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第一次山本内閣と政党-2完- 利用統計を見る

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(1)

第一次山本内閣と政党-2完-著者

松岡 八郎

著者別名

H. Matsuoka

雑誌名

東洋法学

22

1

ページ

p1-48

発行年

1979-03

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00006052/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

第一次山本内閣と政党︵二完︶

B

 目 次 一 はしがき 二第一次山本内閣の成立 三第一次山本内閣の前半の施政 四第一次山本内閣の後半の施政 五第一次山本内閣の崩壊 六 むすび ︵以上本号︶ ︵以上一二巻一号︶ 四 第一次山本内閣の後半の施政  前述のように、政友会を与党とする第一次山本内閣が、その前半の施政において主要な政策を実現して、 基礎は頓みに厚きを加へた﹂のに対して、在野諸勢力の意気は挙がらなかった。このような状況のもとで、 ︵一九二二年︶八月初めから起こってきたのが、対中国問題であった。     東洋法 学       一 ﹁信望と 大正二年

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    第一次山本内閣と政党︵二完︶       二        ︵弛  当時、中国では衰世凱打倒のための、いわゆる第二革命が起こっていた。  辛亥革命によって、一九一二年︵明治四五年︶一月一日、アジア最初の共和制を基本原理とする申華民国が成立し て.臨時大総統には孫文が就任したが、やがて清朝の宣統帝が退位し、孫文が辞任した後をうけて、嚢世凱が臨時大 総統となった。だが嚢大総統が独裁的権力を振うにいだったため、これに反対する武装蜂起が起こり.第二革命の勃 発となったのである.  この第二革命は.一九ニニ年︵大正二年︶六月に震大総統によって江西都督を罷免された李烈釣が、七月一二麟に 江酉省湖環において討嚢の兵を挙げて.その火蓋が切られ、その後。各地で菰れに続くものも現われねが.嚢大総統 の政府軍によってことごとく鎮圧され、挙兵以来.約五〇騰間にして.九月三疑の薦京陥落をもって終息し.第二革 命は失敗に終わった。       謝︵欝  だがこの革命の最申.瞬本と申国との間に、菟州事件、漢覆事件、南京事件と呼ばれる三つの不祥事件が起こっ た。八月五藏には、山東省亮州において川崎享一陸軍大尉が津浦鉄道の列車内で重政府軍兵士によって逮捕され.八 霞まで兵営に監禁された。また八月二日には、湖北省漢口の江岸停車場において酉村彦馬陸軍少尉と兵一名が嚢政 府軍兵士三〇数名によって包囲され、暴行された。さらにまた九月一田の政府軍の南京占領にあたって、日本の居留 民三名が殺害され、日本入商店三六軒のうち三四軒が掠奪された。        ︵3︶  山本内閣の対申国政策は、第二次西園寺内閣のそれを踏襲したものであり、その要点は、満蒙に対してはあくまで も領土的野心を排し、平和的方法によって利権の伸張をはかり.申国との親善関係をはかることに努め、なお撫シア

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との協調関係を維持し、申国全体に対しては、日英同盟に沿ってイギリスと協調して、通商の伸張に努め、在留邦入 の平和的活動を進展させることを根本方針とし、これらの方策を遂行するためには、軍部を押えて、外交の統一をは       ︵4︶ かるべきであるというのであった。したがって、このような政策から、当然、山本内閣は、中国自身の内政問題につ いて蓑政府の側にも反蓑の側にも片寄らない申立的立場を採ったのである。  大正二年三月二〇日には衷の使嫉による国民党指導者宗教仁の暗殺事件が起こり、また四月二七日には、国会を無 視し、国民党の反対を押し切って、蓑が五力国借款団︵イギリス、フランス、ドイツ、日本、ロシア︶との間で、新        ︵5︶ 中国発足の善後措置に必要とされる二五〇〇万ポンドの、いわゆる改革借款︵菊8茜欝笹蝕窪ぎ零︶ ︵それは申国 にとって苛酷な条件、すなわち帝国主義的性格をもつものであり、しかも嚢の政治資金に使用される可能性を十分も っていた︶を調印して、衰政府の財政的基礎を強化した。この結果、嚢は独裁的地位をますます高め、これに対して 反蓑の運動も活発となり、南北対立は一層激化した。  この申国問題をめぐる大正二年四、五、六月ごろのわが国の民間の世論は、反蓑側に同情して、南方援助に傾いて  ︵6︶ おり、わが国も参加した前述の改革借款が北方の衰政府を助けたことになったとし、またこのことは、山本内閣の中       ︵7︶ 立的立場に反するとして、山本内閣を非難していた。そこで山本内閣は、六月一〇日、各新聞に中国問題に関する長     ︵8︶ 文の陳述書を発表して、 ﹁吾政府固より厳正申立を持し﹂﹁一党一派に与する﹂ものではないとの釈明を行った。だ が民間では、依然として山本内閣の対申国政策は援嚢外交であると攻撃していた。  やがて七月一二細、前述のような蓑打倒のための第二革命が勃発し、これに同情するわが国の軍人の一部や大陸浪

    東洋法学      

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    第一次山本内閣と政党︵二完︶      四

      ︵9︶ 人が南方の革命軍に参加した。だが第二革命は衷大総統の軍隊によって鎮圧されて失敗に帰し、革命派の孫文、黄 興、李烈釣、胡漢民などがβ本に亡命してきた。このように第二了命が失敗したことは、わが国の民衆や対支同志連 合会に結集する政治家や右翼あるいは軍入をいらだたせていたが、さらに、この革命の最中に起こった前述の三つの 不祥事件は、一層世論を憤激せしめた。  九月一職に起こった南京ぶ件の報道が.四縫の新闘に掲場され.またつづいて、六縫の新婦には、八月に起こった 菟州事件と漢口事件の詳細が陸軍省発表として公表されて.陸軍が﹁面麟上敢て認容すべからざるもの﹂であるレ弧強 硬な煽動的態茂胤表明したんめ、世論は一挙に燃えあがり、政党    蚊力倶マ陣.政友磨院外団︶、右り.解、軍 人は糞政府を激しく攻翠するとともに.山本内閣のこれらの事件に対する処置を軟弱緩慢であるとして厳しく非難攻       ︵憩︶ 撃した。こうした山本内閣に対する攻撃は、まず五日の外務省政務局長阿部守太郎暗殺事件として現われた。  阿部局長は、前述のような山本内閣の対申国政策の立案者で、かねてから平和的手段によって通商の拡張、経済的 権利の伸長を行うべきであると主張し、外交は外務省で統︸して行い、軍部も政府の方針に従うべきであるとの意見 をもっており、牧野外相の信任を得て、当時の対中国問題は、阿部局長と現地の伊集院彦吉公使との線で処理されて いると思われていた。しかも五臓には、山座円次郎公使と更迭して、伊集院公使が東京へ帰ってきた。大陸浪人らは ﹁伊集院・阿部を葬れ﹂と殺気立っていた。阿部局長は、五日夕刻、新橋に伊集院公使を出迎えて、帰途につき、午 後七時半、赤坂霊南坂の自邸門前において二名の兇徒に刺され、翌六日に死亡した。犯人は、岡田満︵一八才︶と宮 本千代吉︵一二才︶であった。犯行後二人は姿をくらましていたが.内田良平︵黒龍会︶の指図で、年若い岡田は九日

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夜、背後関係をもらすおそれがあるとして自決させられ、宮本は満州へ逃避させようとしたが、途中で逮捕された。       ︵n︶ また二人を教唆した大陸浪人岩田愛之助は自首し、ともに無期懲役となった。この犯行の目的は、その﹁斬好状﹂が 示しているように、山本内閣の満蒙問題への消極的態度や援嚢政策を非難攻撃したものであった。       ︵12︶  この暗殺事件は世論をさらにかきたて、対支同志連合会の主催によって七日、日比谷公園の松本楼で対支国民大会 が開催されたが、この大会には数万の群衆が集まり、政府に中国への出兵を要求する決議を行って気勢をあげた。散 会後、民衆は外務省に殺到し、外相と次官に面会を要求して坐りこみ、さらに夜にはいって、外相の私邸と次官の官      ︵欝︶ 邸におしかけた。だがこの示威運動は、大陸浪人らが陸軍と呼応してかきたてたものにすぎなかったから、一日限り の単発的なものに終わってしまった。当時、原内相は東北地方を旅行申であり、内務次官水野練太郎から帰京をすす める電報がたびたび届いたが、 ﹁此騒動は政党問題にも非らず、浪人等の企に過ぎぎれば警察にて之を激せしめず、        ︵雑︶ 又当局者狼狽の態度を示さぎれば不日平定すべきものなり、﹂として帰京しなかった。  したがって、大陸浪人などによって煽動されて起こったこうした騒動は、山本内閣が世論に押されて、これらの不       ︵15︶ 祥事件の解決を急ぎ、嚢政府に対して相当峻厳な要求を九日の閣議で決定し、これを強引に受諾させると、自然と鎮      ︵16︶ 静していった。こうして山本内閣は、九月末ごろまでには三事件の処置をほぼ完了し、一〇月六日にはイギリスやフ       ︵貿︶ ランスなどの列国と協調して、衰政府罧中華民国を正式に承認し、また一〇月一〇日には外務省が三事件についての       ︵娼︶ ﹁日支交渉顛末﹂を発表して、対中国問題を一応乗り切ることができたのである。だが、このような世論の沸騰や騒 擾の発生は、第一次護憲運動以来の民衆の政治への登場を示すものであり、また民衆にはやり場のない不満がうっ積

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    第一次山本内閣と政党〇一完︶       六 しており、なにかことが起これば、すぐ政府に対して騒動を起こすという状況が存在していることを示していた。後 に述べるシーメンス事件や廃税運動にも、これが現われる。  対中国問題が一応落着すると、山本内閣にとって、次の課題となってきたのは、大正三年度の予算編成問題であっ た。この予算編成における最初の問題は、前述の陸軍の二個師団増設間題をどうするかということであった。  既に述べたように、楠瀬幸彦陸貫申将が陸軍大臣に就任した六月二四韓、山本首相は楠瀬陸相に﹁増師は大正三年 度には提出すること能はず、去りながら近き将来には解決すべし﹂と述べて.大正三年度には見送る態度を示したの で、楠瀬陸相は就任誘初より三年度の増師をほとんど断念していたが.陸軍内部の突き上げもあっで、、この﹁近き将        ︵響︶ 来﹂を明確化し.できれば四年度の増師の実現にむかって努力してい・九。  楠瀬陸相は、この増師間題については与党・政友会の最高幹部︵総務委員︶である松田正久と原敬とを説得すべき であるとして.まず松田法相と会見︵八月一八羅以降九月一五騒以前、すなわち原の旅行期間申︶したところ、松田        ︵2G︶ からは﹁本年丈けは提出を止め、明年に致呉﹂との言明をえた。さらに原内相と接触して、九月工六鷺には原も﹁今       ︵激︶ 年見合せ、四年度には改革案と同時に提出せば容易に成立するならん﹂と述べたが.議会に対する配慮から、 ﹁大正       ︵22︶ 四年度には実際之を実行する内意ありとするも今罠より之を予定予約する事は絶対に不可なり﹂との考えをもってい たため、このような不明確な言明を行ったのである。山本首相も原内相と大体同じような考えをもっていた。  そこで楠瀬陸相は、三年度の増師は全く断念したものの、陸軍内部への配慮から、近い将来の増師の確約と時期の 確定を得ようと努め、三年度の予算編成が近づいた二月一七鷺にも原内相と内談した。だが原の考えは変わらず、

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      ︵23︶ 楠瀬が﹁閣議に於て近き将来に於て実行すると云ふ様に取極め﹂て欲しいと求めたのに対して、原は大体賛成した が、それを外部にもらすことについては反対した。こうして楠瀬は近き将来の増師について閣内の了解をほぼ得るこ とができたが、これを公然とさせることができなかった。  この結果、一一月二五日から二八日までの大正三年度の予算閣議においては、増師は全く問題とならなかった。そ こでその直後、一二月二日の定例閣議において楠瀬陸相は、陸軍内部を押えるためもあるとして、増師案を説明し        ︵雛︶       ︵25︶ た。だが閣議はこれを聞きおくにとどめ、 ﹁財政の現状に鑑み大正三年予算に計上ぎることに閣議決定した﹂のであ る。  このように、近い将来という内約をほぼえながらも、この増師は大正三年度予算には組まれず、延期となった。こ の経過からも明らかなように、山本内閣における政友会の比重、殊に原内相︵当時、松田法相は不治の病気にかかっ ていた︶のリーダーシップが非常に高まっていたのである。だが山本内閣のこの決定にこころよからず思う陸軍、山 県系官僚派がいることも忘れてはならない。       ︵26︶  次にこの予算編成に当っての重要問題として、海軍充実問題について述べなければならない。この問題は陸軍の増 師問題とは異って、比較的スムーズに事が運んだ。一一月九日には、斉藤海相が原内相を訪ねて、海軍予算について 内談したが、原は、 ﹁幸に海軍と議会とは陸軍に対するが如き悪沿革もなく至極円満なれば、将来も其関係を継続す る様にありたきものなれば、﹂ ﹁既定三軍艦の事は一昨年︵明治四四年︶来のことにて議会にも異議なかるべきも、        ︵27︶ 其已上とありては面倒なり、且つ今年陸軍を押へるが為めにも殊に其辺にて辛抱する方得策なり、﹂と述べ、この際

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    第一次山本内閣と政党︵二完︶       八 は極力予算を押えることを主張した。だが﹁既定の分に幾何か加へた位の予算ならば﹂と多少の譲歩をも示した。一 一月二七日の予算閣議において、斉藤海相は三億五〇〇〇万という非常に巨額な予算を提出したが、原内相は既定の 九〇〇〇万円を主張して対立した。結局、由本首相や斉藤海相の要求に原内相が妥協し、 ﹁大正七年までの継続費を        ︵28︶ 大正八年迄となし﹂また斉藤が﹁絶対に此案を議会に於て固執﹂せず、 ﹁妥協の意思﹂のあることを條件として、一        ︵29︶ 億五四〇〇万円の予算を認めるにいたった。こうして海軍予算は比較的順調に閣議で決まり、大正三年笈予算申、山 本内閣の戴重要施策とな肇た.  この、聯軍拡張政策は.対串国閥題があったものの、明治末期以来、蘇米対立という状況が現われたため、従来の ﹁陸主海従論﹂から﹁海主陸従論﹂に傾く夙潮が明らかとなる申で、また列国の海驚拡張や大艦巨砲主義の採用に対 抗するために、採用されたものであるが.経済力の弱い当時のわが国では並大抵のことではなく、窮乏した財政を圧 迫し、民力休養を阻害することは明らかであり、また政友会の利害とも対立するものである。だが.山本内閣は.山 本首相と斉藤海相を申心として、政友会“原内相の反対を押し切って、内閣が比較的順調な時期を好期として、一挙        ︵30︶ に海軍充実間題を解決しようとしたのである。このような山本︵薩閥・海軍︶と政友会との矛盾を内包する無理な政        ︵謎︶ 策は、前述の陸軍の増師延期とあいまって、﹁由本横暴、陸軍偏軽、海軍偏重と云ふ猜疑の念﹂を反政府勢カー野 党、陸軍、山県系官僚派など⋮に一層いだかせることになった。       ︵詑︶  これまで述べてきたように、由本内閣は、増師延期、海軍充実などの諸問題を解決して、二月二八日の閣議にお         ︵33︶ いて﹁珍らしく平穏﹂のうちに、海軍充実を最重点施策とする大正三年度予算案を決定し、いよいよ、第三一議会を

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迎えることになった。  かくて、山本内閣の後半の施政も、前半の施政とほぼ同様、対申国問題のように多少の波瀾はあったものの、ほと んど順調に終始してきたのである。だがその基底には、山本首相と政友会との矛盾が潜在しており、またその背後に は、山本内閣の勢力によって押えこまれている諸勢力が存在しており、まだそれらは明確に反政府運動を展開するま でにはいたらなかった。  このように、後半の施政が比較的順調であったいま一つの根拠は、なんといっても、政党状況が山本内閣に好都合 であったことである。ここで、第三一議会を迎える直前までの政党状況について説明しておこう。  まず与党・政友会は、前述のような西園寺総裁辞任間題が未解決のままであったため、党の実権は総務委員として        ︵誕︶ の松田と原が掌握していたが、大正二年一〇月申旬以降、松田が不治の病気となったので、原がただ一人、最高の責       ︵35︶       ︵3 6︶ 任者として党務を掌握し、内部統制を保っていた。政友会と山本内閣との関係については、山本首相には﹁えらがる﹂ 風があり、政友会員を疎外しているとして、党の幹部の中には非難するものもあったが、原のリーダーシップによっ て大きな問題とはならなかった。また党幹部の中には猿官問題を起こすものがあって、山本首相との間には多少の不       ︵3 7︶ 調和も起こったが、これも原のリーダーシップによって解決した。さらにまた、政友会の積極政策︵外債募集による 鉄道拡充と内務省管轄の港湾修築とは、原内相の積極政策の骨子であった︶も積極財政論者である高橋蔵相と原内相     ︵38︶ との話合いによって実現しやすくなった。このように、この時期においては、原が山本内閣と政友会とを指導してい たといってよく、したがって政友会と山本内閣との提携は矛盾を内在させながらも、表面上はほぼうまくいっていた     東洋 法 学       九

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    第一次山本内閣と政党︵二完︶       一〇 ということができる。しかも第三一議会直前においては、政友会は衆議院の過半数を制しており、山本内閣にとって 信頼するにたる与党であった。前に述べたように、政友会は山本内閣の成立直後、分裂して過半数をわずかに割った のであるが、政友倶楽部として分裂していったものの申から、その移復帰するものが現われ、第三一議会直前には、       ︵鎗︶      論︶ 衆議院における所属議員数はエ○八名となったのである。山本内閣にとってはまさに﹁鬼に金棒﹂ということができ る.だが政友会横暴という批判のズも当然生まれてきた、  次に野党第一党である同志会は、その創立の経過から世人の評判が最も悪かったが、しかも創立者である桂太郎が 四月以来不治の病気となり、ついに︸○月一〇藤、死去するにいたったので、党首を欠くことになった。もともと同        ︵載﹀    ︵聡︶ 志会は、桂楓人の発起にかかるものであったので、この死去の直後よむ党内に動揺が起こり.仲小路廉、後藤新平ら が脱党するにいたった。そこで.党の結束を緊密にし、振わない党勢を拡張するためには.結党式を急ぐ必要がある       ︵鰯︶ とされ、一二月九澱にはその準備会議を閉き.壬二臼には築地精養軒で結党式を挙行して.総理に加藤高明が指名さ        ︵戯︶ れ、総務委員には大浦兼武、大石正巳、河野広中が推薦きれた。こうして同志会は第三一議会を迎える体勢を整える ことができたが、党内の主導権は、桂の死去、後藤らの脱党、加藤の総理就任などによって、次第に旧国民党系︵大       串︵菊︶ 隈重信系︶が握ることになった。したがってこのため.政友会との対決姿勢を次第に強めていった。だが衆議院にお ける勢力は九三名に過ぎなかった。  国民党は、前述のように、山本内閣に対しては厳正中立の立場に立ち、犬養毅を申心として党の運営が行われてい        ︵妬︶ たが、第一次護憲運動以来、犬養は政友会と国民党との合同論をもっていたこともあって、山本内閣や政友会には積

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極的な対決の姿勢はとらず、国民党分裂以来、同志会に対しては厳しい敵対心をもっていた。だが犬養を始め一部の 党員は、当時あまり振わなかった憲政擁護会の主要メンバーでもあった。なお衆議院における議席数はわずかに四〇 名であった。  政友倶楽部は、前述のように政友会へ復帰するものが現われて、党勢が振わず、このため花井卓蔵らの亦楽会と合        ︵47︶ 同し、一二月二四日には申正会と称した。中正会は尾崎行雄、花井卓蔵、早速整爾らが重きをなし、一人一党主義を 採り、党議に拘東されないのを特色としたが、山本内閣には反対の立場に立った。また尾崎らの一部は、憲政擁護会 の有力メンバーでもあった。だが衆議院における勢力は三七名にすぎなかった。  かくて、第三一議会直前の衆議院における与野党の勢力分野は、与党・政友会二〇八名、野党三党合計して一七〇 名であり、 ﹁政府及政友会は傲然として其勢威を誇り、山本内閣は萬歳の声に謳歌されつつ悠々として政戦の舞台に   ︵娼︶ 上れり。﹂という状況であった。  さらになお、山本内閣に対抗するもう一つの勢力、すなわち憲政擁護会の動きについても述べておかねばならな いQ       ︵錫︶  憲政擁護会は、第一次護憲運動によって第三次桂内閣を倒し、意気大いに挙がったが、山本内閣が成立し、護憲運 動の一翼を担っていた政友会が山本内閣の与党となり、護憲運動の戦列から離れると、その後は全国遊説を行って、 憲政擁護の主旨を徹底することに努めていたが、ようやくその運動も振わなくなり、一般に憲政擁護会を顧慮するも のも少なくなっていった。また第三一議会を迎える直前には、その構成メンバーも、国民党や中正会の有志と新聞記     東洋法学       二

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    第一次山本内閣と政党︵二完︶      一二       ︵50︶ 者、学者、実業家らの約一五〇名であった。そこで、こうした現状を打開するために、二月二五日に常任委員会が 開催され、今後の発展策が協議されて、その結果、憲政擁護会はまだその目的を達成していないことを確認するとと もに、あくまでも政党内閣の樹立.憲政擁護の臼的を貫徹するために、まず最初の問題として財政問題の調査に着手         ︵駁︶ することを決定した。こうして懲政擁護会は、山本内閣に対する攻撃の手がかりと会自身の退勢挽回とを財政問題に 求めたのである。そして第三一驚.の開院式が行われた一二月二六藏には総会を開き、常任委員会の月査結果にもと       ︵砿︶ づいて、減税間題をrりあげる鵜とを決定し、尾崎行雄らを委員としザ丸.直ちに運動に着手したのであった.       ︵灘︶  忌政握護会が趣劫の具体的な慰題として減税問題を決定した理由は、素一にはそこに由本内閣の最大の弱点を見出 したからである、貞本内門は、既に述べたように、成立﹂初から行政・財政の翫理を標榜していたが、行政靴理につ いては相当程度断行したものの、減税については第三〇議会において所得税法の改正を行ったのみであり、第三〇議 会で審議未了となった営業税法の改正については第三一議会に提出の意思はあるようではあったが、まだ明確に公表 していなかった。このように公約である減税を十分に果きぬまま.しかも巨額の海軍充実費を計上して、第三一議会 に提出していたのである。第二に、減税は世論の支持を獲得することは闇違いないことであった。当時、経済界は深 刻な不況の中にあり、したがって減税は経済界のみならず、一般の要求でもあったからである。こうして憲政擁護会 は、第三一議会開会のころには、在野諸勢力の先頭を切って、この減税問題をとらえて、政府を追及せんとしていた のであった。  以上本節で述べてきたように、底流としては種々な反政府勢力の動きがあり、また由本首相と政友会との矛盾が潜

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在していたものの、由本内閣は後半の施政もほぼ順調に乗り切り、衆議院に過半数の勢力を有する政友会を与党とし て、意気揚々として、一二月二四日に召集され、二六日に開院式が挙げられた第三一議会に臨んだのである。そして        ︵54︶ ﹁政友会の天下は、先づ以て萬々歳であろうと想像された。﹂だがこの議会において、まず憲政擁護会の減廃税運動 が反政府運動として大きな盛りあがりをみせるのであり、さらにはシーメンス事件の突然の勃発によって一大波瀾が 起こってくることになる。 ︵王︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ 第二革命の詳細については、臼井勝美 ﹁日本と申国ー大正時代ー﹂ 三一−六頁 参照。野沢豊 ﹁辛亥革命﹂ 一 四二⋮七頁参照。 この三事件の詳細については、栗原健 ﹁阿部外務省政務局長暗殺事件と対中国︵満蒙︶問題﹂ 栗原健編著 ﹁対満 蒙政策史の一面﹂所収 一〇四i七頁参照。 栗原健 前掲 九六頁 参照。 栗原健 前掲 九六ー七頁 参照。この対中国政策は、阿部外務省政務局長の意見にもとづいている。外務省編纂  ﹁日本外交年表蚊主要文書﹂ 上 三六九ー三七六頁 参照。 臼井勝美 前掲 二六i三〇頁 参照。 曽村保信  ﹁近代史研究ー日本と中国i﹂ 一四四頁 参照。 曽村保信 前掲 一四五頁 参照。 東京朝日新聞 大正二年六月一〇日 外務省発表。信夫淳平 ﹁大正外交十五年史﹂ 二;二頁には、 ﹁我が政府の 雨来陳述書に依りて外交方針を声明するのは、蓋しこの頃からの流行となったものである。﹂とある。

東洋法学      二二

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第一次山本内閣と政党︵二完︶      一四 例えば、信夫清三郎編 ﹁日本外交史﹂ 王 二五三頁参照。 この事件の詳細については、栗原健 前掲 八七ー九一頁 参照。 栗原健前掲 八八t九頁 参照。 大阪朝日新闘 大正二年九月八日。 牧野伸顕  ﹁回顧録﹂ 頚 三七ー八頁 参照。  ﹁原敬嚴記﹂ 三巻 大正二年九月九羅 参照。 栗原健 前掲 一〇七ー八頁 3照.この饗麗についザ・原敬は. ﹁失当のものあむ﹂と述べ岬丸いる。 ﹁原敬騰記﹂ 一、一 巻 大正二年九月一六欝 参照嶺 なお.九月一〇講にも対支間題有志大会が闘かれ.多少の騒動があったが.すぐ膜圧された。それが最後であった、信 出、檎三郎  ﹁大正デ噺クラシー吏﹂ 亙 二七二頁 参照。 嬬の承認については.入江啓四郎  ﹁辛亥革命と新政府の承認﹂ 植田艇雄編集代表  ﹁神籍先薫認暦記念 近代羅本 外交更の研究﹂所収 二八︸頁 参照。 大阪朝鷺新聞 大正二年一〇月二瞬 参照.・ 北岡伸一 ﹁日本陸軍と大陸政策﹂ 一五二頁 参照。 大正二年一〇月二β付上原勇作宛川村景明の書翰 上原勇作関係文書研究会編  ﹁上原勇作関係文書﹂所収 一七二頁 参照。 ﹁原敬縫記﹂ ﹁原敬欝記﹂ ﹁原敬霞記﹂ ﹁原敬日記﹂ 大阪朝溝新聞 三巻 大正二年九月二六環 参照。 三巻 大正二年 三巻 大正二年 三巻 大正二年 大正二年一二月一 これまでの海軍充実の経過については、 一〇慣月六田  轟夢昭船。 一一月一七β 参照。 一二月二日 参照。 二臼。    山本鱗郎 ﹁第一次山本内閣の研究﹂ 前掲 一一〇頁 参照。

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︵27︶ ︵器︶ ︵29︶ ︵30︶ ︵雛︶ ︵3 2︶ ︵33︶ ︵誕︶ ︵35︶ ︵36︶ ︵3 7︶ ︵3 8︶ ︵39︶ ︵40︶ ︵姐︶ ︵42︶ ︵磐︶ ︵磁︶  ﹁原敬β記﹂ 三巻 大正二年二月九日 参照。  ﹁原敬日記﹂ 三巻 大正二年一二月二七日 参照。 詳細な各年度の予算額については、大阪朝日新聞 大正二年二一月三日 参照。 山本四郎 ﹁第一次山本内閣の研究﹂ 前掲 二〇頁 参照。なお、この予算は、具体的には前年度予算に頭を出し た戦艦三隻建造の継続分のほか、戦艦一隻、駆逐艦一六隻、潜水艇六隻の建造費をあわせて、一億五四〇〇万円を大正 八年度までの継続費として計上したのである。今井清一 ﹁大正デモクラシー﹂ 四七頁 参照。 徳富猪一郎 ﹁大正政局史論﹂ 一八九頁参照。 この外の問題としては、電話拡張、東北災害救済などの問題があった。  ﹁原敬日記﹂ 三巻 大正二年二月二八日 参照。 このため、二月二日に奥田文相が臨時に法相を兼任することになった。 ﹁原敬日記﹂ 三巻 大正二年二月二 日 参照。  ﹁立憲政友会史﹂ 三巻 七七〇頁 参照。  ﹁原敬日記﹂ 三巻 大正二年九月一八日 参照。 例えば、満鉄の副総裁問題である。 ﹁原敬日記﹂ 三巻 大正一二年二一月二七日 参照。  ﹁原敬聞記﹂ 三巻 大正二年九月二二目 参照。  ﹁立憲政友会史﹂ 三巻 七七一頁 参照。 朝日新聞社編 前掲 三〇一頁 参照。 伸小路の脱党問題については、林田亀太郎 ﹁日本政党史﹂ 下巻 二一五頁参照。 後藤の脱党問題にっいては、林田亀太郎 前掲 下巻 二一五t七頁 参照。大津淳一郎 前掲 七巻 六四⋮七一頁 参照。 大津淳一郎前掲七巻七二頁参照。 結党式については、 ﹁立憲民政党史﹂ 上 二九五i六頁、大阪朝日新聞 大正二年一二月二四日 参照。加藤の総理 東 洋 法 学      一五

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︵妬︶ ( ( ,甑 (  〆『 ( (

525150囎娼嵯746

)  ) 駄ノ ) 、ノ ) ) ︵碍︶ ︵騒︶ 第一次山本内閣と政党〇一完︶       一六 指名については、白柳秀湖 ﹁続財界太平記﹂ 三〇八頁 参照。 結党式における宣書の付帯決議に、 ﹁内治外交に関する現内閣の政策は、本会の主張と相離るること遠し、今や第三十 一騒議会召集せらるるに当り、本会は所罵帝国譲会議員をして、本会の主張を貫徹せしめんことを期す。﹂とある。大 津淳一郎前掲 七巻 七四頁参照。  ﹁原敬鷺記﹂ 大正二年一二月一二日参照。吉島一雄 コ老政治家の織想﹂ 二二八ー九頁参照。 大津淳一郎 前掲 七巻 ご三頁 参照。 半沢玉城  ﹁大正政戦突﹂ 五一頁 参照。 践肩  ﹁大正政変について﹂ 口  讐東洋﹂ ︵東洋大.豊仁試育部︶ 一九七七年二月母 所収 、鯨。 江購圭一 ﹁郊薦ヅルシ羅ア運動史の研究﹂ 一二五頁 参照。 信夫溝三郎 前掲 夏 二七黛頁 参照。 江購圭一 前掲 二一四頁 ・照。 なおこの総会では運営方針を改めて.それまで大部分を有志の寄付に仰いできた財政を、今後は全員各自で負担するこ とにした。僑夫清三郎 前掲 至 二七三⋮四頁 参照。江舞圭一 前掲 一二四頁 参照。 江羅圭一 前掲 一二六頁 参照。 由柳秀湖 前掲 三〇九⋮三一〇頁 参照、 五第㎝次山本内閣の崩壊  大正二年一二月二六霞より開会された第三︸議会は、その後.恒例によって自然休会となり、大正三年一月二︸日 より再開されることになったが、この休会期間中、憲政擁護会の減廃税運動がまず明確な姿となって現われてきた。  一月五澱には、憲政擁護会は総会を開き、減税問題を協議して、 ﹁憲政の本旨に遵い、官僚的財政経済政策の因襲

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を打破し、一はもって民衆の利福を増進し、他はもって財政整理の実を納め、経済界の不安を掃蕩して財政の発展を        ︵1︶ 図り、内政の刷新、外交の伸張両々あいまって帝国の面目を一新せんことを期す。﹂との宣言を発し、減税の細目に ついては常任委員会に付託した。そこで直ちに、常任委員会は、 ﹁本会の宣言の趣旨にもとづき、各種悪税改廃の第        ︵2︶ 一着手として、営業税・織物消費税・通行税の全廃を期す﹂との決議を行った。いまや減税ではなく、三税の廃止を 要求する運動を展開することになったのであり、この三税の中では営業税が従来から最も悪税とされ、しかも折から       ︵3︶ の不況の中で、この営業税の問題が最重要視された。さらに一四日には悪税廃止有志大会を開催することを決定し、 実行委員をあげて、大会の成功を期したのである。  このように、国民党と申正会とを中核とする憲政擁護会が廃税運動ののろしを挙げたことは、当然、他にも影響を 及ぼし、国民党とは敵対関係にあった同志会も野党としてこれに賛成し、その他、東京市議会、東京市日本橋区会な       ︵畦︶ どがこれに呼応する態度をとった。また営業税の直接の被害者である実業界の各種団体も勿論立ちあがった。  一月一二日には、︸鹿児島楼島の大爆発が起こって、世人を驚倒させたが、その翌二二日、山本内閣は大正三年度予   ︵5︶ 算綱要を発表した。だがその綱要では、 ﹁政府は既に営業税の低減を公約したりしに拘らず、来年度予算に之を示        ︵6︶ さ﹂ず、 ﹁営業税は来年度に於て二千六百四十三万円と計上せられ、本年度に比し却て百三十余万円の増加を示﹂し ていた。政府の側でも、高橋蔵相が﹁営業税の悪税たることは政府においてもこれを認むるも、その廃止については 財源の都合上いまただちにこれを承認しがたし。⋮⋮︵中略︶⋮⋮本期議会においては衆議院案を基礎として改正案         ︵7︶ を提出する考えなり﹂と言明して、廃税ではなく、第三〇議会で審議未了となった営業税法改正案︵減税見込額は四     東洋 法 学       一七

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    第一次山本内閣と政党︵二完︶      一八 三四万円︶程度の減税は考えていたのである。山本内閣にとっても、政友会にとっても、減税を行って民力を休養さ せることは重要な施策であったが、巨額な海軍予算のために.大巾な減税を行う余裕を失っていたのである。  一四日、予定通り、憲政擁護会は悪税廃止第一回有志大会を築地精養軒で開いた。折からの暴風雨にもかかわら ず.代議士.府市区会議員、薪炭商や糸物商その他の実業団体の代表者など.五〇〇余名が出席し、 ﹁昨春排族打破        ︵8︶ 大会以来の盛況を呈したむ.﹂  この大会においては、前述の五日の総会と同文の宣書および決議を行肇て.三税の全廃を期せんとしたので㍉る、 また、尾崎と犬養とが演説したが、尾崎の演説は非常に明快で、悪税廃止の筆求は国民の権利であり、この要求をな す方法は代議士に圧力をかけることであると述べたのに対して、犬養の演説は明快さを欠いており、犬養は廃税問題 を政争の具とするのは好ましいことではなく.したがって﹁政党の境界外に超然せる﹂憲政擁護会がこれをとりあげ て行うのがよいとし、この廃税運動をもって﹁非政友合同の方便﹂とは考えていなし、またこの運動によって政友会 を打倒しようとも考えていないが、現在わが国には﹁財政経済上の深患﹂があり.これを除く第一着手として廃税問       ︵9︶ 題をとりあげるのであり、それには殊に多数の実業家の決起を希望するものであると述べている。このように、犬養 の態度は、かれの同志会に対する悪感情を反映して煮え切らないものであった。だがこの大会は会衆に非常に感動を 与えて終わった。  このように憲政擁護会がいよいよ廃税運動を積極的に開始すると、これとあい前後して立ちあがったのは東京市の 市会議員であった。一月一〇醸には﹁申以下の営業者﹂ ﹁小資本の営業者﹂の要求を汲んで、営業税全廃同盟会を結

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成し、この会には野党三党が参加した。前述の犬養の演説も示しているように、野党間に不信と猜疑があった当時に       ︵鉛︶ おいては、このことは注目すべきことであった。  こうして廃税運動は、一月中旬以降、憲政擁護会や営業税全廃同盟会に代表される申央賢東京の動きに刺戟され       ︵鍍︶ て、全国各地に波及していった。このような廃税運動の高まりのうちに、いよいよ第三一議会の再開が近づくと、各 党はそれぞれ大会を開いて、この議会に対する態度を決定した。  与党・政友会は、一九日に定期大会を開催し、松田正久病気のため、原敬は総務委員を代表して挨拶し、その中で ﹁各国の状勢に察し、東洋の局面に鑑み、我国政を如何にすべき乎、其手段方法固より多岐なるべしと錐もへ要は積 極的の経論を行ふにあり、吾党は此形勢に対し、如何なる地位に在るかを見るに、国民多数の同情を博し、議会に於 て絶対多数を占め、地方に於ては党員日に増加しつ\あり、国論の帰一を図り、国力の発展を策する一に吾党の力に       ︵捻︶ 待たぎるべからず、其責任や実に重且つ大なりと謂ふべし。﹂と述べて、議会に臨む政友会の勢力を誇示するととも に、その政策の基本を従来と同様、積極主義におくことを明らかにしたのである。  野党第一党である同志会は、既にその結党式の附帯決議において、 ﹁内治外交に関する現内閣の政策は、本会の主 張と相離る\こと遠し。﹂と述べ、山本内閣に対する反対の意思を表明していたが、一九日には代議士総会を開き、        ︵13︶ この議会に臨む一六項目からなる具体的な政策を決議した。その申で特徴的な項目にあげれば、e国防計画を定める ために国防会議を設置すること、口少くとも三〇〇〇万円の減税をすべきこと、の二点を指摘することができる。e については、 ﹁陸軍偏軽、海軍偏重﹂の傾きがあると考えられる山本内閣に対し、公平に国防計画を行わしめようと

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    第一次山本内閣と政党︵二完︶       二〇 いう意図であり、できれば海軍の充実を押えて、陸軍の増師を有利にせんとする意図であったと.いうことができる。 口については、いまや大問題とならんとしている減廃税問題に同志会も同調せんとし、また政府が予定している減税 額を越える減税要求をしたのである。       ︵懲︶  また国民党は一九臼に大会を隔催して宣書を決議し、議会に対してとるべき五項属の要綱を決定したが、二点にお いてその特徴をみることができる、藩一点は. ﹁我党の主張今や天下の認むる所﹂となひたので. ﹁大に悪税を廃 し、t税を減﹂ずる、いわゆる減廃税間題であり.餓二点は、﹁我党多年の主藤﹂である選学権の拡張につ、いてであ る.もともと国民党は山本内門に対して厳正甲立の態度を輝凝していたので為⇔が、いま 嫁に廃税“熱  暴とし て、ようやく政府反対の姿勢を明確にしはじめたといってよい、  中正会は一人一党主義であったが、政府反対の立場に立ち、その重きをなす尾麟つが駄政擁護会に所属していたた め、廃税運動に積極的であった。  こうして各党は第三一議会に臨む体勢を整え、減廃税問題では野党三党の方向がほぼ︸致していた。一月一二日か らいよいよ第三一議会が再開されると、山本内閣は意気揚々として議会に臨み、二一田にはまず山本首相の施政方針  ︵娼︶      ︵謁︶         ︵鴛ア 演説が行われ、ついで高橋蔵相の財政演説と牧野外相の外交演説が行われたが、格別特徴もなく、新昧もなく、施政 方針演説にしても財政演説にしても、前議会での衆議院案程度の減税をほのめかすにすぎず、またこの予算の中核で       ︵娼︶ あった海軍充実費についても特別強調することもなかった。ただ外交演説については、対中国閥題、対アメリヵ交渉        ︵鴛︶ について﹁大分綿密に外交上の顯末を、報告になったことは甚だ従来にない好例である﹂といわれた。このように政

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府演説にはあまり特色はなかったが、この議会において採りあげられるべき主要閥題は、外交問題としては対中国、 対アメリカの問題があり、内政問題としては海軍充実とそれに関連する全般的な国防問題︵陸軍増師閥題を含む︶と       ︵20︶ 営業税を中心とする減廃税問題であっだ。       ︵21︶  果せるかな、野党の質問はこれらの諸問題に集中した。二一日の大石正巳︵同志会︶の質問は、まず中国における 三つの不祥事件についての政府の緩慢を批判し、ついで対アメリカ交渉の秘密性を難じ、最後に海軍偏重の傾きを通        ︵22︶ じて国防計画の無計画性を追及した。また犬養︵国民党︶の二二日の質問は、まず国防計画の明確な説明を求め、そ れに伴う海軍充実費の計上となぜ陸軍の増師費用を計上しないかの理由について説明を求め、さらに対中国問題の不 振を責めたのである。このようにこの議会は、再開壁頭においては対外問題、国防間題、海軍充実問題をめぐって論 戦が開始されたが、まだ減廃税問題についてはほとんど論議されていなかった。ところが壬二臼にいたって、全く新        、︵%︶ しい問題が突如として発生した。いうまでもなく、海軍贈収賄事件として有名な、いわゆるシーメンス事件の勃発で ある。  大正三年一月壬二鼠付の東京各新聞は、二一日発のロンドンのロイター通信の電報を掲載して、疑獄事件の発覚を        ︵麗︶ 伝えた。各新聞のうち最も詳しくこれを報道したのは、時事新報であった。その記事の要点は、カール・リヒテルと いうかってシーメンス・シュツケルト会社東京支店に勤務していた男が、東京支店から秘密文書を盗み出し、その文 書を種に会社を脅迫して、恐喝罪で二年の懲役刑の判決を受けたが、その文書には日本の海軍軍人がからむ贈収賄関 係の事実が書かれていたというのである。当時、このような外国電報には一般国民は余り関心をもってはおらず、し

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    第一次山本内閣と政党︵二完︶      二二        露︶ たがってこの報道も余り一般には注意をひかなかったが、同志会の領袖島田三郎代議士が議会においてこれを問題と したことによって、俄然、一大間題となっていった。  島田は壬二βの予算委員会において.この時事新報を片手に政府を追及した。島照の質閥の要点は次のようであ る。今朝の時事新報によれば、欝本帝国の威信に関係し.海軍の風紀に関係する記事が掲載されている。特に海軍予 算を増額するという口短のある現在.きわめて擁心の問題である。その記事の申には名誉あ葛海軍将官の々、劇がみえ ており、また賄賂︵﹁雛ンξツシ鷹ン﹂︶の割合がでグ、いる.これらがもし事実であるならば.これほど軍紀上重大 なことはないと思う.軟府、特に海軍はい鵡球る手段をとって.この新闘の報ずるところが無実であると天下に表明       ︵驚︶ する方法を講ぜ鍵れず、いるか.承ウたい。、  この島田の質問に対して斉藤海相は、大体次のように答弁した。約二ヵ月ほど前.シーメンス会社の東京支配人ヘ ルマンが私に会見を求め、ヘルマンがいうには.リヒテルによって窃取された会社の秘密書類が某国通信社︵瓢イタ ー通信社︶の記者︵プーレー︶の手に渡って脅迫されている。その秘密書類には顯本海軍の高官の名前が書かれてお り、それが公表されると、シーメンス会社の迷惑のみならず、β本海軍にも迷惑をかけることになるから、なんとか 援助して欲しいということであった。そこで、私としては、そのような書類が公表されようが一向差支えない。海軍 軍人には曲事のないことを確信している。だがもし曲事があれば、それを糾きなければならないことはいうまでもな いと答えておいた。そしてその後、ヘルマンの話を関係当局へ内報して調べてもらったところ、二、三週問してか ら、あのことは何も問題にならぬという内報があった。だが今欝の新聞を見て驚いているが、新聞の記事のことであ

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るから、十分調査した上のことでなければ、明らかなことはいえない。少しでも曲事があれば、大いに糾さなければ   ︵27︶ ならぬ。この斉藤海相の答弁は、きわめて抽象的であり、問題の核心に触れることを避けているようであった。  さらに二六臼、二七日の予算委員会においても、島田らはこの事件について政府を追及したが、山本首相も原内相 も斉藤海相も山本内閣全体が、この事件を極力問題外におこうという態度を示し、新聞報道はとるに足らぬものであ り、それによって司法権を発動するわけにはいかないとの強気な態度をとり、基本的には﹁コンミッション﹂を否定       ︵28︶ し、島田らの追及を軽視しようとさえしたのである。  ところが、各新聞とも、その後も外国電報によってこの事件の詳細を書きたて、また島田らが重ねて政府を追及し たことによって、世論は騒然となり、議会も予算審議どころではなくなり、政府や海軍に対する疑惑の声が日増しに 高まっていった。  二九日には花井卓蔵︵中正会︶がまず緊急動議を提出して、大要、次のように述べた。予算委員会において国務大 臣と予算委員︵島田ら︶との問答に現われた事実は、行政の監督権を有する衆議院が糾さなければならない事項であ       ︵29︶ る。したがって国務大臣は何事も包み隠すことなく、鄭重親切に議場に報告・説明すべきである。この動議は賛成多 数で承認されたため、国務大臣は質問に対して詳しく説明しなければならない羽目におちいった。こうして衆議院に おける政府に対する追及は一層激しさを増し、その後、花井に続いて、林毅陸、藤原惟郭、菊地武徳、島田、尾崎な       ︵30︶ どが厳しく質問したが、政府はあくまで﹁コンミッション﹂を否定し、詳細については、 ﹁調査中﹂として明確な答        ︵3 1︶ 弁を避けた。いわば、 ﹁臭物に蓋を為す﹂の態度をとったといってよいだろう。

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    第一次山本内閣と政党︵二完︶      二四  だが政府の側においても、いくら否定的答弁をしてみても、世人の疑いを解くことはできないから、早く法的機関 にかけて、問題となっている人物を個別に審査すべきではないかとの意見もでてきて、二八沼に海軍省に査問委員会 が設置され、調査が開始されて、二九霞には海軍大佐澤崎寛猛が、三〇田には海軍機関少将藤井光五郎が審問を受け た。また司法当局も別途に捜査を始め、二九濤にはプーレ⋮を検挙し、二月二鷺にはヘルマンも検挙され、六βには 吉腿収吉︵シーメンス会社の海軍霜担当者︶も拘禁された、だが政府の弁明的態度にもかかわらず、世人の疑惑は一 濯深まっていくばかりであった.その疑惑とは.これまでの長い間、外国に注文した軍艦・兵器などにはことぐとく ﹁灘ンミッシ禦ン﹂があって、海軍首脳  殊に山本首相は轟車の大御所である⋮ーが私腹を肥やしていたのではな いかという疑惑である。  しかもその疑惑を暴露するような内部告発さえ現われるにいたった、海軍主計中監片桐酉次郎と海軍大佐太田三次 郎が、海軍の腐敗・堕落は今やその極に達しているとして.日清戦争前後から、海軍が外国へ物を注文するたびに、 ほとんど慣例として.否、当然の権利であるかのように心得て、常にこの﹁コンミッシ望ン﹂を受取っており.今        ︵3 2︶ 日、海軍の有力者中に巨万の資産を有しているものが多いのも、これがためであると指摘した。  こうなっては、世論はますます激昂の方向を辿ることになる。各新聞は連藏、シ⋮メンス事件を大きく書きたて て、民心を煽り、各地で政府反対の種々な会合が開かれ、大正政変以来の民衆の権威に対する反抗心を一層かきたて た。こうして、政治変動を生みだす下地が次第に形成されていった。そして、このチャンスをつかまえて、山本内閣 を攻撃したのが、憲政擁護会であり、各野党であり、減廃税運動であり、山県系官僚派︵貴族院議員︶であり、潜在

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的には陸軍であった。すなわち、山本内閣と与党・政友会との力に押えこまれていた諸勢力の総反抗が、これから展 開されていくことになる。  前述のよう従、大正二年一二月末から始まった減廃税運動は、大正三年に入って、憲政擁護会などの運動が活発化 していくにつれて、各地に波及し、それまで消極的な態度を示してきた東京商業会議所も一月二〇日には、一般的な       ︵3 3︶ 減税要求ではあったが、政府に対する建議を採決し、さらに進んで、商業会議所連合会は三一日には営業税全廃を決        ︵34︶       ︵35︶ 議するにいたった。また各野党の減廃税法案も二四日には衆議院に上程された。こうして、政府に対抗する減廃税運 動も全国にひろがり、院の内外において呼応する勢いを示し、営業税全廃を中心とする減廃税問題は、今や、憲政擁 護会、野党の政治家、同業組合や実業組合に依拠する小資本家、商業会議所に依拠する小・中資本家を包含する反政 府運動となったといってよい。このように減廃税運動が高まっていたとき、シーメンス事件が勃発したのである。  そこで、このシーメンス事件の勃発は、当然、減廃税運動に大きな影響を及ぼすことになる。まさに反政府勢力に とっては、この事件は、減廃税運動とともに、山本内閣打倒のための絶好の攻撃材料となったわけである。  一月二七日には、憲政擁護会主催の第二回廃税大演説会で演壇に立った国民党や申正会の代議士らは一方で廃税を       ︵3 6︶ 叫ぶとともに、他方では海軍の腐敗を非難した。しかもこれまでの減廃税運動によって、山本内閣や政友会を非難す る雰囲気がすでに醸成されていたことが、民衆の動員を容易にし、民衆はいまや政府攻撃の場と化した廃税演説会に ひきよせられた。こうして憲政擁護会の演説会は悪税廃止から今や廃税問題と海軍問題との二本立てとなり、これが 民衆を一層参加させることになった。そこで憲政擁護会は、二月二日に臨時総会を開いて、次のように決議した。

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    第一次山本内閣と政党︵二完︶      二六  ﹁帝国海軍をして国民疑惑の標的たるにいたらしめたるは閥族政治の然らしむるところなり、本会は国家の威信と 帝国軍人の名誉を中外に完保するため、憲政の本義に照らし、長閥打破と同一の精神により、薩閥の根絶を期し、海        ︵37︶ 軍を廓清するをもって方今の急務と認む。﹂  この決議は、憲政擁護会の運動方針の一本化を示すものであり、廃税を主張する運動を打ち切って、これ以後はシ ⋮メンス事件を主題として政府に迫ろうというのである。もともと憲政擁護会は﹁閥族政治の根絶﹂という鐵的をも っておむ.廃税間題よりも海軍問題の方がより懲的にかなうとされたのである、したがって磯税運動は法政擁義会か ら離れ、今後は直接の被害者でのる商業会誉所や各地の各種実業団体によって推進されていくことになる。  こう覧て蕩標を一本化した鴛政擁護会は.山本内閣弾劾のため大いに活躍したが、憲政擁護会の有カメンバーの一 人・犬養は、前述のように廃税問題に対してあいまいな態度をとっていたが、このシーメンス事件に対しても明確な 態度を示さなかった。そこで犬養に非難が集中し、憲政擁護会から除名すべしとの意見までもでたが、二月五臼の憲       ︵3 8︶ 政擁護会の席上、犬養はようやく態度を明確にし.憲政擁護会の方針に羨、って行動することを閾明するにいたった。 こうして憲政擁護会は団結を固め、その同じ席において、同志会、国民党、申正会の三党は、内閣不信任案を提出す ることにおいて提携が成立したのである。  当時、憲政擁護会のみならず.全国各地で海軍廓清・山本内閣弾劾の演説会が開催され.したがって世論は沸騰 し、きらに廃税運動も各地で高揚して、 ﹁現政府は営業全廃問題にたいして実業家の敵となり、さらに海軍収賄問題       ︵39︶ に関して国民の敵となり⋮⋮⋮現政府はまさに孤立の位置にあり﹂という状況となった。だが山本内閣・政友会の側

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では譲歩する様子はなく、シーメンス事件について取調べが進むにつれて、贈収賄の事実が次第に明らかとなり、海       ︵菊﹀ 軍に対する疑惑は一層深まっていったが、 ﹁此際は耐乏して之を切抜くるの外なかるべし﹂として反政府勢力に対す る警戒を厳重にした。こうなっては、山本内閣・政友会と反政府勢力、殊に野党三党との正面衝突は避けられなくな った。  第一次護憲運動で第三次桂内閣を倒壊させた一年前と同じ二月一〇日、野党三党によって提出された内閣不信任決       ︵4 1﹀ 議案が衆議院に上程された。この日、午前一〇時半より日比谷公園で国民大会が開催きれており、民衆が続々と集合 していた。この大会は対申国問題で強硬論を主張する対支同志連合会の右翼の人たちによって主導権が握られ、激越 な演説を行って、かれらは民衆を煽動し、 ﹁国民は衆議院に向って現内閣の弾劾を要望す﹂との大会決議を決定し た。この決議をもって代表委員が衆議院へ出かけると、万余の民衆もその後を追って、衆議院に押し寄せた。  衆議院では、午後一時より開会、 ﹁帝国海軍をして国民疑惑の府たらしめ、帝国の威信を中外に失墜したるは、其 の責、政府に在り、政府は宜しく処決すべし。﹂との不信任決議案が上程きれ、犬養毅︵国民党︶がまず提案理由を 説明し、鵜澤総明︵政友会︶反対、島田三郎︵同志会︶賛成、奥繁三郎︵政友会︶反対、花井卓蔵︵申正会︶賛成、 松田源治︵政友会︶反対の演説を行い、山本首相が政府の態度を述べ、記名投票の結果、賛成一六三票、反対二〇五 票となって、不信任決議案は四二票の差をもって否決された。  こうして内閣不信任決議案は政友会の多数によって葬り去られたが、院外には三万余の民衆がひしめいていた。松 田の演説申、民衆を﹁暴民﹂と呼んだことが伝わると、民衆は怒りを爆発させて、議会の門内に侵入したが、多数の

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    第∼次山本内閣と政党︵二完︶       二八

警官隊にはばまれた。敗れた野党議員は民衆から歓呼をもって迎えられたが、閣僚や政友会議員は議会を出ることが       ︵姐︶ できなかった。原内相の要請による陸軍の出動が後れたため、警官隊に厳重に守られて、ようやく議会を出ることが できた。これは、山本内閣・政友会に対する陸軍の態度を示唆するものといえよう、夜にはいって民衆は、御用新聞 である中央新聞や毎夕新聞などを襲撃しようとしたが、馨官撲の警戒が厳重で、果せず、投石によって交番などを襲 撃した.この夜.二一三名が検麹され.三七名が重傷を負った.この鑓以優も不穏な状況が続き、二一日にも民衆の 騒勤が起こり.多数輩幹捕されたが、いずれも過剰ともいえる遡、⋮レによって押えこまれた、このような厳しい窪備 体制は民衆の騒擾を押えることには成功したが、この 備体制の最欝頁任者である原内相に対する人権揉鋼という非 難を生み出した.  こうして山本内閣は政友会の多数をもって内閣不僑任決議案を否決して、強引に一つの山を乗り越えたが、衆諾臨 における次の問題は、予璽門題であり、減廃税問題であった。  大正三年度の政府の予算案は、既に述べた通り、海軍充実費︵一億五四〇〇万円︶の計上を最重点施策とするもの であったが、ところがシ⋮メンス事件による海軍廓清という政府反対運動や減廃税運動が起こるにおよび、当初の予 算案をそのままにしておくことは、到底不可能となった。そこで政府・政友会側でも予算案を修正せざるをえなくな り、山本首相・斉藤海相と政友会を代表する原内相との間で協議が行われた結果、戦艦一隻分三〇〇〇万円を削減す       ︵囎︶ ることおよび艦艇補充基金約四六七〇万円を削減して産業奨励費に充当することを決定した。二月一二日には予算委 員会が開かれて、この修正案が議、題とされ、 ﹁反対党の薩騒にて混雑﹂したが、可決きれた。野党の側でも修正案が

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考慮されたが、国民党が独自の修正案に固執したため、三党の統一修正案も作ることができず、足並みが乱れ、それ ぞれ別個に修正案を提出したが、政友会によってすべて否決された。ここでも政友会の多数の勝利となり、こうして 予算案は同じ一二日に衆議院を通過したのである。        ︵聾  次に二月一四日には減廃税問題が衆議院の問題となった。廃税運動は、前にも述べたように憲政擁護会の方向転換 によって、その後も、商業会議所や各種実業団体が中心となって進められており、その勢いは全国いたる所で一層盛 りあがるばかりであった。二日には大阪で営業税全廃市民大会が開かれて、民衆の騒動が起こり、一二日には東京 で全国商工業者連合大会︵全国営業税廃止大会︶が行われて、東京商業会議所会頭中野武営を座長に選び、 ﹁営業税 全廃に反対したる代議士にたいし将来衆議院議員およびその他すべての公職に選挙せざるはもちろん、あわせて一切 の交誼を絶つ﹂ことを決議した。そこで二二田には、政友会の各議員に対する切り崩し工作が懸命に行われ、政友会 内部が動揺し始めた。  このように党に対する圧迫が激しくなってきたため、政友会幹部は急遽、一方では政府提出︵工月三日︶の営業税 法改正案を修正して、減税見込額を原案の四六九万円から八一四万円に増額することで党議をまとめ、政府に同意さ せ、他方では野党の廃税案を速かに否決して、政友会の修正案を早期に可決する作戦を立てた。野党の側では、前述 のように予算問題においては足並みが乱れていたが、営業税全廃同盟会が二一日に﹁三派結東を固くして廃税の目的 を達するよう尽力せんこと﹂を要求したこともあって、一三日には院内に三党の代表による交渉会がもたれ、その結 果、三党は﹁減廃税問題に関しては結東して一致の歩調をとるべし﹂との申し合わせを行って、三党の団結を示し     東洋法学      二九

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    第一次山本内閣と政党︵二完︶      三〇 た。こうして営業税改廃間題はいよいよ大詰めを迎えることになった。  この一四日、院外では日比谷公園内の松本楼において廃税問題国民大会︵一〇日につぐ第二回国民大会ともいわれ た︶が正午ごろから開かれ、 ﹁国民は営業税の全廃を要求す﹂との決議を行い、解散後、数千の民衆は議会へ向った が.警嘗隊の警備が異常なほど厳重で、民衆との小ぜり合いがしばしば行われた程度で、それ以上の騒ぎにはならな   ︵蕊︶ かった。  他方、このような厳重な掌蕪体制のもとで.衆撃院にわいては減庵税問題が黙程にのぼっていた.慣例を破肇て午 前九時から委員会が開かれ、政友会は営業税法改正案の可決を急ぎ.野党の質問を封じ、野党の動議を否決し、果て は乱闘事件までも起こり、遂には自党委員のみで採決を強行して、自党の修正案を可決し、野党の廃税案を全部否決 した。そして直ちに日程を変更して.本会議に上程した。  本会議に追いこまれた野党は、あらゆる手段を使って議事の引き延ばしをはかり.遂に時間切れとなって.討論は 日曜日をはさんで一六藏に持ち越された。一五撮の霞曜鷺も全国いたる所で廃税演説会が熱心に開かれ、また政友会 代議士に対する個人的説得も行われπが、廃税運動はきめ手を欠き、一六露.衆議院本会議が午後一時から再開され ると、野党の法案再審査の動議も否決され、討論終結して、政府提出・政友会修正の営業税法改正案は記名投票の結        ︵葡︶ 果、賛成二〇一票、反対票一六七票で可決されたのである。この改正案の可決によって減廃税問題の大勢は決し、さ らに勢いに乗った政友会は、一七日には、野党三党の提出した通行税法廃止法案および国民党の提出した石油消費税        ︵蔀︶ 法・織物消費税法・塩専売法の各廃止決案をあいついで否決してしまった。こうして廃税運動は敗北し、ここでも山

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本内閣・政友会は、その多数の力をもって、反政府勢力を押えることに成功したが、反山本内閣・海軍廓清・政友会 横暴という世論は決して鎮静しなかった。  このように、廃税運動は押えこまれたものの、反政府的世論は一向に衰えず、一層盛りあがっていった。それは、 第一にはシーメンス事件がさらに拡大して、新しい贈収賄事件、いわゆるヴィッカース事件へと発展したこと、第二 には前述のような人権躁躍問題によって原内相に対する非難攻撃が高まっていったことにあった。        ・︵4 8︶  そのころ、シーメンス事件の取調べが進行し、その取調べからヴィッカース事件が発覚した。当時、取調べを受け ていた藤井少将は、あくまでも﹁コンミッション﹂を受取ったことを否認していたが、藤井の経歴が調べられていく うちに、ヴィッカース社との関係が問題となってきた。第壬二議会︵第一次西園寺内閣のとき、明治三九年一二月か ら明治四〇年三月まで︶において決定した海軍補充計画にもとづいて、巡洋艦︵艦名﹁金剛﹂︶をイギリスの造船所 で建造させることになり、藤井少将は明治四三年︵第二次桂内閣のとき︶イギリスに渡った。それまでのほとんどの 軍艦は、イギリスのア⋮ムストロング造船会社か、ヴィッカース造船会社かによって建造されていたが、このときは ヴィッカース社が選ばれた。このような艦決定の主導権を握っていたのは、艦政本部長松本和︵この事件が発覚した 当時は、呉鎮守府司令長宮で中将、将来の海軍大臣と目されていた︶と藤井であり、そしてヴィッカース社の日本代 理店は三井物産株式会社であった。かくて﹁金圃﹂の建造をめぐって、贈収賄が行われたのではないかとの疑惑がも たれ、検察当局は二月一八日、松本呉鎮守府司令長官官舎の家宅捜索を行い、また三井物産も捜索を受けたのであ る。こうしてシーメンス事件はさらにヴィッカース事件を生み、国民の疑惑はさらに深まり、政府不信の世論は一層

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