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イランの民主化は果たして可能か (特集 イランの民主化は可能か)

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Academic year: 2021

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(1)

イランの民主化は果たして可能か (特集 イランの

民主化は可能か)

著者

鈴木 均

権利

Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization

(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp

雑誌名

アジ研ワールド・トレンド

182

ページ

30-33

発行年

2010-11

出版者

日本貿易振興機構アジア経済研究所

URL

http://hdl.handle.net/2344/00004381

(2)

 イ

の期待

  昨二〇〇九年六月の大統領選挙 以降、イランの現体制に対する国 際社会の見方が大きく転換してき ている。今年の六月に国連安全保 障理事会はイラン追加制裁決議を 採択し (ブラジルとトルコは反対、 レ バ ノ ン は 棄 権 )、 こ れ を 主 導 し たアメリカは E Uやロシアなどと も連携して独自の制裁措置を実施 している。九月二九日にはアメリ カは初めて人権弾圧を理由とする 経済制裁(イラン高官八名が制裁 対象)を発表した。   九月に入って日本および韓国も 独 自 の 経 済 措 置 を 実 施 し て お り、 日本はアーザーデガーン油田開発 事業からの完全撤退を発表、すで に実質的には中国に開発権が移っ ているとはいえ、西側各国の厳し い対イラン姿勢を改めて示す結果 となった。一〇月には欧州の石油 会社四社 (ロイヤルダッチシェル、 トタル、スタトイル、 E N I)も イランとの取引中止を発表してい る。これらの動きを単にアメリカ の圧力の結果とのみ考えることは 許されない状況である。   だが経済制裁措置の発動による 国際的な包囲網が直ちにイラン現 体制の弱体化に結び付くのかとい え ば、 こ と は そ う 単 純 で は な い。 イランの政治体制は潤沢な石油収 入によって財政的に支えられてお り、イランの体制が危機に直面す れば石油価格の高騰を招いて逆に 体制の延命につながるという側面 があるからである。   本特集の分析をみると、一九七 九年のイスラーム革命で成立した 現体制が近い将来に根本的に覆さ れるという見方はどこにも示され ていない。だが同時に国内的にも 対外的にもハーメネイー︱アフマ ディネジャード体制の正統性が著 しく揺らいできているという認識 は各論者にほぼ共通のものとなっ ている。その背景には六月一二日 の大統領選挙以後に繰り返し示さ れてきた抗議運動の広範な広がり があり、そこから体制自体の民主 化に向けて自律的な社会的運動が 形成されていくことへの期待があ ることは言うまでもない。   イ ラ ン は 一 九 七 九 年 の 革 命 後、 ホメイニーの独自の神学理論から 導かれた統治理念である「神学者 の統治」 (ヴェラーヤテ ・ ファギー フ)論を根幹とするイスラーム体 制を維持することによって、アメ リカおよびイスラエルと対峙する 現 在 の 国 際 的 な 位 置 を 築 い て き た。だがケイワン論稿も指摘する ように、それは同時にイラン国内 の民主化勢力(それはしばしば革 命 を 担 っ た 当 時 の 青 年 層 で あ っ た) の暴力的な弾圧を伴っており、

民主化

可能

(3)

イランの民主化は果たして可能か

現体制の独裁主義的な性格は革命 当初からのイスラーム統治理念そ のものに胚胎するとの議論がイラ ンの内外で盛んになされるように なってきている。   冒 頭 の フ ェ ル ド ウ ス ィ ー 論 稿 に も み ら れ る こ う し た イ ラ ン 革 命 の 真 摯 な 捉 え 直 し 作 業 は 、 イ ラ ン 社 会 そ れ 自 体 が 構 造 的 な変 化 を 経 て 今 日 に 至 っ て い る こ と を 踏 ま え る こ と に よ っ て さ ら に 別 の 角 度 か ら の 検 証 が 可 能 に な る も の と 思 わ れ る 。 こ こ で は 筆 者 が 一 九 九 九 年 か ら 二 〇 〇 一 年 ま で に 実 施 し たイ ラ ン の 地 方 中 小 都 市 ( ル ー ス タ ー ・ シ ャ フ ル 、 ペ ル シ ャ 語 で 「 農 村 」 と 「 都 市 」 を 接 合 し た 新 造 語 ) の フ ィ ー ル ド 調 査 の 結 果 を 基 に 考 察 し て み た い 。

 二

の近代化過程

  一九世紀以前のイランにおいて は都市社会、農村社会、そして遊 牧民社会がそれぞれ固有の社会文 化空間を成立させていた。だが 19 世紀後半以来の西欧的な近代思想 の流入と立憲主義による統治理念 の定着を経て、一九二〇〜三〇年 代のレザー・シャー期には国家主 導による上からの近代化が推進さ れ る よ う に な っ た と 考 え ら れ る。 この時代を通じて都市部において 近代的生活の導入が推進されると ともに、中央集権化に対する前近 代的な抵抗勢力の象徴とされた遊 牧部族は時には軍事力をもって定 住化を強制された。   そ の 後 第 二 次 世 界 大 戦 期 の レ ザ ー ・ シ ャ ー の 退 位 と 一 九 五 二 年 の モサ ッデ ク 首 相による民 族 主 義 の 高 揚 期 を 経 て 、イ ラ ン 社 会 に と っ て 大 き な 転 換 点 と な っ たのはモ ハ ン マ ド ・ レ ザ ー ・ シ ャ ー に よ る 「 白 色 革 命 」( 一 九 六 二 年 〜 ) で あ っ た 。 農 地 改 革 を中 核と し た こ の近 代 化 政 策 に よ っ て パ フ ラ ヴィ ー 国 王 は 地 方 の 地 主 階 級 を 一 掃 し 、 都 市 化 と工 業 化 に よ っ て 中 東 随 一 の 親 米 国 家 と し て 急 成 長 を 遂 げる こ とが 期 待 さ れ て い た 。 一 九 七 一 年 に ペ ル セポリ ス の遺 跡で 挙 行 された 建 国 二 五 〇 〇 年 記 念 祭 は 、 パ フ ラ ヴ ィ ー 朝 イラ ン の威 信 を国 際 的に 誇 る 一 大 イ ベン ト で あ り 、 同 時 に こ の 頃 か ら 秘 密 警 察 ( S A V A K) に よ る反 対 勢 力 の徹 底 的 な弾 圧 も 社 会 に 張 り 巡 ら さ れ て い っ た 。   一九七九年の革命は、こうした イランの急激な近代化政策とオイ ルブームに沸く社会的風潮に対す る都市部青年層の漠然とした不安 と抵抗感から始まり、都市部の宗 教的・伝統的な社会的ネットワー クを媒介としてやがて巨大な社会 的抵抗の奔流にまで発展して行っ た。その際に革命の象徴として登 場したのが一九六五年以来イラク のナジャフに亡命していたホメイ ニーである。彼は革命のうねりが 高まって以降はパリ郊外のノープ ル・ル・シャトーに居を移し、や がて帰国して彼のイスラーム統治 体制の構想を実現する。   ホ メ イ ニ ー は イ ラ ン の 革 命 を 「 被 抑 圧 者 」( モ ス タ ザ フ ァ ー ン ) の革命と規定し、革命によって先 ず救済されるべきなのは遠隔の地 に住む貧しい農民たちであるとし た。この発言によって創設された ジハード・サーザンデギー(聖戦 建設隊)は、当初は革命意識に燃 える都市部の若者たちが農村部に 「 下 放 」 さ れ て 農 作 業 に 従 事 す る などの試行錯誤もあったが、やが てイランの全国に散らばる農村を 舗装道路で繋ぎ、電気、水道・ガ ス、学校、保健所、電話局などの 社会的インフラを急速に普及させ る推進力となった。   他方で革命直後からアメリカの カーター政権と対峙し、やがて米 大使館人質事件でアメリカと決定 的に対立するにいたったイランの 革命政府は一九八〇年九月以降イ ラクとの戦争に突入し、その後八 年間におよんだ戦争で数十万人の 戦 死 者( シ ャ ヒ ー ド、 「 殉 死 者 」 の意)を出すにいたる。このイラ ン近代史上初めての悲惨な国民戦 争は、同時に全国的に各農村まで 及んだ戦死者の家族や前線から帰 還した元兵士を通じて、地方遠隔 地にまで国家機構の神経の末端を 張り巡らせる初めての機会をイラ ン中央政府および軍部にもたらす ことになった。

 革

ける構造変容

  こうした革命前後からの様々な 要因によって、急激に増大する人 口をかかえるイランの農村部では この三〇年でこれまで見られない 新たな地方中小都市 (ルースター ・ シャフル)の形成が急速に進行し てきた。これらルースター・シャ フルの性格や形成要因は多様であ り必ずしも一律には論じられない が、総じていえば革命後のイラン 社会における独自の内在的発展が 最も顕著に現れた場所であり、農 村 か ら 都 市 へ の 移 行 過 程 に あ る マージナルな空間であると同時に 多くの場合には各地域社会の結節 点となっている。   ルースター・シャフルが全国各 地 に 存 在 し て い る 現 在 の イ ラ ン は、いわば各地方における中核都

(4)

格 差 は ほ ぼ 無 く な っ ー ド 大 学 や パ ヤ ー メ と、 最 も 弾 圧 が 激 し ラ ン 以 外 に エ ス フ ァ 12 ー ア ー・ ア ー シ ュ ー 二都市での抗議デモが計画されて おり、抗議運動側がこの段階でイ ラン全国三〇州の各州都に匹敵す る数の都市である程度の動員力を もっていたことが伺える。   ここで現在「緑の運動」の主導 者のひとりであるムーサヴィー元 候補が提唱している「社会的ネッ トワーク」 (ケイワン論稿を参照) の 強 力 な ツ ー ル で あ る イ ン タ ー ネット網が現在イランの地方社会 においてどの程度の深度まで及ん でいるかを、筆者のごく限られた 知見から推測してみよう。   事例一:二〇〇三年二月にエス ファハーン州モバーレケ県ズィー バーシャフル新市(人口九〇〇〇 人)を訪れた際、レンジュ地区の 青年会事務所に置かれていたパソ コンは未だインターネットに接続 されていなかった。   事例二:二〇〇五年一一月にイ ラン北西部の東アゼルバイジャン 州ミヤーネ県トルキャマンチャー イ (人口七〇〇〇人) を訪れた際、 改装中の同市内の中心にある金曜 礼拝モスクの地下にインターネッ ト・カフェを開設する予定である と聞かされた。   事 例 三 : 二 〇 〇 七 年 五月 に イ ラ ン 南 西 部 の フ ー ゼ スタ ー ン 州 デ ズ フ ー ル 県 サ フ ィ ー ア ー バ ー ド 市( 人 口 八 〇 〇 〇 人 ) を 訪 れ た 際 、 個 人 の 住 宅 に お い て イ ン タ ー ネ ッ ト が 使 用 さ れ て い る の を 確 認 し た 。   このように、イランでは人口一 万程度の地方都市においてもイン ターネットはすでに珍しいもので はなくなっており、たとえ自分の 住む村にインターネット網が及ん でいない場合でも近隣の町に行け ば簡単にアクセスが可能な程度ま で 普 及 し て い る も の と 考 え ら れ る。イランの地方農村部に住む多 くの若年層は、決して革命防衛隊 傘下のバシージュ組織(元々はイ ラン・イラク戦争時の民間義勇兵 組織で、現在では多くの場合青年 会組織のようなもの)の末端とし て中央権力の側から一方的に動員 さ れ る 存 在 で は な く、 イ ン タ ー ネットや衛星放送、さらに高校や 大 学 な ど の 学 生 ネ ッ ト ワ ー ク に よって大都市の中間層青年とほぼ 同じレベルの情報環境を生きてい るのである。

 現

ン・

ラク戦争の影

  二〇〇九年六月以降のテヘラン を 中 心 と す る 抗 議 運 動 に 対 し て は、 レバーセ ・ シャフシー(バシー ジュ組織を中心に編成された「私 服」取締官)による激しく暴力的 な弾圧劇が繰り広げられた。これ に注目する議論の多くはここに顕 在化している「イラン社会内部の 亀裂」を「都市中間層」対「地方 貧困層」の対立として単純に把握 してきた。だが上記のような革命 後三〇年間のイラン地方農村部の 静かな変容を前提にすると、イラ ンにおいて民主化にむけての政治 的な運動を阻害している要因はむ しろ別のところに存在するのでは ないかと思われてくる。   一 九 九 七 年 に 公 開 さ れ た エ ブ ラーヒーム・ハータミーキヤー監 督の『アジャンセ ・ シーシェイー』 ( ガ ラ ス の 旅 行 代 理 店 ) と い う 映 画は、イラン・イラク戦争に従軍 した主人公アッバースがその後の 戦後復興から自由化へという社会 の風潮のなかで急速に社会の片隅 に追いやられていく苛立ちと世代 的 な 断 絶 を テ ー マ に 据 え て い た。 こ れ に 続 く 同 監 督 の『 モ ウ ジ ェ・ モルデ』 (死の波)では、イラン ・ イラク戦争の末期に米軍艦によっ て故意に撃墜された民間機の無告 の死者たちが波間に浮かぶ光景が 映し出され、物語は国際政治の軋 轢のなかで偽善的な判断を強いら れたイラン海軍の一兵卒のその後 の葛藤を描いている。   一 九 八 九 年 の イ ラ ン ・ イ ラ ク 戦 争

(5)

イランの民主化は果たして可能か

停 戦 か ら 二 一 年 、 現 在 の イ ラ ン 政 権 が 地 方 農 村 部 を 含 む イ ラ ン 社 会 と の あ い だ で 有 し て い る 最 大 の ネ ッ ト ワ ー ク は 、 前 述の よ う に 数 十 万 人 の 戦 死 者 ( シ ャ ヒ ー ド ) の 家 族 を中 心 と す る 戦 争 家 族 と 復 員 兵 た ち で あ る 。 実 際 筆 者 が 訪 れ た 地 方 中 小 都 市 ( ル ー ス タ ー ・ シ ャ フ ル ) に お い て 国 家 の 功 労 者 と し て コ ミ ュ ニ テ ィ ー の 中 心 的 な 役 割 を 担 っ て い た の は 、 二 〇 〇 〇 年 当 時 四 〇 〜 五 〇 代 の こ う し た 人 々 で あ っ た 。   これらの人材を輩出している戦 争関係者たちは、必ずしも現実に ハータミーキヤーが描くような社 会との断絶に苦悩している訳では ない。だがそれだけに彼らの息子 たちの世代である一〇代から二〇 代の青年たちのなかから、バシー ジュ組織の終末論的・マフディー 待望論的な思想教育に感化されて 極端な排外主義の矛先を彼らの社 会の隣人たちにも向けるタイプが 育ってきているとすれば、その背 景にある彼らの鬱積の大きな要因 はやはりイラン・イラク戦争とい う国民的な体験が未だに充分に消 化し切れていないことにあるので はないか。   イ ラ ン ・ イ ラ ク 戦 争 の 当 初 、 ホ メ イ ニ ー は 以 下 の よ う に 語 っ て い る 。「 我 が 国 軍 や 革 命 防 衛 隊 の 武 装 兵 士 の 勇 猛 さ は 、 イ ス ラ ー ム 初 期 の 信 徒 た ち の 勇 猛 さ に も 比 肩 す る 」。 西 側 の 提 供 す る イ ラ ク の 最 新 兵 器 に 人 海 戦 術 で 抵 抗 す る べ く 次 々 と 前 線 に送 り 込 ま れ た 兵 士 た ち は 、 国 軍 の 兵 士 で あ れ 自 ら 志 願 し た バ シ ー ジ ュ で あ れ 、 そ れ ぞ れ に こ の 戦 争 へ の 挺 身 が 自 ら の 奥 底 に あ る イ ス ラ ー ム へ の 信 仰 に 直 結 す る と 信 じ て 戦 っ た に 違 い な い 。 あ る い は ま た そ の よ う な 信 仰 に 全 人 格 を 委 ね る こ と が で き ず 、 た だ 自 分 の 肉 親 を 守 る た め と い う 思 い で 戦 っ た 兵 士 も 少 な か ら ず い た だ ろ う 。 だ が こ の 戦 争 で 命 を 落 と し た 兵 士 た ち の 家 族 に と っ て 、 戦 争 は ど の よ う な 意 味 を も っ て い る の だ ろ う か 。   一 九 八 八 年 八 月 に 国 連 決 議 五 九 八 号 を 受 諾 し 、 イ ラ ク と の 停 戦 に 応 じ て か ら 以 降 の イ ラ ン は 、 国 民 の 甚 大 な 流 血 を 伴 っ た こ の 戦 争 の 意 味 を充 分 顧 み て 過 去 を清 算 す る 間 も な く 、 ラ フ サ ン ジ ャ ー ニ ー 大 統 領 を は じ め と す る 戦 争 の 当 事 者 自 身 が 戦 後 の 復 興 と 経 済 発 展 、 政 治 的 な 改 革 へ と 時 代 の転 換 を 慌 た だ し く 推 し 進 め て い っ た 。 か つ て 革 命 防 衛 隊 員 と し て 戦 争 を 側 面 か ら 支 え 、 そ の 後 は 地 方 行 政 畑 を 歩 い て き た ア フ マ デ ィ ネ ジ ャ ー ド 大 統 領 が 大 統 領 に な っ た 二 〇 〇 五 年 の 第 九 期 大 統 領 選 挙 は 、 イラ ン 史 上 初 め て の 決 選 投 票 に お い て 激 し い 論 戦 の う え ラ フ サ ン ジ ャ ー ニ ー 候 補 を 破 っ た と い う 意 味 でも 極 め て 象 徴 的 で あ る 。 イラ ン 国 民 は 政 府 の 戦 後 処 理 の あり 方 や 戦 争 責 任 者 の 身 の 処 し 方 に 対 し て 不 満 で あ り 、 そ の こ と を 巡 る 無 言 の 批 判 が革 命 強 硬 派 の ア フ マ デ ィ ネ ジ ャ ー ド を 大 統 領 に ま で 押 し上 げた 側 面 を 決 し て 無 視 す る こ と は で き な い の で あ る 。

 お

│イ

化は可能か

  二〇〇五年の選挙をめぐる論評 を改めて読むと、四年後の選挙後 に噴出したイラン国内の政治的問 題 が こ の 時 点 に お い て す で に 出 揃っていたとの感を強くする。ア フマディネジャード政権は第一期 中にすでにポピュリスト的なポー ズを取りつつ革命防衛隊への政治 的・経済的な権限の集中を進行さ せていた。二〇〇九年の選挙後に お け る 抗 議 運 動 の 盛 り 上 が り は、 アフマディネジャード政権のこう した軍事独裁政権化が第二期にお いてさらに加速することへの強い 危機感が背景にあったと考えるべ きであろう。   二〇一〇年春以降のイランの内 政は表明的には平静を取り戻して いるとはいえ、革命後三一年間続 いてきた現在の体制の正統性は大 きく揺らいでいる。さらにその背 景にあるイラン社会の構造的な変 化をみれば、イランの革命以来の イスラーム体制はすでに理念的に も過去のものとなりつつあると考 えるべきなのかも知れない。   革命後のイランはこれまで独自 の内的発展経路による市民社会の 形成を徐々に実現してきた。それ は社会、文化、芸術のあらゆる分 野において顕在化しつつあり、こ の流れをイスラーム統治体制の政 治的理念によって押し留めること はもはや不可能な段階に入ってい る。イランの民主化に向けて新た な政治的・文化的潮流を形づくる べき主な担い手は都市中間層の若 者、学生、女性であろう。他方現 在のイラン社会においては 「都市」 の概念自体がかつて無いほど全国 的に拡散しつつあり、そのすそ野 は筆者の理解によれば旧来の社会 イメージによるイラン分析の前提 条件をはるかに超えて拡がってい る。イスラーム統治体制の名のも とに軍事独裁政権の永続を狙う現 体制と非暴力的な民主化を志向す る市民勢力のあいだの闘争は、実 際 に は こ の 広 大 な 社 会 階 層 を め ぐって戦われていると言ってよい のである。

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Q.民営化とはどういうものですか、また、なぜ民営化を行うのですか。