ る と, 少 な くと も合計 11人 の カ ピタ ンが いた はず だ と して , 上 の よ うな推 定 を下 したので あ る。つ ま り, オ ラ ンダ時代 の第 1代 カ ピタ ンを Notchin と し, これ に続 いて鄭芳揚 ,李 為経 , 李正壕 , 曽其禄 が あ り, つ ぎに2人 の 哲を-て陳 (承 陽),奈士章 ,陳起 厚 ,普 (°han)01im の11人 とみ たので あ った。C.S.Wong の ごと きも全面 的 に これ を認 めて い るが, それ で はな お不 充分 で あ り,順序 に も誤 りが あ る ことをつ ぎに指摘 す るで あ ろ う。 770 - 100-日比 野 :マ ラ ッカの チ Jイ - - ズ ・カ ピ タ ンの系 譜 5, 曽 :壱 魁 舌 雲 亭 に おか れ た カ ピタ ンの神主 の うち, 曽
其
禄 の につ いで 古い の は 曹憲 魁 の もo
_)で あ る。 それ に は ! 議 額 考 甲必 丹 詫 )ヒ粧曽公府汗神位 男 ノ去丹攻 報 全 寮 肥 日比 器] /i
:_
干拓正
乙巳4日 L月廿-「
1卯時 父乳
名照吾
詳 憲 魁uiI'/.IL)TL佃iI行 第一 平子乾 降 乙四年 三 月廿
三 日fl刷 j= 下 部 に, 葬 在 寮 仔抵
」 両坐 発 向丁兼 」 子 牛分 金 丙子 丙 午 とあ る。 _/T:.隼 の 韓 日:_乙巳 (3年)は 1725J
f:'・, 平年 の乾 降 乙西
(30年) は1765年 。 曽其
禄 が残 した の は1718年 だ か ら, この人 が葉 隼 苔師の い う哲其 禄 の子 で な い の は い うまで もな い。 それ で は, そ の あ とを つ い だ とい う も うー一 ・ 人 の 哲 に あ た るの で あ ろ うか。 葉 師 が 曽其 禄 の あ とに 2人 の カ ピタ ンが あ る と考 え た 根拠 は よ くわ か らない が , か りに 曽憲 魁 が1754年に30歳 で カ ピタ ンに任 ぜ られ た と して も,曽其緑 の没 年 か らは36年 も- だ た って い るので あ るO そ の 問 に は少 な くと も2人 の カ ピタ ンの存在 を仮 定 しな けれ ば な らな いで あ ろ う。 要 す るに この40年 ばか りが 空 白に な るわ け で あ るが , そ の あ と に哲憲魁 とい う もの の い た こと に は ,従 来何 人 も気付 か な か った ので あ る。 6. 陳 承 陽 曽其
禄 以 来 お そ ら く曽氏 一 族 に よ って占め られ て い た カ ピタ ンの地位は , 曹憲 魁 が41歳 の若
さで妓 す る と陳氏 に 移 った。陳承
陽 とい うカ ピタ ンに は何 らp
l
封 亦も伝 え られ て お らず,胃JiIrlJ-・に神主 もおか れ て い な いが ,BukitChinaに果 が の こって い る。 fr‖創 こ近 く
南
面 した きわ めて陀隆 四十 四 年端 月吉 町 左 には 男
讐
濃照
長 山 孫明珠等 仝立 石 とあ る。 さ らに前方
には右
の ll]柱2歳 が あ り, 行.虎向掃軌福神
(向 か って右 ), 金獅振
出
挺操鼓 (左
) と 刻 す 。 ・阻塞44年は1779年 で あ る。その_
/
i
:
_隼 は わか らないが,
曽憲 魁 が 捜 した のは1765年 だ か ら, お そ ら くそ の あ とを受 けて カ ピタ ンに任 ぜ られ た の で あ ろ うO 霞 桁 と は 鷺 冒 , 京 禾と同 じ く噴 門 の 別 /省で , 闇 易 と も い うよ うで あ る。 そ の次 男 の振 徳 の名 は ,宝
r情 7二に あ る道
写真9 ii-iZi ∵-]` の 日.5 承 陳 - 101--光11年 の三宝 両基地復 興胴金者 碑 にみ え, 3男 の振 世 は青 雲事 にその 自筆 の 額 がかか って い る。後者 は 「道所生 霜 」 の4字 で,乾 隆丙 午 (51年)小 陽春穀且 ,布 政健 司官科 陳 振世 敬立 と あ る。 7. 陳 起 厚 葉華芥師は陳承陽 のつ ぎに,葉上 草が カ ピタ ンに任ぜ られ た よ うにい って い るが, それ は誤 りで あ る。 も し陳承 陽 のつ ぎに別 の誰 かが任ぜ られ たので なけれ ば,今 日知 られ た資料 で は陳 起 厚 を あて るべ きで あ ろ う。 その理 由は, 陳承 陽 が投 した (実 は埋葬 され た) のが1779年 で , それ か ら7年 を- た1786年 に陳起厚 が カ ピタ ンで あ った証拠 が あ るか らで あ る。 す なわ ち,盲 雲事 にはかれ の 自筆 の 「慧眼観世 」 とい う額 がか か って お り, それ に乾 隆丙 午年 (51年,1786) 小 陽春 穀 且 ,知六 甲政事 陳 起厚 立 とある文字 が これを証 明す る. 雷雲事 にほかの辞仏記 に よ ってつ くられ た神主 が あ り,仏光主 照,陸授 甲必 丹大 柄樋主 陳公 台印起 厚禄位 とあ る。 陳起 厚 もまた その カ ピタ ン在 任 中に青雲事 の発展 につ くしたで あろ うこ とは,乾隆丙 午 (1786年 ) の額 が い くつ かかか って い るの に よ って も想像 せ られ る。陳起 厚 の 本 来 の神主 はや は り育雲 事 に安 置 されて いて , 顕考 甲必丹 大 誼 淳廉 陳先 壁神主 孝 男 誤買孝 璃 蓬娘仝 奉柁 [以上蕃] 年.於 乾 隆戊 辰年九 月初十 巳時 公名昏 諒 起 厚 字 徳馨行次 卒於乾 隆 甲寅年十 月甘五 巳時 下 部 に葬在 阿水」燦 々坐 辛
」
向 乙兼 酉 」 卯分金T
」卯
丁酉 とあ る。 甲必 丹 のつ ぎの大 の字 は, マ ラヤ語 の toa また は tua の音訳 で,父 老 ,領
袖 を意 味す る。つ ま りカ ピタ ンの意 味を も う 一度 マ ラヤ語 の音訳 で重 ね たわ けで , この よ うな語例 は東南 アジアに多 い。乾 隆戊辰 (13年 ) は1748年 , 甲長
(59年) は1794年 で ある。 また陳起 厚 の2人 の夫 人 の神主 もあ って , その一 つ には, 待 贈散母 誼 淑命 陳 門張氏 之神位 孝 男額宗孝 女訟 仝 奉 和 [以上蓋] 述娘 生 於乾 隆 乙亥年 吉月吉 日 張氏行 第二 享寿 四十 歳宰
於乾隆 甲寅年 六月十五 日亥 時 下 部 に葬 在三 賛井 山武」 吃吃 榔内向坐 丙」 向壬兼 丁 巳丁亥」外 向坐丙 向壬 寅」 辛 巳辛亥分金 と あ る。乾 隆 乙亥 (20年 ) は1755年 , 甲寅 (59年) は1794年 で,夫 と同年 に 4カ月 さきだ って投 772 - 102-日比野 :マ ラ ッカの チ -,イ- - ズ ・カ ピ タ ンの 系譜 して い るo い ま
-一
つU
jは , 待 贈 牧 村.-詮 貞偵
陳
門柴 氏 之神主 孝 男 幣 壷女 /仁子 乾 隆T
THL
F七・月甘7
日=!辰lL-jL一 葉 氏 行 --享 有/rく十戒 珠選
娘
孫 元捷/仝配 [以上iEftl逮
宰 手嘉慶
丙牛隼十
月初四 口巳時 下 部に葬
在 三 酎 油 」辺阿逸 ‖麗削 再 伸 鯛 甲」 兼 甲貫」 寓票 分 金 とあ
る。 捌 町 井 (22年 ) は1757年 , 嘉 慶 丙 午 (21年 ) は1816年 に あ た る。 陳起 厚 の 出身 地 は不明
で あ るが , この夫 人 基 氏 の 喪 主 の 一 人 に圭
満 という
名の もの が あ る こ とか らす る と, あ る い は福 建 の 侮 澄 県 か も しれ な いO とい うの は ,羊瀦
iと は r)ぎの カ ピタ ン察十章の と ころで もの べ る よ うに,海澄 児 の椎名 だ か らで あ る。8
. 黄土 二
章 陳 起 厚 が 投 した の は1794年 で あ る が , の ち に の ペ る よ うに乾隆60年 (1795)の 碑 に察 士 章が カ ピ タ ンとあ る の に よ る と, あ るい
は 陳 起 厚 の致 す る ま え か ら, す で に そ の あ とを つ い で い た の か も しれ な い。 青 雲 亭 に あ る そ の神主 に は , 覇考 特 接 甲必 打認 篤 平 察 府君神 位 態 ' 羨 女 浪 明 山 木 ⋮侮 : I , 負 田 刀 孝 娘 仝 春 杷 [以上蕃] 生 干 乾 隆 十 五 年 rjf牛十 月十 七 日缶帖 父 誇 喬 枕 士 章 字 端 甫 亨寿 五十 三 行 第三 華 子 嘉 慶 七 年千
成 七 月 初 八 日′口丹 下 部 に葬 在 三 軍 井 阿」 逸 燦 々両坐 □ 」 向 艮 兼 甲 吊 辛」 未 辛37:分 金 と あ る。
乾隆15年 は1750年 , 嘉慶 7年 は1802年 。 夫 人 の 神 主 に は , 額 枇 詮 淑 慧 察 門 曽 太濡 人 之神主 男祭雷距 究 糞女 欝 娘等 仝 春 肥 旧 上郡 生 干 乾 隆 乙酉 年 六 月骨
五 日吉畔 地 薄 青 娘 行 位 長 葬 在 地 名亜逸 繁 々公司園内 幸 子 道 光 乙酉 年 六月
廿二 日西町 下 部 に 坐 未 向丑 」 兼 坤 艮 」 丁 未」
T
丑 分 金 と あ るO乾 降 乙酉 (30年 )は1765年,道
光 乙西 (5年 ) は1825年 。 墓 は夫 妻 と も ま だ 発 見 され て い な い。 --103--7
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3察士章 につ いて は書 くべ き ことが多 いが, その遺業 と して有名 なの は BukitChina す なわ ち三 宝 山 の麓 に宝 山享 を立 て た ことと, 青雲事 を ほぼ今 日 の 規模 に まで ととの えた ことで あ る。宝 LII事 は三宝 山の無縁者 の墓 を祭 るために立 て られ た もので,今 日も三 宝 山の西柄 麓 に一 郭 を 占めて い る。 門前 に,か の鄭 和 が掘 った と伝 え られ る三 宝 井 が あ るので名高 い。 ここに あ る乾 隆60年 (1795)の 「建造 柁壇 功徳碑記」 に よ る と, それ よ り60余年 まえか ら当地 の華 僑 団体 の共 同事業 と して ,毎年無縁某 の祭 把 を お こな って きたが,その把壇 は きわ めて貧弱 な ものだ っ たので,察士草 が首 唱 して この寺 を立 て把壇 を設 けた とみ え る。 その あ とに 甲必丹察
土
章240 人 貝,唐 船主祭棟 官70大員 ,広 東太 学生胡 徳寿100員 ほか信士41名 とその桐金額 を あげて い る。 昆 LLl仝募建 日立石 とあ る。唐 船主祭棟 官 につ いて はあ とで のべ よ う。 この碑 と並 ん で嘉 慶6年 (1801)の碑 が立 って い るが , それ は察士章 が1軒 の家屋 を買 い, これ を宝 山亭 に寄付 して家賃 を亭 の維持 費 にす る ことを記 した もので あ る。 それ に よれ ば,宝 山事 は全 マ ラ ッカの華僑 の協 力 によ って建 立 され たのだが,察 士章 が首 唱 した とい う功績 を認 め, その 禄位 を亭 内に安 置 して くれ る こととな った。 その記 念 と して町 のl恒こ1軒 の家 を買 い,永 久 に その家賃 を毎年 の条 把費 と し,残 余 を積 み立 てて修 理 費 に した い とい うので あ る。 終 りに圭海 謝倉 察士章立 ,嘉 慶六年 歳次 辛 酉季春 とあ るが,圭海 とは福建 省 の海澄県 の こと, 謝倉 とは同県 内の地 名で あ って , これ に よ って その本 籍 がわ か る。 この碑文 にみ え る察士 章の 禄位 は, い ま も宝 山事 の中央 肥培 の向か って左 に,別 の壇
を設 けて安 置 して あ る。仏光主ハ
モ
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特授 甲必丹 大 檀越主祭 葦 士 章崖君 禄位 とあ り,青雲事 に あ る他 の カ ピタ ンの もの とだいたい同 じ体裁 で あ る。察士章 の寄付 した不 動産 は ど うな ったか知 らな いが,宝 山事 は今 日で は青雲事 が符理 して いて ,清 明節 な どに 墓 参者 の休 息す る場 所 とな って い る。 菓士 章 が青 雲事 を 修 理 した ことにつ いて は, 同亭 内に あ る 「重興 青雲 亭碑 」 に, 建築 が い ち じる し く荒 廃 して きたので, カ ピタ ンの黍士 章 が首 唱 し海 関 の諸 同人 らの協 力 を得 て面
目を 一新 す る ことがで きた とい う. あ とに海 関公 司開 列芳 名 と して 甲必丹 大黍 士章 ほか7名 ,合 計25人 の損金者 姓名 を かかげて い る。 終 りに 時 龍飛辛酉年 月 日信士邦華金 敬 撰 , 僧悦 成 とあ る が , この 龍飛 が嘉慶6年 (1801) で あ る ことは い うまで もな く, マ ラ ッカで行 なわれ た この用 例 と して は もっとも新 しい も ので あ る。海 関公司 とは, おそ ら くオ ラ ンダ政 庁 の監督 の もと に, 出入港 す る中国船 か ら関税 を徴収 して い た組織 で あろ う。 その代 表者 がす なわ ち甲必丹 大 なので あ って , これ に任ぜ られ 774 - 10 4-写真10蕃士章の禄使た もの は 隼僑 界 の 代 表 者 と して そ の 統制に あ た る と と もに , 関 税 の 徴 収 に つ い て 政 庁 に 対 す る正 作 を
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1って い た もの と思 わ れ るo 萎 土 章に 「 づ く 7名 は f毎闇 公司を 構 成 す る幹 部 に相
違 な く, か れ らの 損 金 額 が ,記 され て い な い の は , 肯霊 亭の市 修 は 公 司 に よ って 計 画 され , そ の 経 典 の 人 部 分 は 公 司 が ま か な っ た か らで は な い だ ろ うか 。 そ の あ と に 記 され て い る の が ブ毎闇公日刊こ協 力 した 人 々 と み る べ く, 「 ぎ の よ うに侶金 額 が 明 記 され て い る。 優 門 合 成洋 行題芸鵠 交 金封 吊 和江
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合 成 洋 行 と は 優 門 灯・日着 の 貿 易 商 で , 道 北 :=
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門志」 (巻 5) に , 嘉 慶 元 年 に は な お 洋行八家 , 大小両
日-三十 余 家 と あ る もの の 一 つ で あ ろ う。 そ の 合 成 洋 行 か ら進 来航 と い う 船 と そ の 船 1:_と考 え られ る黍棟軌 の 名 儀 で ,Il:,.:_・T
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iを 交 付 し て き た と い うわ け で あ る。優 門 の 合 成 洋 行 は マ ラ ッカ貿 易,に 力 を 入れ,同 地 の泡
闇 公-
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と は と くに密
接 な 関 係 を も って い た の で は な い だ ろ うか 。 黍 棟親
は ま え に あ げ た ,これよ り6 年 前 の圭 両亭 の 「建 造 把 壇 功 徳 碑 記 」 に も庸船 主 萎 棟 官 と,王 され て い る。 悟 船 主 と は申国
本 土 か ら くる門易
船 長 の こ と 写 真11 葉上章の車興舌雲/
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享碑(折本) で , 黍 棟 官 (官 は観 と通 用 ) は夏 門 の 合 成 洋 行 所 属 の 船 主 と 行 に 属 す る もの か わ か らな い が , や は り同 様 な もの と み て 誤 りな い で あ ろ う。 板 主 と は 乗和 船 月 の J/lt'';:・理統制を す る役 の よ うで あ る。最
近 ,今垢 誠 二教 接 (「マ ラ ッ カ F冊 喬のギル
ドマ ー チ ャ ン ト体制」 『東
方学1
第35中経,昭和43年 1月 ) が この 碑 文 を と り あ げ て,il
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i-fM公 刷 まマ ラ ッカ の 華 僑 貿 易 業 ギ ル ドで あ る と し, 優 門 合 成洋
行 以 下 す べ て の もの が fl-j関 公■
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lで あ る と さ れ た が , や や 見 解 を こ と に す る の を 什 記 して お く。 萎 十 章の カ ピ タ ン在 任 期 間 は 酢 実 に は わ か らな いc Lか し, 青雲 J享に そ の自
筆 の 「黒
山 第 一 」 と い う額 が あ り,昭次 清嘉 慶 陸年 歳次子西桐
月穀f上 知六甲政=
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冊
封三甲必日大萎
十章
敬 :l'/-. と 明 記 され て い る こ とか らす る と ,嘉慶 6年 (1801) は そ の 投 した 前 年 で あ るか ら∴ 死 に い た る ま で カ ピ タ ンの 任 に あ っ た もの とみ て よ い で あ ろ うO 茶土 章 の 子孫 に つ い て は ,C.
S
.W ong が 前 掲 の 苦 に か な り詳細 な 記 述 を して い る。 1810年 Ra用es 夫 妻 が 棄 カ ピ タ ンの む す こ察 槍 浪 1115 ・ 775の所有地 の
中
に住居 を おいた こと,菓 漁浪 はの ち シ ンガポール に 移 って りっぱ な 邸 宅 をか ま え, 多 くの イギ リス商人 を友 だ ち と した こと,1838年湊 門 Macaoで強盗 に 殺 さ れ た こ と な どで あ る。 また黍 士章 の玄孫 に あた る菓 綬 娘女士 (陳斉賢 の夫 人) は シ ンガポール に おけ る教 育 , 慈善事業 家 と して知 られ,1941年 マ ラ ッカで68歳 で死 んだが, この よ うに薫 一族 は今 日に い た るまで,な お祖 先 の栄 光 を維持 しつ づ けて い るとい う。 9.,曽 有 亮 萎士章 の あ とカ ピタ ンに任ぜ られ たの は, 曽有亮 だ った と考 え られ るo ヨー ロ ッパ に お こっ た フ ラ ンス革命 につづ くナポ レオ ン戦争 時代 , マ ラ ッカは2度 もイギ リスに 占領 され た。 第 1 回 は1795-1801年 で, チ ャイニ ーズ ・カ ピタ ンは黍 士章 の時代 で あ った。 第 2回 は1807-1818 年 で あ るが, この2回 にわ た る占領 期 間, イギ リス はオ ラ ンダ の制 度 を その まま保存 して い た よ うで あ る。 曽有亮 が カ ピタ ンに任ぜ られ たの は, イギ リスの第 1回 占領 後, い ったん オ ラ ン ダ に返 却 され た ときか ら, 第2回 の 占領 時代 にか けて で あ った。 曽有亮 に は神主 も墓 も発見 さ れて いないが, い くらか の遺物 に よ って それが想像 され るので あ る。宝山事 に は この人 の書 い た2両 の額 が あ って ,一つ は 「慈悲普済 」嘉慶 甲子 桂 月吉且 ,特 授 甲政 曽有亮立 とあ り, い ま 一つ は 「以承条 把 」嘉 慶 己巳花 月穀且 , 甲政 曽有亮題 とあ る。前者 は1804年 ,後者 は1809年 。 青雲 辛に もや は り1809年 の額 が あ って , それ に は 「観 世 自在 」時大清嘉 慶拾韓 年歳次 己巳曹 月 穀且 ,知六 甲政事特 授 甲必 丹 大 曽 有亮 敬立 と書 かれて い る。青雲 事に あ る, まえに ものべ た李 為経 の画像 の賛 も この人 の筆 で あ る。 イギ リスの マ ラ ッカ支 配 が決定 的に な るの は,1824年 に締結 され た英 蘭条約 の結 果 で あ る。 その ときまで はた して 曽有亮 が カ ピタ ンの任 に あ ったか ど うか は, 明 らかで な い。英蝕 にな る と, ま もな くカ ピタ ンの制度 は廃止 され るので あ るが,最 後 の カ ピタ ンは,菓華 芽 師 に よ ると °han Olim とい うものだ った とい う。 しか し, 曽有亮 を ChanOlim に あて るの は不適当の よ うに思 われ る。 とい うの は, おそ ら くイギ リスの支 配 が成立 す るまえ,す なわ ち1825年 3月以 前 にオ ラ ンダか ら任ぜ られ た らしい一人 の カ ピタ ンが あ るか らで あ る。 10. 曽 世 芳 この人 に関す る資料 は, ただ一つ青雲 事 にかか げ られ た 自筆 の額 だけで, 「法界 時春 」 の4 字 の左右 に,道光 歳次丙成端 月穀且 ,知 甲政 曽 世芳 敬立 とあ る。 遺光丙成 (6年) は1826年 。 曽有亮 の場合 もわか らなか ったが, 曽世 芳 も中国の 原籍 は明 らかでない。 と もか く英顔 にな る 直前 か らカ ピタ ンに任ぜ られ,やがて 旧制度 が は っき りと廃 止 され るとと もに, その地位 を「
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然 に失 った もので あ ろ う。Ⅰ
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Ⅰ
カ ピタ ンの制度 はな くな って も, マ ラ ッカの華僑 は これ に代 わ る ものを推挙 し, や は り青雲 776 - 106-【圧 し野 :マ ラ ッカ の チ ・.・イ ニ ー ズ ・カ ピ タ ンの 系譜 亭 を申心 にかれ らの 団結 を つづ け た。 それ が亭主 (青雲 亨 の主 ) で あ る。180年 にわ た るオ ラ ンダ統 治 時代 を通 じて , チ ャイニ ー ズ ・カ ピタ ンの もとに統 制 されて い た華 僑 社会 は,現 地 政 庁 の手 か ら離 れて も,か れ らだ けで 自治 が行 な え る休 制 が で きて い たので あ る。再雲 亭を根拠 と して行 なわ れ た行 政,
亜
去の運営
や,共 通 の経 済 的利 益 の擁 護調 整 , あ るい は公益 互 助事 業 な どの実 体 も, しだ い に広 範 囲 にか つ実 質 的 に な ったで あ ろ う。 と くに オ ラ ンダ時代 末期 の カ ピタ ン黍 士 章 に闇 して は, い ろい ろ貝体 的 な事跡 が知 られ るが , それ は以 前 の もの に比 べ て質 料 が豊 富 に残 って い るか らで あ る。黍 士 葦 の と きに はす でに華 僑 部隊 が編 成 され , オ ラ ンダ側 を援 助 して マ レー土 侯 と戦い 最 後 の棒利 を え た と伝 え られ るが, こ うした事 例 は必 ず しもこの と きに は じま った もの で は あ るまい。 マ ラ ッカの華僑 は,歴代 カ ピタ ンの本 籍 地 か らもみ られ るよ うに福建 , ことに泉 州 ,漬 州 の 氾身者 が主体 で , 貿 易商 業者 が 多 か った。 背雲 亭を中 心 に成宜 したか れ ら福建 出身者 の 団結 も, や がて人 「1が増加 す る とと もに, それ ぞれ 出身地 別 に あ るい は氏 族 別 に ,会 館 や 再堂 を立
て て分 裂 す るよ うにな った。 しか し, マ ラ ッカに おいて は歴 史 的 な事 情 か ら,青雲 享が それ ら を大 き くま とめ上 げ る申核 的存在 で あ った こ とは,他 の地域 とは違 って い る。 カ ピタ ン制度 が廃止 され , は じめて 華僑 に推 挙 されて亭主 に な ったの は実 美 吉 で あ る。 その 最 初 の事 業 は道光 11年 (1831) に おけ る, 三 宝 山墓 地 の復 興 だ った。 第 2代 の亭主 は醇 仏記 (あ ざな は文 舟) で, 道光25年 (1845)に青 雲 事 を垂修 し, 鄭 芳 場 や李 為経 ら歴 代 カ ピタ ンの 禄 位 を つ くって一 角 に安 771-.し, あ るい はその子 孫 の家 か ら神主 を 集 めな ど した 。 これ は イギ リ スの餓有 後20年 を- て よ うや く)射 出の事 情 も安 定 したが, それ と と もに 旧オ ラ ンダ時代 の歴 史 が忘 れ られて きたので , 質料 を集 め先 人 の遺業 を顕 彰 しよ うとい う機 運 がで きて きたか らで あ ろ う。 醇 仏記 の つ ぎの陳金 馨 (あ ざな は 巨川) は同治 6年 (1867)に青雲 事 を重修 し,三 宝 山の ほ か に新 し く BukitJ
elotong H落 洞 の 申国人 墓 地 を 開 い た。 第 4代 の亭主 と な った の は 陳金 聾 の 長子 明水 (あ ざな は憲章 ) で , イギ リス側 が道 路建 設 の た め三 宝山墓 地 を破壊 しよ うとす るの に対 し,代 替 地 を提 供 して二「事 を 停止 させ , あ るい は 中国人 教育 の ため に は じめて豊 順 義 学 とい う学
校 を創 立 した。 第 5代亭 主陳明岩 (あ ざな は篤恭 ) は 陳 明水 の弟で , 光 緒 17年 (1891) には
宣 両享 を , 同20年 (1894)に は盲雲 亭 を重修 して い る。 第6代亭主 の 陳若 准 (あ ざ な は敏 政 ) は陳明γ.'・の 予で,別に,■沖 ,ir:・主 と して陳温 源 (あ ざな は恭甫 ) とい うものが あ ったO 今堀
教授 が指摘 されて い るよ うに, これ以前 に も副亭 主 は とき と して おか れて い た とみ るべ き で あ ろ う。1915年 この陳 若 准 の死 を最 後 と して ,亭 主 は消滅 した。第
1代 の亭 主 果 実吉 の本 籍 は よ くわ か らない が , 第2代 の辞 仏記 (文舟)
はか れ が つ くった 多 く0
3石 刻 の あ とに撞郡浦 邑 と記 して い るごと く,福建 省撞州
藩捕 捉 の 出身 で あ った。 第 3代 の陳金 聾以 下 の陳氏 一朝 もや は り漬州淘
澄 県 の 出身 で あ る。4代 にわ た る亭 主 の地 位 を一 家 で - -107- 777独 占した ことによ って もわか るよ うに
,
陳家 の経済 力 に はIiH大 な ものが あ った。 シ ンガ ポ-ル が イギ リス髄 とな ると,い ち早 くそ こに屈 を構 えて 同地 の発展 に貢献 したの は, ほか な らぬか れ らで あ ったO 素り期 の シ ンガ ポール発展史 に占
め るかれ らの役割 はあま りに も大 きい。 いず れ 他 日,稿 を改 めて のべ る機会 が あ るで あ ろ う。 〔什i
J
己1〕
チャ イニーズ ・カ ピタ ンの調 査 に は, オ ラ ンダの古文書 が蒐要資料 とな ること はい うまで もない。 しか し,今 日で は遺憾 なが らまだその段 階 に達 して いないの で, い ちお う現地 に おけ る漢文資料 と遺跡 の調査 だけに よ って, その系 譜を あ と づ けて み たので あ る。〔