『続夷堅志』訳稿(一)
著者
高津 孝
雑誌名
鹿大史学
巻
64・65
ページ
23-37
発行年
2018-03-01
URL
http://hdl.handle.net/10232/00030063
『続夷堅志』訳稿(一)
高津 孝 本 稿 は、 金・ 元 好 問『 続 夷 堅 志 』 の 訳 稿 で あ る。 本 文 は、 『 續 夷 堅 志 湖 海 新 聞 夷 堅 續 志 』( 古 體 小 説 叢 刊、 中 華 書 局、 一九八六年。二〇〇六年第二版)に収録された常振國点校テキ ストによる。元代の跋文六篇の訳を最初に置き、その後、本文 の訳を置く。また、人名、地名の同定には、李正民『續夷堅志 評 注 』( 山 西 古 籍 出 版 社、 一 九 九 九 年 ) を 参 考 と し た。 本 書 は、 『 続 夷 堅 志 』 中 の 記 事 を 異 人 異 事 類、 史 料 類、 生 理 医 薬 類、 文 物類、動植物類、自然現象類の六種に分類し、評注を加えたも のである。 『 續 夷 堅 志 』 の テ キ ス ト の 伝 来 は か な り 複 雑 で あ る。 以 下、 常 振 國 の 点 校 説 明 に 従 っ て 記 述 す る。 『 續 夷 堅 志 』 は、 元 好 問 によって執筆されたのち、モンゴル時代に北方で出版された。 記 事 に 記 さ れ た 最 も 遅 い 年 号 は「 辛 亥( 一 二 五 一 ) 冬 」( 巻 三 「抱陽二龍」 )であるので、元・憲宗・元年(一二五一)以降の 出版である。元・寧宗・至順三年(一三三二)に呉中の王東が 刊本を入手し書写した。それに宋无、石巌が跋文を加えた。宋 无 跋 文 に は「 四 巻 」、 王 東 跋 文 に は「 四 冊 」 と あ る の で、 当 時 の 刊 本 は 四 巻 本 で あ っ た ら し い。 元・ 順 帝・ 至 正 八 年 (一三四八)に、 『金史』が出版され、王東は『金史』の元好問 伝を「本伝」として書写本に付け加えた。その後、王東抄本は、 夏侯芥甫の所有となり、至正二三年(一三六三)に華亭の孫道 明がそれを借用して書写し二巻に改めた。宋无跋文には元好問 自序が存在したことを述べるが逸した。現存するテキストには、 杭郡の余集が読易楼所蔵の二巻本を入手し、改めて四巻本に編 纂 し 直 し た 大 梁 書 院 本( 嘉 慶 十 三 年( 一 八 〇 八 ) 刊 )、 大 梁 書 院 本 に 基 づ い て 校 正 を 加 え た『 得 月 簃 叢 書 』 本( 道 光 十 年 ( 一 八 三 〇 ) 刊 ) と 中 国 国 家 図 書 館 所 蔵 の 清 抄 本 二 巻 本 が あ る。 中 華 書 局 本 は、 『 得 月 簃 叢 書 』 本 に 基 づ き、 大 梁 書 院 本、 中 国 国家図書館所蔵清抄本を用いて校正が行われている。大梁書院 本 は、 『 續 修 四 庫 全 書 』 第 一 千 二 百 六 十 六 册 に 影 印 収 録 さ れ、 中 国 国 家 図 書 館 所 蔵 清 抄 本 は、 『 四 庫 全 書 存 目 叢 書 』 子 部 第 二四六冊に影印収録され、利用しやすくなっている。 なお、本稿は、平成二十九年より始まった、九州、広島地区 の宋代史研究者の集まりである宋代文献研究会での会読に提供 し、貴重な意見を受けた結果である。参加者各位に感謝する。 金・元好問『続夷堅志』 王東跋 予が鈔する北地棗本『續夷堅志』四冊は、實に遺山先生の撰 する所なり。至正戊子に、武林に新たに『金史』を刻し、獲る に因りて一觀す。謹みて此の『傳』を謄し、書する所の後に附 すと云ふ。是の年の花朝の日、吳下の王東起善識す。王東の跋 私が書写した北地の刊本『續夷堅志』四冊は、まさしく元好 問、遺山先生の著作である。元の至正八年(一三四八)に、武 林で新たに『金史』が出版されたが、私はそれを入手して一覧 した。謹んでその中の元好問の伝記をここに書き写し、書写し た『續夷堅志』の後に付け加えた。至正八年(一三四八)二月 十五日、吳下の王東、字起善が記す。 宋 无 跋 遺山、中原の人なり。 使 も し宋の熙、豐の間に生じたれば、蘇、 黃諸人と時を同じくし、當に大いに聲有るべし。不幸にして完 顏の國を 有 たも つの日に出づ。偏方なるも文を以て戎事を飾り、科 舉を用ゐて人を選ぶと雖も、惜しいかな、又た貞祐の前後に在 りて、其の牋牒の文柄を掌するを得ず、故に閒居著述す。其の 文と詩詞とを觀るに、宏肆軼宕たり。其の國人を傳ふる所に及 んでは『中州集』と號し、人ごとに各おの傳有り、其の顛に其 の行業仕隱を敘し、詩は則ち一聯も遺さず。宋の士夫の其の國 を淪陷せし 者 こと 、概ね末に見ゆ。文に史法有りて、其の好義樂善 の心は、蓋し廣し矣。續くる所の『夷堅志』は、豈に但だに洪 景盧を過ぎるのみならんや、其の自序に見るべき也。惡善懲勸、 纖細に必ず錄し、以て風俗を知り人心を見るべきにして、豈に 南北の間有る哉。北方の書籍は、率ね金の刻する所なるも、江 南 に 至 る は 罕 まれ な り。 友 人 王 起 善 之 を 見 て、 亟 すみや か に 鈔 し て 帙 を 成せば、其の學は富み筆は勤たること又た知るべし矣。持して 以て予に示すに、時日は將に夕ならんとし、讀みて丙夜に至り、 四卷を盡くす。深く予が心に 啟 する有り。病を以て鈔すること 能はず、姑く卷末に識して之を歸す。壬申の歲の除、商邱宋无 子虛 沙頭に白漚の眠る處に書す。 宋 无 の跋 遺山(元好問、一一九〇─一二五七)は、中原の人である。 も し 彼 が 北 宋 の 熙 寧( 一 〇 六 八 ─ 七 七 )、 元 豐( 一 〇 七 八 ─ 八 五 ) 年 間 に 生 ま れ て い た ら、 蘇 軾( 一 〇 三 七 ─ 一 一 〇 一 )、 黃庭堅(一〇四五─一一〇五)らと同時代になり、きっと名声 を得ていただろう。不幸にして完顏氏の王朝である金朝に彼は 生まれた。金朝は地方政権であるが軍事を文飾し、科舉を用い て 人 材 を 登 用 し た が、 惜 し い こ と に、 元 好 問 は 貞 祐 年 間 (一二一三─一七) [モンゴルの侵攻を受け、中都が陥落、王朝 が衰亡へと向かう時期]の前後の危機的状況の時代に遭遇し、 王朝に仕えて宮廷文書を統括する機会を得ず、そのため、人を 避けて独居し著述に励んだ。元好問の文章、詩詞を拝見すると、 気宇壮大で変化に富む。金朝の人の伝記を作成することでは、 『 中 州 集 』 と 名 付 け、 人 ご と に 伝 記 を 作 成 し、 最 初 に そ の 人 物 の徳業、業績、出仕と引退を述べ、詩については一聯も余すと ころなく引用した。南宋の士大夫が金朝を陥れたことは、おお よ そ、 『 中 州 集 』 の 巻 末 に 見 え て い る。 文 章 に は 歴 史 家 の 規 範 が存在しており、元好問の、義を好み、善を楽しむ心は、なん と 広 い こ と か。 『 夷 堅 志 』 続 編 は、 た だ 単 に 洪 邁『 夷 堅 志 』 を 超えているだけではないことは、その自序によくあらわれてい る。惡を懲しめ善を勸める観点が、細やかに記録されており、
人々の風俗を知ることで、人々の心が分かるというものであり、 どうして中国の南北の間に差があろうか。北方の書籍は、おお むね金朝で出版したものであり、江南にもたらされるものは極 めて稀である。友人の王東は『続夷堅志』を見て、すぐに書写 して製本して帙に入れたことから、彼が博学で筆まめであるこ と が 分 か る。 『 続 夷 堅 志 』 写 本 を 私 の と こ ろ に 持 っ て き て 見 せ てくれたので、夕方になろうとする時刻から読み始め、夜中ま でかかって四卷を読み終え、啓発される点が多かった。病気の ため、書写することができず、とりあえず卷末に跋文を識して 返却した。壬申(元・至順三年、一三三二年)の歲の十二月、 商邱宋无子虛 中洲の砂浜で白い鷗が眠るところで書き記す。 吳道輔跋 中 州 曾 て 歷 覽 す る に、 底 い づ こ 處 に か 孤 墳 1 を 覓 め ん。 勛 業 元 よ り 我無し、文章もて數君を正す。淵源は『史』 、『漢』に由り、警 策は機、雲に出づ。予も亦た奇を尚ぶ者にして、何の期にか見 聞を廣めん。吳道輔、景文。 吳道輔の跋 『 中 州 集 』 を 以 前 全 部 読 ん だ こ と が あ る が、 一 体 ど こ に 祭 祀 の対象となっていない墳墓があるのか(優れた功績を挙げた人 物は後世から必ず評価され、厚い祭祀の対象となっているよう 1 孤 墳: 孤 独 な 或 い は 祭 祀 を 行 う 人 の い な い 墳 墓。 唐 · 劉 長 卿 『 過 裴 舍 人 故 居 』 詩「 慘 慘 天 寒 獨 掩 扃、 紛 紛 黃 葉 滿 空 庭、 孤 墳 何 處 依山木、百口無家學水萍。 」 に、金代の優れた人物はすべて『中州集』に取り上げられてい る )。 元 好 問 の 功 績 は 元 来、 自 分 の た め で は な く、 文 学 の 力 で 数 名 の 君 主 に 諫 言 を 呈 し た。 彼 の 文 学 の 淵 源 は『 史 記 』、 『 漢 書』によるもので、文学的警句は西晋の陸機、陸雲兄弟に出る ものである。わたくしも奇異な事を尊ぶもので、何の日か見聞 を広め、元好問に続きたい。吳道輔、景文。 呰窳叟跋 子 思 子 云 ふ、 「 國 家 將 に 興 ら ん と す る や、 必 ず 禎 祥 有 り。 國 家將に亡びんとするや、必ず妖 孽 有り」 2 と。洪景盧『夷堅志』 は政、宣の事多く、元好問『續志』は、泰和、貞祐の事多し。 其の平世に 視 くら べ間有る耳。 呰 窳叟。 呰窳叟の跋 子思子は「國家が勃興しようとするときは、必ず瑞祥があり。 國家が滅びようとする時は、必ず不吉な前兆がある」と言って い る。 洪 邁『 夷 堅 志 』 に は 北 宋 末 の 政 和( 一 一 一 一 ─ 一 八 )、 宣 和( 一 一 一 九 ─ 二 五 ) 年 間 の 記 事 が 多 く、 元 好 問『 續 夷 堅 志 』 に は、 金 朝 の 泰 和( 一 二 〇 一 ─ 〇 八 )、 貞 祐( 一 二 一 三 ─ 一七)年間の記事が多い。それらの時代は太平の世に比べて違 いがあるのである。 呰 窳叟。 2 『禮記』中庸「國家將興,必有禎祥,國家將亡,必有妖 孽」 。
石巖跋 吳 中 3 の 王 起 善 は 博 學 に し て 且 つ 勤 な り、 人 に 异 書 有 れ ば、 必 ず 手 づ か ら 之 を 抄 す。 此 れ 其 の 一 也。 按 ず る に、 『 續 夷 堅 志 』 は 乃 ち 遺 山 先 生 中 原 陸 沈 の 時 に 當 り て、 皆 な 耳 聞 目 見 す るの事にして、洪景盧の演史寓言の若きに非ざる也。其の勸善 戒惡は、補ふ無しとは為さず。吾れ知る、起善の推廣の心は、 即ち遺山の心也と。至順三年、朱方 4 の石巖民瞻氏識す。 石巖の跋 吳の王東、字起善は博学で勤勉であり、人が変わった書物を 持っていると、必ず自ら書き写した。本書はその一つである。 思うに『続夷堅志』は、遺山先生(元好問)が金朝滅亡の時に 当たって、皆な実際に見聞きしたことで、洪邁『夷堅志』のよ うな講談やたとえ話ではない。その勧善懲悪は、良くないわけ ではない。王東のそれを広めようとする心は、遺山(元好問) の 心 で あ る と 私 は 知 っ て い る。 至 順 三 年( 一 三 三 二 )、 朱 方 の 石巖民瞻氏識す。 孫道明跋 遺山先生『續夷堅志』二卷は、乃ち吳中の王起善の鈔本にし て、今、芥甫夏侯に歸す。至正二十三年癸卯歲閏三月十七日丁 亥借錄し、四月七日丙午に至りて、泗北村居映雪齋に錄し畢ん ぬ。華亭在家道人孫道明明叔、時に年六十有七也。 孫道明の跋 遺 山 先 生( 元 好 問 )『 續 夷 堅 志 』 二 卷 は、 吳 の 王 東、 字 起 善 の鈔本で、今、夏侯芥甫の所有物になっている。至正二十三年 ( 一 三 六 三 ) 癸 卯 歲 閏 三 月 十 七 日 丁 亥 に 借 り て 書 写 を 行 い、 四 月七日丙午になって、泗北村居映雪齋において書写し終わった。 華亭の在家道人孫道明明叔、時に年六十七である。 巻一 1. 1 鎮庫の寶 趙 王 の 鎔 5 、 丹 を 煉 し て 成 る も、 餌 す る に 及 ば ず し て、 之 を 鎮 州 6 の 庫 藏 中 に 藏 す る 者 こと 三 百 年 に 餘 る。 貞 祐 7 の 初 め、 真 定 8 元 帥 三 喜 城 を 棄 て、 之 を 取 り て 以 て 行 く。 行 き て 平 陽 9 に 及 び、 胥 莘 公 10 の 劾 す る 所 と 為 り、 之 を 收 む。 丹 は 汴 京 に 入 り、 豐 衍 5 趙 王 の 鎔: 王 鎔( 八 七 四 ─ 九 二 一 )、 唐 末 五 代 の 成 德 節 度 使。 朱温が後梁を建国、王鎔を趙王に封じた。 6 鎮州:今の河北正定。 7 貞祐:一二一三─一七、金宣宗の年号。 8 真定:今河北正定。 9 平陽:今の山西省臨汾市。 10 胥 莘 公: 胥 鼎(? ─ 一 二 二 四 ) 金 朝 の 大 臣。 字 和 之。 大 定 年 間 の 末 に、 進 士 及 第、 至 寧 元 年( 一 二 一 三 ) に、 戶 部 尚 書 か ら 参 知 政 事 と な る。 宣 宗 が 即 位 し、 モ ン ゴ ル 兵 が 中 都 を 包 囲 し た 時、 知 大 興 府 事 兼 中 都 路 兵 馬 都 總 管 と な っ た。 莘 国 公 を 授 け ら れ、 興 定 四 年 (一二二〇)に致仕した。 3 吳中:今の江蘇 · 蘇州一帯を指す。また、広く呉の地方を指す。 4 朱 方: 春 秋 時 代、 呉 の 地 名 で あ る。 治 所 は 今 の 江 蘇 省 丹 徒 県 東 南。
庫 11 に下し收め、名色は之を「鎮庫寶」と謂ふ。京城の變 12 の後、 予 は 戶 部 主 事 劉 彥 卿 13 と 同 とも に 往 き て 之 を 觀 る。 丹 は 漆 櫃 を 以 て 盛 り、 旁 に「 廣 成 子 14 問 道 像 」 を 畫 く。 中 に 復 た 漆 合 有 り、 高 さ 五 寸、 闊 ひろさ 三 寸。 合 の 蓋 上 に 九 環 を 作 り、 外 は 八 中 は 一 に し て、 金 を 以 て 之 に 塗 り、 各 お の 流[ 去 聲 ] 道 15 の 相 貫 く 有 り。 環 中 に 小 孔 を 作 る は、 予 意 へ ら く 其 れ 九 轉 16 為 る 也。 合 中 復 た 銀合有りて丹を盛る。合の蓋上に鏤佛一、左龍右鳳、佛座の下 に在り。亦た皆な金もて塗る。開きて視れば、丹の體は殊に輕 く、 合 中 に 周 匝 し、 色 は 棗 皮 漆 の 如 く、 而 し て 裂 璺 17 縱 橫 に し て、 絕 へて今世の丹砂と相似ず。予意として頗る之を輕んじ、 庫を主る者に問ふ、 「此れ何の異有らん」と、曰く、 「他無し、 但だ陰晦中に恒に光怪を出し、火の起りて 然 も ゆるが如き耳」と。 壬辰年 18 に親しく見る。 鎮州庫蔵の宝物 後梁王朝で、趙王に封ぜられた王鎔は、仙人になるための丹 薬を精製したが、自ら服することはなく、結局、丹薬は鎮州の 庫 蔵 中 に 保 管 さ れ る こ と 三 百 余 年 に も な っ た。 貞 祐 年 間 ( 一 二 一 三 ─ 一 七 ) の 初 め、 真 定 元 帥 の 三 喜 が モ ン ゴ ル 軍 の 猛 攻で真定府(鎮州)城を放棄した時、丹薬を取りだして持って 行 っ た。 彼 が 平 陽 に 行 き 着 く と、 [ 知 大 興 府 事 兼 中 都 路 兵 馬 都 総 管 に 任 ぜ ら れ た ] 胥 鼎 に 弾 劾 さ れ て、 丹 薬 は 没 収 さ れ た。 [ 貞 祐 二 年、 三 月 モ ン ゴ ル 軍 に 中 都 を 包 囲 さ れ た 金・ 宣 宗 は 和 睦 を 選 び、 五 月 南 京( 開 封 府 ) に 遷 都 し た ]。 丹 薬 は 開 封 府 に 入 り、 豊 衍 庫 に 收 め ら れ、 名 前 を「 鎮 庫 宝 」 と 言 っ た。 京 城 の 変( 天 興 元 年、 一 二 三 二 ) の 後、 わ た し は 戶 部 主 事 劉 彥 卿 とともに豊衍庫に行って丹薬を見た。丹薬は漆の櫃に入れられ、 箱の横には「広成子問道像」が描かれていた。中にまた漆の香 合があり、高さ五寸、ひろさ三寸で、香合の蓋の上に九つの環 がついており、外に八つ、中に一つで、金で塗られており、そ れぞれ流[去聲]道で貫かれれていた。環の中に小さい孔が作 られているのは、おそらく九轉を意味するのであろう。漆の香 合の中にはまた銀の香合があって丹薬が収められていた。香合 の蓋の上には鏤佛が一体、佛座の下には左に龍、右に鳳がいる。 同様に金で塗られていた。開いてみると、丹薬の本体は大変軽 く、香合の中にとぐろを巻くように収まっており、色は棗皮色 の漆のようで、ひびが縱橫に入っており、全く今の世の丹砂と 似ていない。わたしは気持ちとして、この丹薬を軽んじ、倉庫 の 管 理 人 に、 「 普 通 の 丹 薬 と ど こ が 違 う の か 」 と 質 問 し た と こ 11 豐 衍 庫: 『 金 史 』 卷 五 十 六・ 百 官 二 に「 南 京 豐 衍 東 西 庫 」。 南 京 開封府は、 汴 京である。 12 金・ 哀 宗・ 天 興 元 年( 一 二 三 二 ) 壬 辰 は、 三 月 に モ ン ゴ ル 軍 が 汴 京 を 包 囲、 和 議 を 結 ぶ。 五 月 疫 病 が 発 生、 九 十 余 万 人 の 軍 人 が 死 亡。 七 月 モ ン ゴ ル の 使 者 を 殺 し、 和 議 決 裂。 閏 九 月 食 糧 不 足、 汴 京 城内では人肉食も現れる。十二月金・哀宗は 汴 京を放棄。 13 未詳。 14 『 莊 子 』 在 宥 篇 に、 黄 帝 と 古 の 仙 人 で あ る 広 成 子 と の 問 答 が あ る。 15 未詳。 『広韻』 、『集韻』 、遼・行均『龍龕手鑑』 (元和古活字本) には、 「流」字に去声無し。 16 晋 · 葛洪『抱朴子』金丹「九轉之丹服之、三日得仙」 。 17 裂 璺 :器物のひび割れ模様。 18 金・ 哀 宗・ 天 興 元 年( 一 二 三 二 )、 四 三 歳。 元 好 問 は、 汴 京 で 左司都事。
ろ、 「 他 で も な い、 た だ 暗 闇 で 常 に 怪 し い 光 を 発 し、 燃 え て い るようであるだけだ」と答えた。天興元年(一二三二年)に自 ら実見した。 1. 2 金獅猛し 正大初、張聖 俞 19 舞陽縣 20 北街に客たり。一日、家婢一弓手家 從 よ り一牛腰腎を買得たり。刀を以て之を割くに、刀入ること能 は ず。 剝 き て 之 を 視 る に、 一 石 を 得、 獅 形 を 作 な す、 色 は 泥 金 21 の塗る所の如く、前の一蹄は屈して內に向ひ、一蹄は之を枕に し て 睡 る。 夜 夜 光 有 り。 高 さ 二 寸 餘 り。 殆 ん ど 異 氣 の 化 す る 所 を 秉 る な り。 聖 俞 の 嫂 吳 之 を 收 む。 今 の 存 否 を 知 ら ざ る 也。 聖 俞 說けり。 金獅の猛しさ 正大年間(一二二四─三一)の初め、張聖 俞 は舞陽県の北街 に滞在していた。ある日、家の小間使いが弓の使い手の家から 一切れの牛の腰肉を買った。刀で割こうとするが、刀が入らな い。剝いてみたところ、一個の石が得られた。形は獅子で、泥 金を塗ったような色をしており、前脚の一本は内側に曲がり、 もう一本を枕にして睡っている。毎晩光を放った。高さ二寸餘 りで、おそらく異様な気の変化したものを取り集めたものであ ろう。聖 俞 の兄嫁の吳氏が手に入れたが、今のその存否を知ら ない。張聖 俞 が述べた。 1. 3 康李の夢應ず 康伯祿 22 、李欽叔 23 、壬辰 24 冬十二月 河中 25 を行部 26 す。城の未 だ破れざるに先んじ、一日、康と欽叔とは其の神に求夢す。伯 祿は夢みるに、城隍破れ、船を爭ひて水中に落ち、一錦衣の美 婦の之を援けて去るところと為る。美婦援け出すに、滿眼皆桃 花なり。欽叔夢みるに、人 桃符 27 二を與ふるに、上に『宜しく 新年に入りて』 『長命富貴なるべし』と寫す。明日城陷ち、伯 祿は、船を爭ふに上るを得ず、落水して死す。李は船を得て、 19 張 聖 俞 : 張 謙 徳、 字 聖 俞 、 号 新 軒。 東 平( 山 東 省 ) の 人。 中 台 椽となり、文章家として有名であった。 20 舞陽:今の河南省舞陽県。 21 金箔とニカワから作られた金色の顔料。 22 康 伯 祿: 康 錫、 字 伯 祿、 趙 州( 河 北 省 ) の 人。 河 中 路 治 中 と な り、 河 中 府 が 陥 落 す る と、 将 兵 を 率 い て 南 に 逃 れ、 黄 河 を 船 で 渡 る 時に、船が壊れて水死した。 『金史』巻一一一。 23 李 欽 叔: 李 献 能、 河 中 の 人、 貞 祐 三 年( 一 二 一 五 ) の 進 士。 鎮 南 軍 節 度 副 使 と し て 河 中 に 赴 任 し、 河 中 府 が 陥 落 す る と、 陝 州 に 逃 れた。 『金史』巻一二六。 24 金・ 哀 宗・ 開 興 元 年( 一 二 三 二 ) が 四 月 十 九 日 に 天 興 と 改 元 さ れ た。 三 月 に モ ン ゴ ル 軍 が 汴 京 を 包 囲、 和 議 を 結 ぶ。 五 月 疫 病 が 発 生、 九 〇 余 万 人 の 軍 人 が 死 亡。 七 月 モ ン ゴ ル の 使 者 を 殺 し、 和 議 決 裂。 閏 九 月 食 糧 不 足、 汴 京 城 内 で は 人 肉 食 も 現 れ る。 一 二 月 金・ 哀 宗は 汴 京を放棄。 25 今の山西省永済県蒲州鎮。 26 行部:所属する地域を巡視し、地方官の成績の審査を行うこと。 27 桃 符: 五 代 の 時 に 桃 の 板 の 上 に 聯 語 を 書 い た も の、 後 に 紙 に 書 くようになり、春聯と呼ばれた。
陜縣 28 に 走 に ぐ。三四日にして歲を改む。陜令楊正卿 29 人をして桃 符を送らしむるに、書く所は、夢中に云ふ所の如し。正卿說け り。 康伯祿、李欽叔の夢の実現 康 伯 祿、 李 欽 叔 は、 金・ 哀 宗・ 天 興 元 年( 一 二 三 二 ) の 冬 十 二 月 に 河 中 府 を 巡 視 し て い た。 [ ち ょ う ど、 そ の 時、 モ ン ゴ ル 軍 が 河 中 府 を 包 囲 し た ]。 河 中 府 が 陥 落 す る 前、 あ る 日、 康 伯祿と李欽叔とは河中府の神さまに夢のお告げを求めた。康伯 祿 は 次 の よ う な 夢 を 見 た。 河 中 府 の 城 壁 は 突 破 さ れ、 誰 も が 争って船に乗ろうとして水中に落ちた。一人の錦の衣をまとっ た美しい婦人が康伯祿を助けて去っていった。美しい婦人が康 伯祿を助け出す時、康伯祿にはあたり一面の桃花が目に入った。 李欽叔は次のような夢を見た。ある人が二枚の桃符(春聯)を く れ た が、 上 に『 宜 し く 新 年 に 入 り 』『 長 命 富 貴 な る べ し 』 と 書いてあった。翌日、河中府は陥落し、康伯祿は、争って船に 乗ろうとしたが乗れず、水に落ちて死んだ。李欽叔は船を手に 入れ、陜県に逃げのびた。三四日たって新年を迎えた。陜県令 の楊正卿が人を派遣して李欽叔に桃符を贈って来た。書かれて いる文言は、夢の中で言われたままであった。楊正卿が語った。 1. 4 包女嫁するを得たり 世 俗 に 傳 ふ る に、 包 希 文 30 は 正 直 を 以 て 東 嶽 31 速 報 司 32 を 主 る。 山 野 の 小 民、 知 ら ざ る 者 無 し と。 庚 子 33 秋、 太 安 34 界 の 南 征 兵 35 、 一婦を掠して還るに、是れ希文の孫女なりと云ひ、頗る姿色有 り。 倡 家 36 高 價 に て 之 を 買 は ん と 欲 す る も、 婦 死 を 守 り て 行 かず。主家其の財を利とし、捶楚 備 ことごと く至り、婦は遂に病む。 鄰 里 嗟 惜 す る も 救 ふ 能 は ず。 里 中 の 一 女 巫 私 ひそか に 人 に 謂 ひ て 云 ふ、 「 我 能 く 此 の 婦 を 脫 し、 良 人 に 適 ゆ か し む 」 と。 即 ち 主 家 に 詣 いた り て、 目 を 閉 じ 吁 氣 37 し、 屈 伸 良 やや 久 し く し て、 神 降 し の 態 を 作 な す。之を 少 しばらく して、瞑目して咄 咤 し、主人なる者を呼び出し て、大いに之を罵る。主人は香火を具へ、俛伏して罪を請ひ、 何の尊神に觸るる所なるかを問ふ。巫又た大いに罵して云ふ、 「 我 は 速 報 司 な り 。 汝 は 何 ぞ 敢 て 我 が 孫 女 を 以 て 倡 と 為 す や 。 汝 に 十 日 を 限 り、 之 を 良 家 に 嫁 せ ず ん ば、 吾 れ 汝 が 門 を 滅 せ ん 38 矣」と。主家百拜して謝し、數日ならずして之を嫁す。 28 陜県:陝州である。今の河南省三門峡市。 29 楊 正 卿: 楊 果( 一 一 九 七 ─ 一 二 六 九 )、 字 正 卿、 号 西 庵。 祁 州 ( 河 北 省 保 定 ) の 人。 金・ 正 大 元 年( 一 二 二 四 ) の 進 士。 元 朝 で は 北京宣撫使、参知政事となった。 『元史』巻一六四。 30 包 希 文: 包 拯( 九 九 九 ─ 一 〇 六 二 )、 字 希 仁、 廬 州 合 肥( 安 徽 省合肥)の人、北宋の名臣。名裁判官として後に小説化される。 31 東嶽:泰山を指す。 32 速 報 司: あ の 世 で 東 岳 大 帝 の 配 下 と し て 善 悪 因 果 応 報 を 司 る 役 所。因果応報が迅速なことで命名された。 33 元・太宗・一二年(一二四〇)庚子。金朝の滅亡後七年。 34 太 安: 泰 安( 山 東 省 )。 金・ 天 会 十 四 年( 一 一 三 六 ) に、 泰 安 軍が設置され、金・大定二十二年(一一八二)に泰安州となった。 35 「兵」字、清抄本では空格。 36 倡家:妓女を言う。 37 吁 氣:嘆息する。 38 滅門:一族を皆殺しにする。
包家の娘の嫁入り 世間の伝承であるが、包拯は正直な事で東嶽速報司という冥 界の役所を司ることになった。山野に住む一般庶民は誰もがこ の こ と を 知 っ て い る。 元・ 太 宗・ 一 二 年( 一 二 四 〇 ) の 秋、 ( モ ン ゴ ル 軍 の ) 太 安 州 あ た り に 南 征 し た 兵 隊 が 一 人 の 婦 人 を 誘拐して戻って来た。彼女は自分が包拯の孫女であると述べ、 器量好しであった。置き屋は高額で彼女を買い取ろうとしたが、 彼女は死を覚悟して拒絶した。主人は、彼女を売って得られる 利益を考え、鞭で打つなど様々な刑罰を科し、とうとう彼女は 病気になった。近所の人は彼女をかわいそうに思ったが、救え な か っ た。 村 の 女 巫 が ひ そ か に 人 に こ う 言 っ た、 「 私 は 彼 女 を この境遇から助け出し、良い旦那に嫁がせることができる」と。 直ちに主人のもとに行き、目を閉じて嘆息し、しばし屈伸運動 をして、神降しの様子になった。しばらくして、目をつむった まま叱りつけ、主人を呼び出して、大いに罵った。主人は香や 灯火をお供えして、うつぶせになって罪を請ひ、何が神様の怒 りに触れたかを訊いた。巫はさらにひどく罵しって「われは速 報司である。お前はどうしてあえて我が孫女を妓女にするのか。 お前に十日の猶予をやろう。娘を良家に嫁がせなかったなら、 わたしはお前の一族を滅ぼすだろう」と言った。主人は百拜し て過ちを謝罪し、数日も置かず彼女を嫁に出した。 1. 5 鐵中の蟲 吾が州 39 の會長老、飛狐 40 の團崖に住す。初めて院に入るに、 典座 41 の僧 白 まを す、 「廚堂の一 鑊 は、千人に供すべきも、火を燃せ ば 則 ち 聲 有 り。 今 二 年 な り 矣。 人 以 お も へ 為 ら く、 釜 鳴 る は 不 祥、 廢 し て 敢 て 用 ゐ ず と。 大 眾 42 の 作 食 を 妨 ぐ る は、 師 如 何 せ ん と 欲 す 」 と。 會 云 ふ、 「 吾 大 眾 に 就 き て 此 の 鑊 を 乞 ふ。 當 に 我 に 任せて料理せしむべし」と。 眾 諾す。乃ち椎もて釜の底を破る に、 穴 中 に 一 蟲 を 得 た り。 長 さ 二 寸 許 ばかり 、 色 は 深 赤 な り。 蓋 し 此 の 蟲 は 火 を 經 れ ば 則 ち 聲 有 り。 淄 川 の 楊 叔 能 43 も 亦 た 嘗 て、 芒 山 44 均 慶 寺 の 大 鑊 一 竅 を 破 る こ と、 拳 を 合 し た る が 如 く、 中 に 一 蟲 有 り て 蠐 螬 45 の 如 く し て 紅 き を 見 る。 此 の 類 大 家 46 往 往 にして之を見る。魏文帝 47 『典論』以為へらく、 「火の性は酷烈 に し て、 理 と し て 生 物 無 し 」 48 と。 特 た だ 執 方 49 の 論 な る の み。 團 39 忻州。元好問は忻州の出身。 40 県の名。今の河北省保定市 淶 源県。 41 典座:寺院の職名。食事を担当する。 42 大 眾 :佛教で信徒たちを指す呼び方。 43 楊 叔 能: 楊 弘 道( 一 一 八 九 ─?) 、 字 叔 能、 号 素 庵、 著 作 に 『小亨集』がある。淄川(山東省)の人。 44 河南省永城市東南。 45 蠐 螬:コガネムシの幼虫。 46 大家:多くの人々。 47 魏 文 帝 曹 丕( 一 八 七 ─ 二 二 六 )。 三 国 時 代 の 著 名 な 政 治 家、 文 学家で、魏王朝の開国の皇帝(二二〇─二二六在位) 。 48 現 存 す る『 典 論 』 中 に は な い。 『 法 苑 珠 林 』 巻 五 三「 魏 文 帝 以 爲火性酷烈無含養之氣。著之典論刋廟門之外」 。 49 執 方: 通 常 の 規 則 に 照 ら し て 事 に 対 応 す る。 隋 · 王 通『 中 說 』 周公』 「子曰、通變之謂道、執方之謂器」 。
崖の事は、全唯識記す。 鐵中の蟲 我が忻州の会長老は、飛狐県の団崖院に住持していた。団崖 院に入ったばかりの時に、典座(食事係)の僧が次のように述 べ た、 「 お 寺 の 厨 房 の 一 つ の 鉄 鍋 は、 千 人 分 の 食 事 を 作 れ る 大 きさですが、火を燃やすと音がします。今年で二年になります。 釜が鳴るのは不祥であるから、廃棄してあえて使用しないよう にしようと考える人がいます。僧侶たちの食事に触りが出ます が、 お 師 匠 様、 ど う い た し ま し ょ う 」。 会 長 老 は こ う 言 っ た、 「 私 が 僧 侶 の 皆 さ ん か ら こ の 鍋 を 貰 い 受 け ま し ょ う。 私 に 任 せ て 処 理 さ せ る の が 適 切 で す 」。 僧 侶 た ち は 承 知 し た。 そ こ で、 会長老は椎で釜の底を壊したところ、穴の中に一匹の虫がいた。 長さ二寸ばかり、色は深紅である。おそらくこの虫が火にあぶ られて声を出していたのだろう。淄川の楊叔能も、以前に、芒 山均慶寺の大鍋を壊して、拳二つほどの穴を開けたところ、中 にコガネムシの幼虫のようで赤色の虫を見つけた。こういった も の は、 多 く の 人 々 が し ば し ば 目 に し て い る。 魏 文 帝・ 曹 丕 『 典 論 』 に は「 火 の 性 質 は 苛 烈 で あ り、 当 然 の こ と な が ら 生 物 はそこに存在しない」と述べている。これは単に一般論を述べ た だ け で あ る。 団 崖 院 で の 出 来 事 は、 全 唯 識 50 が 書 き 記 し て い る。 1. 6 王增壽外力 秀 容 51 東 南 雙 堡 の 王 增 壽、 號 し て 外 力 と 為 し、 角 觝 を 善 く し、 人 能 く 敵 ふ 莫 し。 太 和 の 末、 官 駝 を 括 す 52 。 增 壽 詭 計 を 作 な し、 駝 の 足 を 釘 53 ( 去 聲 ) し 跛 た ら し め、 羊 頭 村 自 よ り 背 に 駝 を 負 ひ て代州 54 に至る。州守 信 まこと に以て 然 しか りと為し、增壽復た之を負ひ て歸る。樊帥 55 說けり。 王 増寿 、別名外力 秀容(山西省忻州市忻府区)東南の双堡の王増寿は、 「外力」 ( 特 別 の 力 あ る も の ) と 自 称 し て お り、 相 撲 が う ま く、 敵 う も のはいなかった。泰和年間(一二〇一─〇八)の末、役所がラ クダを輸送用に徴発した。王増寿は自分の所有するラクダの足 に釘を打ち付け歩けないようにし、担ぎ上げて羊頭村から代州 50 評 注 に よ れ ば、 上 海 図 書 館 所 蔵『 続 夷 堅 志 』 呉 継 寛 抄 本 で は 「金唯識」 。 51 秀 容: 「 後 魏 置。 爲 秀 容 郡 治。 故 城 在 今 山 西 忻 縣 西 北 五 十 里。 齊 周 時 郡 廢。 隋 徙 縣 於 九 原 故 城。 明 省。 卽 今 山 西 忻 縣 治。 」( 『 中 国 古今地名大辞典』商務印書館香港分館、一九三一) 52 『 金 史 』 一 〇・ 本 紀 一 〇・ 章 宗・ 明 昌 六 年( 一 一 九 五 ) 三 月 「 戊 戌、 以 北 邊 糧 運、 括 羣 牧 所、 三 招 討 司 猛 安 謀 克、 隨 乣 及 迭 剌、 唐 古 部 諸 抹、 西 京、 太 原 官 民 駝 五 千 充 之、 惟 民 以 駝 載 為 業 者 勿 括」 。 53 『 広 韻 』 下 平 一 五 青「 當 経 切。 釘、 又 都 定 切。 」 去 声 四 六 径「 丁 定切。釘、又得庭切」 。 54 代 州: 「 隋 置。 見 代 縣 條。 (『 中 国 古 今 地 名 大 辞 典 』) 「 代 州 即 今 忻 州 市 代 縣、 位 於 山 西 省 東 北 部、 北 踞 北 嶽 恆 山 餘 脈、 南 跨 佛 教 聖 地 五 台 山 麓。 代 縣 文 物 古 蹟 遍 佈 、 雁 門 關 居 九 塞 之 首、 天 下 聞 名。 隋 改 為 代 州。 大 業 初 曰 雁 門 郡。 唐 復 曰 代 州。 天 寶 初 亦 曰 雁 門 郡。 乾 元 初 復故。中和二年、置雁門節度治此。 」(地名規範資料庫) 55 樊帥:樊天勝。元代の鎮国上将軍、九原府元帥。 『定襄県志』 。
( 山 西 省 忻 州 市 代 県 ) ま で 運 ん だ。 代 州 の 守 将 は 王 増 寿 の ラ ク ダが本当に歩けないことを認めたので、王増寿は再度ラクダを 担いで帰った。樊帥が述べたことである。 1. 7 石中の蛇蠍 太和中、柏山長老志賢は、西京の東堂に住み、常住足備すれ ば、 即 ち 棄 去 す。 渾 源 56 の 樂 安 橋 嶺 路 を 修 す る に、 一 牛 心 大 の 石 を 槌 破 せ り。 中 に 蛇 蠍 有 り て 相 吞 螫 す、 人 其 の 何 いづこ 從 よ り 入 る か を 知 ら ざ る 也。 賢 曰 く、 「 此 れ 吾 が 法 に 在 り て は、 是 れ 怨 毒 の 化 す る 所 に し て、 想 57 に 隨 ひ て 入 り、 千 萬 劫 を 歷 る も 解 き 得 ざ る 者 な り。 若 し 為 に 解 卻 せ ず ん ば、 他 日 亦 た 曾 て 我 を 見 來 58 れりと 道 い はん」と。即ち大杖を以て之を擊つに、竟に他異無し。 全唯識說けり。 石中の蛇と蠍 泰 和 年 間( 一 二 〇 一 ─ 〇 八 )、 柏 山 長 老 志 賢 は、 金 の 西 京 (山西省大同市)の東堂に住んでいたが、 (喜捨を得て)寺の財 物が十分に足りるようになると、すぐにその寺を去っていった。 渾源の楽安橋の嶺路を修築する際に、一頭の牛の心臓ぐらいも あ る 大 き な 石 を 槌 で 壊 し た と こ ろ、 石 の 中 に は 蛇 と 蠍 サソリ が い て、 お互いに蛇は蠍を飲み込み、蠍は蛇を刺していた。誰もこの蛇 と蠍がどこから石の中に入り込んだかを知らなかった。志賢は 次 の よ う に い っ た、 「 仏 法 の 教 え で は、 こ れ は 人 の 怨 念 が 変 化 したもので、怨念とは想(表象作用)によって我々の心の中に 入り込み、永遠の時を経ても解き放つことができないものであ る。もしここでこのもののために解き放ってしまわないと、い つ の 日 か ま た、 以 前 に 志 賢 に 会 っ た こ と が あ る と 言 う だ ろ う。 」 直 ち に 大 き な 杖 で 打 っ た と こ ろ、 意 外 に も、 他 の 異 変 は 生じなかった。全唯識は述べている。 1. 8 任氏翁媼 定 襄 59 の 沙 村 は、 樊 帥 60 の 居 す る 所 な り。 說 け り、 「 里 中 の 任 實 洎 およ び其の妻張氏は、七十三歲にして、同年月日時に生まれ、 復た同年月日時に死す。古今有ること無き所なり」と。 任氏の老夫婦 定襄の沙村は、九原府元帥の樊天勝の居住地である。樊天勝 は 次 の よ う に 語 っ た。 「 沙 村 の 任 実 と そ の 妻 張 氏 は、 七 十 三 歲 であるが、同年同月同日同時の生まれで、同時に同年同月同日 同時に亡くなった。前代未聞のことである」 。 56 渾源:山西省大同市渾源県。 57 想: 『般若心経』 「受・想・行・識・亦復如是」 。 58 來:過去を表す語気助詞。現代語の「来着」 。 59 定襄:今の山西省定襄県。 60 樊 帥: 樊 天 勝、 か つ て 定 襄 知 県 を 勤 め、 九 原 府 元 帥 と な っ た。 『 山 西 通 志 』 卷 九 十 八・ 名 宦 十 六・ 元「 樊 天 勝、 定 襄 人。 以 武 功 授 九 原 府 元 帥。 知 定 襄 郡 時、 從 常 山 軍 取 忻 州。 大 帥 怒 其 民、 欲 盡 戮 之。 天勝哀訴得免」 。
1. 9 鄭叟 土禁を犯す 61 平 輿 62 の 南 函 頭 村 の 鄭 二 翁、 資 性 強 く、 禁 忌 を 信 ぜ ず。 太 和 八 年、 其 の 家 の 東 南 に 興 造 す る 所 有 り。 或 ひ と 言 ふ、 「 是 れ 太 歲 63 の在る所にして、犯すべからず」と。鄭云ふ、 「我れ即ち太 歲なり。尚ほ何ぞ忌まんや」と。役夫を督して興作せしむ。地 を 掘 る こ と 二 尺 な ら ず し て、 婦 人 の 紅 繡 鞋 一 雙 を 得、 役 夫 作 を罷めんと欲す。鄭怒り、取りて之を焚き、地を掘ること愈い よ急なり。又二三尺にして、一黑魚を得、即ち烹て之を食ふ。 旬日ならずして、翁、母並びに亡じ、又た長子を喪ひ、連ねて 十餘口、馬十、牛四十に延び、死病狼藉たり。存する者大いに 懼れ、他所に避くれば、禍乃ち息む。 鄭叟が土禁を犯す 平輿の南函頭村の鄭二翁は、強気の性格で、タブーを信じな か っ た。 泰 和 八 年( 一 二 〇 八 )、 そ の 家 の 東 南 に 工 事 を し よ う とした所、ここは太歲神のいる所であるから、犯すべきではな いと言う人がいた。鄭二翁は「私こそが太歲神である。どうし て忌む必要があろうか」と言って、人夫を督促し工事を行った。 地面を二尺足らず掘ったところ、婦人の紅い刺繍入りの鞋が一 足出てきた。人夫は工事をやめようとしたが、鄭二翁は怒って、 靴を取って燃やし、掘削をいよいよ急がせた。さらに二三尺の ところで、一匹の黒い魚が出てきたので、すぐに調理して食べ たところ、十日もしないうちに、鄭二翁とその母がともに亡く なり、さらに長男も死に、連続して家族十数人が亡くなり、馬 も十匹、牛も四十頭が死に、死の病が蔓延した。生き残った者 は大変恐れ、よそへ避難したところ、禍はようやく収束した。 1. 10 張童 冥に入る 平輿の南函頭村の張老なる者は、鶉を捕ふるを以て業と為し、 故 に 人 目 し て 鵪 鶉 と 為 す。 年 已 に 老 い、 止 だ 一 兒 の み 成 童 64 せ るも、一旦死せり。翁媼は自ら老いて倚る所無きを念ひ、號哭 悶 絕 して、 俱 とも に死せざらんことを恨む。明日之を埋めんと欲し、 又た復た忍びず。但だ磚を累ねて邱を作り、地一二尺許りに入 れ、 云 ふ、 「 吾 兒 よ 還 活 せ よ!」 と。 人 其 の 癡 な る を 笑 ひ、 而 し て 亦 た 之 を 哀 む 者 も 有 り。 三 日 に し て 復 墓 65 す る も、 慟 哭 休 ま ず。 忽 ち 墓 中 の 呻 吟 の 聲 を 聞 き、 翁 媼 驚 き て 曰 く、 「 吾 が 兒 61 犯 土 禁: 前 近 代 に お い て、 建 築、 土 木 工 事 を 行 な っ て、 土 地 の 神 様 か ら 罪 を 受 け る こ と を「 土 禁 を 犯 す 」 と 言 っ た。 『 後 漢 書 』 來 歷 傳「 時 皇 太 子 驚 病 不 安、 避 幸 安 帝 乳 母 野 王 君 王 聖 捨。 太 子 乳 母 王 男、 廚 監 邴 吉 等 以 為 聖 捨 新 繕 修、 犯 土 禁、 不 可 久 御 」。 宋 洪 邁『 容 齋 四 筆 』 繕 修 犯 土「 今 世 俗 營 建 宅 捨、 或 小 遭 疾 厄、 皆 云 犯 土。 故 道 家有謝土司章醮之文」 。 62 平輿:県名である。今の河南省汝南県東南。 63 太 歲: 太 歳 神 を 指 す。 歳 星( 木 星 と 鏡 像 の 位 置 に あ る 仮 想 の 星 ) の 神。 祟 り を な す 神 で、 建 設、 引 っ 越 し、 嫁 入 り、 遠 出 で、 そ の 方 位 を 犯 す と 凶 事 が 出 現 す る と さ れ た。 漢 · 王 充『 論 衡 』 難 歲 「方今行道路者、暴病仆死、何以知非觸遇太歲之出也」 。 64 成 童: 年 齢 の や や い っ た 児 童。 或 い は 八 歳 以 上、 或 い は 十 五 歳 以上と言い、一定しない。 65 復 墓: 前 近 代 の 習 慣 で、 埋 葬 後 三 日 目 の 家 人 の 墓 参 り。 唐 段 成 式『 酉 陽 雜 俎 續 集 』 金 剛 經 鳩 異「 貞 元 中、 忽 暴 疾 卒、 埋 已 三 日、 其 家復墓、聞塚中呻吟、遂發視之、果有氣」 。
果して還魂せり矣」と。棺磚を撒し、棺木を曳きて出し、 舁 か き て 其 の 家 に 歸 る。 俄 にわか に 湯 粥 を 索 む。 良 や 久 し く し て、 說 け り、 「初め人の攝して冥司 66 に往くところと為る。兒は主者に哀訴す る に、 「 爹 娘 は 老 い て 念 ふ 可 し。 乞 ふ、 餘 年 を 盡 く さ ん こ と を。 葬送畢らば、死するも恨を歸する所無し」と。冥官頗る之を憐 み、即ち云ふ、 「今汝を放ちて歸らしむ。汝が父に語れ、 「能く 打捕の業を棄つれば、汝の命は延ぶ可し矣!」と」と。其の父 此の語を聞き、盡く網罟の屬を焚き、兒を挈して寺に入り佛に 供す。寺に一僧の呂姓なる者有り。年未だ四十ならず、儀表殊 に偉なり。曾て州に上りて綱首と作る。張童即ち 前 すす みて僧に問 ふ、 「師も亦た還魂ならんや」と。呂云ふ、 「何ぞ曾て死せん」 と。 張 童 言 ふ、 「 我 冥 中 に 在 り て 引 問 せ し 次 とき 、 師 の 殿 角 銅 柱 の 上 に 在 り て、 鐵 繩 足 に 繫 り、 獄 卒 往 來 し て 棓 67 を 以 て 師 の 腋 下 を撞き、流血淋 灕 たるを見る。放歸せる時に及びて、曾て監卒 に問ふ、 「呂師は何の故に罪を受くるや」と。乃ち云ふ、 「他は 多く齋主の經文を脫下し、故に此の報を受く」と。呂聞きて大 い に 駭 おどろ く。 蓋 し 其 の 腋 下 に 一 漏 瘡 を 病 む こ と、 已 に 三 年 た り 矣。兒は初より知らず。呂遂に一室に潔居し、日び誦經を以て 課と為す。凡そ三年、瘡乃ち 平 い ゆ。趙長官 68 親しく之を見ゆ。 張童の冥界入り 平輿県の南函頭村の張老は、鶉の捕獲をなりわいにしており、 そのため人からはウズラと呼ばれていた。年をとって、十五歳 まで成長した子供は一人であったが、ある朝、死んでしまった。 老人夫婦は年老いて寄る辺のないことを思い、嘆き苦しみ、子 供と一緒に死ななかったことを恨んだ。明日埋葬しようとした が、改めて埋葬するに忍びなくなり、ただレンガを積んで墳丘 状 に し、 地 面 か ら 一 二 尺 許 り の 高 さ に 棺 桶 を 入 れ、 「 我 が 子 よ 生き返ってくれ」と言った。その愚かさを笑う人もいたが、哀 れに思うものもいた。三日目に墓参りをしたが、慟哭は止まな か っ た。 急 に 墓 中 か ら う め き 声 が 聞 こ え、 老 夫 婦 は 驚 き、 「 我 が子はやはり生き返ったのだ」と言った。積んだレンガを撒き 散らし、棺桶を引き出し、家にかついで帰った。息子は果たし て生き返った。急にお粥を食べたいと言い、しばらくして次の よ う に 言 っ た。 「 初 め、 人 に 捕 ま っ て 冥 界 に 連 れ 去 ら れ ま し た。 私 は 冥 界 の 主 催 者 に 哀 訴 し、 「 父 母 は 年 老 い て 可 哀 想 で す。 ど うか、父母の余生に対して孝養を尽くさせてください。父母の 葬儀が終わったならば、死んでも恨むところはありません」と 言った。冥界の主催者は私のことを憐れんでくれ、こう述べま し た。 「 今、 お 前 を 解 放 し て 家 に 帰 ら せ る。 父 親 に『 ウ ズ ラ 取 りのなりわいをやめれば寿命が延びる』と言え」と。父はこの 話を聞いて、ウズラ取りのすべての道具を焼き捨て、息子を連 れて寺院を詣で仏に供え物をした。寺には呂姓の僧侶がいた。 年は四十前で、立派な風采をしていた。以前、州(平輿県は南 京路蔡州鎮南軍に属するので、蔡州をさすか)で、仏事の主催 66 冥司:冥界。 67 棓 :棒、棍棒。 68 未詳。
僧となったことがあった。張の息子は僧侶の元に進み出て質問 し た。 「 先 生 も 冥 界 か ら 生 き 返 ら れ た の で す か 」 と。 呂 は こ う 言った「どうして死んだことがあろうか」と。張の息子は言っ た。 「 私 は 冥 界 で 質 問 さ れ た 時、 先 生 が 宮 殿 の 隅 の 銅 柱 の 所 で、 足を鉄グサリで縛られ、獄卒が行き来して棍棒で先生の脇の下 を殴り、血が流れているのを見ました。開放された時に、監視 の 役 人 に 質 問 し ま し た。 『 呂 先 生 は ど の よ う な 罪 を 受 け た の で す か 』 と。 役 人 は 言 い ま し た。 『 彼 は、 仏 事 の 依 頼 者 の た め の 経 文 を 省 略 し て 読 み 上 げ た の で、 そ の 報 い を 受 け て い る の だ 』」 と。 呂 は こ れ を 聞 い て 大 変 驚 い た。 も と も と 彼 は 脇 の 下 に膿んだ傷があり、もう三年間も治癒しなかったのである。張 の息子はこの事を全く知らなかった。呂はそこで一室に精進潔 斎して閉じこもり、毎日読経をして過ごした。三年経つと、傷 は癒えた。趙長官自らこの件を見たという。 1. 11 土禁 69 二 乙 巳 70 の 春、 懷 州 71 の 一 花 門 72 生 は 僕 を 率 ゐ て 地 を 掘 り、 肉 塊 一枚を得。其の大きさ三四升許り。刀を以て之を割くに、肉は 羊 の 如 く、 膚 膜 有 り。 僕 言 ふ、 「 土 中 の 肉 塊 は、 人 言 ひ て 太 歲 と為す。見る者は當に凶たるべし。掘るべからず」と。生云ふ、 「 我 れ 寧 なん ぞ 太 歲 有 る こ と を 知 ら ん や 」 と。 復 た 之 を 掘 ら し む。 又た二肉塊を得たり。半年ならずして、死亡相踵ぎ、牛馬皆盡 く。古人之を「凶禍有るも 故 ことさら に之を犯すは、是れ神と敵する 也」と謂ふ。申胡魯の鄰居親しく之を見、予が為に言ふ。 土禁の第二の例 一二四五年の春、懷州のあるウイグル族の若者が下僕を統率 して地面を掘ったところ、肉塊が一つ出てきた。その大きさは 三、 四 リ ッ ト ル ほ ど で あ っ た。 刀 を 使 っ て 割 く と、 羊 肉 の よ う 69 土禁:注 61参照。 70 一 二 三 四 年、 金 の 滅 亡。 一 二 四 一 年、 第 三 代 オ ゴ デ イ 急 死。 一 二 四 六 年 ま で、 オ ゴ デ イ の 皇 后 ド レ ゲ ネ が 監 国。 一 二 一 一 年、 ウ イ グ ル 王、 チ ン ギ ス・ カ ー ン に 帰 順。 チ ン ギ ス は 息 女 を 娶 ら せ 駙 馬 ( キ ュ レ ゲ ン ) と す る。 以 後、 ウ イ グ ル 王 家 は「 ウ イ グ ル 駙 馬 王 家 」 と し て モ ン ゴ ル 王 族 に 準 じ る 地 位。 モ ン ゴ ル 帝 国 お よ び 元 朝 で は、 ウ イ グ ル 人 官 僚 は モ ン ゴ ル 宮 廷 で 重 用 さ れ、 経 済 を 担 当 す る 大 臣も輩出。 71 懷州:今の河南沁陽県一帯、当時は洛陽北面の重鎮であった。 72 花 門: ウ イ グ ル 族 の 別 名。 も と も と 山 名 で、 居 延 海 の 北 三 百 里 に あ っ た。 唐 初 に 堡 塁 が 作 ら れ、 北 方 塞 外 民 族 の 防 衛 戦 と な っ た が、 天 宝 年 間 に ウ イ グ ル に 占 領 さ れ た。 後 に「 花 門 」 は ウ イ グ ル の 別名となった。
で、 皮 膚 の 膜 が あ っ た。 下 僕 は 言 っ た。 「 土 中 の 肉 塊 を、 人 々 は太歲と呼んでいます。それを見たものは必ず災厄に遭います。 掘 る べ き で は あ り ま せ ん 」 と。 若 者 は こ う 言 っ た。 「 私 は 太 歲 の存在なんて全く知りもしない」と。引き続き掘らせた。さら に肉塊が二つ出てきた。半年も経たずに、死亡が相次ぎ、牛馬 はすべて死んだ。古人はこのようなことを「災厄があっても故 意にそれを犯せば、神秘的存在と敵対することになる」と言っ た。申胡魯の隣人が自ら見たことで、申胡魯が私に語ってくれ た。 1. 12 群熊 癸卯の初、熊數十萬有りて、內 鄉 73 硤石 74 從り西南山に入る。 枚 を 銜 ふく み て 75 並 進 す。 行 く こ と 既 に 遠 く、 掌 皆 出 血 す。 羸 劣 に し て 死 す る 者 有 れ ば、 群 熊 自 ら 之 を 食 ふ。 州 縣 に 文 移 76 の 傳 報 する有り。予彰德 77 に於いて之を見たり。 群熊 一二四三年の初頭、数十万頭の熊が、內 鄉 、硤石から西南の 山 に 入 っ た。 声 を 上 げ る こ と な く、 並 ん で 進 ん だ。 遠 く ま で やってきたので、足はすべて出血していた。体が弱くて死んだ ものは、クマの群れ自身がそれを食らった。州や県の役所には 文書で通知してくるものがあった。私は彰德でこれを見た。 1. 13 刀 花を生ず 濟 源 78 の 關 侯 廟 の 大 刀 は、 辛 丑 の 歲、 忽 ち 花 を 生 ず る こ と 十 許、莖は各おの長さ一指にして、纖細なること髪莖の如く、色 微綠にして、其の顚細白花を 作 な し、黍米よりも大なり。予が同 舎李慶之の子正甫 79 、予の為に言ふ。 刀に花が咲いた 済源の関帝廟の大刀は、一二四一年に、急に十数本の花が咲 いた。茎はそれぞれ一本の指ほどの長さで、髪の毛のように細 く、色はやや緑で、先端に細くて白い花を咲かせ、キビよりも 大きかった。我が同僚の李慶之の子息李正甫が、私に語ってく れた。 1. 14 龍を產む 平定 80 葦泊村、乙巳の夏に、一婦 名は馬師婆 81 、年五十許り、 懷孕すること六年有餘にして、今年 方 はじ めて一龍を產む。官司由 73 內 鄉 :県名、今の河南省西南部。 74 硤石:地名、今の河南三門峡市東南。 75 銜 枚: 静 寂 で 声 の し な い こ と。 『 文 選 』 枚 乘・ 七 發「 迴 翔 青 篾 、 銜枚檀桓。 」李善注: 「銜枚、水無聲也。 」 76 文移:文書、公文書。 77 彰德:今の河南安陽。 78 濟源:県名、河南省西北部。 79 李 正 甫: 山 西 の 人、 詩 が 巧 み で あ っ た。 元 好 問 の 友 人 李 慶 の 子 で、元好問に「送詩人李正甫」詩がある。 80 平定:県名、山西省東部。 81 師婆:女性シャーマン。
82 不 知 人: 人 事 不 省 で、 知 覚 を 失 う こ と。 晉. 干 寶『 搜 神 記 』 卷 十 五「 會 稽. 賀 瑀 、 字 彥 琚、 曾 得 疾、 不 知 人、 惟 心 下 溫、 死 三 日、 復蘇。 」 る 所 を 問 ふ に、 此 の 婦 說 け り、 「 懷 孕 し て 三 四 年 に 至 る も 產 ま れず、其の夫曹主簿懼れて變怪と為し、即ち遣りて之を逐ふ。 臨產に及んで、怳忽中に、人從の其の前に羅列すること官府中 に 在 る が 如 き を 見 る。 一 人 前 み て 自 陳 し て 云 ふ、 『 寄 託 す る こ と數年、今當に捨て去るべし。明年阿母快活ならん矣』と。言 訖りて、一白衣之を 掖 たす けて去り、門に至り、 昏 くら くして人を知ら ず 82 。之を久しくして乃ち甦る」と。旁人為に說けり、 「晦冥中、 雷の 震 ふる ふ 者 こと 三たび、龍は婦が身 從 よ り飛び去り、遂に身の孕みて 在る所を失へり」と。 龍を產む 平定の葦泊村で、一二四五年の夏に、馬師婆(馬という姓の 女性シャーマン)という年は五十ぐらいの婦人が、六年あまり 身ごもって、今年はじめて一匹の龍を產んだ。お役人がその訳 を 聞 く と、 婦 人 は 次 の よ う に 述 べ た、 「 身 ご も っ て 三 四 年 し て も產まれませんでした。夫の曹主簿は怪異を恐れて、すぐに離 婚し家から追い出されました。臨月になって、意識が朦朧とし た中で、まるでお役所にいるかのように付き人たちが私の前に 並び立つのを見ました。一人の人物が進み出てこう言いました、 「 あ な た の お 体 に 数 年 居 候 し ま し た が、 今 ち ょ う ど、 あ な た の 体を捨てて去るべき時になりました。お母様は明年元気になら れます」と。言い終わると、白衣の人物が、彼を支えて去って 行き、門にたどり着いたところで、私は人事不省になり、しば らくして蘇生しました」と。別の人物が彼女のためにこう言っ た、 「 真 っ 暗 な 中 で、 雷 が 三 回 鳴 り、 龍 が 婦 人 の 身 体 か ら 飛 び 去り、とうとう彼女は身ごもったものを失ってしまいました」 と。