加藤先生を送る
著者
中谷 拓士
雑誌名
年報・フランス研究
号
35
ページ
1-4
発行年
2001-12-25
URL
http://hdl.handle.net/10236/9428
加藤先生 を送 る
中谷 拓士 パ ソ'コ ンをお使 い に な らない加 藤林 太郎 先 生 は、 ネ ッ ト上 で先 生 を「 カ ト リン」 と呼 ぶ学生 が い る こ とな どご存 じない だろ う。「 カ トリン」 とい う響 き は、昔 な ら女性 の名前 の カ トリーヌの翻訳語 で もあ った と記憶 す る。 だが、い まの わた しには聖女 カ タ リナが連想 され る。 この聖女 は、言 わず と しれ た学 問 の守護聖人であ り、学識深 い先生 にいつそ うふ さわ しいか らであ る。 加 藤 先 生 は フラ ンス文学科 創 設 と同時 に、京都 大学 の助 手 か ら関西学 院大 学 文 学 部 の助 手 にな られ た。 以後 、39年
にわ た って学科 と学生 た ち を見 守 つ て こ られた こ とになる。 したが って、文字通 リフラ ンス文学科 の歴 史 とと もに あ り、一期 生 か ら現在 にいた るすべ ての学生 を知 る最後 の先 生 とな って しまっ た。1964年
か ら2年
間、 フラ ン政府給費留学生 と してパ リ大学 で学 ばれ、′帰 国 後の1967年
に専任 講 師 と して教壇 に立 たれたが 、それは学生運動 の激 しい時 代 で あ り、 関西 学 院 もその例外 で はなか った。校 舎 のバ リケー ド封 鎖 、授 業停 止 、機 動 隊 の導 入 とい う騒 然 た る状 況 の 中で、教 育者 と しての生活 を始 め られ たの であ る。 その と き道路封 鎖 のため に学生 が切 り倒 した時計 台前 の木、 ク リ スマ ス の イ リュ ミネー シ ョン用 に使 われてい る左右 の木 も、その後小ぶ りな も の に植 えか え られたが、い まで はそんな時代 のあ った こ とす ら思 い出 させ ない ほ ど高 くそ びえてい る。 それほ どの年 月が流れた。 しか し、加 藤 先 生 の なか にいつ も生 きつづ け て い た の は子 供 の心 だ った。 これ は推測 で はな く、わた しな りの断定であ る。貧 しい戦後 の時代 に手作 りの天体望遠鏡で星 を眺めていた少年、パ リでカフェに入れる砂糖の包み紙 を捨て ず にコレクシ ョンとした青年、そこに共通 してあるのは好奇心 を抱 くこころで あ り、 どんなことにで も楽 しみ を見いだす ことがで きるとい う、初 々 しい感性 のみが持 ちうるインテ リジェンスだった。 アナ トール・フランス とアルフォンス・ ドーデに関す る研究 を多 く発表 され て きたが、それは先生のなかの子供の心が、何気 ない細部にか ぎりない愛着 を 示 した もの と言 えるだろう。ただ し、それは木の幹 を熟知 した上で こそな しう る枝や葉への偏愛 であつたことを急いで付け加 えておかねばならない。「語尾 か らの配列 による基礎 フランス単語集
Jも
そ うした範疇の著作である し、 また 近著である「文学 と挿絵の対話Jも
その流れの中にある。 これは挿絵 自体が本 文の受容であ り解釈であるとい う観点か ら分析 を進め られた、他 に類 を見ない 独 自の書物 となっている。その小見出 しに目を走 らせ るだけで、先生の視点 を うかが うの に十分である。「向 こう向 きの ドーデ」「風車 の羽根 に喪章」「擬 人 的な擬音の場合」「地方なまりの訳出」「虚言癖」「創 らざる芸術家」「動物が制 作の邪魔 をす る」その他、いかにも先生ならではの言い回 しが随所に出て くる。 その ような先生は、呵 々大笑す るた ぐいの笑い よりも、ほのかなユーモアを 湛 える作品 を愛 された。大風 呂敷 を広げるよ りも、大人の視野か らは消 えて し まった もの、子供の背丈だか らこそ見えるものに 目を輝かせ、 ともすれば人が 見逃 しがちな真実 を好んで渉猟 された。少年の ような心持 ち と、おだやかな大 人の節度が実 にバ ランスよ くひとつにな り、現在の先生のひととな りが形成 さ れ、それは一貫 して変わることがなかった。 それに して も、先生の業績 を眺めなが ら不思議 だったのは、 とうぜ んあるは ずだ と独 り合点 していた論考がない とい うことだつた。た とえば、なぜ プロス ペル0メ リメに関す る論文が見あた らないのだろう。古典演劇 をは じめ と して 多 くの芝居 に も精通 してお られたのに、そ う した論文 もないのである。その こ とを知 って軽 い衝撃す らおぼえるとともに、わた しにそ う思わせ るほど、先生 が数多 くの作家について深い洞察 をお持 ちだったことにあ らためて思いいたっ加藤先生 を送 る た。 上掲書の小 見出 しには「父の書斎の子供」 なる ものがある。アナ トール・フ ランスの母親は夫の死後、書斎 に鍵 をかけ、 しば ら くは息子 をも中へ入れなか った とい う。「 しか し多 くの作家の場合父の書斎 は、子供 に開放 されていた と 言 つて よい」 と文章はつづ く。加藤先生はおそ らく後者だつたであろう。息子 に「林太郎」 と、好 きな作家の名前 をつけた加藤一雄先生の書斎は、林太郎少 年の 目の前 に開かれた楽園だつたにちがいないのである。 そ う した環境の中で知のコレクターとなった先生 は、 フランス留学の際 も昆 虫採集用の捕虫網 を持参 された。ブルターニュに立つカルヴェールの石像群 は すべ て まわ られた とも聞 く。授業ではフランスの漫画 も活用 された。写真 に も 興味 をお持 ちで、学内の写真サークルに入られて、昨年 は金賞 をとられた。俳 句 もた しな まれる。ほかにも忘れていることがいろいろあ りそ うである。そ う そう、落語好 きで もあった。古書店巡 りはいまも昔 も変わ らない。 「 こんなに長 く生 きるとは思わなかつた」 とおっ しやつたことがある。敗戦 後、ひ もじい思い をかかえて屋根 にはわせたカボチ ヤの花 に人口受粉 をほ どこ し、早 く実のなることを願 った少年が、一時期 は彫刻家 になることを希望 し、 結局はフランス文学者 となって今 日に至 った。留学か ら戻 つてみると、一雄先 生が美学科の教授 にな られてお り、父 と子が同 じ学部の教壇 に立たれるとい う 珍 しい教員生活 も体験 された。そ して近著には「父に」 とい う献辞がついてい る。「亡 き父 に」 ではない。定年 を迎 えられ る今 になって も、一雄先生が先生 のなかに生 きてお られる。やは り、先生は林太郎少年の ままなのである。「要 す るに、成長せ んかった とい うことやね」 とい う先生の声が聞 こえて来そ うな 気がす る。そ うではない。先生 を見ていると、われわれが成長 し損ねたのでは ないか、つ まらぬ大人になったのではないか と思わされるのである。 ところで、最後 にどうして も先生の駄洒落に触れないわけには行かない。 これ も少年の心がなせ るわざであるのか どうか。即答 はで きないが、それが 知的な遊戯であったことはまちがいない。そうでなければ、同僚や大学院生
がケ タケタ笑 った りするはず もないか らである。仏文研究室で、学生 にお菓 子 を出 されて「アンガ トウ」(un ga“au)と 礼 を言われた即妙の駄洒落。い ま
や学科の古典的名作 ともなっているこの文句 をは じめ、数知れぬ駄洒落 を紙 つぶてな らぬ声のつぶて として とば しつづけ、 まわ りを絶えずなごませて く ださった。しか し、それをダジャレと決めつけていいのか どうか。なに しろ、 日仏両語のか らみ合 って、予想外の ものが結 びつ く言葉の戯れは、時に上質 のpoinに(あるいは英語の concdt)を 思わせ もするか らである。 そ う した「駄洒落」 ともども、先生の もとか ら多 くの研究者が育 っていっ た。誰 か らも好かれたその先生が、個 年 になんなん とす る関西学院での生 活 に終止符 を打たれる。 ご苦労様 とい うより残念 とい う気持 ちの方が強いの はわた しだけではないだろう。 フランス文学科 に連なる多 くの方々の さまざ まな思い とともに、あ らためて「あ りが とうござい ました」 と′亡ヽよ り感謝 を 申し上げたい。 これか らもまだまだお世話にな ります。で も、ひとまずは、 さようなら、 林太郎先生。 (文学部教授)