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立憲主義とゲルマン思想(秋山範二先生還暦記念論文集)

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三〇八

立憲主義とゲルマン思想

 十九世紀は、屡汝立憲主義の時代といわれる。その立憲主義というのは、 一方に溢いて、国民の自由を保障するため に国家権力を立法・司法・行政の三権に分立して相互に均衡せしめ、他方において、国民の意思を政治に反映するため に国民代表議会を設けて立法権を担当せしめる政治原理であると言える。即ちそれは、国民の自由の保障と、.国民参政 乃至国民自治との二つの要請に基いて成立しており、制度に即して言えば、三権分立制の揉用と、立法機関としての国 民代表議会の設置との二者を、欠く可からざる要件とするものと言うことが出.来る。  とのような立憲主義は、 ﹁市民国家﹂に最も適当な政治原理として、十八世紀末以後の諸国のいわゆる立憲主義憲法 において、均しく実.現せられたQその際、諸国の歴史的事情の相違に基き、細部においては、種々の相違点が現われた が、その大綱においては、上述の如き点で、共通の特徴をもつていた。そして、そのような立憲主義の大綱が、イギリ スの長い政治の発展.過程の中で、言わば、自然発生的に形成されたものであることは、周知のととろである。  イギリスにおける立憲主義に関する理論として最も注目すべきは、 一六八九年にジョン・ロックの書いた﹁国政二        コ 論﹂であるが、それは、立憲主義の理論を完全に解明したものとは言えす、殊に三権分立論を正確に展開していない。 との書物は、その序文に、 ﹁⋮⋮この論文は、わが偉大なる復興者、ウィリアム現国王の王位を確立⋮⋮するに足るも

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のとしたい。しと述べているととからも知られるように、その前年の名誉革命を弁護して、その後のイギリス政治の在り 方について論述したものであるQ従ってそとでは、王権と妥協したイギリス特有の政治形態が到る処に現われているの であって、到底、普遍妥当的な﹁市民国家﹂の政治原理としての立憲主義理論というととは出来ない。ロック以後にお いても、イギリスの憲法学者で立憲主義理論を体系付けた者は見当らない。イギリスの憲法学は、抽象的な一般理論の 構成を意図せす、専らイギリス憲政史を追跡するととに全努力を傾注したのである。イギリスにおける経験主義的傾向 の一の現われというととも出来るであろう。  とのように、立憲主義を徐々に育んで来たイギリスの現実の政治の基底に、ゲルマン思想の伝統があるととを明確に 指摘したのは、モンテスキューであった。彼は﹁法の精神﹂の中で、    ﹁ゲルマン人の習俗に関するタキッスのかの見事な著書を読むならば、イギリス人がその国政の観念を得たのは、彼らゲルマン入       ②   からであることを、人は知るであろ弓。この見事な組織は森の中で見出されたのだ﹂  と述べている。本稿は、イギリスにおける立憲主義的政治の形成に対して、ゲルマン思想がどのような仕方で影響し ているかを明らかにするととを目的とするものである。  ①︸oぎい。簿ρ目≦o↓話餌翻。ωo陥O。︿霞ロ目Φロけ・︵弓箒類。蒔ωoご。旨い。鼻Φ・ぎω<oりO葺&・嵩$”<oピ陶”HOO︶﹁国政二論﹂   の邦訳として松浦嘉一訳・政治論︵昭和二三年︶がある。  ⑨ モンテスキュー﹁法の精神﹂宮沢俊義訳︵岩波文庫︶上巻二三九頁。  ゲルマンの国家乃至法に関する思想のうち、立憲主義との関係において最も注視せらるべきは、ゲルマンの国家思想 における二元主義という点である。とのととについては、イエリネックが、ギリシャおよびローマと比較しながら、極     立憲主義とゲルマン思想︵森︶       三〇九

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      三一〇 めて明快に説明している。即ち、彼によれば、ギリシャの国家の最も本質的な特徴は、それが内面的統一性をもつてい      ③ たことである。国家が内面的な統︸性をもつていたというととは、国家を構成する各個入が国家から独立した一定の自 由範囲を法的に保障されていなかったととを意味する。 ﹁かかる個人的自由を法的制度として自覚するには、個人の国 家に対する直る種の対立の意識を前提条件とするが、この意識はもとよりギリシや的思想には欠けていたし、その末期 の、個人主義がかかる対立の感情を自覚せしめ得たかも知れない時期には、既にギリシャ諸国の独立は失われていた。         ⋮⋮ギリシャ国民は、まさしく自らが支配者であったが故に、支配者に対立するととはなかった﹂のである。次に古代 ローマについて見ても、 ﹁ローマの国家は最初から一般的な内面的統一体であり、共同社会が、均しく固有の支配権を         有する多くの部分に分裂するという如きことは、決してなかった﹂のであって、 ﹁ギリシャ入と同様に、しかも同一の        理由により、ローマ入には政治的な自由範囲についての法的な意識は欠けていた﹂それ故に﹁古代の国家は如何なる内 面的な分裂をももたない完全な統一体である。﹁国家が統﹁体であるという思想は、古代のあらゆる政治の発展および政治 理論を貫いている。国家が支配するものと、支配されるものとに分裂し、両者が互に闘争し、婿和する部分︵℃帥﹃梓Φ一〇P︶       ⑦ として対立するというととは、決してなかった﹂のである。しかるに﹁ゲルマンの王権は生れ乍らにして制限された権 力であった。即ち最初から王権と国民権という二元主義があった。⋮⋮かかる二元主義は、当時の考え方としては、王         権と国民権とは均しく固有のものと認められていたというととのなかに、明らかに示されている。﹂  イエリネックによれば、ゲルマンのかかる二元主義は、中世において、封建制度が発展すると共に、益々鋭くなり、 国家内において、.領主・都市更に教会というごとき種々の独立した団体を生じ、それに伴って公権力も分裂したのであ るが、そういう分裂を克服し、若しくは少くともその効果を減殺しようとする試みとして等族国,家が成立したと考えら れる。そして彼は言う。      ,

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    ﹁等族国家は、全国民祉会に関係する重要な諸事項は国民一般の同意なくしては行わるべきではない、とい弓古代ゲルマンの制度   に基き、種々の下級の政治権力を統一し、それが一体となって王権若しくは領主権に対立するところに成立する。等族国家はゲルマ   ンの国家の二元的構成を典型的に表現する。だから、例えば、特にイタリアやビザンチン帝国に見られる如く、ローマ的思想が歴史   的に連続して強く残ったところでは、王族的組織は出来上らなかったのである。⋮:個々の国家において、封建的および地方的諸権   力を結集して国の等族叉は地方の等族を形成せしめた歴史的原因は種々であって、外政的な原因もあるが・⋮:封土保持者および都市   が君主に対して自らの自由および権利を主張し、拡大しようとしたことが、諸等族の集団を形成せしめる一因となっている。かくて       ⑨   いたるところで、等族は、国王叉は領主に対して独立的団体として対立するに至ったのである﹂  以上のような古代のギリシャ・ローマに源を発する一元的国家の思想と、古代のゲルマンに源を発する二元的国家の 思想とは、まさしく対話的である≒いえる。そして、近代国家は、統一的国家であるが故に、ギリシャ・ロrマの国家 思想を背景として、始めて思想的に確立され得たのである。即ち、近代的統一国家の原型を構想したのは、ルネサンス 期のイタリアに出たマキアヴェルリであるが、彼はローマ的統一国家の思想の伝統の上に、三族的組織をもたないイタ リアにおいて、これを構想し得たのであるQとの点について、イエリネックは言う。  ﹁中世のイタリアの都市国家は、二元的に構成された国家の世界の中にあって、ただ一つ、一元的な構成をもつていた。十四・五 世紀のイタリアの専制的都市は統一的な、唯一の強力かつ無制約の意思によって結合された共同団体の模型である。歴史的にこのよ 弓に準備された地盤の上に、イタリアにおいて、ルネサ/スと共に近代的な国家思想が生れた。マキアヴェルリが考えた国家は、古 代国家の多くの特徴を成程もつてはいるが、まぎれもなく、新しい国家であり、それは、あらゆるその構成員の上に絶対的に優越す        ⑩ る権力として自らを証明し、主張しよ弓としているのである﹂  しかし、マキアヴェルリは、その権力主義的国家論をもつて、近代的統一国家の本質をなす国家権力に接近し、とれ を解明したというにとどまり、未だ近代的国家理論を完全な形において展開したとは言えない。近代的国家理論は、ボ 立露思主義と謹ゲルマン思相心︵森︶ 三=

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三一二 ダンの主権論を倹って始めて完成されたのである。  思うに、マキアヴェルリは、等族的組織をもたなかったイタリア中世都市を背景としてその権力国家の理論を展開し たので、その理論は、等量的組織をもつヨーロッパの大部分の国々には、そのまま通用し得なかったのみならす、主権 の理論には到達し得なかったのであろう。彼は等族的組織の上位に立つ最高の権力という風に国家権力を規定するとと をしていない。彼はせいぜい、イタリア統一国家の形成に障害となっているローマ教会乃至ローマ法皇に対して、激し い念葱をたたきつけているだけである。彼は﹁隠るぴとたちはローマ教会があればとそイタリアは幸福なのだと言いく るめているのだから、ととに此の教会に刃向って心に浮ぶ数多の理由を申し述べよう。﹂と言う書き出しで    ﹁ローマ法王庁が数々の悪例を見せているため山のような禍と激しい混乱が生じて来ている。﹂﹁教会が日がな毎日この不倖せな国   に絶間のない内輪もめを起させたし、今もなお起させている。﹂﹁実を言えば一致団結とか幸福とかは、現在フランスやイスパニアが   目の前に実例を見せているよ5に、たった一つの政所か、さもなくばただひとりの君主に治められている国々だけが楽しめるものに   すぎない。イタリアがそれらの国と同じ有様でなく、王政にしろ共和政にしろ、一つの政所に治められていない原因といえば、それ   はただ教会が世俗の権力を握って之を楽しんでいながら、イタリア内の他の地方を奪いとって覇を唱えるだけの実力もなく、またそ   の勇気もないということだけなのである。﹂          ⑪  などと述べている。       ’  ヨーロッパ中世に為けるローマ教会の強大な地位を想えば、マキアヴェルリがとのように、反ローマ教会的であるの は、彼の国家論が中世という世界を一歩出ていることを示すと言うととが出来るであろう。反ローマ教会的ということ は、確かに﹁近代的﹂というととの一面であった。しかしそれだけでは、近代的国家理論は現われ得なかった。近代的 国家理論は、ローマ教会のみならす、あらゆる自主的権力を否定し、その上で更に国家権力の最高絶対性を論証すると

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とによって、始めて確立された。その意味で近代国家理論は、ボダンの主権論によって、その最初の形態をととのえた と言える。  主権の理論が、最初は、中世的な諸権力を否定する消極的な機能を営み、次で国家権力の最高性を主張する積極的な 機能を発揮するにいたったととを明確に指摘したのは、矢張リイエリネックである。彼は次のように述べているQ    ﹃ボダンによって定立された形式における主権概念は本質的に消極的な性質をもつ。 ﹁あらゆる法律の上に位する・市民および臣   民を麦配する絶対的権力﹂ほ、先ず最初ほ、国家の上に、または国家と並んで、或は国家の内において独立的な勢力として自已を主   張しょ弓とするあらゆるものの否定、即ちpーマ白重・神聖ローマ帝国および諸等族の支配権の否定である。国家が主権的権力をも   つということは、何よりも先に、国家ほあらゆる他の勢力から完全に独立であるということを意味するにすぎな、い。それは、国家が   その本質上露であるか、を言5ものではなく、何であってはならないか、を言5ものである。⋮・・しかし主権が国家権力の、従って   また国家概念の一要素に高められた瞬間に、主権に一つの積極的な内容を与えようとい弓企図が始められる。すでにボダンは主権理   論が消極的な機能から積極的な機能へ移行することを発見している。ボダンによって始めから主権理論は一つの新な闘争姿勢におか        ⑫   れていた。即ち主権理論は直ちに防禦から攻撃へ移行したのである。L          とうしてイエリネックは、 ﹁主権は、一つの抗議的な概念︵oぎBδヨ腎冨吐⇔d①鳴門︶であると言えるであろう。﹂とい う有名な命題に到達したのである。まととに、主権の概念は、中世において独立性を主張した諸勢力、即ち、国家を自 己の従僕たらしめんとしたローマ教会、国家に地方自治団体の地位しか認めようとしなかった神聖ローマ帝国、および 国家と並ぶ若しくは国家に対立する自主的勢力と自負する国内の大領主や独立都市に対する防禦的且つ攻撃的抗議概 念として成立したのである。そして、その抗議を更に詳細に検討すれば、国際的関係と国内的関係とのこ面をもつてい たととが明らかとなる。即ちローマ法皇および神聖ローマ皇帝に対する関係は、言わば国際的であり、それらに対する 抗議においては、主権概念は﹁独立性﹂を強調する。これに反し、封建領主・独立都市に対する関係は、国内的であ     立憲主義とゲルマン思想︵森︶       三=二

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      三一四 り、それらに対する抗議においては、主権概念は﹁最高性﹂を強調する。かくして主権の﹁最高絶対性﹂は、中世を脱 却して形成された近代国家の﹁国家権力にとって、必要にして充分な条件であったのである。  ボダンは主権の内容として八つの権利、即ち、立法権、宣戦布告および熟和締結権、最高官吏の任命権、最高裁判権、 忠誠従順の要求権、恩赦権、貨幣鋳造権、租税権を挙げているが、とれらの権利は彼の時代i一十六世紀宋葉のフラン       ⑭ ス国王が自らの掌中におさめていたか、またはおさめようと要求していた諸権利に外ならない。それは、疑もなく、近 代初期のいわゆる絶対君主に不可欠な諸権利である。 ﹁主権理論は絶対主義へ方向転換する。学問的な主権理論の創設       ⑮ 者は、直ちに、絶対主義国家の法的および政治的必然性の最初の弁護者である。﹂そしてとのようなボダンの理論がロ ーマ法の影響下に成立したものであるととも、注目されねばならない。 ﹁商業の復活﹂を背景にして、十二世紀頃ボロ ニや大学を中心とするイタリア各大学にローマ法の研究が盛んとなったが、その際最も重視された古代ローマ法学は、 ローマ帝政期のそれであり、 ﹁すべての政治権力は君主の掌中に集結する﹂という国元的な国家思想は深くロ⋮マ法学 者﹂の懐いた根本的理説であったQフランスへのローマ法の継受は、かかる思想をフランスに持ち込み、ボダンも亦この        ⑲ 影響下に立っていたことは、疑を容れ得ないのである。  以上のように、近代国家の理論、殊にその豊漁をなす主権理論は、ギリシャ・ローマ的な一元的国家思想およびロー マ法理論の強い影響下に成立したものであると考えられるが、それのみにとどまっていたならば、近代国家の理論は、 絶対王政の国家理論にとどまり、それから一歩も出ることは出来なかったであろう。近代国家匹理論が絶対王政を乗妙 越えて、立憲的国家へと進むことが出来たのについては、ローマ的思想とは異なったゲルマン的思想、とりわけゲルマ ンの二元主義酌国家思想が強く働らきかけていると見なければならないのである。立憲的国家についてゲルマン思想が どのような部面で働らきかけているかについて、イエリネックは次のように説いている。

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   ﹁ゲルマンの二元主義は、立憲的国家の全機構の中に、最も深刻に余波をのこしている。人は、古代国家と近代国家との主たる相   違点として代議制とい弓観念の欠除をあげる。しかし、古代国家における代議制の欠除は副次的な契機にすぎない。それよりも遙か   に重要なのは、近代国家は互に独立した二個の直接機関をもつことである。それは立憲君主国において、最も明確に現われているが   大きな代議強聴民主国においても、明瞭に認められる。直接機関のかかる二重顎は、近代国家についての法律学的理論を構成するこ   とを極めて困難ならしめていると共に、実際上は、常に広範な権限争議の可能性を伏在せしめている。この争議の解決は、両機関の   問の、その時々の力関係により決せられる。国家元首︵政府︶と議会とが併存し、協力し、また対立しているとい弓点に、国王と国        ⑰   民との聞の古い対立が、現代の統一的構造をもつ国家においても、なお残存しているのである﹂  ゲルマンの二元主義を法の側面から眺めるならば、それはゲルマンの﹁法の支配﹂の原則につらなると言える。ゲル マン法は、周知の如く、極めて古い時代から無数の格言乃至諺として、親から子へ、子から孫へ、代々語り伝えられた ものであり、法であると共に道徳であり、叉習俗でもある。艦田博士によれば、    ﹁ゲルマン法は、ゲルマン人の凡てに当然に明らかな社会規範であり、かれらの聞に自然に平和裡に発生し発達し来たり、随って   又永遠に妥当すべき道義的命令である。その形成の根抵は、対立や抗争ではなくて、平和であり、その原理は、集団の成員が相互に       ⑱   他を尊重し、信頼する名誉と誠実の思想であった。﹂  それはゲルマン入の共同社会の成立する条件として、彼等の何人もが守らねばならぬ絶対的な道義的命令である。従 つ.てそれは、被治者のみならす、治者も亦これを遵守すべきものであるQかかるゲルマン法の思想は、 ﹄三世紀のイギ リスの法律家ヘンリー・ブラクトン︵霞①昌H曳国斡0けO昌︶の﹁国王は、 いかなる入の下にもあるべぎではない。しかし、神        と法との下にあるべきである。なぜならば、法が国王を作るのであるからである。﹂という有名な言葉によつて示される ﹁法の支配﹂の原則にぽかならない。  とれをローマ法の考えかたと比較すると、両者は著しく対瞭的である。船田博士によれば、     立憲主義とゲルマン思想︵森︶       一二一五

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三一六  ﹁ローマの法及び法律思想の性格の形成に重大な意義を有することは、ローマ国がその存立の必要に基いて、最初から、或は極め て夙い時代に、軍国として編成されたことである。ローマにおいては、軍の組織が国家の組織であり、軍司令権︵ 目OΦ㎏置5P︶が即ち 統治権に露ならず、軍隊的統一が即ち国民的統一であった。・・⋮斯かる軍制的国家は、四隣との絶えざる闘争によって自己の存在を 確保する必要に迫られて形成されたものに他ならない沿随って、ローマ入の生活は、.素朴かつ質素であり、叉永年の伝統に支配され る農民の生活たると共に、形式を尊び統一的な厳格な紀律を重んずる軍隊式生活であり、而も、常に対外関係を意識し、自己の存立 を確保するために力の充実と緊張とを求める男性的生活であった。その生活を規制する法も亦、当然に、力の秩序たる性格を具備す るものとして形成され、且、形式を尊重し劃一的な原則による統制を求める秩序たる特徴を発揮した。 ⋮:公法の傾域においても、 法が力の秩序たる特徴は明らかに現れる。本来軍司令権たる命令権又は統治権億、絶対無制限であり、統一的な力であった。一入の 王がその命令権を生涯把有する王政が、王による命令権濫用の弊を生ぜしめたので、任期一年の二人の執政官︵コンスル︶が王の命 令権を行使する共和政が樹立されたと伝えられるけれども、斯かる共和政の樹立は、この本来の命令権の無制限性・統一性を制限       ⑳ し、破壊したものではない。﹂  とこに述べられたような絶対無制限な王の権力を是認する古代ローマの考え方、即ち﹁すべての政治権力は君主の掌申︷ に集結する﹂という思想が、十二世紀以後のローマ法学の復興を通じて、ボダンの主権理論の構成に強い影響を及ぼし たととは既に述べた通りであるが、それは、法との関係について言えば、既に六世紀のユスチニアヌス皇帝のコルプス ・ユーリスの中にある﹁国王の意欲するところが法である﹂という言葉によつて明確に示されていると言える。これを 前記のブラクトンの言葉と比較すれば、ローマ法に画ける﹁権力の支配﹂とゲルマン法における﹁法の支配﹂という対 踪的な相違が極めて明らかに看取されるのであるQ  次にゲルマンの二元主義に関連して注目せらるべきは、民会の制度である。ゲルマン入の生活を知る基礎資料の一つ たるタキッスのゲルマニア誌には、民会について、

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 ﹁小事には長老たちが、大事には邦民全体がこれにたずさわる。しかしその決定権が入民にあるごとき問題も、予め長老たちの手 許で精査せられるとい弓風にしてである。﹂﹁やがて王事は長老が各々、その年令の多少、身分の高下、戦功の大小、弁舌の巧拙に相 応して、いずれも命令の力よりは、説得の権威をもつて︹発言し︺傾聴せられる。もしその意見が意に適わない時、聴衆は、ざわめ きの下にこれを一蹴する。しかしもし意に適つた場合、彼らはフラメアを打ちあはす。武器をもつて称讃することは、最も名誉ある        ⑳ 賛成の仕方である。﹂  と記されている。ごれによって見れば、ゲルマンの二元主義の=翼を為す国民権は、 ﹄定の時期、すなわち新月或        @      嘲 は満月の頃を期して集会するL民会という制度を通じて行使されたととが明らかである。しかもその民会は王権に対し て、すとぶる優位に立っていたようである。即ち栗生博士の説かれるととろによれば、王は軍隊を指揮したり、民会の決 議を執行したり、国の内外に向って国を代表したりするるのであるが、王が在任中その不適任性を実証した場合、例え ば権力を濫用したとか、軍の統帥を誤ったとか、神の怒を招いたとかいう場合には、民会は廃立を断行し、時としては追 放・殺害さえも辞さなかった程であり、王の子が王となった場合にも、それが不適任であれぼ、民会は遠慮なく廃立を 行った。王の被選資格は、神の子孫と信じられている高貴の家柄の者だけに限られていたが、家柄の者に適当の入獄が ない場合には、民会は、資格に頓着なく、 一般人からも選挙した。更に民会は、単に王を選定するだけの機関にとどま らす、聖戦婿和の権・重要官吏︵王のほか将軍・郡司・祭官︶の任免権・民刑の裁判権などを有するものであった。ただし かし、王は民会の決議を常に自己の好都合な方向へ誘導してゆくととによって、これを形式的のものたらしめ、漸次、 自己を支配者として確立させて行ったのである。  以上述べた如きゲルマンの二元主義、 ﹁法の支配﹂の思想、強かな権限をもつ民会の制度などは、いすれも立憲主義 の理論にとって極めて注目すべきものである。とりわけそれらは、国民の自由の在り方について重大な関連をもつQ     立憲主義とゲルマン思想︵森︶       三一七

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       三一八 ﹁ギリシャ・ローマの古代の自由は.国権に参与するに在り、近代の自由は国権より自由なるにある﹂とする考え方はバ ンジヤマン・コンスタン、ロベルト・フォン・モール、ヒルデンブラント、ラブーレー、フユスチル・ド・クーランジ ュなどによって支持せられ、ぼぼ通説となっている。との通説を必ずしも全面的に承認しないイエリネックも、ギリ シャ・ローマの如き一元的な国家購成がとられた所では、 ﹁国家からの自由﹂が権利と観念され得なかった旨を述べる と共に、  ﹁︵ギリシャ・ローマの︶古代の国家は、自由思想を実現する形式としては民主的国家形態以外にこれを知らなかったが、それは 尤もなことである。何となれば一元的に構成された国家においては、すべての入が支配に参与することが自由の唯一の可能な形態で ・あるi支配者が同時に暴君に服従することはあり得ない。これに反し、この種の国家が君主政をとる場合、君主に対抗する何等の 道義的な均衡勢力もないために、個人を支配者の意思の下に無制約的に隷従せしめるとい5観念iこれは決して完全には実現され       ⑳ たことはないのであるが一に到達せざるを得ないのである﹂  とし、また、国王と国民との二元主義を全くもたなかった国、例えばゼザンチン帝国や帝政ロシヤの如きは、国家と 個人との間の原理的な限界を決して明白に認識し得なかったと説いている。  これに反し、ゲルマン法に良いては、最初から王権と国民権との二元主義が存し、更に、王も亦法に拘束されるので あるから、国民の側から王に対して、法によって認められた国民の自由を侵すべからざるととを要求し、若しくは抗議 するととが禺来る。それは、国家権力に対して国民の自由を保障するという、いわゆる基本的入権の思想を成立せしめ る基盤である。しかもそのような国民の意思を表明する制度として民会があったわけであるから、国民の自由は言わば 制度的にも保障されていたと言える。そこには国家に対して個入を対立させ、国家権力の濫用に対して編入の自由を確 保する制度の原型が認められる。それは﹁王の意欲するととろが法である﹂という思想の下に、王の絶対無制限な支配

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権を容認したローマ法思想と著しく異るものである。そしてイギリスは、ヨーロッパ大陸の諸国が中世において競って ローマ法を継受し、その強い影響の下にゲルマン法の伝統の多くを消滅せしめたのに比べると、地理的状況などから、 ローマ法の影響をうけるととが比較的に少く、よくゲルマン法の伝統を維持するととが出来たのである。  イギリスにおけるゲルマン的伝統の遣取も明柵唯な現れは、 既にヘンリー一世︵二〇〇 コ三五︶が即.位直後に発した        ⑳ ﹁自由の憲章﹂︵Oげ讐酋⑦﹃O隔じ陣σO吋け冨の︶に見られる。それは本質的には封建制度における国王と封建貴族との間の契約関 係を典型的に明示したものであるが、その中において、ゲルマン的二元主義が国王対封建貴族という関係において明ら かに示されている。とれは今日においても、﹁イギリス憲法の聖班田﹂と称せられる一二一五年の大憲章︵漫心碧四〇鴛冨︶の       ⑳ ・原型となったものであるQ大憲章は、国王ジョンの圧政に対して、国王より直接封地を受ける・いわゆるバロン︵bコ霞。ロ︶ とい,う封建貴族を中心とし、僧侶、更には一般入民なども後に之に加わった一団が反抗し、国王に迫って彼等の起草し た章典に署名させたものである。その中では、ジョン王の施政が伝統的な法に違反した数々の点があったととを攻撃し て、今後国王の権力行使が伝統的な法に準拠して行わるべきごとが保障されているのである。そして、とうした﹁法の 支配﹂が今日に器いてもイギリスに器ける国民の権利の保障に外ならないととは、ダイシイが明確に指摘したところで   .㊧ あるQイギリス憲法においては、十八世紀末以来の諸国の憲法が規定する如き﹁国民の権利﹂−基本的入権の宣言は 存しないQそとでは﹁人権の宣言﹂を倹つまでもなく、 ﹁法の支配﹂の原理の中で、人権が他国におけるよりも遙かに よく保障されている。それは、専らゲルマンの二元主義の伝統に基くものである。  更に、ゲルマンの二元主義の伝統は、申世において、国王に対立する血族議会︵ω鼠旦。︿魯鈴至当旨ゆ2層℃曽一献ヨΦ昌r笠鉾ωσq①i 尺寸翁。ロ×︶の制度を発生せしめたQそれは、ゲルマンの民会の中世的形態とも見られ得るもので、一般的に、国王の立法や 課税に対する同意権をもつものであり、その意昧に誇いて国王の権力を制限するものであったQ従ってとの制度は、君     立憲主義とゲルマン思想︵森︶       三一九

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      三二〇 主主権と両立しないもので、フランスなどでは、絶対王政の確立とともに、その姿を.消すに至った。しかし、ゲルマン の伝統の強いイギリスでは、それは存続し続け、王権神授説をとった絶対君主の下においてさえも、.消滅することはな かったQそして、それは十七世紀の二回に渉る市民革命を経て、漸次、近代的な国民代表議会へと発展したのである。  以上のように見てくると、イギリス立憲政における﹁自由の保障﹂も﹁国民参政﹂も、共にゲルマンの伝統的習俗 にその源を発しているといえる。それは極めて深い根をもつていると言わねばならない。  周知のように、二十世紀にいたって、いくつかの国々は立憲主義を放棄した。とりわけ一九旧七年の革命以来、ソ ヴィエト・ロシヤは立憲主義とは本質的に異る新しい政治原理の下に、社会主義国家を形成した。それに対しては、イ エリネックも指摘したように、帝政ロシヤ時代には、ビザンチン帝国と同様にゲルマンの二元主義、とりわけ﹁国家権 力﹂と﹁国民の自由﹂とを対決さぜて考える訴え方が受け入れられなかったというロシヤの歴史を想起すべきであろ うQゲルマン思想と立憲主義との結び付きを回想するとき、少くともイギリスにおいては、立憲主義は、容易に放棄さ れるとは老えられないQそれは、市民社会の矛盾の激化に伴って今後も省、いわゆる社会国家乃至福祉国家に相応しい 方向へと変容・展開を続けるであろうが、ゲルマン思想の伝統に根ざすその根元的な部分は永続すると思われるのでノ ある。 C) ・@ @@ (Y. 08お冨印首①ぎ≧戯。ヨ①ぼ。ω訂鉾ωδ貯pω●﹀ξrψ眠りP 9σ’騨O。 QD.ωON 2こ.p二●O. oD.ωHらQ.       ﹁ 勲即O. ちD・cQ目劇・ po●孚O. ω’ωH①.

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⑧9。.餌・9ω●竃P ⑨ 騨孚ρ ω・ω込。O・ ⑩騨騨ρωQσ■⊆。b。b。lG。・ ⑭ マキァヴェルリ、ローマ史論大岩誠訳︵岩波文庫︶・第一巻八○一一頁。 ⑫O●葱ぎ⑦ぎ節.帥昌O.ωψ癖㎝ω一心. ⑬ 筆写ρ ψ奪 .﹁主権﹂が抗議的概念であることは、その成立の当初より今日に至るまで一貫して変らないと言える。﹁国民主  権﹂と﹁君主主権﹂とは互に抗議し合う概念であり、従って﹁国民主権﹂が宣言されることは、まさしく﹁君主主権﹂の排撃な意味  する。またドイツ的立憲君主主義の理論の申にあらわれた﹁国家主権﹂の主張は、 ﹁国民主権﹂と﹁君主主権﹂との双方を否定する  妥協的な思想の現われである。だから﹁国家主権﹂の下では、﹁君主主権﹂を排する自由主義的な方向と、﹁国民主権﹂を排する保  守的な方向との両者が生ずる可能性があったと言える。 ⑭O匂亀嵩Φ置斜騨O¢&N堀豊彦・国家主権の絶対性三五頁、原田鋼・欧米における主権概念の歴史及再構成六二頁以下、同.  主権論1その展開とイデオロギー性一二頁以下。 .⑮Φ這h営跨聾.,。.○●ψホ切●      、 ⑯堀豊彦・上掲三四頁。 ⑰O・甘自言①ぎ鋤・お。・ρωQo●も。G。OiH噸 ⑱船田享二・法律思想史二〇三頁。    . ⑲O・莚膏Oぎω脇8旨山㊤ωρ豆①吋牙Oロ竃︷魯盛OげΦ塾図ΦO窪ρQO・も。ω・伊藤正己・法の支配一八頁・九一頁、高柳賢三・英国公法の  理論一七二t三頁。高柳教授は此処で﹁法.という言葉をあらわす理念的規範、宗教、道徳、法を包容する広範なこの規範体系は、歴  史的経験の世界では、永久に変らない慣習・法として、中世人一般によって理解された。ブラクトンの法格言は、こうした中世的法思  想を背景として、法は治者をも被治者をも均しく拘束するという原理を表現したのである。﹂ と述べられている。 ⑳  船田享二・上掲一 一六−一二〇頁O ⑳臼碧ぎρ02冨聾帥餌︾田申秀央・泉井久之助訳ゲルマニア、︵岩波文庫︶五一一二頁。 ⑳ 上掲・五一頁。 立憲主義とゲルマン思想︵森︶ 三一二

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隻三

⑧栗生武夫・デ九マン古法のスケッチ︵﹁法の変動﹂一ご四一五頁。︶ ⑳O・︸①旨6ぎ≧㎡o目Φ冒。ω富畔ω冨罵Fω.︾ら●ωω・し。鵠lO● ⑳ 帥・90・O. ψωNQQ.       , ⑳毒・ωg喜9↓冨O§ω鼻暮δロ﹄毎ω8昌。剛国昌屯き0㎝首邑・<o野司ωωρ陶器奢。嵩占U昏αq目89国璽讐魯Oo房菖ε叶剛8巴出韓。ヨ  HOけげ①α・械。昌ωoユσ矯↓・句・↓.コロ。犀昌O詳.︵H⑫心①︶剛即αΦ一刈囑 ⑳  ﹁マグナ・カルタはヘンリー一世の憲章を基礎としている﹂︵ぐく・m渥目げ謬匂OO・0澤・団﹁㎝“N・︶ ⑳ ︾●<●臣8ざ百霞。α口各。昌8葭。ω9畠。︷昏。い鋤≦o︷叶びoOo房蜂ロ郎。斜り匪①山・︵HO認︶℃・HQ。ωG美濃部達吉訳、イエリネツ  ク・人権宣言論外三篇︵昭和二一年版︶四二頁。 一昭和三一年一〇月三日1

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