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昭和戦前期の百貨店問題と中小小売商

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Academic year: 2021

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原著論文

昭和戦前期の百貨店問題と中小小売商

木村 晴壽

The Issue of Smaller Retail Business Related to the

Department Stores at the Prewar Showa Era

KIMURA Haruhisa

要  旨

 戦前の昭和恐慌期には、日本経済全体が混乱するなか、都市部の中小小売商もまた経営破綻の危 機に瀕していた。その原因のひとつとして社会問題となったのが、百貨店との競合だった。特に、各百 貨店が顧客層を中流サラリーマンへと広げる経営方針をとったことから、中小小売商と百貨店の問題は 深刻な政治問題化した。本論は、この時期に制定された百貨店法が、中小小売商の救済策として打ち 出されたのではなく、むしろ戦時体制につらなる経済統制の一貫として成立してくる経緯を、実証的に 究明している。

キーワード

  百貨店法  中小小売商  恐慌  商業政策

目  次

  Ⅰ.はじめに(課題設定)   Ⅱ.百貨店の誕生と定着    1.三越呉服店のデパート宣言と呉服店系百貨店    2.百貨店の大衆化    3.ターミナル百貨店の参入   Ⅲ.経済統制の展開と小売商政策    1.満州事変と重要産業統制法    2.小売商政策の展開   Ⅳ.百貨店規制法の立法過程    1.商品券の規制    2.百貨店法の制定   Ⅴ.結語

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Ⅰ.はじめに(課題設定)

 周知のごとく、金融恐慌に始まり世界恐慌に巻 き込まれながら本格化した大不況、すなわち昭和 恐慌は、他の資本主義諸国と同様にわが国経済を どん底に陥れた。世界恐慌の震源地がアメリカ だったことから、わが国輸出品の太宗である生糸 の生産が大きな打撃を受け、したがって養蚕業と 不可分に結びついていた農業はさらに深刻な状況 に追い込まれることとなった。壊滅的打撃を受け た農業の惨状は深刻で、日本の農村は、まさに崩 壊の危機に瀕していた。農業恐慌の到来は、もは や誰の目にも明らかだった。  1930(昭和5)年のわが国就業人口約3,000万人 のうち農業従事者は約1,400万人、実に47%を占め ていたのであり、農村の崩壊が日本社会を根底か ら突き崩すことを危惧した政府は、産業組合を中 心に据えた政策によって農村の立て直しを図った。 比較的経営状態のよい農家上層・自作農による共 同組織として明治期から存在していたわが国の産 業組合は、農林省を中心に進められた産業組合育 成策によって、昭和初期には、中下層農家を吸収し ながら目覚ましい発展を遂げた。しかし産業組合 の展開、より具体的には産業組合の一環としての 購買組合が広範に展開したことは、その反面で、街 場の中小小売業者の営業活動と競合することにな り、遂には各地の商工会議所を拠点とする反産業 組合運動(反産運動)へとつながっていった1)。当 時、卸売・小売業の従事者は、農業従事者の1,400 万人には及ばないものの413万人に達しており、製 造業従事者とともに商工政策上の主要な存在だっ た。商権擁護運動として顕在化した反産運動は、 中下層農家と中小商人との鋭い対立を生みながら、 最終的には本格的な戦時統制経済のなかに埋没 していった歴史的経過がある。  産業組合と商業とのかかる対立だけでなく小売 業内部にもまた対立を抱えていたことが、昭和恐 慌期の小売業問題を一層複雑にしていた。いわゆ る百貨店問題である。小売業内部での、中小小売 業者と大資本たる百貨店のせめぎ合いは、細かな 経緯を省いて言えば、最終的には百貨店の営業を 厳しく制限する百貨店法の制定へとつながり、折し も本格化した経済統制のなかで、業界全体が戦時 体制へと組み込まれてゆくことになるのである。  以上の問題背景を前提に本論は、昭和初期小売 業に関わって産業組合問題とともに深刻な政治問 題化した百貨店問題を取り上げ、中小営業者と大資 本の間に横たわる利害を政府・政党がどのように 調整しようとしたのか、また、その結果がわが国の 商業政策にどのような影響を与えたのかを実証的 に明らかにすることを目的としており、その検討を 通じて概ね以下の論点とそれらに対する一定の見 解を提示する。  本研究が意図するところは第一に、百貨店の営 業規制は経済統制の一環として位置づけられるべ きか、あるいは中小小売業者の救済策として打ち 出された政策なのか、この点について一定の見通し を提示することにある。一般的な歴史叙述では、 1931(昭和6)年の満州事変を契機として様々な経 済統制が実施され(「準戦時体制」の表現が一般 的には用いられることが多い)、1937(昭和12)年 の日中全面戦争以後は本格的な戦時経済統制へ 移行してゆくと捉えられている2)。しかし実際には 政府と産業界との間には、統制の中身をめぐっての 鋭い対立あるいは駆け引きがあり、経済統制に関 わる政策に、小売業者等がどのように対応したの か、商業政策上で小売業者はどのように位置づけ られていたのかを明らかにすることは、戦時経済 統制が必ずしも単線的な道筋で実現されたのでは ないとの論点を示すことになろう。  本論の第二の意図は、わが国の商工会議所が歴 史的にどのような性格を持っていたのかについて の論点を提示することにある。  現代日本のいわゆる三大経済団体の一つである 日本商工会議所は、一般的には中小商工業者の結 集体としての特徴を持っているが、大都市部の商 工会議所の場合、そこには中小商工業法人だけで なく、大資本を基盤とする大規模法人も参加してい る。しかも、それらの大企業は通常、商工会議所の 運営に直接関わる議員に選出されることが多く、戦 1)  本論が対象としている恐慌期には、産業組合問題がもうひとつの大きな商業問題として地方の小売商を揺るがしてい た。産業組合が農村更正運動の一環だったため、大都市部ではなくむしろ地方都市において問題が深刻化していたか らである。本論で取り上げる百貨店問題は、それとは対照的に、主として大都市を舞台に繰り広げられた小売業界内部 の対立だった。なお、産業組合が最も目覚ましく展開した長野県を素材に、地方の商工会議所を拠点とした反産業組合 運動を取りあげた研究として、木村(2013)を参照されたい。 2)  戦前の統制経済あるいは戦時体制については今や数多くの研究があり、原朗(2012)、山崎志郎(2011)、原朗・山崎 志郎編著(2006)、原朗編(1995)などが代表的研究であろう。

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前の商工会議所においてもかかる傾向は基本的に 同様であった。特に、本論が対象とする百貨店問 題は、一部の例外を除けば、大都市の中小小売業 者と百貨店の対立を基本構造としていた。実際、多 数の中小小売業者とともに百貨店も参加していた 東京商工会議所では、当該問題に対する会議所と しての態度を決める過程で提示された両者の主張 を、極めて慎重に扱ってもいた。  都市部の商工会議所において、中小商工業者の 利害が貫徹していたのか否か、したがって各地商 工会議所の連合組織である日本商工会議所の歴 史的性格を確かめる作業でもある。  以上の二点を踏まえたうえで、百貨店の生成と百 貨店法が成立する経緯を検討することで、わが国 における中小小売商店と大店舗の利害調整に際し、 大資本規制が政策として形成される過程を明らか にすることもまた、本論の意義として付け加えるこ とができよう。戦前昭和期に制定された百貨店法こ そは、戦後の百貨店法はもとより、現代の大店法・ 大店立地法へとつながる、わが国初の大規模小売 店舗規制法だったからである。

Ⅱ.百貨店の誕生と定着

1.三越呉服店のデパート宣言と呉服店系百貨店  「百貨店」という呼称が日本で使われるように なったのは、それほど古いことではなく、昭和初年 にその呼び方が始まったと言われている3)。百貨店 自体は明治後期からあったが、その頃は「雑貨陳 列販売所」なる表現もあったし、欧米のデパートメ ントストアを「小売大商店」などと訳すことも多かっ た。昭和初期になって、「小売大店舗」「百貨商 店」、あるいは「百貨店」と呼ばれるようになったと いう。  1905(明治38)年1月3日の主要新聞に、「当店販 売の商品は今後一層其商品を増加し凡そ衣服装飾 に関する品目は一棟の下にて御用弁相成候様設備 致し、結局米国に行はるるデパートメント・ストーア の一部を実現可致候事」という全面広告を三越呉 服店が出した。これを一般的には三越呉服店のデ パートメント・ストア宣言と呼び、わが国における百 貨店の始まりとされることが多い。この当時、「百 貨店」を名乗っての営業を行った業者はなく、事柄 の性質上、実質的に取扱品目を多様化し陳列販売 を開始したことをもって、百貨店化の指標とせざる を得ない。  三井呉服店が百貨店化の途を歩み出した後、明 治期のうちに他の老舗呉服店でも次々に百貨店化 が進んでいった。東京では三越呉服店の強力なラ イバルだった白木屋呉服店も百貨店化を開始し、 名古屋を本拠とする、いとう呉服店(松坂屋)、京 都に本拠がある大丸呉服店や高島屋呉服店も続々 と、販売品目の多様化と陳列販売方式を採用し始 めた。大正期になると地方の比較的大きな都市に もそうした動きが拡がっていった。  このように、明治後期はわが国百貨店の草創期 であり、明治後期から大正にかけてのこの時期、百 貨店はいずれも高級イメージを売り物にしていた。 一部、生活必需品の安売りを実施するなどして、増 えつつある都会のサラリーマンなど中産階級を取り 込む動きもみられたが、まだまだ百貨店は一般大 衆には手の届かない存在だった。百貨店は、いわゆ る上流階級を顧客としていたのである。 2.百貨店の大衆化  以上のようにわが国では当初、大規模呉服店が 販売品目を増やし陳列販売を行うことで、百貨店と しての営業が動き始めた。老舗呉服店から転換し て実現した、これら呉服店系百貨店の顧客層が、 近世以来の伝統である富裕層から中産階級へと 拡大する大きな契機となったのは、関東大震災 だった。  1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災 により東京の百貨店はほとんどが焼失したため、そ れまでの売場を失った各百貨店は臨時に仮設の売 場を設け、そこで生活必需品を販売し始めたので ある。これを契機に、百貨店の顧客は、上流階級だ けでなく中産階級へと確実に拡大していった。百 貨店の大衆化と言ってよい。厳密には、百貨店の大 衆化は第一次世界大戦後の反動恐慌時に始まって おり、三越では1919(大正8)年に一般市民を対象 とした生活必需品の大量販売「木綿デー」を開催 し、大盛況となった(高橋潤二郎、1972、pp.108-3)  百貨店の生成を論じた著作には、コンテンポラリーの研究と経済史・経営史からの研究とがあり、例えば前者とし ては、堀新一(1937)、水野祐吉(1940)、松田慎三(1939)などがある。また後者の代表的なものとして、鈴木安昭 (1980)、初田亨(1993)、山本武利・西沢保編(1999)をあげることができる。わが国での百貨店の生成過程に関する 叙述については、上記の諸研究および石井寛治(2003)に負うところが大きい。

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109)。三越大阪店でも「さかえ日」という特売日を 設け、銘仙・ネル・セルの衣料品や靴・下駄・シャツ など、10円以下の品物を目当てに1日6万人もの客が 押し寄せた(山本武利・西沢保、1999、p.36)。白 木屋も1920年に、破綻した呉服商から安値で仕入 れた商品を廉価で販売する「暴落新値大売出し」 を実施し、驚くほどの売上利益をあげた。白木屋は さらに2年後の1922年に、雑貨の格安売場を常設 するようになる(『白木屋三百年史 』、19 57、 pp.369-370)。松坂屋でもこの頃に同様の雑貨安 売りが実施されているとはいえ、百貨店が大衆化し たというほどの大きな動きとはいえず、やはり百貨 店の大衆化は、関東大震災後に本格化すると考え るべきである。  例えば松坂屋では、第13代当主による「天災地 変の際はまず店員を救恤せよ、次に恩顧を受けた 顧客、即ち罹災の大衆を救って報謝せよ」との遺訓 にしたがって、店員に給料3ヶ月分を前払いしたうえ で、手ぬぐい・石けん・食器などを詰めた慰問袋10 万個を各区役所等に無料で配布し、さらには仮営 業所を池之端に設けて日用品の廉売を始めた (『日本小売業経営史』、1967年、pp.124-126)。 三越・白木屋・高島屋・松屋も同じく、物資不足に 悩む市民のために日常品の廉売を開始したのは言 うまでもない。  こうした大衆化路線は、結果として百貨店の大 規模化・洋式化をもたらしただけでなく、出張販売 や商品券発行といった新たな顧客確保策の導入も 促すことになった。  なお、わが国の百貨店が本格的に大衆化し始め た大正末~昭和初期の時期には、正式名称を変更 する百貨店が相次いだことも象徴的な動きだった。 具体的には、「呉服店」の名称を取り除き、名実と もに百貨店としての体裁を整えたのである。いとう 呉服店は、1925(大正14)年に松坂屋と改称し、 1928年になると三越呉服店と白木屋呉服店はそれ ぞれ、三越、白木屋へと改称した。さらに1930年に は、伊勢丹と高島屋も社名から「呉服店」を取った (松田慎三、1939、p.151)。 1)店舗の大規模化と洋式化  消失後に再建された東京の百貨店は、多数の顧 客に対応するため、いずれも大規模な様式の店舗 に衣替えした。それまでの百貨店は各階とも畳敷 が一般的で、下足預かりが常識だったが、顧客層 の拡大に比例して店舗を訪れる顧客数が増大した ため、下足預かりを廃止して土足入場へ切り替える 百貨店が続出した。同時に、三越本店などは、「耐 震を主眼として補強し、日本最初の自動扉エレベー ター、新式のエスカレーター、換気、暖房、塵埃吸 収、オゾン発生の衛生的設備、スプリンクラー、自 家発電装置」を完備した近代的ビルの店舗となった (鈴木安昭、1980、p.80)。松屋では、神田今川橋 から銀座に本拠を移し、1925(大正14)年に7,000 総延べ坪の店舗を完成させ、松坂屋上野店も1929 年に7,500坪の大店舗として再建された。土地区画 整理が遅れていた白木屋も、1931年には10,000総 延べ坪の百貨店として再出発した(『白木屋三百年 史』、1957、pp.370-372)。  明治後期に百貨店への転身を図った呉服商は近 世期から、多店舗による営業を伝統としており、百 貨店化を進めていた時期にはすでに複数の都市に 店舗を持っていた。関東大震災後に顕著となった 大衆化路線はさらなる多店舗化を促し、東京はも とより、それ以外の主要都市にも支店・分店を設け る動きが拡がっていった。  三越は1928年に神戸分店を、翌29年には大連・ 京城出張所をそれぞれ支店へ昇格させ、30年にな ると銀座・新宿の両支店を開設したのに続き、金 沢・高松・札幌・仙台支店を相次いで設けていった。 すでに名古屋と東京上野に店舗を持っていた松坂 屋は1923(大正12)年に大阪支店を、翌24年に銀 座支店をスタートさせた。この後、昭和初年にかけ て松坂屋の店舗は東京で拡がり、1931(昭和6)年 表1 百貨店の出張販売回数(時期別・都市規模別) 年 次 8千人~1万人 1万人~2万人 2万人~5万人 5万人~10万人 10万人以上 計 1912以前 2 5 1 8 4 20 1913~1917 3 4 2 4 2 15 1918~1922 5 11 3 2 3 24 1923~1927 9 19 25 8 3 64 1928~1932 9 32 19 5 2 67 計 28 71 50 27 14 出展:堀新一『百貨店問題の研究』(有斐閣、1937年)より。

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には14店舗を擁する百貨店へと成長していた。本 店を銀座へ移した松屋も同年に、浅草店を設けて いる(山本武利・西沢保、1999、pp.499-500)。 2)出張販売による地方進出  関東大震災後に各百貨店がとった顧客層拡大策 は、多店舗化・大規模店舗化に止まらず、地方都市 への出張販売という方法も生み出していった4)  百貨店による出張販売は、明治期にはほとんど が人口5万人以上の都市で実施されていたが、関東 大震災後には人口2万人以上の都市にまで及び、昭 和期になるとさらに小規模の都市でも実施される ようになった。この間の事情は、百貨店による出張 販売回数を都市規模別ならびに年次別に整理した 表1に如実に表れており、大正末期から昭和初年 にかけて、人口5万人以下の都市での出張販売が 急速に比重を高めている。昭和初年には人口2万 人以下の都市での出張販売が半数を占めるように なり、百貨店が精力的に地方進出をはかっていっ た様子がみてとれよう。  出張販売の取扱商品も当初は高級呉服類が主 体だったが、大衆化路線の進展に合わせ、徐々に 日用品・雑貨・小間物・食料品という品目が加えら れていった。出張販売の会場には、その地方の大 旅館や劇場、あるいは公会堂・商工会議所・物産 館などの公共施設も利用され、地方都市の一般小 売商の反百貨店運動は、公会堂等の公共施設使用 禁止を市役所に求めるというかたちで表面化する ケースも多かった。  百貨店問題が東京などの大都市以外にも、一部 の地方都市へ波及した背景には、百貨店のこうし た地方進出策があったことを見逃してはならない。 3)商品券の発行  小売商店が商品券を発行し消費者がそれを贈 答に利用すること自体は、江戸時代の商品切手か ら続くわが国の伝統的な習慣であった。菓子切 手・酒切手・豆腐切手が多く使用されていたと言わ れ、呉服商による呉服切手の発行も明治期まで続 いていた(鈴木安昭、1980、p.99)。一般小売商と 百貨店の対立をめぐり、立法措置によって最初に百 貨店を規制したのが、実は商品券の発行について だった。商品券の大量発行は、言うまでもなく百貨 店にとっては重要な顧客確保策であったが、逆に、 中小の小売商にとっては大きな脅威と映っていた。  東京の主要百貨店による商品券発行額を示した 表2をみれば明らかなごとく、百貨店ごとで発行額 に著しい差がありながらも、昭和初年にはいずれ も発行額を着実に増加させている。年間1,000万円 超の高額に達する三越を筆頭に、各百貨店は盛ん に商品券を発行したのであり、それらの合計額は 2,000万円を超えるまでになっていたから、1930 (昭和5)年には東京市が商品切手発行税をこれ ら商品券に課すことになり、大阪・京都・神戸も同 様の課税に踏み切る事態となっていた。  また、多額にのぼる百貨店の商品券発行は遂に は、商品券専門の取引業者を簇生させることにな り、1930(昭和5)年の歳末取締にあたり警視庁は、 「小売商人中各デパート発行に係る商品券と引換 に物品の販売をなすもの増加の傾向あり、取締上 甚だ遺憾につき特にこの点に留意取締ること」 (『中外商業新報』、1930年12月3日)との指示を 表2 主要百貨店の商品券発行額 (単位:千円) 年   次 三 越 白木屋 高島屋 松 屋 大 丸 1926(昭和 1)上期 3,245 426 708 1,031 826 下期 5,052 413 734 1,063 27( 〃 2)上期 5,320 378 653 1,228 1,056 下期 5,642 379 665 1,338 28( 〃 3)上期 6,126 378 726 1,538 1,264 下期 6,240 514 724 1,620 29( 〃 4)上期 6,538 589 600 1,766    下期 6,360 598 649 1,800 30( 〃 5)上期 7,632 624 644 2,170 出展: 鈴木安昭『昭和初期の小売商問題』(日本経済新聞社、1980 年)より。  1) 大丸の数値は、各年とも上期・下期を合わせた額。  2) いずれも推定額。 4)  百貨店による地方出張販売の実態については、なによりも堀新一(1937)に最も詳細な調査結果が紹介されている。 同書のpp.158-196には様々な角度から実施された当時の実態調査の結果が記されている。

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出すほどだった。百貨店の商品券が消費者にいか に浸透していたかを物語っていよう。  商品券が、一般小売商による反百貨店運動の具 体的対象になった所以である。 4)食堂と庭園  日本の百貨店はアメリカとは異なり、家族連れで 出かける楽しみの場であった。百貨店を訪れる目的 を日本人がそのように考えるようになった背景のひ とつに百貨店に設けられた大規模な食堂の存在が あった。わが国の百貨店で最初に食堂を併設した のは白木屋呉服店であり、1904(明治37)年のこと だった。汁粉・そば・寿司を提供する食堂は評判と なり、その後、他の百貨店も大規模な食堂を兼営す るようになった。また三越が1907年に屋上庭園を 造ったのを手始めに、池や噴水を備え望遠鏡も配 置した遊園地のような場所を各百貨店が設け、人々 を大いに楽しませたのである。  こうした仕掛けもまた、百貨店が顧客を吸引する うえでは大きな役割を果たした。 3.ターミナル百貨店の参入  以上のように、徐々に進展しつつあった百貨店の 大衆化を、一挙に推し進め定着させたのは、ターミ ナル百貨店の出現だった。 1)呉服店系のターミナル百貨店  後の電鉄系百貨店の先駈けとなった阪急・東横 の両百貨店が昭和初期に営業を開始して成功した ため、ターミナル百貨店が専ら電鉄会社の手で設 けられたかのように語られることが多い。しかし、 私鉄路線の始発駅に百貨店を設ける動きは、必ず しも私鉄資本だけが進めたのではなく、呉服店系 百貨店もターミナルへ進出していたことを見逃して はならない。  東京では1927(昭和2)年に、新築された京王電 鉄新宿駅の駅ビルを利用して開業した武蔵屋新宿 店が最初のターミナル百貨店とされている。武蔵屋 はこの時期、呉服店から百貨店化しており5)、呉服 店系として最初のターミナル百貨店であった(『日 本小売業経営史』、1967、p.129)。1931年に東武 鉄道浅草駅にオープンした松屋浅草店もまた、呉 服店系のターミナル百貨店だった(鈴木安昭、1980、 p.83)。  関西では、1930(昭和5)年に高島屋が南海鉄道 難波駅に進出し、大衆化を前面に押し出すため1階 に10銭均一店をもうけるなど、「大衆的雰囲気を完 全に把握し、当今恐らく関西第一位に押されるほ ど驚異的な充実を遂げた」と、『大阪案内』に紹介 されている(東出清光、1941、p.288)。1933年には、 阪神電鉄三宮駅の駅ビルに3,000坪のターミナル百 貨店を開店した。  このように、呉服店系の百貨店は新たな顧客層 を開拓しつつ、積極的にターミナル百貨店も展開し ていた。1933年には、京浜電鉄と白木屋が共同で 京浜品川駅にターミナル百貨店の京浜百貨店を開 設しており、このような呉服店と電鉄双方の系譜を 引く京浜百貨店の誕生は、電鉄系百貨店の進出と いうよりも、呉服店系百貨店がとった大衆化路線の 延長線上に位置づけられるべきであろう。 2)電鉄系のターミナル百貨店  1929(昭和4)年に阪神急行電鉄(現阪急電鉄) が大阪梅田駅に、初の電鉄系百貨店である阪急百 貨店を開業した。阪急百貨店は、1925(大正14)年 に開業した阪急マーケットが母体であり、さらに、 阪急マーケット自体が、その5年前に阪急電鉄本社 ビルの1階に出店した百貨店白木屋の影響を受け て開業したというから、電鉄系百貨店の動き出しは かなり早かったことになる(『白木屋三百年史』、 1957、pp.347-349)。ここでも、白木屋の関西進出 が前提となっており、呉服店系百貨店の大衆化路 線と無関係に電鉄系百貨店が誕生したのではない ことを確認すべきだろう。1936年から37年にかけ ては、大軌百貨店・大鉄百貨店(いずれも後の近鉄 百貨店)がターミナル百貨店として相次いで開業し た。  東京では東京横浜電鉄(現東京急行電鉄)が、 渋谷で経営していた東横食堂をもとに1931(昭和 6)年、渋谷マーケットとして物品の販売を始め、 1934年に東横百貨店を開業したのが電鉄系最初 のターミナル百貨店である。阪急・東横のいずれも 電鉄沿線での住宅地開発と結びついていたことは 言うまでもない。  阪急百貨店の場合、その母体となったのは、阪 急電鉄が1920(大正9)年に駅に設けた食堂で あった(山本武利・西沢保、1999、pp.47-48)。そこ で提供されたのは洋食で、特に人気を博したのが5 5)  武藏屋はその翌年に倒産している。

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銭の山盛りご飯だったという。客はテーブル上の福 神漬けとソースをご飯にかけて食べ、それは通称 「ソーライス」と呼ばれていた。そもそもが、そのよ うな大衆的な食堂からのスタートだったのであり、 後に百貨店として開業した阪急百貨店もその特徴 は、「兎に角、良い品を安く売ることと凡ゆるもの が揃ってゐる」(山本武利・西沢保、1999、p.48)こ と、および「和洋食、支那料理の大食堂の完備して ゐる」ことに定評があった。同時に、基本的な顧客 層を「サラリーマン階級の若い人達やいはゆる山の 手の沿線居住の新人」と想定した営業を展開して いた。かつての呉服店系百貨店が上流階級を顧客 層にしたのとは明らかに異なる営業方針であった。  当初の東横百貨店もまた、東横電鉄を利用する 沿線住民、特にサラリーマンの便宜を考え、年中無 休で午前9時から午後9時まで営業していた。  1940年になって武蔵野鉄道が、その5年前に設 けられた京浜百貨店池袋分店を買収することで漸 く、東横百貨店に次ぐ電鉄系の百貨店が東京で誕 生した(これは菊屋デパートとなり、後に武蔵野デ パート、そして現西武百貨店となる)。  このようにみてくると、わが国における百貨店の 動きは概ね、老舗呉服店→呉服店の百貨店化→呉 服店系百貨店の大衆化→呉服店系百貨店のターミ ナル進出→電鉄系百貨店の参入、という経緯で あったとみてよい。しかも、呉服店系・電鉄系双方 の百貨店が混在するようになる昭和戦前期には、 呉服店系百貨店の顧客層は伝統的な上流階級およ び中産階級であり、電鉄系百貨店が、電車通勤の サラリーマン層を中心とするホワイトカラーを主要 な客層としていたことには留意しておこう。

Ⅲ.経済統制の展開と小売商政策

1.満州事変と重要産業統制法 1)金融恐慌時の小売業政策  金融恐慌のなか、憲政会の若槻内閣にかわって 成立した政友会の田中義一内閣は、首相経験のあ る高橋是清を大蔵大臣に据えるという異例の人事 を行い、金融恐慌を沈静化させた。  とはいえ依然として内政で未曾有の経済混乱・ 経済不況を抱える田中内閣は、第一次大戦後の慢 性不況で行き詰まっていた商工業対策を立案する ため、1927(昭和2)年5月、商工審議会を立ち上げ た。同審議会には三つの特別委員会を置き、商業 対策に関しては、「生産、販売、産業金融、貿易通 情、運輸通信等」を担当する第三特別委員会の下 に設けられた消費経済小委員会で審議を進めるこ ととなった(『商工政策史』第七巻、1980、pp.171-173)。細かな経緯を省いて言えば、この小委員会 による「消費経済改善策」には、流通経路の短縮、 共同購買機関の普及改善、商品の標準化・単一化、 消費の節約など、流通機構を合理化する方向性だ けが提示されており、中小小売業者の救済策は何 ら示されていなかった。  このような消費経済小委員会の認識は決して特 異なものではなく、当時の『東京朝日新聞』も次の ような論説を掲載している。すなわち、 「既に小売商の自治的団体にして完備するならば、 国家は国民の重要な一階級を形成している小売商 人に対し、必要なる積極的保護を加ふることは決 して困難でないのである。近時、大資本をもってす る百貨店の繁栄については、吾人も又その弊害の 大なるものあるを認むるけれども、かの東京におけ る一部小売商の唱へてゐる百貨店に対するボーイ コットの如きは労して益なき結果に終るは明らかで ある」(『東京朝日新聞』、1928年4月26日) として、中小小売商の共同組織あるいは共同行動 こそが有効な解決策であるとの見解を示していた。 当時の世論もまた、商工審議会の消費経済小委員 会とまったく同様の認識だったのである。 2)大恐慌と重要産業統制法の制定  田中内閣は、外交面でも対中国政策をめぐって 厳しい判断を迫られていた。蒋介石率いる国民革 命軍が北伐を目的に中国で北上を続けていたから である。満州に勢力を張る軍閥の張作霖を支援す ることでそこでの権益を守るという、日本の対中国 基本戦略が脅かされ始めたことになる。  このような情勢に直面した田中内閣は、前内閣 の方針を転換し対中国積極政策、すなわち対中国 強硬路線を鮮明にして遂に、中国の旅順・大連地域 (関東州)に駐留していた日本軍(関東軍)を山東 省へ派遣した。いわゆる山東出兵である。これ以 降、関東軍は暴走を始め、1928(昭和3)年6月には 独断で、日本政府の思惑通りに動かなくなった張 作霖を、奉天郊外で列車ごと爆殺した。この張作 霖爆殺事件について田中首相は当初、厳正な処分 を検討したが、軍部の抵抗に遭ったことから曖昧 な決着をはかった。国民には真相を知らせぬまま、 「満州某重大事件」としてこの事件を扱い、その処

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理に一貫性を欠いた田中首相は、天皇の不興を 買って総辞職へと追い込まれたのである。  その後を継いだ浜口内閣は外交面では幣原外 交の継続、つまり協調路線をとりつつ、内政面では 経済界の強力な要請を受けて、第一次大戦中の 1917(大正6)年に禁止されたままになっていた金 の輸出を解禁した。アメリカでの株価大暴落を契 機とする大恐慌が発生した直後の金解禁が、あま りにも急激な不況へとわが国経済を導いたことは、 周知の事柄である。  世界大恐慌に巻き込まれた日本経済は、輸出の 激減、したがって正貨の大量流失、そして企業倒産 と失業者の増大という未曾有の不況に見舞われた から、外交面で対中国問題を抱えながらも、浜口 内閣としては緊急の経済対策を打つ必要に迫られ ていた。  1931(昭和6)年4月に政府は、生産・販売を統制 するために協定を締結する場合は政府がそれを保 護・助成することを主旨とする、重要産業統制法を 制定した。つまりこれは、業種ごとに生産・販売の カルテルを形成するよう促す法律であり(正式名称 は「重要産業ノ統制ニ関スル法律」)、「統制」と いう用語を初めて使用した、わが国初の経済統制 法だった。この法律にしたがって政府は重要産業 として、綿糸紡績業・絹糸紡績業・鋼板製造業・石 炭鉱業など、24業種を統制の対象として指定した6)  この法律によって民間の経済活動を規制しよう という政府の意図は明確だったが、戦争に適合的 な経済体制を整えるというよりも、産業界の過当 競争を排除することを第一の眼目としていた点で、 この後の戦時体制になって発動される経済統制と は大きく異なっていた。重要産業統制法自体は、そ の制定後に企業合併によって日本製鉄・王子製紙 などが誕生し、業界内での競争を抑える効果は あった。しかし、重要産業としての指定が24業種に 限定されたこと、業界ごとのカルテル結成を促して はいたがあくまで業界の自主規制が基本とされた こと、および、業界の統制協定(=カルテル)に参加 しない企業に対し一定条件の下で政府が参加を勧 告できるとする条文(第3条)が、政府の介入を容 認する唯一の規定だったことから、政府の権限は 限定的であり、統制色は未だ薄かった。同年に公 布された工業組合法とともに、当初の経済統制法 は、あくまでも業界の自主規制に重点を置いた、間 接統制を構想していたのである。 3)間接統制から直接統制へ  満州国建国宣言を経て、わが国を取り巻く国際 関係がますます厳しくなるなか、1936(昭和11)年 には日本が第二次ロンドン海軍軍縮会議を脱退し たことに加え、ワシントン海軍軍縮条約も失効し、 日本はいよいよ国際社会で孤立を深めていった。  日本国内でも政治情勢は緊迫の度を増していた。  1936(昭和11)年2月26日の早朝、陸軍皇道派 (財閥と政府・軍部との癒着を問題視し、腐敗す る支配層を排除して天皇を中心とした国民経済の 立て直しを標榜するグループ)の青年将校たちが 約1,400名の兵を率いて政府首脳らを暗殺する事 件が起こった。このいわゆる二・二六事件をきっか けに皇道派は排除され、陸軍省・革新官僚・財閥 が連携し軍部の強力な統制の下に総力戦体制を 整えるべきだと考える統制派が陸軍内の主導権を 握った。これ以降、戦争遂行に必要な重要産業を 育成しつつ、財界も取り込んで戦争に適合的な日 本経済を作り上げること、つまり軍備拡張を核とす る総力戦体制を構築することが軍部の基本方針と なった。  こうして日本の経済運営には、戦争遂行を最優 先する、戦時統制経済が前面に押し出されてくるこ ととなったのである。  政府はすでにこの前年、1935(昭和10)年に最 初の経済統制法である重要産業統制法の改正に 乗り出していた。政府が法改正に着手したのは、 1931年に制定された同法が5年間の時限立法だっ たこともあるが、このころから政府が、間接的な経 済統制からさらに踏み込んだ直接統制へ移行しよ うとする姿勢を持ったからでもあった。もともとの 重要産業統制法は、カルテルを通じて主要業界の 秩序と発展をはかろうという、業界ごとの自主的な 統制を基本としていたが、改正法は、産業に対する 政府の規制力を強化しており、政府による直接統 制を予感させるものだった。この時点で政府が、業 界の自主統制と国家による直接統制の両睨みの姿 勢を持っていたことは、例えば、1936(昭和11)年5 月の衆議院改正重要産業統制法案委員会で小川 郷太郎商工大臣が、 6)  重要産業統制法につての研究は数多いが、橋本寿朗(1984)および大石嘉一郎編(1987)は是非とも参照さるべき文 献である。また、『昭和経済史 上』(1994、日経文庫)には重要産業統制法が成立する背景が比較的簡潔にまとめられ ている。

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「自治的統制ノ趣旨ニ依ッテ統制ヲシテ行ケレバ、 ソレニ対シテ国家ガ手ヲ添ヘテ助ケテヤラウ、斯ウ 云フ大体ノ立前デ、ソレガ又イケナケレバ国家ノ 色々ナ国家統制トデモ申シテ宜イヤウナモノニ行ク、 是ガ丁度今日ノ日本ノ産業ノ発達ノ程度ニ適ッタ モノダト思フノデアリマス」7) と述べたことからも十分に窺える。  改正法の主要改正点は、カルテルへの非加盟業 者(アウトサイダー)に対する規制命令権を強化し たこと、およびいわゆる公益規定を強化したことで ある。すなわち、もともとの重要産業統制法第二条 では単に、 「主務大臣前条ノ統制協定ノ加盟者三分ノ二以上 ノ申請アリタル場合ニ於テ当該産業ノ公正ナル利 益ヲ保護シ国民経済ノ健全ナル発達ヲ図ル為特ニ 必要アリト認ムルトキハ統制委員会ノ議ヲ経テ当 該統制協定ノ加盟者又ハ其ノ協定ニ加盟セザル同 業者ニ対シテ其ノ協定ノ全部又ハ一部ニ依ルベキ コトヲ命ズルコトヲ得」 となっていたが、改正法ではさらに第二条ノ二とし て、 「特ニ必要アリト認ムルトキハ統制委員会ノ議ヲ 経テ其ノ命令ノ効力ヲ有スル期間ヲ限リ当該産業 ニ於ケル企業ノ新設又ハ生産設備ノ拡張ニ付命令 ヲ以テ許可ヲ受ケシムルコトヲ得」 との条文が加わり、アウトサイダーへの規制命令を 発動する際、企業の新設・拡張を政府の許可制と することが可能になっていた。それまでの、業界に よる自主統制からさらに踏み込み、カルテルへの 非加盟企業を許認可権によって政府がコントロー ルできる内容へと変更されたのである。また、改正 前の公益規定は、 「統制協定ガ公益ニ反シ又ハ当該産業若ハ之ト密 接ナル関係ヲ有スル産業ノ公正ナル利益ヲ害スト 認ムルトキハ統制委員会ノ議ヲ経テ其ノ変更又ハ 取消ヲ命ズルコトヲ得」 という一般的な内容だったが、それを 「生産若ハ販売ノ数量、販売価格若ハ之ニ影響ヲ 及ボスベキ取引条件ガ商品ノ円滑ナル供給ヲ妨ゲ 又ハ不当ニ価格ヲ騰貴セシメ若ハ価格ノ低落ヲ阻 止シ其ノ他当該産業若ハ之ト密接ナル関係ヲ有ス ル産業又ハ一般消費者ノ公正ナル利益ヲ害スト認 ムルトキハ統制委員会ノ議ヲ経テ其ノ変更又ハ取 消其ノ他公益上必要ナル事項ヲ命ズルコトヲ得」 と改正し、政府が、より具体的に取り締まることが できるようにしたのである。  これらの改正点はいずれも政府による統制の強 化が意図されており、政府の基本方針が、業界主 導の統制すなわち間接統制から、政府による直接 統制へと移行しつつあったことを示している。実際、 重要産業統制法が改正されると同時に自動車製造 事業法が公布され、それ以降、人造石油事業法 (1937年)、製鉄事業法(37年)、工作機械事業法 (38年)、航空機製造事業法(38年)、造船事業法 (39年)、軽金属製造事業法(39年)、有機合成事 業法(40年)、重要機械製造事業法(41年)という 具合に、政府が各産業分野を直接に統制するため の法律が次々に制定されることとなるのである。  本論が主題とする百貨店法が施行された1937 (昭和12)年の翌年には、国家総動員法が制定さ れたのであり、経済分野での規制がまさに間接統 制から直接統制へと以降しつつある時であったこ とに留意する必要がある。 2.小売商政策の展開 1)同業組合による統制と百貨店の除外規定  わが国で商工業者の組合が法的根拠をもって成 立したのは、1884(明治17)年の同業組合準則まで 遡る8)。そもそもは製品の粗製濫造を防止するため に商工業に関する同業組合を設けようとしたもので、 それが翌年の蚕糸業組合準則に発展し、最重要輸 出品である生糸の組合統制が効果を発揮した。か かる組合規制を主要輸出品へ広げようとした政府 は、1897(明治30)年に重要輸出品同業組合法を 制定し、さらにその後継法である1900年の重要物 産同業組合法によって規制・統制の対象範囲を輸 出品以外の製造・販売業者へと拡大したのである。 第一次世界大戦後の慢性不況期には、中小企業対 7)  帝国議会貴族院および衆議院の本会議における発言は、『帝国議会誌』(東洋文化社)による。貴族院委員会の質 疑は『帝国議会貴族院委員会速記録 昭和篇』(東京大学出版会)、衆議院委員会の質疑は『帝国議会衆議院委員会 議録 昭和篇』(東京大学出版会)の各巻からの引用である。また、各衆議院議員の所属会派は、『議会制度百年史』 (1990)に依拠しており、各議院・政府委員・大臣等による議会での発言および会派等については、煩雑さを避ける意味 で以後の脚注・出典は省略する。 8)  準則組合とは、1884(明治17)年に公布された農商務省達第三七号(同業組合準則)に基づいて設置された同業組合 を指し、法律に準拠したわが国初の同業組合だった。なお、準則組合について詳しくは、『商工政策史』第十一巻pp.17-19を参照されたい。

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策が重要視されるようになり、1925(大正14)年に は重要輸出品工業組合法・輸出組合法が制定され、 これがアウトサイダー規制を盛り込んだ「最初の強 制カルテル法」(『商工政策史』第十一巻、p.25)と 位置づけられている。  このように、明治期から大正期にかけての経済 統制は主に、輸出品に関わる商工業のみを規制・ 統制することが主眼であり、一般の中小商業者に ついては、重要物産同業組合法にもとづく同業組 合がほぼ唯一の統制組織だった(『商工政策史』 第十一巻、pp.20-25)。  重要物産同業組合法自体が重要輸出品同業組 合法を前身としていたため、この同業組合の主たる 目的は輸出品の粗製濫造を防ぐことにあり、した がって組合の規制・統制は、営業上の弊害取締り に関わって、産業行政を補完する範囲に限られてい た。  同法にもとづく同業組合は、文字どおり重要物 産に関わる生産・販売の同業者による組織であり、 地区内の同業者3分の2以上の同意があれば設立 できることになっていた。定款を定めて主務大臣の 認可を得なければならないのは言うまでもないが、 重要なのはこの同業組合が強制加入制度をもとに 成り立っていたことであり、さらに注意を要するの は、主務大臣が認めれば加入を免除するとの規定 があった点である。すなわち、その第四条は、 「同業組合設置ノ地区内ニ於テ組合員ト同一ノ業 ヲ営ム者ハ其ノ組合ニ加入スヘシ但シ営業上特別 ノ情況ニ依リ主務大臣ニ於テ加入ノ必要ナシト認 ムル者ハ此ノ限ニ在ラス」 となっており、いったん同業組合が設立されれば 設定された組合の地区内で同業を営む者はすべて 強制的に加入しなければならないとの規定であっ たが、その一方では但書として、加入を免除する例 外規定を設けていた。実際、この例外規定に則っ て同業組合に加入しない百貨店があったのである。  大正中期以降、この法律の完全実施、すなわち すべての百貨店の強制加入を求める中小小売商の 運動が起こり、特に金融恐慌後の1927(昭和2)年 以降にその運動は激しさを増していった。  実はこの条項の適用をめぐり、百貨店と同業組合 との係争、具体的には百貨店と中小小売商との間 で数多くの訴訟が起こっており、いずれも中小小売 商側の主張が認められて百貨店側は敗訴を重ねて いた(宮本又次、1954、p.349)。大正中期以降、こ のような訴訟は数十件に昇った。百貨店を組合に 加入させ、組合による統制を通じて百貨店の営業 を規制しようというのが中小小売商側の狙いだっ たから、1928(昭和3)年に入り中小小売商の諸団 体は、法律の主旨どおり百貨店の強制加入を実現 するよう商工省に要請した。  一方、中小小売商との摩擦を回避するため同業 組合に加入する百貨店もあったが、すでに1924(大 正13)年に百貨店協会が設立されており、百貨店に よる同業組織があること、および重要物産同業組 合法に準拠して取扱い品目ごとに同業組合に加入 すればそれぞれに異なる規制を受けることになり、 百貨店としての営業が現実に不可能になることを 理由に、百貨店協会は強制加入の適用除外規定の 正式発動を商工省へ申請した。やはり、1928(昭和 3)年のことだった。  百貨店側からの申請を受けた商工省は最終的に 中小小売商側の要請を退け、六大都市の百貨店に ついては同法第四条の適用を除外することを正式 に決定した。白木屋・松屋・松坂屋・高島屋は実際 に同業組合を脱退している。これに対し、中小小売 商団体は猛烈に反駁した。同業組合の連合組織で ある東京実業組合連合会は商工省を相手取り、行 政訴訟に持ち込む決定をしたのである。その際、 東京実業組合連合会が掲げた理由は、異種の商品 を取り扱っているため複数の同業組合に加入して いる小売商にも組合脱退の権利を与えるべきこと、 百貨店の特殊性を考慮した商工省の理由が不明確 であること、以上の2点であったが、商工省は、東 京実業組合連合会の示した理由では行政訴訟法 に適用条項がなく、そもそも行政訴訟権がない、と して却下した。商工省が百貨店と中小小売商との 狭間に立ち、苦悩を重ねた経緯は様々に記録とし て残っておりここではその点には触れないが、その 際に中橋商工大臣が示した見解には、後の商業組 合法へつながる芽がはっきりと見えていた。  すなわち、百貨店を同業組合から除外したから といって 「中小商工業者をこのまゝ放任圧迫しようといふの ではなくその発達助成については商業政策の範囲 外にあって行政上別個の施設として考究すべき」 (『東京朝日新聞』、1928年6月6日)。 であると述べていたのである。 2)商業組合による統制  「中小商業者の困窮は殊に甚だしくございまし て、(中略)是が根本的政策と致しましては、新た

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に中小商業者に適切なる組合制度を立てまして、以 て各種の経済的共同施設を致さしむることが出来 まするように致しまするし、組合の強固なる統制の 下に相互の規律協調を維持せしめまして、又金融 流通の機関たらしむることが、現下の中小商業者 の窮状を打開致しまして、其自力更生を図るに最も 緊急なる方策なりと認めました次第でございます」。   以 上は、第六 十三帝 国 議 会 衆 議 院 本会 議 (六十三議会の会期は1932年8月23日~9月4日) での、中島久万吉商工大臣による商業組合法案の 提案主旨説明の一部である。政府は、「組合の強 固なる統制の下に」「中小商業者の窮状を打開」す ることを目的として、商業組合を設立するための法 律を新たに制定しようとの意思を明確に示した。つ まり、商業組合もまた重要産業統制法と同様に、業 界の自主統制を基本原則としていたのである。な おこの時、中小小売商対策として政府は、もうひと つの重要法案である商工組合中央金庫法案を提 出していたが、本論の主旨からはややはずれるの で商工中金問題は、ここでは割愛する。  商業組合法案は1932(昭和7)年に成立し、同年 10月から施行された。新たにスタートした商業組合 の目的は、基本的には営業上の弊害を除去するこ とにあり、その点は同業組合とほぼ同様に、強力な 統制は想定されていない。また、共同事業について は、商業組合のそれは同業組合以上に広い範囲で 認められていた。同業組合の共同事業は、検査・ 統制・調査に限定されていたが、商業組合ではそ れ以外に、共同仕入・保管運搬・金融など営利事 業を共同で実施することが可能となっていた。この 時期、農家による産業組合が共同事業を幅広く展 開しており、政府はその小売商版を構想していたこ とは明らかであり、中小小売商による共同事業、そ れも営利の共同事業を核に、中小小売業の立て直 しを図ろうとしていたのである。  商業組合が同業組合と大きく異なっていたのは、 「商業」組合の名称が示すとおり、商業者のみで 組織される点である。同業組合では生産者(工業 者)と商業者が同一の組合に加入していたため、 往々にして工業者と商業者の利害が対立すること は、比較的早い時期から指摘されていた。例えば、 第五十帝国議会の三土農商務政務次官の次のよう な発言はその点を明瞭に吐露している。  「(前略)サウナリマスト製造業者トソレカラ問 屋商人、是等ト全ク利害ガ相反スル場合ガ出来テ 来ルノデアリマスカラ、ドウシテモ一致共同ガ出来 ナイト云フコトニナル」  このような事情が背景となって、生産過程まで踏 み込んだ共同事業の導入が進まない状況が生まれ ていた。もともと重要物産同業組合法は重要輸出 品同業組合法を発展させたものであるため、輸出 品の粗製濫造を防止することを念頭に、同業組合 による統制を構想していた。商業組合法の成立は、 単に中小商業者の救済という視点からのみ理解す るのではなく、商業と工業の利害対立、より具体的 には生産業者と流通業者それぞれによる自主統制 を実現する過程として把握さるべきなのである。実 際、1932(昭和7)年に商業組合法が施行される前 年、ひと足先に工業組合法が施行されていた。  商業組合法の成立に際し最も大きな論点になっ たのは、いわゆる同業組合との競合問題だった。 1931年の第五十九帝国議会(実際の議会会期は 1930年12月24日~31年3月27日)で成立し、商業組 合法に先行して施行された工業組合法には、工業 組合又はその組合員は同業組合に加入せずあるい は同業組合を脱退することができる、との条文が あった。そもそも重要物産同業組合法にもとづく同 業組合は、強制加入を重要な存立基盤としていた から、工業組合と同業組合が併存し、しかも同業 組合への加入を任意とする工業組合法の規定は、 表3 商業組合の動向 年  次 組合数 組合員数 1932(昭和 7) 5 818 33(〃 8) 265 30,148 34(〃 9) 593 64,049 35(〃 10) 887 82,807 36(〃 11) 1,197 103,904 37(〃 12) 1,653 138,256 38(〃 13) 1,832 155,854 出展:松浦誠之『商業組合の経営』(巖松堂書店、1936年)より。  1) 1938年は4月末の数値、他は年末の数値。  2) 組合員数の単位は人。

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同業組合にとっては死活問題だった。従来の同業 組合を崩壊させかねない規定だったのである。事 実、工業組合法の審議過程で、 「本法(工業組合法-筆者注)ニ依ツテ設立セラレ タル組合又ハ其加入者ハ、其営業ニ関スル重要物 産同業組合法ニ依ル同業組合ニ加入セズ又ハ之ヲ 脱退スルコトヲ得トアル、(中略-筆者)随テ此法 律ガ出来タ為ニ、重要物産同業組合ト云フモノヽ組 合ノ人数ガ段々減ッテ行ク、之ニ加ハル者ガ無ク ナッテ行キハセヌカ」 との質問に対し吉野商工省工務局長は、 「工業ニ関スル限リハ工業組合が段々盛ニナレバ 同業組合ハソレダケ減ルデハナイカ、其礎ガ危クナ ルデハナイカト云フ御尋ニ対シテハ、其通リト申ス ヨリ外仕方ガナイノデアリマス」 と答弁している。同業組合と工業組合が併存する 結果、同業組合が衰退することもやむを得ないとし て、工業組合を優先する意思を明確に述べていた。  商業組合法案も実は、工業組合法案とともに 1931年の議会に提出される予定になっていたのだ が、商業組合法にも、同業組合からの脱退とそれ への非加入を容認する条文があったことから、同 業組合の連合体である実業組合連合会が大会を 開き反対の決議を行うなど、同業組合側からの猛 反対運動が起こった。そのため政府は、31年の議 会への商業組合法案提出を断念し、同業組合への 強制加入制度を残したままの法案を、翌32年の第 六十三議会へ提出して成立させた経緯があった。  こうして小売業者は準則組合・同業組合・商業 組合という3種類の統制組織を持つに至り、とりわ け商業組合は表3に示されるように、急速に拡大し ていった。  同業組合とは異なり商業組合の統制力が及ぶ範 囲は組合員のみだったが、それでもなお統制が徹 底しないケースも多々あったごとくである。商業組 合は業種別かつ地区別の組合であり、通常は、 卸・小売・卸小売・その他、の区別があった。した がって、業種ごとに中小商業者と大企業が混在して いたから、その意味で、統制の実効がどの程度あ がったかについては大いに疑問が残る。ただし、 本論が扱う百貨店については、例外的に全国を1 地区とする日本百貨店商業組合が組織されており、 中小小売商が目論んだ組合による百貨店規制は、 商業組合を以てしてもなお実現することができな かったことになる。  商業組合創設の目的のひとつである共同事業が どの程度展開したかを示す興味深いデータがある (松浦誠之、1936、pp.27-30)。1936年末に調査対 象となった1,037組合のうち、共同仕入(包装荷造 材料を含む)事業を計画していた組合は全体の 96.6%、資金貸付・預金受入75.2%、商品の共同保 管73.4%、共同運搬64.9%、共同の指導・研究・調 査59.6%、その他66.4%、という結果が残っている。 あくまで事業計画なので、どの程度実行に移され たのかは不明だが、商業組合の共同事業はそれな りに機能したと見てよいだろう。  商業組合のいまひとつの柱である統制事業はど うだったろうか。1936(昭和11)年末の東京府下商 業組合の統制事業を調査した結果によると、表4 にみられるように、商業組合では、商品価格に関す る統制および営業時間を中心とする営業方法の統 制が主体であり、それ以外では「その他」に分類さ れる従業員に関する統制も比較的多かった。大枠 では、価格統制を含めた営業統制を実施する組合 が圧倒的に多かったことになる。 3)中小小売商の経営難  第一次世界大戦を契機にわが国経済は未曾有 の好景気を経験したが、それは多分にバブル的で 底の浅い景気だったことから、ヨーロッパの戦後復 興が進むにつれて日本経済は苦境に立たされるこ とになった。周知のように、1920(大正9)年の株式 表4 東京府下商業組合の統制内容 卸 小売 卸小売 その他 合 計 検査 4 7 1 2 14 価格 14 39 5 11 69 規格 1 12 1 1 15 営業方法 9 17 4 8 38 その他 10 19 4 8 41 出展:東京市商工輸出組合協会編『東京都下の商業組合』    (1937年)  1) 表中の「価格」には販売と購入の双方が含まれる。 表5 個人消費支出の動向 (単位:百万円) 年   次 個人消費支出 % 国民総支出 1910(明治43) 2,967 75.5 3,925 15(大正4) 3,616 72.5 4,991 20(〃9) 11,326 71.3 15,896 25(〃14) 12,740 78.4 16,265 30(昭和5) 10,850 74.0 14,671 35(〃10) 12,668 69.2 18,298 40(〃15) 20,290 55.1 36,851 出展:大川一司他『長期経済統計1 国民所得』より。

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暴落をきっかけに戦後恐慌が発生し、この恐慌か ら抜け出せないまま関東大震災による大打撃を受 けることとなった。こうして日本経済は、長く暗いト ンネルに入ったまま、日中戦争・太平洋戦争へと突 き進んでいったのである。  当然のことながら、大正末期から昭和初年にか けてのこのような経済動向が、国内の消費を冷え 込ませ遂には商業の不振、したがって中小の小売 商を苦境に立たせたことは、想像に難くない。だが、 小売商の経営不振を端的に示す数値データは意 外に少ないため、ここでは、以下の二つの指標に よってこの時期の小売商の経営難を確認しておき たい。  表5は、1910(明治43)年~1940(昭和15)年の わが国国民総支出額と個人消費支出額を示してい る。第一次世界大戦期に国民総支出・個人消費支 出ともに飛躍的な伸びをみせた後、関東大震災 (1923年)あたりを境にともに停滞ないしは減少に 転じていることがわかろう。このような全体額に よってもある程度は、小売商の経営が困難を極め たであろうことは容易に推察されるが、これを、国 民総支出に占める個人消費支出の割合によってみ ると、事態は一層明瞭になる。すなわち、個人消費 支出は1925年の78.4%をピークに減少に向かい、 1940年には55.1%にまで落ち込み、個人消費の減 退は目を覆うばかりである。小売商が経営的に成 り立たない状況に入ったことは疑いようがない。  さらに、個人消費の内訳を表6によって確認すれ ば、一般的な小売業の販売品目として大きな比重 を占める食料費と被服費のうち、最大の割合を持 つ食料費は、関東大震災以降に著しくその比重を 低めていることが判明する。食料費ほどではない が、被服費もまた漸減傾向にあり、食料や衣料と いった日常品の消費が抑えられていった様子が明 確に表れている。この側面でも、中小小売商の経 営難は到底否定し難い。  以上のような全般的な経済環境の悪化、具体的 には一般的な消費の冷え込みによって深刻な経営 不振に陥った中小小売商にさらに拍車をかけたの が、跡を絶たぬ小売業への新規参入だった。1928 (昭和3)年4月26日付の『東京朝日新聞』の論説 は以下のように述べている。  「東京市の調査によると、市中小売商人は六世 帯につき一軒といふ過多の比率に上つてをり、(中 略)全国において約二十世帯に付一軒といふ。(中 略)その営業の困難なるは、同業者の数が余りに も多過ぎることである(後略)」  また、1929年の東京市役所「中小商工業者問題 に就いて」と題する一文は、 「東京市には四軒に一軒の割合で小売りがあって、 表6 個人消費支出の内訳 (単位:百万円) 年   次 食 料 費 被 服 費 住 居 費 光 熱 費 雑 費 合  計 1910(明治43) 2,060(61.3) 311(9.3) 326 118 544 3,359 15(大正4) 2,268(59.9) 348(9.2) 377 159 632 3,784 20(〃9) 7,299(61.7) 1,473(12.5) 754 543 1,748 11,817 25(〃14) 7,843(59.0) 1,353(10.2) 1,422 502 2,156 13,276 30(昭和5) 6,057(53.5) 1,101(9.7) 1,549 494 2,124 11,325 35(〃10) 6,575(50.3) 1,671(12.8) 1,534 559 2,742 13,081 40(〃15) 9,955(48.9) 2,247(11.0) 2,656 916 4,584 20,357  出展: 篠原三代平『長期経済統計6 個人消費支出』より。   1) 食料費・被服費の(  )内は合計に対する割合。 表7 小売商の廃業動向 (東京府5郡の54町村) 年   次 廃業数 廃業率 1926(昭和 1) 5,831 14.0% 27( 〃 2) 7,767 15.2% 28( 〃 3) 8,361 14.0% 29( 〃 4) 8,867 13.4% 30( 〃 5) 10,378 14.1%  出展:『東京府下五郡における小商業者の現在並其開業状態に関する調査(1931 年)による。   1) 小売業と卸売業の区別はない。   2) 廃業率は現在数に対する割合。   3) 原史料は東京府学務部社会課の調査結果。

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これがどんなに労苦し奮闘したとしても、現在のま までは共喰いのあさましい無惨な結果を招致する 外たどる可き道のない事は実に明白な事である故、 小売りを救うには小売り自身の大同団結に依って 且つ小売りの精選に依って、救うより外に道はな い」 と、より厳しい認識を示していた。  さらに、1931年の東洋経済新報社『日本経済年 報』第六号は、  「小売商そのものの本質が技術と大資本を必要 とせず、極めて手軽に営まれる結果、幾許かの資 金を有する失業者(之にはかつての俸給生活者、 熟練工等を含む)及び事業の破綻、縮少を余儀な くされた人達等の最後の安住の地をこヽに得んと する」 と述べ、比較的小資本で手っ取り早く開業できる 小売業が不況期による失業者の受け皿になってい ることを指摘していた。1930年の国勢調査の結果 によれば、店舗を構える一般的な小売商に加え、 実際には、32万人の露天商・行商人・呼売商人が 確認されている。さらには、1920年~1930年の10年 間の労働人口推移をみると、この時期に60歳以上 の男子労働人口が商業においてのみ増加しており、 これは老齢労働力の引退が増加して商業へ流れ 込んだことが反映しているという(鈴木安昭、1980、 p.67)。  その結果として、昭和初年には小売商の廃業数 が急速に増加していった。東京府下の5郡(東京市 に隣接する荏原郡・南豊島郡・北豊島郡・南足立 郡・南葛飾郡で、間もなく東京市と合併することに なる地域)について東京府学務部社会課が調査し た小売商の動向から、廃業に関する部分を抜粋し たのが表7である。  この地区の小売商廃業数は1926年の5,831件か ら急速に増加し、4年後の1930年には1万件を超え るまでに悪化している。いわゆる共倒れであった。 ただし注意を要するのは、この数年間が、東京で の郊外化が進展したためこの地域が極めて急速な 人口増加を記録した時期にあたっていることであ る。したがって小売商の現在数も急速に増加して いたから、現在数に対する廃業数を割り出した廃 業率にはあまり変化がない。しかし、その事情を勘 案してもなお、表に示された廃業の絶対数は当時 の小売商の苦境を示して余りある。小売商問題が 重大な社会問題にならざるを得ない一端を示して いよう。  やはり当時の東京の現地調査を記録した史料に は、 「百貨店の進出前後から今日まで閉業せし呉服店 は日本橋より新橋間に約十五軒、日本橋より神田萬 世橋の間に約八軒あり、之等はいずれも普通の呉 服太物一般の店であったと。現在上野から品川迄 九粁の間に僅かに十七軒しかないことを思えば、萬 世橋から新橋の間に閉業せしものが二十三軒ある ことは顕著な減少と言わなければならぬ。(中略) 百貨店進出の犠牲であると言う」(鈴木安昭、1980、 p.257) との結果が掲載されている9)。小売商数の過多とと もに、東京の中心部では、百貨店の影響で多くの 呉服店が廃業に追い込まれていたことを語ってい る。 4)不況期の百貨店  前述のごとく、大正末期から昭和初年にかけて の不況期に、事実上の百貨店となっていた主要呉 服店は名称から呉服店を除き、名実ともに百貨店 としての営業を活発化させていた。しかも、この不 況期に新規参入の百貨店が相次いだことも既に示 したとおりである。百貨店の数は(百貨店商業組合 加盟百貨店と未加盟の有資格百貨店)、1913(大 正2)年に8店だったものが1920年には15店、さらに 26年に22店、31年には35店との調査結果となって いる(向井鹿松、1938、pp.138-139)。  第一次大戦後のほぼ10年間、各百貨店は様々な 営業手法を駆使することで、実は、好調な営業成 績をあげていた。本論の主旨との関連で言えばここ では、昭和恐慌期にあっても各百貨店はそれほど 業績を低下させなかった事実に注目しておく必要 があろう。三越の1930(昭和5)年度上期営業報告 書には、「一意奮励只管時勢に適応せる施設を怠ら ざりし結果、甚しき不成績に陥らざりしは切めても の幸なり」との記述がみられる(松田慎三、1939、 pp.156-157)。高島屋でも、「当期間の売上は前年 を凌駕するの好結果を収めたり」(1929年度上期)、 「売上高においてはここ数期に比して遜色なきを 得たり」(1930年度下期)など、不況の影響を受け ながらもそれなりに満足できる営業を続けていた ことが見てとれる(『高島屋百三十五年史』、1968、 9)  本論では鈴木安昭(1980)から引用したが、その原典は向井鹿松(1941)である。

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p.110)。1929~31(昭和4~6)年の払込資本金に 対する平均利益率で見ても、松屋24%、三越20%、 高島屋13.5%、大丸13%、最も低い白木屋でも9%と なっており、それなりの営業状態を保っていたこと がわかる(『会社かゞみ』昭和七年版、pp.343 -349)。  このような事情もあり、中小小売商は苦境の原因 の一端を百貨店に求め、激しい反百貨店運動を巻 き起こすことになるのである。その際、中小小売商 側が停止や実現を要求し、また社会的にも取り上げ られた個別の百貨店問題とは、具体的には、同業 組合加盟問題・出張販売問題・不当廉売問題・商 品券問題であった。  このうち、同業組合への加盟問題・出張販売問 題・商品券問題を除き、不当廉売問題とは、単に商 品を安価に販売するのではなく不正品の廉売、例 えば店ざらし品や傷物あるいは舶来品模造品や代 用品を安価に販売することを指す。極端な場合、百 貨店は一般小売商の仕入価格よりも安い価格で商 品を販売することもあり、それもまた不当廉売とし て非難されていた。この点について『中外商業新 報』(1930年8月13日)は、 「普通なら一円五、六十銭で売る品をそのデパー トでは八十銭で売ろうとし、(中略)売場に出して 見た、(中略)デパート自身でも不思議に思ふほど の売れ行きだったが、(中略)同業の小売店が買ひ 占めていったことが判明した。つまり小売店とする と、問屋から買へば到底八十銭では手に入らな い」 という、笑うに笑えないケースを伝えている。

Ⅳ.百貨店規制法の立法過程

1.商品券の規制 1)東京商工会議所の商品券規制建議  金融恐慌後の混乱が続くなか、同業組合に取り 込むことで百貨店の営業を規制しようとした中小 小売商の運動は、法律の厳格な適用を渋る商工当 局の判断によって挫折したが、その翌年1929(昭 和4)年に早くも中小小売商団体は、百貨店の不当 廉売問題と商品券問題を取りあげてその規制を商 工省に要請した。ここでは、規制するための法律が 制定される事態となった、商品券問題を中心に検 討を加える。  1929年5月、東京呉服太物商同業組合が百貨店 の不当廉売と商品券濫発への反対を決議し、当局 への働きかけを東京商工会議所に要請した10)。東 京商工会議所はすぐさま商業部会でこの問題を取 りあげた。その結果、不当廉売については、その基 準を明確に定めることが困難であるとの理由から、 審議を商品券問題に絞ることとした。ところが、一 旦は商業部会が、小売商救済策の一環として共通 商品券の発行許可を当局に建議することを決定し たにもかかわらず、役員会での議論は二転三転し、 遂には百貨店の商品券発行を禁止することが最も 有効だとの意見にまとまりつつあった。連合委員会 での審議事項となったこの問題に対し小売商側は、 百貨店の商品券が中小小売商の顧客を奪っている こと、担保制度のない商品券発行が百貨店倒産の 際に消費者に大きな損害を与えること、および多額 に上る商品券の発行はあたかも貨幣と同様の存在 となり、貨幣類似取締法に抵触するのではないか、 との主張を繰り広げた。  一方、百貨店側の主張は、商品券はわが国の贈 答習慣に根ざしており、国民生活にも浸透している。 いまさら商品券発行を禁止することは時代に逆行 する、百貨店の商品券発行に制限がないことが危 険だというならば、発行額に応じて一定の担保を導 入することを考慮してもよい、というものだった。最 終的に東京商工会議所は、条件付きの商品券発行 禁止(発行禁止が困難な場合は、発行の取締規定 を設ける)という極めて曖昧な建議を商工大臣に 提出することとなったのである。以下が建議の抜 粋である。  「抑々百貨店の商品券は単一の商品の預り券と 異り、流通上共通商品券以上に紙幣類似の実質を 備ふるものなるに拘らず、政府はこれに対し発行流 通に関して何ら制限若しくは安全保障をもなさず、 ひとり共通商品券の発行を禁止するが如きは、百貨 店の勢力に圧倒されつゝある小売商に対し、政府 は更に制肘を加ふるものである。(中略)万一政府 が商品券発行の禁止を困難とする場合においては、 少くとも一般に商品券発行に関する取締規定を設 けて、商品券の発行を認むる場合、商品券の額面、 発行限度、発行に対する保護方法等に関する厳重 なる制限をなすことを至当とする」(『商工政策史』 第七巻、pp.169-170) 10)  特に断らない限り、東京商工会議所および日本商工会議所による建議等については、『商工月報』(東京商工会議 所)・『経済月報』(日本商工会議所)の各号による。脚注の煩雑さを避けるため、個々の詳細な出典は省いた。

参照

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