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日本における租税国家の形成と市民社会の問題

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(1)

目 次         1.はじめに          2.Schumpeterの租税国家論   3.日本における租税国家の成立 4.租税政策としての地租改正  5.産業政策としての殖産興業  6.結び       

1.はじめに

 本論の目的は二世紀以上の期間にわたって鎖国を続けた徳川幕藩体制に代ってグローバ ル・オープン体制を建設した明治国家秩序の論理性をヨーロッパ近代国家論と比較するこ とにある。

Josef A. Schumpeter

は第一次世界大戦末期、

1918

年に「租税国家の危機」

Die Krise des Steuerstaates

という論文を

Graz

社会学会発行の『社会学時事問題』に発表し た。ここで近代国家を「租税国家」

Steuerstaat

として規定した。封建秩序体制からどの ようにして近代国家が形成されたのか。そしてその危機とは何なのかということを論じ た。

 日本の

1868

年体制を租税国家体制として規定した時、徳川幕藩体制下で確立された鎖 国というクローズド・モデルの何が変わったのか。そして第二次世界大戦での国家崩壊は 必然的であったのか。戦後日本社会の世界史的特徴は何なのか。そのことを理解したい。

2.Schumpeter

の租税国家論

 Schumpeterは「租税国家の危機」で「財政社会学」Finanzsoziologieという学問範疇を 導入した1)。租税国家問題は財政社会学の領域に属するということである。国家機構は大 衆からの徴税権力の獲得によって成立する。租税額が国家機能遂行を可能にする。企業が

日本における租税国家の形成と市民社会の問題

東 條 隆 進

(2)

商品生産をして、その商品を販売して収益を確保し、商品生産にかかった費用

cost

を支 払うように、国家も租税を徴収して、国民の福祉

benefit

のための

cost

を支払う。

 その意味でいかなる国家の形成、運営においても当の国家の「予算」das Budgetは

「あらゆる粉飾的イデオロギーを脱ぎ捨てた骨格」である2)。alles täuschenden Ideologien

entkleidete Gerippe

である(Joseph A. Schumpeter, (1918), S. 4)。

 国家がどのような租税予算を組むことが許されるか。この予算にしたがって国家の義務 を遂行する。租税─国家機能遂行─決算。このサイクルが問題の鍵である。その意味で、

「あらゆる国家の財政史

die Finanzgeschichte

は「国家」jedes Volkesの歴史一般の本質的 部分である。」国民の運命に対する巨大な影響は、国家需要が強いる「経済的瀉血」

wirtschaftlichen Aderlaß

と、その瀉血がどのように支弁されるかという方法如何による。

 「財政史の告げる報知を聞くことができるものは、何処よりもはっきりと、そこに世界 史の轟きを聞くのである。」Wer ihre Botschaft zu hören versteht, der hört da deutlicher als

irgendwo den Donner der Weltgescichte.

(Joseph A. Schumpeter, (1918), SS. 4─5)

 財政史は社会的存在、生成、諸国民の機動的要因に関し、また具体的状態、とくに組織 形式の生成消滅する様式に関し、本質的洞察を与える。財政は社会的機構、政治的機構を 解明する最良の分析形態である。国家の本質、そしてその運命は財政的側面から理解され る。

 Schumpeterは「近代の租税国家」Der moderne Steuerstaatというものが先行者として の封建団体

das Feudalverbandes

の危機から生じたものであるという。

 Schumpeterの分析の中心であるドイツとオーストリアでは近代の租税国家は古代の

「租税国家」に根差しているのではなく、

14

世紀から

16

世紀にいたる帝国(

das Reichs

) と領主領邦(dir Fürstenterritorien)との関係から発生したとする。領主は三十年戦争以 前は領地の無条件の支配者ではなかった。等族(

die Stände

)は地方領主に対抗して自己 の権力と自己の権利にもとづく強固な地位を占めていた。等族は種々の範疇の貴族、それ より低い程度で僧侶、それよりいっそう低い程度で都市の市民、そして自由農民から構成 されていた。等族の地位は領主的地位と本質を等しくし、本質的に同じ認可にもとづいて いた。領主とは公爵、伯爵、代官、采邑授与者、荘園主などの権利の総計であった。国主

(der Landes Herr)も最初は同列中の首位(primus inter pares)にすぎなかった。

 しかし国主の皇帝と帝国にたいする封建法上の従属性が弱くなり、反面、特殊権限にも とづく領地貴族の服従関係は増大し国主的権利は「地方高権」(Landeshoheit)となって いく。この地方高権こそが近代国家権力の萌芽の一つであった。領主は事実の論理を盾と し、ローマ法学的見解を助けとして、国家権力にふさわしい態度と言葉使いを採用した。

しかしそれはまだ今日的意味での国家権力ではなかった。今日的意味での公共領域

persona publica

と私的領域

persona privata

の区別はなかった。それは家産制

patrimonium

(3)

であった。戦争費用は特殊な権原、家臣の出征義務に頼った領主的財政管理は領主の所有 地からの収入、家臣である荘園農民からの貢物、13世紀以来貨幣地代になっていた。13世 紀から

16

世紀までの世襲領地の経営法の改革

der Reform der Verwaltung des Domaniums

それに造幣特権、市場特権、関税特権、鉱山特権、ユダヤ人保護特権が加わり、さらに裁 判収入、都市収入、代官収入、封建家臣の貢納物品、教会からの納付が財政問題の中心で あった。しかしこれはいかなる意味でも近代的意味での国家の一般的徴収権としての「租 税」Steuerではなかった。

 歴史家が問題にする宮廷浪費

höfische Verschwendung

がある。国主は反抗的な地方貴 族を宮廷政治に包摂しなければならず、地方貴族を宮廷官僚に登用し、官僚化、軍人貴族 化を進めざるを得なかった。封建関係の靭帯が弛緩し始めるや否や、領主が下級等族の利 害に反して土地を獲得しようとし、宮廷官職を保障しなければならなくなった。

 しかし決定的に重要な原因は増大する戦争遂行費用の調達であった。傭兵軍隊の出現は 軍事技術の発達、火薬の発明による火器の軍事力として使用するという課題と戦争遂行技 術およびその費用調達を増大させたことも事実であった。しかしトルコとの戦争問題が決 定的であった。トルコとの戦争はそれまでの領主によって徴募された騎士軍が貴族隊長の 指揮のもとで牡馬を駆って敵中に突入するといった戦闘を困難にさせた。大戦争を遂行す るには封建的徴募軍は数において不十分であった。莫大な数の傭兵にたよらざるをえなか った。そしてそれによって生じた財政的困難であった。15世紀頃、ケルン選挙市の経常 収入はライン貨

11

1000

グルデン、マインツ選挙市の経常収入は

8

万グルデン、ブラン デンブルクの経常収入は

4

万グルデンであった。

 ハプスブルグ家はオーストリア世襲領から

30

万グルデンを収得していた。この収入合 計をもってしても年

6000

の歩兵、または

2500

の武装騎兵を雇用しえたにすぎない。当時 のトルコ王宮が派遣できた

25

万のトルコ軍に立ち向かうために、領主に許されたのは

6000

の歩兵、または

2500

の騎兵であった。

 「ここにわれわれの理解する財政〈制度〉の危機、すなわち、深刻な、いかんともなし がたき社会的変化の結果としての、明白で、必然的、永続的な機能停止が範疇的明白さで 存在する。」(Schumpeter, (1918), S. 14, 訳23ページ)

 「地方領主は、彼のなし得るところのもの、すなわち、借金を作ったのである。」まもな く、それが行きづまると、かれは自己の等族に頼み込んだ。かれはこのようなことを要求 する何の権利も有しないことを認め、この懇願を承諾しても、等族の諸権利が何等侵害さ れ な い 旨 を 宣 言 し、 二 度 と 再 び 懇 願 し な い こ と を 約 束 し た。 こ れ が「 無 侵 害 状 」

Schadlosbrief

の内容であって、イギリスにおける「大憲章」Magna Chartaが持つ地位で

あった。

 領主は自己の無力を指摘し、トルコ戦争ごときが、単にかれの個人的な事項にあらざる

(4)

こと、すなわち「共同の困難」gemeine Notなることを指摘した。そして、等族も、この ことに反対しなかった。かれらが承認したその瞬間に一つの事態、すなわち租税は徴収し ないという紙の保障を、寸断しなければならなかった事態が、是認せられたのであって、

そこでは、全個性を超個的な目的体系につないでいた旧い諸形式が死滅した。そしてすべ ての家族にとって個人経済というものが、その存在の中心点となって、そこに私的な領域 が基礎付けられ、それに対して、いまや「公的な領域が、何か別のものとして、対立する こととなった。「共同の困難」から国家が生まれたのである。」(Schumpeter, (1918), S. 14, 訳

24ページ)

 近代ヨーロッパにおける「租税」Steuerと「国家」Staatは、「『租税国家』Steuerstaat という表現が、ほとんど重複語ともおもわれるほど、深く国家と関連するのである。」3)

(Scumpeter, (1918), S. 21, 訳34ページ)

3.日本における租税国家の成立

 日本においてはどうであろうか。7世紀に律令体制が形成され、戦国時代を経過して

17

世紀徳川幕藩体制が封建秩序体制として形成され、1868年に「王政復古の大号令」が発 布された。その内容は徳川慶喜の大政返上および将軍職辞退の許容、摂政・関白および幕 府の廃絶とそれに代わる総裁・議定・参与の三職の設置、施政の根本方針を「諸事神武創 業の始に原

もと

づき、晉紳・部弁・堂上・地下の区別なく、至當の公議を■

つく

し、天下と休戚を 同

おなじくあそばするべし

可 疲 遊 」においた。王政復古のクーデターに参加した五藩の武家と、倒幕派公卿の掌 握する公家との協力政権であった。

 王政復古の大号令の前文は次のごとくであった。

 「徳川内府従前御委任大政治返上、将軍職辞退の両條、今般斷然被聞食候。抑癸丑以来、

未曾有の国難、先帝頻年被悩宸襟候御次第、衆庶の所知に候。依之被決叡慮、王政復古、

国維挽囘の御基被為立候間、自今攝關・幕府等廢絶、即今先假りに、總裁・議定・參與の 三職を置れ、萬機可被為行、諸事神武創業の始めに原つき

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

、搢紳

4 4

・武弁

4 4

・堂上

4 4

・地下の別

4 4 4 4

なく

4 4

、至當の公議を竭し

4 4 4 4 4 4 4 4

、天下と休戚を同可被遊叡念に付

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

、各勉勵、舊来驕惰の汚習を洗 ひ、盡忠報國の誠を以て可致奉公候事。」(『維新史』第五巻、第十八編第二章第二節、『明治維新』

遠山茂樹、233ページ)

 明治元年

3

14

日、五箇條の誓文によって「国威宣場の宸翰」を発して新政の基本綱 領として内に公議輿論、外に開国和親にある五箇条の国是の順守を天皇・公卿・諸侯が宣 誓した。公議輿論によって列侯会議によって官武一途、庶民に至る迄、各其志を遂げる事 によって、朝廷(公卿)と諸侯が一体となって、天下の政治を行うという点を眼目とし た。「庶民志を遂げ」、「士民を一つにして、盛んに経論を行うを要す」として財政的見地

(5)

から豪商豪農層の政治的発言を許容した。由利公正は朝廷の財政的責任者として、会計基 立金

300

万両の募債と金札の発行を計画していた。

 明治政府は

1868

年五箇条の誓文によって幕府によって権力が遂行されるのでなく、日 本国民全体の世論によって国家の利益のために国政を遂行するという意思表明をした。

1869

年の版籍奉還と

1871

年藩の廃止によって国家主義的中央集権体制が確立した。そし て大知行取たる諸侯に従来の収入の代わりに公債を与え、経済的存立を保証した。農民か ら年貢を徴収する土地所有的権利を秩禄処分によって財産を銀行、株式、産業、土地、不 動産といった企業へと投資することになった。1869年政府は諸侯にその禄高の半ばを支 給することを承認した。

 版籍奉還によって政府は一方で譲歩しつつ他方で封建的な特権と束縛の城塞を掘崩しな がら、封建制度のもっとも有力な信奉者である諸侯からの中立を確保した。1869年諸侯 にその正規の禄高の半ばを支給することを承認した。

 封建領主は農民から年貢を徴収する土地所有的権力者であることを止め、秩禄処分によ って、新たに資本化された富を銀行、株式、産業、土地、不動産に投資し、こうする事に よって金融的権力者になった4)

 しかし政府は財政上過大の負担を負い、封建領主の手に領主の支配権を残し、これに加 えて中央政府から一定の金額を引き出すような解決の仕方は明治政府が努力しつつあった 近代国家建設の理念に反する状態であった。1873年自発的家禄奉還の発令によって最終 的妥協が図られた。

1876

年最後的改正賜金計画に基づき公債利率および償還時の一時金 額が決定された。

 そして朝廷に全権力が集中する政府機構を確立していく。近代的立憲君主制を古代律令 家産官僚秩序で形成することになる。古代的国家理念で未来の国家秩序を形成する試みで ある。

 五箇条の誓文の方針を閏四月に政体書として発布した。中央政府たる太政官、議政・行 政・神祇・会計・軍務・外国・刑法の七官よりなり、議政官は立法権を、行政以下五官は 行政権を、刑法官は司法権を分掌した。国家的中央集権体制として明治国家秩序を構築す る事を最大の目的とした。

 すでに遠山茂樹は次のように述べた。「それは十四・五世紀のヨーロッパに現れた、等 族会議(エタ・ジェネロウ)をもつ身分制国家(純粋封建国家から絶対主義国家への過渡 的形態である)に比せられるべきものであったともいえよう。

 ただわが国においては、封建家臣団および都市大商人層の、封建君主への対抗権の未成 長のために(前者はヨーロッパの封建的主従関係が本来もった、かなり濃い相互契約的性 格を、わが封建性が、なかんずく江戸時代のそれが持つ事のできなかったことに由来し て、究極において下からの力の弱さにもとづくのだが)、維新政権は、かの身分制王政よ

(6)

り、より一層純粋封建的性格のつよい、したがってそれにまつわる古代的性格すら残存 し、ないし復活せしめられている種類のものでもあった。」(遠山茂樹『明治維新』岩波全書、

231ページ)

 16世紀以降、ヨーロッパでは

1588

年スペイン無敵艦隊がイギリス海軍によって壊滅的 打撃を受け、イギリスがフランスと対決しながら巨大な大国への歩みを開始し、1688年 の

The Glorious Revolution

を経て市民社会

Civil Society

を形成し、Adam Smithによって

Commercial Society

の道を開始し、1750年代以降

Industrial Revolution

を遂行していく。

 フランスもイギリス長期議会闘争に遅れること

150

年、The Glorious Revolutionに遅れ ること

100

年を経てフランス革命を遂行する。しかしその内実はナポレオン的軍事帝国的 性格をもつ「市民社会」であった。そしてイギリスとフランスは世界の覇権を賭けてアジ アに進出した。そこに

19

世紀中央集権国家形態を整えたプロシャ国家が世界覇権闘争に 加わる。さらにアメリカ合衆国も黒船によって日本の封建秩序を危機に陥れていった。

 諸事神武創業に基づくという理念で出発した明治政府はどのような国家モデルを形成す るかという政治的課題に直面し不平等条約改正のための「岩倉使節団」を派遣して西欧諸 国のモデル捜しをし、大久保利通の政官誘導政策が中心にくる。「富国強兵」「殖産興業」

政策である。この政策を遂行する為の「財政」政策をどうするか。租税の運用によって国 家政策を遂行するという機能国家体制が必要になる。財政問題、したがって租税政策が生 命線になる5)

4.租税政策としての地租改正

 戊辰戦没の終結は、明治政権の転換期であった。戊辰戦役の勝者たる諸藩は膨張した軍 事力を抱え、政府は兵権の朝廷への統一を図った。維新兵乱の軍事費増大によって貢租負 担が増大した農村は農民一揆の危険度を増大させていった。版籍奉還が

1869

年奉還建白 書となり、廃藩置県への道を早めた。政府の命によって諸藩が申請した藩債総額は

7813

2000

円であり、もはや軍事費の上でも、殖産興業費・封禄費でも自給体制を敷くこと はできない状態であった。

 政府は国力の発展を「下よりの開化に馳せ」る人民の進歩に期待し、「人民の為の政 府」、「人民の休養を顧み」る政治たらしめようとした。政府は憲法制定調査を始め、フラ ンス流民法の翻訳的移植に着手した。

 明治

5

年以降、地租改正令・徴兵令・学制の発布を遂行する。地租改正は「朝旨のほ ど、深く人民に会得為仕度候間」の勅語をもって頒布された。地租改正が田畑勝手作の許 可、土地永代売買の解禁、農業の傍ら商業を営むことの容認、土地売買の公認によって地 価による税額の決定、土地収益を基礎として地価を産出し、その地価を課税標準とする、

(7)

租税政策の中心になる。当分の間、地租は地価の百分の三とし、豊凶作にかかわらず増減 しない。地租は本来であれば地価の

1

パーセント程度が適当と思われるので、今後は、物 品税収入が増加すれば、1パーセントまで減租を実施する。地券の交付による土地所有者 としての地租納入義務者を確定する。地租負担者は、地券を交付された土地所有者とし、

その収納形態はすべて貨幣に統一する。

 地租改正によって、1、従来は土地の石高、すなわち公定収穫量を基準として課税した のにたいし、以後はすべて収益価格としての地価に応じて課税することに改め、2、税率 一律に地価百分の三に統一し、3、納税はすべて金納制にした。

 封建体制の根本的改変が必要となる。土地の石高、公定収穫量を基準として課税してい たものを土地の収益価格としての地価に応じて課税するということ、納税を金納制にする ということは国土全体を土地商品化し、貨幣市場化するということを意味する6)。  政府が国家および国民の土地を商業社会化し、市場化させるということを意味する。租 税国家化するためには土地私有制度・土地所有権法の確立が必要である。封建的政治体制 から市民社会への転換が必要になる。維新政府は個人の身分的隷属、経済的自由権の欠如 等、封建的諸制限を撤廃していく。

 明治初年に一連の身分制度の改廃が実施されていったが、一般に「四民平等」政策と呼 ばれた。

1870

年の平民への苗字使用許可、

71

年、旅行の自由、華士族、平民間の通婚許 可、穢多・非人の称の廃止、宗門人別帳の廃止、華士族職業選択の自由、72年、人身売 買禁止、

76

年、廃刀令が実施された。

 他方で

68

年、株仲間の廃止、関所の廃止、農民・町人の土地所有許可。69年、津留め の禁止。

71

年、田畑勝手作の許可。

72

年、土地永代売買解禁、助郷の廃止、農民職業選 択の自由、が保障された。このようにして経済活動の自由と所有権の保障がなされた。

 このような政府による「四民社会」が果たして

17

世紀イギリスで展開された「市民社 会」Civil Societyと同じものであったか。イギリス市民社会は

17

世紀の議会闘争として の市民革命を遂行し、

1688

The Glorious Revolution

を成功させていった。租税権も市 民階級が議会闘争のなかで確立していった。明治政府の国家権力で遂行された「四民社 会」は近代的市民社会と性格を異にするものであった。

 72年政府は壬申地券を発行する。「地券渡方規則」は「地券ハ地主タルノ確証」と宣言 し、土地の売買、譲渡ならびに地券を発行する旨を達した。同年

7

月、その旨を徹底させ るために、地券充実が図られ、売買、譲渡に限らず、全国の土地所有者のすべてに地券を 発行し、その所有権を保障する体制が整備された。壬申地券記載の反別は実施調査の結果 による数値ではなく、「高反別帳」「検地帳」「名寄帳」等、旧帳簿類によっていた。この ため地租改正の地押丈量調査が進められた。72年

9

月政府は「地価取調規則」を府県に 達し、具体的な地価算定方法を指示した。それまでの売買地価主義を否定して、土地生産

(8)

力=収益を基準として地価を決定するという法定地価主義の立場を取り入れた。

 その算定方法は、貢租と作徳とをあわせて租収入を調査し、ここから種肥代を控除して 純収益を算定する。そして純収入を

10

パーセントの利子率で資本還元したものを地価と するというものであった。

 地租改正関係の諸法令は

83

5

月大蔵省主催の地方官会同における地租改正法案の審 議・可決、6月の田畑石高の称の廃止を経て、7月、太政官布告第二七二号、地租改正条 例、地租改正規則、地方官心得として公布された2)

 「租税ハ……、従前其法一ナラズ、寛荷軽重率ネ其平ヲ得ス。……之ヲ公平画一ニ期セシ メ地租改正ヲ頒布ス。庶幾クハ賦に厚薄ノ弊ナク、民ニ労逸ノ遍ナカラシメ」と述べ、太 政官布告は「旧来田畑貢納ノ法ハ悉皆相廃シ、更ニ地券調査相済次第土地の代価ニ随ヒ百 分ノ三ヲ以テ地租と可相定」と論じ、旧来の石高制の実施による錯綜した土地税制に代え うる新税制の実施を宣言した(佐々木寛司(1989)、56〜57ページ)

 土地収益に基づいて地価を算定し、その

3

パーセントを地租として徴収するに当たって は、その前提として各個別地片の土地所有者を決定すると同時に、その所有権の及ぶ範 囲、その境界、地番、地目、面積などを調査する地押丈量を実施し、そののち、地価算定 上の諸要素たる収穫高、穀価、控除項目、利子率などを具体的数字として表す必要があ る。当初大蔵省租税寮にこの改正局が改組事業の一切を担当した。のちに、内務省が新設 され(73年)、大蔵省より勧業、戸籍、駅逓、土木、地理などの業務が移管され、土地と 租税に関する地租改正事業は、内務、大蔵両省が管轄することになった。

75

年地租改正 事務所が設置され、内務、大蔵両省の指導の改租事業全般が担当された。

 改租事業の直接の実施機関は各府県庁である。地方官と呼ばれる府県長官(府知事・県 令)があたる。府県庁組織には租税課があり、改租事業の実施に伴い、そのもとに地券 掛・地租改正掛りを設置して、地方官の総指揮のもとにその事業を担当した。地租改正当 時の地方行政区画は大区小区制と呼ばれ、府県のもとに大区、大区のもとに小区がおか れ、それぞれに官選の区長、戸長が配された。この区・戸長が末端の改租事業の取りまと め役である。そして小区のもとにいくつかの旧村が包含され、副戸長または用掛が置かれ た。この村が、改租調査の最小単位である。村段階の改租事業の指揮をとったのが、民選 による地租改正総代人である。かれらは官民の間に立って地租改正の趣旨を農民説得する とともに、掛官に対して土地の状況を説明し、改租下調べの事務を行い、その顧問となる ものであった。

 改租担当者による調査の中心作業は土地所有者を決定し、「土地ノ広狭ヲ量ルト落地或 イハ重複ノ地ナキヲ検スル」地押丈量と、地価調査である。

 個別地片の境界確定は村界の整理から始まった村の境界が定まると各個別地片の所有者 決定の仕事がある。旧帳簿類と所有者の申告とを照合しつつ、原則として旧貢租負担者に

(9)

土地の所有権が付与され、一地に対する二重の権利を廃除し、耕地の境界が整理された。

したがって一般の小作地については、その小作人にではなく地主に土地の所有権が帰属す ることになり、その確定作業は比較的に順調であったが、永小作と呼ばれる小作人の権利 が強大であった小作地の所有権の帰属決定は混乱がともなった。維新政府は小作料を徴収 している地主に所有権を認める方針であったが、永小作慣行は完全になくなることなく、

存続し続けることになった。

 地価の調査。地価は土地収益を基礎として産出されるが、「心得」によると自作地方式 を第一則、小作地方式を第二則として、収穫米・米価・種肥代・利子率の仕項目が地価算 定の際の諸要素としてあげられている。

 第一則に照らすと、田一反府歩の収穫米に米価を乗じて貨幣額に換算し、そこから必要 経費たる種肥代と、地租・村入費を控除して土地収益を産出し、それを一定の利子率で資 本還元して決定する。こうした一定の産出方式にしたがって地価をほ定する方法は、一般 に法定地価主義と呼ばれている。

 ところが「心得」には「土地の真価」は「幾回も売買シテ各人相競ヒ相カイヒルニ非サ レハ其実ヲ得難シ」との指摘や、「地価ヲ調理スルハ都テ旧来の貢額ニ拘ラス、銘銘実際 売買スヘキ見込ノ価格」を基準とせよとの指示もあった。売買地価主義である。この矛盾 は「地租改正法」を公布した政府が売買地価と法定価格が本質的に一致すると考えたから である。しかし地価算定方式による収益を基準として産出される地価と、売買に基づく地 価とが一致するというのは論理的判断ではなかった。まさに政治政策主義と市場主義の区 別がついていなかった。

 第二則は小作地方式である。小作料は収穫高の

68

パーセントとされていたが、この算 定は第一則の算定方式を基準にしていた。しかし現実小作料は地主と小作人との競争関係 を通して決定されるもので、土地の諸条件─経営の利益・不利益等が考慮されていること から、地価産出の準拠として確実性を持つとされていた。政府は「小作米は地価ヲ求ムル 標的」であり、小作地のみならず自作地の地価算定にも現実的であると見なしていた。

「心得」には売買地価主義と法定地価主義(第一則)と現実小作料と仮定小作料(第二則)

が混在していた。政府の「旧貢租額維持」という改組理念が破綻しつつあった。維新政府 は当初の適用として現実小作料に基づく第二則方式でなく、法定地価主義に立たざるを得 なくなる。

 改租理念は地租の徴収形態を金納に統一することである。旧来の貢租徴収の形態には、

米納、石代納などが錯綜していたために、統一国家としての租税体系を創出することが求 められた。この改組理念は、統一的な算定方式で産出される地価を課税標準として、その 統一性を確保しつつ、商品経済流通としての商業社会・市場経済に適合した金納制を実現 することであった。統一的な地租金納制である。

(10)

 地租改正は、土地と租税の両制度の改革を目指したものである。「地租改正法」公布時 は、土地と租税事務は、大蔵省の管掌に属したが、明治六年政変ののち、内務省が新設さ れ(73年)、大蔵省事務の多くを分掌することとなり、土地関係の業務は内務省に移管さ れた。その後改正局が新設され、内務・大蔵両省にわたる改組業務の担当部局を改正局に 統一し、事務の集中化が図られた。改組事業は中央の強力な指導下に全国一切に着手し、

76

年(明治

9

年)までに完了すべき事が通達された。

 改租推進は「地租改正法」公布以後の政局分離と大久保体制の成立に伴う反政府勢力の 台頭、台湾外延などの政治的混乱に起因した。征韓論争の政治的決着は、征韓派参議の下 野という政変(73年)になって政局分裂を惹き起こし、翌年に入り民撰議員設立建白書 による専制体制に対する批判を契機とする板垣退助らの自由民権運動の発生、江藤新平に よる佐賀の乱の勃発を招いた。75年大阪会議によって政局の安定をもたらし、その過程 で地租改正事務局が設置され、本格的に事業を推進することになった。

 明治国家の基本的財源はこのように地租が中心であった。すでにイギリスを中心とする 西欧諸国は国際貿易体制から生ずる関税、私的企業から徴収される租税が中心になってい た。その中で関税自主権が確立していない明治国家体制の租税機構がいかに脆弱であった か。国際貿易の担い手としての近代的株式企業が存在していない中で、企業からの租税負 担を得ることができない国家の租税機構がいかに貧困なものであらざるを得なかったかと いうことが明治維新以降の日本の「富国強兵」、否「強兵富国」政策を歪なものにしたか を嫌というほど思い知らされるようになる。

5

.産業政策としての殖産興業

1872

年(明治

5

年)

8

月の学問頒布は、徴兵令と並んで、廃藩置県後の開明的政策の核 心となるものであった。第一に義務教育制が取られた。「一般の人民─華士族農工商及 婦女子─必ず邑の不學の人なからしめん事を期す」として、従来の学問が武士以上の独 占物であった身分差別を否定した。四民平等の理念である。そして学問・教育の目的を

「身を立てる財本」「其産を治め、其業を昌にする」ことに置き「富国強兵」政策を実現す る事を目的とした。

 文明開化は内発的国民的精神を形成することによって純粋封建主義思想、尊王攘夷的名 分論からの脱却を試みつつも政府の富国強兵政策を貫徹しようとしたものであった。

 そして殖産興業によって「人民の職業を束縛する」ことが止められた。明治元年に発行 された商法大意によって株仲間の閉鎖性の打破と賣価の自由が謳われ、ついで

5・6

年に は各地で株仲間の解散が実現されていった。政府の通商司の指導の下に設置された通商会 社・為替会社が、株式会社の組織を模倣しながら

5

年に国立銀行条例が発布された。

(11)

 政府は大規模機械工業を移植するためには、私企業を育成するとともに直接官営企業を 経営する方針を立てた。3年閏

10

月の工部省設置、そのもとでの鉄道・電信・電話の施 設、各種模範工場の設営、鉱山の官業化など、軍事工業に重点を置く、重化学工業政策が 強力に推進された。

 明治政府は先進西洋諸国の機械技術と軍備に追いつくための競争機構であり、政治的・

経済的独立すらこれに賭けたのである。「われわれを清国の運命から救うには何がもっと も必要か。それは近代陸海軍だ。近代的武装兵力の創設と維持は何に依存するのか。主と して、重工業、機械工業、鉱山業、造船業、一口にいえば戦略的諸産業だ。」(Norman, E.

H., (1940), 訳157ページ)

 西洋の軍事工業を最初に移入した藩は薩摩、肥前、長州であった。最初の反射炉(カノ ン砲の製造に使用された)は

1850

年佐賀藩によって建設された。薩摩では砲の鑽孔機を 備えた工場が

1854

年に竣工し、二基の溶鉱炉が

1852

年に築造され、砲を備えた船舶が

1853

年から

1856

年にかけて六隻建造された。長州では製鉄所が

1854

年に建設され、

1857

年には船舶に砲を搭載し得る造船所が設けられた。1855年幕府は製鉄所の建設を開 始した。1857年幕府は一隻の汽船を建造し、フランス援助のもと横須賀製鉄所および造 船所を設立した。

 明治政府は徳川幕府の方針を継承し幕府の軍事施設を没収した。幕府の設立にかかる関 口製造所と称した東京砲兵工厰は

1870

年新政府が接収した。大阪砲兵工厰は、幕府の所 有であった長崎製鉄所から移転した機械で設立された。長崎造船所は政府所管になり、の ちに三菱に売却された。石川島造船所は、はじめ

1854

年水戸藩が建設し、のち幕府のも のとなり、ついで明治政府に帰し、のちに民間に払い下げられた。

 鉱山業も同じであった。政府はこれまで幕府および藩の運営していた鉱山すべてを没収 し、のちにその大部分を密接な関係にある財閥に払い下げられた。佐渡、三池、生野、高 島、阿仁、院内、釜石、中小坂、大葛および小坂の十鉱山は官営であったがすべて民業と して払い下げられていった。

 日本の産業革命は特異なものにならざるを得なかった。イギリスに開始した産業革命は 綿織物工業であった。国民生活の基本財の生産革命である。その次に鉄道革命が続いたの である。交通革命である。ドイツの産業革命が鉄道革命から始まり重化学工業革命へ進ん だが、日本の産業革命もイギリスに開始した綿織物工業の移植による軽工業革命と

1850

年代以降開始したドイツの鉄道革命から始まった重化学工業革命という二重革命の道を歩 むことになった。

 このような勧業政策の過程に、三井・三菱・島田・小野等の政商資本が成長を遂げてい った。三井が大政奉還以降、朝廷の為替方御用を勤め、戊辰戦役の戦費調達に積極的に努 力したことが、明治政府の下でも商法会所・商法省・通商省・為替会社・造幣寮等政府の

(12)

経済関係機関への参画、小野との共同での国立第一銀行の経営、最初の私立銀行三井銀行 の設立につながった。三菱は岩崎弥太郎によって設立され、佐賀の役、西南の役にその運 輸に当たって巨利を収め、全国の航運権を獲得した。

 1886年以降企業勃興の性格も極めて官僚的性格が強く、市民社会の担い手としての市 民的企業家層よりも国家官僚的精神構造をもつ国策企業、財閥企業として拡張していくこ とになった。

6.結び

 近代国家は租税国家としてのみその国家機能、国家神話

Deus ex Machina

を語り続け ることができる。日本も「大日本帝国」神話、「神風」の吹く国として世界史過程を走り つづける為には租税国家としての体制を確立する必要があった。しかしそのためにはイギ リスに始まった市民生活財としての羊毛生産と綿織物機械工業生産、それに蒸気機関と石 炭エネルギー革命、鉄道という交通革命が必要であった。ドイツのように

1850

年代いき なり鉄道交通革命に続く重化学工業化は産業革命の担い手としての市民階級、市民社会の 形成という基礎的社会インフラの形成を困難にさせた。日本も戦艦製造に主力を賭けるこ とから工業化を開始した事が第二次世界大戦までの戦争国家

Warfare State

としての運命 を支配したのであった。

 1) もともと「財政社会学」という領域はR. Goldscheid: Staatssozialismus oder Staatskapitalismus, 1917.に よ る。 こ の 概 念 に 三 つ の 学 問 体 系 が 集 約 さ れ て い る。 第 一 に「 資 本 制 的 生 産 過 程 」 Kapitalistiscer Produktionsprozess, kapitalistisce Form der Warenproduktionと い うK. Marxの『Das kapital』(Erster Band, S. 211)という意味での「資本」概念である。生産様式、生産過程の歴史的経済 存在形態特徴を規定する概念としてである。

 第二にCivil Societyにおけるbourgeoiscitoyenという概念の明確化の必要性である。Marx自身

Das kapital』の1872年フランス語版で Au citoyen Maurice La Châtre としてcitoyenという表現を 使ったが、ドイツ語版では An den Bürger Maurice La Châtre としてBürgerという語を使用した。

このBürgerbourgeoisとの関係が不明確であった。Marxpraktiscen Bourgeoisという表現を好ん だ(S. 28)。

 第三にpraktiscen BourgeoisStaatの関係が問題となった。Hegel的にDas System der Bedürfnisse としてbürgerliche Gesellschaftを規定しStaatDie selbstbewußte Vernünftigkeit und Sittlichkeitとし て規定するか、MarxのようにStaatは死滅すると規定するか。

 SchumpeterHegelMarxと違って、Staatというものを歴史的制度として把握し、近代国家を封 建領主階級の「共同の困難」を解決する為の上位機関として規定した。そしてその共同の困難を解決す るための「財政的」力の結集機関とみなした。Goldscheidの「Finanz Soziology」という概念体系はこ の意味で学問的に重要なのである。「租税」Steuerという範疇は単に政治的次元に属するものでなく、

経済的次元に属するものだけでもなく、社会科学全体に属する課題であるという認識である。

 2) 国家財政学は同時に国家会計学として規定する事も必要である。国家とイデオロギー、国家と神

(13)

話の問題を科学的に明確に確定する為には国家機構・制度・行政行為の貨幣的計算可能性が必要であ る。とくに国家の長期的動態会計の計画が必要である。産業革命以降の景気変動の動向に立った徴税体 系の調律が決定的に重要となる。そして租税政策は同時に貨幣政策としてのみ可能だという事である。

租税政策としての貨幣政策は「金融政策」と区別される必要がある。金融政策・財政政策を統合する経 済政策としての貨幣政策である。

3) 国家という範疇と租税国家という範疇が近代において決定的に重なるという事実は「事物の核心 が経済にある」ということから生じている。全体社会の関心事としての経済、しかも一つの超越的制度 にしばりつけられた経済があらゆる文化生活の統一化を支えている。とくに地中海領域においてはそう であった。Schumpeterが分析しているドイツ─オーストリア地域よりも地中海交易に参加している領 域では国際経済化、国際市場交易化が11世紀以降拡張し、15世紀以降の大西洋を交易市場化したポル トガル、スペイン、オランダ、イギリスが新大陸の発見とともに国民国家化への道を急いだ。国際貿易 の論理、国際市場の論理がすべての領域に浸透していった。ここで古代ポリスの政治制度の在り方を規 定した、独裁制度と貴族制度と民衆が主導権を握る民主主義制度のどちらが効果的かという問題が改め て生ずる。

 古代ポリスが近代市民社会へ拡張できるかということが根本問題となり、市民階級の政治への参加と 租税負担力の有無が市民階級の公共領域を司る国家という範疇にとって決定的になる。市民社会形成と いうことと民主主義という政治制度が重層化していく。

 4) 徳川幕藩体制が明治「維新」政権に平和裏に権力移行させ得た理由の一つが大知行取りたる諸侯 に公債を与えた事にあった。このことは版籍奉還という劇的な措置を含めて、きわめて重要な意味をも った。秩禄処分のまえにも、一方で十分な譲歩をしながら他方では封建的特権と束縛の砦を掘崩しなが ら、封建制度のもっとも有力な信奉者である諸侯から中立を確保しえた。フランスでは貴族の領地は無 償で没収され、競争にかけられ、地主と小作人の所有となった。その結果貴族の大多数は反革命の側に 走ったのであった。しかし日本では秩禄処分によって封建領主は、後の金融権力者になっていたのであ る(E. H. Norman、訳『日本における近代国家の成立』123ページ)。

 5) 日本の明治維新はドイツ史上の関税同盟の成立とドイツ帝国の成立の二つの事件を一度に果たし たものである。1818年プロイセンは関税法によって、国内関税、地方関税から国境関税へ移行した。

その近隣の領邦は次々にプロイセンの関税区域に加入し、1834年に発効した関税同盟にはドイツの18 の領邦が参加した。そのためドイツの大部分は単一の関税境界により囲まれることになり、区域内の交 易は完全に自由となった。この年から1888年にかけて残りの諸地域もこれに参加した。1871年のドイ ツ帝国の成立により政治的統一が成し遂げられ、政治的経済的統一により強力な経済政策、新しい重商 主義的保護政策が打ち出された。こうして国内市場が拡大し、近代企業発展の道を開いた。クルップな ども一つである(安岡重明編『日本経営史1、近世的経営の展開』42ページ)。

 これに対し1868年から1871年の日本の維新期の廃藩に至る過程は、国内の関税撤廃の過程でもあっ た。各藩が関税権を持ち、外国貿易権を持っていたのでは、新政府は中央統一政権としての機能を遂行 できない。日本が関税自主権を持っていなかったことが早期の藩廃止を可能にした側面もある。

6) 旧幕府軍との戦いである戊辰戦争の帰趨もほぼ決定した1869年に入ると、土地制度改革論が重 要な案件になった。

 神田孝平は70年「田租改建議」を提出した。石高制下の貢租制度の矛盾として、検地、石盛、検見 などの弊害、新田と本田、込高と無地高との混乱、米納原則による弊害、貢租負担の不公平等を指摘 し、新たな税制改革のプランを具体的に主張した。旧弊を取り除くために、田地売買を許可し、沽券高 に準じて金納租税を徴収すべきであると述べた。さらに府県の下に、5〜10ヵ村程度の田地に関する事 務と徴税とを管掌させる小役所設置の必要も説いた。

 肝心の租税額の決定方法について次のように主張した。「右ニ言エル小役所ニテ沽券ノ総金高ワ求メ、

次ニ二十年間管内ヨリ納ムル貢米ノ平均高ワ求メ、平均相場ワ以テ金高ニ直シ、此金高ト前ノ沽券惣金 高トワ比較スル時ハ各沽券ノ税金ワ得ヘシ」(佐々木寛司『地租改正』20ページ)。

 神田孝平は、すでに1867Ellis. William: Outlines of Social Economyの邦訳を『経済小学』上・下 として発行されていた。そこで地代論を研究していた。

(14)

 「地ヲ借リテ之ニ酬フル所ノ者ヲ地88トイフ其量ハ人工増殖シ学識上達スルニ従テ増加スルナリ0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 シ人 口増殖スルハ食料足ラサルニ至り次第ニ磽䉯ノ地ヲ耕ササルヲ得サルカ故ニ百万工夫ヲ運ラシ之ニ依テ 智識モ亦次第ニ長シ膏 ノ地ハ愈所得ヲ増シ前ニ全ク不毛ナル地モ耕シテ利アルニ至ルヘシ 是地代 の多寡ノヤル所以ヲ了解スヘシ若シ同量ノ財本作業ヲ各種ノ地に用ユレハ所得亦自ラ各種ナルヘシ斯 各種ナル所得ヲ比較シ各種ノ所得の中ヨリ其0 0 0 0 0 0 0 0 0 00少ナル所得ヲ減ズレハ残リハ即チ各種の地代ナリ0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0」(井 上琢智編『幕末・明治初期邦訳経済学書1』、Eureka Press

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