• 検索結果がありません。

はじめに ( 畠山重忠に深く関係する人々の系図 ) ( 桓武平氏の系図 ) たかむね桓武天皇 葛原親王 高棟王 平惟範 --- 略 --- 平経方 平知信 平時信 時子 ( 清盛妻 ) たかもちくにか桓武天皇 高見王 高望王 平国香 平貞盛 略 平直方 略 北条時政 ( 秩父一族系図 ) よしぶみ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "はじめに ( 畠山重忠に深く関係する人々の系図 ) ( 桓武平氏の系図 ) たかむね桓武天皇 葛原親王 高棟王 平惟範 --- 略 --- 平経方 平知信 平時信 時子 ( 清盛妻 ) たかもちくにか桓武天皇 高見王 高望王 平国香 平貞盛 略 平直方 略 北条時政 ( 秩父一族系図 ) よしぶみ"

Copied!
88
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

畠山重忠の関係する人々第6 編 1

6 編 畠山重忠をめぐる人々

目次

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6-01 はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6-02 桓武平氏の系図、秩父一族系図、三浦氏系図、北条時政の系図、 鎌倉党の系図、武蔵七党の系図、伊豆・相模・武蔵の坂東武者、 重忠関連の地 (1)畠山重忠の父と母・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6-05 畠山重能、三浦義明娘(真鶴姫)、江戸重継娘 (2)畠山重忠の叔父・叔母・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6-11 山県瀬重、小山田有重、千葉常胤妻、杉本義宗、三浦義澄、三浦義連、 源義朝妻 (3)畠山重忠の兄弟・従兄弟・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6-20 畠山重光、長野重清、葛岡重家、渋江重宗、金子家忠妻、岡部忠澄妻 稲毛重成、榛谷重朝、千葉胤正、和田義盛、三浦義村、悪源太義平 (4)畠山重忠の子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6-37 畠山重秀、阿闇梨重慶、別当円燿、畠山重保、畠山重季(本田貞親) 島津忠久妻、護王姫、大串重親 (5)畠山重忠の妻・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6-41 足立遠元娘、北条時政娘、夙妻太夫、菊の前、加紀屋、本田近常娘、 巴御前 (6)畠山重忠の郎従・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6-48 本田近常、楱沢成清、柏原太郎、日高佐馬頭、 武蔵七党、秩父を名乗る武将 (7)畠山重忠と武将たち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6-53 河越重隆・重頼、江戸重継・重長、豊島清光・清重、渋谷重国、 海老名季貞、猪俣範綱、下川辺行平、曽我祐信、土肥実平、大庭景義、 斎藤実盛、熊谷直実、平子有長、愛甲季隆 (8)畠山重忠をめぐる女たち・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6-77 北条政子、丹後局、巴御前、静御前、小野姫、阿古屋 (最終p88)

(2)

畠山重忠の関係する人々第6 編 2

はじめに

(畠山重忠に深く関係する人々の系図) (桓武平氏の系図) 桓武天皇―葛原親王―高棟た か む ね王―平惟範---略---平経方―平知信―平時信―時子(清盛妻) 桓武天皇―高見王 ―高望た か も ち王―平国く に香か―平貞盛―略―平直方―略―北条時政 高望王―平良よ し文ぶ み―平忠頼-―略---平忠常---略---千葉一族 平良よ し文ぶ み―平忠頼―略―秩父一族 高望王―平良茂―平良正―略―三浦党 平良正―略―鎌倉党 (秩父一族系図) 秩父重綱―秩父重弘―畠山重能―畠山重忠―畠山重秀(母:足立遠元女) 畠山重忠―大夫阿闇梨重慶(母:足立遠元女) 畠山重忠―別当円燿(母:足立遠元女) 畠山重忠―畠山重保(母:北条時政女) 畠山重忠―畠山重季(本田貞親) 畠山重忠―貞獄夫人(島津忠久妻) 畠山重忠―護王姫(伝説) 畠山重能―長野重清(清重) 畠山重能―葛岡重家・畠山重宗(渋江重宗) 畠山重能―時子(金子家忠妻) 畠山重能―女子(岡部忠澄妻) 秩父重綱―秩父重弘―山県瀬重 秩父重綱―秩父重弘―小山田有重―稲毛重成(重忠を鎌倉に誘き出す) 小山田有重―榛は ん谷が や重朝し げ と も 秩父重綱―秩父重弘―女子(千葉常胤妻)―千葉胤正 秩父重綱―河越重隆―河越能隆―河越重頼―郷ご前(源義経妻) 秩父重綱―江戸重継―江戸重長―江戸忠重 河崎基家―河崎重家―-渋谷重国 秩父常家―豊島康家―豊島清光―葛西清重 (本田氏と畠山氏系図:加紀屋、加紀屋の姉が絡む) 本田近常―本田貞親 女子(畠山重忠養女、島津忠久妻) 畠山重忠―女子(実父:本田近常、島津忠久妻) 畠山重季(本田近常養子、本田貞親) (三浦党) 三浦為継―三浦義明―杉本義宗―和田義盛―朝比義秀(母:巴御前の伝説) 三浦義明―三浦義澄―三浦義村 三浦義明―三浦義連 三浦義明―女(源義朝妻、悪源太義平母) 三浦義明―真鶴姫(畠山重能妻、畠山重忠母)

(3)

畠山重忠の関係する人々第6 編 3 (鎌倉党) 平良茂-略-鎌倉景政-略-大庭景忠-大庭景か げ義よ し(源氏方) 大庭景忠-大庭景 か げ 親ち か(平家方) 鎌倉景政-略-大庭景長-梶原景時-梶原景季 (平家の系図) (北条時政の系図:北条時政の先妻・後妻別) 先妻伊東祐親娘―北条政子―源頼家(北条氏により暗殺?)・源実朝(公暁により暗殺) 北条義時 女子(畠山重忠妻、畠山義純に再嫁)―畠山重保 後妻牧の方―北条政まさ範のり(実朝室迎えの上洛中に病死) 女子(平賀朝雅妻、平賀朝雅:北条氏により誅殺) 女子(稲毛重成妻、稲毛重成:北条氏により誅殺) (武蔵七党) (横山党) 小野 篁たかむら-略-小野隆泰-横山義隆-横山義兼-横山盛兼-海老名季兼-海老名季貞 横山義隆-横山資孝-横山経兼-横山隆兼-横山時重-平子広長-平子有長 横山時重-女(和田義盛妻) 横山隆兼-女(畠山重能妻) 横山経兼-由木保経-略-大串重親(重忠の烏帽子子) 横山資孝-略-山口光兼-略-愛甲季隆(重忠を討つ) (猪俣党) 小野隆泰-横山時資-猪俣時範-猪俣忠兼-略-猪俣資綱-猪俣範綱 猪俣忠兼-略-岡部忠澄(妻:畠山重能女) (児玉党) 有道惟能―児玉弘行―児玉家行―児玉家弘―児玉弘高―児玉家長 有道惟能―児玉経行(妻:秩父武綱女)―秩父行重(母:秩父武綱女、秩父氏を継ぐ) (丹党) 丹武綱―丹武時―丹武平―秩父基房―榛沢成房―榛沢成清(重忠の乳兄弟、重忠重臣) (金子党) 平忠常-千葉胤宗-千葉元永-野与基永-野与行基(野与党) 千葉元永-村山頼任-村山頼家-村山家継(村山党) 村山頼家-金子家範-金子家忠(妻:畠山重能女)

(4)

畠山重忠の関係する人々第6 編 4

(5)

畠山重忠の関係する人々第6 編 5

(1)畠山重忠の父と母

畠山重忠は畠山庄司重能し げ よ しと三浦義よ し明あ きむすめ女(真鶴姫)の間に、長寛2 年(1164 年)埼玉県大里 郡川本町畠山の畠山館にて生まれ、幼名を氏王丸と呼ばれた。誕生期日は、吾妻鏡の元久2 年 (1205 年)重忠最期の日「重忠の死 42 歳」とある記事から逆算したものである(参照:吾 妻鏡第十八「重忠、愛甲季隆に討たれる」)。 平治元年(1159 年)の平治の乱で源義朝が敗れ、頼朝が伊豆蛭ケ小島に流され、平家の支 配が東国にも強まり、坂東の平氏も源氏支配から平家支配に従って生きねばならない時代で あった。

◎重忠の父・畠山庄司重能(生没不詳)

父能は、桓武平氏の平良文(村岡良文)を祖とする秩父重弘の嫡男で畠山荘の開発領主と して畠山庄司といわれた。秩父から男衾郡畠山に移住し、三浦義明の娘(真鶴姫)を妻に迎 え、重忠を産んだ。 村岡良文の父高望王は、桓武天皇(在位 781-806)の曽孫で、子息たち(良文の兄たち、 平将門に討たれた国香ら)と共に寛平元年(889 年)鎮守府将軍上総介として関東に下った。 良文はその時は幼く在京のままであった。良文は成人して関東に下り土着し、大里群村岡(熊 谷市南部)を開発し村岡を名乗った(藤沢市村岡、上総国にもに居住した?)。 左「村岡良文居宅址 大里群村岡」 右「村岡城址 神奈川県藤沢市」 畠山重能の略歴は下記の通りである。 ○永保3 年(1083 年)後三年の役(1083-1087) 前九年の役(1051-1062)の功績により鎮守府将軍に任ぜられた清原氏に家督相続に絡む 内紛が起った。八幡太郎義家は、清原氏の内乱に乗じて清原氏の清原清衡(後に奥州藤原三 代の栄華を築いた藤原清衡)を助けこれを平定した。桓武平氏である関東の武将たる鎌倉景 政・三浦為継・秩父武綱らが義家に従った。 ○永久元年(1113 年)横山党の乱 源為義の被官である横山隆兼ら横山党が、相模国目代を打ち殺したため、相模を含む関東 五カ国に追討の宣旨がでた。鎌倉景政・三浦為継・秩父重綱らが横山党を攻めた。横山党は、 源為義の保護の下に危機を脱した。 ○久安元年(1145 年)大庭御厨乱入事件 相模大庭御厨は鵠く げ沼ぬ ま郷にあり、鎌倉景政が伊勢神宮に寄進したものである。大庭御厨は、 境川の河口付近にあり、鎌倉郡と高座た か く ら郡の境であった。三浦党と鎌倉党(大庭氏)は領域的 に接しており、領域争いが絶えなかった。

(6)

畠山重忠の関係する人々第6 編 6 三浦義明は源義朝に援助を求め、義朝は相模国在庁官人と共に三浦義明ら 1000 騎を率い て、相模大庭御厨に乱入した。 ○久寿2 年(1155 年)比企群大蔵館の合戦。1155/8 鳥羽院は院宣により下野守源義朝に弟前左衛門源義賢の追討を命じた。義朝の長男・悪源 太義平は、武蔵国比企群大蔵館(嵐山町、鎌倉上道沿い)で叔父源義賢(木曾義仲の父)とそ の養君河越重隆を討った。このとき、義平は畠山重能に、「源義賢の子・駒王丸(後の木曾義 仲)を尋ね出して必ず打ち殺せ。生き残しては後年の災いになるであろう」と命じた。しか し、重能は駒王丸を助けようと斉藤実盛に預けた。斉藤実盛は駒王丸を木曾の中原兼遠のと ころにかくまってもらった(出典:源平盛衰記巻二十六「木曽義仲謀叛」は、久寿 2 年 2 月 とし、義賢養君を秩父重澄としている。延慶本平家物語は、久寿2 年 8 月 16 日としている)。 ○保元元年(1156 年)保元の乱 1156/7/11 保元の乱で秩父一族、横山党を含む武蔵七党、斉藤実盛、熊谷直実、大庭景義、大庭景親、 上総介広常、千葉介常胤などが源義朝に従う。更に、鎌倉防衛線の箱根・足柄山には、三浦介 義明、畠山重能、小山田有重などが馳せ参じた。 ○平治元年(1159 年)平治の乱 1159/12/9 信西の権勢に不満を持つ藤原信頼の ぶ よ りは、同じく不遇である源義朝と組んで、平清盛が熊野参 詣中に信西を攻め滅ぼし政権を奪取した(1159/12/9 夜)。 熊野詣に南行していた平清盛はいち早く帰京し、上皇・天皇を奪回し、信頼・義朝追討宣 旨を奉じて信頼・義朝を討ち滅ぼした(1159/12/26)。 この時、義朝軍に所属した東国武士は、鎌田政清、佐々木秀義、斉藤実盛、岡部忠澄、熊谷 直実、平山季重、金子家忠、足立遠元、波多野義通、三浦義澄、山内首藤俊通らであった。 畠山重能ら秩父一族の名は見えない。 ○永暦元年(1160 年)源頼朝、伊豆・蛭が小島に流される。 義朝と逃避行の途中、はぐれた頼朝は捕らえられ、伊豆・蛭ケ小島に流された。 ○長寛2 年(1164 年)畠山重忠誕生。 ○治承4 年(1180 年)以仁王、宇治にて敗死 1180/5/26 ○治承4 年(1180 年)畠山庄司重能、京都大番役。1180/7 畠山庄司重能、小山田有重、宇都宮朝綱らが、京都大番役(宮中警備のため地方豪族に命 じられる輪番役)のため上洛した。 ○治承4 年(1180 年)頼朝挙兵、山木兼隆邸夜襲。1180/8/17 ○治承4 年(1180 年)石橋山の戦い 1180/8/23 夜 ○治承4 年(1180 年)小坪の戦い 1180/8/24 ○治承4 年(1180 年)衣笠城落城 1180/8/26 ○治承4 年(1180 年)長井の渡し(畠山重忠が源頼朝軍へ参陣)1180/10/4 重能は、頼朝の挙兵前の治承 4 年(1180 年)7 月、京大番役として上洛した。そのため、 重忠は、京にて平家の下にある父重能のために、頼朝挙兵時に平家方に組みせざるを得なか った。その呪縛を乗り越えて、やがて重忠は頼朝が安房から下総へ北上し隅田川の長井の渡 しから武蔵に入ると、頼朝軍に参陣した。これは、重忠の一大転機であった。 ○治承4 年(1180 年)富士川の戦い 1180/10/20 夜半 ○治承4 年(1180 年)佐竹討伐 1180/11/5

(7)

畠山重忠の関係する人々第6 編 7 ○養和元年(1181 年)養和の大飢饉(1181/6―1182 にかけて) ○寿永元年(1182 年)横田河原の戦い(義仲vs城氏) 1182/10/9 ○寿永2 年(1183 年)倶梨伽羅峠の戦い 1183/5/11 平惟盛率いる10 万の北陸軍は、木曽義仲率いる 3 万の兵に、倶利伽羅峠の夜襲に敗れ敗退 した。畠山重能と小山田別当有重 400 騎は平家に従っていた(出典:平家物語巻第七「倶利 伽羅落」)。 ○寿永2 年(1183 年)篠原の戦い。 1183/5/21 倶梨伽羅峠に敗れ京都へ逃げる平家軍は、加賀国篠原の成合で激しい戦いとなった。平家 の殿軍を勤める坂東武者達(畠山重能、小山田有重、斉藤実盛ら)は篠原の戦いで奮戦し激 しく戦うが、300 騎が討たれた。石橋山の合戦で平家方の大庭軍にあった者(斉藤実盛、俣 野景久、真下重直、浮巣重親、伊東祐氏ら)が篠原の戦いで討死した。以後、坂東武士は対 平家戦いから消える(出典:平家物語巻第七「篠原の戦い」)。 ○寿永2 年(1183 年)畠山重能、小山田有重帰国 1183/7 畠山重能、小山田有重、宇都宮朝綱は、平知盛・平貞能の助言で平宗盛より暇をうける。 都落ちを覚悟した平知盛は、その子息らが源氏に加勢していることを知りながら、故郷に妻 子を残している重能らをあえて斬ることなく帰郷を許した(出典:平家物語巻第七「聖主臨 幸」)。 帰還した重能は平家とも源氏とも関係を断った。これ以後、畠山重能は吾妻鏡から消える。 一方、有重は、息子重成・重朝と共に幕府に仕え、北条時政の命により一条忠頼を謀殺し (1184/6/16)、幕府の暗い道へ歩んで行く。重忠・重成の道が、分かれて行く一大転機であっ た。 大里郡川本町大字畠山の井椋神社の説明板には、「井椋 神社は、畠山氏の先祖である将経から武基、武綱、重綱、 重弘、重能の代に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所 宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能が畠山庄司となっ て館を畠山に移した時、祖父重綱が勧請したものである。 初めは井椋五所大明神、井椋五所宮と号していたが後に井 椋神社と改称したものである」とある。 頼朝軍に参陣した重忠ではあったが、やはり、父の身 が心配でならなかった。そこで、秩父地方で崇敬される 三峰山三峰神社に「畠山重能・小山田有重帰還の願文」 を重忠・重成連名で奉納した。曰く、「御仏の四弘誓願の 恩沢が国土を潤し、御仏の光が全宇宙に薫ずる時、我ら が父畠山重能及び小山田有重兄弟は、平家の従僕として 例え西海に没する事を覚悟して戦うため京の都におりま す。神よ、どうか哀愍あいみんを垂れたまえ。ここに其の子ら重 忠・重成等は、幣帛へいはくを奉り当社に誠を尽くします。ここに謹んでお願い申しあげます。養和2 年正月」と(神奈川県立古文書館 資料ID:2200422743)。

(8)

畠山重忠の関係する人々第6 編 8

◎重忠の母・三浦義明(生没??-1180 年)娘(真鶴姫)

重忠の母・真鶴姫は、三浦義明を父とすると云うのが通説である。 源平盛衰記には、「畠山重能は三浦義明の聟、和田殿は義明の孫、重忠の母方祖父義明に向 かって弓を引くことは出来ません」とある(源平盛衰記巻二十一「小坪合戦」)。 武州鶴ケ峯畠山重忠公古戦場碑には、「父ハ重能、母ハ三浦義明女也リ。幼名ヲ氏王丸ト 称ス」と記している(武州鶴ケ峯畠山重忠公古戦場碑、1955 年創建、重忠没後 750 年記念碑、 横浜市旭区鶴ヶ峰)。 栗原勇「畠山重忠」には、「重忠は重能の次男として長 寛2 年畠山の館にて始めて呱々の声をあげた。彼の母は、 相模の豪族三浦大介義明の 女むすめである」と記している(陸 軍歩兵大佐栗原勇「畠山重忠」、1927 年日本戦史研究会発 行p8)。 貫達人「畠山重忠」には、「父は畠山の庄司重能であり、 母は三浦介義明の娘であった」と記している(貫達人「畠 山重忠」、1962 年日本歴史学会発行p10)。 三浦義明は、桓武平氏の平良茂を祖とする三浦党の党首で、摂関家領荘園・三浦荘の領主 で三浦水軍を率いる老将であった。三浦義明の略歴は下記の通りである。 ○永保3 年(1083 年)後三年の役(1083-1087) 前九年の役(1051-1062)の功績により鎮守府将軍に任ぜられた清原氏に家督相続に絡む 内紛が起った。八幡太郎義家は、清原氏の内乱に乗じて清原氏の清原清衡(後に奥州藤原三 代の栄華を築いた藤原清衡)を助けこれを平定した。桓武平氏である関東の武将たる鎌倉景 政・三浦為継・秩父武綱らが義家に従った。 ○永久元年(1113 年)横山党の乱 源為義の被官である横山隆兼ら横山党が、相模国目代を打ち殺したため、相模を含む関東 五カ国に追討の宣旨がでた。鎌倉景政・三浦為継・秩父重綱らが横山党を攻めた。横山党は、 源為義の保護の下に危機を脱した。 ○久安元年(1145 年)大庭御厨乱入事件 1155/8 相模大庭御厨は鵠く げ沼ぬ ま郷にあり、鎌倉景政が伊勢神宮に寄進したものである。大庭御厨は、 境川の河口付近にあり、鎌倉郡と高座た か く ら郡の境であった。三浦党と鎌倉党(大庭氏)は領域的 に接しており、領域争いが絶えなかった。 三浦義明は源義朝に援助を求め、義朝は相模国在庁官人と共に三浦義明ら 1000 騎を率い て、相模大庭御厨に乱入した。 ○保元元年(1156 年)保元の乱 1156/7/11 鳥羽法皇が死去すると、崇徳上皇・藤原頼長・源為義側と、後白河天皇・藤原忠通・平清 盛・源義朝側が緊張関係に入った。平清盛・源義朝らは、崇徳上皇の白河殿を夜襲し上皇方 を破り、戦いは早朝の数時間で決着がつき、崇徳上皇側が敗北した(1156/7/11)。 この時、源義朝軍には秩父一族ら多くの武蔵武士が参陣している。更に、鎌倉防衛線の箱 根・足柄山には、三浦義明、畠山重能、小山田有重などが馳せ参じた。 ○平治元年(1159 年)平治の乱 1159/12/9 平治の乱において、源義朝軍に所属した東国武士は、佐々木秀義、斉藤実盛、岡部忠澄、熊

(9)

畠山重忠の関係する人々第6 編 9 谷直実、金子家忠、足立遠元、三浦義澄(三浦義明の子)らであった。 この時既に三浦義明は高齢の為、三浦党の実質的棟梁は義明の二男三浦義澄に移譲されて いたと見られる(義明の長男・義宗は戦死していた)。 ○永暦元年(1160 年)源頼朝、伊豆・蛭が小島に流される。 ○治承4 年(1180 年)三浦義澄、源頼朝を訪れる。 三浦義澄は千葉胤頼とともに京都大番役よりの帰り、源頼朝を訪れ密談した(出典:第一 吾妻鏡1180/6/27)。 ○治承4 年(1180 年)石橋山の戦い 1180/8/23 夜 頼朝は山木兼隆を討ち果たすと東へ向かった。三浦軍の三浦義澄はそこへ合流する予定で あったが、豪雨のため合流出来なかった。そこへ平家方大庭景親が頼朝軍を襲い、頼朝軍は 敗走した(出典:吾妻鏡第一1180/8/23)。 ○治承4 年(1180 年)小坪の戦い 1180/8/24 頼朝に合流出来なかった三浦軍の三浦義澄と、同じく遅れた平家方畠山重忠が遭遇し、由 比ヶ浜・小坪で戦いとなり、互いに大きな犠牲を出した(出典:吾妻鏡第一1180/8/24)。 ○治承4 年(1180 年)衣笠城落城 1180/8/26 畠山重忠ほか秩父一族の河越重頼、江戸重長、金子党・村山党等が、三浦一族の居城衣笠 城を襲い、総帥三浦義明は一族を城から逃し、自らは討ち死し、衣笠城は落城した(出典:吾 妻鏡第一1180/8/26、平家物語巻第五「早馬」)。 上記に見て来たところによると、鎌倉党・三浦党・秩父一族は、八幡太郎義家の時代には 親源氏であった。その後の世代においては、鎌倉党(大庭氏)は一貫して反義朝、三浦党は一 貫して親義朝、秩父一族は親為義(河越重隆)・親義朝(畠山重能)に分かれていた。 畠山重能は河越重頼に対応するため、大蔵館の合戦(1155 年)以前に義朝に近づき、保元 の乱(1156 年)では鎌倉防衛線の箱根・足柄山には、三浦義明、畠山重能、小山田有重など が馳せ参じた。平治の乱(1159 年)に三浦義澄が義朝軍にあり、義朝敗戦後、三浦党は危機 に直面したと考えられる。 しかし、頼朝挙兵の時(1180 年)、秩父一族と三浦党の行動は分かれた。後三年の役(1083-1087)以来、保元の乱(1156 年)・平治の乱(1156 年)でも源氏に従った三浦党は、この度も 当初から頼朝軍に与同した。一方、秩父一族は平治の乱以降は平家の恩を重視し、畠山重能・ 小山田有重は平家に従った。 ここで重忠は、父重能の平家方と、母三浦義明女の源氏方の狭間に立たされたのである。 重忠は親への忠義のため、当初は父に従い平家方に加勢した。重忠は衣笠城を攻め、祖父三 浦義明を討つ結果となった。それは母の父を討つことであった。母・真鶴姫は、夫と子、子 と父の対立する間に立たされ、その苦しみは想像を絶する。戦いにおける悲惨な出来事のほ んの一部ではあるが、また、それは海よりも深く、山より高い悲惨さである。 重忠ら秩父一族が、由比ヶ浜での戦いの雪辱のため三浦義明の居城・衣笠城を襲った (1180/8/26)。石橋山の戦い後の頼朝の生死は不明であったが、義明は頼朝の再起を信じた。 三浦義明は既に老齢のため家督は義澄に譲っている。義明は自らを犠牲にして一族の温存を 図ることが、せめてもの源氏への最期の奉公とした。

(10)

畠山重忠の関係する人々第6 編 10 祖父三浦義明のこの雄姿、この行動は、重忠 の胸に刻まれ、重忠は鶴ヶ峰の最期を迎えた。 衣笠城祉は、神奈川県横須賀市衣笠町の山 城である。源頼義に従って前九年の役に出陣 した村岡平太為通が戦功によって三浦の地を 与えられ所領となった。三浦の中心地である 要害堅固のこの地に、二つの川を自然の堀と して、康平年間(1058-1064)に衣笠城が築 城されたといわれる。以後為継・義継・義明の 四代にわたり三浦半島経営の中心地であった(衣笠城祉看板 横須賀市教育委員会)。 (重忠の母については、松原湖伝説がある) ある時、源頼朝が病にかかった。その時、医者は病気平癒には「蛇の生ぎも」を飲むと効 くと言う。頼朝は重忠にそれをとってくるように命じた。重忠は母と相談の上、共に「蛇の 生ぎも」探しの旅に出た。やがて信濃国松原に来た母は、「蛇の生ぎもなどはとても手に入 るべきものではない。自分が湖に入って蛇体を現すからその生きぎもを抜いて主君に献上せ よ」と、言うやいなや湖に身を投じた。 重忠があわてて湖に飛び込み母を探すと、たち まち大きな蛇が現れた。重忠は母の思いを遂げる べく、「蛇の生ぎも」をとって頼朝に献上した。 頼朝の病気は直ちに平癒し、その話を聞いた頼 朝は大いに感謝し、松原の神光寺に三重塔を寄進 した。その時、「きも」を乗せた「きも石」があり、 その傍らの湖畔に重忠の母の塚がある(畠山重忠 公史蹟保存会「畠山重忠公」p98、鷹野一弥氏「長 野県小海町松原湖伝説の話」)。 松原湖は、小海線松原湖駅より 2kmほどで北八ヶ岳山麓に位置する。 重忠母は三浦義明娘(真鶴姫)が通説であるが、三浦義明孫娘という説もある(清水亮「畠 山重忠」戒光祥出版p175「畠山重忠の母」)。 (三浦義明の子供たち:カッコ内は生没) 三浦義明(1092-1180)―杉本義宗(1126-1164)―和田義盛 三浦義澄(1127-1200) 三浦義連(??-??) 女(源義朝1123-1160 妻、悪源太義平 1141-1160 母) 真鶴姫(畠山重忠1164-1205 母) (又は)女―真鶴姫(畠山重忠1164-1205 母) 重忠(生没1164-1205)が生まれた時の母の推定年齢を 30-16 歳とすると、母が生まれ たのは1135-1150 年となる。その時、三浦義明(生没 1092-1180)は 44-49 歳となる。 義明がそれ以前に多くの娘をもうけ、その娘の子(義明の孫)が重忠の母と言う説もかなり

(11)

畠山重忠の関係する人々第6 編 11 可能性が高い。 源義平(生没1141-1160)は、三浦義明の娘を母とするが、義平誕生の時の義平母の年齢 を16 歳とすると、義平母の誕生は 1126 年である。即ち、義宗・義澄・義朝妻の生れは 1126 年前後である。これは、重忠母の誕生年1135-1150 年とは開きが大きい。義明妻は複数であ ればこれも有り得るであろう。逆に、重忠母は義明の孫娘と云うことも否定できない。 ◎江戸重継娘 重忠の母が江戸重継娘であるとする説もある(清水亮「畠山重忠」戒光祥出版p175「畠山 重忠の母」)。 武蔵七党の一つ児玉党は、重忠の先祖・秩父武綱以来の繋がりが深いく、児玉経行は秩父 武綱娘を妻とし、その子行重は秩父重綱の養子となり秩父氏を継いでいる。重忠自身も丹党・ 児玉党の争いを調停した(1193/2/9)。この児玉党の児玉経重が、「母を江戸重綱の娘とし、 同母兄に畠山重忠がいる」と言う。即ち、畠山重忠の母は江戸重綱の娘であるとの説である。 清水亮氏は、更に児玉経重は、畠山重能の子で児玉党に養子になった可能性が高いと言っ ている。即ち、畠山重能の妻に江戸重綱女があり、畠山重忠及び男子を産み、この男子が児 玉党の養子となり児玉経重となったと云うのである。 (秩父氏と児玉党) 秩父武綱―女(児玉経行妻) 秩父武綱―秩父重綱―秩父行重(実父:児玉経行) 秩父重綱―畠山重弘―畠山重能―畠山重忠 (可能性)畠山重能―畠山経重(母:江戸重綱女、児玉党へ養子) 児玉経行―児玉行重―(省略)―秩父行俊―秩父(児玉)経重(母:江戸重綱女、同母兄: 畠山重忠) 秩父氏を継いだのは児玉行重(秩父行重)で、畠山重能は秩父地方から男衾郡畠山へ移っ た。重能の代に至り、逆に畠山経重が秩父氏の養子になり秩父(児玉)経重となった(参照: 清水亮編「畠山重忠」p20)。

(2)畠山重忠の叔父・叔母など

畠山重弘には、畠山重能、山県瀬重、小山田有重、千葉常胤妻などの子があった。 (畠山重弘の子息) 秩父重綱―秩父重弘―畠山重能―畠山重光・畠山重忠・長野重清など 秩父重弘―山県瀬重 秩父重弘―小山田有重―稲毛重成・榛は ん谷が や重朝し げ と も 秩父重弘―女子(千葉常胤妻)―千葉胤正 ◎山県瀬重 秩父重弘の子山県瀬重は、甲斐山県に住み山県氏を名乗る。戦国時代武田の四天王の一人・ 猛将山県三郎兵衛昌景の先祖と云われる。

(12)

畠山重忠の関係する人々第6 編 12 ◎小山田別当有重 秩父重弘の子・小山田有重は、蔵国南多摩群小山田庄(現 町田市下小山田町)に居住し、小山田牧の別当職を継いだ と思われる。 大泉寺(東京都町田市下小山田町332)は、小山田有重 の館跡と云われ、現在大山寺裏には小山田城址墓苑がある。 ○保安3 年(1122 年)榛はんケ谷や御厨 当時、朝廷は源義家への荘園寄進を禁止していた。保土ヶ谷一帯(旭区二俣川から保土谷 区)を支配した豪族小山田有重は、伊勢神宮(内宮)に荘園を寄進した。 ○治承4 年(1180 年)畠山庄司重能、京都大番役。1180/7 畠山庄司重能、小山田有重、宇都宮朝綱らが、京都大番役(宮中警備のため地方豪族に命 じられる輪番役)のため上洛した。 ○寿永2 年(1183 年)倶梨伽羅峠の戦い。1183/5/11 平惟盛率いる 10 万の北陸軍は、木曽義仲率いる 3 万の兵に倶利伽羅峠の夜襲に敗れ敗退 した。畠山重能と小山田別当有重 400 騎は平家に従っていた(出典:平家物語巻第七「倶利 伽羅落」)。 ○寿永2 年(1183 年)篠原の戦い。1183/5/21 倶梨伽羅峠に敗れ京都へ逃げる平家軍は、加賀国篠原の成合で激しい戦いとなった。平家 軍の 殿しんがりを勤める坂東武者達(畠山重能、小山田有重、斉藤実盛ら)は篠原の戦いで奮戦し激 しく戦い300 騎が討たれた。石橋山の合戦で大庭軍にあった者(俣野景久、伊東祐清ら)が 篠原の戦いで討死した。以後、坂東武士は対平家戦いから消える(出典:平家物語巻第七「篠 原の戦い」)。 ○寿永2 年(1183 年)畠山重能、小山田有重帰国 1183/7 畠山重能、小山田有重、宇都宮朝綱は、平知盛・平貞能の助言で平宗盛より暇をうける。 都落ちを覚悟した平知盛は、その子らが源氏に加勢していることを知りながら、故郷に妻子 を残している重能らをあえて斬ることなく帰郷を許した(出典:平家物語巻第七「聖主臨幸」)。 ○元暦元年(1184 年)一条忠頼、誅される。 1184/6/16 甲斐武田一族(武田信義・安田義定の兄弟、信義の子一条忠頼・板垣兼信・武田有義を含 む)は、富士川の合戦から平家追討まで頼朝軍団の中では最強の勢力であった。武田信義に 謀反ありとの告口つ げ ぐ ちがあり、調査の結果、嫌疑が晴れた。しかしこれに替わって、威勢を振る い、世を乱す志あるとの風評の悪いその子一条忠頼が誅された。頼朝が忠頼を呼び出し、営 中にて小山田有重・稲毛重成父子が杯を持ち忠頼の前に進み、天野遠景が太刀をとり誅殺し た(出典:吾妻鏡巻第三1184/6/16)。 平家に従う小山田有重と兄畠山重能とは、よく協力し合う兄弟であった。木曽義仲との戦 いに 殿しんがりを守り最後まで戦った。その勲功により、兄弟は平家から故郷に帰還を命じられた。 帰還した坂東では頼朝が勢力を確立し、彼らの子息たちがその配下となっていた。帰還し た有重は、息子たち(稲毛重成・榛は ん谷が や重朝し げ と も)と共に鎌倉御家人となった。一方畠山重能は、 帰還後の消息が不明である。俗世間から身を引いたと思われる。

(13)

畠山重忠の関係する人々第6 編 13 ◎千葉常つ ね胤た ね(生没1118-1201 年)妻 千葉常胤は畠山重忠と同じ平良文を祖とする桓武平氏で、下総国に勢力を持つ豪族である。 長元元年(1028 年)平忠常の乱で病死した平忠常の末裔である。常胤の父常重は下総国相 馬郷を伊勢神宮に寄進した(相馬御厨)。 武蔵国の秩父一族で勢力を持つ畠山重忠とは、坂東の南北から挟む重要な位置にあった。 両者は頼朝軍において、重忠が先陣、常胤が後陣を守った。 頼朝挙兵及び鎌倉幕府に大きな功績のあった人物の一人であった。大豪族でありながら清 貧に甘んじ、自らの保身より一族を大事とする豪傑である。 畠山重弘娘は千葉常胤の妻となり、嫡子胤正(生没 1141-1203)の他、師常、胤盛、胤 信、胤通、胤頼などを産んだ。 風土記稿に、「慈勝寺、客殿位牌に当寺開基圓壽院殿善通理體大姉とあり、秩父畠山次郎重 忠之祖父畠山庄司大夫重弘之嫡女嫁干千葉常胤是重忠之叔母也」とある(新編武蔵風土記稿 巻之百八多摩郡之二十「下草花村」)。 (千葉氏系図) 高望た か も ち王―平国く に香か ―平貞盛(将門討伐、清盛・時政の祖先) たいら平良将よ し ま さ―平たいら将門ま さ か ど 平良よ し文ぶ み--略--平忠常--略--千葉常長―千葉常兼―千葉常重―千葉常胤―千葉胤正 千葉常胤―千葉胤頼 千葉常時—千葉常澄―上総介広常 ○長元元年(1028 年)平忠常の乱(1028-1031) 前上総及び下総介忠常は、上総・下総・安房に多くの私営田を経営し在庁官人であった。 忠常は国司の徴税・懲役に対する反抗から反乱を起こし、3 年にわたり上総・下総・安房3国 を支配した。摂関家に仕える追討使・頼信・頼義父子は、摂関家の権威を利用し東国武士団 を味方につけ、忠常と和平し反乱を制圧する。忠常は上洛途上、美濃国で病のため死去した。 頼信・頼義父子は忠常の一族を寛大に扱い保護した。 ○康治2 年(1143 年)相馬御厨侵入事件 千葉常重・常胤父子と千葉常澄は、相馬御厨領有をを巡って同族間で争っていた。常澄は、 かねてから東国に勢力の拡大を狙う源義朝を利用して相馬御厨に侵入し領主権を主張した。 義朝は中央の法皇・藤原氏・寺社の圧力を回避するため、相馬郷を伊勢神宮に寄進した(1145 年)。 〇久安2 年(1146 年)千葉常胤、相馬郡司となる。 常胤はそれまでの滞納分に見合うものを国府に収めたので、常胤を相馬郡司となり土地は 常胤に戻った。 ○保元元年(1156 年)保元の乱 1156/7/11 後白河天皇と崇徳上皇の皇位継承紛争に、源氏と平氏が巻き込まれ骨肉の争いとなった保 元の乱で、千葉常胤や上総介広常、秩父一族など多くの武蔵武士が、後白河天皇方(源義朝 傘下)に参陣し勝利した。 ○平治元年(1159 年)平治の乱 1159/12/9~12/26 ○永暦元年(1160 年)千葉常胤、相馬御厨を失う。 平治の乱で源義朝が破れ、義朝を背景に支配していた相馬御厨の支配権を平家を背景に佐

(14)

畠山重忠の関係する人々第6 編 14 竹義宗が主張し、常胤はその支配権を失った。 ○治承4 年(1180 年)千葉胤頼、源頼朝を訪れる。1180/6/27 千葉胤頼(千葉介常胤の子)は三浦義澄(54 歳)とともに、京都大番役よりの帰り、源頼 朝を訪れ密談した(吾妻鏡1180/6/27)。 ○治承4 年(1180 年)頼朝挙兵、山木兼隆邸夜襲 1180/8/17 ○治承4 年(1180 年)石橋山の戦い 1180/8/23 夜 ○治承4 年(1180 年)頼朝、安房へ上陸、1180/8/28 ○治承4 年(1180 年)頼朝、千葉介常胤を召喚。1180/9/4 頼朝は参着した安西景益の助言で、千葉介常胤への使者として安達藤九郎盛長、上総介広 常への使者として和田小太郎義盛を遣わし、それぞれが頼朝の許に来るように命じた(吾妻 鏡第一1180/9/4)。 ○治承4 年(1180 年)安達盛長帰参報告。1180/9/9 安達盛長は言う「千葉常胤は、安達盛長を丁重に客室に案内し、子胤正・胤頼らを同席さ せた。盛長からの言葉をじっと聞き、子息達が参陣の熱い心を話すと、常胤は無論のことと 同意し、一同は杯を共にした。そのとき常胤は、頼朝が鎌倉に行くことを助言した」と(吾 妻鏡巻第一1180/9/9)。 ○治承4 年(1180 年)千葉成胤、下総国千田親政を生け捕り、1180/9/14 下総国千田判官代親政(平忠盛の婿)は、上総国目代の襲われたことを聞き、千葉常胤を 襲おうとして、逆に千葉成胤(千葉常胤の孫)に生け捕りにされた(吾妻鏡第一1180/9/14)。 ○治承4 年(1180 年)頼朝、下総国へ。1180/9/17 頼朝は、戦略上無くてはならない存在であった上総介広常の参陣を待たず下総国へ向かっ た。千葉介常胤が、一族300 騎(子息ら胤正・師常・胤盛・胤信・胤道・胤頼・成胤を含む) を連れて下総国府(千葉県市川市、因みに上総国府は市原市)にて参陣。頼朝は、「常胤を父 とも思う」と喜ぶ(吾妻鏡巻第一1180/9/17)。 ○治承4 年(1180 年)千葉常胤、伊北庄司常仲を追討。1180/10/3 頼朝は上総国伊北庄司常仲(長狭六郎常伴の外甥)の追討を千葉常胤に命じた(吾妻鏡 1180/10/3)。 ○治承4 年(1180 年)源頼朝、相模の国に入る。1180/10/6 頼朝は3 万の精鋭を従え、畠山重忠を先陣とし千葉常胤を後陣として相模国に入った(吾 妻鏡第一1180/10/6)。 後陣は先陣と相並ぶ重要な位置である。下総国を後にしてこれから武蔵国へ向かう頼朝軍 の後陣に下総国豪族千葉常胤を、先陣に武蔵武士である重忠を配したのは頼朝の配慮である。 ○治承4 年(1180 年)富士川の戦い、頼朝軍大勝 1180/10/20 夜半 ○治承4 年(1180 年)頼朝、西上を諦める。1180/10/21 頼朝は一気に西上(京を目指す)をしようとしたが、千葉介常胤・三浦義澄・上総介広常ら 有力武士は、関東の反頼朝勢が未だ残っていることを理由に、これを押しとどめた(吾妻鏡 第一1180/10/21)。 ○治承4 年(1180 年)佐竹討伐。1180/11/5 総大将を源頼朝、千葉常胤、上総介広常、三浦義澄、土肥実平を宿老とする頼朝軍は、背 後の佐竹の討伐のため、常陸の国府へ向かって出発した。(吾妻鏡1180/10/27)。

(15)

畠山重忠の関係する人々第6 編 15 ○寿永3 年(1184 年)一の谷の戦い、1184/2/7 午前 6 時 平家との本格的戦闘である「一の谷の戦い」では、千葉常胤は大将源範頼に従い大手生田 の森攻撃に加わった(吾妻鏡巻第三1184/2/7)。 ○元暦元年(1184 年)源頼朝、藤原俊兼の華美を諌める。 1184/11/21 「常胤や実平は清濁を分たざる武士なり。所領は俊兼と比べものにならないほど大きい。 しかし清貧に甘んじ家は富み、多くの郎等を扶持して勲功に励んでいる」と、頼朝は問注所 寄人の藤原俊兼の華美を諌めた(吾妻鏡巻第三1184/11/21)。 ○元暦2 年(1185 年)源範頼、九州上陸。1185/1/26 千葉常胤は平家征討軍大将・源範頼に従い西国へ向かい(鎌倉出発 1184/8/8)、兵糧に苦 しみながらやっと九州に上陸した(吾妻鏡巻第四1185/1/26)。 ○文治元年(1185 年)片岡常春所領没収。1185/10/28 片岡常春は、舅の佐竹太郎と同心し謀反の疑いがあり所領下総国三崎荘を没収し、千葉常 胤に賜った(吾妻鏡巻第五1185/10/28)。 ○文治2 年(1186 年)宿老、集まる。 1186/12/1 千葉常胤が下総国より参上し、小山朝政、三善康信、岡崎義実、足立遠元、安達盛長ら宿 老が、酒を交わし、催馬楽さ い ば らを唄う(吾妻鏡巻第六1186/12/1)。 ○文治3 年(1187 年)洛中狼藉 1187/8/19 強盗が太皇太后宮を襲撃さ殺害など洛中に狼藉があり、勇士を差し向けて欲しいとの京都 守護一条能保からの知らせがあった(1187/8/9)。当時、中原親能・大江広元が在京していた が彼等は武人ではないので、千葉常胤・下川辺行平が派遣された(吾妻鏡巻第七1187/8/19)。 ○文治3 年(1187 年)重忠所領没収。1187/9/27 伊勢沼田御厨事件の責任を問われ、畠山重忠は囚人として千葉介胤正に召し預けられるた (吾妻鏡巻第七1187/9/27)。 ○文治5 年(1189 年)奥州征討旗、常胤に命ずる。1189/6/24 頼朝は、奥州征討の旗作成を千葉常胤に命じた(吾妻鏡巻第九1189/6/27)。 ○文治5 年(1189 年)出陣の命令。1189/7/17 頼朝率いる奥州征討軍は、畠山重忠を先陣とする大手軍、千葉介常胤・八田知家を大将と する第二軍(武蔵・常陸軍、海道軍)、比企能員・宇佐美実政が率い第三軍(上野・越後軍、 北陸軍)とする大行進を始めた(吾妻鏡巻第九1189/7/17)。 ○建久元年(1190 年)御家人 10 人任官、1190/12/11 頼朝は千葉常胤の任官を推薦したが、常胤は嫡子に譲った(吾妻鏡巻第十1190/12/11)。 ○建久10 年(1199 年)13人の合議制 1199/4/12 頼朝の死後、幕府は頼家の専制を封じ込めるため北条時政らの合議制を採った。ここに千 葉氏や畠山氏は入っていない。両氏とも政事ま つ り ごとから一定の距離を保ったと伺われる。 ○正治元年(1199 年)梶原景時糾弾 1199/10/28 千葉介常胤、三浦介義澄、畠山重忠を含む多くの御家人による梶原景時糾弾の連署状を作 成され(1199/10/27)、訴状は政所長官・大江広元に渡された(吾妻鏡巻第十六 1199/10/28)。 ○(1201 年)千葉常胤没。

(16)

畠山重忠の関係する人々第6 編 16 ◎杉本義宗(生没1126-1164) 三浦義明の長男・杉本義宗は、三浦の前線基地杉本城主で六浦から鎌倉へ根拠を拡げた。更 に、安房長狭常伴との上総の所領争いから、安房国東条海岸(鴨川市)に敵前上陸して長狭 軍の矢に当り死亡した(1164 年)。そのため、嫡子和田義盛が三浦半島南部の三浦郡和田郷 を、二男義茂が鎌倉杉本城に入城した。 (三浦氏系図) 三浦為継―三浦義明―杉本義宗―和田義盛(半島南部の三浦郡和田郷) 杉本義宗―和田義茂(半島入口鎌倉の杉本城) 三浦義明―三浦義澄(半島の中央衣笠城) 三浦義明―佐原義連(半島の中部佐原村) 三浦義明―女(源義朝妻、悪源太義平母) 三浦義明―真鶴姫(畠山重能妻、畠山重忠母) 三浦為継―岡崎義実(半島を出て大住郡岡崎村) ◎三浦義澄(生没1127-1200 年) ◎三浦義連(佐原義連) 三浦義澄は、三浦義明の後を継ぎ衣笠城の主となった。平治元年(1159 年)平治の乱で敗 れた源義朝と共に東国で再起しようとした20 余騎の武将の一人である。義朝と後日の再開を 期して分かれた後、義朝は尾張国で討たれた。義澄は源氏再興をこの時から胸に秘めていた と思われる。 三浦義連は、浦半島の中部・佐原村を領有し佐原義連と称した。源平盛衰記は、「伊豆国住 人伊東入道祐親法師、(源氏の)重代家人也けれ共、平家重恩の者にて、当国にはその勢人に 勝たり。娘四人あり、一人は相模の住人三浦介義明が男・義連に相具したり。一人は同国の 住人土肥次郎真平(実平)男・遠平に相具したり。第三の女未男も無りければ、兵衛佐(頼 朝)忍て通ける程に、男子一人出来にけり」という(源平盛衰記巻十八文学頼朝勧進謀叛事)。 佐原義連の正室としては武田信光娘がいる。 伊東祐親娘の婿については各種の逸話があ り定かでない。源平盛衰記は、三浦義連、土肥遠平、源頼朝を挙げている。他にも北条時政、 三浦義澄などの説あり。 三浦党は武勇優れた者が多かった。三浦義澄や和田義盛が政事の場面でも登場するが、佐 原義連は気骨があり武勇の優れた者として武者の特質が顕著である。 〇平治元年(1159 年)平治の乱 1159/12/9~12/26 平治の乱で、悪源太義平は待賢門が破られたと聞き17 騎の精鋭とともに駈けつけ、平重盛 軍を撃退した。17 騎の精鋭は、鎌田政清、後藤実基、佐々木秀義、波多野義通、三浦義澄、 山内須藤俊通、斉藤実盛、岡部忠澄、猪俣範綱、熊谷直実、平山季重、金子家忠、足立遠元、 上総介広常、片切小八郎らであった(待賢門の17 騎、参考:平治物語「待賢門の軍の事」)。 〇平治元年(1159 年)義朝と共に 20 余人の武将、都を落ちる。 平治の乱で敗れた義朝は、「この勢せ い一所にてはかなうまじ。いとまとらするぞ。東国にま いりあふべし」と、これまで共に戦ってきた20 余人と再起を誓って別れた。 20 余人の武将は、波多野義通・三浦義澄・斉藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・平

(17)

畠山重忠の関係する人々第6 編 17 山季重・足立遠元・金子家忠・上総介広常らであった(参考:平治物語「義朝奥波賀に落ち 著く事」)。 ○治承4 年(1180 年)三浦義澄、源頼朝を訪れる。 1180/6/27 三浦義澄は千葉胤頼とともに、京都大番役よりの帰り源頼朝を訪れ密談した(吾妻鏡 1180/6/27)。 ○治承4 年(1180 年)三浦義明ら三浦を出て参向意向。1180/8/22 三浦義明、三浦義澄、三浦義連、和田義盛らが三浦を出て船で参向すると頼朝に伝えた(吾 妻鏡巻第一1180/8/22)。しかし、実際には暴風雨のため船は出せず。急遽、陸路を行くが 23 日夜になっても豪雨は止まず、酒匂川を渡れず頼朝軍に合流できず。 ○治承4 年(1180 年)石橋山の戦い 1180/8/23 夜 ○治承4 年(1180 年)小坪の戦い 1180/8/24 頼朝に合流出来なかった三浦軍の三浦義澄・三浦義連・和田義盛らと、同じく遅れた平家 方畠山重忠が遭遇し、由比ヶ浜・小坪で戦いとなり、互いに大きな犠牲を出した(出典:吾妻 鏡第一1180/8/24)。 ○治承4 年(1180 年)衣笠城落城、1180/8/26 畠山重忠の攻撃を受けた衣笠城には、老将三浦義明、その子義澄・義連、孫の和田義盛が あった。義明は一人、城に残り皆を逃した(吾妻鏡第一1180/8/26、平家物語巻第五「早馬」)。 ○治承4 年(1180 年)頼朝、上総介広常の許へ行くことを決定。 1180/9/1 房総に上陸を果たした頼朝は上総介広常の許に行くと言い、北条時政らもこれに賛成した (1180/9/1)。しかし、土地の平家側豪族長狭六郎常伴の夜襲を受け取りやめた。長狭常伴は 三浦義澄に討ち破られ敗走した。 ○治承4 年(1180 年)富士川の戦い 1180/10/20 夜半 ○治承4 年(1180 年)佐竹討伐 1180/11/5 頼朝軍は、背後の佐竹の討伐のため、常陸の国府へ向かって出発した(吾妻鏡1180/10/27)。 千葉常胤、上総介広常、三浦義澄、土肥実平ら宿老が従った。 ○治承4 年(1180 年)鎌倉にて御弓始め 1180/12/20 新造の大蔵館にて三浦義澄が垸お う飯ば んを取り仕切った(吾妻鏡1180/12/20)。 頼朝を接待する垸飯は、幕府内でも重鎮が受け持つ役割であった。 ○治承5 年(1181 年)源頼朝の祇候し こ う 衆 しゅう 1181/4/7 弓矢にすぐれ頼朝に忠誠心の高い若者 11 人(北条義時、下川辺行平、結城朝光、和田義 茂、梶原景季、宇佐美実政、榛谷重朝、葛西清重、三浦義連、千葉胤正、八田知重)が選ば れ、頼朝の寝所を警備した(吾妻鏡巻第二1181/4/7)。 ○治承5 年(1181 年)上総介広常の振舞。 1181/6/19 三浦義澄の供応で頼朝が三浦を納涼逍遥した折、上総介広常は下馬の礼を取らなかった。 三浦義連がそれを窘たしなめた(吾妻鏡巻第二1181/6/19)。 ○養和2 年(1182 年)伊東祐親自害 1182/2/14 三浦義澄に預けられていた祐親は義澄のとりなしで赦免された。義澄が祐親にそれを伝え ると、祐親は頼朝のもとに参上するため一旦部屋に戻った。待っている義澄のもとへ郎従よ り祐親自害の報が入った(吾妻鏡巻第二1182/2/14)。 伊東祐親娘が義澄の妻であったために(源平盛衰記は三浦義連の妻とするが)、祐親は義

(18)

畠山重忠の関係する人々第6 編 18 澄に預けられたと考えられる。伊勢沼田御厨事件の折、重忠が千葉胤正(母:畠山重忠伯母) に預けられた如く、親しい間柄の者に預けられることが多い。 ○寿永3 年(1184 年)一の谷の戦い、1184/2/7 午前 6 時 一の谷の戦いでは、土肥遠平、畠山重忠、三浦義澄、和田義盛らが搦手大将源義経に従い、 丹波路から一の谷へ向かった(平家物語巻第九「三草勢揃」)。 佐原義連は搦手大将源義経に従い丹波路から三草山を通り一の谷へ向かった(平家物語巻 第九「三草勢揃」)。 源平盛衰記は、「三浦党に佐原十郎義連進出て、我等甲斐信濃へ越て狩し鷹仕時は、兎一 つ起いても鳥一つ立ても、傍輩に見落されじと思には、是に劣る所やある、義連先陣仕らん とて、手綱掻くり鐙踏張、只一騎真先蒐て落す。御曹司是を見給いて、義連討すなつゞけ者 共/\と下知して、我身もつゞきて落されけり」と(源平盛衰記巻三十七義経落鵯越並畠山 荷馬付馬因縁事)。 ○元暦元年(1184 年)範頼、鎌倉を出発。1184/8/8 源範頼を総司令官とする平家追討軍千騎が、頼朝の見送る中、鎌倉を発ち西海へ向かった。 その中に、北条義時、千葉介常胤、三浦義澄、和田義盛らがあった(吾妻鏡巻第三1184/8/8)。 ○元暦2 年(1185 年)源範頼、九州上陸、1185/1/26 豊後の豪族臼杵惟高・緒方惟義兄弟などが 82 艘の兵船を献じ、周防住人宇佐那う さ い な 木き遠隆が 兵糧米を献じ、三浦義澄を周防国に留め、範頼と武田有義・北条義時・渋谷重国らが九州上 陸した(吾妻鏡巻第四1185/1/26)。 この時、平家軍は屋島に居を構えていた。三浦義澄が周防国に留まったのは、範頼軍の背 後を守るため及び範頼軍の兵糧を確保するためと考えられる。後に壇ノ浦の戦いでは、三浦 水軍が義経軍と共に活躍する。 ○暦2 年(1185 年)三浦義澄、源義経軍に加わる。1185/3/22 義経が兵船を壇ノ浦に向けて発進すると、周防国にあった三浦水軍の棟梁三浦義澄が同国 大島の津で義経に加わり、壇ノ浦奥津の辺に先導した(吾妻鏡巻第四1185/3/22)。 ○元暦2 年(1185 年)屋島の戦い 1185/2/19 ○文治4 年(1188 年)相模川浮橋 1188/1/20 三浦義澄が沙汰として、相模川に浮橋を構える(吾妻鏡巻第八1188/1/20)。 ○文治5 年(1189 年)奥州藤原氏征伐軍出陣、1189/7/19 奥州藤原氏征伐のため、頼朝以下、畠山重忠、三浦義澄、三浦義村、佐原義連、和田義盛、 岡崎義実ら源頼朝本隊が鎌倉を出陣した(吾妻鏡巻第九1189/7/19)。 ○建久元年(1190 年)御家人 10 人任官、1190/12/11 頼朝は院に参内し、御家人10 人(千葉常秀、梶原景茂、三浦義村、八田知重、葛西清重、 和田義盛、佐原義連、足立遠元、小山朝政、比企能員)が左右衛門尉・兵衛尉に推挙し。千 葉常胤、梶原景時、三浦義澄、八田知家は任官を嫡子(三浦義澄嫡子は三浦義村)に譲った (吾妻鏡巻第十1190/12/11)。 ○建久4年(1193 年)三浦一族の乱れ 1193/1/20 三浦一族の御家人の中に、棟梁である三浦義澄の支配に背くものがあった。それを聞いた 頼朝は、速やかに義澄の命令に従いその賦役をおこなうべきことをかの御家人たちに伝えた (吾妻鏡巻十三1193/1/20)。

(19)

畠山重忠の関係する人々第6 編 19 ○建久10 年(1199 年) 源頼朝死 53 歳、頼家 18 歳、1199/1/13 ○建久10 年(1199 年)13人の合議制 1199/4/12 元来源頼朝の専権であった訴論成敗にかかわる権利(将軍親政)を廃し、北条時政、北条 義時、三浦義澄、和田義盛ら13 人の合議制とした(吾妻鏡巻第十六 1199/4/12)。 ◎源義朝(生没1123-1160)妻(三浦義明女:重忠母の姉) 源義朝は八幡太郎義家を先祖とし、源為義を父とする河内源氏の嫡流である。義朝は尾張 国熱田神宮・大宮司藤原季範娘(由良御前)、大江広元女、三浦義明娘(悪源太義平母)、波 多野義通妹、遠江国池田宿遊女(源範頼母)、常盤御前(源義経母)など、多くの妻をもった と云われる。 源義家の死後源為義の時、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。幼少期 を京都で過ごすが、少年期に都から東国へ下向し、上総介氏等の庇護を受け同地で成長した (上総御曹司)。義朝は三浦義明娘を妻とし悪源太義平をもうけた。在地豪族を組織して勢 力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられている。 ○久寿 2 年(1155 年)比企群大蔵館の合戦 1155/8。 源義朝は鎌倉を本拠地として相模・下総などの在地武士団の組織化に務めていた。他方、 崇徳上皇を背景とする源為義(義朝父)・義よ し賢か た(義朝弟)は武蔵国多胡群を中心に勢力を拡大 し、鳥羽院領にも侵入して来た。源義賢は、武蔵国多胡郡の住人河越重隆の養子となって、 武蔵国比企郡の大蔵館にあった(源平盛衰記巻二十六「木曾義仲謀叛」)。 鳥羽院は院宣により下野守源義朝に源義賢の追討を命じた。義朝の長男・悪源太義平は、 武蔵国比企群大蔵館(嵐山町)で叔父源義賢(木曾義仲の父)とその養君河越重隆を討ち、 鳥羽院領に侵入した。 ○保元元年(1156 年)保元の乱 1156/7/11 (天皇の系図) 白河天皇―堀河天皇―鳥羽天皇―崇徳天皇―重仁し げ ひ と親王 鳥羽天皇―後白河天皇―二条天皇―六条天皇 鳥羽天皇―近衛天皇 鳥羽法皇が死去すると(1156/7/2)、崇徳上皇・藤原頼長・源為義側と、後白河天皇・藤原 忠通・平清盛・源義朝側が緊張関係に入った。平清盛・源義朝・足利義康・源頼政らは、崇徳 上皇の白河殿を夜襲し上皇方を破り、戦いは早朝の数時間で決着がつき、崇徳上皇側が敗北 した(保元物語1156/7/11)。 ○平治元年(1159 年)平治の乱 1159/12/9~12/26 保元の乱以後の朝廷内には、専制的な上皇も指導力ある摂関家もなく、一種の空白状態で あった。こんな状況の中で院の近臣や天皇の廷臣て い し ん達は主導権争いをしていた。藤原通みち憲より(信 西)は、関白家が権力の地位を独占し、それを「源氏の番犬」が支えていることに強い反感を 持っていた。信西は平家と組みことあるごとに源氏の失墜を企てた。 信西の権勢に不満を持つ藤原信頼の ぶ よ りは、同じく不遇である源義朝と組んで、平清盛が熊野参 詣中に信西を攻め滅ぼし、政権を奪取した(1159/12/9 夜)。熊野詣に南行していた平清盛は、 いち早く帰京し、上皇・天皇を奪回し、信頼・義朝追討宣旨を奉じて藤原信頼・源義朝を討ち

(20)

畠山重忠の関係する人々第6 編 20 滅ぼした(平治物語1159/12/26)。 ○永暦元年(1160 年)源義朝、尾張にて長田忠致に討たれる。 東国を目指して逃亡中の源義朝は、途中、尾張国内海にて長田忠致た だ む ね(鎌田政清の舅)の家 で討ち取られた(平治物語「義朝内海下向の事」、愚管抄巻五p236)。 源義朝は平清盛に敗れ最期を遂げる。義朝が築いた坂東の基盤は、やがてその子・頼朝に よって呼び起こされ、清盛及び平家の打倒となり、更に武家政権の全国制覇となって行く。

(3)畠山重忠の兄弟・従兄弟

(畠山重能の子たち) 畠山重能―畠山重光―伊知地季光 畠山重忠―畠山重秀(母:足立遠元女) 長野重清(清重、信濃国在住) 葛岡重家(重忠地頭の奥州葛岡) 畠山重宗(渋江重宗、重忠地頭の奥州葛岡) 畠山成忠、畠山重政、畠山時家など。 時子(金子家忠妻、武蔵国在住、待賢門十七勇士の一人) 女子(岡部忠澄妻、武蔵国在住、待賢門十七勇士の一人) ◎畠山太郎重光(畠山庄司太郎重光、伊知地太郎重光、尊西) (伊知地氏の系図:一説) 畠山重光―畠山季光―畠山季親―伊知地時季―伊知地兼季・・・伊地知季随す え み ち 重光は早世して重忠が家督を継いだとも云われる(法名尊西)。 越前伊知地氏について、「承久3 年(1221 年)島津忠久が、安貞元年(1227 年)島津忠 義が、越前国守護となっていること(出典:西ヶ谷恭弘「守護・戦国大名事典」p156)か ら、重忠の縁者が忠久の武力的郎党として従った可能性がある。重光の子孫(時季)が、重 忠の縁で島津氏の家臣となり、越前国へ赴き越前島津氏の許で伊知地氏を名乗った」と云え られる。 伊地知氏の数代後の伊地知季随す え み ちは、島津貞久の子・氏久(生没 1328-1387 年)に従って 筑前に赴き戦い、氏久の身代わりとなって死んだという。薩摩国伊地知氏は、この伊地知季 随から興ったと考えられている。薩摩島津家の家臣団の中に伊地知氏の名が見られる。 姓氏家系大辞典「伊知地氏」に、「越前大野郡伊知志より起こる。此の地嘗て島津忠久の封 邑なり。忠久・畠山重忠の孫(忠久室の重忠娘の子)を窃ひそかに此の地に置き、後薩摩に移す」 とある(大田亮 姓氏家系大辞典p389「イチヂ」)。 ◎長野三郎重清(清重) 長野重清は畠山重忠の弟で、重忠と共に多くの戦いに参陣した。重忠が鶴ヶ峰で最期を遂 げる時は、居住地に居り戦いには加わっていない。

(21)

畠山重忠の関係する人々第6 編 21 風土記稿に、「長野村は忍城長野口の東に続けり。畠山重忠弟に長野重清あり。是おそらく は当初の住人にして、在名を氏に唱へしならん」とあり(新編武蔵風土記稿巻之二百十六埼 玉郡十八「長野村」)。 吾妻鏡は、「(鶴ヶ峰の合戦の時)折節舎弟長野三郎重清は信濃国にある」とある(吾妻鏡 巻第十八1205/6/22)。この意味が、重清が信濃国に居住していたことを示すか? または、 たまたま信濃国に居たか不明である。長野と姓を名乗るからには「長野」なる地名から名乗 ったはずである。長野県(信濃国)には、長野市長野なる地名がある。重清の長野は長野県の 長野と云うべきであろうか? ○寿永3 年(1184 年)一の谷の戦い、1184/2/7 大手大将源範頼は、淀川を下り海辺から生田の森から一の谷の平家軍を攻めた。その軍に 土肥遠平、村上基国、三浦義澄、三浦義村、佐原義連、畠山重忠、長野重清、和田義盛らが 見える(出典:平家物語巻第九「三草勢揃」)。 ○文治4 年(1188 年)梶原景時、大般若経供養 1188/3/15 鶴岡八幡愚宮で梶原景時は、大般若経供養を行い源頼朝も臨席した。畠山重忠もこれに従 った。先陣:小山朝政、葛西清重、下川辺行平、秩父三郎重清ら8 名(出典:吾妻鏡巻第八 1188/3/15)。。 ○文治5 年(1189 年)畠山重忠出陣、1189/7/19 畠山重忠が、奥州藤原氏征伐のため鎌倉を出陣した。疋夫80人が馬を引いて先頭を進ん だ。50人はそれぞれに征箭そ やを三束づつ荷なっていた。30 人は鋤す き 鍬 く わ を持っていた。次ぎに馬 が三頭引かれ、それに続いて畠山重忠が進んだ。次ぎに重忠重臣である長野三郎重清、大串 小次郎重親、本田次郎近常、榛沢六郎成清、柏原太郎の5 騎の武者が従った(出典:吾妻鏡 巻第九1189/7/19)。 ○建久7 年(1196 年)島津忠久、木牟礼城入り。 1196/8/22 島津忠久は、本田貞親・鎌田政佐・酒匂景貞・猿渡実信・藤原家昌らを供として薩摩国山 門院内木牟礼城に入り、ここを根拠地として本田貞親を「守護被官」として政治を行った(出 典:宮之原研「畠山重忠の血脈」サンケイ新聞データシステム 1988 年発行p129&130& 137)。 鹿児島県の諸家大概には、「平姓長野氏も畠山重忠の庶子筋にて畠山庄司重良(重能)の 二男長野三郎重清、忠久公御供にて罷下り候」とある(出典:諸家大概、鹿児島県史料集VI、 鹿児島県史料刊行会、昭和41 年発行、p12「平姓宮之原氏」の項)。 ○元久2 年(1205 年)畠山重忠、鶴ヶ峰に死す 1205/6/22 折節舎弟長野三郎重清は信濃国にあり。同弟六郎重宗は奥州にあり。しかる間、相従う輩 は、二男小次郎重秀、郎従本田次郎近常・楱沢六郎成清以下134 騎、鶴ヶ峰の麓に陣す(吾妻 鏡巻第十六1205/6/22)。 吾妻鏡は長野重清を信濃国住人としている様であるが、既に九州島津荘に下っていたか? ◎葛岡四郎重家 畠山重忠の弟で、重忠が地頭職である陸奥葛岡郡へ代官として派遣された。 ○文治5 年(1189 年)畠山重忠、陸奥葛岡郡を与えられる。1189/9/20

(22)

畠山重忠の関係する人々第6 編 22 畠山重忠は奥州征伐の勲功により、陸奥葛岡郡地頭職を与えられる。重忠の代官として重 家をその弟重宗と共に葛岡郡へ派遣した。 吾妻鏡には、葛岡重家は重忠代官として派遣されたとする。しかし、重忠最期の時、弟重 宗は奥州に有りと記されるが、重家の名が無い(吾妻鏡巻第十六 1205/6/22)。 ◎畠山六郎重宗、渋江六郎重宗 畠山重忠の弟で、重忠が地頭職である陸奥葛岡郡へ、兄重家と共に代官として派遣された。 ○文治5 年(1189 年)畠山重忠、陸奥葛岡郡を与えられる。 1189/9/20 畠山重忠は奥州征伐の勲功により、陸奥葛岡郡地頭職を与えられる。重忠の代官として兄 重家と共に葛岡郡へ派遣された。 ○元久2 年(1205 年)畠山重忠、鶴ヶ峰に死す 1205/6/22 折節舎弟長野三郎重清は信濃国にあり。同弟六郎重宗は奥州にあり。しかる間、相従う輩 は、二男小次郎重秀、郎従本田次郎近常・楱沢六郎成清以下134 騎、鶴ヶ峰の麓に陣す(吾妻 鏡巻第十六1205/6/22)。 「わたしたちの町岩出山」には、「建久 3 年(1192 年)に源頼朝が征夷大将軍となり、鎌 倉に幕府をつくり、日本の各地に守護や地頭をおいて治めさせました。真山地方は、頼朝の 家来で、多賀波城を攻め落した手がらをみとめられた畠山重忠の領地となり、葛岡城がつく られました。葛岡城には、重忠の弟の重宗が地頭となって住み、この地方を治めました。岩 出山町の真山以外の地方は国領(鎌倉幕府が直接治めた土地)になりました」とある(わた したちの町岩出山、岩出山教育委員会編)。 「年号と地頭設置の関係」、「国領」等に疑問はあるが、ここに重宗の名が残る(重家の動 向は未調査である)。 ◎金子十郎家忠(生没1147-1216)夫人(時子) 重忠の姉妹(時子)は、武蔵国村山党の金子十郎家忠に嫁いだ。 風土記稿に、「高正寺、入間郡金子村瑞泉院の末なり。開基は金子親範。『瑞泉院殿雄翁道 英大居士 武豆総大守金子十郎家忠』『木蓮院殿標室奇榜大姉 秩父庄司平重能長女家忠室』 の金子氏位牌」とある(新編武蔵風土記稿巻之百十九高麗郡之四「仏子村」、開基金子親範は 金子家範か?)。 (金子家忠の系図) 桓武天皇---略--平良よ し文ぶ み--略--平忠常―千葉胤宗―村山頼任--略--金子家範―金子家忠 人名辞書「金子家忠」には、「高望王より出づ。父は家範。武蔵金子邑に居り因って氏とす」 とある(大日本人名辞書 講談社学術文庫p729)。 金子家忠は、保元の乱(1156 年)では源義朝に従い 19 歳で初陣を果たし、源為朝が守る 白河の御殿を攻め高間兄弟を一騎討ちで倒す。平治の乱(1159 年)で待賢門十七勇士の一人 として戦い、義朝敗戦により落ち延びて蕨本村に住み着き、蕨郷の開発に着手したと伝えら れる。 ○1156(保元元年)保元の乱 1156/7/11 保元の乱で秩父一族、猪俣党(岡部六弥太)・村山党(金子十郎家忠)・横山党を含む武蔵七

(23)

畠山重忠の関係する人々第6 編 23 党、斉藤別当実盛、熊谷直実、大庭景義、大庭景親、上総介広常、千葉介常胤などが源義朝に 従う(保元物語「主上三条殿に御幸の事付けたり官軍勢汰への事」)。 家忠、源義朝に属して白河殿を襲い為朝守る所の西河原門を攻め自らの姓名を呼んで前す すむ。 為朝怒りて曰く、「彼、我が矢を避けず我れ其の勇を愛めず。彼を挈ひっさげて来れ。我、其の面を見 ん」と。高間四郎前みて交戦す。家忠之を倒す。四郎の兄三郎将に家忠を斬らんとす。家忠刺 して三郎を殺し併せて四郎を斬る。首藤家末、前みて之を射んと欲す。為朝曰く、「勇士なり。 之を舎た すけ、我、他日志を得ば、彼を以て臣と為さん」と(大日本人名辞書 講談社学術文庫p 729)。 ○平治元年(1159 年)平治の乱 1159/12/9 源氏が固めていた陽明門・待賢門・郁芳門のうち郁芳門を守っていた悪源太義平は待賢門 が破られたと聞き、17 騎の精鋭(待賢門の 17 騎)とともに駈けつけ、平重盛軍を撃退した。 17 騎の精鋭は、斉藤実盛、金子家忠、岡部忠澄、熊谷直実、平山季重、猪俣範綱、足立遠元、 上総介広常らであった(平物語巻之二「待賢門の軍の事付けたり信頼落つる事」)。 家忠、力戦して刀折る。之を足立遠元に乞う。遠元副そなえなし。従者の佩は い刀と うを取て之を授く。 家忠大いに喜びて進みて敵軍に入り多くの首級を獲る(大日本人名辞書 講談社学術文庫p 729)。 〇平治元年(1159 年)義朝と共に 20 余人の武将、都を落ちる。 平治の乱で敗れた義朝は、「この勢せ い一所にてはかなうまじ。いとまとらするぞ。東国にま いりあふべし」と、これまで共に戦ってきた20 余人と再起を誓って別れた。 20 余人の武将は、波多野義通・三浦義澄・斉藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・平 山季重・足立遠元・金子家忠・上総介広常らであった(参考:平治物語「義朝奥波賀に落ち 著く事」)。 ○治承年4 年(1180 年)衣笠城合戦 衣笠城合戦に平家方として畠山重忠などとともに参加し、21 本の矢を受けたが一歩も退 かずに戦い、敵の三浦義明も感嘆したという。しかし、和田義盛にあごの下を射られ退却し た(源平盛衰記巻二十二「衣笠合戦事」)。 義明曰く、「家忠、壮士なり。一人当千と謂うべし」と(大日本人名辞書 講談社学術文庫 p729)。 ○治承4 年(1180 年)頼朝軍へ参陣。1180/10/4 畠山次郎重忠、河越太郎重頼、江戸太郎重長、熊谷次郎直実、岡部六郎忠澄、金子十郎家 忠らが頼朝軍へ参陣した(吾妻鏡第一1180/10/4)。 ○寿永3 年(1184 年)木曽義仲攻め 蒲冠者範頼軍配下の金子十郎家忠と弟金子与一近範が、瀬田口から京へ攻めた(源平盛衰 記巻三十五「範頼義経京入事」)。 ○寿永3 年(1184 年)一の谷の戦い 金子十郎家忠と弟金子与一近範が、義経率いる搦め手軍として三草山の戦いに加わった (平家物語「三草揃え」)。 ○元暦2 年(1185 年)屋島の戦い 金子十郎家忠と弟金子与一近範が、義経率いる屋島急襲隊に加わった(源平盛衰記巻四十 二「源平侍共軍附継信盛政孝養事」)。

(24)

畠山重忠の関係する人々第6 編 24 ○建久元年(1190 年)源頼朝、上洛、1190/10-12 源頼朝にとって平治の乱で京を逃亡以来 30 年ぶりの京都であった。頼朝は武家の棟梁ら しく威風堂々と上洛した。畠山重忠が先陣、その随兵の中に足立遠元、金子家忠らがいた(出 典:吾妻鏡巻第十1190/11/7)。 木蓮寺の瑞泉院(埼玉県入間市木蓮 寺874番地、西東京コスモパーク霊 園)は武蔵七党の金子氏の館跡である。 風土記稿入間郡には、「金子郷 武 蔵七党村山党の金子六郎家範等出た り」とある(新編武蔵風土記稿巻之百 五十六入間郡之一)。 一方、風土記稿多摩郡には、「金子村は、西は柴崎・佐須・国領、北は深大寺に及び、金子 十郎家忠が住居の地なりと云う。しかるに村内に館跡をみず」とあり(新編武蔵風土記稿巻 之九十四多摩郡之六)。東京都調布市西つつじケ丘には金子稲荷神社があり、周辺には深大 寺、柴崎・佐須・国領の地名が見える。 ◎岡部忠澄(生没?-1197 年)夫人 畠山重能娘(畠山重忠姉妹)は岡部六弥太忠澄に嫁いだ。岡部忠澄は武蔵七党の猪俣党の 庶流・岡部氏の当主である。 岡部神社(深谷市岡部705)社前に、岡部六弥太 忠澄が一の谷の戦功の感謝し植えたといわれる杉 は、「鉢杉」と呼ばれて周囲一丈八尺余、高百尺以上 の老木となった。 岡部神社は、17 号岡部(北)交差点を過ぎ直ぐ右 折し、次の角を左折し円通院のお墓の横の参道(コ ンクリート)を通ると、すぐにある。説明板には、 「従来は聖天宮と称され勧喜天の木造が安置され ている。明治12 年岡部神社と改称された。岡部六 弥太忠澄の祈願所とも言われ、一の谷の戦功を感 謝して記念の杉を植栽したと伝えられている」と の旨があった。 普済寺の前の通りお墓に沿って行き、道路に出 て左折し100mほどで左に岡部六弥太忠澄墓(深谷 市普済寺)がある。普済寺の離れた墓地で、弥太忠 澄墓は立派なものであった。墓の前に桜(忠度桜) を植えて平忠度を悼んだと言われる。 ○1156(保元元年)保元の乱 1156/7/11 保元の乱で秩父一族、猪俣党(岡部六弥太)・村山党(金子十郎家忠)・横山党を含む武蔵七 党、斉藤別当実盛、熊谷直実、大庭景義、大庭景親、上総介広常、千葉介常胤などが源義朝に

参照

関連したドキュメント

北区では、区民の方々がよりスポーツに親しめるよう、平成

東北地方太平洋沖地震により被災した福島第一原子力発電所の事故等に関する原

スペイン中高年女性の平均時間は 8.4 時間(標準偏差 0.7)、イタリア中高年女性は 8.3 時間(標準偏差

現在まで地域経済統合、域内の平和と秩序という目的と、武力放棄、紛争の平和的解

1  第 52.11 項(綿織物(綿の重量が全重量の 85%未満のもので、混用繊維の全部又は大部分 が人造繊維のもののうち、重量が 1 平方メートルにつき

原子力災害からの福島の復興・再生を加速させ、一日も早い住民 の方々の生活再建や地域の再生を可能にしていくため、政府は、平 成 27

東北地方太平洋沖地震により被災した福島第一原子力発電所の事故等に関する原子力損害に

建屋の概略平面図を図 2.1-1 に,建屋の断面図を図 2.1-2 及び図 2.1-3 に,緊急時対策所 の設置位置を図 2.1-4 に示す。.. 7 2.2