《JIA指定代理店》
株式会社建築家会館
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株式会社
建築家会館
です
建築家のための保険
毎月 25 日締め翌月 1 日加入。
JIA「ケンバイ」はインターネットで簡単にご加入手続きができます !
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追加加入申し込み・保険料の試算・事故事例閲覧
などご利用ください。
またご加入後に加入証明書の印刷などが、カンタンにできます。
JIA建築家賠償責任保険
JIA所得補償保険
JIA傷害総合保険
建築物に物理的滅失もしくは損傷を伴わない場合でも、構造基準を
満たさないために、法律上の損害賠償を負った場合の損害を補償。
病気やケガで働けなくなったとき、月々の収入を最長1年間補償します。 (補償内容等詳細は「ご案内」をご覧ください。) この保険は、ニーズの高いケガによる「入院・通院を重点的に補償」に加えて、個人賠償、 携行品の補償など総合的に補償した内容になっています。 (補償内容等詳細は「ご案内」をご覧ください。)建築物に物理的滅失もしくは損傷を伴わない場合でも、①の構造計
算ミスの補償以外の幅広い法令に規定される建築基準法および所定
の建築基準関連法令に定められている基準を満たさないために、法
律上の損害賠償を負った場合の損害を補償。
充実のオプション
①
「構造基準未達」
②
「建築基準法等未達」
2010 年4月より導入
2013年4月導入
高度な専門職業人である建築家の職能を側面から補完する保険です。会員便り
【宮古島】隆起珊瑚礁の島
12 JIAの活動紹介若手建築家や学生への取り組み
14北陸支部の取り組み
2014年に実施の卒業設計関連コンクール
JIA関東甲信越支部 大学院修士設計展 委員長インタビュー
総務委員会 上浪寛委員長
18JIAのあらゆる規程を整備 Information
JIA
建築家大会
2014
岡山
20境界を越えて―総合化に挑む建築家の使命― JIA NEWS 本部便り/新規正会員入会承認者/編集後記 22
建築家のスケッチ [吉阪隆正]
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本館
齊藤祐子 ︵サイト︶ 1956年に完成した日本館は、戦後の復興期に海外に建設された建築のひ とつである。1952年、戦後第一回フランス政府給費留学生として、ル・コ ルビュジエのアトリエでの2年間の設計活動から帰国した吉阪隆正は35歳。 生活学、住居学への方向に、もうひとつ、建築家として大きな役割を果たす 第一歩を刻み始めた、最初の作品であった。 建て替えの動きに揺さぶられたり、場当たり的な改修工事によって、構想 が見えなくなる危機的状況を抱えながらも、今年のヴェネチア・ビエンナー レ建築展では太田佳代子氏、中谷礼仁氏によってこの日本館の建築もテーマ に組み込んでの展示がすすんでいる。 当時の設計、建設のプロセスは、『建築学大系』39(1959年、彰国社)に掲載 するために詳細な記録がまとめられ、一部を『DISCONT̶不連続統一体』 (1987年、丸善)に再録した。 設計条件は、イタリア側から、樹木の保存、電気給水設備はなし。日本か らは、予算2000万円程度、建坪約60坪。70メートルの絵画展示面と収納場 所。そして、設計者として、敷地の高低差の活用と、自然をいかす。〈日本 的〉ということに特にとらわれないようにする。企画案を提出する中で、厳 しく〈日本的であること〉を求められることに対して、〈ジャポニカ〉という エキゾチズムへの吉阪の抵抗が強く記されている。 開館まで6ヵ月、1955年12月に案が決定しないまま、現地へ向かう吉阪 は日本を離れて自由になり、「日本でこだわっていた作っていた案もそっと私 から離れはじめた」。そして、「飛行機は真直ぐに西へ、地中海へ向かって飛 ぶ」 乾燥地帯だ。そこで一気に案の骨組となる天井のルーバーが決まる。 現場は3月に始まった。吉阪と生涯の設計のパートナーとなる大竹十一の 二人で現場を進めながら、ひたすら図面を描き、打ち合わせをする。ここで 取り上げたのは、A2サイズに切ったロールのトレーシングペーパーに鉛筆 と赤と青の色鉛筆で描いた吉阪のスケッチだ。床と天井に開ける、空気のな がれる部分。展示のための光のコントロールの検討。開口部分の詳細も小さ く描かれている。現場でのスケッチから伝わるのは、集中して思考し、手を 動かし、決断する空気だ。 表紙スケッチ・外観写真:北田英治撮影建築の大切さ面白さを伝えたい 今村 松葉さんがなぜ、建築を評論や記事で書かれるの か、まずはその一番の動機から教えていただけますで しょうか。 松葉 私が現代建築について書き始めたのは1970年代 の終わりくらいですが、その当時、建築家という仕事に 対しての世間の理解はいま以上にありませんでした。大 きなマスメディアにおいて建築は、社会悪であったり非 難の対象として位置づけられていましたし、かつては建 設業の談合批判キャンペーンを、どこのメディアでも やっていました。建築で何か悪いことがあったとき、あ るいは瑕疵が見つかったときに、それを糾弾するノウハ ウがマスメディアの中ですごく蓄積されていたのです。 ところが、逆に建築を褒めるノウハウはほとんどありま せんでした。社会では、建築家、工務店、建設業の職人 などは、皆社会悪を担っていて、建築家は変な形で使い にくい建築をつくって垂れ流している。そのうえ分かり にくい言葉でしゃべって、それを正当化しているという ような位置づけでした。 長谷川堯さんが『神殿か獄舎か』(1972年、相模書房 刊)を書いたあとくらいから、私は、建築はたいへん面 白いもので、ひとつは文化的な指標であり、もうひとつ は社会の中で役に立つ重要な役割を担っているものであ ると考えていました。そこで、この大切さや面白さを広 く伝えるべきだろうと思い、建築のことを一般メディア で取り上げていくために啓蒙的な書籍を出そうと考えた わけです。 その時私は20代後半でしたが、それまで何十年にも わたって、『朝日新聞』の中には建築を非難するノウハウ が溜まりに溜まっている中で、一人で建築を褒めて書く ことは、実際結構大変でした。 まず、「建築家は、お金をもらって商売をしているだろ う」と言われます。しかし、これはいわゆるプロフェッ ションで、つまり弁護士のように施主が思っていること を社会化することによって料金をとっている、つまりモ ノを売っているわけではないと説明しても、なかなか理 解してもらえないのです。マスメディアの中には、もち ろん高等教育を受けた人もいるのですが、そのような人 たちを相手に、建築家の仕事が物品販売とは違うことを 理解させるのはかえって大変なことで、実は今もよく分 かっていないのではないかと思うことがあります。 その頃ちょうど、設計料入札批判がJIAを中心に行わ れていて、そのことを新聞で、宮内嘉久さんに寄稿して いただいたのですが、それに対しても、「安いものを頼 んで何が悪い」と非難のハガキが来ました。絵画の場合、 画料の安い絵描きに頼んで粗悪な絵を得るよりは、画料 をきちんと払って質の高いものを得ることが、文化的で 社会的な資産になると、定着していたはずです。しかし、 建築になった途端に、すべて建設業に関わる人間は諸悪 の根源で、社会の悪であると言われてしまうのです。そ の中で、私は、建築家と建設業を分ける気は全然ありま せんでしたが、そこのところの論理はできていても、理 解してもらうのはそれなりに骨が折れましたし、日々そ ういうものとやり合っていくことが実際には起こったわ けです。 ところがそれから30年以上経っても、この状態が一 向に直らない、かなり辛いものもあります。その原因の ひとつとして、社会的にいえば絶対に許せないような欠 陥建築をつくっている建築家に賞が与えられたりするか らです。そのようなことがある限りは、建築家に対する 信頼は一切なくなってしまいます。建築家は社会の中で ちゃんとした仕事をしている人たちだ、建築家の職能は 利益を求めるためにやっているのではない、施主が思っ ている、もしかするとよこしまなことも、建築家の手を 通ると社会化されていくのかもしれない。鈴木博之さん や藤森照信さん、長谷川堯さんなどをはじめ、私も、建 築批評をしている側からすると、せっかくそのように言 い続けてきても、建築家たちに背後から弾を撃たれるよ うな感じさえしてしまいます。「もう、何とかしてくれ よ」と言いたくなってくるのです。 私たちの職業は、建築家が自身の職能を全うして、い い作品をつくってもらって初めて成り立つ職業なのです が、もちろん数多くのいい作品もできていますが、建築 界の中だけの状況でいうと、全体としては、あまり進 歩・進化を感じられないという気がしますね。 今回のゲストは建築評論家の松葉一清さんです。現在、松葉さんは武蔵野美術大学で教 鞭をとられていますが、以前は『朝日新聞』の特別編集員をされていて、紙上で建築のこ とをたびたび記事にされていたとともに、いわゆる建築家向けではなく一般の読者を対 象に、雑誌や書籍で建築について書かれてきました。今日は建築評論家の視点から、こ れからの建築や建築家のあり方についてお話をうかがいます。 (『JIAMAGAZINE』編集長 今村創平)
メディアの役割、大学の役割
都市観をもった建築家を期待
特集
ネクスト:建築家のこれから
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松葉一清氏に聞く
交換をしていました。 それがだんだん、どこのメディアもそうですが、僕ら の40代くらいの時からネット時代に入って、情報の取 り方をデータベースを用いて書く記者たちが出てきて、 困ったなということが起き始めました。それがさらに今 ではWebの情報レベルで書いているから、みんなが低い 次元の中でお互いに相互承認してしまう。そうするとど んどん記事の質が悪くなっていきます。建築界の人では ない誰かがブログで「俺は3年間この場所へ通い続けて 見ているけれど、専門家は行っていない」などと書くわ けです。最初に誰がレールを敷いたかということがとて も大事で、例えば、軍艦島なども、最初に東京電機大学 の阿久井喜孝先生たちが、社会的に認められない中でも ずっと研究を続けていました。そのように最初にやった 人たちはすごく大変だったのですが、不法上陸をして、 軍艦島で「エロスと廃墟」というようなDVDをつくった りするような人たちが現れているのです。その後出し ジャンケンをメディアが追認してしまう。 メディアがいけないのは、いまだに平均値の存在を過 信していることなのです。それは、価値観は極端から極 端まであるので、真ん中の値を狙っていくことです。と ころが社会の質が低くなると、どんどん真ん中の値が低 くなっていく。それが、ブログの存在などで中央値がす メディアの質が低下している 今村 当初、松葉さんが新聞社にいらしたときは、建築 は、社会面、文化面どちらで取り上げられていたので しょうか。松葉さんご自身は、どちらに配属されていた のですか。社会悪としてニュースで取り上げる場合と、 建築にもいいものがあると社会に知らしめる場合とでは 違いがあると思います。最近の新聞紙面では、割と文化 面にアートや音楽と同じ扱いで建築の話題が出ることが 確実に増えていますが、当時はそうした線引きはどう だったのでしょうか。 松葉 私は基本的に文化の領域で書いてきました。ただ、 1980年代の『朝日新聞』でいうと、例えば社会部では事 件や不祥事として建築や都市を取り上げていたと思いま すが、書くときにはお互いに情報を交換していました。 例えば1980年代にMOSS協議(市場志向型分野別協 議)という日米市場開放協議があった時に、NTT本社を 市場開放することになったのです。NTT本社をどこに 建てるかも分からないのに、日米協議でそのような話が 出てきたため、深夜、私の自宅に社会部から電話がか かってきて、「このNTT本社というのは何なんだ」と聞 いてきました。そのように、文化部と社会部が、お互い に情報の質を保つために、双方で敬意を持ちながら情報 松葉 一清(まつばかずきよ) 1953年神戸市生まれ。京都大学建築学科卒。1976年、 朝日新聞社入社、特別編集委員などを経て、2008 年か ら武蔵野美術大学教授。「『帝都復興史』を読む」(2012 年、新潮選書)、『パリの奇跡―都市と建築の最新案内』 (1998 年新版、朝日文庫 )、『近代主義を超えて』(1983 年、鹿島出版会)など著書多数。2011年、日本建築学 会文化賞。
ければならないのです。 メディアで無責任に取り上げられる建築 今村 私が建築学科の学生だった1980年代の後半に、 東京都庁舎のコンペで丹下健三さんが1等賞になったこ とが新聞の1面に出ました。建築のコンペがニュースに 取り上げられたことは、結構新鮮だったように覚えてい ます。一方で同じ頃に、磯崎新さんがRIBAのゴールド メダルを取ったときは、『美術手帖』にはニュースが出ま したが、おそらく一般誌には出ていなかったと思います。 当時のRIBAのゴールドメダルは、おそらく世界で一番 の建築の賞で、いまだとプリツカー賞のほうが話題性が ありますが、いま、プリツカー賞を取ると、必ずあらゆ るメディアに出ます。テレビのニュースにすら出るくら いです。メディアで建築が文化的な一般的話題として取 り上げられることは確実に増えていると思います。 『Casa BRUTUS』などを見ていても、建築家でさえ知 らないような建築のマニアックな情報が瞬時に出ていま す。ただ一方で、そういう話題はニュースとしては扱わ れますが、ほとんど蓄積されていないように感じます。 松葉 私が大学にいた時は1970年代の前半ですが、当 時はまだ大学紛争の反動があって、建築をつくることは 犯罪であるという価値観が強かったのです。そのために、 建築の物書きのほとんどは、私より7学年上の鈴木博之 さんからちょうど私の年代までの間で出てきたのです。 鈴木さん、藤森さん、三宅理一さん、陣内秀信さんなど、 本来建築家になるべき人だったかどうかわかりませんが、 少なくとも、建築をつくることが犯罪であるなら論じて いこうという風潮がありました。それぞれに違うジャン ルを持つわけですが、優れた評者でもあった磯崎新さん や村松貞次郎さんの影響も強くあります。その意味では 書き手は揃いました。その代わり、設計している人があ まりこの世代にはいないのです。 また、いま建築専門の出版社ではなく、一般の大手出 版社である岩波書店や文藝春秋、新潮社などから建築の 本が建築の専門家によって書かれることが日常的になっ てきました。それはメディアに出ることと同次元の重要 なことですが、そのかわり、いつのまにか建築専門誌も 減ってしまい、建築の出版社も少なくなってしまいまし た。建築書の売り場へ行くとほとんどムックしか売って いません。15年くらい前までは磯崎さんや黒川紀章さん の建築論の本が棚の一番いいところにありましたが、今 や一番目立たない位置にしかありません。 ごく低いところへ行ってしまい、専門家への敬意や尊敬 の念を失わせています。 食べられない人がいる、年金が破綻している、介護保 険は大変だという社会全体の中で、建築の設計は何番目 に重要なのかと話し始めたときに、文化的なことは社会 問題を越えられないのです。でも越えなければいけない ですよね。建築は社会の中でとても大事なものをつくっ ているわけですから、一回つくったらどんなに短くても 30年は壊せません。極端にいうと100年もつものをつく るときに、社会も設計者も施工者も最大の知恵を出さな ければいけません。しかし最近、非常に浮わついていて 難しくなってきていると感じます。特に、価値観がバラ バラになってしまっている中で建築の設計をしていくこ と、あるいは建築家であり続けることの難しさや、危機 を感じています。 今村 建築家が良くないことをしていたとしても、建築 の専門メディアや、例えばJIAなどがそれを批判的に扱 えないのは、単に惰性であったり劣化しているのではな く、メディア自体が、インターネットなどのために、い まとても変わっていく中で、あるクオリティを保つこと が非常に難しい時代になってきているということですね。 松葉 メディアが自信喪失をしていますね。建築家自身 が自分で発信すればいいのかもしれませんが、社会の中 で、主体的に自分で発信していることもあまりないです よね。ちゃんとした仕事をしていることを、ちゃんとし たメディアが紹介して成り立っていくものなのです。そ こをもっとちゃんとしてくださいということは日本建築 学会にも何回も言っています。日本建築学会賞もJIAの 賞でも、ずっとやってこられている中で、いままでの基 準で続けていく限りは社会化できません。それは真剣に 考えていただきたいと思います。 今村 JIAは、ちょうど1年前に公益法人になり、JIAの 賞も、会員の作品に限らなくなり、なるべく広く、社会 的にアピールしていく方針になりました。それこそ一般 メディアにもJIAの賞について掲載してもらえないかと 思っていますが、私が最近知った中でも、賞の基準をど うするかは結構大きい議論でして、かなり喧々囂々とし ています。また、いろいろな建築家がいる中でその基準 を1つに絞ることは非常に難しいという現状もあります。 もうひとつ、この『JIA MAGAZINE』にしても、建築 家集団のJIAの機関誌ですから、各会員の作品を誌面に 取り上げようとしても、誰がどのような基準で取り上げ るのか。JIAという組織にあっても、多様な人を受け入 れながら、集団として社会でどう動いていくのか考えな
今村 建築は、一般の人にとっては実際に作品を見に行 けないので、うまく建築批評が広まっていくことは難し いのかもしれません。 そのような中で、藤森照信さんは、「建築探偵」で建築 の魅力を非常に面白く書いて多くの読者がつきました。 鈴木博之さんも、最近であれば東京駅の保存の問題など を、やはり分かりやすく書いたので、それによって東京 駅は、この10年くらいで保存する方がいいという空気 に明らかに変わっていきました。そういうメディアの功 績は明らかにあると思います。 松葉 東京駅問題に関しては、鈴木さんのやられたこと は大変なことだと思っています。 東京駅の保存運動は、どちらかというと、いいところ へ落着点を求めるためのものという感じがあって、つま り反対のための保存運動ではなかった。本当はメディア がきちんとその是非を論じるべきだったのですが、鈴木 さんは、それを超越して立つだけの知性、技量、そして 腹もおありだった。 JIAでも現代建築の25年賞を実施していますが、歳月 を生き抜いた建築は割とメディアもやりやすいのです が、今日できた現代建築をどう批評するのかというとき に、さっきの「現代建築の女王」では困るわけです。も ちろん名前のアイコンもすごく大事かもしれませんが、 ジャーナリズムやクリティシズムはそうではないはずで、 ザハ・ハディドには、いいものもあれば凡作もあり、社 会的に困った施主と組んだものもあることを客観的に伝 えていかなければなりません。それをどう仕分けしてい くかは、建築あるいは建築家や都市を社会の中で訴えて いくときのジャーナリズムやクリティシズムの基本です が、そこが、特に専門メディアの減少とともに難しく なっているように感じます。 都市の重要性 今村 松葉さんが初期の頃からいろいろ出されている本 を改めて拝見しますと、建築単体の評価とともに、1990 年に『パリの奇跡̶メディアとしての建築』を講談社現 代新書で出されているように、以前から都市に関心がお ありでした。いつごろから社会的存在としての都市に関 心をお持ちだったのでしょうか。 松葉 先ほども申し上げたように、私としては、建築が 社会に対して役に立つものだということを、ぜひ訴えた いと思っていました。でも社会というものは漠然として いて、具体的には建築が建っている場所が都市なのです。 建築がメディアに取り上げられることが確かに増えた とは思いますが、最近のメディアには問題があると思い ます。例えば「虎ノ門ヒルズの下を通るマッカーサー通 りがシャンゼリゼを目指している」というような記事が、 新聞の1面に出たりします。私たちは30年間建築批評 をしていますが、そのようないい加減な議論をしては来 ませんでした。一般メディアに建築を取り上げるときに は、できるだけ分かりやすく伝えようとしますが、その 際、読者が判断を間違わないように努めてきたはずです。 最近の公共放送のつくり方を見ていてもちょっと驚き ます。「現代建築の女王、ザハ・ハディド」のように、決 めつけたレッテルを平気でつけるし、ニュースで「天 才的な」というような言葉を平気で使う。我々の時代 は、建築に限らずメディアでは、客観化できない言葉は 使わないというのが一般的だったのが、アイコンのよう なものに変わってしまいました。そのうえ誰でも参画で きるという不思議な状態になり、ブログがそれをさらに 加速し、テレビ番組をつくるときに、そういうトーンの シナリオを書いてしまうのです。妹島和世さんの番組を 見たときも何か訳が分からなかったですね。世界で戦っ ていると思ったら、最後はいつの間にか東北になってい て……。ある時期から、出版社でもテレビ局でも、編集 者がつくらずに多くが外部プロダクション制作のように なっているのです。建築を知らない専門家以外の人がつ くっている状態が、建築だけではなくすべてのところで 起こっています。つまり責任ある人が責任ある目で見て いないのです。それは結構深刻な状態だと思います。 メディアの功績と責任 松葉 また、建築家は誰とでも仕事をしてしまいます。 建築家の施主である企業が社会的に見て問題がある場合、 私には取り上げるのにかなり抵抗がありました。ところ がいまはそこの節度がなくなってきて、建築家の皆さん をショーアップしていくとかライトを当てていくことが 日常化していくと、そのことを変だとみんなが思わなく なってきてしまいます。かつてはすごく気をつけていて、 昔はそういうことをやると必ず批判も来ましたけれども、 今やメディアはもうそんなものだと思われているのかも しれません。むしろネットやブログのほうが真実である と思っている人が世の中にはたくさんいます。その中で、 どうやって建築家を取り上げていくかは、デジタル環境 のさらに先に行ってしまうかもしれませんが、なかなか 難しいところかなという気がします。 公園の増設が続くパリのラ・ヴィレット
反映して建築を創造するかという問いに対するひとつの 大きな解答を得たような気がしました。そこでは帝冠様 式も何もかも超えて、しかも沖縄の図像や素材を使い、 しかし完全に現代のものになっています。その意味では、 象設計集団があの作品をつくってくれたことは、私に とって大変感謝すべきことです。名護を構成している集 落の数に従ってテラスの屋根を構成していることなどは、 地元の人にも説明できるし、造形としても高いレベルに いっています。私自身は、そういう都市や風土とのダイ アログを持てるような建築を探してきたのかもしれませ ん。 今村 この10年、20年、地域の特性を生かした環境建 築のようなものが増えてきましたが、かなり早い時期か ら象設計集団はやっていたということですね。 松葉 その都市のコンテクストをどう読むのかというと きに、象設計集団の樋口正一郎さん、大竹康市さん、富 田玲子さんは、かなり的確に読み取って造形としてもそ れを消化することができたのではないかと思います。 建築家の役割と責任 松葉 1986年にパリのラ・ヴィレットの公園を初めて 見に行きましたが、その時はまだ工事現場の状態で、学 芸員の女性に案内してもらいました。それから毎年のよ うにパリへ行って見ていますが、公園の数がどんどん 増えている中で、まだつくり続けているのです。今は 2014年ですから、30年近くも現代建築をつくり続けて いるのです。 今村 たしかにいまも、ジャン・ヌーベルによる大きな コンサートホールをつくっていますし、公園自体もつく り続けられているのですね。 松葉 ラ・ヴィレットの中の、小公園の数自体が増え続 けていて、誰かがそれをずっとやっているのです。例え ば、パリのサン・マルタン運河の両岸は、私が15年以 上前にパリ市役所の人に聞いたときは、国が大プロジェ クトをやっているから自分たちは下町の改善をやってい くのだと言っていました。とてもきれいにできたので すが、格段、どこかで紹介されているわけでもありませ ん。つまり、30年かかって取り組むということは、一生 をこれにかけている人が役人の中にもいるということで す。その人たちが、ベルナール・チュミと話をしながら つくっているわけですし、サン・マルタン運河の両岸も 建築家が当然入っているでしょうから、両者が話をしな がら、それ自体はすごく突出したデザインではありませ 建築の評価の基軸には、単体の造形として面白いものが できたとか、世界に先んずるような構造を使っているこ ともあるかもしれません。また、つくば研究学園都市や みなとみらいもそうですが、ある土地に建築ができた瞬 間に、その建築や都市の30年後を読むことは大変難し いことだと思います。建築を社会に役立てるという視点 は、都市にどう貢献できるか、役者でいうと、都市の中 でどんな配役をしていくのかだと思うのです。 それではそのときに、美しい都市とは何なのでしょう か。「美しい」というのはちょっと概念が広すぎるかもし れませんが、どのような景観だったら我々にとって快適 なのだろうかと以前から考えていました。 例えばアムステルダムの運河沿いの建築が、高さや階 高はそれぞれ違うけれども、ちょうど妻壁を同じ方向に 向けて、人が肩を組んで立っているように見える。もし そこで建築家が新たに建物をつくるときには、他と完全 に同じものをつくるのではないけれども、例えば妻壁で 段状切妻にする、縦長の窓を使う、素材はちょっと茶系 のものを使う、頭と脚の部分のデザインを切り替えると か、そういう作法でつくっていくでしょう。その作法の 中でどうやってものをつくればいいかというときに、ポ ストモダンに行き着いたのです。それぞれの想念で建築 をデザインしても構わないとは思いますが、そのときに、 景観に対する観念や、都市に対する価値観が問われてく るだろうと早い時点から思っていまして、現代建築が歴 史にどうやって貢献していけるかと考えたときに、都市 に価値を置かないとそこは見えてこないのではないかな という、それが一番だったと思います。 私は、建築がポストモダンのところへ行った時から、 建築一個のものが到達できる美の極致はあるとは思いま すが、それよりもそれが並んだときにどのような音色を 奏でるのかがもっと重要だと思っていました。 その際に、ポストモダンはある意味ボキャブラリーと なり、クリストファー・アレグザンダー流に言うとパ ターン・ランゲージでもいいのですが、レファレンスと かコンサルトできる辞書みたいなものから引いて建築を つくっていったほうが多くの人にとって歩留まりが高い だろうと私は考えました。ただ、このボキャブラリーが 西洋的なものだけでいいのかというところに行き当たっ ていきます。 このあいだ、象設計集団の名護市庁舎を改めて見てき ましたが、あの建築は、日本の建築家がつくった日本の 現代建築として、ある種の国家主義を超越していると思 いました。現代においてどうやって日本の風土・気候を ラ・ヴィレット公園 べルナール・チュミのフォリーの 前でサッカーに興じるひとびと
問題もありましたが、江東区住吉へ行くと、昔はちゃん と病院もあってコミュニティがあり、渋谷へ行くと、ま だ共同の浴場があって、1980年代にはまだその外に薪を 積んでいるのが見られました。食堂もあって、まるで ウィーンの集合住宅のような感じでした。以前ウィーン へ行った時に、どこかで同潤会に迷い込んだような感じ を受けました。コピーなのかもしれませんが、それにし ても、よくこんな同時代に同じ空間を東京につくること ができたなと思いました。 山田守について調べたら、ドイツの雑誌を毎月輸入し て熱心に読んでいたそうです。今我々はアメリカのこと もドイツのこともよく知りません。しかし、昔、情報環 境が悪い時に、私費を投じて山田さんはドイツの雑誌を 毎月必ず読んでいたのです。そうした知的欲求が建築界 にあったがゆえに、設計したのは山田さんではありませ んが、同潤会のようなものができてくるわけです。建築 家の覚悟というのは、そういうところにあるのではない でしょうか。ある時関東大震災が起こった。その時に力 を出すための日常的な素養の積み方や訓練の仕方が、社 会に貢献する本来の建築家の力になる。東海大学の創始 者である松前重義や山田守は、表現も大事だけれどもテ クノロジーも大事だということで、技術者協会をつくり ました。建築家がそのようなことをしていた頃に比べる と、今回の震災に関していうなら、こんなに復興が遅れ ていること、何万人がまだ仮設住宅にいることに対して、 建築家が役割を全うしていないように感じてしまいます。 建築家として、自分の社会的地位に見合った、建築家 の本業として何かできることが本当はあるはずで、そ れが、私に『『帝都復興史』を読む』を書かせたひとつの きっかけだったのです。 そういう意味では、建築の社会性に対して大いに期待 もしていますが、半世紀たっても、なかなか達成できて いないという感じはすごくしますね。 建築家を選ぶ側にも見識が必要 今村 この本の中に書かれていますが、関東大震災から 6年後に帝都復興祭が開催され、市民が熱狂するような 明らかに目に見える形でのかなりの成果があったわけで す。当時と何がここまでちがうのでしょうか。建築家の 力が低いと言われてしまうと、それまでですが……。建 築家も、努力はしているのだけれど、せいぜいできるこ とはワークショップくらいで、それ以上に入るというこ とがむずかしいという話をよく聞きます。 んが、大変きれいに人が歩きやすいプロムナードとして 整備されています。 フランス革命200年の1989年にパリ・サミットがあっ て、社会党の大統領フランソワ・ミッテランが高度の文 化的見識と莫大な国家予算を使い、文化施設によって都 市を再構築・再構成していきました。それと前後して始 まったことがずっと継続している。職業意識、プロ意識 とはこういうものなのかなと感じました。おそらくそれ は、役所の建築を出た人もそうですし、建築家もそうな のでしょう。それがパリを支えているのです。それは新 しいパリなので、日本人が観光に行くパリではないかも しれませんが、オスマン以来1850∼70年代くらいから 150年間、ずっと誰かが、名前が出るわけでもなく職業 を全うしてやり続けてきて、街や後世の人にいいものを 残して継承していく、そういうことの啓蒙を日本で今や らなければいけないと思って書いています。帝都復興の 時にはそれがあったのではないかと思ったのです。 今村 松葉さんの近著『『帝都復興史』を読む』(2012年、 新潮選書)は、ちょうど東日本大震災のあとに出版され ていますが、関東大震災を契機に我々の都市が時間をか けてどう作られてきたかが書かれています。 松葉 復興小学校を117校もいっぺんにつくった東京市 の建築家、しかもモダンデザインを子どもたちに与えよ うとした彼らの気概に対して大変敬意を抱きましたし、 その時に建築家はちゃんとした仕事をしていたと思った のです。 調べると、600もの橋を架け替えたり、補修したこと もわかりました。それには建築家の山田守や山口文象も 参加していたのです。どうやって10年くらいで数百も の橋を架け替えたのでしょうか。震災だから早く復興し なければいけないことはあったにしても、それだけの橋 を5、6年で架け替えるということは、3日に1回くらい 竣工しているわけです。それを考えると今の東北は何も できていません。もっと建築家にできることがあるので はないでしょうか。例えば大建築家と言われる人たちは、 自分でつくるのではなく、もっとちゃんとみんなにス テージをつくるために奔走するべきなのに、建築界にそ れをやる人がいないのです。そうすると復興していくと きに、いったいどうなってしまうのでしょうか。それな ら、1925年前後のことを参考にした方が良いのではない のかと思いました。 当時、もちろん政治家もちゃんとやっていたのでしょ うが、建築の人材がいたことも確かです。そうでないと 117校も小学校を設計できません。同潤会にはいろいろ ヴィレット運河の新装されたプロムナード
ちんとしたものをつくらないと恥ずかしいという意識が 薄れてしまったのかもしれません。 松葉 それと、債券化の影響もあるでしょう。施主が REITになったためにオーナーがいなくなってしまい、 次に転売できるものしかつくらなくなってしまいました。 学生に都市への価値観を持たせる 今村 松葉さんは、社会や都市に対してご自身で考えら れているモチベーションが変わっていく中で、5、6年前 に大学に入られて若い学生と接する立場となったときに、 何を教えなければならないと感じていらっしゃいますか。 松葉 今大学で教えていて一番感心しているのは、学生 は一人もモダニズムの建築をいいと思っていないという ことです。彼らにとっての象徴は世界遺産だと思います。 レポートを出させると、別に誘導しているわけではあり ませんが、みんな「モダニズムの建築、コンクリートの 打ち放しの建築が並んでいる姿を想像するとゾッとしま す」などと、はっきり書いてきます。それは、彼らが子 どもの時から、中学・高校のサービスプログラムでヨー ロッパなどにホームステイで行っていて、その時にベネ チアや、ローマ、パリなどを見てきているのです。それ とネット情報が重なると、見たことがあるからもう行か ないということにつながって、それは困ったことなので すが。そして体験的に、国立西洋美術館が世界遺産にな るはずはないと考えているわけです。それは私はすごい ことだなと思っていて、つまり、ある種複眼的に物が見 られるようになっているのです。武蔵野美術大学の校舎 は芦原義信先生の名作だと言っていいと思いますが、打 ち放しコンクリートのこの建築を、学生はどう思ってい るのかなと興味がありますね。 今村 教えていらっしゃるのは建築学科でしょうか。 松葉 美学美術史を教えていますので、建築の学生に限 りません。4コマ持っていまして、2コマが学部、2コマが 大学院です。院の現代都市論の講義は、院としてはかな り多い70人くらいの学生が受講していまして、そこで 都市について教えています。前期は、江戸の末期から始 まって、震災復興からバブルに至るまでの東京を、後期 は、パリ、ヨーロッパの近代都市の見方について教えま す。学生たちは、自分がヨーロッパへ行くときの助けに なると思って講義を受けていることもありますが、私は 都市というものがどのようにできてきたのかを解説して、 都市に対して価値観を持ってほしいという意図で講義を しています。学生には、建築だけではなくファインアー 松葉 それはどうなのでしょうか。おそらく社会に人材 はそんなにはいないと思います。ですから適材適所に人 を使っていかないといけない。日本だけではなくて、ど この国もそんなに人材はいないはずですから、結局、人 を配置する人がどれだけ見識があるのかだと思います。 ミッテランは高い見識があって、しかもほとんどフラン スの建築家を使わないでやっています。そういう責任あ る者が都市をどうやって構築して、それを誰に委ねるの かが重要です。結局、人材配置をするだけの見識がない ということは、為政者に都市や建築に対する見識がない ということです。 そうすると、選挙で人を選んでいくときに、その素養 を選ぶ側がどうやって見ていくか。選ばれた人は選んだ 人の反映でしかない。鈴木博之さんは経済学部へ行って 教えたりしていましたが、そういうこともすごく大事な ことだと思います。ヨーロッパやアメリカでは、それだ けの見識がないと人の上に立ってはいけないのです。そ のために少年期の最後にグランドツアーにローマへ行く ようなことが大切なので、そこからつくり替えていかな いと、なかなか後藤新平を児玉源太郎が抜擢するような ことは起こり得ません。 建築家は、みんな職能を持っていて、1万人の丹下健 三をつくろうとした我々の時代の教育がいいかどうかは わかりませんが、今は実務的な教育が欠けている上に、 世界観があるのかというとそうではない。私も大学にい ますが、都市は少なくとも、経済のある種の原動力だっ たりインキュベーターだったりするわけですから、都市 観というものをしっかり教育していくことを各大学の大 学教育全体の中でやるべきではないでしょうか。そうい う人が、いずれ為政者となったり官僚となって執行して いく。そのときに建築家は有力な相談相手になりますか ら。そのあたりをどうやっていくかだと思います。 今村 二川幸夫さんは、日米でクライアントがいなく なったと書かれていました。すぐれたクライアントとし て有名なのは、シーグラムビルの設計を、シーグラム社 の社長の娘であるフィリス・ランバートがミース・ファ ン・デル・ローエに依頼したことなどが挙げられます。 日本でも、今大正や明治の頃に建てられた企業の本社ビ ルなどで、いい建築が現存しているのは、当時企業家に はそれなりの文化的教養があったので、自分の会社のビ ルをつくるときには、それなりの建築家に頼まないとい けないというような見識をもっていたのでしょう。だか ら日本にもそういう時代があったのだと思います。アメ リカナイズなのかもしれませんが、自由になった分、き サン・マルタン運河につながる スターリングラードのルドゥーの建築
えてくると、たぶん都市に対する感じ方は違ってくるの だと思います。 松葉 例えば、日建設計の小倉善明さんが手掛けた大崎 駅の東口へ行くと、スターバックスが一番いい位置でい い空間をつくっていて、みんなそこで長く楽しい時間を 過ごしているのです。そういうところをみんなが300円 くらいで活用しています。そして、その横には大きなア トリウムがあって、エプロンのところで辞書を持ってき た女性たちが翻訳の作業をやっている。そこが無料なの ですね。ああいうところを使うのが本当に上手だなと感 心します。 私は、さっきの「世界遺産万歳、モダニズム終わり」 という感覚を、多くの人たちが体感的に持っているよう な気がしていて、この社会の中で建築の話をしてきて良 かったかなという感じがしています。 今村 例えば学校の課題では図書館を設計しなさいとい うような従来のことがなされていますが、一般の人たち はもっと自在にやっているわけですよね。 松葉 銀座のようなブランドのロゴばかり出ている街を つくらないでほしいのです。代官山などのTSUTAYAを 見ても、みんな使うのが上手になっていて、それは捨て たものではないですね。その仕掛けを建築家ができない のは困ったことで、建築家にもっと頑張ってほしいと思 います。そのような空間の良さがREITのあたりから無 くなってきたのではないかと危惧しています。 ヨーロッパには駅前や中心地に巨大なパブリックに近 いカフェがあって、観光に来たらそこから出発して、ま たそこへ帰ってくることができます。そういうのが銀座 には全然ありません。 建築家のみなさんには、ぜひ自分たちの都市をどうい う都市にするのだという都市観を持ってほしい、そして そのときに、自分の建築がどういう役割を果たすのかを 考えていただきたいです。 今村 今日は貴重なお話をうかがうことができました。 どうもありがとうございました。 (2014年5月2日 JIAで収録) トの人もいるし、デザイナーの卵といった、広い意味で クリエイターになる人たちを対象にしています。 今村 実際に製作する人もいれば、ディレクションをす る人もいるでしょうから、そういう人たちにも建築や都 市に対するリテラシーをもってもらうということですね。 松葉 いまだにモダニズム万歳をやっている先生が日本 中にいっぱいいます。私ももちろんル・コルビュジエを ちゃんと教えていますが、自分で撮った写真を使うこと で、説得力を持って、どちらの考えでもいいんだよとい う教え方です。 これは鈴木博之さんが、昔、書かれていたと記憶して いますが、批評家はお百姓さんだというのです。植わっ ている作物を、どれもがしっかり育つようにするのが俺 たちの仕事だというようなことを、確か書かれていて、 その時にすごく共感しました。つまり、100の種類の作 物が植わっているならそれらが全部育つようにするのが 仕事である。建築家にしっかり育ってほしい、社会的な 目を持ってほしいと思っているのです。私は、それを少 し翻案して授業では「様式に善悪をつけるな」と話して います。つまり、これが絶対善で、これはダメだという 言い方はしないということです。私もゴシックは好きで はないけれど、悪いわけではない。特に、排他的なモダ ニズム信仰のように他の99の様式を絶やすようなこと はしてはいけないと言っています。 また、様式は必ずリバイバルが起こっているという話 もしています。例えばウィーンの1880年代の5年くら いの間に市役所と国会議事堂とブルク劇場と大学がつく られましたが、全部違う様式でできていて、1880年代に それぞれの建築の内容に見合った異なるスタイルを充 てる様式選択をしていたのです。そのうえで「君たちは アートをやっているわけだから、ちゃんと複眼的な目で 見て好き嫌いを言いなさい、善悪で言ってはダメだ」と よく話しています。 都市をうまく使う人が増えている 今村 いま日本国内だけではなく、世界的にそうだと思 いますが、昔より都市の時代になっているせいなのか、 みんな自分たちで自由に都市を使うことが明らかにうま くなっています。 松葉 そう、例えば私的企業のパブリック空間などをう まく使っていますよね。 今村 公共広場を計画しようといった議論ではなくて、 そういう都市を使うことにたけた人たちがだんだんと増 『『帝都復興史』を読む』 (2012年、新潮選書)
「台風銀座」と呼ばれている宮古島 台風は通年28個前後発生し、そのう ちの7∼8個は宮古島に接近している。 台風の進路は宮古島をまるで転向点にし ているかのような経路を描き北上してゆ く。また、沖縄県内の台風の最大瞬間風 速の1位から4位までを宮古島で記録し ている。 それでもたまには台風に襲われない年 が数年続くこともあるのだが、そういう 年は干ばつ、農作物に被害を及ぼす虫の 大量発生、海水温の上昇でサンゴ礁に白 化現象等々、不都合なことが起きる。 台風はこのような被害だけではなく、 思いもよらない恵みをもたらすものでも ある。まして、表土の浅い隆起珊瑚礁の 島では、暴風の倒木は後の土壌をつくる のだと気づけば台風を嘆くことばかりで はない。宮古島は、このように台風と共 にあると言えるようだ。 台風と共に暮らす 2003 年 9 月 11 日、宮古島は、35 年ぶ りという超大型台風に襲われ、これまで にない被害規模であった(写真1)。 しかし、このような大災害のなかに あっても、古くからの姿を残す集落は、 意外にも大した被害はなかったのである。 そこは地形に寄り添い、道は曲がり、蛇 玉道、Y字・T字路、ほどよくずれた四 辻、石垣やブロック塀の内にはフクギの 屋敷林、そしてそれらの連なり等々、暴 風を和らげるように工夫がされている。 さらにその結果は、涼風をまねき入れる ことにもなり、穏やかな日常空間とも なっている。島は外洋の大波から、珊瑚 礁で護られ、さらに、砂浜、防潮防風林 などの緩衝帯でつつまれて環境集住体と してある。宮古島の住まいは、単体とし て存在しないということを深く認識させ られる(図2、写真2)。 竹富島での気づき 30年ほど前であっただろうか、石垣 島へ出かけたついでに竹富島へも渡って みた。そこで思いがけず大きな収穫を得 た。その頃の私は事務所を開設してまだ 日が浅く、自分の故郷だとはいえ宮古島 での住まいの設計は、親の家の設計以外 は経験がなかった。クライアントの要求 の素人的感覚と専門的理屈がぶつかった 時、その不合理性に驚き、同時にその時 にそのわけを知りたく、飽くなき探求心 も芽生えるが、悩みの連続でもあった。 ところが、竹富島の集落の白砂の道に 立った瞬間、トランプのカードがめくれ るように、答えが目の前に広がっていた。 どの敷地も南を向き、そしてどの家も南 を向いて建っている。敷地の条件が同じ なら家の造りもほぼ同じ、家と家が向き 合っていないので表の道は専用通路のよ うなもので、沖縄の伝統的な集落景観で ある(写真3)。 住まいの典型は敷地の同一条件のもと で成立するものだという、当たり前の ことにとても感動したのだった。その時、 クライアントの要求の根っ子にあるもの が理解できたように思う。そこには今 時のような閉ざされた玄関の構えはなく、 石垣の門から家までの間に開かれた庭が あり、雨あま端はじ、一番、二番の表座、そして 奥の方には裏座がある。そのように家の 私的領域は緩やかに守られ、開きつつ閉 じるという難題を平面計画で巧みに解決 している。なんとスマートなことか。 われわれの先人たちは、南アクセスを この島の環境の必然として住まいを編み 出し、そして住み続けてきている。私が 設計した家のほとんどの人々は、このよ うな南アクセスを好む。それはDNAに 組み込まれているのかと思われるほど理 屈抜きだ。方位感覚は非常にアバウトで はあるが、 陽と陰を感覚的に使い分けて いる。傾向として陽の方のアクセスが好 まれ、陰のアクセスを嫌う。私の好きな 「吉村順三自邸」 のような陰のアクセス タイプは、残念ながらすぐに却下されて しまう。だから竹富島の集落での気づき は、長い長い定住生活のなかで身につい たDNAのようなものだ、と納得せざる をえなかった。 この南アクセス、「吉村邸」 のようなプ ライベートな庭ではなく、外部に開かれ た庭となっている。表の道のパブリック 空間から、門を通って入る庭はセミ・パ ブリック空間であり、家の軒下(土庇: 雨端)から開かれた表座までは、セミ・ プライベート空間となり、床の間や仏壇 の奥の裏座はプライベート空間となる。 このように外部のパブリック空間から 内部のプライベート空間の間に何段階に
【宮古島】
隆起珊瑚礁の島
会員便り
宮古島は、北緯 24°50、東経 125°20 の位置にあり、東京から 1997km、沖縄 本島から 334km南に離れ、台北よりもやや南にある。 隆起珊瑚礁によって形成された平坦な地形の島は表土が浅くまるで洋上に浮か ぶ船のように、常に海からの風を受けている。その上、台風の常襲地でもある ので、樹木は高木に育たず、樹形はずんぐりとし、風吹く様を姿にしている。 住宅省エネルギー標準では蒸暑地の 8地域に指定されている(図1)。 写真3 竹富島の集落 図2 写真 2 宮古島狩俣集落(左)、水納島(右) 写真 1 台風 14 号(2003 年)の被害 図1伊い志し嶺みね敏とし子こ (沖縄支部/伊志嶺敏子一級建築士事務所) 宮古島で住まいの設計を進める上で何 よりも優先する課題は、耐台風型である こと。そして、蒸し暑い夏を快適に過ご せるということである。言い替えてみる と、シェルター性を高めるには閉じ、ア メニティー性を実現するためには開く、 つまり 「閉じつつ開く」 という相矛盾し た課題を抱え込んでいることになる。先 人たちもこの課題に翻弄されていたであ ろう。非日常の台風災害に備えて閉じる ことを優先させてしまうと日常が快適さ を失い、またその逆では被害をこうむっ てしまう。じつに悩ましいことだ。 だから先人たちは、風水の良い場所を 選び、集まって住み、環境集住体として 「閉じつつ開く」 手法を形にしてきたの だと思われる。そこにはあらゆるレベル の緩衝帯が幾重にも重なり、強風を弱め、 涼風を引き入れている。また、各々の家 にはプライバシーにグラデーションがあ り、共用スペースを広く設け開放性を無 理なく実現している。それはまさに島空 間の 「環境共生住宅」 そのものである。 このように、知恵の集積した環境集住 体のDNAを引き継ぎ、その基本要素を 3 つの原則としてもうひとつの南島型環 境共生住宅を始めたいと考えた(図4)。 ここに掲げた南島型環境共生住宅の3 つの原則で団地の建て替えを試みた(図 5、写真 4 ∼ 6)。 環境と人間の関係は鶏と卵の関係にも 似ていると言われるが、設計に携わる者 としては、環境が人を育み、そこで育っ た人が良き環境をつくるという循環を、 この足元から学んでいる。 1. 緩衝帯: 人と自然とのゆるやかな関係 2. プライバシーのグラデーション: 人と人とのゆるやかな関係のバランス 3. 広がる共用スペース: 開かれた人間関係 図4 南島型環境共生住宅の3つの原則 図5 図3 写真 4 宮古島市営馬場団地 (1987年~1997年) 写真 6 宮古島市営北団地(1999年~2004年) 写真 5 沖縄県営平良団地(2000年~2002年)
JIA
の
活動紹介
準会員
(ジュニア会員)
と学生会員
はじめに 北陸支部は、あまり本部の意見や方針に従わない支部と して知る人ぞ知る支部です。芦原会長からも昨年の北陸支 部大会で「言うことを聞かない支部」とお褒めの言葉をい ただきました。ただし、JIAの理念や建築家の職能を無視 しているわけではありません。真摯な態度で議論もします が、個々の事業について会員が考え、望んだことを、楽し く行っているだけです。準会員(ジュニア会員)や学生会 員についても、若い世代に、先輩である正会員・建築家の あるべき姿を見ていただき次の世代を引き継いで欲しいと の考え方で、本部の承認もなく勝手に始めた制度です。と はいえ、本音は活発に動く若い人たちが欲しかったという 単純な理由であることも事実ですが……。準会員(ジュニ ア会員)は2002年から、学生会員は2010年から募集を始 め、三地域会(福井・石川・富山)のいろいろな活動に参 加してもらっています。若い世代が参加することは活動を 盛り上げ、正会員の意気も上がるように思います。 準会員の誕生と活躍 最初のきっかけは、JIA全国大会を10月に控えた2001 年8月8日の大会実行委員会です。 清水純「委員長、だいぶ大会の中身も決まったけど、会期 中はいろいろな作業もあるし若い人の協力が欲しいです ね」 水野一郎「金沢工業大学出身で地元の設計事務所に勤めて いる若い人たちに協力してもらうか。せっかくの大会だ し、全国からいろいろな建築家も集まり、彼らの勉強に もなるしね」 全員「いいですね。若い人たちを集めましょう。これで少 しは楽できそう」 (実行委員会での会話) というような、何ともいい加減というか安易なきっかけ でした。結果として、協力してくれた人たちは、ホスピタ リティ精神を発揮し、本当によく働いてくれました。おか げで全国から来ていただいた皆さんの評判も良く、大会は 成功裡に終えることができました。同じ設計を生業とする 先輩であり、普段接することのない個性的ないろいろな正 会員と同じ目標に向かって作業をする中で、自然と連帯感 も生まれてきたのでしょう。大学を卒業して社会の荒波に 揉まれ始め、もくもくと仕事を覚えている忙しい彼らに とっても、大会への協力は刺激的で楽しかったと思います。 また、正会員にとっても他の会社の、これまた個性的ない ろいろな若い人たちと触れ合い、若いエネルギーを吸収で きたことは刺激的な出来事でした。 この全国大会を機に北陸支部・三地域会では、支部大会 をはじめとしていろいろな方向へ事業が拡大し、活発化し たことは確かです。 味を占めたわけではないのですが、事業が拡大したこと もあり、翌2002年にまずは石川地域会から準会員募集を 始めました。単なる盛り上げ役としてではなく、JIAの活 動を通じてJIAの理念や建築家の職能について知ってもら い、正会員へのステップとして制度をスタートさせたので す。 2003年度、水野一郎会員が支部長となり、北陸支部は 正会員・賛助会員・準会員は全てJIAの会員であるとし、 全ての活動に対して三位一体で取り組む方針を打ち出しま した。支部総会では、議決権こそありませんが賛助会員と 準会員にも次年度の事業方針・事業計画を周知してもらう ために、出席を促し自由な意見を出してもらうようになり ました。地域会ではさらに組織にも賛助会員と準会員を組 み込み、地域会役員会や定例会にも出席し、会員全員で企 画段階から事業に対して議論するまでになりました。確か に支部大会や地域会フォーラムなどの自己研鑽の場や建築 ウォッチングなど楽しい企画に、若い準会員が自主的、積 極的に参加することにより、正会員や賛助会員も引きずら若手建築家や学生への取り組み
JIAでは、正会員・名誉会員・協力会員の他に準会員制度を設けています。その中でさらに、 建築家を目指していてまだ正会員資格要件に満たない人を対象にしたジュニア会員、建築家 を目指す学生を対象にした学生会員の枠を設け、JIAの門戸を広げています。今号では、いち 早く独自にジュニア会員・学生会員制度を取り入れていた北陸支部の試みと、学生向けの設 計コンクールについて取り上げ、若い建築家や学生に向けての JIAの取り組みを紹介します。 建築ウォッチング 準会員も多数参加北陸支部の取り組み
忙な毎日を送っていますが、気持ちに余裕があるのは確か です。資格を持たない準会員は一番の目標はやはり資格取 得であり、これまた多忙な毎日を送っていて、純粋にJIA 活動に没頭できないように思われます。蛇足ですが、実務 訓練による登録建築家制度が何となくうまくいかないのも、 一級建築士取得の方が優先課題だからではないでしょうか。 一級建築士は「取っても食えないけど、取らないと気持ち の悪い足の裏のご飯粒」です。この現実的な差がある準会 員(ジュニア会員)に対して、「頑張れ」としか言えない正会 員ですが、JIAの中で建築家の理想を追求する姿を見せて いく責任は大きいと感じます。 学生会員の募集を始める 北陸支部・三地域会は多くの事業に取り組み、その内容 は他の支部に劣らないと自負しています。事業が多いゆえ に全てに関与し参加することは困難です。活動への協力も 三位一体とはいうものの不十分です。ただ、一般公開の事 業に対して建築系の大学生や専門学校生はかなり足を運ん でくれます。そこで準会員(ジュニア会員)同様、働き手 を探そうと、またまた安易な発想で学生会員を募集したの が2010年11月です。石川地域会では、こども建築塾での 指導的立場としての協力や「いしかわ建築大賞」での投票 参加をお願いしています。事業に参加する学生会員は、建 築に対する熱い思いはあるものの、一番の目標はスキル向 上と就職です。ここでも「頑張れ」としか言えないのです が、建築文化の創造・発展を目指し、地域に貢献する正会 員の姿を見せることが大切だと感じています。 おわりに 次世代を担う若い準会員(ジュニア会員)・学生会員に、 会員種別は違っても同じJIA会員として、どう接していく べきなのか、正会員の皆さんの思いはいかがでしょうか。 古い記憶を辿っての稚拙な文章となりましたがお許し下さ い。最後に、JIAは公益社団法人となり他の団体との差別 化・ブランド化を図り社会にアピールしていかなくてはい けません。北陸支部では準会員(ジュニア会員)・学生会 員のJIAでのますますの活躍を期待して、公益社団法人JIA の会員である誇りを持ってもらうべく、会員証を早急に発 行したいと考えます。 清水 純 (石川地域会/釣谷建築事務所) れて全体的に事業も活性化し、福井・富山地域会にも準会 員が増え、支部の制度として確立しました。 2006年、石川地域会主催で開催した作品展「あしたの 建築展」は、まさに三位一体での取り組みの成功例となり、 賛助会員・準会員も拡大するきっかけとなりました。新し くオープンした金沢21世紀美術館で5日間開催したこの 作品展は、建築の意味や楽しさ、夢みたいな部分を市民に 見てもらい、JIAや建築家の存在を地域社会の中で強める ねらいでした。正会員と賛助会員の団結や次世代を担う 準会員が大きな力を発揮しました。1/500の金沢市都心部 巨大模型を中心に「会員みんなで創る作品展」を主眼とし、 展示方法や内容についても三位一体、みんなで議論する場 を数多く設けました。正会員企画の建築フォーラムや職能 講演会、正会員と賛助会員コラボでの住宅セミナー、賛助 会員企画の建材実験展、準会員企画のこども建築塾「新聞 紙ドーム」など、各会員が知恵を出し合って創り上げた作 品展になりました。この作品展ではさらに、広報、ポス ターからグッズ制作を準会員に一任しました。ポスター制 作では準会員がコンペよろしく案を出して、全員で選出す るなど準備段階でも楽しい作品展となりました。準会員に とっては一人の建築家として、この作品展を通じた同世代 や正会員・賛助会員との交流は、刺激的で大きな活力とな りました。準会員の活動領域もこれ以来大きく広がったよ うな気がします。 現在、北陸支部の準会員(ジュニア会員)は53名(福井7 名・石川27名・富山19名)です。各地域会の活動におい て正会員の参加が少ないなか、欠かせない存在となってい ます。しかし、準会員は大きな問題を抱えています。それ は「一級建築士」資格取得です。資格の有無は準会員の中 に見えない大きな溝を作っているようです。資格を持って いる準会員は、それぞれの会社で中核をなす社員であり多 準会員が企画したこども建築塾「新聞紙ドーム」(2003年)