代理観念の神学的考察
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(2) 18. 小. 林. 託. -. 術における複製芸術(引用,パロディ,パスティーシュを含む)という大問題に発展す る。 1.. 2.お伽鈷の場合. シンデレラ(灰かぶり)の物語において二人の姉は添え物ないし悪役にすぎず,主人 公は末娘であり,継母(実母という説もある)の心に潜む悪の捌け口つまり代表的表現 になっている。これに応じて物語の結末では幸福を独占する,つまり幸せの代表的表現 となる。お伽話・説話には,三人兄弟(姉妹)の末っ子が同様の役割を演じるものが多 い。それ以外でも,ある一人が恵(罪),また善(幸福)を一身に集める,という物語は 世界中に普及している.現代にあっても,いじめられっ子は同じ意味で一人の代表者で あるoこうなると,代表(代理)は「典型」という観念に近くなる. 1.. 3.政治の場で. 民主主義制度は必然的に代表制民主主義になる。代議員が選挙民によって,選挙民か ら,選ばれて,選挙民を代理・代表する。広い意味での政治行動においても,独裁政ま た寡頭政でないかぎり,代理機能が必然的である。会長代行職がおかれ,教室代表が雑 用を一手に引き受ける.しかしそのような代表者は何を代表するのであるか?明らか に,ある限定された役割・職能のみを代表する。国家元首の代表機能,さらに象徴天皇 が象徴(ほとA,ど「代表」というに近いだろう)するもの,となると,問題はいくらか 敢妙複雑になるようである。 なお,蓮賛壷屋は『反-日本語論』1)において,民主主義とインド・ヨーロッパ語に共 通するのがrepresentation (代表また表象)の観念であり,これが,選別と排除の論理を 内包することを揖摘している。たしかに例えば日本語では,実物と言葉がそれほど分離 しておらず,癒着か-し融通無碍の状態にある。代名詞の代わりに固有名詞が頻繁に現 れ,実物さえも言葉の世界にはいりこむ。すなわち,ヨーロッパ語ほどには言語の代理 するという働きが明確でなく,むしろre-のない,. pr6sentationに近い.言霊信仰が出て くるゆえんである。同じ思考の構造から,西欧流の民主主義が日本ではなかなか根づか. ない,ないし,特殊日本化するo仏教・キリスト教・マルクス主義の日本化と並行する 現象であろうo. 「代理」の観念についても,東西で違いがあるようであるが,これ以上は. 立ち入らないo I.. 4.首肯. 前述したように,言語も物の表象-代理である。物(事)に代わり,それを指示する。 「代表とは,それをそのものとして示すのではなく,表象として示すということだ。つまり,言語とは,差異を介して機能する表象体系なのである」. 2)。英・独・仏語でTepresentation は,代理(Vertretung),代表の意味のほか,表現・描写・上演(Darstellung),表象 (Vorstellung)、現前化(Vergegenw畠rtigung)、さらには代議制・選挙区民代表といぅ た意味をも,共通してもっている3). なお,代理と代表の異同の問題がある。例えば,国際合議の正式の代表が欠席して代 理ばかりが出席,というのでは,合議軽視のそしりを免れない。しかし本稿ではこの二.
(3) 19. 代理観念の神学的考察. つの概念を区別する必要がない。 ここで生じる問題は次の二点であろう。 (1)そもそも物自体に(理性,さらに)言語は達し得るか?. (カントの問題)。つまり,. 本体(本質)と現象の問題。 (2)それとも言語はそれ自体独立した,事物とは別の存在(または存在様態)である のか?. ソシュールや丸山圭三郎の思想をgrobに言え表せば,言語が先にあって,. それによって現実の存在が,創られる,とまでは言わずとも,分節される,という、 ことになる。 I.. 5.比唖. 言語現象の内部では,比噴(直喰・暗喰など)が代理である。直接的言表に代えて, 別の,迂回した表現を用いるからであるo 「欲望とは存在欠如の換噴である」. (ラカン.. 竹田青嗣による)。この場合,換喰は代理のことである.比喰(とりわけ隠噴)論で問題 となるのはtertiumcomparationisであろう。それは意味であるのか,それとも物そのも のであろうか? 象徴(シンボル)ち-種の比噴である.象徴するものがされるものを代理するからで ある。言うまでもなく,この点は言語論につながる。そもそも完全に直接的な言表なる ものは可能であろうか?. 翻訳は原文の代わりである。翻訳と原文の関係は,言語・表象芸術と事物の関係に同 じである.. 以上すべて,本物の表れ(representation)という意味で,代理である。 1.. ら.情報 同じ関係は情報の場合にも見られる.もとになる物事(事件など)が情報化されるo. それがさらにジャーナリズムなどを通じて(多くの人の手をへて変形をこうむり),読者 などのもとに届く。これがもとの事件の再現と信じられ,それの代理となって「独り歩 きする」。生情報と間接の(代理・伸介された)情報の違いは誰もがよく知るところであ ろう。つまり,芸術と同じく,情報もあるものを現前させる--「再現前きせようとする。 不可避的に持ってしまうので しかし,それは実は創造という性質を,よかれあしかれ はなかろうか。 I.丁.. .芸術. リアリズムの芸術は対象の忠実な写し・代わりのように見える。写真の発明以前の肖 像画が典型的であろう。しかし実物と写生画は明らかに違う二つのものである。何かが 失われ,別の何かが付け加わる。. representationが代理でもあり表出,さらには創造でも あるゆえんである。抽象絵画は何を表して(代理して)いるのであろうか? 音楽の場合,生演奏に対する録音が再現芸術-表象-代理としてある。またこれとは 別のレベルで,楽譜が演奏を代表している。さらに楽譜は作曲家の思想(楽想)を代表 するものであろうか。一般に,代理(代表)し代理される閑儀は類比関係をなし,幾層 にも重なって・いることがある。場合によっては無限遡及になるであろう。.
(4) 20. 小. 林. 東. -. 1.丁.. I.美 美と代理の関係について,現代神学者ユンゲルの所説を辛がかりに,導人的に述べて. みたい。. まず,「美は現実全体の連関をreprAsentierenする。」pars そして,. pro totoということである4)。 「美は現実連関の砕から脱落することによって現実連関を中断するが,しかも,. その連関を捷喰的(synekdochisch)に指示する.--・美は,ただ一つの相対的な全体を 代表(表象)するだけであり, -・・・美また芸術作品は・・-・有限かつ過ぎ行く(vergAnglich) 現実の代表者にすぎない」5)。美の全体を,というより,およそ全体なるものを決してと らえられない人間の限界が意識され,しかしそれと同時に,いわばヴェールを通して不 透明にではあるが,全体を照らす光が予感されているように思われる。「被造物の根源から する自身の光(被造物そのもの)は到達不可能(unzuはnglich)であり,隠されている」6)0 「創造的根源の光への参与(Teilbabe)は堕落した世では隠されている7)。すなわち,美 の終末論的意義である。 「美が永続しよう,不滅たろうと欲すると,自己を絶対化するこ とになり,したがって悪魔的になる」8)0 美また芸術作品が,それ自身は相対的な部分にすぎないが,創造世界の全体を,暫定 的にせよ,代表的に表現する役割と栄誉をもつ,ということであるoこの考え方は,代 哩-表象観念を入口として,美学と神学をつなぐ可能性を示唆していると思われる。 I.. 8.思想 「絶対的な他者性はそれ自体物象化されるわけです。神の代わりに教会が出てくるよう. にプロレタリアートの代わりに共産党が絶対となる」9)。よく指摘される事態であるが, これも代理現象の一種である。つまり思想が通貨形態に堕落,浅薄化し,手垢がつき, 分かりやすい(つまりは陳腐な),別のものに代わってしまうのである。エンゲルの表現 を借りれば, 「自身の光」が色あせる。あるいは,他者性ないし外部を内部に取り込んで しまう。イエス・キリストにキリスト教が取って代わり,マルクス(の人格の秘密,深 み)をマルクス主義が代理する。 1.. 9.倫理的局面. ある人が(代表として)顕称されれば,その人を含むグループ(例えば家族)ち,自 分のことのように嬉しく,誇らしく思う。逆に,犯罪者を出すと,家族も肩身が狭い。 また,人に代わって善行をなす,という場合もある。. 「人間が自由のために〔不自由な 人々の代わりに〕代理的に苦しむ,ということが〔歴史上まま〕ある.その代理(Stellvertretung)の行為は悲劇的であり,偉大である。しかし救い(Heil)ではない」10)。例えば アウシュヴィッツで別の囚人の身代わりとなって死んだコルベ神父が思い起こされる。 この代理的苦難の問題は犠牲の問題につらなる〔後述〕。 1.川.問題. 代理という機能が働いている場面は他にも数多く見いだせるであろうが,これまでの 考察から出てくる問題をまとめてみよう。生活の中で,人間は中心(物,本物,本人) からその外へ次々に代理を作り出していく。多くは能率のため,また,ただ怠惰のせい.
(5) 21. 代理観念の神学的考察. で.逆に,思想・学問・芸術は代理(表象)から出て中心に達しようとする.しかし, どちらの場合にせよ,代理する,表象されている,という場合,いったい何を,どこま で,代理でき,表象しうるのか?職能,あるいは一般化して社会的機能は,出来不出 来の違いはあるにせよ,一定程度は代理可能なようである。しかし,人格,生命,本質, あるいは物自体を,代理するということになると,そう簡単ではない。この場合,本物 (-ムレット)にすぎないのかもしれな など,もしかしたらない,つまり「すべて言葉」 い。すべてが現象であって,物自体(絶対)は到達不可能なのであろうか。事態はむし. ろ達で,人間が創るものがすべてなのかもしれない。本質も物自体も,哲学者が創りだ す-ちょうど芸術家が(写生・模写でなく)実在を創造するように-のであろうか? 2.宗教学的に 宗教において代理の観念は大きな役割を果してし-る.以下に簡単にまとめてみたい. 分類は主としてRGG 2.. "Stellvertretung"の頓による11)0. 1.神の地上における代理人. この観念は,とりわけ無配的(聖なる)支配者(王)という形態で,広く普及してい る。古代エジプトでは王は鷹の神Horusの顕現形態であった。しかしまた多くの民族で, 普通の人間も神々の代理人たり得る。アズテクでは戦争捕虜が神の代理として殺された。 フレイザ-. 『金枚篇』に類例が数多く収集されている.. 神は代理(代表)を通して民を動かす。代理人は神の力の担い手,辛,道具であり, 最古の代理人が王である(王と祭司は中世に至るまでほとんど区別されない)12)。王は神 Amtだから,人と力は分離されうる13)。それゆ を代理するという職務(Ant)を担う。 え,王の職務か他の人間に移されうるのである。また王は時に力(聖,神)を代理し, 時に民を代理する14).注目すべきだと思われるのは,王が二人でなく,一人だということ である。この点から,一人の伸保者・媒介という観念が発展してくる。 言うまでもなくこの連関には,神の顕現,救い主たる王,皇帝崇拝,世界の始まり, (生命)力の更新と保存,といった一連の宗教的観念15)が 福音,永遠の息子,犠牲の死, 関わってくるが,それについては詳説を避ける。 2.. 2.王の代理. バビロニアでは王が災いに脅かされる時,. Scheink8nig(仮の王)を百日間立てること. ができた。影武者の発想であろう。このような一時的王,またMockkingについても, フレイザ一に多数報告されている16)0 代理の王という思想は, (1榊および民の代表(代理)としての王が死ななけばなら′ない (大地の力の保存が目的o王の死体も力を失わない),. (2)王は代理人(Spottk8nig, Schein-. k8nig)を処刑させる,という二つの代理観念が融合したところから発生している17)o Shakespeare『じゃじゃ馬ならし』 なお,この一日だけの王は文学に生き残っている。 を見よoイエスはサトゥルナリア察のSpottk8nigとしてローマ兵士にあざけられたのか もしれない。十字架に掲げられた「ユダヤ人の王」の罪状書きは,自分の民の救いのた.
(6) 22. 小. 林. 鼓. -. めに死ぬ王の伝統にのっとっている.旧約における「ヤーウェの苦難の僕」も,王の一 面である18)。このように,古代社会の豊穣の力の崇拝の伝承から発する観念の発展が,キ リスト教にも痕跡を印し,かつ純化していると言えよう。しかし,啓示を出発点とする 神学からは,別の,いっそう重要な要素が見えてくるであろう。 2.. 3.倫理の分野 罪の代理的引受けの信仰は広く普及している。バビロニアの新年察りにおいては,王. が民の罪を担って大祭司の前に身を低くし,民を代表して赦免を得る儀礼が行われた。 旧約聖書『レザイ記』 14・16章に根拠をもつスケープゴート(Stindenbock)追放の儀礼 は犠牲の思想と密接に関連し,現代における此喰的用法に及んでいる19)。フレイザ一に類 例が多い20)。 2.. 4.祭配 シュメールの神殿の壁に沿って,祈る人間の小立像がいくつか残っている。信者が永. 続的に神に祈ることを表しており,像が寄進者を代理してい.る。チベット仏教で信者が 経文を唱える代わりにガラガラ様の仏具を振り回す様子がしばしば報道される。日本で は,お地蔵様がこれに相当するかもしれない。 犠牲奉献に際してErsatzgaben(代用犠牲)が広く,とりわけオリエント,メキシコで, 行われた。これもStellvertr如ngの一種で,まず王の身代わりに奴隷または捕虜が捧げ られたo次に人間の犠牲に代わって動物の犠牲が捧げられるようになる。旧約聖書創世 記のイサクの献供の記事やギリシア神話のイフィゲ-ニュ献供の物語にこの過程が反映 しているoさらには高価な動物が安価な(手に入れ易い)もので代用される.特にオオ ムが好まれた。ギリシアではクッキーでもよかった。近代でも動物形のパンやクッキー がよく用いられる21)。 2.. 5.基,埋葬の場合 特にエジプトで,死者の萎また従者を殉葬する代わりに人形を副葬した。. (日本の土偶 も同じ意味をもっていたのかもしれない。)同時に死者のために食物の模型・壁の絵が呪 術の呪文を添えて納められた.中国では神(仏)の絵を描いた紙を切り抜いて燃したo これらの風習も-種のErsatzgabenである。 2.. ら.それ以外. 王また代理王のほかにも,神の代理人にはさまざまの形がある.聖なる力の担い手と してのメディシン・マンと預言者(随時の代理),祭司(規則的代理)22)。マリア23)。Sprecber, 説教者(伝道者). DieGeweihten(聖別された者)はとりわけ女性性 ・使徒,教師,弟子24)o の神秘を体現する25)。聖者は時には代理以上の存在である26)oDAmonische Menschen27). これら代理人は多く仮面をつけ,仮装をする。仮装舞踏会,法服,牧師販,職務独自 の所作などはすべて後世の残存現象で,特殊な(もともとは聖なる)役割を演じること を表す28)a 2.丁.まとめ. 以上の宗教現象すべてに共通する本質は,人間が力に与かって「聖」となることがで.
(7) 代理観念の神学的考察. 23. き,聖性の担い手となる,ということである29).代理人より一段高い存在はMittel,Mittler (媒介,伸保者)であり,ひたすら力の手段(Mittel)として生涯を捧げる30)。ナザレの イエスは,宗教学的に見れば,. Mittlerとして尊崇されたoすなわち神から人間への,人. 間から神への,運動のMittelであった31)。 3.キリスト教神学で 3.. 1.幼児洗礼. この習慣はローマ・カトリシズムのみならず,プロテスタント教会内でも行われ,ま た激しい神学的議論が戦わされる点であるが,ここでは我々の主張を短く述べるにとど める.. 親または代父の信仰が幼児のそれを代理しうる,という考えは,キリスト教世界(共 同体)を前提としている。しかしこの前提は,キリスト教信仰の本質上,.成り立たない。 「キリスト教世界」 (Cbristenbeit)は社会学的概念であるが,信仰は個人の魂の事柄だか らである.洗礼は成人した個人の信仰に基づいてのみ,執行されるペきである.幼児洗 礼を受けさせる親の心は,人情としてはよく分かるが,それは神関係を人間関係の水準 に引き下げることになる。 洗礼は諸々の宗教の入会儀礼ではなく32),サクラメント(秘蹟)でもなく,呪術的なと ころを全くもたない,理性的・意志的な,人間の応答(決意表明)である(KDⅣ/4,. 98. ff.)その決定的根拠は,信仰を代理できるのはキ1)ストのみだ,ということである.キ リストがすでにその代理を唯一決定的に遂行した。これ以外,代理はありえない。もし あったら,それはキt)ストの代理を借称しているのであり,すなわちキリストを借称し ていることになる。. (Ⅳ/4, 204ff.). 洗礼は本質的にはGeisttaufe(キリストの霊による洗礼)であって,水による洗礼はそ の証・しるし(Zeichen)として,完全に人間的・人格的・理性的な行為なのである(Ⅳ/ 4,. 33ff.u.passim)o. 3.. 2.サクラメント. 本質的にクリスマスの秘義(受肉)が唯-の,一回きりの,サクラメントであって, 教会のいわゆる「サクラメント」によるその繰り返し・延長,つまり代理,などはあり えない(Ⅳ/2, 59).カトリシズムのサクラメント理解は新約聖書のキリスト教を変質さ 225f.)。 せ,魔術化と人間の神化をめざしている(Ⅳ/2, .ミサのパンがキリストに実体変化すると考えたり,サクラメントはそれ自身で聖なる. 力をもつと考え,るのは,力をキリストのわざから切り離して,それ自身として,独立し た物のように捉える考え方であって,. 2.に略述したような原始的宗教心性,さらには. 魔術に近すぎて,とうてい正しいとは言えない。しかし,この点よりも本稿の主題に直 接関わることは,このサクラメント理解は,サクラメントを独占的に執行する教会-餐 司が,神またキリストの代理人となって,会衆を支配する権能を許してしまう危険を内 包している,という点である。.
(8) 24. 小. 3・. 林. 兼. 一. 3.キリストの代理としての教皇,マリア,聖人。 ホイジンガ『中世の秋』は,中世末期,象徴主義が異常に肥大したありさまを活き活. きと描きだしている33)oすべてが物質的に考えられる。だから聖なるもの,抽象的な観念 ち,イメージで捉えられる。ここからおびただしい聖画像(キリスト像,マリア像,聖 人像)が描かれ,聖人伝が創作される。信仰が外面的・具体的なイメージ,. Bildでしか表. されなくなる。これらはすペて,本来のキリストの代替物にほかならない。 カトリック教会ではBiscbof. (司教)が「キリストの代理人」とされる34)。また王・皇. 帝が, ``MitberrscherChristi"として,. 「キリストの代理人(vicariusChristi)」とされ ることもあった35)。メシア・キリストも王も,ともに「油注がれた者」だからである。こ こに皇帝崇拝が容易に発生し,王・皇帝の神化となって,原始宗教心性が復活する。 また言うまでもなく王の叙任(Weibe)はサクラメントの性格を賦与される36)。現在で はイギリス国教舎の首長としての国王(日本の天皇も似た性格をもつ)にその名残があ ると言えよう37)。 プロテスタント神学の立場からは,このような心性を否定しなければならないo. 紀のカトリック神学者Job・. Adam. 19世. M蝕1erは,教皇(あるいは教会)はキリスト自身を. 代表する,だからunfehlbar. (不可謬)だ,と主張する(KDI/2, 625)。ローマ教会は, 教皇が伝統と啓示を独占的に所有するから, Unfeblbarkeitをも有する,と信じる(Ⅰ/ 2・. 619)。しかしそれは「キリスト教〔すなわちキリスト教世界,教会〕によるキリスト. のErsatz. (代替)」にほかならない(Ⅳ/3, 404).またローマ教会のよき文化遺産に修道 院があり,修道士は俗人に代わり,彼らを代表して,禁欲を守り,完全性の模範を具現 しているが,プロテスタントとしてはこの思想を拒否しなければならない。根拠となる 原則はこの場合も前に述べたのと同じで,信徒を代理・代表できるのはキリスト自身だ け,ということである。 3.. 4. 3・. (Ⅳ/2, llff.参照). #% 1・. -3.. 3.までのカトリック教会の主張はその教会の自己理解に根拠をもっ. ており,また我々がそれを拒否するのも,それとは異なる教会理解に理由がある。 教会はキリストのcorredemptrix(共同救頗者)ではなく, alterChristusでもない(Ⅳ/ 3・ 835)oキリストのみが唯一の,神の言葉のスピーカーであって,信徒はキリストと同 じ位置に立つことはなく, Christusseはありえない。信徒にできることはただ,伝令(使 者)たることであり, ministeriumVerbidivini (神の言葉の奉仕)である(Ⅳ/3,. 695,. 592)oまた信徒を二つの身分に分け,一方を代表者,他方を一般信徒とするのは間違い である(Ⅳ/3,. 895). analogidfidei (信仰の類比)によって,我々のすペてがキリスト に代わるBotscbafter (使者)とされている(Ⅰ/2, 540)からである。 積極的には,教会は義認と聖化の-あるいは,神の国-神の絶対的支配の十一瞥走. 的表示であり,キリスト自身の代理ではない(Ⅳ/2,. 741f.)。言い換えれば, 「教会はキ リストにおいて義とされた人間世界のさしあたりの表示である」 718, (Ⅳ/1, Leitsatz)0 教会は「周辺の存在として,むしろカインの末希たる人類の現実の状況,すなわちHeimaト.
(9) 25. 代理観念の神学的考察. losigkeitを代表(表現)する」. (Ⅳ/3, 853)38)。. カトリック教会,とりわけそのサクラメントは,キリストの代理・Repr宜sentation・ 反復・継続たることを倦称するが,間違いである。それは自ら半神たろうとすることで ある。原始宗教的・自然的心性にとって分かりやすい形態になってしまっているo. 『カラ. マーゾフの兄弟』の大審間宮の姿がその典型であろう。ティリッヒ流に言えば,最高の 関心をreprAsentierenするものは,自身,最高の関心になろうとする傾向がある39)obildlich に言えば,キリストを後ろ楯にして民衆に対時し,キリストの代理を借称するのが間違 いだ,ということである。信徒同士はあくまでも全員横一線に並び,そろってキリスト を見上げる,またはキリストの後ろから従う,というのが正しいイメージであるoキリ ストを代理するのではなく,指し示すだけという,洗礼者ヨ-ネの線に教会は位置する (Ⅳ/3, 957ff.参照)0 こういうわけで,教会内では「職務の相互の委任や代理は原則的にありえない」. (Ⅳ/. 2,. 786)。代理があるとすれば,それは全く違った水準でのことである。すなわち,例え (Ⅳ/3, 1003)。または,前 ば「伝道合は全教合の代表(代理)としてのみ行動しうる」. に触れたように,人類の代表として「教会は神賛美・祈りにおいて,全世界に代わって 「教会は新 行動できる」 (Ⅳ/3, 1013)。しかし,この点でも誤解の危険はついてまわるo しい世界の代表またモデルである」という自己理解は,微妙な点で誤っている。教会は. まだ,完全な理想社合の実現形態ではなく,終末までの短い期間の,臨時・暫定的な存 在にすぎず,. 「聖徒の交わり」であるとともに「罪人の共同体」であるからであるo. 3.. 5.人間論から KDItI/2, §45, 1.の表題は「イエスーー他の人間のための(に代わる)人間」という. ものであり,これが神学的人間論の精髄である。そ・の前提は選び(予定論)であるo選 びがまず(世界の創造より前に/)ある.言い換えれば,イエス・キリストの規定(A 間の呪いと救い・選びたるべく定められていること)がまずあるoそのイエスがderMensch, すなわち,本来・第一の,神の像である。 「人間の前での,神の代理人としてのイエス」また「神の 本稿の主題に即して言えば, 前での,人間の代理人としてのイエス」という「二重の代理として,,イエスは時の中に 生きる」 (III/2,527)ということである。 このことの帰結として,これより下位の水準に,男と女の関係が基礎づけられる。こ の大きな問題についてここで詳説する必要はないであろう40)。ただ,さらにその帰結とし (ⅠⅠⅠ/2, て, 「男は女の頭(かしら)である」 375),すなわち秩序を代表する役割を負わ (ⅠⅠⅠ/2, 378) されており,他方, 「女はある現実,すなわちGemeinde(教会)を代表する」 意義をもつ,ということを指摘しておこう。 3.. 6.倫理 この分野でもカトリック的・スコラ的なKasuistik. (決疑論)を批判しなければならな. い。それは各々のケースについて善と悪を区別するものであり,つまりは神・王′・裁き 主の座につくことになる。まさに創世記3章の蛇の誘惑の目的,人間が神に代わる,柿.
(10) 26. 小. 林. 謙. 一. のようになる,ということの実現であるoそれは,人間がいつまでも倫理すなわち神の 成めの,単なる受け手・初心者でしかないことを越えて,神の意思,ということはすな わち神自身を, meisternしようとする,思い上がりの行為である。 (ⅠⅠⅠ/4, 9f.) 愛の場における代理について一言述べるo「人間の愛は神の愛を反復も代理もできない」。 ト次的な愛と,二次的な愛」. (Ⅳ/2, 855)との質的隔絶がここに表れており,これは倫 理全般に通じるo人間の中でイエスだけが,神がイスラエルに与えた約束を成就した(933)。 今の主題に関していえば,本来,イスラエル人イエスだけが(二つの次元の)愛のわざ をなしえたoそれ以外の人間の愛のわざは反映・反復・比倫であって,非本来的なもの, 対応・模倣・模写する行為にすぎないoただし,それとして,. (二次的)現実の行為,義 示であり,イエスの愛のわざに似た,小さな愛のわざとしての栄光をもつ. (Ⅳ/2; 934 f.). この項の結論を要約すれば,. 「代理的に実存することは△旦にはできない」41,.. 3.I.天使(神の償い) 天使はもちろん,代表的な神の(一種の)代理的存在であるが,いずれ稿を改めると して,ここでは省略する.. KDIII/3, 558ff., 566ff., IIt/2,374.など参軌 また,預言者・使徒も特別な代理者であるが,これについても省略する。. 3.. 8.聖東. 聖霊が神またキリストに代わる活動をすることは言うまでもなく,聖書にもKDにもき わめて数多く記述されている。しかし,聖霊は代理者以上のものである.神とキリスト と同一なのである(三位一体論)oそれゆえ,本稿の扱う範囲を越える. 3.. 9.聖書 旧新約聖書は「神の言葉」であるが,現象的には人間の言葉で書かれている。神の言. 葉の人間の言葉への一種の翻訳がなされているわけである。翻訳については「導入」. 1.. 5・で簡単に触れたが,今の場合,問題はいっそう複雑である。そもそもそれは,棉, 神の子,神の霊のわざを人間の言葉で表そう(代行しよう)とするのだから,不完全た らざるをえないoしかしこのことをもう少し正確に言えGf,「聖書それ自身はしるし(Zeichen), しかも, ZeicbendesZeicbensでしかないoつまり,イエス・キリストの最初のしるし としての預言的・使徒的啓示の,. 〔さらに〕しるし〔である〕にすぎない」. (i/2, 649)。 この言葉の問題は,神と人間(および世界)との問わりそのものに広がる。ここに,Entspre・ (対応),. cbung. Analogie. (類比),. Reflexion. (反映)といった概念が必然的になってく. るゆえんがある42)0 3.. 10.イエス・キリスト. 神学的に決定的な代理は,イエス・キリストのそれ,とりわけ,その代理的苦難(Leiden), 代理の死,原罪であるoこれに関する新約聖書におけるlociclassiciは,マルコ10, マタイ26, 3.川.. 28;ガラテア3,. 13;. ⅠⅠコリ5, 14などである。. I.予定(選び)の載点から. 出発点にして前操となるのは,選ぶ者・選ばれた着たるイエス・キリストであ,る.す. 45 ;.
(11) 27. 代理観念の神学的考察. なわち,イエスの選びと,またこれと一体になった「代理・代表として棄てられること (stellvertretendeVerwerfung.. ⅠⅠ/2,389)であるo. 「十字架につけられたイエスが『眼に見えない神の像』であり」,. 「棄てられた者の先頭. として,棄てられた者の場所で,選ばれた人間だけが,棄てられた人間を選ぶことがで きる」 (ⅠⅠ/2, 132f.)o 「この一人がderErwAhlteでありまたderVerworfeneであるから,. 選ばれた者と棄てられた者双方の主・顔であり,また〔人間たちは〕墜聖代理人である」o (ⅠⅠ/2,382.強調は原著者).. 「我々の代わりに,我々の場所で,神自身の自由剥奪ができ. ごととなり,」 「神が自己を低くし」,それによって「我々を裁き,断罪し,罰し」,そし て義とし,聖化する(ⅠⅠ/2, 546f.)0 「わが神,わが神,なんぞ我を棄てたまいしか」 34)。この絶望をキリストは我々の代わりに味わった(Ⅳ/2,. ルコ15,. (マ. 693.)のである。. イエスの代理的苦難はどうして人間を代理できるのであるか。 「イスかJオテのユダは,使徒たちの中でただ一人,イエスに似て,他の人々の代わり の死を受けた。. 〔この点で〕イエスは孤独ではなかった」. (ⅠⅠ/2,532)。つまりユダは他. 557)。 の弟子たち,他の人間がイエスにしたことを代表的に遂行したのである(ⅠⅠ/2, (ⅠⅠ/2,512)であり,後 比噛的に言えば,ユダは「他の使徒たちの汚れた足の代表者」. の大使徒パウロもユダをPlatzhalter 530)。ユダは「イエスのScbattengestalt. 〔いわば先駆者〕として,ユダの地位を襲う(ⅠⅠ/2, (影)」である。すなわち,ユダは過去と死を代. 表し,選ばれた者(イエス)は約束と復活を代表する(ⅠⅠ/2, 表題,. Der. Erwahlte. und. 502ff)。しかも,. §35, 2の. der Verworfeneが要約しているよう・に,イエスはその双方な. のである。すなわち,旧約で言えばカインとアペル(創世記4章)の二つの型とも,ユ ダの形姿を内包するイエスの予型なのである。 ユダは棄てられるべき着たる人間の本質を集中的に代表する者として選ばれている。 この本質に人間イエスがいわば入り込み,それと一体化し,それと共に死んだ。それに より,棄てらるペき古い人間を罰し,滅ぼした。このような本質の水準において,ユダ やパウロ,さらにイエス,の個人性の枠・外被は破られている,と言わざるをえない。 こうして, 「卑下(Erniedrigung)と高挙(Erh8hung)の双方を一身に体現したキリ. ±ヱ聖現実,墜二塁現実」 (ⅠⅠ/2,403), 「塾塾 ストが,袖にして人である存在として, 坦現実」 「隠れた現実」 (ⅠⅠ/2,399.強調はともに原著者)を表現する。なお,. 「現実」. については,本紀要36号所載の拙論「神学的現実」参月臥そこで扱わなかった,無の, いわば反-現実とその克服,つまり無の廃絶,を選ばれ・棄てられた着たるイエス・キ リストが遂行する,ということである。そのために彼は無(恵)の底まで味わい尽くさ なければならなかった。こうして,本来の現実が世界(存在)をおおい尽くす。これが できるのは,棉(本来の存在,現実)であり,かつ非本来的世界(存在)たる人間でも ある者だけである。彼は真正の人間(しかも人類を代表する人間)として,真正の苦し みを味わい,真正の誘惑をくぐり抜けなければならない。 3.. 10.. 2.和解論から. 代理的苦難には二つの側面がある。. 「ネガティヴには,他人にとって〔苦難が〕免除さ.
(12) 28. 小. 林. 謙. 一. れる(erspart)ということであり,. --ポジティヴには,ある人の(利益の)ため,と いうことである」43)。イエス・キリストの和解(磨い)のわざは神学の中心であって,い くらでも詳しく論じられるが,ここでは代理の観念に関わる点だけに絞って簡潔に述べ. たい。 3.. 10.. 2.. 1.法的見方. 和解論にはさまざまな捉え方がありうるが,. KDで主要な見方は,裁判・法の観点(比 喰)でキリストのこのわざ(行為)を解釈する(捉える),ということである。 KDⅣ/1 「我々の代わりに裁かれた裁き主」という節(§59,. では,. 2)で「我々のための代理的 行為」 (253)を論じている。キリストの十字架は我々の代表者として,であり,罪につ いても,代理で罰を受け(457),義認という神の裁き(614ff.)についても同様である。. 「全神学がこの壁些の教説たる『十字袈の神学』にかかっている」(300.強調は原著者). ``unser Ⅳ/2でもこの捉え方は継続している。 主,頭にして代理)という表現が頻出する(343,. Herr,. Ⅲaupt. 527,. und. Stellvertreter''(我々の. 546,. 558u.passim)0 「我々の代 (394) 「十字架に架けられた人間イエスにおいて, 我々の古い人間が死に,新しい人間,すなわち神の聖者,が我々に代わる〔我々の場所 わりに我々の告,恥困窮を担って」 にはいりこむ〕」 (554)。 「ナザレ人イエスが世界の,我々すべての,代表者とされ,身を捧げ,そうして神の怒 りと呪いを引受けた。 ・--。この人において, 「神自身が世界とともに苦しむ(Mitleiden Gottesselbst)」 (Ⅳ/3, 478)0 Ⅳ/3については,その他, 257f., 458, 475, 477, 482, 509, 3.. 533, 10.. u.. a.m.を参照せよ。. 2.. 2.犠牲 なお,以上のような法的見方のほか,キリストの祭司的職務の面から,犠牲(宥め). という観点(カテゴリー)で和解という事柄を捉えることもできる。. 「新約聖書では代理. と犠牲の思想は直接に結びついている」44)0 キリストは完全な祭司であり,自身,完全な犠牲となった。我々の代わりに,また我々 のために,なされた犠牲の行為であり,犠牲の捧げ物である.この犠牲が,我々の犠牲 として,我々が行った義の行為として,認められる。我々自身が完遂した和解のわざと される。これが,キリストが唯一回限り遂行した和解の犠牲の意味であって,したがっ てこれ以後,犠牲の祭儀は不要かつ不可能となったのである(Ⅳ/1,. 305ff.)。我々の側 からはこれに対して・ただ感謝と讃美と服従の奉仕をも?て答えることだけができる(ⅠⅠ/ 1,. 245ff.)0 ユンゲルもほぼ同じ趣旨を述べている45)。. 犠牲は, Ersatzleistung(代替行為.前述2. 4.参月別であり,全体の代わりに部分 をもってする(269).だからEntlastungsm8glichkeit (負担軽減可能性)がどうしてもつ きまとい,予感,此喰,約束,またZeichen(しるし)にすぎないという不安が拭えない. (270)。古人にも祭儀のこの不十分さは自覚されていた。本当に,その部分的犠痕が全体 の代わりになりう、るか?. (270)神と人間の関係の破綻が回復しようのない場合,宥めの.
(13) 29. 代ヨ里親念の神学的考察. 犠牲が捧げられるが,それでも負い目は完全には清算できない。だから自己自身を捧げ るしかない.そうでなくとも,犠牲(の獣)に手を置いて,自己と獣の同一化をはかる. subjekt肋ertragung (主体の委譲),代理である(271)。しかし,存在の全体性,全被造 物,全世界の宥め・和解が問題となると,被造物の姿をした創造者なる神の現在が必要 になる(272)o聖なる神が一人の人間と同一化し,この人間を全人類と同一化する.こ れが,代理の力をもつ。この一人の中に我々すべてがいる。これが大いなるサクラメン トそのものである。重要なことは,神が世界に宥めをしたことが,イエスにおいてしる しとして模写されたのではなく,彼においてこの宥めが遂行された,ということである。 っまりErsatzleistu喝によってではなく,存在論的代理によって,このわざが成就された, ということである(273)0 (Bartb, 「存在の時(ZeitdesSeins)が明けそめた」 エンゲルはバルトを引用して, KDⅣ/1,. 309)とまとめる(273)。この点は,本稿で後にティリッヒの所説と比較する. ときに,一つの手がかりになるであろう。 なお,. KDIII/4, 401ff.に動物の(代理的)犠牲の意味を論じた箇所があるが,ここで 2.. は扱わない。本紀要前号(38号)の拙論「蛇について一神学的考察-」. 5.秦. 照。 3.. 10.. 2.. 3.. 和解はまた,経済的に捉えることもできる。つまり借金の購い,いわば身代金′(これ は代価であり,代理につながる考えである)の比倫ないしカテゴリーで解釈するのであ 301f.ここでは論じないが,ただ,それがgive and takeには決し る。例えばKDⅣ/1, てなってはならない,という点は指摘しておかなければならない。 なおまた,軍事的解釈(恵の力に対する勝利と解する)もあり,さらに,完全な愛の 貫徹という捉え方(ヨ-ネ的)もある。 3.. 10.. 3.聖化と倫理. 和解の内容をなす義認・聖化・召命のうち,聖化はとりわけ倫理と密接な関わりをも つ。. 「イエスの聖化において,それとともに,我々の聖化もすでに成し遂げられている。--・(Ⅳ/2, 584)0 もちろん,本質において,あるいは深い現実において,である。しかしここで注意すべ. 我々は,かの一人の内ですでに聖とされているから,すでに聖人である」. きは, 「私は汝らのためにこれをなした。では汝らは我のために何をなすか?」とは(好. んで歌われる敬慶主義的ないしロマン主義的賛美歌七は違い),聖書は言わない(Ⅳ/2, 584),ということである。この場面でも,キリストと我々の間にdoutdesの関係は成り 立たないのであるoたしかに「十字架の尊厳(Wtirde)」 (§66,6.の表題)からはBewahrungen 「選 688ff.)。しかしここでもその根拠は, 34),我々に代わって び」の項で触れた,十字架上で神に見棄てられたイエス(Mk15, (信仰に基づく行為)の問題が出てくる(Ⅳ/2,. 苦難の全容を味わったキリスト以外ではなく,彼にあって我々も見棄てられたから,我々 693)0 は彼と深い交わりの内にある,ということ以外にない(Ⅳ/2,.
(14) 30. 小. 林. 鼓. -. この先の論理はエンゲルに従って追っていくとしよう。 たしかに信徒は「神の模倣者」 (tot)ピ2,1ff.)と言われている46).しかしキリストの 犠牲は第一義的には例・模範ではか、47)0 「犠牲」の頓に要約したように,まずサクラメ ントがあって,次にはじめて〔付随的に〕模範が問題になる48).しかも,イエスの唯一決 定的な宥めの犠牲の死の後,もはや犠牲は隠喰としての意味しかない,つまり,メタフ ァーとして,キリスト信徒の全生活・全生命が犠牲,ということである(275)。そして 「キリスト教的生活の第一の,基礎的な行為は,礼拝(Gottesdienst)の祝祭であり」, は祝うペきである」. 「我々. (276)。祝い,感謝,喜び,安息日の安らぎ,が第一の犠牲なのであ. る(277)oなぜなら,. 「愛としてイエス・キリストはサクラメントであり,かつ模範であ. る」 (279)からである。もちろん,第二に,苦難も信徒の生活には降りかかる(279)0 しかしそれは「キリストの宥めの犠牲の延長では決してな」く, 的に無要求」. (280)なもの,. 「宗教的な意味のない」. 「当たり前」の, 「宗教 (281)ものである。我々にできるこ. とはただ「神の平和への地上の此喰・類比を創りだす」ことであり, (Mt・5,9)」. 「そうすべきである. (281)。この点に,イエスの模範的意味は要約される(281f.)。. 4.冶胎 4.. 1.代理行為 代理という行為それ自身,キリストのそれを原型としてもつ。というよりも,それこ. そが唯一・完全な代理行為である。人間的な意味の代理以上と言えるほどである。なぜ なら・そこには代理するものとされるものとの完全な一致があるからである.人間(宿 徒)の行う代理行為はそれの写し・対応でしかないが,しかしそのようなものとしての 栄誉をもつ。 だから,キリストの代理を倫理的模範として模倣する,という言い方は危険である-. そこには神と人との質的隔絶があるから-が,服従または対応としての代理・犠牲 の行為は可能である。. 「導入」に述べた種々の人間的代理・代表の行為も,造かにキリス. トのこの原型を望みつつ,しかし,それに到底及ぶべくもないことを知りつつ,なされ る,と言えよう.人間はこの原型から,すべて代理の可能性と力を得るo 4.. 2.神の代理 キリストは神の代理人であるが,しかも同時に,代理ではない。代理以上である。エ. ンゲル流に言えば49),キリストは人間・人類の代理(代表)以上の,神自身だからである (三位一体). SelbsthingabeGottes(神の自己献身)についてのバルトの言葉を引用する. キリストの実存は,. 「イエス・. そのすべての謎において〔謎にもかかわらず〕,卵白身の生の表示, 模倣,些昼であり」 (Ⅳ/2, 392・強調は原著者), 「ナザレのイエスは,神自身の生の塵 昼型・室生を証人である」 (同所.強調は筆者による)oエンゲルによれば, 「人間イエス は神の此噴である」50). 0.
(15) 31. 代理観念の神学的考察. 4.. 3.人間の代理. 3)。彼が存在そのものの根 ロゴス・キリストにあって宇宙は創造された(ヨ-ネ1, 拠である。だからイエス・キリストは完全に人間(その一人一人,また全人類)を代理・ Menscbである。 (宇宙を代表する,という点に関しては,人間以 代表しうる。彼がder. 外の諸存在年別まおのおの知っているのかもしれないが,我々人間にはわからない,とし か言えない。)キリストはある個人のアイデンティティにとどまらず,その生命,さらに は存在を代理できる。 KDi71,. 3,. 「召命の目標」の頓にumiocumChristo. しい記述がある(Ⅳ/3,. (キリストとの合一)に関する美. 619-636)。これを検討することで結びとしたい。. 信徒の召禽の目標を表す言葉として"Gemein∝haft"の概念は弱すぎるかもしれない. -そのIntimit弘Intensit払いな,宣全墜を表現するのには。それは独棒の近さをも つ,塵埜里, Gemeinschaftだからである.ただしここでは,キリストが主であり,信徒 (619-620.. は僕である,という秩序が厳然と存在するo両者の混清,交替(交換)はない.. 強調は原著者,以下同様)すなわちそれは,魂と精神の集中,人間の自己意識の深化と 高揚とによって呼び出される,両者の一致の体験を本質とする神秘主義と混同されては (向かい合い)の消滅, ならない.神(語る者)と人間(語りかけられる者)のGegenuber 脱人格化,創造者と被造物の区別の中性化,といったものはない。それはあくまでもGemeinschaft,. Begegnung出合い)という性格を保ち,人間の側の眉由も消失から守られる.. (620). それは宣全皇Gemeinschaftとして,むしろVereinigung(一つになること)と言うべき である.それはしかしIdentifikation. (同一化)ではない。それは相互の自立性と独自性. unio における結合であり,双方からの完全な塾旦である.すなわち真正のEinheit(一致), cum. Christoである。. (620-621). それはキリストとの信徒のVereinigungであることが注意されなければならない.つま り,両者の中間には助け手・共働者・同伴者はないのである。ましてcorredemptor. (共. 同救頗者)や,カトリック的意味の教会など,介在してはならない。そこでは個人はひ とりでキリストに向かい合う。しかしなおその人は,同様にキリストと向かい合う他の 個人(つまり会衆と)共にあることを発見する。ここに,相互の献身と聖餐の根拠があ る. (622-623). イ信徒軒キリストの内に(inChristo),キリストが信徒の内に」と言うときのinという 前置詞はどういう■意味であろうか。まず,場所的意味が考えられる。人格的出合いの場 ということである。しかし,ふつうの出会いと違って,キI)ストと信徒の距離が消える. 信徒のいる,まさにその場所に,キリストがいるのである。しかもなお,この場所にお いて,キリストは,人間の自由(自由な理性・行為)にあってなされる服従において, 統治するのであり,その人間にあっては,自由において,存在と行為の一致が実現する。 (628-631) 教理史上でこの点を概観しよう。ルターにおいてunio ターとなっている.すなわち「一つの体(quasi. cu凪. unumcorpus)」. Cbristoは決定的なファク 「一つの人格(quasiuna.
(16) 32. 小. 林. 兼. -. persona)」。 「距離」の情熱家たるかレヴァンさえ,同様である。 uniocumCbristoは, 聖餐論の枠内にとどまらず,ほとんど彼の「キリスト教の本質」諭をなしている。しか もクレルヴォ-のベルナールを引用さえして/. しかしかレヴァンのこのunioは,もっと. 先を示す帰結を含んでいた。1559年の『綱要』においてこの思想はまさに,救いのZueignung (身に着ける土と)に関する全教説の,いわば公分母とも言うペき位置を占めている。そ れは,キリストが我々のうちに住み,我々は彼のうちに植えられ,彼を着るということ, すなわち聖霊によるunio. (またはconiunctio)にほかならない.. 16・17世紀以降も,ルタ. (改革派のオランダなど ー派・改革派ともに,このGemeinscbaft,unioを重んじてきた。 では神秘主義的敬虞主義へ発展する。)とりわけ改革派神学は,選ばれた者の召命の本来 的本質はunio. Christoであるという確信を持ちつづけた-この点を突きつめるこ とをかレヴァン自身も改革派も,まだしてはいなかったが。突きつめれば,それは西洋 cum. キリスト教世界の統一点になりえた思想であったろう.. (631-636) 要約では分かりにくかったかもしれないが,パルトは,かレヴァンおよび改革派神学. cum の伝統を越えて一歩を進め,和解論の決定的中心にこのunio Cbristoをすえるので ある。これはきわめて微妙な事柄で,個人・人格が融けてしまう神秘主義では決してな. いがr,自由の服従における,キリストとの本質的・存在的一致であり,キリスト教的愛 とほとんど等しいと思われる.すなわち神の三位格相互の問が完全な愛で結ばれている. ことに対応し,それと類比的に,キリストと人間の間も,本来完全な愛によって結びつ いている,ということであろう。これが,神学的に見た「代理」の究極であり根源であ る。. I.I.神の代理と人間の代理の一致 論理的にはここで4.. 2.と4.. 3.を結びつけなければならないのであるが,それ はキリスト諭という大問題になるので,省略する.ただ,代理q)観念が,これまでにい ささかなりとも触れた三位一体論・予定論・救済諭にとどまらず,創造論や終末論にも -貫する論理(というより,事態)に支えられているであろう,という予想を述べるに とどめるoつまり,神の眼には,今まで行きつ戻りつ論じたことが,一目で見えるので あろう。人間の立場からは, I.. analogiaが中心問題にならざるをえないと思われる。. 5.. キリストの代理は秘密(Mysterium)という性質をもつ。たびたび引用したエンゲル の論文の題が「代理の秘密」であった。このこと、と関連して,その代理は「事実的」 アリスティツタ」であって, 「シンボリック」なものではない51),ということが特に注意 されなければならない。キリストは代理を事実,遂行したのであって,この点を譲れば, キリスト教信仰と神学は瓦解する。ここでティリッヒの「シンボルの神学」が問題にな るであろう。 5.付輪:ティリッヒの艶について 比較の意味で,バルトやエンゲルとは大いに違うティリッヒの代理諭を瞥見してみよ. 「リ.
(17) 33. 代:哩観念の神学的考察. う。 5.. 1.シンボル. ティリッヒにとって,代理とは多くの場合シンボルのことである. symbole" (代理・代表・表現するシンボル)という言いを彼は好む52)0. "repr畠sentative. 「シンボルは,そ. れが指し示すものに参与する(teilhaben)」-ちょうど「代表者が,彼が代衰する個人 または組織の栄誉に与かるように」53)。このTeilhaben. (participate,take part)という. 語は彼において重要かつ分かりにくい概念を表している(後述)o代理の一例を挙げれば, サクラメントはreprAsentativであるo 「パン・葡萄酒がそれ自身聖なのではなく, -・・・代 「自然の超越的 表的なのであって, --全自然を代理〔象徴〕する」54)。つまりそれらは, 「実在主義的解釈は,パンと な力(transzendente Naturmachtigkeit)55)」を象徴する. 葡萄酒を,体およびその内にまとめられた自然の力全般の代表(表象)として説明でき る。それらはまた,あらゆる精神的生の自然的基礎の中にある神の救いの力を,ならび に,精神的生そのものをも,指し示す」56)。パンはごくふつうの食べ物であるが,同時に, 超自然的なもの(力)を指し示し,しかもこの二つの意味には,偶然的ではない関係, 平たく言えば類似性がある,ということである。「神を表す諸シンボルはしるし(Zeichen) 「真のシンボルは,それが ではない。それらは,それらが象徴するものの力に与かる」57)0 シンボライズする現実に与かる(partizipieren.. teilhabenと同義)」58). 「シンボルは一方. で現実の事物や出来事を素材として使うが,他方,それがシンボライズするものの力に 与かる」 (ⅠⅠ,177)0「語は単なるZeicben (しるし)ではない。それは人間精神と現実と (ⅠⅠ,25)0 の出会いの結果である。だからそれはシンボルでもある」 ティリッヒからすると,神学の伝統的用語のほとんどすべてをシンボルとして理解す べきであって,字義通りに解してはいけない(ⅠⅠ,164. u.passim)。ブルトマンとは違っ 「シンボルは,それが た意味でではあるが,これも「非神話化」のプログラムであろう。. 生きている限り,解釈されねばならぬ。シンボルは〔使命を終えて〕死滅することがあ る」 (ⅠⅠ,178)。しかしシンボルは決して解釈し尽くされることがない。シンボル(と神 請)は宗教の不可欠の言語なのであるから(ⅠⅠ, 165)。なお,ティリッヒはmetaphorisch (隠喰的)-symboliscbと考えているようである(Ⅰ. ,96-98)0 ティリッヒはキリストをもシンボルと解する(ⅠⅠ, 98ff.)。キリストの十字架とキリス 165)。伝統的なキリスト静 トの復活がキリスト教の二つの中心的シンボルである(ⅠⅠ,. 的称号のすべてが(実存哲学的に)解釈し直される(ⅠⅠ, substanz. (実体)の対照という図式で論が進められるが,. うシンボルの場合,. 107ff.)。この場合,. Symbolと. Substanzとは,キリストとい. 「新しい存在のカ」のことである.それをティリッヒは神との一致な. どの3重の意味で解釈する(ⅠⅠ, 150)。なお別の文脈では,. SubstanzとはSeinSelbst(存. 在自身)のことである(Ⅰ,96-98).また「キ1)スト」という称号が--・ある機能(Funktion) (ⅠⅠ,122・)というような記述,さらに「キリスト諭 を示す名称であることを止め--・」 は救済論の一機能である」. (-ⅠⅠ, 163)という表現をみると,ティリッヒの場合,シンボ. ルにとって,やはり実物・人格より機能(Substanzのこと)の方が大事であるようで,.
(18) 34. 小. 林. 謙. 一. 結局彼は解釈し尽くそうとしているのではないか,と疑わざるをえない。特に「キリス ト」という名(称号ではない)の不可欠性は譲れないところである,と筆者は思う。テ ィリッヒは自然一生命一精神の連続の中で宗教をとらえようという野心をもち,Teilhard deChardinへの共鳴を表明している(ⅠⅠⅠ, 15, Einleitung)。本質的に哲学的な神学であ るから,上述のような傾向を免れないのであろう。 5.. 2.代理と参与. ティリッヒは「Stellvertretung (代理)」という思想を「Partizipation (参与)」の思 想で置き換える」 (ⅠⅠ,186)ことを提唱している。とりわけ「『代理的苦難』の概念は, 非常に誤解を招きやすい表現で,神学では避けた方がよいだろう」と主張し, の性格はErsatzでなく,. 「神的苦難. 〔新しい存在への〕自由な参与である」と解する(ⅠⅠ,. 189)。. 神義諭・予定論に関してティリッヒは,他人の運命が自分の運命になることができる のは,双方の存在のPartizipationによるのであり,個人の成就(自己実現)に際しては, 普遍的成就が関わっているとして, Glaubenskorrelation (信仰の相関)の思想を展開す る。 「個人の運命は,それが参与(関与)している全体の運命から切り離せない。これを. 代理的成就---と言ってよいかもしれない。しかしそれより,神の生命の深みにおける, 個体化と参与の統一に眼を向けるべきであろう」. (Ⅰ, 31)0 ティリッヒのrepr宜sentierenという語の用例をいくらか見ようo. 「人間が全実存をre_. Ⅰ prAsentierenするのがアウダスティヌスから-イデッガ-へいたる伝統である」( ,77)0 Ⅰ, 206f.)。伸保着たるキリストは人間に対し この意味で人間はMikrokosmosである(. て神をreprasentierenするが,しかしまた本質的な人間存在(人間のあり方)を,つまり 神の像をreprAsentierenし(ⅠⅠ, 103),実存の全体をreprAsentierenする(II 「神 ,108). の子」は神と人間の一致をrepr宜sentierenする(ⅠⅠ,12)。イエスは神の愛をrepr宜sentieren し,. verwirklicben(実現)する(ⅠⅠ, 15)。新約聖書はキリストのできごとの受容的側面 をreprasentierenする(II 「神の国の,歴史内でのReprasentantenとしての教会 ,128). (III,426-429,また413, 433).このようにティリッヒの場合, ReprAsentierenはもっば ら「代表・表現」の意味で使われており,. 「代理」の意味は含ませていない。. こうしてティリッヒは「代理」概念を「参与」概念で置き換えることになる。 「キリストは新しい存在の力であるゝ」 (ⅠⅠ,193)。だから教会は新しい存在への参与 (Partizipation・Teilhabenとも。. ⅠⅠⅠ, 255)である。イエスとは,ふつうの人間とではあ. りえない,完全な参与(Teilnahme)がありうる。イrエスは新しい存在で,普遍的効力を もち,彼のあり方が,誰にも可能な人間の神への参与の仕方だから。 「我々はイエスを他 の誰よりも-番よく知っている」 (ⅠⅠ,127).′ 「イエスには神・自分自身・世界との間に 疎外(Entfremdung)がない,という説明の仕方もされる(ⅠⅠ, 137).ティリッヒにと ってイエスは「新しい存在の担い手(Tr鞄er),質.(QualitAt)」であり,イエスの言葉, 行軌苦難その他はその存在のManifestaionである(ⅠⅠ, 132ff.)。同じ表現は多い(ⅠⅠ, 103 u・ (ⅠⅠ;154)0 passim)0 「ロゴスの担い手」 (ⅠⅠ,123), Bringer des NeuenSeins 「キリストの,人間の有限性へのTeilnahme(II,. 143.145f;ではTeilhabeh).. (ヨハネ的.
(19) 35. 代理観念の神学的考察. な意味の) 「受肉」をもティリッヒはTeilhabenと解釈する(105)。以上のティリッヒの キリスト論を短く表現すれば, 160,. Gott-Mensch-Einheit(神と人間の統一。. 108,. 110,. 121,. 171u.a.)となる。. そもそも「神は--・存在自身の,非存在を支配する,力」59),. 「存在の根拠(_Grund)」 「存. 311)0. 273,. 221)。そして神は被造物の生の否定性にも関与する(Ⅰ, (Ⅰ 在への非存在の弁証法的Partizipationがなければ世界はありえない」 である(Ⅰ,. 「神は. 220)0. ,. (Ⅰ,. 延長〔空間〕を超越し,それに与かる。神の遍在は--・空間的実存への参与である」 319). キリストはこの「存在なる神」に参与して「新しい存在」なのであり,さらに人間が それに参与することができる。. 「人間は存在にも非存在にもpartizipierenする(. Ⅰ,. 219)0. 123)0 普遍的ロゴスへのTeilnabme,また歴史的人格〔ナザレのイエス〕への参与(ⅠⅠ, Teilnabme (ⅢⅠ,444ff.)が語られる。 一般的には,個人の,歴史へのPartizipatioll,. バルトは「参与」の概念で考えることは少ない.わずかにKDⅣ/2, ンのparticipatio. Christi. 586で,カルヴァ. (信徒の,イエ・ス・キリストの塑性へのTeilnabmeのこと)杏. 引いて,聖化から倫理への問題を扱う際に触れている程度である。 ティリッヒは伝統的なSubjekt-ObjekトScbemaを越えようとする。つまり真の認識は, Erosに突 主体が対象に参与することによってなされるo対象を客体化しないのであるo き動かされて,主体は客体に近づき′,エロスによって,対象は主体に対して自己を開く, というわけである(ⅠⅠ,75f`.)。これはほとんどPartizipationの定義であるが,イメージ としては,主客が相互に接触し,交じり合い,融合する,というに近い。抽象的で,そ れゆえに広く使える方法概念であると思う。しかし,これは明らかに神秘主義的すぎる のではないか。存在の根底ではこういうことが起こっている,というのであろうか。た しかに,客体化する認識が疎外につながる,とは言える。自然,ことに人間をbebandeln する(扱う,処理する)という態度が,特に西洋工業文明の成功と危機,高度管理社会 の諸問題を引き起こしてきたことへの反省から,ティリッヒは別の方法を選んだのであ ろうか。しかし,彼の存在論的議論は(とりわけそれが神学を標樟するとき),確実な根 拠をもつであろうか。キリストの(受肉・和解と伝統的に言い表されてきた)できごと を,人格関係としてでなく,存在論的レベルで考えるからiどうしても「参与(関与)」 というほかないのだろう。彼は「人格」の要素を嫌っているようである。しかし,この 点は譲れないところであるム^格(Person)概念を避けようとした近代思想を批判する (特にKDII/1, 323ff.)60) バルトの方が正しいと筆者には思える. なおPartizipationにはもうーつの意味がある.疎外-個体化とPartizipationの関係と 分離という問題の中で使われる。この場合, 意味である(Ⅰ, 5.. 206ff.,bes.. Partizipationはほとんど「共同体」という. 209.)。. 3.存在 ティリッヒはいわばキリストより(神より,とは言えないが)存在を上位に置くよう. な印象を与える。.この点を詳説するのは今後の課題とし,ここでは二,三の点について.
(20) 36. 小. 林. 謙. 一. だけ述べる。. 彼のこの存在論的神学の根拠ないし出発点は,パウロの言葉「キリストの内にある存 在」 (ⅠⅠコリント5,17)であろう。これを彼は「絶対的に具体的であり,かつ同時に, 絶対的に普遍的」なもの〔存在〕と解釈する(Ⅰ, 25, ⅠⅠ, 93)。なお,ここにはパラド ックスがあるのだが,それについては省略する. ティリッヒの「存在」は,充溢であり,意味に満ちた,だから,力にもあふれた,イ メージをもつ(ⅠⅠ,16ff.参照)o SeinsmAchtigkeitという表現が頻出する。これは明らか に「神」の属性を思わせるイメージである。. 「神は存在自身であり,. ---神の存在は超人 (ⅠⅠ,18)とティリッヒは言うが,よく 分からない。そもそもティリッヒは「超越」という概念もよく使うが,あまりに便利に 格的なのであって,非人格的というのではか-」 使われていて,. 「参与」と同じく,内容が不明瞭な感じを受ける。. なお,このように「存在」という荘漠たるものを根拠ないし前提にしているから,そ れを具体化するシンボルが,ティリッヒの場合,必然的な概念になるのではなかろうか。 「新しい存在は,それを表現する簡走のシンボルには捕らわれない。新しい存在は,それ が現れるどんな形式からも自己を解き放つ力をもつ」 5.. (ⅠⅠ,178)0. 4.犠牲. ティリッヒにとって「犠牲」は第一に,人間の道徳的行為の場面での問題のようであ る。すなわち,人間の自己統合のために,. 「ある可能性を現実性のために犠牲にする〔棄. てる〕」 (ⅠⅠⅠ, 55ff.)こと。 「現実的なもののために,可能な利害関心,わざ,職業,人間 関係,を犠牲にする」. (ⅠⅠⅠ, 56),逆に, 「可能的なもののために現実的なものを犠牲にす る」 (57)ということ。つまりそれは,選択,決断,断念であり,価値ないし義務の葛藤 を含む,一つの道徳的規範(ⅠⅠⅠ, 56)である.だから犠牲は道徳的冒険(敢為)であり, ヒロイックになることもある,両義的なものである(III, 57)。人類また個人の多くの可. 能性も,人間の有限性のゆえに,犠牲(実現されないまま)になっている(ⅠⅠⅠ,. 310)。. 個人は歴史から,神の国のために,一般的には歴史の目標のために,犠牲を要求される (ⅠⅠⅠ, 445)。しかし神の霊の働きによって,このような〔崇高と悲惨の〕両義性は解決さ れる。つまり「無制約的なものの方向」が与えられるのであるが, 「この方向は,選択の 究極の目標,したがって基準として現れるのだから」である(ⅠⅠⅠ, は,間接的に,創造的になりうる(ⅠⅠⅠ,. 309)。こうして犠牲. 311)0. キリストの犠牲についての言及は,少ないし,あまり本質的ではないようである。ま ず,ローマ・カトリック教会の組織神学の実質的規範が神人のサクラメント的犠牲にあ る,という教理史上の言及(Ⅰ,. 59), 「キリスト」という称号(シンボル)の理解の仕 方の一つとして,自発的に自分を犠牲にした,超自然的力をもつ,一人の個人という捉 え方(ⅠⅠ, 122)が紹介される。積極的な主張としては, 「キリストの犠牲機能を彼の存 在から切り離してはいけない--イエスの苦難は,彼の内の新しい存在のManifestation なのだから」 (ⅠⅠ,135)がある程度である。なお, 「〔キリストの〕自己犠牲が〔男女〕 両性の対立を止揚する」 (ⅠⅠⅠ, 337)という見解が注目される。また教会について,キリ.
(21) 37. 代理観念の神学的考察. ストの犠牲によって, 「あらゆる部分的絶対性の要求は放棄され,キリスト教の使信の悪 魔化は不可能になった〔はずt=..〕」 (ⅠⅠⅠ, 433)という文艦で犠牲が言及されるo なお,カトリック教会の死者のための祈りと犠牲について,ティリッヒはプロテスタ ントとして批判を加えるが,個人的と普遍的(宇宙的)運命の統一をその真理契機とし て評価している(lII, 472)0 旺 1986, 145頁以下, 171貢以下, 179責以下o 1)蓮賛重彦『反-日本語劉ちくま文庫, 2)同152真。なお,同著者の『夏目淑石論』福武文庫,第三章は,代行・仲介・媒介という 行為を淑石作品の特徴として分析している。. 3) 4 ). OED, E.. Wahrig,. pet叶ROBERT,その他英和・独和・仏和辞典類。 das Sch8ne Jiingel, "Auch muβ sterben" Sch8nheit Wahrheit,. wertlose. 5) 6). AaO.S.393.. 7) 8). AaO.S.391.. 1990,. Chr. Kaiser,. Licht. der Wahrheit,. in:. S. 382f.. AaO.S.390. AaO.S.394.. 昭和篇〔上〕』,福武書店, der Welt, J・ C・ B・ Mohr,. 9)柄谷行人偏『近代日本の批評 10) E. J批gel, Gott als Geheimnis ll). im. Die. Religion. in Geschichte. und. Gegenwart,. 3・ Aufl・. 1990,. 51真の柄谷の発言o. 2・ Aufl・. Art・. 1977,. S・ 503, Anm・. Stellvertretung. Yon. 55・. G・. Lanczkowski.. S・ 235・ der Religion, 4二Aufl・ 1977, J・ C・ B・ Mohr, Phanomenologie 12) G. van der Leeuw, 13) AaO. S.236. 14) Ebd. 15) AaO. S, 125ff., bes. 129ff. 25, 26章など。また山口昌男『道化の民俗 16) 『金杖篇』(二)岩波文庫,永橋卓介訳,第24, 学』筑摩書房, 1985,を始めとする諸著参照。 der Leeuw, AaO. 17) van 131. AaO. 18) 19)山口昌男『道化の民俗学』. 130.. Ⅳ 「スケープゴ 1983, 321頁以下,同『文化の詩学ⅠⅠ』岩波, 5, 6, 1990,第2, 10-12章,同『磨か祝祭・ ートの詩学へ」,同『知の遠近法』岩波, 神話』中公文庫, 1984,など参照。 (四)第55-58章。 20) 『金枝篇』. 21)この項は主としてRGG, S. 22) van der Leeuw, 23) 24) 25) 26) 27) 28) 29) 30) 31). 244ff.. AaO.. S. 243,. AaO.. S. 251ff.. AaO.. S. 254ff.. AaO.. S. 262ff.. AaO.. S. 267ff.. AaO.. S. 237, 422.. AaO.S.750. AaO.S.764. AaO.S.. 765. Art. Ersatzgaben 237ff., 241.. Yon. C. Clemen. u・. C・-M・. Edsmanによる。.
(22) 38. 小. 32) Karl 中の(. 林. 東. -. Barth, Die Kirchliche Dogmatik(KD)Ⅳ/4, )内に巻数と真数を示す。. 33)ホイジ㌣ガ『中世の秋』中公,世界の名著55, 34). Fr・ Heiler,. Erscheinungsformen. und. S.91.以下KDからの引用・要約は本文 1967,. Wesen. ⅩⅠⅠ,ⅩⅤ,. der Religion,. ⅩⅤⅠ乳. Koblbammer,. 2. Aufl.. 1977,. S.378.. 35) AaO. S.369. 36) AaO.S.370. der Leeuw, 37) van S. 235にも同様の指摘がある。 38)旧約時代においてはイスラエルが教会の予型である。 いて,この一つの民族に代表(代理)されている」. 39) Paul Tillich, Systematische Theologie, Band 1980,. 「多くの民族が--倒との関係にお (KDIII/4, 361) I. Evangelische; verlagswerk,. ,. 6. Aufl.. S. 252.. 40)拙論「カール・バルトにおける神の像の問題」本紀要24. (1978)でその神学的意味につい て短.く論じたo 41) E・ J伽gel・山Das Gebeimnis der Stellvertretung" in‥Wertlose Wabrbeit, S. 254.強調は 原著乱エンゲルはD.ボン-ツファーの人間学的代理理解に反対しているのである。. 42)バルトの「関係の類比」については, 「神の像」に関わる限り,前掲拙論で論じた。 der Stellvertretung" S. 251. 43) E・ Jungel, "Das Geheimnis 44) R・ Bultmann, Theologi6 des Neuen 1958, S. 296. testaments, J. C. B. Mohr, 45) E・ J触gel・ "Das Opfer Jesu Christi als Sacramentum Wabrheit・S・262ff・以下,この論文からの引用は本文中の( 46) 47). E・. J触gel,. AaO.. "Das. Geheimnis. der Stellvertretung". et. Exemplum". in: We,tlose. )内にその真数を示す。. S. 246二. S.24白.. E・Jtingel,"DasOpfer・・."S.274.以下,この論文からの引尉は本文中の( 真数を示す。. 48) 49) 50). "Gott E・. ist mehr. Jtingel, "Das. Gleichnisforschung W・. 51) 52). Harnisch,. als notwendig・" Evangelium im. Horizont. Wissenschaftliche. E・ als Yon. Jungel, Gott analoge. als Geheimmis. Rede. von. Hermeneutik. und. Gott". Vandenboeck. Welt, S. 41. u.. passim.. in: Die. neutestamentliche Literaturwissenschaft, Hrsg.. Buchgesellschaft, 1982, S.. E. J臼ngel,"Das Opfer…" S. 274. P・ Tillich, Symbol und Wirklichkeit,. der. )内にその. &. von. 351.. Ruprecbt,. 3. Aufl. 1986, S. 3. passim.. 53) 54) 55). AaO.S.4. AaO.. S. 68f.. AaO.. S. 52f.. 56) AaO. S..53. 57) AaO.S.28. 58) Tillicb, Sys・ Theol・ Ⅰ,S・ 280ロ・ passim.以下, 本文中の( )内にその巻数・真数を示す。. 『組織神学』 (ドイツ語版)からの引用は. 59) P・ Tillich, Symbol S. 28. und Wirklichkeit, 60)拙論「神学的現実」本紀要36 (1990), 49真参月鮎. u..
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