第32回
魚沼市立 広神中学校
魚沼市は、平成十六年十一 月一日に広神村を含む六町村 が合併して誕生しました。広 神は、魚沼三山をはじめ権現 堂などの秀峰が眼前に姿を現 し、また、学区を横切って流 れる破間川の清流が心を洗う 自然環境に恵まれた地域で す。 本校は、昭和四十六年四月 一日に、広神中学校と薮神中 学校の二校が統合して開設 された一村一校の中学校で す。当時より、 ﹁村づくりは、 人づくり﹂を合言葉に 、行 政・地域・学校が一体となっ て 、﹁心豊かで創造性に富む 教育文化の振興﹂を目指して きました 。現在 、生徒数は 、 二七〇名で 、一〇学級です 。 生徒は皆、明るく純朴で、各 種行事や部活動に意欲的に取 り組んでいます。 現在、特色ある取組みとし て、広神の地域に根ざした活 動を中心に、自己の生き方に ついて考える﹁講座制の総合 学習﹂を行っています。広神 地区公民館の ﹁ふるさと講座﹂ と本校の﹁総合的な学習の時 間﹂とが連携し、本校の開設 する講座に地域の方々の参加 を募っています。 今年度は、五講座に二〇名 前後の一般の参加者がおり 、 また、講師としても地域の方 から多数おいでいただき、生 徒・教職員にとっては地域の 方々と一緒に学ぶ、またとな い貴重な機会となっていま す。 これからも、 地域とともに、 地域の宝を育む、地域に信頼 される学校を目指します。地域とともに
魚沼市立広神中学校長酒
井
光
一
校旗と前庭のブロンズ像「青雲のかなたに」ふるさとの町への帰郷の折、何 度となく通っていたわけだが、上 越新幹線﹁浦佐﹂の駅に降り立っ たのは、今回が初めてであった。 九月二十日。東京広神会の佐藤 永久会長が改札口まで出迎えて下 さったので、駅前にあると聞いて いた角さん︵田中角栄元首相︶の 銅像を確認するまでもなく車上の 人となり、一路広神中学校へ。 もう少し山道を行くのかと想像 していたのだが、ほぼ平坦な道を スムーズに走って学校に到着。魚 沼三山を遠景にした周囲の景観と 堂々たる四階建の校舎、大体育館 の偉容を目の辺りにして、思わず ﹁ホウーッ﹂という声が出た。 創立以来三十六年余、 卒業生五 , 二八四名を世に送り出した、地域 住民が誇りとする学び舎である。 魚沼市立広神中学校の前身、広 神村立広神中学校は、昭和四十六 年四月、広瀬中学校と薮神中学校 が名目統合されて誕生した。 それに先立つ昭和三十年、町村 合併促進法に基づいて、広瀨村と 薮神村が合併、広神村になったの であったが、一村一校の統合校舎 が竣工したのは、昭和四十七年二 月。 新校舎に実質統合をしたのは、 名目統合から一年後の昭和四十七 年四月であった。 そして、 平成十六年十一月一日、 平成の大合併によって、広神村は 小出町、堀之内町、湯之谷村、守 門村、入広瀬村と合併、魚沼市が 誕生したのは、ご存知の通りであ る。 その魚沼市誕生を目前にした平 成十六年十月二十三日、広神中学 校では村立中学校としてのフィ ナーレを飾る全校合唱コンクール を催したのだが、それが終了した ばかりの午後五時五十六分、あの 中越大震災が発生した。 体育館の天井は全面落下し、校 舎も破損したが 、不幸中の幸い 、 全校生徒が退校した直後のことで あわやの大惨事を免れることは出 来た。しかし、以後一年間、体育 館は使用不能の事態となったので ある。 この時、全国各地、各校から寄 せられた励ましや支援が、復興へ の大きな力になったとは、この日 お目にかかった当時の教育長山本 征雄さんの感懐だが、先生方や生 徒自身の頑張りが学校を支えたこ とは勿論であろう。 その大震災にも負けず、学校の 前庭にすっくと立ち尽くしていた ものがある。 平成三年十月、創立二十周年記 念として建立された﹁青雲のかな たに﹂の像だ 。︵制作者 ・二科会 会員藤巻秀正さん、題字・初代校 長井口汪先生︶ ふるさとの山、権現堂を背景に して、三羽の鳩を飛び立たせよう としている少女は、限りない可能 性と夢のある若人の未来を象徴し ており、石の台座の裏面には次の 文言が続いている。 ﹁この鳩の如く 、 広神中学校の 生徒が青雲のかなたに大きく飛翔 することを願い、この像を建立す る。この芸術の香り高い彫像が在 校生および卒業生の友情と連帯の 象徴となることを。平成三年十月 二十六日 広神村教育委員会﹂
地域住民誇りの学び舎
地域住民誇りの学び舎
広神村立から魚沼市立へ
広神村立から魚沼市立へ
中越大震災を乗り越えて
中越大震災を乗り越えて
青雲のかなたに
青雲のかなたに
遠く魚沼三山を望む 四階建ての偉容 台座裏の文言昭和三十年︵一九五五年︶三月 三十日、新しい村﹁広神村﹂が昭 和の合併の中から誕生した。 ﹁村づくりは 、人づくり地域づ くり﹂と、若い力が村づくりの原 動力となり、村民もまたそれに向 かって一丸となって新しい村の建 設に取り組んだ。 当時、小・中学校の数は小学校 十校 ︵うち分校三校︶ 、中学校三 校︵うち分校一校︶の十三か校と 学校数が多く、しかも小規模校が 多かった。これは、地理的に遠隔 のところが多く、かつ豪雪である ためにほかならなかった。冬期間 は一時間から一時間半もの雪道 ︵道路除雪はなく 、積雪二 m ∼三 m ︶を徒歩で登下校しなければな らない中学生もおり、吹雪の時な どは想像を絶するものであった。 適正規模の学校で近代化された 教育施設を使い、効率の高い教育 を。村民の一致した願いの中から 昭和四十六年四月、広瀬中学校と 薮神中学校を統合し、広神中学校 が誕生した。 遠くに越後三山を仰ぎ見て、清 流破間川を見おろす村の中心地に 中等教育の殿堂として四階建ての 校舎が完成となったときには、人 びとに感銘を与えた。 創立以来三十六年、地域の負託 に応え、地域とともに生きる広神 中学校に期待し、地域みんなで見 守り、温かい声援を送っている。 ﹁恵みゆたけき我里の 緑が丘の 学び舎に﹂ 。現在の広神中学校の 前身﹁広瀬中学校﹂の校歌、第一 小節であります。 昭和二十年代に中学生だった私 は、 この学校の第八回卒業生です。 当時の学校は一学年一五〇名余 、 一クラス五〇名のすし詰め学級で した 。実に貧しい時代でしたが 、 学校はいつも楽しいことがいっぱ いで、大変に充実した学校生活を 送りました。 記憶に残る忘れられない先生の 一人に、山内という独身の男の先 生がおられました。先生は、小説 ﹁徳川家康﹂の作家山岡荘八の従 兄弟と聞いておりました。社会科 の担当でしたが、さすがに文学好 きで、 よくシェイクスピアを語り、 古典を話すときなどは、目を輝か せておられました。学芸会ではハ ムレットに取り組み、先生自身が 演出を担当、生徒よりも張り切っ ておられました。 また、井口という図工の先生は 大変ピアノが上手で、音楽も担当 することがありました。先生はい つも教科書にない歌をひいてくれ て、 炭坑節、 草津節、 りんごの歌、 異国の丘等々を皆で大声を張り上 げて歌ったものです。 退職後は画家として活躍され 、 私の家にも先生のふる里の絵が 飾ってあります。今は故人となら れましたが、この絵を見るたびに 先生を懐かしく思い出しておりま す。 奇しくも、先生は現在の広神中 学校初代校長になられたのです。 ふるさとは、行政改革によって 旧薮神村⇩旧広神村⇩魚沼市へと 変貌をしてきた。 この地は、遠くに八海山等の魚 沼三山、近くには権現堂山、そし て破間川の清流、さらに﹁魚沼コ シヒカリ﹂の産地である。 私は、自然豊かなこの薮神村に 昭和二桁に入って間もない雪降る 日に産声をあげた。そして、終戦 四年目の昭和二十四年四月、旧薮 神中学校に入学した。その頃の思 い出としては・・・。 ㈠学校教育には新しい六 ・ 三 ・ 三制 がスタートした。 ㈡中学校には、旧薮神小学校と旧 羽川小学校の卒業生が入学して きた。 ㈢木造の真新しい校舎で﹁杉木の 香﹂ を受けながらの授業だった。 ㈣学校の諸先生方は、県内の各地 から転勤して来られた。 このように、全て新しい事づく めで、希望に満ちた中学校生活が 始まった。あの時は、次の高校受 験を目指して、あっと言う間に三 年間が過ぎてしまった。 農家の三男坊は 、 父から職業 の﹁礎﹂の大切さを、母と兄から は農業と工業が国の両輪だと言わ れ、三年生時は工業高校を目指し て受験勉強に力を入れ、入学。卒 業後は電力の仕事に励んだ。現在 はリタイヤした日々を過ごしてい る。 ﹁広神中学校、 新世界に向かっ て羽ばたけ!﹂ 地域の希望 ・ 広 神中学校 前広神村教育長 山 本 征 雄 私の中学時代 東京広神会会長 佐 藤 永 久 思い出の一端を記す 東京広神会副会長 矢久保篤司
校長室では、酒井光一校長を囲 んで山本前広神村教育長、東京広 神会佐藤会長と一時間余りご一緒 してお話をうかがった。 酒井校長は 、平成十八年四月 、 第十代校長となってこの学校に赴 任したということで 、﹁子ども達 が本当に純朴で粘り強いし、よく 頑張るなあと思いますよ。一方で は、まだ消極的で人の後にくっつ いて行く子が多いかな﹂と語る。 そう言いながらも、体育祭や文 化祭を発展させた総合学習発表 会、全校合唱コンクール等々、学 校行事の中で ﹁チャレンジ広中 夢・感動﹂の教育目標の下、課題 となっている学力の向上や部活動 への積極的な参加が顕著になって いるという。 その中でも、この学校ならでは の行事として続いている権現堂山 ︵九九八 m ︶への全校登山は 、一 年生から三年生までがタテ割りの グループを形成してチーム力を発 揮、上級生のリーダーシップと下 級生のフォロアーシップの醸成が 年々の積み重ねの中で着実に成果 を示しているということだ。 もともと豪雪に耐え、土に生き る粘り強い地域性を持つ土地柄で あり 、素朴で温かい人達が多い 。 子供達は村の宝であり 、﹁村づく りは人づくり﹂が旧広神村の精神 であった。いきおい、学校と地域 との結びつきは強く、行政 ・ 地 域 ・ 学校 ︵広神中学校と小学校二校︶ が一体となってやって来た。 だから、今も地域のお年寄りや 先輩に学ぶ十二もの講座があっ て、生徒達はその中から、菊づく りや茶道、 郷土料理、 民俗芸能︵広 大寺踊り︶など、思い思いに自分 の好きな講座を選び、地域の人々 との交流の中で学んでいる。 それは、あの大島月庵さんの絵 に描かれたかつての村の生活を想 い起こさせてくれる。この県人会 誌をずっとご愛読の方々ならば必 ず記憶に残っているはずの < 大島 月庵の画文集より > は 、四年八ヵ 月小誌の紙上で郷愁を誘ったもの だが、大島画伯のご出身は、この 旧広神村︵中家︶なのである。 スポーツも盛んに行われてい る。体育祭が、これもタテ割りの 赤・白・青の三軍に分かれて行わ れているほか、野球、バレーボー ルなどに加えてスキーが強く、ク ロスカントリーでは全国中学校ス キー大会で十位に入る実力校だ。 そんな環境の中から 、バイアス ロンの目黒宏直選手 ︵自衛隊︶ 、 バレーボールの山下美弥子選手 ︵NEC︶がオリンピックに出場 した。 なにしろ、あの萩本欽ちゃんが 茨城ゴールデン・ゴールズの解散 撤回宣言をして有名になった夜間 照明付きの野球場を持つのだか ら 、これはもう本格派だ 。そ の グ ラ ウンドに雪が降り、やがて雪解け を迎える頃 ︵三月五日︶ 、今年も また八十二名の卒業生が﹁青雲の かなたに﹂飛翔する。 ︵広報委員長 池田孝一郎記︶ 伝え送られる地域の絆 権現堂山への全校登山 春の訪れとともに 校長室で 照明付きの野球場 東京広神会会長 佐藤永久 書
佐渡おけさの民謡が流れ るなか 、 総勢八〇余名の老 若男女 ︵ 幼 児から小学生高学 年含む ︶ 多 摩テック内にある バーベキュー会場に集う 。 日 頃 の 行 い が 善 か っ た の か ? 前日の雨で天候が心配さ れたが 、 なんとか薄曇のなか廣川 高志東京新潟県人会副会長 ︵ 会長代 理 ︶、 馬場弘融日野市長 、 江口和雄 同市議会議長 、小 川友一衆議院議員 、 長島昭久衆議院議員 、 樋 山悟立川新 潟県人会会長 、 増 田薫佐渡汽船東京 営業所の皆様をお招きしての大会 。 廣川高志副会長からも日頃の行いが 善いのですね 、 と のお言葉をいただ きスタート良好のなか正午開会 。 板谷越会長より挨拶があり当県人 会をここまで築きあげていただいた 諸先輩へ感謝し 、 会 員増加には新潟 を愛する人たち ︵ 県外の方 ︶ にも加 入していただき組織拡大をはかって 行きたいと抱負を述べ 、 続いて廣川 高志東京新潟県人会副会長 、 長 島昭 久衆議院議員 、 樋山悟立川新潟県人 会会長よりご祝辞をいただいた 。 江 口和雄市議会議長が乾杯の音頭を高 らかに掲げてバーベキュー大会へと いっきに突入 。 食材 、 飲 み物もタッ プリと慣れぬ手つきにワイワイ 、 ガ ヤガヤ 。 食べて 、 飲んで一段と盛り 上がったところでやや遅れて登場の 小川友一衆議院議員 、 馬場弘融日野 市長からそれぞれにご祝辞を頂戴 。
日野新潟県人会立五〇周年記念バーベキュー大会
◎
板谷越
巖
会長 ☎〇四二 ― 五八六 ― 九五一六番地区県人会・
郷人会だより
お楽しみ豪華景品抽選会 そしてメインイベントでもあり楽 しい抽選会には 、 小学生からそれぞ れくじを引いていただき一喜一憂に 最高潮へと盛り上がる 。 当会長から は会長賞として特別に地元魚沼産の コシヒカリの新米 ︵ 五キロ×五個 ︶、 〆張り餅 ︵ 五 百グラム/二〇個入り ×十個 ︶、 会員の寿司 正さんより ラッキー賞寿司券 ︵ 千 円券×二〇枚 ︶ 他お酒 ︵ 数 本 ︶ などが別途提供され るなど豪華景品に嬉しさも倍増 。 乗りに乗りアカペラながらも歌も 飛び出す賑わいぶりに会場は拍手喝 采。 五〇年間支えた功労者 五〇周年にあたり当県人会を永年 に亘り支えていただいた坂牧庄松元 会長 、 小 出久前会長 ︵ 病状のため欠 席 ︶、 顧 問高橋義一氏に対し功労賞 が板谷越会長より授与され 、 続いて 中締め 、 万歳三唱と楽しかった時間 はあっという間に過ぎ 、 また新しい 一歩に向け散会となった 。 後 記 東京新潟県人会本部より ﹃ マリと 子犬の物語 ﹄ の 特別招待鑑賞券 ︵ 三 セット×三名 ︶ を抽選会にご提供い ただきながら司会者の不手際で漏れ てしまいました 。 こ の紙面をお借り してお詫び申し上げます 。 閉 会時に なんとか希望者にお渡しできまし た。 また当日 、 中 越沖地震義援金の募 集も行い 、 後日 、 県 人会本部へ送金 いたしました 。 ︵ 日 野新潟県人会 中村 信也 記︶ 写真提供/ プロ写真家 島峰 譲 中央左立川新潟県人会会長 樋山さん、廣川東京新潟県人会副会長 前列左より江口市議会議長、小川衆議院議員、馬場日野市長、廣川副会長 後列左より坂牧元会長、中村事務局長、板谷越会長、小川議員秘書、小野氏つきがた会五周年記念に百三十名余りが集う
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曽山
孝一
会長 ふるさとからも四十名程が参加 十月二十一日 、東 京目白 、﹁ 椿 山荘 ﹂ において 、 首都圏つきがた会 ﹁ 五 周 年記念交流式典 ﹂ が 総勢百三十名余 りの参加を得て盛大に開催されまし た。 式典には 、 御来賓として東京新潟 県人会から会長代理の高橋秀夫副会 長他 、青木一栄新潟館ネスパス館長 、 貝瀬功一新潟市東京事務所長 、 金子 周永月潟出張所長や恩師が 、 ま た 、 首都圏西蒲原会から池田孝一郎会長 他各郷人会長が参加され 、 ふ るさと 月潟からは金子由征旧村長 、 和平晃 旧村議会議長や 、 金 子恵美新潟市議 会議員 、 月潟小唄の会と旧・現職の 役職者 、 同級生など四十名程の皆様 から参加いただきました 。 式辞で 、曽山孝一会長が ﹁ 本会は 、 平成十四年十月二十日に上野 ﹁ 精 養 軒 ﹂ で会員百三十名余りを以って発 足し 、ここに満五周年を迎えました 。 また 、 旧月潟村が新潟市に合併さ れ南区となったが 、 ふるさとを思う 気持ちには変わりがないので 、 これ からも ﹃ 会 員相互の親睦を図り 、 相 協力して相互の発展向上と 、 郷 里と の密接な連携を図ることを目的とす る ﹄ との会則理念をもとに 、 そ れぞ れの立場からも更なるご支援ご協力 をお願いしたい ﹂ と 力強く決意が述 べられました 。 そして 、 県人会長代理の高橋様外 御来賓各位からは五周年記念のお祝 いの言葉とともにエールがそれぞれ 寄せられました 。 アトラクションでは 、 ふ るさと月 潟出身で津軽三味線の大家・高橋竹 山師に師事された高橋竹童さんをお 招きし 、竹 山譲りの豊かな音楽性と 、 胡弓や三線をも取り入れた奥行きの ある演奏で 、 う つりゆく故郷月潟村 への想いをこめて自身で作曲された オリジナル曲 「 月潟 」 や 、 得意の 津軽民謡の他 、 胡弓で ﹁ おわら風の 盆 ﹂ まで演奏して頂き 、 ま さに記念 式典にふさわしい舞台となり 、 大 き な花を添えていただきました 。 その後 、 祝 宴が始まり月潟小唄の 皆さんや会員による踊り 、 カ ラオケ などで盛り上がり 、 こ れもまた時間 延長となり開始から三時間後の午後 八時 、 全 員でふるさとを合唱しフィ ナーレをむかえました 。 記念式典以外では 、 お 披露目した 会旗の作成 、 五周年記念誌の発行の 外 、 ふるさと月潟小学校が今春改築 されたことを祝い 、 記 念植樹 ︵ 桜 ︶ も行いました 。 ︵ 首 都 圏 つ き が た 会 事 務 局 金 子 繁 作 記︶ 当日出席された皆さん南船橋新潟県人会も中越沖地震の支援金募金を行う
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南雲
英雄
会長 ☎〇四七 ― 四六四 ― 一五六九番 新年明けましておめでとうござい ます 。 旧聞になりますが南船橋新潟県 人会では昨年十月十三日㈯∼十六日 ㈫まで 、 J R 船橋駅周辺において新 潟県中越沖地震の災害救援金の募金 活動を四日間会員・他 、 延べ三十八 名で行いました 。 当会では昨年七月二十六日開催予 定であった ﹁ 海の花火 ﹂ として有名 な柏崎の花火大会を会員有志がバス 一台で訪問することになっていまし が今回の災害により花火見学は急遽 中止となりました 。 災害発生直後より募金活動を行う 予定でしたが年の瀬のもち代に間に 合うようにと行ったものです 。 集 まった義援金は四十四万六千円であ り 、 十一月十二日南雲会長より 、 東 京新潟県人会に届け現地へのお届け を依頼しました 。 新年が災害の無い年であるように 会員一同お祈りいたします 。 尚今回の募金に協力戴いた方々は 次の通りです 。 ご協力に感謝申し上 げます 。 足立攻三郎 ・ 飯田正子 ・ 飯 塚敏郎 ・ 生駒行乃・榎本貞二・川浦友子・児 玉 信 ・ 齋 藤 誠 ・ 清 水 忠 治 ・ 南 雲 英 雄 ・ 長谷部功・深澤裕・牧口貞子・松永 虔士・宮内くに子・村山信次・村山 世都 ︵ 五 十音順・敬称略 ︶ 南船橋新潟県人会へのお問 い合わせは ︵ 〇四七 ― 四四五 ― 六八二二 ︶ 飯塚まで 。 ︵ 南船橋会員 飯塚 記︶ 募金活動に参加された皆さん﹁首都圏えちご蒲原会﹂
発進
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池田孝一郎
会長 ☎〇四五 ― 九八一 ― 二九七五番 首都圏西蒲原会は 、 十一月四日か ら ﹁ 首都圏えちご蒲原会 ﹂ と改称し ました 。 そ の所以は 、 旧 西蒲原郡が 新潟市 ︵ 西蒲区 、 南区 ︶、 燕市 、 弥 彦村と 、 大 きく分けても三つに分か れしまい 、 西 蒲原郡の名を冠してい るのは弥彦村一村のみになってし まったことによります 。 会名をそのままにしておくわけに はいかないだろうという声は 、 市 町 村大合併時点でもすでに囁かれてい たのでしたが 、 正式にそれが要請と いう形になったのは 、 昨年七月一日 の第七回定時総会の席上でした 。 旧吉田町とともに燕市に入った旧 分水町の岡本満会長がそれを提案 、 私は ﹁ こ の問題を避けて通ろうとは 思わない 。 ま ず役員会を開いて検討 し 、 然る後 、 会員の総意に問う ﹂ と 答えました 。 その後 、 八月四日 、 九 月二十四日 と二回の役員会を経て 、﹁ 首都圏え ちご蒲原会 ﹂ で合意に達し 、 十 一月 四日㈰に会員全員に問う臨時総会を 開いた ︵ 県人会館二階ホール ︶ とい う次第です 。 結果は 、 ス ムーズに何の異論もな く全会一致で承認が得られ 、 併 せて 会則の一部改正も行いました 。 ま た 、 この会則改正の文言では 、 旧西 蒲原郡以外の近隣郷人会及び個人で 新装首都圏えちご蒲原会へ加入した いと望む動きもあるところから 、 そ のケースに即応出来る文言も盛り込 んで難題突破が成りました 。 ﹁ 首 都圏えちご蒲原会 ﹂ と して新 しい年を迎えた私たちを 、 旧 首都圏 西蒲原会同様 、 よ ろしくお願い致し ます 。 ︵池 田 孝一郎 記︶ 首都圏えちご蒲原会 臨時総会観光弥彦に
〝新泉力〟
︵第二十六回総会︶
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加藤
全宏
会長 十一月十日 、 東 京弥彦村人会第 二十六回定期総会・懇親会がホテル 聚楽で開催された 。 大谷村長 、 弥彦 神社永田宮司をはじめ村の各界の代 表 、 弥彦中学校長 、 同 窓会長 、 東京 新潟県人会会長代理 、 近 隣郷人会会 長等々のご来賓を迎えて賑やかに行 われました 。 七月に発生した中越沖 地震に会員の皆様から多大の義援金 を頂戴した御礼を申し述べ 、 大谷村 長からは 、 三つ目の源泉・湯神社温 泉 ︵ 毎分四百七十 ℓ ・ 四十七 ・ 九 度 ︶ の湧出で旅館街に源泉かけ流しで提 供出来る施設もあり 、 また村の活性 化につながる宅地造成を開始し 、 分 譲地の購入受付も間もなくとの事 。 昨年秋に開湯したさくらの湯も盛況 で 、 休憩室の拡充の工事を開始した と聚楽の加藤社長から話がありまし た 。旧西蒲原郡から残った弥彦村が 、 神社・温泉・競輪等々全村一体で奮 闘しておりますので 、 精一杯応援し てください 。 懇親会でのアトラクションもクイ ズから始まり 、 弥 彦村人会特別顧問 の本間泰先生の色紙・中国から武蔵 野音大に留学しているソプラノ歌手 秦琴さんの熱唱・銘酒弥彦山・地元 特産のじねんじょなどたくさんの福 引き商品が会場を沸かせました 。 次回は平成二十年十一月九日 ︵ 日 曜日 ︶ ホ テル聚楽で行われます 。 多 数ご参加下さいますようお待ちして おります 。 ︵加 藤 記︶ 弥彦神社 菊まつり風景首都圏安田会第十三回総会報告
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木津
洋
会長 平成十九年十一月十日十三時か ら 、 港区芝の東京プリンスホテル に於いて ﹁ 安田ふるさとフェスタ 二〇〇七年インプリンス ﹂ と題して 首都圏安田会第十三回総会を開催し た 。 当日はふるさと安田 ︵ 現 阿賀野 市 ︶ から大型バスを仕立てての参加 を含めて総勢百八四名が参加し 、 安 田弁・新潟弁が飛び交って大いに盛 り上がった 。 本田 阿賀野市長・ 帆苅 市議会議長をはじめ阿賀野市の各界 代表者 、 上村 新潟県東京事務所長 、 小林 東京新潟県人会副会長と役員 、 太田 東京水原会会長と役員 、 五十嵐 首都圏京ヶ瀬会会長と役員 、 宮嶋 東 京笹神会会長と役員等々多くの来 賓も参加し 、 数々のイベン ト を 楽 し ん だ。 冒頭に 木津 首都圏安田会 会 長 か ら、本 田市長が安田 町長時代から連続首長就任四十周年 にもなり 、 また全国の首長の最年長 者にもあたると紹介 、 お祝いの言葉 と記念の花束の贈呈式を行った 。 こ れを受けて本田市長が挨拶に立ち 、 お礼の言葉に続いて現在阿賀野市の 抱える諸課題と対応について 、 年齢 を感じさせない若さと情熱溢れる話 を展開された 。 また 、 会 場には ﹁安 田の冬景色 ﹂ と ﹁桜 と 山 川﹂ の 写 真 展 、 四十年前の 羽越水害の写真 が展 示され 、参加者の関心を呼んでいた 。 懇親会イベントでは恒例の 榎本晴 夫 さんのアコーディオンの弾き語 り 、 柏崎出身の歌手 舞さくら さんの 唄、安 田 伊藤利男 さんの尺八独奏 、 市川流名取の 渡部美栄子 さん・中山 流名取の 加藤貞子 さん・新舞踊講師 の 熊倉伝枝 さんの三方による日本舞 踊、 阿賀野リバーズ による女声コー ラス等々を大いに楽しみ 、 参加者は ふるさと安田産名産品をお土産に帰 途に付いた 。 ︵ 首都圏安田会 加藤 洋一 記︶城下町新発田会
﹁秋の旅行
・
親睦会開催﹂
◎
築井
松治
会長 ☎〇三 ― 三九二一 ― 九八二四番 去る十一月十日㈯∼十一日㈰ ﹁ 秋 の旅行会 ﹂ と題して 、 西 那須野温泉 ﹁ 大鷹の湯 ﹂ 一泊二日の親睦旅行を 実施いたしました 。 参加者が十四名と少し寂しかった ですが 、 十時二〇分に東京駅前に集 合 、 J R 高速バス ﹁ もみじ号 ﹂ に乗 車 、 出発時は雨でしたが 、 千 本松に 到着した時には雨も止んで歓迎して いるようでした 。 も みじ亭にて土地 限定の蕎麦に舌鼓をうち 、 大 鷹の湯 お迎えのバスにて乗車 、 三時過ぎに 宿に到着しました 。 ここの温泉は 、 ア ルカリ性ナトリ ウム塩化物重曹炭酸水素塩泉で 、 マ イナスイ オンが高 く保温効 果が優れ 国内最高 レベルと のこと 。 早速天 然 か け 流しで湯 たっぷり の露天風 呂や大浴 場にと疲 れた体を それぞれ に癒しま した 。 湯 はとてもすべすべして 、 こ れこそ温泉の醍醐味だと感じ 、 満 喫 しました 。 いよいよ楽しみな夕食 。 六時から スタート 。 繁忙の身ながら東京新潟 県人会相談役の横野寅夫さんもいさ んで駆けつけ 、 夜の懇親会は踊りや ダンス ・ カラオケと最高潮に達し 、 時の経つのも忘れるほどでした 。 翌日は横野さんのご厚意によるマ イクロバスにて紅葉の山々を左右に 眺めながら 、 黒羽山大雄寺や道の 駅 ﹁ 東山道伊王野 ﹂ 等 を観光 、 夕 方 五時過ぎ池袋 、 新宿各駅前にて楽し かった旅行も散会となりました 。 ︵築 井 誠一 記︶ 黒羽山大雄寺門前にて 懇親会模様東京松代会バス旅行
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若井
謙一
会長 十月十四日 、 薄曇の空を気にしな がらバスは上州路へと向かいまし た。 東京松代会恒例の秋のバス旅行で す 。 今回は総勢七十九名の参加者に 成りました 。 第一見学地は世界遺産登録を目指 し活動が盛んな富岡製糸場です 。 明 治五年に官製工場として創業開始し たレンガ作りの工場でした 。 フラン スの技術が導入され 、 指 導者もフラ ンス女性が当たり全国から武家の女 子を集めて始められた 、 高い教養が 求められたようです 。 三 年から五年 で技術を取得してそれぞれの国許に 帰り指導者として技術を広めたそう です 。 其処から 磯部温泉に ま っ し ぐ ら、 温泉入 浴、 と昼食 宴会です 。 若井会長 から参加 者への御 礼の挨拶 が あ り 、 小堺朝毅 副会長の 音頭で一 同 乾 杯 。 後は無礼 講です 。 そ うそうにカラオケが始ま り 、 上手い人それなりの人 、 賑 やか に進みあっという間の二時間半でし た。 帰り道に高崎の達磨屋さんに寄り 道して孫の受験に合格祈願の達磨な ど求めて 。 白衣観音にお参りして 、 午後八時に上野駅前にて解散の旅で した 。 バス車内も賑やかに会員同士の交 流も進みお酒も進んだようでした が 、 毎年会員が楽しみにしているの で 、 大事にしたい行事です 。 ︵柳 政直 記︶ 白衣観音 参加された皆さん第三十九期
板橋新潟県人会総会
・
懇親会
◎
嘉瀬
茂男
会長 ☎〇三 ― 三九五六 ― 一四三一番 十一月十六日㈮午後六時∼板橋 ・ 弥生会館に約三十名が参集し 、 第 三十九期総会 ・ 懇 親会が開催された 。 第一部 、 司会進行 、 星 野幸雄幹事 長の挨拶で開会 。 続 いて嘉瀬茂男会 長の挨拶では 、 中 越沖地震の際に会 員各位よりご協力を頂いた義援金に ついて 、 全員に配られた会報誌・新 潟県人十月号に 、 県 人会本部へ義援 金を届けた記載のあることを報告す ると共に 、 謝辞を述べられた 。 ま た 会長ご自身は厳しい暑さの中 、 七日 間に渡り県人会本部の街頭募金活動 に参加され 、 小さい子供から高齢者 に至る 、 多くの方々の善意にふれた 感動 、 感 激も伝えられた 。 一方 、 会 報誌には本部の動向や行事 、 各 地区 県人会・郷人会やふるさとの情報等 が掲載されていることを説明され 、 本部会員の入会を促された 。最 後に 、 当会の高齢化 、 会員の減少を懸念し ながらも 、 来年は四十周年記念総会 並びに 、 祝賀会を開催したいとのご 意向を一同に示され挨拶とされた 。 この後 、神山金寿氏より会計報告 、 村山勇次氏の監査ともスムーズに承 認され第一部を終了 。 第二部 、 懇親会は神山長八副会長 の挨拶 、 村 山勇次副会長のワインで の乾杯を経て開始 。 ふ るさとのお酒 に女性陣の手料理も加わり 、 盛 り沢 山のご馳走に舌鼓を打ちながら 、 あ ちこちで思い出話の花が咲く 。また 、 次々とカラオケの熱唱が続くも 、 名 残り惜しき宴も定刻となり 、 平 沢栄 一氏の手締めをもって閉会 。 お 互い に健康を気遣い再会を約し散会され た。 ︵嘉 瀬 茂男 記︶ 参加された皆さん東京えちご巻町会
﹁お笑いを楽しむ会﹂
◎
池田
孝一郎
会長 ☎〇四五 ― 九八一 ― 二九七五番 東京えちご巻町会の会員レクリ エーションを 、 十 一月十八日の日曜 日に行い 、 小 学生のお子さん一人を 含む一行三十人が秋晴れの浅草に繰 り出しました 。 今 回のお目当てはお 笑いで 、﹁ 秋 をお笑いで楽しむ会 ﹂。 目指すは 、 浅 草演芸ホールです 。 前夜の天気予報では ﹁ ぐっと冷え 込む ﹂ と いうことでしたが 、 思いの ほかの上天気で明るい日差し 。 雷 門 の大きな提灯の下に 、 定 刻午前十時 五十分 、 全参加者が集まりました 。 中には 、 首都圏えちご蒲原会 ︵ 旧 西 蒲原会 ︶ でご一緒の吉田会渋木久弥 さん 、 味 方会笹川修さん 、 鈴木ハル さん 、 弥 彦村人会水沢千夜子さんも 参加して下さり 、 一 同揃って記念撮 影 。 続いて 、 浅草寺に御参りをしま した 。 演芸ホールへの道は 、大 人の迷子 を出さないようにと 、引率役小嶋武 雄幹事が気を配り 、お 弁当の手配に は田代聖子幹事が走りまわりまし た。 入場した場内はぎっしり一杯 、 立 ち見も出るほどの賑わいでしたが 、 予約席をキープしていたので 、 のん びりとお弁当を食べながらのお楽し みタイムとなり 、 五 時間近くもの長 時間を大笑いしながら 、 飽 きること なく過ごしました 。 終演後は 、 自 由参加の二次会とな り 、﹁ 神 谷バー ﹂ で大ジョッキと電 気ブラン 、 思 い思いの料理を並べて 乾杯 。 そ れぞれが 、 一 カ月分ぐらい の笑い顔で過ごせた一日でした 。 ︵ 池 田孝一郎 記︶ 秋空の下、勢揃い東京牧村会総会開催
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岡
一二
会長 十月二十日上野精養軒でふるさと 及び友好団体からのご来賓二十余名 を加え百二十名の参加で開催しまし た。 七月の中越沖地震へのお見舞いと 昨年の十周年総会が各位のご支援で 盛会裡に開催出来た事の謝辞を含む 岡会長挨拶 、 次いで上越市長より東 京牧村会の諸活動に敬意を表し 、 限 界集落の多くなりつつある現況の 中 、﹁ ふ み子の海 ﹂﹁ 風林火山 ﹂ 再 来 年の直江兼続 ﹁ 天 地人 ﹂ の NHK ド ラマなどで上越に注目が集まること から地域の向上に繋げたい旨の祝辞 を牧区羽深所長が代読されました 。 第二部として県人会も後援されてい る映画 ﹁ ふみ子の海 ﹂ の 紹介 。 近 藤 監督と主演の鈴木理子ちゃんに特 別参加を頂き 、﹁ ハ イ ! 師匠 ﹂ の パ フォーマンスもあって会場は拍手喝 采 、 公開中の映画の成功を祈りまし た 。 続いて毎年牧区で田植えから収 穫と ﹁ 亜貴子米 ﹂ を生産 、 故郷で人 気があり 、 最 近 N HKT V でも顔を 見せる小沢亜貴子さんの歌謡ショー で出席会員の心を和ませました 。 第三部は懇親会 。 来賓を代表して 県人会副会長・東京十日町会会長の 春日寛様より称賛のお祝辞を頂き 、 次いで牧区坪山の中川卓夫さん提供 の名産 ﹁ どぶろく ﹂ で 元村長の中川 さんの発声で乾杯 、 交流を深めまし た 。なごやかな交歓の中 、有 志の方々 提供のふみ子の海映画鑑賞券 、 コシ ヒカリなどの景品で抽選会も開催 、 盛り上がった総会となりました 。 ︵三 浦 代 行 記︶第二十六回首都圏在住関川村人会総会
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懇
親会開催
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加藤
勇
会長 晩秋の晴天となった十一月十八 日 、 上野精養軒に於いて標題の会が 会員八〇余名参集し賑やかに開催さ れた 。 郷里の関川村からは平田村長 や近村議会議長を始め 、 高橋東京新 潟県人会副会長の臨席があった 。 会は 、 昭和五十七年に発足し 、 昨 年度から会の事務の一部を村から役 員に移行 、 役員が主体となる始めて の総会となった 。 総会では来賓の挨拶後 、 加 藤会長 が議長となり 、 昨 年度の事業報告や 会計報告が承認され 、 続いて 、 本年 度の事業計画や予算が承認された 。 懇親会は 、 河 内副会長の挨拶後 、 近村議会議長の乾杯で始まった 。 宴 が少し落ち着いた頃 、 ふる里の夏の 一大イベント ﹁ 大したもん蛇まつり ﹂ のミニバージョンの大蛇を参加者で 担ぎ会場内をパレード 。 写 真を撮る 人で大盛況 。 ま た 、 餅つきでは 、 平 田村長を始め参加者も加わって二臼 つきあげ 、 餡餅ときなこ餅にして参 加者に配られた 。 会場中央テーブルには 、 ふる里の 味として 、 炊き込みごはんやなめこ 汁 、 数種類の漬物が並べられた 。 また村の特産品を賞品とした喜ッ 喜 ︵ ジャンケン ︶ 大会が各テーブル で行われ 、 会場のあちこちで ﹁ キッ キ 、 キー 。﹂ のかけ声と歓声で大盛 りあがりであった 。 最後は渡辺副会 長の一本締めでお開きとなった 。 参 加者は大満足のうちにそれぞれ再会 を約束し名残惜しそうに会場を後に していた 。 ︵加 藤 勇 記︶ 大蛇を担ぎ大盛況 大盛況の懇親会東京中之島会第三回ふるさと訪問旅行
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金安
藤之輔
会長 ☎〇四二 ― 五七二 ― 三六六六番 十月二十日㈯前夜の雨も上り凛と した空気の中 、 二 十四名を乗せたバ スは一路中之島へ 。︵ 私事だが五人 の同級生が参加し和気あいあいの車 中になった ︶ 同郷の偉人 、 大竹貫一 先生の記念館を訪れ 、 遺 徳を偲ぶ 。 明治人の気骨とはこんなものかと感 じ入り 、 今の日本の政官業とついく らべてしまう 。 中之島の移転した諏 訪神社は新築ピカピカで 、 早く苔む して大きな幟が立つ縁日が出来れば と思い 、 災 害復興記念碑の ﹁ 人の 輪 心の和 み永 遠 に ﹂ に同感した 。 弥彦神社に参拝し 、 岩 室温泉にひた る 。 懇親会では旧中之島町長さん 、 議員さん等二十名の方々との交流会 があり 、 旧 知の顔が見え盛り上がっ た。 翌日は中之島産業まつりに参加 、 正に ﹁ 秋の豊作を祝う ﹂ に ふさわし く 、 特産のレンコンはやはり日本一 美味しい 。 婦人部の模擬店も楽しかった 。 童 心に帰ってあれもこれもと欲ばって 頂いた 。 お 昼のジャンボおにぎりの 残りを車中でも喰べる程だった 。 十 俵のコシヒカリで作ったギネス公 認のおにぎり 。 こ れも日本一美味し かった 。 圧巻はヨサコイ集団 。テ ンポよし 、 切れ味よし 、 光・熱・光を立派に表 現しておられた 。 若い人 、 昔 若い人 の踊りに刺激され 、 興 奮気味に帰京 の車に乗った 。 も うすぐ目前に迫る 厳しい冬の前のひととき 、 こ の活力 で⋮とご健祥を祈った 。 中 之島支所 の皆様 、 中之島会の世話役の方々に 感謝申し上げる 。 ︵ 東 京中之島会 横田 保 記︶ コシヒカリ 10 俵のジャンボおにぎり完成新潟コシヒカリ消費キャンペーン
草加八潮新潟県人会
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三留儔太郎
会長 草加八潮新潟県人会は 、 毎 年恒例 により開催される草加市民まつりに 新潟物産店を出店しているが 、 今回 は 、 新潟コシヒカリの生産者価格が 下落 ︵ 一 俵当り五千円下落 ︶ し たこ とを鑑み 、 コ シヒカリの消費拡大と ブランド米 ﹁ 新潟コシヒカリ ﹂ の宣 伝に主眼を置き 、 魚 沼米の産地 J A 十日町より新米を取り寄せて ﹁ 焼き おにぎり ﹂﹁ 海苔巻きおにぎり ﹂ を 販売した 。 実 施した十月二十日㈯と 二十一日㈰両日とも晴天に恵まれ 、 県人会の店には長蛇の列が並び 、 今 迄の最高の売り上げを記録しまし た。 販売は 、 ケンチン汁と併せての販 売で 、 夕食用迄も纏めて買って行く 人もおり 、 盛況な売り上げでした 。 しかし 、 裏方は大変で 、 飯 炊き係 は大型ガス釜でテフロン布を使用し て 、 洗い作業を省略するなどの工夫 をこらしました 。 ただ 、 握 り方は大変な作業で 、 全 員一致協力してあたり 、 売 り方も長 蛇の列を捌くため必死の頑張りで あった 。 一 番人気は ﹁ 焼きおにぎり ﹂ で 、 焼き上がりを待つお客が列をな した 。 本年は 、 テ ント脇にビニール シートを敷き詰めて 、 野良での昼食 気分を味わって戴いたのが成功した ようだ 。 本 会では 、 来 年度もお握り で新潟コシヒカリの消費拡大の為尽 力したいと話している 。 わが国の米備蓄率が四十 % を割り 外国産の安い米が入って来る国際情 勢に注目したいものだ 。 ︵樋 口 記︶第二十七回首都圏ふるさとわしま会総会
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羽入
二郎
会長 ☎〇三 ― 三九一八 ― 五一八一番 平成十九年十月二十一日上野公園 のグリーンパークにて首都圏ふるさ とわしま会の総会が開催された 。 前日迄は天候の不順が続き心配し ていたが 、 当日は 、 まさに日本海に 浮かぶ佐渡ケ島が透き通るような晴 天に恵まれわしま会にふさわしい天 候になった 。 生まれ故郷和島を離れ 上京した当時の友と一年振りに会え た懐かしい面影を胸に友好を深めた ようである 。 創立から二十七年にな ると創立当初の百五〇人余りの会員 が徐々に減り今年はとうとう八名の 参加となっ た 。 これも 世代の交代 で今年は若 年層が増え 平均年齢が 六〇歳を割 る状況で誠 に喜ばしい 傾向である 。 当日は会 員九十一名と故郷和島から十五名 、 県人会から二名のご臨席を得て賑や かに行われた 。 一 部の総会は横山氏 の司会に始まり羽入会長の挨拶 、 来 賓代表として県人会より矢部会長代 理様に続いて和島支所長早川様の祝 辞を頂戴した 。 小 黒会計監査より会 計報告があり満場一致の承認を得 、 旧清野村長の音頭により乾盃をもっ て第一部を終了した 。 続いて二部のアトラクションは小 黒氏の司会により 、 前 座に和島会の エンターティナーによる競演に始ま り 、 熱の籠ったところで芸達者な方 の日頃の美声で大いに盛り上がっ た 。 各テーブルには故郷の名酒が並 べば 、 越 後なまりの話がはずみ意気 投合している姿が見られた 。 予定の 時間が経過したところで 、 平澤名誉 会長の万歳三唱に続き早川幹事長の 閉会の辞で終了し 、 来 年の再会を誓 い 、 各々故郷のみやげを片手に帰路 についた 。 ︵わ し ま 会 会長 羽入 記︶第五十一回
﹁
一人暮らしのお年寄りとすしを通してふれ合う会﹂
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女性委員会有志 平成十九年十一月六日㈫十二時 、 台東区すし連合会主催で標題の会が 開催された 。 台東区役所 十F会 場 に は 、 台東区にお住まいの一人暮らし のお年寄りの皆さん五百余名が出席 した 。 ふ れ合う会には来賓として 二十余名の参加があった 。 十二時 、 最初に赤羽連合会長に続 いて来賓のあいさつの後 、 テ ーブル にすし職人十五人の握ったすしが用 意され笑顔笑顔の食事会となった 。 今回主催者から ﹁ 東 京新潟県人会 館は台東区の一員です 。 是 非 、 東京 新潟県人会おけさクラブ同好会の皆 さんに伝統芸能おけさ等の踊りを ﹂ と要請を受け参加 。 当 日は同好会か ら八名が出演した 。 プ ロ歌手舞さく ら ︵ 柏崎出身 ︶ の 歌に合わせ見事な 踊りを披露した 。 会場内は座って手 振り 、 立 って一緒になっての輪踊り と参加されている皆さんと心ひとつ の和やかな会であった 。 県人会からは廣川副会長 、 台 東新 潟県人会関崎会長の出席があった 。 ︵ 本 部広報委員会 ︶ ̶佐渡おけさ̶ 東京新潟県人会 おけさクラブ同好会の皆さん 特別ゲスト 熱唱 舞さくらさん あいさつ 赤羽連合会長京台東新潟県人会は今年度七十五周 年を迎え 、 関崎様は六代目の会長に 成られます 。 ふるさと塩沢 関 崎 さ ん は 旧 塩 沢 町 ︵ 現 南 魚 沼 市 ︶ に 生まれ七人兄弟の真ん中四番目で少 女時代は健康的に日焼けして野山を 飛び回って いたとか? 上京は昭 和三十二年 との事で 、 台東区浅草 には三十四 年に移り住 みました 。 ふるさと塩沢へは春の山菜とり 、 秋の収穫旅行など機会を見ては友 達・仲間と訪問しふるさととの 、 交 流を深めてきましたが 、 今 後は会の 公式行事として復活させふるさとへ の架け橋として絆を深めていきたい と抱負を述べられました 。 関 崎会長 新年明けましておめでとうござい ます 。 今年最初の ﹁ 会 長さん今日は ﹂ は 東京新潟県人会のお膝もと東京台東 新潟県人会会長関崎千里様にお聞き しました 。 台東新潟県人会の生い立ち 東京台東新潟県人会の歴史は 、 台 東区にあった下谷新潟県人会・三ノ 輪新潟県人会を母体とし昭和四十二 年七月十六日上野タカラホテルにて 初代会長市川和延様他二十七名の発 起人の努力により発足いたしまし た 。 設立趣意書によれば故郷の東京 への玄関口上野駅を擁する台東区に 故郷の同郷愛によって結ばれた上野 の地に暮らす仲間が助け合いと信頼 により和やかに年一∼二回相より親 交を暖め同郷の誼 と結びつきを深く したいと謳っています 。 初代会長市川和延様は市川硝子製 作所を経営され県人会館二階のステ ンドグラスを寄贈された方です 。 東 さんは県人会本部でも活躍され新潟 中越沖地震の街頭募金や後楽園で行 われた新潟物産展など多くの県人会 行事に積極的に参加され 、 ま た東京 新潟県人会常務理事・女性委員会委 員長として多忙な毎日を送っておら れます 。 東京台東新潟県人会の今 東京台東新潟県人 会でも 、 会員の高年 齢化が進み 、 新入会 員の開拓に頭を痛め ているとのことで 、 会長自ら会員獲得の ため積極的に目標の 方々にアタックされ ているとの事でした 、行事としては 、 新年会・親睦旅行会・総会・納涼会 など多くの会合により会員の親睦と 交流に勤めています 。 特 に毎月の例 会は ﹁ 二 一 会 ﹂ と 呼ばれ毎月二十一 日に ﹁ 池 之端の伊豆榮本店 ﹂ で前会 長土肥一夫様のご好意で開催され台
会長
さん、今日は⑳
会長
さん、今日は⑳
会長
さん、今日は
会長
さん、今日は
会長
さん、今日は
東京台東新潟県人会 会長関崎 千里
さん 東新潟県人会の名物会合となってい ます 。 平成十九年度の旅行会は 、 N HK の大河ドラマ ﹁ 風林火山 ﹂ と信州の 鎌倉として有名な塩田平の別所温泉 から牛に引かれて善光寺の長野へ参 りました 。 ︵広 報 委 員 飯塚 敏郎 ︶ 国宝善光寺再建三百年 信州の旅マリと子犬の物語 中越地震に襲われた新潟県 旧 山 古 志村 ︵ 現 長岡市 ︶ を舞台にした映画 ﹁ マリと子犬の物語 ﹂︵ 猪股隆一監督 ︶ は 、 十二月八日㈯全国一斉にロード ショー 、 感動 の嵐を巻き起 こしているが 、 それに先立っ て十一月十九 日 、 六本木の TOHO シネ マズで試写会 が行われ 、 監 督 、 出演者と ともに母犬マ リも登場 、 場 内の拍手を浴 びた 。 そして更に それよりも前 、 十月二十二日に猪股監督 、 主 演の船 越英一郎 、 松本明子さんらが 、 山 古 志地域の住民が暮らす仮設住宅 ︵ 長 岡市陽光台 ︶ を訪れ 、 被災者を励ま し記念撮影をした 。 ここには 、 すで に山古志に帰っていた人たちもやっ て来て交流に参加 。 この後長岡市リ リックホールで開かれた初の完成披 露試写会ではエキストラで出演した 約四百人の方々と共に映画を鑑賞し た。 東京新潟県人会の方々の中には 、 すでにご覧になっている方も多いだ ろうが 、 地震で倒壊した家の下敷き となったおじいちゃんと孫娘の彩を 救い 、 全 村避難の村に残されながら も三匹の子犬を守り続けたマリと家 族の絆は 、 大 きな感動を呼ぶ 。 泣かされた一人としてお薦めした い。 追悼と感謝の思いを込めて その中越大震災から満三年となっ た十月二十三日 、 新 潟県の被災各地 では 、 そ れぞれ追悼と復興の式典 や催しが行われたが 、﹁ 震度 7 の 町 ﹂ 北魚沼郡川口町 でも 10・ 23追悼式典 が行われ 、 亡 くなられた六十八人の 冥福を祈り 、 午後五時五十六分には 全町で黙祷を捧げた 。 岡村町長は式辞で ﹁ 犠牲となられ た方々のご冥福を祈り 、 ご遺族に哀 悼の意を捧げるとともに 、 全 国のご 支援頂いた皆様に感謝申し上げま す ﹂ と述べ 、 平成十六年十月二十三 日を決して忘れることなく 、 更なる 復興への道を歩き続けることを誓っ た。 会場となった川口中学校のグラウ ンドには 、 約 三千本のキャンドルに よる ﹁ に いがたからみんなえがおに ﹂ のメッセージが作成され 、 川口中学 校三年生らの手によって点火 、 こ の 後鎮魂のコンサートも行われた 。 地域ブランドで村づくり 長岡市小国地域森光集落 が、 農 林 水産省主催の ﹁ 豊かなむらづくり全 国表彰 ﹂ で 、 農林水産大臣賞を受賞 した 。 受賞のポイントとなったのは 、 産 学連携による個性と活力にあふれる 村づくりということで 、 新 潟大学農 学部の協力の下 、 森 光産のコシヒカ リ ﹁ もりひかり ﹂ や 棚田の酒米でつ くられた ﹁ 吟 醸酒もりひかり ﹂ な ど
〝市町村だより〟あれこれ
新潟県下の市町村広報その他から
映画の1シーン(彩とマリ) キャンドルメッセージ 一緒に「ちまき」づくり独自ブランドの商品開発を行い 、 収 益の向上を図っている点が高く評価 された 。 森光集落は 、 世帯数六十二戸で 、 人口も約二百人という小さな集落だ が 、﹁ 農業の衰退がふるさとの衰退 につながる ﹂ として 、 平 成六年に森 光担い手生産組合を設立 、 平 成十年 に法人化した 。 危 機感をバネにして 生産組合 、 老人会 、 婦 人会 、 そ れに 子供会までが世代を超えて連携し 、 住民主体の地域づくりに取り組んで 来たもので 、 首都圏で行われるイベ ント参加や都市住民との農業体験交 流などを通じて集落で開発した商品 の P R や販路の拡大に努めている 。 生産組合の小島康平さんは ﹁ こ の 受賞を励みにして 、 地 域や世代 、 職 業などを超えた交流を広め 、 更なる 発展につなげて行きたい ﹂ と 語って いる 。 二田小伝承舞クラブ 続いても 、 地域とのつながりを伝 統の継承に生かしている話題 。 柏崎市西山町 には、 石 井 神社の大 和舞と物部神社の太夫舞が伝えられ ていて 、 い ずれも市指定の無形民俗 文化財となっている 。 昔は神社の神主が舞っていたもの だが 、 年 月の経過とともに舞方・囃 子方を氏子がやるようになって ﹁ 里 神楽 ﹂ の 名前がつき 、 昭和三十年代 までは氏子の若者たちで継承 、 その 後も青年団事業として継続した 。 しかし 、 昭和四十年以降 、 青 年団 組織の崩壊とともに衰退 、 継承も途 絶える寸前となったが 、 昭 和五十六 年御神楽保存会が発足 、 伝 承の披露 を目的に会主催の神楽観賞会を行っ てきた 。 そして 、 それを見た子ども たちの中から ﹁ 自分たちも舞ってみ たい ﹂ と いう声が起き 、 二 田小学校 ︵ 西 山町二田 ︶ で は当時の金子 正 先 生の指導の下 、 手作りの面や風呂敷 で作った衣装を着けて教室で神楽舞 を行った 。 今から二十年ぐらい前の ことである 。 それが伝承舞クラブとなって発足 したのが平成十二年で 、 今 は吉水玲 先生の下 、 地域の方々の協力 、 指 導 を得て伝統文化の継承が行われてい る 。 そこでは 、 舞 を覚えるだけでな く 、 礼に始まり礼に終わる作法や伝 承舞の歴史も学んでいるということ で 、 上級生から下級生への引き継ぎ を行いながら 、 や がて来る三月の鑑 賞会 、 五 月の発表会 、 八月の草生水 まつりの舞台へと日に日にボルテー ジを上げて行く 。 まちおこしサミット in胎内 山野草・つみ草に関心のある人た ち三百六十人余りが胎内市に集ま り 、 第七回全国山野草・つみ草料理 まちおこしサミット in胎内が 、 十月 八日 、九日の両日 、ロ イヤル胎内パー クホテルと地域間交流センターを中 心に開催された 。 八日に行われたサミットでは 、 実 行委員長の小野副市長の開会あいさ つに続いて吉田市長が 、﹁ 食に対す る関心が高まっている中で 、 山野草 を通じて各地域の自然環境等に関心 を持ち 、 地域活性化や観光振興につ いて情報交換を図ってください ﹂ と 述べ 、 参加者を歓迎した 。 続いて山野草研究家の篠原準八さ んが基調講演を行い 、﹁ つみ草でわ がまち・ふるさと再発見 ﹂ の タイト ルでパネルディスカッションが行わ れた 。 パネラーに加わった地元胎内市の 食生活改善推進委員協議会長の近永 さん ︵ 副 実行委員長 ︶ は 、﹁ こ れま では地域レベルの展開でしたが 、 今 回のサミットで市の内外へのアピー ルになったと思います 。 ま た食育や 食の安全を見直し 、 地域資源の活用 と活性化につながれば 、 胎 内ツーリ ズムのヒントにもなるはずです ﹂ と 語っている 。 九日に行われたつみ草料理昼食会 では 、 参 加した皆さんが料理の材料 や調理の仕方に耳を傾け 、﹁ 家の周 りに生えている草が 、 こ んな風に食 べられるなんて ﹂ と 目を輝かせてい た。 ︵広 報 池田 孝一郎 記︶ つみ草料理昼食会 みんな文化の伝承者