意見書「森林の機能を無視した国土交通省による基本高水計算の誤謬」 関 良基(拓殖大学政経学部准教授) 目次 1 はじめに... 1 2 貯留関数法パラメータの誤謬について... 2 3 飽和雨量50mmの長野県浅川ダム計画の事例 ... 4 4 第三者が検証不可能な計算は科学ではない... 6 5 物理的な実態を無視したパラメータ同定は数字合わせの遊戯にすぎない... 7 6 流域の森林植生や土壌の物理的状態を考慮し適正な基本高水流量を設定すべきで ある... 8 7 おわりに... 11 1 はじめに はじめに、私が本意見書を執筆するようになった経緯を記述いたします。私は森林政 策学分野の一介の研究者です。本裁判にはこれまで関与していなかった者であり、その 過程を知る者ではありません。しかし、利根川の基本高水流量を貯留関数法によって算 定するに当たって、国土交通省が計算の前提としている5 つの定数(パラメータ)のう ち、「飽和雨量」と「一次流出率」の値が、森林を研究する人間の目から見て常識を逸 脱するものであったことから、「東京新聞」(1 月 16 日朝刊)紙上において、「この値は おかしい」と主張しました(注1)。そうしたところ、この3 月、八ツ場ダム住民訴訟の弁 護団から、前掲「東京新聞」に掲載された私の見解と、国交大臣の下に設置された「今 後の治水のあり方に関する有識者会議(以下、「治水有識者会議」)」委員である鈴木雅 一氏(東京大学大学院農学生命科学研究科教授)の第4 回会議(2 月 8 日開催)での意 見表明について、分かりやすく解説した意見書を作成して欲しいとの依頼を受けました。 その依頼に基づいて、この意見書を作成し、提出させていただきます。 鈴木雅一氏は、森林水文学分野の第一線で活躍する研究者ですが、前掲の「東京新聞」 記事を「治水有識者会議」の場で取り上げ、利根川の基本高水の根拠として用いられて いる飽和雨量と一次流出率の値に基づけば「鈴木の知るハゲ山の裸地斜面の流出より大 きい出水をもたらす。一般性をもつ定数ではないと思われ」と述べています。つまりパ ラメータの値が流域の森林土壌の現状を反映しておらず、洪水流出量が過大に計算され ているのではないかという疑念を表明しております。 1
このように、私も鈴木委員も利根川の基本高水流量計算の根拠となる貯留関数法の定 数(パラメータ)は、流域の土壌の組成や河川への流出のプロセスといった物理的な要 素を全く考慮しないまま決定されているという問題を指摘したのです。そうしたところ、 同弁護団から、この点についての意見書の作成を求められました。国土交通省がパラメ ータを恣意的に設定した結果、原告側が主張してきたように、八斗島の基本高水流量が 「2 万 2000m3/秒」という、実態からかけ離れた過大な数値が、計算上「算出」され たのではないかとの疑いは、森林分野の研究者からみて拭えないものとなってきていま す。 本意見書においては、森林科学分野から提起された点を紹介する形で、計算の前提に ある誤謬を取り上げ、既存の基本高水流量が過大であるという根拠を指摘させていただ きます。国土交通省は、どのような計算が行われたのか具体的な情報を全て開示した上 で、第三者の意見も反映し、利根川流域の現況の物理的実体を考慮した上で洪水ピーク 流量の再計算を実施すべきです。 では、これから本題に入ります。 2 貯留関数法パラメータの誤謬について (1)54 の全流域でパラメータが同一になることはあり得ない 利根川の治水基準点である八斗島の上流は、国土交通省によれば54 流域に区切られ ている。国土交通省が開示した資料によれば、利根川上流の54 全ての流域において、 一次流出率が0.5、飽和雨量が 48mm という数値で統一されていた。八斗島上流域にお いては、相対的に森林が多い地域、農地が多い地域、市街地が多い地域とさまざまであ り、全ての流域が一次流出率0.5、飽和雨量 48mm という数値で一致するということは あり得ない。いかに国土交通省が流域の特性を無視して流出計算を行っているのかを端 的に物語っている。 (2)このパラメータではハゲ山のような出水をもたらす さらに利根川の54 流域における一次流出率 0.5、飽和雨量 48mm という値は、前者 はあまりにも過大であり、後者はあまりにも過小であり、その数値は全く不当なものと いわざるを得ない。双方のパラメータの不当な設定が、計算流量の過大算出に寄与して いる。 この問題は、他ならぬ国土交通大臣の組織した「治水有識者会議」の場でも指摘され た。同会議の委員の一人である鈴木雅一氏は、第4 回会議(平成 22 年 2 月 8 日開催) に提出した資料において、以下のような指摘を行っている。 この事例の一次流出率、飽和雨量は、鈴木の知るハゲ山の裸地斜面の流出より 2
大きい出水をもたらす。一般性をもつ定数ではないと思われる。 このような結果となったとき、上流域など雨量観測点以外でより多量の雨が降 った可能性、観測流量が過大である可能性を疑う。 この定数表を他の降雨の出水予測に用いることは、困難であるとするのが妥当 と考える。 今後の検討に待たねばならないが、新聞報道のとおりとすると計画降雨に対し て過大な流量を推定している可能性(注2)。 このような専門家の意見は、原告・控訴側が主張してきた「八斗島の治水基準点にお ける基本高水流量2 万 2000m3/秒はあまりにも過大である」という主張を裏付けるも のであろう。私もこの点に関して、鈴木氏と意見を同じくするものである。 以下、飽和雨量と一次流出率の二つのパラメータがどのように誤っているのか、それ ぞれ見てみよう。 (3)飽和雨量48mm は過小である 一般に、雨が降り始めてから、降雨の一部は、樹木の樹冠で遮断されたり、流域の土 壌中、水田、窪地などに一時的に貯留されたりする。流域に貯留されない降雨は、土壌 中や地表面を通って河川へと流出する。やがて累加雨量がある水準に達すると、流域の 土壌中や水田、窪地などが水分で飽和し、降雨はもはや貯留されず、全雨量が河川に流 出するようになる。 「飽和雨量」とは、流域が飽和状態になるまでの累加雨量のことを指し、一般に、市 街地<水田<畑<森林の順に大きくなっていく。コンクリートで完全に覆われている場 所は、ほぼ全ての降雨が河川に流入すると考えられ、飽和雨量はゼロに近くなる。よっ て流域に占める森林率が高く、また森林植生が豊かで土壌が発達する程、飽和雨量の値 は大きくなり、洪水時には大きな降雨が貯えられ、河川の洪水流量は小さくなるという 関係になる。 降雨が森林土壌中に最大何ミリまで貯留されるかに関して、この分野の研究の第一人 者である藤枝基久氏(独立行政法人・森林総合研究所研究員)は、森林の流域貯留量は 全国の事例を平均すれば「130mm」程度という調査結果を示している(注3)。森林水文 学で使われる「流域貯留量」の概念は、河川工学の「飽和雨量」とほぼ同義と考えてよ い。 原告・控訴人側の準備書面(1)でも、藤枝氏の論文から利根川の支流である宝川の「最 大流域貯留量」のデータが引用されている通り、利根川上流域においても、全国平均と 大きく乖離しない飽和雨量が示されている。国土交通省が用いている 48mm という飽 和雨量の値は、森林のない市街地のそれを若干上回る程度の値であり、あまりにも過小 なものである。 3
もちろん流域に占める市街地の割合が多ければ、その値に近くなることもあり得るが、 相対的に森林の多い流域も、そうでない流域にも、上流の54 の全流域において飽和雨 量が一律に48 ミリというのは、あり得ないことである。 ちなみに、54 の各流域がどのように分割されているのか、情報が公開されていない ため、第三者は54 の各流域の森林率が実際のところ何%なのか知る由もない。このデ ータも国土交通省は早急に公開すべきであろう。 (4)一次流出率0.5 は過大である つぎに「一次流出量」のパラメータについて見てみよう。総雨量が、飽和雨量の値を 超えると、降雨は貯留されることなく流れ出していく。飽和雨量に達するまでの降雨は、 土壌や水田や窪地などに貯留される成分と、地表面や土壌中の大孔隙中を通過して河川 に流入する成分との二つに分かれる。飽和雨量に達する以前の段階で、貯留されずに河 川に流出する割合を示すのが一次流出率である。例えば、降雨の 50%が貯留されずに 河川に流出するとすれば、一次流出率は0.5 ということになる。 八斗島上流の54 流域においては、一次流出率は 0.5 という値で統一されていた。つ まり48mmの飽和雨量に到達するまでにおいて、降雨の 50%が河川に流出するという のである。この0.5 という値は、ほかならぬ国土交通省が自ら告示している基準と比べ ても、不当に過大な値である。国土交通省は、「特定都市河川浸水被害対策法施行規則」 で定めた「流出雨水量の最大値を算出する際に用いる土地利用形態ごとの流出係数を定 める告示(平成16 年国土交通省告示第 521 号)」において、一次流出率のパラメータ を、「山地」で「0.3」、「林地、耕地、原野」で「0.2」としている(注4)。国土交通省は、 自らが定めた基準と比べても、1.7 倍から 2.5 倍も過大な一次流出率を 54 の全流域に適 用していることになる。国土交通省は、何故、自ら定めた基準を利根川上流に当てはめ ないのか、説明責任を果たすべきであろう。 以上に見てきたように、国土交通省は利根川上流の飽和雨量において、一般的に妥当 と思われる値より2 分の 1 弱の過小な数値を設定して流域の保水容量を低く評価し、他 方、河川への流出を示す一次流出率に関しては一般的に妥当な数値よりも1.7 から 2.5 倍にも高目に設定している。この双方のパラメータの恣意的操作が、計算ピーク流量の 過大算出に寄与している。 3 飽和雨量50mm の長野県浅川ダム計画の事例 参考までに、パラメータの誤った設定が過大な流量計算につながっているダム計画の 事例として、長野県の県営浅川ダム計画を見ておこう。県営浅川ダム計画の根拠になる 基本高水流量の算出に当たって、流域の一次流出率は0.5、飽和雨量の値は 50mmとさ れており、利根川上流域のパラメータとほぼ等しい。長野県の他の県営ダム計画では飽 4
和雨量の値は100mm程度の値が用いられているのに対し、県が強引に建設しようとし ている浅川ダム計画のみ、50mmという異常に低い飽和雨量が用いられていた(注5)。 そのため流域住民の間からは、50mmという飽和雨量が「低すぎる」と指摘されてきた。 県営浅川ダムの建設計画においては、「100 年に 1 度の確率の雨量」を想定して、基 本高水流量が定められている。この100 年に 1 度の想定雨量は、24 時間雨量で 130mm というものだった。2004 年に長野県を襲った台風 23 号の際、ちょうど長野市で 24 時 間雨量125.5mm という、ほぼ 100 年に一度確率の降雨があった。 浅川ダム計画における洪水予測モデルでは、100 年に一度確率の降雨がくれば長野市 の富竹地区においては260m3/秒が流れるはずであった。しかし2004 年に台風 23 号 が襲来した際に県の行った観測結果によれば、富竹地区でのピーク流量は「43.8m3/ 秒くらい」(注6)であった。ダム計画モデルのじつに6 分の 1 程度の値であった。もち ろん洪水時のピーク流量は総雨量のみならず、雨の降り方にも依存するので、先行降雨 の有無や雨の降り方によっては、同じ130mmの降雨でも、もっと高目にピークが出る こともある。しかし6 倍にも増えることはないと断言できる。一次流出率 0.5、飽和雨 量50mmというパラメータが誤っているから、このように現実から乖離した値が計算さ れているのである。 長野県では、基本高水流量があまりにも過大に算出されていることが観測の結果明ら かになってきたことを受けて、2005 年 9 月、ダム計画の存在する 9 河川の流域協議会 の住民たちが「高水協議会」を組織し、現行の基本高水はなぜ過大な値に算出されるの か、計算方法の問題点を検討しようという取り組みが始まった。住民自身が科学研究を 行い、専門家の算出した「権威ある」数値に異議を唱えようというのである。2007 年 3 月に県に提出された最終報告書において、浅川の基本高水があまりに過大に算出され ている理由として、以下のような回答を与えている。 雨量から流量への変換に用いられる貯留関数法の定数は、洪水時の実測流量デ ータを基に設定しなければならないが、洪水時の実測流量データがないため、曖 昧な定数の設定で流出解析が行われており、過大な基本高水をつくることを可能 にしている。 例えば、浅川では、貯留関数法の定数の一つである飽和雨量(Rsa)を 50mm としている。飽和雨量とは、どのくらいの雨が降れば、それ以上地面にしみこま なくなり、地面が飽和するかという値を示すものであるが、50mmの雨が降れば 地面が飽和状態になり、降った雨がそのまま流れてくるとは考えられず、過小で はないかと考えられる(注7)。 住民側は、恣意的にパラメータを設定して過大に基本高水流量を算出し、ダム建設の 根拠にしているという事実を明らかにした。浅川の基本高水が何故かくも過大になって 5
しまうのかに関しては、飽和雨量の値が、森林の保水機能を全く無視した過小な値に設 定されていることに原因の一端があると見抜いた。 住民による高水協議会は、2004 年の台風の際の実績洪水から独自に飽和雨量を同定 したところ100mmが妥当とされ、そのパラメータで再計算も実施している。結果、既 存のダム計画モデルが2004 年の台風 23 号のハイドログラフに適合しなかったのに対 し、飽和雨量を100mmに改定したモデルは 2004 年台風 23 号の実測値にも適合する計 算値となった(注8)。 利根川における一次流出率0.5、飽和雨量 48mm という設定がどのような効果を生む のかに関して、浅川の事例は教訓的であろう。 4 第三者が検証不可能な計算は科学ではない 以上で確認してきたように、「飽和雨量 48 ミリ」「一次流出率 0.5」というパラメー タは、森林水文学の常識に比して、受け入れ可能なものではない。この問題を国土交通 省の「治水有識者会議」で指摘した鈴木雅一委員は、先に引用した箇所において、「ハ ゲ山の裸地斜面」よりひどい保水能力を示すパラメータが同定されたということは、雨 量観測点以外の場所で、観測に引っ掛かっていない大量の雨が降ったか、そうでなけれ ば、そもそも建設省(当時)が行った観測の流量データが過大であるという可能性もあ る、という趣旨の指摘をしている。 このような専門家の指摘に対して、国土交通省は、東京新聞社の取材に答え、「五つ の定数で総合的に計算している。流出計算モデルは近年の洪水流量においても再現性が ある」(注9)と説明している。 国土交通省は、昭和33 年(1958 年)および同 34 年(1959 年)の洪水データから、 飽和雨量48mm、一次流出率 0.5 を含む 5 つのパラメータセットを同定し、その計算モ デルは、1982 年と 98 年の洪水流量においても再現性があることが確かめられたと主張 している。 しかし、国土交通省が昭和33 年と 34 年の洪水を用いてどのように 5 つのパラメー タを決定し、さらに、その一般常識に反するパラメータを用いてどのような「検証」を 行ったのか、その詳細に関する情報が開示されない。そのため第三者が、その「検証」 と称するものを客観的に評価することは不可能な状態である。国土交通省がいったい何 をやっているのか、外部の人間からは完全なブラックボックスとなっている。 一般に「科学」というものは、誰がやっても再現検証可能な営みでなければならない。 しかるに国土交通省は計算の具体的なプロセスに関する情報を開示していない。国土交 通省がブラックボックスの中で何をやっているのか、第三者が検証不可能なまま、「2 万2000m3/秒」という数字だけが流域住民に押し付けられている。検証不可能なまま、 行政が出した数値を、「結論」として鵜呑みにすることは、「科学」の原則からしても、 6
民主主義の大原則に照らしても不可能なことである。 科学論文において、このような手法によって得られた数値を「結論」として提示され れば、査読者は、その論文の学術雑誌への掲載を拒否する。第三者による再現検証や再 現実験が不可能な「手法」による「結論」を提示することが許されるなら、観測データ のねつ造も、常識的にあり得ないパラメータの設定も、あらゆる恣意的な数字操作が可 能になってしまうからである。 国土交通省は、ただちに計算に用いた全情報を開示すべきである。利根川上流の 54 の流域をどのように区分したのか、54 の各流域において貯留関数法の 5 つのパラメー タをどのような手法により決定したのか、そのパラメータセットを用いてどのように計 算を行ったのか、さらに対象降雨以外の別の降雨にどのように適用して検証したのか、 などである。それらの情報が開示されれば、第三者の手による客観的な検証が可能にな る。 5 物理的な実態を無視したパラメータ同定は数字合わせの遊戯にすぎない 情報が開示されてから本格的な議論が始まるが、ここでは仮に国土交通省に百歩譲っ て、実際に国土交通省の同定したパラメータは他の洪水においても検証できているもの と仮定しよう。その仮定に従って、この先の議論を進めたい。 一次流出率と飽和雨量の値が、実態から不当に乖離した非常識な数値であることは既 に見たとおりである。しかし、国土交通省は「検証されている」と主張する。このよう なことが可能になってしまうところに、貯留関数法の落とし穴があり、現行の基本高水 の算出過程の根本的欠陥を物語るものなのである。 つまり、飽和雨量と一次流出率が実際の物理的実体から不当に乖離していても、他の パラメータであるK と P の値をさらに恣意的に操作することにより、対象降雨に合致 するように帳尻を合わせることは可能なのである。ここに「五つの定数で総合的に計算」 という国土交通省の考えの根本的な誤謬がある。5 つのパラメータで総合的に計算する ということは、いずれかのパラメータが物理的実体から乖離した値であっても、他のパ ラメータをさらに歪曲して、全体としての帳尻を合わせてしまえば、とりあえず対象降 雨の範囲では適合するように見せかけることは可能なのである。つまり、貯留関数法の 別のパラメータであるK と P の値がよほどおかしな値になっているのである。 国土交通省は、「200 年に 1 度確率」の降雨における洪水ピーク流量である基本高水 を得るにあたっては、以下のような手法が用いられる。まず過去において実際に観測さ れた中小規模の降雨における河川流出量の実測データに適合するように、貯留関数法の モデルのパラメータを同定する。パラメータの同定とは、パラメータの値を少しずつ変 化させ試行錯誤の計算を繰り返しながら、貯留関数法のモデルの波形が、実測のハイド ログラフの波形にうまく適合するように調整し、計算値が実測値とうまく適合するパラ 7
メータを決定する作業である。ここで飽和雨量と一次流出率は実態からは乖離した値を 当てはめても、K と P の値を変化させることにより、対象となる中小規模洪水には適 合するように調整されている。 ここで、150 年に1度確率とか、利根川のような 200 年に 1 度確率といった大規模降 雨は過去に観測事例が存在しないため、中小規模降雨から同定されたパラメータセット を用いて、中小規模降雨を1.5 倍とか 2 倍に引き伸ばして仮想上の大規模降雨データを 作成し、その仮想の大規模降雨から貯留関数法でピーク流量を計算する。 国土交通省は、昭和33 年、34 年の洪水に適合するように 5 つのパラメータセットを 同定していると説明している。国土交通省によれば、昭和33 年 9 月 16 日の降雨量は 168mm であり、同 34 年 8 月 12 日の降雨量は 214mm であった。国土交通省は、この 二つの対象降雨から5 つのパラメータセットを同定したとする。基本高水流量の算定の ための 200 年に 1 度確率の計画降雨は 319mm と設定されている。そのため前者の降 雨は1.90 倍に引き伸ばしを行い、後者の降雨は 1.49 倍に引き伸ばしを行っているわけ である。 この際、飽和雨量、一次流出率とも、その物理的実体から乖離した値が用いられてい る。そのような「空中楼閣」とでもいうべきパラメータセットは、あくまでも対象降雨 の規模の範囲に合致するように強引に設定されたものであり、対象の中規模降雨のみに は合致しても、それを大規模降雨に引き伸ばした際においては、実際の流域の物理的プ ロセスを反映していないという欠陥により、実際の値からは乖離した数値が計算される ことになる。 一次流出量の過大設定、飽和雨量の過小設定という二つのパラメータの欠陥は、いず れも対象降雨の「引き伸ばし」を行った際、ピーク流量が実際から乖離した過大な値に はね上がる方向に作用する。この事実は、国土交通省が全ての情報を開示すれば自ずか ら明らかになろう。 5 つのパラメータセットを「総合的に選ぶ」という、ブラックボックスの中での国土 交通省の作業は、「引き伸ばし」を行った際に、ピーク流量の計算値を釣り上げること を可能にする。流出の物理的プロセスを無視した5 つのパラメータの「総合的」な設定 は、単なる数字あわせの遊戯にすぎない。 6 流域の森林植生や土壌の物理的状態を考慮し適正な基本高水流量を設定すべきで ある 前節までの考察から、5 つのパラメータは、流域の森林、土壌、地質の状態を考慮の 上、知見の及ぶ範囲で可能な限り、物理的実体にあわせた数値を選択すべきことが含意 された。今後、飽和雨量、一次流出量ともに、森林水文学の専門家の意見を反映させ適 当なパラメータに改定した上で、再計算を実行すべきである。 8
しかし、それで問題は総て解決するであろうか。まだ問題は残る。利根川のみならず、 国土交通省による基本高水流量の決定過程の大きな問題は、多くの場合、「拡大造林」 の名の下に行われた、広葉樹の伐採と針葉樹への樹種転換作業によって日本の森林が荒 れていた昭和 30 年代から 40 年代にかけての洪水実績をもとにしてパラメータを同定 していることである。当時は、森林といっても、広葉樹林の伐採によって相対的に伐採 跡の新規造林地が多かった時期に当たり、流域は一般的に荒れていた。従って洪水時の ピーク流量も高くなりやすかったものと思われる。しかるに、この点を国土交通省は一 顧だにせず、研究もしようとはしない。まるでダム建設を強行しようとする国土交通省 にとって不都合な事実は意図的に研究対象から外そうとするが如き姿勢である。 一般的に、裸地が森林に代わり樹冠遮断量が増え、土壌状態が改善されれば、降雨の 際の斜面からの流出量は5 分の 1、10 分の 1 といった水準にドラスティックに減少す ることが知られている。流域の状況に応じて飽和雨量や一次流出率などのパラメータも 変化するのであり、とりわけ森林状態の改善が洪水流量の低減に与える影響は大きい。 戦後直後や、拡大造林によって天然生広葉樹林から針葉樹人工林への樹種転換の最中 において、洪水ピーク流量は相対的に上昇していたものと思われる。人工林が一応の成 長を見た今日は、人工林の管理放棄という別の問題が現出しているわけであるが、少な くとも拡大造林の最中である昭和30~40 年代の森林状況に比べれば森林状態は改善さ れており、従って、洪水時のピーク流量も当時に比べて相対的に低減していると思われ る。国土交通省は、この点を全く無視し、これを研究の俎上にのせることを意図的か非 意図的かは分からぬが、避けているのである。現況の森林状態を反映させた上で、パラ メータを改めて同定し、再計算を実施せねば正しい流出解析はできない。国土交通省は この論点を真摯に受け止めるべきである。 森林の貯留機能の現況を貯留関数法に組み込んで解析する手法に関して、長野県の林 務部が、注目すべき計算方法を提案している。長野県林務部が組織した「森林と水プロ ジェクト」は、2008 年 1 月に公表された第二次報告書において、森林が荒廃していた 当時に決められた貯留関数法のパラメータを用いて流出解析をする手法の問題点につ いて、次のように明快な指摘をしている。 貯留関数法は、昭和36 年に考案されたものであるが(木村, 1961)、この当時 は一般的に流域の森林が荒廃状態にあり、流出に対する森林の効果が十分発揮さ れていなかたものと考えられる。その後、森林の整備が進み森林が成熟するにし たがって森林の有する洪水防止機能も増加していったものと考えられるが、その 効果を積極的に評価して流出解析が進められてきたとはいいがたい状況である(注 10)。 このような指摘を行った後、基本高水流量の算出にあたって、中規模洪水の観測デー 9
タから大規模洪水に引き伸ばして洪水流量の予測を行う以上、流域の貯留特性の物理的 意義をないがしろにした定数の決定が行われてはならないとし、次のように述べている。 定数の物理的意義を考慮して定数解析が行われていない現状から判断して、初期 定数については、単に解析を開始するために便宜的な値として与えられるのではな く、それぞれの流域の森林の状態が反映されたそれぞれの流域の貯留特性を表わす ものでなければならない。 また、トライアル計算においても、単に数字の入れ替 えによって精度を確保するのではなく、定数のもつ物理的意義を考慮の上修正すべ き定数の選択が行われ、またその範囲も定められなければならない。なぜならば、 洪水流量の予測は、一般にモデルを同定するために用いた実測データの範囲を超え て行われるからであり、実測データの最終的な適合度よりも予測値が妥当かどうか が問われるからである(注11)。 このように長野県林務部は、流域の貯留特性の物理的意義を考慮せずに定めた定数を 用いて観測事例のない大規模洪水の流量予測をする場合の危険性を指摘している。私も、 この意見に同意するものである。 以上のような考察の上で、長野県林務部の森林と水プロジェクトは、森林の洪水防止 機能を組み込んだ洪水ピーク流量の解析手法として以下のような提案をしている。 一点目は、昭和30 年代の流域の状況を基に設定された初期定数は、流域の現状を反 映していないため、この定数(パラメータ)を用いると誤った洪水予測につながること。 よって、近年の流域の物理的実体が反映されるよう、サンプルとしては、より近年の実 績洪水のデータを用い、そこから定数をあらためて同定すること。 二点目は、飽和雨量に関しては、土壌学的手法によって定まる有効貯留量の値を用い、 その修正は行わないこと。 三点目は、流出モデルの同定に際して最大流量の適合を最優先とし、一次流出率の修 正によりこれを行うこと。 四点目は、先行降雨の有無によって、流域の飽和雨量は変化するので、別個の流出モ デルを作成し、洪水予測に適用すること。 この長野県の提案した「森林の効果を組み込んだ流出解析の手法」に関しては、長野 県のホームページのみならず、この分野の権威ある学術誌である『砂防学会誌』でも発 表された。砂防学会誌上において、長野県林務部の加藤英郎氏・上野亮介氏は、以上の 手法にのっとって基本高水流量の再計算を実施している。検討対象となったのは松本市 に流れる薄川の基本高水であった。以上の手法の適用によって、薄川の計算最大流量は、 既存のダム計画モデルで提案されていた値に比べ、40%程度低い値に算出されたのであ る(注12)。 今後、国土交通省は、このような積極的提案を無視するのではなく、真剣に検討の上、 10
これまで過大に算出されてきた基本高水流量を見直すべきである。実態から乖離した過 大な洪水予測を振り回し、流域住民を脅しながら、膨大な税金を浪費してダム建設を強 行しようとする態度を、これ以上継続してはならない。これが多くの納税者と流域住民 の願いである。 7 おわりに 本意見書においては、国土交通省が利根川の基本高水流量を算出するにあたって前提 としてきた飽和雨量や一次流出率の値の誤りを指摘してきた。今後、国土交通省は、パ ラメータの同定がどのように行われたのか、またそのパラメータをどのように検証した のかに関する具体的な情報を全て開示した上で、第三者の意見も反映し、利根川流域の 森林の現況に基づいた物理的に適切なパラメータを再設定した上で、洪水ピーク流量の 再計算を実施すべきである。さすれば、基本高水流量は大幅に引き下がるであろう。こ れは利根川のみならず、他の河川においても言えることである。 なお、本意見書で扱う問題の範囲ではないが、基本高水の算出過程における科学的な 誤謬を正した後には、流域住民とともに治水安全度や防災への備えに関する議論をさら に深めていく必要があろう。200 年に 1 度の洪水に備えるべきなのか、それとも 100 年に1 度か、あるいは 50 年に 1 度程度でよいのかといった治水安全度の基準は、科学 の問題というよりも民主主義の問題である。 国土交通省は、あたかも、貯留関数法などを用いて決定された基本高水流量をクリア するように河川整備を行うことが行政の責任かと考えているようであるが、そうだとす れば「河川哲学」がきわめて貧困であると言わざるを得ない。 基本高水を上回る超過洪水はいつでも発生し得るものであり、どんなにダムを整備し たところで水害の可能性は残る。日頃、ダムに依存し、防災への備えを怠っていると、 基本高水を上回る超過洪水が発生した際に、逆に、壊滅的な被害が発生しかねない。 住民の中には、一生に一度くらいは水害の経験をした方が、防災意識を高め、日頃の 心構えを次世代に継承することにもつながり、逆に被害を最小化することに役立つとい う意見は根強い。 国土交通省は、森林の保水機能の増進という、いわゆる「緑のダム論」への反論とし て、「森林の保水容量には限界があり、緑のダムは中小洪水には対処できても、飽和雨 量を上回る大洪水には対処できない」という主張を繰り返してきた。この主張は森林の みならず、ダムにも同様に当てはまる。ダムの貯水容量を超える超過洪水に対しては、 ダムは緊急放流によって対処せねばならないのであって、緊急放流となれば逆に洪水被 害の拡大にもつながってしまう。つまり森林同様、ダムも中小洪水には対処できても、 大洪水には対処できないのである。しかしながら、森林の場合は幸いなことに、ダムと 11
12 違って「緊急放流」は行わない。 国土交通省は、ダムによって水害を物理的に抑え込もうという発想が、財政的にも技 術的にも限界があり、さらに、ダムは逆に災害を拡大させかねないということを認識す る必要がある。その上で、どのような超過洪水が発生しても、壊滅的なダメージが発生 しないような街づくり、都市づくり、そして防災意識を、行政は流域住民と共に構築し ていくべきものと思われる。それが水害被害を拡大させない最良の策であろう。 〔注〕 注1 『東京新聞』2010 年 1 月 16 日(朝刊)26~27 面「こちら特報部」記事参照。 注2 第 4 回 今後の治水対策のあり方に関する有識者会議、平成 22 年 2 月 8 日開催。 鈴木雅一委員の配付資料より。 http://www6.river.go.jp/riverhp_writer/entry/y2010e59a80ccdc9e4f1de84753f e2bc18f9dc64af9f21.html 注3 藤枝基久「森林流域の保水容量と流域貯留量」『森林総研研究報告』No.403、2007 年6 月。 注4 国土交通省「流出雨水量の最大値を算出する際に用いる土地利用形態ごとの流出 係数を定める告示(平成16 年国土交通省告示第 521 号)」『特定都市河川浸水被害 対策法施行規則』別表4、2004 年 注5 長野県高水協議会、「諮問9河川の基本高水流量についての中間報告: 今まで の手法への問題提起」付属図表、43 頁、2006 年 8 月 25 日。 http://www.pref.nagano.jp/keiei/chisui/takamizu/houkoku/chukanzuhyou.pdf 注6 『信濃毎日新聞』2004 年 11 月 30 日 注7 長野県高水協議会(2007)、「提言書 ―基本高水について―」2007 年 3 月 19 日、 6 頁。 http://www.pref.nagano.jp/keiei/chisui/takamizu/houkoku/saisyuuteigensyo.pdf 注8 長野県高水協議会、「諮問9河川の基本高水流量についての中間報告: 今まで の手法への問題提起」付属図表、52 頁、2006 年 8 月 25 日。 http://www.pref.nagano.jp/keiei/chisui/takamizu/houkoku/chukanhonbun.pdf 注9 『東京新聞』2010 年 3 月 7 日 27 面の「こちら特報部」記事より。 注10 長野県林務部、森林と水プロジェクト「第二次報告書」付属資料「流域の流出 機構への森林要因の関与に関する考察」27 頁、2008 年 1 月。 http://www.pref.nagano.jp/rinmu/shinrin/06chisan/02_mori_mizu/report2/siryo 5.pdf 注11 長野県林務部、前掲書、29 頁。 注 12 加藤英郎、上野亮介「洪水流出に対する森林の効果を考慮した流出解析の一手 法 ―貯留関数法の適用事例―」『砂防学会誌』Vol.57, No.4, pp.26-32, 2004.