イランの民主化は果たして可能か (特集 イランの
民主化は可能か)
著者
鈴木 均
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名
アジ研ワールド・トレンド
巻
182
ページ
30-33
発行年
2010-11
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00004381
●
イ
ラ
ン
経
済
制
裁
と
民
主
化
へ
の期待
昨二〇〇九年六月の大統領選挙 以降、イランの現体制に対する国 際社会の見方が大きく転換してき ている。今年の六月に国連安全保 障理事会はイラン追加制裁決議を 採択し (ブラジルとトルコは反対、 レ バ ノ ン は 棄 権 )、 こ れ を 主 導 し たアメリカは E Uやロシアなどと も連携して独自の制裁措置を実施 している。九月二九日にはアメリ カは初めて人権弾圧を理由とする 経済制裁(イラン高官八名が制裁 対象)を発表した。 九月に入って日本および韓国も 独 自 の 経 済 措 置 を 実 施 し て お り、 日本はアーザーデガーン油田開発 事業からの完全撤退を発表、すで に実質的には中国に開発権が移っ ているとはいえ、西側各国の厳し い対イラン姿勢を改めて示す結果 となった。一〇月には欧州の石油 会社四社 (ロイヤルダッチシェル、 トタル、スタトイル、 E N I)も イランとの取引中止を発表してい る。これらの動きを単にアメリカ の圧力の結果とのみ考えることは 許されない状況である。 だが経済制裁措置の発動による 国際的な包囲網が直ちにイラン現 体制の弱体化に結び付くのかとい え ば、 こ と は そ う 単 純 で は な い。 イランの政治体制は潤沢な石油収 入によって財政的に支えられてお り、イランの体制が危機に直面す れば石油価格の高騰を招いて逆に 体制の延命につながるという側面 があるからである。 本特集の分析をみると、一九七 九年のイスラーム革命で成立した 現体制が近い将来に根本的に覆さ れるという見方はどこにも示され ていない。だが同時に国内的にも 対外的にもハーメネイー︱アフマ ディネジャード体制の正統性が著 しく揺らいできているという認識 は各論者にほぼ共通のものとなっ ている。その背景には六月一二日 の大統領選挙以後に繰り返し示さ れてきた抗議運動の広範な広がり があり、そこから体制自体の民主 化に向けて自律的な社会的運動が 形成されていくことへの期待があ ることは言うまでもない。 イ ラ ン は 一 九 七 九 年 の 革 命 後、 ホメイニーの独自の神学理論から 導かれた統治理念である「神学者 の統治」 (ヴェラーヤテ ・ ファギー フ)論を根幹とするイスラーム体 制を維持することによって、アメ リカおよびイスラエルと対峙する 現 在 の 国 際 的 な 位 置 を 築 い て き た。だがケイワン論稿も指摘する ように、それは同時にイラン国内 の民主化勢力(それはしばしば革 命 を 担 っ た 当 時 の 青 年 層 で あ っ た) の暴力的な弾圧を伴っており、イ
ラ
ン
の
民主化
は
果
た
し
て
可能
か
鈴
木
均
イランの民主化は果たして可能か
現体制の独裁主義的な性格は革命 当初からのイスラーム統治理念そ のものに胚胎するとの議論がイラ ンの内外で盛んになされるように なってきている。 冒 頭 の フ ェ ル ド ウ ス ィ ー 論 稿 に も み ら れ る こ う し た イ ラ ン 革 命 の 真 摯 な 捉 え 直 し 作 業 は 、 イ ラ ン 社 会 そ れ 自 体 が 構 造 的 な変 化 を 経 て 今 日 に 至 っ て い る こ と を 踏 ま え る こ と に よ っ て さ ら に 別 の 角 度 か ら の 検 証 が 可 能 に な る も の と 思 わ れ る 。 こ こ で は 筆 者 が 一 九 九 九 年 か ら 二 〇 〇 一 年 ま で に 実 施 し たイ ラ ン の 地 方 中 小 都 市 ( ル ー ス タ ー ・ シ ャ フ ル 、 ペ ル シ ャ 語 で 「 農 村 」 と 「 都 市 」 を 接 合 し た 新 造 語 ) の フ ィ ー ル ド 調 査 の 結 果 を 基 に 考 察 し て み た い 。●
二
〇
世
紀
初
頭
以
来
の
イ
ラ
ン
の近代化過程
一九世紀以前のイランにおいて は都市社会、農村社会、そして遊 牧民社会がそれぞれ固有の社会文 化空間を成立させていた。だが 19 世紀後半以来の西欧的な近代思想 の流入と立憲主義による統治理念 の定着を経て、一九二〇〜三〇年 代のレザー・シャー期には国家主 導による上からの近代化が推進さ れ る よ う に な っ た と 考 え ら れ る。 この時代を通じて都市部において 近代的生活の導入が推進されると ともに、中央集権化に対する前近 代的な抵抗勢力の象徴とされた遊 牧部族は時には軍事力をもって定 住化を強制された。 そ の 後 第 二 次 世 界 大 戦 期 の レ ザ ー ・ シ ャ ー の 退 位 と 一 九 五 二 年 の モサ ッデ ク 首 相による民 族 主 義 の 高 揚 期 を 経 て 、イ ラ ン 社 会 に と っ て 大 き な 転 換 点 と な っ たのはモ ハ ン マ ド ・ レ ザ ー ・ シ ャ ー に よ る 「 白 色 革 命 」( 一 九 六 二 年 〜 ) で あ っ た 。 農 地 改 革 を中 核と し た こ の近 代 化 政 策 に よ っ て パ フ ラ ヴィ ー 国 王 は 地 方 の 地 主 階 級 を 一 掃 し 、 都 市 化 と工 業 化 に よ っ て 中 東 随 一 の 親 米 国 家 と し て 急 成 長 を 遂 げる こ とが 期 待 さ れ て い た 。 一 九 七 一 年 に ペ ル セポリ ス の遺 跡で 挙 行 された 建 国 二 五 〇 〇 年 記 念 祭 は 、 パ フ ラ ヴ ィ ー 朝 イラ ン の威 信 を国 際 的に 誇 る 一 大 イ ベン ト で あ り 、 同 時 に こ の 頃 か ら 秘 密 警 察 ( S A V A K) に よ る反 対 勢 力 の徹 底 的 な弾 圧 も 社 会 に 張 り 巡 ら さ れ て い っ た 。 一九七九年の革命は、こうした イランの急激な近代化政策とオイ ルブームに沸く社会的風潮に対す る都市部青年層の漠然とした不安 と抵抗感から始まり、都市部の宗 教的・伝統的な社会的ネットワー クを媒介としてやがて巨大な社会 的抵抗の奔流にまで発展して行っ た。その際に革命の象徴として登 場したのが一九六五年以来イラク のナジャフに亡命していたホメイ ニーである。彼は革命のうねりが 高まって以降はパリ郊外のノープ ル・ル・シャトーに居を移し、や がて帰国して彼のイスラーム統治 体制の構想を実現する。 ホ メ イ ニ ー は イ ラ ン の 革 命 を 「 被 抑 圧 者 」( モ ス タ ザ フ ァ ー ン ) の革命と規定し、革命によって先 ず救済されるべきなのは遠隔の地 に住む貧しい農民たちであるとし た。この発言によって創設された ジハード・サーザンデギー(聖戦 建設隊)は、当初は革命意識に燃 える都市部の若者たちが農村部に 「 下 放 」 さ れ て 農 作 業 に 従 事 す る などの試行錯誤もあったが、やが てイランの全国に散らばる農村を 舗装道路で繋ぎ、電気、水道・ガ ス、学校、保健所、電話局などの 社会的インフラを急速に普及させ る推進力となった。 他方で革命直後からアメリカの カーター政権と対峙し、やがて米 大使館人質事件でアメリカと決定 的に対立するにいたったイランの 革命政府は一九八〇年九月以降イ ラクとの戦争に突入し、その後八 年間におよんだ戦争で数十万人の 戦 死 者( シ ャ ヒ ー ド、 「 殉 死 者 」 の意)を出すにいたる。このイラ ン近代史上初めての悲惨な国民戦 争は、同時に全国的に各農村まで 及んだ戦死者の家族や前線から帰 還した元兵士を通じて、地方遠隔 地にまで国家機構の神経の末端を 張り巡らせる初めての機会をイラ ン中央政府および軍部にもたらす ことになった。●
革
命
後
の
イ
ラ
ン
農
村
部
に
お
ける構造変容
こうした革命前後からの様々な 要因によって、急激に増大する人 口をかかえるイランの農村部では この三〇年でこれまで見られない 新たな地方中小都市 (ルースター ・ シャフル)の形成が急速に進行し てきた。これらルースター・シャ フルの性格や形成要因は多様であ り必ずしも一律には論じられない が、総じていえば革命後のイラン 社会における独自の内在的発展が 最も顕著に現れた場所であり、農 村 か ら 都 市 へ の 移 行 過 程 に あ る マージナルな空間であると同時に 多くの場合には各地域社会の結節 点となっている。 ルースター・シャフルが全国各 地 に 存 在 し て い る 現 在 の イ ラ ン は、いわば各地方における中核都格 差 は ほ ぼ 無 く な っ ー ド 大 学 や パ ヤ ー メ と、 最 も 弾 圧 が 激 し ラ ン 以 外 に エ ス フ ァ 12 ー ア ー・ ア ー シ ュ ー 二都市での抗議デモが計画されて おり、抗議運動側がこの段階でイ ラン全国三〇州の各州都に匹敵す る数の都市である程度の動員力を もっていたことが伺える。 ここで現在「緑の運動」の主導 者のひとりであるムーサヴィー元 候補が提唱している「社会的ネッ トワーク」 (ケイワン論稿を参照) の 強 力 な ツ ー ル で あ る イ ン タ ー ネット網が現在イランの地方社会 においてどの程度の深度まで及ん でいるかを、筆者のごく限られた 知見から推測してみよう。 事例一:二〇〇三年二月にエス ファハーン州モバーレケ県ズィー バーシャフル新市(人口九〇〇〇 人)を訪れた際、レンジュ地区の 青年会事務所に置かれていたパソ コンは未だインターネットに接続 されていなかった。 事例二:二〇〇五年一一月にイ ラン北西部の東アゼルバイジャン 州ミヤーネ県トルキャマンチャー イ (人口七〇〇〇人) を訪れた際、 改装中の同市内の中心にある金曜 礼拝モスクの地下にインターネッ ト・カフェを開設する予定である と聞かされた。 事 例 三 : 二 〇 〇 七 年 五月 に イ ラ ン 南 西 部 の フ ー ゼ スタ ー ン 州 デ ズ フ ー ル 県 サ フ ィ ー ア ー バ ー ド 市( 人 口 八 〇 〇 〇 人 ) を 訪 れ た 際 、 個 人 の 住 宅 に お い て イ ン タ ー ネ ッ ト が 使 用 さ れ て い る の を 確 認 し た 。 このように、イランでは人口一 万程度の地方都市においてもイン ターネットはすでに珍しいもので はなくなっており、たとえ自分の 住む村にインターネット網が及ん でいない場合でも近隣の町に行け ば簡単にアクセスが可能な程度ま で 普 及 し て い る も の と 考 え ら れ る。イランの地方農村部に住む多 くの若年層は、決して革命防衛隊 傘下のバシージュ組織(元々はイ ラン・イラク戦争時の民間義勇兵 組織で、現在では多くの場合青年 会組織のようなもの)の末端とし て中央権力の側から一方的に動員 さ れ る 存 在 で は な く、 イ ン タ ー ネットや衛星放送、さらに高校や 大 学 な ど の 学 生 ネ ッ ト ワ ー ク に よって大都市の中間層青年とほぼ 同じレベルの情報環境を生きてい るのである。