2006 年度
第2回
オホーツク実学市民公開講座
Ⅱ, 知床−世界自然遺産登録と環境共生
−地域活性化の課題を展望して−
平成18年9月23日(土)、24日(日) 東京農業大学オホーツクキャンパス 大講義室 東京農業大学オホーツク実学センター オホーツク実学市民公開講座実行委員会市民公開講座
報告次第
◇知床・セッション◇
コーディネーター:石堂 典秀(東京農業大学 講師) 報告1:「知床の歴史」 中川 元(知床博物館長) 報告2:「地域住民の視点からみた知床」 湊屋 稔(㈲らうす海洋深層水 代表取締役社長) 報告3:「観光・エコツーの視点」 西尾 朋高(㈱知床ネイチャーオフィス 自然解説員)◇基調講演◇
「世界遺産の保護のあり方について」 松田 裕之(横浜国立大学 教授)◇シンポジウム・パネルディスカッション◇
テーマ:“世界自然遺産の課題” コーディネーター:黒瀧 秀久(東京農業大学 教授 オホーツク実学センター長) 報告1:「屋久島における自然遺産登録と地域」 枚田 邦宏(鹿児島大学 助教授) 報告2:「白神山地における自然保護と地元の動き」 永井 雄人(特定非営利活動法人 白神山地を守る会代表理事) 報告3:「知床における自然遺産登録と地元の対応」 午来 昌(斜里町長) 報告4:「知床における鳥類の保全」 白木 彩子(東京農業大学 講師) コメント 中川 元(知床博物館長) 宇仁 義和(東京農業大学 助教授) パネル・ディスカッション 学生の感想◇閉会の言葉◇ (16:30∼) 伊藤
雅夫(東京農業大学
生物産業学部長)
開
会
式
総合司会:菅原 優(東京農業大学 オホーツク実学センター 専任研究員) おはようございます。これより、第 2 回オホーツク実学市民公開講座「知床世界自然 遺産登録と環境共生−地域活性化の課題を展望して−」を開催いたしたいと思います。私 は、本日の総合司会をさせていただきます、東京農業大学のオホーツク実学センターの菅 原と申します。それではまず、学部長あいさつとしまして、東京農業大学生物産業学部長 の伊藤雅夫先生からご挨拶をいただきます。よろしくお願いします。学
部
長
挨
拶
挨拶:伊藤 雅夫(東京農業大学 生物産業学部長) 皆さま、おはようございます。本日は知床世界自然 遺産の登録ということで、我々が展開しております、 「現代GP」のプログラムの 1 つ、『知床世界自然遺産 エコマネジメントシステム教育プログラム』の一貫と いたしまして、今回のシンポジウムを開催させていた だきました。お忙しい中お集まりいただきまして本当 にありがとうございます。また、ご後援いただきまし て、お忙しい中ご協力いただき、ありがとうございま す。どうぞよろしくお願いいたします。 我々が展開しております「現代 GP」プログラムの『地域連携によるオホーツク学の展 開』ですが、では「オホーツク学」とは一体何だろうというところをご説明させていただ きます。我々といたしましては「オホーツク学」を、生物産業を核といたしまして、地域 活性化をするための教育・研究そして活動のすべての総合力を「オホーツク学」と位置づ けております。いわゆる今まであった地域学とは少し違う観点から、「オホーツク学」と 名前をつけております。その中に 5 つのスペシャルプログラムがあります。それを核に しての学生の教育や研究、そういった見解ということをご理解をいただければと良いと思 います。その中の 1 つとして、イメージチェンジをしていこうと、『世界自然遺産エコマ ネジメント』というプログラムがございます。ご存知のように、この地域はヨーロッパに 匹敵するような大畑作地帯でもありますし、世界の四大漁業の 1 つであるオホーツク海 でもあり、畑も海も非常に広大な生物産業を営んでいる地域でございます。隣接したとこ ろに、世界に誇る大自然が手付かずのまま残っていますので、その隣接した部分でどうや って折り合いをつけて共生していくかが本当に大きな課題になるのだろうと思います。知 床財団を中心にして、知床のルールというものを作ろうとしている話を聞いておりますが、 我々の活動も何かそういうところに役割があるのではないかと感じております。今日の公 開講座もまた、実りの大きいものになるということを期待しております。どうぞ一日、よ ろしくお願いいたします。総合司会:菅原 優 どうもありがとうございました。続きまして、東京農業大学オホーツク実学センター長 の黒瀧秀久先生からご挨拶をいただきたいと思います。よろしくお願いします。 実
行
委
員
長
挨
拶
挨拶:黒瀧 秀久(東京農業大学 オホーツク実学センター長) 皆さん、おはようございます。本日、今年度第 2 回目のオホーツク実学市民公開講座 をこれから開催いたすわけでございますが、まず実学という意味と、それから第 1 回目 にもご参加いただいた方々もいらっしゃいますが、「現代 GP」とは何かを若干お話しし てから本日の内容の紹介に移らせていただきたいと思います。 まず、東京農業大学では、今年創設 117 年目を迎えております。初代学長の横井時敬 先生は、「稲のことは稲に聞け、農業のことは農民に聞け」と、自然から学び取る姿勢、 産業から学び取る姿勢、その中から学問の体系化を進めるべきだということを伝統的にお っしゃっていらっしゃいました。こういった伝統の中で、東京農業大学の学風が作られて きたわけです。ところが現在は、東京農業大学の本部、世田谷キャンパスも学生数が 1 万人を超え、周辺は都市化し、高級住宅街になっております。そういった中で、直接的に フィールドワークをすることは大変困難になってきているということです。また、本キャ ンパスが 1989 年に開学いたしまして、この日本の中でも畑作のレベルでは EU を抜いた というくらいの生産力・規模を誇るこの地に開学し、広大な森林、農業、自然、海洋と言 ったようなフィールドワークを中心とした研究を重ねてきたわけです。ここでは、その実 学主義を広大なフィールドワークの中で活かすような形で展開することを、17 年間やっ てきたということです。 私どもは、市民講座や調査、いろいろなコンソーシアム事業、これらを積み重ねてきた 中で、文部省が提唱する「現代GP」という教育支援プログラムに応募いたしました。「現 代 GP」とは何かと申しますと、『Good Practice』、つまり、より良き実践、よりよき学 習、これらを行うプログラムでございます。先ほど学部長からもご紹介がございましたよ うに、私どもでは、『地域連携によるオホーツク学の展開』というテーマで、この地域で 更なる体系化を持った実学主義教育をフィールドとして実施したい。その中身で、環境共 生や環境循環型のプログラムということに着目して実施したいということで、昨年度、採 択された4 月から取り組んでおります。 大きなシンポジウムとしましては、7 月に第 1 回目のオホーツク実学市民公開講座を「海 の生態系とオホーツク学の展開」というテーマで開催しました。特に今まで東京農業大学 では、水産の分野が大変弱いということがございましたが、ようやく念願叶いまして本年 度の 4 月からアクアバイオ学科という水産系の学科を開学することができました。それ に合わせて生態工学会との共催で“海”に関するシンポジウムを開催しました。オホーツ ク海を巡る環境問題について大きな議論をいたしまして、約 150 名の皆さんが全国から お集まりいただきました。無事、盛況裡に終了することができたのではないかと思います。 今回第 2 回目は、この知床を中心とするエコシステムマネジメント、すなわちテーマにもございますように、自然がある、しかしながら自然が人間の経済発展や社会発展によっ ていろいろ困難な状況にさらされてきています。ですからその困難な課題を、自然と人間 との環境共生を、どういった形で考えていったらよいのか、そういった点を深く考えてみ る、そういう企画として2 回目が開催されるということになった次第です。 本日は、まず私たちが昨年、全国で3番目に世界自然遺産に登録されました知床を午前 中に学びまして、その後、この世界自然遺産が抱える特殊な問題を、すでに世界自然遺産 に登録されております屋久島、青森県・秋田県にまたがる白神山地、こことの絡みで全体 の問題、今後の方向性を考えていきたいということが今日の全体の狙いになっております。 私は大学で農業経済学や林業経済学、観光経済学をやっておりますが、この 3 世界自 然遺産には深く関わっておりまして、屋久島は、私がちょうど大学院の末端講習の時代に 指導教授と共に縄文杉のエリアまで調査に行ったことがございます。当時は柵がなく、縄 文杉に触ることができました。人がまだそんなに行っておりませんで、現在のように大量 の人が登るようになってからは、なかなか接することはできません。もう 1 つの白神山 地は、私の田舎でございます。私は小学校の時分から、白神山地の水の豊かさと、森林の 豊富さ、そこで育まれる河川の鮎の恵みや、日本海の海岸の豊かさを体で実感して参りま した。そして最後に、就職の地としてオホーツクキャンパスに赴任いたしました。そこが 念願叶って、世界自然遺産登録を実現しているというところになっております。そういっ た点では私も、今日この 3 つが合同で企画できたことを大変うれしく思っております。 またこの B クラス、知床世界自然遺産エコシステムマネジメントの講座担当、石堂先生 に大変感謝するものでございます。 昨日まで私は、ロシア連邦サハリン州に調査に行っておりまして、サハリン州で皆さん もご承知のように、石油、ガス田開発で、環境問題が大変重要な課題になっています。そ の施設を巡りました。また、工事の作業中止命令が出ていて、サハリン州では大騒ぎにな っておりますが、その環境と自然と人間の共生の問題を肌身でひしひしと感じてきました。 やはりオホーツク海は広く、網走からサハリン、カムチャッカまでを含めたエリアが『オ ホーツク』、そしてその南端が『知床』だということを私は改めて実感してきました。い ずれにしても、そういったことを背景に、『自然』『知床』というキーワードを前提にし て地域活性化、環境共生の課題を学生の皆さん、それから市民の皆さんと共に討論したい と思います。今後の課題を考えさせていただくような結果が出てくればうれしいかぎりで す。
知床・セッション
コーディネーター:石堂 秀典(東京農業大学 生物産業学部 産業経営学科 講師) 皆さん、おはようございます。お忙しい中、かくも早くにお集まりいただきありがとう ございます。先ほど黒瀧先生、伊藤先生からお話がありましたが、今回の市民公開講座と いうのは農大の教育プログラムの一貫として進めてまいったものでございます。本来は学 生さんを中心に講座を開こうと思っていたのですが、地域の第一線で活躍されている方が 来られるということなので、非常にもったいない、市民の方にぜひ聞いていただきたいと いうことで市民公開という形にさせていただきました。 まず最初に、知床博物館の現在館長をされています中川先生に知床の歴史ということで、 この世界自然遺産に至るまでの総論的な流れをお話していただきます。次に今日、羅臼か らお越しいただいた湊屋さんにお話ししていただきます。知床といいますと、とかくウト ロを中心に活動されている方たちが出ていらっしゃいますが、ご承知のとおり斜里と羅臼、 共同で知床が入っているわけでして、羅臼側の視点から見た知床というのはなかなか話を 伺う機会がありません。地域住民の視点、それから湊屋さんは漁師で、なおかつ肩書きが あります。海洋深層水の会社をつくられて、社長をされております。地域で中心的な活動 をされているということで、幅広い観点からいろいろなお話をしていただきたいというこ とでお願いいたしました。それから 3 番目の西尾さんは、『知床ネイチャーオフィス』と いう今年開設された会社に勤務しておられます。実は西尾さんは、知床財団にいた方で、 財団が今回、外部事業は別部門にしようということで、新しく会社を立ち上げて財団のガ イドを中心とした人たちが会社をやられています。知床のフィールドワークについては、 一番熟知されている方で、現在、世界自然遺産の状況がどうなっているのかということを お話していただこうと思います。ある意味、領域が幅広い形になりますが、いろいろな視 点から知床の話が聞けるのではないかなと思っております。 先ほどありましたように、「現代 GP」教育プログラムが実質初年度ということで、我 々としては地域の方から忌憚のないご意見をいただいて、地域の課題を今年度は発掘して、 そして来年度に向けて我々ができるものを、農大として取り組めるものを探していきたい と考えております。フロアの方も、お三方のお話が終わった後に、ご意見、ご質問をお伺 いしたいと思います。そういったことをお伺いしながら、また新たな教育プログラムを展 開していきたいと考えておりますので、本日はどうぞよろしくお願いします。それでは、 まず最初に中川先生から知床の歴史ということでお話をしていただきたいと思います。中 川先生よろしくお願いいたします。第1報告:「知床の歴史」 報告者:中川 元(知床博物館 館長) 皆さんおはようございます。ただいま紹介いただきました、知床博物館館長をしており ます中川と申します。今日は先ほど黒滝先生からお話がありましたように、知床の自然と どう協調を図るかということが大きなテーマとい うことですので、私がこの口火を切って、最初に 知床の歴史、これまでの歩みを振り返るというこ とで、今後の議論のベースといいますか、人と自 然の関わりが知床ではどうあったかということを 最初に紹介をしたいと思っております。年表を今 日は資料として用意いたしましたので、それも平 行してご覧になって聞いていただければと思いま す。まず知床の歴史の話の前に「知床」はどこを指すか、という話をします。一般的に知 床というと知床半島全体、長さが70 ㎞くらいで、面積は 10 万 ha ほどですが、この半島 を指す場合、それからその中の「知床国立公園」部分、今回世界遺産になったエリアにも なりますが、半島の先端から中央部にかけての知床半島の約半分の面積、5 万 ha ぐらい の保護区になっているエリアを指して知床という場合と両方あると思います。ただ実際に は昔の「シレトコ」というアイヌ地名はピンポイントで半島先端部、知床岬のすぐ近くに ある地名です。それで今日の話は世界遺産がテーマですので、この国立公園地域、保護区 域になっている部分、この半島中央部から知床岬のエリアについての歴史ということでお 話をさせていただきたいと思います。 これまでの歴史を大きく 4 つに分けてみました。知床というと昔から無人の地で原生 の自然がそのまま残ってきた地域と思われがちですが、そうでは決してなくて、長く人々 の生活や自然との格闘があった地域です。古くは8000 年前からの遺跡が残っています。4 つに分けたというのは、第一に「自然と人が共生した時代」といいますか、自然の恵みを 得て暮らしていた時代。それから次が「開拓の時代」。場所請負制度が斜里では 1790 年 から始まりますけれども、和人による漁場の経営が始まる時代です。それから明治になり 硫黄山の鉱山開発、あるいは大正時代からの農業開拓、それから戦後になってさまざまな 開発が行われる時代になるのですけれども、そういった開拓・開発の時代。それから次の 第3期が「保護と開発がせめぎ合った時代」とつけたのですけども、1964 年に知床国立公 園が指定されます。これから知床が保護の歩みを始めるわけですけれども、しばらくの間 は保護と開発の両方が並立していくような時代であります。そしてこの「せめぎあい」が ひとつの出来事で決着をみます。知床は保護を中心の地域にしていこうという合意が、地 元的あるいは国民的にも確立し「保護区としての形を確立してきた時代」が第4期となり ます。このようにに4 つの時期に分けてみました。 最初の時代ですけれども、8000 年前からの遺跡が残っております。この写真は知床岬 です。知床岬の台地上に、これは春先の写真なのですけれども丸い雪の跡がたくさんあり ます。このへこんだところが先史時代の竪穴住居跡です。何十という数の住居跡が今もこ のように残っていることがわかるのですが、こんなふうに非常に大きな丸や、いろいろな 形のへこみがあります。これが続縄文時代からオホーツク時代の遺跡ということがわかっ
ています。 これに先立つ 8000 年前の縄文文化早期の遺跡が、幌別ですとか遠音別にあります。こ れがオホーツク期の土器と土偶なのですが、オホーツク人というのはご承知のように、サ ハリンの北方からやって来た海洋民族といわれ、流氷の海で海獣類やクジラなど海の生き 物を狩猟していた民族です。この遺跡がこの半島内の斜里側にも羅臼側にもたくさん残っ ていまして、独特の土器の形式、あるいはヒグマの頭をかたどった土偶、アザラシの土偶 や動物の一部のついた遺物もみつかっています。そして次に、アイヌ文化の時代に 13 世 紀から入っていきますが、このオホーツク文化期はその当時並行してありました擦文文化 と融合してアイヌ文化に繋がっていきます。アイヌの文化のいろいろな自然との関わりに もオホーツク文化が影響しています。そして和人の記録、文書に初めて知床が現れるのが 「津軽一統誌」というシャクシャインの戦いを記述した 1669 年の文献なのです。この時 にルシャや知床岬のアイヌが、ルシャから 100 人、シレトコから 100 人といった数が参 加したという記録があります。その当時のコタンには、かなりの数のアイヌの人々が生活 していたということが分かります。それから、これは江戸時代の探検家の松浦武四郎の表 した「東西蝦夷山川地理取調図」という地図です。この知床にも非常にたくさんの地名が 残されております。各川筋、支流ごとにも地名が残っています。アイヌの人たちが知床を いかに利用していたかということがこれからも分かります。そしてまた、このアイヌ地名 を、アイヌ語を解読することによって、当時のその場所のその地域の状況、あるいはアイ ヌの人の生活をうかがい知るということもできます。そして、これが当時のアイヌコタン があった場所、知床岬にもコタンがありました。それからルシャ、それからウトロ、こう いったところにコタンがあったことが分かります。ただ、このコタンが場所請負制度のも とでどんどん衰退をしていきます。松前藩の蝦夷地の経営方法として場所請負制度が始ま って、1790年シャリ場所が開設され、商人に漁場を経営させます。そして、そこでアイヌ の人達を徴用していく、またアイヌの人が国後島に移動させられるとか、そのような不条 理なことがありまして、アイヌコタンはどんどん衰退をしていきます。そしてこの松浦武 四郎が知床に来た安政の頃には、先ほど知床岬のコタンから 100 人がシャクシャインの 戦いに参加したと申しましたが、松浦武四郎が探検にきた頃には 10 人と非常に少なくな っていたことが記されています。武四郎はアイヌコタンの衰退ぶりを怒りを持って報告し ているというような状況になっています。そして、この斜里場所から宗谷場所、東蝦夷地 を幕府が直轄し一時期は会津藩がここを管理します。知床硫黄山というのは活火山で、今 も噴煙を上げていますが、この頃、江戸末期から噴火の記録があります。ここは純粋硫黄 を噴き出す火山として世界的に知られていますが、すでにこの時期には会津藩による硫黄 採掘事業が始まっています。そして明治に入って何度か硫黄採掘が、硫黄を噴き出す噴火 活動がありまして、皆月膳六という人がここの権利を持って硫黄採掘をし、硫黄王と呼ば れるほど非常に大きな富をここで得ます。それから漁業ですが、松前藩時代の場所請負制 度のもとで漁業がなされていたわけで、漁場の事務所は半島基部の斜里にありましたので、 半島部の方の漁業はそれほどの規模ではありませんでした。こうした漁業と鉱業、硫黄採 掘の歩みに比べますと、農業開拓というのはずっと遅れて始まります。岩尾別原野が植民 地解放されるのが明治43 年(1910 年)で、実際に岩尾別に開拓が入るのが大正 3 年(1914 年)のことになります。ちょっとスライドが前後しましたが、これは安政年間の知床の絵
図です。こんなふうに知床半島全体が描かれています。これが明治のウトロの漁場の写真 です。ニシンを採っておりニシン油を絞る道具なんかが写っています。 そしてこれが大正時代のウトロの様子です。こういった江戸時代からの漁業番屋があり、 これは松浦武四郎が泊まった番屋ですが、こういったものがまだ残されています。これが 明治から大正の漁業の様子です。そしてこれが硫黄山の噴火の時の写真です。昭和11 年、1 番新しい今から 70 年ほど前の噴火活動なのですが、これはカムイワッカの川です。カム イワッカ川が硫黄で埋まっています。白いのが全部硫黄です。噴火後の調査に来たときの 写真です。完全に硫黄に埋め尽くされて、このような純水硫黄を噴き出す火山ですが、こ こで硫黄採掘が江戸末期から繰り返し行われていています。これも昭和 11 年の噴出の後 の写真です。これはカムイワッカの滝です。今も観光船で行くと目の前に見えますが、こ のカムイワッカが硫黄で埋まります。そして海岸まで流れ出しています。また昭和 11 年 の噴火の後はケーブルで硫黄を運び出しています。そしてこれが硫黄を堆積している場所 です。事務所があったりして、そしてここから船で硫黄が運び出されているわけです。こ こでは当時タコ労働があったことも知られています。 陸地の開拓、農業開拓が始まります。これ は明治43 年の岩尾別の植民地区画の図です。 このように碁盤の目のように区画をされて、 開拓地として国有地が解放された場所です。 岩尾別がどこかといいますと、ウトロが左側 の画面の外れになります。幌別川が国立公園 の境界ですが、この幌別の台地の上、溶岩台 地、そこから岩尾別川を渡って岩尾別の台地、 これが知床五湖です。知床五湖を含めて、こ ういう範囲が開拓地として解放されました。 実際に入植したのはこういった平らな場所、 台地の平らな場所です。この図は大正 7 年の 福島団体が入植した場所です。こういう形で岩尾別開拓が始まりました。これは開拓当時 の写真です。この岩尾別台地というのは火山活動でできた台地で、溶岩台地の上に岩や大 きな石がゴロゴロしている場所です。そして水は伏流しますので、表面に流れはありませ ん。鍬を入れれば大きな石に当たるという大変な場所です。水を得るのも大変な苦労をし
ました。そして最初の入植の数年後にはバッタが大発生します。そのようなこともあって、 大正 14 年までには、一旦、岩尾別の開拓者全員が退去しました。そしてまた昭和 12 年 から再度入植が始まりました。そして戦後、食糧増産のため、あるいは戦災者や引揚者救 済という面も含めた政策として、戦後緊急開拓が政府の手で行われます。岩尾別もその開 拓地の1 つに選定され、3 度目の入植がありました。これが戦後開拓の写真です。この風 景を見て知床に行ったことがある方はどのあたりかが分かると思います。これが硫黄山で す。知床五湖の少し手前ですね。少し手前の道路から硫黄山がこのように見える場所、こ の平らな台地が、このように戦後も改めて伐り開かれて農地となっていきました。しかし、 先ほど言いました土地の条件や、大変に交通の便が悪いといった悪条件は戦後も同じでし たので、やはり開拓は困難を極めています。 これは昭和 38 年頃の写真です。戦後開拓ではブルドーザーでの伐根やトラックなども 入っています。しかし、昭和 41 年には、残った全戸がここから市街地へ退去するという ことになりました。こうした苦労が長年続いた後、農業開拓は終結を迎えました。 このように「知床」というのは、北海道の他のどの地域とも同じように、以前は普通の 資源の豊富な場所として、様々な開拓や開発の期待があり、その試みが行われてきました。 しかし、この火山活動でできた半島の自然条件の中で挫折したわけです。一方、この頃に なって、知床は自然環境が非常に良い状態で残されてきた場所として、研究者・学者の注 目する土地になっていきます。その 1 人がこの植物学者の舘脇操氏です。こうした視点 からも知床の調査が入るようになります。最初の学術報告書として、1954 年に「網走道 立公園知床半島」という調査報告書が出されています。この中で犬飼博士などさまざまな 学者が調査を行い、この報告書にまとめております。そして知床の原生的な景観や植生、 野生動物が非常に注目されるようになってきます。なぜ「網走道立公園」となっているか といいますと、当時網走が国定公園になるに際して、知床も一緒に国定公園にしてはどう かという考えがあり、網走道立公園の調査と一緒に知床もやったということです。しかし この調査に当たった研究者たちは、知床というのは国定公園のレベルではない、いずれ国 立公園にすべき場所という考えを持ったので、その時国定公園にはならなかったというこ とです。 そして 1961 年、国の自然公園審議会が知床国立公園の指定を答申します。この答申で 初めて、知床というのは開拓・開発の土地ではなくて保護をすべきと土地という位置づけ がなされました。しかし、指定されたのは昭和 39 年(1964 年)ですが、これは答申か ら3 年後です。この 3 年間の間に、知床で駆け込みと思われる開発事業が着手しました。1 つは知床林道、62 年に着工いたしまして 69 年に開通するまで工事が続きます。それから もう 1 つが知床横断道路です。着工当時は『開発道路宇登呂羅臼線』という呼び名でし た。それが 63 年に着工します。この写真は知床国立公園の調査団、当時の厚生省や北海 道の担当の方々が集合した写真です。最初に知床国立公園指定のことについてお話いたし ます。知床国立公園はこのエリア、ウトロの先の幌別川から先、羅臼側はルシャ川から先 のエリアです。それから最初は遠音別岳も入ったのですが、後でそこは原生自然環境保全 地域に変わりますので、この知西別岳から先の知床岬までがこの国立公園のエリアです。 最初の指定の段階では海域 1 ㎞範囲が国立公園普通地域ですが、陸域はすべて特別地域 または特別保護地区です。しかも、それまで特別保護地区という地種区分の割合が 50 %
を越えるということが日本ではありませんでした。保護を重視した国立公園として最初か ら位置づけられたのです。通常、それまでの国立公園は観光の期待がありますので、地元 は陳情に次ぐ陳情を重ねるわけです。知床の場合はほとんど陳情らしい陳情がない、先ほ ど言いました研究者らによって、保護の必要性、保護を急ぐべきだという声で急遽審議会 が答申したという経過をたどっております。それでこういった保護のレベルの高い国立公 園として当初からスタートしております。そして国立公園になって観光客が増えてきます。 写真は 1968 年の斜里駅の前ですが、ウトロへのバスが何本も出ています。若者たちがリ ュックを背負ってやってきました。昔はカニ族と呼んでいましたが、横長のリュックを背 負った若者たちがやって来る観光地としてスタートしました。その後「知床旅情」の大ヒ ットによって、観光客が 100 万人を超えて行きます。そうした時期に、先に述べた開発 事業も進みます。これが知床林道です。知床五湖からルシャまでの間の23㎞の道路ですが、 ブルドーザーで斜面を削っただけともいえる自然破壊道路でした。これは 1982 年の写真 です。完成後も常に崩落を繰り返すような状況でした。森林開発公団による建設工事です が、ルシャから森林資源を運び出すという目的でした。道路が完成した頃には、ルシャの 森林は木材搬出が終わっていまして、全くもって林業には寄与することなく経過した林道 です。この写真のようなところは 1980 ∼ 1990 年代の緑化修復工事を経て、かなりまし な状態にはなってきました。もう 1 つ着手されていた開発道路宇登呂羅臼線、知床横断 道路の工事ですが、こちらが斜里側の写真です。ウトロから知床峠までは昔の軍用道路で、 しかも平らな尾根の部分でしたので、比較的早くにできていました。ところが、羅臼側が 羅臼川という川を登ってくる大変な地形の場所の工事でしたので、難工事が続いていまし た。特に入り口付近ですが、崩落が続いてなかなか先に進めないという状況が 1970 年代 の後半まで続いていました。これは 1976 年の写真です。こんな状態で、まず森林を切り 開いて、そして工事が始まります。これは高山帯の方です。このようなハイマツ帯になっ てきます。人の大きさは分かりにくいかもしれませんが、人が小さく見えるのでどれだけ 大きな幅が伐開されているかが分かると思います。手前にいる人が本当に小さく見えます が、かなりの幅の自然を破壊してできた道路であると言えます。この知床横断道路は、ほ とんど人に知られずにできてきました。1960 年代はじめの着工ですから、日本で環境問 題が出てくるのは 1970 年代に高度成長に陰りがでてきて、公害問題が起きてからです。 それから自然保護問題というのは公害問題に一歩遅れる形で 1970 年代の半ばくらいから 起きてきます。この当時には本州ではいろいろな高山道路の問題があり、そんな中で知床 横断道路が作られているということで話題になり始めました。地元でもほとんど知られて いなかったので、それで地元の自然保護団体調査をし、そして道内の自然保護団体も来る と言うことで注目されはじめました。しかしそれは工事もほとんど後半になってからのこ とです。ただ当時は環境庁が発足したばかりで、環境庁の指導が入り、それから自然保護 団体もいろいろな意見を出したので、途中から自然に配慮した工法が取られるようになり ました。急斜面をトラバースする部分を橋にしたり、あるいは法面を在来植生にしたり、 この写真は元の表土を埋めるような法面を作っていますが、こういうのは今では当たり前 で、当時の日本では先進的な工法として取り入れられていました。そして 1980 年に横断 道路が開通するわけです。これは開通直後の様子です。このように、ずらっと道路脇に車 が駐車して、お弁当を広げるというような光景が開通当時には見られました。この知床横
断道路というのは、最初「開発道路」という名前がついていた通り、産業道路の目的で計 画、着工されたのです。何の産業かと言いますと、1 つは鉱物資源です。この横断道路沿 線にある褐鉄鉱床です。それからもう 1 つは沿線の森林資源、それから漁業産物をお互 いに移動する場合に使うというようなことが建設理由にありました。しかし、実際には国 立公園に指定されたことで、これらの開発はできなくなってきたということです。ただ、 この後で話しますが、森林伐採計画はこの後に出てきています。開通当時の知床峠の様子 です。この当時はまだ国立公園内はどこでもそうでしたが、ゴミ箱があって「ゴミはポイ 捨てしないでゴミ箱に捨てましょう」という時代で した。しかし瞬く間にゴミがあふれ、こんな状態が ありました。この数年後から知床国立公園内ではゴ ミ箱を一切撤去し、入り口にゴミステーションを設 置して、そこまで持ってきてもらうという形になり ました。開通当初は知床峠の展望台やレストハウス、 そういう施設計画もあったのですが、自然保護団体 の反対で駐車帯と簡易なトイレができるだけになりました。それから、その時に「通過型 利用」という原則ができ、知床横断道路の沿線には施設を作らない、それから知床横断道 路を起点にさらに中に入って行くような整備はしないという、あくまでも通過型利用とす るという原則ができたのもこの開通前のことでした。開通前後にこの原則ができたという のは当時問題がたくさんでてきたからです。これは横断道路沿線の写真です。沿線に風倒 木が発生し、あるいは見返り峠という所に集中的に倒木が出たりしました。原因は風の流 れが変わったことだと思います。このような問題、あるいは高山植物の盗掘がこの沿線で 増えるなどいろいろな問題が発生しました。これは自然保護団体による調査の様子です。 地元斜里町の保護団体と根室支庁管内の自然保護団体がありまして、その他道内の保護団 体の合同による開通後の影響調査を2 年間にわたって行ったというものです。 こうした動きの中で、少しさかのぼりますと、昭和 41 年に残った全戸が退去した岩尾 別の開拓跡地は、当時の列島改造ブームの中で、観光開発業者あるいは不動産業者が目を つけるところとなりました。開拓跡地を乱開発から防ぐということを目的に、当時の藤谷 豊町長が提唱したのが「しれとこ100㎡運動」というナショナルトラスト運動です。これ は一口 8,000 円の寄付で、開拓跡地 100 ㎡分を買い取り、木を植えて保全していこうと いう運動です。これは1978 年の運動 2 年目の植樹祭の写真です。この運動は全国的な反 響の元に展開され、20 年の間に 4 万 9 千人の参加者と 5 億 2 千万円の寄付金で買い取り を行い植樹がなされました。これは植えた当時の、1980 年代の写真です。今はもっと大 きくなっていますが、この開拓跡地の自然復元がなされた様子です。ここでは「知床自然 教室」という参加者の師弟を対象とした自然学習の場も作っています。この教室は今年で もう26 年になりますが、まだ続いています。 そして 1980 年代に入って知床の保護の歩みが加速をしていきます。まず原生自然環境 保全地域が1980 年に指定されます。環境保全法による全国に 5 ヶ所しかない非常に厳し く保護されるエリアで、国立公園エリアから切り離される形で遠音別岳の周辺、こういっ た高山帯が指定されました。登山道も何もない原生林地域です。それから 1982 年に知床 鳥獣保護区が指定されます。国設の大規模な鳥獣保護区になりました。それまでも部分的
に分散して小さい鳥獣保護区がいくつかあったのですが、それを含めて大きな保護区、国 設としては全国で2 番目に大きな保護区として指定されました。ここは後の改定を経て、 現在は特別保護地区が更に増えて、それから特別保護指定区域という非常に厳しい地域、 写真撮影や車の乗り入れも規制される保護地区も指定されています。1982 年に鳥獣保護 区に指定されてから、ここでは例えば春グマ駆除がなくなりました。それまではもちろん 一般狩猟もあるし、有害駆除もありました。その中には予防的に春に行われる春グマ駆除 というのがあり、北海道全域で行われていました。しかし知床鳥獣保護区指定を機に地元 の斜里猟友会では春グマ駆除を自粛しました。北海道全体で春グマ駆除が廃止されるのは この 8 年後のことです。これ以来、知床のクマはハンターに追われることはほとんど無 くなりました。それからいろいろな保護増殖事業も始まって、これはシマフクロウの保護 増殖事業の様子ですが、大きな巣箱を設置して絶滅の危機にあったシマフクロウを回復さ せる事業です。 このように、知床は保護区としてどんどん進んで行くかと思われたのですが、1980 年 代半ばに、知床で最後と言える保護と開発との軋轢、知床国有林の伐採問題というのが起 こりました。この計画は 1986 年に発表されました。ちょうど 20 年前です。この写真が 説明会の様子です。林野庁は自然保護団体も町民も集めて、現地説明会をしたのですが、 この説明会をしている場所はどこかといいますと、100 ㎡運動地となった開拓跡地なので す。林野庁の方はよく分からなかったのかもしれません。この向かいの山、運動地に隣接 している国有林が伐採予定の国有林、ポンホロ山と呼んでいる部分です。ここが最初の年 の伐採予定地です。伐採計画というのは、10 年間で 1,700ha から約 1 万本を抜き切りす るというものです。木材はヘリコプターで集材する。林道を作らないので自然には配慮し た伐採である。それから弱度の択伐ということで自然への影響はないと言う説明です。そ れから、伐採予定地は国立公園の第二種・第三種特別地域でした。このエリアが、このメ ッシュの部分が伐採予定の 1,700ha、この部分が初年度、昭和 61 年度に予定していた部 分です。この説明会をやった運動地がここです。この辺は第二種特別地域と第三種特別地 域なので、弱度の択伐は認められるものでした。当時の環境庁も計画を認めざるを得なく て、伐採がスタートされようとしました。しかし、これが大きな反対運動に広がっていき ます。最初は地元斜里町の自然保護団体から、全道へ、全国へ、と広がっていきます。こ の写真が伐採を予定された、ピンクのテープが巻かれた大木です。あの当時、テレビ画面 を随分と賑わせたこの映像ですが、伐採予定のミズナラの大木です。広葉樹の大木を中心 に針葉樹のイチイなど、こういった高価な木が伐採を予定されました。そしてこの初年度 伐採部分が、この年1987 年の 4 月に機動隊に守られながら伐採作業が行われるわけです。 しかし、これも当初の予定の半分の 533 本だけを伐って終わるのです。この写真は計画 が明らかになった年に斜里で開かれた伐採に反対するシンポジウムで、この中心にいるの が午来昌さん、今日午後から話がありますが、当時の知床自然保護協会の会長で、今の町 長です。そしてこれが伐採の後の写真です。午来さんの次の会長、石井会長さんが営林署 の職員と、伐採跡地を見に来た修学旅行生に伐採された木の前で説明しているところです。 この伐採の直後に行われた斜里町長選挙で、午来さんが伐採を容認していた現職の町長を 破って当選します。そういう中で、この後の伐採計画は中止に追い込まれました。そして できたのが新しい保護区「森林生態系保護地域」です。この当時は他にも白神のブナ林の
保護問題もありました。林野庁は「林業と自然保護に関する検討委員会」という委員会を 作り、その答申をもとに林業行政の大転換をするのです。それの具体的なあらわれとして 保護林の制度を変え、「森林生態系保護地域」というものができ、白神も屋久島も知床も この保護区になりました。知床はこの図のような大きな面積で指定されます。これによっ て知床国有林はもう木を伐らないという場所になりました。この保護区は保存地区と保全 利用地区という 2 つの地区に別れています。、この保護区も 2003 年に改訂されて、面積 もまた拡大されてこういうエリアになりました。そして知床という地域はこの「国立公園」、 それから「原生自然環境保全地域」、そして「国指定鳥獣保護区」、これは鳥獣保護法に 基づく保護区ですが、自然公園法、環境保全法、鳥獣保護法、そして「森林生態系保護地 域」という国有林制度の中の保護区と、この 4 つが重なり合う形になって実効のある保 護地域となりました。そして「しれとこ100㎡運動」ですが、これが 5 万人という参加者 で大きな成果をあげ、知床の地元と全国の人々とのネットワークによる保護という形がで きたのも大きな意味があります。知床国有林伐採の反対運動も全国の 100 ㎡運動参加者 が大きな役割を果たしました。そして1999 年から車両規制が始まります。この前に 1988 年に知床自然センターができ、斜里町が設立した財団法人(現:知床財団)ができていろ いろな保護管理対策が始まります。そして世界遺産に繋がっていくわけなのです。保護の 前進は車両規制だけではなく、いろいろな野生動物の保護管理も自然センターを中心に、 調査結果をベースにいろいろな先進的な取り組みがなされてきました。知床の保護区とし ての制度的な意味でのみ評価されるのではなくて、自然の管理面でも強化されて来たこと が大きいのです。そしてもう 1 つ、しれとこ 100 ㎡運動に代表されます、地域住民の取 り組みというものも評価されました。というのは、世界遺産に登録されるためには自然の 価値がその基準を満たしているだけではなくて、その保護が担保されているということを 証明しなくてはなりません。世界遺産登録にあたって IUCN の調査がありました。現地 調査のみならず、各界の住民への聞き取り調査もありました。そういう結果も評価されて 世界自然遺産になりました。ちょっと時間がきてしまいましたので簡単にお話ししますが、 2003 年に知床が国内の世界遺産候補地の 1 つになりまして、そしてその後知床 1 つに絞 られて、2004 年に推薦書がユネスコに提出されました。2004 年 7 月に現地調査があり、 そして 2005 年7月の世界遺産委員会で知床の世界自然遺産の登録が決定しました。これ は現地調査に来た IUCN のシェパード部長さんです。1 週間にわたって海上、山岳、空 からと各方面から調査を行いました。私も一緒に同行した時の写真です。以上で時間にな りましたので、私のお話を終わりたいと思います。ありがとうございました。 コーディネーター:石堂 秀典 中川先生どうもありがとうございました。オホーツク文化の時代から現在までを、30 分弱で振り返っていただいて、しかも、世界自然遺産に至るまでの歴史的な流れ、自然、 いろいろな区切りがあり、それが世界自然遺産に繋がったというお話をいただきました。 お二方にお話をいただいた後に質疑応答という形にしたいと思います。それでは続きまし て、有限会社らうす海洋深層水の現在代表取締役をされています湊屋さん、よろしくお願 いします。
第2報告:「地域住民の視点からみた知床」 報告者:湊屋 稔((有)らうす海洋深層水 代表取締役社長) 皆さん、はじめまして。羅臼から来ました、湊屋と申し ます。只今ご紹介していただいたのですが、今日の話の内 容からいくとどちらかと言うと漁業者としての話のほうが 合ってるのかなと思います。 紹介のところに、『らうす海洋深層水の代表』となってい ます。羅臼では海の深い所の水を利用して、魚の鮮度保持 や、または衛生管理ということを、7 年前から取り組んでいます。今年の 9 月 1 日から大 量に水が上がるようになり、港のすべての水を、海洋深層水を使って魚を管理できるよう になってきております。 今日の話は世界自然遺産ということですね。僕は、いろいろな考え方を持ちながら葛藤 している部分があります。漁業者としての立場と、会社をやっておりますので、ビジネス という立場で、その辺のお話も含めてさせていただきたいと思っています。ここでお話を してくれという依頼を受けてから、実は何を話そうかと思っていました。実際には、僕は 世界自然遺産の登録にあたって、何かをしたとか、例えば運動をしたとか、一線で何かを したというわけではないです。あくまで住人としてその動きを見ながら、またその時その 時の立場で、いろいろな所で会議に参加させてもらったりもしました。ちょっと距離感を もって眺めていた方なのかなと感じています。先ほど僕は、「漁師をやっています」と言 いましたが、実は今朝、漁に行ってきました。僕の漁業というのはサケ定置網漁です。『相 泊』という、ちょうど羅臼から知床岬のほうに行きますと、道路の突き当たるところ、ま さしく世界自然遺産に指定されている場所ですが、港がありまして、その前で漁をしてい ます。沖合い1 ㎞です。世界自然遺産の真ん中で、漁業をさせていただいています。 羅臼は、斜里町と比べられることが多く、『羅臼と斜里ってどっちが裏でどっちが表か』 なんて議論するのですが、羅臼は『羅臼が表で斜里は裏』と言います。斜里から見ると『羅 臼が裏』だったりするのです。羅臼側と斜里側というと、僕らのなかでは、どちらかとい うと漁業が中心になります。その周りで観光というものが付いているというスタイルです。 ですから、漁業抜きに観光も無いというスタイルです。今年は、世界自然遺産に登録され て 1 年経ちましたから、観光客がたくさんいらっしゃるかなというとあまり変わらなか ったです。逆に言うと、「来るかな」といって特別何かをするということも無かったとい うのが現状です。 話が飛んでしまいましたが、世界自然遺産の話が出たときに、羅臼の人たちが一番懸 念したのは、保護と、それから漁業という営みの部分、それが両立できるのかという問題 でした。実際にはその頃、漁業者達は結構反対意見が多かったのです。ちょうど、「推薦 します」、「もう決まります」という時にすごく反発しました。ただ、なってしまうと、 何も変わってないじゃないか、というような感じです。それによって制約を受けているわ けではなくて、世界自然遺産になったことで逆に、いろいろな意味で恩恵を受けてきてい るのだなということが1 年経って少しずつ感じてきています。 今年、「サケのブランド化をしよう」という話がありました。羅臼で獲れるサケを、名 前をつけてブランドにしようと言って全国に公募しました。かなりの数の応募があったの
ですが、『羅王』という名前に決まりました。それがいい名前か、悪い名前かというのも あるのですが、そのようなものに決まりました。世界自然遺産になったから「やろう」と いう話しにはなっていませんが、いろいろな所でポツンポツンと、そういう話が出てくる のですね。今までは普通に漁業だけをやっていれば良かったのですが、それが世界自然遺 産になってある意味、気持ちの中に刺激を与えられました。今まで魚を獲ることしか考え なかった漁業者が「こんなことをしたらどうだろう」「あんなことをしたらどうだろう」 と、売ることにちょっと興味を持ち始めています。 例えば僕は昭和 38 年に羅臼で生まれましたので、もう 43 歳になります。僕は漁業で 言うと四代目です。実家が富山県から羅臼のほうに移転、そこで漁業を始めて僕で四代目 になります。羅臼は富山から来た人が非常に多くて、どんどん漁業やりながら広まってい ったという感じです。最近の話ですが、羅臼が一時期バブルを迎えました。これは僕がも う中学生になった頃ですね。スケトウダラでバブルを迎えるのです。その頃の話を少しし ますと、その頃は、自然だとか、自分達がなんで魚を獲って、生活が成り立っていくのか、 そのバックボーンには何があるのかなんて、漁業者まったく考えていませんでした。そこ に魚がいるから獲りに行って、たくさん獲れるから儲かったとしか考えない漁業をしてい たのです。スケトウダラは、1 月から 3 月までで、実際に漁がある時期は、1 月の中旬か ら 2 月の中旬くらいまでのほんの 2 ヶ月程度、1ヶ月ちょっとくらいです。その間に、 一隻当たり 1 億円近い水揚げをします。羅臼では、スケトウダラだけで百何十億という 水揚げをしていました。そうすると、漁師は、「それが自然の恵みなんだ」という考え方 がこれっぽっちも沸かないのです。それが当たり前で、そこに魚がいるから獲りに行って、 獲れたのは自分の技術なんだというような考え方しかしないのです。どうするかというと、 たくさんお金が入るので、たらふく使ってしまいました。その頃、ちょうど僕は中学を卒 業する頃、親はサケ漁やっていました。僕は学校に行きたい、高校に行きたいと言いまし た。うちの親は理解してくれて、割と「行け行け」という感じでした。中学を卒業して15 歳で、年間何百万も稼げた時代です。そうすると、地域の人たちが「何故お前、学校へ行 くんだ。金を払ってまで学校行ったって、お前は漁師の息子なのだから漁師をやれば、そ れだけ稼げるじゃないか」と言われました。僕は地元の羅臼高校に行きました。定員割れ していたので、ちょっと少なかったのですが、実際には、男子生徒は 10 数人しかいない のです。ほとんど、あとは女子生徒ばかりでした。ある意味、女子校みたいなところで 3 年間過ごしたのですが、漁師の息子っていうのは、僕も入れて本当に数えるほどしかいな いのです。僕はなおかつ「大学に行きたい」と言いました。近所の人たちが、「お前、気 が狂ったのか」と言う感じでした。それだけ魚が獲れていたので、「学校なんか行かなく たって、ここで働けば稼げるだろう」というような、おかしな状況になっていたような気 がします。 それでも僕は 4 年間学校に行きたいと言って、函館に行ったのですが、その頃もまだ 羅臼では魚がたくさん獲れて、1 ヶ月、百数十億円水揚げされていました。漁師というの は、大体切り上げ払いです。3 月に漁が終わったら、その時にまとめて現金でもらう。今 のような銀行振り込みではないので、親方と言われる家に集まって「お前の稼ぎだ」と言 って札束を渡されるのです。そうすると、その札束を腹巻に入れて札幌に向います。そう いう時代だったのですね。僕は 4 年間学校に行っていたので、そういうことがわからな
かったのですが、全体の人間達がそういうことしていたようです。ある日、僕が函館でア ルバイトしていて、岩手から来た同級生が、「1 回ススキノに行きたいね」という話にな りました。バイトしたお金を持ってススキノへ行きました。その頃、どこに行っていいか 分からないので、一番大きい有名なキャバレーに行くことにしました。そこしか分からな かったのです。そこで、「お兄ちゃんどっから来たの?」と訊かれたの、つい「羅臼から」 って言ってしまったのです。その後は大変でした。まあお店も暇だったからでしょうが、2 人で行くと、ホステスさんが15 ∼ 6 人いるわけです。僕ら 2 泊 3 日くらいのお金を持っ て行ったのですが、そこで根こそぎ取られましたね。その日の夜行で帰ったという記憶が あります。本当は、こんな話をこういうところですると、羅臼の人に本当に怒られると思 うのですが、「羅臼」と言って、そういうすごく恥ずかしい対応を受けて、それが当たり 前だと感じている羅臼住民がすごく恥ずかしいなと思いました。実際に、そういう思いを しまた。僕は、学校へ行って、「羅臼なんか帰るものか、あんな漁師なんかになるものか」 と思っていました。ただ、だめなんですね。やっぱりどこか漁師の息子だったり、羅臼で 生まれて羅臼で育っているので、恋しくなってしまって。それで羅臼に帰ることを決めま した。 帰ってからは、スケソウ漁の船に乗ったりしたのですが、帰った頃にはもう下降線を辿 っていましたので、僕は大漁というものを知らない、バブルというものも知らない漁師な んです。 今は、サケ漁中心にやっています。その頃は、先ほど言ったように、漁業者は自然の恩 恵を感じづらいというか、儲かれば儲かるほど感じないし、獲れなくなったら獲れなくな ったで違うところを指摘してしまいます。自分達が獲りすぎているとか、漁業を管理して いるという感覚があまりない。そんな感じを受けていました。帰ってきてからいろいろな ところで「このままじゃだめだよ」と言い始めました。実際には聞いてなんかくれないで すね。海へ行って、網を刺せば魚が獲れる訳ですから。「羅臼の魚」と言うと、他のとこ ろよりおいしいからとか、いろいろな理由で高かったのです。聞いてはくれないのですが、 それを言い続ける。そのうち仲間が出来始める。仲間が出来るというか、一緒に言ってく れる人たちは、やっぱり、一旦、羅臼から出たことのある人ですね。僕は、そういう人た ちと一緒に、「このままじゃだめだろう、どんどん獲っていけば無くなるよ」と言い続け ています。でも言うことを聞かないで皆獲るわけですよ。魚がいれば、ちゃんとしたルー ルもありながら、ルールを破ってまでも獲るんですね。そういうことを繰り返していって、 いつしか今の 15 分の 1 とか 20 分の 1 の量しかいなくなって、網を刺しても魚が何匹か しか獲れなくなってしまいます。昔は、これくらいの網の目なのですが、この目がぴっち り埋まるくらい獲れました。今は、その目がスカスカで、それに何匹かのスケトウダラが あがるくらいの量になってしまいました。それは「自分達が獲りすぎたから、資源のバラ ンスがうまくいってなかったんだよ」と言っても、「いや、それはロシアのトロールが来 て、根こそぎ獲ってしまうからだ」とそのせいにしてしまうのです。確かにそれは影響あ ると思います。あるとは思いますが、でも、それ以上に、「自分達も獲っているんだ」と いうことに気づかないといけないと言い始めました。 世界自然遺産になる 1 年前に、漁業との関係で、組合の説明会がありました。あの時 に、うちの組合としても、漁業組合としても、町としても、世界世界自然世界自然遺産登
録目指してがんばろうと言ったときの決め手になった部分というのがあります。若い漁業 者が中心になって、取り組みを何かしようと話し合いました。海を碁盤の目にして、禁漁 区を設けることにしました。大体、漁師に禁漁区を設けるなんていうのは、20 年前にそ んなこと言うと、もう相手にもしてくれなかったはずです。獲れなくなって、ようやく気 がついてくれたような感じですね。 碁盤の目にして、禁漁区を設ける。今、「自主規制をしているんだ」ということを自分 達で訴えられる素材を持っていたのですね。そういう意味では何もないところから話をす るよりは、良かったのかなと思っています。今は、漁業者が、魚が獲れなくなったから何 か違うことをしなければいけないという意識もあるのでしょうが、「いろいろな試みをし たいな」と感じてきていると思っています。例えば、魚がいないから、遊漁船の許可でも 貰って、釣り船でもやろうかとか、そういう人も増えてきていますし、逆に民宿をやる人 も増えてきています。他には、今までは自分で獲った魚をいったんセリにかけて、買い戻 さないと、自分で獲った魚を勝手に持ってこれませんでした。「そのシステムを少し変え てくれませんか」という動きも多少あります。自分で民宿をすれば、「何々丸の船長やっ ています、それで自分で獲ってきた魚です」と言って出せる。そういうシステムを作って 欲しいという声も少し出てきました。ですから、市場に出さないで、でもいろいろなとこ ろに手数料は落とさなければいけないので、そのへんをちゃんと報告して手数料を落とし ます。なんとか自分の獲ったものを、直接お客さんに出せるような形、というか直接加工 して売れるような形、そういったものを少ない魚の中からできないだろうかという動きも 出てきています。話が飛んでしまって申し訳ないのですが、そんな感じでやっています。 また僕の話で恐縮ですが、相泊というところで漁業をしています。羅臼の場合は、サケ の定置網漁というのは本当に海の目の前、沖からせいぜい1.5 ∼ 2 ㎞ぐらいなのです。前 浜がすごく深いです。港のすぐ前なのですが、道路側からテントを張って屋根がついたよ うな感じになっているセセキ温泉という有名なところがあります。それから、もう少し知 床岬寄りに行ったところに、相泊温泉というのがあります。僕の仕事場はそこのまん前で す。僕らは夏場、網を設置するために海の上にロープ張ったり、重しを落としたりという 仕事をしています。すぐ道路が見えるんですね。そこが相泊温泉。男湯と女湯があります。 道路からは屋根がかかっていて見えないのですが、海からは丸見えなのです。そこは元々、 「水着を着て入っちゃいけないよ」というような暗黙のルールがあります。僕らは、女の 人が入っていると直視できないです。でも、入っているほうから見ると、僕らは風景の一 部なのです。本当に近い距離ですよ。ちょっと目と目が合うと、女の人は手を振るんです ね。何も着ていないでですよ。僕らも手を振ります。全然気にしないです。でも、隣の男 湯から覗かれると「きゃあ」って言うんですね。これは漁師をしていて得だなと思うのか、 それとも漁業者としてですかね。でもそのとき思いました。漁業という営みをこれからビ ジネスに変えて、知床が世界自然遺産になったことで、営み自体が観光資源になっていく のではないかなと感じました。 獲れないスケトウダラですが、昨年、試験的に流氷の中を割って漁をしました。そして、 それを見せようというツアーをやりました。これは漁業者中心になって、遊漁船の方々に も協力いただいたりしながらやりました。ただ、本当に寒いですよ。丘で、− 5 ∼ 6 ℃ だと思います。海の上に行くともっと冷たく感じますし、寒いですし、船の中では活力も
ないです。それでも、氷の中を割って漁をしているところを目の当たりにして、流氷のす ぐそばにはアザラシがいたり、そんな風景を見ると皆さん寒いとかなんとかじゃなくなる のですね。だからある意味、自然を見せる、山を見せる、海を見せるというよりも、僕ら は漁業者として、それを観光資源にどう転換していくかということをこれから考えたほう がいいということです。こういう事が、最近はいろいろなところで話されるようになりま した。 ただ羅臼の場合は、なかなか急激にはいかないのが現実です。先ほども言いましたが、 実は羅臼は、漁業中心、漁業ありきなのです。それをしっかりやりながら、それでも他に 何かやれるのだったらやろうかという感じなので、急激にあれをやろうこれをやろうとは、 なかなかできません。それともう1つは、漁業を中心に考えてきたので、最近は、「マリ ンツーリズム」等、よく分からない横文字で、そういったことをやろうとしても、なかな か進みません。それはやはり、漁しかやったことがない人間しかいないので、そういう意 味ではプロデューサーがいない、仕掛け人がいないという問題があります。やり始めると 皆すごい勢いで、火が付いたようにやるのですが、そこに持ってくための、プロデュース できる何かそんなところがあれば、きっと、もっともっとやれる事がたくさんあるのだろ うと思います。 自分達の営み自体を観光資源に変えていく。だから僕は、定員をとって、乗って行きた い人には一緒に乗っていけるサケ漁をやってみました。なにせ、午前 0 時半に出て行く ので、そんな夜中に誰も来ないですね。知り合いだとかは、たまにいますが。その日のう ちに札幌まで魚を届けるためには、前の日の夜中から漁をしないとその日届かない。今、 東京・札幌が中心なので、本当に早いんですよ。中央中心なのです。本当は、ゆっくり漁 をしたいのですが、なかなかそうもいかない。だから年々早くなっています。 先ほど、「プロデューサーがいない」というお話をしましたが、僕は、プロデュースで きる、仕掛けというのはすごく大事だなと思っています。例えばこの間、世界自然遺産に 指定され、それを逆手に取るということではないですが、こんな言葉はないかもしれない ですが「有機漁業」のようなことをやりたいというお話をしました。例えば、「海に悪い ものを出さないようにしよう」というお話が出ました。「どういうことをしよう」と言う と、だからと言って僕の中には、「有機とは」なんて知識はないのですが。ちゃんと調べ てみると、「そんなこと違うよ」なんて言われそうですが、言葉として、イメージとして の話です。 僕らの海は狭いのです。国後島まで27 ㎞しかありません。その間、10 数里以上行くと、 機関銃を持って迎えに来てくれるので、それ以上行けないですから、10 数キロの間で漁 業をしています。そこを畑だと考えると、そこに極力悪いもの出さないようにしようと考 えました。先日、洗剤の話題になり、僕はそんな詳しくはないのですが、「界面活性剤等 が入って来たら悪いのではないか」という思いがありました。あの町で使わないようにし ようという運動はできますが、実際には不可能です。しかし、それを仕掛けとして考えて、 「うちの町で売らない」ということにしようと話をしました。そうすると商店の人たちが、 「いや、困る。洗剤が売れなくなるじゃないか」というのです。そうしたら逆に、実は「ど れだけ売れているの?」ということです。羅臼の町民は、皆、中標津へ行って買います。 中標津の東武や、ビッグハウスで買って来ます。そうしたら羅臼では、東武やそういうと