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ランペルトの見るアンノとその時代(四)

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(1)

ランペルトの見るアンノとその時代(四)

著者 井上 雅夫

雑誌名 人文學

号 179

ページ 1‑31

発行年 2006‑03‑20

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000008539

(2)

ラ ン ペ ル ト の 見 る ア ン ノ と そ の 時 代

井 上 雅 夫

八︑

アンノが一〇七二年に一旦︑国政の中心から離れたあと︑ランペルトのアンノ観を知る上で重要な事柄は︑一〇七

三年の夏に起ったザクセン人のハインリヒ四世に対する反乱であった

ア彼︑は場立のノンの︒ていおに乱反のこの

兄弟のヴェルナーが反乱の地にあるマクデブルクの大司教として︑そして彼の甥のブルヒャルトが同様にザクセンの

ハルバーシュタットの司教として︑反乱側にあったがゆえに︑特に厄介で微妙な状態にあったのである

この中にあってアンノの立場︑役割への見方はむつかしく︑この反乱の中でアンノの果たした役割の評価について

は︑今日まで真の一致を見ていないのである

ア係関戚親のと人二の右のノン︑︒は究研のど殆のでまれこしかしの

中に︑この反乱へのアンノの支持的立場に対する間接証拠を見てきたのである

確の記代年にか︑︒もトルペンラ最

後のアンノについての伝記的部分において時期を明示せずに一般的な形で︑﹁アンノが自然法と親戚への愛情で抑え

られて王に十分に熱心に援助をしなかった時︑アンノは王にとって憎むべき疑わしい人物となり︑偽誓と不忠の罪で

― 1 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

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訴えられた﹂と書いている

派人支持で︑反王でセはなかったのでンク︒ノしかしこのアンのザ立場は︑単純にあ

る︒

一方︑ランペルトの方は︑ザクセン人に対し時に批判することもあったが︑基本的には彼らを支持していた

︒彼

は︑ハインリヒ四世のザクセン人への残酷な︑王にふさわしくない行動を非難していた

︒シュトルーヴェは︑暴君

への戦争を正しい戦争と名づけたランペルトは︑この視点でザクセン戦争︵ザクセン反乱︶全体を判断したと見てい

はいうことではない︒彼︑た王の現状への不満はあとっ︒ペしかしこのことはランルあトが本質的に反王派でっ

ても︑本来の根っからの反王派ではない

アンノの立場を考える場合︑この反乱でアンノに関係する上記の二人の人物について︑まず少し見ておかねばなら

ないであろう︒彼らの司教就任の事情については既に第一章でふれたが︑彼らは一〇七二年までは王の信頼を得てい

たのである

来れた人物であり︑本な遣らザクセンの反乱派さ派︒セ彼らはもともとザクンにでの王の支配のためか

らは攻撃対象になるものであった

彼らの一人ブルヒャルトは︑その司教在任期間の前半は︑宮廷と良好な関係をもっていたが

︑一〇七三年からの

後半の十五年間はずっと王の敵となり︑ザクセンの反王派の最も重要な人物となった

︒ランペルトによると︑王は

彼を反乱の指導者と見て頑固な憎しみをもって迫害していたのである

もう一人のヴェルナーについては︑ランペルトは反乱者の中で確かに形式的には大司教として先頭に彼の名前を挙

げているが

者人物で︑反乱の画策とないうよりは同調者でいた︑他この反乱の中で彼はの立高位の者と比べて目あ

り︑反乱を指導したというより︑この反乱に引っぱられ︑巻き込まれていった感が強く︑余り重要性を持たなかった ランペルトの見るアンノとその時代

― 2 ―

(4)

人物と見られている

解っあがろことたいてい傾に和︒のと王︑間い長︑は彼もかした

いずれにせよ︑この二人がザクセン側にいる中で︑一〇七三年に反乱が起ったのであるから︑アンノにとってはむ

つかしい状況であった︒実際ランペルトはこれについて︑﹁ある人々は︑マインツ大司教ジークフリートも︑アンノ

も更に多くのラインの諸侯も既に始めから︑この反乱の関知者であり参加者であったと信じている﹂と述べ︑ただこ

のことを彼らは﹁この企ての結果がなおはっきりしていない間︑最大の努力をもって隠していた﹂と書いている

同様にフルトルフも︑﹁幾人かが︑アンノもこの関知者であると主張している﹂と伝えていたのである

ランペルトもフルトルフも︑これを噂として伝えているだけで︑確実なこととしては伝えていないが

︑このよう

な噂があっても不思議ではない︒こうした噂が本当にあったのなら︑これが王にアンノへの不信感を与えた可能性も

十分に考えられる

ー合︑年代記者ブルノるの伝えている次の場え︒のしかしこのアンノ反考乱への関与の有無を記

述が参考となる︒ブルーノは︑マインツ大司教ジークフリートが︑上記のヴェルナーとブルヒャルトの二人に手紙を

出し︑王が彼の教区内に城を建て︑彼の教区に大きな害を与えていることへの不満を述べて︑彼とアンノとの間に確

たる関係を作るために仲介をしてくれるように頼んだと書いている

ノ関のと人二の右とン︒ア︑ばれ見けだここ係

は深いように見えるが︑しかしこの二人がアンノへの仲介が出来たのも︑ブルーノがアンノとの親戚のゆえに余計に

容易に出来ると付言しているように

のよりも︑上記二い人との親族関うと︑のアンノが反乱関ら知者であったか係

からであったのである︒しかもここで注意すべきは︑ジークフリートがアンノとの関係を望んでいるのは︑アンノが

王に対し影響力を行使しうるからである

︑の先︒るあでのな在存い近に王り︒乱アンノは︑反のよ関知者という噂

も︑アンノと上記の二人との関係から出ただけで︑後述のアンノの動向から見ても︑彼が反乱派に加わったとか反王

― 3 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

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派になったと見るべきものではない︒

実際ランペルト自身も︑一〇七三年にザクセン人の反乱が日に日に強くなり︑敵の兵力が増大すると︑王は右のジ

ークフリートやアンノにザクセン人と会って︑この混乱した事態に何らかの救済策を見出すために努めてくれるよう

に求めたと書いている

ルし合うためにコヴ︑ァイ修道院で一〇話に︒っこの王の願いに従て侯彼らはザクセン諸七

三年八月二十四日に会合することを提案したという

ア係関のと人ンセクザがノン︑︒もて見けだ分部の述記のこは

あっても︑単なる反乱派ではなく︑王からはこの事態に仲介者として

ててし示をとこたいれ頼ら見と在存るうりい

るのである︒

ランペルトは︑このコルヴァイでの会談にはアンノは出席せず︑彼の代わりに交渉すべき使節を送ったと書いてい

る︒このアンノの欠席の理由についてランペルトは︑﹁偶然なのか意図的なのか私にはわからない﹂と注目すべき発

言をしているが

うぼかしているといよわりも︑彼が先の噂のざざ︑がこれはランペルトアわンノに不利な理由を記

事と同様︑アンノの状況や意図についての十分な情報をもっていなかったことを示しているのであり︑後述の諸例で

も分かるように︑彼の記述にも問題点が多いのである

右のコルヴァイの会談はジークフリートだけで行われ︑長い交渉の結果︑双方は九月にホムブルクで次の諸侯会談

での安全のために人質を交換し︑諸侯との交渉を十月二十日にゲルストゥンゲンで行うことが決められた

右のコルヴァイの会談について︑イェナールは︑アンノは代理を出して巧みに行動し︑王への個人的な距離を示し

ながら直接の非難が来ないように王に歩み寄ったと見ているが

はリフクージはノンアに︑クルブムホの月九の次ー

トとともに王の使節として出ているのである︒コルヴァイの会談で代理を出したことには別の理由があったと見るべ ランペルトの見るアンノとその時代

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きで︑イェナールのような穿ち過ぎた解釈をすることはないし︑アンノがそんなに王と微妙な関係にあったとは言え

ないのである

視いた事実を重すめべきであろうて求︒ンむしろ王がアノてを仲介者とし︒

九月のホムブルクでの人質交換については︑ランペルトによると︑王の支持者は人質を出すことは王の権威に一致

せず︑王の名を傷つけると言って取りやめになったが︑双方ともに和平締結への努力をする約束をした

次の十月のゲルストゥンゲンでの会談にも︑アンノはジークフリートとともに王側の交渉団の指導者として出てき

たと見られている

三を聞いて同情し︑日訴間の協議のあと︑えの︒のランペルトは︑こ交人渉で王側がザクセン王

を罷免し︑国の統治にふさわしい他の者を王に選ぶことに一致して決めたこと︑しかし無謀にこれを公表しないこと

に決めたと記している

いペルトの誤認なしラ作り話と見られてン︑︒はこの新王選挙の話やりや唐突な感じであい

らうろなに者盟同の乱反はノ︒ンア︑らな当本がれこしもが

のりあもて見らか動行ノ︑ンアの後のこもれこえ

ないことである︒この記述の真偽はともかく︑ランペルトは右の交渉の記述全体から見ると︑せいぜいアンノらはこ

の交渉の中ではじめてザクセン人への同情なり支持への方向に向いたと見ており

︑上述のアンノが反乱のはじめか

らの関知者︑参加者というランペルト自身の記述とも明らかに矛盾が見られるのである

この交渉のあと︑ランペルトによると︑アンノは当時ヴュルツブルクに滞在していた王の所へ戻り︑王に交渉結果

を報告し︑王は直ちにこれに同意し︑平和さえ実現するなら︑彼らの課すあらゆる条件に喜んで同意すると約束した

という

ランペルトは︑その後一〇七三年末になってハーゼンブルクでザクセン人に包囲されている王の臣下から救助を求

めてきたので︑王は再びアンノとジークフリートを交渉のために派遣し︑この二人にザクセン人に会い︑少なくとも

― 5 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

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僅かな時間︑休戦にし城の攻囲を止めるように彼らと交渉することを熱心に求めたと書いている

︒ランペルトは︑

アンノらはこれがどんな努力をしても無駄になるであろうことを明らかに知っていたが︑彼らにとって︵王の願いを

断ることは︶煩しかったので︑要求されたことを行うことを約束し︑ザクセン人に使者を送り︑一〇七四年一月にコ

ルヴァイでの会談に来るように求めたと伝えている

このアンノらの気持を示す文は︑むしろランペルトの気持を反映している感じである

︒確かに﹃アンノの歌﹄

も︑アンノは調停への可能性がないのを知って︑これ以上生きているのがいやになったと同様なことを言っている

ル疑問で︑次のランペトか自身の記述自体から見はの︑事アンノが本当にこの仕をた厄介なものと思っていて

も︑アンノには王または国のために働く気持があった可能性は十分にあるのである︒

右のコルヴァイの会談について

っ王の指示に従てトザクセン人に︑はー︑︑ランペルトはアリンノとジークフ包

囲している諸城から軍を撤退するよう求めたが︑ザクセン人はこれを拒否したばかりか︑彼らはこの二人を激しく非

難したと書いている︒即ち︑ザクセン人は︑この二人が熟慮したり︑ある時は会談を︑ある時は休戦を求めたりして

時間を浪費し︑王には勇気を増し︑ザクセン人には自由を手に入れる最大の機会を台無しにしたと非難した

︒こう

してザクセン人は︑王の引き延ばし作戦を激しく攻撃し

をとたっかならなばねけ傾耳︑に難非いし厳はらノンアい

うのであるから

りしており︑はっきと尽ザクセン側に立って力に︑アこれは図らずも︑ンめノらはやはり王のたい

たわけではないことを示している︒

さらにランペルトによると︑ザクセン人は︑アンノらは去るべきで︑ここでもうこれ以上︑和平の言葉であざむい

て彼らをもてあそばないでくれと述べ︑もはや女のおしゃべりではなく︑戦いで事態が決せられるべきところに彼ら ランペルトの見るアンノとその時代

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は達していると主張したことから見ても

用のるれとみ読がとこいないてし信︑セここでもザクンを人がアンノらで

ある︒

続いてランペルトは︑しかしやっとのことで多くの者がより賢明な人々によってなだめられて︑一致した同意でも

って以下のことを決めたと伝えている︒即ち次の二月のフリッツラーでの会談に集まり︑他の帝国諸侯と協議のあ

と︑危機にある国のために︑すべての人々が気に入る支配者︵王︶を立てることを決めたというのである

この新王擁立への記事は︑前の同様の記事と同じく疑わしいものであるが

最を定決な的終や︑今は人ンセクザ求

めたのである︒彼らに城への攻撃を止めるようにとの王の願いは聞かれなかったのである

この会談で進展は殆どなかったが︑アンノらの功績は︑交渉の結果からすると︑戦いを次のフリッツラーでの交渉

まで妨げたことであるが

よ中で決戦派の者り人交渉派の者を﹁よのン︑の右のランペルト記セ述において︑ザクり

賢明な人々﹂と見ていたのは︑ランペルトの立場を示すものとして注意していいものであろう︒

ついでランペルトは︑王からだんだんと諸侯が離れる中で王は運命の最後の賭をしてザクセン人と戦うことを決

め︑帝国のすべての諸侯に援助を求めたと記している

くに所の王にぐすは教司の多︒︑果結のこ︑はトルペンラ来

たが︑王のために戦うより︑助言を与えるために来たと書いている

てもとと者なか僅︑い︒置に郷故を軍はら彼に

来て︑殆ど私人として現れ︑不服従の非難を避ける意図をもっていたという︒ここで注目されるのは︑ランペルト

が︑アンノやジークフリートらも無実の者を圧迫するために武器をとれないと王にしっかり反対したと書いているこ

とである

この一連の記述では︑ザクセンを支持するランペルトの見方が強く反映している感じであるが︑イェナールは︑ア

― 7 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

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ンノはこの場合はっきりした態度をとり︑出征への参加を拒否したと見ているが

︑しかしこの記述からアンノの反

乱者への直接のつながりは証明されないと判断している

にはできべる見とたっ移側︒ンセクザがノンアてしまな

い︒更にこの王に好意的でない記述でも︑多くの司教が﹁不服従の非難﹂を恐れて︑僅かな伴であれ︑王の召集に応

じたことが書かれていることは注意すべきことである︒これは王の権威が︑この時点でなお尊重されていたことを示

しているのである︒

実際︑王は一〇七四年一月二十七日に軍とともにヘルスフェルトに来

たと渉交び再︑がし︑峙対と人ンセクザな

り︑ザクセン人は条件を出して和に応じてきた

は王でい戦のこび及らノンア︑ト︒ルペンラに中の件条の和のこか

ら離れるか︑反対派への支持のために王を傷つけた人々すべてに罰を与えないようにザクセン人らが求めたと書いて

いる

のるいてれら見と作創ト︒ルペンラは件条のこが

文人ンセクザのノンアに言の︑件条のこ︑はルーナェイへ

の比較的密接な関係が暗示されているとも見ているものの︑アンノが反乱者側についた証拠とはやはり見ていないの

である

一方︑王の方はザクセン人の条件︵要求︶に対しむしろ戦いをすることを考えたが︑味方の諸侯の要求に譲歩し︑結

局二月にゲルストゥンゲンでザクセン人との和が成った

憎壊り取の城諸たいてれまら︒か人ンセクザは王でここし

を約束し

ばあでのたっかならなね︑じん甘に件条な利不る

この和平の後︑アンノとザクセン人との関係を示す記述はしばらくなく︑次の一〇七五年六月に王が再びザクセン

人への出征を準備する時に出てくるのである︒ランペルトは︑この時に王は人間の記憶にはないほどの多くの勇気あ

る戦備の整った軍を集め︑司教も大公︑伯もすべての者がここに集まり︑彼らの最高の力と努力をこの戦いに向け︑ ランペルトの見るアンノとその時代

― 8 ―

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誰も欠けていなかったと書いている

るうな記述をすこのとも注目されよこ︒支ザクセン人を持がするランペルトる

が︑更に注意すべきはランペルトがここで︑アンノは彼の兄弟と甥を襲う最も厳しい嵐を見ていることは不信心だと

﹁言いたてて﹂出征免除を求めたと記していることである

す不承不く全︵とりなんを︒除免のこは王し対にれこ承

ではなく︶与えたという︒しかもランペルトは︑この理由として王にはアンノはその最初の背反以来︑常に憎まれ疑

われていたからと付言しているのである

この記述について︑イェナールは︑アンノの出征拒否の背景に親戚関係が一つの役割を果たしたことは否定しえな

いとし︑王の対応には王とアンノの昔からの不信が再び現れていると見ている︒王がアンノの出征参加を﹁喜んで﹂

あきらめたことは︑この背景以外には見られないからとイェナールは主張している

︒しかし見逃してはならないこ

とは︑ここでランペルトは︑アンノが自身は参加しなくとも︑多くの軍を送ったことに言及していることである

これについてもイェナールは︑こうしてアンノ自身は参加を断ったが︑大軍の兵を王の軍に送り︑アンノは従軍義務

を拒否したとの直接の非難をまぬがれた

︑て見を体自とこたっ送を軍大がといないてしかし価評な的極消も

︑王

や国のことを本心では考えているアンノの深い思いをむしろ見るべきであろう

アンノの親族を通してのザクセン人への微妙な立場といえば︑時期は明確ではないが

︑ランペルトはアンノにつ

いての伝記的な文の中で︑甥のブルヒャルトを慰めるために送った秘密の手紙を使者がその内容を疑って王に渡した

ので︑王はこれ以後この手紙をアンノの不忠の証拠として彼を非難し︑機会があれば彼を殺して︑その財産をすべて

完全に破壊することを考えていたと書いているのである

た伝ノンア﹃︑りあでのもれ︒さ張誇りなかも述記のこ﹄

もこの記事を採用しているが︑この手紙は王に反対することは何も含んでいないとはっきり書いているように

︑ア

― 9 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

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ンノが反乱に与したことを示す明らかな証拠とは言えないのである

ャ接密に当本にトルヒ︒ルブとノンアにれそな

関係があったのなら︑ランペルトも認めているような﹁慰めるため﹂のこんな手紙は書かれなかったであろう︒

以上のようなザクセン反乱全体を通じて見られるアンノの立場について︑イェナールは︑王はザクセン人に関して

アンノを常に不信をもって追っていた︑というのはアンノの中に潜在的な敵を見なければならなかったからと述

態足の中で危うい状にの陥ったと見ている不度︑ンシーファーは︑アノ誠は何度か王の所で忠が

︑それでもイ

ェナール自身も認めているように︑ザクセン人側へのアンノの積極的な党派性へのはっきりした証拠は出されていな

いのである

との積極的な味方は人していないのであへン︒アランペルトも︑ンセノをはっきりザクる

イェナールが︑アンノは彼の親族や友人への同情を常にはっきり示しながらも︑他方で決して王と決裂しないで︑

巧みに非常に危険な政治的な綱渡りを敢えて行っていたと

いかし︑がいなれしもか近評に実真番一がのるいてしし

アンノがザクセン人に関心をもったのは主に親族への関係からであり︑彼はランペルトのようにはザクセン人の行動

を根本では支持しておらず︑むしろ王や国の側に立っていたのである︒王がアンノを﹁潜在的な敵﹂と見ていたかど

うかは疑問であろう

と物と見られていた言るえるし︑やはりこ人う︒ノ王からしてもアンはしザクセン人と交渉の

反乱の中でアンノは仲介者として求められていたのである

運ノンア︑が心関のへ命の︒戚親と国︑もルーナェイの

努力の根本をなしていたと見ているが

ンあってザクセ人戚そのものではで親︑でこの見方からもがアンノの関心な

いこと︑しかもアンノには国への意識が強いことが分かるのである︒アンノが明瞭な反乱派や反王派であったことは

ありえないのである︒

アンノの国への関心と言えば︑シーファーもアンノのますます独立的になる領域︵領邦︶政策や修道院政策にも拘ら ランペルトの見るアンノとその時代

― 10 ―

(12)

ず︑彼は帝国と教会の全般的全体的な事柄に目を離すことはなかったと評しているが

︑これはアンノを見る場合の

重要な視点であろう︒アンノは例えば︑王に他の諸侯以上に早期に皇帝戴冠のためのローマ行を促していたのであ

祿支決して王冠の頼りうるえりではなかったと見てい︑あ︒はハウクなどは︑アンノ王でへの忠誠を知らない男る

をするのに建設的な役割も形っていると真に信じて成を︑はロタンド・マッコード︑格アンノは晩年も王の性い

たし︑王もアンノが亡くなったことに幾らかの悲しみを感じていたと評しているのである

ランペルトも︑若い王へのアンノの影響を肯定的に評価し︑王の教育における功績を讃えていたのである

︒王

も︑アンノに対しクーデタでの恨みがあったり︑彼を自身の理想型に教育しようとする態度を嫌いつつも︑更には時

にはザクセンの親族との関係で多少は不安をもっていたとしても︑アンノが根本で国のことを思っている人物である

ことを知っているがゆえに︑アンノを一方では信頼していたと言えるのである︒このことは何よりも︑ザクセン人と

の交渉という最も重要な事柄に関して︑アンノに何度も頼ったところに如実に現れていたのである︒

注盧

イェナールも︑一〇七三年そして一部一〇七四年におけるアンノの政治的な重要性は︑この時代の国政への決定的な関与を

なしている諸問題︑即ちザクセン人と王との対立の中にあると見ている︒G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.370.

R.Schieffer,op.cit.,ErzbischofAnno,S.12.

G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.370.

ibid,S.372.Anm.11.

LA.SS.336−337.

ランペルトは例えば︑一〇七五年の戦いの時に﹁ザクセン人は非常に愚かなことには⁝﹂という表現をしている︒

― 11 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(13)

LA.SS.288−289.前掲拙稿︑︵ランペルト=フォン=ヘルスフェルト︶︑

鵄︑四十二〜四十三ページ︒ 眄

T.Struve,op.cit.,20.S.98.ランペルトは︑ザクセン人らの敵意︵恨み︶を反映する誇張した表現で王のザクセン政策を非難

した︒

H.E.J.Cowdrey,op.cit.,p.84.

LA.SS.218−219.ランペルトは︑ザクセン人との戦いを﹁すべての人々が最も強く反対している王の企て﹂と書いている︒ 眩

T.Struve,op.cit.,20.S.99.

眤 前掲拙稿︑︵ランペルト=フォン=ヘルスフェルト︶︑

鵄︑五十七〜六十四ページ︒ 眞

I.S.Robinson,op.cit.,p.88.

眥 ibid,pp.88−89.フェンスケも︑この二人がザクセン外の出身の人物であることに注意を払っている︒

L.Fenske,op.cit.,S.118.121.

ibid,S.101.

眛 ibid,S.100.フェンスケは︑ブルヒャルトは最後まで妥協なき首尾一貫した王の敵であったと見ている︒ibid,S.105.フェンスケはまた︑このハルバーシュタットは東ザクセンにあり︑ハインリヒ三世︑四世時代のザクセン人の王権への対立

の中で︑反王的抵抗の中心地の一つであり︑しかもこの役割は本質的にその司教ブルヒャルトによって形成されていたと述

べている︒

ibid,S.100.

I.S.Robinson,op.cit.,p.89.LA.SS.362−363.

例えば︑一〇七五年のザクセン人の降伏の時︑まずヴェルナーの名が挙げられている︒LA.SS.322−323.

睇 Fenske,op.cit.,SS.196−197.ブルーノも︑ヴェルナーの臆病な態度などをよくは描いていない︒BS.SS.88−89.c.96.但し︑シーファーはこのヴェルナーがブルヒャルトとともに反乱に指導的地位をもって参加したと見ている︒

R.Schieffer,op.cit.,Erzbishöfe,S.13.

L.Fenske,op.cit.,S.196.

LA.SS.194−195.G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.374. ランペルトの見るアンノとその時代

― 12 ―

(14)

睫 Frutolfi Chronica, op. cit., SS. 82−83. G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 374.

睛 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 374. Anm. 16. M. v. K. Bd. II. S. 238.参照︒

もっともランペルトは後述のように︑後にはザクセン人の主張としてアンノらが反乱者に加わったかのような印象を与える 言葉を伝えている︒

LA. SS. 222−223.

睥 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 375.

睿 BS. SS. 214−215. F. W. Oediger, op. cit., Regesten, SS. 300−301. Nr. 1022.

なお︑この手紙の日付ははっきりしていないが︑エーディガーは一〇七二年から一〇七三年のものと一応想定している︒こ の手紙の時期は︑城の建設問題からして反乱前のことであろう︒

睾 BS. SS. 214−215.

睹 この手紙ではジークフリートは︑アンノと協力できれば二人で国全体を強固にすることが出来ると言っているだけだが︑自

らの教区における王の城の問題も含めて︑王にアンノを通して影響力を行使しうることを願っていたことは確実であろう︒

瞎 LA. SS. 196−197. 198−199. F. W. Oediger, op. cit., Regesten, SS. 301. Nr. 1024.

G. Jenal, op. cit., Bd. II. SS. 375−376.

瞋 LA. SS. 198−199.

瞑 W. Eggert, op. cit., S. 145. R. Schieffer, op. cit., Erzbishöfe, SS. 13−14.

瞠 LA. SS. 198−199. G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 377.

瞞 イェナールは︑この会談を伝えるランペルトの記事を必ずしも信用性のあるものとは見ていない︒これまでの研究ではここ

には諸事件の混同やランペルトのぞんざいな記述があると見られている︒

G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 376. M. v. K. Bd. II. S. 271, 812.

瞰 LA. SS. 198−199.

瞶 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 379.

瞹 イェナールは︑アンノやジークフリートは王の党派に属していないと見ているが︵ibid, S. 380︶︑この一連の交渉経過から見

―13―

ランペルトの見るアンノとその時代 鴕

(15)

てもアンノは逆に始めからザクセン側にいたのではないことが分かるのである︒ 瞿

LA.SS.198−199.200−201.この﹁王の支持者﹂をイェナールは︑王の助言者と見ている︒

G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.379.

MonumentaAnnonis,op.cit.,S.33.

ibid,S.33.G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.383.クノーナウは︑この会談ではアンノが主な交渉者であったと見ている︒M.v.K.Bd.II.S.289.

LA.SS.202−203.

後の対立王ルードルフの選挙のことを考えて︑すべてをランペルトは潤色しているとも見られている︒

LA.S.203.Anm.4.G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.385.

F.W.Oediger,op.cit.,Geschichte,S.193.H.Tüchle,op.cit.,S.83.もっとも﹃ザクセン戦争の歌﹄も新王選挙ではないが︑ザクセン人が王への告発で諸侯を彼らの側に入れたと言い︑諸侯が

王への忠告︱王がもし従わなければ王に軍事援助をしないという︱を約束したと伝えている︒

CarmendebelloSaxonico.︵AQ.Bd.XII.1974︶,︵以下CSと略す︶,SS.160−161.

G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.383.

ibid,S.386.

チュヒレは︑この交渉についてはっきりしていることは︑ザクセン人が自らの立場を説明し︑王の使節が彼らに起った不法

を認めたことと見ている︒H.Tüchle,op.cit.,S.82.CS.SS.160−161.

イェナールも︑ランペルトにおいてザクセン人とアンノの関係について情報は混乱しているし︑王とアンノの関係について

ごくあいまいな情報しか示していないと見ている︒

G.Jenal,op.cit.,Bd.II.372,379.

矚 LA.SS.204−205.このヴュルツブルクで︑アンノを仲介者とする王の文書も出ていることから見ても︑アンノの王の周辺

での地位の高さを推測させるものである︒

G.Jenal,op.cit.,Bd.II.S.386.Anm.62. ランペルトの見るアンノとその時代

― 14 ―

(16)

矜 LA. SS. 214−215.

矣 LA. SS. 214−215. F. W. Oediger, op. cit., Regesten, S. 302. Nr. 1028.

G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 387. M. v. K. Bd. II. S. 309.

矮 クノーナウも︑この記事を重要視しないのが適当としている︒

M. v. K. Bd. II. S. 309.

矼 AN. SS. 54−55.

砌 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 388. F. W. Oediger, op. cit., Regesten, S. 302. Nr. 1029.

砒 LA. SS. 216−217. G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 388.

礦 ibid, S. 389. M. v. K. Bd. II. S. 823.参照︒

砠 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 388.

礪 LA. SS. 216−217.

硅 LA. SS. 216−217.

碎 LA. S. 217. Anm. 4. G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 389.

硴 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 389.

碆 ibid, S. 389.

硼 LA. SS. 218−219. CS. SS. 166−167.

碚 LA. SS. 218−219.

碌 LA. SS. 218−219.

F. W. Oediger, op. cit., Regesten, SS. 302−303. Nr. 1030.

碣 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 391.

碵 ibid, S. 391.

碪 LA. SS. 220−221.

碯 LA. SS. 222−223. CS. SS. 164−165.

―15―

ランペルトの見るアンノとその時代 鴕

(17)

磑 LA. SS. 222−223. F. W. Oediger, op. cit., Regesten, S. 303. Nr. 1031.

磆 LA. S. 222. Anm. 3. この年代記の訳者︑注釈者はこれはランペルトによって付け加えられたものと見ている︒

M. v. K. Bd. II. S. 322. G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 392. Anm. 88.

磋 ibid, S. 392.

磔 LA. SS. 224−225. 226−227. 228−229. G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 398.

碾 H. Tüchle, op. cit., S. 83.

碼 L. Fenske, op. cit., S. 106.

磅 LA. SS. 282−283. 284−285.

磊 LA. SS. 284−258. この﹁言いたてて﹂という言葉︵causatus︶を︑﹁口実として﹂と訳す場合では解釈の違いが出てくる︒

G. Jenal, op. cit., Bd. II. SS. 398−399.

磬 LA. SS. 284−285.

磧 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 399. イェナールは︑﹁全く不承不承ではなく﹂︵haut gravate︶を﹁喜んで﹂︵gerne︶と訳している

が︑これは少し訳し過ぎであろう︒

磚 LA. SS. 284−285.

磽 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 399.

磴 チュヒレは︑王がアンノにこの参加への免除を与えたのは︑特にアンノが軍を王に提供したからと見ている︒

H. Tüchle, op. cit., S. 83.

礇 アンノは︑ハインリヒ四世の父ハインリヒ三世に対し忠実な思い出をもちつづけ︑王︵三世︶を毎年供養し︑後のジークブル

クでも修道士に王︵三世︶への特別の祈りを求めたが︑このようなアンノが王︵四世︶に対し特別な思いをもっていたと見るの

が自然であろう︒

ibid, S. 69, 71.

﹃アンノ伝﹄も︑アンノがザクセン問題の解決に最後まで努力していたことを示している︒

VA. II. c. 12. S. 502. G. Jenal, op. cit., Bd. II. 401. F. W. Oediger, op. cit., Regesten, S. 333, Nr. 1109, 1.

ランペルトの見るアンノとその時代 鴕 ―16―

(18)

礒 この記述の時期は︑ケルン反乱を鎮圧したあとのことで一〇七四年︑七五年のころと見られている︒ LA. S. 337. Anm. 5.

礑 LA. SS. 336−337.

礙 VA. II. c. 23. S. 495. G. Jenal, op. cit., Bd. II. SS. 400−461.

礬 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 401.

礫 ibid, S. 397. LA. SS. 336−337.

祀 R. Schieffer, op. cit., Die Zeit, S. 130.

祠 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 402. イェナールはまた︑王がアンノをザクセンの件ではっきりと罪ありとすることは出来なか

ったと見ている︒

祗 ibid, S. 402.

祟 ibid, S. 402. 413−414.

祚 イェナール自身も︑ハラーが常に両者の緊張の中でもアンノを王のはっきりした敵の中に見出されえないことを強調してい

るのは正しいと見ているのである︒

ibid, S. 402. Anm. 129. J. Haller, Das altdeutsche Kaisertum︵1944︶, S. 69.

祕 W. Eggert, op. cit., S. 145. R. Schieffer, op. cit., Erzbischöfe, SS. 13−14.

祓 G. Jenal, op. cit., S. 402.

祺 R. Schieffer, op. cit., Erzbischöfe, S. 12.

チュヒレも︑アンノはハインリヒ三世とクレメンス二世が範を示していたような世俗と教会の支配者の密接な協力の中に理 想を見ていたと述べている︒

H. Tüchle, op. cit., S. 67.

祿 R. Schieffer, op. cit., Erzbischöfe, S. 12.

禊 A. Hauck, Kirchengeschichte Deutschlands. Bd. III.︵1954︶, S. 714.

禝 J. Rotondo-McCord, op. cit., p. 312. n. 61.

禧 T. Struve, op. cit., 20. S. 98. 107−108.

―17―

ランペルトの見るアンノとその時代 鴕

(19)

チュヒレも︑アンノはバンベルクの司教ズイトガーの下で司教的教会諸侯についての彼のイメージを得たのかも知れないと

見︑ドイツの司教は王の助言者︑それどころか王の良心になるべきものであったと述べている︒

H.Tüchle,op.cit.,S.67.

九︑

ランペルトとアンノの関係を考える場合︑法王グレゴリウス七世がこの両者︑更にはこの両者に深く係わるザクセ

ン反乱やドイツでの教会改革をどのように見ていたのかも︑ランペルトやアンノの立場をより明確にするために参考

になるものである︒

ランペルトとアンノの立場が微妙に異なるザクセン人に対し︑グレゴリウスはザクセン人の関心︵利害︶に対して︑

僅かにしか考慮を払っていなかったようである︒一〇七四年において︑王︵ハインリヒ四世︶の自らへの恭順を確保す

る目標に比べて︑ザクセン人の事柄はグレゴリウスの考慮の中で殆ど場をもっていなかったのである

︒既に一〇七

三年十二月にグレゴリウスは前章で見たヴェルナーやブルヒャルトらのザクセン側の人物に宛てた手紙で︑ザクセン

の反乱の中で双方に和を求め︑ハインリヒをザクセン人の主君と呼び

見あでのたいてと︑王な統正のら彼る

︒グ

レゴリウスは︑ザクセン人の王への不満に対し︑殆ど注意を払わなかったのである︒彼の当面の目標は休戦であっ

た︒この間︑彼は注意深い中立の立場をとっていた

の十年四七〇一に更︒るあでた︒いてし持支を王ろしむやい月

のブルヒャルトだけに宛てた手紙では︑彼はザクセンの諸侯の専横な支配や︑神の法を踏みにじっていることへの非

難を出していたのである

っ全に王の︒に立てていた︒彼にとって完側し五更対彼は︑一〇七に年はザクセン人にに ア時のそとノンルる見のトペンラ代

― 18 ―

(20)

彼らの反乱は︑神が王を代理として正しく罰した人間の高慢の行為であった

月紙手の宛王の七︒年五七〇一は彼に

おいて︑ザクセン人への王の勝利を祝して﹁あなたに不正に抵抗しているザクセン人の傲慢が︑神の判決であなたの

前で打ちくだかれたことは︑喜ばしい﹂と書いていたのである

このようなグレゴリウスに対しても︑ランペルトは確かに一面では彼を﹁最も熱烈な神と教会法への熱意︵愛︶﹂を

もち

徳と﹂物人つもをの︑徒使で聖神も最﹁か

しいてし価評く高と等﹂るいてを︑活生な的徒使に派立に常非﹁た

れて︑ランペルトは﹁こはつ偽り﹂と言いつつも︑いに︑カ他方例えば︑彼とトスナ係女伯マティルデとの関マ

ティルデが夫の亡きあと︑﹁法王の側に非常に親密な伴としていつも居り︑異常な愛情でもって彼を尊敬していた﹂

ので︑彼女は﹁みだらな愛の疑いから逃れえなかった﹂と語って︑非常に詳しく冷静に書いているなど

︑グレゴリ

ウスを全面的には讃美せず︑時には彼に対し批判や疑問を出していたのである︒

ランペルトにとってグレゴリウスが必ずしも信頼できる人物ではなかったことは︑上述のザクセン人への立場の違

いからも推測されるし︑ザクセン人自身もグレゴリウスとは立場や意見が異なっていた

︒ランペルトはグレゴリウ

スの厳しい僧への独身要求を拒否する点で帝国司教の側に立っていたし

ム派王の後議会スル︑ォヴの年六七〇一へ

のグレゴリウスからの破門を︑当の王派の司教が︑グレゴリウスは熟慮︑理性よりも︑突然の怒りで彼らを破門した

と主張したことをも無視せずにきちんと伝えていたのである

ランペルトは︑グレゴリウスの法王への選挙についても︑王に相談なくローマ人が選んだという問題点を指摘し︑

彼の法王位を﹁不正に受けとられた地位﹂という王側の主張を伝えていたのである

︒プフルーク・ハルトゥング

は︑この法王選挙の記述において︑ランペルトはグレゴリウスへの好意的なものと反対のものとの中間的な立場をと

― 19 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(21)

っていると判断しているが

ド法性のためにはイのツ王の同意を必合挙︑はシュトルーヴェ︑選ランペルトは法王要

条件とするという考えをもっていたので︑ここにランペルトは自分の考えを入れていると見ている

︒そもそもラン

ペルトは︑ハインリヒ四世の時代に関しても︑なおドイツ王のローマ教会への支配的な地位に固執していたし︑王に

よる司教や修道院長の叙任も基本的に尊重していたのである

ランペルトは︑前稿の第六章︑七章で見たように︑アンノのジークブルクを中心とする修道院改革に否定的な立場

であったが︑そのアンノの改革のやり方も︑グレゴリウスの改革方法とは異なるものであった

︒一〇七四年四月に

グレゴリウスはアンノに︑ローマへの愛︵支持︶と尊敬を求める厳しい手紙を出し︑アンノがローマとの関係に非常に

消極的であることを非難していた

よ関係を非常にくと示しているもの会︒ロこれは当時のー教マとドイツのの

悪が︑これは彼らの嫌をし強めるばかりであった出︑とグレゴリウスは司教のを関係の中で傲慢な調子た

グレゴリウスは一〇七四年十一月にアンノに対し彼の教区で僧に独身生活をさせるよう警告し︑更に一〇七五年三

月にもアンノに同様に僧の独身を厳命するよう命じていたことを見ても

ノじ感が満不のへン︑アのスウリゴレグら

れるのである︒ハウクは︑アンノにはグレゴリウスの教会政治上の諸目標は全くその視野外にあり︑教会の自由はア

ンノの感激するものではなかったと評している

は立の者作の﹄歌のノンア﹃︑て︒いつに場立のノンアたしうこ場

も参考になる︒アンノを讃美するこの作者も︑法王派ではなく︑アンノの帝国においての活動について書いているも

のは︑法王庁の新しい要求よりも︑帝国司教の伝統的な立場に一致していたのである

ドイツの司教は︑彼らの独立的な地位を脅かしかねないグレゴリウスの中央集権的な改革の進め方に︑一〇七六年

のヴォルムス会議に見られたように︑反対していた

ぱて見とたいて︒感と侯諸らじっアもハウク︑もンノは自らを ア時のそとノンンる見のトルペラ代 鴕

― 20 ―

(22)

いるが

たわらないものであっ︒とそれどころか︑アンノ変場︑立この点ではアンノの場立は︑ドイツ司教一般のは

帝国司教の特に力強い権化とも言える存在でもあったのである

︑介仲的交外はノンアは︒ドーコッマ・ドントロ者

として王と法王への忠誠に慎重に均衡を保っていたと見ているが

へ︑は点ういと誠忠のス︑ウリゴレグのノンア既

述の法王の手紙が示すように

︑疑わしいものであろう︒

アンノによるジークブルクの修道院改革は司教の指導による改革であり︑法王庁は殆ど何の役割も果たしていない

ものであったが

れく肯定的に評価さるはものであったし︑司全程︑てランペルトにとっも過司教の領邦君主への教

の領域的な権力努力と教会の改革運動への尽力はお互いに排除するものではなく︑反対に同じ目標に奉仕しうるもの

であった

人態度にも拘らず︑聖と的言われる者たちの貞な否︒ゴランペルトは︑グレリ拒ウス的な改革運動への潔

や禁欲を讃えていたが

れるあでのたいて見をこ︑もに中のノンアは彼︒

アンノは一〇七五年十二月に亡くなったが︑いわゆる二権力の対立の直前であり

︑これはハインリヒ三世のなし

た成果︑財産が崩壊するかの二十年の時期の終わりを明白に示す︑とシーファーは評している

︒エッガートも︑ア

ンノを結局︑前グレゴリウス的な帝国司教と性格づけている

か﹂的スウリゴレグ前﹁と︒﹂立対の力権二﹁のこと

いう二元論的な割り切り型には問題はあるものの

し四ヒリンイハは代時たいてと︑想理︑もトルペンラもノンア世

の父ハインリヒ三世の時代であったし︑少なくとも教会の体制や改革については︑グレゴリウス的な立場の人間では

なかったことは確かであろう︒

― 21 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(23)

盧 H. E. J. Cowdrey, op. cit., p. 99.

盪 Das Register Gregors VII. op. cit.,︵以下Reg.と略す︶I. 39. S. 62.

Quellen zum Investiturstreit︵AQ. XIIa. 1978︶, I.︵以下 QIと略す︶SS. 66−67.

H. E. J. Cowdrey, op. cit., p. 96. n. 78.

蘯 L. Fenske, op. cit., S. 124.

盻 H. E. J. Cowdrey, op. cit., p. 96. L. Fenske, op. cit., S. 105.

眈 Reg. II. 12. QI. SS. 108−109.

眇 H. E. J. Cowdrey, op. cit., p. 109.

眄 Reg. III. 7. QI. SS. 188−189.

眩 LA. SS. 400−401. ﹁神への激しい信仰﹂というよく似た表現をランペルトは︑グレゴリウスについて彼の法王就任の時にも

使っている︒

LA. SS. 172−173.

眤 LA. SS. 352−353. ランペルトは︑この表現をユトレヒト司教に言わせている︒

眞 LA. SS. 400−401.

眥 LA. SS. 400−401. T. Struve, op. cit., 20. S. 105.

眦 ブルーノによると︑後の対立王ルードルフのことでもザクセン人はグレゴリウスを批判していた︒

拙稿︑﹁中立期のグレゴリウス七世﹂︑︵人文学︑第百三十四号︑昭和五十四年︶︑六十六〜六十八ページ︒

BS. SS. 372−377.

眛 T. Struve, op. cit., 20. S. 69.

眷 LA. SS. 360−361, 362−363. 但しヴォルムス会議後に王から離れていく者に対して︑ランペルトは好意的に書いており︑王

に対し批判的な立場をとっている︒

眸 LA. SS. 172−173.

ランペルトの見るアンノとその時代 鴕 ―22―

(24)

睇 J. v. Pflug-Harttung, Beiträge zur Kritik von Bonizo, Lambert und Berthold,︵NA. 13. 1888︶, S. 327.

なおこの文についてはプフルーク・ハルトゥングは︑ランペルトはここでは諸侯側から聞いた話を語っていると見ている︒

ibid, S. 329.

睚 T. Struve, op. cit., 20. S. 100. M. v. K. Bd. II. S. 842.

ロビンソンも︑このランペルトの記事はグレゴリウスがこのために後に王の同意を得たという点で︑信用のできないものと 見ている︒

I. S. Robinson, op. cit., pp. 128−129.

睨 T. Struve, op. cit., 20. S. 100.

睫 本論︑ 鵄︑第六章︑四十三ページ参照︒ W. Eggert, op. cit., S. 149.参照︒

睛 Reg. I. 79. QI. SS. 82−83. R. Schieffer, op. cit., Erzbischöfe, S. 134.

H. E. J. Cowdrey, op. cit., S. 111. M. v. K. Bd. II. S. 371.

睥 J. Englberger, Gregor VII. und die Investiturfrage.︵1996︶S. 130. Anm. 7.

睿 R. Schieffer, op. cit., Die Zeit, S. 131.

睾 Reg. III. 25. QI. SS. 114−117. Reg. II. 67. QI. SS. 160−161. H. E. J. Cowdrey, op. cit., p. 115.

睹 A. Hauck, op. cit., S. 714.

瞎 E. Nellmann, Die Reichsidee in deutschen Dichtungen der Salier- und frühen Stauferzeit.︵1963︶S. 80.

瞋 拙稿︑﹁ハインリヒ四世について︱ヴォルムス会議とその後をめぐって︱﹂︑︵文化学年報︑第三十五輯︑昭和六十一年︶︑

四十四〜四十五ページ︒

瞑 A. Hauck, op. cit., S. 714.

瞠 本論︑ 鴣︑第一章︑二十六ページ︒

瞞 J. Rotondo-McCord, op. cit., p. 298.

瞰 グレゴリウスは︑一〇七五年三月のアンノへの手紙でも︑前年四月の手紙と同様に再びケルンとローマの間の特別な関係を

わざわざ強調しなければならかったのである︒

―23―

ランペルトの見るアンノとその時代 鴕

(25)

Reg.II.67,QI.SS.158−159.

本論︑

鵄︑第六章︑四十三ページ 瞹 T.Struve,op.cit.,20.S.110.ここでいう改革運動は︑グレゴリウス的でない改革運動と見るべきであろう︒ 瞿

ibid,S.105.

R.Schieffer,op.cit.,Erzbischöfe,S.15.

R.Schieffer,op.cit.,DieZeit,SS.131−132.

W.Eggert,op.cit.,S.149.

グレゴリウスが︑﹁前グレゴリウス的﹂という表現がなされるほど革命的な人物であったかはまた問題で︑グレゴリウス自

身も︑ハインリヒ三世時代を理想としていた面が強いのである︒

Reg.IV.3.

おわりに

一人の人物をその全体像にわたって理解し描写するというのは本来むつかしいものであるが︑本論のようにランペ

ルトという︑これまた一人の人物の眼を通して︑もう一人のアンノという人物を理解することはなお一層困難なこと

である︒この方法にはいろいろな問題点はあろうが︑この二人を通して︑彼ら自身とともに︑彼らの生きた時代が見

えてくるのである︒

ランペルトにとって︑ある面ではアンノは模範的な人物︑当時の感覚では﹁聖人﹂的な人物であった︒彼はアンノ

を﹁多くの徳のある人物﹂とか

望たえ讃と﹂物人るあの名﹁も最で徳の類種るゆらあり

︑祈りや苦行︑慈善など

の善行への熱心さを強調し

も︑よき身体︑最美もしく︑身体もすらにでとな更とは﹁精神的に徳や道徳上の名声性 ア時のそとノンルる見のトペンラ代

― 24 ―

(26)

りとして︑顔も優美で︑言葉も巧みであった﹂とさえ讃えていたのである

に体身︑時当︑は美︒讃のへ体身のこの

美は貴族出身と平行し︑身体的な醜さは身分の低いしるしとされたこととも

関係があろう︒

こうした身心上の讃美とともに︑実際的活動においても︑ランペルトは例えばアンノが一〇七二年に王から﹁王を

次ぐ者として国政を任された時︑裁判も公正で︑好悪に左右されず︑また身分や貧富によって左右されなかった﹂と

評し

でて︑事柄を扱ったの︑も王の名と司教の名のどっを︑指アンノが﹁このような導威︑このような勤勉と権ち

らがふさわしいか迷うほどで︑粗野と怠慢に陥っていた王の中に父祖の勇気と徳を呼びおこしたほどである﹂と讃え

ていたのである

司ペルトはアンノが法ラの領域で秩序の確立ン︑︒︑シュトルーヴェはこしの引用文の前半に関に

断固たる処置をとったこと︱公正さなど││に最も強く印象を受けたと見

つペンラ︑はていに︑文の半後にらさル

トは王にも諸侯にも徳などの理想を求めたと見︑ランペルトの作品全体にこの教育的な意図が見られると評してい

執道徳に極度に固す義る﹂人物であっや正︒ン実際アンノはラペ﹁ルトから見ると︑た

この世俗的活動面については︑ランペルトは︑アンノが﹁ケルンの名の威信と世俗的な豪華さを前任者たちよりも

誇らしげに人々に見せつけた﹂と記し

こに高められたとんはなかったとなこ︑ンこれまでケル教が会の富と名声讃

えていたのである

教だけではなく︑司都奉市への世話もその仕の︒でランペルトの考えはへ︑司教の仕事は帝国一

つであった

職るいて見とたいてっもを識意務た︒もエーディガー︑っアンノは際立が

︑ランペルトがアンノのこ

の現世的な活動をも高く評価していたことは

面るあでとこきべす意注てしと一︑の別のトルペンラな的士道修︒

アンノはこのように見てくると︑何か非の打ちどころのない理想的な人物のように見えてくるが︑特にこの世俗的

な活動においては︑宮中伯家のエッツォ家との激しい対立やマルメディ修道院の問題︑更に露骨な親族政策

やケル

― 25 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(27)

ンの反乱での行動などに︑アンノの傍若無人な権力志向

や高慢で横柄な態度

目ペンラ︑ち立がと点欠諸たっいル

トも批判的に見ていたのである︒しかし時に批判や非難をしつつもランペルトが︑かのクーデタへの評価のよう

と的な評価をしていたこも積︑また確かなことなの極ね︑世アンノの国政を含めた俗概的な政治活動全体にはで

ある︒

シュトルーヴェは︑ランペルトはアンノにおいて世俗的活動と宗教的活動が競い合っている面を最も詳しく描いた

と見ているが

にく︑⁝⁝神への奉仕お大いてまるで天使のよきに︑﹁﹃アンノの歌﹄も︑王常宮でアンノの力は非う

に振舞った﹂と書いていたのである

際向と政治的実的な能力を自らの傾的︒︑イェナールもア欲ンノは精神的禁中

に一つにしていたと見

欲ると同時に権力のである者と見ていあ虔︑タフレッケンシュイ敬ンも︑アンノをる

︒ア

ンノの中に﹁諸侯と聖人の特徴がお互いに排除し合うことなく密接に並んでいて︑世俗的な名誉と神への怖れの間を

あっちへ行ったりこっちへ来たりと引っぱられていた﹂のであった

見うよるいてし盾矛一︒︑は方き生たしうこに

見えるが︑実際はそうではないことは筆者がこれまで度々論じてきたところである

アンノの熱心な信仰上の行為︵祈りや苦行は勿論︑慈善的行為や修道院等の建設も含めて︶というのも︑その本質

は来世での自己の救いをひたすら求める強い利己心であり︑この点では上述のアンノの﹁聖人﹂的な姿というもの

も︑無邪気に讃美するほどのことでもないのである︒信仰心に潜む利己心の強さは他面では︑現世での貪欲な出世欲

や権力欲に現れやすいもので︑アンノも︑来世での自己の救いのために現世のものすべてを軽蔑する態度とは一見す

ると裏腹に︑現世での名誉や権力に強く執着している人物であった

益同︑れあはい違の利︒の世現︑益利の世来じ

く自己の利益を求める利己心から発しているのである

︒ 時のそとノンアる見のトルペンラ代 鴕

― 26 ―

(28)

こうした一見矛盾する生き方は︑どの時代にもあるものの︑叙任権闘争とも言われるこの激動の時代における人物

の特徴とも見られているが

い言えよう︒このわたゆる叙任権闘争とっ︑典アンノはこれを型あ的に示した人物での

時代は︑皇帝権と法王権の二権力の構図で説明されやすいが︑これは相互に無関係で独立した別個の二権力が対立し

ていたというよりは︑実際はこの二権力はお互いの管轄範囲もはっきりせずに複雑にからみあっていたというのが︑

当時の実状に近いのである︒

しかし今仮にこの二つの権力を分けて考えても︑アンノを単純に一方の派の人物とすることは出来ないのである︒

彼は反王派でもなく︑また法王派でもなかった︒このアンノについて語っているランペルト自身も︑ザクセン反乱で

は王を批判しているものの︑本質では同様に反王派ではなかったし︑まして法王派ではなかった

︒教会改革の問題

一つ見ても︑アンノもランペルトも︑法王指導の改革には同調していなかったが

︑彼らの立場で改革を支持ないし 実践していたのである︒法王派

改革派︑反法王派

反改革派という単純な図式は成り立たないのである︒いやアン

ノとランペルトの改革への見方自体も︑ジークブルク修道院などの改革をめぐって一致していなかったほど多様なも

のであった︒

アレクサンダー二世の俗に﹁対立法王﹂とされているホノリウス二世のシスマ︵教会分裂︑二法王の対立︶の問題に

ついても︑アンノもランペルトも単純に反ホノリウス派とは言えず︑この二人はむしろ仲介派であった︒ホノリウス

を擁立したドイツ宮廷の立場を重んじるアンノは︑ホノリウスの問題を宮廷や王権の名誉を損うことなく解決しよう

としていたのであり

はられる人物でな捨かったのであて見︑てアンノにとっホにノリウスは簡単る

︒ここにもア

ンノの立場を考える重要な手掛かりがあるのである︒

― 27 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(29)

このシスマでの行動にも見られるが︑アンノが王の立場を重く見ていたことは︑彼の行動に常に見られたものであ

る︒アンノは王に対し時に批判者であっても決して反対派ではなく︑上述のようにむしろ王を自らが考える理想型に

鍛え上げようとする教育者としての意識︑使命感が強かったのである︒ランペルトもよく似た理想をもち︑王とアン

ノの本来のよき関係を望んでいたのである

で上以れそに更︑い救を育教の王タ︒デークをノンア︑はトルペンラに

帝国を救おうとする法︵正義︶の守り手として見ていたのであり

ケっもも後乱反のンルは︑ノンアを力響影のへ王て

いたのである

もな気持を強くっ者ていたのであ的育︒ゴちなみにグレリ教ウスも︑王へのる

アンノが本来︑反王派ではないことは︑本稿で見たザクセン反乱の時に最もよく現れたのである︒アンノはこの

時︑反王派的立場になったと判断されがちであるが︑実際はむしろ逆であり︑親族がザクセン側にいる苦しい立場の

中で︑この時にこそ王の為︑国の為に尽力していたのがアンノの実の姿であった︒アンノには王や国のことを思う気

持が強くあった点が︑彼を理解する上で欠かしえない重要な視点なのである︒この視点を欠けば︑アンノの本質は見

誤られるのである︒上述のホノリウスのシスマでのアンノの立場︑行動もこの視点からのみ真の理解が得られるので

ある︒

アンノの理想は︑彼がハインリヒ三世時代に経験した帝国と教会の調和であったし

︑アンノは帝国と教会をお互

いに和解させ︑それらを助けてお互いに必要な補完をさせようとした︑とも見られているのである

︒ここでいう帝

国と教会も独立した別個の存在というよりも︑お互いに複雑にからみあった存在と見るべきであるが︑アンノはこう

した状況を自身のうちに最も象徴的に体現していた人物であったのである︒

ランペルトも︑保守的な理想主義者で︑ハインリヒ四世の治世をハインリヒ三世の理想化された時代によって判断 ランペルトの見るアンノとその時代

― 28 ―

(30)

したと見られるように

にっあで場立い近ノ︑ンアもトルペンラた

ハ時の世三ヒリンイは︒で面るあに様同やい代

を理想としていたグレゴリウス七世も

解では十分に理でだきない人物なけ方︑と二権力の対立い見う二元論的なの

である︒

その人物といい︑その行動といい︑いろいろな意味でアンノはこの時代を最も典型的に代表している人物である

が︑彼は当時の年代記者の中では︑彼への最大の尊敬者をランペルトに見出したのである

︒ランペルトはしかし︑

ホルダー・エッガーが見るほどに

ン︒それでもラペなルトとアンノはいはアにンノを熱狂的讃で美していたわけ時

に意見や立場の相違はあるものの︑大きくは共通の理想や考え方をもっていたと見るのが︑一番真実に近いであろ

う︒彼らを通して見えてくるこの時代の姿は︑皇帝権と法王権︑あるいは世俗権力と教会権力の対立とか︑改革派と

反改革派の対立といった白黒の二元論的な思考では理解できない複雑なものである︒ここにまた︑アンノやランペル

トへの理解のむつかしさとともに︑同時にまたより深い理解への道もあるのである︒

注盧

LA.SS.244−245.

盪 LA.SS.236−237.フルトルフらも︑﹁最高の聖性をもつ人物﹂と同様の評価をしていた︒

FrutolfiChronica,op.cit.,SS.82−83.

LA.SS.330−331.

LA.SS.328−329.T.Struve,op.cit.,20.S.106.Anm.38.

眈 H.Vollrath,ErzbischofHildolfvonKöln︵1075−1078︶:

” Hä sslichanzusehenundvonerbärmlicherGestalt“,︵Köln.Festschriftfür O.Engelszum65.Geburtstag.1997︶SS.276−277.

― 29 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

(31)

眇 LA. SS. 158−159.

眄 LA. SS. 158−159.

眩 T. Struve, op. cit., 20. S. 108. 本論︑ 鴣︑第一章︑二十四ページ︒

眤 ibid, S. 107.

眞 LA. SS. 328−329.

眥 LA. SS. 328−329. 330−331. 本論︑ 鴣︑第一章︑二十六ページ︒

眦 LA. SS. 330−331. 本論︑ 鴣︑第一章︑二十六ページ︒

眛 T. Struve, op. cit., 20. S. 109.

眷 F. W. Oediger, op. cit., Geschichte, S. 184.

眸 シュトルーヴェは︑ランペルトは世俗的な華美の展開から離れ︑使徒的な簡素さや純粋さのある僧を求めたと見ているが︑

これは必ずしもそうとは限らないであろう︒

T. Struve, op. cit., 20. SS. 104−105.

睇 F. W. Oediger, op. cit., Geschichte, S. 196.

睚 拙稿︑﹁ランペルトとアンノ︱主にハインリヒ四世との関連を中心に︱﹂︑︵文化学年報︑第五十一輯︑平成十四年︶︑

六十三ページ︒

睨 A. Hauck, op. cit., S. 713.

睫 T. Struve, op. cit., 20. S. 107.

睛 ibid, S. 111, 113. 本論︑ 鴣︑第一章︑二十三ページ︒

睥 AN. SS. 46−47. E. Nellmann, op. cit., SS. 69−70.

睿 G. Jenal, op. cit., Bd. II. S. 414.

睾 J. Fleckenstein, op. cit., S. 12.

睹 T. Struve, op. cit., 20. S. 113.

瞎 拙稿︑﹁﹃敬虔なる﹄ハインリヒ三世﹂︑ 鴣︑ 鴟︑︵文化学年報︑第四十三︑四十四輯︑平成六年︑七年︶︒

ランペルトの見るアンノとその時代 鴕 ―30―

(32)

本論︑

鵄︑第七章︑六十二ページ︒ 瞑

本論︑

鴣〜ジーペ四十二三︑十二︑章一第︒ 瞠

T.Struve,op.cit.,20.S.106,111,113.

前掲拙稿︑︵﹁ランペルトとアンノ﹂︶︑七十六〜七十七ページ︒

ホルダー・エッガーが︑ランペルトによって戦われるべき敵はハインリヒ四世であった︑と述べているのは二元論的な対立

構図で見る従来の見解の代表的な例の一つであろう︒

O.Holder-Egger,StudienzuLambertvonHersfeld.︵NA.19.1894︶S.190.

瞰 H.Tüchle,op.cit.,S.93.参照︒ 瞶

本論︑

鴟︑第五章︑二十一ページ︒ 瞹

本論︑

鵄︑第四章︑十二ページ︒ 瞿

前掲拙稿︑︵﹁ランペルトとアンノ﹂︶︑七十六ページ︒

MonumentaAnnonis,op.cit.,S.67.

前掲拙稿︑︵﹁ランペルトとアンノ﹂︶︑六十七ページ︒

Reg.I.11,24.

矇 H.Tüchle,op.cit.,S.85.前掲拙稿︑︵﹁ランペルトとアンノ﹂︶︑五十一〜五十二ページ︒ 矍

G.Busch,op.cit.,DerPilgerweg.S.507.

H.Tüchle,op.cit.,S.93.

矚 前掲拙稿︑︵ランペルト=フォン=ヘルスフェルト︶︑

鵄︑第六章︑五十ページ︒ 矜 Reg.IV.3.参照︒ 矣

MonumentaAnnonis,op.cit.,S.67.

O.Holder-Egger,op.cit.,S.208.

︵平成十八年一月二十五日稿︶

― 31 ―

ランペルトの見るアンノとその時代

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