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預言者Churchill ― Caryl Churchill’s Cloud Nine をめぐって―

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預言者 Churchill

― Caryl Churchill’

s Cloud Nine をめぐって―

郷 路 行 生

『クラウド・ナイン』(Cloud Nine)は、フェミニズム演劇の旗手として知ら

れるキャリル・チャーチル(Caryl Churchill)とジョイント・ストック劇団 (the Joint Stock Theatre Group)の collaboration 第二作として執筆され、同劇団によっ て1979年に初演された。この作品はワークショップ形式の中から生まれたもの で、このことは『クラウド・ナイン』の形式、内容両面にわたって大きな影響 を及ぼしている。 『クラウド・ナイン』には、観客を驚かせるような仕掛けが組み込まれてい る。まず時間の流れだが、第一幕は大英帝国華やかなりしビクトリア朝の英領 アフリカを舞台にし、第二幕は1979年つまりこの作品が初演されたその年のロ ンドンを舞台としている。第一幕と第二幕の間には約百年の時間経過があるこ とになるのだが、登場人物たちは25歳しか年をとっていない。何故このような 意表を突くような時代設定にしたのかについて、チャーチルは次のように述べ ている。

A hundred years have passed, but for the characters only twenty-five years. There were two reasons for this. I felt the first act would be stronger set in Victorian times, at the height of colonialism, rather than in Africa during the 1950s. And when the company talked about their childhoods and the attitudes to sex and marriage that they had been given when they were young, everyone felt that they had received very conventional, almost Victorian expectations and that they had made great changes and discoveries in their lifetimes.1

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化を遂げたにもかかわらず、20世紀後半に成人した人間にとっても、ビクトリ ア朝から続く性についての考え方、性別による役割分担、固定観念化した男性 像・女性像(以下では、この概念を〈男性像〉・〈女性像〉と表記することにす る)は依然として大きな影響力を持っている。チャーチルはワークショップを 通してこのことを痛感し、明確に表現するためにこのような時代設定を選んだ のだ。さらに、世紀をまたがって起きた変化をより明確な形にするために、一 人の人間に起こった変化、として描き出している。 もう一つの観客の耳目を惹きつける仕掛けは、俳優の指定である。第一幕で は八人の登場人物のうち二人が、第二幕では七人のうち一人が役柄とは反対の 性別の俳優が演じるよう指示されている。英国ルネサンス期の演劇や我が国の 歌舞伎などで、女性の役を男性が演じるのは、女性が舞台に上がることが禁じ られていたという外的要因のせいであるのだが、現代においてあえてこのよう な指定をしていることには作者の明確な意図が感じられる。この点については、 戯曲の展開に沿ってじっくりと見ていくことにしよう。 いずれにせよ『クラウド・ナイン』のこの二つの大きな特徴は、観客を一瞬 ぎょっとさせ、観客が登場人物に感情移入するのを妨げる働きを持つ、つまり ブレヒトのいう「異化作用」をもたらすように思われる。しかし実際に舞台を 見てみれば、観客は開幕当初こそ違和感を覚えるものの、やがてはそれを感じ なくなり、ついには舞台に引き込まれていくことになる。2この観点から見れ ば、チャーチルは、英国ルネサンス期の演劇がそうであったように、観客に想 像力の発動を強く要請しているのだ。 第一幕冒頭で、英国植民地の行政官クライブ(Clive)は、家族とともに 大英帝国の愛国歌を高らかに歌い上げた後、自らの家族を紹介する。まず彼 は、男性が演じる妻ベティ(Betty)を理想的な妻と紹介し、彼女は“I live for Clive. The whole aim of my life / Is to be what he looks for in a wife. / I am a man’s creation as you see, / And what men want is what I want to be.”(251)と自らを語る。 この台詞から、この時代の女性のあり方が読み取れる。男性にベティを演じさ せることによって、家父長制が支配するヴィクトリア朝では、女性は男性が理 想とする、言い換えれば男性が作り上げた〈女性像〉を内面化して生きていた ということを、極めて演劇的に、直接的に表現することに成功している。つい でクライブは、アフリカ原住民で一家の召使で、白人が演じるよう指示され

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ているジョシュア(Joshua)を、ベティと同じように理想的な召使と紹介する。 ジョシュアは、自らについて“My skin is black but oh my soul is white./ I hate my tribe. My master is my light. / I only live for him. As you can see, / What white men want is what I want to be.”(251-2)と語る。チャーチルは、ベティを男性に演 じさせることによって、彼女が〈女性像〉を内面化して初めてクライブに女性 として認められることを表現したのと同じように、ジョシュアを白人に演じさ せることによって、非ヨーロッパ人であるジョシュアは白人男性にとってある べきアフリカ原住民像を内面化することによってしか一個の人間として認めら れない、ということを表現しようとしたのだ。つまり、ビクトリア朝的観点 からすれば、ジョシュアが自らのアイデンティティを放棄して、言い換えれ ばクライブの目から見て違和感のない存在になることによって初めて、人間 として存在することになるのだ。一方、クライブとベティの息子エドワード (Edward)は女性が演じるよう指示されているが、クライブは息子を立派な男 にするためならどのような労苦も厭わないと語り、エドワードも自ら“What father wants I’d really like to be. / I find it rather hard as you can see.”(252)と語っ ている。このことから、家父長制にあっては父親の意向は絶対的と言ってよい ほどであるということと、エドワードがたとえどのような性質を持って生まれ てこようとも、父親の望む人間になることが義務づけられている、つまり女性 が〈女性像〉を内面化していたのと同様に男性も〈男性像〉の内面化を強要さ れており、あるがままの自分として生きていくことを阻害されていることが読 み取れる。三人の紹介をすませてから、ようやくクライブは残りの家族―娘ビ クトリア(Victoria)、ベティの母モード(Maud)、エドワードの家庭教師エレ ン(Ellen)―を紹介するのだが、それは“No need for any speeches by the rest. / My daughter, mother-in-law, and governess.”(252)とそっけないものだ。特にビ クトリアはまだ赤ん坊なのだが、人形を使うよう指示されている。この時代に あっては、一家の主人にとってどのような存在意義があるかによって、家族の 構成員の一家における序列が決定することになる。特に女児は男性の思う通り にしか生きることが認められず、男性の人形に過ぎない、ということを端的に 表わしていると考えられる。 クライブによる家族の紹介の後、大河を遡って源流を求める冒険家ハリー (Harry Bagley)と近くで暮らしている未亡人ソンダース夫人(Mrs Saunders)

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がクライブの家へ転がり込んでくる。一見長閑で倦怠感さえ漂い、幸せと思え るクライブ一家だが、観客には俳優の性別や人種のことで指摘したような問題 点が徐々に明らかになってくる。例えば、ベティから留守中のジョシュアが彼 女に反抗したことを伝えられたクライブは、ベティの目の前でジョシュアを叱 りつけておきながら、彼女に見えないところで目配せをして、自分がジョシュ アの方を大切にしていると思わせている。この彼の行動について、池内靖子は、 「家父長クライブは、そのようにしてジョシュアを飼い馴らす。女を脇に退け、 実質から外し、男同士のヒエラルキー関係と秩序を強固にする。」と述べてい る。3池内が指摘するように、クライブの行動は「男同士のヒエラルキー関係 と秩序を強固にする」という機能を果たしているのだが、さらに支配者階級が 被支配者階級を分断し、お互いに反目させることによって、被支配者階級同士 の団結を未然に防ぎ、自らの支配を強化する、という機能も持っていると考え られる。また、〈女性像〉は内面化されることによって、母から娘へと再生産 されていく。

MAUD: Young women are never happy. (…) Then when they’re older they look back and see that comparatively speaking they were ecstatic. (…) Betty you have to learn to be patient. I am patient. My mama was very

patient. (258) 女性にとっての幸福は若い頃を思い出すことにしかない、というモードの台詞 からは、彼女がこれまで忍従の日々を送っていたことが明らかになる。そして そのことを何の疑いもなく受け入れていることから、彼女が〈女性像〉をいか に強く内面化しているかが読み取れる。 第二場は、クライブの家から少し離れたジャングルの空き地が舞台に設定さ れている。この場所は、クライブの支配地域のはずれであり、原住民たちが支 配している地域との境界線となっている。クライブ家はピクニックを楽しむの だが、大英帝国のいわば周縁ともいうべきこの場所では、幸せな家族という見 せ掛けの裏側で蠢いている内実が露見していく。つまり、体制内部の矛盾が観 客に提示されることになるのだ。まず、クライブとソンダース夫人との情事が 明らかになる。続いて、全員が参加する鬼ごっこで登場人物が目まぐるしく舞

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台に出入りする中、ジョシュアがベティとハリーの仲をクライブに密告する。 その直後、ベティに駆け落ちを迫られたハリーは“Without you I would have no sense of direction. I need you, and I need you where you are, I need you to be Clive’s wife.”(268)と彼女に言い聞かせる。この言葉は、ハリーが自らの性的傾向を 隠蔽し、ベティの願いをやんわりと拒絶するために、苦し紛れに言ったものだ が、別の観点から読み解くこともできよう。この時代の行動規範から逸脱して いる同性愛者ハリーにとって、ベティはいわばその行動規範を象徴する存在で ある。彼のアイデンティティは、その行動規範が堅固なものであって初めて確 立することになるのだ。だからこそハリーは、その行動規範を突き崩すような 行動に加担することなどできないのだ。言い換えれば、逸脱者ハリーもその行 動規範に則って行動していることになる。 これ以降明らかになる人間関係は、一層観客を驚かせる。ジョシュアと関係 を持っているハリーはクライブの息子エドワードとも関係を持っており、エド ワードの家庭教師エレンも同性愛者であり女主人ベティに恋しているのだ。エ レンは、ハリーへの恋心を告白するベティを抱きしめ、キスするが、ハリーの ことで頭が一杯のベティには受け入れられない。表面的には幸せなクライブ家 の内実を白日の下に明らかにする第二場は、ジョシュアが歌うクリスマス・カ ロルで締めくくられる。灼熱の太陽があらゆるものを焼き尽くそうとするかの ように照りつけるアフリカの大地に流れるヨーロッパの冬の雪景色を歌うクリ スマス・カロルこそ、アフリカ固有の文明を無視してヨーロッパ文明を押しつ けるヨーロッパ中心主義の象徴ともいうべきものであろう。体制内部の矛盾が 次々と露呈する第二場の最後で、帝国主義の実態が端的に示される。 第三場は、第二場から一転して暗く閉ざされた室内である。ジョシュアの密 告によって、クライブ家で働いている他の原住民が鞭打たれている間、女性と 子供たちが部屋に閉じこもっているのである。鞭打ちが終わるとクライブが戻 り、ベティに次のように言う。

CLIVE: (…) Sometimes I feel the natives are the enemy. I know that is wrong. I know I have a responsibility towards them, to care for them and bring them all to be like Joshua. But there is something dangerous. Implacable. This whole continent is my enemy. I am pitching my whole

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mind and will and reason and spirit against it to tame it, and I sometimes feel it will break over me and swallow me up. (277)

クライブはアフリカ原住民を「敵」とさえ呼んでいる。第一幕では、ジョシュ ア以外のアフリカ原住民は舞台上に姿を見せない。このことは、原住民たち が皆、ジョシュアのようにヨーロッパ中心主義を受け入れない限りは、ヨー ロッパの人間にとっては取るに足らない、存在すらしないに等しいことを示す ためだったと考えるのは、穿ち過ぎであろうか。さらにクライブはベティに、 “Women can be treacherous and evil. They are darker and more dangerous than men. (…) We must resist this dark female lust, Betty, or it will swallow us up.”(277)と

言って、ハリーとの関係を責める。女性は、男性が「正しき道」に導いてやら なければならない男性よりも劣った存在であると、クライブは認識している。 彼の頭の中では女性とアフリカ原住民は、どちらも征服すべきもの、矯正して やらなければならないものとして捉えられている。言い換えれば、男性中心主 義とヨーロッパ中心主義は、抑圧の対象が違うだけで本質的に強固に結びつい ていると考えられる。(以降、この二つが分かちがたく結びつき、白人男性を 支配者階級とする考え方をヨーロッパ=男性中心主義と呼ぶことにしたい。) ここで引用した二つの台詞では‘swallow up’という表現が使われているが、 ここにクライブが象徴しているヨーロッパ成人男性の潜在的恐怖、つまり飲み 込まれ、埋没してしまうのではないかという恐怖が表わされているといえよう。 だからこそ、既に指摘したように、被支配者階級間の結束を恐れ、互いに憎し みあわせ、分断しようとするのである。 第四場は、皆がまだ眠っている早朝、エドワードがジョシュアにお話をね だる場面から始まる。ここでジョシュアがエドワードに聞かせる物語は、明 らかに彼が子供の頃から慣れ親しんできた女神を主神とするアフリカの創世 神話である。聞き終えたエドワードにその神話の真偽を尋ねられたジョシュ アは、“Of course it’s not true. It’s a bad story. Adam and Eve is true. God made man white like him and gave him the bad woman who liked the snake and gave us all this trouble.”(280)と自ら神話を否定する。このようにジョシュアは自らのアイ デンティティの拠り所ともなる自民族の創世神話を捨て、キリスト教の神話を 積極的に受け入れようとする。しかも、この台詞からは、彼がキリスト教に見

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られる女性嫌悪を敏感に察知していることが伺える。つまり、彼はヨーロッパ =男性中心主義を受け入れようとしているということになるのだ。アメリア・ ハウ・クリッツァ(Amelia Howe Kritzer)はこのことについて次のように述べ ている。

Joshua, who confirms a connection between women and Africa in the myth about a mother goddess he tells Edward, rejects Africa in the hatred of women shown both in his treatment of Betty and his stabbing of the doll. The tension between Betty and Joshua serves Clive by preventing any internal coalition against his power.4

ジョシュアは自らの出自であるアフリカを拒絶し、返す刀でベティが代表して いる女性を切り捨てているのだが、それは取りも直さず支配者階級であるクラ イブたちにとってはきわめて好都合であるのだ。既に指摘したように、支配者 階級であるクライブもこのことをよく理解した上で、ジョシュアを手懐けてい ると考えられよう。さらに、この前日彼の両親が大英帝国軍によって殺された ことを知ったクライブに、葬儀に参列するよう促されたジョシュアは、“You are my father and mother.”(284)とさえ答え、彼を狼狽させる。何故ジョシュ アはこれほどの犠牲を払ってまでも、ヨーロッパ=男性中心主義を受け入れよ うとしているのか。その理由の一つとしては、先ほど指摘したように、ヨー ロッパ=男性中心主義を受け入れ、言い換えればそのヒエラルキーの中に自ら 組み込まれようとしない限り、ビクトリア朝的観点からすれば存在を認識され ることさえない、ということが上げられる。 さらにこの第一幕第四場では、もう一つ重要なことが観客に提示される。エ ドワードが本国の学校に入れば自分の役割は終わるが、その後もベティと ずっと一緒にいたい、とエレンから請われたベティは、“You’re quite pretty, you shouldn’t despair of getting a husband.(…)But women have their duty as soldiers have. You must be a mother.”(281)と応えている。この台詞からは、ベティが 女性に与えられている役割は次の世代を生み出すことだけである、と確信して いることが明らかになる。つまり、母モードと同じように、ベティも〈女性 像〉を強く内面化していることになる。

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一方クライブは、ハリーに次のように語る。

CLIVE: There is the necessity of reproduction. The family is all important. And there is the pleasure. But what we put ourselves through to get that pleasure, Harry. (…) I tell you Harry, in confidence, I suddenly got up out of Mrs Saunders’ bed and came out here on the verandah and looked at the stars. (282)

クライブは、男性にとって性の意義とは、子孫を残すことと快楽を得ることの 二つである、と明言している。そして、彼はベティには子孫を残すという役割 を担うことを要求するが、そのベティがハリーに想いを寄せていることを知る 第三場では彼女を叱責している。一方、ソンダース夫人には、欲望の対象とし ての役割を担うことを求めているのだ。つまり、性の持つ二つの意義を十全に 活用するのは男性だけに許された特権で、女性はその立場に応じていずれかの 役割を当てがわれることになるのだ。 しかし、このことで抑圧されているのは女性だけではない。この台詞の直 後、ハリーが同性愛者であることを知ったクライブは、“The most revolting perversion. Rome fell, Harry, and this sin can destroy an empire.”(283)と非難し、 同性愛は大英帝国を根幹から覆す大罪であるとして糾弾している。この考え方 を押し進めれば、たとえ男性であろうとも、帝国民を再生産するという役割を 果たしていなければ、特権的立場に留まることはできない、ということになろ う。先ほど、ジョシュアがヨーロッパ=男性中心主義をなぜ受け入れようとし ているのかを論じたときに指摘したように、そのヒエラルキーの中に組み込 まれていない限り、存在は認められないのだ。クライブは、ハリーの同性愛 を糊塗するためだけに、彼に結婚するよう迫り、花嫁候補としてソンダース 夫人を呼び出す。窮したハリーは夫人に求婚するが、彼女は“If I can look after myself, I’m sure you can. ( …) There is only one thing about marriage that I like.” (283⊖4)と答え、ハリーの求婚を一蹴する。このソンダース夫人の言葉からは、

彼女が〈女性像〉から逸脱した存在であることが読み取れる。彼女がハリーの 申し出をにべもなく撥ねつける様子を見ていたクライブは、今度はエレンを呼 び出す。ハリーは戸惑いながらも彼女に求婚し、ベティから冷たくされたエレ

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ンはこれを受ける。このことについてジョン・M・クラム(John M. Clum)は 次のように述べている。

It (Harry and Ellen’s wedding) is the triumph of appearance over reality, heterosexual order over polymorphous perversity. The marriage has been arranged by Clive for Harry’s sake. Ellen is merely the necessary partner in the transaction which will keep Harry in the social order and which will preserve the purity of Clive’s and Harry’s relationship.5 (My parenthesis)

クライブにとっては、ハリーの結婚相手がソンダース夫人であろうとエレンで あろうと、たいした問題ではない。大切なことは、ハリーが結婚することに よって体制に組み込まれること、言い換えればハリーが〈男性像〉の担い手に なることなのだ。一方、同性愛者ということを知られてしまったハリーの側か らすれば、結婚することによって自らの性的嗜好性を隠蔽することができ、体 制にとどまることが許される。 第五場では、ハリーとエレンの結婚式が描かれる。新郎新婦の入場の後、ベ ティがネックレスをなくしたと騒ぎ始める。ハリーのためにネックレスを盗ん だエドワードは、ジョシュアが盗んだと言い張る。しかし、ハリーによってそ の嘘を暴かれたエドワードはその場から逃げ出し、やがてネックレスを持って 現れると、原住民が不穏な動きを見せている中で母のネックレスを守ろうと した、と言い繕おうとする。クライブはこの言い訳を “Well done, Edward, that was very manly of you.”(287)とし、エドワードの行動を〈男性像〉にふさわ しいこととして容認する。この一連のエドワードの行動は、体制の代理人たる クライブの嘉するところである。しかし、エドワードが自分の教育宜しきを得 て〈男性像〉の内面化を進めている、とクライブが信じているかどうかはいさ さか疑わしい。なぜなら、同性愛を隠蔽するために結婚するようハリーに強要 したのは、彼だからだ。つまり、クライブは、ハリーを結婚させることによっ て体制を維持しようとしたのと同じように、エドワードの虚偽を信じている振 りをすることによって体制を維持しようとしているだけである可能性がある、 ということなのだ。 次いで、クライブ家に転がり込んでいたソンダース夫人が、夫が残した土地

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や屋敷、家財道具を売り払ってイングランドへ戻ることになったと報告するた めに登場する。クライブが彼女にキスするのを見たベティは、ソンダース夫人 に飛び掛り、二人は取っ組み合いの喧嘩を始める。クライブとハリーが二人を 引き離し、クライブはソンダース夫人にすぐに出て行くよう言う。しかし彼女 は“I was leaving anyway. There’s no place for me here.”(287)と応える。彼女自 身が言うように、彼女の居場所などこの世界には存在しないのだ。なぜなら、 すでに指摘したように、彼女は〈女性像〉から逸脱しているがために体制から 抹殺されてしまうからだ。

ハリーの同性愛を隠蔽するための結婚式は進み、クライブがスピーチで “Dangers have past. Our enemies are killed. / ― Put your arm round her, Harry, have a kiss ― / All murmuring of discontent is stilled.”(288)と述べているように、体 制のほころびを繕うことは表面的にはうまく行きそうに思われる。しかし満足 しきった様子でスピーチしているクライブを、この場の冒頭から酒を飲み続け ていたジョシュアが密かに銃で狙う。この直前にクライブに叱られたエドワー ド以外には誰もこのことに気が付いていないのだが、彼は両手で耳を蓋ってい るだけでクライブに警告を与えようとはしない。そのまま暗転し、第一幕が幕 を下ろすことになる。ジョシュアが構えた銃が火を噴くことはない。6この最後 の活人画は、表面上取り繕われたヨーロッパ=男性中心主義体制が、実は水面 下ではいつ崩壊してもおかしくないような危うい状況にあることを示唆してい る。両親を大英帝国軍によって殺されても、クライブに “You are my father and mother.”と言うほどヨーロッパ=男性中心主義を内面化していたジョシュア だが、意識下には民族としてのアイデンティティが依然として息づいているの だ。一方、ジョシュアが父を銃で狙っていることにただ一人気づきながら、エ ドワードは一言も発しない。彼は、〈男性像〉を内面化するという自らに与え られた使命を果たそうと努力しているにもかかわらず、その内面化の度合いを 強くアピールすることができる絶好のチャンスに遭遇しながら、父を危難から 救い出そうとはしないのだ。その様子からは、彼が十全に内面化を仕上げるこ となどできそうにもないこと、そして危険をクライブにあえて知らせないこと で、反旗を翻したジョシュアに消極的にではあるが加担していることが読み取 れる。 第二幕は、1979年のロンドンが舞台となっている。すでに述べたように、第

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一幕からはほぼ百年という時の経過があるのだが、引き続き登場する人物たち は25歳しか年を取っていない。第一幕では乳飲み子を抱えていたベティは中年 に、その乳飲み子ビクトリアは舞台に姿を見せないトム(Tom)という息子の いる若妻に、エドワードはゲイの青年となって登場する。第二幕から登場する 人物は、ビクトリアの友人でレスビアンのシングルマザーのリン(Lin)、第二 幕で唯一役柄とは異なる性別の俳優が演じるよう指示されている 5 歳になるリ ンの娘キャシィ(Cathy)、ビクトリアの夫マーティン(Martin)、エドワード の同棲相手であるゲイのジェリー(Gerry)である。この他にも、第一幕に登 場した姿のままのエドワード、ハリー、モード、エレン、クライブが、さらに リンの弟でアイルランドに駐留していたビル(Bill)の亡霊までが登場してく るのだが、不思議なことに登場人物表には彼らの名前はない。彼らの登場がど のような意義を持つのかについては、それぞれが登場する場面で考えていくこ とにする。 キャシィを成人男性が演じるよう指定したことについて、チャーチルは次の ように述べている。

Cathy is played by a man, partly as a simple reversal of Edward being played by a woman, partly because the size and presence of a man on stage seemed appropriate to the emotional force of young children, and partly, as with Edward, to show more clearly the issues involved in learning what is considered correct behaviour for a girl. (246)

キャシィがジーンズを穿いていると男の子と呼んで嘲るのは女の子たちだ、と いうことで、チャーチルが上げている三番目の理由は、より強調されている。 つまり、1970年代になっても幼い女の子たちにまで〈女性像〉は早くも内面化 していることを示しているのだ。しかしこの配役は、一番目にチャーチル自身 が上げているエドワードを女性が演じることを単に裏返して見せる、という意 図を超えた効果を上げているようだ。第一幕のエドワードを女性が演じること によって、エドワードが生まれつき持っている資質と彼に求められている〈男 性像〉との間の縮められようはずもない隔たりが視覚的に描き出されているの だ。一方、成人男性がキャシイを演じることから生じる大きな違和感は、少女

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に対する〈女性像〉の内面化の要求の暴力的な強さ、及び生まれつき〈女性 像〉的資質を持っていない女性が、自分の資質のまま生きていくことをそのこ とがいかに阻害しているかを、劇的な形で表わしていると思われる。 もう一点、第一幕と第二幕で大きく異なっているのは季節感である。アフリ カが舞台である第一幕では第一場から第五場まで灼熱の太陽が照りつけ、季節 の変化はまったく感じられなかった。一方、第二幕第一場は一転して荒涼たる 冬のロンドンの公園にある東屋が舞台になっている。続く第二場は春、第三場 は夏、第四場は晩夏、といずれも児童公園を舞台に季節が移ろっていく。第一 幕ではビクトリア朝の現状が暴き立てられているのに対して、第二幕は季節の 変化とともに登場人物たちの変化が描かれていく。個々の登場人物の変化を 追って、第二幕を考察していくことにしよう。 第二幕から登場するマーティンは、1960年代に思春期を送ったと思われる世 代で、ウーマンリブにも一定の理解を示し、家事を手伝い、妻の意思を尊重す る夫として表面的には描かれている。しかし、ビクトリアが就職することにつ いて、就職することから生じるあらゆる問題のすべてを彼女の責任にしようと する。さらに、性関係がうまくいかないことまでもビクトリアのせいにする。 しかも彼自身はこれらのことについてまったく無自覚である、という点は重要 であろう。つまり、マーティンは、ビクトリア朝以来の〈男性像〉を内面化し ていると考えられるのだ。マーティンはいわば第一幕のクライブに相当すると 思われる。クライブと異なる点は、自分は女性に対して理解があると思い込ん でいることであろう。とはいえ、そのような彼であっても、周りの人たちが変 化していくにつれて、変化していかざるをえない。第二幕の最後の場である第 四場では、エドワードやリンと共同生活を始めたビクトリアのために、文句を 言いながらもトムとキャシーの面倒を交代で見るようになる。 マーティン同様第二幕から登場するジェリーは、立派な3 3 3ゲイに成長したエド ワードの同棲相手である。第二場の冒頭では、前夜戻ってこなかったジェリー をエドワードが嫉妬まじりになじる場面が展開する。その場面に続いて、ジェ リーは客車の中での行きずりの男との衝動的なセックスを語ってみせ、観客に 衝撃を与える。エドワードとジェリーの関係は、男同士であるという以外の点 では、浮気者の亭主とそれに耐える妻の関係とまったく同じであるといえよう。 この場の最後では、ジェリーは“Eddy, do stop playing the injured wife, it’s not

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funny.”(307)と言って、アパートから出て行くことを宣言する。性愛の対象 が同性であるというだけで、ある意味ではジェリーも〈男性像〉を内面化して いるといえる。第三場の終わりでは、第一幕のエドワードが登場し、ジェリー は彼の欲求を受け入れる。また第四場では、第一幕のハリーが登場し、ジェ リーは彼と目配せし合って、一緒に出て行く。このように、ジェリーはハリー に相当すると考えられるのだが、第一幕ではハリーがひた隠しに隠そうとした 同性愛という性的嗜好性は、百年経過した第二幕ではもはや必死になって隠さ ねばならないものではなくっているのだ。そして、マーティンが周囲の状況に 応じて変化せざるをえなかったように、ジェリーもやはり変化を見せる。第四 場では、女性とも関係を持つようになったと話すエドワードを食事に誘い、一 人暮らしを始めていたベティの部屋へ尋ねていく約束をする。ジェリーにも、 周囲とこれまでとは違った新たな関係を築く可能性を探っている様子が見て取 れる。 第二幕から登場する人物は、すでに述べたマーティン、ジェリー以外に、リ ン、キャシィ親子がいる。リンは同性愛者だが、暴力を振るう夫と離婚して、 第一場では娘と二人暮しをしている。これまで見てきたように、第二幕から登 場する人物は、それぞれ第一幕にしか登場しない人物に相当している。リンは、 エレンに相当すると思われる。しかし、ジェリーと同じように、百年という歳 月のために、エレンのように控えめにではなく、あからさまにビクトリアに誘 いをかけている。リンはキャシィに銃の玩具を与えようとしたり、エドワード に対して同性愛者であるかどうかを尋ねたりするような、〈女性像〉から逸脱 した側面を見せている一方で、第二場では“The man’s going to get you.”(303) と言ってキャシィを叱ってもいる。彼女は、後に見ていく理知的で〈女性像〉 をはっきりと意識し、変化しようとするビクトリアと対照的な存在として描 かれており、ある意味では第二幕でもっとも変化を遂げない人物であると考 えられよう。彼女は、生活をしていくためには、‘getting a job in a boutique and collaborating with sexist consumerism’(303)とビクトリアに非難されるような ことでもしようとする。彼女には、とやかく理屈をこねる前に、行動を起こす バイタリティが感じられる。第四場で、大きな変化を遂げたベティとの新たな 結びつきの糸口を、これまでの関係を理由に手繰ろうともしないビクトリアに、 一歩を踏み出す助言を与えるのは、リンである。

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第一幕では女優が演じるよう指示されているエドワードは、第二幕ではゲイ の青年として男優が演じている。第二場では、同棲しているジェリーから虐げ られる女房のように振舞うのをやめるよう言われ、“Everyone’s always tried to stop me being feminine and now you are too.”と応えている(306)。第一幕では、 彼はクライブや周囲の人たちから〈男性像〉を内面化するよう要求されていた のだが、それは彼が生まれつき持っている姿質とは相容れないものであった。 したがって、同性愛のカップルが同棲することが可能な時代となった第二幕で は、彼は〈男性像〉の代わりにすすんで〈女性像〉を引き受けようとするのだ が、ジェリーはそれを認めようとしない。エドワードの在りようが気に入らな いジェリーは、彼との同棲関係を解消する。第三場では、エドワードはビクト リアやリンと共同生活を送るようになり、さらに第四場ではジェリーと次のよ うな会話を交わす。

GERRY : Whose wife are you now then?

EDWARD: Nobody’s. I don’t think like that any more. I’m living with some women.

GERRY : What women?

EDWARD: It’s my sister, Vic, and her lover. They go out to work and I look after the kids.

GERRY : I thought for a moment you said you were living with women. EDWARD:We do sleep together, yes.(315)

今度は誰の女房3 3をしているんだ、と嘲笑うジェリーに、エドワードは主夫3 3をし ていると堂々と宣言し、さらには女性と性関係を持っていることを告白する。 そして、ジェリーからの食事の誘いにも応じる。第二場までは、夫の帰りを じっと待つビクトリア朝の妻の役割を演じることしかできなかったエドワード も、他人との新たな関係、生き方を模索し、答えの糸口を見つけつつある。 第一幕では人形に演じられていた3 3 3 3 3 3 3ビクトリアは、第二幕ではマーティンとの 間にトムという息子のいる若妻として女性に演じられている。第一場では、公 園でトムを遊ばせながら貪るようにして本を読むインテリとして登場する。彼 女は子供を銃で遊ばせることには罪悪感を覚え、また男性を憎んでいるという

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リンの言葉には“You have to look at it in a historical perspective in terms of learnt behaviour since the industrial revolution.”(292)と応えるなど、頭でっかちのイ ンテリ中産階級女性の姿が浮かび上がってくるように思える。一方で、同性愛 を告白したリンから情事を持ちかけられると、夫マーティンが何と言うかを気 にかけ、自らの問題であるにもかかわらずマーティンの意見に従って生きてい る様子を見せ、第一幕のベティ同様〈女性像〉を内面化していることが読み取 れる。つまりは、進歩的な考え方をする20世紀のインテリ女性という外見の中 に、旧態依然とした〈女性像〉を隠蔽している女性として登場してくるのだ。 しかし、第二場に登場するビクトリアは大きな変化を見せている。彼女は仕 事に就こうとするのだが、そのためにはマーティンやトムと離れて、単身マン チェスターへ行かなければならなくなる。マーティンは第一場のビクトリアの 夫に似つかわしく、そのことについて表面上は理解があるような素振りを見せ ながら、無言の圧力を掛けて、退場する。その直後、ビクトリアは今や性関係 を結んだと思われるリンに次のようにぶちまける。

VICTORIA: Why the hell can’t he be a wife and come with me? Why does Martin make me tie myself in knots? No wonder we can’t just have a simple fuck. No, not Martin, why do I make myself tie myself in knots. [sic]It’s got to stop, Lin. I’m not like that with you. Would you love me if I went to Manchester? (302)

マーティンの判断に頼って生きていこうとする第一場で見せた姿勢を捨て、自 らの進路を自らの考えに基づいて決定しようとしてもがいていることが読み取 れる。言い換えれば、ビクトリアは、自らが〈女性像〉を内面化していること に気づき、その呪縛から何とか逃れようとしているのである。彼女は、これま で自分たちの考え方、行動を規定していたビクトリア朝以来連綿と続いてきた ヨーロッパ=男性中心主義が、実は不条理なもので、何の必然性もない、とい うことを認識し始めたのである。 第三場で、酔ったエドワードやリンと一緒に夜中の公園へやってきたビクト リアは、家父長制社会の代替となる新たな社会を希求して、ヨーロッパ=男性 中心主義によって抹殺された女神を呼び出す儀式を司る。しかし、女神の召還

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は失敗に終わり、彼女は女神が崇められていた社会について二人に次のように 語る。

VICTORIA: The priestess chose a lover for a year and he was king because she chose him and then he was killed at the end of the year.(…) And the women had the children and nobody knew it was done by fucking so they didn’t know about fathers and nobody cared who the father was and the property was passed down through the maternal line — (309) ここでビクトリアが述べている社会は、19世紀に提唱され、後にその存在を否 定された母権制社会ときわめて似通っていると思われる。7しかし、ここで描 かれている社会では男性が抑圧されると考えられ、家父長制社会のネガに過ぎ ず、そこから脱却して、新たに構築しようとする社会にはなりえない。だから こそ、チャーチルは女神の召還を失敗させ、そしてそうすることによって新た な社会の模索がいかに困難であるのかを描き出している。ビクトリアの呪文は 女神を呼び出すことには失敗するが、アイルランドで殺されたビルの亡霊を召 喚してしまう。アン・ウィルソン(Ann Wilson)は、‘fucking’を連発するビ ルの亡霊が登場することについて次のように述べている。

Bill appears as a figure who reminds the audience of colonialism of Act One which was maintained by particular constructions of masculinity, including the construction of male desire. (…) By including the ghost of Bill, Churchill seems to be suggesting that England had repressed the connection between the patriarchal masculinity of the nineteenth-century Empire and England’s political relation to Ireland in the late 1970s.8

ある意味では大英帝国最後の植民地ともいえるアイルランドで殺されたビルの 亡霊は、1970年代になっても植民地主義的政策が巧妙に隠蔽されながらも継続 していることを、観客に示唆していると考えられる。また、ビクトリアが考え る新たな社会の象徴として女神を呼び出そうとした呪文でビルの亡霊を出現さ

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せることで、現在に至るまで浸透しているヨーロッパ=男性中心主義を清算 しない限り、新たな社会を望むことなどできようはずがない、ということを、 チャーチルは描き出そうとしているように思われる。 第四場では、ビクトリアたち 5 人が小さなアパートで窮屈に暮らしているの を見兼ねたベティが、家を購入して、一緒に住もうと提案したのにもかかわら ず、これまでの母との関係を気にするビクトリアはその申し出を拒んでしまう。 彼女は〈女性像〉を始めとする固定観念にがんじがらめに縛られるのを良しと せず、新たな生き方を模索しているのだが、自らが過去にこだわっていること には気がつかないのだ。しかし、リンの“Don’t think of her as your mother, think of her as Betty.”(317)という言葉に目を覚まされ、ベティに対する態度を改 めようと努力し始める。自らが〈女性像〉を内面化していたことに気づき、そ れに代わる生き方を求めている彼女は、リンの言葉でまた一歩前進したといえ よう。 登場人物の中でもっとも大きな変化を見せるのは、何といってもベティであ る。第一場でエドワードやビクトリアの前に姿を現したベティは、公園を猛ス ピードで歩き回るという尋常ならざる行動を取る。やがて彼女は、クライブと 離別して一人暮らしを始める、と二人の子供に告げる。ハリーに思いを寄せて いることをクライブから非難されたとき、ベティはひたすら彼に許しを請うて いた。そのような彼女が、自ら夫と別れる決意をするからには、よほど重大な 理由があったはずであるが、観客にはその内容は明らかにされない。しかし、 この決心は彼女の心身にきわめて大きな変化をもたらすことになる。続く第二 場では、クライブとの離婚を決意したことから、たいへんな不安感を覚えてい る様子が描かれる。公園から家へ戻ろうとするベティは、“I do feel safer with a man. The park is so large the grass seems to tilt.”(302)とマーティンに言うのだ が、この様子からは彼女が〈女性像〉を強固に内面化しており、なかなかその 影響から自由になれないことが感じ取られる。 第四場で登場してきた彼女は、働く喜びや苦しみ、そして仕事をすることで 得たお金のことなどを、マーティンやキャシィに明るく話す。ベティの変貌振 りから、第二場までとらわれていた不安を拭い去ったことが分かる。ベティの ところへ第一幕のままの姿のモードが現れ、ベティが変わってしまったことを 非難する。さらにエレンまでも現れ、第一幕と変わらぬ様子で自分を忘れない

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でくれと訴える。モードはベティを長年抑圧し続けてきた〈女性像〉を、エレ ンはその〈女性像〉に苦しめられている女性を象徴していると思われる。その ような二人が退場すると、ベティは自らに起こった変化を観客に語りかける。

BETTY: I used to think Clive was the one who liked sex. But then I found I missed it. I used to touch myself when I was very little, I thought I’d invented something wonderful. I used to do it to go to sleep with or to cheer myself up, and one day it was raining and I was under the kitchen table, and my mother saw me with my hand under my dress rubbing away, and she dragged me out so quickly I hit my head and it bled and I was sick, and nothing was said, and I never did it again till this year. I thought if Clive wasn’t looking at me there wasn’t a person there. And one night in my bed in my flat I was so frightened I started touching myself. I thought my hand might go through space. I touched my face, it was there, my arm, my breast, and my hand went down where I thought it shouldn’t, and I thought well there is somebody there. It felt very sweet, it was a feeling from very long ago, it was very soft, just barely touching, and I felt myself gathering together more and more and I felt angry with Clive and angry with my mother and I went on and on defying them, and there was this vast feeling growing in me and all around me and they couldn’t stop me and no one could stop me and I was there and coming and coming. Afterwards I thought I’d betrayed Clive. My mother would kill me. But I felt triumphant because I was a separate person from them. And I cried because I didn’t want to be. But I don’t cry about it any more. Sometimes I do it three times in one night and it really is great fun. (316)

クライブが見ていなければ、自分は存在しない、とベティは感じる。しかし、 一人でベッドに横たわっているとき、自分の顔が、腕が、胸が存在しているこ とにベティは気づく。たとえクライブの視線がなくとも、実体のない幻影な どではなく、肉体が厳として存在していることを彼女は確認することができ

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たのだ。第一幕第一場で、自ら“The whole aim of my life / Is to be what he looks for in a wife.”(251)と語り、〈女性像〉を内面化していた彼女は、男性の視線 の対象として、言い換えれば〈見られるもの〉つまりは〈知覚されるもの〉と してしか存在してこなかった。しかし、自らの肉体の存在を確認することに よって、ベティは〈知覚されるもの〉という〈客体〉から、〈知覚するもの〉 という〈主体〉へと変貌を遂げることに成功したのだ。また、男性の視線の対 象ということは、欲望の対象ということに他ならない。とすれば、〈知覚する もの〉という〈主体〉を取り戻したということは、別の言い方をすれば欲望の 〈主体〉となることができたということだ。ベティの母モードが幼いベティに 自慰行為を禁じたのは、欲望の〈主体〉ではなく、欲望の〈客体〉となるよう、 つまり〈女性像〉の内面化を強要するという意味であったと考えられる。その ような〈客体〉としての存在であり続けるよう強いてきたクライブに、そして 母に対する憤りを、ベティは自覚し、自らの〈主体〉の回復を宣言する。〈女 性像〉の呪縛から解き放たれた彼女は、ビクトリアに共同生活を提案する。さ らに、ジェリーが同性愛者であることを知ったうえで、近いうちに自分のア パートに立ち寄るよう誘う。そのように変貌を遂げたベティの前に、彼女が脱 却しつつあるヨーロッパ=男性中心主義の亡霊としてクライブが現れ、彼女が 変貌したことを責めるが、ベティはかつてのように許しを請うようなことはし ない。 戯曲の終幕は、クライブが退場し、入れ替わりに第一幕のベティが登場し、 第二幕のベティと抱き合う感動的とさえいえる場面である。二人の抱擁につい て、ミシェラン・ワンダー(Michelene Wander)は次のように述べている。

The Betty (male) from the first half embraces Betty (female) from the second half, in a utopian image of reconciliation between opposites. This image, a resolution between the two wives and mothers, combines the nurturing roles with the bid for personal and sexual independence, both contained within an image of a mother, albeit one who holds very traditional views about gender roles.9

〈客体〉としてしか存在することが認められなかった第一幕のベティと〈主 体〉を取り戻した第二幕のベティが抱きしめあう光景は、ベティが全き一個の

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人間として存在することの証しといえよう。だからこそ、自分には理解しがた いエドワードとリンの関係、エドワードとジェリーの関係をあるがままに受け 止め、ビクトリアにこれまでとはまったく異なる新たな形態の共同生活を持ち かけたのだ。 チャーチルは、第二幕では登場人物たちが程度の差こそあれ、人との新たな 関わり方、新たな生き方を模索している様子を描き出している。しかし、第二 幕の登場人物の中で、ほとんど変化した様子が見受けられない人物が一人い る。それは、リンである。すでに指摘したように、ビクトリアがベティとの新 たな関係へ踏み出すきっかけを作ったのは、リンだ。だが、そこでのリンの役 割は、触媒であり、彼女自身は変化を見せてはいない。エドワード、ジェリー、 さらにはマーティンさえもが、変化の兆しを示している。これに対して、リン は登場したときから同性愛をあからさまに告白するように、〈女性像〉の呪縛 から自由な側面を持ってはいるが、変化を期待することはできないように描か れている。クリッツアは、リンについて“Lin has gained the freedom to express lesbian desire without being sanctioned for it, but remains limited to the low-level jobs, such as clerk in a clothing store, open to a working-class woman.”と述べている。10

ジェリーやマーティンは、どのような仕事をしているのか明らかではない が、経済的に自立していると考えられる。エドワードは、従来の性別による 役割分担に縛られない立場を取っている。この引用の少しあとで、リンとは 対照をなすようなベティについて、クリッツアは “Betty’s empowerment over the circumstances in her life begins when she starts to earn money.”と指摘している。11

ティは、歯医者で働き、また母の遺産があるために、経済的基盤を固めており、 このことが彼女の大きな変化を支えている。またビクトリアも、大学教授の秘 書として働き、さらに転職してマンチェスターへ移住しようとしており、経済 的に自立している。つまり、チャーチルが第二幕で描き出している女性の〈主 体〉の確立が、リンのような女性である労働者階級にまで及ぶためには、さら に克服しなければならない障壁がある、ということなのだ。一言で言えば、そ れは女性の経済的自立であろう。第一幕と第二幕の二人のベティが互いにしっ かりと抱きあう幕切れは、ワンダーの言葉を借りれば‘a utopian image’では あるのだが、そこにはこのような限定的な条件が付いているのだ。そして、そ の条件を満たすことは、おいそれとできようはずもないほど困難であることは

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間違いない。 チャーチルの『クラウド・ナイン』は、ビクトリア朝以来連綿と支配し続け てきたヨーロッパ=男性中心主義から脱却した新たな世界の可能性を強く訴え ているのだが、その具体的な姿を提示してはいない。このことは、新たな世界 を実現することがいかに困難であるかを示している。『クラウド・ナイン』初 演以降の世界を見るとき、この作品はあたかも預言書であるかのように思われ る。

Notes

1  Caryl Churchill, Plays: One(London: Methuen, 1985),246.なお、テキスト として同書を使用し、引用の最後に同書の頁数を記載することとする。 2  みなもとごろうによれば、作者チャーチルは「アメリカ公演のリハーサル 中に、ジーンズにスウェットシャツという扮装で立派な髭を誇示してベ ティを演じているにもかかわらず、その俳優が男であることをすっかり忘 れていた」ということだ。みなもとごろう「『クラウド・ナイン』につい て――《異装》をめぐっての覚書」、『近代の文学』井上百合子先生記念論 集刊行会編、河出書房新社、1993年、428頁参照。 3  池内靖子「『クラウド・ナイン』におけるセクシュアル・ポリティクス」、 『立命館言語文化研究 2 』( 5 ・ 6 )、1991年、169頁。

4  Amelia Howe Kritzer, The Plays of Caryl Churchill (London: Macmillan, 1991), 118.

5  John M. Clum, ‘“The Work of Culture”: Cloud Nine and Sex/Gender Theory,’

Caryl Churchill: A Casebook, ed. Phyllis R. Randall (N. Y.: Gerland, 1988), 102.

6  この場面でジョシュアが発砲するとしている研究者もいる。例えば、『ク ラウド・ナイン』をいち早く日本に紹介した松岡和子は、「暗転と同時に 銃声が鳴り響いて、一幕が終る。」と「女と男についての、女による、人 間のための演劇――キャリル・チャーチル『クラウド・ナイン』と解体後 の風景」(金関寿夫他編『英米文学の女性たち』、東京、南雲堂、1986年、 161⊖162頁)で述べている。しかし、筆者が知る限り、銃が発射されたこ

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とを明記したテキストは存在しない。ここで銃が発射されればクライブが 守ろうとした体制は崩壊したことになってしまい、戯曲の構成上ありえな いことと思われる。銃が発射されたとすれば、演出家の勇み足と考えざる をえない。 7  手元にある『ブリタニカ国際大百科事典―小項目事典 6 』(ティビーエ ス・ブリタニカ、1974年)の「母権制」の項は、「妻方居住婚、母系制、 家母長制という一連の要素を内包する社会制度。スイスの法学者、J.バ ハオーフェンが1861年にその著書『母権論』を著して以来、進化主義者や 伝播主義者たちの間で盛んに用いられた概念であるが、現在の文化人類学 者で、この概念を支持するものはほとんどいない。バハオーフェンの説に 従えば、人類の最も原始的な段階は乱交的性生活であり、子供はだれが自 分の父親であるかはわからないけれども、生みの親たる母親は認知できた のだとする。したがって系譜のたどり方は、母から子へと行われ、その際 子供は母方に居住し、さらに確実に知られる唯一の親として母親が尊敬さ れていた。これが制度化され、さらに政治の実権を握る段階で、母権制を 基礎にした女人政治が行われたとするものである。さらにこのような社会 は、ギリシア、ローマにみられた父系=父権的社会に先行するという発展 段階を想定した。(中略)しかし、未開社会の調査資料によれば、母権制 社会は認められるが、政治権力を世襲的に女性が受継ぐという社会は認め られない。」となっている。

8  Ann Wilson, ‘Hauntings: Ghosts and the Limits of Realism in Cloud Nine and Fen by Caryl Chruchill,’ Drama on Drama, ed. Nicole Boireau (London: Macmillan, 1997),160.

9  Michelene Wander, Post-War British Drama: Looking Back in Gender (London: Routledge, 2001),183.

10 Kritzer, 125. 11 Kritzer, 126.

参照

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