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アロン・コーン「價値哲學の主要問題」-香川大学学術情報リポジトリ

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Academic year: 2021

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(1)

高 階

順 治

此頃殻んだものの申に、守○芦COhn‖穿uptprOb︸e巨edeぺWertp註OS旦昇一ぺ訂n、一缶Pがある。制令によくまとまつ てゐて、小便値開放lて閑心を有っ人々には参考忙なることもあるかと思ひ、こゝにその嬰鮎を粛介させて葦ふこととした。 原著が、七〇戴足らずの小調子で、その内に多くの問題を盛ってゐる調係上、内容が劇般に概招に過ぎ、精彩を妖く憾み 1 があるが、本絹はその仝鰭を鑑に≡分の仙程度忙縮繹解説したのである。それ故に叙通が恐ろしく抽象鹿硬に闇してしま ったやうである。愴、本文中の⋮人稀ほ、著者アロン・コーンを衰はす。 鵬 低値哲単の意味と形而上拳 骨畢はいつでも憤欄間勉ば開係を有つが、十九世組の哲蓼ではそれが存在革的間鴇と混合してゐた。そこにロ リツ∴が現はれ、ヰンデルバン.ドやサツケルトが出て、慣値の領域を明示した。均然科挙は例へば青物でも佃単に右

州 商工綬臍研究 竿二盆二第一戟︵環㌍阻

アロンーコーン﹁僚他繁華の主要間組﹂

アロン。コーン﹁債値哲学の主要問題﹂

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三︶ こ 第十二食 第一就 の化畢成分のみを研究して、それが生命の保存・精神の磯達・車両の増進に如何なる役目を有つかは顧みない。 それは伯佃的研究ではなく、事物を償値と無闘係に只あるがま1に観察するに過ぎない。然るに哲単著は世界の 慣値を研究する。研“劉はその任路上、自然科挙以ヒの領域を霜ち得る。 かくて次第に憤恰標念が研究の封象となり、党づ鮭臍堕の問題として、偶植と慣格との関係、利用慣値、交換 憤値、剰飴債値、馳界僧侶等が研流される鱒至り、次いでマイノング、エーレンフ工ルス、クラウス、フ・プレン タノ等によつて、憤佃間超が心理単的、倫珊革的にも挟大、捉究されるに至った。 琴た〓づ憤値を他の現象と並ぶ山つの現象と見なして研究するもの、他方、狭義の債値繋畢の如くそれを岬 切哲蓼の基礎または主越たらしめようとするもの、更に以上両者の関係から俄磯の偵佃哲拳を導〓せんとするも のなどがある。 ニイチェが、低値の創也者、命令者、換言者、法則附輿者としての哲蓼者忙よる山切慣他の憤値柚擁を唱へた ことは有名であるが、リッケルトは純然たる理論的立場でこれに反射し、憤他車としての畢啓は 刷切の偶欄預言 に封抗して、すべての慣伯を只慣億として坪解すぺきものとした。ゴムベルツ亦リヅケルトの立場を山切の償櫨 哲拳の前提なりとし、ニイチェに反封した。 併しりヅケルトが宕の如く慣佑の命令、設定、即ち評慣を否定し乍ら、理論的憤値だけに後れを許したのは、 自己の立場を破るもの、憤倦鰻系内には、箪に理論的客観的安常慣倍だけでなく、ヨ・うーンÅ述べる如く、あ

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一 らゆる種類の慣催が属してゐなければならぬ。 惜値哲堕の科挙的性質は評慣や慨値創造の否認で確立するやうであるが、それは僧侶竹串を形而上拳化するも の、七こに放て、低値哲蓼は科挙とLて可能か、形而上革として可能か、といふ問題が起る。ギ・シュテルンはそ れを形而上撃とする。即ち、科挙的哲畢の説明できぬ究魔の慣伯理念に究頗的存在の自己偶似たる性格を附処 し1その把捉を以て眞の形而上蓼なりとする。かく存在と慣僻とを同州祀せんとする男気は今日攻仙郷になくなり つ1あるが、意識的形而上串的慣伯哲畢の要求は依然として残存する。 哲単的思惟の畿達によつて、形而上挙が存在の金筋性を把撹せぬものであることが解わ、形而上解否定の要求 も進められてはゐるが、その結果は、哲単の本質的衝動が夙につくり上げたものを、すべて犠牲にしてしまはね ばならぬこ左となる。このヂレムマのために常襲は、梗梼は科挙で結果は形而上螢といふこととなつた。これは マールブルヒ畢況やバータン螢派だけではなく、現象笹沢も同じであつて、フォルケルトはこれを寄賛上の無免 許形而上螢と呼んだ。このことは、憤倍哲単に於て殊に然りであつて、我々の歩みも、その恨両を削ぐことにあ る。 勿論形而上単的思桝は避け得ないしまた恥でもない。併しその窓用は救ひ得ぬ混乱を増すのみである。故に我 々はギシュテルンに反射して科挙竹野蓼をiE常成せねぼならぬ。哲興が全き混沌に陥らぬためには、科挙的方法 と思惟とを快いてはならぬ。哲畢はすペて合埋化の上に立つ。叡智を利用せすして麗翫は何等の内容も掩得で アロン・コーン﹁慣櫨哲聾の主夢問題﹂ ず 煎ル 1 ■ ︵三、・ ≡

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弟十二啓 発r仙 鮮 ︵川︶ 閏 きぬ。すべての富表・理論・反論は論理螢の形式に従はねばならぬ。叡智こそ習哩衰の横闘である。 かくて哲畢は、形而上蓼と科挙とに引裂かれるやうに見える。その何れを捨てるわけにもゆかぬ。これは確か に悲しむべき状態であ 道ではない。 〓 督拳的憤伯諭と経済的債棺絶との境界づけ 償備曹革ではなく、哲畢的慣髄論は経済的憤侶諭から生じて釆た。経臍畢老は経済的僧仰のみを研究する。ク ラウスはこれについて、オーストリヤ蓼扱が外的財の慣倦を免±哀的のものと見つ1、その瀕たる節﹂攻的慣佃 概念の研究もなさす、またそれに関する心理拳的・倫理革的研究結果をも顧みないことを難じ、また他方、倫埋 単著がその節加攻的憤佃概念にのみ留意して第二次的憤佃を不問に附することを指摘し、自らは以上の両説を紘 合せんと努力した。マイノングやエーレンフェルスも同じ立場で統山的慣佃論む創造せんとしたが、今日ではか 1る努力は後退し、紅斡理論は瞥串から弼立ト、哲螢はまた、リノケルトやバウフの如く終臍臓値を慣侭と鋤伸め ないか、或はミ†ンスターベルヒやヨ・コーンの如くこれを謎めても、それ以上にどうすることもない。即ち横 倍の管畢的研究と経済的研究とは、その要求や鶴城に明かな湛別を有たぬままに、別れ別れに蟄達して来た。 侯も罫紙に解すれば、経済畢は経済的慣伯を明かにし、哲畢は非経済的債価を取扱ふやうに見える。この区別 ヽ

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は群論には叶つてゐないが賓際には廣く行はれてゐる。併しかゝる分類は徹底できぬやうに思はれる。それは、

非経臍的憤佃でも、経済的観粘から経済拳の封象となり得るし、また殊に慣値哲挙が或る慣植即ち経済憤値を塵

外班できるとも児はれぬからである。それ故に領域からの区別は可能でない。物的財は姪臍螢的慣備考察の封象

でも、哲撰酌伯仲考察の封象でもある。勿論その場合同じ僧侶開係が研究されるわけではない。椚仰は恐らく両

者にとつて興るものであらう。そこで帝慣伯諭の罷別はその材料にはなくて方法にある。研究領域でなく、考察

方法た差違があることとなる。

終臍的理論では低値を放川の概念に結合して取扱ふ。柴蕃慣偲や交換憤倍が語られ、食物・家屋等が紅臍惰値

として述べられる時、それらは教相性・合目的性の根嬢の上に立つ。これに尿トて慣値哲輿的理論では、事物の

赦用は闘係トないC山描の綺裔の貨幣慣倦と審糞償値とは合致するとは限らず㌧もし合致しても必然的ではな い。.審発憤倍のないスケッチが大家の作たる甥由で経臍偵値多きこともあり得るのである。

僧値が憐情智箪の封象たり得るためには、それの鱒験を必要とするが、経済的慣髄論ではそれは閃喝でない。

二人の富者が同じ食餌についた慧口三方は莫昧に敏感で他はそれに無感覚であるとせぼ、その代償とか養分と

かの経臍的憶値は両者同じでも、哲輿的偵伯は前者にはあつて後者にはない。食物は経臍単にとつてはいつでも

慣伯であるが、哲塾たとつてはそれが惜惰性を宥たぬ場合と、積極的横倍を有つ場合と、消触的低値を有つ場合

とがあり得るL他の事物についても同様で、例へばダイヤモンドの紅臍的慣値はその壊的評憤・硬度利用怜・稀 アロン・コーン﹁慣砥暫畢の主要開放﹂ ︵瓦︶ 五

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少性・憤格協定等々で決まるが、哲畢的慣値は専ら審契約伯仲によつて決定される。 エーレンフ℃ルスが習単にも辣用せんとした限界効用詮も、以上の如き低値意義の置別を擾すものではない。 船上の淡水が極度に減じて経消的惜値が暴騰しても哲拳的偶作は不堪であり、また有り散る淡水で経済的慣催が 零でも、渦死の切にある者にとつてその哲撃的慣値は無限である。 要するに雨着の考察方法の根本的相違は許慣に封する路傍にある。総柄的群論は蜜際には剛定の許慣を包有し 前接しては居るが、さし常り血切の評償作用に無拍係のやうである。これに判して習畢はどこまでも許憤や債値 づけに関係する。かくて同じ経臍財なる研究封象に於ても、佃別科畢はその許惜に於て賓在性を朋かにし、幣畢 はその意味を研究する。 三 倍佃と暫∵在 償値と蜜在との閥係は債値哲畢の液重要問題であらう。同じ貰在としての石でも、路上のものに低値なく博物 館胡瓜のものに慣備あるのは、二慣如何にして可能であらうか。 マイノングは慣値を事物の根概的性質としたが、然りとすれば憤値は寄物と生滅を共にするわけである。これ. は過去のもの、将来のものも憤値を有ち得ること1相合はぬ。この困難を彼も察して、それは賛際は慣倍を有つ ヽヽ︳ ヽヽ てゐたと、有つであらうといふ意味であるとする。併しこれで右の僅質詮が赦はれるわけではない。そこでこれ 第十二巻 第一番 ︵六︶ 六

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に判してエーレンフェルスは、例へば過去の戦寧や現蜜には布衣しな早押詰中の紳飲も現存者にとつて有慣佑た り得ることを指摘し、慣値は事物の性買ではあり得ぬことを明示した バーデン拳沫の二世界詭では慣他と鷺在とを全く分離する。ギンデルバンドは、慣値を以て、覇物の評慣意識 への関係内に初めて生するものと見、リソケルトも、慣佑は存在と異り、我々の意識に封して初めて低値たるも のである、乞とを述べた。然るに現象螢派のシェ・二フ1では、慣備は存在以上のものではなく、またヰ・シュテルン に於ても、外界認識は閉輿の慣値的加エに外ならず、存在は僧侶と同〓礪され宅 さて賛在と偵他に閲して些二つの見方が可能である。即ち開署を到立させること、横倍を蜜春に蹄すること、 瞥在を僧他に依存させることこれである。巧両者が親鮎の相違から生ずるとなす新見柏がある。何れにもせよそ 。 ハプチン の封立の消失することばない。然らば雨着の開聯は如何。リッケルトは屡々惜値が財に附蒲してゐることを述べ、 ケグーベン ハイデは憤値が客牌に附興されてゐることを強調する。これらの場合その結合の仕方が究められねぼならぬ。 過去のものや賂釆のものも有情価たり得るとは、嘗在が現存しなくともそれについての記憶や希望が償佃を荷 ふことと解せられ、塾術活動や道徳竹馬では蜜泰と慣倍は素材と形式との関係と解される。また舞基の或ものは 慣値のために麿在がつくられ、不死の低値などは資准性は橡渕されたもののみである。珊想郷や童話などは蟹在 物に基づかなくとも惜僻地臨が可能である。名優の所作や風景藩などは、それの非暫布を知ってゐてもそれに莫 的慣値が見出される。尤もその婁今名俊の扮したリヤ王や薔申の風景は賛尭しなくとも、その所作や諭そのも アロントコーン﹁惜値哲登の主賓問題﹂ ハ七︶ 七

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第十二審 第 山 携 ︵八︺ 八 のは資在し、リヤ王や風景も伐構的嘗在である。これらの鷺在なしには憤仙もあり待ない。 相、憤櫨と資産とが忘客鰐に弥て結合してゐるとしても、その慣備付橘は不安定のものである。例へばバナ ナが菓義憤低・経済慣値・審発憤値等々を現はし得る如く、叫の葦在にも多くの債価が随ひ、また菓養償値の如 く、同叫の賓赤に相反する償他の結合することもある。 要す㌃にすべて我々の把捉し得る債植は或る叫の賛査牲を前捜し、その上で人聞またほその償値牌験能力なる 晋在への関係も可能となる。 ﹁偵畢怠蒜﹂なる題下の見逃し得ぬ二間鶴は、寛布と慣別された現象﹁憤価﹂の原理的解明と、その偵値の貰ホ ヘの液も多様なる開聯の探究とである。 僧侶と資夜間の関係の二冤表 慣値が﹁附若してゐる﹂1 A偵値と贅都とが

山長の客憫に於 て結合す

月償値が⋮の賓在 に向つてゐる・− 一 1 一′ ̄、−−一一−、 賛在に。併しこの際次のことが考へられねばならぬ羊1 ︵a︶血の欝在に多くの償値が節し得られる。 ︵b︶同劇の資産が同時忙積極的及び消極的償依を有ち得る。 ︵Cレ償値は強度忙よつて多くの憫備に分去れる、U 扱軍規存しない賓在に。︵記幡・歴む︶ 佃未だ︵寄情によつては決して︶調布しない健在に。︵希軍理想・幻想、︸

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四 絶判的憤値の問題 縦判的憤怖が今〓憤値常襲の中心問過となつてゐる。今日主勧‡嶺もあるにはあるが、レ併し紅封的慣他が現代 の憤備哲輿では支配的である。マイノングも最初は傾倍の主観牲相加性を説いたが、後にはそれの非個人的絶封 的であることを述べた。 ≠ 今日の専門督螢は紙料的憤値の存在に固執してゐるが、それが如何なるものであるか、血か多か、本質は如何 の問題では見解を艶ハにしてゐる。これはその周語が、第剛吹的・無制約的・安首的・客観的偵伯等々の如く院々 たることでも明かである。尚、客観的償僑む絶封的慣低から分たんとする試みもある。 絶対的慣値とは何か。仙の慣値がその慣備性を完全に自己内に有ち、如何なる肯定・肯定・指定にも煩はされ す、自己以外の何物にも僻はることなき時、これを絶封的といふ。絶封的慣値は無制約的償櫨であり、憤備自牌 である。時容は固より、叫切の概念化、被牌助から超絶し、伸さへ如何ともなし待ぬものである。 ∴尤もか1る峻厳な定義が今行はれてゐるといふのではない。クリューゲルは各評憤偶人に封して絶射的に安常 C憤値が替れをつ くる・− アロン・コーン﹁呼値薯拳の士嬰問題﹂ ノー−・・−・一<−岬−−−− ̄■ ̄ 六 方.四 仙の創造さるべき質朴に。︵螢見・濁創的括動︺ 仰の期待された質在に。︵例へ虻紳・不琴啓示の如き宗教的信仰威許虚説︶ 剛の意識された仮構的賓在に。︵理想郷・夢想・童琴小説的人物・敢術︺ ︵九︶ 九

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第十二令 弟 山 賊 ︵鵬○︺ ︼○ する慣値判断を無制約的と見、ケルレルは好雄慣倍をのみ絶到的とし、ミュンスタ1ベルヒは個人的快・不快に 無関係な尿善美盤内に安代を見出すものをそれとなし、シェーラーは感怜的・生命的存在から弼立に純粋感情に封 して存在する債値を絶射的とした。その慣佃の紙料性については今日次の如く誇明するものがある。哲単著は無制 約的虞を求め、倫甥人は客観的受賞の規範を遺徳法則の中に見る。宗教人・塾術愛好家に於ける亦然りである。 絶封的低値は我々が努力や認識忙於て梅封的として前線するが故に存在すると。併しながらそれらの求める憤値 が皆一致してゐるとは限らす、尚また規絶や法則は、人がそれを避け得ない以上、認識さへも客槻的には安常し ないと思ふが故にとて、その不存在が強調されぬばならぬやうなものでもないであらう。 エーレンフェルスは、人間思惟が絶封的断定に傾く時でもそれは相判的に硯はれるに過ぎぬとして、絶封的慣 値の甥論に反封し、ミシスターベルヒも初めは、超仰八的≠界認識の要求は決してその世界の安常僅祈祷を意癒 す㌃ものではないことを指摘した。 プレン▼クノの如く、絶封的慣佑なくして慣値的科畢の研究が不可能であるとなすものも今日多くある。併し我 々はそれに興することはできぬ。寸竜の違背むも許さぬ憤他の絶封性や確爾たる態度を鋸ひる存在の符明はでき るであらうか。〓切の人間への安常がその慣値の絶封性への完全な謂明となるものではない。巌判的慣借の恨定 なくしても世界は崩壊することはない。 ワッケルトけ二個人にのみ安富する個別的主観厩楠と、叫切人に安富する普遍的主観惜値とを置別したが、後

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者を以て直ちに客観的横倍とはしなかつた。彼のいふ客槻的憤値は普過的に要求されるものであり、理論的慣依 のみをそれであるとした。これ.についてはフォルケルトの反封がある。 普通的主観憤倍以上に出て客観的絶封的慣値を立てることは、我々が自らの情感・意慾・思惟の彼岸に立ち得な い以上不可能である。ミュラー・フライエンフェルスやハイヂ等が絶射的憤備の可能性を明かにしてゐることを我 々は正しいと蜂思はない。形而上単的絶封的偶悟性をつく1ることがあるとしても、それは科撃としての野単には 無関係であるα 死水即現象的には、終期的償倦と達観的悉憲とを封立させるだけでは充分でない。故にワッケルトの如く普遍 的主硯債値と個別朝会敵情値よを劉立させることも不充分である。両者の間に或る〓閻の人々に属する薬園的慣 倍とも呼ばるペきものがある。塾術的際物・流行・スタイル・時代精紳等は、薬園的憤値によつてつくられ左右 される。或る階級や地位に特有の債値、幾民の、軍人の、固民の慣値等々も、大部分薬園的償値でぁる。 そこで格別は、普遍的慣低から集拗的低値を経て個別的低値に到る。この系列の何れの地位にも絶封的慣値を 入れる必要も擢利もない。慣値の研穿は、我々の認識に明かである如く、紀封的憫備には決して導かない。 償植の﹁甥﹂存在を元す言葉として、安常の概念は特に拝意せねばならぬ。これはロッツェにより野草に導入せら アワン・コーン﹁慣値暫撃の主要開港﹂ 五 安 い〓 、㌧Lト ︵鵬 州︺ 山−

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第†こ谷 邦 〟 解 ︵一こ︺−〓 れ、バータン畢派・硯象畢派より、マールブルヒ畢次にまで磯展してゐるCこの概念は虚控に慨植の絶封仲を示 す。誰彼にのみ安骨回するといふ如きは、貰の安常ではない。 安常を解して債値の形而上畢的存在形式となすものは、この間題を形而上単に抽入するものである。人はかか る形而上畢的把捉を避庁、反封に、安倍概念のやがて確許されるであらうことを信するに至ってゐる。 ボルタァーノやバウフに見られる如く、安富の諭詑は、理論的慣倍なる展珊に限られることが多い。フリセル以 来よく敬拳的眞珊が指示される。N十㌣ふを理解する私の思惟作用は主観的で建動もあるが、児惟内容、阻ち陀十 和=Aなる虞坪は、理解の如何に係はらす安歯する。たとひ世界が破滅し、思惟する人、それに安倍する常人の悉 く絶滅し姦した後にも、沌十柏=Aなる眞埋は安常するといふのである。併しこれは全く用語例に違背するもので むるご質常は常に閥係を表はし、それに勤して安倍する常のものを前提してゐる。貼札は朋賓に告知として安常 し、引力の法則は物鳩に封して安常する。人や物鰻なくしてこれら鱒無意味である。フォルナル♪やギ・シュテル ンも強調する如く、それに勤して安常する常の人なき安常−即ち賛在に向ひ合せの慣値の孤立は、重く考へられ ぬものである。 かくで結局、安常かェの布衣と見なして形而上螢を進めるか、或は安常するとは、償他に関してそれが誰にで も現に存赤することを表はすに外ならぬ、となすか、その何れかを選ぶより外に仕方がない。

(13)

六 憤 他 概 念

憤値常温的研究の扱初の問題は、﹁償億とは何か﹂といふことで、これは絶封的低値の問題並に、経験的惜値膿

験及び債低利断に基づく債備の問題に開係を有つ。既に形而上蓼を離れた我々の問髄は、如何なる償値概念が可

経験的質料から摸られるかといふことである。

ハイデは、例へぼ檜寄金照影二の償値としてこれ盈憤値2と名づガ、綺宙の有つ慣偲自鰐を偶倍1となして ゐるが、偵佃2は哲撃的には慣値といひ得ない。低値は本釆女化財と興ってゐる。両者不可離のものは経済的偵

倍だけである。

経済的低値研究では償値を目的または放用と同表するが、我々は僧侶=数用となすとLろに習挙的意味の低

値はないと主眼する。勿論効用と見られることもあるが、合目的や有数件だけで慣値は温されるものではない。

慣値が事物の性質でないことはいふまでもない。その輿へられ方が問題であり、こゝに感情諒と願望詮とが封

立する。感怖詮はマイノングが、噺望説はエーレンフJ∼スが唱へるが、マイノンクは結局は桐者の義を認め、

シュパンヌシクスヅウスタンド シューラーは感情訟であるが結論に達してゐない。ケルレルは感情の前に意慾を置く。憤値む南接に緊張状態

となす我々は感情詮によりも願望認に近い。人格を僧侶と感する時我々はそれを意慾してゐ、蟄術家は実の前に

所動創造し、科単著望典埋の蔑見所有を離聾する。これらの場合に見出されるものは、能動的作用セあつて静的

アロン=コーン﹁嘩値磐塵の主要問題﹂ ︵二ニ︶ 仙二血

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な感情ではない。 こ1に無慣値或は泊地的償値が問題となる。ハイヂやペックは、憤値は本来祐極的のもので、消極的慣値は自 己矛盾であるとするが、我々は、例へぼ天閉が憤徹される意味で宗教的慣値を有つとせば、地獄は回避される意 味で泊地的債伯を有つと見る。 さて以上の感情詮と願望説とは、その何れも、憤値を感情または願望と同仙祀する。咽佃把捉の什方が閃電と されない。ところで今必要なことは、慣値の被賭験性を確立することである。 餞験の寄賓は反生命督尊者さへ認めてゐる。リソケルトも安常低値が人々に馴染まれるに至るのは経験的主観 の賛際的満州作用に入る限りに於てであることを述べ、べウフも客観的慣倦の被鰻験怜を紛いてゐる。 憤値把捉の感情的解鐸に反して主知主魂がある。マイノンクは低値判断は偏在判櫛に鋸潜されねばならぬと し、ヨ・コーンは慣倍を山切の是認・否認の鑑別根接とし、ヘーリングは感蛸的評憎む許Lつつそれが同時此知 的であり得ることを紛いた。 我々は知的要素はむしろ無償値への棟徴と考へる。シェ!フーが嘗で、この塾術晶は憫値揉あるが乗に入らぬ とか、その人聞は有能・有徳であるが好まないといふ場合のあることを明かにしたが、我々はこの場合にはそれ らに滑極的慣伯があるだけであることを主張する。償値ありとか有能であるとかの判断だけで埠未だ償備血捉で はない。判断には憤低吟構成もまたその十全な把捉もできない。併し勿論それは憤倦関城に於ける悟性の無意味 第十二巻 第一耽 ︵一四︶ 岬四

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を意味しない。知識なくしては低値哲畢の研穿も、僧侶鰭験に開する報督もできない。併し悟悼は、慣備の分析 はできても、その否定や創遭はできない。ゲんマ一−ヤ人が酉組九年にローマ人に勝ったといふ判断は慣値の表明 ではない。これは︹日本人にとつてはどうでもよいことである。但しダルマニヤ人の膠利或は臼−マ人の敗退 ● アンラース .が・、積極的或は消極的債値となる夢合、その判断はその筋捷であり、横国である。僚統的憤他の単なる承認、即 ち承認僧侶、我々の所謂資在憤倦も不充分な評惜といふだけでなく、それは許憤や憤侶指定には係りのな小もの である。それは感情的態度でなく知的過程に於けるものであり、硯驚的償備膿顔への磯田たり得るものである。 憤他の把捉の仕方む明かにするには知識も盈嬰である。憤倍鱒駿の解明に際しては、箪なる賠験に止ることな アウフグゲ・−ベン 今んィ1ペン く、.惟験の特別な性質を就く次の如き理論も考へねぼならぬ。即ち慣棺は典へられるのセなく課されるとするの で、ある。ヰンデルバンドは慣他忙ついて命令を畿き、リグケルトは常馬の超越を主麗し、ヨ・コトンは要求を、ジ サイン′ルレン ムメルは要請的性格を、一∵ ハルトマンは存在常鵠を詮く。バウフは梢々安協約に、債値の勢箭的性格を認めつ つすべてが命令として要求されるとは考へてゐない。 これらに反してシューラーは、慣他は決して督鶴に底礎づけられるものではなく、むしろ簡略化捉の場合に初め ヽ︳ ヽヽ て営為が問題となることを述べ、この給が発しくあることはそれが発しくあるべきことの意味ではないとする。 ヽ▼’ ゴムベルツも帆屠辛味に、素朴や無垢は偵佑はあるが、さればとて人々がかくあるべきものとするととはできぬ とし、ハイヂも㍍忙浮いた笛為に反封し、その理論の仮面的形而上畢を排斥してゐる。 アロンコーン﹁僧値哲襲の圭粟問題﹂ ︵鵬瓦︶ ∵五

(16)

ハニハ︶ 二ハ 第十二審 男 山 鮨 ヽヽヽヽヽ 雷鳥説の不明瞭は他にもある。二切の債値がたとひ課されたものとLて餞験されるとしても、それは課されて ヽヽ︳︳ 存在することを愚昧しない。それが命令として憫験されるか否かは心理拳の問題である。命令の憾除から命令は 引き出されない。 福煩値把捉の億要な研究はヘージングの包撞詮である。即ち慣値把捉を以て.⊥封象を既存の慣借間内に組入 包挿することとし、評慣はその可包捧性の慣験なりとする。併し、これでは臓値差の誰明ができぬ。 かくて結局債値は、直接にほ知識で把捉されす、只感情作用で、厳密にいへば二の願望作用で把捉されること が明白である。併しこれはその心的過梓の解明だけで、憤伯本質の解明ではない。 7ユールウブルー ハイデによれぼ債値は客槻の主観に封する関係である。慣値は常に﹁に謝しての償値﹂である。勿論その関係は 主観の創建でなく、特別な客概的事態である。私は有憤低音を許慣できるのみである。その評慣で客醒の慣仰は 創造されるのではなく、確立される。故に許憤とは剛の客鰭について憤値即ち特殊関係性を見出し知ることで′ぁ る。ハイヂの指摘した、以上の開係的性質は重嬰である。併し我々はそれを純客観的寄構となすことはできぬ。 これは主知主義り導入である。例へぼ射られた指拐が私に憤値あるか否かは、叫に懸ってそれと私との関係の成 宰不成立にある。ハイデは慣櫨あるものを許憤.できるだけといふが、我々は許憤されたものが憤値を有つといふ。 尚、今日の有力な憫憶説と⊥て、例へばギル.ケンの卓概創造設がある。幼女が木片に装ひして自らの子と童眼 する時、それは慣値を創造したものである。この僧侶は幼女と木片榊の閥係であつて、而も幼女の創造である。

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縫って幼女がそれを人形と見なくなる時、それは鼠なる木片となり経る。これらは敦術晶の如き場合は殊七明ら かであつて、我々はそれを着京することはできない。 ミグー∴ノライエンフェルスが第叫次的に童顔が勤象に踊係し、第二次的にその関係自鱒が骨定卜認識され、 憤値として指定されねぽならぬとなしてゐるのは、我々の見解に近い。只彼が第⋮次の偵偶掘礎と第二次の償億 措定を磋則し、後者むも鈍感桶的のものとしたことには賛し得ない。憤値指定には統一的全能的自我が背景をな す。即ち僧催据礎は純感情的性質のものであるが、閏値措定は感情的色彩の強い性質のものである。 以上の解鐸は、普通、客観的即自的存在として債値を認める常識とは矛盾するやうであるが、我々は慣値を偵 偲濃験の容戟、即ち主都の産出となす。主観の構成腔を直ちに客観と見ることは二般人にはあり勝ちのことで、 例へぼ幼女は木片を子とLて憤値づけ、ネグロはその偶像忙沖カを録する。か1ることから一切の慣備も仙般人 には客観的のものを誤解される。 右の主脱産出的慣値盆を仙修練威させるため忙は、二つの反封詮を説破せねばならぬ。叫は主鵜の床机たる慣 値は全く悉意的とするもの、二はそれによつて縫封的慣値の可能性が否定されるといふのである。これらは勿論 誤りである。兜づ側に射するに、前述の如く個備には個別的債値・群圃的慣値・普遍的憤値が直別される。普過 的憤値は単にすべてによつて鱒験されるだけでなく創造される。その創造は慈恵でも勝手でもない。黎術家もむ しろ”先の仕事に弘ひられ、替術品は悪意の所産ではない。低値創造とはそれが創迫著の悪意に懸る意味ではな アロン⋮コーン﹁償値悪感の主要閑地﹂ ︵−七︶ 岬七

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第十こ巻 第 丁渋 ︵血八︶ 劇入 い。かくてクライヒヅヒも高次の主鶴を認め、ミュラ!フライてンフェルスも家牢固琴人難等の超主観的憤借主 観を説いてゐる。次に二については、例へぼ宗教的低値を見る。紳は初め萬有伸的に考へられ、次第に山神論と なり、他界の根本原理と思耕され、撫細論では失せしめられた。この後達の各鮎に於てその償備は別法きれ否定 された。償値﹁紳﹂は、硯密約低値健験に於て各々の童観によつて創造されねばならぬ。これが我々にとつ∪本腑J.1 的である。我々の研究は経験界にあり、我々の任紡は、如何なる可経験的閥備に於て我々が僧備に遭遇するかを 見出すことで完了する。 かくて結局哉々は償値を解して、この物質的若しくは精御的構成健から仙の物曹的・精神的構成鰐への関係− 評慣された容猥をその中性的即自存轟から高めて私に封しての布衣に造りかへる関係−︻⊥里辟出する主槻の創造 的生産であるとする。 七 許偵と値踏、横倍と財、慣値法則と僧体錯誤、償値の太さと償値の犯さ、 慣値の分類と等級について ヽヽ ウニルチン ウェルトハルテl′ 言葉の意味では、許償蛙活動即ち作用を示しへ伯 躇 は状態即ち屈態を示す。故に他踏は許慣をより根源的 滋ものとして前提する。値鞘は知識の封象であり静的であるが、評憤は感情の事柄で動的である。評僧職念には 主観作用の創造が介在するが、値璃はそれから彼の第二段のものである。それ故に評慣には偶作判断の先行は銅

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僻しないが、他踏にはそれが必要である。 次に財とは許憤された客観であゃ、憤植と蟹在物との結合である。埜術品・人格等々は低値でなく財であり、 低値以上のもの、慣値を有つものである。憤倍は客観に附された、即ち春期化された評慣であり、評偶に依存す る9塾術品が華中でも有低値たり得るのは、憲−甥の低値鰭験の可能性の放である。 ベンザム、ゴリセンを初め、フ・プレンタノ、マイノング、シューラ一等偵値法則を訟くが、経論は債興ってゐ る。併し次のこと、即ち法則磯見の場合は劇切の特準佃鱒・性質から各憤備を抽象せねばならす、憤倍法則後見 のた應には償倍から眼を外らさねばならぬといふことはいへる。けれどもこれは初めから不可能である。またマ イノングやエーレンフノエルスの慣値錯誤、シノエー一ノーやニ・ハルトマンの供相次謹も、原理上不可矩である。これ らは無慣倍を有償倦となすことであるが、これは憤低利断の誤謬で低値の険謬ではない。正誤や虞慣は只判断に づいてのみいへる。 ヽヽ 低値法則は憤値の太さを前提する。フ・ブレンクノはより大なる慣倍を求めて紙和の原甥を立て、テ・レクシング も大さの詮から慣値算術を引き出した。低値の大さの認容はその可測定性に結合する。併しその測定の不可能は 憤他の相互表象で直ちに解ることである。十の親密訂二の親書の十倍とすることは勿論、二つの欺著さへ相等し いと決めるわけにゆかぬ。まして購った文化領域の慣値を同山祀してその鰍和をつくることは不可能である。色 々の根嬢から債値綿和の原理には賛成できぬ。勿論憤備には例へば優れた完数人と無宗教人との聞の憤値﹁不死 . ア宣γ㍉ コーン﹁低値潜壊の主要間伐﹂ ︵﹁九︶ 山九

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第十二巻 第 仙 雛 ︵二〇し 二〇 性﹂に見られる如く、無数の段階はある。けれどもこれは叫の慣借でなく無敵の慣依である。分蚤や太さの差でな く、性質・‖弘さの蓋である。マイノングは促さの外に大さを認め、クラウスは張さを大さの叫としてゐるが、弘 さは性質である.ハイデ吟饗買が憫倦の程度を決めるといふが買はれるものは財のみで慣値ではない。撃貿の際 の比較考患は感情よりも知識のことであり、その比較と同時に憤値は拘失する。慣値は結局測定できぬものであ り、厳密には相等しい憤備は存在しない。各低値は鰹験毎の〓同性のものであり、張さ即ち怖質に於ては同より 関係に於ても唯﹂のものである。 慣値分類と慣値等級の聞題は内苦上智関してゐるが興った範域から生する。償植等級を見るにはその漁鱒牲を 考へねばならぬ。シューラーは償他の高低をそれ自照の本員内に春る紺係と見、それは転機によつて把捉される とし、底感づけと被底礎づけ、穏綬と暫軍満足の洗慶等を偵他高低の梗準とする。けれどもこれらが果してそ フォル−エンデウシク の棟準となり得るか。結局憤値等級ぬ閃電となり得るものではない。リソケルトは発・結で以て慣倦を等級づ けようとし、全く形式的紺係からそれを理解した。併し形式的等級は自己矛眉である。形式的原理で達し得るも アンオルドゥヌシタ ラングオルドゥメン〆 のは峯 頓であつて等 級ではない。シューラーとリソケルトが等級説では典剰的のものであるが、それは要 するに、慣借と共に紀射的鱒系内のその他位が明澄的に輿へられるとするか、憤慨等級づけの原理を認容するか である?前の方法では明澄に難鮎があり、彼のでは等級づけの原理を知的方法でよい加減に惜値に常てなければ 怒らぬこととなる。それを適切になすためには債価の分顆を必要とする。かくて結局、償棺等級の承認されると

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ころには低値分類が結合し、反割に、それの否認されねばならぬところにも慣依分類は竣存するのである。 八 慣値哲畢の質料と方法 憤値習畢の賃料は何魔にあるか。債他の多掠多様む知るために主観即ち許偶に向ふべきか、客鶴即ち文化財に 向ふべきか。リソケルトは客観的な歴史的文化生酒に向ふペしとしたが、我々は賛し得ない。山封象が色々の方 向に債備を有つこともあり、不死の慣惰などの如く客観と結合せぬものもある。故に封象からする時には慣借を 逸することがある。薗、低値は被鰻胎内にのみ存在し、客観が財となるのは許倍主観を通してであるが故に、財 から出覆するわけにはゆかぬ。 テ・′レッシンクは現象廣的方法を低値諭に應廃して∵笹沢をつくつてゐる。シFラーの例について見るに、愛 なる憤備は持綬をその本質として有ち、永遠の相下にあるべきものである。本質﹁愛﹂は蟹在から粥宜してゐると する。テ・レッシングも現象畢を解して内部知覚の直接な析由ハ件の二期の分析的抽象的研究なりとし、.時間的質在 的に輿へられてゐるか否かには印せす忙∵現象﹁偶値﹂を観察するものとする。 併し我々は信する、人が慣値について謝る以上は蜜際に輿へられた∵定の慣倍かその慣櫓の抽象を限に浮べて ゐる。愛にしても我々の語るものは紳秘的な﹁本質﹂﹁愛﹂ではなく服さや纏潰の種々に興る愛である。私の愛は この本質の端的な畿甥であり、原始的現象として鰭胎内忙甥はれる。 アロン・コーン﹁僧侶暫拳の主要問題﹂ ︵二こ 二仙

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寛十二啓 発 〟 択 ︵ユニし こ二 軍統派魂象塾に勤しては瑛衆畢草ア・レッシングから出た澄も宰妹な論難がある。彼はフリセルの思惟技術的盛 典を債借問題に應用せんとして時々疑惑に遭遇した。またべノクもこれについて論じてゐる。 すべての根瀕的伊興性は慣れ得ぬものであるが故に、習単を科挙たらトめようとして論理研究で初めた時、現 象畢は経りである。現象畢者も優れ袴結果に到達できることはシューフーの例でも明かであるが、メソサーの如く ヽヽ 現象畢的方法を慣依哲学に有用とするだけでなくそれが慣値哲輿の方法であると宣旨するのには賛L乗ねる。メヅ サーの畢んずる概念分析は我々に庵役立つがそれが現象畢を特色づけるものではないやうに見える。これはソク ラテス以釆到底に行はれてゐることである。現象単なる概念を叫切の撃を包指するやうに萌めることはできよう が、無條件的解明の興味に投立モるためには、他の種類の常襲とは根本的に興る習聾のために、その概念を使用 すべきであらう9

九 人 生 の 窓 先

人生の意義の問題は最も古き憤借問項の言あり、慣佑幣輿の出磯鮎となカ得るが、その答は殴鑑の十年聞に ゃっと素朴を配した桂皮である。よく人生の意義は倫理行馬や精紳活動にありなどとされたが、結局生餌自照が 人生の意義として宣布された′。例へぽニイチェに於ける如くである。他方、紳即ち珂射たる究極像高の低価が甲 魔となり、そのために人聞生活の意義は持てられるわけとなるが、碧た人は無意義な世界でできるだけ有意義に

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作為せんともするに至る。かうした新希望に横骨を典へたものが憤佃問恕の静聴見である。八鹿に関しては意義 問題と憤借問題とは殆ど合致し、慣仰白鷹の解明が人生の慣仰に新光明を欝すと恩はれた。メソサーやヰ・シュテ ルンなど殊にこの見解を堅持する。 リノケルトの特色ある立場によれば、督堺牌系は結局、全世界の粗糖畢が同時に人生の意義の問題に答を輿へ るが如くに成立つ。けれども人は哲肇に牽帽な人生への指棟を期待してはならぬ。慣価牌系を根接とせる人生意 義の種々なる形式解明に満足せねぼならぬ。かうしたり”.ケルトの詮には矛盾がある。哲挙が人生の意義を明か にし得る以上それは山鑓のせ界観を典へねばならぬ。併しその哲挙が右の如く人生の意義の形式御明だけに止る とすれば∵定の人生意義は見出すに由ないであらう。これと同じやうな不明がバウフの見解の中にもある。 我々は、人生の意義は人によつて儀典ることを損嗣する。随って人生紙醍の意義については疑問を有つ。然ら ば慣値蓼は少くとも仙人生活の意義附けや甫常化としては意味あるものであらうか。バウフやリヅケルトはその やうに考へてゐるやうである。けれども、例へぼ五人の培越した科単著の人生に意義を輿へ七倍付は、仙般的見 解では、料率的憤伯といふことになつてゐるが、若しそれらの人々に、何が彼の人生の意韮をつくつたかを間ふ ならば、∵はカソリソクの信仰、二は賞讃を博せんがための努力二こは倫珊的行為と答へ、凶は彼の菜括にも拗 らずそれを意義なき失敗の人生とし、五は彼の人生の意養を知らぬと秦張するでもあらう。 かく個人生活の意義が全く人生の意義ゐ見方に懸ってゐる以上、個人的人生の献義を明かにする楔準も、ノ慣仰 アロン・コーン﹁倍佑暫輿の主要問題﹂ ︵こ三︶ こ三 料

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第十二舎 弟仙波

︵二囲︺ 二四

哲撃には軟けてゐる。人生の惜価は偶人・表何れのものを問はす、許慣のみによつて決せられる、然るに欧化

見た如く、評慣は償兢哲畢からは原理的に締め出されてゐるじ

慣他哲拳は人生の意壷を解き得ない。それは慣仰の解明を成し路へた時にその使命を果した。併しその認識以

外にそれは、慣値の明示忙よつて人生の変化に役立ち、償仰の多様性の開明によつて人間努力の理解に黄献する

そとができる。1故彼の問題を表決のま1に置くも、橋備哲畢劇充分に偉大である。︵完︶

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