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フィヒテのエゴイズム批判

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フィヒテのエゴイズム批判

著者 中川 明才

雑誌名 人文學

号 182

ページ 1‑23

発行年 2008‑03‑15

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011357

(2)

フ ィ ヒ テ の エ ゴ イ ズ ム 批 判

中 川 明 才

はじめに

﹁エゴイズム﹂は十八世紀末から十九世紀初頭のドイツの思想状況において︑ある特定の生の態度や哲学的な立場

を非難する言葉として用いられた︒この言葉をもって︑カントは対抗策として﹁複数主義﹂という世界公民的な立場

を提唱し

のやフィヒテの﹁理性体ン系﹂をヤコービは同トカ︑風フィヒテは同時代の潮のそのものを断罪し︑そじ

言葉をもって糾弾した

はあるのか︒本稿︑何エゴイズムについで体︒としかしエゴイズムは一その本質においてて

のフィヒテの理解を踏まえつつ︑エゴイズムを人間の生における反理性的な態度として捉え︑かつその克服を目指し

たフィヒテの哲学的な試みを批判的に検討することを主題とする︒

フィヒテはエゴイズムに対する対抗策として宗教を提起している︒その場合の宗教とは幸福論とは峻別された﹁真

の宗教﹂と呼ばれるものである︒通常︑フィヒテの宗教理解を問題にするとき主として取り上げられるのは︑彼の著

作の中では唯一﹁宗教論﹂という標題をもつ一八〇六年の﹃浄福なる生への導き﹄である︒しかし本稿で扱う主要文

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フィヒテのエゴイズム批判

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献は︑一八〇六年の宗教論に先行する一八〇四/〇五年の通俗的講義である﹃現代の根本特徴﹄である︒というの

も︑この講義においては後続する宗教論での宗教理解がすでに先取りされているからであり︑しかもエゴイズムと理

性的生︵その最高の形式としての宗教︶との対置という問題構成が明快に論じられているからである︒そこで本稿で

は︑フィヒテのエゴイズム批判を検討することを通じて︑彼の言う﹁真の宗教﹂によってエゴイズムがいかにして克

服されるのかを究明する︒考察は以下の手順で進められる︒

まず最初に︑﹃現代の根本特徴﹄における﹁人類の地上的生﹂をめぐる議論を参照しつつ︑人間の生の歴史形成的

な構造を︑特に理性との連関において解明する︒次に︑﹁理性に従う生﹂と﹁理性に反する生﹂との対置を踏まえた

上で︑フィヒテによってエゴイズムが理性に反する生の自己愛に存することを確認する︒第三に︑エゴイズムに対置

される理性的生の自己愛が理性的生の現存在の最高形式としての宗教において成就されることを論じる︒そして最後

に︑フィヒテによってエゴイズムの対抗策として示される﹁真の宗教﹂を検討し︑その宗教概念の二つの根本規定で

ある﹁自己自身から発する思惟﹂と﹁二重の洞察﹂について考察する︒

一生と理性

一八〇四年秋から翌年春にかけてのベルリンでの講義﹃現代の根本特徴﹄︵以下﹃根本特徴﹄と略記︑出版は一八

〇六年︶

desein196I/8,GAZeitaltersegenwärtigengemäldeGphilosophisches︵代と題課を︶﹁現︵写﹂︶の哲学は的描す

る︒この場合の﹁哲学的﹂とは︑﹁現存する多様な経験を一つの共通の統一的な原理に還元し︑そして再びこの統一 フィヒテのエゴイズム批判

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から多様なものを各々余すところなく解明し︑演繹するという見方﹂︵GAI/8,196︶を指している︒従って現代の哲

学的描写においては︑時代のさまざまな出来事を枚挙し︑そこに共通する特徴を見出すのではなく︑ある統一的な原

理から歴史全体を演繹することが企図される︒それでは全体としての歴史はいかなる統一的な原理から演繹されるの

か︒フィヒテにとって歴史とは人間の歴史であり︑﹁人類の地上的生全体﹂︵GAI/8,197︶と同義のものである︒フィ

ヒテは歴史の統一的な原理を︑人類の地上的生の﹁目的﹂とみなした上で︑その目的を次のように定式化している︒

﹁人類の地上的生の目的は︑人類がそこで﹇地上で﹈自らの一切の関係を︑自由に︑理性に従って方向づけることで

ある﹂︵GAI/8,198︶︒ 人類が自らの一切のVerhältnis││すなわち人類がそこに属している関係もしくは状況││を理性に従って方向づ

けるとは差し当たっては︑人類が理性に従って自己を支配すること︑あるいは人類がその一切の関係において理性の

支配を受けることを意味する︒それゆえ人類の地上的生の目的は﹁自由による理性支配﹂とも表現される︒ここで注

目すべきは︑人類の地上的生の目的が自由による理性支配であるという点で︑人間の生がつねに理性との連関におい

て把握されている︑ということである︒そこで次に︑人間の生と理性がいかなる連関を有しているのかを確認してお

きたい︒

フィヒテが現代および歴史全体の哲学的記述において問題にする人間とは個体︵個人︶ではなく︑類である︒それ

は差し当たっては人間が類として理性の支配を受けていることを意味している︒この場合の理性とは︑人間精神の認

識能力の一つとしてではなく︑﹁法則﹂として理解されなければならない︒﹁理性とは人類の生の根本法則であり︑一

切の精神的生の根本法則である﹂︵GAI/8,199︶︒フィヒテが問題にする人間とは︑法則との関係にもたらされ︑法則

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フィヒテのエゴイズム批判

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の支配を受ける人間である︒この人間が法則としての理性の支配を受ける仕方は二つに区分される︒一つは﹁本能に よる理性支配﹂であり︑もう一つは﹁自由による理性支配﹂である︵GAI/8,199︶︒この二つの種類の理性支配が歴

史の始点と終点になる︒歴史とは︑﹁本能による理性支配﹂から﹁自由による理性支配﹂への移行である︒フィヒテ

の理解に従うならば︑この移行が歴史全体であり︑人類の地上的生の全体である以上︑少なくとも類としての人間の

生はつねに理性との連関を有し︑その連関なしには人類の生は存立不可能であるということを︑我々は確認すること

ができる︒

理性支配は本能によるものと自由によるものの二種類があると言われた︒この両者の相違は︑本能が﹁盲目的

︵blind︶﹂であるのに対して︑自由が﹁理由の洞察﹂を有するという点に存する︵GAI/8,199︶︒本能による理性支配

にあっては︑人類は盲目的に︑すなわち﹁理由の洞察なしに﹂理性に従う︒それに対して自由による理性支配にあっ

ては︑人類は﹁自由をもって﹂︑すなわち﹁理由の洞察をもって﹂︑﹁意識的に︵bewußt︶﹂理性に従う︒従って本能に

よる理性支配と自由による理性支配の間には︑支配の理由の洞察︑何が支配するのかについての知が介在しなければ

ならない︒その知は﹁理性の意識もしくは理性の学﹂︵GAI/8,199︶と言われる︒さらに人類の生が本能による理性

支配から理性の学へと移行するためには︑人類の生は何らかの仕方で自己を理性本能から解放する必要がある︒そこ

で理性の学には理性本能からの﹁解放﹂が先行することになる︒しかしその解放は本能による理性支配から直接的に

生じるものではない︒理性本能からの解放には次のような時期︑すなわち︑理性本能を意識し︑その本能を体現する

ごく少数の個体が人類の内に現われ︑力をもったごく少数の個体が他の力なき個体に対して権威として振舞う時期が

先行する︒それゆえ理性本能からの解放とは実際には権威へと変容した理性本能からの解放となる︒以上のように︑ フィヒテのエゴイズム批判

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人類の生は﹁本能による理性支配﹂︑﹁本能の権威への変容﹂︑﹁理性本能からの解放﹂︑﹁理性学﹂︑﹁自由による理性支 配﹂という﹁五つの主要時期︵fünfHauptepochen︶﹂︵GAI/8,201︶をもつことになる︒フィヒテは﹃根本特徴﹄の

﹁第五講﹂で︑この五つの主要時期を簡潔に要約しているので︑その個所を引用しておく︒

﹁我々はこの主要命題﹇人類の地上的生全体の目的に関する命題﹈に従って︑人類の地上的生全体を余すところな

く尽くす︑唯一可能な五つの主要時期を獲得した︒

!しっよに能本性理るな単︑にな人労苦と制強︑が係関な的間て

秩序づけられる時期︑

"︑み自己を表明しこにの少数者によってのちこての本能が弱体化し︑た少数の選ばれた人本

能が万人に対する強制的で外的な権威へと変容する時期︑

#︑おにこそでま今が性理にこもととれそびよお威権のい

て現存していたところの唯一の形態における理性が︑捨て去られる時期︑

$にに的遍普ていお態理形ういと学が性人

類の中に入ってくる時期︑

%てりした手でもっ︑っ学に従って形成かしこわの学に技術が加っでて︑生がより確実さ

れる時期︑すなわちこの技術によって人間的な関係の理性に従った方向づけが自由に完成され︑全地上的生の目的が

達成され︑そして我々人類が他の世界のより高次の領域に踏み込む時期﹂︵GAI/8,243︶︒

このように人類の地上的生の全体としての歴史を︑自由による理性支配という目的から︑言い換えれば︑人類の生

の根本法則としての理性という統一的原理から把握することによって︑フィヒテは歴史を五つの主要時期を区分す

る︒この区分において現代は︑第三の時期︑すなわち理性本能からの解放の時期に位置づけられる

︒ここでフィヒ

テの記述に従って︑現代について若干の補足説明をしておきたい︒

まず第一に︑現代の原理は解放︑すなわち﹁理性本能がそれへと加工された強制的権威から解放されること﹂︵GA

I/8,208︶である︒しかし解放は厳密には自由とは区別されなければならない︒解放とは﹁人類が︑あるときにはこ

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フィヒテのエゴイズム批判

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の個体︑他のときにはあの個体において︑また権威が人類を拘束する上で考慮するあれやこれやの対象から︑ようや

く次第に自らを自由にす

!

状態﹂であって︑﹁完全に自由で !

!

!

GA208I/8,らわかかもに︒︶︵状いなてし決はで﹂態 !

ず現代は権威からの解放を﹁完全に自由である状態﹂と混同している︒そのかぎりで現代は﹁空虚な自由の時代︵das

ZeitalterderleerenFreiheit︶﹂︵GAI/8,209︶である︒

第二に︑現代は﹁理性本能から免れてはいるが︑他

!

GA手︵﹂代時いないてれ入にに形り代のそを性理るけおに態 !

I/8,210︶であると言われる︒人類の生は理性との連関においてのみ存立するがゆえに︑理性が本能という形態を失

った現代において残されるのは個体のみとなる︒第二期において理性本能の変容としての権威による支配を盲目的に

甘受していた個体は︑第三期になると︑それぞれ理性本能から自らを解放することに向かう︒その際︑解放の原動力

となるのは﹁概念﹂である︒﹁権威からのこの解放の道具は概念である︒というのも︑概念に対置される本能の本質

はまさに︑本能が盲目的であるという点にあり︑全時代において本能をして支配的ならしめた権威の本質は︑それが

盲目的な信仰と服従を要求する点にあるからである﹂︵GAI/8,208︶︒権威は他の個体を自らに従属させるために︑そ

の個体が権威に恐れを抱きつつ服従すること︑権威を盲目的に信仰することを強要する︒それに対して個体は盲目的

な信仰と服従から脱するために︑概念を使用する︒概念によって何が自己保存にとって有用であるかを見分け︑有用

なもののみを存在するとみなすことによって︑個体は理性本能から自己を解放しようとする︒従って第三期において

支配的であるのは︑概念であり︑その概念の及ぶ範囲には理性は本能という形態においても︑またそれ以外の他の形

態においても入ってこない︒このような理性の不在の時代が現代に他ならない︒かかる現代の根本格律は次のように

表現される︒﹁人が理解し明白に把握するもの以外の何ものも︑存在し拘束するものとしては認めないこと﹂︵GA フィヒテのエゴイズム批判

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I/8,208︶︒

ここで重要なのは︑概念把握不可能なものとの関係において︑第三期と第四期︑現代と理性学の時代は鋭く対立す

るということである︒現代において概念把握不可能なものは存在するとはみなされない︒というのも︑個体にとって

は自己保存のために有用なものだけが存在するものであり︑その有用性の判断を概念によって行うからである︒つま

り︑個体は自分だけに通用する尺度として概念を使用するのである︒この個々の個体によって相違する概念に従って

判断が下される時代︑そうした概念によって概念把握可能なものだけが存在するとみなされる時代が現代である︒そ

れに対して理性学の時代は︑一切の現に存在するものを理解しようとする︒さらに絶対的に概念把握不可能なものが

存在するとすれば︑そのものを概念把握不可能なものとして概念把握し︑その存在を許容する︒このように現代と理

性学の時代との対立は概念把握不可能なものの存在を許容するか否かという点において最も先鋭化する︒

以上見てきたように︑現代は理性の不在の時代︑すなわち人間の生と理性の連関が無視され︑人類の生に対する配

慮が何らなされることのない時代である︒この人間の生の反理性的な在り方の究極がエゴイズムである︒それではフ

ィヒテはエゴイズムをどのように理解していたのか︒そこで次にフィヒテのエゴイズム理解を確認したい︒

二フィヒテのエゴイズム理解

人類の地上的生は理性との連関においてのみ存立しうる︒しかし現代は︑理性の不在の時代︑理性がいかなる形態

においても現存しない時代である︒かかる時代において重視されるのは理性や人類ではなく︑個体である︒フィヒテは

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フィヒテのエゴイズム批判

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言う︒﹁理性は︑類の生として現れるある一つの生を相手にする︒もし理性が人間の生から取り去られるならば︑残 るのは個体性とその愛だけである﹂︵GAI/8,219︶︒理性との連関から切り離された人間の生に残されるのは﹁個体性 とその愛︵dieIndividualität,unddieLiebederselben︶﹂であり︑この場合の愛とは個体の自己愛である︒それでは個体

の自己愛とはいかなるものであるのか︒この個体の自己愛を十分に理解するためには︑人間の生に関するフィヒテの

対比︑すなわち理性に従った生と理性に反する生との対比を考慮する必要がある︒ここではまずこの対比から議論を

進めたい︒

フィヒテは﹃根本特徴﹄の﹁第三講﹂において︑理性との連関における人間の生を二つの種類に区分している︒

﹁理性的な生とは︑各人が類の中で自己を忘却し︑自らの生を全体の生に従わせ︑犠牲として捧げることである︒そ

れに対して︑没理性的な生とは︑各人が自己自身以外のことは何も考えず︑自己自身以外は何も愛さず︑自己自身に

関わり︑その生全体をただ自己自身の個体的な幸福に従わせることである﹂︵GAI/8,219f.︶︒﹁理性的な生﹂││

﹁理性に適った生﹂とも︑端的に﹁理性的生︵Vernunftleben︶﹂とも言われる││と︑﹁没理性的な︵vernunftlos︶生﹂

はいずれも︑理性との連関で見られた人間の生である︒理性的な生とは︑あくまで理性との連関のうちにとどまり︑

個体が類において自己を忘却することを本質とする︒それに対して没理性的生とは︑理性との連関を離れ︑自己自身

にのみ専心することを本質とする︒没理性的な生は︑類よりも個を優先するという点で︑﹁理性に反する︵vernunftwid-

rig︶生﹂とも言われる︒ここで考慮されるべきは︑自己忘却という事態である︒

理性的生は﹁人格的な生が類の生の中に置かれること︑もしくは他者のなかで自己を忘却すること﹂の内に存す

る︒﹁人格的な生﹂とは﹁類の生﹂と対置された人間の生であり︑すなわち個体の生である︒ところで﹃根本特徴﹄ フィヒテのエゴイズム批判

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では﹁人格的︵persönlich︶﹂と﹁個体的︵individuell︶﹂は同義的に用いられている︒フィヒテ自身︑﹁他者のなかで自

己を忘却すること﹂と言われる場合の﹁他者﹂とは﹁つねに人格的な個体性にとどまるような人格﹂ではなく︑﹁類﹂

として受け取られなければならない︑と注意している︒その上でフィヒテは︑特定の人格間で成立する﹁同情︵Sym-

pathie︶﹂︑﹁好意︵Wohlwollen︶﹂︑﹁愛︵Liebe︶﹂といったものを引き合いに出し︑それらはいずれも﹁より高次の生

︵dashöhereLeben︶﹂である理性的生に属するものではないことを強調している︒

﹁他人の苦痛を和らげ︑その喜びを分かち高めるようにと我々を駆り立てる同情や︑我々を友人や親類に結びつけ

る好意︑我々を夫や妻および子どもに惹きつけておく愛││しばしば自分の快適さや自分の満足をすべて犠牲にする

ことを伴う︑こういったものはすべて︑最も頑なで最もひどいエゴイズムでさえ一時的に打ち破り︑自分を広げ包括

する愛を展開させる︑理性本能の最初の静かな秘密の特徴である︒しかしこの愛は︑つねに個体的な人格のみを対象

とし︑一切の人格の区別なしに類として人間を包括するということからほど遠いものである﹂︵GAI/8,221︶︒

この引用において注意されるべきことが三点ある︒第一に︑苦痛や喜びのただ中にある他者への同情︑友人や親族

への好意︑夫婦もしくは親子間の愛は︑いずれも﹁理性本能の最初の静かな秘密の特徴︵dererstestilleundgeheime

ZugdesVernunftinstinkts︶﹂であるということ︒第二に︑理性本能は﹁最も頑なで最もひどいエゴイズム︵derhärteste undgröbsteEgoismus︶﹂でさえ一時的に打ち破るということ︒そして第三に︑理性本能は理性的生からは区別されな

ければならないということ︒続いて以上の三点について︑多少の解釈を加えてみたい︒まず第一点に関して言えば︑

特定の人格間の同情︑好意︑愛といったものは︑﹁理性本能の最初の静かで秘密の特徴﹂としては︑盲目的に働き︑

未だ明瞭な意識を伴っていない︒第二点に関して言えば︑そうした理性本能は︑それがエゴイズムを打ち破るかぎり

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フィヒテのエゴイズム批判

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において︑エゴイズムよりも根源的なものであると言える︒しかしその打倒は﹁一時的︵vorläufig︶﹂なものにすぎ

ず︑到底克服と言いうるものではない︒というのも︑エゴイズムは概念の力を用いて本能による理性支配から自らを

解放するからである︒さらに言えば︑理性的生は理性本能とは区別される﹁より高次の生﹂である以上︑エゴイズム

の克服に関して︑理性本能にはなしえない克服の仕方を有するということが想定される︒この理性的生によるエゴイ

ズムの克服の仕方を検討する前に︑エゴイズムそのものを規定しておく︒

理性本能によっては完全に打ち破られることのないエゴイズムとはいかなるものであるのか︒﹁第三講﹂では二つ

の種類の自己愛︑すなわち理性的生の自己愛と理性に反する生の自己愛が論じられている︒まずフィヒテは自己愛を

論じるにあたって︑生と愛との同一性から出発する︒﹁一切の生は︑自己自身に完全に満足し充足するものとして︑

自己享受である﹂︵GAI/8,222︶︒﹁自己享受︵Genußseinerselber︶﹂とは﹁自己自身への愛︵Liebezusichselber︶﹂で

ある︒理性的生もまた生である以上︑自己を愛さなければならない︒この理性的生の自己愛は︑﹁人間において合理

性性が滅却不可能であることが確かであるのと同様に﹂︑滅却不可能である︵GAI/8,222f.︶︒このようにフィヒテは あくまで理性との連関における生すなわち人類の生もしくは人間における﹁合理性性︵Vernunftmäßigkeit︶﹂の立場

に立って︑理性的生の自己愛の滅却不可能性を論じている︒

それに対して理性に反する生もまた自己自身を愛する︒理性に反する生の自己愛について︑フィヒテは﹁自分の怜

悧さの喜び﹂︑﹁自分の機敏さや公平さについての小心な高慢や虚栄﹂といった実例を挙げ︑かかる自己愛が日常的な

ものであることを指摘している︵GAI/8,223︶︒これらの実例に共通するのは︑いずれにおいても個体が自らの感性

的な存在の維持︑自己保存を追求しており︑しかも類の生よりも個体の人格的な生を優先しているということであ フィヒテのエゴイズム批判

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る︒この類よりも個体性を優先する自己愛がフィヒテにとってのエゴイズムである︒

生と愛の同一性という点では︑理性的生と理性に反する生は同一の構造を有する︒しかしフィヒテは﹁享受

︵Genuß︶﹂という点で︑理性的生は理性に反する生よりも優位性をもつと考えている︒フィヒテによれば︑理性的生 は︑それが表象されるだけで︑表象する者に尊敬と畏敬の念を惹き起こす︵GAI/8,223f.︶︒表象する者が﹁より善

い人﹂である場合には︑そうした尊敬に﹁静かで謙虚な自己反省﹂と﹁そうなりたいという秘かな憧憬﹂が結びつ

き︑その憧憬から﹁次第に︵allmählich︶﹂﹁より高次の生﹂が展開される︒さらに人が理性的生をただ単に表象する

のではなく︑実際に生きる場合︑﹁言い表しがたい享受﹂︑﹁その像の前では利己主義者が羨望の内で消えてしまうよ

うな享受﹂が溢れる︒フィヒテはこの理性的生の自己愛における享受︑理性的生を実際に生きること︑すなわち生の

﹁遂行︵Vollzug︶﹂における享受を﹁浄福︵Seligkeit︶﹂と称する︵GAI/8,224︶︒ここで注意されるべきは︑浄福とし ての享受の﹁言い表しがたさ︵Unaussprechlichkeit︶﹂である︒この言い表しがたさは︑フィヒテ自身が必ずしも強調

していないとはいえ︑二つの意味において受け取られるべきであると思われる︒第一には︑理性的生の遂行における

享受は︑同じ生の表象における享受との比較においてより強力ということである︒第二に︑理性的生の遂行における

享受は︑エゴイズムが惹き起こす享受との比較においてより強力ということである︒我々はここで︑理性的生の享受

の言い表しがたさを二つの意味において理解することによって︑理性に反する生に対する理性的生の優位性︑さらに

言えば︑理性に反する生の自己愛としてのエゴイズムに対する理性的生の自己愛の優位性を見出すことができるであ

ろう︒

以上の考察の結果︑エゴイズムとは理性に反する生の自己自身に対する愛であること︑このエゴイズムを克服する

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フィヒテのエゴイズム批判

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ためには︑理性的生を実際に生き︑かつ遂行し︑その自己愛を成就する必要があることが確認された︒我々は理性的生

によるエゴイズムの打倒の仕方を問うた︒その問いは今や次のように捉え直されなければならない︑すなわち︑理性

的生を遂行することはいかにして可能か︑と︒以降︑フィヒテのエゴイズム批判をめぐってこの問いを問題にしたい︒

三理性的生と宗教

理性的生はいかにして遂行されるか︒先に見たように︑理性的生の本質は個体が類の内で自己を犠牲にすること︑

個体の自己犠牲もしくは自己忘却の内に存する︒フィヒテは個体の自己犠牲の例として﹁英雄﹂を挙げ︑理性的生の

特徴を論じている︒英雄は自らの理念のために自らの生を犠牲にする︒英雄の行為とは自己犠牲的なものである︒そ

れでは英雄を自己犠牲的行為に駆り立てるものとは何か︒フィヒテは言う︑﹁名誉こそ英雄を魅了するものである﹂

︵GAI/8,231︶と︒ここでまず問題となるのは︑名誉とは何か︑ということである︒ フィヒテによれば︑名誉とは﹁英雄に労苦と危険を乗り越えさせるもの﹂︵GAI/8,231︶である︒その名誉を与え

るのは未来の世代である︒未来の世代は先行する世代のさまざまな行為に対して判断を下し︑賞賛に値する行為に対

して名誉を与える︒しかし英雄が自己犠牲的な行為を行うのは︑未来世代から与えられる名誉を期待してのことでは

ない︑とフィヒテは考える︒現在世代は未来世代から直接的に名誉を受け取ることはできない︒にもかかわらず名誉

が英雄を魅了するのは︑英雄の﹁心術︵Gesinnung︶﹂の中に次のような原理︑すなわち︑﹁彼の生は条件つきでのみ

彼にとって価値をもち︑人類全体の声が一致して︑彼の生に価値を付与しなければならないかぎりにおいて︑彼にと フィヒテのエゴイズム批判

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って耐えうるものとなるという原理﹂︵GAI/8,231︶が含まれているからである︒この場合の英雄の心術とはそれ自

身﹁類という思想﹂であり︑﹁個体を超える類としての思想の表明﹂であり︑﹁類のみが真の価値についての最終判断

をもつということの承認﹂である︵GAI/8,231︶︒従って英雄を魅了する名誉とはその本質においては﹁類という思 想︵derGedankederGattung︶﹂である︒

ここで考慮しなければならないのは︑思想が英雄を魅了する︑ということである︒﹃根本特徴﹄では思想は﹁理念

︵Idee︶﹂と同一視されるとともに︑理性本能からの解放のために個体が有する道具としての﹁概念﹂から区別され

る︒解放のための道具としての概念とは︑﹁机や椅子の観念﹂といった経験的に知られうるものに関わる概念であ

り︑﹁経験的な概念︵empirischerBegriff︶﹂とも呼ばれる︒フィヒテは経験的概念と理念の相違について次のように言

及している︒﹁私たちは明確に︑経験の途上でもっぱら感性的な人間の悟性に関わる概念と︑一切の経験なしに︑精

神を吹き込まれた者のうちで︑それ自身において自立的な生によって発生する理念を︑区別してきた﹂︵GAI/8,

246︶︒経験的観念は︑個体が自己を犠牲にすることなく︑自らの感性的存在を維持するために︑ただ﹁経験の途上 で﹂のみ調達されるものである︒しかし理念は︑個体を﹁魅了し︵begeistern︶﹂︑﹁精神を吹き込まれた者︵derBegei- sterte︶﹂にするという仕方で︑﹁一切の経験なしに﹂︑﹁それ自身において自立的な生﹂によって発生する︒明らかに ここでの﹁一切の経験なしに︵ohnealleErfahrung︶﹂という語と﹁自立的︵selbständig︶﹂という語は対応関係にあ

り︑ともに理念のアプリオリ性を際立たせている︒先に我々は︑理性に反する生に対する理性的生の優位性︑および

前者の自己愛としてのエゴイズムに対する後者の自己愛の優位性を確認した︒ここでは我々はその優位性の根拠を︑

理念のアプリオリ性に見出すことができるであろう︒個体をその感性的存在以上に力強く惹きつけ︑自己犠牲的な行

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フィヒテのエゴイズム批判

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為へと駆り立てるものとはアプリオリなものとしての理念である︒

理性的生とは︑個体の感性的存在よりも類という思想を優先する生であり︑個体の自己犠牲を通じて理念を実現す

る生である︒別様に言えば︑理性的生とは﹁個体を超えた︑人類としての思想の表明﹂であり︑思想をその表明へ

と︑また理念を現実態へともたらす﹁形式︵Form︶﹂である︒﹃根本特徴﹄の﹁第四講﹂では︑理性的生の﹁現存在

︵Dasein︶﹂が﹁唯一の理念の多様な諸形式﹂として主題化され︑﹁芸術﹂︑﹁人類の社会的諸関係﹂︑﹁学﹂︑﹁宗教﹂の

四つの形式が列挙されている︒以下においては︑その形式の中でも特に﹁最も包括的﹂とされる﹁宗教﹂を取り上げ

ることにしたい︒

フィヒテにとって宗教とは﹁最も包括的な︑一切を自己の内に受け入れ︑あくまで一切の心情にもたらされるべき

理念形式﹂︑﹁一切の活動態と一切の生の︑直接的に感受される唯一の生の源泉である神性への意識的な流入﹂である

︵GAI/8,239︶︒宗教は︑それが人間における一切の活動態と一切の生をその唯一の源泉である神性へともたらすとい

う点で︑最も包括的な形式である︒このことは︑芸術︑社会的諸関係︑学といった他の形式は宗教によってのみ﹁唯

一の生の源泉︵dieEineUrquelledesLebens︶﹂としての﹁神性︵Gottheit︶﹂に関係づけられること︑従って宗教なし

には理性的生の現存在は成立不可能であることを意味する︒しかし宗教の独自性はそれだけではない︒宗教のみが神

性を直接的に感受する︒そのかぎりにおいて宗教がもたらす理性的生の自己愛もまた比類なきものとなる︒フィヒテ

は神性の﹁感受︵Empfindung︶﹂という意識について次のように述べている︒﹁この意識が自らに対してその直接態と

不動の確実態において明白となっており︑自余の知と思惟と感覚の一切が自分の魂となっている者︑その者は決して

曇らされることのない浄福を所有している﹂︵GAI/8,239︶︒この浄福が理性的生の自己愛であることは先に述べた︒ フィヒテのエゴイズム批判

― 1 4 ―

(16)

ここで注目されるべきは︑宗教によって成就される浄福が﹁決して曇らされることのない︵niezubetrübend︶﹂もの

である︑ということである︒

我々の問いはエゴイズムの克服の可能性への問いであった︒エゴイズムの克服の可能性は理性的生が現存在するど

うか︑現実に遂行されるかどうかにかかっている︒それゆえ我々はいかにして理性的生はいかにして遂行されるか︑

と問うたのである︒理性的生の先行段階である理性本能はその盲目性のゆえにエゴイズムを﹁一時的に﹂しか打ち破

ることができない︒それでは神性を直接的に感受する宗教の場合はどうであろうか︒宗教が﹁決して曇らされること

のない﹂浄福をもたらすのであれば︑すなわち︑その浄福が何ものによっても根絶不可能であるとすれば︑その浄福

を得た者はエゴイズムを完全に克服しているとみなしてよいであろう︒少なくともフィヒテはこの推論に依拠して

││より厳密に言えば︑宗教がもたらす浄福の根絶不可能性を前提にして││議論を展開している︒それゆえフィヒ

テに従えば︑我々は理性的生の遂行をめぐる問いを次のように先鋭化すべきである︒すなわち︑いかにして根絶不可

能な浄福は成就されるのか︑と︒

四真の宗教

エゴイズムすなわち理性に反する生の自己愛を克服するためには︑理性的生の自己愛が成就されなければならな

い︒その成就を可能にするのは宗教である︒﹃根本特徴﹄では︑最後の﹁第十六講﹂と﹁第十七講﹂において﹁真の

宗教﹂を論じている︒ここでは︑﹁真の宗教﹂の特徴づけを考察し︑浄福の成就の仕方を解明したい︒

― 1 5 ―

フィヒテのエゴイズム批判

(17)

フィヒテが宗教に﹁真の﹂という限定を付与するのは︑﹁単なる幸福論︵einebloßeGlückseligkeitslehre︶﹂︵GAI/8, 216︶に代表される非宗教と区別するためである︒真の宗教が幸福論と区別されるのは︑それが個体の感性的欲求の

充足としての幸福ではなく︑理性的生の自己愛の成就としての浄福を求めるからである

︒真の宗教は浄福を得るた

めに︑現象ではなく︑その根本に存する唯一の生の源泉の把握を目指す︒それゆえ真の宗教は生の源泉に関わるもの

という意味での﹁諸現象の本来的で究極的な根拠﹂とみなされる︒しかし真の宗教はこれまで必ずしもかかる根拠と

して意識的に考察されてこなかった︑とフィヒテは指摘する︒従来︑真の宗教は﹁諸現象の隠れた原理﹂︑﹁意識を欠

いた原理﹂として考察されてきた︒それに対して今日では真の宗教は﹁自己に依拠し︑自立的であるような存在﹂︑

﹁明瞭な意識において現れるもの﹂として考察されている︒この対比が指示しているのは︑今日すなわち現代におけ

る真の宗教は﹁隠れた原理﹂︑﹁意識を欠いた原理﹂という従来の有り方を何らかの仕方で脱しているという事実であ

る︒フィヒテはこの事実を評価するにあたって︑現代における支配的な原理に注目する︒

現代において支配的な原理とは宗教ではなく︑﹁単なる感性的な経験概念︵derbloßsinnlicheErfahrungsbegriff︶﹂で

ある︒経験概念によって概念把握されるだけが存在するとみなされるがために︑﹁宗教における一切の概念把握不可

能なものと秘密に満ちたもの﹂とそれに伴う﹁宗教的な事柄に関する盲目的な信心と従順﹂が廃棄されることにな

る︒ただし後者の廃棄に関しては︑それが﹁迷信の転落﹂であり︑自由による意識的な理性支配への移行を示すもの

として︑フィヒテは積極的に評価している︒﹁もしこの迷信の転落を宗教性の衰退だと嘆くならば︑表現が非常に間

違っており︑むしろ喜ぶべきこと︑我々の進歩の輝かしい証明を嘆くことになる﹂︵GAI/8,376︶︒感性的な経験概念

が宗教性の衰退を招くと考えることは誤解である︒なぜならば︑かかる経験概念が廃棄するのは迷信であって︑真の フィヒテのエゴイズム批判

― 1 6 ―

(18)

宗教ではないからである︒経験概念は迷信とは区別される宗教の可能性を否定することはできない︒たとえ迷信とと

もに宗教が見失われたとしても︑﹁宗教に対する感

!

Religiösi-SinniedoderReligion,iedfürderあ︵性教宗はいる !

tät︶﹂︵GAI/8,376︶は残るとフィヒテは考える︒宗教に対する感覚として挙げられるのは︑﹁同情﹂︑﹁慈善﹂︑﹁夫婦

間や親子間の自己犠牲的な睦み合い﹂などであり︑それらはいずれも﹁理性本能の最初の静かな秘密の特徴﹂と呼ば

れたものである︒そうした宗教に対する感覚が残るところには︑﹁宗教が意識にもたらされる可能性﹂が依然として

存在する︒宗教を意識にもたらすためには︑﹁宗教の真にして明瞭な概念﹂を活発にすればよい︒そうすれば人は必

ずその概念によって﹁心を

韵ergriffenにのような見方づ基︒いてフィヒテこうま教れ︵︶﹂︑宗へろと導かれるであは

﹁真の宗教﹂の概念を記述しようとする︒

宗教概念が最も明瞭な仕方で提示されるのは﹁第十七講﹂である︒そこでは宗教は根本的には次の二点において概

念的に規定される︒まず第一に宗教は思惟であること︑第二に宗教は﹁二重の洞察﹂であること︒

宗教は現象を超えた唯一の生の源泉に関わる︒その源泉は感性的なものではなく︑超感性的なものであり︑前述し

たように︑思想であり︑理念である︒それでは理念を把握する働きとはいかなるものか︒﹁手短に言えば︑単なる知

覚ではなく︑自己自身から発する思惟こそ︑宗教の第一の境位である﹂︵GAI/8,387︶︒宗教が﹁単なる知覚﹂から区

別されるのは︑理念が対象的に捉えられないからである︒英雄の場合に見られたように︑個体が理念において自己忘

却しつつ︑理念を直接的に生きるという仕方でしか︑理念は捉えられない︒従って理念が思惟によって捉えられると

すれば︑その思惟は理念へと自己犠牲的・自己否定的に没入し︑そこから翻って理念という源泉から発源する思惟で

なければならないであろう︒そのためにフィヒテは宗教を﹁自己自身から発する思惟︵Denkenaussichselber

― 1 7 ―

フィヒテのエゴイズム批判

(19)

heraus︶﹂と規定するのである︒しかし理念を直接的に生きる働きが思惟であるのは︑言い換えれば︑理念へと没入

する思惟がさらに理念から発源するのは︑思惟が概念把握の働きであり︑﹁として﹂という構造をもつからである︒

思惟は理念を一切の現象の﹁根拠︵Grund︶﹂と

!

!

Entwick-象︵開展﹁の念理の一唯を現概の切一たまに逆︑し握把念 !

lung︶﹂と

!

!

察生で完全に善い浄福なの源必然的展開として考的根概は念把握する︒﹁宗教︑の人が一切の生を唯一 !

し承認することに存する﹂︵GAI/8,387︶︒このように概念把握を通じて理念を直接的に生きる働きこそフィヒテの言 う﹁宗教的思惟︵dasreligiöseDenken︶﹂に他ならない︒ その上でフィヒテは宗教を﹁二重の洞察︵einedoppelteEinsicht︶﹂と規定し︑宗教概念について次のように総括す

る︒

﹁要約︒││宗教的な見解においては︑端的に︑時間上の一切の現象は︑唯一のそれ自身において浄福で神的な根

本的生の必然的展開として洞察され︑従って各々の個々の現象は︑時間上のより高次でより完全な︑その現象から発

生すべきある一つの生の必然的な制約として洞察される︒ところでこの一切の時間を通じて唯一の︑永遠に同一であ

りつづける洞察はそれ自身︑形式の上ではやはり相違しており︑二重の洞察である︒すなわち︑時間上で現象する一

切の生はただ唯一の生の展開でのみありうるという事実が︑ただ一般的に洞察されるか︑⁝⁝あるいは︑第二の場合

には︑それどころか︑探求された現象がいかにして︑いかなる仕方である一層高次の生の展開であるのかということ

が概念把握され︑理解されもするかのどちらかである﹂︵GAI/8,388︶︒ ここで言われる二重の洞察という規定を十分に理解するためには︑﹁宗教的な者︵derReligiose︶﹂のことを考えれ

ばよい︒宗教的な者は一切の現象する生が唯一の浄福なる生の展開であるという﹁事実︵Daß︶﹂を洞察しており︑ フィヒテのエゴイズム批判

― 1 8 ―

(20)

言い換えれば︑その事実を生きている︒それと同時に宗教的な者は︑現象する生がいかにして浄福な生の展開として 存在するかという﹁仕方︵Wie︶﹂を洞察しており︑言い換えれば︑﹁眼前の現象﹂をそれに後続する﹁一定のより善

いものの必然的な根拠﹂として概念把握している︒この二重の洞察のうち︑一方の事実への洞察はそれ自身﹁理性宗

教︵Vernunftreligion︶﹂と称される︒というのも︑その洞察は﹁仕方についての理解を欠いた︑事実の単なる聴き取 り︵bloßesVernehmendesDaß,ohneVerstehendesWie︶﹂だからである︒それに対してもう一方の仕方への洞察は︑ それが理性宗教にはない﹁仕方についての理解﹂であるという点で︑﹁悟性宗教︵Verstandesreligion︶﹂と称される︒

さらにこの理性宗教と悟性宗教についてフィヒテは次のような補足説明を加えている︒両者は﹁宗教の全領域﹂を

包括するとされる︒理性宗教は宗教の領域の﹁両極端﹂を︑悟性宗教は﹁その中間に存するもの﹂を包括する︒﹁人

間の各個体と各々の特殊な運命﹂が﹁宗教の領域の最

!

!

しすにかいに泉源の生ちわな﹂極のもるな遠永のてしと点 !

て関係するか︑あるいはまた﹁人類の現在の最初の生﹂が﹁同じ領域の最

!

!

のお生の々諸るけに極来将のてしと点 !

無限の系列﹂にいかにして関係するかは︑宗教的な者といえども概念把握することはできない︒しかし宗教的な者は

﹁﹇人間の各個体と人類の現在の最初の生という﹈両者が全体として善いものであり︑最も完全な生にとってどこまで

も必然的なものであるという事

!

すのは宗教の領域二現つの極点に関係象の﹂の︑すなわち人間各切個体を含めた一 !

るかぎりで善いものであるという事実を洞察する︒これが﹁仕方についての理解を欠いた︑事実の単なる聴き取り﹂

である︒それに対して﹁それだけで単独に︑他の生との関係なしに︑つまり個体の生としてではなく︑類の生として

思惟された︑人類の最初の地上的生が意味するもの﹂は﹁かの宗教的領域の中間的な諸領域﹂として概念把握され︑

また﹁この地上的生の必然的な各時期が全体にどのように関わり︑全体の中で何を意図するのかということ﹂は概念

― 1 9 ―

フィヒテのエゴイズム批判

(21)

把握される︒このような概念把握もしくは﹁仕方についての理解﹂が悟性宗教と呼ばれるものであり︑﹃根本特徴﹄

の課題とされた﹁現代の哲学的描写﹂もまたこの悟性宗教に属する︒

さてここで注意されるべきことがある︒それは︑理性宗教と悟性宗教は二重の洞察であるとはいえ︑唯一同一の洞

察であり︑従ってまた両者は二者択一の関係にあるのではなく︑不可分離的な関係にあるということである︒少なく

ともフィヒテは︑真の宗教がその本質を理性宗教と悟性宗教との不可分離性の内に有するかぎりにおいて︑エゴイズ

ムを完全に克服することができると考えている︒というのも︑仮に宗教が単なる事実の聴き取りにのみ終始し︑人類

の生の各時期を全体との関係において理解することを欠くとすれば︑人類の生がエゴイズムを超えて自由による理性

支配を目指すことは不可能となるからである︒むしろエゴイズムが一時的に打ち破られるだけではなく︑完全に克服

されるべきであるとすれば︑宗教は一切の現象的生が唯一の浄福なる生の展開であるという事実を聴き取る理性的

︵vernünftig︶なものであると同時に︑人類の地上的生の各時代を自由による理性支配のための必然的な時期として理 解する悟性的︵verständig︶なものでなければならない︒この点において我々はフィヒテとともに宗教概念の明確化

を成し遂げると同時に︑真の宗教についてのある一つの解釈の可能性を獲得することになる︒それは︑理性的である

と同時に悟性的である真の宗教を︑﹁理性本能からの解放﹂と﹁自由による理性支配﹂との間に置かれた﹁理性の意

識﹂としての﹁理性学﹂との根源的な構造連関もしくは同一性において解釈するという可能性である︒ フィヒテのエゴイズム批判

― 2 0 ―

(22)

結び

エゴイズムとは理性に反する生の自己愛である︒このように理解されたエゴイズムに対するフィヒテの批判を検討

することによって︑我々は本論において以下のことを解明した︒

!成的上地の類人るれさ形理ていおに関連のと性生

は︑本能による盲目的な理性支配から自己を解放し︑自由による意識的な理性支配を目指すものであるということ︑

しかし本能からの解放の時期に当たる現代は理性と生の連関が見失われた理性不在の時代にとどまるということ︒

"

個体が経験的に獲得する感性的な経験概念が解放の道具とされるがために︑現代では類よりも個体を優先する理性に

反する生とその自己愛であるエゴイズムが支配的であるということ︒

#愛りよムズイゴエは己し自の生的性理しかも

強力な仕方で個体を魅了し︑かつ個体を人類の生における自己犠牲的行為へと駆り立てるものであり︑特に浄福とし

ての理性的生の根絶不可能な自己愛は真の宗教によって成就されるということ︒

$真の宗教とは理念もしくは思想と

しての人類の生へと自己否定的に関係する思惟であり︑しかも浄福なる生という事実とその生の展開の仕方を理性的

︱悟性的に洞察する二重の洞察であり︑またかかる宗教によってのみエゴイズムは完全に克服とされるということ︒

宗教によってエゴイズムが克服されることは︑理性に反する生の自己愛としてのエゴイズムと理性的生の自己愛と

しての浄福︵それを成就する宗教︶という対置︑および浄福の根絶不可能性を考慮するならば︑必然的であるように

思われる︒しかしこの必然性は浄福なる生という事実を聴き取る者にとって妥当するにすぎないのではないか︒フィ

ヒテ自身︑誰もが浄福に得ることができるにもかかわらず︑実際に浄福に得る者がごく僅かであることを認めてい

― 2 1 ―

フィヒテのエゴイズム批判

(23)

のの可能性︑すなわち真宗解教と理性学をその根源釈た︒いかかる事態を念頭に置たし上で︑本論の最後で示的

な構造連関もしくは同一性において解釈するという可能性についてもう一度言及しておきたい︒というのも︑理性学

とは﹁理性が普遍的に人類の中に入ってくる形態﹂︵vgl.,GAI/8,243︶︑つまり一切の現象的生をその根源へと普

!

!

!

しの視することが許されるで同あれば︑我々は学を介一を通あ路づけるものだからでる学︒もし真の宗教と理性 !

て浄福なる生へと至る道を模索することもできるであろう︒反対に真の宗教と理性学が区別されるべきならば︑真の

宗教はそれ自身何らかの仕方で宗教的ではない者に対して浄福という事実を伝達する方法を確保しなければならない

であろう︒この見通しに対する批判的検討は︑﹃根本特徴﹄に後続し︑同時期の﹁通俗的教説の全体﹂の﹁頂点にし

て最も明るい光点﹂

い学の構造連関につて教の考察を必要とすと宗とる称される﹃浄福な生るへの導き﹄における

がゆえに︑稿を改めて論じることにしたい︒

フィヒテからの引用は以下の版に従った︒引用に際しては︑主として本文中に︑略号︑系列数・巻数︑頁数の順に記した︒

Jo h an n Go ttlieb F ich te, Ge sa mt aus gabe de r B ey er is ch en Ak ade mi e d er Wi ss en sc haf te n, hr sg . von R. La ut h, H. Ja co b und H. Gl iw itz ky,

St ut tg ar t- Ba d C anns ta tt 1962 ff .

GA

︶ 盧

I. Kan t, Ant h ropol ogi e in p ragmat is ch er Hi ns ic ht , 1798, in : Ka n ts G esa mmelte S ch riften , hr sg . von de r K öni gl ic h P re us is ch en

Aka d em ie de r W is se ns ch af te n, Be rli n 1902 ff ., B d. VI I, S. 130.

F. H. Ja cobi , Ja cobi an Fi ch te , 1799, in : Werke. Ge sa mt au sg ab e, hr sg . von K. Ha mma che r und W . Ja es chke , H am bur g/ St ut tg ar t- Ba d

Ca nns ta tt 1998 ff ., B d. II /1, S. 219.

Fichte, Di e G rundz üge de s g eg en wär tig en Ze ita lte rs , 1804/ 5, GA I/8, 189−396.

ヤンケはこの第三期としての現代がもつ否定的な諸特徴を︑同時代人であるノヴァーリスの﹃夜の讃歌︵

Hymnen an die

フィヒテのエゴイズム批判

― 2 2 ―

(24)

Nac h t

︶﹄やヘルダーリンの﹁悲歌︵

Ele g ie

︶﹂における歴史理解との親近性において論じている︒

Vgl., W .J an k e,F ich te, No v alis, H ö ld erlin : d ie Nach t d es g eg en w ärtig en Zeitalters, in : Fich te-S tu d ien 12

1997

,S .1 − 2 6 .

幸福論と宗教の区別に関して︑フィヒテは﹃根本特徴﹄以前にもしばしば言及している︒代表的なものとしては無神論論争

期の論文﹁公衆への訴え﹂が挙げられる︒

Vgl ., F ic ht e, Appe la tio n an d as Publ ikum, 1799, GA I/5, 439.

Vgl ., G A I/8 , 382.

Ders., Di e A nwe is ung zu m se lig en Le be n , 1806, GA I/9, 47.

― 2 3 ―

フィヒテのエゴイズム批判

参照

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