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野口援太郎と近藤純悟

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(1)と 近藤純悟. 野口援太郎 木. 久. Noguchi. Entaro. 男. 幸. Jungo. and. Kondo. HISAKI*. Yukio. StJ班MARY This of. Himeji under. in. thought. educational for. the. and. educational. educational. all. their. Kondo. structure. tbougbt. clarify the and J・ Kondo・. influence. mutual. and. intercourse. to. in. practice. educational. the. end, improvement, the. School,. Normal. their. analyse. their. is intended. paper. and. of. efEorts・, abandoned of. Tenno. of. E・. of. the. Noguchi・. Hi仇eji. principal. Girls'School,. and. to. Himeji・. these. practice. mental the principal two. Noguchi female. was. education・. System,. which. failed to. obliged In. the. seized. prlnCipals'they But they radically・. be. short・. rejected. the. in. radical. contented. they. could. radical. to. chance. reform. reformation with not. partial overcome. of. reformation. practice・. 序 兵庫県姫路市の地方紙『鷺城新聞』ほ,明治40年10月4日付紙面に,次の記事を絡 げている。 野口当師範学校長,近藤淑女学校長其他同志の組織せる精神修養会は,五目午後七時より船場景 福寺において例会開催する由。本会は誰人にても来聴するを得べければ,有志者ほ遠慮なく出席す べし。. ここに見える野口校長ほいうまでもなく,姫路師範学校において「従来の伝統を破って 大胆な新機軸1,+を打ち出し,のちに池袋児童の村小学校を創立して大正新教育運動の重 要な一翼を担なう野口援太郎であり,近藤校長は清沢満之の門下で,当時私立姫路高等女 学校長(上記記事に淑女学校長とある叫ま誤まり2,)近藤純情である.精神修養会というささ やかな集まり8,を介して,野口と近藤との問に深い交渉があったことは上記記事から推察 できるが,後述のごとく二人の交渉はこの時に始まったわけでほないし,またごく短期間 に終ったものでもない。少なくとも数年以上ほ継続していることが確認せられ,しかも, 例えば前者が後者に一方的な影響を与えるという形でこの交渉がもたれたものとは考えら れない。野口は近藤から,近藤ほ野口から,それぞれ影響をうけていることが推察せられ, この相互影響のもとで両者の教育実践が展開されているのであるが,本稿でほこの二人の 教師の交渉がそれぞれの教育実践に何をもたらし,何をもたらさなかったを究明したい。 *教育学教室(°ept.. of Education).

(2) 66. 久. 木. 幸. 男. それはやや具体的にいえば次の2点になろう。すなわち,. (1)きわめて特異な仕方で天皇 制教育体制に抵抗の姿勢を示した清沢満之の教育思想と実践4'とを継承・発展せしめるべ き立場にあった近藤が5',野口との交渉の中でおそらくさまざまの刺激や影響を受けつつ, どのように自己の実践を進めていったかを明らかにすること,および(2). 「以前の日本の. 学校には見ることができない,新しい教育思想に基づく学校生括6'+を創り出し,大正新. 教育の前駆をなすと一般に理解されている野口の姫路師範における実践を,近藤との交渉 とその影響という側面から新しく見なおすこと,の2点である。. もとよりこの二人の教師の交捗ほ,明治末の地方都市で起った,見方によれば小さな出 来事にすぎないoしかしそれほ,近藤に即していえば,清沢が天折したために果し得なか つた課題-その特異な教育思想を帝国主義段階に入った明治末の日本の教育状況の中で. いかに練り上げていくかという課題にこたえる可能性を与え得る出来事であり,一方野口 の側からいえば,近藤をとおして清沢の思想にふれることによって,いわゆる「ドモラン 型学校+の段階を突破して新しい地平をきりひらくべきチ17ソスであったほずである。こ の意味で,両者の交渉と,. 1そこから生まれ(あるいほ生まれなかった)ものを明らかにす. ることの教育史的意味ほ,けっして小さくほないといってよいであろう。 注 『三人の先生』 p. 117 1)三先生言行環刊行会(編) 2)淑女学校ほ,明治40年9月21日付で,高女令による私立姫路高等女学校となっている(『鷺 城新聞』明治40年9月25日). 3)近藤の義妹に当る方の談によれば,来会者はせいぜい十数名くらいだったという。 4)清沢満之の教育思想と実践とについては,拙稿「清沢滴之とその教育思想+ (『横浜国立大学教 育紀要』. No.. 8)参照。. 5)清沢の思想継承者としてほ一般に,暁鳥 敏・多田 鼎・佐々木月樵,さらに曾我量深などが あげられるが,その教育思想と実践とほ,近藤において継承された。近藤白身も,淑女学校一 姫路高女での実践を導いたのほ清沢の教えであったといっている(近藤純悟「巨鐘の音+ 〔観照 社編『清沢満之』 p. 225〕) 6)中野 光『大正自由教育の研究』p.85. 野口についてほその経歴や活動がよく知られているが,近藤ほ教育史の上でほほとんど 無名に近い人物であるので,先ず初捌こその略歴を明らかにしておこう。近藤の経歴に関 する史料としては,かれ自身の手になる半生記「常人の半生1'+と,かれの長男・近藤祐 某氏がまとめられた「近藤先生略年譜2'+がある。以下この二篇と近藤祐真氏の談話その 他の資料を中心に,できるだけ野口の経歴3)と対比しつつ,近藤のそれを概観し,さらに 姫路におけるかれの教育実践の実態を明らかにしよう。 ひやま. じ. ゆずり. は. 近藤は,野口の出身地である福岡県のとなり大分県下毛郡樋山路村杜菓(現・耶馬渓 町下郷)吉原市蔵の七男として,明治8年(1875)に生まれた。初名を福蔵という。野口 の出生におくれることちょうど7年である。吉原家ほ「昔から庄屋を勤めた家+で, 々の田地と山林とを有ってゐる百姓+であったといわれる4'。明治15年(1882)樋山路. 「少.

(3) 67. 野口援太郎と近藤純情. 小学校に入学,同18年中等科第5級をおえたが,翌19年(1886)近村の黒法師村浄其 守(真宗東本願寺派).大慶の徒弟となって仏門に入った。近藤-当時の吉原福蔵が仏門 に入ったのほ主として,. 10人の兄弟姉妹のうち1人くらいは僧にしたいという,両親の. 願いに従ったものだという5'。大慶のもとで3年間,仏教の初歩や漢学の手ほどきをうけ たかれは,明治22年(1889),東本願寺が経営していた京都府立尋常中学校予備科に入学, 得度して純悟と改名、した。これは,野口が福岡師範を卒業して直方高等小学校訓導に就職 する前年に当っている。当時の京都尋中校長は清沢満之で,のちに近藤が,. 「私の生涯の. 幸福であった6'+と述懐している清沢との師弟関係ほここに始まることになる。近藤の中 学生括ほ明治28年(1895)までつづくが,この間校長は清沢満之から稲葉昌丸沢柳政 太郎,南条文雄と目く小るましく交替し,学校の組織や名称も府立尋中から私立大谷尋中, 「柄にもなく教育といふ事 真宗第一中学寮と変っている7)。中学卒業を前にした近藤は, が好き+で,. 「高等師範に入らうかと思うて其規則まで取寄せた8)+が,結局僧侶としての. 途を歩む決意を固め,明治28年真宗大学に入学,翌29年には,清沢や稲葉によって始め られた教団改革運動にも加ったが9), 31年(1898)姫路円証寺近藤家の養子となり,翌 32年真宗大学を卒業した。野口が東京高師卒業(明治27年)後,京都府竹野郡視学, 福岡・福井両師範教諭を経て,東京高節会監に就任した年である。 真宗大学を卒業した近藤ほ,同年8月母校である真宗京都中学(明治29年改称)の舎 監に就職したが,. 】2月にほ退職し,その後,桃山工兵大隊将校下士官英語教師(明治33. 年2-7月),京都開導会館歴史地理教師(33年8月-34年1月),深草歩兵連隊準士 官下士官英語教師(34年2-7月),などをつぎつぎに勤めた。いずれもアルバイト的な 仕事だったようであるが,この間34年(1901). 1月,小雑誌『家庭』を創刊し1o),また. 同年3月には,文中女学校国語教師となっている。近藤が女子教育にかかわりをもつ最初 であるが,野口もこの年,新設の兵庫県第二師範学校すなわち姫路師範学校の校長に任ぜ られ,また最初の訳書たるマッケンジー『倫理学精義』を出版して\、る。 文中女学校ほ,近藤と同じ大分県出身の甲斐駒蔵・和里子夫妻が明治32年4月に創 設した顕道女学校を,翌年4月,移転・拡充・改称したもので,いわゆる仏教主義による 教育を標模,英語教科書として中学校用のナショナル・. 1). -ダ-を用いたり,なぎなたを 学ばせるなど,異色ある教育を行なったといわれるが11),経営的にほ困難が多かったらし 「ほんにもったいないほどの偉い く12',甲斐ほ当時の財政難を次のごとく回顧している。 先生方が御同情下さって,無報酬で御教授下さるから,この方ほ心配ないけれど,家賃は じめいろいろ入費がかかるので,和里子も内職を始め,わしは十銭の白扇を買って画を商 いて二十五銭に売ることにした。その売り子は少年時代からの親友だった安藤州-君だっ た13)0+近藤が文中女学校の教師となったのほ,甲斐と同郷の縁によったものか,上記回 (近藤と同じく清沢門下である)の紹介によったものかは明らかで 顕談に見える安藤州ないが,いずれにしても「無報酬で+教えたのであろう。もっとも近藤の文中女学校在職 は,. 34年7月までのきわめて短期間に終ったが,そこで得られた女子教育の経験は,の. ちに姫路高女での実践に役立つところが少なくなかったと思われる。.

(4) 68. 久. 木. 幸. 男. 近藤が文中女学校をやめたのほ,清沢満之学監のもとに東京巣鴨に移転した真宗大学の 研究院に入るためであったo研究テ-マは正式には「宗教と教育との関係14,+,具体的に ほコメニウス研究である。のちにかれほ,当時を顧みて次のように述べている。 (ママ). 当時私ほ研究院に在って,宗教と教育に就て研究して居った。特に僧侶から教育に熱注したコメ ニウスを研究して居った。彼が信仰の径路を記した『世界の迷路』. (ラビリンス,オブ,ザ,ウォ. ルド)はパンヤンの『天路歴程』にも比すべきものと愛読し,ポ-ミヤの文学など漁って居った15,。. 「此編モンロ-氏のコメニウス伝に負ふ所多し16'+と断り書きした真田幸恵の『近世教 育の母コメニウス』が出るのは明治37年(1904)であるから,近藤のコメニウス研究ほ, わが国におけるそれとしてほ,きわめて早期に属するということができる。しかし,その 内容がどのようなものであったかは,知ることができない。近藤ほコメニウスに関する著 書・論文を発表していないようであるし,またかれの研究ノート,蔵書などの一切ほ戦災 で焼失したということである(近藤祐真氏談)。ただ,かれがコメニウスにおいて宗教と 教育との統一を見出し,そのことがのちの姫路高女での実践を支える基盤になっていたこ とほ,かれの次のことばからたやすくうかがわれよう。 当時の私には,此学校経営(姫路高女)が私の与へられた仕事と感じて居ったのである。. --私. ほ研究院中,近世教育界の曙光といほるゝコメニウス氏の事を研究した時に,彼がモラビアの-僧 侶であって教育の為に非常に尽した,彼ほ教育を以て宗教家の間接の仕事と云ほなんだ,教育其物 の上に,宗教的活動を認めて居った,是に多少私淑した私ほ,此両方が水火相容れず是非一方にせ ねばならぬとほ思ほなんだのであります17)。. コメニウス研究のために上京した近藤ほ,. 34年10月,清沢の私塾・浩々洞に入った。. 浩々洞生活ほ翌年夏,■病気帰郷するまでつづくが,かれがそこで強い感銘をうけたのほ, 清沢の開発主義的指導のもとにおける,自由な学習と生活ぶりとであった。浩々洞に入っ た直後に書かれた「入洞の記+にいう。 浩々洞ほ英名の示すが如く,浩々たること秋天の澄暗,際漣を見ざるが如く,洋洋たること,ひ ねもすのたりのたり打つ春の海の如し。各好む所をなし,各思ふ所を行ふ。興至れば我を忘れて珂 々大笑し,時に議論風生,夜の更行くを覚えず。食を忘れて読書三昧に入るものあれば,一気筆を (▼マ). 喝して文を綴るものもあり。東洋の古典,西洋の新思想を討尋せるもの,時に元鐘文学の妙を称し, 火桶を囲て時事を激論するもの,欄に焦りて無心に梢頭の雲を挑むるものありo一見宛も無紀律な るが如く,放窓散漫なるが如し。而も和して乱れぎる,是洞の特色か18)。. 近藤はまた別の箇所で,清沢の開発主義的指導を次のように概括している。 子弟をして各性情にまかして其能力を発揮せしめられたのであります。先生は同一典型の中に人 を容るゝことをなされず,同一の根掛こ立ちて各自の長所を発揮するように導かれたのでありま す19)0. 浩々洞で体験された開発主義教育ほ,やがて姫路高女における実践の中で継承されるこ とになったと考えられるが20',それに先立って近藤は,明治35年2月,研究院生身分 のままで真宗大学予科教授(英語)に任命される。しかし同年春から腎臓炎にかかり,一 旦回復したが, 7月,沢柳政太郎の外遊送別会21'に出席したため再び悪化,療養のため 「腫れ上った足に厚い縫帯をぐるくやる巻いて,辛うじて姫路に帰った22)+かれを待ちうけ.

(5) 69. 野口援太郎と近藤純情 ていたのは,私立淑女学校の経営であった。. 『精神界』35年9月号ほ次のように報じて. いる。. 近藤純情ほ去月四日洞を辞して故園姫路に帰候処,宿癖怠らず,加ふるに道友の勧請ありたるた め,今後故園に留まることに相成,姫路淑女学校の校長として,出来る丈の力を尽すことゝ相成侯。 大光の厚き照護,渠と共学校及び其下に在る数多の少妹の上に在らむことを念じ侯23)。. これ以後,明治44年私立姫路高女が廃校になるまで,近藤は淑女学校一姫路高女の校 長,のちには教頭として活動する。野口との交渉が始まり深まるのもこの間のことである が,これについてはⅡに詳述する。姫路高女廃校後の近藤ほ,東本願寺派の文書課長(大 正4-7年),札幌別院輪番(昭和11-14年)など教団職員に任じられ,真宗京都中学 校長(大正9-11年)をつとめたこともあったが,かれの主な活動舞台は婦人に対する 宗教教化に求められた。野口が18年間在職した姫路師範を離れて,沢柳政太郎会長のも とで帝国教育会専務理事に就任し(大正8年),ついで児童の村小学校を創設(大正13年) して新教育運動に活躍する大正後期の大部分を,近藤ほ東本願寺派の婦人談話会責任者と して(大正7-9年および11-14年)過しており,両者の歩んだ途は遠くへだたってい た。ちなみに野口が死去したのほ昭和16年(72才),近藤が労したのは昭和42年(92 才)であった。. その人柄について「温厚篤実24)+とか,. 「沈静水の如し25)+とかしばしば評される近藤. の一生を通じて,もっとも波乱に富みまた困難の多かったのむ.i,淑女学校一姫路高女での 8年あまりではなかったかと思われる。近藤自身も「私の生涯を通じて最も若しか?た時 「財政上の 代26'+だったと述懐しているo その困難の一つが財政上の問題だったことは, 都合により維持費の支出に窮し,遂に明治三十六年に至り廃校の外途なき悲運に陥27'+っ たと報じられ,また「今日に至るまで幾多の変遷を経て其経営に苦辛を尽したるもの28'+ といわれていることからも判明するし,同校が廃校に至った理由も,. 「経営に苦しんでい. た+ためと一般に考えられている29'。しかし明治44年廃校時の卒業生ほ,本科44名, 技芸専修科37名,合計81名で30',当時の地方私立女学校として生徒数がとくに少ない とほいえない。その上,. 、姫路市から年間1,000円,飾磨郡から200円の補助,さらに旧 藩主酒井家から200円の寄付があり28',財政的にとくに大きい困難があったとほ認め難 3年44各4年 2年46名, いoまた遡って明治40年度の生徒は,本科1年52名, 2年19名,裁縫科5名,合計248名でヲ1),定員250 46名,技芸専修科1年36名, 名32'をほぼ充しており,入学志願者が定員を下回ることもなかったといわれている33)。明 治36年に一旦廃校の危機に追いこまれたことほたしかであるが,それを除桝ぎ同校の経 営は,豊かでほないにしてもほぼ順調につづけられていたと思われる。数え年28才で淑 女学校長に就任した近藤が立ち向わなければならなかった困難は,財政問題だけでほなか ったようである。校長就任直後近藤ほ,浩々洞宛書翰の中で,財政問題のほかに「在来の 「コメニウス気取りで85'+淑女 余弊などありて其困難は一方ならず侯84'+と書いている. 学校に乗りこんだ近藤が闘わねばならなかった「在来の余弊+が,具体的に何を指すかは 必らずしも明瞭でない。しかし近藤が就任するまでの淑女学校の沿革を顧み,上記近藤書.

(6) 70. 久. 木. 幸. 男. 翰を参照すると,ある程度の推測ほつくのでほないかと思われる。 元来淑女学校ほ, 「当市の普通教育の発達せざるを憾み+. 「児童の就学を奨励勧誘+する ため,明治20年,真宗東本願寺派姫路別院に創立された崇徳学校に起源するが,別院経営 の学校でありながら,宗教的色彩の稀薄な,世俗原理の貫徹した学校であった。それゆえ, 尋常小学校がある程度普及するとその存在理由を失ない,明治28年,大谷高等小学校に (ママ). 改組され,さらに明治33年, 「大谷女学校と改称して女子を収容し,高等小学校科程の 外,補習科を置き女子に必要なる科目を教授すること36'+となった。いうまでもなく,男 子の高等小学校就学率が上昇したという状況に,対応してとられた措置である。このよう に淑女学校の前身ほ,一貫して公立学校の代用機関たるに甘んじてきたのであるが,それ ほ学校普及度の低い当時としては,それなりに意義のあることにほ違いなかった。ところ が明治35年,財政難を理由に姫路別院は学校経営を投げ出すに至り,経営主体は東本願 寺派教学部に移った。そして名称を淑女学校と変更し,内容も高等女学校程度の各種学校 に改軌近藤を校長に迎えたのである87'。近藤としてほ,本山が経営する以上公立校の代 用機関たるに甘んじるべきではなく,明確に宗教的精神を打ち出していくべきだと考えた のであろう。上記浩々洞宛書翰に「是等の女子(淑女学校生徒)■を少しに七も大光の御導 きによりてその本分を尽さしむる様養成すべきをおも-ば何となくうれしき心地もいたし 際4'+と述べているのも,無意味な形容でほあるまい。その師・清沢満之が東京の大学で 試みたところを,近藤は関西地方郡市の女子中等教育の中に活かそうとしたのである。コ メニウスを研究テ-マとし,コメニウスにおいて宗教と教育との統一を見出していたかれ としては,これは当然のことであった。そしてそのために,教職員の同意も取りつ仇そ. の方針徹底をほかって授業参観をするなどの努力を重ねていることが,上記書翰からうか がわれる34)o. しかし永年にわたって公立校の代用品たるに甘んC,すみずみまで世俗原理. の彦透をゆるしてきた同校が一朝一夕に改革されるほずはない。教職員の中にも,父兄の 中柾も,また経営主体でほなくなったとほいえ依然として学校がその敷地内にあった姫路 別院関係者の間にも,宗教的精神を明確化していくこと-のためらいや反発,あるいは抵. 抗があったであろう。近藤はこのためらい・反発などを,闘うべき「在来の余弊+と見た のではないだろうか。清沢のいう「独立老+の思想$8)を自らのものとしたはずの近藤にと って,自分が校長として運営の責任をもっ学校を公立学校の代用品化し,公教育体制-天 皇制教育体制の枠内にとじこめてしまうことほ,宗教的精神の裏切りでしかなかったと思 われるのである。. ところが,近藤が「在来の余弊+との闘いを開始して間もない明治36年(1903)淑女 学校ほ前にふれたごとく, 「廃校の外途なき悲運+に遭遇することとなる。それほ東本願 寺が積年の放漫財政と法主の浪費とによって債務累積して身動きがとれなくなり,淑女学 校の経営を放棄するに至ったためである.しかし,おそらく近藤の奔走の結果であろうか, 従来から学校の後援者であった今井直次郎・熊谷薫郎が,明治37年度から「奮て維持経 営の衝に当り,その設立を継承+することになり,さらに姫路市からの補助金(当時は 420円)の交付も得られて,経営危機は回避された。また精神修養会をとおして近藤と親.

(7) 71. 野口援太郎と近藤純悟. しくなっていた野口を顧問に迎え,野口は「公務の余暇を割き教示に当り教育上補助する 所+が少なくなかったといわれている36'oもっとも野口が淑女学校の教育方針や経営に, 実際どの程度タッチしたかは明らかでないが,廃校式の今井直次郎校主の式辞に,わざわ ぎ野口の名をあげて謝意を表しており89),野口の顧問就任ほ名目だ桝こはとどまらなかっ たと思われる。淑女学校が姫路高女になった直後のことセあるが,近藤ほ学校行事として 二宮尊徳記念会を開催しており40),そこには, 「私の教育上の思想に強い影響を与えたもの ほ二宮尊徳翁の思想である41)+とのちに語っている野口の影響を見るベきかもしれない4皇'o 野口ほその人柄からいっても48',近藤との関係から見ても,蔽問としての役割を熟bに 果したと思われるが,野口のはかに姫路市長・飾磨郡長・姫路中学校長なども「顧問及評. 議員を嘱托44,+されたといわれ,このことほ姫路市の補助金交付とあいまって.,淑女学校 に地域社会の学校という性格を強めるのに役立ったと思われるoしかしこのことと,近藤 が意図したと思われる宗教的精神の明確化という方針とが,明治37年ごろの時点で明白 に矛盾したかは明らかでない。矛盾が露呈するのは,明治40年9月,淑女学校が高等女 学校令による私立姫路高女に「昇格+した以後のことと考えられる。今井・熊谷に経営主 1月には別 体が移って以降, 「発展拡張+の積極的経営方針がとられ,明治39年(1806) 院敷地内から市内北条口に移転,生徒数の増加にともなって校舎の拡張がつづけられ,つ 「昇格+するに至るのである。公立高等女学校が存 いで明治40年(1907)高等女学校在しなかった当時の姫路の状況からすれば,この拡張-昇格という経営方針は,市民の教 「昇格+質 育要求-というよりは,教育需要-にこたえるものであったには違いないo 「少しく教育思想を有せる人々ほ高等小学校を卒-たる女子 金募集に当った-後援者が, の処方に困まり+ 「資力裕なる老+ほ京阪神へ「留学+させるが,資力のない人は「お針 星と言-る家に托して不完全なる裁縫を学ばしめ+るという状態で,. 「姫路市民に至って. ほ,今日女学校の設立は万口一致の希望にして,未だ一人の反対者あるを開かず+と書い ているのは45,,あながちに当事者の主観的判断とも思われない。しかしながら高等女学校 「官立学校及学科課程ニ関シ法令ノ規定アル学校ニ於テ-課外タリトモ宗教 に昇格して, 上ノ教育ヲ施シ叉-宗教上ノ儀式ヲ行フ事ヲ許サザルべシ+という訓令第12号46)の適用 「是等の女子を少しにても大光の御導き 校となることは,近藤が淑女学校に寄せた願い, によりて其本分を尽さしむる様養成47,+したいという願いを,まっこうから否定する土と 4月,近藤が校長を辞任 「昇格+から半年後の明治41年(1908) にほかならなかった。 する(熊谷が校長に就任,近藤は教頭となる)のも,おそらくこのことと無関係でほなか ろうし,また前述した尊徳記念会の開催も,その時期から考えて,訓令12号に抵角虫しな (Ⅱに後述)の中に教育方針を模索しようとした結果では い,野口流の「宗教的なもの+ なかったかとも考えられる。しかし親鷲一括沢の思想を自己の生存の立脚点とする近藤が, それに満足し得るはずほなく,また仏教を離れて「断然教育界に身を投じてしまふといふ. ことほ到底出来ぬ48'+と思い定めていたかれとしては,世俗化した姫路高女を代表する校 長の地位にとどまることはできなかったに違いない。 しかも姫路高女の世俗化-近藤が淑女学校に寄せた願いの挫折-ほ,実はその独自.

(8) 72. 久. 木. 幸. 男. の存在理由の喪失でもあった。高等女学校-の昇格は,市民の教育需要にこたえることで ほあったが,それほ公立高女が存在しないという条件のもとで,そうであったにすぎない。 つまり私立姫路高女ほ,公立校の代用機関であるという点にしかその存在理由を有しない 学校となってしまったのである。これはいうまでもなく,近藤が淑女学校長就任直後に見 出した「在来の余弊+の新たな復活であった。そして,明治43年(】910). 10月,県立. 姫路高女が新設されると,私立姫路高女はただちに廃校に追いこまれなければならなかっ たo. 「本校(私立姫路高女)設立の主旨たる-は地方女子教育の不備を補ひ,. -ほ県立高 等女学校設立の素因を作るにあり49'+といわれ,また「姫路私立高等女学校は,昨年県立 高等女学校の開設の結果廃校の止むなきに至り50'+と報ぜられたのも,ふしぎでほない. 結局近藤ほ, 「在来の余弊+と闘って敗れたともいえる。かれは翌明治45年, 「此両方 (学校教育と宗教)ほ水火相容れず48'+と,その敗北を総括し,既述のごとくこれ以後ほ 主として婦人教化の途に転進する。しかしこの敗北ほ必らずしもかれの非力のためではな かったし,また深い交渉をもっていた野口が有力な援助をなし得なかったためでもない。 清沢が生きた時代とは違って,天皇制教育の体制-公教育体制ほ,近藤が独力51)で立ち向 かうには,牢固として揺がぬものとなってしまっていたのである。 注 1). 『精神界』第12巻第1号,第3号,第5号,第7号,第10号,第12号(明治45年1凡. 2). 『信道』第25巻第11号(昭和44年11月) 「野口援太郎先生年譜+ (三先生言行鐘干rj行会〔編〕 『三人の先生』 p. 216)による。 近藤純情「常人の半生(-)+ (『精神界』第12巻第1号,明治45年1月, p. 130) 近藤純悟「常人の半生(三)+ (『精神界』第12巻第5号,明治45年5月, p. 39) 近藤純情「巨鐘の音+ (観照社〔編〕『清沢満之』 p. 226) 大谷中高等学校(宿) 『大谷中高等学校九十年史』p. 35ff. 近藤純情「常人の半生(四)+ (『精神界』第12巻第7号,明治45年7月, p. 58ff.) 真宗大学生が清沢等の改革運動に呼応した撤文に,かれも署名している(『清沢満之全集』第. 3月,. 3) 4) 5) 6) 7) 8) 9). 5巻, 10. 5月,. p.. 7月,. 10月,. 12月). 382). 『精神界』第1巻第1号(明治34年1月) p.50 ll 『京都女子学園創立50周年記念誌』 p. 21f. 12 明治30年前後は,女子教育の「試錬の時期+だったといわれている(日本女子大学女子教育 研究所〔編〕『明治の女子教育』 p. 52) 13) 『京都女子学園創立50周年記念誌』 p. 25 14) 『清沢満之全集』第8巻, p. 380 15) 近藤純悟「巨鐘の音+ (観照社〔編〕 『清沢満之』 p. 224f.) 16) 真田幸恵『近世教育の母コメニウス』序p・ 2o同書ほ総べ-ジ98ページの小著である。 17) 近藤純悟「常人の半生(四)+ (『精神界』第12巻第7号,明治45年7月, p. 58ff.) 18) 『精神界』第1巻第1号(明治34年1月) p.40 19) 近藤純悟「清沢先生を憶ふ+ (「精神界』第9巻第6号,明治42年6月, p. 72) 20) 淑女学校一姫路高女での近藤の教授ぶりに関してほ!カリキュラムも指導記録も現存しないの で,当時の在校生の記憶に額るはかない。淑女学校で近藤に教わった葦川・真野両女史の談に よると,近藤ほいつも生徒の個人相談に親切に応じ,とくに生徒の言い分をよく聞いてくれた という。開発主義の片鱗ほうかがえよう。 21)沢柳礼次郎『吾父沢柳政太郎』 p. 118.

(9) 73. 野口援太郎と近藤純悟 22) 23) 24). 25) 26) 27) 28) 29) 30) 31) 32) 33) 34) 35) 36) 37). 38. 39. 近藤祐某氏談による。 (『精神界』第2巻第10号,明治35年10月'p・ 近藤純情「白鷺城の中秋+ 162 大谷中高等学校(編) 『大谷中高等学校九十年史』p・ 33 姫路師範学校同窓会(宿) 『姫路師範三拾年の教育』p・ (観照社〔編〕『清沢満之』p・ 225) 近藤純情「巨鐘の音+ 『鷺城新聞』明治40年9月24日 『鷺城新聞』明治44年3月25月 『兵庫県教育史』. p.. 285. 『鷺城新聞』明治44年3月24日 『鷺城新聞』明治41年3月29日 『鷺城新聞』明治40年9月27日 『鷺城新聞』明治40年9月18日 (『精神界』第2巻第10巻,明治35年10月, 近藤純情「白鷺城の中秋+ (観照社〔編〕『清沢満之』p・■ 225) 近藤純情「巨鐘の音+ 「私立姫路高等女学校沿革+ (『鷺城新聞』明治44年3月25日). 41 42. p・. 51). 近藤を校長に迎えるのに尽力した興地観円ほ,大谷女学校改革の事情を次のように述べているo 「在来別院内に立てられある大谷女学校も別院維持の都合より休校すべしとの議論頗勢力を有 し,将に廃校の悲運に陥らんとせしも,幸に本山との交渉相つき来学年より教学部直轄となる (『無尽灯』第7巻第4号, ことに決定任侠。 -・其結果校名も改まり内容も進歩すべく存供o+ 明治35年4月, p190) (『清沢満之全集』第6巻, p・ 49) 清沢満之「絶対他力の大道+ 『鷺城新聞』明治44年3月24日 『鷺城新聞』明治40年10月20日 姫路師範学校同窓会(編) 『姫路師範三拾年の教育』p・. 40. 51). 19. この点については,報徳会運動との関連も予想できるが,近藤がこれと関係をもったか否かは 実証し難い。また野口の尊徳理解ほ報徳会的なそれとほ異なっていたと思われるが,詳論の暇 はない。. 「人々に親切+だったといっている(藤原喜代蔵『明 43)野口を「愚昧+と酷評する藤原喜代蔵も, 795 治大正昭和・教育思想学説人物史』第3巻p・ 44) 『鷺城新聞』明治40年9月24日 渡辺致静の「手記+ (『鷺城新聞』明治40年9月18日) 45) 46) 47) 48) 49) 50) 51). 662. 『明治以降教育制度発達史』第4巻p・ p・ 51) (『精神界』第2巻第10号,明治35年10月, 近藤純情「白鷺城の中秋+ p・ 58ff・) (『精神界』第12巻第7号,明治45年7月, 近藤純悟「常人の半生(四)+ 「私立姫路高等女学校沿革+ (『鷺城新聞』明治44年3月25日) 『神戸新聞』明治44年3月24日 当時の姫路市の条件のもとで, 「在来の余弊+を克服する可能性が,近藤と淑女学校とにまっ たくなかったとほいえない。このことほ,宗教的精神を固守しつつ,小規模各種学校としてふ しかし,日 みとどまった姫路日ノ本女学校の例からも推測できる(『兵庫県教育史』 p・ 276)o ノ本女学校がバプテスト教会からうけたような物心二面の援助を,近藤は東本願寺教団に期待 することができなかった。. 既述のごとく大正期にはまったく別の途を歩むことになる野口と近藤が,明治末数年間, 精神修養会を介しての深い交渉をもっていることにほたびたびふれたが,実は従来このこ とは看過せられていたようである。. 『姫路師範三拾年の教育』によると,近藤は姫路師範. 生徒にト週一回--諾々として真宗を説+いたといわれ1',. 『姫路師範学校の教育』によ.

(10) 74. 久. 木. 幸. 男. れば,. 「近藤純情師によって生徒の有志が求道会を組織した2'+と記録されているが,実ほ 近藤による師範生徒に対する宗教教化活動ほ,上記精神修養会と密接な関連をもっている のである。このことは,近藤が明治39年3月に書いた,. 「姫路だより+から判明するが,. この文章ほさらに,精神修養会がもたれるようになった経緯をも明らかにしているので, 繁をいとわず次に引用しよう。 当地師範学校寄宿舎養神室に於いて,昨年五月以来,毎月二回同校生徒有志者のために『正信偏』 の講話をいたし居候ひしに,今夜其講を終り侯。此会の起りほ一昨年野口当師範学校長の令閏の逝 去に際し,平生眠懇の関係より,其葬儀の導師を依頼せられ,それが経となりて七日七日の夜に同 家に参り読経して法談をいたし侯。同氏ほ,令閏の逝去を経として,人々に法味を味ほせんと欲し, 或七日の夜は,近所の老kEJi連中を招き,或七日の夜は,教職員の令閏を招き,或七日の夜ほ,出入 の商人の家人を招きなどいたし候。其初七日の夜大会を開き侯。そほ精神修養会の第一回に当り侯。 此会ほかねて同校長及同校教頭泥谷良次郎氏の企図せし所にて,予もかねて之を聞き大に賛同し, 一日も早く開かれんことを希望し居りたる所に侯。爾来大抵毎月一回宛,野口氏の宅か予の宅か, 又時には野上覚道君の宅などにて,開き居候o是ほ此地に於ける心霊界の修養に関する-焦点と存 侯。さて又七日七日の参詣を終りても,野口氏の母堂のため月に一回程宛,法話を開き侯。其蓮に 列せる師範学校生徒有志のために,経文について少しづつ御法をいたし,後に昨年五月E3iより,毎 月二回,同校寄宿舎養神室に参り,. 『正信偏』について話をしたる次葺如こ有之侯。かくて慈光の冥. 祐の下,とにかく今夜其講を終りたることと相成供3)o. すなわち,精神修養会および求道会は,ともに野口夫人の中陰仏事の説法に由来してい ること,前者は明治37年から,後者ほ明治38年から始っていること,精神修養会は野口 が近藤に呼びかけて始められていること,求道会も野口の誘導によるらしいこと,などが 判明するのであるが,そもそも野口が,精神修養会や求道会の出発点となった中陰仏事に 近藤を招いたのほ,単に「眠懇の関係+にあったことのみが理由ではなく,近藤,さらに はその師・清沢の思想に共鳴するものを感じ,あるいほ少なくとも積極的関心をもってい たからでほないかと思われる。それほ,明治37年6月,近藤宅で催された清沢の一周 忌の集まりに野口が出席し,清沢の思想についての自己の理解を述べていることからもう. かがわれるo近藤ほその時の模様右次のように述べ,さらに上記精神修養会が発足するこ とになった旨を付記している。 後に野口師範学校長は立って同氏の立脚地「一元多相論+より(清沢)先生の考及朗読の講話に 就て所見を述べられ侯。同氏は平素修養に心を傾けられ,同校の教員生徒諸氏の問にも心を往くtlも の寡らず侯。. ・. -今後毎月一回宛同人同志相会して修養上の懇談会を開く筈に侯4)。. 清沢の忌日の集まり(漉扇忌)はその後毎年近藤宅で開かれており,野口を始め姫路師 範の教師や生徒がたびたび出席している5)。生徒ほおそらく求道会関係者であろうし,姫 路師範教師の中には,. 「はじめて親鷲上人の教義に接して,新しい心の世界を見た思ひを. してゐたのであった6)+と,のちに書いているものもあったが,膿扇忌が精神修養会の延. 長ないしその一部と考えられていたことは,近藤がそれを「(清沢)先生の追慕修養会+ 「修養懇談会+などと呼んでいることによって判明する7)。膿扇忌と同じく精神修養会は, 清沢の思想の受容ないしそれ-の共鳴を基調とする集まりだったのであろう。野口の提唱.

(11) 野口援太郎と近藤純情. 75. で始まった会合ではあったが,それをリードしたのほ,近藤-というよりは,近藤が依 拠した清沢思想だったといってよいであろう。. しかし精神修養会が閉鎖的な集まりでなかったことは,本稿の冒頭に引いた『鷺城新聞』 の「本会は誰人にても来聴するを得べければ,有志者ほ遠慮なく出席すべし+という記事 からも傍証し得るが,近藤も会の模様を次のように記している。 昨夜は叉,精神修養会を私方で開きました。是ほ市内の有志(宗教の異同を問ほず職業の如何を 論ぜず)の人々が各自の実験なり,所感なり,疑惑なり,赤裸々に話し合うて,修養の資に供する といふ事で,数年前より毎月一回宛開いて居ります。当師範学校長野口氏を始め,教育家もあり, 禅家の方もあり,時にほ牧師の方も来る事がある。商業家も,軍人も,官吏も来る事がある。会員 といふ規定はなく,来会者が会員で,講師といふ者があるのでなく,話をする人が講師で,茶をの み煎餅をかみながら,感想などを話す,自由な会合である。会場ほ一定して居らぬが,従来慣習上, 野口氏の宅や私の宅や其他の-二の場所で余り一方にばかり片よらぬ様,来会の方の便宜を見て開 く様にして屠ります8)0. この文章は明治42年3月に善かれており,明治37年に始まったこの会が,少なく ともこの時期まで継続していることが判るが,一見地方都市のインテリの,サロン風の集 まりと見えるにもかかわず,. 「赤裸々な話し合い+を要求するきびしさをもつ会合であっ. たことも,見落されてほなるまい。 野口が自ら提唱したこの精神修養会に何を期待し,またそこから何を得たかということ 杏,直接に示す史料は見当らない。それを明らかにするためにほ,つまり近藤が「修養の 資に供する+と一般的な形で述べているもののなかみが,とくに野口にとって何であった のかを明らかにするためには,かれの姫路師範における実践を吟味しなおしてみる必要が あろう。野口の姫路着任ほ明治34年,精神修養会の発足ほ明治37年であるから,野口 の実践がすべて精神修養会の影響下に成立したものでないことは,いうまでもない。それ ほしばしば指摘されるとおり,かれの「革新的な教育理念を基軸として展開された9)+も のであり,また「師範学校令以来の軍隊的師範教育克服10)+の意図に出たものであるが, こうした実践を展開する中で野口がなぜ精神修養会に何かを期待しなければならなかった かが,さしあたっての問題であろう。. 姫路師範における野口の実践の特色ほ, (自治的訓練), (3)体験的労作(主義の)教育,. (1)人格(尊重の)教育,. (2)自由自治教育. (4)鍛錬(主義の)教育,. (5)宗教教育,. の5点にあるといわれもが11',野口自身ほのちに自分の実践を,とくに指導法に集約して 次のように概括している。 私が明治三十四年姫路師範学校長に任ぜられた時は,視学官にほ彼の敏僑な小森慶助君が居られ, 書記官には聴明寛大な床次竹次郎氏があり,知事には良二千石の評のあった服部一三氏が頑張って 居た。そして私をして自由に思ふ俵に腕を振ほせて呉れたので,私は従来の型に拘らないで,全く 新しい教育法を取ることが出来た。私の師範教育法ほ一言にして言-ば,自治自鯵である。恐怖教. 育を排斥して何処迄も安心して学ぶと云ふ方針を取り,強圧的な教育を斥けて,主として率先指導 的な方法を用ゐ,暗記的口授的な教授を廃して,研究的実験的な教法を採ったのである。当時ほ私 の遣り方ほ我教育者問に驚異の限で見られて居たが,夫でも此の傾向ほ次第に一般に諒解せられて.

(12) 76. 久. 幸. 木. 男. 来て,此の方針を採用せられる人が多くなって,遂にはこれが一般師範教育の風潮をなすに至った のである12)0. 野口がこれを書いたのは,大正新教育全盛の大正11年(1922)であるが,それにして も野口のいうごとく,自治自修の教育が「師範教育の風潮をなすに至った+か否かについ てほ疑問が残らないわけではない13)o. しかしそれはとにかくとして,野口が森有礼以来の. 師範教育を恐怖教育・強圧教育と批判し,自治自修の師範教育法によってそれを克服しよ うとしたことは明らかであるが,この自治自修が実は兵庫県当局老が野口に「自由に思ふ 盛に腕を振ほせ+たところに成立したものであることにも,留意しておいてよいであろうo 周知のごとく師範教育に対する批判は,明治30年代後半にはかなり普遍化しており, 人間の資質を悪化せしめる師範学校は,せめてその年限を短縮して悪影響の及ぶ程度を少 なくするべきだという議論さえ現われている14)。野口の特徴はただ批判するだけでなく実 際に師範教育の改革を行なったところにあるが,その師範教育批判の起点となり改革の動 力となったかれの思想ほ,昭和6年,野口自身が語ったところによれば, 思想,. (2)かれが「信仰上の煩悶の結果到達した信念+,. (1)ドモランの. (3)二宮尊徳の思想の三点に要. 約される。 当時の師範学校は実に窮屈なもので--教育の方針等も軍国主義的,軍隊的であった。. -・自分. ほ教育の実際について何とか改良したいと思っていた.. ・・.・丁度其のEji,フランスのズモラン氏の 著書「アングロサクソソ・シューペリオソテー+といふのを読んで非常に共鳴した。 --前から英 国風の教育を尊敬してゐた私は,この著書に刺激されて,英国のパブリックスクールに関する文献 を全部取寄せて研究し-. -. ・其精神をとって師範化し実施したいと考へた。 -第二ほ私の信仰上の 煩悶の結果到達した信念である。 -私の年令が丁度宗教に触れる時代でもあったので,人生に就 いて色々と煩悶もし,思索もした結果,各種の方面に其の解決の道を求めた。 --この煩悶の結果 -. 一つの信念が私の中に芽ぐんで釆た。之が姫路師範の教育に相当大きな影響を有つ様になった。即 ち英国流の自由教育に加ふるに此の信念を基礎としたものを学校教育の中心に置いたことである。 この信念の表れが即ち「理想の教師+で,之ほ余程深奥な考を以て作ったもので,教育者としては, 一つの深い信念がなくてほならないと,自ら体験した結果である。第三に私の教育上の思想に強い 影響を与-たものは二宮尊徳翁の思想である。 -翁の思想ほ,矢張り信念の必要,実際を重んず -. る思想,勤勉力行,至誠,感謝,犠牲奉仕の思想を中心としてゐて,私の思想の上に影響して,学 校教育の方針や方法の上にも強く表れるやうになった15)。. 野口が「英国流の自由教育+とともに「学校教育の中心に置いた+という「信念+の具 体的内容については,この談話でほ十分に明らかにされていないが,それは特定宗教への 信仰でほなく,. 「宗教的なもの+に対する信念とでも呼ぶべきものであったようである。. 別の機会に野口は, 「真の教育ほ宗教の根抵がなくしては行はれるものでほない+が, の宗教は歴史的成立的なもの+でほなく,. 「そ. 「各宗教の真骨髄を選んだもので,色を取り去. 「如何なる宗教をも包括するもの+であるべ ったもの,即宇宙の大法則大精神なる宗教+ きであり,いわば「無色の宗教+だと述べている16)。野口が二宮尊徳に慣例するのも,「神 儒仏正味一粒丸17)+を説く尊徳の中に,特定宗教ではなく「宗教的なもの+. 「無色の宗教+. -の信念を見出したためであろう。このことは,前引の昭和6年の談話において,尋徳の.

(13) 77. 野口援太郎と近藤純悟. 思想の特色を列挙する筆頭に「信念の必要+をあげていることからもうかがわれる。 要するに,姫路における野口の実践をその基底において支えたものほ,ドモラン的自由 教育思想と「無色の宗教+に対する信念とであったが,それほ自治自修の教育という形態 y [当時一般の学枚に見られた,禁止条項を羅列した校則で をとって具体化され,さらに, 「遂ニ全宇宙ニ対シテ崇高温和 はない18,+と評される「学規+ 32粂(明治35年1月), ナ′L情操ヲ感得+することを詣い, 「本校教育方針の真髄19'+と自讃された「理想の教師+ 「吾等が教育の理想とすべきは,独立自営の気風を有し,誠実 3条(明治36年9月),. にして偽らず,善をなすに勇にして喜んで公衆の為に労し,熱して人に接しては常に温順 親切なる底の国民を作ることである20'+という前文に始まる姫路師範付属小学枚「訓練要 項+. (明治40年9月)などにおいて,成文化せられたのである。この「学規+や「理想 光氏. の教師+に現われた教育方針が,とくにどのように実現されたかについてほ,中野 は「自由自治教育+がとりわけ注目に値するとして,寄宿舎の自治制,鍛錬と労作,学校 の「家族化+などを重視しており21',初期の卒業生の一人も,教師生徒間に「血の通ふ学校+ であったことや寄宿舎自治に特色を認めている22'。また『三人の先生』は,. 「時流を抜い. (2)教師生徒が自由に語りあう「職員 (1)寄宿舎生活の自由化, た新機軸+の例として, (4)生徒が輪番で教師の家庭で暮す「書 生徒懇談会+, (3)全校行事-の職員家族の参加, 生制度+をあげている23'oこのうち(2),. (3), (4)が教師生徒の「親和を増し+,学校の家. 族化につらなることほいうまでもない。なお『姫路師範三拾年の教育』は以上のほか,「一 っの大きな大胆な試み+だったとして期末試験の撤廃をあ帆それが創造性・自律性を養 なう自学自習・独立思考を助成するためだったと述べている24'。野口は姫路を離れたのち にも試験制度批判の姿勢を崩さず,及落と試験と賞罰で子どもに勉学を強いる教育ほ,そ 「徒らに外観をかざり,唯無暗に自己の利益を の求知心や活動力を無視するものであり, 図るに汲々たる人間+を作るだけだといっているが25),姫路師範の試験廃止は,のち(お 「総復習の意味+の試験が課せら そらく大正初年)には後退して,学科成績と無関係な, れるようになったという。それは,学校内部に試験復活を望む声があったためだといわ れ26',野口の方針に対する批判や反発が教師の間にあったことがうかがわれる.. 校内の野口批判については後にvg)れるが,明治38年から姫路師範に勤務した27'三浦修 吾によれば, 「姫路師範に対してほ世評が種々で+あり, 「随分非難の声も+あったという28'o 「世評が種々+であることは,それだ 三浦のこの発言は明治44年になされたものだが, け野口の実践が社会の注目をひいた結果である。姫路師範が世の注視をあびるようになっ. たのは,明治37年ごろからのことらしく,この年9月,山松鶴吉の参観記が発表されて 「実地に見聞した いる。山松は,姫路師範は「今日の師範学校中での-・名物+だとして, 事柄中著しい点+を列挙したが,それは,校長野口が尊大でないこと,付属小学校との連 繋に留意していることの指摘から始まって,寄宿舎自治制,. 「理想の教師+. 「学規+,教師. の授業相互参観制などに及んでいる。かれ自身も断っているとおり表面的な観察にとどま っている点も多いが,比較的好意的な見方をしており,とくに寄宿舎自治制を高く評価し ている。しかし概していえば,単なる風変りな学校と見ているようである29'。.

(14) 78. 久. 幸. 木. 男. 外来者の目には風変りと映じた姫路師範も,校内にいる老にとってはまた別のものに見 える。三浦修吾のマンネリズム批判が生まれるゆえんであろう。三浦ほ創立以来の勤続者 が7名,自宅を建てて永住するつもりの職員が8名いる事実を指摘し,. 「吾吾職員が土着 の念を生じ,喰ひはづす気づかひがないといふ処から,海溝りの元気を失くし,進取の念を (ママ). 欠く+ようになり,. 「丁度土着の百姓のやうになりて,進んで究めやうといふ心に乏しく. なってゐる+と,マンネリズム化を就く批判した○もっとも三浦の論点は姫路師範批判に あるのではなく,. 「多くの短処を有しながらも+. 「家族的感情を以て結合してゐるといふこ. と,これが姫路師範学校の生命である+として,野口が意図した学校の家族化が成功して いることを強調しているのであるが28',この家族化が実は虚構にすぎず,教師生徒間の信 蹟感も確立していないという事実が,三浦のマンネリズム批判に先立って,同じく学校内 部から明らかにされている。すなわち,姫路師範の中井鳳蝶(おそらくペンネームであろ ラ)は,. 『教育界』明治37年12月号に「面白からざる現象+と題する投書を寄せ,吹. のように述べている。 余ほ近頃面白からぎる現象の行ほれつゝあるを発見した。それほかうである。生徒が寄り集って 古い玉篇の奥から極めて難解の字を繰り出して,是を以てあほれな新参先生の智恵袋を試めそうと 云ふ事である。そして若し不可解と釆てほ,それが該先生の排斥運動や,或ほ同盟罷校の源泉とな るのであるから堪らない。文明を以て,将た凱捷を以て,世界に誇ってゐる我が国の今日に,斯か る忌はしい風習のあるのを聞いては,実に戦傑に堪-ないではないか。. 『教育界』の曾根松太郎ほこれに対して,. 「金川日,教師を信頼せんとせずして,却て其. の力を試みんとするが如きは,誠に軽薄なる風習といふべし。されど教師につきていほぼ, 知らざるを知らずとして尚信頼せらるゝ人となりたきものに非ずや+と,投書者をたしな める評語を付している80'。この投書にいうごとき事実が当時の姫路師範にあり,それを中 井のごとくうけとめる教師がいたとすれば,それはやほり,教師生徒間の相互信頼の欠落. を物語るものであり,野口が意図した学校の家族化ほ十分に成功せず,. 「新しい教育思想. に基づく学校生活31'+ほ,創り出されていないというほかほない。. 野口自身も,おそらくこうした点に気づき,指導の行き詰りを感じていたのでほないか と思われる。そしてその中で,かれの実践を支えてきた信念-無色の宗教の信念-に 対する疑惑も生じたであろうし,それを再検討する必要を感じもしたであろう。だから夫 人の死を契機に近藤に接近し,信念再検討の場として精神修養会を提唱したのではないか と考えられる。前に引いた昭和6年の談話でほ,近藤の名をあげてほいないが,信仰上の 煩悶・思索を重ねつつ「各種の方面に其の解決の道を求めた32)+といっており,精神修養 会は当然, 「各種の方面+中の有力な一方面であったであろう。この時期の野口にとって, 精神修養会が目的とした「修養の資に供する33'+ということほ,単なる精神生活の向上と いった一般的な意味でほなく,無色の宗教を再吟味し,それを通じて実践の起点となり得 る信念の再確立をほかるという,きわめて具体的な意味をもっていたといえよう。信念の 再吟味とか再確立とかいえば,もとより個人の内心の問題であるが,信念が教育実践を支 える基軸であるかぎり,個人をこえる側面をもっ。野口が精神修養会を発足させるのと平.

(15) 79. 野口援太郎と近藤純悟. 行して,師範生徒を誘導して求道会を組織させ,近藤の『正信偶』連続講話に師範寄宿舎 を開放する措置をとったのほ,このことに気づいていたからであろう。. 『正信偏』連続講. 話に寄宿舎を開放したことほ,訓令12号違反の疑がいさえなくほないが,野口がそれを あえてしたのは,清沢一近藤の思想に共鳴するものを当時のかれが多少とも感じており, それが姫路師範における実践の原理たり得る可能性をもつと考えていたためであろうと思 われる。. 「全宇宙二対シテ崇高温和ナル情操ヲ感. そして,もしこの可能性が現実化しておれば, 得+せよという「理想の教師+は,より具体化・豊富化され,. 「学規+の「己ノカヲ情ル. 「理想の教師+ べシ+の句は書きかえられねばならなかったはずである。しかし実際にほ, ち, 「学規+ち,書きかえられなかったことは,周知のとおりである。精神修養会の存在. が確認される最後の年代が明治42年であることほ前にもふれたが,求道会もやはりこの 頃消滅したらしい84)。清沢一近藤の思想に,少なくとも一時ほ接近した野口も,再び無色 の宗教の信念に帰っていく35)。この間の事情を詳細に明らかにし得る史料ほ見出せないし,. 後述のごとく野口の思想自体に問題力亨あったことも否定できないが,野口をして清沢一近 藤の思想の指し示す方向にその信念を再確立させることを妨げたものが,野口もその中に ほまりこんでいた,巨大な天皇制教育体制だということほ,確言できるであろう。 師範学校沿革誌+明治44年の条には,次の文字が見られるのである。. 「姫路. 明治四十四年六月三日,寄宿舎内庭ノー部二卒業生記念トシテ筑造セラレタル神殿二迎神式ヲ挙 行シ,皇大神宮ヲ奉伺セリ36)。 注 1) 2) 3 4 5. 6) 7) 8 9 10 ll. 12) 13). 姫路師範学校同窓会(編) 『姫路範三拾年の教育』p. 33 姫路師範学校(編) 『姫路師範学校の教育』p. 14。なお「求道会+という名称が正式の名称か 否かは不明だが,本稿では一応この名称を使用する。 近藤純悟「姫路だより+ (『精神界』第6巻第4号,明治39年4月, p・43f・) 近藤純情「姫路における一周忌+ p・ 49) (『精神界』第4巻第6号,明治37年6月, 49, p・ 『精神界』第6巻第7号(明治39年7月) p.50,第7巻第6号(明治40年6月) 第8巻第7号(明治41年7月) p.46,第9巻第6号(明治42年6月)p・90などによ ると,野口のはか師範の教師や生徒が腺扇忌に出席していることが知られる。 『修吾全集』上 p. 555。ただし三浦ほ,親鷲一清沢の思想に安住するこItができなかった。 p・ 49)同「白鷺 近藤純情「白鷺城下の膿扇忌+ (『精神界』第7巻第6号,明治40年6月, 城下の臓扇会+ (『精神界』第8巻第7号,明治41年7月, p・46) p・71f・ 近藤純悟「姫路だより+ (『精神界』第9巻第4号,明治42年4月) 中野. 光『大正自由教育の研究』. p.. 83. 『兵庫県教育史』p. 250 『姫路師範学 姫路師範学校同窓会(宿) 『姫路師範三拾年の教育』 p1 20ff.姫路師範学校(編) 校の教育』 p. 13f. 野口援太郎「師範教育の変遷+ (国民教育奨励会〔編〕『教育五十年史』p. 376) 254), 『兵庫県教育史』は,御影師範でも姫路師範と類似の方法を採用したとしているが(p・ 外形の模倣にとどまっているようである。野口も大正8年(1919)姫路師範校長退任あいさつ の中で「今日本校に実施する自治制のごときも,まだ一般に思ひ切って実施するやうなところ 『姫路師範三拾年の教育』 は,まだないのであります+と述べている(姫路師範学校同窓会〔編〕 p.225).

(16) 久. 80. 14). 木. 幸. 男. 『教育学術界』第10巻第4号(明治38年1月)は, 「師範式道徳+と題して,それは猫的 従順・窮窟・規則づくめ・グズグズ・黙殺等であり, 「斯のやうな資質を養ふことが師範の傾 向であるとすれば,永く居れば永い程悪くなるのだから,却って一年制二年制等で,相当に学 識上資格あるものを入れて教育に関する思想を養ふのみのものとした方がよい+と論じた(p. 102). 15. 姫路師範学同窓会校(宿) 『姫路師範三拾年の教育』p. 同. 17. 20. 福住正兄『二宮翁夜話』巻5, 231 (岩波文庫版, 苦瓜恵三郎『私の教育遍歴』 p. 68 姫路師範学校(編) 『姫路師範学校の教育』p. 4 『兵庫県教育会報』第216号(明治40年9月). 21. 中野. 22. 24. 宗光杢太郎「姫路師範学校創立当時の精神に就て+ (姫路師範学校同窓会〔編〕『姫路師範三拾 年の教育』付録p. 33) 三先生言行録刊行会(宿) 『三人の先生』 p. 132f. 姫路師範学校同窓会(蘇) 『姫路師範三拾年の教育』p. 59f.. 25. 野口援太郎『新教育の原理としての自然と理性』. 26. 姫路師範学校同窓会(宿) 『姫路師範三拾年の教育』p. 205f. (『教育』 〔著渓会〕第324号,明治43年2月, p. 24) 三浦修吾「教師としての六ケ年+ 三浦修吾「家族的感情を以て結ばれたる姫路師範学校は予をして不治の大患に打克たしめた り+ (『教育』〔署渓会〕第342号,明治44年9月, p.29) 山松鶴吉「兵庫県姫路師範学校を観る+ (『教育学術界』第9巻第6号,明治37年9月,. 18. 19. 23. 27 28. 29). 上,. 17ff.. 16. p.38f.. 光『大正自由教育の研究』. p.. p.. 202). p.. 1. 83f.. p.. 63f.. 57庁.) 30. p.64 『教育界』第4巻第2号(明治37年12月) 中野 光『大正自由教育の研究』 p. 85 32 姫路師範学校同窓会(編) 『姫路師範三拾年の教育』p. 19 33 近藤純悟「姫路だより+ (『精神界』第9巻第4号,明治42年4月, p.71f.) 34 膿扇忌に出席した姫路師範生徒ほ,求道会関係者と思われるが,師範生が腺扇忌に出席したこ とが確認できるのは明治42年までである。 (注5)参照) 35) 大正15年(1926)に出版された『新教育の原理としての自然と理性』の中で,野口は自己の 人生観を語って, 「人間の真の満足ほ人生を達観する所に得られる。我々は達観の極ほ即ち宗 教に参入する+と述べ,その宗教とほ「宇宙の展開が実の極,調和の極+であることを観じ, 88ff.) その「至強至剛な力を讃嘆し,畏敬+することだとしている(p. 36)姫路師範学校同窓会(編) 『姫路師範三拾年の教育』p. 293 31. 野口の皇太神官奉伺は,見方によればかれ一流の範晦策と見られなくもない1)。しかし かれの無色の宗教の信念が,もともと天皇信仰に妥協する酸味さをもっていなかったかど うか。少なくとも,天皇制教育の核心をなす天皇信仰をきっぱり拒否する力を,野口の宗 教的なものへの信念ほ欠いていたのではないだろうか。野口は「偉大なる自由主義着であ った+といわれている2)。しかし,とくに姫路師範時代に関するかぎり,その自由主義は 天皇信仰を容認するという限界をもった自由主義であり,さらに浮田和民が明治34年に 発表した「帝国主義の教育+において力説した自由主義に通じるものではなかったであろ うか。以下,野口の自由主義の限界の問題に若干の考察を加えて,本稿の結語に代えたい と思う。. p..

(17) 81. 野口援太郎と近藤純情. 「其議論の正確にして引例の該博なる,氏を知る人に於て疑ほざるなり3'+と,. 『教育学. 術界』が手放しの讃辞を呈した,浮田の有名な論文「帝国主義の教育+は,帝国主義を軍 事的.侵略的帝国主義と,経済的・平和的なそれに分類することから始まり,現今の帝国 主義ほ後者だとして,この経済的帝国主義の担い手を養成する教育ほ,実用的教育,道徳 「服従. 的教育でなければならないという主張を展開するoそしてとくに後者に関しては, 主義の道徳よりも,自由主義の道徳を奨励せぎる可からず+と述べ,その理由を次の点に 求めている。. 若し吾人の子弟をして,長上の命是従がひ,生涯奴隷的人民たらしむるを欲せば,服従主義の教 育可なり。否な絶対的服従主義の教育にて不可なしとすo然れども日本人民にして,苛くも亜細亜 四億以上の人民を啓発誘導するの天職を有し,また南北亜米利加,及び南洋諸国に蔓延して,生活 せざる可からずと為さば,自主独立の人格を養成するは,教育の主眼たらざる可からず。帝国主義 の道徳は内部的道徳,精神的道徳たるを要す。被治的道徳ならずして,自治的道徳ならざる可から ず。依頼的道徳ならずして,自主的道徳ならざる可からず○ -・自由意志よりせざる服従ほ,真正 の服従に非ず。 --自由意志より出でざる一致団結は,真正の一致団結に非ず4)。 『教育公報』明治33年9月号が紹 浮田論文ほど体系的ではないが,類似の考え方は, 介している「貫教育家+の地方旅行談にも見えており,そこでは文部省が「自主自由のゝ 氏+の育成を国民教育の方針としないことが批判されている5'。また豊原石南も文部省の 干渉主義を非難して,. 「教育の手段方法に就ては教員に一任すべし。. -・これやがて教員. の機械的人物となるを防ぐことを得るのみならず,教育の進歩発達ほ決して繁項なる拘束 の下に於て起るものに非ざればなり6)+と論じた。批判の的となっている文部省側でも, 文相菊池大麓は,明治35年4月の全国中学校長会議において,中学教育が注入主義に 陥って「心力の鍛錬+に欠けているとして,. 「独立に考へるのカ即ち常識を養ふことは,. 英国の教育は実に卓立して居る。生徒の習慣規律を養ふ,形式的に命令に従ふのでなく心 からの規律を養ほねばならぬ7)+と演説しているのである。 野口の自治自修も,浮田のいう自由主義,. 「某教育家+の語る自主自由の民,豊原の主. 張する教授の自由,さらに菊池演説の独立思考などとほぼ同じ線上に位置するものと考え られる。野口と浮田等との相違点は,かれが自治自修の教育をことばの上で主張しただけ. ではなく,それを姫路師範において実践したという点に求められよう。しかし野口の実扱 が可能だったのほ,前に引用した野口の論文「師範教育の変遷+に見えるとおり,兵庫県 当局者がかれに「自由に思ふ鐘に腕を振ほぜ'+たからであった。浮田の自由主義が「真 正の服従+のための自由の主張であり,菊池が「心からの規律+を説いたのと同じく,野 口の自治自修もそれ自体が目的でほなく,服従のための自由,忠誠のための自治であった. からこそ,県当局もかれに「腕を振う+自由を与えたのであろう。しかも姫路時代の野口 は,豊原の主張する教授の自由さえも,積極的に東認していない。それほ,三浦修吾が教. 科書を離れた授業をしたのに対し「頗る満足しなかった学生+がいたことをあげ,三浦が 結局姫路を離れることになったのもやむを得なかったとしていることからもうかがわれよ う9)o もっとも野口ほ,姫路在職時代の末期にほ,. 「ドルトンプランとほとんど全く同一.

(18) $2. 久. 幸. 木. 男. のもの10)+といわれる「姫路プラン+の実現を計画しており,さらに後年,児童の村小学 校での実践を進める中で, 「我々の新教育にありては,たとひ法令上の要求の為に,所定 の学科課程や教則大綱や,教授要目を守らなくてはならぬにしても,その実際にありてほ 到底これを守り得ない事情の下にあるのほ明かなことである。. ・-これを極端に言-ば,. 斯くの如き教科課程や教則大綱や細目を認めないことになる11)+と主張するに至っている が,学習の自由に照応する教授の自由の主張は,明治末の野口にはまだ見出されないので あって,その自治自修が限界つきの自治自修であったことほ明らかであろう。 野口の自治自修,ないし自由主義を,結局さまざまの限界の中にとじこめることになっ たものは,やはりかれの実践の基底をなす「無色の宗教+への信念の中にあったと思われ る。晩年の野口が,ファシズム・ミリタリズム・侵略戦争を讃美する書物を書いて,自分 「私自身としては,猶今日に ほ豹変したのではない,外部の事情が変化したのだといい, 於ても自然の大法に慶んで服従して行きたい。そして人間のさかしらを努めて避けたい。 そして一面に於てほ,又出来る丈自由でありたい。. --一種の自然主義者たり,自由主義 老たる自己の思想態度にほ何等の変更はない12)+と述べているのほ,野口自身の主観的真 実でほあろうが客観的にほ一種の自己弁護であり,かれの自由主義の限界と,. 「無色の宗. 教+への信念ないし「自然の大法+. -の敬度の本質を,はっきりと示すものというべきで あろう。この点,野口との訣別以後,専ら婦人故化の途を歩んだ近藤純悟が15年戦争の ただなかにあって個性の自覚を力説し,近代婦人の覚醒の例をイプセンの『人形の家』に 求めつつ,孤独の自覚たる自我の自覚を突破するところに同朋の自覚の世界が現成するこ とを説いている13)のと,まったく対照的であるo. 近藤は,学校数青から離脱することによって,その宗教的精神の純粋を固守した。しか しその純粋ほ,. 「日本が帝国主義化して行く起点に対して対置的なもの14'+だったといわ. れる清沢の思想を,帝国主義段階に入った日本の教育状況の中でどのように具体化してい くかという課題を放棄したところに,かろうじて成立する底のものであった。これに対し. て野口は,精神修養会を通じて清沢一近藤の宗教的精神の純粋さに触れつつ,結局それを 自己のものとすることがなかった。野口は三浦修吾を評して, 「仏教特に真宗の教義につ いても渇仰する所があった。されど是とても決して深く研究を重ねると云ふ風でも無く叉 凝り固まった信者でも無かった15'+と書いているが,この評語は野口自身にもあてはまる。 「日本教育ほ,大に宗教的の気分なり調子なりをとり入れなければならぬ16)+と三浦は述 「自然の大法+の思想に通じる。しかし「気. べているが,この主張は野口の「無色の宗教+. 分+や「調子+は,巨大な天皇制教育体制の前にほ,あまりにも脆弱でしかなかったので ある。 注. 1)姫路師範学校同窓会(編) 『姫路師範三拾年の教育』も,皇大神宮華南のような「古風な方法+ 194) では,生徒の精神教育上の効果ほほとんどなかっただろうといっている(p. 『三人の先生』 p. 127 2)三先生言行鐘刊行会(編) 3) 『教育学術界』第3巻第4号(明治34年8月) p.72.

(19) 野口援太郎と近藤純情 4) 5). 83. 『教育公報』第249号(明治34年7月) p.9ff. 「某教育家+は,ある学校で「小学教員とほ物を教へる器械なり+と生徒が答えたという例を 「自主 あげ,さらに地方官憲が教師のみでなく人民一般を奴隷視・器械祝していると批判し, 自由の民を作る+のが「国民教育の一番の大趣意+だと主張している。また教師や父母も,小 成に安んじることを子どもに要求するから, 「一般の気風といふものが引込思案になって,日本 (ママ). 6. 7 8 9 10 ll. 12 13 14. 15 16. が彰醸することほ出来ない+として, 「成たけ青年を柔順に器械の様にする+ 「文部省の方針+ p. 39f.) を非難している(『教育公報』第239号,明治33年9月, 「教育行政権の範囲+ (『教育学術界』第9巻第3号,明治37年6月, p. 97) 『教育公報』第259号(明治35年5月) p.44 国民教育奨励会(編) 『教育五十年史』p, 376 野口援太郎「高等師範が生んだ異彩ある教育家+ (『修吾全集』上, p. 12) p・ 84) 高木浩朗「児童の村とその前後+ (『カリキュラム』第106号,昭和32年10月, 野口援太郎『新教育の原理としての自然と理性』 p. 117f. 野口援太郎『先づ教育を革新せよ』 p. 319 近藤純情「婦人の覚醒より信仰へ+ (堀口義一〔編〕『説教講演全集』6, p. 67ff.) 吉田久一『清沢満之』 p. 211 野口援太郎「高等師範が生んだ異彩ある教育家+ (『修吾全集』上,p. 14) 三浦修吾「教育と宗教+ (『生命の教育』p. 132).

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