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〈九州の民俗〉熊本時代の大塚磨について

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熊本時代の大塚磨について

熊本時代の大塚磨について

はじめに 筆者はこれまで明治期に撃された山陽鉄道(現在のJR山陽本線他)の経営史について研究を進めてきた。主 として経営者・株主など人の動きと関わらせながら、山陽鉄道の発展過程を調ベていくうちに大塚磨に興味を抱い た。大塚磨が関わった山陽鉄道時代の経営改革の様子については、拙稿﹁山陽鉄道会社における中上川彦次郎の経 営姿勢と社内改革﹂(交通史研究会﹃六X通史研究﹄第三九号一九九七年、五七1六九頁に所収)、西藤二郎﹁山陽 鉄道における牛場卓蔵の役割﹂(近畿大学経済学会﹃生駒経済論叢﹄第七巻第石ぢ、二00九年、一六三1一八八頁 に所収)が発表されている。また、小川功が﹁日本牛命創業者人脈と広瀬岡橋片岡らの共同投資行動1証券引 受機能の集団的発揮1﹂(作道洋太郎﹃近代大阪の企業者活動﹄思文閣出版一九九七年、第九章)において関西鉄 道.大阪鉄道の合併前の様子をまとめている。いずれの論考も大阪での実業家としての活動経営方針について言 及したものである。基本は極端な経費節減を行った経営者として捉えている。これまでのところ熊本時代の様子を 描いたものはなく、大塚磨の業績を把握するのには不十分といえる。 大塚磨の生涯を烈るには山内龍吉﹃大塚翁自叙伝幻燈画説明圭昌(一八九八午)(以下、本文では﹃幻燈画説明 室昌と記す)なる伝記を先ず見ることになろう。同書は挿絵が多く、文字は少ないものであり、経営者としての情

田泰人

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報の量と質は十分でない。また同書を利用しながら、郷士の資料・情報にょって巽した丞迷盧﹃続小国郷史﹄(一 九六五年)がある。さらに、北里惟景﹃小国郷名簿録﹄(一九00年)もあり、高本高綱氏にょって同書は二00七 年に復刻された0 これにょり不明な部分がわかるようになった。その他、熊本県立商業学校聾音編﹃創立四十周 年黒号肥後商工先達小伝﹄(一九三四年)で大塚磨の略歴か紹介されている。これらの文献を参考にはするが、 年号、役職等でところどころ誤植が見られる。その点は調査結果を盛り込みながら修正する必要があろう。 本論に入る前に、すこし本稿の執筆に至った経緯について触れておきたい筆者が山鉄の経営者につぃて研究を 始めた時にはなかったことであるが、バソコンの驚異的普及とインターネットの活用が一般イし、大概のものーつ いて調ベがつくようになった。インターネツトで﹁大塚磨﹂について契ていたところ、その末喬の河津康人氏の ブログを発見した0 そこで大塚磨についての記述があり、それを見て私なりの大塚磨淫コメントしナことがきっ かけでコンタケトを取らせていただくようになった。数午前に、直接お会いし、大塚家につぃての有益な情幸をご 教示頂いた0 そのご縁でご本家の大塚穎三氏と連絡を取らせていただく好機も得た。両氏から得た情幸もここでネ 介したいと思、つようになった。また、ブログでのコメントを見て、大塚磨に関心をお持ちの方々から連ネを頂き 情報入手のルートが広がり、二0一六年三月の小国調査にも結びつぃた 特に執筆の意思を固めたのは、河津氏から﹁大塚磨に関する資料等を熱心に収集されていた親族が亡くなって、 資料の所在.状態についてまったく分からなくなった﹂という言葉を聞いてからである。九六でさえ希少な資料 の、これ以上の散逸を防ぐために筆を執ったといっても過言ではない (二) そこで、大阪商船.山陽鉄道・その他の鉄道会社での経営者としての評価については改めてまとめるとして、本 稿では、先ず大塚磨の出生小国での生活、社会的活動県議会での発言、実業家ヘの転身過程など魚本時代の本 子について明らかにし、これまでの大塚磨の評価について再検討していたきたいまた、これまでコレクトしえ資

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熊本時代の大塚磨について 料や情報をできるだけ多く紹介していくことにする。具体的には河津氏との会談、大塚穎三氏とのメールでの連 絡、小朋査(二0一六年三月二八日)で得た有益な資料・情報を適宜盛り込み残していくようにもしたい。 一大塚磨の出生から成人まで (一)小国の﹁地域性﹂について 小国地方は阿蕪郡の北部にある。東を九重火山灸西を尾ノ岳から北西に伸びる酒呑童子山、国見山、釈迦岳一 帯の古期火山叢北を萬午山、餓石山喜市の溶岩台地であった。南に高く、北方に行くほど低下する盆地状地域で あった。、一九二七(昭和ご一)年の段階では、行政的には小国町(北小国村)、南小国町(南小国村)があり、そ れぞれ一三七・0師三六・四二駈の面積を有し、内牧町などの一部を包括する面積約三五0血、人口一八六五 全) 0人を有した。﹁天然の城郭﹂と感じさせるような地形で、﹁孤立﹂した地域であることから、住民は協同一致し、 ﹁自営の道﹂を考えていかなけれぱならなかった。祖先の勤倹力行の精神が代々受け禁れ、発展した。祖先崇拝 の美風は、善行篤志の人の事跡を歴史書としてまとめ、石碑に誤し後世に発奮するようにした。こうしたことか ら北小国村は﹁模範村﹂として内務省からの選奨を受けたのである。 例えぱ、﹃関西諸県下青年会状況取調圭旦に﹁阿鯱郡北小国村青年会﹂が紹介されている。小国の各村ごとに ﹁土月年会﹂が組織されており、早いもので一八九0午から、遅くても一八九六年には結成された。これら各村の 望月年会﹂をまとめて﹁北小国青年会﹂と称した。青年会の事業は、①勧業②教育③士木④衛生などである。 具体的には①の事業については、黒林造設の奨励桑園増殖の誘導養蚕業の奨励立毛・選稲・疎菜など各種 せいじょう,ウえ 品評会の開設、正条植・短冊形苗代・塩水選ならびに麦奴予防の励行、などが挙げられる。②の事業では、壮丁 教育の奨励に関する活動季節夜学会の実行、学術講話会の開催などがある。③の事業に関しては河川・浚漢の励

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イ (五) た。 その他﹃模範町村之現況﹄を見ると﹁熊本県北小国村婦人会の活動﹂が紹介されてる。同書では1d国につぃ ては、﹁道路の修繕もよく行き渡り、掃除もよく行届き、何人も之を見ぱ、必らず為めに驚くならん﹂とヨ・し、ナ ぜこうしたことが起きるのかというと、﹁全く村民一般の公共心、極めて盛なるにょる﹂と分析している。村の事 は全て﹁有志者﹂にって組織される﹁有志会﹂にて決めていた。特に﹁婦人﹂の勤勉さは﹁止村の特色﹂ともいわ れ、その尽力にょって﹁村治﹂において著しく実績を挙げたことも多々あった。国債の募集でもノム#に関すること は積極的に関わった。また、ある時には、稲苗の正条植えを実行するかどうかという議論が村で起こっ亢が、決め かねていたところ、婦人会が直ちにこれを﹁断行﹂すべきと述ベ、決議した。淡路から指導者を招き、これを励1 したという0 郡農会はその功績を表彰した。農事改良にも大きく貢献したのである。こうした勤勉さや行動力は村 税にも表われ、一万二000円に上ったが、誰一人滞納する者はいなかった。﹁林業﹂においては、造林一五00

つとさくさく、(六)0 -,゛、、 0

町朱ノ、植樹六00万本に及び、﹁此村の治績に屍に嘖々たるものまた宜なり﹂といわれた。こうし九美繁多い これらの話は大塚磨よりも後の世代のことである。そうした﹁地域性﹂はその時に始まったものではないやはり 何世代にも渡って受け継がれたものである。 春秋における道路の整備などを行った。④では、公衆衛生および個人衛生の発達を図る事業の企画運営をし "、 (七) (二)大塚家のルーツと大塚磨の生い立ち 大塚家のルーツと磨について見ていこう。大塚家は戦国時代の大友氏に仕えていたとされる。豊後野田に移住 し、その後肥後国小国郡黒淵に移った。その後さらに小藪に移り、代々豪農であったといわれている。第七代大 塚喜慶の時には中小姓となり、家は裕福な状態で﹁小国郷中第一の素富家﹂といわれるまでになったその子喜七

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熊本時代の大塚磨について 郎(磨の祖父)の時から家運が傾いたと伝えられている。そうした中、磨は一八三二(天保三)年四月に黒淵小藪 で生まれている。磨は幼少期から成人するまで﹁英磨﹂と呼ばれていた。父は磨英が子供の頃、六歳の時に死別 し、経済的に苦労したようである。この時の経験がのちの人生に大きく影響したのである。また、母は幼い英磨に 厳しく教育した。 教育の重要性を理解していた母は、七歳の頃に寺子屋に通わせた。師・大塚喜左衛門のもと磊み書きを学ん だ。その後算盤を学び、短期問で八算を習得したが、ある時、貸金の金利の計算を間違えたことで、母にひどく 叱られた。それについては﹃幻灯翻明室旦の中に算盤を振り上げて﹁折桜﹂する様子を描いた挿繁ある。九歳 の正且母から帳簿の整理を命じられて、八算を応用し、さらに﹁算数﹂の力を高めていった。同じ年に寺子屋・ 室原孫兵衛の門に入り、習字を学び、- 0歳で﹃大学﹄、一四歳にして﹃四声を読んだ。一五歳には市原の私塾 で学び、遠路いとわず通い、﹃五経﹄を終えた。その後農事に勉励し、家政運営にも力を尽くした。母が伊勢参 宮をする間家の切り盛りを任された。少し余裕ができると、武芸の稽古のため長本まで通ったと伝えられてい る。早起きして、道場に向かったというが、そのために足の親指を糸でくくつて寝た。見かねた祖母が英磨を起こ したともいわれた。武芸は筋が良かったのであろうか、上達は早かったようである。剣術、柔術、居合の武芸はま すます磨きがかかり、﹁師範代見﹂を命ぜられ、武家・士族の子弟に教授するまでになった。 また、小国のりーダーとして、社会的事業に取り組み、その活動は、①被災地の復盟<・再建②勧業③教育 ④交通の拡充などで、実に多岐にわたった。具体的な内容な次章で見ることにしたい。一二歳の時に﹁小国郷久住 郡代付物書見習﹂を命ぜられ、﹁年五俵﹂を下賜された。二三歳の時には、その働きが誘られ、﹁年一 0俵﹂を得 るまでになった。 大塚磨は小国のみならず、県政の場でも活動している。一八七六(明治九)午に設置された公選県民会は第一回

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を開いて、自然消滅したが、その時、初期県政のために大塚磨は奔走した。その後第一回通常県会は一八七九年 四月二五日から六月三日まで約四0日を会期として開かれた。明治工亙度の予算その他を審議した。その時の (八) 議員は四二名で、阿蕪郡からは三名が選ぱれており、大塚磨も名を連ねていた。 その後も大塚磨の県政の場での様子を確雫きる。一八八0年に再選した。翌八一午の通常県会の五月ご百の 第二次会では、県会議諸費の﹁俸給﹂﹁給与﹂について審議し、その時に大塚磨が意見している。ま九﹁庁費﹂、ヌ呂 繕費﹂についても発言している。いずれも否決されている。五月一七日の第二次会では﹁流行病予防費﹂のなかの 給与から検討した。その際、大塚磨は﹁減額﹂の提案をしたが否決された。五月二0日午前の﹁魚本師r学紡﹂の 校費について審議した。前日からの継続審雫、なかなか決定しなかったが、大塚が前日﹁消滅シタルム具本n鱈学 校費ノ旧案ヲ起シテ再議スベシ﹂と発言し、賛同者を求めたところ過半数となり、﹁再議﹂することに決しナ。さ らに午後の﹁教育系費﹂についての審議でも発言している。二四日午後の第二次会では﹁輸﹂﹁給与﹂から審詠 をはじめ、大塚が﹁委員ヲ設ケテ減額ヲナス﹂といったところ、多数の同意者があり、修正委員を設けることに なった0 その修正委員に磨が選ぱれた。一ハハニ年も活動している。大阪移住を決断したためと思われるが、それ

゛、、゛ 0 入 0 、ここ、

(十己 が最後の県議会議員生活となった。 二小国での社会的事業 (一)被災地の復圖<・再建 先に挙げた災害の復岡<・再建について取り上げる。一八六九年に小国で暴風雨、水害が起こり、大きな被害がで た0 その後大塚磨は復鯉<・再建に尽力した。その功曾対して﹁至誠の碑﹂(写真1)が設置された。それは戸ム 燈画説明室昌に挿絵も乗せられている。同碑には、次のように記されている。その復興を率先して耳り組んガの

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熊本時代の大塚磨について が 、、 電:: 写吉1 至誠の碑 大塚磨であった。同碑の裏面には、功労者の名が刻まれており、それから確雫きる。 至誠

明治二年巳己六月十三日天色墨風烈嘉日不歌到十四日午后益甚喪漲溢山岳沸

田園居家為是亡失者多矣験之所其損田三十七町五反五畝高三百石余居家百五六戸也実可仙爲

即 里正大塚氏訴之藩藩主使下大塚氏百五十石戸夫六三六六0人余上復之且藩主賜以米金若干所其給米一

旦口壮夫七合五勺老若五合矣里正合力協力自十月到翌五月其功道成矣鳴呼藩主沢主可謂大大塚氏労

亦可賞爲故伝之不朽翌表報恩之徹志北里義教君与諸有志謀需分予予不顧固晒以拙文誌爲

加藤恒右衛門荘屋大塚英磨 郡宰杉谷平七郎惣庄屋北里伝兵衛横目松崎文兵衛 明治二十三年庚寅三月再撰松影軒麻生敬書 裏面 全)交通の拡充 次に大塚磨が関わった交通に関する業績を見ていこう。 先ずは日田の舟運が挙げられる。﹁この地方(小国1引用 (士己 者)もとより古くは交通甚だ不便﹂な地域であった。そこ に舟運を通すことにょって不便な状況を打開しようとした

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のである。 大分県の日田であるが、江戸時代、代官所が置かれ、天領にもなるほど重要視された士地であった。一大中心地 域となったといわれる。隈・豆田両町は筑後川舟運にょり北部、西部吾市と交通路が開通した。仲介商業が発達 し、隈町の山田木林豆田町の草野広瀬千原、手島などの豪商が生まれた。大名貸しなどの金局蝋絞り、 酢糀、味噌醤油などの製造・販売を行った。林業を展開する者も現れ、日田林業の基礎ができたのである明

(十四)、Ⅱ、

治期には日田商人の勢いは弱まったといわれている。日田通運は重要な物流の経路手段として利用されていナの (十毛 であった。 この日田ヘの接合が小国の物流を変え、栄えさせることは想像に難くない。物流網の拡充を図り、その日田に杖 立川の舟運を通わせる計画を立てた。しかし、この計画は一八三二(文化一 0)年に実施されており、成功しな かったという。また開削に向けての不安材料には、﹁洪水﹂があった。一八七0年に再度計画を練り、御郡代杉谷 平八郎等に陳情した。大塚は関係者に折衝し、実現に向け奔走した。船賃の調査を行い運営可台と判断しナネ 密な計画を立て進めながらも、﹁舟税徴収不可﹂と変更され、事業の継続は困難となりつぃに廃止された。その後 (士ハ) 賠償金まで支払わされる羽目になった。 横断道路の建設も企図した。小国を通過しながら熊本・大分を横断する道路である。阿蘇.玖珠.日田との交通 路形成は比較的簡単に進められるが、﹁大幹線﹂となるとそう簡単にはいかず、早くに取り組む必要があった。ま た日田舟運の継続が難しくなると、それに代わるものを探さなけれぱならなかった。一八七八年二月九日、権令. 冨岡敬明に熊本大分間道路改修願を北里義正北里唯義が提出した。発案者は大塚磨であった。日田杖立温泉道路 や他の道路の開通も同時並行で進めた。また小国郡内での事前整備の改修も図られ、四五小区連合会議が何度か属 かれた。議長寄付誘方に大塚磨が就いた。大塚の寄付額は三三0円と突出しており、二番目に多い者の一 0倍以

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熊本時代の大塚磨について 上であった。各方面との折衝を済ませ、小国では一八八0午二月二二日に着工した。遅れる地域がありながらも完 (十七) 成した。 また、小国には﹁道路製碑﹂(写真3 が設置され、そこに大塚磨の貢献が記されている。その内容は次の通り である。 モもそも

①、、

小藪仁田切間ノ道路ハ従来狭隣ナルガ上阪路ノ困難モアリシ為通行甚不便ニシテ世運ノ進歩二伴ワズ地方ノ人 抑交通ノ便否ガ地方ノ発達二大ナル影響ヲ及ボスモノナルコトハ東西古今ノ事跡二微シテ其威一ナリ爰二

つと 2 1

士ハ是ガ開削ヲ希望セルコト久シカリシガ夙二安政年間大塚磨翁ノ創設二成りテ数十午来幾多ノ公共事業二尽 クシ来レル義金ヲ継承経営セル人人ハ此ノ交通ノ難ヲ排除シ地方ノ利益ヲ計ランコトヲ企テ乃委員トシテ松崎 栄次、渡辺等、佐藤寿一郎三氏ヲ選ビテ、経理ヲ嘱シ、松崎友次郎氏会計ノ任二当リ総額壱千四百参拾円ノ金ヲ

、1

費シ大塚恵大塚惟明渡辺等河津友喜安武貞義ノ諸氏ハ多大ノ厚意ヲ寄セラレ斯ケテ種々ノ困難ヲ経テ大正四年 五月功ヲ竣ヘ延長一千余聞ノ道路ハ自由二車馬ノ交通ヲ得ルニ至リ長へテ地方ヲ潤セルハ是実二此地ノ一美談ト シテ後生二伝フベケ地方ノ人士ハ村里ノ振興卜共モ永ケヲ遺徳ヲ銘スベキナリト矣 大正五年十二月五日本田行蔵並書 この刻字から、小藪の道路開設は、①小藪・仁田切間の道路は狭隣であったことに端を発する、②安政年間に開 始された、③事業継承が行われた、④実子の惟明が関わった、ことが確雫きる。磨が大阪に移住してから関わる 企業は、大阪商船、山陽鉄道南和鉄道児島鉄道など交通に関するものが多い。生涯通じて交通の発展に尽力す るのであった。交通の整備・拡充は地域の経済・産業の発展に寄与することをよく理解していた。小国の閉された ここ

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写真2 道路記念碑 環境を知っているからこそその重要性を壱ていたのであ ろう。 (一己教育事業ヘの関与 教育事業について見ておこう。大塚磨は小国で学校の設 立・運営に尽力した。その一つに﹁蓬莱小学校﹂がある。 同校は創立百年を超える歴史を有したが、現在は閉校して いる。また注目すべきものとして、同校敷地内に設置され ている﹁学校田記念碑﹂(写真3)がある。同碑には次のよ う編されている。

おおよそ、

大凡物ノ成ルノ日二成ルニ非ズ必由ツテ来ルアリ抑明治初年教育勃興ノ際杉平以東戸角二至ル部落一団トナリ テ蓬莱小学校ヲ建築シ戸割金及ヒ月謝ニヨリテ経費ヲ支払セシモ部民ノ困難少カラズ動モスレハ萎靡不振二陥ラ ントスルノ虞アリ是二於テ大塚磨氏八有志卜諮りテ教育資本金蓄積ノ策ヲ企テ自其ノ局二当リ明治六年以后<工 十三年迄二小国郷倉発二十五円全引除郷備七十四円黒淵村籾倉売却代二十円<工茸木売却代百八十四円同割課金 七十二円等ノ各分配金並二雑収入四十円及ビ同氏ノ学校建築費寄付金一百円ノ使用残金二十五円ヲ随時貸付ケ明 治十四年二至リ利息金六百三十円ヲ元利合計一千七十円二達セシメラレタリ然ルニ此ノ時大塚氏大坂二移住ノ決 意アルヲ以テ一俵三斗一升三号入ノ徳米六十六俵ノ田地ヲ購入シ其ノ収得ヲ以テ学校維持費二充テ部民ノ負担ヲ 軽減シ得ルニ至ラシメタリキ降ツテ明治二十一年市町村制施行セラレ小学校ノ教育費八全ケ村費ノ支弁トナリシ 1}

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熊本時代の大塚磨について 写真3 学校田記念碑 イ

1太

塗 '写 一 モ尚先人ノ意志ヲ重ジテ之ヲ教育振興ノ資二充ツルコト トセリニ其ノ起因ヲ旧記二微シ資ヲ集メテ記念碑ヲ建テ 之ヲ不朽二伝尓 ﹁大正九年十二月﹂に建設された碑である。この刻字 (傍線部)から資金の捻出方法金額が詳細に記されてお リ、維持の方法計画が緻密であることがわかる。 また﹁小国中学校﹂を創立してもいる。もともと﹁小国 ﹂ k 三、.一 ;ぶ.重:、一宍一ヨ一二. の子弟が笈を負ふて遠く都会地に学ぶのを不便と且又父兄 ﹂'一一コ.^驫: 監督の行き届かざることを慨して﹂、大塚磨が一八八一午 (十八) 四月に開校した。実子の惟明が英語の教員として赴任してもいる。しかし、大阪移住を決意した一八八三年に閉校 (十九) することになった。現在、その場所には石児けが残っており、建物は残っていない状態である(写真4、 5)。 史談会会長の原山氏は﹁以前は木碑があった﹂といわれていたが、それも現在は撤去されている。 大塚磨は郷士の教育に繋であったことが窺える。この姿勢は崩さず、大阪移住後も何度となく郷士の教育に関 わっており、特に教育機関ヘの寄付を行っている。その取組みに対して関係者からたびたび表彰されている。﹃小 国郷名簿録﹄を見ると、かなりの数の業績が確雫きる。一八八九年六月二九日に、熊本県知事より阿蕨郡宮原小 学校以下三校ヘ金六六円を寄付した事に対して木杯一杯が贈られている。翌年三月一四日には賞勲局総裁柳原義光 から北小国郡の北里小学校に地所家屋器物を寄付したことで、銀杯一個を贈られてもいる。一八九四年八月三 貝熊本県知事松平正直から宮原尋常小学校他一 0校に対して金一 0円ずつ、蓬莱尋常小学校、室原分室他二教場 ヨ,ミ 一一.

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岡 写真4 小国中学校跡地① 1埋 写真5 小国中学校跡地② には五円ずつ寄付したことで、 木杯が下賜された。翌年一 0月 一九日には松平知事から宮原尋 常小学校他五校に積立金として - 0円を寄付し、その功績に対 (二十) して木杯が授与された。これら は表彰されたものだけを記録し たのであろう。他にも様々な活 動を行っていたと思われる。 (巴勧業ヘの関与 大塚の郷士での﹁勧業﹂につ (二十こ いての活動を見ていこう。﹃幻燈画説明毒昌には、三歳のころ母とともに植林をしたという話が出ている。小国

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の植林が盛んなことについては、﹃続小国郷史﹄に細かく記されている。同地の植林においく磨の貢献度の高さ が窺える。 他にも煙草の栽培についても進めていたようである。その一部を﹃大日本農会報止口﹄において確雫きる。同書 において﹁熊本縣肥後國阿蕪郡小國郷滿願寺村烟草作改良報告第一回﹂を寄稿している。その内容は、満願寺村 のタバコ作りとその改良の様子をまとめたものである。県下のタバコの栽培は一八七九(明治三)年から勧農局 所轄の事業として高森村の煙草試験場ではじめられた。大塚の研究・実験を通じて、満願寺村の地質はタバコ栽培

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熊本時代の大塚磨について において非常に適していると主張している。同書の締めの言葉で、その後の経過を次回報告するとしているが、末 (二士己 報告のまま終わっている。

四実業ヘの傾倒

(一)福沢諭吉の影響と﹁私立銀行﹂の創設 大塚磨は蓄財した金銭を﹁原資﹂として事業を行うのであった。小国で共同事業を展開し、企業ヘの出資もおこ なっている。三九歳の時(一八七一年)に病気に櫂り、福沢諭吉の著書を莵だといわれている。福沢の数ある著 作のうち、どれを読んだかは明らかではない。ただ、時期と文献の記述内容から推測して、﹃西洋事情﹄の可能性 (二十四 が高い。﹃続小国郷史﹄では、﹁文明論ともいう﹂と記している。この﹁文明論﹂とは、﹃文明論之概略﹄を指す。 内容は﹁実業﹂に関する張も見られるが、発刊の時期(一八七五年)と大塚磨が病床に伏す時期とが合致しない ので、同書ではないと思われる。いずれにせよ、福需吉の著書を読んで﹁実業﹂に魅力を感じたことに間違いは (二十五) ないようである。後に大阪で実業家として活躍するが、その﹁萌芽﹂ともいぇる時期にあたろう。 (二十六) ﹃幻灯画説明宝昌に﹁明治八年翁少許の資本を以て私立銀行を起こし漸次繁栄に赴き﹂という張がある。組織 形態などの詳細はわかっていないが、個人で金融事業を始めたものと思われる。翌年に大塚磨・橋本龍雲・加藤谿 川・松崎雅・室原甚太郎・松崎文衛六名で協議して﹁餓社﹂を設立している。各人が二00円ずつ積立、それを 元手に貸付けて利殖を図っていく事業であった。﹃続小国郷史﹄で禿は、前年にはじめた金融事業を共同事業で、 官許を得て﹁結誠社﹂とし、前の私立銀行は発展的解消を遂げたと捉えているようである。この事業は﹁同十六年 (二十八) に至り・・・停止﹂したといわれる。

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宇士市大字宇士本町開2 熊本市塩屋町 1.38 銀行名 熊本第九国立銀行 宇士第百三十五国立鋤テ 熊本第百五十一国立鋤〒 (注)金額の単位は円。 〔出典〕寺本広作『熊本県史近代編第一』(1961年) P.507。 表1 熊本県内国立銀行 開業日 1877年12月15日 1879年4月15日 1879年10月25日 創立時 資本金 55,000 紙幣 発〒子局 80,000 44,000 65,000 頭取名 64,000 三淵静逸 52,000 浅井無牽 所在地 熊本市大字米屋町1-フ 津田信弘 (二)第九国立銀行ヘの出資 その他大塚の企業ヘの関わりには、熊本の第九国立銀行の創立時に株の購入を 引受けたこともあった。わが国の銀行業は一八七二(明治五)年に国立銀行条例が 公布されて開花した。この条例はアメリカの﹁ナショナル・バンク﹂を模倣したと いわれ同条例にょって設立腎を受けた銀行はわずかに五行で実際に開業に至っ たのは四行であった。その後一八七六(明治九)年に同条例は改定され、多くの 国立銀行が誕生した。その数は一五三行にのぼる。 熊本県においては、国立銀行が三行誕生した。第九国立銀行、第百三十五国立銀 第百五十一国立銀行である。それぞれの開業貝創立時の資本金、紙幣発行 ,、 ノイ 商頭取名、所在地は、表1のようにまとめられる。 第九国立銀行の創業は一八七七年のことである。熊本県士族・小笠原寛他六名が 同行設立に向けて準備を進めた。竪の出願をし、それを受けた大蔵卿・大隈重信 (二十九) は太政大臣・三条実美に免許下付の上申をした。その後認許され、開業に至るの である。先にも述ベたが、第九国立銀行に大塚磨は創業時の出資者として関わっ た。表2からも確雫きるように、引受額は一 000円(二0株)であった。 一時、銀行の本店は仮店舗で営業していた。やがて、﹁熊本新聞﹂に﹁当銀行本 店此節熊本米屋一丁目五百八十五番地二於テ新築落成致候﹂と広告を出し、本店新 設を周知した。役員については、頭取に三淵静逸取締役に小笠原寛佐藤求五、 会干こ 田邉幸二郎、本田武真が就いた。一八九四(明治二七)年には、堀部直臣が頭取に

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熊本時代の大塚磨について 松崎文平 氏名 大塚磨 北里転平 武石要 引受額(円) 北里義一 橋本十内 佐藤憩 2400 北里謙太郎 引受株数(株) 1000 松崎時太 1000 松崎操 650 石松寛 300 橋本三郎次 48 250 北里義親 20 200 松崎九郎平 20 200 室原甚太郎 氏名 北里惟倫 13 200 松崎雅 北里惟景 200 松崎茂 6 北里惟宗 200 井野百平 引受額(円) 5 北里逸平 150 下城徳二郎 4 北里定義 100 佐藤雄三 4 坂本寿一 橋本猪三郎 100 4 有住喜作 加藤谿川 50 100 引受株数(株) 4 石松永義 100 50 大塚源 4 下城新八 長谷部信次 100 50 3 穴井重平 100 50 渡辺忠造 2 100 50 上野道順 2 堤勝治 50 100 2 50 大塚治平 100 2 児玉義鑑 100 50 2 原田諫吉 100 50 2 50 100 大塚良Ξ 2 50 松崎文五郎 2 50 北里唯義 2 加藤丈二 50 2 50 下城新八 2 50 河津宗正 2 合計 50 50 【出典】禿迷盧『続小国郷史』(1965年) P.972。 50 50 50 50 50 9050 181 就き、取締役には、小笠原寛、鵜

殿基直浅井鼎泉、田中尚徳山

村新助中村才馬が就任し、新し 今干己 い体制が発足した。役員の固定化 が強く、大きく﹁三淵頭取時代﹂ と﹁堀部頭取時代﹂の二期に分け られる。大塚磨が頭取取締役に 9干一己 就任した様子はない。一出資者と して関わっただけのようである。 同行は大阪にも支店を開設して いる。その時期は、一八八四(明 9干四) 治一七)年のことであった。この こと罷本の財界が大阪の経済・ 玉 商業をいかに重視していたかを確 工 雫きる。そもそも大阪と熊本と の関係については﹃銀行通信録﹄ ﹂ 玉 の﹁熊本通信﹂に時々報じられて いる。例えぱ、一ハハハ年一一月 2 発行の同紙には﹁(熊本の1引用表

(16)

区『 者)商況ハ先月来小動ノ様子ナリシガ本月二入リ大阪地方米価漸々騰貴ノ報道二接シ米穀一時二輸出ヲ増加シ元二 連レテ諸物品ノ気配ヲ持直シ昨今稍活発ノ姿ナリ故二金融モ随テ繁忙ヲ告ケ﹂、翌月の同誌では﹁大坂地方ノ米価

ちょつと(三十六)

低落二連レテ一寸行当りノ姿ヲナシ﹂と記されるほどで、また、翌年の同じような時期において﹁商況ハ稍ヤ活発 会干七) ノ望ミアリシカ地方第一ノ産物ナル米穀ノ価格大阪表下落二連レテ一寸腰折ノ姿ナリ﹂と報じられてもいる両地 の経済、景況の関連性は強かったといぇる。 小 には、大塚がこの大阪支店の﹁監督﹂に就いたことが記されている。その時期については、 ﹃幻燈画説明圭昌 国郷名簿録﹄において﹁明治Ξ年三月五日熊本第九国立銀行頭取三淵静逸ヨリ大阪支店監督依頼﹂との記添あ

舎千九)(四十)

る。大阪商船の副頭取の就任期間が一八八七年二月から一二月までであった。大阪商船の﹁ナンバー.ツー﹂に なったこと罷本でも一目置かれる存在になり、大塚磨に﹁監督﹂役を依頼したものと思われる。 (一己共同運輸会社ヘの出資 ﹃続小国郷史﹄では、大塚磨が共同運輸に出資したことを記している。大塚が大阪に移住する数ケ月前の一ハハ 三(明治工<)年四月三貝県少書記官・島義之、勧業課九等属・吉田匹夫田尻郡長長吉郡書記、運輸会社 社員二名が来郡して、小国の有志に対して同社の社株募集を行った。執筆者の禿は共同運輸につぃて﹁此運輸会社 西十こ は其組織事業等の記録は何もないので明らかでない﹂と述ベているが、この会社は次に記す﹁共同運輸会社﹂のこ とであると思われる。 共同運輸は井上袈品川弥二郎が渋沢栄一、三井大倉喜八郎などの資産家地方海運業者を誘い、登した会 社であった。一ハハニ午七月罷可を受け、翌年一月に開業した。資本金六00万円で、四三%は政府が出資する ﹁半官半民﹂の会社であった。当時ご弄麦が海運事業を基礎に成長していた。ただ、その状態が必ずしも良いこと

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熊本時代の大塚磨について 大塚磨 北里義・ー 氏名 北里逸平 北里義正 松崎操 北里惟景 北里惟倫 松崎森治 河津学 引受株数 大塚源 後藤為人 北里伝兵衛 長谷部信次 60 上野孝一 20 石松永義 佐藤又八 氏名/合計 佐藤今亀 梅木栄吉 5 堤勝治 時松武角 5 笹原秀一 上野道順 5 松崎賀雄 阿武平八 5 鑓水作太 松崎時太 5 北里唯義 佐竹豊作 5 田代義信 引受株数/合計 有住喜作 5 出典:禿迷慮『続小国郷史』q可津泰雄、 1965年) P.478。 阿武豊次郎 5 鶴田弥太郎 3 堤戸作 2 勝野伴造 2 有住兵次郎 2 松崎正紀 2 穴井重平 2 山野金太 2 Ξ昼属i乍早昌 2 杉平恒作 2 後藤惣八 2 石松武次郎 42 名 163 株 だけではなかった。海外汽船会社との競争 では低運賃を設定し勝負した。これらの競 争に勝ち海運事業については独占状態に なったが、サービスの低下を招くことにも つながった。そうした状態を渋沢や三井は よく思っておらず、共同運輸会社を発足さ せて三菱に挑戦した。両者はやはり低運賃 にょる競争を展開し、共倒れの危険性も あって一八八五年九月に合併し、資本金一 - 00万円の﹁日本郵船会社﹂となって継 西十己 承されたのである。 百 先の募集活動に応える形で共同運輸会社 3 に大塚磨はじめ地元の有志が出資した。表3 表 に示すように、四二名の者が株式を引き受 け、その合計株数はエハ一森となった。大塚 磨は最も多い、六0株を引き受けている。

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三大塚磨の蓄財法と気質・基本信条 (こ蓄財・利殖方法 先述の社会的事業企業活動ともに﹁資金﹂が必要なことはいうまでもない。その﹁原資﹂をいかにして築い たのか。ここで見ていくことにする。大塚自ら著した小冊子﹃資産を造る新案﹄がある。細かい金額でも長期間蓄 えていけぱ、まとまった金額になるという趣旨のものである。前半驍明文後半はその貯蓄年数と貯蓄額が記さ れている。これは一八九二(明治二五)年のものであり、大阪に出てからまとめたものである。永江為政の﹃商業 資料﹄にも表現は違うが、ほぽ同じことが記されている。﹃資産を造る新案﹄は既に論考で利用されており、また、 (四士己 近代デジタルライブラリーでも公開されているのでそちらを参照して頂くとして、あまり目にする機会のない﹃商 (四十四) 業資料﹄の﹁大塚磨の貯並匙をここで紹介しておこう。 凡て人、家に一児女の出来る毎に金一円を備ヘ、一ケ月に一分八朱の利息を付け毎年に利に利に加ヘなれぱ、 其児五十にし金一万七千六百余円を得るなり。若し其児二十にして之を思ひ立なば始めに先づ金四十九円九十四 銭六厘を積む可し其他此比例を推して知る可し。又其母金に年々金一円を加ヘて前の方法の如くせぱ、其人五十 歳にして十万円の身代を得可し。こは左程難きことにあらざるなり。尤も一一圖月に一歩八朱の利を得る事通常の 方法にては能はざるなり。唯だ此一点が重大且切要にして余の貯蓄法たる所以なり。その手段と云ふは仮令ば元 資を極々信用ある者に貸し付け又預けて月一歩の利を得るとせぱ残る八種の利子は是れ自から勤倹して該額の金 を作り其補充として元資に繰込むなり。尤も最初一年の間は元資の額至りて寡けれぱ利子の補充も亦多からず。 即ち八朱の補充とせば僅かに金九銭六厘十年の間に金二円六十九銭六厘其資の十年目に至れば其額稍々多けれ ども、少しく心して勤倹せぱ決して難しきことにあらず。即ち其額は十年間金十九円五銭なり又其次ぎの十年以

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熊本時代の大塚磨について 後は元資も漸次増殖して補充も巨額を要す可れども其児も亦二十を過ぎ父母の手を離れて独立するの時機なれ ば、其元資を卸して商売を為し、又は他の事業に従はしめば其利息の補充を得る事容易ならん。又其児才智秀れ たる者なれぱ一分八朱の二三倍にも至らしむるを得可し。何れにしても五十歳に至るまで首尾能く忍耐を為し遂 ぐれぱ積んで一万七千六百余円を得可し。句読点÷引用者 この資料も大阪移住後のものであるが、小国での金融事業および、大阪移住後の﹁両替業﹂の経験が基本にあ (四十五) る。金を貸して増やすということが前提となったものであった。基本的な考え方は小国で確立し、周囲に広めてい (四十六) た。それは﹃続小国郷史﹄においても﹁大塚式蓄積法﹂として記されている。先に記した﹃資産を造る新案﹄の後 喩山 卸畿・三 譜↓ 山一累並瓢Hレ一工 器令逢と.ト8建 M↓

A令 一田 一正曽黙血回 佃{ 一田、鯱Φ陶 岩令 ]田謂難伽悪 零喩 N田易織の回 曽難の向 ぎ{ N工歌織伽回 器難W鬮 含{ ↓工誘織.河 辻]祭ざ=卸紗一工 令訂一田、゛建叫遜器令途辻.ト8斌 曽難心商 醐一一のΞ半 念工謁賊伽回 響イ 油脳並一圃需絲露深Ξ剖測今+0 圧濡一湖燦醐﹃謙÷回漫沿﹄(ニョ甚削熟一中密令)毛.揚伽.Φ念0 器罵伽回 W詔工謂難一回 令織M回 ゞ謁工誇織一回 暴=田賠織W回 細織A回 一工 畑心慰識途酬聖城系 N工N一鷲の画 W正念鷲物阿 朝忍念黙ω鬮 ーヨ鯱中同 岩田器鯱伽阿 曽黙血回 獣田一.瓣心河 賠の工密鷲伽向 ミ黙Φ回 一Φ誇田誘鷲伽画 泣岩玉=岩q令沖識一田 卸嵐と,ト8島 一田易鷲伽回 工一響エヨ黙N同 謂鯱伽同 ]工念難゛悳 途翌工S織心瓢 N工器鷲如陶 ↓工器鷲伊河 一田 一田晶黙 留田誤難伽商 一.閉織心回 露エミ黙↓瓢 一工工詞驫 器器田曽河.悪 一工細商M難 一工器織]回 尉鷲 晶難A陬 ω田ざ賊心回 辻さゞぎ=卸紗一田 喩訂一工凡゛建哉智令嵐と,ト8建 心工密黙物回 季罵伽囲 翫難 謡田ぎ磐回 易織中鬮 謁工器難一阿 曽讐圃 一田 N器正易逃河 W詔鴎難心商 M工晶鷲 心工二織Φ向 の工獣鷲N陶 伽工=鷲心商 零工歌難心商 昆鷲 曽田岳難卸商 謡雙圖 賠]工器避一詞 き賤朝回 伽き工岑難伽向 細織W阿 N邑田Φ一織の回 冨鯱ω回 Nエミ鯱伽囲 ヨ織心画 Φ工智黙N阿 器工翻鷲A回 冨工曽鷲W画

(20)

半部分の﹁数字﹂は、表4と同じものになっている。 (己大塚磨の基本姿勢 次に大塚磨の基本姿勢について見ていこう。若午から大塚磨に世話になった薪炭商の秋守常太良の著書に、大塚 磨のヨ亘付﹂として届しているものが幾つか記されている。大塚の基本姿勢を知るのに次のようなものがある。

①、、、、、、、、、

一厘の資本もないのに、是から何か一仕事しようと思ふなら、今日一日労働して、たとひ五厘でも一銭でも 可いからこれを貯蓄せよ。一文なしから一銭を作り得る以上、既に一銭の資本を有する其の翌日は、更に一銭五 厘乃t至二銭を残すことは容易である。かうして日々其の余分を蓄積して行けぱ、日々その貯蓄が増加する。さて 茲に最も大切なことは、最初無一物であった時の心持ちを最後まで持ち続けることである。たとひ一万円の 貯蓄が出来ても、最初の心持がなくなれぱ、一万円になってからの失費は、其の、一万円に準じて多くなるの で、差引き最初無一物の時と変わりはないことになる。処が不時の災厄は人間に付き物だから、既に一万円を所 持すると時の方が却って危険は多いのである。 右の諸資料におい磊み取れるのは、少額であっても日々の﹁貯芦の重要性を説き(傍線①)、﹁継誓力なり﹂ (傍線②)、﹁初心忘れべからず﹂(傍線③)という格言の遵守を勧めたことである。自身も徹底し、事実こうした方法 で蓄財しており、既述のとおり、小国においてもその普及推奨に努めた。 大塚磨が極端な﹁節約家﹂いわば﹁ケチ﹂と誤解されてきた部分であるが、彼は﹁真の経済の巧拙は貯めること

(四十八)、

でなく、如何に有音茎我に生きた金を使うかにある﹂と考えていた。この点も小国での様々な社会事業を完遂したこ

(21)

熊本時代の大塚磨について とからもわかるように、﹁小銭﹂を貯めることに終始したのではなく、﹁大きな目標を達成するために、日々の節 約﹂を重視していたのである。 こうした﹁倹約﹂と同時に彼の性格として﹁勤勉さ﹂があげられる。史談会の方々から教えていただいたが、 ﹁磨象朝早く起きて近所中に﹃起きろ﹄と叫んで回り、玄関に鎌をかけて立ち去った﹂といった興味深い栗語 り継がれている。﹁早く起きて、早く働け﹂と呼びかけ、率先垂範したのである。また、﹁為せぱ成る為さぬぱ成ら 西十九) ぬ成るものを、なさぬは己がこころなりけり﹂を絶えず自身に言い聞かせて守っていた。 その他彼の基本姿勢を知る事柄に末子・一暑輔に対する罰のエピソードがある。喜輔は幼いころから腕白であっ た。磨がその腕白ぶりに辛抱できなくなり、お仕置きとして裸にして士蔵に閉じ込めたことがあった。話はそれで 終わるのではなく磨本人も裸になり、三階の一室で正座していたという。子の行動に対する責任は親の自分にもあ るとし、そうした行動をとったのである。また、他人にだけ辛い思いをさせるのではなく、自らも苦しむという態 度を崩さなかった。 七郷士の偉人としての大塚磨とその後の大塚家 (一)大塚評・大塚磨信仰 小国での調査でわかったことは、郷士の小国での社会的活動に貢献したこと、勿論、実業家として活躍したこと も含め、郷士の﹁一央雄﹂﹁偉人﹂として、小国では尊敬されている。小国を尋ねてそれが確認できた。農業共済の広 報曹大塚磨についての文章が掲載された。その一部を抽出すると、﹁想えぱかって私が蓬莱小学校に在勤した頃、 語ご命日である月十一日には、毎年三年生以上の児童は、午後の課業を早目に終え、揃って墓参をし、次いで逸

分十こ

話などを含めて話をするのが習わしでした﹂と書かれている。この文章についてもう少し地元の方々に聞いたが、

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大塚家の墓所の近くに住まれる、小薮正人氏は﹁私が子供の頃、蓬莱小学校で大塚磨語業曾ついて学んだ﹂、 ﹁年中行事として命日にお墓の掃除をした﹂との情報をいただいた。小薮氏の御母堂は﹁私の生家はもと大塚磨氏 の出生の地﹂と誇らしげに語っておられた。 さらに﹃幻燈画説明圭昌に記されている﹁大塚祭﹂についても史談会の会長原山氏に尋ねたところ、﹁今も一部 の地域で大塚祭を実施している﹂といわれた。北里柴二郎も小国出身であるが、立身出世した者としく大塚磨も 忘れてはならいない人物として考えるべきであろう。 大塚は社会的事業教育事業については、生涯通じて行っていた。こうした姿勢を継承する者として、先述の秋 守常太郎がいた。彼の大塚磨に対する思いは相当なものであったといぇる。多くの著作を発表したが、その一つで 'えん ある﹃学校卒業者労働論﹄の内容について﹁先師大塚翁の辛苦勉励論を敷衍するに外ならぬ﹂と述ベるほどで、大 金十二) 塚の影響を強く受け、感化されたことがよくわかる。また﹁翁は徹頭徹尾理性的で正直であった。従って翁の味方 (五士己 である吾々から見ると、君子に近き人格者として崇拝している﹂と述ベており、大塚磨を敬う気持ちは、もはや ﹁大塚磨信仰﹂の域に達している。 (二)大塚家のその後 ここで大塚家のその後を見ておこう。大塚磨は大阪移住後大阪商船、山陽鉄道播但鉄道讃岐鉄道、南和鉄 道大阪鉄道関西鉄道の経営に関わった。関西を中心とした交通の拡充に努め、一九0五年四月三日に永眠し 金十四 た。 磨の長子である惟明は一八六四(元治元)年四月二日に誕生した。キリスト教のΞ神学校に学び、一時は小国 (五十五) で教鞭をとったこともあった。その後大阪を拠点として布教活動を熱心に行うのであった。それについては、当

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熊本時代の大塚磨につぃて 時の日刊紙に報じられるところでもあった。例えぱ、﹁大阪朝日新聞﹂に﹁神学校生徒の演説﹂と題した記事が掲 載されている。一八八七午一 0月一五日午後七時から大阪市西区士佐堀二丁目の大阪青年会館において惟明が﹁国 金士ハ) 家の死亡﹂という演説を行っている。磨は﹁神道﹂ であったと河津氏からお聞きしたが、烈てみると、教派神道 の一派﹁黒住教﹂の熱心な信者であったことがわかった。なお﹃黒住教信徒成功談﹄に、大塚磨が黒住教に改宗し 金十七) たのは、﹁四十二歳﹂の時であったと記されている。惟明はその後山陽鉄道に入社した。﹁切符切﹂という決して 高い地位で採用されたわけではなかった。それなりのポジションに就いてから、讃岐鉄道に移り、実質的なりー ダーとして経営改革に乗り出し、鉄道会社と兼営事業を早い時期から展開しだ。さらに南海鉄道の第四代、第六代

金十九)(六十)

社長に就任した。一九二八午一一肩二八日に永眠している。 ﹁社会的事業に関わったのは磨、惟明だけで、あとはいない﹂と穎三氏は述ベられている。また、興味深いエピ ソードとしては、磨.惟明ともに﹁お金を数えるときはうれしそうな顔をしていた﹂ともロメントを頂いた。個性 が強く、異なる宗教を信仰していた磨・惟明であるが、墓所は大阪長柄と小国の同じ敷地無置されている。惟明 の長男.次郎であるが、﹃人事興信録﹄を見ると、﹁養子﹂と記されている。惟明にはもどもと兵吾という実子がい たが、早世した。そのために養子を櫻根孝之進からとったのである。櫻根は皮膚科の権威であった。これまでのこ とをまとめると、ご本家は、①磨②惟明③次郎④穎三⑤慶と継がれている。穎三氏は﹁指定相続人とし て私が大塚家を継ぐことになりました﹂とコメントされた。穎三氏は大阪大学で研究・教育にご活躍され、名誉教 (六十己 授となられた。専門は物理学である。 その他、今回、調査でご協力いただいた﹁ときわや醤油﹂の松崎朗氏もご先祖は大塚磨翁のむすめキワにあたら れる。同店は経営理念として﹁至誠﹂という言葉をあげておられる。先述の﹁至誠の碑﹂からとったものであろう が、先祖の業績に敬意を払い、その意志を継ぐというものである。商売をするうえで﹁誠実﹂、﹁真心﹂を重見する

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姿勢を保たれているである。また、大塚磨の研突に踏み切るきっかけを頂いた河津康人氏は﹁磨の玄孫が父﹂とい (六士己 うご関係にあり、熊本でご活躍である。 おわりに 以上、大塚磨について熊本県時代の活動を中心に見てきた。塾貝交通、勧業など社会的事業に熱心で地域貢献 を行っていた。私利私欲にょる行動ではなく、郷土愛にょる行動であった。豆早の一節で紹介した小国の人々の公 益重視社会貢献に積極的な﹁地域性﹂は大塚がかなり影響を与えたことであろう。これまで経営者としての評価 は﹁経費節減﹂だけを実行した、無慈な人物という印象を抱かせるものぱかりであったが、それを少しは払拭で きたのではないかど思う。いわぱ、従来の大塚磨の評価を、本稿での評価で﹁中和﹂したと考えている。 大塚の足跡を見ると、関わった社会事業はいずれも長期的かつ遠大な計画で、その実現には日々の努力が必要と いうことを強調していた。勿論、その達成には多額の資金が必要であり、そのための蓄財法資金捻出法を考えた 上での行動であったことが確認できた。彼が行った﹁節約﹂は単に﹁ケチ﹂と片づけられるものではなかった また、﹁率先垂範﹂するということも重要な点であるといぇる。日田舟運九州横断道路など社会的事業の出資 や共同運輸、第九国立銀行における株式の引き受けについては、彼が他者よりも多く負担した﹁物事を進める上 で、また人に勧める以上は先ず自分が大きな負担を負うべき﹂ということを実践したのである。 大塚磨は病床で福沢諭吉の著作を読ん憲銘を受けてからは実業家ヘ傾倒していった。それにつぃては共同運 輸、第九国立銀行について概観したが、発起人として名を連ねたわけではなく、株式の引き受けいわゆる﹁出 資﹂という形で関わった。共同運輸はその後日本郵船として残り、第九国立銀行は肥後銀行に引き継がれ、その 後保善銀行、戦後には富士銀行となり、二000年になって、第一勧業銀行、日本興業銀行と合同.合併し、メ やしやご

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熊本時代の大塚磨について ガバンク・みずほ銀行として残っている。 (一)河津康人氏のブログのd詔は冥旦"=ヨ号0ミΦ円.ず一0⑪賠.{鳥.8ヨ子一0⑪,舎旦,会.巨Ξ一(二0 一六年五月

三一日確邑

(二)拙稿﹁小国出身の実業家・大塚磨の再評価﹂を大阪商業大学博物館﹃紀要﹄第一七号全0一六年)に掲 載の予定である。 (一己田中英三郎﹃郷士研究提要﹄(熊本県師範学校一九三七年)三六九頁。 (巴阿蕪惟教﹃阿蕨の面影﹄(松本松次郎、一九二亙)一 0九1三 0頁 (五)文部省﹃関西諸県下青年会状況取調書﹄(一九三年)一西四1二四六頁。 (六)読売新聞社出版部編﹃模範町村之現況﹄(読売新聞社一九三年)三九1一二0頁。 (七)この節の記述は特に断らない限り、山内龍吉﹃大塚翁自叙伝幻燈画説明書全﹄(一八九八年)(以下﹃幻燈 画説明室昌と記す)、禿迷庸﹃続小国郷史﹄(一九六五年)Ξ九ーニニ六頁、北里惟景﹃小国郷名簿録﹄ (一九00年・復刻版二00七年)をもとにしている。 (八)熊本県議会﹃熊本県議会史第一巻﹄(一九六三午)四九八頁。 (九)同右晝六四三1六四五頁。 (十)同右晝六四八1六四九頁。 (十一)同右晝六五三頁。 (十二)同右晝七一七頁。

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(士己前掲﹃郷士研究提要﹄三七二頁。 (十巴豊田寛三﹁日田﹂(下中弘﹃平凡社百科事典⑫﹄一九九三午、五0二頁に所収)。 (十五この辺の張は日田市三十年史発刊委員会﹃日田市史三十年史﹄(一九七四午)一七五1一七八頁、日田市 ﹃日田市﹄(一九九0年)四二五,四二九頁、勝目忍﹁近世における日田・玖珠川の舟運 1山間・<丑地・渓 谷地域における舟運の開発と背域関係1﹂(人文地理学会﹃人文地理﹄第一一巻第四号一九五九年、一四1 ニハ頁)などをもとにしている。 (十六)前掲﹃続小国郷史﹄二八七1四0二頁。 (十七)同右晝四0三1四二三頁。 (十八)熊本県教育会阿蘇郡史会編﹃阿舷郡誌﹄(西岡乙平、一九二六午)五三一頁。 (十九)前掲﹃続小国郷史﹄五二1五二頁。 全十)前掲﹃小国郡名簿録﹄七七頁。 全十一)前掲﹃幻燈画説明書﹄八頁。 (二十二)前掲﹃続小国郷史﹄八二01八七一頁。 (二十三)大日本農会﹃大日本農会報止口﹄第五巻、(一八八一午)二01Ξ頁。また、当時の様子としく阿蘇 郡・本田又進という人物が、﹁熊本新聞﹂一八八一年二月五日付で煙草の栽培について、南郷がタバコ栽培 に適していることを主張している。 (二十四)前掲﹃続小国郷史﹄九六八頁。それぞれの発刊時期についてみておくと、﹃西洋事情﹄は初編三冊が 一八六六年、外編三冊が一八六八年、二編四冊が一八七一年に発刊されている(田崎哲郎﹁西洋事情﹂国史 大辞典編集委員会﹃国史大辞典第八巻﹄吉川弘文館、一九八七年、二六七頁)。﹃文明論之概略﹄全六巻は

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熊本時代の大塚磨について 印 一八七四年に書きまとめた。一八七五年刊の方が推敲を重ね、理論的に一貫したものになったといわれてい る(神山四郎﹁文明論之概略﹂同﹃国史大辞典第一言﹄一九九一年、四二六頁)。 (二十五)前掲﹃幻灯画説明圭昌二三1二四頁。 (二十六)同右晝二八頁。 (二十七)前掲﹃続小国郷史﹄九六六1九六七頁。 (二十八)前掲﹃幻灯画説明圭国﹄二八頁。 (二十九)﹁第九国立銀行ヘ開業免許状下附ノ儀上申﹂(﹃公文録明治一 0年﹄第七七巻、明治一 0年三貝大蔵 省)。その時の書類は右に示すとおりである。 第九国立銀行ヘ開業免許状下付ノ儀二付上申 熊本県士族小笠原寛外六名申合国立銀行条例ヲ遵奉シ資本金五万五千円ヲ以同県下第一大区三小区新三丁目 九百二十番地二於テ国立銀行創立致度趣出願夫々及調査候処不都合ノ廉無之二付本月二十二日開業免許状下付致 シ名称ノ儀ハ第九国立銀行卜相唱サセ即チ銀行紙幣発行セシメ候間此段上申候也 明治十年十一月廿八日 今干戻本新聞﹂一八七九年六月二0日付。祝辞が掲載されたが、当時の状態も窺えるので記しておこう。 太政大臣三条実殿 大蔵卿大隈重信

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貨幣ハ水ノ如シ流動流通セシムルモノハ銀行ナリ若夫之ヲ塞塞スルトキハ世上澗渇二苦ミ又之ヲ濫溢スルトキ ハ洛天ノ害ヲ来ス宜ク濯注節約ノ法ヲ襖マスンハアルヘカラス然レドモ水ヲ治ムルノ術ヲ知テ而後疏墾セシムル トキハ夏禹ノ功アリ貨幣ヲ籍スルノ道ヲ審カニシテ而後之二従事セハミル氏ノ経済ニモ耻サルヘシ夫本行ノ如 キ開業尚浅シト難モ各員ノ忠実公平二依テ諸人益偏一シ漸次資本ヲ増殖シ爰二結ノ功ヲ竣ヘ今日ヲ以テ移転ノ式 ヲ挙行セラルルモノハ偏二是レ社員諸君ノ括据脹勉ノ功二之依ル盛且大ナリト謂ツヘシ余此ノ盛場ノ招請二列シ :ノ至二堪へス卿力蕪辞ヲ陳シ社運ノ光.ヲ祝ス 9干一)﹁熊本新聞﹂一八七九年七月二四日付。 全干三由井常彦・浅野俊光﹃日本全国諸会社役員録1﹄(柏書房、一八九四午)Ξ二頁。 会干三)創業時の役員については、資料不足で正確なことはわかっていないが、メンハーの固定した釜を考え、 かつ﹃幻燈器明書﹄、﹃小国名簿録﹄などの資料から判断すると、やはり大塚磨が創業期において役員に就 任していないと思われる。 会干四寺本広作﹃熊本県史近代編第一﹄(熊本県、一九六一年)五0九頁。 今千五)﹁銀行通信録﹂第三六号一ハハハ年一一月二八日、六五頁。 (=千六)同右誌、第三七号一ハハハ年ご百二八日、四九1五0頁。 全干七)同右誌、第四八号一八八九年三月二八貝二九頁。 会干八)前掲﹃小国郷名簿録﹄八0頁。 会干九)同右書ご三頁。 (四十)日本経営史研突所﹃創業百年史資料﹄(大阪商船二井船舶株式会社、一九八五年)三六頁。

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熊本時代の大塚磨について (四十一)前掲﹃続小国郷史﹄四七七1四七八頁。 (四十二)宮本又郎・阿部武司・宇田川勝・沢井実・橘川武郎﹃日本経営史﹄(有斐悶一九九八午)一 0二頁。 (四十二)西藤二郎﹁山陽鉄道における牛場卓蔵の役割﹂(近畿大学経済学会﹃生駒経済論叢﹄第七巻第盲巨 二00九年、、一七五頁)において利用されている。 (四十四永江為政﹃商業資料(復刻版)﹄の第一巻第言ぢ、一八九四年一月一 0日付。 西十五山添徳蔵・太田幾太郎﹃大阪実業人名鑑﹄(大阪広告商法社、一八九六午)三七頁。 (四十六)前掲﹃続小国郷史﹄九六八頁。 (四十七)秋守常太郎﹃学校卒業労働論﹄七一八頁。 (四十八)前掲﹃続小国郷史﹄一Ξ二頁。 (四十九)前掲﹃幻灯画説明圭昌二九頁。 金十)秋守常太郎﹃学校卒業労働論﹄(四方文吉、一九三四年)九頁。 (五十一)鎗水熊夫﹁今昔小国郷のこのひと(3)﹂(﹃Zcmと阿蘇北部﹄一九九一午九月一貝四頁に所収)。 金十二)前掲﹃学校卒業者労働論﹄三頁。 (五土己同右晝一 0頁。 金十四)﹁鉄道時報﹂第二九二号一九0五年四月二二日付。 分十五人事興信所﹃人事興信録第四版﹄(一九一五年)を六二士ハ三頁。前掲﹃続小国郷史﹄五三頁。 (五十六)﹁大阪朝日新聞﹂一八八七年一 0月一五日付。 金十七)武田彌富久﹃立教百年奴貫ふ黒住教信徒成功談﹄(一九一四年)五八頁。当時、小国での黒住教の拡大 の様子として﹁熊本新聞﹂一八八一午一月七日付では、﹁阿蘇郡小国郡には大分県下玖珠地方より黒住の教

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派侵入し漸次流行の模様あり﹂と報じられている。 分十八)経営史学会﹃日本経営史の基礎知識﹄(有斐閥二00四年)一三 0頁。 金十九)南海電気鉄道株式会社﹃南海電気鉄道百年史﹄(一九八五年)五三八亘 (六十)﹁東京朝日新聞﹂一九二九年一月一 0日付の広告において、葬儀は﹁来る一月十二日午後二時阿倍野新斎場 に於て基督教式に依り執行可仕候﹂と告知された。 (六十一)人事将所﹃人事譽録第七版﹄(一九二五年)を九二1九三頁。 (六十二)前掲﹃続小国郷史﹄二二五ーニニ六頁。この段落の大塚穎三氏のコメントはメール文章(二0ご匡 ご肩一五日)をもとにし、表現を変えたものである。なお、大塚穎三氏の研九九活動については、菅真城・ 阿部武司﹁大塚穎三名誉教授に聞く大阪大学の思い出﹂(﹃大阪大学経済学﹄第六0巻第二号二9 0年 九且六六1八0頁に所収)がある。参照されたし。 (六十三)この段落の記述は、小国調査時(二9 六午二月二八日)の松崎朗氏のヒアリング、二0三午、一月 二五日、二9 六年三月二七日に行った河津康人氏のヒアリングをもとにしている。 本稿を執筆するにあたり、大塚穎三氏河津康人氏小薮正人氏小国郷士史研究会の会長原山光成氏北里光 男氏など多くの方々から貴重な資料・情殺を賜った。またそれらの資料を本稿で転載することを快諾頂いた。ここ に記して感謝の意を表する次第である。 付記

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