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三河地方の川船と産業

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Academic year: 2021

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 岡崎市美術博物館の堀江です。三河には、 矢作川と豊川という 2 つの大きな河川があ りますが、本日は「三河地方の川船と産業」 ということで、二つの河川で使われた川船 と産業との関わりについて紹介します。岡 崎市美術博物館では 1999 年(平成 11 年)5 月に「矢作川−川と人の歴史−」という展 覧会を開催しました。その際には、さまざ まな矢作川舟運に関する知見を得ることが できました。また、最近では『愛知県史』 での調査で、豊川の舟運に関する新しい史 料が見つかり、『愛知県史』資料編 19 東三 河に収録できました。ここではこれらの成 果を踏まえて報告させていただきます。 1.三河の川船 (1)川船の所在と種類  最初に、三河の川船ということで、両河 川の川船の所在と種類にふれたいと思いま す。 1)矢作川  矢作川では、河口近くの中畑・田貫・平 坂・棚尾・鷲塚の村には多くの川船が存在 します。中畑・田貫・平坂は西尾市域、棚尾・ 鷲塚は碧南市域にあたります。川船の数は、 『西尾郷村雑書』によれば、西尾藩領の村 では、中畑村 22 艘、平坂村 10 艘、田貫村 8 艘とあります。その船の大きさについて は、一般的には「長さ 10 間(18m)∼ 13 間 (24m)、幅 9 尺(2.7m)」とされています。  これらの矢作川河口域に対して、上流域 となる古鼠、越戸、平藪、平古などの豊田 市域の村にも川船が多く所在しています。 このことは後でふれますが、岡崎の八丁味 噌醸造の燃料となる薪などの運送にはこれ らの村の船があたっています。古鼠・越戸 は矢作川本流筋、平藪・平古は江戸時代の 行政村としては岩倉村の一部で矢作川支流 の巴川筋の村です。これらの村は、いずれ も川船が遡上できる終点地、ターミナルに あたります。  矢作川流域で、豊田市と西尾市・碧南市 のあいだの岡崎市・安城市の市域の村には 川船があまり存在していないようです。岡 崎藩領の村にふれた「岡崎藩萬書上」(『新 編岡崎市史』7 巻所収)では、川船を所持す る村と数は岡崎投町 1 艘、藤井村 5 艘、八 町村 1 艘とあるのみで、不思議と川船を 持っている村は割りと少ない。川船は主に、 矢作川河口と上流域、上流域といっても矢 作川全体では中流域になるのですが、この 両極に集中して所在しているといえるで しょう。  豊田市域の渡合村の 1872 年(明治 5 年)、 「賀茂郡渡合村川舟書上帳」では「長さ 10 間半・幅 9 尺のもの 2 艘」、「長さ 4 間半・ 幅 4 尺 5 寸のもの 2 艘」とあり、川船の規 模により大小に区分して記録されていま す。『松平町誌』によると、根拠はわかりま せんが、長さ 11 間のものを「川船」、長さ 【歴史・民俗】

三河地方の川船と産業

元岡崎市美術博物館 副館長        岡崎市美術博物館 学芸員 堀江 登志実

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7 間のものを「小船」としています。矢作川 の上流域の川船では、ひとことで「川船」 といっても、長さや幅に違いがみられます。  川船の一般的な特徴としては、川の浅い ところでも航行できるように平底で、「苫」 と呼ばれる寝起きする空間があります。そ して、矢作橋を通過できるように帆柱は着 脱式になっています。 2)豊川  東三河の豊川では、舟運に使われる船は 「川船」と「鵜飼船」という表現で明確に使 い分けられています。豊川に幕府が設けた 船荷物を改める東上分一番所の船調査(「新 城町触書留帳」嘉永元年 10 月)では船を「川 船」と「鵜飼船」に区分しています。これに 対して矢作川の船に関しては、「鵜飼船」の 表現や、言葉の使い分けは確認できません。  鵜飼船は、乗本、長篠、有海など主に豊 川上流域の村が所有している船です。これ らの村は、新城町よりさらに豊川を遡上し た所に位置する村です。乗本村には、江戸 時代に廻船業者として繁栄した菅沼家があ り、そこの菅沼定正が鵜飼船を考案したと 言われますが、本当のところはわかりませ ん。  鵜飼船については、図示されたものがほ とんどなく、唯一『新城市誌』に鵜飼船の 図が掲載されています。これによると、舳 先と艫の両方が尖った形になっています。 一般的な川船が艫を切っているのとは異な り、両方が尖った形になっているのが鵜飼 船の特徴で、「急流や川幅が狭い場所の利 用に適する」という説明がされています。  乗本、長篠、有海の各村が所有している 鵜飼船の数については、『愛知県史』資料編 19 東三河 375(以下『県史』と略し、資料番 号を付す)に掲載されています。同史料に よると、乗本村では、1677 年(延宝 5 年) に 10 艘、1746 年(延享 3 年)に 5 艘増え、 さらに、1743 年(寛延 3 年)に 5 艘増加し、 合計で 20 艘となるように、近世中期にむ けて次第に鵜飼船の数が増加していきま す。  鵜飼船が主に上流域の船であるのに対し て下流域の船が「川船」です。その「川船」 と「鵜飼船」との境は、新城町と長篠村の 間の川路村のあたりと考えられます。川路 村より下流がいわゆる「川船」の活動の主 たるところで、それより上流が鵜飼船とい うふうに、活動する船の違いが史料にみら れます。そのことを語る史料に、1822 年 (文政 5 年)に横山村の船持が川路村(新城 市)から買い取った古船を鵜飼船に造り直 すというものがあります(『県史』383)。横 山村というのは、乗本村より少し豊川をさ かのぼったところにある村で、この史料は 横山村から乗本・長篠・有海の 3 か村船持 衆に一札を入れたものです。これには、「右 船は鵜飼船とは形も違い候事、是迄右形の 船長走より川上へ登荷物積入れさせ候儀こ れなき、……鵜飼船に造り直し」とありま す。「長走」より川上に「川船」が荷物を運ぶ ことはないと記しており、その「長走」の 位置がわかりませんが、とにかく川路より 上流では活動する船は形が違うために横山 村では船を改造して鵜飼船の形にしたとみ られます。1873 年(明治 6 年)3 月、乗本 村が愛知県権令に提出した史料(豊橋市橋 良文庫)では、鵜飼船は長さ 7 間半、巾 4 尺 5 寸 川船は長さ 7 間半、巾 5 尺 6 寸と あります。川船の方が、幅が少し広くなっ ています。  「鵜飼船」という名称は、遠江の天竜川

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水系でも使われています。天竜川水系で は「角倉船」に対して上流域の活動船とし て鵜飼船がみられます(『静岡県史』資料編 13、近世五)、また、美濃の揖斐川水系で も鵜飼船の名称はみられます(『岐阜県史』 史料編近世七)。 (2)船持と船人 1)豊川  豊川水系の場合、船を持っている人を「船 持」、そして実際に船に乗りながら活動す る人や船頭を「船人」というように、船の 所持者と実際に船に乗る船頭・船乗である 船人とが明確に分けられています。矢作川 の場合は、このようにはっきりとした区分 はみられません。  豊川上流域の乗本、長篠、有海村の船持 と船人について知ることができる史料に、 豊橋市美術博物館が所持している橋良文庫 に鵜飼船の通船規定があります。これは、 前述の鵜飼船を発案したという菅沼家の文 書です。この通船規定は鵜飼船が乗本、長 篠、有海の 3 か村から吉田・前芝湊まで、 荷物を運び帰るまでの往復日数、扶持米支 給など通船条件を記したものです。船持た ちが提示した内容について、船人たちが請 印しているものです。1747 年(延享 4 年) の通船規定では鵜飼船の上り下りに 2 日掛 けの場合、白米 4 升、銭 44 文、3 日掛け の場合は白米 4 升、銭 72 文を船人に支給 するなどとなっています(『県史』379)。  現在、通船規定はこの 1747 年(延享 4 年) のほかに、1773 年(安永 2 年)、1792 年(寛 政 4 年)、1817 年(文化 14 年)のものが残 されていますが、それぞれについて船持と 船人の人数をまとめたのが【表 1】です。乗 本村に多くの船持と船人がいることがわか ります。安永 2 年の例では、乗本村には 10 人の船持がおり、なかでも船人をたく さん抱えているのが、乗本村の菅沼八左衛 門です。通船規定によると、乗本村の八左 衛門は 16 人、十左衛門は 6 人、次郎八は 4 人の船人を抱えています。他の同時代史 料により、それぞれの船持がどれだけの船 を抱えているかを見ると、八左衛門は 8 艘、 十左衛門は 3 艘、次郎八は 2 艘です。この ことからすると、鵜飼船 1 艘の船に乗り込 む船員は 2 人と考えられます。  また、この通船規定には、船人の出身地 を記しており、船持たちが地元だけでなく 他国からも船人を雇い入れているのがわか ります。1747 年(延享 4 年)の場合、乗本 村と長篠村合わせて 39 人の船人のうち、 他国出身者は 15 人います。その内訳は、 伊勢が 9 人、美濃が 6 人です。また、1817 年(文化 14 年)の場合、3 か村の船人 63 人 表 1 乗本村 長篠村 有海村 船持 船人 船持 船人 船持 船人 延享 4 年 8 25 5 14 安永 2 年 10 40 6 15 寛政 4 年 13 48 7 18 1 文化 14 年 12 42 6 19 1 2 ※豊橋市橋良文庫菅沼家文書より作成

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のうち他国出身者は 22 人で、その内訳は 美濃が 13 人、伊勢が 9 人です。このように、 地元のほかに伊勢と美濃の国出身の船人が 多いことも一つの特色といえます。美濃あ たりでは、木曽川舟運で栄えた黒瀬村(岐 阜県八百津町)の出身者が多くみられます が、これは川と海を通じての伊勢湾一帯に 人の動きがあることが想定されます。なお、 他国出身の船人については、通船規定のな かにも言及されており、「雇用の契約を打 ち切った場合は片時も置いてはいけない」 というようなことが決められています。  船持と船人が対立することもあります。 菅沼家の史料には乗本村などの船人 60 人 余りの頭取として善吉・長十・市三郎の 3 人が、鵜飼船の棹賃引下げに反対し、徒党 を組んで船持八左衛門に徹回を迫ったとい うと記録があります。1767 年(明和 4 年) 10 月に船人善吉らが船持に宛てて出した 詫一札のなかに記されているものです(『県 史』381)。また、石田村(新城市)の船人 12 人が荷物取扱いの件で、1852 年(嘉永 5 年)7 月、船持から印形を強制されたが、 集団でこれを拒否したという記録がありま す(『県史』382)。船持と雇用される船人の 鋭い対立に関する史料がまま見られるとい うのも豊川舟運の一つの特色です。  また、菅沼家の史料ですが、1767 年(明 和 4 年)閏 9 月の乗本村船持連印一札によ ると(『県史』380)、乗本村八左衛門に雇わ れていた船人で、美濃国加茂郡細目村(岐 阜県八百津町)出身の久七、美濃国方県郡 嶋田村(岐阜市)出身の善蔵の 2 人は、船 持の八左衛門が所有する長屋を宛がわれて 住んでいましたが、善蔵が久七の家財を 奪って欠落する事件が起きて問題となって います。雇用される側の立場にある船人の 境遇を知ることのできる史料です。 2)矢作川  矢作川の場合、船持と船人については史 料がなく、両者の関係はよくわかっていま せん。「船持」と船に実際に乗り込む「船人」 (船頭、船員)は分かれておらず、一体化 しているのではないかとも思われますが断 言はできません。矢作川を利用した荷物の 送り状については、「○○村□□船送り状 の事」という文言形式のものが多々見られ ます。□□のところに船人の名前が入りま す。  具体例としては、次の史料を示しましょ う。 【史料 1】 中畑久平船送状之事 一かわむき拾七俵 右之通り積送申候間、着之砌御改御受取 可被下候、以上  午五月十九日        岡崎八丁        早川久右衛門(印)   平藪酒屋善右衛門殿 (豊田市宇野家文書)  岡崎の八丁味噌醸造で知られた早川久右 衛門家が「かわむき」(皮麦)17 俵を平藪(豊 田市)の酒屋宇野善右衛門家に川船で送っ たものですが、中畑村久平の川船で送ると 記されています。ここでは、船の持ち主も 船頭も中畑の久平であると考えられます。 すなわち、船持と船人が分離されずに、船 持は船人でもあるとみられます。  次の史料は矢作川の川船について「船持」 という文言がみられる点、さらに川船組合 の存在を知ることができる点において貴重 な史料です。

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【史料 2】  差出申一札証文之事 一此度御連中様江御願出シ、早速御聞済可 被下候、私シ船持と相成、難有仕合と奉 存候、然者御城米不及申、商荷等ニ至迄 急度大切ニ可仕候、若又為替金并ニ何様之 儀出来仕候共、御組合式法ヲ承り親類加 判之者 急度取片付可被成候、御連中様 江少シも御苦労之筋相成申間敷候、為後 日壱札仍而如件  明治二巳年     船持     正月日      騰右衛門㊞        引受        治助㊞  小川組    御連中様 (豊田市郷土資料館特別展「川をめぐる くらし」11 頁写真より)  新規に船持となった騰右衛門が、川船組 合の規定を守る一札を 1869 年(明治 2 年)、 小川組の船持連中に入れたものです。船持、 船頭の組合についてはこれ以外の史料がな く全く不明です。 2.矢作川と豊川の舟運と産業  川船と関わりのある産業について、矢作 川では岡崎の早川・大田両家の八丁味噌醸 造、豊川では乗本村菅沼家の回漕業につい て紹介しましょう。 表 2 早川家「大豆買帳」にみる大豆の産地 上州 吉田 田原・畠 地元 東北 九州 その他 合計 天明 6 年 300 210 46 120 676 天明 7 年 1077 78 486 1641 天明 8 年 972 65 100 102 224 184 1647 寛政元年 976 310 157 1443 寛政 2 年 885 305 1190 寛政 3 年 130 205 335 寛政 8 年 270 898 200 32 92 1492 寛政 9 年 694 55 589 119 30 1487 寛政 10 年 619 808 88 150 1665 寛政 11 年 718 411 1129 寛政 12 年 132 1250 218 43 1643 享和元年 852 247 49 284 1432 享和 2 年 266 76 67 425 130 96 1060 享和 3 年 552 96 648 文化 2 年 600 290 101 55 82 1128 文化 3 年 194 842 65 1101 文化 4 年 234 133 367 8743 4183 945 536 3998 932 747 20084 ※単位は俵 ※東北は南部・津軽・最上・庄内・越後・秋田・花巻・能代・仙台・宮古・八戸・本石 ※九州は肥後・筑前・豊後・島原・唐津

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(1)早川家・太田家の八丁味噌醸造  矢作川流域の八丁味噌醸造については、 早川家と太田家の 2 家による醸造が江戸時 代から現在まで続いています。八丁味噌の 醸造には、材料として、大豆、塩、大豆を 煮るための燃料、水が必要になります。 1)大豆  大豆購入に関しては、早川家には 1786 年(天明 6 年)10 月から 1807 年(文化 4 年) 1 月まで、約 20 年間の史料「大豆買帳」が 残されています。この史料には、大豆の買 入先問屋、運搬船、大豆購入量、運賃など が記されています。仕入先問屋は、平坂の 石川小右衛門、市川彦三郎、吉田の尾崎彦 九郎などです。早川家が買っている大豆の 産地を集計したものが【表 2】です。1786 年(天明 6 年)∼ 1807 年(文化 4 年)の間 で、数値が記されていない年があります が、大体 1000 俵以上の大豆を早川家では 毎年購入し、味噌を仕込んでいるといえま す。一番多いのが上州大豆で、すなわち上 野国(現、群馬県)の大豆です。この間に 仕入れた大豆の総合計 2 万表少々のうち約 8700 俵、すなわち 4 割 4 分ほどが上州大 豆です。次に多いのが、三河吉田の大豆で す。吉田で約 2 割、田原・畠村など三河の ものを含めると約 2 割 8 分となります。東 北産については、南部・津軽・最上・庄内・ 越後・秋田・花巻・能代・仙台・宮古・八 戸・本石からの仕入れを合計すると、約 2 割となります。また九州産については、肥 後・筑前・豊後・島原・唐津の合計で 5 分 ほどです。このような内訳になります。  大豆を運んだ川船についてまとめたの が、【表 3】です。運搬船の多くが中畑村の 船です。大豆は先述の産地から海を廻船に 表 3 早川家「大豆買帳」にみる川船 川船の村 船頭の名前 運送回数 中畑 文右衛門 12 中畑 文左衛門 1 中畑 平四郎 29 中畑 勘七 83 中畑 孫八 1 中畑 長三郎 2 中畑 忠八 11 中畑 曽七 16 中畑 萬右衛門 1 中畑 利助 1 中畑 兵助 5 中畑 長七 9 中畑 左七 6 中畑 仁平 77 中畑 久八 1 中畑 長四郎 3 中畑 武右衛門 4 中畑 仲右衛門 1 中畑 兵七 1 中畑 仁兵衛 2 中畑 林蔵 8 中畑 幸八 9 中畑 太郎左衛門 7 中畑 又兵衛 4 中畑 勝右衛門 1 中畑 宗八 1 中畑 久七 7 中畑 豊吉 1 中畑 又八 1 中畑 利助 2 中畑 伝四郎 1 中畑 幸吉 2 中畑 源左衛門 3 中畑 孫左衛門 1 中畑 善吉 3 中畑 弥次右衛門 3 中畑 重右衛門 1 集計 321 田貫 長蔵 2 田貫 文六 1 田貫 磯吉 1 田貫 萬吉 2 田貫 武助 1 田貫 清蔵 2 集計 9 棚尾 万助 1 平坂 市右衛門 6 平坂 兵助 15 平坂 伊三郎 1 平坂 勘七 1 平坂 惣八 1 八町村(手船)忠八 1 八町村(手船)忠八 忠兵衛 1 八町村(手船)忠八 弥左衛門 4 町 金蔵 1 大浜 八左衛門 1 大浜 長左衛門 1 犬塚 善右衛門 1 荻原 徳兵衛 1 ※寛政 4 7 年分欠

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よって三河平坂まで運ばれ、そこで一端荷 揚げされ、平坂から岡崎の八町土場まで川 船で運ばれます。表のなかの運送回数は平 坂から八町土場まで船頭ごとに運んだ回数 を記載しています。中畑村の船頭の運送回 数は 321 回で、圧倒的に中畑村の船の活動 が多いことがわかります。また、中畑村の 船の船頭数は 37 人で、運送回数 321 回に 及びます。なかでも運送回数の多い船頭が 勘七と仁平です。この 2 人だけで 160 回運 んでいます。つまり、中畑村の船が運んだ 大豆の約半分を、この 2 人の船が運んでい るということになります。 2)塩  八丁味噌の醸造に使われる塩について は、伊藤孝美さんの研究があり、ここで はそのなかから早川家の「塩買入帳」(「岡 崎八丁味噌と饗庭塩 1」(岡崎市郷土館報 51))による【表 4】と、大田家の「味噌仕入 帳」」(「岡崎八丁味噌と饗庭塩(完)」(岡崎 市郷土館報 52))による【表 5】を転載して 紹介します。  まず、早川家の「塩買入帳」の【表 4】は、 1851 年(嘉永 4 年)から 1873 年(明治 6 年) までの史料で、統計のない年もありますが、 購入塩数量、塩相場、運賃、小駄賃、川揚 げ賃、口銭、升銭、運上についてまとめた ものです。早川家が主に仕入れている塩は、 購入先は冨吉外新田(旧吉良町)の大岡屋 鈴木健治で、「饗庭塩」と呼ばれている塩だ と報告されています。  幕末から明治にかけては 1 両で買える塩 俵数がだんだん減っており、塩相場がかな り高くなっていること、川船の運賃もかな り高騰しているとことがわかります。小駄 賃については、馬で運ぶ運賃のことかと思 われますが、これも値上がりしています。 口銭というのは 100 俵に付きいくらかを塩 座に納める銭のことです。矢作川を遡上す 表 4 早川家「塩買入帳」 購入塩俵数 大岡家より購入 塩相場(1両) 運賃(1俵) 小駄賃(1俵) 川揚(1俵) 口銭(100俵) 升銭(100俵) 運上(100俵) 嘉永 4 年 1100 俵 1100 俵 19.5 俵 16 文 6 4 文 3 4 文 5 10 匁 1 2 匁 0 9 匁 0 嘉永 6 年 1000 1000 25.5 16.60 4.34 4.40 6.97 2.00 9.45 安政 3 年 1259 1150 24.0 16.60 4.24 4.39 8.41 2.43 9.50 文久 2 年 1852 1500 19.0 16.53 3.94 4.48 12.59 2.00 9.45 文久 3 年 1360 1360 13.0 16.92 4.66 4.65 17.22 2.00 9.12 元治元年 1000 1000 8.0 19.83 4.99 4.58 35.00 2.00 9.34 慶応元年 725 725 8.0 24.98 5.25 5.33 24.65 2.00 9.52 慶応 2 年 750 750 6.5 33.33 6.66 6.89 35.40 2.00 9.50 慶応 3 年 850 850 9.5 67.36 14.60 10.51 22.00 1.82 9.45 明治元年 685 685 6.5 88.00 15.34 16.39 26.94 3.00 9.44 明治 2 年 593 593 3.2 102.35 74.74 3.00 明治 3 年 950 950 4.3 124.72 14.59 43.17 3.00 明治 4 年 1220 1220 5.0 137.60 16.76 38.86 3.00 明治 5 年 690 500 9.2 14.61 16.16 3.00 明治 6 年 936 880 8.5 14.00 22.47 3.00

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る塩を載せた船は、原則として矢作橋で止 められ、そこから先は、岡崎の伝馬町と田 町という 2 つの町にある塩座の改めを受け なければ運べないようになっていました。 例外的に挙母藩、尾張藩領の渡辺家領の塩 については遡上が一部認められていたよう ですが、岡崎の塩座を通じて塩を流通させ なければならないという特権が江戸時代を 通じて岡崎の伝馬町と田町にはありまし た。  次に大田家の【表 5】ですが、塩の名称、 代金、塩相場、購入俵数、仕入先を記して います。1721 ∼ 1727 年(享保 6 ∼ 12 年) と江戸前期についてのものです。塩の購入 先は平坂・与次兵衛からのものが多くみら れ、塩の名称で「合場」とあるのは饗庭で 西尾市吉良産の塩です。「合場」のほかはた だ塩とあるだけで産地が明記されていませ ん。使っている塩が三河の饗庭塩だけでな く、播州の赤穂塩の可能性もあります。大 田家の味噌仕込帳(『岡崎市史』近世史料下 346)には「赤穂塩と饗庭塩と半分合候へば 口明よく御座候、赤穂塩多く御座候へば、 味噌に相成候てけし殊のほか多く御座候」 とあるように赤穂塩と饗庭塩を混ぜること の効能とか、「赤穂塩は饗庭塩より塩のき き良きように存ぜられ候」と赤穂塩につい て評価する文言があります。愛知県史編纂 の調査で、矢作川支流巴川上流の足助の小 出家の塩購入に関する史料が明らかになり ましたが、小出家の味噌醸造には饗庭塩と 赤穂塩の二つを混ぜて使っている史料があ ります。足助に入ってくる塩には、矢作川 を川船で遡上させ、塩座を通じて巴川沿い の平古から足助街道を運ばれる饗庭塩と、 名古屋から飯田街道を陸路で運ばれる赤穂 塩の 2 つがあります(堀江登志実「西三河 の地域と矢作川―足助町小出家文書の検討 を通して」『愛知県史研究』第 5 号)。足助 での味噌醸造には赤穂塩と饗庭塩が混ぜ合 わされているほか、信州方面に送られる塩 については、足助で饗庭塩と赤穂塩の二つ を混ぜて足助のブランドとして送り出した とされています。 3)燃料  味噌を造る上で必要なのが大豆を煮る燃 料の木です。これについては、早川家に「才 木槙買帳」という、幕末期の 1861 年(文久 元年)∼ 1866 年(慶応 2 年)の史料が残っ ています。「才木」・「割木」という燃料とな る木材の購入先と量、それを運んだ川船、 表 5 太田家「味噌仕入帳」 名称 代金 塩相場(1 両) 俵数 仕入れ先 享保 6 年 8 月 13 日 塩 6 両 12 俵半 75 俵 享保 6 年 11 月 7 日 塩 3 両 11 俵半 平坂・与七郎 享保 7 年 6 月 29 日 塩 6 両 25 俵 150 俵 平坂・与次兵衛 享保 8 年 7 月 合場塩 6 両 30 俵 180 俵 平坂・与次兵衛 享保 9 年 6 月 合場塩 9 両 39 俵 312 俵 平坂・与次兵衛 享保 10 年 塩 4 両 37 俵 148 俵 平坂・与次兵衛 享保 10 年 塩 4 両 36 俵 144 俵 平坂・与次兵衛 享保 11 年 6 月 11 日 塩 10 両 38 俵 380 俵 享保 12 年 6 月 11 日 塩 8 両 44 俵 352 俵

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運賃などを記している史料です。ここから 購入先の問屋の場所ごとに問屋とその購入 回数をまとめたものが【表 6】です。問屋の 場所については、小峯、古鼠、越戸、百々 までが矢作川本流筋に、平古、九久平、中 垣内、平藪、六ツ木までが支流巴川筋にそ れぞれ位置します。これらはいずれも豊田 市域にあたります。「小峯」というのは、図 にあるように川船が遡上できる古鼠よりか なり上流に位置し、小船により岡崎まで運 んでいるものとみられます。【表 6】による と、主に古鼠の問屋源之助・白木屋正十郞 と、九久平の豆腐屋茂七の問屋から多くを 購入しています。さらに、この早川家「才 木槙買帳」から、どこの川船が運んでいる かをまとめたものが【表 7】です。一番多い のが、平藪の船です。平藪は巴川筋にあ る村で、そこから船が 12 艘、回数として は 24 回運んでいます。平藪のほか、越戸、 古鼠、平井、百々、牛ノ村、渡苅、渡合ま でが現在の豊田市域の村です。桑原、細川 は現在の岡崎市域、藤井は安城市域のそれ ぞれ村です。さらに、鷲塚は碧南市域、中畑、 田貫は西尾市域のそれぞれ村です。東浦と いうのは、現在の碧南市域の村の一部です。 【表 7】によると、活躍している船は矢作川 流域全般にわたってみられますが、傾向と しては上流域の船が多いといえます。 4)味噌石  味噌の仕込みで使われる丸石がありま す。味噌蔵にある桶の上には、石がうず高 く積まれ、その石の重さは 3 トンくらいあ るといわれます。この味噌石は、現在は河 川法により石を採ってくることができない から昔からのものを大事に使っているとい います(合資会社八丁味噌『カクキュー  山越え谷越え 350 年』2000 年 9 月)。この 表 6 早川家「才木槙買帳」にみる問屋 問屋の地名 問屋名 購入回数 小峯 清助 2 古鼠 問屋源之助 16 古鼠 白木屋政十郎 15 古鼠 善左衛門 1 古鼠 材木屋彦右衛門 3 古鼠 古井政十 2 越戸 五助 2 越戸 弥兵衛 1 百々 今井善六 3 百々 貝津屋茂吉 2 百々 白木屋今次郎・貝津屋茂吉 3 平古 専之助 1 九久平 豆腐屋茂七 25 九久平 伴蔵 3 中垣内 和泉屋源助 1 平藪 彦左衛門 3 六ツ木 常右衛門分、岡田屋良助 1 六ツ木 常右衛門、磯貝次右衛門 1 矢作 常右衛門 1 表 7 早川家「才木槙買帳」にみる川船 川船の村 船数 回数 平藪 12 24 越戸 4 6 古鼠 7 11 平井 2 3 百々 1 2 平古 4 4 牛ノ村 1 2 渡苅 1 1 渡合 3 4 桑原 1 4 細川 1 1 藤井 1 1 鷲塚 1 1 中畑 9 9 田貫 1 2 東浦 1 1 上原 1 1

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石がどこから運ばれてきたのかをうかがえ る史料に【史料 3】があります。 【史料 3】 覚 一丸石  一艘 忠八船   代  壱貫百文  右之通御改御受取可被下候       ふつそ(古鼠)   とら三月四日      金三郎㊞  岡崎八丁   早川久右衛門殿 (岡崎市早川家文書)  この「忠八船」というのは、早川家の「大 豆買帳」に八町村手船忠八とある忠八船で、 早川家の手船とみられます(【表 3】参照)。 手船というのは自分が所有する船で、早川 家では川船を所有していたようです。【史 料 3】からは、古鼠の金三郎という問屋か ら、「丸石」、つまり角のとれた丸い石を早 川久右衛門家が購入していることがわかり ます。味噌醸造に使われた味噌石も古鼠な どの矢作川上流から運ばれたものと考えら 図 1 三河国交通図 前芝 田貫 渡合 小峯 川路 長篠 横山 有海 乗本

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れます。 5)販売  味噌の販売については、早川家の合資会 社八丁味噌の社史ともいうべき『山越え谷 越え 350 年』に 1837 年(天保 8 年)「註文覚 え」が掲載されており、同家で醸造された 味噌の販売先を知ることができます。これ によると、江戸では、伊勢屋吉之助 80 樽、 白子屋仁兵衛 23 樽、田端屋武兵衛 17 樽、 萬屋平三郎 13 樽、大和屋善吉 13 樽、ほか には中屋吉助、伊藤利助、伊勢屋八兵衛、 伊勢屋作兵衛、伊勢屋伝右衛門、枡屋七左 衛門、牛込末寺町・木村休辺。  尾張名古屋では熱田白鳥・小沢屋市兵衛 6 俵、玉屋町・麩屋萬兵衛 3 樽、宮町・福 島屋幸助 1 樽小樽 2、ほかには本町 1 町目・ 駒屋源兵衛、伝馬町・山屋次右衛門など。 京都では三条通り東洞・岡田小八郎 6 樽(大 坂北浜井池ノ角 大坂屋小三郎迄)、四条 高瀬・山崎屋弥助 1 樽(大坂道頓堀日吉橋・ 嶋屋佐右衛門殿迄)。三河では、新堀・深 見佐兵衛 14 樽、平坂・石川小右衛門 2 樽 小樽 1、土呂・成瀬林右衛門 3 俵、平坂・ 七福丸源六 2 樽小樽 7、ほか九久平・伊八、 中村・中根甚助となっています。  弘化年間の早川家の史料(「江戸当座帳」、 「地廻当座帳」)によると、4 分の 1 ほどが 江戸へ出荷されています。1846 年(弘化 3 年)の史料によれば、日本橋呉服町の伊勢 屋吉之助のところへ、江戸への味噌の約半 分を卸しています。この日本橋呉服町の 伊勢屋吉之助については「三河みやけ」に も記されています。「三河みやけ」は、幕府 作事方仮役市川氏が、1852 年(嘉永 5 年)、 大樹寺成烈院殿霊屋造営・矢作橋修復のた めに岡崎に来た際に筆記したものを、成沢 氏が 1857 年(安政 4 年)に筆写したもので す。これには次のように記載されています。 【史料 3】(「三河みやけ」より抄録) 八丁ミそとて名物也、百文ニ三百三十目、 又三百五十目位也、八丁村ニ問屋二軒有、 弥左衛門方ニて直段承り候処、 一四斗樽入、正味十九貫目入、代金三分ト 六分、外ニ弐匁五分樽代、四分七厘平坂 湊迄、〆金三分三匁五分七厘 一小樽一斗入位、正味四貫八百目入、代銀 十一匁五分二厘、外ニ壱匁壱分樽代、壱 分七厘川舟賃、〆銀十二匁七分九厘 江戸取次所 南鍋町六丁目三河屋又右衛 門 麹町五丁目三河屋次郎八 呉服町伊勢や吉之助 牛込ツクド三河屋 吉之助 下谷いなり町一丁目三河屋茂八 右之外江者相廻し不申由、岡崎之早川久右 衛門方ニ而承り候よし (西尾市・岩瀬文庫蔵)  岡崎の名物八丁味噌の 2 軒の問屋のう ち、弥左衛門方(大田家)で値段を、早川 久右衛門方で江戸への出荷先を聞いたこと をそれぞれ書き留めています。 (2)乗本村菅沼八左衛門(為屋)と回漕業  豊川水系の産業では、乗本村菅沼八左衛 門家の回漕業を取り上げます。乗本村の菅 沼家が回漕業を始めたのは 1644 年(正保 元年)、17 世紀の半ば頃で、「羽根」という 河岸で上流から小船で運ばれる荷物の受け 払いをして、吉田などへ運送することを 生業としました。運んだ荷物は茶・辛灰・ 米・藍玉・山荷物などです。菅沼家文書の 1784 年(天明 4 年)「永代諸色覚」によると、 その取引先は、三河 50 人、尾張 28 人、江 戸 67 人、大坂 21 人、京都 8 人など広域に

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わたります。三河の内訳をみると、前芝 3 人、吉田 27 人、新城 1 人、赤坂 5 人、御 油 2 人、和泉 1 人、大岩 2 人、二川 3 人、 藤川 1 人、御馬 3 人、国府 2 人です(『県史』 267)。三河の取引先は主に東三河の商人で、 吉田が多く、新城が少ないという特徴があ ります。 1)菅沼家の経営内容  菅沼家の経営内容がわかる史料に 1776 年(安永 5 年)の「仕上勘定帳」があります (『県史』266)。 【史料 5】 「安永五申仕上勘定帳 菅沼八左衛門定基」  申年中金銀出入覚(A)  ・・・・・・・・・ 一金壱両三分     竹廣米五俵之代  未年茶壱万三千四百拾四本買高之利 一金四拾壱両三分 九百三拾文        茶之利  未年高七百七拾壱俵 一金三拾両ト     米之利  申新米冬売 一金八両ト      新米利  藍玉壱万四千三百五拾九枚買高 一金拾四両三分 八百弐拾三文        藍玉利 一金弐両ト 三百文  頼母子取金  挽板類売買 一金拾壱両三分 弐百四拾七文        吉田送り利 一銭五百五拾三文   名古屋送り荷物利 一金弐両壱分 三百五拾七文        江戸送り荷物利 一金四両三分 八百六文        所々送り荷物利 一金三分ト壱貫百八拾弐文        才木柄売買利 小以金百拾八両弐分 壱貫弐百三拾四文 ・・・・・・  合金六百六拾七両弐分 弐百三拾弐文  右者勝手江納候利徳金  ・・・・・  惣合金七百三拾八両三分 五百弐拾六文  右者申年入用金 出入差引 金七拾壱両壱分 弐百九拾文 不足 右者当申年金銀出入差引七拾壱両壱分弐 百九拾文本家身体へる  申大晦日改(B) ・・・・・ 茶買帳之部  申年買高〆テ 一茶壱万三千五拾八本 内花五百九拾六本  小川付 代金千六百四拾四両百九拾三文   外ニ金百両  申年送り候分掛り 合金千七百四拾四両百九拾三文   内  茶五千百廿壱本 内花四拾八本 前芝売   代金七百六拾両三分 六匁六分八厘  茶壱千弐百拾弐本      名古屋売   代金百八拾壱両壱分 六匁九分  茶五拾九本      新城売   代金八両三分 拾匁弐分  売合茶六千三百九拾弐本 代 金 九 百 五 拾 壱 両  八 匁 七 分 八 厘  代 七百七拾三文 右 引 残  茶 六 千 六 百 六 拾 六 本  内 花 五百四拾八本 代金七百九拾弐両三分 七百四拾四文  ・・・・・・ 荷物積送り帳之部 一金壱両三分 七匁七分壱厘

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       吉田・新兵衛有 一金三拾壱両ト七匁九分九厘        吉田・治兵衛有 一金拾七両壱分 拾三匁六分五厘        同・半右衛門有 一金拾八両弐分 七匁六分三厘        同・又吉有 一金七両壱分 拾四匁五厘        同・左五右衛門有 一金三拾五両三分 拾匁弐分一厘        前芝・吉蔵有 一金三拾両弐分 六匁三分八厘        名古屋有 一金六拾両弐分 五匁七分七厘        江戸ニ有 一金五両ト拾四匁弐分六厘        舟方預ケ 一金七両ト拾弐匁六分三厘        所々ニ有 小以金弐百拾六両 拾匁弐分八厘        代九百八文  辛灰積送り帳之部 一金百四拾七両壱分 三匁四分弐厘        江戸・喜右衛門有 一金六拾三両ト拾壱匁五分六厘        同・作兵衛有 一金八拾八両弐分 八分        同・甚太郎有 小以金弐百九拾九両ト七分八厘 代六拾 六文 一金百六拾四両 三百五拾七文        海老酒屋 年越金商物代〆テ 代金弐千八百両弐分 壱貫百八拾八文(C) ・・・・・・ (借方三口合) 残金五千七拾八両弐分 三百七十五文(D) 合金七千八百七拾九両壱分 銭弐百四拾七 文(C+D)  ・・・・・ 右 引 残 テ  金 六 千 八 百 三 拾 六 両 弐 分 ト 八百三拾三文 右者、安永五申年仕上勘定有金、去ル未年 仕上ケ金七千三拾七両九百六拾九文、依之 当申年金弐百両弐分ト銭百三拾六文不足  (安永六年)  酉二月十一日 (三河国八名郡乗本村菅沼家文書)  【史料 5】の前半部分、「申年中金銀出入 覚」(A)は、茶、米、藍玉、山荷物(山か ら出たもの)の取引勘定をまとめたもの で、損益計算書にあたるものと思われま す。茶・藍玉が代表的な取引物になってい ます。後半部分の「申大晦日改」(B)は「茶 買帳之部」、「荷物積送り帳之部」、「辛灰積 送り帳之部」に分けて、資産を書き上げて おり、当時の期末資産を計算した貸借対照 表にあたるものでしょう。最後の末尾に、 1776 年(安永 5 年)申年は前年未年に比べ、 200 両 2 分余ほど資産が不足、すなわち減っ ている、とまとめられています。 2)茶の取引  菅沼家において特に利益を生んでいるも のに茶がありますが、この史料の「茶買帳 之部」には、1776 年(安永 5 年)に買入れ た茶 13058 本のうちの 6392 本の販売先で ある前芝・名古屋・新城での売上本数と金 額が記されています。これによると、新城 での茶の売本数・額が非常に少ない点がわ かります。これは、前芝に新規の茶問屋が できて、新城を経ずに茶を直接前芝まで積

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み出すようになったためです。1755 年(宝 暦 5 年)7 月には、新城町の領主である菅 沼家は役所よりの領内触れで、近年前芝村 にて茶問屋が新しく出来て村々が前芝に茶 を舟積して出し新城町には茶を出さないの で新城町に出すように領内に触れています (『県史』268)。新城町人は、茶など 5 品は すべて新城町で請け払いできるように領主 菅沼家に願ったようで、1758 年(宝暦 8 年) 11 月には幕領である乗本村はこれに反対 して茶など山荷物の吉田・前芝湊への通船 を中泉役所に願っています(『県史』269)。 3)前芝湊までの茶運送費用  【史料 6】の「秋摘下茶売買直段明細帳」 (菅沼家文書)は、前芝湊まで出した茶の 数量と値段、運送費用について年ごとに記 したものです。 【史料 6】 「秋摘下茶売買直段明細帳 乗本村為屋八 左衛門」(寛政 2 年 5 月) (中略) 天明五巳年 一秋摘下茶壱本  平均皆掛拾壱貫五百目  内弐貫三百目  上目風袋引  六百目     売掛目切  小以弐貫九百目引          上中茶無御座候         四十八貫より五十三貫迄 正実八貫六百目        但し金壱両ニ付四拾九貫替  代拾匁五分三厘 是ハ右直段を以、当国宝飯郡前芝村権兵衛 江八千四百六拾本売渡し申候 右仕訳 銀九匁三分六厘  元買入直段  此茶壱本正味九貫弐百目       金壱両付六拾八貫替  一銭八文    川岸出賃  是ハ当村川岸迄五丁程駄賃 一銭拾弐文    東上村拾分一御運上 一銭五拾四文       乗本村より前芝村迄川船運賃 一銭弐文五分   吉田口銭 是ハ村方船ニ而乗下候ニ付吉田船待会所 江差出申候 一銭八文     問屋権兵衛へ口銭 一銭弐文     前芝小揚  小以八拾六分五分 両ニ銭六貫文替  此銀九分弐厘  合拾弐匁弐分六厘 差引  銀弐分七厘   過利潤 (三河国八名郡乗本村菅沼家文書)  元買入値段、河岸出し賃、東上分一運上、 吉田口銭(吉田船町の上前銭一九品)、問 屋権兵衛への口銭、荷揚げ賃が記されてい ます。前芝湊までに運送されるには、乗本 村河岸まで出す費用、東上分一番所で徴収 される運上、「吉田船町の上前銭十九品」と いわれる吉田船町が豊川を通じて運ばれて きた山荷物に対していくらかの金銭を徴収 する「吉田口銭」などの費用が掛かかって います。これらは売値段に転嫁されます。 4)海上輸送  菅沼八左衛門家の荷物は、豊川河口部分 の問屋により江戸に送られますが、その荷 物の運送の取り扱いをめぐって、1860 年 (万延元年)8 月、菅沼八左衛門(代理次兵 衛)、同正兵衛など山方荷主惣代 5 人は下 流域の吉田・前芝・御馬湊の 4 問屋と内 済の議定書を取り交わしています(『県史』 410)。これは、問屋が荷物を江戸に回漕す

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るうえで一端知多半島の亀崎湊に揚げ置い たところ、同年 5 月 11 日の大風雨高津波 により荷物が流失散乱した事故があり、荷 主と問屋が対立したためです。議定書は、 荷物保管料の庭銭を増額することで荷物置 き場に納屋を建て、荷物が濡れないように することなどを取り決めています。当時、 江戸へ回漕する荷物は半田・亀崎の樽廻船 による酒荷物の運送に便乗させることが行 われており、亀崎に荷物を揚げ置いた背景 には当時の海上輸送での知多半島の江戸廻 船の活躍があります。吉田湊などの 4 問屋 は先述の荷物流失事故に関連して、半田組 の樽廻船仲間と積み込む山荷物の積高割合 や、運賃などについて 1860 年(万延元年) 8 月と 9 月に取り決めを行っています(『県 史』414)。江戸への運送に三河の廻船でな く知多の廻船が利用されるのです。 3.川船と分一番所 (1)分一番所  矢作川と豊川には、幕府が設置した分一 番所があります。分一番所とは、川を下っ てくる船の荷を改めて、運上金、つまり流 通税を徴収する施設です。豊川は東上村に、 矢作川は細川村(もとは東広瀬村)に設け られました。東上分一番所設置は 1643 年 (寛永 20 年)とされています。分一税の幕 府による徴収は遠江の天竜川でもあり、天 竜川では鹿島に分一番所がありました。幕 府が分一税を賦課する背景には河川は幕府 の支配下にあるという考えがあるようで す。  分一徴収というのは、もともとは山から 切り出した材木を川下げする時に 10 分の 1 を徴収することから始まったものです。 最初は材木が対象でしたが、のちには米以 外の川を下る荷物からも徴収されました。 東上分一番所では、1691 年(元禄 4 年)か ら白木類のほかに山稼ぎの品々にも課税さ れ、1735 年(享保 20 年)の分一規定(「三 州東上分一御運上品訳定値段帳写」(『一宮 町誌』近世文書資料編)には 140 項目余り の課税品目がみられます。角材・丸太類= 10 分 1、木皮・薪類= 20 分 1、木板・榑木・ 枌・酒桶・木の実・炭・辛灰など= 30 分 1、 石砥・石臼・石塔類= 50 分 1、折敷・盆・ 山漆・椀・杓子・重箱など= 100 分一 と あります。これらは金銭で徴収されるよう になります。  分一税については、川を下るものには課 税され、遡上するものには非課税でした。 このことをどのように考えるか問題となる ところですが、分一税を流通税というより も、山で生み出される産物に対する課税、 一種の年貢とみることもできましょう。幕 府は山野を無高として年貢の税を課してい ません。そのために山林の材木や山野から の産物に税を賦課することにしたと考えら れます。ただ、その税率は米と比較すれば、 かなり低いものとなります。幕府の主たる 財源はあくまで田畑の米年貢であるとの判 断が幕府にはあります。  分一税の徴収品目の拡大は、上流域山間 部における生業の発展が影響しています。 東上分一番所では、1735 年(享保 20 年)の 規定以降、1738 年(元文 3 年)の「添分一」 で串柿など 3 品目、1743 年(寛保 3 年)の「新 分一」では茶など 5 品目が増えています。 新城から吉田に運送される商品が増えると みられます。また、矢作川では、東広瀬に 置かれていた分一番所は、1718 年(享保 3 年)に支流の巴川と本流が合流する箇所の 地点である細川村に移転となります。これ

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は足助などの町の発展とともに盛んになっ た巴川筋での舟運に対応して幕府が課税を 意図したためと考えられます。 (2)運上金の徴収と手形  東上分一番所で運上金の徴収を請け負っ た東上村の浅若家には、船から出された手 形の史料が多く残されています。手形は、 基本的には上流域の問屋が発給します。手 形には荷の品名・個数、船の名前などが記 されます。二つの例を示しましょう。 【史料 7】 ①差上申一札之事  一檜角大小三拾弐本     壱艘  一同三拾本         壱艘  一同三拾三本        壱艘   下□木弐本 〆 右之通相違無御座候、豊川妙厳寺御普請木 ニ御座候、御運上之儀ハ妙厳寺より御上納 可被成候御事御座候、御改御通可被下候、 以上  辰正月四日    とり原       平右衛門(印) 東上御役所 (豊川市・浅若家文書) ②指上申一札之事 一龍荒拵へ壱丁、豊川妙厳寺稲荷大明神 様細工物差下し申候所、無滞御通し可 被下候、    長九尺 巾弐尺弐寸   御運定儀者、追而御上納可仕候   十一月九日      新城 わたや 幸右衛門(印)  東上御番所御役人様 (豊川市・浅若家文書)  どちらも天保期に豊川稲荷(妙厳寺)が 普請により整備されることに関係する史料 です。①は鳥原村(現、新城市)の問屋平 右衛門、②は新城のわたや幸右衛門が発給 した手形です。①では分一運上は材木の納 入先の妙厳寺より、②は問屋より追って納 入するとしています。問屋からの運上は月 ごとにまとめて納入するようです。荷問屋 による分一運上の月極め支払は、東上番所 が船持手形主に月極め運上納高の書付を差 しだすよう村役人を通じて命じていること (『県史』394)、乗本村の問屋為屋庄作が東 上番所に出した 1781 年(天明元年)の分一 運上の届出には毎月の運上額と船数を書き 上げていることからもわかります(豊橋市 橋良文庫文書)。 (3)東上と細川の分一運上額  東上と細川の分一運上額については、【表 8】をご覧ください。浅若家文書「分一御運 表 8 分一運上取立額 年 東上 細川 合計 細川のうち足助道陸荷 寛政 9 年 12 月 寛政 10 年 11 月 513 両 2 分 318 両 2 分 832 両 13 両 2 分 寛政 10 年 12 月 寛政 11 年 11 月 557 両 3 分 2 朱 363 両 2 分 2 朱 921 両 2 分 14 両 3 分 2 朱 寛政 11 年 12 月 寛政 12 年 11 月 607 両 1 分 307 両 2 分 914 両 3 分 14 両 寛政 12 年 12 月 享和元年 11 月 505 両 3 分 336 両 2 分 2 朱 842 両 1 分 2 朱 14 両 2 分 享和元年 12 月 享和 2 年 11 月 473 両 1 分 2 朱 295 両 2 分 2 朱 773 両 15 両 2 朱 ※浅若家文書、文化元年 12 月、分一御運上取立月〆帳より作成

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上取立月〆帳」(1804 年(文化元年)12 月) から、東上番所と細川番所で、1797 年(寛 政 9 年)から 1802 年(享和 2 年)までの 5 年間、それぞれ 1 年間にどれだけの分一運 上金を徴収していたかをまとめたもので す。これによると、豊川の東上番所が細川 番所より 1.5 ∼ 2 倍ほど運上取り立て額が 多いことがわかります。これは川を下る物 資についてのみですが、これからすると、 豊川の方が物流量については多いといえそ うです。矢作川の分一番所がおかれる細川 村では、1829 年(文政 12 年)、自分の村で 番所における分一取り立ての請負願を出し ています。そのときには、東上と細川の請 負高の比分を、6 分 7 厘と 3 分 3 厘という 比率で申請しています(旧県史筆耕資料「分 一御番所請負願下」)。この運上額の比率も 豊川を矢作川の物流量の比率を反映してい るのではないかと思われます。  以上で、私からの報告を終わります。ご 清聴、ありがとうございました。 付記  本稿は、第 30 回日本福祉大学知多半島 総合研究所歴史・民俗部研究集会の報告原 稿をもとに作成しました。

参照

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