研究ノート
ヴェールト「ライン地方のブドウ栽培農民」考
$ 木 文 夫
晩 年 の エ ッ セ イ「ゲ オ ル ク・ヴ ェ ー ル ト の 遍 歴 職 人 の 歌(184
6)Handwerks-burschenlied. Von Georg Weerth(1846)」!でエンゲルス Friedrich Engels(1820−1895) は,青年期の盟友であり,1848年革命時にはケルンにあってともに『新ライン新聞 Neue Rheinische Zeitung Organ der Demokratie』発行に携わり,革命後しばらくして亡
くなった詩人ヴェールト Georg Weerth(1822−1856)を追想しているが,この文章の 冒頭でエンゲルスはヴェールトの比較的初期の詩群
「遍歴職人の歌Handwerksburschen-Lieder」"中の一編「桜桃の咲くころ Um die Kirschenblüthe」を紹介し,引き続きヴェ ールトの略伝を綴った後,ハイネ Heinrich Heine(1797−1856)やフライリグラート
Ferdinand Freiligrath(1810−1876)の詩と比較し,ヴェールトの特徴を述べ,ヴェー ルトの詩こそがドイツのプロレタリアートが読むべき詩であると主張している#。その
意味では,エンゲルスが冒頭に掲げた「桜桃の咲くころ」はプロレタリアートが読む
(1) Der Sozialdemokrat. Nr.24. 1883年6月7日付け。この文章は現在では「ドイツ・プ ロレタリアートの最初にして最も重要な詩人ゲオルク・ヴェールト Georg Weerth, der erste und bedeutendste Dichter des detuschen Proletariats」という表題で各種のマルクス・ エンゲルス選集や全集に収録されている。このような扱いからこの文章の意義について 選集および全集の編者がどのように見ているかを見ることができる。 『ゾチアールデモクラート』は週に一度発行されていた新聞で,ビスマルク体制下社 会主義的傾向を持っていた新聞雑誌が次々と発禁処分にされたドイツを離れ,スイスの チューリヒで発行されていた。当時のドイツ社会民主党に関係する新聞雑誌の中では もっとも先鋭的なもののひとつであった。 (2)「遍歴職人の歌」詩群の詳細については拙稿「ヴェールト『遍歴職人の歌』考」(「香 川大学経済論叢」第82巻第4号2010年3月303−319ページ)を参照されたい。 香 川 大 学 経 済 論 叢 第83巻 第3号 2010年12月 129−144
べき詩の具体例として理解することが自然なところだろう。ヴェールト評価で非常に 意義深いこのエンゲルスの文章が載ったのは,ドイツ社民党に関わる週刊新聞『ゾチ アールデモクラート』の文芸欄である。この号の後,エンゲルスのこの文章の締めく くりの言葉 「この他にもヴェールトはいやらしさの少ないことがらを書いた。折に触れて この中からいくつかをあえて『ゾチアールデモクラート』文芸欄に送るつもり だ。」! を受けたように,実際ヴェールトの詩が二編同紙に掲載された。その一編が本稿で取 り上げる抒情詩「ライン地方のブドウ栽培農民 Die rheinischen Weinbauern」である"。
そもそもこの詩が『ゾチアールデモクラート』紙に掲載されたのは,エンゲルスの この文章が掲載されて後のことであり,カイザーは上記の文章にあるとおり,エンゲ ルス自身が同紙編集部にこの詩を渡したとしている#。それ故エンゲルスに促されてこ の詩は同紙に掲載されるが,その掲載箇所はエンゲルスの文章とは異なり,通常新聞 (3) しかし,このエンゲルスの評価にもかかわらず,と言って良いだろうか,19世紀後半 1848年革命後の一時期の停滞した後,ドイツの労働運動および労働者階級の政治活動の 高揚と平行して活発になった労働者階級の文化活動の中で,「ドイツ・プロレタリアー トの詩人」という評価を受け,広く受け入れられていたのはむしろフライリグラートの ほうであり,ヴェールトは半ば忘れかけられていた詩人だった。エンゲルスの文章はあ えて忘れられそうになっていたヴェールトの名前と作品を紹介したことで意味深い。こ の後エンゲルスの死後,ドイツ社会民主党が強力な政党になり,その影響下で労働者階 級の文化活動も一層活発になった19世紀末から20世紀末にかけてもヴェールトが完全 に忘れられた訳ではないが,同じような状況にあったことは同時代の代表的な活動家メ ーリング Franz Mehring(1846−1919)の著作によって窺うことができる。Vgl. 拙稿「メ ーリングの『ヴェールト論』」(「香川大学経済論叢」第83巻第1・2号2010年10月111 −122ページ)。
(4) 上掲 Der Sozialdemokrat. Nr.24. 第1面最下欄(文芸欄 Unter dem Strich)
(5) Der Sozialdemokrat. Nr.29.1883年7月12日付け。他の一編は「祭りの歌 Ein Festlied 」 (Der Sozialdemokrat. Nr.15.1885年4月9日付け。この詩はカイザー版5巻本全集 Georg
Weerth. Sämtliche Werke in fünf Bänden. Hrsg. v. Bruno Kaiser. Aufbau Verlag. Berlin.1956/ 57. では「自然 Die Natur」という表題で収録されている。)
(6) 上掲 Georg Weerth. Sämtliche Werke in fünf Bänden. Bd.1. S.301.(以下においてはこれ を SW I/301のように記載する)
の第1面最下段にあった文芸欄ではなく,最終ページ右上隅に過ぎない(資料参照)。
そこでは解説記事もなく,ただ,「Die rheinischen Weinbauern.* Von Georg Weerth」と 標題に記されているだけで,*を付けた注として「マルクスの遺品にあった手書き,
おそらく1850−52年に書かれたものである Handschriftlich aus dem Nachlaß von Karl
Marx. Wahrscheinlich1850−52 geschrieben」と記されているに過ぎない。従って,この 詩が同紙にとってどのような重みを持っているかは容易に窺える。ただし,この詩の 成立時期について,上記の添え書きでは「1850−52年」と推定されているが,カイザ ーはこの年代を誤りとして,全集版における注で「1846年の草稿に見られ,1845年 頃に成立したに違いない」!としている。その根拠となるのはヴェールト自身が1846 年に出版のためにまとめた詩集の草稿であり",さらにヴェールト自身が母親に宛てた (7) SW I/301. 資料:Der Sozialdemokrat. Nr.29.1883年7月12日付けより ヴェールト「ライン地方のブドウ栽培農民」考 291 −131−
手紙(1846年9月5/7日付け)に,この詩の第2連と第3連を引いていることで
ある。字句の異同が見られるとしても,1846年頃までに成立したことは確かである
!
。 さて,『ゾチアールデモクラート』紙に掲載された詩「ライン地方のブドウ栽培農
(8) Gedichte von Georg Weerth. vor18. November.1846. これはヴェールト自身が出版のため にそれまでの詩編を分類しまとめ直した草稿で,現在アムステルダムの国際社会史研究 所に所蔵されている。その分類の内容は,I. Die Liebe, II. Der Wein, III. Die Noth, IV. Bruder Straubinger, V. Die Landsknechte, VI. Satirisches, VII. Verschiedenesの7つの部分か らなっている。そこでは「ライン地方のブドウ栽培農民」は他の詩10編とともに III. Die Nothに配置されている。草稿の標題によれば,ブドウ酒に関わる詩を編集した II. Der Weinは係わりがあると考えられるが,内容的には III. Die Noth の各編と近いという事に 拠るのであろう。Vgl. Füllner, Bernd : Georg-Weerth-Chronik(1822−1856). Aisthesis Verlag. Bielefeld.2006. S.72. および Georg Weerth. Gedichte. Hrsg. v. Winfried Hatkopf unter Mitarbeit von Bernd Füllner u. Ulrich Bossier. Reclam. RUB9807. Stuttgart.1976. 他に筆者が参照した カイザーの編集によるヴェールトの作品集については,まず1巻本選集では「ラインの ブドウ作り Die rheinischen Weinbauern」という表題で収められているが,表題のすぐ下 に1843年と記されている。同書の注には上記のように『ゾチアールデモクラート』に 拠るとしながらも,続けて「ヘーニッシュ Haenisch(不詳)に拠れば1843年11月に『ケ ルン新聞』に掲載されたとあるが,この記述はなお検証が必要である」と述べている。 しかし,カイザーはそれにもかかわらず「1843年」という成立年を記載している。もっ ともこの選集は上掲5巻本全集が刊行される前の版であるので,「『ケルン新聞』云々」 ということは確認できなかったのであろう。Vgl. Georg Weerth. Ausgewählte Werke. Hrsg. v. B. Kaiser. Verlag Volk und Welt. Berlin.1948. S.4および S.283. 全集刊行後に出版され た,カイザー編集による別の1巻本選集では詩の表題は「ライン地方のブドウ栽培農民 Die rheinischen Weinbauern」で,注には全集と同じ趣旨のことが短く書かれている。Vgl. Georg Weerth. Ausgewählte Werke. Hrsg. v. B. Kaiser. Insel Verlag. Frankfurt am Main.1966. S.39および S.244. さらに同じ編者による2巻本選集では同じ表題で収録されている が,注はない。ただ,「1842年から1848年の詩」の欄に入れられている。Vgl. Weerths Werke in zwei Bänden. Ausg. u. eingel. v. Bruno Kaiser. Aufbau-Verlag. Berlin u. Weimar.1976 (第4版). Bd.1. S.50f. この他異なる編者の2巻本ヴェールト選集ではこの詩は単純に 「ブドウ栽培農民 Die Winzer」として収録され,「初出一覧 Nachweis der Erstdrucke」には 『ゾチアールデモクラート』第29号,1883年7月12日付け,そこでは「ラインのブド ウ栽培農民 Die rheinischen Weinbauern」という表題だったとのみ記されている。Vgl. Georg Weerth Vergessene Texte. Nach den Handschriften herausgegeben von Jürgen-W. Goette, Jost Hermand u. Rolf Schloesser. c. w. leske. Köln.1976. Bd.1. S.165f. および S.181.
(9) Georg Weerth. Sämtliche Briefe in 2 Bänden. Hrsg. v. Jürgen-Wolfgang Goette. Campus. Frankfurt am Main/New York.1989. Bd.1. S.381.(以下に於いては SBI/381のように記す) 同じ手紙が当然カイザー版全集第5巻にも収録されている(SW V/226f.)が,全集第 1巻のこの詩に対する注では上記のようにこの手紙に触れられることはないが,この手 紙に対する注では「ライン地方のブドウ栽培農民」とエンゲルスについて触れられてい る。Vgl. Hotz, Karl : Georg Weerth-Unglechzeitigkeit und Gleichzeitigkeit im literarischen Vormärz. Ernst Klett. Stuttgart.1976. S.84ff.
民」は次のような内容である。
Die rheinischen Weinbauern ライン地方のブドウ栽培農民 Von Georg Weerth ゲオルク・ヴェールトによる
An Ahr und Mosel glänzten アール河とモーゼル河に
Die Trauben gelb und roth ; 黄色や赤くブドウが輝いた Die dummen Bauern meinten, 愚かな農民たちは思った
Sie wären aus jeder Noth. どんな困窮からも逃れられると
Da kamen die Handelsleute 5 そこへ商人たちがやって来た Herüber aus aller Welt : 世界中から
”Wir nehmen ein Drittel der Ernte 「収穫の3分の1は貰っていく Für unser geliehenes Geld !“ 貸したお金の代わりにな」
Da kamen die Herren Beamten そこへお偉いお役人方がやって来た
Aus Koblenz und aus Köln : 10 コブレンツとケルンら
あと
”Das zweite Drittel gehöret 「後の3分の1は Dem Staate an Steuern und Zöll’n !“ 国へ収める税金とする」
Und als die Bauern flehten そして農民たちは苦しみ抜いて Zu Gott in höchster Pein, 神に懇願した
あられ
Da schickt er ein Hageln und Wettern 15 すると神は霰と雷雨を送り
わし
und brüllte :
”Der Rest ist mein !“ 「残りは儂のものだ」と唸った
Viel Leid geschieht jetzunder, 多くの損害が今生じている
Viel Leid und Hohn und Spott, 多くの損害と嘲笑と揶揄とが Und wen der Teufel nicht peinigt, そして悪魔に苦しめられない者は
ヴェールト「ライン地方のブドウ栽培農民」考
『ゾチアールデモクラート』 1846年の草稿 4行 jeder Not aller Not 14行 Zu Gott Zu Himmel 15行 Da schickt er Da klang es mit
16行 Und brüllte : ”Der Rest ist mein !“ ”Ihr Bauern, der Rest ist mein !“
Den peinigt der liebe Gott !$ 20 神様に苦しめられるのだ
5連からなるこの詩では,第1連で農民の置かれた状況が端的に述べられ,最終連は 詩全体の結語となり,間の3連では「商人−役人−神」という,農民を苦しめる三者 が畳みかけるように登場する。言うまでもなく,三は繰り返しの数字として民話等で 良く使われた重畳法である。即ち,一段ずつ強調を重ねていく表現法である % 。この農 民にとって次に頼ろうとした相手は前の相手よりもより過酷だった。 1846年頃の成立が推定される「ライン地方のブドウ栽培農民」には先行するヴェ ールト自身の詩がある。元々ワインを愛飲したヴェールトには初期にワインを讃える 詩があり,未刊行に終わった詩集草稿では分類された「第2章ワイン II Der Wein」に は8編の未発表の詩が収録されており,その他にも『ケルン新聞 Kölnische Zeitung』 に掲載された詩もある&。そんな中で「ライン地方のブドウ栽培農民」に直接先行する と思われる詩は「ブドウの出来が良くなかった Der Wein ist nicht geraten」である。
(10) この詩は表題にヴァリアントがあるように,『ゾチアールデモクラート』掲載の詩と 1846年の草稿と比較すると次のような語句の異同がある。
ただし,いずれも内容に大きく影響を与えるよ う な 異 同 と は 言 え な い。Vgl. Georg Weerth. Gedichte. S.154および SW I/301.
なおこの詩には以下の二つの日本語訳がある。 1.井上正蔵訳「ラインのぶどう作り」(井上正蔵訳編『ドイツ名詩選』学生社1961 年98ページ) 2.並木武訳「ブドウ農民」(並木武訳「ゲオルク・ヴェールト詩抄#!」『愛媛大学 教養部紀要』第23号−") (11) このような苦しみをもたらす「三つ」の要因という設定は同時期に成立したハイネの 詩「織 り 工 た ち Die Weber」(後 に 改 題 さ れ て「シ ュ レ ー ジ エ ン の 織 り 工 た ち Die schlesischen Weber」,1844年)を直ちに思い起こさせる。ハイネの詩では劣悪な状況に 置かれた織り工が「三重の呪い dreifachen Fluch」を己の苦難の三要因に向けながら,「古 いドイツ Altdeutschland」に着せる「経帷子 Leichentuch」をせっせと機で織る。最初の 呪いは冬の寒さやひもじさに答えてくれなかった「神 Gott」に,二つめは「金持ちの王 König der Reichen」に,そして最後は「偽りの祖国 falsches Vaterland」に向けられる。
この詩はやはり『ケルン新聞』に掲載された(Nr.316, 1843年11月12日付け)。こ
の詩は以下に見るように他のヴェールトのワインに関わる詩とは趣を異にしている。 この詩の第1連でいきなり農民の不幸が以下のように語られる。
Was hab ich doch vernommen 何と大きな悲しみを Für große Traurigkeit ! 聞いたことだろう
Es ist ins Land gekommen まったくひどい時代が Gar eine schlimme Zeit ! この土地へやって来た
Der Wein ist nicht geraten 5 ブドウの出来が良くなかった
An Mosel, Rhein und Lahn, モーゼル河で,ライン河で,ラーン河で
Und was die Winzer taten, それでブドウ栽培農民がしたことは Das ist umsonst getan!! 無駄になったのだ
この連ではブドウの凶作を述べ,ライン地方のブドウ栽培農民の実情を明らかにし, さらに中程の2連で,次のように悪天候が収穫を台無しにすることを述べる。
... Da zog mit Stürmen ....そこへ冷たい秋が Der kalte Herbst daher : 40 嵐を連れてやって来た
Er sah die Wolken türmen 農民は雲が重く雨を孕んで Sich rings so regenschwer. 辺りに沸き上がるのを見た
Verschwunden ist sein Hoffen ! 消えてしまった,彼の希望は! Das kurze Glück ist aus ! 短い幸福は終わってしまった
Von hartem Schlag getroffen 45 激しい落雷に打たれ Geht weinend er nach Haus ! 泣きながら家に帰った
(12) この連作(Zyklus)は上掲詩集 Georg Weerth. Gedichte.で当初の構想に近い形で見る ことができる。同書 S.17ff. また『ケルン新聞』に掲載されたのは「居酒屋 Die Schenke」 である(Nr.36, 1843年2月5日付け)。
(13) SWI/90ff. および Georg Weerth. Gedichte. S.34ff. など
ヴェールト「ライン地方のブドウ栽培農民」考
Du wirst die Hände legen お前はブドウ圧搾機に
Nicht an die Kelter dein ! 手をかけることもないだろう
Nun träuft des Weines Segen そしてブドウ酒の恵みも
Nicht in dein Faß hinern ! 50 桶に滴り落ちることもないだろう
Du wirst kein Lied mehr singen ! お前はもう歌うこともないだろう Kein Brot und wärmend Kleid パンも温かな衣服も
Wirst du den Kindern bringen, こどもたちに持ち帰ることもないだろう Ist alles rings verschneit ! 辺りのすべてが雪に覆われてしまった
悪天候のせいで,せっかくのブドウの収穫も台無しになってしまう描写はすでに「ラ イン地方のブドウ栽培農民」の第4連を先取りしている。この悪天候だけでなく,当
時のブドウ栽培農民の労働実態は悲惨な状況に置かれていたようだ。カイザー版全集 の注釈に拠れば,この詩はヴェールトと交友があったキンケル Johann Gottfried Kinkel
(1815−1882)が編集発行した著書『アール河。風景,歴史および民衆の生活。併せて アール地方旅行者のガイドブック Die Ahr. Landschaft, Geschichte und Volksleben.
Zu-gleich ein Führer für Ahrreisende』(1849年)に再録された。そこでキンケルは,「ブ ドウ栽培農民の困窮と潰えた希望への悲しみを,1843年の陰鬱な秋と密接に結ばれ ているヴェールトの詩以上に美しく,実際の暮らしと一致して表現することは難し い」と述べて,ヴェールトの詩の的確さを讃えている!。「ライン地方のブドウ栽培農 民」ではヴェールトはブドウに災いをもたらす悪天候と神とを結びつけているが,こ の「ブドウの出来は良くなかった」でも直接結びつけてはいないものの,上に引いた 箇所の直前で農民と神との関わりを次のように描写している。
”Gott ist mir gut gewesen !“ 30 「神は我に好意を寄せた」
(14) SWI/295. この注釈でさらにカイザーは「ライン地方のブドウ栽培農民」にも触れ,「2 年後」のこの詩を「真に民衆の力強さで農民の困窮を歌っている」と評価している。こ の詩は『ケルン新聞』に掲載された後ほどなく『ムネモズュネ Mnemosyne. Beiblatt zur neuen Würzburger Zeitung』第183号1843年11月16日付け。この事実からこの詩が一 定度受け入れられたことが理解できる。Vgl. Füllner, B. : Georg-Weerth-Chronik. S.41.
So klang des Winzers Lied ; ブドウ栽培農民の歌はこう響いた
”Bald werd ich lustig lesen, 「まもなくおいらは楽しくブドウ摘み Was mir der Herr beschied ! これが主が授けてくださったこと Ein schöner Erntemorgen 好天の取り入れの朝が
Bricht in den Dörfern an, 35 村々に明ける
Vorbei nun Gram und Sorgen, もう心痛と不安は消え去った
Ich bin ein froher Mann !
! “ おいらは幸せな男だ」 農民は神を頼りにし,信頼しきっている。しかし,上に引いた一節のようにまもなく 悪天候が襲って,農民は絶望の淵に立たされるのである。この,「ブドウの出来は良 くなかった」では充分に関連付けられていなかった,農民と神,そして自然の関わり が「ライン地方のブドウ栽培農民」では明確にされる。さらに「ブドウの出来は良く なかった」は町中で贅沢三昧にブドウ酒を浪費する人々に,この汗水垂らし,困窮に 耐えている農民たちを思い出すように叱責する一節で締めくくられる。ここで重要な のはすでに1843年という時点でヴェールトがライン地方で働くブドウ栽培農民たち の困窮に目を向けているということである。 この当時のドイツにおける零細なブドウ栽培農民の窮状についてはライン地方では ないが,隣接のモーゼル地方での状況について若きマルクス Karl Marx(1818−1883) がジャーナリズムで論陣を張っている。当時マルクスはケルンで発行されていたリベ
ラル派の新聞『ライン新聞 Rheinische Zeitung für Politik, Handel und Gewerbe』(1842 年1月1日創刊,1843年3月31日発行禁止,マルクスは1842年10月15日より同
紙編集長を務める)"に様々な記事を執筆している。その中で本稿と関わりがあるのが, 彼が匿名で 掲 載 し た 連 載 記 事「++モ ー ゼ ル 通 信 員 の 弁 護 Rechtfertigung des
++-(15) 前掲 SWI/90ff. および Georg Weerth. Gedichte. S.34ff. など
(16) マルクスを編集長とし,ヴェールトやエンゲルスらが活躍の場とした『新ライン新聞』 はこの『ライン新聞』の後継紙であることは言うまでもないが,興味深いことに『ライ ン新聞』はヴェールトが盛んに寄稿した『ケルン新聞』への対抗紙として考えられてい た。ただ,ヴェールトが『ケルン新聞』に寄稿していたのは同紙編集部に友人のピュッ トマン Herman Püttmann(1811−1894)がいたからである。 ヴェールト「ライン地方のブドウ栽培農民」考 297 −137−
Korrespondenten von der Mosel」(『ライン新聞』第15号1843年1月15日,第17号 同年1月17日∼第20号同年1月20日)であり,特に第17号以降にモーゼル地方の ブドウ栽培農民の窮状について,その実情,零細農民と大農園主との格差の拡大や現 実の窮状を認めようとしない関係者や当局の対応および怠慢について批判的に報告し ている。とりわけ「より貧しいブドウ栽培者の没落はあたかも自然現象のようにみな され,ここでは人間はまえもってあきらめてしまって,ただ避けがたいことを緩和し ようとするだけである。[中略]ブドウ栽培者の窮状は承認されたけれども,それを 救済しようという努力がみられなかったということがわかる。」と述べる箇所や,又 別の「このような恒常的な窮状は,現実と行政原則との矛盾であり,[中略]だが, 行政は,その官僚的な本質のために,窮乏の根拠を,統治されている地域の中に見る ことができず,統治されている地域の外部にある自然的・私的市民地域の中にしか見 ることができないのである。」!と述べる箇所では,窮状は必ずしもブドウ栽培農民の 責任ではなく,当局の怠慢に基づくものとして,事態の本質をしっかりと見極めてい る。モーゼル地方とライン地方との違いはあってもこの時代のブドウ栽培農民をめぐ る状況は大差はなかったと思われる。というのは1830∼40年代のドイツは関税同盟 の成立(1833年)による経済圏の拡大,重工業の発展,鉄道網の発達等々イングラ ンドからはかなり遅れて産業革命が開始し,資本主義経済の成長および確立の時期に あり,農村からも多数の人々が国内の工業地帯あるいはさらにアメリカ大陸など海外 へと流出し,社会構造が大きく変わろうとしていた。また,経済発展によるヨーロッ パ規模での経済競争に曝され,賃銀切り下げにより民衆の困窮度が増大し,シュレー ジエンの織り工蜂起(1844年)"が代表するような民衆の抵抗も強まり,一方で言論 の自由,憲法制定要求など民主化を求める民衆運動も拡大する。新旧様々な流れが入 り乱れ,新しい時代の産みの苦しみとも言うべき社会の混乱期であったこの時期が ヴェールトの詩が成立した背景である。 さて,上の「ブドウの出来は良くなかった」が『ケルン新聞』に掲載された1843 (17)『ライン新聞』第18号 1843年1月18日付けおよび次号翌日付け。Karl Marx-Friedrich Engels Werke. Institut für Marxismus-Leninismus beim ZK der SED. Dietz Verlag. Berlin. 1961. Band1. S.183/S.188.(邦訳『マルクス=エンゲルス全集』大内兵衛・細川嘉六監
訳 大月書店 第1巻 212ページ/218ページ この文章の翻訳者は崎山耕作。)
年11月はヴェールトにとってどのような時期だったのだろうか。この年9月25日か
ら10月13日まで初めてロンドンへ旅行している。この時の様子は旅行記「ケルンか らロンドンへ Von Köln nach London」として『ケルン新聞』第301号∼第303号,1843
年10月28日∼10月30日付けに連載されている。このときの旅の目的はイングラン ドに新たな職を求めることであった。ボンでの仕事をやめる契機は雇い主であり,親
戚筋にあたるアウスム・ヴェールト Friedrich aus’m Weerth(1780−1852)が議員を務 めていたライン州議会でのユダヤ人への平等な市民権を巡る審議での背信行為を目の 当たりにしたからである。9月末のロンドン訪問ではうまく行かなかった,求職活動 であるが,11月にはイングランド・ヨークシア地方のブラッドフォードのドイツ系 商社に職を得て,同年12月9日早朝にはロンドンに到着し,マンチェスターを経由 し,12月18日にはブラッドフォードに到着する。この後ヴェールトはこの「悪魔の 巣窟」工業都市ブラッドフォードに1846年4月に立ち去るまで働くことになる。こ の2年あまりのブラッドフォード滞在の意義はヴェールトにとって,「修業時代」と 呼べるほど,大きく成長した時期でもある。上記のようにヴェールトのイングランド 初体験はロンドンであり,この大都会は「町の怪獣 Städte-Ungeheuer」として現れて, 詩人を圧倒する。ロンドンに圧倒されたのはヴェールトだけではない。彼に先立って ロンドンを訪れた人々も一様にこの大都会に圧倒されている!。しかし,ヴェールトが ドイツからイングランドを訪れた他の人々と異なるのはロンドンからさらにイングラ ンド内陸部,工業地帯へと足を踏み入れたことである。ここで働く人々がヨーロッパ の他の国々の人々が羨むイングランドの繁栄を裏から支えていた。ヴェールトが見た 底辺労働者の日常生活は凄まじいものがある。このようなヴェールトのイングランド (18) 上記注(12)のハイネの詩「織り工たち」はこの事件を素材にしている。この事件は ハイネから19世紀末のハウプトマン Gerhart Hauptmann(1862−1946)の戯曲『織り工 Die Weber』(1893年初演)に至るまで多くの文学作品を生み出した。ヴェールトもこの事 件を契機に二編の詩,「飢えの歌 Das Hungerlied 」(1844年)および「彼らはベンチにす わっていた Sie saßen auf den Bänken」(1846年)を書いている。後者については拙稿「ヴェ ールトの『彼らはベンチにすわっていた』について」(日本独文学会中国四国支部学会 編『ドイツ文学論集』第23号1990年31−38ページ)を参照されたい。 (19) この時期にロンドンを訪れたヴェールトや他の人々がこの町に持った印象については 拙稿「ヴェールトのイングランド旅行と『イングランドだより』」(日本独文学会西日本 支部編『西日本ドイツ文学』第7号1995年29−49ページ)を参照されたい。 ヴェールト「ライン地方のブドウ栽培農民」考 299 −139−
体験を「修業時代」と呼べるほどに充実させた三人との出会いがある。一人目はエン
ゲルスとの出会い,彼はヴェールトより一足先にマンチェスターに来て,父親の経営 する企業で働いていたが,当時初期の代表的著述『イングランドにおける労働者階級
の状態 Die Lage der arbeitenden Klasse in England 』(1845年)を準備しているところ であり,ヴェールトに当時の哲学や経済学を学ぶよう刺激を与えイングランドの現状 をより深く観察させた。イングランド滞在中頻繁に会って,意見を交わしていただろ う彼らがイングランドの現状についても議論をしていたことは想像に難くない!。この 時期はヴェールトが紀行文「ケルンからロンドンへ」に続けて,『ケルン新聞』に「イ ギリス紀行 Englische Reisen」を連載している"。二人の交友は周知の通りヴェールト が亡くなるまで続く。続く二人目は英語の交換教授として知り合いになったスコット ランド人医師マクミキャン John MacMichan(生没年不詳)である#。マクミキャンは ブラッドフォードの貧民街で医療活動をしていたが,ヴェールトは彼について歩きブ ラッドフォードの「裏側」,工場労働者の実態を知ることになる。そして三人目は1830 (20) この時期ヴェールトはエンゲルスの影響を受けて,アダム・スミス Adam Smith(1723 −1790)やマルサス Thomas R. Malthus(1766−1834),リカード David Ricado(1772−1823), マカロック John R. MacCulloch(1798−1864)等経済学を勉強し,エンゲルスの著作「国 民 経 済 学 批 判 大 綱 Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie」(1844年『独 仏 年 誌 Deutsch-Französischen Jahrbücher』所収)も読んでいる。Vgl. Wilhem Weerth 宛て1845 年4月12日付け 書 簡(SB I/305)お よ び Füllner, B. : Georg-Weerth-Chronik. S.54. ま た ほぼ同時にフォイエルバッハ Ludwig Feuerbach(1804−1872)の『キリスト教の本質 Das Wesen des Christentums』(1841年)やシュトラウス David Friedrich Strauß(1808−1874)の 『イエスの生涯 Das Leben Jesu』(1834年)のようなキリスト教批判の書物も読んでいる。
Füllner, B. : Georg-Weerth-Chronik. a. a. O.
(21) Kölnische Zeitung. Nr.301−303.28. −30. Okt.1843. ヴェールトは「ケルンからロンドン へ」や「イギリス紀行」,さらにこの後様々なイングランドの現状を伝える通信文を多 く書いているが,彼はこれらを加筆修正し,まとめて『イギリス・スケッチ Skizzen aus dem sozialen und politischen Leben der Briten』(1848/1957)として出版しようとしたが, 1848年革命の挫折のために果たせなかった。この経緯については拙稿「ヴェールトの『イ ギリス・スケッチ』の成立と構成」(「香川大学経済論叢」第73巻第2号2001年10月 193−210ページ)を参照されたい。しかし,この加筆修正版と初出版を比較すれば,新 聞雑誌記事としての紙幅の制約があるとは言え,後者ではまだ社会の現状分析の未熟さ は否めない。 (22) 1844年6月6日付け母親宛書簡で,ヴェールトがマクミキャンと知り合ったこと,そ して彼の元へ足繁く通い,社会の改善について話し合ったり,一緒に病院や矯正施設を 訪れたことを伝えている(SB I/262)。 −140− 香川大学経済論叢 300
年代の第一次選挙法改正運動に民衆側から尽力したラジカル・リフォーマーの一人 ジャクソン John Jackson(1795−1875)である。彼を通じてヴェールトはイングラン ドの民衆運動の歴史を詳しく知ることができたし,ジャクソンとは立場を異にする チャーティストや当時の社会運動家の集会にも出席し,実態を知ることができた ! 。 ヴェールトの二つの詩「ブドウの出来は良くなかった」と「ライン地方のブドウ栽 培農民」の間には上記のような「イングランド修業時代」があった。わずか約3年の 隔たりであるが,その差は小さくない。「ブドウの出来は良くなかった」においては 日々の苦しい労働の成果としてやっと収穫時期が来ようとしているとき,自然の災害 に襲われるブドウ栽培農民を同情を寄せながらその不幸を淡々と語っている。農民た ちは豊かな実りがもたらされるのを神の加護とそこで描かれる悪天候という自然の災 厄はただ自然現象であるのに対し,「ライン地方のブドウ栽培農民」では天候による 災害は神と明確に結びつけられている。しかも,ハイネの詩「織り工」で織り工の呪 いが「神」,「国王」そして「祖国」の三者に明確に向けられているように,ヴェール トの詩「ライン地方のブドウ栽培農民」では,収穫を喜んでいる農民に,まず商人が 借金のかたに収穫の3分の1を奪い,続いて役人が3分の1を税として取り立て,最 後には信仰篤い農民に対し,神が悪天候を起こして残りの3分の1を奪い取る。神は ここでは農民に恩恵をもたらすどころか農民の困窮にトドメを刺している。最後の詩 句「そして悪魔に苦しめられない者は/神様に苦しめられるのだ」は決定的である。 単純に「神 der Gott」ではなく,「神様 der liebe Gott」というように lieb という形容詞
には農民の神に寄せる信頼が残っていることを表しているが,ヴェールトはこの言い 回しで,素朴に信心深い農民が神に裏切られる様子を簡潔に,そして農民への嘲笑も 込めて描いている"。彼はここで見事に商人による搾取,国家による徴税,そして神に (23) ジャクソンらとの交流を通じて得た知識などを元にしてヴェールトは『イギリス・ス ケッチ』で特に二章を割き,イングランドの民衆運動の歴史を取り上げている。Vgl.『イ ギリス・スケッチ』第9章「1780年から1832年までのラジカル・リフォーマーの歴史 Geschichte der Radical Reformers von1780bis1832」および第10章「1832年から1848 年までのチャーティストの歴史 Geschichte der Chartisten von1832bis1848」(いずれも カイザー版全集で初めて印刷刊行)
(24) Vgl. Vaßen, Florian : Georg Weerth. Ein politischer Dichter des Vormärz und der Revolution von1848/49. J. B. Metzlersche Verlagsbuchhandlung. Stuttgart.1971. S.81ff.
ヴェールト「ライン地方のブドウ栽培農民」考
見放された農民の姿を描き,商人・役人・神のトライアングルが民衆を苦しめる元凶 であることを明確に示している。これがヴェールトがイングランドで学んだことで あった。 ここで上述の,ヴェールトが『詩集』刊行を考えてそれまでの詩を編纂し直した「草 稿」(1846年)を思い出してみよう。注(8)に述べたように,「ライン地方のブド ウ栽培農民」はこの「草稿」では「#.困窮 Die Noth」に収められている。この節 には全部で17編が入っているが,さらに「困窮 Die Noth」という小区分が設けられ, そこに番号を付けて11編が収められている。その内訳は以下の通りである。 一覧表
!.かわいそうなトム Der arme Tom ".貧しい仕立屋 Der arme Schneider* #.百人の炭坑夫 Die hundert Bergleute*+ $.ランカシアの年老いた酒場の亭主 Der alte Wirth in Lancashire*+ %.黒い沼の家 Das Haus am schwarzen Moor+ &.あるアイルランド人の祈り Gebet eines Irländers
'.大砲鋳造工 Der Kanonengießer* (.ドイツ人とアイルランド人 Deutscher und Ire ).働け! Arbeite ! *.ブドウ栽培農民 Die Winzer +.餓えの歌 Das Hungerlied , ここで目に付くのは,表題の「困窮」と併せて,10番目に「ライン地方のブドウ栽 培農民」が単純に「ブドウ栽培農民」という表題で収録されていること,および他の 10編のうち半分の5編が通常ヴェールトのイングランド時代を代表する抒情詩群「ラ
ンカシアの歌 Lieder aus Lancashire」に含まれることである-。「ランカシアの歌」はイ
(25) 上掲詩集 Georg Weerth. Gedichte. S.182f.
ングランドの民衆の困窮を様々な観点から綴った詩編を収めており,内容的に「草稿」 の「困窮」に収録された詩編とテーマにおいて共通しているので,このような複雑な 経緯も不思議なことではない。「困窮」の11編の詩を概観すると,「!.かわいそう なトム」では寒さと飢餓で凍死するトムが死に神に呼び寄せられる情景を描き,「". 貧しい仕立屋」では体が不虞になるほど長い間せっせと働いてきた仕立屋が訳も分か らず,仕事道具の糸で縊死する話である。「#.百人の炭坑夫たち」はハズウェルの 炭鉱事故で命を失う炭坑夫とその家族を描き,「$.ランカシアの年老いた酒場の亭 主」では貧しい労働者たちが酒場に集まり,口々に自らの境遇について語るが,すで に金持ちへの呪いの言葉も見受けられる。「%.黒い沼の家」では凍死した労働者ヤ ンとそれを悼む老女の姿について語られる。「&.あるアイルランド人の祈り」では イングランドで不遇な状態にあるアイルランド人が守護聖人聖パトリックに,こんな につらい生活を送らねばならないのなら,人間ではなく他の動物に変身させてくれと 祈っている。「'.大砲鋳造工」では体を損ねるほどに酷使しながら大砲を作ってい る労働者が主人公であるが,彼は自ら製造した大砲が遠い異国の侵略に使われ,当地 の民衆を殺害していることに気付かない。「(.ドイツ人とアイルランド人」ではイ ングランドで偶然知り合ったドイツ人とアイルランド人が最初はお互いに不審を抱き 合っていたが,やがてお互いに似た境遇にあることを知り,笑い合うという内容であ る。「).働け!」では青い粗末な作業服を着た労働者が,労働なしでは生活できな いので,しっかり働けと鼓舞されている。そして「*.ブドウ栽培農民」が続き,最 後は「+.飢えの歌」だが,この詩は注(19)で指摘したように,1844年のシュレ (26)「ランカシアの歌」詩群はヴェールトの生前,「草稿」と相前後して,この表題で2種 類の雑誌(『ゲゼルシャフツシュピーゲル Gesellschaftsspiegel 』第1号〈1845/46年〉お よび詩のアンソロジー『アルバム Album』〈1847年〉)に掲載されたが,収められた詩に 相違が見られ,この二つの「ランカシアの歌」と「草稿」の「困窮」との間に重複が見 られる。本文一覧表の*が『ゲゼルシャフツシュピーゲル』に掲載された詩であり,+が 『アルバム』に掲載された詩である。但し,VII. Kanonengießer は『アルバム』において は「ランカシアの歌」とは別に掲載されている。さらに『アルバム』には「ランカシア の歌」として他の2編が収録されている。一方で VI. Gebet eines Irländers は「ランカシ アの歌」以外に両者とも掲載している。このあたりの事情については拙稿「ヴェールト 『ランカシアの歌』考」(日本独文学会西日本支部編『西日本ドイツ文学』第4号 1992
年87−98ページ)を参照されたい。
ヴェールト「ライン地方のブドウ栽培農民」考
ージエン織り工蜂起を契機にできたものである。「飢えの歌」で特徴的なのは毎日の 食事に事欠く状況をお偉方や国王に訴えた後で,自分たちの願いが叶えられないな ら,「ああ,王様,あんたを食ってしまうぞ」と脅していることである。ここでは民 衆はもはや抑圧された状態に甘んじることなく,必要あらば,自分たちの不幸の原因 である支配階級に向かって攻撃することを宣言しているのである。この「草稿」での 配置を見てみるとヴェールトの詩「ライン地方のブドウ栽培農民」の持つ意味が新た に見えてくる。すでに見たようにこの詩の最も強調すべき点は,商人(=資本家), 役人(=国家,国王)そして神(=宗教)は民衆にとって敵対的な関係にあることの 主張である。ヴェールトは「イングランド修業時代」を経て,このような認識に至っ ていたのである。 冒頭で述べたように,詩「ライン地方のブドウ栽培農民」はエンゲルスが『ゾチア ールデモクラート』にヴェールトを追想し,彼を「ドイツ・プロレタリアートの最初 にして最も重要な詩人」として讃えた後,さらに付け加えるように『ゾチアールデモ クラート』に紹介した詩である。追想文で紹介された「桜桃の咲くころ」と比べ,こ の詩はもっと辛辣に,そして的確に労働者階級が対峙すべき体制への批判をしてい る。その意味で『ゾチアールデモクラート』での掲載があまりに簡単であっても,労 働者階級に薦めるヴェールトの詩としては「桜桃の咲くころ」よりももっとふさわし いであろう。この詩はこの後労働者階級の文化運動において編纂刊行されるアンソロ ジーでも収録されている!。
(27) 例えば,Vorwärts ! Eine Sammlung von Gedichten für das arbeitende Volk. Zürich.1886. Verlag der Volksbuchhandlung in Hottingen.ではエンゲルスの言葉「ドイツ・プロレタリ アートの最初にして最も重要な詩人」を添えて,ヴェールトの経歴を短く紹介し,「ラ ンカシアの歌」からの5編や他の6編の詩とともに,この「ライン地方のブドウ栽培農 民」を『ゾチアールデモクラート』掲載の詩句で紹介している。