コモン・ローにおける反独占思想(5)
著者名(日)
谷原 修身
雑誌名
東洋法学
巻
39
号
1
ページ
105-133
発行年
1995-09-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00000519/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.jaコモン・
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八 シャーマン法制定の意義と適用範囲庚洋滋学
ω 総 説 前節までに、コモン・ローの歴史的展開において、人類の経済的取引活動をめぐる競争とそれを制限しようと する種々の試みに対する社会的規制の展開について概観した。この競争制限的行為に対するコモン・ローの対応 は、イギリスにおいて長い年月を経て徐々に醸成され、それを継受したアメリカにおいて開花したのである。 この両国において、初期の経済的取引活動の中心的存在は既存の家族的小企業であったが、一九世紀後半には 技術革新と大量取引を伴った成熟した資本主義経済体制が出現し、これに呼応するものとして大規模会社の設立 が試みられた。この大企業を中心とした経済活動に対して、伝統的なコモン・ローの法理をいかに適用すべきか が両国政府の重要な政策的課題とされたのである。まずイギリスは、取引制限的契約および取引制限的結合に関 105コモン・ワーκ右げる友堀r酋ノ蟹,恋i御 するコモン・ローの法理を継続して適用することにより、柔軟な路線を持続する立場を採用した。これに対して、 アメリカは一八九〇年に反トラスト法を制定し、基本的にはコモン・ローの法理に基礎を置きながらも、産業的 結合の規制に主眼を置いた本格的な立法による独自の規制政策を展開することになり、ここにおいて両国は﹁被 を分かつ﹂こととなったのである。 そこで本節では、コモン・ローという伝統的な源流に舟を浮かべてきた両国の内、アメリカが反トラスト法と いう本流に舟を漕ぎ出し、独自の方向に歩み始めた社会的要因は何か、また、それはイギリスとどこが異なるの かを分析することを試みる。次に、主要な反トラスト法である﹁シャーマン法﹂の制定要因を分析し、更に、こ の規定の解釈をめぐる見解の対立を整理することによって、コモン・ローの法理からの乖離状況を概観すること を試みることとする。 106 ω 社会的環境と市場構造
①イギリスの特質
イギリスが、自ら指導的役割を果たした産業革命後の新しい資本主義経済体制が生み出した企業集中および独 占企業の出現に直面した場合に、新たに立法的規制を試みることなく、従来のコモン・ロー原理を発展的に適用 し続けることが可能であった社会的環境および市場構造については、以下のように指摘することができよう。 第一に、当時のイギリス市場において支配的地位を維持していたのが、家族的企業もしくは中規模な事業者で庚洋滋学
あったことである。すなわち、議会と裁判所は、コモン・ローが﹁ゆるい結合︵一888ヨ獣惹鉱9︶﹂と競争制 限的慣行に対して寛大に対処したので、家族的企業がこれらを利用して市場支配力を維持することができ、合併 などを手段とした大企業の出現による市場構造の変化に対しても、その支配力を失うことなしに適合しえたので ︵−︶ ある。更に、この﹁ゆるい結合﹂に対する規制がゆるやかであったことが、大規模会社、卸売業者および小売業 者間の価格協定の成立を容易にし、結果的にビジネスの人的関係︵冨お9巴お一讐δ霧獣O︶の堅実な持続を可能に したと言うことができよう。その上、イギリスでは早くから都会への人口集中が進み、一九〇〇年までにイギリ ス市民の四人に三人は都会に住み、コンパクトな︵8ヨ冨9︶市場を形成した。従って、これよりも遅れて発生し ︵2︶ た大企業と抵触することなしに自治体制を確立することが可能であったのである。 第二に、イギリスのビジネス界が自由貿易と契約の自由を頑固なまでに支持し続けたことも看過しえない特質 である。既述した取引制限的契約の法理に関して、裁判所が常に直面した基本的なジレンマは、﹁契約の自由が貿 ︵3﹀ 易の自由を破壊するために利用できること﹂であったと言われる。しかし、﹁見えざる手﹂に対する強い信頼感が ︵4︶ 広く行き届いていたために、結局は契約自由の原則が支持されたのである。かくして、イギリスでは支配的な家 族的企業が契約自由の原則を支持したことが、市民の経済活動に対する政府の干渉を極力避けるべきことへの市 民的感情を生んだのである。その結果が、アメリカの反トラスト法による包括的な規制のような立法的規制に反 ︵5︶ 対する国民的合意となったのであり、このような立場は組織労働者や社会主義者らによっても支持されたのであ る。 107コモン・ロー〆ご」5}げる友獲酋,齪,恋i御 第三は大企業に対する市民的感情である。イギリスにおいて企業集中の動きが始まったのは一九世紀初めであ ︵6﹀ るが、一八八○年代から一八九〇年代にかけて、取引制限的協定や合併による企業集中が多く散見された。しか し、この間において、イギリスの経済学者ばかりでなく新聞・雑誌などのジャーナリズムも、新しく出現した巨 大会社が国民にとって脅威的な存在となるとは考えていなかったと言えよう。むしろ、﹁タイムズ︵9Φ目ヨ8︶﹂ や﹁エコノミスト︵爵①国88ヨ一ωけ︶﹂のような代表的な定期刊行物でさえ、大規模な企業の出現は健全なイギリ ス経済の﹁合理化︵轟江9巴一S賦9︶﹂を表現したものであり、ビジネス活動の当然の結果であるとする立場を表 ︵7︶ 明した。更に、著名な経済学者であったマーシャル︵≧ヰ8冨巽昏毘︶は、イギリス法は取引制限の法理を有し ているが反独占の法理を有しておらず、協定が少なくとも理論上では取引制限的行為として無効であるとされて ︵8︶ いるのに反して、現実の合併は何らの法的規制も受けていないことを指摘した。このような立場は議会や政府の 政策にも反映しており、例えば、鉄道会社間の制限的な運賃協定は禁止されたが、鉄道会社間の合併は問題とさ ︵9︶ れていないことなどが、このことを如実に物語っている。 第四に、イギリスにおいて、ビジネス上の利益をめぐる紛争が生じた場合には、訴訟よりも商業仲裁︵8ヨヨR− ︵−o︶ o一巴費獣q昌9︶に依存することが多く見られたことである。
②アメリカの特質
以上のようなイギリスの特質と比較して好対照をなすのがアメリカの特質であり、それらは以下のように要約 することができよう。 108萸洋法学
第一に、大企業の出現による市場構造の急速な変化が指摘されよう。一八七〇年代以降において、英米両国は 大不況に見舞われ、企業は生産量と価格との調整のための新しい方法を模索し続けた。その結果として、﹁規模の 経済性﹂の追求が一般化し、一八八○年代には合併その他の手段による企業統合が進み、大規模企業が続々と出 現したのである。これを数字的に説明するなら、イギリスでは一八九八年から一九〇〇年までの間に六五〇社︵総 額四二〇〇万ポンド︶が一九八社に合併された。これに対してアメリカでは、一八九九年のみで九七九社︵総額 ︵11︶ 四億ポンド︶が吸収され、その規模はイギリスを遙かに凌ぐものであった。前述したように、イギリスの場合 は、このような企業統合の形態がとられているが、その内容は家族的企業が独立したままで﹁ゆるい結合﹂形態 をとるのが一般的であった。これに対して、アメリカの場合は﹁ゆるい結合﹂が厳格に規制されたこともあり、 大半の結合が経営権を集中化する固い結合であった。かくして、アメリカでは特に製造業を中心にして、小規模 ︵12︶ な企業は消滅せざるをえなかったのである。 当時のアメリカでは大企業と小企業が敵対する市場構造が出現したが、この対立構造は連邦政府と州政府の分 ︵13︶ 権を認める連邦主義︵8αR巴δ日︶によって一層加速されたのである。すなわち、ある州では小企業を手厚く保護 する政策がとられたのに反して、他の州では大企業を優遇する政策が実施されるという現象が見られることも稀 ではなかったのである。そして、もし小企業の経営者が﹁アメリカン・ドリーム﹂を追い求める少数民族である ︵14V ような場合には、この対立構造は一層深刻なものとなったと考えられるのである。 次に、この小規模企業の味方として一生を捧げた法律家として、その名を後世に残したブランダイス︵8鼠ω蝉 109コモン・ワー〆ご右げ6瓦塑6,蟹ノ恋i御 零き8邑に言及する。彼は一九一六年に連邦最高裁判事として指名されるまで、主として小規模企業の訴訟代 理人として活躍したばかりでなく、﹁公益訴訟﹂と呼ばれる数多くの重要な事件を引き受けて﹁人民の弁護士︵9① ︵15︶ 勺8巳Φ.ω鍔≦鴫R︶﹂としての名声を欲しいままにしたのである。彼は、巨大会社が民主的なものに対して脅威と なり、小規模会社が経済的効率性の点で巨大会社よりも勝れていると確信し、政府が社会的利益のために、産業 ︵16﹀ 社会を支配している大企業を閉め出すべきことを主張した。従って、彼にとってトラストは社会的、政治的な脅 威以上のものであり、効率性および進歩性という経済的基準に照らしてみても正当化しえないものと考えられた ︵17V のである。かくして、ブランダイスは﹁のろわれた大企業︵跨Φ2おΦ9玄題8ω︶﹂の強敵であったが、小規模 なディーラーから成る事業者団体のメンバー間での競争制限的な価格協定を許すべき立法の制定を要求するなど、 ︵18︶ 小規模企業にとっては強い味方であったと言うことができよう。 第二は、アメリカが採用した保護貿易主義政策の影響である。植民地時代を通して農業国であったアメリカは、 初期の段階から輸入製品に対して高い関税を課すなどの保護貿易主義政策を展開してきたのである。このことは、 シャーマン法の制定と時を同じくして有名な関税法︵9①匡鼻巨く↓巽崖︾9︶の審議がなされ、連邦議会の最 ︵19︶ 大の問題として扱われていたことからも明らかである。しばしば、﹁関税はトラストの母である︵9①$ユ陳冨荘Φ 琶o夢R9霞拐琶﹂と一一一一・われるように、関税を課すことによって外国企業との競争を回避しようとする政策は、 ︵20︶ 国内における競争制限的な慣行の横行を許し、独占企業の出現に対する刺激となるばかりでなく、政府の経済活 ︵21︶ 動に対する直接的干渉を期待する傾向を醸成することは否定しえないのである。 110
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第三に、﹁トラスト﹂ないし独占に対する一般大衆の嫌悪感の大きさが問題となる。そこで、まず最初に、当時 の経済学者の独占に対する考え方について概観することとする。 シャーマン法制定時において、多くの経済学者は以下の理由でこの立法に反対したのである。すなわち、彼ら はビジネスが結合形態をとることは経済的な必然性を有することであると考えており、ビジネスが﹁規模の経済 性﹂を追求してコストの逓減を希求することは至極当然の成り行きであると見ていた。従って、ビジネスの自然 の目的が究極的に独占に向かっていることは否定しえないものであり、いかなる立法によっても、この自然の動 きを阻止して競争させようとすることは不可能であるばかりでなく、無駄な努力でしかないと考えられたのであ ︵22︶ る。その上、巨大なトラストを小規模な企業に分解することを推進する政策は、現代のビジネスから﹁規模の経 ︵23︶ 済性﹂の利益を奪い取るという愚行を犯すことになると考えられたのであった。 次に、一般大衆のトラスト問題に対する心情的傾向について言及する。レトビン︵薫葭四日一。い簿惹昌︶は、﹁実 際に、大衆の感情は、ある人が信じた程には激しくなかったが、多くの人が気がついたよりは深く根づいており、 連邦議会に対して何かを為すべきことを説得するのに十分であった⋮⋮﹂として、シャーマン法の制定直前にあ ︵24︶ って、一般大衆がトラストを嫌っていたことに疑いを抱く者は一人としていなかったことを指摘している。 一九世紀の七〇年代から八O年代にかけて、巨大なトラストが国民の経済生活にもたらす弊害を告発する書物 が多く公刊されたが、その代表的なものがヘンリi・ジョージ︵国窪蔓08葭①︶の﹃進歩と貧困︵冥○讐8ωきα ︵25︶ 宕<R蔓︶﹄であった。彼は鉄道や通信などの分野に見られる産業上の独占に注目し、富や資源が少数の個人の手 111コぞン・ワー〆ご右〆ノ6麟汐,蟹、御御 中に偏在するような社会制度や経済体制を告発することに全精力を集中したのである。彼の活動が持つ意義とし ては、アメリカ社会において伝統的に受け継がれている広義の﹁反独占主義︵窪亭目980房ヨ︶﹂を人々の心の ︹26︶ 中に復活させることに貢献したことが挙げられよう。更に、新聞・雑誌などのジャーナリズムが、一般大衆に対 して反独占感情を煽ることに一役買ったことも事実である。例えば、﹁ニューヨーク・タイムズ︵跨ΦZΦ名國o詩 目Boω︶﹂は一八八八年二月に、このトラスト問題に関する論文および社説を掲載しなかったのは一日のみであっ たし、中西部で最も購読者数の多い﹁シカゴ・トリブユン︵浮①O匡8碧円ユど器︶﹂を始め、三一紙がトラスト ︵27V 問題に関心を抱き続けたと言われている。以上のように、この当時の一般大衆の反トラスト感情は、独占を個人 の機会均等を妨げる不当な権力行使として反対する、アメリカ建国以来の伝統的な政治的信条の延長線上にある ︵28︶ ものであり、時宜的にトラストが独占の新しい形態として集中的な批判を浴びることになったことを物語ってい ると言うことができよう。 第四に、紛争解決手段として専ら訴訟に訴える傾向が確立した点が挙げられよう。前述したように、アメリカ では大企業と小企業の対立構図が鮮明に描かれており、それぞれの組織が自己防衛のためのトラスト対策に専心 したのである。その結果として、法律家がそれぞれの側の利益を代弁する役割を果たすべく理論的武装を試みた が、これらの理論的闘争の格好にして適切な場として選ばれたのが裁判所であった。かくして、アメリカ人にと って訴訟は自らの権利を自己の手で擁護するための全能の手段であり、裁判所は公平無私の立場から対立する主 張に対して厳正な判断を下しうる唯一の機関であると認識されるに至ったのである。 112
東洋滋学
㈹ シャーマン法制定の意義 ①シャーマン法制定の要因 アメリカの反トラスト法制定に対する要求は、まず州レベルにおいて、しかも中西部および南部諸州の農民組 織の先導の下で開始され、その攻撃の主な対象は鉄道トラストであった。この歴史的事実は、鉄道のような巨大 なトラストの出現による最大の被害者が農民であったことを物語っていると言えよう。すなわち、農産物は主と して都会における多数の消費者を対象として生産されており、長距離輸送と倉庫での貯蔵を不可欠の条件とする ものである。しかるに、大資本の支配下にある鉄道会社は倉庫業者を支配下に置き、トラストの製品に対する運 ︵29︶ 賃や倉庫料は割安にするが、農産物の運賃や倉庫料を高くする差別料金を要求したのである。このようなトラス トによる取引慣行は、農民や弱小企業に対する不当な搾取以外の何物でもないとする認識が広まったのである。 農民の反トラスト運動の母体となったのは、一八六七年に農民の社交クラブとして出発し、後に﹁グレンジ ︵30︶ ︵噸碧鴨︶﹂として知られるようになった﹁農業後援者︵9の勺魯8房9=拐9巳蔓︶﹂であった。この団体は、 巨大なトラストの横暴から我が身を守るためには立法による規制が不可欠であることを痛感し、州政府に働きか けるための政治活動を展開したのである。その結果として、鉄道および倉庫業による法外な料金請求や差別料金 設定を禁止し、これらの最高限度を決定するための委員会の設置を定めた﹁グレンジャー法﹂を制定することに ︵31︶ 成功した。かくして、中西部の一三州を中心に﹁州反トラスト法﹂が制定されたが、①各州の予算およびスタッ 113コモン・ロー〆ご方〆ノる反独酋,蟹ノ褐幻 フの不足、②州の訴追権の不確定、③州の管轄権に対する制限などの要因が作用したために、実際に十分な機能 ︵3 2︶ を果たすことはなかったのである。更に、連邦最高裁判所は一八八六年の判決において、二州以上にまたがる鉄 道およびその接続路線が州際通商︵冒8お雷冨8ヨヨR8︶に属し、連邦政府の管轄に属するものであって、州政 府には州法をもってしても運賃を規制する権限がないことを宣言し、グレンジャー法の違憲性を明らかにしたの ︵33︶ である。この判決を契機として、鉄道のような州際通商に属するものの規制には連邦法の制定が不可欠であるこ ︵3 4︶ とが認識されたのである。 一九世紀後半のアメリカにおいて、この鉄道の規制をめぐる問題ほどに華々しく論争の的とされたものは他に なかった。その理由としては、第一に鉄道は効率的な競争に適しない﹁自然独占︵昌象自巴目9805﹂に属する 産業として最も重要なものと考えられたこと、第二に一八八○年代におけるアメリカの全資産中に占める鉄道の ︵35︶ 資産は一〇パーセントに及び、最大の産業であったことが挙げられよう。かくして、この鉄道に対する規制の問 ︵36︶ 題点は、①鉄道を規制すべきか否か、②規制する場合に、州政府と連邦政府のどちらが適しているかであった。 そこで、鉄道に対する連邦政府による規制の必要性を訴えたのは、南部および西部の諸州の農民団体に加えて、 ︵37︶ 職種、人種および民族系統の相違を超えたすべての労働者団体と鉄道の荷主である商業関係者であった。 連邦議会は、一八八七年に﹁州際通商法︵跨2旨Rω鼠800日目R。①︾9﹂を制定し、①すべての料金が正当 で合理的であること、②地域間および輸送品の種類間における差別料金の禁止、③長距離輸送よりも短距離輸送 に対して高い料金を請求することの禁止、④プールの禁止、⑤料金表を公表することを規定した。更に本法を運 114
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用するための﹁州際通商委員会︵跨巴再Rω鼠$Oo目ヨRooOOヨ鼠ω巴9︶﹂を設置し、本法違反もしくは委員会 ︵38︶ 決定違反に対しては連邦裁判所に提訴すべきことを委員会に義務づけた。本法は二大政党の支持を取りつけたば ︵39︶ かりでなく、業界や農民団体からも支持されたが、その真の目的が何であり、真の受益者が誰であったかに関し ては意見の対立が見られる。当時の連邦議会の最大の関心事は鉄道の高い料金請求に対してではなく、料金をめ ぐる競争や州の過剰な規制の結果として、全国的な鉄道システムが崩壊することへの懸念であったと言われてい ︵40︶ る。もし、このことが真実であるなら、本法の制定を最も強く希望したのは、﹁激烈な競争︵8#ぼo簿8ヨ冨亭 ︵41︶ 賦9︶﹂から我が身を守ることを腐心した鉄道会社自身であったとする指摘も、あながち突飛な考えとは言えない であろう。ともかく、本法の制定によって、鉄道のような州際間通商の要となる企業活動に対する連邦政府によ ︵42︶ る直接的規制が可能であることを初めて宣言したのであり、その歴史的意義は大きいと言わなければならない。 以上のように、連邦議会はトラスト問題の中核とも言うべき鉄道トラストに対する立法的規制の目的を達成し えたが、その他の巨大なトラストに対する規制要求に直面することになったのである。連邦政府が一般的なトラ スト問題を最初に取り上げたのはクリーブランド︵ω’O・Ω雲①一m巳︶大統領下での一八八七年一一月のことであ った。クリーブランドは教書において、国内の製造業者が保護関税の最高限度額まで価格を吊り上げる協定を結 んでいる実態、トラストが企業の経済力の濫用の結果として生じることを指摘したにとどまり、立法的規制の必 ︵43︶ 要性については言及しなかった。当時、連邦議会の審議の最重要項目は保護関税法の制定であり、﹁関税反対派 ︵き亭$課駿98ω︶﹂の民主党︵9ΦUo営oR呂o勺費蔓︶は保護関税が国内のトラストの形成を刺激し、非競争 115コモン・ワーだ右ノノ多戎%∠ンノ蟹、嶽i御 的環境を生み出す原因となるとして反対した。これに対して、﹁関税賛成派︵冥oみ巽段888︶﹂の共和党︵夢Φ 園85一8き勺巽蔓︶は関税の付課によって国内産業および労働者に大きな利益をもたらすことを強調し、この立 法の制定に賛成したのである。しかし、一八八八年の大統領選挙に向けて、各政党は関税問題以外の争点として トラスト問題を政策綱領に入れ、農民団体や労働者団体の支持を勝ち取ることを狙ったのである。従って、大企 業擁護政党であり、保護関税支持政党と看倣されていた共和党も反トラスト政策を綱領に掲げ、選挙戦を推進し たのである。かくして、一八八八年当時、アメリカのすべての人々が反トラスト法の制定を希求していたことは ︵44︶ 否定しえないであろう。一八八八年の大統領選挙では共和党のハリソン︵O。中頃巽ユω8︶が第二三代の大統領 に選出され、公約した反トラスト法の制定に努力することを約束したのである。 共和党の大統領指名候補者であり、上院財政委員会委員長や国務長官を歴任した大物議員であったシャーマン ︵45︶ 上院議員︵ω窪簿9冒ぎωげRヨ讐︶が、その動機に関する限り極めて個人的なものであったとはいえ、最初の 反トラスト法案を上院財政委員会に提案したのは一八八八年八月一四日であった。この法案は審議未了のまま廃 案となったが、シャーマンは一八八九年一二月に開会した第五一議会において、前回の法案を修正して再度提出 ︵46︶ した。この法案のタイトルは﹁取引および生産を制限するトラストおよび結合を違法とする法﹂であったが、シ ャーマンは法案の趣旨説明において、①コモン・ローにおいて古くから知られている法理を採用しており、何ら の新しい考え方を取り入れるものではなく、②連邦裁判所に、合衆国の利益を害する結合を規制する権限を与え、 ③競争を制限し、市場を支配し、自己の利益を最大にしようとする結合は消費者に重大な損害を与えるものとし 116
捷離芸学
︵47︶ て規制すべきこと、を強調した。 ︵48︶ この法案の審議状況については、筆者は既に別稿において概説したので、ここでは主要な反対意見のみを紹介 するにとどめる。まず、ジョージ上院議員︵ω9簿908お①︶は、①この法案が州際通商を規制することにとど まらず、州内で生産された商品をも規制する点で違憲であること、②競争を制限するための契約や協定を規制し ているが、このような計画を遂行するための明白な行為を禁止していない点で非効率的であること、③違反行為 ︵49︶ の証明が困難であり、私訴が不可能に近いことを指摘して反対の意思を表明した。次にテーラー上院議員︵ω9甲 け9↓色R︶は、トラストが存在しえない国などはありえず、しかもトラストが常に弊害をもたらすものであると ︵50︶ 考えるのは誤りであることを指摘して、トラスト擁護論を展開したのである。更にプラット上院議員︵ω窪碧9 =簿け︶は、①すべての競争が有益であり、価格を吊り上げるすべての協定が有害であるとするのは誤った仮説で あること、②無制限な競争は弱い競争者を排除すること、③すべての人は結合することによって公正な利益を得 ︵駐︶ る権利があること、を主張して本法案を批判したのである。 本法案の審議の最終段階は一八九〇年三月二五日の上院全体委貝会においてであり、レーガン上院議員︵留冨− 什9勾①謎碧︶が提出した法案をシャーマン法案に追加することが決定された。この八か条から成る法案は同年四 ︵5 2︶ 月八日の上院全体委員会で賛成五二、反対一の多数決によって承認された。下院では同年五月一日に賛成一五 二、反対七二、棄権一〇三で承認された。その後、二回の両院協議会が開かれ、上院代表のエドモンズ ︵国αヨ§房︶、ホアー︵国○震︶、ヴェスト︵く①ωけ︶の三議員による大幅な修正が施され、一八九〇年六月二〇日に 117コモン・ロー〆ごお}ノノ6反独6ノ望、灌i御 下院に戻され、賛成二四二、反対○で下院を通過した。同年六月二三日に下院議長が、翌二四日には副大統領が 署名し、七月二日にハリソン大統領が署名して﹁違法な制限および独占から取引および通商を保護する法律﹂が ︵53︶ 制定されたのである。 ここで制定された反トラスト法は僅か八か条から成る小さな法律であるが、カルテル、ボイコットなどの取引 制限行為および独占行為を禁止する基本的な立法である。第一条は共同行為︵す鱒餌鼠目︶を対象としており、 州際間または外国との取引または通商を制限するすべての契約、トラストその他の形態による結合または共謀を 違法としている。第二条は主として個人の行為を対象としており、州際もしくは外国との通商のいかなる部分に 対してであれ、独占し、独占を試みることを違法としている。第三条は本法の管轄権についての規定であり、第 四条は地方裁判所に本法の管轄権を与え、連邦法務長官に対して、本法に違反する行為を訴追することを義務づ けている。第五条は第四条の下での訴訟手続に関するものであり、第六条は罰金もしくは禁鋼に加えて財産没収 ︵8跨色9お︶の罰則があることを規定している。第七条は本法に違反した行為によって﹁営業もしくは財産 ︵どω営8ωe冥8R蔓︶﹂に損害を被った者は被った損害の三倍額︵けぼ①餓○匡浮①号ヨ禮8︶の損害賠償を請 求しえることを規定している。そして第八条は、本法で使用されている.冨お窪、もしくはづR8房、の用語が会社 ︵8∈e魯δお︶および団体︵器ωo息簿δ霧︶を含むことを規定している。 ②シャーマン法の起草者︵窪甚雲︶ 以上のような経過を経て制定された反トラスト法は、審議の段階を踏む毎に修正され、最終的に制定された条 118
莫洋滋学
文は当初のシャーマン法案とは全く異なるものとなったことは否定しえない。そこで、この法律の真の起草者 ︵餌旨げ9︶は誰なのか、また何故にシャーマン上院議員の名が冠せられることになったのかという新たな疑問が 生じることになるのである。この点について、本法の制定史を公刊したウォルカー︵︾一げ①旨甲≦巴屏R︶は次の ように指摘している。 ﹁このシャーマン法案はついに法律になることはなったが、シャーマン上院議員はその法案を起草して提出 した後は、上院で通過するのを強力に主張し、一八九〇年の夏に両院を通過するように運動を展開した。⋮⋮ その間に、マサチューセッツ州選出のホアー上院議員がシャーマンの誠意ある承認を得て一層入念で包括的な ︵54︶ 法案と取り替え、これが大統領によって署名された。﹂ ︵55︶ すなわち、ウォルカーは本法の真の起草者としてホアi上院議員の名を挙げているのである。これに対して、 ソレリー︵=碧ω甲↓ぎお田︶は、この起草者に関する問題が反トラスト政策の研究にとって重要性を持たない ことを認識しつつも、一節を設けて真実の追求を試みている。彼によると、シャーマン法の真の起草者がホアi ︵56︶ 上院議員であるとする神話が生まれたのは、ホアー上院議員の自伝が出版された時であったとする。すなわち、 一九〇三年に出版された自伝においてホアーは、①シャーマン法案が上院司法委員会で全く支持されなかったの で、彼が改正案を提出し、これが最終的に支持されたこと、②それでも、最終的にシャーマンの名が冠せられた 理由として考えられることと言えば、シャーマンが本法に全く関係していなかったことぐらいであること、③本 法はシャ:マンの精力的な反対を乗り越えて制定されたので﹁反シャーマン・トラスト法︵き亭ωげ段目碧けεωけ 119コモン・ワー〆こおソナ6反独古、8姥得圃 ︵57V 一曽≦︶﹂と呼ぶべきこと、を認めたのである。 ソレリーは、このホアーの自伝における表現が自伝に固有の誇張を含んでいることを指摘し、更に当時、上院 司法委員会の委員長であったエドモンズ上院議員の書簡が新聞に掲載されたことによって、ホアーを起草者とす る神話が崩壊したことを強調している。そして結論として、エドモンズが一、二、三、五、六条を起草し、第一 条の七文字︵.、ぎ跨亀9ヨ○津ε馨自9げ段葱器。。︶をエバーツが、第四条はジョージが、第八条をインガルスが ︵58︶ 起草し、ホアーが起草したのは第七条のみであったとする。しかし、ソレリーは、この法律の条文の実際の起草 は前述したように司法委員会のメンバーによる共同作業であったが、その発案者︵○ユ短墨け9︶がシャーマン上院 議員であったことを否定する者はいないことから、この法律にシャーマンの名を冠することに同意することを明 ︵59︶ らかにしている。
③シャーマン法の評価
以上のような経緯を経て制定されたシャーマン法に対する評価を試みることは至難の技であるが、少なくとも 以下のような対立した見方がある。 まず一方の立場は、この法律を政治的妥協の産物以外の何者でもないとして過小評価するものである。レトビ ンは、当時の批判者の立場について以下のように述べている。 ﹁一八九〇年にシャーマン法が制定された時、ある者は、これでトラストはなくなると考えた。しかし、本 法を法令集に入れるだけではトラストもしくは独占的行為として非難されるものを追い払うことができないこ 120萸洋滋学
とに気づくと、批判者らはスケープゴートを探し始めた。その共通する不満は、連邦議会が何らかの目的を達 成するには、あまりにも弱すぎる、まずい表現の﹃まやかしの法︵旨o畠訂名︶﹄を故意に制定したことであっ ︵60︶ た:::﹂ この批判論に共通する根拠としては、①大企業擁護政党である共和党の大物議員の発案により、しかも共和党 の大統領の指揮下で制定されたこと、②当時の連邦議会では関税法案の審議に主力が注がれ、反トラスト法案は 関税法案を通過させるための代償的性格が強かったこと、③従って、議会での実質的審議期間が短いこと、④ト ラスト問題に関する実態調査も実施されず、公聴会さえ開かれていないこと、⑤議会における争点がトラストと 憲法および関税との関係にのみ傾斜していたこと、⑥表決に加わらない議員が多いこと、などが挙げられてい ︵61︶ ︵6 2︶ る。更に多くの歴史家の眼にも﹁反トラストは、初めから終りまでジェスチャーに過ぎなかった﹂と映ったので ある。従って、当時のビジネス界でも、シャーマン法を全く無害なものと見ていたばかりでなく、むしろ彼らの ︵63︶ 不安を取り除く手段として歓迎していたと言われているのである。その上、多くの経済学者が、この法律の効果 に対して理論的に批判的であったことも広く知られている。すなわち、彼らは企業結合が経済的に見て必然的な ものであり、この反トラスト法が機能的に失敗するか、企業の効率性を妨げることによって社会的損失を生むこ ︵6 4︶ とを予想したのである。 他方で、この立法は、その制定に参加した議員らが理想としていた経済的機会の均等、財産の保障、交換の自 ︵65︶ 由、政治的自由などを実現するものとして高く評価する立場がある。そして、この立場に共通する根拠として 121コモン・ワー〆ご右げ6反独r古ノ蟹、潔御 ︵66︶ は、①シャーマン上院議員は、経済的権利および政治的自由に対する本質的な保護を主張し続けたこと、②レー ガンやインガルスなどの南部出身の議員が農民や労働者による反トラスト運動を支持して精力的な立法活動を展 開したこと、③上院司法委員会の主要メンバーは有能な法律家で構成されており、﹁議員の多数が何らかの反トラ ︵6 7︶ スト立法の必要性を感じて﹂、真剣に反トラスト法の制定に努力したことが挙げられている。 この二つの対立する立場を正しく見分けることは困難である。しかし、筆者としては、この法律が、その出発 点はともかくとしても、一世紀を超えて資本主義経済体制の基本的ルールとして今もなお君臨し、世界の主要国 の独占禁止法のモデルとなっている事実を見るにつけ、たとえ多くの欠陥が内包されているとしても、その存在 意義は少しも失われることはないことを確信しているのである。 122 ㈲ シャーマン法の基礎概念
①競 争
シャーマン法の制定以来、今日まで絶えることなく継続している論争の最大の争点は、この法律が伝統的なコ モン・ローの法理を単純に法典化したものなのか、それとも何か新しい法理を付加したものなのかという点であ る。小稿は、これまでに、この争点を前提にしてコモン・ローの展開を分析することを試みてきたが、以下にお いてはシャーマン法の制定によって、従来のコモン・ロー上の基礎概念がどのように理解されるに至ったかを概 観することとする。莫離滋学
まず第一に、反トラスト法の中心的概念とも言うべき﹁競争︵8目需簿一9︶﹂に対する認識の変化について分 析する。一九世紀前半までのアメリカでは、古典的な政治経済学者と法律家は同様の問題に関係し、同様の価値 基準に基づいて物事の判断をしたのであり、彼らに共通する価値基準は個人主義、契約の自由そして強制的な富 ︵68︶ の移転に対する嫌悪であった。これらの古典主義者にとって、﹁競争﹂は資源の配分に向けられた個人の自己決定 の役割に関する信念を意味したのである。すなわち、多くの者を犠牲にして、特定の個人もしくは団体に特権を 与える州の権限の限界に関する理論であった。従って、競争はすべての個人もしくは団体に対して等しい機会を ︵69︶ 与えることを機能とすることであったのである。 しかし、一八七〇年代に入ると新古典主義経済学が誕生した。そこで著名な経済学者であるマーシャル︵≧ヰ8 竃巽ω冨εが﹁政治経済﹂という名称を﹁経済学﹂に変更すべきことを提唱したことにより、﹁経済学﹂は﹁政治 学﹂から分離されたのである。しかし、この経済学者と法律家は依然として共同歩調をとり、﹁競争﹂の理論を展 ︵70︶ 開し、競争を社会的に﹁良いもの︵碧&跨一轟︶﹂として擁護すべきことを提唱したのである。まず彼らにとって ﹁競争﹂は、﹁自由と自由な選択﹂についての理論であった。すなわち、競争は市場におけるすべての商品の売り 手間および買い手間、更に売り手と買い手間の自己の利益を最大にするための手段ないし操作として定義づけら れた。従って、反競争的行為は個人の自由に対する制限として理解されることになるのである。その後、この競 ︵7 1︶ 争の概念は限界効用理論、価格・費用分析、完全競争理論などを付加することによって拡張されたのである。 123コモン・ワーに方ける反独古、蟹、鵜御 ② 強 制 経済学と法学の双方の分野に新古典主義が登場したことにより、﹁強制︵8R99︶﹂の概念にも大きな変化が見 られた。古典主義は、強制を契約上のものと見る傾向があり、拘束条件や共同の取引拒絶が欠けている場合には 強制がないと考えたのである。従って、特定の商品に対して高い価格を請求されただけなら、他の安い商品を購 ︵72︶ 入しえるので強制されたことを意味しないとされる。しかし、新古典主義者は選択の自由と制限との関係をもっ と微妙なものと理解し、特に市場自体が強制力を持ちうると考えたのである。この新旧二つの主義の考え方の違 いを示す判例を紹介することとする。 ︵73︶ 第一の古典主義的な例としては、ミネソタ州におけるボイコットのケースがある。ある団体が特定の卸売業者 との取引を拒絶することを決定した事件において、ミネソタ最高裁は、被告らが団体のメンバーに対して原告で ある卸売業者との取引を拒絶すべきであるとする警告書を送っていない事実を確認し、団体のメンバーと原告の 双方に対する詐欺、強制あるいは脅迫︵冒江邑量賦9︶は見られないと判示した。裁判所の判断の根拠は、原告が ︵74︶ 被告の条件に服するか、それとも拒絶するかについての選択権を有することに求められた。この判決の立場は、 ︵75︶ 基本的にはイギリスにおけるコモン・ロー原則を確立したモガル蒸気船会社事件判決を踏襲するものである。第 ︵76︶ 二の新古典主義的判例は、連邦最高裁判決であり、小売業をも営んでいる卸売業者のリストを回覧した被告らの 行為に対して次のように判示した。 ﹁⋮⋮この回覧は、リストに載せられた業者が小売業者と競争するのを妨げることによって通商の自由に対 124
葵洋滋学
して直接的に制限を加える傾向にある。−⋮⊥人によって為された場合には無害な行為も、多くの者が共同で 為す場合には大衆にとって有害なものとなりうる。何故なら、その結果が一般大衆もしくは共同行為が向けら ︵77︶ れた個人に対して有害となるなら、禁止されるか罰せられるような共謀の形態を形成するからである。﹂ かくして、新古典主義によって導入された﹁市場強制︵目巽ぎ90R99︶﹂概念によれば、競争的な市場が提 供するものと期待しえる機会を剥奪することは、個人の行為の自由に対する強制を構成するものとされるのであ る。この結果として、価格協定のような自発的な協定も強制の範疇に含められることになり、カルテルや独占価 格の故に高い価格の支払いを余儀なくされた顧客および消費者は、法的に﹁強制された﹂と看倣されることにな ︵78︶ るのである。 ③取引制限的契約・結合 以上に述べた﹁競争﹂および﹁強制﹂概念の変化は、当然のこととして、﹁取引制限的契約・結合﹂の法理に対 しても変更を余儀なくした。シャーマン法の制定以前のコモン・ローにおいては、取引制限的契約に対する違法 性の根拠として契約当事者の活動の自由に対する強制もしくは排除の有無が問題とされた。従って、価格協定や 合併のような契約当事者の自発的な合意によって相互の競争を排除する行為が違法とされることはなく、反抗者 ︵79︶ を強制的に協力させるような共同の取引拒絶などが非難の対象とされたに過ぎない。 しかし、シャーマン法は、このようなコモン・ローの考え方を無視して、包括的な規定を設けた。すなわち、 シャーマン法第一条は﹁州際間または外国との取引または通商を制限するすべての契約、トラストその他の形態 125コモン・ロー〆ご方〆ナ6反独酋ノ齪ノ溜御 による結合または共謀﹂を違法としている。この一条の規定の解釈をめぐっては、裁判所間においてコモン・ロ ーに従って解釈すべきであることについて意見の対立は見られなかったが、このコモン・ローの先例に関する理 解の仕方についての意見の対立状態が続いた。そして、この原因としては、①アメリカの判例の中に潜在する矛 盾的傾向、②アメリカの判例がイギリスのコモン・ロー原理から分離する傾向が顕著に見られたことが指摘され ︵80︶ ︵81︶ ている。ともかく、この第一条が取引制限的契約と結合の双方を対象としていると解するのが一般的である。 この第一条の適用範囲とコモン・ローの法理との乖離状況を指摘して多数説に対して一矢を報いたのがホーム ズ判事︵甘ω膏Φ9ぼR≦Φ且亀=o一ヨ8︶であった。彼は、﹁アメリカの歴史上、最も著名で尊敬に値するアメ ︵8 2︶ リカ人﹂、﹁英語圏における最も偉大な判事﹂などの評価を受け、﹁アメリカの歴史上、法思想に関する最も偉大な ︵83︶ 著作﹂と絶賛されている﹃コモン・ロー︵9ΦOoヨ目9U餌名︶﹄の著者である。彼は﹁社会進化論﹂の信奉者で ︵84︶ あヶたが、アメリカの反トラスト政策に批判的であり、特にシャーマン法に対して﹁経済的な無知と無能力に基 。.●● ︵85︶ づいたまやかし︵どヨげ轟︶﹂との酷評を下したことは特に有名である。彼は、ノーザン・セキュリティーズ事 ︵86︶ 件において、次のような反対意見を述べた。 ﹁下級裁判所は、競争を維持することが、あたかも本法の明示的な目的であるかのように主張した。本法は 競争について何も規定していない。⋮⋮取引制限的契約はコモン・ローによって扱われ、定義づけられた。こ れらは、契約当事者のビジネスに対する第三者と契約を締結し、契約当事者がそのビジネスを営む自由を全部 もしくは部分的に制限するものである。コモン・ローがこれらに異議を唱えるのは、主として契約当事者自身 126
萸洋滋学
の利益のためであった。もし、その契約がイギリス全体に及ぶのでないなら、独占の問題は生じない。⋮⋮他 方で、取引制限的結合もしくは共謀は協定の第三者をビジネスから閉め出すための結合である。これらに異議 を唱えるのは、それが契約を締結した当事者であり結合もしくは会社のメンバーに対する効果の故ではなく、 その会社の第三者に対する効果もしくは一般大衆に与えると予想される効果の故である。換言すれば、これら は我が国の取引もしくは通商のある部分を独占したか、独占を試みたが故に公序に反すると看倣されたのであ ︵87︶ った。﹂ ホームズ判事の意見は、コモン・ローの伝統的な法理を正確に把握していると言うことができよう。前述した ように、コモン・ローにおいてはカルテルや合併のように当事者間の純粋に自発的な協定は問題にされなかった のである。彼は、シャーマン法の起草者がコモン・ローの法理を成文化すること以上のことは意図していなかっ ︵88︶ たと考えたのである。従って、彼はノーザン・セキュリティーズ事件の結合を﹁他の者を市場から排除する目的 ︵89︶ で形成されたのではない﹂と判断したので、この結合に対してシャーマン法を適用すべきでないことを主張した ︵9 0︶ のである.しかし、ホームズの立場は少数派であり、多数意見はシャーマン法が、本件の結合のように協定のす べての当事者に利益をもたらし、そのメンバーの誰に対しても損害を与えないものについても、取引制限的契約 ︵91︶ として本法の適用範囲に含まれるべきことを主張したのである。多数意見が指摘するように、コモン・ローの取 引制限的契約・結合はシャーマン法と言う大きな網によって囲い込まれてしまったと言うことができよう。 127ワー〆ご」ぢ〆ノ6雌酋、蟹溜陶 コモン
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15 14 13 12 ︵註︶ ↓・昌牢Φ畜さ幻①ひQ三&轟ω蒔ω琶器ωω>注け歪ωけ冒98け田富ヨ四区︾旨9β一。 。。 。。−一。 。。。﹂。。ド唇自−旨 いΦω一一①頃鋤目鋤戸≦ω邑Φ鋤&冒≦ω一び一Φ国きαωヨ98け卑冨言”≧時aU●9睾色Φこけ俸頃巽ヨきU$日ωΦα‘ 客き謎9巴田R貧o露①ω口O。 。P薯●①。 。ふ“ 即ψ>けぐ餌F↓げΦ困ωOm昌α勾巴一9悶お①α○ヨ○賄OO艮轟O“一SPOPおO O−偶OO ︼≦●い↓目Φ画一〇〇〇ぎO℃。含け4や一① フリーヤーによると、一八八六年の﹁貿易不振に関する王立委員会︵浮Φ殉2巴OoBB一ω巴90旨UΦ實Φωω一目ぎ ↓轟8︶﹂の報告書は、自由貿易と政府の不干渉に対する要請は、家族的ビジネスの構成員の考え方に一致すること を報じているとする。日○身即2980FP一“ ℃。ψ︾け蔓㊤ダOP9けこや①一① ↓Oづく閃おくΦぴOPgfPま ℃。ω。︾け帯蝉FO℃9け4マO嵩 Hび一阜 日o昌冤閃おKR”OPo一け‘P一〇 ↓。昌写①<Φび日冨ω冨§き>旨凶霞仁曾>。計O。ヨ冨轟け一︿①野ωぼ①ωωωq仁g仁吋ρ四民浮①寄一Φ。胤園$ω・昌” >目a8鋤&98二W旨鉱p一。 。。 。。−一旨P刈と・暴一。菊①<・る漣︵一㊤。 。㊤︶ 一び置‘つ8① O一Φ5昌闇o昌ΦぴΦα4国昌o鴫90℃Φ島90眺>ヨR8蝉昌国8昌○ヨ8=凶ω8曙博<○一。Hン一〇〇〇P℃お刈 ↓Oづく國お<ΦおOPqf一8N︾P置 ウィリアムH・レーンタィスト著・根本猛訳﹃アメリカ合衆国最高裁 過去と現在i﹄︵心交社、平成四︶二 四三頁。 128戻洋滋学
︵16︶ 22 21 20 19 18 17 ) ) ) ) ) )252423
) ) ) 31 30 29 28 27 26 ︵3 2︶ Z。けρ霞目・甘ω叶一8一W蚕且Φ一ωる・目需け筐g彗αωヨ毘器ωω一︾9一。田日餌即Φ−国釜巨器ρ。①鴫巴Φい一・︵一。㎝①︶︶ 唱℃緬一−刈N Hぴ凶α4℃.設 ↓o身津290P簿●も。ま =口昌ωω。↓﹃o同Φ一FO唱●9け4℃●圏O Hび置4マ認 ↓oづ蜜閃お嘱ΦさOP9叶←や旨 寓①吾Φ詳=o<窪ざBワ日ぎ︾呂け旨ωけ竃○<Φ琶o旨きα浮Φ空ωΦo口且岳巳巴○茜き冒豊Op①。 。↓Φ奉ωビ●閑Φ<← 旨ω︵一〇〇 〇〇︶ 一σ置。 薫筥一蝉ヨいい9名一Poも.9f器d.O匡。一・肉Φ<4N旨︵一〇躍︶ =窪蔓08茜ρギ・鴨8ωきα℃○<Rな︵一。 。。 。。︶訳本として、ヘンリー・ジョージ著・山嵜義三郎訳﹃進歩と貧困﹄ ︵日本経済社、平成三︶がある。 自卑昌ωω’↓げ○目Φ田︸OPo一叶‘マ一ωQ Q ぐ5臣四日いい9名一POPo一叶‘P謹ω Hびこ‘やN旨 閃声ロ冠ぎU。旨○昌ΦρoP9“℃。曽㎝ Hσ一α・ =窪曼勾。ω$閃R俸9巽一Φω︾O巳一〇F↓歪ω冨邑Oo壱o声試○昌即○げ一Φヨω﹂旨曾お胃一ロ叶Φ艮一8一。お︸窓。躍一 IN島 国曽冨ω。↓﹃O﹃Φ一FoPo一け‘マ嵩O 129コモン・ワー〆ご右げる鰭酋ノ望.恋i御 ハ
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ハ 45 44 43 42 41 40 39 38 37 36 ) ) ) ) ) ) ) ) ) ) ︵46︶ ︵47︶ 妻m9誓ωけ一。岳印評&一。穿ダ一田8一ω口一。 。qψ㎝ミ︵一。 。。 。。︶ =鋤霧国●日びOお一Foやo凶什‘もい9 =RぴRけ霞o<窪評鋤目ワ肉①磯q一魯o曙Ooβ豊o江口島Φ9匡巴︾ひq9哨aR巴一ωB山民跨①勾鋤凶ぽ8α勺δ巨ΦB零鴫巴Φ い﹂こ一〇嵩︵一〇〇 。○ 。︶ 一玄α4P一〇一〇 〇 牢讐窪コU﹂9Φ90P鼻’もロ曽?曽刈 =蝉器ゆ。↓げo同①一FOPo一け←P一9 Hび置。 =RσRけ=o<Φ昌貯㊤B多oPo一け4や一〇ま 冒目Φω冨o辞gωB一跨Φ鼻貫℃oま8きαω・。一①蔓ぎ︾ヨΦユ8づ匹ω8曙一・ 。。㎝8浮Φ汐ΦωΦ鼻く・一。目︶も。ミ 南部鶴彦﹃産業組織と公共政策の理論﹄︵日本経済新聞社、昭和五七︶二八ー三二頁。 =9口ω甲↓げo﹃の一FOP息fP一竃 ︸RΦ且筈ミ三署一①旨Φ爵ω帥譲埠R中Ω貰ぎ↓冨臼益ω什ギ○巨Φβ一旨Pお豊暮Φ島一g一鶏ωuマ曽N レトビンによると、シャーマン上院議員が反トラスト法案を提出した動機として、彼自身の気持を整理することに あったとする。すなわち、彼は一八八O年以降、共和党の大統領指名候補者であり、一八八八年の大統領選挙に向け て、最後までハリソンと共和党の候補者の椅子を争い、敗れたのである。この敗戦が彼をしてトラスト問題に興味を 抱かせ、何か記念すべき事を為してその名を残そうとする衝動に駆り立てたと言うのである。名≡猷B﹃び9&P OPoF器qO年い勾Φメ謹O︵一〇㎝O︶ ≧げΦ耳=。薫巴囚Φお田ω8蔓・津冨留Rヨき霊ゑ・眺跨Φd巳けaω$9ωo団︾B豊。伊一。一Pお冥葺Φ鼻凶8一。。 。。” 暑’H−ω N一〇〇旨酋国Φ9N誤刈 130庚洋滋学
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谷原修身﹁シャーマン法制定をめぐる米国連邦議会の審議概要﹂公正取引四七六号一七頁以下。 曽○Op堕即Φ9嵩Oq−嵩認 Hげ一α4N斜㌍幽藤認 H三α●︸N刈NO NOOo昌堕園①PN㌫O .、>b︾o暮○ギ089ギ巴ΦきαOO旨日R8囲巴口ωけq巳9妻眺巳評ω霞巴曇ω四民冨880一一①ω、、る一〇〇轟●勾Φp。。 。置 >一びΦほ甲薯巴ぎびOPoFO・N 同様の立場に立つ者、頃o目矯いω8巴ρ↓冨留Rヨ睾︾筥箭岳けい餌毒﹂房勺器け四Pα閏¢ε吋ρ。OO旨色いρ” 曽o 。︵一8一︶旧司声p匹5マ一餌ヨΦ90PgfOP曽oo−N一〇 〇Φo楯Φ男●=o曽び>旨oげ一〇鵬目勉Oげく○暁ωΦ<o昌蔓肖8お一〇〇ω 寓彗ω︼W。↓ぎ邑FoP鼻。も●圏。一88ω一Hρ一一ω 一九二年にマサチューセッツ州の新聞に掲載されたエドモンズの書簡では、ホアーが起草者であるとするウォ ルカーの書物に答えるものとして、上院司法委員会のすべてのメンバーが起草者であることが記されていた。缶きω ω。↓げoお一戸oつ含け﹂PN嵩 Hσこ40●曽o o ミ一一一冨Bいい卑妻一Pい餌譲曽昌α国oo昌oヨ一〇勺o一一〇くぎ︾日Φユo騨一〇㎝9お℃﹃一耳Φ象賦○昌一〇〇 〇PP一〇〇 竃・男巴冨oα帥一●Oo巳oPOO<Φヨ筥Φ旨餌昌α魯Φ︾日R一〇四昌国oO昌OBざ一謹P8≦ωΦαΦ&菖oPH濾o o”唱も。合O−“認 困o訂こ=9ω$象gゑび凶け国80窪88甚Φ︾呂け益ωけ冨o<①ヨg篤冒国.↓び○日霧ω昆一く塁Φα‘↓箒︸o一筐o巴 南oO昌o目KO眺ωげRヨ鋤昌>9一8どO臼旨 =Φ昌曙戸ωΦ四ひQR印Oげ費一〇ω>。O巳一〇FOワo一けこPωお 訟段び①昏=・<窪惹ヨ罰8。。F①。 。円Φ奉ωい勾霧‘冨N︵一。。 。。︶ 131コモン・ワーだ右〆プる反独古、蝦ノ恋i御 ︵65︶冒幕ω匡曽ざぎ葺歪ω二三冨評9呂くΦ卑mら。ま。巴”&国。9・巨。穿Φ・曼冒O・拐鼻急9四一四且ぎ二冒ωけ ぎ巴琶ρ一。 。。 。。山㊤一。 。﹄。○霞。ωけ。U。一る。 。。 。︵一。。 。。︶ ︵66︶Hぴす ︵67︶=きωω●↓げo邑一眞8。鼻、も●NN一 ︵68︶缶Φ旨R什頃○<窪ξ旨P8’。一けこ鳶一〇巧曽い勾Φ<←一。。 。。︶薯﹂8。山8一 ︵69︶Hげ一阜も’一。曽 ︵70︶Hげ一α. ︵71︶Hσ一α●も巳。謡山8。 ︵72︶一画Fも。一。ホ ︵73︶ω。目寓餌霊貯。9旨閃<,缶。一一一ρ9言目。旨。 。ふ㎝客藝一目。︵一。 。。ω︶ ︵7 4︶3客薫。讐一旨一 ︵75︶ 谷原修身﹁コモン・ローにおける反独占思想四﹂東洋法学三八巻二号一九〇頁。 ︵7 6︶国婁Φ旨ω鼻Φω冒BげR<●d嘗8ω§①ωN。 。藤d。ω●①。。︵一。一“︶ ︵77︶器“dφ讐①置 ︵78︶缶ΦきΦ旨=○<9惹ヨP8。o一け●もい一。曽 ︵79︶一〇ぎρ℃Φ薯旦・P9●も’ω。。 。 ︵80︶ゑ一一一壁B[い9註P8●o一け●も.置ω ︵81︶=Rび①誹嵩・<窪ざヨP・や。一什●も.一。ω。 ︵8 2︶空。訂巳︾.O。ω㎎。<ρ○ξ冨身甚①○・日日9鍔藝︾昌︾轟一。−︾ヨ豊8昌冨磯巴O。日ヨ琶凶9一。 。刈。−一。ω。﹂。。 。8 ℃。3 ︵83︶ω冨江o目琴Z・≦。F=08目呂一Φ冒ω蔚ρ↓冨年Φo暁○一一くΦ﹃≦Φ&①一一寓・冒Φ9一8P図く 132
91 90 89 88 87 86 85 84 ) ) ) ) ) ) ) ) ウィリアム・H・レーンタイスト著・根本猛訳、前掲書二四一頁。 一=oごβ①ω−℃o=oo屏[Φ辞Rω一8︵︼≦。=o妻ΦΦ“一〇占︶ Zo吋跨o旨ωΦoξ一賦ΦωOo。く’d菖冨αωけ魯ΦρおωqQ o。一S︵一8“︶ 一〇G Qdω・讐“Oω一“O“ 国RびΦ昌=oく①昌犀四旨安oPo一け4P一〇ωN 一〇ω¢’ψ蝉叶“Oo Q ホームズには﹁偉大な少数意見者﹂という別称がつけられていた。ウィリアム・シーグル著、前掲書三〇八頁。 頃Rび。辞勺8ρ日冨げ畠巴>ω冨9。︷竃。580ぎN。頃霞<・ぴ勇①<‘一$︵お。刈︶ ︵未完︶