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大正大学大学院研究論集37号 011新藤篤史「17世紀ハルハのチベット仏教-ジェブツンダムパにまつわる諸問題-」

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Academic year: 2021

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17世紀ハルハのチベット仏教

 

ジェブツンダムパにまつわる諸問題

ハルハ(現モンゴル国の前身)随一の高僧とされるジェブツンダムパの系統は、 17 世紀に登場してくるハルハの統治者の一人トシェート=ハーンの息子が「第1世」に 認定されたことによりはじまった。8代目の転生者は1911―24年の独立モンゴ ル国の元首であった。これはジェブツンダムパに対するモンゴル人の尊崇心を示す事 例 と い え る。 そ し て 、 こ の よ う に 転 生 す る 高 僧 の こ と を チ ベ ッ ト 語 で ト ゥ ル ク と い い 、 ジ ェ ブ ツ ン ダ ム パ は ハ ル ハ で 最 も 崇 拝 さ れ た ト ゥ ル ク の 一 系 で 、 ハ ル ハ の チ ベ ッ ト 仏 教 を 象 徴 す る 存 在 で あ る 。 ここでは、 17世紀後半のハルハにおけるチベット仏教を考察する一環として、この 時 期 に 活 躍 し た ジ ェ ブ ツ ン ダ ム パ 1 世( 1 6 3 5 ― 1 7 2 3) に 焦 点 を 絞 り、 『 ジ ェ ブツンダムパ 伝 ( 1 ) 』(以下『伝記』 )にあらわれるジェブツンダムパ像を提示していく。 ジェブツンダムパが他地域の史料に登場するのは、1686年のクレーンベルチル の会盟の記事においてかと思われる。当時、 ハルハは左右二翼に分れ対立状態にあり、 これを調停する目的で、ハンガイ山脈の南面バイダリク河の渓谷にあるクレーンベル チルの地で開かれたのが、件の会盟であった。その頃、中国では1636年に成立し た清朝が1661年に即位した康熙帝のもとまさに黄金期を迎えようとしていた。康 熙帝は1681年に三藩の乱を解決し、政策の矛先を国外へ向け始めた。当面の相手 は ロ シ ア で あ っ た が、 そ う し た 時 に ハ ル ハ の 問 題 が 浮 上 し た の で あ る。 康 熙 帝 は 、 こ の ハ ル ハ の 内 乱 が 内 モ ン ゴ ル に 波 及 し 、ま た 北 方 国 境 の 安 全 が 脅 か さ れ る こ と を 憂 慮 し た 。 ク レ ー ン ベ ル チ ル の 会 盟 に 関 し て は、 『 親 征 平 定 朔 漠 方 略 ( 2 ) 』 が そ の 経 緯 を 詳 し く 伝 えている。まとめると、1684年、康熙帝がハルハの者達がダライラマ(5世)を 崇 拝 し て い る こ と を 考 慮 し、 ダ ラ イ ラ マ に 書 状 を 送 り、 会 盟 を 開 く こ と を 提 案 し、 1686年、会盟が開かれた。その時、チベット側からダライラマの名代として、ダ ラ イ ラ マ の 宗 派 ゲ ル ク 派 の 総 本 山 ガ ン デ ン 寺 の 座 主 が 立 会 人 と し て 訪 れ た。 そ し て、 ハルハから会盟の依怙尊として招かれたのが、ジェブツンダムパであった。この会盟 で ハ ル ハ の 平 和 は 約 束 さ れ た が、 翌 年、 西 モ ン ゴ ル・ ジ ュ ン ガ ル の 首 長 ガ ル ダ ン か ら、会盟においてジェブツンダムパとガンデン寺座主が同じ高さの席で会見したこと は大いに理に反するものであるとの書状が、清朝とハルハに届き事態は一変する。ハ ル ハ の 対 立 は、 ガ ル ダ ン の 介 入 に よ り、 ハ ル ハ 左 翼 と ジ ュ ン ガ ル の 構 造 へ 変 化 し た。 1688年、ガルダンがハルハ最古のチベット仏教寺院エルデニ・ジョーを攻め、ジ ェブツンダムパはハルハを逃れ清朝へ亡命することを余儀なくされた。ガルダンは再 び清朝に書状を送り、ハルハ侵攻の理由はあくまでジェブツンダムパとトシェート= ハーンがダライラマに背いたからであるとした。こうしてジェブツンダムパは、ガル ダンがハルハを侵攻するうえでの口実になったことで、広く認知されるに至った。後 の展開は、ハルハが清朝に帰属したことにより、ジュガルと清朝の対立構造へと拡大 していく。 ジェブツンダムパ研究において、ジェブツンダムパがなぜガンデン寺座主に対し師 礼を怠ったのかという問題は常に議論の的である。そして、従来の見解の一つは、ま ずジェブツンダムパがチベット仏教チョナン派ターラナータの転生者であった点があ げられ、さらにチョナン派が1650年にダライラマ政権により粛清されたことが述 べられる。要するに、ジェブツンダムパにとってダライラマおよびゲルク派は、前世 者の宗派を潰した張本人ということになり、ゆえにガンデン寺座主に対し師礼を怠っ たということになる。 宮脇淳子氏は、ジェブツンダムパがターラナータの転生者であると認定したのはチ ベット側ではなく、ハルハ側で、そこから当時のハルハにはゲルク派以外の宗派が普 及 し て い た こ と、 ま た ジ ェ ブ ツ ン ダ ム パ は チ ョ ナ ン 派 に 属 し て い た こ と を 指 摘 す る ( 3 ) 。 また近年の陳慶英氏、金成修氏の研究では、ガルダンの前世者ウェンサ=トゥルクが ジェブツンダムパの出家の戒師であった点こそ重要であるとする。つまり、ガルダン にとってジェブツンダムパは前世においては弟子にあたり、それがガンデン寺座主と 対等に会したことは許し難い行為ということにな る ( 4 ) 。 ただ、これらの説明には、転生を余りに重視し過ぎている点や宗派に対する根本的 な誤解があり、ジェブツンダムパの実像は顧みられず、もはやジェブツンダムパはガ ル ダ ン の ハ ル ハ 侵 攻 を 裏 付 け る 要 素 で し か な い よ う に 思 わ れ る。 『 伝 記 』 を 紐 解 き、 チベット仏教に則してジェブツンダムパを見た時、先行研究のジェブツンダムパ像と 『伝記』のジェブツンダムパ像の相違点は明らかである。 チベット語版『伝記』は、ジェブツンダムパの弟子のザヤパンディタが著した。成

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63 立は 18世紀初期とされ、幾つか存在する『伝記』の中で最も古くて重要であるとされ る。そして、踏まえなければならないのは、ジェブツンダムパはターラナータの転生 者であると認定されてはいるが、それを根拠に、ジェブツンダムパをチョナン派の僧 とすることはできないということである。 誰がどの宗派に属しているかを決めるのは、 対 象 が ど の 寺 に 属 し、 誰 を 師 と し て い た か が 重 要 で、 『 伝 記 』 を 見 る 限 り、 ジ ェ ブ ツ ンダムパがチョナン派の寺に属してチョナン派の僧を師とした形跡はない。 『 伝 記 』 か ら 抽 出 し た 経 歴 で は、 ジ ェ ブ ツ ン ダ ム パ の 師 は 悉 く ゲ ル ク 派 の 僧 で、 ジ ェブツンダムパが幼少時よりゲルク派流の教育を施されていたことが分かる。 同時に、 ジ ェ ブ ツ ン ダ ム パ が 一 修 行 僧 と は 思 え な い 待 遇 を チ ベ ッ ト 側 か ら 受 け て い た 様 子 が、 チベット留学時の多くの寺の出迎えやハルハへ戻る際のお供の数などから窺える。ま たこの時、ジェブツンダムパはゲルク派の創始者ツォンカパの師の寺の座主にもつけ られている。 これらの待遇は、 ジェブツンダムパがトシェート = ハーン家の人間であったことに 関係があるかと思われる。当時、ゲルク派は自身の宗派を広めるため、モンゴルの有 力王侯と「施主と応供」の関係を結び、その王侯家をモンゴル地域における布教活動 の拠点と定めていた。その一環として、チベット側はモンゴル王侯の子の中から高僧 のトゥルクを選定していた。とくにジェブツンダムパはチベット留学の期間が二年と 短いことも優遇の一つかと思われ、その影響からか、ここで『伝記』におけるジェブ ツンダムパの高僧としての資質が問題になってくるのである。例えば、それはジェブ ツンダムパが灌頂を行わなかった点にも示され、ザヤパンディタの記述は、この灌頂 を行わなかったジェブツンダムパの正当化に終始している。さらに 『伝記』 に限れば、 ジェブツンダムパのターラナータの転生者としてのダライラマへの思いは、きわめて 友好的なものとして記されている。 以上から、ジェブツンダムパがトシェート=ハーン家の人間で、それゆえチベット 側から特別な待遇を受けていたことにより、いわゆる高僧としての資質に問題がある のではないかということはここで提起できるかもしれない。勿論、それらを1686 年のクレーンベルチルの会盟におけるジェブツンダムパがガンデン寺座主に対し師礼 を 怠 っ た こ と の 理 由 に す る こ と は で き な い。 た だ、 従 来 の ジ ェ ブ ツ ン ダ ム パ 研 究 が、 クレーンベルチルの会盟における師礼問題の答えとしてあげている、ジェブツンダム パ が タ ー ラ ナ ー タ の 転 生 者 で あ り、 そ れ ゆ え ジ ェ ブ ツ ン ダ ム パ は チ ョ ナ ン 派 の 僧 で、 そのチョナン派がダライラマ政権により粛清された、という筋立てに対しては再考の 余地があることは指摘できるであろう。 (1)『 ジ ェ ブ ツ ン ダ ム パ 伝 』 blo bzang 'phrin las, dza ya paNDita ( 1642-1708 ) . sh'a kya'i

btsun pa blo bzang 'phrin las kyi zab pa dang r

gya che ba'i dam pa'i chos kyi thob yig

gsal ba'i me long . 1702. Reproduced in the Colle cted W orks of Jaya paNDita blo bzang

'phrin las. ŚA

TA-PIṬAKA

SERIES, vol.281. New Delhi.

(2)『親征平定朔漠方略』 (四庫全書354、上海古籍出版社 、198―) (3)宮脇淳子「ジェブツンダンバ一世伝説の成立――十七世紀ハルハ・モンゴルの清 朝帰属に関連して――」 (『東洋学報』 74巻3 ・ 4号、1993) (4)陳慶英/金成修「喀爾喀部哲布尊丹巴活佛転生的起源新探」 (青海民族学院学報 ・ 社会科学版、第 29巻第3期   2003) (大学院文学研究科博士前期課程史学専攻)

参照

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