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米国外交政策の一考察

著者

富桝 周太郎

雑誌名

東洋法学

2

1

ページ

147-160

発行年

1958-05

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00007766/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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米国外交政策の一考察

   本論は昨秋外務当事者の参考としてものしたる筆者の    より抜粋したものである。 ﹁ダレス国務長官論﹂ ︵十五章︶中

富 桝 周 太

    目    次  第一章 米国外交政策の原動力としての﹁ピュリタニズム﹂︵℃目ユ岱三ωヨ︶  第二章 ダレス政策対ケナン主義︵﹁積極﹂対﹁消極﹂論”争︶        ︵昭和三二年九月︶

     第一章米国外交政策の原動力としての﹁ピュリタニズム﹂

 ダレスの伝記者ビールは﹁自由解放﹂と米国国是を論じて﹁自由解放とは共産主義に適用された共和党外交政策の 根本的な誘導力である。ダレスの見解に依ると、夫れは機動的な共産発展に対する動的と静的な二つの対応間の差違 を示すものである。静的対応は結局敗亡を意昧するものである﹂と言つている。更に伝記者は﹁自由解放﹂の思想的 基盤に論及して米国草創の発展時代に米国人を特長づけたピュリタン︵教化︶精神であるとしてダレスの言を次のよ うに引用している。   ﹁私等が為さんとする所は我等の持てるものは他の人々が持てるものよりも遙に滅法に優れていると確信した当  時に発芽した植民地時代のピュリタン精神の一種を今目或る程度まで再び獲得する事である。我等は世界の他の人      米国外交政策の一考察      一四七

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     東 洋 法 学      一四八

 人が是を必要としかつ要求している事を知つている。そして我等は是を世界中に持ち廻わる。宣教師、医師、教育  家、商人は地球の隅々まで米国の試練の智識を運んで行つた。﹂  是が随時随所に高調される所謂﹁米国の世界教化精神﹂の世界布植であるが、ダレスの場合は前述のように彼の生 立ち、当時に於ける宗教的環境又は雰囲気の感化に依つて特に此点を鋭敏に感ずるのであろう。国務長官就任後一年 余、彼は一九五四年﹃フォリン・アフェアーズ﹄誌︵四月号︶に﹁安全保障及び平和に関する政策﹂という題下で自 己の外交政策に関して極めて詳細な長文の論説を寄せた。其の壁頭の一節に、   ﹁我等米国人が彼等の糖力の大部分を国内問題に集注したと言うのは他の人々のために念慮を払うことを怠つた  ためではなく、我等の建国者達が呼んで﹃自由の行動と例証﹄とするところは、世界到る処に築き上げる自由化の  影響を齎す所以であると信じたためである。事実、そうであつた。 ﹃米国の一大実験﹄は世界の人々に取つて特に  専制政治の下に喘ぐ人々に取つて希望と霊感の源泉となつた。我等の自由に対する積極的な例証は、米国の行程を  見習うために新旧両世界では或は多数の人々を渡米させるようにし、或は各自国内で幾多の人々に霊感を与えたの  であつた。﹂  米国歴史を通観して此の世界ピュリタン精神に最も鼓舞された世代は十九世紀の第四半期︵即ち例のホーレス・グリ ーレイが﹁ヤソグマソ・ゴー・ウェスト﹂と勧告した世代を経て、アンドレ・ジイドなどの米国文明批評家連が一八九〇年を以て 米国の人口と文化とが広瀞たる﹁コソチネソタル・ユーナイテッド・ステーツ﹂に大体普及したとする時代︶に誕生し、 そし て米国人が自国は﹁ワールド・パワー﹂だと自覚し、新認識し始めた第二十世紀到来の前後に成人した人士達である 即ち米国人が新世界観を懐抱するに至つた世代である。換青すると米国内に横盗した社会奉仕観念が恰も黄河が堰を

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切つて氾濫するように海外に向つて世界的に発露するのは必然な趨勢であると言わねばならぬ。斯くして米国の﹁世 界ピュリタン精神﹂は米国の国際的展望の拡大に正比例してますます発展して行く。過去半世紀に亘る所謂﹁極東間 題﹂に関する米国諸政策の原動力の一半は此の精神に基因したと言つても必ずしも過言ではあるまい。また戦後我国 に於ける﹁占領政策﹂中︵高圧的に遂行されたが︶此の精神表徴の存在を否めなかつた。  そして此の﹁ピュリタン精神﹂が国際政治に適用された適例は米西戦争直後フィリッピン領有の可否問題に関した 論争が米国政界に量しかつた際英国詩人キップリングが﹁ホワイトマンス・バーヅン﹂ ︵白哲人の責務︶を諦んで世界 到る処野蛮人と半開人に白哲丈化を伝播すべしと﹁米国人に警告﹂した時である。︵筆者は華府滞在中幸にキップリソグ 詩の原文を故ジョソヘイス・ハモソド氏邸で一覧したことがある。 序に同氏は往年南阿でセシル・官ーズと共に活躍した人物であ り、後年久しく共和党の大御所であつた。その嫡子は﹁ハモソド.オルガソ﹂の発明者である。︶ 一八八八年︵明治二十一年︶二 月二十五日華府で誕生したダレスは此の時代思潮の特産物である。そして彼が既往の崇高な﹁ッワイスト・ガイス ト﹂に燃えて今目恒久平和の﹁シヴィライジング・エーゼント﹂又は﹁パス・ファインダー﹂として尽痙しつつある ことは、その成果如何に拘らず、故なきにあらずである。  然しながら、時の経過と共に典型的な此のダレス世代の老衰、凋落に従つて此の同一精神が果して既にプラグマテ ィズムの帰依者でありかつ相当チャッカリになりつつある現在並びに将来の米国世代人心に浸透し、又は、これを把 持し得るや否やは問題であろう。維れ時代の推移に伴なう国民性の変更とその動向である。然も、将来米国の世界指 導的地位持続如何の間題は果して米国が此の崇高な﹁ピュリタン精神﹂を堅持し得るや否やにあるのは論を要せぬと ころである。      米国外交政策の一考察       一四九

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     東  洋  法  学       一五〇  鼓に留意せねばならぬ点は此の米国﹁ピュリタン﹂精神の移植、癸芽するところ即ちダレスの所謂﹁動的対応﹂の 結果として被植地又は此の外来新思想の見地からすると言わば一種の﹁処女地﹂では必然的に﹁動的感応﹂が起る。 そして其の目的とするところは根本的には変化の機軸に依つて改善、改正、改訂、改新、改革又は革命を意義するも のであるから、被植国又は対手国に取つては多くの場合一応迷惑千万なものであるのは米国思相の傾向というよりも 寧ろその﹁動的対応﹂の齎す必然性であり又不可避の必然現象でもある。武陵桃源の甘夢に耽つた一国、一民族又は 一文化は此の﹁ピュリタン﹂核の到来に当つて一応の﹁感応﹂として反抗又は反撃的な状勢を逞しくしたることは否 めないが、早晩其の深大な影響を免れ得ぬ。一八五三年ペルリ渡来以来今目まで一〇四年間一貫して旺時代に依つて 濃淡の差はあつたがH我国で精神的、物質的に発動した﹁動的感応﹂に徴して極めて明白である。  そして其の﹁ピュリタ昌ズム﹂遂行は米国勢力の増強に伴なつて狭地域から広地域に、更に世界的に、消極から積 極へと加速度的に進展して行く。一八二三年のモンロー主義の宣言も亦”委細に検討すれば“遠く此のピュリタニズ ムの観念に発芽したのは容易に肯定される所である。始め同主義の主張したところは基本理念として政治的に相互的 乃至は互譲的条件を基盤として樹立されたのであつたが、アイゼンハワー主義の今目まで百三十四年に及んだ其の発 達史は消極的から積極的への一大飛躍の途程を物語るものである。本年三月初旬アイゼンハワー主義の米国上下両院 通過に当つて︵ユー・エス・ニュース・アソド.ワ1ルド.レポート﹂主筆︶デヴィッド・ローレンス︵筆者の知人︶の所論 は﹁アイゼンハワー主義則モン・1主義﹂を意義し、一八二三年版﹁ピュリタニズム﹂の﹁世界各地域への発展﹂を 断定したものである︵本年三月八日﹁紐育ヘラルド”トリビューン﹂紙参照︶。  斯く観じ来ると、ダレスの﹁世界ピュリタン精神﹂が米国外交政策の原動力として存続する、又はさせる限り、好

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むと好まざるとに拘らず、米国政界並びに言論界を随時賑わすところの所謂﹁孤立主義﹂と所謂﹁不干渉主義﹂︵また 或る程度﹁中立主義﹂︶に関する論争は、此の理念の必然性の観念からすると無用、無意義の長談義ではあるまいか。 若し然らずとすれば、水流を認めて水源を否定する事になる。換言すると、米国外交政策を認めてその原動力である ﹁ピュリタン精神﹂其者を否定する破目となる。然るに拘らず、いま尚依然として是等の主義に関する論争を我等が 屡々耳にするのは主として米国国内に於ける所謂ポリチックスの故であるが、是れ一に此の﹁ピュリタン精神﹂その ものに対する米国政治思想の帰趨未だに完結しないからであるというのが筆者の見である。  以上は米国外交政策の原動力としてのダレスの所謂﹁ピュリタン精神﹂に関した若干の考察であるが、然らぱ現下 の国際政局で彼は一体何を目緒しているかが次に来る間題である。換言すると米国外交政策に関する理想現実の間題 に外ならぬ。彼は前掲フォリン・アフェアーズ誌寄書中に世界に於ける米国の責務を論じて﹁第二十世紀殊に第二次 世界大戦と其結果は全然新たな状態を齎した。米国は過去に於て数ヵ国に依つて分担された世界の指導権を大体に於 て自ら継承するに至つた﹂と述べ、かつ﹁今目米国人の双肩はかかる三重の任務﹂は次の如きであると指摘している。  ﹁一、再び世界戦争の突発しないように保障を与える事   二、専制者の統治と是を打破する自由の善果との比較を以て実証する事   三、未開発地域の健全な発達に必要な努力の大部分を提出する事﹂  更に右目的達成の方策又は手段としてダレスは同誌同文の一節に左の如く論じている。   ﹁我等が生活している現在の情勢下では軍事努力と非軍事努力との間に完全な平衡を保ち、そして我等に最も有 効に役立つ軍事努力を選択することは容易な事ではない。然しながら、要は我等の安全に反しない範囲に軍事費を      米国外交政策の一考察       一五一

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 最小限度に引き止め、以て自由の最大限をして専制主義に対して積極的な勢力として作働させるという是等両者間  の平衡が絶対的に緊要であるのを認むる事である。是が即ち我等の政策の目標である。﹂  一方では右に述べたダレスの目標︵寧ろ手段?︶とは即ち﹁最少限度の軍事費﹂対﹁最大限度の自由﹂両者闇の平衡 間題であるが、 他方では米国国家財政の観点からすると軍事費︵来年度約三百四+億弗、本年七月二+三日﹁紐育タイム ズ﹂報道︶と同時に襲に述べた﹁エンライッンド・セルフインタレスト﹂に基因する﹁外国援助費﹂ ︵実は一種顕著な ﹁弗外交﹂︶をも勘算せねばならぬ。 そして本年度末までに後者の総額は六百億弗に達する。斯くして連年停止する 処なければ、去る六月三日スプルイス・ブラデン︵元駐アルズソチソ米国大使並びに元国務次官補︶が下院外交委員会で 証言したように﹁米国は破産し遂には自殺の外はない﹂という破目に陥る。尚彼の説に依れば﹁ダレスの計画は米国 に安全保障を与えなかつたのみでなく或る受益国は反つて敵国となつた。⋮−それで我々は米国が歴史上曾て左程小 さいもの︵ダレスの所謂﹁最大限度の自由﹂︶に対して左程大きな布施︵援助費︶をしなかつた事を嫌々ながら■認めねば ならぬ。﹂ というに帰するのである。  従来ダレス政策批判の米国評論家中、賛成派は彼を目してオプティ、・・ストとし、反対派はハアーシュ氏を始あオポ テユ一一ストとするのが常である。然し何れにせよ、 ﹁ピュリタン精神﹂を高調する理想家であり、かつ﹁献身した﹂ 彼は米国外交の主脳者としてその実現者でなければならない責任がある。 第二出早ダレ 政策対ケナン主義 ︵﹁積極﹂対﹁消極﹂論争︶ 本章はハアーシュ氏のダレス攻撃全文中で最も力説したと思われるところで、其の論拠は米国対外政策に於て随時

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に起る﹁積極主義﹂と﹁消極主義﹂の対立である。而して右両主義代表者とも言うべきはダレスとケナン両者である。   ﹁ダレスが国務長官に就任した前後には屡々そして批判的にアチェソンの冒ンテーンメント﹄政策を論じた。  其の含意はソ連勢力の境界を消極的な﹃封じ込め﹄の政策から転じて積極的な﹃巻き返し﹄政策にするにあつた。然  し魅惑的な事は月を経るに従つて共産境界線は印度支那の北半に押出して来ると、外交政策に関するダレスの声明  は﹃封じ込め﹄主義の発案者ジョシ・エフ・ケナン︵その伯父ジョージ・ケナソはフオスターと同時に於ける東洋通の米  国新聞記者であつて、日清戦争後官シアを踏査し当時のベスト・セラー﹃シベリア囚人記﹄を著わし︵一八九七年︶一躍名を馳  せた。加州土地法案通過ー一九一三年五月十九日−後日米移民問題を論じて﹃徳川三百年の鎖国政策なかりせば、今日米国人は  官ッキー山脈を越え加州に入らんとして、反対に、加州駐在日本総督の許可を得なくてはならなかつただろう﹄1同年七月初旬  のアゥトルック週刊誌ーという記事を筆者は渡米上陸直後東行の汽車中で読んだことを記憶する。︶ の所説に類似したかの如  き語句をだんだん多く包むようになつた。ケナン政策の心髄は一九五一年三月ケナンのストラフォード・リッル講  演から引用する次の語句に述べてある。   ﹁私は想うにソ連の勢力は丁度フィとフンド、ユーゴスラヴィア及び北部イランから既に退いたように現在のさ  らされた地位から後退するだろう。私は想うに此の後退が起るのは只その行程でソ連勢力の致命的な権威に対して  余りに深大に又急激に関係しない場合、そして其の変更が外部からの強迫、最後通牒又は明白な陰謀の形でなく、  ソ連勢力の機構内に存在する圧力の結果として漸次にそして目立たないように起ることを許容された場合である。﹂  ﹁一九五二年大統領選挙運動期間及び其後長期に亘つてダレスは勿論自ら﹃強迫﹄、﹃最後通牒﹄叉は﹃陰謀﹄など の標礼を掲げなかつたけれども、是等の外部的特徴のある政策をソ連に対して取つた。彼がネールを通じて中共に送      米国外交政策の一考察      一五三

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     東  洋  法  学       一五四 つた警告は﹃最後通牒﹄の性質を帯びたものであつた。そして、ダレスは此の所期の目的を如何にして腐すかを決し て明白にしなく、只ソ連人に﹃彼等の後庭﹄で﹃宿題﹄と困難を与えるのだと有ゆる方法でほのめかし続けたので、 ダレスの﹃自由解放﹄政策は寧ろ﹃明白な陰謀﹄の如く響いた。夫れで彼の遣り方は米国情牒局活動の秘密裡に緩和 された深刻な﹃心理戦争﹄と﹃宣伝﹄戦略の如く取られた。然も彼は﹃捕獲された各国に対する自由計画﹄を発達さ せんがための﹃自由世界に於ける政治的機動部隊の建設﹄だと言う以外には何等詳細な説明をしなかつた。﹂  ﹁早くも一九五三年九月十五日国際連合でダレスは﹃我等の信条とする所は革命を輸出しそして他国を煽動して暴 行に訴えさせるのではない﹄と確言した。然し、此の後久しく自由欧州委員会︵衛星諸国の自由獲得を目的とする米国機 関︶はアイアンカーテンを越えて﹃自由主義の風船球を﹄飛ばし続けていたが、アイゼンハワー政権の初期の﹃前進 戦略﹄が見捨てられた事は周知の処であつた。それで革命に依る自由解放を目指す﹃自由欧州﹄の連中は今後どんな 仕事をすれば良いか途方に迷うのであつた。﹂  コ九五四年一月十二目ダレスの有名な演説中に在る﹃マッシーヴ・レタリエーション﹄という用語に世人は多大 の注意を払つた当時にはケナン主張論点に留意したものは かつた。其のケナン論点と言うのは即ち﹃若し我等が全 面的戦争を意昧する斯かる︵ソ連の︶侵略を思い止らせるならば、”そして夫れが我等が狙う目的であるが旺、其の 上では時間と基本的客観状勢とは我方に有利になる﹄というのである。一九五四年三月十七日ダレスは此のケナン論 旨を敷衛するかのように﹃ソ連帝国内に於てさえも強力な政治家連中と一般群衆との両者間に暗々に勢力の比較の試 しがある⋮⋮民衆の渇望の総和は一大勢力となる﹄と言つているが、是は︵ケナソの︶所謂﹃時間と基本的客観状勢は 我方に有利になる、若し唯、云々﹄との論旨をダレス自身が再び裏書した丈献になると言うべきである。﹂

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 ﹁アチェソン長官の下に最後の国務省政策企画部長であつたポール・一一ッチェはダレスの実績を研究の後﹃フォリ ン・アフェアーズ﹄誌︵一九五四年一月号︶に﹃宣言政策と実行政策﹄という一文を寄せて両者の差異を分析してい る。ダレスの﹃宣言政策﹄は﹃議会が丘﹄の﹃ゴツゴツ強固論者﹄の激烈な総ての要求を充たすものではあるが、ダ レスの実行政策はそれより遙に違つたものである。⋮⋮ダレスの外政の下では米国の、声明ではないが、行動は﹃ソ 連勢の致命的な権威に対して﹄だんだんと活気が薄れて行き、そして﹃ソ連勢力の機構内に存在する圧力﹄が働き出 す機会を段々期待するようになつた。果してダレスが口には反対政策を宣言しながら実際にはケナン政策を実行して いることを認識しているのか否かはダレス自らが語らない秘密である。然し乍らダレス政策がケナン政策排斥から徐 徐にケナン政策実行に回転した事は明白なところである。﹂  以上の引用でハアーシュ氏はダレスの積極政策に関する批判の大要を述べているが、ダレス自身は大体に積極的な 性格の所有者であるから優柔不断を好まない。殊に一生の修養を積み、鼓に所期の顕職を獲得したのだから、積極的 な政策を取るのは当然である。曾てダレスは,﹁如何なる大事業にも危険と乱用の可能性とは付添うものである。ソ連 共産主義の積極性を砕かんためには斯んな危険を敢てせねばならぬ。凡べての危険中で最大の危険は供手傍観に陥る 危険である。﹂と言つた事がある。彼が積極的活動の性癖を物語る適例は前に一寸触れたように日本構和条約である。 屡々欧州並びに東亜を歴訪し、ソ連、中共の動向を洞察して目本独立の急務を痛感した結果ダレスはアチェソン長官 に建策して自ら計画し、自ら考案し、自ら期間を附して丁度約束の一ヵ年聞に完了したのであるから、此の意味では 同条約は主として彼が積極性の賜物であると言つても決して過言でない。  次にハアーシュ氏の指摘するダレス対ケナンの両政策論であるが、そもそも周知の如く﹁封じ込め政策﹂とは一九      米国外交政策の一考察       一五五

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     東  洋  法  学      一五六 四七年当時国務省内ソ連通の名があつた政策企画部長ジョージ・ケナンの発案に依るもので﹃フォリン・アフェァー ズ﹄誌同年六月号に﹁ソ連政権行動の源泉﹂なる題目の下にのX匿名を以て発表されたものである。その主眼とする ところはハアーシュ氏も他のところで引用しているように、 ﹁ソ連が平和で安定した世界の利益を妨げようとするよ うな兆候を示している有ゆる地点で不変の反対勢力がソ連と対抗する事を目指す﹂に在る。そして其の実現方法とし ては本章初頭にハア!シュ氏が引用した通りソ連国内自発的動揺を待つというのである。然しながら、筆者の見を以 てすれば、此の﹁封じ込め﹂政策は徹頭徹尾﹁消極主義﹂であつて、今や原、水爆弾並びに誘導兵器を擁して米ソ両 国が直面している人類史始つて以来丈字通り未曾有の深酷で冷厳である此の対抗の観点並びに真意義からすれば、寧 ろ﹁事忽れ主義﹂、又は−無為主義﹂であり、更に﹁退嬰主義﹂又は﹁低徊主義﹂に終始している。  斯かる﹁他力主義﹂又は﹁傍観主義﹂が大戦後には︵第一世界大戦後にも目撃されたように︶何時も反動的に顕著に現 われる米国社会現象に禍された一般米人間並びに学界にも一時歓迎されたのである。ダレス自身は其著﹁戦争か平和 か﹂の巻尾第二十一章﹁精神的必要﹂の壁頭に﹁わが国は、何か具合が悪くなつているのだ。さもなけれぱ、われわ れは、現在のような追いつめられて、いらいらする気持におちいるはずはないのである。守勢に立つとか、怖れをい だくとかいうことは、われわれらしくない。われわれの歴史上に、かつてなかつたことである。︵藤崎外務書記官訳︶﹂ と言つて此の﹁無為主義﹂に対してヒドク憤慨している。  然も、此の﹁微温政策﹂を以てソ連国内又は圏内に於ける不平分子の蜂起を期待するは恰も﹁百年河溝を待っ﹂に 等しく短見も彩しいと言わねばならぬ。近時加速度的に激甚化して行く国際角逐上我等の辛い実験からして是認され るように、五・が日本の敗北は一九四〇”四一年東南アジアに於けるケナン﹁封じ込め﹂政策と同意語である肪謂﹁エ

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1・ビー・シー・デー﹂包囲政策に依るものでなく、一に四ヵ年間に及んだ目米両国間血醒き一大決戦の結果に外な らぬ。  更に愚見に依れば、ケナンの﹁封じ込め﹂政策を採用したトルーマン闘アチェソン政権は︵朝鮮戦争を除くが、︶殆 ど﹁ピース・アット・エニー・プライス﹂に近いかと疑われる反戦論に迎合した結果は、  一、同政策発案より一九五三年八月︵アイゼンハワー”ダレス政権は五三年一月二+日成立︶ノ連の水素爆弾実験に至    る六力年に於て仮想敵国ソ連の軍力極養並びに増強時代を齎した。  二、更に原子爆弾独占の甘夢に耽った米国は一朝にして新政権の下にソ連の水素爆弾に対する一大恐怖時代を誘致    する羽目に陥らざるを得なかつた。  三、其の必然の結果としてソ連に対する米国の外交政策が甚だしく消極的ならざるを得なかつた。  然らば、第二世界大戦後精神的、軍事的両面で米国が保有した優越な地位を国際政局で当然有利に活用する機会を 空しく逸し去つたケナンの﹁安逸政策﹂の米国外交史上に於ける過失は、日米開戦前二十余年間に亘つて日米戦争を 誘致させた米国学界に於ける浅見亜流の罪科と共に今後改めて厳正に検討されねばならぬ一課題を提供したと言う可 きであろう。  ハアーシュ玩はダレスの﹁宣言政策﹂対﹁実行政策﹂の差異に就いてたびたび論難しているけれども、前述のダレ ス伝︵一面に盛に宣伝され反ダレス攻撃の先鋒となつたハアーシュ氏の本論を反駁するのを一つの目的としたと思われる節々があ る、丁度昨年大統領選挙を控えて前国務長官アチェソソが﹁民主党員の民主党観﹂に対する前労働次官現情報局長アーサー・ラー ソソ著﹁新共和主義﹂のように︶記の著者であるジョン・・ビンソン・ビール︵タイム雑誌記者︶の意見に依ると、      米国外交政策の一考察       一五七

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 ﹁曾て国務省政策企画部長であつたケナンは、トルーマン政権の所謂﹁封じ込め﹂政策の鼓吹者であつた。斯かる 建前の人として彼︵ダレス︶は﹃封じ込み﹄は余りに﹃静的﹄政策であり、そして﹃自由解放﹄を宣言している一政権 ︵アイゼソハワーUダレス︶に取つては一つの心理的負担である。⋮⋮ケナンの主張︵スクラyトソ演説︶は政府の行わ んとする政策に関した全く異なつた政治哲学であり、そしてそれを目してダレスは新機構内では無用の長物とした。﹂  進んでビール氏はケナン“ハアーシュ氏がダレスの干渉を批難するに対して次のように解説している。  ﹁尤もダレスは事実干渉せんとした。ダレスが干渉指導の準備なつた際に偶然にも同時に起つたスターリンの死去 は彼に好機乗ずべしの感を与えた。人閤の性質に精通したダレスはスターリン継承者間に競争の発生するのは火を賭 るよりも明らかであつて、新政権の確立するまで紛騒は免れず従つて干渉の能率化を増進するものだと観得した。ダ レスの想うところは平和的干渉であり、外交的な基準からすると必ずしも礼儀的でないかも知れないが、然し、全然 平和的な干渉である。﹂  以上のように﹁宣言政策﹂対﹁実行政策﹂両者間の相違叉は齪齪の故を以てダレスを攻撃するハアーシュ氏は勿論 一般米国論者はダレス執筆の共和党外交政綱がソ連の水素爆弾実験の十三ヵ月前にものされた事実を観過した短見で あり、か2道般の外交上極めて重要な推移と変化を全然と黙過し去つているハアーシュ氏の立論は決して正鴻を得た ものとは言えない。また周知の通り何処の国でも選挙前に於ける一党の政綱なるものが頗る華やかにまた勇ましく自 党政策を吹聴するものであるが、実現さるる外交政策は主として新政権の下に展開する客観状勢に左右されるのは常 識である。  要するに一方リベラリストであるケナンは日露戦争末期に起つた・シア国内の革命動乱の再発を期待又は夢見てい

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たろうし、他方グレスは就任後僅か七ヵ月にしてソ連に於ける水素爆弾の現出に伴なつて米国内を風靡した一大恐怖 に逢着した。是は米国に取つても第二大戦後米ソ両国が突入した世界争覇戦に於ける一大革命であつて、所謂﹁桑田 変じて愴海となる﹂も蕾ならずである。最悪の場合は米国の完全破滅を意味する。ダレスは斯かる客観状勢の激変に 禍された恨みがある。換言するとケナン弁護”ダレス批難のハアーシュ氏の所説に拘らず、ケナンの場合は所謂ソ連 通としてソ連人︵現在八百万の共産党員に二億五千万のソ連人が一大休制の下に威嚇糾合された︶暴起の判断を誤り、ダレス の場合は水爆現出の犠牲者であると言うのが筆者の所説である。是れは一方ダレスに対して特に親切であり、他方ケ ナンに対して敢て不親切であると言うのではない。親切だとか、同情だとか一切抜きにして寧ろ批評家として公平な 立場だと確信する。  ダレスは予ねてスターリン死後より現在に至るソ連政界指導者を分析して、マレンコフ、モロトフ、カガノヴイッ チ連中を﹁フアンダメンタリスト﹂︵基本派又は正統派︶と呼び、フルシチョフ、ブルガニン、ジューコフ連中を﹁モダ ニスト﹂現代派と称している。本年七月初旬突如として起つた現代派に依る正統派の追放又は罷免に関するダレス自 身の批判を引用すると   ﹁教育されたロシア人の間に智識が高まるにつれ”そして益々多数の人々が教育されている”彼等の知識慾は旺  盛、となり、周囲に発生する事態を知らんと努め、放送に耳を傾けている。公然には禁止された文献も偶には地下組  織を通じて入手している。米国は此の状況を或る程度に助け得ると信ぜられる数種の方法を行つている。   勿論、斯んな状況でも根本的なものは凡ての人類に賦与されている人間の願望である11即ち自分が言及している  通り、より大なる個人的自由即ち思想及び良心の自由、そして各人が労働の結果に対してより大なる享楽を得るこ      米国外交政策の一考察      一五九

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 とである。是等が基本的な勢力である。﹂︵本年七月十七日﹁紐育タイムズ﹂紙参照︶  と述べ、次に﹁現在・シア国内に起つている革新への勢力の偉大な勢力に対峙すると同時に自分等の絶体権力を維 持しようとしてソ連首脳者は目下当惑している。﹂ と観ているところでは寧ろハアーシュ氏の主張のようにダレスは 消極的、傍観的でケナンに近づきつつあるのが覗われる。更に去る八月二十六日ソ連の誘導弾実験の成果発表は、一 九五三年夏水素爆弾実験の場合と同じく、ダレスをして益々﹁ウィッシュフル・シンキング﹂と﹁ウォッチフル・ウ ェーチング﹂の両域を低徊せざるを得ない破目に陥る恐れがある。  因に、ケナン駐ソ大使召還の原因となつた彼の伯林談話がダレス国務長官に依つて、国際慣例から観て外交上不謹 慎である、と判定されても無理もあるまい。

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