東 南 ア ジア研究 14巻2号 1976年9月
ビ ル
マ の
壁
画 (班)
- ニ ャウ ンヤ ン時 代 を 中心 と
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Manyfrescoescanstillbcseenontheinnerwallsofthe13uddhisttemplesinthe Paganarea. Mostofthem werepaintedduringthetwelfthandthirteenth centurics・ Italsoseemslikelvthatmanyfrescoeswouldhavebeenpaintedduringthenextthree hundredyears. Itisstrangehoweverthatsofarnoneofthem hasbeendiscovered・ Ontheotherhand,severalfrescoespaintedduringthelasthalfoftheseventeenthand thefirsthalfoftheeighteenth centuriesremain,in fairlygood condition,in Pagan,
Sagalng,Pinya,Pahkangyland Shwebodistricts・
Frescoespaintedinthe``Nyaung)′anI)eriod"(Iconsideritbettertousethisterm ratherthanthe"Ayaperiod",be(・ausctheliurmansregardthelatterasthedynasty establishedbyThadomi72秒ain1364A.I).which一asteduntil1552A.1).)shownotal)le characteristicsincomparisonwiththoseofthePagatlperiod. F()rexamplc,I)othmen andwomenareportrayedwithroundeyes,plumpnosesandthicklips・ A largepr o-tuberanceisshownononesideoftheface,asifhewereholdingabigtoffeeinhismouth. Menofhigh rankusuallywearlongrobeswithshorts】ecvesandnoopcning・ This sortofdresshasnocollarandislikealongT-shirt. Soldierscarryeitherasword,a spearora bow,and acircularshield. Therearcno soldiersarmed with muskets. W omcn'shairiswornup,drawnthrougharingorfunnel・shapedhairornament. These peculiaritiesdisappearentirelvintheKongbaungperiod・
は じ め に パガ ン時代 の ビルマ の壁画 は,かつて報 告 した よ うに1)仏伝 また は本生護 を画題 とす る宗 教 画で ある。 その性格上,描 かれた場 所 はすべて煉 瓦造 りの方形寺院 内部 の漆 喰壁面 に限 られて い る。 当然, 壁画 の所在地 も, ニ ヤウ ンウ-, パガ ン, サ レ- とい ったパ ガ ン時代 建立の堂塔 伽藍 の存在場所 に集 中 して い る。 この よ うな仏教 建築 物 はパ ガ ン時代以 降に も引 き続 き建て ら れ は した ものの, その数 はパ ガ ン時代 に くらべ る と著 しく減少す る。従 ってパ ガ ン時代以 降に *大阪外国語大学ビルマ語学科 1)大野徹(1973);大野徹 (1974).
大野 :ビルマの壁画 (Ⅲ) 描 かれ た壁画 も, 数的 にはパ ガ ン時代 とは比較 にな らないほ ど少 ない。 年代別 にみ る と,ビ ル マの壁 画はパ ガ ン時代
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, なかんず く1
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世紀 か ら1
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世紀 に か けて描か れた ものが圧倒 的 に多い。次 いでニ ャウ ンヤ ン′時代(
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とコンパ ウ ン時代(
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)の作 品が比 較的豊富 に残 って い る。 ただ しニ ャウンヤ ン時代 とはい って も, それ らの作 品はたいて い1
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世紀 前 半の もので ある。 コンパ ウン時代 の壁画は,1
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世紀後半か ら1
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世 紀未 に至 るまで の約1世紀 平の問 にまたが って い る。 不思議 な ことに, パ ガ ン時代 滅亡か らニ ャウ ンヤ ン時代 に至 る約3
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年 間 とい うもの は, ど ル マ壁画史 上 ま った くの空 自であ る。 パ ガ ン時代 にはあれだ けおびただ しい数の壁画 が描 か れ たに もかか わ らず,パ ガ ン時代以 降 にな る とビル マの壁画 はよ うと して消息を絶 って しま う。 壁画 が再 び姿を現 わす の は, こ ヤウ ンヤ ン時代 それ も1
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世紀 後半 に入 ってか らの ことで あ る。 いず れにせ よ今 日までの と ころ,1
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鵬己か ら1
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世紀 まで の3
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年間 に描か れた壁画 は, まだ ひ とつ も知 られて いない。 もちろん この3
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年 間 に も,パガ ン時代 に くらべ るとその数 こそ著 し く減 った とはいえ, 各地 に寺院が建立 された はず で あ り, 寺院 の建立が行 なわれた以 上 その 内部 には壁画 が描かれた に違 いないので ある。 に もかかわ らず ひとつ も発見 されて いない とい う事 は, 当時描 かれ た作 品が後 世篤信 の仏教徒 の手 によ って 白色 に塗 り潰 され た可能 性 を示唆 して いる。 例 えば, タール ン王 の治 世 (1
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に書かれた タ ウ ンピー ラー問答 書に は, サ ガ イ ンのヤーザ マニ スー ラ仏塔 (カ ウ ンフム ドオ ・パ ヤー) の欄楯 に ジャー タカ5
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話 を描 い た とい う記述 が あるが,2)現 在 ど こを探 して もその痕跡 は見 出 されない〔〕 これ は後 世塗 り潰 さ にはか な らない。壁 画が描 か れて い る とい う情報 を得 て炎天下 を尋 ね歩 いた末 よ うや く探 しあ て た寺 院 で は, 壁 面全体が石 灰 で頁 白に塗 り直 され壁画 の痕跡 す らとどめて いない とい う状態 に接 して ひど く落胆 した経 験 は筆者 に もある。 時代 を経 た古い壁画 になれ ばな るほ ど損傷 の度合 もひどいO壁 の漆喰 は鰍 惨に剥 がれ落 ち, 土壌 ,雨漏 りに よる しみ, 引 っ掻 き傷, 落書 きな ど,長 い歳 月 の問 に加 え られた 自然的,人為 的 な破壊 の数 々によ って, 壁画 は薄汚 い醜 い壁の汚 れ に一 変 して いる。 従 ってそれ らの壁 を新 しく塗 り変 え る事 は,敬塵 な信者 に とって 当然 の ことで あ り現 世 において功徳 を ひ とつ積 み義 ね る事に もな る0億着 の手 による こう した無意識 の破壊 のほか に, 古 くな った壁画 の上 に後 世 新 た に壁画 を描 き値す とい った事 も行 なわれた もの と推測 され る。 とにか く1
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世紀 か ら1
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世紀 までの3
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年間 に 描か れた壁画 は, 遺憾 なが ら ビルマで はまだ 発 見 されて いな い。 もっと も筆者 自身 まだ確認す る機会 を得 て いないが, サガ イ ン時代(
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世 紀) の壁画 とニ ヤウ ンヤ ン時代 で も珍 しい事 に1
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世紀前半 の作 とみ られ る壁画 とが ご く最近発 見 された とい う情報 を得 たO双方 と も製作年代 に誤 りが ない とす れば, それは ビル マ壁画史 の 2)ウ- ・マウンマウンティン rタールン王時代の壁画」(ビルマ文)LokethaPyithuNilyZin,
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東南 アジア研 究 14巻2弓・ 空 自を埋 め る貴 重 な発 見 と 言わ な けれ ば な らな い。 前者 は ビル マ政府 文 化省考 古 局 マ ンダ レ-分 室 の美 術史 担 当技 官 の教 示 に よ る もの で, サ ガ イ ン丘 陵 の ミ-パ ウチ-寺 院 の上 方 , チ ャイ ラ ッ寺 院 の 中 に あ る とい う。後者 の存 在 は国営 新 聞 「労働 者 人民 日報 」 の副 編集 局 長 の説 明 に よ って 明 らか にな った もの で, サ ガ イ ン郡 ユ ワテ ィ ッチ-村 の ラウ ンウ- モー寺 院 内 に あ る。 画 題 は画 の下 に記 され て い る ビル マ語 の墨 文 に よ る と, シ ャ ン, ア ラカ ン, タポ イ,パ ラウン,
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王' 図2 ユワテ ィッチ-付ラウンウ-モ:-1iJ:院の壁画の模写図大野 :ビルマの壁画 (班) ユ ン(タイ国西北 部の住民 に対す る ビル マ語 の呼称), アユ タヤ, 中国, ミェンナ メ- (黒 薗) な ど
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種 の民族 の姿 と兵士 お よび ラーマーヤナ劇 中の場面 だ との事で あ る。 描 かれた時期 は アナ ウペ ッル ン王 の治世
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だ とい うか らそれが正 しければ1
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世紀 の前半 とい う事 にな る。 この ラウ ンウ-モー 寺院 の 壁画 の ご く一部分 が 旧知 の ビル マ人美 術家 ウ一 ・エー ミイ ン(UAy
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の好意 によ って模写 とい う形 で筆者 の手許 に届 いた。 わずか2
枚 の模写 (図1
, 図2参 照) では あ るが, そ こに描かれてい る人物群像 を仔細 に検 討す る事 によ って この画 の製 作年代 を推 し還 る ことがで きる。 もちろん現物 を確 か め もせず に軽 々 しく断定 を下す 事 は避 け な けれ ばな らないが,人物群像 の容貌 ,髪型,衣装 な どの特徴 か ら判断す ると, ラウ ンウ- モ ー寺院 の壁画 に はニ ヤウ ンヤ ン時代 の壁画 の特色 はあ ま り認 め られず, む しろコ ンパ ウ ン時代 の壁画 との間に類似性 を有 して い るよ うに思 われ る。 この点,今後 の調 査が必要 で あ ろ う。 【 ニ ャウンヤ ン時代の壁 画の特徴 ビル マ政府 文 化省考 古局 は, ビル マの壁画史 を, (1)パ ガ ン時代, (2)イ ンワ時代, (3)コン パ ウ ン時代 初 期, (4)アマ ラプー ラ時代, (5)ヤダ ナ- ボ ン時代 の5期 に区分 して いる。3) と こ ろで そ こで 用 い られて い る "イ ンワ時代" とは,1
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年 タ ド- ミンビャ一 に よ って 創始 され1
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年 まで続 いた シ ャン系 の イ ンワ王朝 を指すので はな く, タ ウ ングー王 朝の後期す なわ ちア ナ ウペ ッル ン王 によ って1
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年 に再 建 され1
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年 まで続 いた "ニ ャウ ンヤ ン時代" を指 して い る。 ビル マ史 で はニ ャウンヤ ン時代 の ことを"第二 次 イ ンワ王朝"と もよぶか ら"イ ンワ時代"と い う考古属 の呼称 はか な らず Lも間違 い とは言 えないが, シャ ン系 の イ ンワ王朝 と混 同 され る 憐 れが ある。従 って本稿 で は, こう した慢昧 さ,紛 らわ しさを避 けるため に,ビルマ文学史 の 世界 で も使 われて い る"ニ ヤウンヤ ン時代"とい う呼称 を用 い る事 にす る。 一 般的 に言 って,壁画が いつ描 かれたか, その製作年代 を判 定す る方法 には幾 つか考 え られ る。最 も確 実 なのは,壁画 と同 じ壁面 に製作年代 を明示 して あ る場合 であ る。 ビル マの壁画 に おいて は, たいて いの場合 画 の下層 に説 明文 が記 されて い る。 こう した説 明文 はパ ガ ン時代 の 壁画 において 既 に認 め られ るo 筆 者 白身直接調 査 し得 た寺院 の中で は, パ トーダー ミャ-, ナガ ヨン, ミンカバー村 の クー ピャウチ一, ア ロー ピェ, ロー カテ ィパ ン, ミイ ンピャグー, ピャ ッサ シュエグー, 寺院番 号4
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な どにはモ ン語 文, アベ- ヤダ ナー寺 院 にはパ ー リ語文, ロー カテ ィパ ン, ウェ ッチ- イ ン村 の クー ピャウチ-, レ- ミュ ンナ-, ウィニー ド-, タ ン プー ラ, タヤ ンブ-, コ ン ドオヂ-, チ ッチ ャムこ, ヤ ッサ ウ, テ ィンガ ヤーザ な どの諸寺 院 にはビ ル マ語 の解説文 が, それぞれ記 されて い る。東南 ア ジア研 究 14番 2号 ここで注意すべ き点 は,壁画 や墨 文がすべて,寺 院建立 と同時 に描 かれた とはか ざ らない こ とで ある。 寺 院 自体 はパ ガ ン時代 の建造で あ って も, 内部 の壁画 や墨文 は後世 の もので ある場 合 も少 な くない。例 えば
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2世紀後半 に建立 され たスー ラマニ寺 院 の内部 の壁画 はコ ンパ ウン時 代初 期の もので ある し,1
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世紀 の建立 と言 われて いるウパ ー リ戒壇 の壁画 も1
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世紀 末 の もので ある事 が明 らか にな って い る。墨文 に して も,パ ガ ンに現存す る寺 院 の 中か らパ ガ ン時代以外 に, イ ンワ時代 , タウ ングー時代 , ニ ヤウ ンヤ ン時代 , コ ンパ ウ ン時代 など各時代 の墨文が幾 つ も発 見 されて い る。4) 前述 の よ うに,壁画 の下層 には説 明文が記 されてい るのが普通 だが,措 いた年代 まで明示 し た ものは さほ ど多 い とは言 えない。 パ ガ ンの タウ ンビー村 にある経醇 (寺 院番号1
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一般 に タウ ンビー ・ピタカ ッタイ とよばれて い る) の小暦1
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,チ ャウンウ-郡 キ ンム ン村 の ロー カア ウ ン ミェー窟 (エー タ ンタイ と も称 されて い る) の小暦1
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, パ ガ ンのアー ナ ンダ 寺院 の北隣 にあるアーナ ンダ煉 瓦寺 院 (アーナ ンダ ・オ ウチ ャウ ン) の小暦1
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年(
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75A.
D.),ウパ ー リ戒壇 の小暦1
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年(
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4A.
D.)な どは, いずれ も墨 文 に よ って壁画 の製作年代 が明示 されて い る例 で あ る。 こうした確実 な資料 が何 もない壁画 につ いて その製作年 代 を判定す るには,通常,画 の様式 が重要 な手掛 か りとな る。す なわ ち年代 が明 らか な壁画 の画法,画題,構 図 な どの特徴 を基準 に,年代不 詳 の壁画 との問 にどの程度 の共通性 ,類似性 が認 め られ るかを調べ る。 こうした観 点 か らす れ ば,パ ガ ン時代 の壁画 とニ ヤウ ンヤ ン, コンパ ウン時代 の壁画 との間 に は大 きな差 異が存 す る. パ ガ ン時代 の壁画 に共 通 してみ られ る人物群 の 円顔 (例 えば,パ トーダー ミャ-, ペ-ナ タグ-, アベーヤダ ナ-な ど), 目尻 の釣 り上 が った切 れ長 の鋭 い眼 (例 :ア ロー ピェ, ウィニー ドオ, ウェ ッチ-イ ン ・クー ピャウチ- な ど), 中央部が垂 れ下 が った一 重 の重苦 し い陰 (例 :ナ ンダ ミンニ 17, タヤ ンブ-,寺院番 号7
8
8
な ど),先端 が鳥 の喝 のよ うに鋭 く尖 っ た鼻 (例 :パ ヤー トンズー,パ ヤー ンガーズー, コ ン ドオデー な ど), 後頭部で結 った男性 の 常 (例 :テ ィンガヤ-ザ, タ ンプー ラ, 寺 院番 号4
1
8
な ど) と肩か ら背 t榊 こか けて伸 ば した女 性 の良 い髪 (例 :ペ- ナ タグ-, ティ ンマズ ィ-, ナガ ヨンな ど), 耳菜 に くらべ て不相応 に 大 きい丸型 の耳飾 り (例 :テ ッチ ャムこ, ティ ンマズ ィ-, タ ンプー ラな ど) な どの特徴 は, 後世 の壁画 には もはや ま った く認 め られない。 で は, ニ ヤウ ンヤ ン時代 の壁画 には どのよ うな特徴 が あるのか。 この当時 の壁画 にみ られ る 特徴 と して は,次 の よ うな点 を指摘 す る事 がで きる。 1) 人物像 の顔 の輪 郭 は, 男性 が丸味を帯 びた横 島 の方形, 女性 は丸味を帯 びた逆三角形 (従 って いわゆ るオデ コが大 きい) で,パ ガ ン時代 の よ うな円形 で はない。4
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BaShin(
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大野 :ビル マの壁画 (Ⅲ) 2) 男女 と も頬 が豊か (いわゆるお 多福顔) で, ことに男性 の顔 はあたか も口の中で飴 を頬●●●●● ぼ ってで もい るかの どと く片頬 が極度 にふ くらんでいる●●●●●●●●●●●● 。 ● 3) 眼がば っち りと大 き く愛 くる しい。パ ガ ン時代 の釣 り 上が り気味の鋭 い眼 とは きわめて 対 照的で ある0 4) 険 は二重 にな って いて,涼 しげなまなざ しを形作 ってい る。 パガ ン時代 の中央部が垂 れ 下 が った-篭の重苦 しい感 じは もはや 見 られない0 5) 鳥 の噂 の よ うに鋭 く尖 ったパ ガ ン時代 の鼻.とは異な り, 鼻が丸味を帯 びている。 いわゆ●●●●●●●●●● る団子鼻であ る。 6) 下唇がやや部厚 くふ っくらして いる0 7) 前 のほ うが太 く後 にゆ くに従 って細 くなる扇型 (I● あるいは円錐形) の耳飾 りを,男女 と●●● ●●● も左右 の耳 にはめ込 んでい る。 8) 男性 は王族 の場合 .'立烏 帽 子" に似 た帽子 (ビル マ語Baung)杏,臣の場合 は螺旋状 あ るいは中央部 に突起のある広鍔 の帽子 を,兵士達 は菅笠状 の帽子 (ビルマ語 Maukto)を被 っ て い る。 女性 は環状 の暫 (ビルマ語Shwe-Katawt)を通 して髪を "文金高島 田"風 に高 く結 い 上 げている (ビルマ語 Yagindon)。後頭部での留 は見 られない。●●●●●●●●●●●● 9) 服装 は, 男性 の場合,襟 な し, 半袖で,絢 の裾 が腎部 もしくは膝 ぐらいに達す る丹前状●● の長 い貫頭衣 (ビル マ語●●● Thindaing)を着,下 半身 には足首 まで覆 う末広が りのゆ った りした 腰巻 またはロング ・スカー ト状 の下表 (ビルマ語 Pahso)をま とっている。下層 の者 は間では, 下表を太股 の位 置まで捲 くし上 げ余 った布 を後か ら前-股間を通 して廻 し先端を膳 のあた りで ね じ込んだ (ビ ルマ語Gadaung-Kyaik)者 もいる。 女性 は胸元か ら腹部を覆 うぴ っち りした袖 な しの内衣 (ビルマ語 Yinzi)で上半身 を締 めつ け,下半身 には疎 まで達す る下表 (ビル マ語Htamein)をはいている。 また背 中か ら控,腎部 までを覆 うシ ョール雄 の長い袖 な し外衣 (ビルマ語 Sulya または Tabek)を両肩 に羽織 って いる こともあるo 10) 兵士達 は,刀か槍 または弓あるいは円型の楯 を携 えてい るo鉄砲姿はみか け られない。●●● ●●●●●●●● 以 上が描かれている人物像 の特徴で あるが,技法面か ら見 る と, (1)パ ガ ン時代 同様,遠近 感 がまだ確実 に は表現 されていない。 (2)描かれて いる事物相 互間の大小 関係 に客観性, 自然 性 がな くパ ガ ン時代 同様極端 に不均衡 である。例 えば人物 に較べて建物や象,馬 などが小 さす ぎた り,小鳥が異常 に大 きす ぎた りしている。 (3)壁面 は上下数層 に分 け られているが、パ ガ ン時代 とは異な りパ ネル状 の区切 り(秤)はない。画面 は帯状 に横 に長 くな ってお り,同一壁面 での画題 の区別 は直線で はな く波状線 によ って仕 切 って ある。 (4)画題 はパガ ン時代 同様純仏 教的であるが,画材 には現 実的,世俗 的要素 がふんだんに取 り入れ られて いる。 (5)色彩的に はパ ガ ン時代 の赤,茶,黒 などの暗色 に対 して,請,緑 などの明 るい派手 な色がニ ャウンヤ ン
東南 アジア研究 14巻2号 時代 の特色 とな ってお り,青系統 の色 と赤系統 の色 との コン トラス トが印象的で ある とい った よ うな特徴 が認 め られ る。
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ニ ャウンヤ ン時代の壁画の所在地 1) テ ィロー カケル (Tilawkaguru)洞窟 サガイ ン丘陵 は,サガ イ ン市の北方を イ ラワジ河右岸 に沿 って南-のび る低 い山並 みで ある が, テ ィローカグル僧 院 はその丘陵 を南西側か ら登 った一角 にある。僧 院境 内の東側 に西 向 き の崖があ り, その崖 を くり抜 いて入 Hを3カ所 もつ洞窟が作 られている。 内部にはカタカナの "ロ"の字型 に回廊が設 け られてお り,東 側回
廊 と南側 回廊 の左右壁面 な らびに天井 に壁画が播 かれている。 パガ ン時代 の壁画 に較べ ると色 も形 も極 めて鮮明で,特 に南側回廊両 壁面の申, 下層部分 は未 だにみずみず しさを保 っているO 壁面 は上下4
層 に区切 られ,最上層の面 には偏担 右肩,触地 印の過去2
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仏が描 かれている。 各層の画
の下には ビル マ語の説明文が記 されて お り, それ らの文によれば中層 の画 は仏伝 と本 生帯 ,最下層 は地獄図で ある。本生譜 は1図1泉のパガ ン方式 とは異 な り, ひ とつの話を物語 風に措 く連続形式 を とって いる。 そのため547話 すべてを網羅す る事 はで きず,第504話バ ッラ テ ィ-ヤ本生物語,第506話 チ ャンペ ッヤ本生物語, 第516話大猿本生物語, 第527話 ウンマダ ンデ ィ一女本生物語 な ど数話が取 り上 げ られて いるだけで ある。 本生話 に描かれてい る人物群像の服装や髪型,装飾 品な どは, この当時の風俗を反映 してい る らしく,後世 のそれ とは随所で趣 を異 に して いる。 男性 は,上半身 に膝 まで達す る長い丹前 状 の半袖 の上衣 (Thindaing)をま とい, 下半身 には各種 の紋様のついた足首まで 達す る下表 (Pahso)を はいている。 上衣 は胸 元 に ローマ字 の"Ⅴ"型の切 り込 みがあ るが,前開 きではな く 貫頭衣で ある(,王族 は先端が後に折れ曲 った "烏 帽子"状 の帽子 (Baung)を被 り,環状および 馬蹄状の大 きな胸章 (ビルマ語 Bayet)を下 げて いる.従 臣達 は三層の螺旋状, または ローマ 字の"
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を逆 さまに した鍔付 きの帽子 を被 って いるo f層 の者 には,下表 を膝上 まで捲 くし 上げ布端 を後か ら前へ股間を通 して廻 し僻 のあた りでね じ込 んだ格好 を してい る者 が少 な くな い O 女性 は,胸元か ら下腹部 さ らに膝 ぐらいまでを覆 う袖 な しのぴ っち りした内衣 (Yinzi)を巻 きつ け,下半身 には ロ ング ・スカー ト状 の下表 (Htamein)をはき, 背 中,腰, 暫 部 などを覆 う長い シ ョール状 の外衣(Sulya)を両肩 に羽織 っている。 髪は,環型 の大 きな髪飾 り( Shwe-Gadawt)を通 して頭 の莫上に高 く結 い上 げて (Yagindon)いる (写真1)。耳飾 りは男性 の とは異な り丸型で ある。
顔 の輪郭 は男性 の場合下ぶ くれの方形 で, 通常片頬 が極端 にふ くらんでいる。 女性 の顔 は "おむすび" を逆様 に した形す なわ ち逆三角形 が基本 にな って いる。 男女 とも眼 はば っち りと
大野 :ビルマの両壁 (班) 大 きいが,パ ガ ン時代 のよ うな切 れ長で はない。上険 の直 ぐ上 に もうー本線 が描かれ,二重陰 で ある事を明示 しているo眉毛は半月形 またはひ らがなの `●-" の字型で,眼 との間 隔が大 き い。鼻 はいずれ も九泉で ある(,正面を向いている場合 は鼻梁 は描かれていない。層 は男女 とも ぼ って りと部厚 い
。
首 に三条 の筋が描 かれて いる事 もある(, 建物 は,人物像 に比 して不 自然 に小 さい。通常数層 に重な った屋根 だ けが描かれ, 吊 り屋根 のよ うな印象 を与える。 これ らの屋根 は,通常棟 の両端が上方 に反 り返 っている。柱 は稀 に描 かれ る事 もあるが,壁が描かれ る事 はほ とん どないO樹/机ま, 円または楕 円の中に蛸 の足状 ま たは魚の骨状 に枝 を描 き込 んだ きわめて形式的,類形的な ものである。色彩 の面か ら言 うと, 蘇,黄 と縁,黒,白などが対比的 に用 い られ,パ ガ ン時代 の壁画 に較べて逓 かに華や いだ明 る い雰 囲気 をか もし出 してい る(, テ ィローカブル洞窟 は,ニ ヤウンヤ ン王朝 のナ ラワ ラ王(
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2
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)
によ って1
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2
年 に建造 さ れ た5)と言 われている。 ここの壁
画が洞窟掘 削直後 に描かれた (その可能性 は高 い) とすれば, それは1
7
世
紀後 半の作品 とい う事にな る。,2)
ローカ フマ ンギン(
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aWkaHma
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洞窟 テ ィロー カグル洞窟 同様 サガイ ン丘陵 の一角 にある洞窟 で, ロー カフマ ンギ ン僧 院 (別名ゼ -ヂ ャウン) の境 内東側 に矧 司きにな った崖 を くり抜 いて作 られているO入 口は3カ所で, 内 部 の回
廊 は西 に向か って カタカナの "ヨ" の字型 を成 している。東側回
廊 の中央 口と南 口との 中間点 および中央 口と北 H との中間点 にそれぞれ西 向 きの階段 が設 け られて二階 に通 じている。 壁画 は, 中央入 日か ら奥に向か った左右両壁面 および北入 口の南側壁面 (北側壁面 は漆喰が剥
落) な らびに北側階段を 上が った二階 の一部 にだ け残 ってい る。 全体的 に壁面の剥落磨損の 度合 いがひど く,壁面
もテ ィローカグル ほど鮮明ではない。画題は本庄欝 で,画 の下 に記 され た ビルマ語 の説 明文による と第543話粟達龍本生物 語,第544話大都雁蛇迦葉栗天本生物語,罪 547話毘輸安唱噸 王子本壁物語 な どであ る。 人物群像の服 装, 髪型 などの特徴 は, テ ィロー カグルの壁画のそれ ときわめて よ く似て い る。 すなわ ち顔 の輪郭は丸 味を帯 びた方形 または逆 三角形で,男性 の豊頬 ,片類 のふ くらみ, ラ ッパ状 の耳飾 り, "V"の字型の 切 り込 みが あ り据良の半袖付 き 貫頭衣(
Thi
ndai
ng)
,王族 の烏 帽子型帽子 と環型の 首飾 り(
7
3
a
ye
t
)
,胸 に吊 した綬(
Sal
we
)
,従臣連 の三層 帽また は逆 HT'' 字型 晩 女性 の高
く結 い 上 げた髪(
Yagi
ndon)
と花弁状 の大 きな髪飾 り, 肌 に密着 した内衣(
Yi
nz
i
)
,足首 まで達す る下衣(
Ht
a
me
i
n)
,両肩 に羽織 った外衣(
Sul
ya
)
,両性共通の見開 いたよ うな大 きな臆,細 くて長 い間毛,眼 との問の広 い間隔,二重にな った険,鼻梁 が描かれない丸 い鼻, め くれた よ うな感 じの部厚 い屠, 首の三本 の条 など (写真2) は, テ ィローカグル の壁 5)ÅungThaw (1972),ド.132.東南 アジア研究 14巻 2号 写真 1 ティロ-カグル洞苗の壁画 写真2 ロ-カフマンギン洞窟の人物群像 画 と同一一時代 の風俗 を反 映 して いる。 また人間 に較べて不 自然 なほど建 物が小 さい とか,楕 円 形 を中心 とす る類型 的 な樹木 の描 き方 もテ ィロー カグル のそれ と共通 して い るo これ らの基 本 的 な特徴 か ら, ロー カフマ ンギ ンの壁画 が テ ィロー カグル の壁画 とほぼ同時 代の作 品で ある事 は間違 いな い と思 われ る。 しか し相違点 がない訳で はない。例 えば ロー カ フマ ンギ ンの壁画 には,女性 の髪 の先端 が後 頭部へ細長 く垂 れて(HsameiLcha)いた り,耳飾 りを付 けて いない男が いた り,王族 の烏 帽子 状 帽子 の左 右 に鶏 の鶏冠 の よ うな耳覆 い (ビル マ名Nagin)が付 いて いた り,胸 の前 に下 げた 綬 の最 日嗣こ大 きな玉 が ひ とつ付 いて いた りな どの特異性 もみ られ る。 また円型 の楯 と槍 とを 手 に持 ち首 の周 囲 に鉦 (日覆 い) の付 いた菅笠 (Maukto)を被 った兵 士の群像 もみ られ る。 ロ ー カ フマ ンギ ン特有 の こうした特徴 は, ここの壁画 が テ ィロー カグルのそれ よ りも若干遅 く描 かれた可能性 を示 して い る。 なお,色彩 の点か ら言 うとロー カフマ ンギ ンのf地 には明 るい茶 色 が使 われてお り, と ころど ころに白が用 い られて はい る ものの人物 の衣装 や横 木 などの緑 色 が きわ めて鮮 明で,全 体 と して緑 がか って い る。 ロー カ フマ ンギ ン僧 院 はテ ィタ-ダ ナダザ師 の開 山にな る もの6)で, ニ ャウ ンヤ ン時代
(
1
8
世紀初頭) に 編 纂 され た ウー ・カ ラ-の 『マ- - ヤーザ ウィン ドオヂー』
(大王統史) にその 建立 の模様 が記 されて い る。 それ に よる と,
『小暦1
0
6
3
年(
1
701A.D.
)
,ダ ボ ドゥエ月 自分8
日 土曜 日, ロー カフマ ンギ ン僧 院 の重閣,
層閣 の頂柱 の取 り付 け工 事が完了 した。 国王 は象兵, 騎馬兵 を従 えて輪 に乗 りロー カフマ ンギ ンへ と行幸 あそば された。 東埠 頭 で カ ラウ ェイ蛎 にお 乗 り換 えにな り, 同 日午 後4別テ ィクーダナダザ僧 正へ僧 院を御献上 あそば された』7)と記 さ れて い る。 この よ うに ロー カ フマ ンギ ン僧 院 は1
8
世紀 の初 頭 に は既 に建立 されていたo その境 内にある洞窟 も同僧 院 の建立 と同時 に作 られた可能性 が高 いo この事か ら, ロー カフマ ンギ ン の壁画 は1
8
世紀初頭 の作 品で ある とみな して差 し支 えないで あろ う。)6)ReportoftheDirector,ArchaeologicalSur7,e)′,Burmafw 1963,p.21. 7)U.Kala,Vol.Ill,p.295.
大野 :ビルマの壁画 (孤) 3) シ ュエズ ィ- ゴン (Shwezigon)窟 アマ ラプー ラか らサガ イ ン- と向か うアバ鉄橋 の快 か らイ ラワジ河 の河原- と通 じる牛車道 を降 りて,渡 し舟 で ミッンゲ- (Myitnge)河 を渡 河 す る とイ ンワ城蝕 に辿 り着 く。 その イ ンワ 城蝕 か らダダ ー ウ-町- と向か うか な り大 きな道 路 を東 進す る とピンヤの遺跡 に至 る。風化 し て崩 れか けた幾 つかの煉 瓦造 りの仏塔 を除 くと, そ こには ピンヤ時代 の面影 は何 も残 って いな い。 その道路 の北側, やや小高 い丘の
上
に シュエズ ィ- ゴ ン仏塔 が あ る。 その仏塔 の境 内へ と 通 じる石 段 の右側 に横掘 りの小 さな窟 があ り,入 口左 右 の壁面 に壁画 が残 されて い る。, 両壁面 と も上下二層 に分 かれ,上層 には小鳥 の群 が,下層 には両手 に花 を持 って合掌 した貴 族 の姿が描か れて いる(,両 手 に花を捧 げ持 った合掌 図 はパ ガ ンのチ ャ ンス イ ツタ-窟 院 に もみ られ るが, そ この人物 は貴族 で はな く袈裟 を偏担 右肩 にま と った出家 で あ るo シュエズ ィ- ゴ ンの人物 像 の顔 容や服装 な どの特徴 はテ ィロー カグルの人物像 のそれ と同質 で,画法か らみて ここの壁 画はテ ィローカグル窟 の壁画 と同時代 の作品だ と判断 され る。す な わ ち人物像 は例外 な く片瓶 が豊か にふ くらみ,眼 は驚 いた時 の よ うに大 き く見開かれ,二重除 で,眉毛 と眼 との問が離れ て いるo頭 に は烏 帽子状 の帽子 を被 り,耳栗 には扇型 の耳飾 りをは め込 み,裾 が膝 まで ある絢 の長 い半袖付 きの貫 頭衣 (Thindaing)を着て い る (写真3)。 ここ の壁画 は,烏 帽子 の横 に鶏冠状 の耳覆 いを もって いない点 では テ ィロー カグル の壁画 と同 じだ が,腰帯 を締 めて い る事 や 目尻 が上 に釣 り上 が って いる事,単 玉付 きの綬 (Salwe)を肩 か ら斜 めに吊 してい るな どの点で は ロー カ フマ ンギ ンと共通 して い る。 もっと も,眉毛 の尻 が上方-釣 り上が り気 味で あ る とか,層 は部厚 いが小 さい (いわゆ る"お ち ょぼ 口'') とか,手首 に腕 環 を はめて い る とかい った特徴 はテ ィロー カグル に もロー カフマ ンギ ンに もない シュエズ ィ- ゴ ン国有 の特徴 で あ る0 4) タウン ビー ・ピタカ ッタイ (経庫) ニ ャウンウ-町か らパ ガ ンへ向か う道路 のパ ガ ン寄 り, タヤバ 門 よ り200メー トル ばか り東 側 の地点 を北す なわ ちイ ラワ ジ河 のほ うに向か って小道 を入 る と,西 向 きに3箇 所 の入 口を も つ煉 瓦造 りの建物 (寺院番 号 1969/1265)が ある。 タウ :/ビー村 の西 はず れ にあるので一般 に は タウ ンビー経 庫 とよばれて い るo この建物 は東側 に も入「二lを1箇所 もって い る。 内部 は東西 二室 に分 かれ, 画室 は天井 が低 く東宝 は天 井 と床 との間が 高い。東室 の入 口を入 る と室 内中央 の左右 に二本 の大 きな煉 瓦製角柱が あ り, その角柱 の上部 はアーチ式 の天 井で相互 に繋 が って い る。 その両 角柱 の周 囲 と,角柱 と奥 の壁 との連繋壁 および部屋 の西,南両壁面 とに壁画 が残 って い る。東壁 と北 壁で は壁
面 の磨 滅 お よび漆喰 の剥落 によ って ほ とん ど確認 で きない。壁画 は壁 面 の上層 にのみ6層 に分 けて描かれて い る。 色彩 は緑 と赤 とが鮮 明で あ るO テ ィロー カグル窟東南 アジア研究 14巻2号 写真3 シュエズィ-ゴン窟(ピンヤ)の合掌礼拝図 写真4 タウンビー経庫内の人物群像 のよ うに,下地 には赤色 を用 いてい る。 人物群像 の特徴 はニ ャウンヤ ン時代 の他 の壁画 と全 く共通で,男性 は片頬 がふ くらみ,団子 鼻で,眉毛が"-"の字型 を してお り,間 と眼 との間隔が広 いO頑 にはノ馴 昌子状 の帽子を被 り, 耳菜 には後部が細 く前部 の太 い耳飾 りを はめ, 裾 が 膝 まで ある長 い丹前状 の半袖付 き貫頭衣
(
Th
i
nd
a
i
ng
)
を着用 し,下半身 には足首 まで覆 う下表 (
Pa
hs
o
)
をはいて いる。首 のまわ りに環 状 の幅広 い首飾 り(
Ba
y
e
t
)
をはめて いるため, テ ィロー カグルのよ うな胸元の"
Ⅴ"
字型の切れ 込み は見 えない。なお,王族 は胸 の前 に単玉付 きの大 きな綬(
Sa
l
we
)
を下 げている。 ここの男 性 には,中央 に人差指 くらいの突起 の付 いた椀 型 の帽子 を被 って いる者 も見か け られ るが, こ うした形 の帽子 はテ ィローカグルや ロー カフマ ンギ ンの逆 目Tり学帽の亜形 と考 え られ るO 腰 に帯 を締 めてい る点 では ピンヤの シュエズ ィ- ゴン窟 と共通 して いる。 女性 は顔 の輪郭が逆三角形で,髪 を頭の真上 に高 く上 げて先端を後方 に垂 らし,上
半身 には 胸か ら哲郎 までを覆 うぴ っち りした袖無 しの内衣(
Yi
nz
i
)
を付 け, 下半身 には裸 まで達す る下 表をはき,両肩か ら背中にか けてはマ ン ト状 の外衣(
St
l
l
y
a
)
を羽織 って いる (写真4
)0 タウンビ-経庫の壁画 も事物相互 の大小関係 がア ンバ ランスで, ことに人間の身体 に対 して 建物が小 さす ぎる。家 の屋根 は通常三層 にな ってお り,棟 の両端 は例外 な く上 に反 りかえ って いる。 各層 の画 の下 には, ビルマ語 の説 明文がみ られ る。 中央左角柱の東壁面 には 「小暦1
0
6
8
年 ナ ヨン月 黒文6
日寺院建立」 と記 され, この経庫が1
7
0
6A.D.
の建立で ある事を示 してい る。画法上 の特徴 とあわせて こうした墨文 の存 在か らも, この経庫 の壁画 が1
8
世紀前半 の作品 である事 はほぼ間違 いない と言 って よいで あろ う。5
)
シュエオンミン
(
Sh
weOn
mi
n
)
窟 パ コック-市 の北東2
0
マイル, イ ラワジ河 とチ ン ドゥイ ン河 との合流点近 くにパ カ ンデー村 がある。 コ ンパ ウン時代 まで は代官(
Hk
a
y
a
i
ng
wu
n
)
が任命 されていた8)ほど大 きな町 のひ と 8)Konbaungzet,VolIII,p.751.大野 :ビル マの壁 画 (班) つであ ったが, 今で は人 口 900足 らず (1970年現在), 行政的 には 7マイル離れたイェ-ザヂ ョ-町 を中心 とす るイェ-ザヂ ョ-郡 内の-村 落にす ぎない。 この村 のはずれ, 旧パ カ ンデー 町 の城壁跡を北西方向に通 り抜 けた ところ, イ ェ-ザヂ ョ-町へ と向か う道路の左側 に シュエ オ ンミン寺院 の境 内がある。煉瓦塀 に囲まれた広大な面積 の境 内には,王朝時代 に存在 してい た といわれる木造 の寺院 は もはや残 って いない。 しか しレンガ造 りの仏塔 や窟院 は今 で も残 っ て いる。 窟院の内部 にはニ ャウ ンヤ ン時代 の作 と思われ る壁画が残 っている。壁面 は上下四層 に分 け られ, それぞれ仏伝や本庄葦 とおぼ しき画が描かれて いる。 各層 の下 にはビ ルマ語 の説明文が 記 されてい るが,場所 によ っては もはや判読で きないほど磨損 して いる。 ビルマ文字 の形 (書 体) はテ ィローカグル轟 の文字 に酷似 してお り, ほぼ同時代 の文字だ と判断 され る。 人物群像は,仏陀, 出家,王,王妃 ,女官,貴族,臣,兵士 な どで,男女 とも顔 の輪郭 は逆 三角形 または底辺 のほ うが上辺 よ りも短 い方形で ある。眼 は切 れ長,二重険で,眉 は三 日月形 を してお り細 くて長い。眼 との間隔はかな り開 いている。鼻 はいわゆる団子鼻 (丸鼻) で,唇 が小 さい(写頁 5)。男性 は,表面が筒型を した鳥 帽状 の帽子 または中央に人差指 くらいの突起 のある椀型の帽子 を被 り,耳粟 には前 部が太 く後部が細 くな った耳飾 りを はめている。服装 は, 上 半身が胸元 に
H
V"
字型の切 り込 みのある膝 まで達す る良い貫頭衣,下半身 は疎 まで およぶゆ った りした下表である。上衣 の袖 は半袖 だが袖 口が広 く,後世 の広袖上衣(Wut-Ion)に近 い。 王族 は 首の回 りに幅 の広 い環型の首飾 り(13ayet)をはめ, 円形 多弁の花模様を した大型 の玉 を ひ とつだ け付 けた幅広 の綬 (Salwe)を肩か ら斜 めに吊 し,手首に腕飾 りを はめている。王の烏 帽子には両耳 の後 に鳥の翼型の大 きな耳覆 い(Nagin)が付 いて いる。頬 のふ くらみはあま り強 調 されていない。)兵 上達 は下表をま くり上 げ(裾か らげを し),刀,槍 または弓を携 えている。 鉄砲 を持つ姿 はみ られない。 女性 は,環 型の髪飾 りを通 して髪を頭 の上 に高 く結 い上げ(Yagindon)て先端を後へ垂 らす (Hsameiトcha)か,後頭
部
で 丸髪を結 う(Nauktwe-ton)か して いるO上半身 には胸元か ら膝 ま で の長 さのぴ っち りした内衣を着, 下半身 には足首 まで連す る下表 をは き, 外衣(Sulya)杏 両肩
に羽織 るか片 方の肩
にか けて 前後 に垂 らすか している。 当時 と して は 珍 しく袖付 の上衣 (Htainmathcin)姿 も見 られ る。 以 上の特徴 か らシェエオ ン ミン雷 の壁画 は, テ ィローカグルや ローカフマ ンギ ンな どと同 じ くニ ヤウンヤ ン時代 の壁画だ と判断 され るが,男性 の頬 のふ くらみが さほ ど強調 されて いない ことや女性 の後者,袖付 き上衣の着用 な どの特異性か らみ ると,ニ ャウンヤ ン時代で も後期 そ れ もかな りコ ンパ ウン時代 に近 い頃の作品だ と解釈 され る。東南 アジア研究 14巻2号 写真5 シュエオンミン窟内の
男
女群像図 写真6 サウンタモー矧 月の王族の図6
)
サ ウ ン タモー(
Sa
u
ng
t
a
mo
)
窟 シュエボー市 の北西14マイル の ミイ ンズ ィ- (
My
i
nz
i
)
村 に ある。 サ ウ ンタモー とは,東 西 南北 に小雷 を穿 った仏塔(
Ze
d
i
)
の名 前で ある。 壁画 は これ ら四つ の窟 の内部壁面 に描かれて い る。壁画 は4
層か ら6
層 (各窟 ごとに異な る) に分かれ,最上層 は2
8
仏 , その下 は仏伝,本生 雷 とな って いる。 層 と層 との中間 の帯
状部分 に ビルマ語 で説 明文 が記 されて い る。 その中に 『小暦1102年 ワ-ガ ウ ン月黒分13日月曜 日正午 記 し終 える。施 主マチ ャンビュー,施主 シュエ イ-夫妻 の功徳』 とあ る事 か ら, この窟 の壁画 が1740A.D.に描かれた 事が判 明 した。 画 法上か らもサ ウンタモー富 の壁画 が, ニ ヤウ ンヤ ン時代 の壁画 に共 通 の特徴 を もって い る 事 が指摘で きる。す なわ ち人物 の顔 容 は方形 で,眼 が大 き く二重険,眉 はほ っそ りと良 く眼 と の間隔が開 いて い る。 男性 は,王族 の場合 表面 が筒状 にな った烏 帽子 を, 臣の場合 は螺旋状 ま たは, 中央 に突起 の付 いた椀 型 の帽
子を被 り, 耳栗 には円錐型 の大 きな耳飾 りを はめ込 んでい るo 王族 の場合 には,首 に環型 お よび馬蹄型 の首飾 りあるいは胸章(
Ba
y
e
t
)
を下 げて い る 借 真6)。服装 は,上半身 に…Ⅴ"字型 の胸部 切 り込 みが あ り膝 までの良 さの ある半袖付 きの貫頭 衣 を着用 し,下半身 には足首 まで届 く下衣をはいて いて る。 女性 は,環状 の髪飾 りを通 して髪 を真上 に高 く結 い上 げ先端 を後 に垂 らして い る。 身体 は,胸か ら膝 まで ある長 い内衣でぴ っち りと綿 めっ け,下半身 には疎 まで覆 う下表 を は き,
両肩 に は背 中か ら暫 部 までを覆 う外衣 を羽 織 って い る。 建物 は人間 に比 して相対的 に小 さ く,屋根 は3層 ない し4層構造 にな って い る。棟 の両端が大 野 :ビル マ の壁 画 (Ⅲ) 上方 に反 り返 っている点 はニ ヤウンヤ ン時代 の他 の壁画 と変わ りない。樹木の描 き方 はい くら か類型性 を脱 し,幹 と枝 とを区別 して表わす な ど自然に近 くな っている() 以 上述べたよ うな様式上の特徴 は,サ ウンタモー窟の壁画 が テ ィローカブルや ロー カ フマ ン ギ ンな どの壁画 と同質で あ ることを 示 している。 もっとも烏 帽子 の表 面が 管状 にな って いる 事,左右 に大輪花弁状 の耳覆 いが付 いている事,腰帯 を締 めて いる事,貫頭衣の袖 口が広 い事, 手 に腕環をはめて いる事な どの諸点か ら判断す る と, テ ィロー カゲル よ りもローカフマ ンギ ン や ピンヤの シュエズ ィ- ゴ ンに近 いO -一方,頬 のふ くらみが さほ ど極端 でない事や王や 王族 が 身 につ けてい る綬 (Salwe)には玉が3
偶
も付 いてお り単玉だ けの シュユズ ィ- ゴンや シュエオ ン ミンに くらべて複雑高級化 して いる事な ど,サ ウ ンタモーの壁画 のほ うが時代的 には新 しい もので ある事を証明 して い る。 人物群像の中には,上半身が裸,下 半身 は下表 を股間まで捲 り上げて締 め付 けた格 好の男の 姿 もみ られ る。 彼 らは帽子を被 ってお らず,頭上 に丸髪を結 い,耳 には円型(円錐型で はない) の耳飾 りを はめて いる。 これは当時の 下層社会 の風俗 を反映 している もの と考 え られ る。 なお, この窟 の壁画は,色彩的に は緑 色 と茶 色 (または朱色) とが主力 にな って いる。7
)
ヤ ダナー ミンズー(
Ya
da
naMi
nz
u
)
寺院 タ ッピンニ ュ, ナ ップラウンチ ャウ ン,パ トーダ ー ミャ一, ミ-マ ラウ ンチ ャウンとパガ ン 時代建立の寺院 に沿 って東西 に伸 び る隼車道がパ ガ ン ・チ ャウ問 に通 じる南北 の大通 りと交差 したその西北隅 に,表面を石灰で貢 白に塗 った小型 の寺院がある。 これがヤダナ- ミンズー寺 院で,東西南北 に1箇所ずつ設 け られた入 口か ら内部 に入 ってみ ると,壁面か ら天井 にか けて 文字 どお り一寸 の隙間 もないほどび っしりと画 が描かれて いる。入 口両側 の壁面 は正方形 に仕 切 られ, 各パ ネルの中に様 々な形 の烏 の絵 が 描かれている。 室 内の壁面 は上下5
層 に分 け ら れ,最上層 には2
8
仏 の成道図, そのT には出家,男性 の在家信者,女性 の在家信者 の服 に合掌 礼拝図が描かれているO 人物像の顔容 はほぼ逆三角形だが, 男性 の在家信者 の場合は豊頬で, ことに片頻 のふ くらみ が強調 されて い る。
眼は大 き く見開かれ, 二重険 で, 眉 は細長 い三 日月型 を してお り眼 との間 隔が広 い。頭
には逆目
T
日宇型またはノ馴 EB子状 の帽子を被 って い る。 耳粟 には男女 を問わず大 きな耳飾 りがは め られてい る。 衣装 は, 男性 の場合丹前状 の長いゆ った りした上衣 (半袖 のThi
nda
i
r
唱
と筒袖 のTh
o
y
i
nEi
ng
y
i
)
を着,下半身 には足首 まで達す る下 表をはいて いる (写頁 7)。 女性 の場合 は, 胸元か ら膝 までのぴ っちりした内衣 と足 首まで届 く下表 とを着用 し, 背 中か ら暫 郎までを覆 う外衣 を両肩に羽織 って いる。
在家信者連 の こうした風俗的特徴 は, ニ ャウンヤ ン時代 の壁画一般 に共通す る もので ある。 しか し,ヤダナ- ミンズー寺院の壁画 が描かれたのは,ニ ヤウ ンヤ ン時代 で も末期つま りかな
東 南 ア ジア研 究 14巻2TfS・ りコ ンパ ウ ン時代 に近 い頃ではなか ったか と考 え ら れ る。 それ は, 男性 の頬 のふ くらみが絶 対的で ない (頬 のふ くらみが描かれて いない場合 もある)事,丹 前状 ヒ衣 の袖 に半袖(Thirldaing)以外 に肘 よ り少 し 良め もしくは手首 まで を覆 う筒袖 (Thoyin)が あ っ た り, 筒袖以外 に広袖 (Wuトlon)もみ られ る
乳 帽
子を被 って いない人が い る (その場合 は頭の真上 ま たは後頭 部 に歯 を結
って い るのか認 め られ る) 事, 耳飾 りを はめて いない人 もい る串,女性 の場合 髪型 に様 々なバ リエー シ ョンが見 られ る (ニ ャウ ンヤ ン 時代 に優勢 で あ った頭上 に高 く結 い上 げ先端 部を後 に垂 らす髪型 の ほか に,後頭部 に丸宙 を結 って い る 場合 もみ られ る) こと, ニ ャウンヤ ン時代 を通 じて 普遍 的 な袖無 しの 内衣 (Yinzi)の代 わ りに,袖 付 き の上衣(Htatngmathein)を着 た り, "振 り袖''の よ 写真7 ヤダナ-ミンズー寺院の合院の 合掌礼拝
図 うに枚 の長 い上衣(Wut-ュon)を 着 た りして い る 女性 が い る事等 々の理 由に よる。 なお各層 の 下 に記 されて いる ビル マ語の説 明文 による と,同一
層 内に描かれて はいて も人物相互間 に関係 はな く個人個人 を描 いた もので あ る。 8) その他 ニ ヤウ ンヤ ン時代 の壁画 は,以 上のほか に もその存在 が知 られて い るO例 えば, チ ン ドゥイ ン河の右岸 ヤマ ビン郡 内にあ るポー ウ ィン山 (モ ンユ ワ-市の対岸 ニ ヤウンビ ンデーか ら14マ イル の地点 にある) の 西面 を くり抜 いて造 られた洞窟 内の壁 面 と天井 に描 かれて い る画 はニ ヤ ウ ンヤ ン時代 の作 だ と考 え られて い る.9) また ビル マ人美術家 ウ一 ・エー ミイ ンの説 明による と, セ イ ビュー町 の北 方, ヨオ川 が イ ラワジ河- と流 れ込 んでい る合 流点 の丘 (ヤダ ナ-マ ン ア ウ ン丘) の上 にある小仏塔 内に も28仏 や仏 伝 を描 いた壁画 が あ り, タウ ンビー村 の経庫 の壁 画 にきわ めて よ く似 て い る との事 で ある。 上 ビル マには, まだ 内部に壁画 を内蔵 していなが ら 地 元 の人 に しか知 られて いない, あるいは 世間 に も知 られて いないよ うな小仏塔 や寺院が各地 にひ っそ りと残 って い る可能性 が あるU それ らの壁画 が時 代 とともに風化 し,汚 損,磨滅,
刺 落 あるいは人為 的破壊 を蒙 る恐れが ある事を思 うと,全地 域 にわた る壁 画の総合 的調査 の必要 性 を痛感す る。大野 :ビル マの壁画 (m)
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