第2回高校生医学部進学セミナー
医の道
—医師を目指す皆さんへ—
産科・婦人科・小児科病院 医療法人登誠会 諏訪マタニティークリニック根津 八紘
平成23 年 7 月 24 日(日) 14:40 信州大学医学部附属病院外来棟4 階大会議室 はじめに 1 1.医師の道を選択するに当たり 1 2.人生のバックボーン 自由という不自由 1 3.患者さんは最良の師である 2 1)医学生になるまで 2 2)医学部時代 3 3)沖縄でのインターン・レジデント時代 3 4)帰郷、開業、そして様々なことに関する発信—乳房管理学、三拍子自立分娩法、減胎手術、非 配偶者間体外受精、代理出産、着床前診断等— 5 4.倫理と法 7 5.医師は奢り高ぶる事なかれ 9 1)医師とは、医師の裁量とは 9 2)医師も元を質せば只のひと 12 6.コンビニエンスストア化しつつある医療現場 13 7.医師としての誇り 16 まとめ 16私の考える医師のあり方
「医師」、「医師の裁量」とは
「医師は患者さんのためにあり、医療は国民のためにある」
という大原則のもと、
「 医 師 」 と は
自 ら は 博 愛 心 、 正 義 感 、 生 命 力 ( 体 力 、 精 神 力 ) を
兼 ね 備 え 、 時 と し て 己 を も 顧 み ず し て 傷 病 に 立 ち 向 か う 医 療 の 専 門
家
であり、医師は与えられた職務に対する、この基本精神を忘れてはな
らない。
「 医 師 の 裁 量 」 と は
医 師 が 最 善 の 技 量 の 下 に 、 目 の 前 の 患 者 さ ん
のためにより良い医療を、責任を持って全うする権利と義務 であり、
医師は与えられたその重責を忘れてはならない。
は じ め に 皆さん今日は。 これからの人生の進路を決めて行かれる若 い皆さん方に、先輩面をしてお話をさせて頂 くことになりました、産婦人科医の諏訪マタ ニティークリニック院長、根津八紘です。 某る日、突然このような機会を頂く依頼の 御連絡を頂き、当初は果たしてお受けすべき か迷いました。しかし、医師となって 44 年 目、医学生時代も入れると足掛け 50 年間、 約半世紀を医師に関する人生として歩んで来 た私にとって、私の人生を総括する意味でも 良い機会ではないかと考え、お引き受けする ことにしました。 私は今年69 歳ですので、ちょうど 50 年前 に信州大学医学部に入学したことになります。 本日、医学部を目指す高校生の皆さんにお話 をさせて頂くことになるとは、当時は考えて も見ませんでしたが、このような貴重な機会 を母校より頂いたことに感謝し、また本日の 私の話が、医師を目指す皆さんにとってお役 に立てることを願いながら話を進めて行きた いと思います。 1 . 医 師 の 道 を 選 択 す る に 当 た り 先ず、医師の道を選択する理由を考える時、 以下の7 つのようなことが挙げられるのでは ないかと思います。 1)医師の仕事に感銘を受け、医師に憧れ て 2)様々な傷病を克服するために医師を目 指して 3)医師は人々から一目置かれ、尊敬され る立場にあるから 4)医師は経済的にも社会的にも安定した 立場にあり、医師免許さえあれば何処で でも仕事ができ、生活できるから 5)医業を継ぐために 6)アチーブメントテストの値が高い人が 医学部を受験するから 7)何となく医学部を受験したから 以上のような理由が考えられますが、色々 な理由がミックスしている場合が多いのでは ないかと思います。 いずれにしても、このような人々が医学生 時代を過ごし、医師としての道を歩んでいる わけです。当の私はと申しますと、7)の「何 となく医学部を受験したから」と言うレベル で、さほどアクティビティが高かったわけで はありませんでした。その私が医学生時代も 含め 50 年を歩んで来る中で、到達した医師 への思いを順に述べていきたいと思います。 2 .人 生 の バ ッ ク ボ ー ン 自 由 と い う 不 自 由 先ず、医学生時代以前のことをお話しする ことと致します。そもそも私は多情多感な上 に、絵を描くのが飯より好きな少年でした。 小学校時代には、「僕は絵描きになる」という 作文を書き、クラスメートの前で読まされた り、本気で画家になりたいと思っていた時が ありました。しかし、高校受験に当たり、自 ら筆を折り受験勉強に専念、その後高校に入 ったと同時に絵画部に入り絵に没頭、ゴッホ 張りの風景や、ルノワール張りの人魚を描い たりしていました。ところが、絵画部の顧問 から人魚の絵に けち を付けられたことが 切っ掛けとなり絵画部を退部し、アイススケ ート(スピードスケート)部を友人と立ち上 げ、初代の部長となってインターハイに出場。 そのほかにも運動会のクラス対抗?の仮装行 列では、奇抜なアイディアを発揮して注目を 集めたり。その一方で、男四人兄弟の中で育 ったため「女の手なんか握れるか」と、一ク ラス 50 人中 6 人くらいしか居ない同級生の 女性の手を握らないがために、フォークダン スのある体育の時間には欠席するという徹底 振り。そんなわけで残念ながら皆さんと同じ 年頃の恋の話はありませんでしたが、最近、 当時の意中女性のその後の大変な人生をお聞 きし、複雑な思いになりました。 いずれにしても、男臭く、汗臭く、正に 男 の青春を謳歌した3 年間であったのです。そ
んな私が、その後産婦人科医となり、5 人の 娘を持ち、今や 女 の世界の中に身を置い ています。 さて、そもそも私の過ごした松本深志高等 学校は、 自由と自治 の校風の下にあり、当 時の岡田 甫はじめ校長の「自由という不自由を悟 れ」という訓辞を受けつつ高校時代を過ごす こととなりました。「自由という不自由」とは、 「本当の自由とは、奔放とは全く異なり、例 え決まりが無くとも、常に自問自答しながら 己を律しつつ生きること、即ち奔放と比べれ ば不自由なことである」ということだったの です。 決まりは最小限、 自由と自治 の精神の下 で、常に己を律しつつ高校時代を過ごすこと が出来たことが、その後の私の生き方にとっ ての、大きなバックボーンとなっています。 考えてみれば、戦争を中心に、日本は一時、 統制国家の中に置かれていました。それが敗 戦によって崩壊し、新しい憲法の下で私達は 自由の身となり、同時に法律によって守られ てきました。しかし、例え法治国家といえど も、全てを律するためにと、決まりや法でが んじがらめにするような社会を作ってしまう こととなれば、結局、統制国家に逆戻りする ことになってしまうわけです。最近の世相を 思う時、知らない内に国民は自ら進んで統制 国家への道を歩んでいるような気がしてなり ません。 最近、「己を律するその規範とは」と問われ ることがありました。それはそれまでの人生 の中で 培つちかわれて来た 倫理観 や 正義感 、 即ち、各人の持つ 人としての道 ではない かと思います。この中の倫理観に関しては後 程述べることと致します。 3 . 患 者 さ ん は 最 良 の 師 で あ る 1)医学生になるまで 高校を卒業するに当たり、今の皆さんと同 じように、人生の方向を選択することにもな る「何処の大学の何学部を受験するか」とい う立場に私も立たされました。 私の話は今から50 年以上前の話ですから、 皆さんにとって余り参考にならないかも知れ ません。まあ、一人の医師の むかしばなし とでも思って聞いてくだされば結構です。当 時は戦後の高度成長期で工学部全盛時代でし た。私も御多分に漏れず、工学部、それも航 空工学を目指していました。戦後日本は航空 機を作ることを一時期禁止されたため、国際 的な航空機の競争の中で非常な遅れをとって しまっていました。世界の空にもう一度 零 戦 のような世界一の技術をもった飛行機を 飛ばしたいと志望したのですが、一期校にも 二期校にも振られ、浪人生活を過ごすことと なったのです。当時の国立大学受験は、前期 に一期校(旧帝国大学中心)、後期に二期校(新 制大学中心)の一校ずつの受験が可能でした。 又、一期校の東大、京大、二期校の静岡大学 にしか航空工学は無く、定員はそれぞれ 20 人ずつでした。斯くして大学浪人となった私 は、予備校に通わず(通えず?)母校の図書 館通いの受験勉強組となりました。その浪人 時代に、友人に誘われて一日だけ土木工事の バイトに行ったことがありました。朝8 時か らの一輪車による土砂運びの中で、腹が減っ て食べた母の作ってくれた弁当の旨かったこ と、当然、このことに関して母は何も知りま せんでしたが。斯して一日が過ぎ、仕事が終 った後の久し振りの疲労感、現場監督から頂 いた日当が大変貴重に感じたこと、現場監督 が私達が浪人生であることを承知の上で、掛 けて下さった言葉の温かかったこと。この一 日の経験は、その後の人生に大きなプラスと なりました。 二年目も、目指していた一期校の京都大学 に振られ、ならば自分の実力を試すためにと、 地元の信州大学医学部を二期校としての受験 校としました。結果として合格はしたのです が、当初の目的とは大きくぶれてしまうこと となりました。しかし浪人生活に疲れていた こともあり、小学校時代に恩師から言われた
「君は研究熱心だから医者になったらいい よ」という言葉を思い出し、結局そのまま医 師への道を進むこととなったのです。 2)医学部時代 絵に熱中することにブレーキを掛けながら 過ごして来た私が、医学部に入ったと同時に 美大にでも入ったかの如く、再び絵を夢中で 描くようになりました。振り返ってみると、 医学部時代は絵を描きながら過ぎてしまった と言った方が良いのかも知れません。只、私 が出入りしていた第二生理学教室の当時大学 院生であった、清水強先生(後の福島県立医 科大学の生理学教授、現在当病院附属清水宇 宙生理学研究所所長)のアドバイスが、その 後の私の人生を大きく変えることとなりまし た。それは、「学生時代には、人生の内で二度 と行けないような所へ行っておいた方がいい よ。僕は北海道の利尻島へ行ったけど」とい う清水先生の話から、「先生が北だったら俺は 南へ行く」ということになったのです。父が 日頃から「沖縄が復帰しない限り日の丸は揚 げない」と言っていたこととが重なり、5 年 生の夏休みの1 ヶ月間を、沖縄で医療実習を して過ごすこととなりました。復帰前の沖縄 の医療が、本土から遅れを取っていた現実と、 敗戦後 21 年経ても米軍に占領されている現 状を目の当りにした私は、翌年の夏休みも医 療実習をして沖縄で過ごすこととなったので す。 こうしてみると、大学受験に関しても医学 部時代も、私は何ら皆さんの参考になるよう なことをして来ていないような気がします。 3)沖縄でのインターン・レジデント時代 そのような私が医学部を卒業した昭和 43 年(1968 年)は、昭和 42 年、43 年、44 年 に亙る医学闘争の真っ直中でした。 非入局、 非医学博士 を旗印とした闘いの中で、昭和 43 年からインターン制度が廃止され、国家試 験が私達の学年において学生等によってボイ コットされた年でもありました。私はその闘 争の中、卒業後は沖縄行きを逸早く決めてい たため、同級生の前で闘争からの離脱を宣言、 卒業と共に沖縄に渡ることとなりました。そ れからの私は昭和 42 年からスタートしてい た琉球政府立中部病院、現、沖縄県立中部病 院に併設された、ハワイ大学インターン・レ ジデント制度の第二期生となったのです。そ の制度の内容が、米国の援助により成り立っ ていたことを後で知ることとなったのですが、 少なからず沖縄の本土復帰運動を目的として いた私にとっては、思いも寄らぬこととなり ました。また、それまでの本土におけるイン ターン制度は、密度濃き研修制度には程遠く、 無給のまま医学部卒業後の1 年間を多くのイ ンターンは適当に過ごすような内容でしたか ら、私は最初、中部病院の制度もその位にし か考えていませんでした。しかし、ハワイ大 学からの 10 数人のティーチングスタッフか ら成る米国式のインターン・レジデント制度 は、最初からとてつもないハードな内容であ ったのです。各科をローテートしながらの午 前は臨床実習、午後は手術やカンファレンス、 夜は救急室勤務で、病院のインターンルーム で寝起きしながらの24 時間研修体制の中に、 私達インターン生はしっかり組み込まれてい たのです。最初の内は沖縄を占領している米 国人への反感ばかりの私でしたが、人間味と 職業意識を持った米国人のティーチングスタ ッフの教育態度に接する内に、思いも寄らず 彼等によって医師としてのあるべき姿を教え られることとなったのです。 ハードスケジュールが続いた某る日、私は ろくに眠る間もなかったため、カンファレン スの準備もしないままその場に臨んだところ、 「君は何時間寝た」「2 時間です」「寝る時間 があったではないか」との、ティーチングス タッフからの、考えもしない言葉が私に飛び 込んで来たのです。当時はベトナム戦盛りの 頃でもあったため、「もし君の目の前に後から 後から傷病兵が担ぎ込まれて来た時、君は『寝 ていないから、食べてないから』と言って傷 病兵を前にして寝たり食べたり出来るのか」 と続いたその問いへの答えは、「No」に決ま っていたのです。
またある時、私が子宮内膜の試験掻爬術を 施行した際、子宮に小さな穴を開けてしまっ た時のことでした。自然に塞がることもある ため、指導医には報告し、とりあえず患者さ んには黙ってそのまま様子を見ようと考えて いた私に対し、「正直に事の一部始終を患者さ んにお話し、お許しを頂き、試験開腹をして 確認、その後の対応をしなさい」と。どんな に注意していても医療過誤は起こりえます。 しかしその時に、失敗の事実から逃げずに、 正直に、そして正道で対応すべきことを身を 以て教えられた瞬間でした。 更に、ティーチングスタッフの先生方の、 インターン生や患者さんへの誠意を持った関 わり方を学ぶ中で、私は自ずと次のような患 者さんとの関わりも持つようになりました。 研修が外科へとローテートした時のことで す。大腿骨の骨肉腫で片脚を切断され、肺に も転移している 15 歳の女の子を受け持った 時のことでした。最早対症療法しか残されて おらず、余命幾許も無い彼女に対する医療の 空しさを感じた私が、彼女にしてあげられる ことは、医師としてではなく、一人の人間と して彼女の希望を少しでも叶えてやることし か、残されておりませんでした。某る日「海 が見たい」とつぶやいた彼女のために、彼女 の主治医でもあった病院長の許可を得、先輩 の車を借りて彼女の姉さんと一緒に海の見え る岬へ彼女を連れて行き、私は自己流の下手 なマンドリンを弾き、海をバックにお姉さん と写真を撮ってあげました。彼女にとっては 久し振りの外の世界、大いに喜び感激してく れたのですが、それから数日後、その写真を 枕元に、帰らぬ人となってしまいました。そ のとき看取った医師からは「その日の担当は 俺だったのに、最後はお前の名前ばかり呼ん でいたよ」と。それから暫くして、お家の御 佛前にお参りをさせて頂きに上がりましたが、 沖縄式の佛壇と、彼女に関わらせて頂いた 日々のことが、今でも 瞼まぶたに浮かび忘れること が出来ません。 斯して私は、研修期間も含め、医師として スタートした最初の5 年間を沖縄で過ごすこ ととなったのです。その間、3 年を過ぎた 1971 年に、郷里の女性と 29 歳で見合結婚、 翌年の1972 年 5 月 15 日には、念願の本土復 帰を沖縄は果たすことが出来、その3 ヶ月後 に現在一緒に仕事をしている長女が誕生する こととなりました。 何となく医学部に入り、なんとなく医師の 道を歩み出した私は、何よりも幸せなことに、 研修期間を通じ 医師は患者さんのためにあ り、医療は国民のためにある という基本姿 勢を、しっかりと心底から叩き込まれること となったのです。 また、この沖縄での最初に2年間のインタ ーン・レジデント時代に元々は外科志望(左 利きで、手先が器用であったことと、テレビ ドラマの脳外科医の主人公ベン・ケーシーに 憧れて)であった私が産婦人科医への道を選 択し、歩み始めることとなったのですが、そ の大きな切っ掛けとなったのは、インターン 生に成りたての1968 年 5 月 5 日に遭遇した 前置胎盤の患者さんでした。4 月からの米軍 病院での1 ヶ月間に亘る EENT(眼科・耳鼻 咽喉科)の研修が終わり、5 月からは産婦人 科の研修がスタートしたばかりのゴールデン ウィークの最後の日。多量の性器出血による ショック状態の患者さんが、救急室に運び込 まれたことを救急室担当であった同僚のイン ターン生から連絡を受け、駆け付けると、ス トレッチャーの上に血まみれになった妊婦さ んが横たわっていたのです。既に胎児心拍は 無く、母体の脈は辛うじて触れる程度の非常 に重篤な状態でした。直ぐ4 階の産婦人科病 棟の処置室に移送。そして産婦人科スタッフ も駆け付け本格的に救急対応開始。しかし、 その日は祝日で医師はそのスタッフと私だけ でした。 「根津君カットダウン出来るか」とのスタ ッフからの問い。カットダウンとは、ショッ ク時の患者さんの血管は収縮しているため、 皮膚を切開、血管を露出し、血管に輸液用チ
ューブを挿入して血管確保をする処置のこと です。(現在では特別な針があるためこのよう なことはしなくても済むようになっていま す)その時私は、この処置を救急室で一回、 外科のスタッフがするのを見たことがあった だけでした。しかし、手術準備のために飛び 回っているそのスタッフ以外、その場に居る 医師は私だけ。出来るか出来ないかのレベル ではなかったのです。自ずと私の答えは「し ます」でしかありませんでした。スタッフが やっていたことを思い出しながら「何とか血 管確保が出来た」と思ったと同時に、看護婦 が「先生、脈がありません」。慌てて私はスト レッチャーの上に飛び乗り、生まれて初めて の マウス・トゥ・マウス の人工呼吸。「こ こで死なすな」のスタッフの声。やっと脈が 触れるようになった患者さんを手術室に移送。 ほとんど無麻酔に近い状態で開腹開始。死亡 している胎児と胎盤を取り出し、その後麻酔 科のティーチングスタッフも到着して全身管 理も順調に進み、なんとか女性を後遺症を残 すことも無く救命することが出来たのです。 前置胎盤とは、子宮の出口に胎盤が付いて いるため、出産に向け子宮口が開き始めると 胎盤の一部が剥がれ大量出血を来す疾患で、 現在では超音波検査で未然に発見可能であり、 対応も出来るようになったため、まずこのよ うなケースはほとんど見られなくなりました。 いずれにしても、医者に成り立ての私でも、 ひとの命を救うことに関わることが出来たこ と。そして救急医療の寸秒を争う対応が、救 命へと繋がることに、医師としての役割の意 義を感じ、このケースを通じ「産婦人科医へ の道を歩もう」と決心することとなったので す。それは私が24 歳の時でした。 前述した様々な出来事も含め、少なくとも 私にとって、沖縄でのインターン・レジデン ト時代が無ければ、医師として、そして産婦 人科医としてのあるべき姿を学ぶことは出来 なかったかも知れません。 また沖縄の医療は、私を鍛えてくれた沖縄 県立中部病院のインターン・レジデント制度 の更なる充実も加味されて、この制度が始ま った 44 年前と比べれば今や格段の進歩を遂 げ、日本有数のレベルに到達していると言っ ても過言ではないと思います。 4)帰郷、開業、そして様々なことに関す る発信 —乳房管理学、三拍子自立分娩法、減胎手術、 非配偶者間体外受精、代理出産、着床前診断 等— 何となく 医学部を卒業した私は、沖縄 での臨床における基礎教育を通じ 医の道 に目覚め、そして開業することとなりました。 開業してからの私の医療行為へのスタンスは、 常に 目の前の患者さんのお役に立てる仕事 に終始する毎日でした。このことは結果的に、 患者さんは最高の師である という 医の 道 へと帰着することとなったのです。 その後、信州大学に戻った私は、3年間産 婦人科の医局にお世話になり、34 歳という若 輩の身で諏訪マタニティークリニックを開設 することとなりました。 そもそも開業する前に、地域の何処かの病 院に勤務して患者さんへの知名度を上げてか ら開業するのが一般的開業の仕方とされてい ます。しかし、「同じ苦労をするなら、開業し ながら患者さんを増やしていけばいいので は」とのアドバイスを受け、その意見に納得 してのことだったのです。そうは言っても先 立 つ も の は 資 金 。 開 業 時 の 借 入 金 は 金 利 7.5%、一晩寝て起きるだけで当時のお金で 2 万円の利息。一年過ぎても借金の返済目処が 立たなければ腹を切る覚悟をし、その時は生 命保険で清算するつもりでした。当時は一年 過ぎると自ら命を断っても生命保険は保障さ れていたのです。しかし、一所懸命患者さん と向き合う内に、患者さんが患者さんを連れ て来てくださり、 他人のお腹を切っても 、 結局自分の腹は切らなくて済むこととなった のです。 一方医師としては、一人親分となってみて、
自分の無力さを感ずると同時に、医療におけ る未開拓な部門が、あまり花形ではないもの の沢山あることに気付くことともなりました。 それと同時に、 患者さんは最高の師である という、先人の言っていたことを身を以て感 ずることとなったのです。沖縄でのインター ン・レジデント時代に身に付けた、常に患者 さんからの訴えに耳を傾け、診断し、その治 療結果に即応するというそのスタンスが、お 母さん達のスムーズな母乳哺育のために、生 理学や解剖学をふまえ、医学的にSMC 方式、 即ち自己乳房管理方式を考案することとなり ました。そして、そのことは、乳房管理学と いう新しい学問分野を確立することへと繋が ることとなったのです。その内容は、時代の ニーズの中で、助産師を主とする指導者達へ の啓蒙を目的とした SMC 方式指導セミナー 開催へと通じ、私にとっては診察の合間を縫 っての全国各地を訪れる日々が続くこととな ったのです。また一方では、スムーズなお産 ができるよう、分娩の際の呼吸法における三 拍子自立分娩法を考案することにもなりまし た。 更に、不妊症患者さんの治療にも関わる中 で、排卵誘発剤の副作用である多胎妊娠に対 し、妊娠初期の段階で胎児数を減じ母児双方 にとって安全に出産に至らす減胎手術を、今 から25 年前の 1986 年に考案し施行、結果と してそれは日本で最初、世界で2 番目のケー スとなりました。そのことに関しては、日本 産科婦人科学会関東連合地方部会において発 表することとなりましたが、私は日本産婦人 科医会(旧日母)や様々な方面から突如強烈 なバッシングを受けることとなったのです。 ある日突然、電話が鳴り止まず、報道陣が病 院に押し寄せ、その後も旧日母からは強い非 難を受け、病院は一時混乱状態に陥ったので す。当時私は 44 才。一日にして全く別の人 生になったかのような想像を超えた渦中に、 私は立たされることとなったのです。詳しく は私の著した書籍「減胎手術の実際」をお読 みいただければと思いますが、「多胎児全部を 人工妊娠中絶することは許され、一部を助け ることは怪しからんとすることの方が間違っ ている」との信念の下、その後もおこない続 けています。そしてその数は今や920 例にな らんとし、この世に誕生する事の出来た子は 1,500 人を超えました。出産にまで至ること の出来たケースは94 95%であり、普通の妊 娠継続例と遜色無い所にあります。但し、そ の大部分は他の医療機関(医師)からの依頼 による症例です。25 年前には否定されたこの 方法は、国としての公な方針が出されぬまま 現在に至り、今は多くの施設で当然のごとく、 しかし共通のルールもなしに行われるように なりました。漏れ聞くところによると、成功 率が50%程度の施設もあるようです。 最近の産婦人科雑誌で、産婦人科界の重鎮 が、「近年日本における多胎妊娠が激減し欧米 の 20%余に対し 7 8%である。それは、産 婦人科界の多胎妊娠を減らすため啓蒙した努 力の賜である。」としていました。確かにその 努力はあったかも知れませんが、それよりも 多くの体外受精施設にて当たり前に減胎手術 が行われていることが、そのデータにかなり 貢献しているのではないかと考えています。 11 床からスタートした施設も、今から 15 年前に 33 床の病院へと大改修し、信州大学 医学部同窓生の吉川文彦医師を迎えて体外受 精施設も併設することとなりました。そのよ うな新しい体制下で、卵子の無い女性のため に、提供された卵子を用いての体外受精、即 ち、卵子提供による非配偶者間体外受精も開 始することとなりました。日本においては提 供精子による人工授精、即ちAID(artificial insemination with donor’s semen)が既に広 く行われていました。しかし、提供卵子によ る非配偶者間体外受精は日産婦が会告によっ て禁止したため、私は即、会告違反者として 学会から除名されることとなったのです。「精 子が許され卵子が許されないという道理は無 い」との考えの下、患者さんの声を届けるた め話し合いを求めましたがらちがあかず、法 廷闘争に入りました(現在は学会に復帰して
います)。現在に至っても学会としての禁止方 針はそのままですが、今や当施設だけでなく 他施設においても、行われだすようになりま した。 非配偶者間体外受精と併行して、子宮の無 い女性の代わりにボランティア精神の下、他 の女性に依頼夫婦の受精卵を移植して、代わ りに子どもを産んでもらうという代理出産も スタートすることとなりました。 人間社会の基本理念は相互扶助にあります。 皆さんも御存知のように、様々な社会保障制 度や税制度等は、互いが助け合うことにより 成り立つ制度です。ならば、「子どもをつくる ことの出来ない夫婦のために、ボランティア 精神の下で助け合うことは、双方の合意のも とであればあってよいだろう。今まで既に行 われて来た養子縁組制度はその最たるもの。」 との考えにより、私は非配偶者間体外受精や 代理出産を 扶助生殖医療 と位置付け、今 も行い続けています。 扶助生殖医療を施行するに当たっての必須 条件は、 必要経費以外は無償とする(いのち に関するものの売買は禁止) という、ボラン ティア精神を忘れてはならないことです。 日本における輸血は、嘗ての売血制度によ る 黄色い血 と呼ばれた、血を売って生活 する人の血液、即ち質の悪い血に頼っていた 時代がありました。しかし、米国の日本大使 であったライシャワー氏が、1964 年暴漢に襲 われ負傷した際、輸血に使った血液により輸 血後肝炎に罹患、このことがきっかけとなり、 同年ボランティア行為による献血制度が日本 に導入されました。後でも述べますが、最近 の生体間腎移植事件でも見られるように、人 間の体の部分を使う医療は、絶対にお互いに 対する愛とボランティア精神の下で成り立つ システムでなければ、必ず弊害を伴うものと 考えなければなりません。 米国や最近ではインド等で行われている配 偶子(精子や卵子)の売買(日本においても 精子の売買が行われ始めているが)や、有償 のビジネスとしての代理出産等がそのままの 形で日本に上陸すると、取り返しのつかない 結果を招くことになるでしょう。 いずれにしても代用品の効かない人間の体 の一部を用いる医療は、ボランティア精神の 下で成り立つ相互扶助と自己責任によるもの とすることを、例え供給が需要に追い付かな くとも守り通さなければならない、即ち、ビ ジネスにしてはならないと私は考えています。 それ以外にも私は、着床前診断や死後生殖 などにも関わりながら現在に至っています。 いずれにしても、私はこの自由主義国家にお いては、後述する絶対的倫理観に反すること で無いのであるならば、患者さんの求める医 療の選択権を医療者側の価値観だけで勝手に 全て奪ってしまうことは、決して許されるこ とではない、と私は考えています。 4 . 倫 理 と 法 人生を普通に生きていれば、改めて 倫理 とか 法 ということを、それ程大きく捉え ることに遭遇することはないかも知れません。 しかし、 患者さんのために を常にモットー としてアクティブに関わって来る内に、否応 無くこれ等のことを考えなければならないこ とが私に起こって来ました。 開業してから様々なことを患者さんととも に模索しながら発信してきましたが、生殖医 療における減胎手術からは倫理的なことや法 的なことが付きまとうようになりました。中 でも減胎手術が公表された時には、同じ産婦 人科医から「君の行為は倫理観の無い行為」 と断言され、私は 侮あなどられることとなったので す。「倫理観が無い」と言われた時、私はとっ さに私をそれまで育ててくれた両親や、学校 の先生方が侮辱された思いに駆られたのです。 何故かと言えば、前述した 己を律する 際 の規範となるものとしての 人としての道 を構成する倫理観や正義感を 培つちかってくれた
のは、外ならぬ両親や先生方であったからで す。「倫理観が無い」と言った本人にとっては、 それをどのように捉えていたのか知りません が、後になってその彼からも減胎手術を依頼 されることとなりました。 この減胎手術を取り巻く諸々を通じ、私は 倫理と法に関し、私のスタンスも含め、考え 方を整理する機会を得ることとなったのです。 「倫理」とは、広辞苑によると 実際道徳 の規範となる原理 と定義付けられており、 道徳と同義的に扱われています。即ち、「倫理 とは暗黙の内に常識として守るべき約束事 項」と言えるかも知れません。私はこの倫理 的考え、即ち倫理観は、絶対的倫理観と相対 的倫理観に分けられるものと考えています。 絶対的倫理観とは、時代、状況がどのよう に変化しようとも、絶対に守らなければなら ない人の道のことを言い、それには、 ①人を殺傷してはならない ②人の物を盗んではならない ③人を売買してはならない ④人を騙してはならない という4つの事項があり、これを犯す者のた めに法が存在し、当然のこと、犯した者のた めに罰則が存在するものと考えています。 又、相対的倫理観とは、価値観にも通じる 面があり、時代、状況の中で変化して行く要 素を多分に持っています。例えば卑近な例と して、「結婚前に妊娠するなんて、なんとふし だらな」と言われ、「だから中絶してやり直し なさい」と親に言われたのでと、中絶を求め て来た患者さんが居ました。即ち、嘗ては「結 婚するまでは妊娠するようなことはしない」 というのが倫理観としてあったのです。それ が今や、妊娠して来院する初産婦さんの半分 近くの方が途中で苗字が変わっていることか らすると、その方達は妊娠してから結婚され ていることとなります。このような結婚前の 妊娠を奨励はしていませんが、中絶の道を選 ばずにそのまま出産に至らせる若夫婦やその 親達の方がどんなにか倫理的に真っ当である ことでしょう。そのように相対的倫理観(価 値観)は時代と共に変わって行く可能性を持 っているのです。しかしこの相対的倫理観が、 時代、状況の変化の中で、絶対的倫理観のご とく扱われ、それに伴い法律も作られ、罰せ られてしまうこともあり得るわけです。 しかし、たとえこのように倫理観を絶対的 倫理観と相対的倫理観に分けたとしても、矛 盾が生ずる場合もあるのです。その例として 人工妊娠中絶や私がその範疇に入ると見做し ている減胎手術について考えてみましょう。 人間としての存在を妊娠何週からにするかと いうこと以前に、生命の尊厳からすればこれ らの方法は絶対的倫理観の①の「人を殺傷し てはならない」に抵触するわけです。しかし、 「胎児を立てれば母体が立たず、母体を立て れば胎児が立たず」というジレンマの結果、 心を鬼にし選択し人工妊娠中絶という行為を 行うわけで、これは飽く迄も人間が生きて行 く中で、都合上一時的に法律上認めているに 過ぎないわけです。例え法律上認めたとして も、このことはいのちを絶つことで、絶対的 倫理観に反する行為であることには変わりあ りません。多くの人達は法律で認められると、 人間としての絶対的倫理観もクリアし、自分 達にとっての当然の権利のように考えがちで す。しかし、法の全てを終始絶対視すること はこのような間違った考え方を持つことにも なるのです。 ここで法そのものについて考えてみようと 思います。私達日本人は法治国家の一員です から、当然法は守らなければならないと思い ます。しかし、法は本来国民の幸せのために 人間によって作られたもので、その法を時代 の流れの中で時代にあった形で国民の幸せを 守るものに、私達は変える権利があると同時 に、変えていく義務も持っているのです。 にもかかわらず、一旦法が出来てしまうと その法を絶対視し、国民の幸せを奪うことが 出て来ても、平気で状況を無視し、法を守る ことに専念してしまう場合があるのです。 その典型的なケースが、ハンセン病の患者 さんを苦しめた癩予防法(1931 年制定)であ
り、戦後になっても片仮名書きに書き直し、 差別内容を新たに加えた形で再スタートした ライ予防法(1953 年制定)でありました。ハ ンセン病は嘗ては遺伝するとも考えられ、隔 離や根絶のための強制的人工妊娠中絶も当然 のごとく行われたのです。後になってライ菌 による感染症と分かり、治療法も確立したに も関わらず、その後もその法は日本において 生き続けていました。沖縄における研修医時 代において、ハンセン病患者さんの妊娠に対 する強制的人工妊娠中絶に、仕事の流れの中 で患者さんのためにという理由から、私も知 らずに関わることとなったのです。それは 1971 年のことでした。そのライ予防法がやっ と廃止されたのはその時から25 年後の 1996 年4 月のこと。この人権を無視した法律のた めに数多くの方々が理由無き差別と許し難き 虐待という人権侵害を受けて来たのです。 1949 年頃にはハンセン病の治療薬の存在が 日本の学会でも知らされ、もはやこの法律が 必要も無くなったはずなのに、立法府の怠慢 によりその後も約半世紀も残り続け、社会全 体に及ぼした影響は多大なものがあり、今も その患者さん達は苦しみの延長線上にあるこ とを、私達は決して忘れてはならないのです。 その法の立法に当たっては、一部の高位なる 医学者が関わり、その法を作ったことが結果 的には正に死刑にも相当する犯罪行為であっ たにも拘わらず、遡って咎められることもな く、廃止をした時の政治家が頭を下げるだけ で済んでしまったことを思う時、立法に関わ る人達(この場合は医学者であったのですが)、 ことあれば犯罪者にもなり得る覚悟を持って 立法に臨むべきであると、強く思わざるを得 ません。それと同じことを様々な 決まり に関しても、そのような覚悟なくして行って はならないと思うのです。しかし、その覚悟 無く、また当事者の状況をきちんと知る努力 もせずに、多くの方々の人生の選択肢を、奪 っている人達が居ることも私達は決して忘れ てはならないと思います。 前述したごとく既に提供精子による妊娠が 可能とされ、体外受精技術によって提供卵子 による妊娠(非配偶者間体外受精)も可能と なり、やっと精子と卵子が技術面でも対等の 関係になったというのに、日産婦という医師 集団が独自の価値観で、適応患者さんから結 果的に選択権を奪い続けています。しかし、 私だけでなく、JISART という産婦人科医集 団が独自の判断で、非配偶者間体外受精を開 始しており、日産婦は半ば公認状態になって 来ました。 患者さんにとって、時代とニーズに即した 治療の選択肢が増え出したことは、大変喜ば しいことですが、これまでの日産婦の患者さ んへの対応への反省、そしてこれからどう対 応していくのかを、うやむやにするのではな く、患者さんの声をきちんと聞いた上で、今 後の姿勢を示していくべき時であると考えま す。そうでなければ、日産婦は前述したよう なライ予防法の時の医学者と同じ轍を踏むこ とになってしまうでしょう。 最近、色々の分野において何かにつけて倫 理という言葉を用い、自分達の行動を規制し ようとする傾向がありますが、それ等のほと んどは価値観とイコールとも言える相対的倫 理観の範疇にあると言っても良いでしょう。 医療倫理も正にその範疇にあり、その倫理観 が時としては医科学の進歩を妨げる場合も出 て来るようになりました。このような問題が 起こる度に、私が高校時代に「君達は自由と いう不自由を悟れ」と訓辞してくださった、 今は亡き岡田甫校長のことを思い出すのです。 5 . 医 師 は 奢 り 高 ぶ る 事 な か れ 1)医師とは、医師の裁量とは 私は医学生時代を含め、「医師とは、医師の 裁量とは、斯あるべき」というようなことを、 一度も言われたことはありませんでした。も しかしたら、先輩達の背中を見ていれば、自 ずと理解されていたかも知れませんが。 前述したごとく沖縄における米国人のティ ーチングスタッフから受けた、医師としての あるべきスタンスの上に、私は 49 年間の医
師に関する人生を振り返る中で、以下のごと く、「医師とは、医師の裁量とは」に関し考え るに至りました。 「 医 師 は 患 者 さ ん の た め に あ り 、医 療 は 国 民 の た め に あ る 」 という大原則のもと、 「 医 師 」と は 自 ら は 博 愛 心 、正 義 感 、生 命 力( 体 力 、精 神 力 )を 兼 ね 備 え 、時 と し て 己 を も 顧 み ず し て 傷 病 に 立 ち 向 か う 医 療 の 専 門 家 であり、医師は与えられた職務 に対する、この基本精神を忘れてはならない。 「 医 師 の 裁 量 」と は 医 師 が 最 善 の 技 量 の 下 に 、目 の 前 の 患 者 さ ん の た め に よ り 良 い 医 療 を 、 責 任 を 持 っ て 全 う す る 権 利 と 義 務 であり、医師は与えられたその重責を忘 れてはならない。 釈迦に説法となるかも知れませんが、敢え てここで注釈を入れることとします。 そもそも博愛心の中の愛とは、相手を大切 に思い遣る心 であり、正義感とは、 お天道 様に恥じない心 のことであります。過日も 憎むべき許し難き事件が報道されました。そ れというのも、医者である犯人が自らの命を 永らえるために、病院を騙し、暴力団を介し て 21 歳の男性から生体間の腎臓移植をした とのことでした。犯人が医療行為に直接関わ ったわけではないものの、医師である前に一 人の人間としてあるまじき行為の出来事でし た。 また、生命力としての体力、精神力を医師 としての必要事項に入れたのは、患者さんを 救うために傷病に立ち向かうだけの体力、生 命力を己が持ち合わせていなければ、患者さ んの信頼には到底報いられないからです。医 師になるために、机に向かっての勉強はもち ろん必要なのですが、実際に臨床の医師にな ったとたん、まさに体力・精神力勝負の世界 に突入するのです。 更に、「時として己をも顧みずして」という 言葉も入れました。医師が患者さんに関わる 時、例えばの話ですが、もしかしたら患者さ んがビールス性肝炎等に罹患しているかも知 れません。そのことが最初から分かっていれ ば、当然、防禦しながら治療に関わるわけで すが、救急の際や不慮の事故の際には、充分 防禦することが出来ずに関わった医師が感染 する可能性は充分考えられるのです。以前は、 医師が手術中に肝炎ビールスに感染、激症肝 炎にて亡くなられたとの話があちこちで聞か れました。これも昔の話になりますが、私が インターン時代、救急室に駆け込んで来たと 同時位に、ストレッチャーの上で出産したケ ースに関わり、赤ちゃんを素手で取り上げた ことがありました。そのケースは妊娠中に御 主人が外で遊んだ結果、梅毒に感染、奥さん も罹患、それによる赤ちゃんの死産であった のです。感染能力の高いケースでしたが、私 も含め、関わった者達は幸運なことに誰一人 も梅毒に感染せずに済んだのです。医師は日 常このように様々な感染症の患者さんの診察 や手術、更には危険な場に関わる機会は数限 りありません。医師を含む医療者は、その危 険性を常に持ちつつ仕事をしているのです。 東日本大震災の中、日頃からろくな手当も 受けていない多くの消防士さんが、住民避難 の先頭に立ち、殉職なされたことが報道され ていました。それは「消防士としての心の底 から沸き出す 使命感 が、自らを顧みずし て行動に出た結果」という内容の文章が綴ら れていました。医師も時としてそのような立 場に立たされるのです。 某る時、己を律するために、「捨己尽仁」と いう言葉を書いて私の診察室に飾っておいた 時がありました。それは字のごとく、「己を捨 て仁に尽くす」という意味でした。「医は仁術 なり」という言葉がありますが、この言葉に 接し、その言葉が胸に残り続ける切っ掛けと なったのは、学生時代に学んだ、石原忍著「眼 科学」の教科書の巻頭言の中に記されていた からかも知れません。「仁」の字を改めて広辞
苑から 繙ひもといてみると、「いつくしみ。思いや り。特に孔子が提唱した道徳観念。礼に基づ く自己抑制と他者への思いやり。」となってい ました。医療保険制度が確立すると共に、「医 は仁術ではなく算術である」と皮肉られて久 しくなりますが、やはり医は仁術であり続け なければならないと思います。 消防士の持つ 使命感 と同じように、医 師の持つ 仁術 が、人間の本能とも言える、 困っているひとを見たら何はさておき 放っ ておけない という気持ちとイコールである ことに、私は最近気が付いたのです。 医師はそのような基本精神の下、そして医 師の裁量の下、医術を行うわけですが、最後 の決断、即ち、診断、治療を行うのは医師で ある自分そのひとなのです。例え、多くのひ とと相談したり意見を取り入れたとしても、 最後に決断するのは自分であり、その結果に 対する責任は医師そのものにあることを常に 忘れてはならないのです。 最近は減っては来ているものの、減胎手術 に来院する患者さんの内、2 割近くが紹介状 をもらえずに来院しています。不妊治療にお いて多胎の頻度を減らすことは出来ても、皆 無にすることは不可能と断言しても良いでし ょう。担当医師も好んで多胎妊娠をさせてい るわけではありませんが、患者さんの望まな い多胎妊娠であったならば、その後の対応に 関する責任(道義的な責任であるかも知れま せんが)、その責任無くして不妊治療をしては ならないと思うのです。最近もあったケース ですが、相変わらず減胎手術に対する公な方 針が出されていないため、「多胎妊娠になった のはあなたが妊娠を望んだ結果なんだ。減胎 手術なんてとんでもない。」と言って、妊娠継 続を強要され総合病院に紹介されるも、病院 側は型通り。泣く泣く当院に相談に来た患者 さんが居ました。どう考えても多胎妊娠をそ のまま継続し、出産・子育てをして行くこと が不可能に近い環境にある御夫妻でした。当 方としては患者さんの立場を考慮して、減胎 手術をお引き受けさせて頂くこととなりまし た。しかし、本来ならば親身になって対応す べきはずの元々の担当医のこのような決断と 責任の取り方は如何なるものかと思うのです。 ここで、 医師の責任 そして 権利と義務 に関しての一つのエピソードをお話したいと 思います。 一般的に医師法にてカルテの保存義務は 5 年間とされています。しかし、私は開業以来 の35 年分の全てのカルテを保存しています。 特に分娩と手術、その外の入院患者さんに関 するカルテは製本して、何時でも探し出せる ようにしています。何故かと言えば、 カルテ は患者さんとの日記のようなもの。医師と患 者さんとの生きて来た 証 あかし だと思うからです。 そのことが旧ミドリ十字(現・田辺三菱製薬) 製のフィブリノーゲン(血液製剤による止血 剤)によるC 型肝炎事件の際に大いに役に立 つこととなりました。今から 20 数年前、ま だ C 型肝炎ビールスが発見されていない頃、 フィブリノーゲンに含まれていたC 型肝炎ビ ールスによってのC 型肝炎が日本中に広まり、 当院にても出産にて出血した 20 人の患者さ んにフィブリノーゲンを使用、9 人の方が C 型肝炎に感染してしまいました。しかし、そ の方々の詳細が残っていたため、結局、国と 製薬会社への訴訟の際の原告団に証拠のカル テとともに即刻患者さん方は加わって頂くこ とが出来たのです。 使用当時、肝炎症状が使用患者さんに発症、 旧知の富士見高原病院の井上院長と共にフィ ブリノーゲンに原因ありとして旧ミドリ十字 と接点を取ったのですが、その当時は「そち らの病院だけのこと」と体よく丸め込まれ、 若干の患者さんへの見舞金で煙にまかれてし まいましたが、その後何年も経て、全国的な 訴訟へと発展した際、保管義務の過ぎていた カルテが、被害者の患者さんの状況を救うこ とになったのです。多くの病院では治療の証 拠がないため患者さんが訴訟に加われない、 という事態が起こることにもなりました。
最近の薬を処方する際の注意書き、特に 妊 婦・授乳婦への投与 においては、「妊娠中及 び授乳中の婦人への投与に関する安全性は確 立していないので、妊婦又は妊娠している可 能性のある婦人及び授乳中の婦人には、治療 上の有益性が危険性を上まわると判断される 場合にのみ投与すること。」となっており、使 用における責任は医師に負わされています。 医師は患者さんを治療する立場にあり、傷病 を治すために薬を使わなければなりません。 言い方は悪いのですが、使用責任は医師に課 せられ、何かあれば患者さんは被害者となる のです。「最近は患者が強くなって」というよ うな言葉を医師の間で聞きますが、しかし最 後まで医師は患者さんのためにあり続ける努 力を忘れてはならないと思います。原告団に 加わった9 人の内の一人は、その方のために と私が弁護士を立てて旧ミドリ十字と交渉し ている最中、別の弁護士を立てて、私と旧ミ ドリ十字を訴えて来た方でした。当然、私に は否はなかったのですが、そうは言ってもそ の方も被害者であることに変わりありません でした。些かショックでしたが、例えどのよ うな立場に医師は立たされようとも、患者さ んの立場に立って是々非々で関わること、そ れが医師としての責任であり義務であると思 うのです。 いずれにしても、前記のごとくまとめた医 師としてのありかたを、私は残された医師人 生の座右の銘として、常に噛み締めながら生 きて行きたいと考えています。 2)医師も元を質せば只のひと 私は、1997 年 10 月に「母ちゃんの大八車」 という本を出版しました。この本は、私が10 歳頃の母との想い出を綴ったものです。実は 減胎手術が公表されたと同時に、良きに付け 悪しきに付け、私はマスコミの渦中に放り出 されてしまったのです。折しも近代文藝社よ り 減胎手術の実際 という本を 1998 年 3 月には出版することにもなっていました。こ のような諸々の事象に当り、根津八紘という 私の赤裸々な原点を先ず晒しておくべきと私 は考えての本の出版でした。この本の中には、 小学5 年生まで私が寝小便をしていたこと等、 様々なことが綴られています。 私の友人に、高木常吉さんという大工さん がいます。彼がある時話の中で、「先生も元を 質せば只のひとだからね」と、悪い意味では なく言ってくれたことがありました。そうな んです、私は医者である前に 只のひと な んです。 最近は、先生と呼ばれずに「医者の奴が、 云々 うんぬん 」と言われることがあると、医者同士の 会話の中で溢 こぼ す者が居ます。そうは言っても 医者に対し 先生 とか お医者さん と敬 意を表して下さる方が今でも多いのではない でしょうか。そこで、医者が何故敬意を表し て頂けるのか、何故罵倒されなければならな いのか、私なりに考えてみました。 先ず初めに、敬意を表して頂ける理由につ いて患者サイドに立って考えてみました。そ れには、次の3 つの事項があるのではないか と思います。 1 番目は、医療知識と技術により、人の生 命を左右する傷病に関わり、患者の救命に尽 力してくれる人だから。 2 番目は、寝食を二の次として、病んでい る患者に関わってくれる人だから。 3 番目は、医者は偉い人だから。 ここで、1 と 2 はさて置き、3 番目の理由 で、医者である自分が「敬意を以もって尊敬に値 する人間であろうか」と考えて見ました。す るとどうも「元を質せば只のひと」の上に、 医学部6 年間を経て医師国家試験に合格、さ らに医師としての研鑽を積んで来ただけでし かあり得ない自分であることを悟ることとな ったのです。確かにそこまでに至る努力は評 価に値するかも知れませんが、その多少はあ るとしても、それぞれの職種の方達も、その 道の研鑽を積んで来ておられるわけです。そ のような医者以外の方々から、 先生 、 お医
者さん と敬意を表して頂くためには、3 番 目の如く錯覚してそれに胡座あ ぐ らをかくのではな く、1 番、2 番の事項にお応え出来るよう、 常に努力し続けなければならない、そうでな ければ医者は 先生 、 お医者さん と呼ば れてはならないと思うに至ったのです。 次に、何故罵倒されなければならないのか、 その理由について患者サイドから考えてみま した。それには次の3 つの事項があるのでは ないかと思います。 1 番目は前述した敬意を表するに値する 1,2 の事項に忠実でないから 2 番目は医者という名前の上に胡坐をかき、 威張っているから 3 番目は保険医療等を悪用したり、医師の 特権を乱用して私腹を肥やし、又、人に危害 を加えているから 以上、1 番、2 番も残念ですが、3 番目に至 っては書いている私自身、書きたくない事項 の言葉であります。 医師は権威や権力を持っていると、一見優 秀な医師であるかの如く患者さんから見られ 扱われることがあります。しかし、権威や権 力で傷病を治すことは不可能です。絶え間無 い研鑽と努力によって本当の医師の実力は発 揮され、多くの人々は結局のところそれに敬 意を表するのだと思うのです。 指導的立場に立つと偉い人間になったかの ごとく振る舞ってしまう、このような人間の 弱さというものは、医師の世界だけでなくど んな分野においても生じることですが、やは り自分の立場が何のためにあるか、というこ とを常に考え、戒める必要があるのだと思う のです。また、他者からの意見で、少しでも 思い当たるところがあれば改めなければなら ないことと思います。 医者の世界だけにしか通じないような考え 方も往々にしてあり、もしその考え方が患者 さんに不利益をもたらしているようであるな らば、そのような考え方はやはり改められな ければなりません。本日の皆さんの中から、 医師への道を進まれる方が沢山出ることを期 待すると同時に、進まれるようになった折に は、是非共フレッシュな捉え方で医者の世界 でしか成り立たない問題ある考え方を指摘し、 社会の中で成立する医療に改める努力を忘れ ないで欲しいと思います。そのように身内の 中から改革して行くことが、 医者の奴 と罵 倒されないことにもなるのです。 何事にも通ずるかも知れませんが、迷った り、悩んだり、何か問題が起きた時には、そ の部分だけで解決しようとするのではなく、 常にその原点に戻って考え解決する必要があ るのではないかと、私は常に考えています。 医師にとっての原点は究極のところ、「医師 も元を質せば只のひと」「医者は患者さんのた めにあり、医療は国民のためにある」であり、 いつもこの原点を絶対に忘れずに 医の道 を歩むべきものと思います。 6 .コ ン ビ ニ エ ン ス ス ト ア 化 し つ つ あ る 医 療 現 場 先ず、東日本大震災に遭遇された皆さんに 心より御見舞い申し上げます。そのように申 し上げた口の乾かぬ間に、「此の度の震災を通 じ、今までの日本人を振り返る時、『自由とい う名の下に奔放化していた、即ち節度を無く して生きて来た』ということを私達は自認し、 反省する機会を得た」と述べてしまうことは、 被災された皆さんに対し、大変失礼なことと なってしまうことかも知れません。しかし、 失礼を顧みず敢えて言わなければならないこ とを、災害後の被災しなかった私達は自分達 の生活を振り返りながらつくづく感じなけれ ばいけないと思うのです。 コンビニエンスストアが 24 時間開くよう になり、何時でも何でも手に入り、前もって 準備をせずとも生きていけるようになったこ とは、私達の生活を、ある面では豊かにして くれたかも知れません。しかし、そのことが コンビニエンスストアが可動しなくなったら、 生きていけない人間も作ってしまったのです。 そのような考え方が、医療機関にも適応され
るようになってしまいました。中心的役割を 果たすべき病院には、救急体制が 24 時間整 っているようにすることは当然かも知れませ ん。しかし、その救急外来を、最近は節度も 無く利用する患者さんが増えて来ました。人 間は通常夜間は眠るようになっています。し かし、必要も無く眠らない人間が増えて来て、 昼間の医療機関を利用するようなつもりで救 急外来を利用するため、本当に救急対応を必 要とする患者さんが利用出来なくなっている 事態が起きて来ているのです。 当院にも、すでに朝から、不正出血がある、 又は熱があるにも関わらず、診察時間にでは なく時間外や夜間になってから、自分の勝手 な都合に合わせて来院する方が多くなって来 ました。一方、ある不妊治療で通ってお子さ んを授かった患者さんが、今度は自然に妊娠 し、もうこれ以上産むつもりは無いからと人 工妊娠中絶を求めて来る、それも当然の権利 のごとく考えて来院する方も出て来ました。 「自由という不自由」の意味する、己を律 する心を失ってしまった多くの日本人。失礼 な言い方をして申し訳ありませんが、私の話 を聞いておられる皆さんの中にも、少なから ず存在しているのではないでしょうか。それ は皆さんが悪いのではありません。そのよう な社会体制が作られ、それが当然と考え、そ の中で生きて来られた若い人達にとっては、 ある面では現在のような超便利社会において は被害者的立場に置かれているのかも知れま せん。 そのような皆さんが、前述した「医師とは、 医師の裁量とは」という内容の中に身を置く ことは、非常に大変なことになるかも知れま せん。しかし、今回の震災を通じ、日本人が 本当の意味で反省し、軌道修正しない限り、 自分達で自分達の首を絞めることとなってし まうのです。ある面では仕事上、人の上に立 つ立場に置かれる医師は、自ら進んで「医師 とは、医師の裁量とは」を遂行し続ける努力 を、例え何時の時代になっても忘れてはなら ないと思います。そうしない限り、「医者の奴」 と益々呼ばれてしまうことになるでしょう。 それと同時に、以下の現実に関しても医師 は社会に向けて啓蒙すべく、発信し続けなけ ればならないと思います。それは、全ての傷 病に対し、医師は救命し治癒させ得るわけで はないことです。どんなに一所懸命関わろう とも、救命したり治癒させたりし得ないケー スや場合もあるからです。しかし、患者サイ ドからすると、何故、どうして、というレベ ルから担当医を訴えるような場合にまで発展 するかも知れません。そのような場合、医師 は状況を充分説明し、納得して頂く努力を惜 しんではならないのです。そして、もし医療 サイドに不手際があったのであるならば、お 詫びしお許しを頂く努力をしなければなりま せん。それでも御納得頂けなければ、法にお 任せするより仕方がないでしょう。しかし、 医師と患者さんとの関係が、そのような結末 を迎えることは、双方にとって非常に悲しむ べきことであります。何時だったか忘れてし まいましたが、「医者は患者に御免なさいと言 ってはならない。言えば医者が非を認めたと 見做され、患者から訴えられる」と、ある先 輩が言っていたことがありました。しかし、 医者に例え非が無くても、結果が良くなかっ た場合は、「最善を尽しました。けれどもこん な結果となってしまい御免なさい」と言うこ とは、人間としての礼儀ではないかと思いま す。況して医者に非があれば、有りの儘をお 話し、お許しを乞い、それなりの償いをする ことは当然のことと思います。私は前述した ごとく、インターン時代における過失行為の 際にティーチングスタッフから受けた教えを、 いつも思い出しながら患者さんと関わって来 ました。どのような人間でも、間違いを起す ことは有り得るのです。ごまかして逃げる努 力をすることよりも、二度と間違いを起さな いように努力することの方がどんなにか真っ 当な道か、言うまでも無いことです。 しかし間違いではないけれども、その環境 や医療体制(設備や人的面等)では、対応し 切れない場合もあるのです。その代表的ケー
スが福島県の大野病院の場合でした。癒着胎 盤(胎盤組織が子宮筋層に食い込み、剥離出 来ず、剥離すると血管が剥き出しになり、止 血が不可能になる場合がある)のため、限ら れたスタッフと体制の中で対応し切れず、結 局死に至ったケースに対し、担当産婦人科医 が後に犯罪者扱いされ、逮捕されてしまった のです。亡くなられた患者さんには本当に申 し訳ないのですが、医師が努力しても救命し 得なかった場合、刑事事件として起訴されて しまうような日本の法体制は、即刻改めるべ きです。一所懸命努力しても、何時自分が犯 罪者にされてしまうか分からないのであれば、 医師は真剣に対応できなくなり、結局、この ような患者さんはタライ回しにされ、最悪の 運命に立たされてしまうことは自明の理なの です。当然のこと、このケースに関する担当 医は無罪となりました。 このような話とは全く別のレベルの話です が、罵倒されるに値する悪徳医に対しては、 当然のこと法の裁きの下に置くと共に、必要 に応じ医師免許を剥奪すべきかも知れません。 どのような世界においても悪人はいるでしょ うが、命を託してくださる患者さんに対する 信用を裏切る行為は、何にも増して許せるこ とではありません。また、このような医師ほ ど、 医師の裁量 としての特権に身を隠し、 それを活用することを憚らないのです。その ような己を律することを忘れた一部の医師に よって、多くの善良な医師の上に不信感が及 んでしまうこと、その責任の重大さを私達医 師は忘れてはならないのです。 私自身の今までの医師としての人生を振り 返る時、患者さんから全てに亙り合格点を頂 けるような内容ばかりではありませんでした。 今の私の技術ならば、又、進歩した今の医療 技術なら、その患者さんを何とかし得たかも 知れません。又、今の私の技術でも、又、今 の医療技術を駆使し得たとしても、結局その 患者さんを救命し得なかったかも知れません。 患者さんを完治し得なかったり救命し得なか った時、何度か医師を辞めようかと思いまし た。しかしその都度、「私が医師を辞めても何 にもならない。それよりも、医師をやり続け、 少しでも病んでいるひとのお役に立つことが、 私の患者さんに対する償いであり務めであ る」と考え直し、その都度もっともっと良い 医師になろう!と歯を食いしばって頑張って きました。 最近、患者さんを患者様と呼ぶ医療施設が 出て来ました。どうも役人により出された通 達に従って、医療者が患者さんに対し患者様、 誰々様と呼ぶようになったとのことです。患 者さんを「診てやる」類に扱って来た医療者 には、今までの償いで患者さんを様呼ばわり する必要があるのかも知れません。しかし、 医療者と患者さんとが対等な関係の下、お互 いの立場を尊重しあって来ている医療施設に おいても、敢えて患者様と様呼ばわりしなけ ればならないとするならば、もしかしたら「医 療を単なる接客業にする」という、お役人の 目論見も く ろ みがあってのことでしょうか。私はそし て私の施設では今まで通り、そしてこれから も患者さん、誰々さんとお呼びしながら、医 療者として精一杯患者さんのために貢献して 行くつもりです。 いずれにしても、患者さんが医療機関を24 時間気儘に利用出来るコンビニエンスストア 化したり、医師がその裁量を悪用し、医療を 単なる商売の如く扱うようになれば、患者さ んも医師も医療全てが、自殺行為をするに等 しいこととなるでしょう。 最近の医療は経営無くして成り立たな い ということが言われています。嘗ての大 学も含む国立病院ですら自主運営が課される ようになり、そこにおける経営は厳しいもの があることを見聞きしています。当然、私立 の医院や病院においても、経営を無視しては 成り立ちません。しかし、最初から商売とし て医業を考えることは、患者さんを商品と見 做し利益追求に終始することとなり、本来の 医師の役割を大きく外すこととなってしまい ます。例え医業経営が苦しくとも、可能な限