• 検索結果がありません。

雑誌名 経済学論究

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "雑誌名 経済学論究"

Copied!
33
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

W.C.ミッチェルによる制度主義経済学史について

著者 田中 敏弘

雑誌名 経済学論究

巻 66

号 3

ページ 1‑32

発行年 2012‑12‑10

URL http://hdl.handle.net/10236/10786

(2)

W.C. ミッチェルによる

制度主義経済学史について

On the Institutional History

of Economic Thought by W. C. Mitchell

田 中 敏 弘  

The purpose of this paper is to explain the distinctive features of the institutional history of economic thought by Wesley C. Mitchell, author ofTypes of Economic Theory: From Mercantilism to Institutionalism, 2 vols.(vol. 1, 1967, vol. 2, 1969.) Augustus M. Kelley, New York. The two volumes contain 1483 pages as long as Shumpeter’sHistory of Economic Analisis (1954). Its most distinctive features are (1) The viewpoint that economic theories are just the children of their times; (2) The viewpoint of the conception of human nature in the economist. From these viewpoints he tried to form his institutional history of economic thought from Mercantilism to Thorstein Veblen and J. R. Commons.

Toshihiro Tanaka

  JEL:B31

Keywords:Wesley C. Mitchell,Types of Economic Theory, institutional history of economic thought.

まえがき

著者の目的は、アメリカのW.C.ミッチェルとJ.ドーフマンによる制度主 義に基づく経済学史研究の展開と確立について、改めて光を当てようとするも のである。

本稿は、ミッチェルの経済学史研究の特徴を、彼がのこした『経済理論の諸類型』

(2巻)、Types of Economic Theory.From Mercantilism to Institutionalism.

Edited with an introduction by Joseph Dorfman.(1967, 1969, Augustus

(3)

M. Kelley, New York. 以下ではときにTETと略す)を中心に検討する。

第1に、「時代の子」としての経済理論、つまり現実の経済問題解決のため の経済理論という視点と、第2に、それぞれの経済学者の経済理論の根底にあ る、人間性をどう捉えるかという「人間性概念」という視点をもつミッチェル に独自な経済学史を取上げる。

次いで、稿を改めて、ミッチェルの弟子であり、ミッチェルの制度主義に 基づく経済学史研究を継承し、その方法をとくにアメリカ合衆国における経済 思想の歴史的展開に適用して真正面から取組んだ、ドーフマンのアメリカ経 済学史研究を、彼が遺した5巻に及ぶ膨大で正確・詳細な『アメリカ文明に おける経済的思考』、The Economic Mind in American Civilization. 5 vols.

1946-59, New York: Viking Press.(以下EMACと略す)を中心に、その基 本的特徴を出来る限り明らかにしたい。それとともに、ミッチェルとドーフマ ンによる、アメリカでの制度主義に基づく経済学史研究の展開と確立を再確認 することを企図するものである。

さて、シュンペーターの『経済分析の歴史』(History of Economic Analysis.

New York: Oxford University Press, 1954)はよく知られている。とくにわ が国では早くに翻訳され(東畑精一訳、1955〜1962年、全7巻、岩波書店)、 経済学史研究者の古典ともなっている。これに対して、ミッチェルのTETも 大著であるが、わが国では知られることが少ない。わが国の経済学史の専門的 研究者の間でも、注目されることが余りにも少ないと思われる1)

ミッチェルとシュンペーターとの間には、景気循環研究において交流がみ られたが、経済学史研究では、両者にはそれぞれユニークな特徴がみられる。

1285頁に及ぶシュンペーターの『経済分析の歴史』は、まさに経済・ 分・

析の歴 史であって、経済思想の歴史に力点はない。そこでは経済思想は、ただ経済分 析の背景の一部分として現われるにすぎない。シュンペーターは彼の言う「科 学的経済分析」を「経済思想」から峻別している。こうした方法により、彼は ギリシャ・ローマの経済学から現代に至るまでの経済理論を扱っている。

1) わが国では、佐々野謙治『制度派経済学者ミッチェル』(ナカニシヤ出版、1995年)がある。た だ、TETが直接に取上げられていないのは残念である。

(4)

これに対して、ミッチェルの経済学史は、1483頁に及ぶTETの「重商主 義から制度主義へ」という副題からもうかがえるように、彼の言う経済理論が 重商主義から制度主義経済学へと発展してきた歴史過程を明らかにすることを 目的にしている。

したがって、ミッチェルにとっては、さまざまな経済理論が「時代の子」と して、いかに展開されてきたかは、シュンペーターのような、単なる理論展開 上の背景の一部にすぎないという見方とは異なり、経済理論自体が制度の変 化・進化によって生み出されるものと捉えられている。

そしてそのさい、その経済理論を生み出す「人間性概念」が重要な相違をも たらす要因として重視されることとなる。ミッチェルの経済学史研究は、ヴェ ブレンの制度概念に従い、一定の時代、時期における人間の思考習慣(=制度)

と、それに関連して、人間性をいかに把握するかの「人間性概念」とが、経済 理論の諸類型を生み出してきたことを明らかにしようとするものである。

1. ミッチェルの生涯

ミッチェルは1874年8月5日に、イリノイ州のラッシュヴィル(Rushville) という小さな町で生れた。彼は7人の子供の長男であったが、14歳のときに リューマチ熱をわずらい、そのため、シカゴ大学に入学した18歳のとき、も うあと1年ともつまいと、医者に言われたりした。しかし実際には、彼は73 歳まで生き、研究と教育に集中し、大きな貢献をのこしたのであった。

シカゴ大学時代に、ドーフマンも言うように、彼は、古典派経済学者だった が貨幣数量説を批判していたラフリン(James L. Laughlin)の影響を受けた が、哲学のジョン・デューイ(John Dewey)と共に、ヴェブレンから最も大き な影響を受けて、経済学の研究へと向い、数量的・統計学的方法の重視によっ て景気循環分析へと花開かせることとなった。

1896年にシカゴ大学を卒業したミッチェルは、奨学金を受け、1898年にハ レ大学のコンラート(Johannes Conrad)のもとで、次いでウィーンのメン ガーのもとで学んでいる。1899年には、シカゴ大学から博士号を取得してい る。1900年に、シカゴ大学に戻り、講師となった。

(5)

1903年には博士論文を改善し、それを『グリーンバックスの歴史、1862-65年』

History of the Greenbacks, 1862-65, whth Special Reference to Economic Consequences of Their Issue. University of California Press.)として出版 した。その同じ年に、カリフォルニア大学に移り、研究に集中することが出来 るようになった。この結果、初めて『景気循環』(Business Cycles)を1913 年に出すことが出来た。このようにして、当時のアメリカの最も重要な経済問 題の1つであった貨幣・通貨と景気循環の研究が進められていった。

この同じ1913年に、彼はコロンビア大学から教授として招かれることとなっ た。彼は、コロンビア大学と関係の深いThe New School for Social Research での3年を除き、1944年に退職し名誉教授となるまで、31年の長きにわたっ て、コロンビア大学で研究と教育に生涯を捧げたのであった。2)

2. ミッチェル『経済理論の諸類型』の構成

編集者のドーフマンの序文が明らかにしているように、『諸類型』は、最初 ミッチェルの「経済理論の諸類型に関する講義ノート」に発し、1926-27年の 1学生による謄写版以来、次第に変遷をとげ、ミッチェルが1948年に死去し たのちも読み続けられた。1949年に、ミッチェル夫人の同意を得た出版人の A.M.ケリーが、講義の謄写版を作り続けた。そして最終的には2巻本となり、

イギリス古典派経済学を扱った第1巻と、近代の経済学─正統派と異端を共に 含む─の理論が扱われた第2巻となった。

第1巻と第2巻の目次は以下の通りである。

第1巻

  I  経済学古典の研究について

  II  アダム・スミス─いかにして経済学はイギリスで体系化されるに 至ったか

  III  ジェレミー・ベンサムと功利主義

2) ミッチェルの生涯をさまざまな視点から捉えた、Wesley Clair Mitchell. The Economic Scientist. Edited by Arthur F. Burns, National Bureau of Economic Research, Inc. New York, 1952を参照。

(6)

  IV  トマス・ロバート・マルサスと経験主義的傾向   V  デイヴィッド・リカードウと古典派経済学の発展   VI  新しい社会諸科学の始動。哲学的急進主義者   VII 勝ち誇る時代の経済学

  VIII ジョン・ステュアート・ミルと古典派経済学の人道主義化   付I  ローダーデイル

  付II ナッソー・W.シーニア

 第2巻

  IX  効用理論の抬頭:W.スタンリー・ジェヴォンズ、カール・メン ガー、レオン・ワルラス

  X  アルフレッド・マーシャルと新古典派経済学   XI  アメリカ経済学の発展とJ.B.クラークの役割   XII フランク・フェッターとアメリカ心理学派

  XIII ハーバード・ジョージフ・ダヴェンポートと金銭的論理

  XIV オーストリア学派の一般理論:フリードリッヒ・フォン・ヴィーザー   XV ジョセフ・アロイス・シュンペーターとヴィルフレッド・パレート   XVI グスタフ・カッセルの数学的アプローチ

  XVII 社会価値学派:ベンジャミン・マックアレスター・アンダーソン Jr.

  XVIII ジョン・A.ホブスン   XIX ドイツ歴史学派:シュモラー

  XX ソースタイン・ヴェブレンの制度主義的アプローチ   XXI ジョン・R.コモンズと集団活動の経済学

  XXII 結論:回顧と展望  付III アダム・スミスの方法論  付IV 古典派の価値論

 付V  マッフェロ・パンタレオーニ  付VIJ.M.ケインズ覚え書き

(7)

 付VII 厚生経済学論評

 付VIII 貨幣的慣例、経済理論および景気循環の相互関係

 付IX 1917年経済理論の諸形態に関するスタイナー覚え書の結論3)4)

3. 『諸類型』の成り立ちと出版の経緯について

ドーフマンによれば、ミッチェルは長い間求められていたJ.B.クラークの 後継者であった。ミッチェルの講義「経済理論の諸類型」は彼の研究計画のな かに見事に適合していた。彼は長い間、その主題に関する書物を『景気循環』

Business Cycles)に続けて出そうとしていた。この計画された論著の予備的

な概要では「この書物は、現在の理論の特徴を明らかにし、批判することを企 てることになろう。それは現存秩序の発展と修正において、本能と制度により 果される役割を分析し、本能と制度を研究し、その知識を適用する手段を記述 することになろう」5) と述べられている。

ミッチェルが最初にコロンビアに来たとき、彼は「現代の意味における経済 理論の諸類型」に没頭することを計画していた。だが、その仕事を進めるにつ れて、彼は、支配的な経済思想の潮流がその起源をもつ学派の包括的な研究が 必要との印象をますます強くもつようになった。このようにして、彼は1916 年に古典学派の詳細な研究を開始した。6)しかし彼は、これをもともと企画し ていた書物への序文として、切り離して印刷しようとした。彼はその原稿に多 くの年月を費やしたが、出来ばえに対する慎重な感覚から、原稿完成後、彼は もっと都合のよい時に磨きをかけることを期待してとっておいた。彼の重要な 論文、「ベンサムの幸福計算」(Bentham’s Felicific Calculus)は、1918年に

3) W. C. Mitchell, The Backward Art of Spending Money and Other Essays.

McGraw-Hill, 1937.には、ヴェブレン、コモンズに関する論文と共に、ベンサムに関する論 文が収録されている。

4) 以上に取扱われた経済学者に割り当てられた頁数の多い順にみれば、マーシャル(110頁)、ヴェ ブレン(101頁)、シュモラー(75頁)、J.S.ミル(65頁)、ベンサム(64頁)、フェッター

(50頁)、ダヴェンポート(44頁)、他は30頁台以下となっている。

5)・6) J. Dorfman, “Professional Sketch” in Wesley Clair Mitchell. The Economic Sientist,ed. by Arthur Burns. National Bureau of Economic Research, Inco, New York, 1952. p.133.

(8)

その原稿から出版されたのであった。彼は経済学だけでなく、他の社会諸科 学におけるベンサムの役割りを再考することが多かった。後になって、彼は 同じくその原稿から、「リカードウ経済学の前提と先入観念」(Postulates and Preconceptions of Ricardian Economics)を1929年に引き出したのであっ た。7)

景気循環に関する講義が進むなか、「現在の経済理論の諸類型」は、古典派 に関する研究によって、範囲と中身の両面で、経済学だけでなく、大学の他の 社会諸科学においても有能な学生にアピールしたのであった。

『経済理論の諸類型』を編集したドーフマンによれば、それは「経済理論の 諸類型に関する講義ノート」というタイトルをもったミッチェルの広く用いら れた謄写版に対する需要から生じたものである。ドーフマンは、その著作の第 1章「経済学古典の研究について」において、その範囲、方法、目的 これ らについては後ほど検討することになる を見事に述べているのでそれにゆ だね、序文としては、本書の構成と組立ての歴史と技巧を詳しく述べることが 適切としている。

以下では、重要性が比較的低いと思われるものを除き、とくに重要と思われ る点に焦点をしぼって、ドーフマンの述べているところを概説しておきたい。

最初の謄写版は、学生のジョン・メイヤース(John Meyers)によって、1926- 27年の学年度の速記ノートから準備された。謄写版刷りの講義の新版は、その 後、1935年の春まで、ときどき講義に出席したことから利益を得ている。周期 的に、彼がかなりの量の新しい材料を得たとき、彼は新版の構成に向ったこと であろう。その結果、1935年の最終版は、最初の版より約30%ほど大きなも のとなった。このノートに対する需要は、コロンビア大学だけでなく、国内、

国外ともに、他の教育機関からもあり、1948年にミッチェルが亡くなった後 も続いたのであった。

メイヤースがこの仕事を断念した後、出版者で、この講義を学生として聞い た、ケリー(Augustus M. Kelly)は、この講義の謄写版を復活するため、ミッ

7) Ibid.,p.134.

(9)

チェル夫人の承諾を得た。1949年の再謄写版の原稿は、Economic Journal ような主要な専門機関誌で論評され、さらに専門的文献上でも、印刷された書 物であるかのように参照されたのであった。

こうした引続く需要は、この謄写版をもっと永続的な形に変えることへの関 心を強めた。最後に、1961年に、ドーフマンはミッチェル夫人から講義の出 版準備に編者の役目を果すように依頼された。

この書物を可能な限り完全なものにするために、ドーフマンは彼自身の所 有するノートから、さらにコロンビア大学図書館にある彼の日記を含む膨大な ミッチェル・ペイパーズのコレクションからも材料を使用した。枠組と基礎的 な骨組みを与えている最後の謄写版は完全な形で与えられている。

この書の重要な部分は、1918年講義の後半の講義のタイプ原稿からの抜粋 からなっている。この「1918年のタイプ原稿」は、ある点では、謄写版刷り よりも、むしろ豊富であり、とくにクラスでの論議を報じる点でそうである。

謄写版の時期には、社会科学に用いられた最大の講堂が必要であり、したがっ て、学生の参加は制限されていた。フロアから2つ以上の質問が出ることは 稀であった。しかしながら、1918年のクラスは12人ぐらいの小さなクラスで あった─それは戦時であった─が、極めて活発であっただけでなく、それには ミズーリ大学から来た、ヴェブレンの元の2人の弟子や1人のマルクス信奉 者、それにマーシャルのケンブリッジの講堂から来た1人の新入生が含まれて いた。論議のすべてと言うわけではないが、すべてのメンバーは論議に参加し たと思われる。この学期は非常に活気に溢れ、ときには、記録者は参加者の氏 名を識別出来ず、ただ単に「学生」と記録せざるをえないほどであったという。

さらに、謄写版とは違って、この筆記は整理されて、少なくとも一部は、ミッ チェルによる監修を受ける利点もあった。1917年までには、彼ははっきりと、

この講義を出版する準備に乗り出した。このために、彼は1917年10月1日 に始まるクラスに、速記で講義の記録をとるように、秘書のミス・バーレット

(Miss Ruth Bahret)を出席させたのであった。未公刊の日記によれば、とき どき「昼食後、昨日のクラスの論議の速記ノートを解読するのを助けた」とあ る。あるいは「ミス・バーレットが彼女の講義ノートを補充するのを助けた」

(10)

とある。ともかく、クラスのメンバーたちは、第2学期の写しのコピーを手 に入れた。幸いこれらのコピーは、次々と続く年度のクラスのメンバーに渡さ れ、少なくとも、再タイプしたコピーが残存している。編者(ドーフマン)自 身は2部を所有している。第1学期の筆記については、これまでのところ見 つかっていない。しかしながら、ミッチェル・ペイパーズには、少しタイプし たもの、とくに、そのような筆記の一部だったかもしれないクラスの論議の要 約が含まれている。

『経済理論の諸類型』のもう1つの大きな部分は、「古典派経済学」という 原稿からの抜粋から構成されている。これを、彼はこの書物の最初の部分とし て計画していたのであった。彼はそれを1916年に書き始め、2年間にわたっ て、この仕事を活発に追求した。それから、日記によれば、1923年まで、と きどき改訂を試みた。彼はこの原稿を満足のいくものに完成することはなかっ たが、隠退後にそうしたいと望んでいた。この原稿は、講義の前半となったも ののかなりの部分をカバーしている。それは謄写版のノートよりも多くのエピ ソードについて、彼の見解をもっと十分に説明している。

さらにもう1つの大きな部分は、ミッチェル・ペイパーズの中にある関係 する多くの概要や抜粋から引き出されている。これらは1890年代終りにミッ チェルがシカゴ大学の院生だった頃まで逆上ることができ、最後の日まで続く。

これは「理論の諸類型」だけでなく、他のコース、会議、講演、および彼の膨 大な読書をカバーしている。この概要はしばしば非常に明白で十全なものであ り、関連した部分は、テキストの中に概要の形で挿入しうるものであった。幾 らかの啓発的な項目は、1923-24年の講義での学生のノートと、ミッチェルの 手紙から得られた。そしてもちろん、必要な場合にはいつでも、彼の公刊され た著作が引用され、また編者によって注釈が加えられた。これらすべての追加 は非常にそのカバーするところを拡大し、『経済理論の諸類型』は、最後の謄 写版のほぼ2倍の大きさになった。8)

8) なお、マルクスについて、他の重要な人物たちに与えられたような包括的な取扱いがなされな かったのは、コロンビアでマルクスは既にシンコヴィッチ教授によって取扱われていたからで あった。

(11)

「重商主義から制度主義までの経済理論の諸類型」の文書化には説明が必要 である、と編者は述べ、なんら出所を示していない資料は、すべて謄写版から とられているとしている。9)

4.「時代の子」としての経済理論と経済学者の前提する「人間性概念」

  について

ミッチェルによれば、経済学史研究の第1の問題は経済理論の時代的背景であ る。ミッチェルは、これを経済理論は「時代の子」(children of their times10)) であると呼んでいる。

そして経済学史研究の第2の問題は、経済学者が前提する「人間性概念」

(conception of human nature11))である。そのひとつの例示として、リカー ドウによる生産から分配へのシフトは、彼の人間性概念のシフトとの関連によ るものであり、このシフトを問うことが重要であるとしている。

また、スミスの自由放任論に対する、ジェイムズ・スチュアートのステイ ツマンの働きに両者の違いを見出し、スチュアートの政治家概念を見れば、ス チュアートの人間性概念とスミスのそれとの相違が分かるとしている。

公共の利益を形成するのは各人の私的利益である点ではスミスと異ならない が、しかし「公共の利益は、これをその大きな仕事とする人々によって見守 られねばならない。すなわち、スティッマンによってである。というのは、

明確なプランがなければ、私的利益の追求は公共の害へと導くであろうから である」12)と、スチュアートは言う。スチュアートは、スティッマンが冷然 と見ていないと、悲惨な結果が起きると指摘するのである。

 また数理学派については、学生の数学力のハンディから、ワルラスをやめ、シュンペーターの

『理論経済学の本質と主要内容』に転じたが、これも外国語の知識が必要なための問題をのこし た。そこでミッチェルは、近年その英訳が出たカッセルの『社会経済理論』(The Theory of Social Economy)を取上げたと説明している。

9) その他の編集上のもっと詳細な点については、ここでは省略するが、編者序文(TEP,vol.1.

pp.x-xi)を参照されたい。

10) Mitchell,TET,vol.1, p.26.

11) Ibid.vol.1, p.31.

12) Ibid.vol.1, p57.

(12)

ミッチェルは、以上を要約し、彼の主張点を明らかにしている。

その第1は、時代の主要な経済・政治問題とその解決のための経済理論とい う「時代の子」としての時代背景である。

その第2は、経済学者が抱いていた人間の経済行動の基本をなす、人間性概 念であり、これが時代により変化すれば、経済理論も変化することである。

以上の2つの視点を軸にして、ミッチェルは重商主義、スミス、マルサス、

リカードウ、リカードウ社会主義者、マルクス、J.S.ミル、ジェヴォンズ、マー シャル、マーシャル以後のヴェブレン、コモンズへと展開を見てゆくことに なる。

今ここで、『諸類型』において、ミッチェルが取上げ論じているすべてにわ たって取上げることは不可能に近いし、彼の経済学史の特徴を把握するうえ で、必らずしも必要とも思われない。したがって、以下では、彼の経済学史研 究の特徴が最もよく示されている点に焦点をしぼって見てゆくことにしたい。

5. ベンサムの功利主義と人間性概念について

ミッチェルは、『諸類型』の第3章で「ジェレミー・ベンサムとその功利主 義」を論じている。通常の経済学史では、とくにドグメンゲシヒテ的な経済学 史では、ベンサムが独立した形で取上げられることはまずないであろう。にも かかわらず、ミッチェルがベンサムに独立した1章をさいているのは特異な ことである。これは既に、経済学者の抱く人間性概念について述べられたよう に、いかなる経済理論体系でも、人間性概念に基づかねばならないのは明らか だからである。人間の経済行動の基本をなす人間性概念が時代によって変化す れば、その上にたつ経済理論も変化するからである。

その例示のいま1つとして、ミッチェルは、マルサス対ゴドウィンの人口 論争での意見の違いは、両者の人間性認識の違いによるものとしている。マル サスは、性的情念が支配的本能であるとの人間性概念をもっていたのに対し、

ゴドウィンは人間の完全化の可能性という一般的観念をもっていた。したがっ て、人口の急激な増大の結果が恐れられるならば、人々は感覚的・道徳的に流 行している行為を自己抑制することによって、それを避けるであろうと信じて

(13)

いたからである。

人間は快楽を求め苦痛を避ける幸福の最大化という行動様式の主張が社会 諸科学とくに経済学の学徒にとって重要になるのは、社会諸科学に基礎を与え ると、ベンサムが主張したからであった。「ベンサムは道徳世界のニュートン になるのを夢見ていた」と、ミッチェルは述べている。13)

人間を幸福計算を行なう機械とみる人間性概念から、最大多数の最大幸福が 主張された。この幸福計算は社会科学全体に大きな影響をもたらしたが、ミッ チェルはこのベンサム主義に3つの基礎的問題点を指摘している。

第1は、人間の感受性は同一ではなく異なるという点であり、第2は、快 楽も苦痛も種類において異なること、そして第3に、同じ種類の快楽・苦痛で さえ、その量は、次々と投じられる分量によって変化するという難点である。

ミッチェルはこれらの難点から、ベンサム主義は「測定」ではなく、「分類」に 終止したのであり、計算科学ではなかったとしている。

ベンサムと経済学の関係について、ミッチェルは、ベンサムはまず、J.ミル を通じてリカードウに影響を与えた。経済学に対するベンサムの影響の重要性 は、第1に、倫理、立法、行政、教育、行刑学への影響であり、第2に、その 後継者たち、とくに哲学的急進主義者の実際的活動への大きな影響を通して、

すべての社会科学に与えた支配的影響であったと、ミッチェルは述べている。

ミッチェルは、『諸類型』の第6章と第7章において、30人を超える多数の 人物を取り上げ、この影響を詳しく論じており、それがミッチェルの大きな特 色を示している。

その中には、J.ミル、J.S.ミル、フランシス・プレイス、トマス・アトウッ ド、ウイリアム・コベット、ロバート・オウエン、トマス・スペンス、シーニア、

ヘンリー・フォーセット、マカロック、ジョン・レー、サムエル・ベイリー、

オーギュスト・コント、ヘンリー・C.ケアリー、トマス・カーライル、ジョ ン・ラスキンらが含まれている。

13) Ibid.,vol. 1, p.202.

(14)

6. B.M.アンダーソンJr.の社会価値論

ここにB.M.アンダーソンJr.といった、通常の経済学史では聞きなれない 人物に、ミッチェルは注目している。これもミッチェルの経済学史の1つの 特徴であるが、それは、ミッチェルが彼の経済学史を制度主義的アプローチへ の歴史的展開の研究と見ているからにほかならない。この観点から見て、アン ダーソンJr.の社会価値論は重要であるとみて、ミッチェルによって1章を当 てられているである。

ミッチェルによれば、初期の心理学に対して、J.ミル、J.S.ミル、H.シジ ウィックによるヘドニズム批判、つまりその極端な知性主義と個人主義への批 判が展開された。これに対してクーリー(C.H. Cooley, 1864-1929)は、『人間 性と社会秩序』(Human Nature and the Social Order, 1902)と『社会機構』

Social Organization, 1909)で、金銭的評価を論じた。ミッチェルは、クー リーを評価して、彼の仕事によって、「制度派の価値論をつくる努力が始まっ た」14) と述べ、社会価値論は、純粋な静態的均衡論に価値評価論がないのを 満たそうとするタイプの理論であったとしている。社会価値論はフェッター

(Frank A. Fetter)が代表する理論に論理的に近いものであり、この学派の理 論家たちが取り組んだ特定の問題は、人間の価値評価を決めるものは何かとい うことであった。社会価値論を説く人たちは、制度の影響力に大きな重要性を 帰したのであった。15)

このミッチェルによれば、アンダーソンJr.は狭い意味における社会価値学 派の明白な代表者の1人である。

アンダーソン(1886-1949)は政治的、文化的に優れたミゾリー州の家系の 出であった。彼はミゾリー大学でB.A.、イリノイ大学でM.A.、そしてコロン ビア大学でPh. D.を取得した。そして1911年から1913年までコロンビアで 講師をつとめ、1918年にNational Bank of Commerce, New Yorkの経済顧 問となった。2年後、チェイス・ナショナル銀行との合併後も、彼は引き続き 新銀行のエコノミストとなった。1939年に彼はロサンジェルスのカリフォル

14) Ibid.,vol.2, p.449.

15) Ibid.,vol.2, p.451.

(15)

ニア大学での教師に戻った。彼はコロンビアではデューイの学生であり、クー リーの仕事やヴェブレンのさまざまな著書の崇拝者であった。コロンビア大学 での博士論文は『社会価値』(Social Value, 1911年)であった。次いで1917 年には『貨幣の価値』(Value of Money)が出た。これは価幣数量説の批判を 含むものであった。

ミッチェルの要約によれば、アンダーソンの考えの核心は、(1)絶対的価値、

(2)彼の言う「オーストリア学派の悪循環」(3)価値評価における社会的諸要 因である。16)

アンダーソンによれば、オーストリア学派は2つの抽象を行なう。個人の 精神は社会から孤立している。個人の精神の内部では、経済的利益は他の諸利 益から孤立している。ここから、彼ら自身は、彼らが社会における価値を説明 しようとするとき、悪循環におちいる。財Aに対する欲望から出発するとし て、なぜそれは価値をもつのか。なぜなら、こうした欲望のためであるのか。

いや、それは十分ではない。そこにはまた、交換に与える他の財がなくてはな らない。すなわち、他の価値がなければならない。このようにして、財Aの 価値を説明するために、オーストリア学派は財B、C、D、等の価値を前提し なければならない。いかにしてわれわれはこの悪循環を逃れるのか。それがよ りかかっている間違った抽象を落すことによってである。そこには個人の精神 はなく、ただ社会的精神だけがある。社会的精神には切り離された経済価値 はなく、それは孤立しては存在しない。価値とは何か。物に具体化された人間 の行為に対する力であり、その分量は社会的産物である。とくに経済的、政治 的、倫理的秩序という社会制度により影響される。では、価値はいかに説明さ れるのか。社会的・精神的生活の具体的全体に、とくに分配の道徳的および法 的価値に帰すことによってである。絶対価値が相対価値の背後にあらねばなら ない。価値はそれらが比較される前に存在しなければならない。ここからわれ われは、さまざまな人の感情を比較しうる。なぜなら、社会的な諸要因が価値 を形成するからであるとされる。

16) Idid., vol.2, p.454.

(16)

このようにして、社会価値論は、われわれはすべて一定の社会体制の産物で あることを強調する。

異端的タイプも含めて、その価値論は依然として、価格現象の理解という点 において、古典派経済学の中心的関心に忠実であるという点で、古典派経済学 の後継者である。ただし、ホブソンは例外であり、ヴェブレンはその最も優れ た例外なのである。17)

7. ソースタイン・ヴェブレンの制度主義的アプローチ

ミッチェルは、さらに進んで制度主義的アプローチに至る。ヴェブレンを第 20章で、コモンズを第21章で取上げ、最も詳細に論じている。

ミッチェルは、制度主義的アプローチという観点から、マルクスを独立し て取上げることはなかったが、しばしばマルクスに触れることも多く、とくに ヴェブレンとの比較において、その類似点と相違点に慎重に注意が払われて いる。

ミッチェルは、まず、マルクスによるBritish Blue Booksへの注目を評価 している。

「マルクスは、多くの点で先行者と正統派の同時代人の誰よりも、決定的に 優れた研究方法をもっていた。というのは、マルクスは彼の研究の大部分を

Blue Booksの研究に基づかせていたからである。それは経済学者に特別な価

値をもっていたが、経済学者たちはほとんど注目することはなかった」18)から である。

ミッチェルはまた、「マルクスは、最初ではないが、彼の時代までの真の意 味での制度主義的経済学者であった」19) と述べている。

ミッチェルは、ヴェブレンとマルクスの類似点と相違点を次のように明らか にしている。ヴェブレンの経済学へのアプローチは幾分マルクスに類似してい たが、ヴェブレンはマルクスよりも完全に人間の制度について分析的な説明を

17) Cf.Ibid.,vol.2, pp.483-84.

18) Ibid.,vol.2, pp.599-600.

19) Ibid.,vol.2, p.600.

(17)

行なったからであると。

マルクスとヴェブレンの相違は、ヘーゲルの弁証法とダーウィン、スペン サーから引き出した形而上学的思想にあった。マルクスは、資本主義は社会主 義へと向うとみた。他方、ヴェブレンは、人間を数千年前に確立された本質的 に生物学的タイプを取得した動物の種類と考えていた。人間の身体と脳に関 する限り、新石器時代以来、少しも重要な変化をしていない。変化は本質的に は、人間の脳の向上に基づくものではなく、ある思考習慣の漸次的累積による と、ヴェブレンは言う。20)

ヴェブレンによれば、「人間は無意識のうちに、その力能の行使によって、

思考習慣を獲得する。それは、人間が得る思考習慣の種類は、日常的活動につ いて形作られることを意味する。」21)それは、現代人の精神は第1義的に生計 を営なむ急務によって形成されてきたことを意味する。生計を得るうえでの効 率を獲得した人間は、食料と住居を手に入れることに当てない余暇を一定量獲 得したのであった。これが社会を発展させ、技芸と科学とさまざまな種類の社 会的卓越を生み出すことを可能にしたのであった。

ヴェブレンとマルクスが異なるもう1つの方法は、ヴェブレンが自然と、マ ルクスよりも進化する将来像に対して異なる態度をとったことであり、進化過 程の見方の違いによるのである。マルクスはヘーゲルの弁証法の範囲内にとど まった。したがって、彼は社会主義を永遠の社会組織とみなした。これに対し て、ヴェブレンは、ヘーゲルの学徒よりはむしろダーウィン主義者であった。

したがって、彼はマルクスと異なり、累積的変化過程の継続をみていたので あった。

ヴェブレンとマルクスを分ける、もう1つの相違点は、人間性をどう捉える かをめぐる相違と言える。マルクスは人間性について、第1義的には、イギリ ス古典派経済学者がもったものと変らないベンサム主義者の人間性概念であっ た。これに対して、ダーウィンは利益計算よりも、本能と習慣によって論じて いる。自己保存の本能である。ヴェブレンは、ダーウィンに従い、一定時期に

20) Ibid.,vol.2, p.602.

21) Ibid.,vol.2, p.604.

(18)

支配的である、特定の思考習慣を説明することを根本問題とみたのであり、こ の思考習慣を制度と呼んだのであった。

正統派経済学の基本的欠陥は、この根本問題の看過にあると、ヴェブレンは みていた。したがって、ベンサム主義に従う正統派経済学者たちが本質的に行 なったことは、この特定の思考習慣、この制度を人類全体に帰し、これが現代 文化における唯一の重要な経済制度であった場合に、人々がいかに行動するか を論じることであったと、ヴェブレンは言う。

要するに、ヴェブレンの研究は、経済行動を決定する最も重要な要因として、

制度を取扱うことによって、彼の先行者たちの研究と異なっていると、ミッ チェルは述べている22)

哲学的急進主義者たちによる制度改革は、大部分「悪い制度」について、そ れらの改良を論じたのであった。

ヴェブレンと正統派経済学者の制度を取扱う態度の相違は、正統派が現在作 用している制度を扱うのに対して、ヴェブレンの問題は、制度の進化の問題な のであった。

ヴェブレンは企業社会を奇妙なものと見ていた。財の生産と金もうけとの 違いである。彼はこれを機械過程(machine process)と営利企業(business enterprise)という現代生活の2つの特徴とみた。彼はこれを別の言葉では、

「産業的使用」(industrial employment)と金もうけの金銭的使用(pecuniary employment)と呼んだのであった。

このような生活の仕方へのヴェブレンの批判は経済理論への批判となり、「資 本主義的サボタージュ」や「顕示的浪費」(conspicuous waste)という批判と なった。

ヴェブレンは、人間性の特徴として、「製作者本能」(instinct of workmanship) と「顕示的浪費」が現代社会の特徴となったと述べた23)

ヴェブレンは言っている。

「現代の経済学は、ダーウィン主義以前の科学である。その意味で科学とは

22) Ibid.,vol.2, p.614.

23) Ibid.,vol.2, p.624.

(19)

言えない。伝統的経済理論は、経済機構はいかにして現在の形をとるに至った かを理解する最も重要な問題を見逃してきた。そして人間性に関する極めて不 完全な認識に基づいた経済理論の巧みな分析にほとんど従事してきたのであ る。」24)

ミッチェルは、ヴェブレンの『営利企業の理論』を制度主義の研究として最 も重視し、現代文明の物質的枠組は産業組織であり、この組織に活力を与える 支配力は金もうけであることを明らかにしている。企業=金もうけの業と「機 械過程」(財生産の現代的方法の特徴)との関係を、企業の目的は貨幣利潤で あり、役に立つ財はしばしば金もうけのために生産しなければならない副産物 である、とヴェブレンは見ている。

ミッチェルは、ヴェブレンがFederal Industrial Commission(1900-1902) の報告書をよく研究したことを見逃さない。ヴェブレンは『営利企業の理論』

で、企業の本性、諸原因、効用、今後の傾向について詳細に研究している。彼 は現代における最も重要な経済制度として営利企業を取上げたのであった。

ヴェブレンは、価格決定問題がある意味で基本的であることを否定すること はないが、しかし研究すべきより重要なことは、不変な経済的欲望の充足では なく、むしろ比較的最近の時代に顕著になった側面である。それは現代がもつ 2つの大きな特徴的な制度である。その1つが営利企業への従属下で行われる 機械過程(富の「産業的使用」)であり、もう一つが営利企業(富の金銭的使 用)である。ヴェブレンは次のように述べている。

「現代社会は機械の使用を企業に従属させている。いかにして企業は産業を 妨げるのか。人間の欲望を真に充足するものよりも、むしろ彼らの貨幣的欲望 に訴える物の生産に向かう。広告が人間欲望に対してもつ効用は何か。そのプ ラスの側面のあることを認めるが、それは独占的な利点を得るためのトリック である。」25)

ミッチェルは次のヴェブレンの言葉を重視している。

「彼(ヴェブレン)は主張している。人々の満足に本当に貢献しないやり方

24) Ibid.,vol.2, p.626.

25) Ibid.,vol.2, p.633.

(20)

で金もうけをしている人々の所得は、真の価値ある財を生産する人々の所得か ら差し引くやり方で引出されている。営利企業階級は、技術者の大きな生産性 の上に生きる一種の寄生動物であると、彼はいつも言っているようである。」26) ミッチェルは、もちろん、ヴェブレンの貸付信用論にも注目し、産業が役立 ちのためでなく、利潤を得るために運営されるのであるから、貸付信用の増大 は、産業の停滞と失業を生み出すという。したがってヴェブレンはここから恐 慌と不況の理論へと向うことになる。

ヴェブレンはまた、現代社会の将来について次のように述べている。すな わち、

「営利企業は根本的に機械過程にたよる。しかし機械過程はその帰依者を、

営利企業を理解できない人々へと変える。彼らは社会主義者に変わる。彼ら は、現在の社会機構の正当性を問題にし、自分が発明した社会機構のある新 しい方法を彼らに告げる。ある予言者の誘惑的な言葉にたやすく落ちる。そ の社会機構では、人々が互いの欲望充足に向って動くことができ、その主な 機能が技術者の仕事を妨害する余計な営利企業者を画面から取除く労働者と なりうるであろう。」27)

ヴェブレンは、現代の産業労働階級の特徴である製作者本能(instinct of workmanship)と営利階層に支配的な「獲得本能」(instinct of acquistion)の 対立抗争の結果いかんが現代社会の将来をきめると見ていると言えよう。

ミッチェルの述べるところによれば、ヴェブレンは、現代人を非常に複雑な 状態の面白い産物とみなした。彼はこの奇妙な産物がいかにして作られたかを 理解しようと考えた。これを行なうために、彼は第1義的に、彼の言う重要な 社会経済制度の文化的影響を第1に研究し、それらの制度がそのもとで従事 する人々の間にどのような精神的慣習を生み出すかを明らかにしようとしてい る。28)

このようにして、ヴェブレンの関心は「制度の本質と成長との研究を含むも

26) Ibid.,vol.2, p.634.

27) Ibid.,vol.2, p.650.

28) Ibid.,vol.2, p.653.

(21)

のに拡大された· · · · 制度とは、その時に支配的な思考習慣である」29) と明 言された。

ヴェブレンが社会主義に触れた文言をさきに取上げたが、ヴェブレンと社会 主義との関係をよく見れば、彼は1つの運動としての社会主義を信じている以 外に、社会主義を信じていない、とミッチェルは主張している。

社会主義をめぐるヴェブレンとマルクスの間の重要な相違として、繰り返 しとなるが、マルクスは、社会主義国家がひとたび達成されると、地上でのパ ラダイスに近づくと考えている。社会主義はマルクスの展望において、進化が 向かう究極的目標である。もちろん、マルクスは歴史をヘーゲルの眼で見てい る。総合が達成されるとき、変化過程は終る。

他方、ヴェブレンは進化過程をダーウィンの眼により、その観点から進化過 程には見分けうる限界は存在しないとみている。

また、人間性概念に関連してヴェブレンは、経済的利益が経済行動を形成す る非常に重要な要因であることを否定するつもりはない。しかし彼は経済的利 益についてある問題を見ている。マルクスは経済的利益に大きな重要性をおい た。彼の経済学では、彼は古典派経済学者たちに見られるのと同じタイプの社 会心理学を前提していた。こうしてマルクスはベンサムに、そしてリカードウ に非常に接近していた。「経済的利益」の中身が問題である。自分たちの利益 をみる奇妙なやり方を、ヴェブレンは分析したのであったと、ミッチェルは解 している。30)

ミッチェルは、再びヴェブレンが現代の信用構造を重視していることに注目 し、次のように述べている。信用は現代の営利企業に必要であり、現代産業に とってではない。営利企業は信用により利潤を高めうるからである。ヴェブレ ンは、信用の山積みはそれ自体は技術過程の知識も、機械のストックも増加さ せないとしている。31)

信用が生産を増大するという主張に対してヴェブレンが行なう唯一の譲歩

29) Ibid.,vol.2, p.655.

30) Cf.Ibid.,vol.2, p.660.

31) Cf.Ibid.,vol.2, p.665.

(22)

がある。彼は、信用過程が物質的諸要因を利用する立場にない人から、利用し 得る人々に渡される限り認める。しかしここでもまた、それは物質的意味でな い生産資源を増大するが、所有権の制度から生じるある不快な結果を防ぐにす ぎないのである。32)

さらにミッチェルが指摘しているように、ヴェブレンは、現代の営利企業の 場合、会社の所有権は名目的には株主にある。しかし実際は株主のためではな く、会社の重役会の利潤のために運営されると言う。

「言いかえると、現代の営利企業は、典型的な場合、企業目的に利用される 財産の大きさを表わさない人々によって自身の利潤のために運営されているの であり、株主のためではない。」33)

要するに、ヴェブレンによれば、現代の資本の本質として、大企業は第1義 的に、たまたまコントロールし得る人々のための金もうけのために動かされて いる。生産に使用される物的財の集合としての資本と、企業者の意味での資本 を区別せねばならない。企業資本は金銭的大きさであり、生産に使用される物 財とはまったく異なるものである。それは計算される基礎を異にする。とい うのは、その価値は、企業家が実際どのような物的設備をもっているかではな く、彼の利潤予想にかかっているからである。したがって、こうした見込みは 所有する機械や土地等の分量と比べた他の多くのものによって影響されるので ある。

ヴェブレンの考えでは、重要なことは、われわれの欲望を充足するのに役立 つ商品の生産であり、彼が指摘していることは、すべての重要な過程が営利企 業の生産に対してもつコントロールによってゆがめられていることである。

恐慌−資本主義の破局に関した見方についてのマルクスとヴェブレンの相違 について、ミッチェルは次のように見ている。すなわち、マルクスによれば、

資本主義の破局は、資本家階級とプロレタリア階級による、それぞれの利益追 求による。むしろ直接的で単純な仕方でもたらされるであろう。これに対し て、ヴェブレンは、理論家たちがみるように、自分たちの経済的利益を追求す

32) Cf.Ibid.,vol.2, pp.665-66.

33) Cf.Ibid.,vol.2, p.666.

(23)

るであろうという微妙な仮定をもって進める代りに、現代社会で生計を得る、

異なる階級の精神への影響を示そうとする。ヴェブレンが見ているのは直接的 破局ではなく、それはむしろ、人々の精神に対する生計を得る方法の累積的影 響によるのである。とは言え、累積がある点に達したとき、彼の分析では、突 然の転覆が起るかもしれないのである。34)

ミッチェルはまた、人間性概念に関した古典派経済学者たちとヴェブレンの 相違を強調している。すなわち、古典派経済学者たちは、人間を快楽と苦痛の 間を念入りに選択する創造物とみなしたに対して、ヴェブレンは、人間は受動 的ではなく、積極的な創造物とみていた。古典派経済学者たちは、人間性に関 する誤った考え方をもっていたのである。

古典派経済学者たちは人間の合理性を想定していた。これに対して、ヴェブ レンは、経済現象の説明を文化的発展の累積過程によって代替することを提案 したのであった。

なるほど、リカードウは合理性の観点から制度改革を論じたが、彼は制度 的枠組の根本的変化は考えていなかった。J.S.ミルは生産法則と分配法則の違 いを認め、分配法則は人為的なものであるゆえ、変更し得るとした。その他ダ ヴェンポートのような先行者にも言及される。しかし、ヴェブレンの場合は、

ジェヴォンズ、マーシャル、フェッターとはるかに大きく異なっている。「こ の相違は、異なる問題の取扱いと、人間性の異なる概念にかかっている」35)こ とを、ミッチェルは指摘している。古典派経済学者とその継承者たちは、人間 性における合理的計算の要因を強調した。これに対して、ヴェブレンは習慣の 要因を強調したのであった。36)

もちろん、ミッチェルは、経済制度の研究はヴェブレンで始まったとは考え ていない。ミッチェルはその先行者たちを列挙している。そこには次の人物が 挙げられている。

リチャード・ジョーンズ、ロバート・オウエン、ウイリアム・トムソン、ト マス・ホジスキン、ピアシー・ラヴェンストーンと他のリカードウ派社会主義

34) Cf.Ibid.,vol.2, p.681.

35), 36) Ibid.,vol.2, p.688.

(24)

者たち、シスモンディ、フーリエ、サンシモン、J.S.ミル、ドイツ歴史学派の ロッシャー、ヒルデブランド、クニース、古典派経済学者の批判者たち、シュ モラー、マルクス。

しかし、そのうえで、同時代の制度主義者とヴェブレンとの相違として、(1) より確固とした理論的把握と、より鋭い心理学的洞察と、歴史研究のテクニッ クへの関心の薄さ。(2)歴史的方法を挙げている。

8. ジョン・R.コモンズの集団活動の経済学

ミッチェルの指摘によれば、制度派は正統派経済学を批判しただけで、それ に取って代る制度派理論を展開していないとされた。こうした一般的な態度か らコモンズの1934年の著書が出版されることに鋭い関心を示した。この『制 度経済学』(Institutional Economics)は921頁に及び広範囲の経済問題をカ バーしたものであった。その前、1924年には『資本主義の法制的基礎』(Legal Foundation of Capitalism)が出ていた。これは、コモンズが彼自身の経験か ら、個人行為をコントロールする集団活動により果される役割りに関する理論 を引き出したものであった。

したがって、彼の経験を明らかにするためには、最小限の伝記的記述が必 要である。彼はドイツ歴史学派の影響を受けて帰ってきた、実際的な経済問題 に通じていたイーリー(Richard Theodore Ely)から影響を受けた。帰国後、

シラキュース大学では実に多彩な分野を教えた。それは、経済学のほか、人種 学、人類学、犯罪学、慈善組織、課税、市行政等々に及んだ。彼は実際、刑務所 や感化院や工場へ学生たちを連れていった。少年犯罪者の予防と改革などを実 際に見、学生たちを連れて、実態調査のさまざまなフィールド・ワークを重ね たのであった。非常に多くの社会制度の調査を行なった。彼はありきたりな講 義ではなく、当時のさまざまな社会・経済問題の調査を重んじたのであった。

コモンズは物価の下落を示す指数を示したし、移民と労働問題のエキスパー トとして、United States Industrial Commissionに参加した。労働組合の 研究も行ない、さまざまな調査研究に従事していった。またNational Civic

Federationのスタッフに参加し、労働調停と租税改革の仕事にも従事した。労

(25)

働争議の解決で調停者として活躍し、経済学者の居場所は、労働運動のリー ダーたちへのアドヴァイスにあることを学んだのであった。

このようにして、コモンズの人脈は広がり、1904年に、イーリーのすすめでウ イスコンシン大学へ移り、ここで彼のさまざまな活動が実を結ぶこととなった。

アメリカ労働組合運動史の研究に向い、これは『アメリカ産業社会記録史』(A Documentary History of American Industrial Society,〔1910-1911〕)とな り、のち、『アメリカ合衆国労働史』(History of Labour in the United States.

vol. 1-2, 1918年, vol.3-4, 1935年、全4巻)を出した。

彼は多くの種類の社会運動に参加すると共に、公益事業研究にも力を注い だ。合衆国とイギリスの公益事業の比較研究にも従事した。また、彼はウイス コンシン州の労働立法のすべての法典を編纂した。さらに、雇用者に労働者の 安全第1のキャンペーンに力を入れさせる安全コードも作成した。

1913年には、ウイルソン大統領によって、「合衆国産業関係委員会」の委員に 任命された。彼はまた、貨幣問題に取組み、物価の安定を強調し、失業保険計画 に着手し、1932年にはウイスコンシン州の最初の失業補償法(Unemployment Compensation Act)を通過させたのであった。

コモンズは彼の一般的方策を手短かにこう要約している。「私は資本主義を 良くすることで、それを救済しようとした。· · · · 私はまた、労働組合を私の 知る最善のものにしようとした」37) と。

こうした状態を良くしようとするコモンズの関心と同じく、経済理論への関 心も彼の特徴であった。コモンズによれば、「私の見解は集団活動への参加に 基づいている。その活動から個人の行為をコントロールする集団行為によって 果される役割りの理論が引き出される。」38)

コモンズは全生涯をかけて、利益衝突の研究に費し、それをコントロールす る裁判所を重視した。彼はこう述べている。

「現代社会でのコントロールは主権者によって行なわれる。すなわち、国家 によってである。個人の行為に対する集団的コントロールを行なう国家の最も

37)・38) Ibid.,vol.2, p.717.

(26)

重要な機関は裁判・裁判所である。」39)

コモンズによれば、普通の教科書では、取引きの単位は、交換のために互い に取引きする2人の人々である。だが、これは取引きについての極めて不完全 でへんぱな見方であると批判し、経済活動の実際の単位は5人の当事者によ る取引であると考え、これには3つのタイプの取引があるとしている。その 第1は売買取引(bargaining transaction)─これは過去の経済学者が大部分 関わってきた取引である─。買手と売手と、そして代わりの買手と売手、さら に、買手と売手の対立する利益と、競争する買手と売手の利益を調整する裁判 所がある。裁判所はそのような取引を規制する現存の社会的規則が強制される のを見守るのである。40)

第2のタイプである管理取引(managerial transaction)では、一方は法的 上位者であり、他は法的劣位者である。典型的には、工場の雇用者と従業員の 関係にみられるものである。41)

最後に、コモンズが配分取引(rationing transaction)と呼ぶ取引がある。

これは会社の理事会が予算を引き出す活動によって典型的なものである。3つ の当事者があり、法的優越者、法的劣位者、裁判所である。例示としては、政 府による税配分があげられる。

これら3つの取引を考えるのが理論家の仕事であり、これは現代の制度を 研究していることを意味する。コモンズは、はっきりと、「制度とは個人行為 をコントロールする集団行為と定義しうる」42)と述べている。

それでは、ヴェブレンの制度概念と比較して、どのような関係にあるのであ ろうか。ヴェブレンの思考と行為・慣習(=制度)は、真の意味においては、

個人の行為をコントロールする集団行為である。これは、ヴェブレンの示して いるものと非常に類似している。両者の定義は明らかに異っているが、根底で はそれらは類似している、とミッチェルは述べている。43)

ミッチェルによれば、これまで経済学者たちは、ジョン・ロックをはじめと

39)・40) Ibid.,vol.2, p.718.

41)・42) Ibid.,vol.2, p.719.

43) Ibid.,vol.2, p.720.

(27)

して、物的なものとしての財産と所有権としての財産を区別した。しかし財産 概念の進化によって、1890年以後に無形財産(intangible property)が出現 した。これにより、ビジネス取引から生じる予想利潤の獲得権が財産と認めら れた。

この無形財産の観念をめぐって、ミッチェルによれば、コモンズはヴェブレ ンの制度主義経済学との相違点を示そうとした。

コモンズによれば、ヴェブレンは、合衆国産業委員会の聴問における金融界 の富豪たちの証言から資料を得た。(これはコモンズ自身も仕事をしていた委 員会であった)。そこでヴェブレンの無形財産の観念は、マルクス主義の「強 奪と搾取」というし観念に終止したのであった。44)

これに対して、コモンズは、「私の源は、集団行為への私の参加、手形の振 出しと、こうした参加をしていたときの最高裁判所の決定の研究であった。し たがって、私の無形財産観念は結局、慣習法上の正当な(reasonable)価値と いうことになる」45)と述べている。

このように、ヴェブレンが無形財産を社会全体の搾取とみるのに対して、コ モンズはこれを最高裁判所に提出される一連の争いとみたのであった。それら の争いは、無用な対立のないように、正当な価値を決めてもらうことになるの である。46)

ミッチェルが指摘しているように、コモンズは、スミス、リカードウ、その 後継者たちとも、ジェヴォンズとオーストリア学派の快楽主義的な理論とも異 なる。

「古典派経済学者たちは、互いに取引をする2人の個人を考えていた。彼ら は、取引が行なわれ、裁判所によって強制される作用規則の決定における集団 的行為の役割を把握していなかった。彼らにとっては、あらゆる取引において ただ2人の個人がいたのであり、彼らは裁判所によって次第に展開されてきた 入念な制度的な仕事を前提していたのであった。」47)

44)・45) Ibid.,vol.2, p.722.

46) Ibid.,vol.2, p.723.

47) Ibid.,vol.2, p.724.

(28)

コモンズは、所有権と有体財産は同じではないと考える。ヴェブレンの誤り は、コモンズによると、彼は利害の対立しか見なかった。これに対してコモン ズは、無形財産に集中する利害の対立は、裁判所、とくに最高裁判所による正 当な価値のルールに解消されることで、完結すると考えたのであった。48)

要するに、制度派経済学は、人間を快楽と苦痛による計算に関心をもつ合理 的人間としてでなく、本質的に愚かで情念的で抑制を必要とするとみる。49)

コモンズは、古典派が重視した労働の苦痛とオーストリア学派の決定的変 数である欲望を、体系のうちに結合されたことを認める。しかし、彼は、マー シャルは経済学者によって考慮されるべき根本的なすべての変数を認識してい なかったと言う。マーシャルは実際に変化する要因を不変なものとして扱っ た。彼が不変とみなした要因は所有権であった。彼は、価値あるあらゆるもの は所有される。したがって、物財の所有と供給は1つで同じものであると考え たのであった。

また、マーシャルは貨幣を一定不変とみなしているが、現実には貨幣と商品 との関係は絶えず変化していると批判している。

コモンズは、マーシャルが不十分にしか扱わなかった変数に将来性(futurity) があることを指摘している。将来性と結びついた変数の導入を経済理論の体系 中にもちこんだのは、コモンズであった。

「正当な価値」は久しい進化過程の果実であり、資本主義下で現われる現象 なのである。コモンズは資本主義の進化を、商人資本主義、産業資本主義、そ して最後に銀行資本主義への進化と把えている。そしてアメリカ合衆国は今や この第3段階に到達しているとみている。50)

ミッチェルは、コモンズによる制度主義経済学の一般的特徴を要約して次の ように述べている。

「『制度派経済学』の一般的特徴:社会は利害の衝突、集団行為の必要、裁 判所の経済的役割を引起こす。したがって、「しかるべき法的過程」を引起し、

48) Ibid.,vol.2, p.725.

49) Ibid.,vol.2, p.726.

50) Ibid.,vol.2, p.730.

参照

関連したドキュメント

It is suggested by our method that most of the quadratic algebras for all St¨ ackel equivalence classes of 3D second order quantum superintegrable systems on conformally flat

This paper develops a recursion formula for the conditional moments of the area under the absolute value of Brownian bridge given the local time at 0.. The method of power series

Answering a question of de la Harpe and Bridson in the Kourovka Notebook, we build the explicit embeddings of the additive group of rational numbers Q in a finitely generated group

Then it follows immediately from a suitable version of “Hensel’s Lemma” [cf., e.g., the argument of [4], Lemma 2.1] that S may be obtained, as the notation suggests, as the m A

In our previous paper [Ban1], we explicitly calculated the p-adic polylogarithm sheaf on the projective line minus three points, and calculated its specializa- tions to the d-th

Our method of proof can also be used to recover the rational homotopy of L K(2) S 0 as well as the chromatic splitting conjecture at primes p > 3 [16]; we only need to use the

In this paper we focus on the relation existing between a (singular) projective hypersurface and the 0-th local cohomology of its jacobian ring.. Most of the results we will present

The main technical result of the paper is the proof of Theorem 3.3, which asserts that the embeddability of certain countable configurations of elements into some model of the