事実の重さ : 鶴田反論へのコメント
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(2) 「この種の問題が 決して一律的・ 普遍的なⅠ綱領Ⅰによっては 裁断し得ないこ とが活写されている」という 箇所から、 「コメント」をお 読みの方々には 明ら かだと思. う. 。. 1 . 事実の重さ. 日本語クラスでのプレースメント・テスト 力 をみるためのテスト. ). ( コースの初めに. 受講者の日本語. の成績等の「プライバ 、ン一権 」を考察するための 準拠. 枠としては、 鶴田試論が参照している、 アメリカの学校教育における 成績の公 開基準 や 、 サイコロジストの 倫理基準はどちらも 単純には参照できない 基準で あ る。 クライアントの 人生を左右しかれない 重大な個人的秘密にふれることもあ. る. サイコロジストの 報告と、 プレースメント・テストなどの 成績を分析する 日本 語 教育の実践報告とを 同列に論じることはできない. (注 1 ) 。. 学校記録は成績. という点では、 一見、 日本語クラスの 成績に似ているようにみえる。 しかし、 学歴社会の日本の 学校の成績がその 人の一生に大きな 影響を及ぼすことがあ っ. たり、 「行動の記録」等の 人格的記述も 含まれている 可能,牲があるのに対して、 日本語クラスでのプレースメント・テストはあ くまで日本語クラスのコース・ デザインのために 留学生たちのそれまでの 日本語 力 を知るための 基礎資料であ っ て、 テストの目的 と 性格が全く違う。 プレースメント・テストの 成績によって 、. その学習者の 進学に影響が 生じたり、 人格が云々されるといったことはあ. り得. ない。 また、 学校での成績や 人物評価についての「情報開示」の 形態と「授業 の実践報告」では、 情報の明かされる 方法も 、 読み手がそこから 求めるものも. 全く異なるのであ る。 以上の点を考えあ わせると、 鶴田試論が参考にしている 基準を単糸 屯に 日本語教育の 実践報告にあ てはめることはできない、 と言えよう。 また、 今回、 筆者の「コメント」から 逆引用している 日本民族学会員の「調 査被害」の例も、 日本語クラスの 成績と上 べれば、 もちろん「事実」としては ヒ. 格段の差があ り、 筆者の授業実践報告におけるプレースメント・テストの. 結果. ど な と比較できるものではない。 調査対象者の 重大なプライバシ 一に時にふれ -@. 77 一 -.
(3) ざるを得ない 民族学者が、 鶴田氏が引用しているように、 プライバシー 保護の 配慮を「通常、 行う」のは当然であ る。 筆者が「調査被害」論争に 言及したの は、 はじめに述べたように、 あ くまで「普遍的基準対当事者性」という 文脈で あ. り、 扱っている事実の「重み」が 等しいからではない。 「プライバシー 権 」を考える上での 先行 側 が少ないとは 言え、 鶴田試論が. 、. こうした「重すぎる」基準を 一般的・普遍的なものであ るかのように 紹介して、 日本語教育の 実践報告にあ てはめようとするのは、 「差別語」への 過剰な「 言 葉 狩り」にも似た、 必要以上の「威圧」を 日本語教育の 実践報告にもたらすの ではないか、 と思わされる 面もあ る。. 2. 事実としての 重さ一一実践報告の 記録的性格 鶴田氏が筆者に 再度コメントを 求めている点は 次の. 2. 点であ る。 1 予備教育. がまだ模索の 時期だったということは、 「必要最小限」の 判断基準と関係があ るのか、. 2. 「出身国名、 年齢、 性別、 出身学校の実名、 年度等」は「必要最小. 限」と言えるのか。 1. から答えよう。 前回の「コメント」でも 述べたように、 当時、 留学生セン. タ一における 予備教育がどのような 段階だったかということは、. 予備教育の コ一. スの 実践報告における「必要最小限」の 情報のあ り方にとって 、 大いに「関係. があ る」のであ る。 当時は、 留学生センタ 一の活動が い くつかの大学で ようや く. 軌道に乗りはじめた 時期だった。 国立大学の日本語教育関係教員の 連絡機関. であ る「国立大学日本語教育研究協議会」の 会議でも、 予備教育のあ り方が毎. 年議論され、 特に日本語既習者に 対して予備教育コースとしてどのように 対応 するかについてさまざまな 意見と情報が 交換されていた。 予備教育学習者の 圧 倒的多数がビギナ 一であ るだけに、 少数の既習者がどのような 日本語学習歴 (. レディネス. ). と学習目標・ 必要性. ( ニーズ ). をもっているかについて 関係教. 員の関心は非常に 高かった。 筆者は『紀要」の 研究雑誌としての 性格をふまえ て、 関心を共有する 日本語関係教員に 実践報告をし、 既習者への対応の 悩みを 分かち合 い た いと 願ったのであ る。. 一 78 一.
(4) 2. ほ ついては、 鶴田氏は、 A 」のニーズ分析にとっては「国名、 「. 別、 出身学校名、 日本での日本語受講年度等」は「不必要」であ. 年齢、 性. り、. 「固有名. 詞を書かずに「母国』の 大学等とし、 或いは多少変更を 加えて引用する」べき だという。 そして、 「年齢・性別,国籍等の情報が日本語教育において 重要で あ. るのは、 日本語教育関係者なら 当然の知識であ る」という双回の 筆者の「 コ. メント」に対して、 「一般論として「不要』だと. 言っているのではない。 佐々. 木の実践報告の 場合」は不必要なのだ、 と反論している。 しかし、 本当にそうだろうか。 鶴田氏の言うように、 「母国の大学で 日本語 を学び、 その後日本の 大学で 1980年代に 経験があ る」というよ. う. 1. 年間、 日本語・日本事情を 受講した. に記述を変更して、 年齢・性別にもふれないとすると、. 当のクラスについてのイメージは 非常に漠然としたものになってしまう。. 「母. 国の大学」として、 国籍を伏せることによって 学習者の母語の 千渉の問題が 消 えてしまうし、 日本の大学での 日本語受講年度を 伏せることによって、 それが 何年前の学習歴なのかが 分からなくなってしまう。 年齢や性別もクラスのあ. り. 方に影響を及ぼす 重要な要素であ る。 20 代前半の学習者を 教えるのと、 30代後 半の学習者を 教えるのとではかなり 教え方が違ってくる 場合があ る。 クラスの 男女比も微妙な 影響をもたらすこともあ る。 そうした細々した 事実について 二一 ズ 分析で一々ふれていないからと 言って、 それらのディテールがニーズ 分析に 「不必要」. な 情報というわけではない。. 実際、 当時のクラスのコース・デザインをするときには、 大多数の日本語教 育者がするように、 学習者の「年齢,性別・ 国籍・日本語学習歴・. 関心・到達. 目標等」をふまえてテキストや 教授法を決めたのであ る。 ただ、 そうした過程 をすべて授業報告にもりこむことはできないし、. もりこんでも「不必要」に 膨. 大な記述になって 無意味なだけであ る。 「受入れ大学名」の 情報も決して「不必要」. な 情報ではない。. どの大学に進. 学するかは、 受講者の日本語学習のあ り方に影響する 場合があ るからであ る。 まず第一に、 横浜国立大学に 進学する学習者と 他大学に進学する 学習者とでは、 専門領域の研究室の 活動に普段から 接することができるかどうかが 違ってきた. 一 79 一.
(5) り. 、 それを通じて 日本語学習のニーズのあ り方にも影響が 生じたりすることが. あ る。. では、 鶴田氏がしている. よ. うに、 「多少の変更をほどこす」のは 必要なこと. だろうか。 鶴田氏によれば「 A はマレ一大学の 人文学部で日本語を 学んだ」と なっているが、 もしマレ一大学. ( マラヤ大学のことか. ?) の人文学部の 関係者. がそれを見た 時に、 誤解を招く恐れはな い のだろうか。 A 」の実際の出身国 「. が東南アジアであ るために、 同じ東南アジアの 国という意識がはたらいている. のではないだろうか。 鶴田氏のように、 「個人を特定できない」ことを 絶対原 別 とするなら、 そうした思わせぶりで 中途半端な仮構をほどこさないで、 い っ そのこと「 A 国の A 大学の A 学部」としたらどうだろう。 鶴田氏が、 「明確な コメントを求め」ている 記述を、 この手の記述に 書き直してみれば、 A 学部で 1gXX. 年から 00. 年まで日本語・. 「. A 大学. 日本事情を受講した。 B 国の B 大学. B 学部で日本語を 専攻する。 C 国人、 D 歳 、 性別記述 無 、 予備教育 19 ムム年度. 生 」という訳のわからない 記述になる。 鶴田氏は、 そうした事態を 避けるため に、 それぞれ類推をほどこして 少し ズラ した記述にしている。 架空の実践報告 にどれだけの 意義があ るの な ろ. う. 。. 上述のような 基本的な情報を 全部抜いたニーズ 分析は、 もはやニーズ 分析 と しての意味をもたない。 事例研究の資料は 具体的であ ることが生命なのであ る。 「国名、 年齢、 性別、 出身学校の実名、 年度等」のディテールは 決して、 A 「. 」. の ニーズ分析にとって 無用な背景ではない。. 事実には事実としての「重み」があ り、 情報価値があ る。 筆者たちの実践報 告 がいく人かの 他 大学の予備教育関係者から「貴重な 資料」として 受け入れら れたのも、 こうした先行の 予備教育の「記録」としての 価値が、 地大学での 子 備 教育の コ一 ス デザインの決定に 役立った面も 大きいと思われる。 また、 1994 年度双期の横浜国立大学留学生センターがどのような. 研修生に対して 既習者教. 育を行ったかという 授業実践報告は 、 大きな目で見れば、 国立大学の留学生 セ ンター の 予備教育の歴史の 一局面を記録してもいるのであ る (注 2) 。 したがっ. 一 80 一.
(6) て. 「さまざまな 細かい描写を 全く欠いて」「意味がない」のは、 人類学の報告. 書だけでなく、. あ. る意味で、 報告書全般にあ てはまることなのではないだろう. か。 前回の「コメント」をする 際に、 筆者が民族学会の 論争に心をとめたのは、 実践報告の「記録的性格」が エ ス / グラフィー. ( 民族誌 ). と通じる点があ る、. という含みもあ った。 鶴田試論と筆者の 間で「必要最小限」の 理解が違ってくるのは、 おそらくは、. 「必要最小限」の「必要」の. 性質を考察する 観点が ズ しているためだろう。 鶴. 田 試論では、 ひたすら「個人を 特定されないようにするべきだ」というのが. 「必要」度をはかる 基準の第一となっている。 それに対して、 筆者は、 もちろ ん、 単純に「事実の 重み」を最優先すべきだと 言っているのではない。. 「事実. の 重み」と「プライバ 、ン一権 」はその都度の 状況に応じて 判断されるべきであ. り 鶴田氏のように 何がなんでも「個人が 特定されてはならない」という「 普 遍 原則」をふりかざせばすむという 問題ではない、 と言いたりのだ。 学習者のプライバーン 一に関しては、 筆者は、 実際の現場での 日本語教育の 問 題点や授業方法、 そのための工夫を 報告する中で 名前を変えて、 特定できない ようにするか、 留学生の了承を 得た上で授業の 記録. ャ. 生をあ. る程度尊重するのか、. 悩みつつ判断してきている。 仮名にする必要があ る場合には仮名にし、 国籍を 書くことで学習者に 影響を及ぼす 疑いのあ る場合には、 別の国籍にする 場合も あ る。 しかし、 実践報告の A 、 B 、 C 、 D 、 E に関しては、 前回の「コメント」. でも述べたように、 原稿の段階で 留学生たちの 了承を得た上で、 授業実践者. と. して「必要最小限」との 判断のもとに 報告したのであ る。 どこまで具体的な 記述をするかは、 その著者の考え 方、 記述対象者との 関係 のあ り方、 報告の狙い、 報告の学問的・ 時代的背景等々によって 異なってくる のが当然であ り、 ミニマム・エッセンシャルについて 客観的な基準を 単純に設 走 することはできない。. 日本語教育の 実践報告は、 日本が地球市民として 外国の方々と 共存していく 上 でも、 事実の占める 重みは貴重であ り、 それを一般の 日本人にも認識しても. 一 81 一.
(7) もう. には、 まだまだわれわれの 努力は必要であ ると考えている。 実践報告は、. 論文のように 研究業績とは 直接結びっかなり。 しかし、 現場がかかえる 問題を 日本語教育関係者と 分かち合. う. という、 重要な意義があ る。 今後も多くの 先輩. 方の経験から 学びつつ、 また、 上述の民族学研究者たちの「調査被害」問題へ の取り組みからも、 さらに学んでいきたいと 思っている。 注. 1 ). 1 9 9. 8 年. 6. 月、 文部省留学生課と. (財 ). 日本国際教育協会によって、. 「日本語能力及び 留学生適正検査のための 調査研究者会議」が 発足した。 そこでも、 「既習者」の 日本語能力の 基準をどこにおくかが 問題となって い る. 。 大学が留学生を 現地で募集するにあ たって、 高校の成績を 考慮に入れ、. 日本語能力を 査定するとしても、 「既習者」の 能力をどう査定するか、. これ. まで「日本語能力試験」や「統一試験」では 測れなかった 能力を測ろうとし ている。 筆者が既習者のプレースメントテストの 「あ るまとまった. 点数以外に問題とした 点であ. 文を聞き、 その要旨をまとめ、 自分の意見を 述べる」、. 「. る 自. 分の主張をきちんと 述べる」などのコミュニケーション 能力、 表現力などが、 「. 新 テスト」で日本語 力 0 基準の一つになることは 嬉しい進展であ る。. 注 2) 留学生センターは 平成 された。 その後、 一年に は平成 8. 4. 3. 2. 年度に、 東大、 京大、 広島大学の. 3. 大学に設置. 大学の割で設置され、 横浜国立大学留学生センター. 年という比較的早い 時期にスタートした。 平成. 1 0. 年. 4. 月現在、. 2. の国立大学に 留学生センターが 設置され、 それぞれ予備教育を 行っている。. 横浜国立大学が 過去に予備教育を 担当した東京学芸大学、 一橋大学、 新潟大 学 進学者に対しては、 現在では、 それらの大学に 設置された留学生センター が予備教育を 行うようになっている。. 一 82 一.
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