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フッサールにおける「遂行我」と「対象我」

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(1)Title. フッサールにおける「遂行我」と「対象我」. Author(s). 千葉, 胤久. Citation. 東北哲学会年報, 7: 17-32. Issue Date. 1991-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/1773. Rights. 東北哲学会. Hokkaido University of Education.

(2) ●第40国東北哲学会大会研究発表論文. 胤久. フッサールにおける﹁遂行我﹂と﹁対象我﹂ 千葉 はじめに. フッサールにおいて、遂行我とほ、超越を構成する自我、つまり超越論的自我であり、対象我とは、 つまり経験的自我である。このようにフッサールにおける﹁自我﹂を大別するとき、この遂行我をいか いうことが、超越論的現象学にとっての最重要の課題であると言えよう。反省するということは、フッ 己を対象化することを意味している。したがって、遂行我の対象化が超越論的現象学にとっての最重要 言い換えることができる。本稿で扱うのほ、この遂行我の対象化という問題である。 まず第一節で、自我の対象化、あるいは対象化された自我に関するフッサールの見解の整理と再確認 節で、フッサールの考える﹁自我の対象化﹂にほ、彼自身が認めたように、或るアポリアが見出せるこ のアポリアとは、あらかじめ言っておけば、﹁究極的に反省を遂行する自我を反省することはできない ある。このことが、遂行我を反省することほできないという事態を意味するのであれば、反省を方法と て、これは自己否定的な事態である。したがって現象学は、この事態をそのままに受け止めながらも、. 17.

(3) ﹁現象学の変貌﹂が必. のかという問題への解答を探ること、これが第三節の課題である。そして最後の第. 道﹂を示さねはならない。本稿の目的ほ、フッサールの思索の跡を追いつつ、この﹁遂行我を捉える道﹂を見出すことに 18 ある。遂行我をいかにして﹁捉える﹂. 四節でほ、第三節までの考察を経ても、なお残る問題について考察し、その間題の解決のためには. 経験的自我と自然的態度における自我. 要になることに言及する。. 一対象我. われわれほ、遂行我の対象化という問題を扱うわけだが、まず最初に、この問題における﹁対象化される自我﹂とほ、い かなる自我なのかを整理しておこう。. フッサールにおいて、対象我として通常考えられているのほ、経験的自我である。﹃イデーンⅠ﹄においてフッサールほ、 次のように言う。. l. ﹁私は、− 自我である。つまり、現実的な人間であり、自然的世界のうちにあるほかの諸客観と同様に一つの実在的客. 観である。私ほ、さまざまなコギタチオを遂行し、広義においても狭義においても﹁意識諸作用﹂を遂行する﹂。. 経験的自我︵ここでほ﹁人間としての自我﹂︶は、実在的対象としての対象我である。例えば、ふだんの生活における反. 省︵自然的反省︶によって捉えられる﹁私﹂、つまり、椅子に座っている﹁私﹂、音楽を聴いている﹁私﹂、仕事をしている. について、フッサールは. ﹃危機書﹄第42節において次のような問いを立てている。. ﹁私﹂等々のことであり、また、それは役割としての自我︵生徒としての﹁私﹂など︶でもある。このような﹁人間として の自我﹂、簡単にほ﹁人間﹂. ﹁世界の還元のうちには、人間を﹁人間﹂という現象に還元することがともに含まれているが、この人間の﹁人間﹂とい. う現象への還元が、人間を超越論的主観性の自己客観化として認識せしめる⋮⋮ということほ、どうすればいっそう具体.

(4) ︵り﹂ゝ. 的に理 解 さ れ る こ と に な ろ う か ﹂ 。 この間いから明らかなのほ、﹁人間としての自我﹂は、意味的に構成されたものであり、ノエマ的相関老である、とフッ. ということである。自然的態度における自我ほ、﹁人間﹂のようにノエマ的に構成された自我なのでほなく、︵自らが﹁超. サールが考えていたということである。ここで注意すべきは、自然的態度における自我ほ﹁人間としての自我﹂ではない. 越を構成する︵超越論的︶自我﹂であることを忘却したままに構成を遂行している自我︶にはかならない。そして、﹁人間. としての自我﹂ほ、︵自己が超越論的自我であることを忘却している自然的態度における自我によって、構成された自我﹀. なのである。先の﹃危枚書﹄の言葉を補足すれ、ほ、現象学的還元によって﹁人間は、自然的態度という自己忘却における 超越論的自我の自己客観化として認識される﹂と言うことができる。. この二つの自我の区別にこだわってきたのは、われわれの追究する﹁遂行我の対象化﹂という問題が﹁人間としての自. 我はいかにして客観化されるのか﹂という問題ではないことを明らかにするためである。﹁人間としての自我﹂ほ、現象学. 的還元において﹁超越論的自我の自己客観化﹂として認識されるのではあるが、その客観化・対象化ほ、現象学的還元に. よってなされるわけでほない。現象学的還元以前に、すでに通常の自然的経験において対象化されている自我が、﹁人間と. しての自我﹂である。われわれの求めている﹁遂行我の対象化﹂の問題ほ、﹁自然的態度における自我の対象化﹂という次. 元の問題なのである。では、自然的態度における自我はどのように対象化されるのか。自然的態度における自我は、世界. に関心を持たない自我、つまり現象学的エポケーを遂行する自我によって傍観されることによって対象化されると言えよ. うっ現象学的還元において、より正確には現象学的反省において、自然的態度における自我はその匿名性を奪われ、﹁超越. 論的自我であることを忘却しっつ構成する自我﹂として対象化されるのである。つまり、自然的態度における自我ほ、現. 象学的還元において﹁遂行我﹂として対象化されている自我なのである。﹁人間としての自我﹂と﹁自然的態度における自. 19.

(5) 我﹂とは、対象化される次元が異なるということに注意することが必要であろう。﹁人間としての自我﹂ほ、日常の経験に. ︹4︶. 然的態度における自我、つまり純粋自我を内在的対象と見なして、両者を区別している。あるいは、より後期のフッサー ︵︻〇. にほ、われわれはあらゆる作用のうちに注目すべき極性を見出す。すなわち、或る面では、自我極を、もう一方の面では、. ﹁それぞれのコギトがひとつのコギタートウムを要求し、作用遂行におけるコギタートウムが純粋自我と関係がある場合. 象化される。自我極とほどのようなものかをフッサールの言葉で確認しておこう。. 合には、例え、ほ﹃イデーンⅢ﹄の﹁自我極としての純粋自我﹂の分析に見られるように、自我は自我極として把握され、. 一のものという側面からも把握されねばならない。この﹁あれこれのコギトを生き抜く同一のもの﹂として把握される場. [6ノ. サールによれは、流動的なコギトという側面からだけではなく、それが自我である限り、あれこれのコギトを生き抜く同. うに自然的態度における自我が対象化されることによって、はじめて可能になったのである。しかしまた、その自我は、フ. 識流として把握される。例えば﹃イデーソⅠ﹄に見られる﹁超越を構成する意識﹂やノエシス・ノエマの分析も、このよ. コギトという側面からほ、世界の諸事物を構成する意識の流れとして把握︵対象化︶される。つまり流動する意識生、意. 化﹂である。現象学的還元において対象化された﹁自然的態度における自我﹂ほ、﹁超越構成を遂行する﹂という流動的な. 現象学的還元において遂行される﹁自然的態度における自我の対象化﹂こそが、われわれの問題とする﹁遂行我の対象. ある、という違いが両者にほ認められるのである。. ルの術語を使えば、人間としての自我は﹁第二の超越﹂に属するのに対し、自然的態度における自我は﹁第一の超越﹂で. ︹3︶. る。このように対象化される次元の違いに応じてフッサールは、﹁人間としての自我﹂を実在的な超越的対象と見なし、自. 象学的還元において、言い換えれば超越論的経験において﹁超越構成を遂行する自我﹂として対象化される自我なのであ. おいて﹁心理学的意識作用を遂行する自我﹂として対象化される自我であるのに対して、自然的態度における自我は、現. 20.

(6) 二′﹂. 対象極︵GegenpO−︶としての客観を見出す。⋮⋮自我ほ、同じ意識流のすべての作用における機能の同一の主観である。自 我はすべての意識生の放射ないしは入射の中心である﹂。. ﹁遂行我の対象化﹂によって、以上のような事柄を記述することが可能になったわけであるが、本稿でわれわれが試みる. のは、こうした記述をより豊かにしようとすることではない。﹁遂行我の対象化﹂という問題ほ、様々な角度から考察を加. に、つまりほ現象学的反省それ自体の可能性にある。より詳しく言えは、﹁反省を遂. えることが可能であるが、ここでのわれわれの関心は、﹁遂行我の対象化﹂の結果として語り出されてきたことにあるので ほなく、﹁遂行我を対象化すること﹂. と. ﹁反省される自我﹂. 行する自我﹂と﹁反省きれる自我﹂とが同一の自我であるということはいかにして成立するのかを問うことにある。この. 間いに対するフッサールの基本姿勢ほ、次の引用文からも明らかなように、﹁反省を遂行する自我﹂. とが同一の自我であるということは、より高次の反省によって与えられるというものである。. ︹8︺. ﹁根源的なコギトそれ自身と反省され把握されたコギトとほ同じコギトなのであり、間接的に、より高次の段階の反省に. おいて、それらのコギトが絶対的に同じコギトであると把握されることは疑いえないことである﹂。. しかしながら、﹁反省を遂行する自我と反省される自我の同一性﹂が高次の反省によって見出されるという、この見解に. は大きな難点がある。それは、﹁反省を遂行する自我と反省される自我の同一性﹂を反省による確認に委ねてしまっている. という点である。﹁反省を遂行する自我と反省される自我の同一性﹂ほ、確かにより高次の反省によって確認されるだろう。. しかし、﹁後からの確認﹂である反省によって確認されるだけでは不十分なのであって、この自我の同一性ほ反省以前に成. ﹁qこ. ﹁より高次の反省を押し進めることによって、一方の純粋自我も他方の純粋自我も、. 立しているのでなければならない。﹁より高次の段階の反省において、それらのコギトが絶対的に同じコギトであると把握 されることほ疑いえない﹂、あるいは. 実は一にして同じ自我であるということが明証的になる﹂とフッサールは言うのだが、その不可疑性や明証性ほ、﹁高次の. 21.

(7) 反省を遂行する自我﹂自身には妥当しない。ここに、始めに述べたアポリアが見出されてくるのである。次の節でほ、こ. 。 遂行我の対象化という問題. のアポリアをもう少し詳しく検討し、その困難ゆえに﹁遂行我の対象化の問題﹂が突き当たる問題点を明らかにして行き. 二. 自然的態度における自我は、意識流、意識生として、あるいは自我極として対象化される、とフッサールほ考えるわけ. ︵10︶. であるが、これで﹁遂行我の対象化﹂の問題が解明されたわけでほない。ここでわれわれは、この対象化を遂行する自我、. つまり超越論的自己経験を遂行する自我は対象我となりうるのか、ということを問題にしなければならない。なぜなら、反 〓. 省哲学である現象学、厳密学たらんとする現象学であれば、超越論的自己経験をも基礎付け、批判する必要があるからで. ある。フッサールが﹁現象学的研究の第二段階﹂と呼ぶ超越論的自己経験の批判は、超越論的自己経験そのものがある種. の哲学的反省であるのだから、反省すること自体を反省することでもある。したがって現象学を実践する老ほ、この超越. 論的自己経験を遂行する自我、すなわち反省を遂行する自我をも反省しなければならないのである。それでは、超越論的. 自己経験を遂行する自我は、超越論的自己経験の批判という反省的直観において、どのようなものとして対象化されるの. であろうか。自然的態度における自我は、超越論的反省において、﹁遂行我﹂として意識流という形で対象化されていた。. それゆえ、超越論的自己経験を遂行する自我ほ、﹁意識流という流れを﹁流れ﹂として統一し構成する自我﹂として対象化. される、と予測することができよう。そこにおいて初めて、意識流を﹁流れ﹂として統一する自我への﹁徹底した還元︵反 省︶﹂が行われるわけである。. この﹁徹底した還元﹂は、超越論的自己経験という反省自体を反省することでもあるのだから、﹁遂行我として対象化さ. 22.

(8) れた自然的態度における自我﹂と﹁その対象化を遂行する超越論的自我﹂との同一性を確認する﹁高次の反省﹂を、その. 構造に関して反省することでもある。このような反省の構造を反省する﹁徹底した反省﹂は、しかしながら、﹁高次の反省. のほらむアポリアを明らかにすることになる。﹁徹底した反省﹂が明らかにしたのは、次のような事態である。﹁高次の反. 省﹂によって自我の同一性を確認することはできるとしても、その自我の同一性ほ、反省斗村村自我の同一性であって、そ. の高次の反省を遂行する自我自身ほその反省からは取り逃されている。その高次の反省を遂行する自我とそこで反省され. ている自我との同一性の確認には、さらにより高次の反省を必要とすることになり、結局ほ反省の無限背進に陥ってしま. う。反省の無限背進ということが示しているように、確かに、自我を反省によって対象化することほでき、反省を無限に. 反復することほできるであろうが、しかしその時、その反省を遂行する自我それ自身ほ、その反省の中でほ﹁対象化され. えない﹂という問題が生じているのである。﹁徹底した還元﹂のために行われた﹁徹底した反省﹂によって、かえって﹁究. 極的に反省を遂行する自我﹂ほ反省されず、対象化されえない、という結論が見出されてしまったのである。この結論が. ﹁遂行我を反省することはできない﹂という事態を意味するとすれば、これは﹁遂行我の反省﹂を目指してきた現象学にと. て自己否定的な結論であると言えよう。果たして、現象学ほこのような自己否定的な結論を甘受せねばならないのだろう. か。ここで注意すべきほ、反省が不可能なのは、﹁究極的に反省を遂行する自我﹂であって、﹁反省を遂行する自我﹂でほ. ないということである。われわれが自己を﹁反省を遂行する自我﹂として反省することほ、言うまでもなく可能であろう。. この次元での﹁反省を遂行する自我の反省﹂、つまり﹁超越論的自己経験を遂行する自我を反省すること﹂が可能であるか. らこそ、われわれほ反省の限界に直面することになったのである。反省の限界に直面することによって、﹁反省の反省﹂と. に関して語る言葉を見出すのである。. しての徹底した反省ほ、反省の可能性の条件への問いへと導かれる。そして、その間いに答えることによって、われわれ は、﹁ 究 極 的 に 反 省 を 遂 行 す る 自 我 ﹂. 23.

(9) 三. 遂行我を﹁捉える﹂ということ. ﹁語り﹂. 出すことができるのだろうか。. ﹁究極的に反省を遂行する自我﹂を、われわればどのような仕方で﹁捉える﹂ことができるのだろうか、そしてそれにつ いてどのようなことを. ﹁遂行我﹂. の反省ほ、無限に反復され. われわれほ、自己を﹁遂行我﹂として反省することほできるが、その反省を遂行している自我自身︵究極的に反省を遂. 行する自我︶ ほ、その反省においては反省されないということを見てきた。そして. という反省の限界にわれわれは直面しているのである。しかし、他方でほこの. うるけれども、その反復によって﹁遂行我﹂の反省が完結することほありえないことを確認した。﹁究極的に反省を遂行す る自我ほ反省されず、対象化されえない﹂. ﹁徹底した反省﹂. において、われわれに残されている作業は、これまで可能であった反省の可. 反省の反復可能性が、﹁究極的に反省を遂行する自我﹂の存在の仕方を﹁問われるべきもの﹂として呈示していると言える。 反省の限界を明らかにした. 能性の条件を問うことである。反省の可能性の条件への問いは、これまでほ立てられてこなかった。可能性の条件という. ものほ、限界に直面して、不可能である事例が見出されることによって、はじめて問われるものだからである。この間い. である限り、﹁反省の可能性の条件﹂を満たして. によって見出されてくる﹁反省の可能性の条件﹂ほ、﹁究極的に反省を遂行する自我﹂においても成立しているのでなけれ. いるほずである。. ばならない。﹁究極的に反省を遂行する自我﹂も﹁反省を遂行する自我﹂. まず言えるのほ、反省が可能であるためにほ、自我が自己から﹁距離﹂をとっていることが必要だということである。フッ. サールにとって、反省は自己知覚であり、自我が自己を対象として能動的に措定することにほかならない。反省ほ、自ら. の﹁眼前に﹂自己を対峠させ、対象化することである。この対象化は自我分裂を前提している。﹁反省する自我﹂と﹁反省. 24.

(10) される自我﹂とが分裂していることほ、﹁反省の反省﹂である徹底した反省において確認されるわけだが、この自我分裂は、. ﹁今の自我︵ich・jetNt︶﹂が﹁たった今の自我︵IchよOeben︶﹂に転化することであるから、︵﹁今﹂が﹁たった今﹂に転化す. ナ1し. ること︶ に基づいている。︵﹁今﹂が ﹁たった今﹂ へと転化すること︶は、第一の超越という最広義の超越を意味する﹁流 2 れ︵StrOm︶﹂とほ区別され、﹁流れること︵Strαヨen︶﹂と呼ばれる。反省ほ、﹁流れること﹂において自己を対象化するこ とである。. ﹁反省された自我と反省を遂行する自我の同一性﹂を、それ. しかし他方では、反省が可能であるということほ、﹁反省された自我と反省を遂行する自我とが同じ自我である﹂という ことをも示している。先に示したように、フッサールほこの. ら二つの自我を対象化し、それらの問の距離を後から架橋する高次の反省という同一化による確認に委ねているが、この. フッサールの主張をわれわれほ受け入れるわけにはいかない。もし、この同一性が、高次の反省による同一化に基づくと. ﹁先反省的﹂とい. したならば、﹁後から﹂反省されることによって、はじめて﹁反省される以前に遂行された反省﹂が可能になることになっ. てしまうからである。この同一性ほ反省以前に既に成立しているのでなけれはならない。この同一性ほ. ほ、絶えず根源的源泉[であり]、また同一化することによって同一なの. う特徴をもつ。反省が可能であるということは、この﹁先反省的に同一であること﹂を条件として持つのであるが、﹁先反. ﹁⋮立ち止どまっている自我︵st旨digesIch︶. 省的同一性﹂ に関してフッサールは次のように言う。. ︵13し. ではなく、根源的に合一しているもの︵ureinigsein︶として同一なのであり、最も原初的な先−存在において存在してい る⋮﹂。. に﹁立ち止どまること︵Stehen︶﹂を意味する。そして﹁立ち止どまること﹂とは、自我が常にすでに自己自身を立. ここでほ、﹁先反省的に同一であること﹂が、﹁根源的に合こと呼ばれている。﹁立ち止どまる自我﹂とは、自我が常に ﹁今﹂. 25.

(11) 一日T. ‖ ち止どまる同一なものへと﹁取り集めること︵Nusammennahm2︶﹂の結果として特徴付けることができる。﹁取り集め﹂と. は、﹁今﹂の私が自己自身を新たな﹁今﹂の私に取り集め、新たな﹁今﹂の私に成っていくことである。この﹁立ち止どま. であると言うことができる。. ること﹂が、﹁根源的に合一であること﹂にほかならない。したがって、﹁先反省的に同一であること﹂ほ自我の﹁立ち止 どまり性﹂︵St旨digkeit︶. 極的に反省を遂行する自我﹂の﹁在り方﹂と呼ぶことも、それほど不自然なことでほあるまい。シ﹂でようやくわれわれ. 我﹂においても成立していなければならない、と一一=口うことができる。そう言えるとしたら、この反省の可能性の条件を、﹁究. に反省を遂行する自我﹂が﹁反省を遂行する自我﹂である限り、この反省の可能性の条件は、﹁究極的に反省を遂行する自. ま述べた反省の可能性の条件ほ、まさに﹁反省を遂行する自我﹂において成立していなければならない。そして、﹁究極的. このようにして、反省の可能性の条件が見出されたわけであるが、ここでわれわれは次のように言うことができる。い. も呼ばれている。. あるのだから、この﹁流れつつ立ち止どまること﹂は﹁正ち止どまり流れる現在﹂︵stehend2Strαヨ2ndeGegeコW. う事態が、反省が可能であるための条件として見出されるのである。反省の遂行の﹁現場﹂に相応しい名称は﹁現在﹂で. といった表現がとられねばならない。反省の可能性の条件を遡って問うことによって、﹁流れつつ立ち止どまること﹂とい. とめた表現、例えば、﹁流れることにおいて立ち止どまること﹂、﹁流れる立ち止どまり性﹂、﹁流れつつ−立ち止どまること﹂. てなく、﹁同時に﹂成立していなければならないのであれば、反省の遂行に対しては、それら相対立する契機をひとつにま. て、この﹁流れること﹂と﹁立ち止どまること﹂は、ある時には流れ、またある時にほ立ち止どまるということでほ決し. 我の同一性の根拠として、自我が﹁今に﹂同一に立ち止どまる﹁立ち止どまり性﹂が成立していなければならない。そし. 反省の遂行にほ、一方でほ、対象化・存在老化︵Onti穿atiOn︶・時間化の根拠としての﹁流れること﹂が、他方では、自. 26.

(12) ほ、この節の冒頭に掲げた問い、つまり、﹁究極的に反省を遂行する自我﹂をどのような仕方で﹁捉える﹂ことができるの. か、そしてどのようなことを﹁語り﹂出すことができるのか、という問いに次のように答えることができる。﹁流れつつ立. へ. を. ﹁捉えている﹂. ことなのである、と。. ち止どまること﹂について語ることが、﹁究極的に反省を遂行する自我﹂について語ることなのであり、それについて語る. ﹁自我論﹂から﹁現出論﹂. ことが、﹁究極的に反省を遂行する自我﹂ 四. という両義的な事態がその. ﹁在り方﹂. として見. しかし、問題はまだ解決されてほいないと言わざるをえない。反省という方法の枠内において、以上のような仕方で、究. ﹁立ち止どまり流れる現在﹂. 極的に反省を遂行する自我に関して語ることは可能であるとしても、ここに立ち止まっているわけにほいかない。このよ うに、究極的に反省を遂行する自我に関して. ﹁在り方﹂. ︵Lebendig・. であって、理論的に構築されたものであるにすぎないという批判をまぬがれる. 出されるとしても、この究極的に反省を遂行する自我の﹁在り方﹂は反省を遂行する自我の普遍的構造であるにすぎない、 それはあくまでもカツコ付きの. ことほできないだろう。反省の可能性の条件を問うという仕方では、究極的に反省を遂行する自我の生動性. ﹁捉える﹂方途の[王示を求めている。ただ、ここで注意しておき. keit︶ほ捉えられないからである。言い換えれば、﹁流れることと立ち止どまることの統一﹂という事態は反省にもたらさ れはしないからである。. この批判ほ、究極的に反省を遂行する自我の生動性を. であり、第二の意味とほ、第. たいのは、︵究極的に反省を遂行する自我の生動性を﹁捉える﹂こと︶には、二つの意味が含まれているということである。. 第一の意味とほ、究極的に反省を遂行する自我が自己を﹁生き生きしたままに捉えること﹂. 一の意味での﹁捉えること﹂を﹁現象学を実践する老﹂が﹁生き生きしたままに捉えること﹂である。第一の意味での﹁捉. 27.

(13) えること﹂ についてほ、第一二節までの考察である程度ほ答えることができる。第一の意味での. ﹁捉えること﹂. とほ、前節. で述べられた﹁流れつつ立ち止どまること﹂、﹁先反省的同こ、あるいほ﹁根源的合一﹂にはかならない。したがって、そ. れほ﹁対象化して知ること﹂とほ区別されねはならない。﹁知る﹂という語を使えば、それは﹁対象化せずに知ること﹂で. は、自己を﹁眼前にもたらす﹂という仕方で知る自己知︵=自己知覚=. であると言わねばならないだろう。わたしが右手で左手に触れているとき、わたしの右手はわ. ﹁自己知﹂. あると言える。それでは、﹁自己を対象化せずに知ること﹂として、究極的に遂行する自我の﹁自己知﹂とはいかなる﹁知﹂. とほ別の ﹁自己知﹂. であるのか。究極的に遂行する自我の 反省︶. ほ、これら二つの対象知としての自己知. たしの左手を対象化し、意味的に構成していると言える。そしてさらに、わたしほ﹁わたしの右手が左手に触れている﹂と. ﹁自己知﹂. ﹁知﹂. ﹁捉えるこ. である。しかし、﹁気付き﹂ に. にほかならない。究極的に遂行する自我の. は、これら二つの対象知としての自己知を下から支え、可能にし. いうことをも対象化して知ることができる。究極的に遂行する自我の ﹁自己知﹂. ﹁知﹂ であり、それらを貫いて、それらにつねに居合わせている. とほ異なっている。究極的に遂行する自我の ている. ﹁自己知﹂ は、生き生きした現在の遂行のただなかでの自己自身への非主題的な﹁気付き﹂. ついてのこれ以上の積極的な言明ほ避けなけれはならない。これについての積極的な言明ほ、第二の意味での. ほいかにして可能なのか。先の批判がわれわれに求めていたのも、この間いに答. と﹂、つまり﹁現象学を実践する老﹂がこのような﹁気付き﹂を﹁生き生きしたままに捉えること﹂によって初めて可能に なるからである。. ﹁捉えること﹂. いわゆる﹁反省哲学﹂ないしほ﹁自我論的現象学﹂の圏域から離脱し、一種の変貌をとげねはならない。でほ、現象学ほ. 象﹂として反省的に把握するならば、﹁生き生きしたままに捉えること﹂にはならないからである。ここにおいて現象学は、. えることにほかならない。もはやここでほ、自己を対象化する反省に依拠するわけにはいかない。そのように自己を﹁対. でほ、第二の意味での. 28.

(14) 5 1. どのように変貌するべきなのか。この変貌を遂げた現象学の一例として、ここではK・ヘルトの論文を挙げておきたい。彼 によれは、. ﹁フッサールが彼独自の思索の道を具体的に切り開いた際の根源的洞察は、所与の仕方の現象野の発見であった。現象野 6 1. ﹁内在﹂を﹁遂行主観の内﹂と解してしまう﹁決. つまり現出するものの−現出という領分は、客観的外的世界と主観的内的世界との一デカルト主義的な二元論を始めから破 り開く或る問を形成している﹂。 7 1. しかしながら、このような根源的な洞察にもかかわらずフッサールほ. 定的な自己誤解﹂を犯している、とヘルトは言う。彼は、フッサールのこの﹁デカルト主義的自己誤解﹂を正し、﹁超越と. 内在﹂を﹁現出するものと現出﹂という図式の中で捉え直すことによって、﹁生き生きした現在﹂を﹁自我の現在﹂として. ではなく、﹁現出の現在﹂として捉え直そうとする。ここでの彼は、フッサールの自我論的傾向を棄却し、現出論ないしほ. 8. 非主観性の現象学の立場を採っている。フッサールの﹁デカルト主義的自己誤解﹂ほ、﹁反省﹂に関して言えば、﹁現象学. に則って﹁反省﹂そのものを捉え. 的反省が、デカルト主義的に自我性における究極的根拠づけの試みとして誤解されている﹂ことを意味する。したがって、. 現出論を展開するには、この反省に関する自己誤解を正すこと、つまり﹁根源的洞察﹂. 9 1. 直すことが必要となると言えよう。ヘルトによれば、本来の﹁反省﹂ほ自己を対象化することでほなく、﹁現出することを 主題化すること﹂なのである。例えば彼ほ次のように言う。. ﹁現出するものの現出の露呈﹂として捉え直すことによって、第二の. ﹁この反省ほ何よりもまず所与の仕方という現象野の露呈を可能にするという基礎的な機能を持っている﹂。 このように ﹁反省﹂を﹁現象野の露口壬﹂ないしほ. の生動性とし. 意味での﹁究極的に反省を遂行する自我を生き生きしたままに捉えること﹂という問題は、この本来の﹁反省﹂による﹁現. 象野の露呈﹂ないしほ﹁現出するものの現出の露呈﹂という問題に変貌し、自我の生動性は﹁現出の現在﹂. 29.

(15) 、 州 ﹂ 根源的現象学的洞察の方へ再び向け直す時に破棄される﹂とヘルトほ言うが、この議論での彼の狙いほ、﹁究極的に反省を. 遂行する自我﹂の追究の試みそれ自体を、フッサールの﹁デカルト主義的自己誤解﹂の産物として拒絶し、﹁究極的に反省. を遂行する自我の生動性を捉えることほいかにして可能か﹂という問いを無効とすることにあると言えよう。したがって、. ここでほ ﹁自我の生動性を捉えることはいかにして可能か﹂という問いを立てること自体不適当なことなのだが、あえて. これを問うとすれば、それに対しては﹁現出するものの現出の露呈﹂という仕方で可能となる、と答えることができよう。. ﹁遂行我の対象化﹂の追究が最後に遭遇した﹁究極的に反省を遂行する自我の生動性を捉えること﹂という問題ほ、自己. の生動性として捉え直される. 対象化としての反省を方法とする自我論的現象学によってほ解明不可能であり、現象学は自我論的現象学から現出論への. 自己修正を迫られることになる。そして、現出論において、自我の生動性が﹁現出の現在﹂. ことによって、﹁自我の生動性を捉えること﹂という問題ほ、﹁現出するものの現出の露口三﹂という問題に発展的に解消さ. れることになる。ある意味ではやほり、﹁究極的に反省を遂行する自我は反省できない﹂という事態は、現象学にとって自. の追究は、全く無意味だったわけでほない。﹁究極的に反省を遂行する自. 己否定的な事態であったと言うべきであろう。それほ、自我論的現象学からの脱却を促すという意味において、自己否定 的な事態なのである。だが、﹁遂行我の対象化﹂. 我は反省できない﹂という事態は、現象学の自己破壌を招いたわけではなく、非主観性の現象学ないしほ現出論への自己. 展開を促しているのである。したがって﹂﹁究極的に反省を遂行する自我ほ反省できない﹂という事態を明るみにもたらし. た﹁遂行我の対象化﹂の追究こそが、この自己展開の原動力であったと言うことができるからである。われわれは、﹁遂行. 現出することの次元からこそなおも解明されねはならない﹂. ︹22︺. のである。われわれの今後の課題ほ、この﹁現出することの. 我の対象化﹂の追究が促した﹁現象学の自己展開﹂を受け容れるべきであろう。ヘルトも言うように、﹁遂行老の同一性ほ. 30.

(16) 次元﹂. 3 2 1 しノ \J \J 」 ノ \J ) 121110 9 8 7 6 ). BdJll一S.票.︹以ト、Huとロ︻マ数†でHusseユianaとその巻数を示す。︶. からの解明を深めていくことにある。. H亡くl一S.−∽訟. Husseユiana. ここでは自然的態度における自我ほ、現象学的還元において初めて対象化される口我として考えられているので、純粋‖我と同義で. くg−.H亡lく一ゆN00. ある。. 二.百ご. Ms.C㌢SJNこ器芦zittiertnachHe声卜各箋軋腎G馬芸買電㌣S.芦へ邦訳H生き生きした現在﹂新出、小川、谷、斎藤訳 Hu1.S﹂コP. 已u lく﹀S﹂コN. ユ亡lく↓S﹂宗. ﹃生. ]内はヘルトによる補足。. におけるヘルトによれは、この﹁流れること﹂も﹁自我的に遂行される﹂っくg−.K.H2声卜&監督G馬簑∼去声. この自我が同時に、エポケーを遂行する自我でもある。. ebenda. Hu i一S.霊. ﹃生き生きした現在﹄. −芸の一S.N∞.︹邦訳、凹二頁以下︺. Ms一Aく耳S.ひこ苫芦zittiertnachエe−d∵ど賢妻厨裾︵尉登≡歪まS.岩戸︵邦訳、一四八頁︶。[. K.He声卜註芸風樋口嘆室喜皐SJbリ︵邦訳、一五〇頁︺ での自己の‡張に対して批判的である。. K・ヘルト、﹁フッサール以降の時間の現象学﹂︵小川・梅原訳、﹃理想﹄一九八〇年十二月号所収︶。この論文での彼ほ、以前の き生きした現在﹄. ︵16︶ K・ヘルト、前掲論文、二頁。. 31. ) 」ノ 151413 ).

(17) 20191817. K・ヘルト、前掲論文、五頁参照。 K・ヘルト、前掲論文、九頁。 K・ヘルト、前掲論文、三頁。. の一形態としての﹁感情﹂ないし﹁気分性﹂と捉え直さ. これに伴い、第一の意味での﹁生き生きとしたままに捉えること﹂、つまり﹁究極的に遂行する自我﹂の自己への﹁気付き﹂も、﹁現. ︵ちば. たねひさ・東北大学大学院文学研究科学生︺. れる。これによって、﹁気付き﹂についての積極的な二二‖明が可能になるのである。K・ヘルト、前掲論文、二ハ頁参照。. 出するものの現出すること﹂から解明されることになり、﹁現出すること﹂ K・ヘルト、前掲論文、九頁。 K・ヘルト、前掲論文、九頁。. 32.

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