東南 アジア研究 26巻4号 1989年 3月
ペ
フ
デ
ィ
- べ ツ ィ ミサ ラ カ族 と シ ナ カ族 の 狭 間 で
-前
田
成文*
Befody:A Settlementbetween the Betsimi組 r&k8 and the Sih8m&ka
NarifumiMAEDA*
Thispaperprovidessupplimentarynoteson the8exibility ofethnicity in the vicinity of LakeAlaotraMadagascar.Itdealswithaset・ tlement,Befody,in thefringeareaoftheSi -hanaka.Befody mostly consistsofimmlgrant Betsimisarakafrom thesouthandwest.They identifythemselvesasBetsimisaraka;butout -siders,mainly the Sihanaka,regard them a partoftheSihanaka.In actuality there are
Ⅰ
背 景1) 本論 は マ ダガス カル 島 の中央 高地 の東 北 に 位 置 す るア ラ ウチ ャ (Alaotra)2)湖 盆地東 北 に 居 住 す る, ベ ツ ィ ミサ ラカ (Betsimi sa-raka) 族 の移 住集 落 のサ ーベ イの報 告 で あ る。 ア ラ ウチ ャ湖 東 南 に位置 す る シ - ナ カ (Sihanaka) 族 の 集 落 (ヴ ァソ ドゥザ ナ Vandrozana) に関す る論文 [M aeda and*京都大学東南 ア ジ ア 研 究 セ ン タ ー ;The CenterforSoutheastAsianStudies,Kyoto University 1)本稿は昭和61年度文部省科学研究費 (研究代 表者 ・高谷好一教授)に よる臨地研究に基づ く。臨地研究にあたっ て は, Rabarijoelina Armand との共同調査 といって良い程, 同 氏に依存す ることが多かった。本来な らは共 同執筆者 とすべきであるが, 日本語であるの で同氏の名前を掲げることは遠慮 した。
differencesbetween Befody people and other SihanakainpursulngSubsistenceandint omb-centeredgrouplng:theBetsimisarakaareeng・ aged in swidden cultivation aswellaswet・ ricecultivation and tomb・centered grouplngS arenotobservedin Befody.Otherwise,they liveaSihanakalife.Sotheirethnicitybecomes anarbitrarylabel. Rabarijoelina 1988]の補 足 ない しは比較 材 料 として,主 にべ ツ ィ ミサ ラカの シ- ナ カ化 とい うエ ス ニシテ ィの漸 移 の問嶺 を考 え るた め の民族 誌 的事 実 を提 示 す る。 ア ラ ウチ ャ湖 はそ の湖域 をせ ば めつ つ あ る が, ア ラ ウチ ャ ・マ ン グル (Alaotra-M an・ goro)回廊 と呼 ばれ る陥没地溝 の北 に位 置 し て い る。湖 面 は標 高 750m 位 に あ るが, 周辺 は 1,000m 以 上 の山 に囲 まれ て い る。東 側 は 1,400- 1,500m (Belangaina 山 1,580m) の山 々が湖 畔 か ら
2
0
-
3
0
km 位 の範 囲 にそ び えて い る熱 帯多 雨林地 帯 が東海 岸 まで続 き, 多雨林 地 帯 に入 る とそ こはべ ツ ィ ミサ ラカ族 2)マラガシ語の 日本語表記には,あま り複雑に な らぬ ように, 例えば tr,dr音はタ ・ダ行 あるいは ラ行に簡略化 した。 417の居住地 であ る。湖 の西及 び西南 に低湿地 が 広が り,大規模 な水 田開拓 の対象 となった。 しか し,その更 に西 に は や は り
1
,
3
0
0
か ら1
,
5
0
0m
の山がそび え, それ を越 える とサ カ ラバ(
Sakal
ava)
族 の住 む西海岸に流 出す るマ- ジ ャンパ(
Maha
j
a
mba)
川 が流れ て い る。湖 の南北 は1
,
0
0
0m
位 の丘陵地 帯 には ば まれ てい るが,北 には ア ンディラメナ(
An・
di
l
a
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na
)
盆地,南 にはマ ングル(
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河谷及 びデ ィデ ィ(
Di
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盆地があ る。 南- のび る地溝 に沿 って首都 ア ンタナナ リブ(
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と東海 岸 の港 を 結 ぶ 幹 線 道路 の中継点であ るムラマ ンガ(
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aman・
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)
にかけてはべザ ヌザ ヌ(
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族 が住 む。西南 のア ンジャフ ィ(
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山 系 を越 える とメ リナ(
Me
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族 の領域 に 入 ってい く。 マ- ジャンパ川 は ア ンジ ャフ ィ に源 を発す る。北 はマル ヴア ラヴ(
Mar
ovo・
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山系 を越 えて ツ ミ - テ ィ(
Ts
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y)
族 の拡張領域 に入 る。 四方か ら湖 に河川 が流入 してい るが,流 出 してい るのは北東部 のイメ リマ ソ ドゥス (Ⅰ-me
r
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o)
の北 のマ ニソグ リ(
Mani
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y)
川 だけであ る。 もちろん岩盤,滝 ,急 流 にはば まれ て舟 での連続航行 は不可能 であ るが,川筋 に沿 って数 日で東海岸 に出 るこ と がで きる。東海岸か ら湖 に出 るル ー トはそ の 他 に もあ るが, あ るいは このマ ニソグ リ川 ル ー トを伝 って,人が移住 して きた のか も知れ ない。 しか し, ア ラウチ ャの名前が イ ン ドネ シア語 のl
aut
(港 ) と関係があ る とす る と, 最初 に湖 の名 をつけた人 々は,南 の サ ハ べ(
Sahabe
)
川 の よ うに湖 に流入す る川伝 い に この地域 に入 った と考 える方が合理 的か も 知れ ない (図1参照)0 このマ ニソグ リ川 の北岸 に ヴ ヒメナ (Vo-hi
me
na)
郡があ る。 この郡 は潮 の対岸 にあ るア ンバ ラファラグラ(
Ampar
af
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l
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に庁舎 を置 く県 に属す る。 ア ンバ ラフ ァラヴ ラ県は大 き くは トァマ シナ(
Toamas
i
na)
州 に含 まれ る。 ヴヒメナ郡 は1
4
村 フ クソタニ(
Fokont
any)
に分 かれ てお り, 人 口9,
1
0
8
人 (男4
,
5
41
人,女4,
5
6
7
人) 面積51
7km
2 であ る。3) そ の中 のア ン ピサ ラ-ナ(
Ampi
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ahana)
村 は, ヴ ヒメナの町か ら未舗装 の道路 を南へ5
-6km
程 い った ア ンレパ ケ リ(
Andr
ebake
l
y)
か ら東へ更 に約1
2km
入 った 所 に 位 置 す る (図2参照)。 人 口は1
,
0
4
2
人 (男518人,女5
2
4
人) であ るが,5
つ の部落 に分 かれてい る。 ア ン ピサ ラ-ナ部 港(
3
4
5
人) は村 の中心 で, ア ンレパ ケ リに もっ とも近 く,南 はマ ニソグ リ川 に接 してい る。そ の北 に比較的新 しく開拓 されたベ ラマ ンジャ(
Be
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amanj
a
)
部落 (1
1
0
人)があ り, そ の 東 に ア ン プ デ ィヌ ヌカ(
Ambodi
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部落(
1
5
6
人), ア ンバ ラ- ズ(
Am・
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部落(
2
3
4
人) が位置す る。 調査 部落 のべ フデ ィ(
Be
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は これ らの部落 の東側 の,潮か らは一番奥地 にあ り,東 隣 り は タナ ンべ(
Tanambe
)
村 とな る。 この タ ナ ンべ村 は完全 に多雨林地帯 の中にあ る。 アンレパ ケ リで 標 高7
5
7m
であ るが, べ フデ ィでは7
9
0m
前後 にな る。周 囲に見 え る 山々には1
,
0
0
0m
を越 える も の が な い。 し か し,そ の多 くの頂上 には,昔 の環蒙跡 を残 してい る も の が 多 い[
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]。この村 の 中では, アンブイべ(
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, ア ンプ -ナ ツァソザ(
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, ア ンツ ァス ア(
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,ア ンバ ラ- ズ, ア ンブ イバ ウ(
Ambohi
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に環宴跡 が あ る。 ア ンブイチ ャンプ(
Ambohi
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は3
垂 か ら6
重 の堀 を もち,排水溝 もしっか り作 ら れ,そ の西 の丘 は墓地 にな ってい る。 べ フデ ィの南 のア ンブイバ ウは3重 の堀 を東 西 に も つが,南北 は頂上付近 の斜面 を削 って近寄 り 3)郡庁の数字による。前 田 :べ フ デ ィ
Maroantsetra O
図1 7 ラ ウチ ャ湖 周 辺
5km 図2 アン ピサ ラ-ナ概念 図 難 くした もので,4Iそ の居住 跡 には祈 願 をか け る儀 礼 の ジ ュル
(
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or
o
)
を今で も行 な って い る形 跡 が あ る。 アソ ピサ ラ- ナ部落 はか な り古 い集落 で あ るが, も とも とは マ ニソグ リ川 の南 の ア ン ヅ ユソバ(
Andr
omba)
か ら移住 して きた もの と言わ れ る。 この ア ンヅ エソ′叫こは環蒙跡 が あ り, 同 じよ うに古 い集落 と言われ るア ンバ ラハ ズ, ア ソ レパ ケ 1)は平地 村 であ るので, ァ ソヅ ユソバ の方 が古 い のか も知 れ な い。村 内で は ア ンパ ラ- ズ部落 が もっ とも古 い と言 わ れ, 周辺 の部落 も, も とフ ランス人 の所 有 4)ラン ビナ (lambina)の木 を鋤に して,雨を 利用 して排土 しなが ら掘 ってい く。 地 で あ った べ ラマ ンジ ャ もこの部 落 か ら移住 してい った もの と言わ れ る。Ⅰ
Ⅰ
ベ フ デ ィ ァ ソ ピサ ラ- ナ村 のべ フデ ィを除 く4部落 は一応 シ- ナ カの村 とい うこ とに な っ て い る。 ア ンプデ ィ ヌヌカ部落 を過 ぎ て か ら は 道 が北 上 して い くが この部落 のは ず れ か ら べ フデ ィまで は集 落 が な く, イ ヴ ァ カ カ (Ⅰvakaka)川
沿 い の昔 フ ランス人 が稲 作 を 試 み ていた所 は牧 草地 として利 用 さ れ る 位 で,放 棄 され て い る。道 が 東 に 曲が り始 め て, 水 田が 見 え出す とべ フデ ィの 部 落 に 入前 田 :ベ フ デ ィ
る。 谷 間 には線 が 見 え るが , 山腹 は一面 ブザ カ
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, チ ガ ヤ(
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に お おわ れ た はげ 山 で あ る。 しか し,部落 を越 えて東側 は森 林 が残 され てい る。 このべ フデ ィに現在 居住 して い る人 は土 地 の 人 で は な く,現在 の長 老(
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は ヴ ヒ メ ナ と ア ン バ トゥソ ラザ カ(
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の ち ょ うど中間 に あ る ア ンバ トゥス ラチ ャ(
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の 東 の山 に あ るア ンヂ ャ ヌマ ラザ(
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で生 まれ て, 4歳 の時 (1933年 ) 父 ・祖 父 ら とこ こに移 住 し, 当事 材 木 業 を営 ん で いた シ- ナ カ人 の ラ ドゥア カ(
Radoaka)
の も とで働 いた 。 しか し, 父 を含 め て,現在 い る多 くの人 の出身地 は, 南 べ ツ ィ ミサ ラカ の ア ヌシべ ・ア ニア ラ(
Anos
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a)
で あ った とい う。 べ フデ ィに最 初 に集落 を作 った のは現 在 よ りや や北東 の丘 で1940年 頃 と 言わ れ る。1947年 頃 に更 に北東 に移住 , この 時 は他地 方 か らも人 が来 て,30-40軒 に もな った とい う。1960年 前後 に,27軒 あ った全 部 が最 初 の集落 地 に も ど り,更 に1980年 に現 在 地 に移転 した 。材 木 業 者 は人 が代 わ った が, 1960年 頃 まで に操 業 を終 了 して,現 在 は木 材 の伐 り出 しは ない。長老 の父 (1960年 死亡 ) はそれ まで労働 者 監督 だ った 。 このベ フデ ィの住 民 の属す る とい うべ ツ ィ ミサ ラカ族 は, ア ン トソジル(
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a)
湾 か らマナ ンジ ャ リ(
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まで の 東海 岸 部 の沿 岸, 多 雨林地 帯 に 住 む 人 口 約 120万 と言わ れ る種 族 で あ る。18世 紀 前 半 に べ ツ ィ ミサ ラ カ全体 を統 合 す る よ うな連 合体 が で きた が, そ の後 瓦 解 した 。 しか し, そ の 連 合体 の中心 とな った ザ ナ マ ラタ(
Zanama-1
at
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)
の優 勢 な北 部 (ア ンタ ヴ ァ ラ チ ャ 5)東海岸のアン トソジル 湾,サ ン ト・マ リー(
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良,マ-ヴェルナ(
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,フランス時代のFo
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と, よ り伝 統 的 な南 部(
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とは文 化 的 な対 立 が あ る と言 わ れ る[
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r
a
1982:44]。現 在 は焼 畑 耕 作 , 水 田稲 作 ,商 品作物 (丁 字 , バ ニ ラ, コー ヒー) 栽培 ,沿 岸漁 業 に従事 して い る。 しか し18世 紀 に は, コモ ロ群 島, ア フ リカ東 岸 まで遠 征 ,描 鯨 で有名 で もあ った[
Ve
'
r
i
n
1986:123ff]. さ らに さか のぼれ ば,16世 紀 初 頭 以来 ポル トガル人 との接 触 が あ ったわ け で あ るが , そ の他 の西 洋 人 も東 イ ン ド諸 島へ の航 海 の途 次 に1596年 ア ン トソジル湾 に立 ち 寄 って米 な どの食糧 を得 てい る [- ウ トマ ン はか 1981:第 9章 ∼ 第13章 ]。 そ の記 述 に よる と, 男 は狩 猟 , 漁 業 ,戦 闘 に従 事 し,穀 物 ・果 実 の植 付 け, 種蒔 き,取 入 れ は女 の仕 事 で あ る とい う [同上 書 :84]。集落 の 近 く の 「畑 に は まだ た くさん稲 が干 して あ った」 [同上 書 :74]とあ るので,既 に焼 畑稲 作 以 外 に も稲 作 を行 な っていた よ うで あ る。 蓑 1 ベフデ ィの人 口 年 齢 l 男 l 女l
計 計 17世紀以来,西洋人が しばしは寄港する所 と なった。べツィミサ ラカ族 との結婚 も多 く, ザナマラタ(
Za
na
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a
)
と呼ばれ るメス テ ィソ層が形成 されたO英国人海賊 とべツィ ミサ ラカの王女 との混血であるラチ ミラフィ が,後にラマルマヌソプと名のって,北べツ ィミサ ラカを統合 し,最終的には南北を統合 した盟主 となった。 この王の時にべツィミサ ラカ(
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沢山の ;t
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分離 しな い) とい う名前が 採 用 さ れ た[
La
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1979:23]
。
421べ フデ ィの部 落 に は小 学 校 (3年 教 育 , 児 童数
2
4
人 ,7
歳 か ら1
4
歳 ) が あ り, そ こで教 えて い る先 生 は べ ツ ィ レオ(
Be
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o)
人 で 妻 は ア ンデ ィ ラ メナ 出身 の シ- ナ カ人 で あ る (人 口につ い ては表 1参 照 )。 この よ う に 明 確 に外 来 者 と 自分 で も思 い, 他 人 もそ の よ う に 見 なす 以外 は, なか なか住 民 の帰 属 を決 め るのは難 しい 。 もち ろ ん3
0
歳 代 以 下 で は べ フ デ ィ生 まれ が圧 倒 的 に多 いが , それ 以 上 の世 代 で は べ フデ ィで 育 った が生 まれ は別 とい う ケ ー スが 多 くな る。 べ フデ ィに移 住 す る前 の 地 域 は湖 岸 の シ- ナ カ地 方 と東 のべ ツ ィ ミサ ラ カ地 域 とが ま ざ って い る。世 帯 番 号N0.5
は イ メ リマ ソ ドゥスか らべ フデ ィに移 住 して きた が, も と も とア ンプデ ィ ヌ ヌカ出身 で夫 と妻 との父 は べ ツ ィ ミサ ラ カで, 彼 らの母 は 共 に シ- ナ カで あ る。8)N0.6
もイ メ リマ ン ドゥスか らN0.5
と一 緒 に移 住 した が , 夫 の母 が べ フデ ィに住 む べ ツ ィ ミサ ラ カ で あ 6)我 々のセンサスの対象 となった部 落 人 口 は 124人 (男60人,女64人)25世帯である。 る。夫 の父 は メ リナ, 妻 はN0.5
の夫 の妹 で あ る。No.1
0
は ア ン プデ ィ ヌ ヌカか らべ フ デ ィに移 って4年 目で あ るが , も と も とべ フ デ ィ生 まれ とい う。夫 の父 は ヴ ヒメナ の シハ ナ カ, 母 は ア ン プデ ィヴ ァ- ソギ(
Ambodi
・
voahangy)
の べ ツ ィ ミサ ラカ。 妻 の両 親 は 東 か ら来 た べ ツ ィ ミサ ラカで あ る。No.1
7
は東 の タナ ンべ(
Tanamb
e) か ら来 て4
年 目で あ る。東 のサ - ヴ ァイ ナ(
Sahavai
na)
川 流 域 あ るい は サ - タ グ ィ(
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, ム ラ フ ェ ヌ(
Mor
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か ら来 た べ ツ ィ ミサ ラ カは, 彼 の き ょ うだ い で あ るNo.1
,No.
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,No.2
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の外 にNo.l
l,No.1
2
の親 ,No.1
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,No.1
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,No.1
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,No.2
0
,No.21
な どが あ る。 これ らは , 従 って,北 べ ツ ィ ミ サ ラ カ族 と言 え る
。No.2
2
は べ フデ ィに3
0
年 近 くもい るが , フ ェ ヌア リブ(
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o) か らの移 住 者 で, 夫 は サ カ ラバ , 妻 は ツ ミ-テ ィで あ る。南 べ ツ ィ ミサ ラ カ出 身 の 長 老No.1
4
は 弟 達No.7
,No.1
8
,娘 達 の世 帯前田 :ベ フ デ ィ
4,No.5,No.6,No.21な どが直接 の係累 であ る。 た だ し妻 はサ- ヴ ァイナ のべ ツ ィ ミ サ ラカであ る。 この よ うに見て くる と,単 に親 の世 代 だ け を問題 に して も,人 の移動 と血 の混合 とが ひ んぽ んに行 われ ていて, 単純 にべ ツ ィ ミサ ラ カ, シ- ナ カ と割 り切 れ ない こ とが 明確 に な る。 集落 は道路 を境 に西 と東 に分 かれ る。 西 に は小学校 が あ り,
8
世 帯 が住 む。東 のべ ツ ィ ミサ ラカ地 域 か ら移住 した人が多 い。道路 の 東側 には11世 帯住 んで い る。そ の中心 は長老 (No.14)の係累 で あ る。 道路 にへだ たれ て い る とは言 え,実質的 に- かた ま りの塊村 で あ るが,No.22,No.23は,1970年 代 に開 いた水 田の近 くに住 んで い るので,主集落 か らは 1.5km樫 離 れ てい る。焼畑 (tavy)に 出小屋 (trano tanimbolyあ るいは lasy)を持 つ者 は,一定期 間本集落 の家 を留守 にす るわ け であ るが,本集 落 に家屋 を もた ない者 も4世 帯 あ る。 これ らは0.5kmか ら1.5km 離 れ た,各 自が現在作 業 してい る焼畑 の中に 家 を作 って住 んで い る。そ の うち 2世 帯 はそ の近 くで水 田を作 る。
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
ペ フデ ィの農業 と儀礼 べ フデ ィの谷底 を利 用 して の水 田 (tani m-bary;tsaboシ- ナ カ語 ;horakaべ ツ ィ ミ サ ラカ語) は, 約20haで,そ の うち15ha が実際 に耕 作 され て い る と言われ る。 税 金は lha当 た り年 750FMG (マ ラガ シ ・フ ラ ン)。 水 田 コンプ レ ックスには名 称 が あ り, 15区画 を同定 したが,水 田で あ るか ど うか と い うのは,耕起 が始 まって稲 が植 え られ なけ れ ば判 別 が極 め て難 しい。 同 じよ うな- ラナ (herana,Cy
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の湿地 で も, 所 有者 が耕 作すれ ば水 田に な る し, 2, 3年 放置 されれ ば, これ は まった く分 か らな くな って しま う。 やや高 みに あ る田は, それ で も 瞳跡 を残 してい る こ ともあ る。水路 は排 水 し なけれ ば沼地 化 して しま うので,6
月か7
月 に共 同作業 (raharahampiavana)を行 う。 水 田で も,撃耕,杷 耕 あ るいは蹄耕 の後 に直 播 す るが,1984年 か ら移植 が一 部 に導 入 され 1985年 に は 3.5haが 移 植 田 と な ってい る (一例 で は9月1日翠耕 , そ の後 蹄耕2回, そ して畦作 り,10月27日蹄耕 ,杷耕後播 種, 鳥追 い,導 水 ,除草 の後 に,5
月初 め に収穫 。 他 の例 では- ラナを切 らず に焼 いて, 水 を入 れ,蹄耕 で- ラナを泥 にす き こむ。後 2回蹄 耕 と1回杷 耕 してか ら播 種)。水 田 の 価 格 は lha当た り400,000FMGす る とい う。 親族 の先 買権 はあ る と言 うが,現 実 には, べ ツ ィ ミサ ラカ よ りシ-ナ カが 水 田を よ り強 く欲 し が る よ うで,村 にあ る水 田の7-8haは部落 を出てい った人が シ- ナ カに 売 却 し た と い う。 なお, ア ン ピサ ラ-ナ村 全体 の水 田面積 は240haで,うち36haが天水 田 と村 役場 で は報告 され てい る。 同村 の古 い水 田は ア ンプ デ ィ ヌヌカの東 と言わ れ, ここでは1950年 に 型 が導 入 され,1959年 か ら移植 が行 われ てい る。1960年代 に, ア ン ピサ ラ-ナ部落 の南 の マ エ ソグ リ川 沿 い の土地 を開 田 した が,水路 が完備 してい ない ので,撃耕乾 田直播 して把 で な らす方 法 を とってい る。 べ フデ ィにおけ る水 田 の歴史 は恐 ら く入植 者 が 自給 用 に, 時 に応 じて水 田を作 った もの と思わ れ,1940年 頃 に もこの付近 で4
haの 水 田 が あ った とい う。 昔 は,ア ンプデ ィヌヌカ,ア ン レパ ケ リ, ア ン ピサ ラ-ナ の人 々が,牛 をべ フデ ィの人 にあず け て, べ フデ ィの牛飼 いはそ のかわ り に牛 を蹄耕 のため に 自由に使 った とい う。 従 ってべ フデ ィの水 田は柵 が され ていた。牛 の 所 有 者が蹄耕 をす る時だけ,牛 は持 ち主 の所 -返 され た 。 当時 は lha の田を100頭位 の 牛 で 1日で蹄耕 し終 わ った という 。 現在 では,牛 を持 ってい る人 に蹄耕 を頼 む 423とlha当た り5,00OFMGと4ヴァタ(Vata 容量単位 であ るが 重 量 で 約 13-15kg)の 籾 を賃銀 とし て 支 払 う。 翠 であ れ ば lha 20,000FMG の賃貸料 ・労賃 となる。 た だ し, これ は シ-ナ カ価格 をそのまま適用 した 時で,実際には親族間 な どの間では もっ と安 く行われ てい る。部落 内で,牛 を飼 ってい る のは6世帯 であ るが,内2世帯は1頭だけで あ るので蹄耕 はで きない。他 の世 帯 の 頭 数 紘,10,ll,17,20頭であ る。 これ に対 し, 水 田耕作 を行 なってい る世帯は18世帯 あ る。
0.5haを耕作 してい る2世 帯 (No.1,No.
3)はいずれ も不在者 の水 田を借 りて い る。
他は 自分 で開 田 した ものか,親が開田 した も
のを相続 したか,購入 したかで,0.8hal世
帯,lha 7世帯,1.5hal世帯,2ha 3世 帯,2.3ha,3ha,4.5haは各1世帯で,2 世帯が共 同で5ha所有 している。7)ただ し, これ ら全部 を必ず しも毎年耕作す る とは限 ら ず,例 えは N0.9の よ うに1971年 に開 田 し なが ら,牛が いないので この8年 間は休耕 し ている とい う例 もあ る。牛 をた くさん所 有 し てい る人は水 田耕作面積 も大 きい。いずれ に しろ,各戸聞 き取 りに よ る 水田面積 は31.1 haにのぼ り,村人の言 う面積 と は 食 い 違 う。 あ るいは税 金を納めてい る分 のみ の こと か も知れ ない。 所 有権 の明確 な水 田に対 して,焼畑は用益 権 として使われ る。伝統的にはsOlajinja(森 林 に最初 に斧を入れ ること) といって,開拓 者 の使用権が認め られ,長 く放置 した り,他 に移住 した後 で も,人 々の記憶 にあった り, 証拠 の開拓跡が確認 されれば権利が再認 され る。 また,売買権 は無 いが,本人が死んだ場 合は子供 あ るいは孫 あ るいは配偶者に権利が 移 る。現在,べ フデ ィでは,1980年か ら5年 の期 間, 森林局か ら1,000haの森林 を使用 7)世帯番号25は調査不能のため,これ らの数字 には含まれていない。 す る許可 を得 てい る。その うち どれだけを焼 畑 (tavy)にす るかは, フクヌルナ (foko・ n'olona,コ ミュニティ ;その責任者は フ クソ タニ委員, コ ミッテ ィ Komity Mpanatan・ terakyny Fokontany) として決め る。 森
林局 に対 しては用益者 の名前 と家族数 とを報 告 し, 一定額 (年 間 1,500FMG。 ただ しフ クヌルナ内では18歳以上 の男女か ら50FMG ずつ徴収す る) を支払 う。約50haが焼畑 と して使われ,毎年2-3ha新 しく開かれ てい る とい うコ ミッテ ィの説 明であ る。森林 (ア テ ィア ラ aty ala)が焼畑 (タグ ィ tavy) になった次 の年位 は,稲株が残 っていて草が それを覆 う程生 えていない状況であ るが, こ れをマチ ャンギ (matrangy)と言 う。 既 に 草木が茂 った所 はサ グカ (savoka) と言わ れ る。 チ ガヤな どの生 えてい る 斜 面 は - イ (hay)と称 され る。他人のサ グカ を 借 用 す ることもあ るが,借料 な どはない。 焼畑 を1986年 に行 な っているのは24世帯中 20世帯 (調査不能 の No.25も実際には焼畑 を行 なってい るが詳 しいデ ータがないので省 いてい る) である。規模は労働可能 な人数 に よって制限 され るが 1-2ha とい うの が 多
い。0.5ha3世帯,lha9世帯,2ha5世帯,
3haと3.5haと4haとが 各 1世帯 で あ る。焼畑 を もっていないのは小学校教員世 帯 と,80歳 の老婆単身世帯 のみで,No.11 は 昨年3ha耕作 していたが今年は 休 み,No. 14は3.5haのサ グカがあ る が, 水 田拡張 (4.5ha)のため1983年か ら焼畑は していな い。焼畑 の面積 は各人 の推測 であ り必ず しも 正確 に計測 した ものでな く, また報告面積全 体 にわた って一度に耕作す るとい うので もな い。作物 に応 じてその部分部分 を使 ってい く とい うケースが多い。それで も稲はすべ ての 焼畑 で多少 とも栽培 され てい る。焼畑 におけ る稲 の収穫は一度 に行われ ない ことが多 く, そ の量は ことにあい まいにな るが,大体 の 日
前 田 :ベ フ デ ィ 安 として播種 量 を とってみ る と,1.5ヴ ァタ (=23kg)か ら7ヴ ァタ (105kg)まで平均 3.5ヴァタ (53kg)で あ る。播種 量対収 量比 の聞取 りに よる最低 比15倍 (移植 田ではlha 播種籾15ヴァタで200-250ヴァタか ら40 0-450ヴァタの収穫 量) を収 量 として 1.7か ら 0.8トンの収 穫 量 とい うこ とに な る。 べ フデ ィか ら1986年 に ソマ ラ ック (SOMALACァ ラ ウチ ャ湖 周辺 開発公社 ) に売 られ た米 は陸 稲 3トン, 水稲7トンの計10トン と 言 わ れ る。 畑 を焼 くのは, アテ ィア ラ森 林 の場合 6-7月 に伐採 , サ グカの場合 は9-10月で, と もに10-11月 に火 入れ を して,播 種 (穴 あけ 棒 に よ り穴播 mambory)をす る。 除草 (2 回) の後 ,
4
月頃収穫 され る。サ グカの場合 1年 耕作後放 棄 して, 5年後 に もどって くる とい う人や, 1年 ,2年 目は稲 , トウモ ロコ シ, て メを,3年 目以降 は タ ロ, サ ツマ イモ な どを植 え る と言 う人 もい る。 聞 き取 りで20 ケースの うち,新 し く開 いた アテ ィア ラで焼 畑 を してい る人 は5人, サ グカに新 し くアテ ィア ラを加 えた人 は3
人,残 りはすべ てサ グ カ畑 であ る。 バ ナナ,桃 , キ ャ ッサバ, サ ト ウキ ビ, コー ヒー, ラ ッカセ ィ, ヤ ム, タ ロ な ど常畑 (tanimboly)に も多 く見 られ る も のを植 えてい る場合 もあ るが,多 くは稲 と ト ウモ ロコシを中心 とす る。 なお,収 穫 は水稲 は鎌 (昔 は直刃,現在 は 半 月形 刃) を使 い,陸 稲 は ナ イ フで刈 る。水 稲 は牛蹄脱穀 (manosy vary)が行 わ れ る が,伝統 的 には, Y字形 棒 に よる打穀 (f ive-1yvary)か足 踏 み に よる脱 穀 (manor yva-ry)が行 わ れ る。 べ ツ ィ ミサ ラカでは トゥフ チ ャ (tohotra) とい う高床米倉 を作 るが, ここでは稲 済 み (kapira)に した後 , 焼畑 に tranOOmby(牛小屋 ) とい う四方形 の小 屋 を作 り, そ こに2
週 間か ら2
カ月保 存 してお い てか ら,家 に持 ち帰 る。部落 の中では, シ - ナ カ型 の円筒形 米入れ (volombary)あ る いは四角形 (terambary)が籾 用 に使 われ て い るが,陸稲 の稲 穂 は ファ ン ク ア ナ (hoan koana)とい う龍 に入れ られ る とい う。 一般的 に1週 間 の うち良い 日と さ れ る の は, 月, 水, 金,土 で,火,木 は悪 い 日とさ れ , それ に加 えて 日曜 日 も 埋葬 や, ジ ュル (joro祈願式 ) や重要 な行事 は行 わ な い。 と くに木 曜 と 日曜 とは, 米作 に関 す る 火 入 れ, ア ンガデ ィ (angadyシャベル型鋤) の 使 用,収穫 な どは禁 忌 (fady)とされ る。 焼 畑 で の ジ ュル (例 えは伐採 の前 の ジ ュル アテ ィア ラ joro aty ala)は種 々あ る もの と思わ れ るが,稲 作 に関す る儀 礼 に 関 し て 紘, べ ツ ィ ミサ ラカでは,水祭 り (joro r a-n°), 水 口祭 り (joro vavarano), 水 田祭 り (jorotanimbary),完熟 前 の稲 - の祈願(petra-dangoあ るいは tsitsi-dango), 熱 稲へ の祈願 (petra-bary あ る い は tsitsi・
bary),米 の浄化儀礼 (ala fadim-bary) [Lahady 1979:66]が行 われ ていた と言 わ れ る。 本部落 で の聞 き取 りでは,水祭 りと 収穫祭 とのみ を収録 で きた のに とどまった。 水祭 り (joro ran°)は, 約10年 前 に水路 を作 った時 に, フ クヌルナ として行 な った と 言われ る。 それ とは別 に,1960年代 に, この 地方 の農業 の発展 を阻害 してい るのは, それ まで根強 くあ った撃使 用 の禁忌 (fadychar -rue)で あ る とい うので,べ フデ ィ,ア ンバ ラ - ズ, ア ン ピサ ラ- ナ, ア ソブデ ィヌヌカ, 及 び隣村 の ア ンバ ナ ンジ ァナナ (Ampanan・ janana)の5部落共 同で撃使 用 の汚れ を蔽 う ジ ュルを行 な った とい う。 これ らの部落 は, べ フデ ィあ るいは イ ヴァカカ, あ るいは ア ン プマ ランギチ ャ (Ambomarangitra) と呼 ばれ る河川 の水 で水 田を営 んでい る。 当時 べ フデ ィに住 んでいた呪 師が司祭 (mpijoro) とな って,額 が 白で体 が茶 色 の牛一頭 が屠 ら れ, そ の血 を源 流 (vavarano)に流 した と 425
い う。
ヴァヴァラ ヌ (VaVaranO)は字 義通 りに は,水 口であ るが, か な り上流 の 水 取 入 口 (み な も と) を指す 。稲 が完全 に熱 す る直前 の新 月 (volana tsinana)の夜 で, 月,水 , 金,土 のいずれ か の 日に水 口祭 り (jorova・ varano)が各水 田所 有者 に よって行 われ る。 水 口に, 葉 のつ いたバ ラ ラ タ (bararata,
phr
a
gmi
t
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sc
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mmuni
s
)
を1本立 て, そ の前 に2
0c
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位 に切 ったバ ララタの幹 を2
本立 て る。板 刈 りした7
本 の, 実 の良 くな った稲穂(salohimbary 丘to)を束 ね て,葉 のつ いた バ ララタの中間 に結 びつけ る。他 の 2本 の竹 管 は蜂 蜜 で満 た され ,そ の上 には教 本 の別 の 稲穂 が横置 きに され る。 カ ミ(Zanahary) と先祖 (razana) に感 謝 の こ とばが述 べ ら れ, これ らの稲穂 ・蜜 は供 物 としてそ の まま 残 され る。8) この儀 礼 は, そ の ヴ ァヴァラ ヌか ら水 を と ってい る水 田の所 有者すべ てが参加 して行 わ れ る。 トケア カ (toakaサ トウキ ビな どか ら 作 られ る蒸 留酒) は一切用 い ら れ な い。 ま た,稲穂 を 「先祖 の稲」(var
i
n・drazana)と して家屋 の東北 隅 (anjoro点rarazana)につるす こ ともな い。9)もちろん,この儀礼 は水 稲 8)他のイソフォマン トによると, このジュルの 捧げ られる対象は,土地霊 (jin'nytanyあ るいは (hasina tany), 水の霊 (jin・dra -no),先祖 (razana)と言 う. これによれば, 先祖は次の墓のある所か ら招請される。イメ リマソ ドゥス,マ-チソジュ(Mahatsinjo), アンプイサキナ(Ambohisakina),アンテテ ザナンプ (Antetezanambo),アンピサ ラ-ナ,アンバ ラ-ズである。 これ らはシ-ナカ の土地であるので,水稲技術が儀礼 も一緒に なってシ-ナカか ら借用 された とい うことも 考えられる。 9)アンピサ ラ-ナのシ-ナカでは,収穫の前に 12束の稲穂を東北隅につるして,Varindraz・ ana とする。 水田の水 口あるいは東北隅に 1本の竹管を立てて,蜂蜜を入れ,その前に 1束の稲穂を供 える。これはjorovarimena あるいはjorojinjambaryといわれ る。
(vary ankoraka)のみ で あ る。
陸稲 の収穫祭 は joro mametra vary と 貫われ ,満 月 の前半 の夜 (volanamizetra)
に焼 畑所 有者が行 う。実 って きた稲 を穂摘 み して, そ の まま脱穀 す る。玄 米 を焼 い てか ら つ く。 焼 米 を ラ ング (rango)とい う。ラ ン グ と糠 (mongo)とを別 々に葉 (ravin-do・ ngoza
,Amo
mum an
gus
i
i
fo
l
i
um)
で包 んで 家 の東 北 隅 にひ っか け る。残 りはみ ん なで食 べ る。 脱穀 した あ との稲穂 (tsakimbary) は,三 叉路 に置 いて,籾 が らと石 とで覆 う。 焼畑 では,先祖 の稲 (varin・drazana) と して,種籾 を まいた残 りの稲叛 を東 北隅 に し まった り,収 穫 の最後 に稲穂 を2束 とって東 北 隅 につ る し次年 度 の種 板 に まぜ る。いずれ も種籾 が た くさん の稲 を生 じる よ うに との祈 願 で あ る とい う。Ⅰ
Ⅴ
生活 の単位 と結 び つ き 単身世 帯 は2ケースで,独立前 の青年 と, 娘夫婦 の家 の近 くに住 む老 婆 とであ る。夫婦 のみ の世 帯 は 3ケース。父 子 あ るいは母 子世 帯 は各 々に 1ケース。夫 婦 と子供か らな る世 帯 は1
4
ケースであ る。そ の うち子供 が婚 出 し ていないのが9
ケース (うち1
ケースは連 れ 子 を含 む),婚 出者 を含 まず残 った子供 と 暮 してい る世 帯 が5ケース (うち 2ケースは配 偶 者 の連 れ子 を含 む) で あ る。残 りの4ケー スは引取 り親族 が含 まれ てい る。N0.2
は妻 の妹 の,No.
19は妻 の姉 (死亡 ) の子供 で あ る。他 の2世 帯 は 3世代 以上 にわ た って い る。No.1
4
の夫婦 は, 娘 (死亡) の子供 と 妻 の第 1イ トコの子 を引 き取 ってい る。実子 はすべ て独立 してお り,妻 の母 は単身 で暮 し てい る。N0.5
は夫婦 ・未婚 の子供,離婚 し て もどって きた息子 とそ の子供 , それ に妻 の 母親 か ら成 る。 これ らの世 帯 の関係 を示 した のが 図3
で あ前 田 :べ フ デ ィ る。 べ ツィレオ出身 の教員は当然親類縁者が いないので省略 してあ る。No.22,23,11はサ カラバ とツ ミ-テ ィ夫婦 の係累 であ る。 他 の 世帯は血縁 ない しは姻族 の関係 で結 ばれ る。 そ の中心 をなす のはNo.14の夫婦 と,17-24
-
1
-
9
の兄弟 グル ープ とであ る。 図を 複 雑 に している婚姻関係 は,婚姻経験者52人 の うち 24人が離婿経験者であ ることか らもわか るよ うに,離婚 ・再婚がかな りひんぽんに行われ てい るか らであ る。 男女別 に見 る と,男は21 人対14人,女 は31人対10人であ る。 婚姻 ・離 婚累積頻 度数 で言 えば,男は52回対31回,女 は50回対14回 とな る。 婚姻慣習は グァソ ドゥザナ とはは同 じであ る。男側があ らか じめ女側 の婚姻承諾 を得 て か ら, あ らためて婿資 (diafotaka)顔 , 婚 姻 日,式 につ いて両者 の親族 が集 まって細 目 を決め る。婚資は金ではな く,牛 であ るのが シ-ナ カ (didiharenaとい う) と異 なる。 花婿側が花嫁 を迎 えに行 く時 に, この婚資 の 牛 と12枚 の100フラン貨 (roaambin'ny fo-l°ariary)の 「嫁 の値」(tambimbaviana)
とを花嫁 の親 に渡 す。花嫁 の父親 が司祭 とな って "jorotsodrano''(加護 の祈願) を行 な って, カ ミ(Zanahary),先祖 (razana),土 地 の カ ミ (ny rava-misy amin'nytany)
に7人の男 の子,7人 の女 の子が生 まれ る よ うに祈 る。祝福 の印 として12枚 の100フラン の入 った皿 の水 (tso-dran°) をかけ る。 花 婿 の家へ の行進 には,親 を除いた親族 が家具 (entana)を もってつ いてい く。 花婿 の家 で 紘,花婿 の親,親族 が出迎 えて家 の中に招 じ 入 る。 ここで 婚 姻 儀 礼 (joro pananaba・ diana)が行われ る。 司祭 は婿 の祖父 または 父,兄が なる。花嫁 の家 のジ ュル と同 じ祈願 が行われ る。 そ の後 ,花嫁 を迎 えに行 った者 が,花嫁側 の様 子をその禁 忌 (fady)と共 に 報告す る。花嫁 を送 って きた人 々に食事 を与 え,新夫婦 にはガチ ョウを食べ させ る。牛肉 は禁忌 であ る。それか ら招待者 の共食(s aka-foankianja)が あ って, 夜遅 くあ るいは朝
まで歌踊 りが続 く。 翌朝 は家具が家 の中にち ゃん とおかれ て,両親 ・親族 ・フ クヌルナに 見せ られ る。一週間後,新郎 ・新婦 は ゴザ, 布 な どのみやげを もって花嫁 の両親 を訪問す る。 婚資 の牛 は決 して売 られ ない。1年 以内 に離婚が あった時は, この牛 は花嫁側 に返 さ れ る。 離婚 の原因の多 くは姦通 であ る と言 う。 男 が悪 い時は,妻は親元 に帰 って財 の半分 を請 求す る。 夫 は,妻 の同意が得 られれば,罰金 を支払 う(mandoafady)ことに よって,秦 を連れ もどす こともあ る。女性が悪い時は, 夫が妻 を彼女 の親元 に連れ てい って直接説 明 す る。 この離婚 では妻 の財 の取 り分 はない。 この場合で も妻 が罰金 (γolafady)を払 い, 夫が受 け とれば元に もどる。
5
歳以下 の子は 母親が引 き取 り,それ以上 は, 男が悪 い時で も,父親が望めば引 き取 る権利 を もつ。 この よ うに,婚姻 ・離解 では,ほぼ同 じよ うな手続 きを踏 むが,墓 については ここでは メ リナ式 の レンガ (石)積みの墓が入 って き ていず,部落 の南 の丘 の斜面 に土墓 があ るだ けであ る。10) 遺体 は家 の中央 に,頭 を北 に して置かれ, 女 の時は女,男 の時は男が洗 う。肌 に直接巻 かれ るラソバ (lanba布) は foantaolana(骨 と一緒 になる) と呼ばれ,それ を lam・
balandyあ るいは lambasozaで包む。そ の他 の親族 の送 った ラソバは遺体 の上に置 く だけ。 ヴァソ ドゥザナの よ うに3ヶ所 ではな く6ヶ所 で結 ばれ る (eninafatotra)。結ぶ 10)約20-30基の墓がそれと判別しうる。頭の方 に皿,塞,鍋, コップ,秦,サジ,ナイフな どが置かれている。土盛 りの高さは10cmか ら20cm位で,新 しいものと思われるもの は高 くて土量が多い。掘 り起こされているも のがその他に5基ある。 墓穴は縦1.8m,樵 0.5m,深さ60cm位である。 427
紐 は遺体 を包 んでい るラソバ を ち ぎ っ て 作 る。
3
人 または6
人で結 ぶ。通夜(
mi
andr
y
f
at
y)
は1
日ない しは3,4日行われ る。死 者が年寄 りであれば歌 を唱 うが,若 け れば(
t
ar
or
a)
歌わ ない。葬 儀 に くる人 にふ るま われ る牛(
f
oar
af
a
あ るいはhe
nam-
pat
y)
は金持 で
3
頭。 葬儀 に くる 人 はmamangy
mas
° (眼の訪 問) といい,喪主 にお金(
vo
・l
af
amangi
a・
mas
o)
を渡す 。 埋葬 日は火, 木, 日が避 け られ る。 フ クヌルナが集 め られ て埋葬地 が 決 定 され る。父 か 母か の墓 に入 り,配偶者 と一緒 の墓 には埋葬 され ない。例 え配偶 者 と一緒 に埋 め ては しい とい う遺言が あ って も, 「死者 の遺言 は生者 に よって受 け 取 られ ない」。 遺体 が運 ばれ る前 に,子や孫が死者
(
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h
a)か ら祝福(
j
o
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s
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を得 るた めにお金を支 払 う。 遺体 は足 か ら出 され て台(
別anj
ananyma・
t
y)
に置 かれ,4
人 の男がかつ いで,足 を先 頭 に して墓 へ運ぶ。足 か ら墓穴 に入れ られ, 頭 は東方 向,贈 られた ラソバ はすべ て遺体 の 上 に置 かれ る。台 とゴザ とはそ の まま放置 さ れ る。配偶者 は埋葬場所 に行 って は な ら な い。埋葬後,親族 の代表 が フ クヌルナ及 び会 葬 者 に感謝 の 辞 を 述 べ,上記 のj
or
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及 びvo
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o
の金 を集 めて, フ クヌルナにf
at
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na
(赤 い 土地 を掃 く) として渡 され, フ クヌルナ全 員 の間で配分 され る。汚れ を落 とすため にj
or
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oha
(頭 を掃 く儀式) が行われ る。両親 の生存 してい る人
(
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が, 牛 の油脂(
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nak'aomby)
で遺 族 の頭 をなで, 水 をかけ,"
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s
ar
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(悪 い事 よ去れ, 良 い事 よ来れ) と唱 える。 この式 が終わ って初 め て遺族 は禁忌が とけて仕事 がで きる よ うに な る。 Ⅴ お わ り に ヴ ァソ ドゥザ ナは シ-ナ カだ と主張 し, べ フデ ィはべ ツィ ミサ ラカであ る と言 うが,両 者 の違 いは焼畑(
t
a
vy)
を してい るか してい ないか,焼畑儀礼が あ るか無 いか に,そ の違 いが集約 され る と言 って も良い程 ,そ の他 の 違 いは少 ない。事実,彼 ら自身 も焼畑 を して い るのがべ ツィ ミサ ラカ とい う理解 を してい る よ うであ る。社会生 活一般 では,墓 を中心 とす る親族集 団がべ フデ ィでは意識 され る こ とが無 い とい うのが,大 きな違 いで あ る。た だ,上記 の墓 の形態 の違 いは, ヴ ァソ ドゥザ ナの古墓 はすべ て土墓 であ る こ と を 考 え る と,昔 は違 いが なか った のか も知れ ない。た だ, べ フデ ィでは立石が一切 見 られ ない こと は注 目しておいて良い(
[
Fe
r
nande
z 1
9
71
]
参照)。 ヴ ァソ ドゥザナ及 び そ の南 にあ るデ ィデ ィは, シ-ナ カ, べ ツ ィ ミサ ラカ, さ ら にはべザ ヌザ ヌのいわ ば漸移帯 にあ る地域 で あ る。彼 らが どの よ うに言 お うと,客観的 に 言 えば, あ るいはべ ツィ ミサ ラカ的要素 を も ってい るのを否定す る ことはで きない のか も 知れ ない。 しか し,べ フデ ィのべ ツィ ミサ ラ カ も本拠地 で伝統 を守 ってい る とい う意 味で の本来 のべ ツィ ミサ ラカでは無 い こ とを思 う 時, い った い, べ ツ ィ ミサ ラカ的, シ-ナ カ 的 とい うエ ス ニシテ ィの区別 自体 がは なはだ 酸味 とな って くる。11) もちろん, べ ツ ィ ミサ ラカ, シ- ナ カ, べザ ヌザ ヌな どが比較 的頬 似 した文化 を持 ってい る とい うことも認 めね ばな らない。それ に も拘わ らず, エス ニシテ ィとい うのは,酸味 さか ら作 り上げ られ てい く標識 にす ぎない とい うことを もっ と強 く認 識 せね は な らぬか も知れ ない。そ の標識 は少 しずつ のずれ を持 ちなが ら蘇現 し,時には同 ll)マダガスカルの南端に位置するアンタンルイ(
Ant
a
n
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)
を 「人間のるつぼ」と形容 し たEs
o
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[1986]などはエス ニシティ形成を考える上に参考になる。前田 :べ フ
デ
ィ じ内容 であ って も別 の標識 であ る と主張 され た りす る。 そ う考 える と, エス ニシテ ィの特 色を唯一 の拠 り所 として,人 間 を 分 類 した り,親縁関係 を措定す るのほ,本末転倒 と言 える。生業 の選択,環境- の適応 を含めて, エス ニシテ ィ形成 の過程 がむ しろ議論 ・比較 されて しか るべ きであろ う。 参 考 文 献Battistini,Ren6;etV6rin,Pierre.1964.Vohi・
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