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〈紹介〉明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 : 小浜商人主唱の小浜鉄道と東京資本主導の京北鉄道の競願を中心に

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機

      −小浜商人・王唱の小浜鉄道と東京資本主導の京北鉄道の競願を中心に一

一、 ヘじめに  滋賀県の北西部と福井県南東部とを連絡する道路整備、鉄道敷設の運動は明治九年敦賀県廃止により若狭国と越前国敦 賀郡が滋賀県に所属した後、急速に展開する。まず敦賀∼塩津問の道路は地勢が険阻なため、過去に何度も開難が試みら       ︵1︶ れたが﹁近時二至ルマテ宇治ヲ異ニスルヲ以テ皆発意ノ如クナラス﹂﹁敦賀三好中⋮修ラサル﹂ままとなっていたが、敦 賀県﹁廃県後彼此同一トナリシヨリ⋮地勢接近、交際親密、同治一体ノ姿ヲ為シタル﹂滋賀県所属時期には﹁近江人民ハ 地方税ヲ以テ此ノ道ヲ疑﹂し・=年δ月の明単比の北陸・東海巡幸に際して籠手田県令は・当県所轄二帰スルや 速カニ此挙ヲ果サントシ、其筋二稟請シ新道野守ナル山路ヲ開馨シ車道ヲ通セントシ、専ラ之二従事セリ。竣功近キニア ︵3︶ ランしと報告した。また同時期に﹁近江今津より若狭熊川を経て小浜に至る道路を切下げ、大修繕を加へ⋮小浜港へも市     ︵4︶ の車道を新開﹂させた。この時の滋賀県側の狙いは﹁北海の産物を将て直に之を敦賀に致し、琵琶湖を経て︵汽船の便に       ︵5︶ 依る︶大坂に運搬するの至便を得んとす﹂るにあり、さらに突き詰めれば敦賀県から滋賀県に配転したばかりの高谷光雄 が当時の籠手田県令に答申した通り、﹁江州の商人を誘導して敦賀港に支店を開かしめ、該港の風俗を自然に江州化せし 明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 三九

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     明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機      四〇        ︵7︶       ︵6︶ め、而して之を北海道に連続せしむしる﹁焔管住民の風俗を融和する﹂目的も潜在していたようである。しかし一四年の 福井県新設に伴う若越四郡の移管により、滋賀県側では上記の事情から若狭方面への連絡道路整備への熱意を急速に失い、 道路も旧態依然たる状態に戻った。  二六年から三二年頃にかけて、鉄道敷設運動は江若鉄道︵第一次︶など、具体的な鉄道起業の形態を伴なって、地元の 滋賀県、福井県に東京、京都、大阪等の中央の資本家をも加えて活発に展開された。三二年には滋賀県知事からの添書を 携えた大規模な陳情団が逓信省鉄道局長に面会を求めて派遣されるなど、敷設運動は一つのピークを示したと考えられる。 しかしこの時期の鉄道起業は不幸なことに中央の資本家主導による複数の鉄道会社同士による全面的な競願という姿にな り、滋賀県も両社の免許獲得・賛同者募集の激しい抗争の渦に巻込まれた。結果的には株価暴落、恐慌等の影響を被って 両社ともあえなく計画倒れに終った。その後も第二六回、二八回の帝国議会に請願書を提出したり、数次に亘って様々な 形態での鉄道敷設運動が繰り返し継続されて行く。こうした様々な紆余曲折を経て、ようやく大正九年には滋賀県主導で、 一部福井県等の県外資本家をも加えた江若鉄道︵第二次︶が設立され、翌一〇年に三井寺下∼叡山間が開通してはじめて 湖西・若狭方面への最初の鉄路が現実に稼働する社会資本として登場するまで実に半世紀近い歳月が無為に経過している。  本稿ではいずれ江若鉄道を対象とするに先立って、まずその前史とも言うべき、明治中期における近江地方と若狭・越 前地方を結ぶ幾つかの鉄道敷設計画の試行と挫折を取り上げる。露悪鉄道等について多くの先行研究を発表された藤田貞 一郎氏が﹁江若鉄道の成立史を我々は概観して来たのだが、若狭側の事情にほとんど触れていない⋮若狭側にもそれなりの動きが       ︵8> あったことが推測でき、今後の研究対象として若狭側の事情の究明が残っている﹂と問題提起されていることに、いささかで も応えたいからである。しかしながらいずれも現実稼働に至らない、いわば空想の産物にすぎないペーパー・カンパニー であり、加えて中央主導、県外資本中心のため史料は乏しく、今後、関係諸県、諸方面に残された史料発掘に待つ所が少

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なくない。今回は国立公文書館所蔵﹃鉄道省文書﹄、東京都公文書館所蔵﹃東京府文書﹄等を基礎として、当初は江若鉄 道︵第一次︶という名称で出発し、その後近若鉄道、小浜鉄道と短期間に相次いで改称した未開業私鉄︵以下は時期にか        ︵9︶ かわらず、すべて当社と呼ぶこととする︶を中心として、当社と競願関係にあった京北鉄道︵以下京北という︶とを対比 させて行くこととしたい。大津を起点に小浜・山陰方面を志向する当社ルートはいわば後年に一部区間が、奇しくも同一 社名で実現した、滋賀県主導の江若鉄道︵第二次︶ルートにほぼ一致する。また京都を起点に、通過経路としての湖西を 走り抜けて直線的に敦賀・北陸方面を目指した京北ルートは発起人自身が﹁京阪線の京北線と共に目的とする処は北国地 方と大阪の連絡﹂︵三二年三月二五日﹃鉄道時報﹄︶と語った通り、日本列島を縦貫する幹線鉄道の一部として、実質的な 意味での﹁北陸本線﹂を構成している、現在のJR湖西線ルートに近い。このように相当区間で平行するにもかかわらず、 いわば成立時の根本概念・ベクトルを全く異にする当社と京北両社が容易に両立・併存できない二律背反関係にあるのは、 国による湖西線建設に伴なって、既存の私鉄・江若鉄道︵第二次︶が存続できずに、昭和四四年廃止に追込まれたという 現実からもうなづける。江若鉄道が廃止され、湖西線上をJRの特急が高速で湖西を走り抜けている今日でも、滋賀県を はじめとする関係自治体の主導により、湖西と福井県図南をつなぐ﹁琵琶湖・若狭湾リゾートライン﹂と称する鉄道新線 計画が立案され、長期的な視点に立って実現を目指す﹁期成同盟会﹂等が結成されている。この﹁琵琶湖・若狭湾リゾー トライン﹂構想はまさに当社計画の焼き直しと断言しても過言ではなかろう。  これから紹介する明治二八年から三二年頃までの当社と京北両社による凄絶な確執・抗争は、いわば江畔鉄道︵第二次︶ とJR湖西線とに相当する両線が、極めて幅の狭い湖西の湖岸エリアで利権争奪の死闘を繰り広げたようなものとも想像 することができよう。当社の発起人は﹁其由来スル所既二四ケ年以前ヨリ計画罷在候義ニテ、所謂世ノ流行ヲ逐ヒ候モノ

含ラ其趣垂灘・と競願相手の占尽北を.所謂世・流行・逐・候モ・・と位置付け蓑た当社側に立・た高島郡

     明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機      四一       /

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 四二 等選出の滋賀県会議員も﹁京北鉄道ハ唯一時事業熱烈浮カレ所謂自己営利的株券屋ノ集合ニテ成立チ、小浜鉄道ハ公共利益ヲ主       ︵11︶ トシ専ラ地方ノ実利ヲ発達セン事ヲ下図計営致シ、亦一心ハ軍事用二宮スル国家的ノモノ﹂と一時の鉄道熱に踊った京北との差 異を強調した。  さらに高島郡等の湖西地区が人斬・地縁・血縁関係の濃い当社に肩入れしたのに対して、大津財界の主流派が途中で当 社を乗換えて、京北側に協賛したことから、滋賀県内の有力者・資本家層も当社派・京北派に二分され、対立した。当社 側による京北へのこうした手厳しい非難は単なる競願関係に基づくだけの経済的な対抗意識というだけにとどまらず、ほ ぼ同一ルートで通過する滋賀県内での株主募集を巡る、陰湿な確執が原因となった、かなり根の深い、嫌悪感情を剥き出 しにした非難の応酬であったと思われる。本稿では当社に参加した中央の発起人達の資産家分析を通じて、﹁地方ノ実利﹂ を掲げた当社もまた﹁所謂世ノ流行ヲ逐ヒ﹂﹁所謂自己営利的株券屋ノ集合﹂的性格を免れなかった事実をも明らかにし たい。しかし当社のような仮免状下津のみで免許も受けず、従って会社も設立されず、当然開業もしない計画倒れに終っ た起業に関する情報量は開業私鉄に比して当然ながら僅少にとどまらざるを得ない。幸いにも地元小浜市史編纂の過程で       ︵12︶ の史料発掘に基づく芝田俊哉氏による、当社に関する唯一ともいえる先行研究があり、主に地元発起人の動向に関して他 の中央レベルの諸文献では判明しない、多くの事実関係が紹介されている。そこで本稿では中央レベルでの当社発起人相 互間の人的ネットワークの濃淡、主要発起人の置かれた当時の状況、発起人の関係した銀行等の金融環境の分析を通じて、 当社の未設立11株金調達不能の背景を間接的に説明することとしたい。  なお本稿は平成九年度科学研究費補助金︵基盤研究B︶﹁明治期の鉄道業の総合的研究﹂の研究成果の一部である。明 治・大正期の鉄道企業の動向に関する、数少ない有力な情報源として、明治三二年一月創刊の専門誌﹃鉄道時報﹄が存在        ︵13︶ し、野田正穂氏らのご尽力により昨年から完全復刻版も刊行され、本稿でも活用させていただいた。なお当社の場合は発

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起が明治二六年であるので・鉄道時報﹄創型削の=二年以前の情報に関しては・・鉄道雑誌﹄など・当時の新聞鳶頭や 会社録紳士録評雛︵ともに略称で本文中に注記︶によ・て適宜補完に努めた・   ︵1︶︵3︶︵5︶﹃管内実況﹄明治一一年一〇月一四日︵鉦鹿敏子編﹃史料県令籠手田安定1﹄昭和六〇年、二〇一頁所収︶。   ︵2︶一四年三月内務卿松方正義宛滋賀県令建議﹃滋賀県議会史﹄第]巻、昭和四六年、一一九七頁所収。   ︵4︶︵6︶︵7︶高谷光雄口述、東野善一郎︵近江新報記者︶編﹃懐旧夜発巻之二﹄明治三九年七月、六頁︵高谷達雄氏所蔵︶。なお前稿で高谷光雄の     経歴の中で、近江麻綜紡織専務と記したのは創立時社長の誤りにつき、謹んで訂正しておきたい。︵高谷達雄氏のご教示による。︶   ︵8︶藤田貞一郎﹁江若鉄道の成立と大津市﹂﹃鉄道史学﹄第二号、昭和六〇年、四五頁。   ︵9︶京北に関しては前稿﹁大津商人による鉄道発起と挫折−京都・大津間鉄道敷設計画を中心としてI﹂、当﹃史料館研究紀要﹄第三〇号参照。   ︵10︶二九年三月四日付﹁追願書﹂﹃第入回鉄道会議議事速記録﹄︵以下単に速記と略し本文に注記︶三五頁。   ︵11︶明治二九年一一月逓信大臣宛﹁陳情書﹂、﹃鉄道省文書・小浜鉄道﹄明治三〇年︵以下﹃省文書﹄と略︶。   ︵12︶芝田俊哉﹁小浜鉄道物語−地方鉄道の敷設計画とその挫折一﹂﹁小浜市史近現代史料研究 わかさの近代﹄第一号、平成五年、三一二八頁。   ︵13︶鉄道協会内時報局発行﹃鉄道時報﹄復刻版第一期︵明治三二年∼四Q年︶、一九九七年四月以降、東京・入朔社、本文中では年月日を付して単に     鉄と略。   ︵14︶﹃京都日出新聞﹄日出、﹃大阪朝日新聞﹄大朝、﹃東京朝日新聞﹄東朝、﹃東京経済雑誌﹄東経、﹃扶桑新聞﹄扶桑、﹃日本新聞﹄日本、﹃報知新聞﹄     報知、﹃時事新報﹄時事、﹃中外商業新報﹄中外、﹃鉄道雑誌﹄雑。   ︵15︶﹃工場通覧﹄工、明治三一年﹃日本全国商工人名録﹄商、明治三二年﹃日本紳士録第五版﹄紳、﹃日本全国諸会社役員録﹄諸、﹃大正人名辞典﹄正、     昭和一一年版﹃帝国信用録﹄帝、長坂金雄編﹃大日本銀行会社沿革史﹄︵大正入年、東都通信社︶沿、雨宮敬次郎﹃過去六十年事蹟﹄︵明治四四年︶     事蹟。 二、小浜鉄道計画の顛末 (一 j湖西・小浜方面の交通整備状況 滋賀県下でも古くから鉄道の便に恵まれた湖東地方とは異なり、 湖西地方とりわけ県最北部の高島郡は・県下の汽薫 明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 四三

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 四四 郡﹂と呼ばた。明治二年三月海津∼大津間に汽船︸隻が就航したのを皮切りに、明治五年時点ではまだ﹁近時漸く数艘の         ︵2︶ 蒸気船を浮むるに至る﹂に過ぎず、湖上廻漕会社の蒸気船を高島郡海津、今津、南船木、大溝、滋賀郡北小松、木戸、和 遽・本堅田・坂本等の峰浜に運航させるべく・湖上二廻漕会社を結ば箋Lを告諭した・=年時点では二二隻が彦根・        ︵4︶ 米原、長浜、塩津、今津、勝野、首夏、山田等の諸事に就航していた。このため滋賀県では一二年の段階では敦賀∼米原 間の官設鉄道敷設計画に対して、﹁壁掛敦賀ヨリ塩津マテ、単一大垣ヨリ彦根マテ鉄路二拠テ陸運ヲ駿クシ、塩津、彦根 ヨリハ天然ノ水運ノ便二曲テ西南窪一確﹂すれば足りるとして・・塩津米原間ノ蓬蓬設ハ即今ノ霧ニアラ麗し旨 を右大臣に上申したほどであった。  他郡の諸都市が鉄道の恩恵を受ける中で高島郡のみは大正中期まで高島、海津等の各誌と大津港を結ぶ太湖汽船等の一 日二、三便の船便のみに依存する状態が続き、﹁湖西の︵高島、滋賀︶両郡一一条ノ鉄軌未ダ其間二通スルモノナク、交通ノ便       ︵7︶ ハ今尚ホ昔時ノ旧態ニアリテ、之レカ為メニ人心遅々トシテ進マス﹂の状態にあった。

芳泉く領王・里の治塵となり・若狭の主脳地として・当国第一の繁叢しであ・た小浜方面との陸鷺京都と小

浜方面を直結する若狭街道と、同街道から分岐する何本もの枝々であり、その支流の一つである今津・小浜間はその道程 の長さから九里半街道とも呼ばれてきた。また近年ではこのルートは京へ若狭方面の海産物を輸送した、いわゆる﹁鯖街 道﹂という通称で呼ばれている。一四年当時でも﹁若狭地方ハ漁猟ヲ以テ第一ノ生計トス。其魚類ハ総テ近江地方へ輸出シ、       ︵9︶ 其利潤ヲ獲ルコト常二多シ。殊二滋賀県へ合併後干一層親密ヲ極メ、大津魚市ト直々交通シ﹂ていた。  敦賀と滋賀県塩津を結ぶ道路が明治九年の敦賀県廃県後の同治一体化を契機に﹁廃県後、彼此同一トナリシヨリ始テ新        ︵10︶ 道開修遂二車道ヲ通シ運搬ノ便ヲ開ク﹂に至った。敦賀と同様に、今津・小浜問も﹁明治九年敦賀県ヲ廃シ、若狭ヲ滋賀県 二属セラルルヤ、首−・テ此道路開通二着手・・含二至テ始テ車ヲ通スルヲ得又山陰道諸国ノ黎モ小浜二羅スルノ癒﹂

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に至った。しかし若狭三郡の分離により、その後の滋賀県側の道路補修が疎かとなり、二八年頃には滋賀県﹁高島郡今津       ︹12︶ ヨリ若越国熊川ヲ経テ小浜町二至ル運輸交通ハ仮定県道ノーアルノミ﹂とされるほど、貧弱な整備状態に留め置かれてお り、﹁京阪及近江地方トノ運輸交通機関完備不仕、為メニ此間二往来輸送スル者常二人面馬背二籍テ綾カニ其用ヲ便スルヲ得ルノ ︵13︶ 状態﹂と新道開修以前の旧態に戻っていた。  園部∼綾部間の西鉄が開通し、京都∼舞鶴港間がようやく鉄道で結ばれたのは明治四三年八月二五日であったが、﹁京 都∼舞鶴鉄道の開通するや、其の当時まで熊川より近江路に入り、湖上を渡り、大津を経て四方に搬出されたる若狭一円の物産は、 京学線の開通と同時に同方面に吸収﹂︵四五・七・一九大朝︶された。敦賀方面からの小浜線が小浜まで敷設されたのはさ らに遅れて、大正七年=月一〇日、舞鶴と小浜方面が結ばれたのは実に大正=年一二月二〇日であった。  戦前期の小浜・今津間の陸運を見ると昭和四年時点の湖西方面の乗合バス路線は今津∼三谷腰間九マイル入、大溝∼朽 木間七マイル三などに過ぎず、﹁高島郡三谷村杉山から国境を越えて若狭の熊川に出るもの⋮もあったが、貸自動車の発展と道 路の不完全のためにいまは全く中止﹂︵昭四・︸・五大毎︶の有様で、昭和一〇年一二月二年中になってようやく﹁近江今

緩と若狭小浜を結ぶ若江線の開通によ・て・若狭方面の連絡が秀誕﹂し・省嘗動車が百入往筏片道約蒔問

      ︵16︶      ︵15︶ 四〇分で結んだ。﹁大津小浜間の江若鉄道が完通の暁には一層の便利となる﹂﹁僅カニ今津三宅間約十六粁ヲ残置シアルモ      ︵17︶ 近ク完成ノ予定﹂と期待された延長計画は実現を見ないままに江若鉄道自体が姿を消した。なお小浜と丹後方面とは明治 二入年頃は﹁小浜ト丹後芸無部トハ交通運搬共二頻繁二野リ、将来港湾ノ航路及ヒ近年新タニ道路ヲ開難セシト錐モ未ダ充分ノ便      ︵18︶ 利ヲ得サル現況﹂にあり、三九年忌月詣鶴鉄道による舞鶴、小浜問航路開設をはじめ、境、舞鶴、宮津、小浜間の山陰連 絡汽船等が順次運航していた。   ︵1︶大正六年一二月石田与太郎の森正隆知事歓迎の辞、佐野真次郎手記﹃聖主鉄道創立当時の回顧﹄昭和︸七年一二月︵江若交通所蔵︶。 明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 四五

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 四六 ︵2︶︵3︶滋賀県令告諭書第二百四十五号、明治五年壬申十月、﹃滋賀県市町村沿革史﹄第六巻、二二頁所収。 ︵4︶前掲﹃管内実況﹄一九六頁所収。 ︵5×6︶明治一二年=月一七日置大臣岩倉具視宛滋賀県令﹁鉄道線路変換ノ儀二付上申﹂︵前掲﹃史料県令籠手田安定1﹄二五一頁所収︶ ︵7︶内務大臣宛﹁湖西鉄道敷設に関する意見書﹂大正七年=一月三日滋賀県議会決議。 ︵8︶福井県編﹃若越小誌﹄明治四二年、七三〇頁。 ︵9×10︶︵11︶明治一四年三月内務卿宛滋賀県令添書﹃滋賀県議会史﹄︵以下﹃県会史﹄と略︶第 巻、昭和四六年、 一九五∼七頁所収。 ︵12︶明治受入年=一月五日東京府知事宛滋賀県知事書簡、﹃東京府文書・小浜鉄道関係文書﹄東京都立公文書館所蔵、以下単に﹃府文書﹄と略。 ︵13︶﹁小浜鉄道株式会社創立請願書﹂﹃府文書﹄。 ︵14︶﹃江若鉄道沿線名勝案内﹄昭和一〇年頃。 ︵15︶﹃国鉄自動車二十年史﹄昭和二六年、四四〇頁。 ︵16︶﹃北陸の産業と温泉﹄昭和七年、二二頁。 ︵17︶小浜町発行﹃小浜港湾修築と京若・江若鉄道建設概要﹄昭和一︼年、二七頁。 ︵18︶明治二九年 二月一七日松本荘一郎鉄道局長宛、荒川邦蔵福井県知事副申書、﹃省文書﹄、国立公文書館所蔵。 ︵二︶江若鉄道︵第一次︶の企画  当社に関する﹃日本鉄道史﹄の記述は次のとおり、極めて簡単なものである。 ﹁︵明治二八年一〇月︶東京市酒井捨吉外十五名ハ小浜鉄道ヲ発起シ資本金一百万円ヲ以テ若狭小浜ヨリ今津二月ル十九哩ノ線ヲ敷 設セントシ、後歯二之ヲ拡張シテ資本金ヲ三百十万円トシ小浜ヨリ丹後六部二百リ、又今津ヨリ小松ヲ経テ大津二至ル合計七十二        ︵1︶ 哩余ノ延長ヲ願出テタリ⋮三十年四月鉄道会議ハ小浜鉄道ノ全部ヲ許可スヘキモノトシ﹂﹁明治三十年東京市酒井捨吉外四十六名ハ 資本金三百九十五万円ヲ以テ小浜大津間、小浜餓寸間、井ノロ敦賀間合計九十五哩ノ敷設免許ヲ申請シ、同年九月仮免状ヲ得平ル          ︵2︶ モ三十三年失効シタリ﹂  また﹃日本国有鉄道百年史﹄は当社に関して、﹁小浜・大津及び小浜・余部、小浜・敦賀間、出願二八・一二・二仮免

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      ︵3︶ 三〇・九・=二失効三三年度﹂、若狭鉄道に関して、﹁熊川・敦賀間、出願二八・=・五小浜鉄道に合併﹂とするにとど まる。  長く鉄道には恵まれない、小浜・湖西方面であったが、この地域を貫通する鉄道敷設計画自体はかなり古くから、何度 となく繰り返し、請願・発起されてきた。﹃若越小誌﹄は﹁敦賀、小浜間の鉄道敷設問題起り、二十七年吉岡喜兵衛外五名著        ︵4︶ を企て、二+九年組屋六郎左衛門外六名之を計画せしが、何れも起工するに至らずして熔み﹂とする。組屋六郎左衛門︵当屋︶       ︵5︶ は小浜の有力者で、先祖は町年寄を歴任し、﹁其家督として町中商人より公用銭を徴す、京極腰高以来の慣例たり﹂とさ        ︵6︶ れ、﹁国主入国の時、先づ此家に入るの例﹂となったほどの家柄の当主でもあった。 二七年七月遠敷郡から選出された議院議呆畑岩叢は二入年百鉄道敷設法の・改正葎案ヲ提出シ・第二途中北陸 線ヲ舞鶴ヨリ小浜、敦賀、金沢ヲ経テ富山二至ル鉄道及本線ヨリ岐レテ七尾二至ル鉄道二改メントセリ、其理由ハ敦賀、舞鶴間ハ       ︵8︶ 最モ必要ノ線ナルヲ以テ明記ヲ要スルト謂フニ在リ﹂。二九年四月七日鉄道敷設法は予定鉄道線路中に﹁京都府下舞鶴ヨリ福 井県下小浜ヲ経テ敦賀間二塁ル鉄道﹂︵二九年四月入日﹃官報﹄︶を追加して公布された。 当社は﹃若越小誌﹄がいう、        ︵9︶ ﹁近来⋮若狭街道より西江州を経て大津、京坂に達せしめんと計画せるもの﹂の一つで、前述した吉岡喜兵衛、組屋六郎 左衛門、小畑岩次郎ら四名を・雪男者として発起された。この若狭道は遠敷郡三宅村日笠で丹後道より分岐し、北川に沿っ て遡り、熊川を経由して滋賀県今津へ出るルートであった。この道路については九年頃滋賀県当局へ﹁小浜港井沿道有志       ︵10∀ ノ者ヨリ篤志金千七百円余ヲ納言、今一層ノ修築ヲ請願﹂するなど、小浜町の有力者にとっては町の興亡にかかわる重要 ルートとして、かねてより何度も整備・拡充を請願・陳情していた。  すなわち二六年八、九月頃、組屋六郎左衛門︵小浜町長、元県会議員︶、大北安之助︵書籍・諸器械商・漆器販売・井 勘︶、吉岡喜野心衛︵質商︶ら﹁小浜町有志ノ者共集会協議ノ上、小浜町ヨリ滋賀県ヲ経テ京都市二十スル鉄道敷設運輸営業開始仕 明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 四七

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 聴入 度翼望ヲ以テ該沿道地方二三ケル旅客、貨物集散ノ実況調査二着手L︵速記三五頁︶し、二七年三コ組屋六郎左衛門外一九名 を発起人に選んだ。組屋自身も﹁回顧スルニ明治二十六年八月始メテ当町有志諸子ト相謀リ小浜京都間鉄道敷設ノ事ヲ計画シ、        ︵11︶ 爾後数月ノ間該路旅客ノ来往貨物ノ集散等号就キ其実況ヲ調査スル事二従ヒ﹂と往時を回顧している。  二七年五月二六日には福井県、滋賀県の両知事宛、﹁鉄道線路踏査願﹂を申請した。そのメンバーは起業発起人総代吉 岡喜焦解野田宗丘衝武田清右徽解母船水源丘瀧・古河久鎚・田中長潟であり・組屋は小浜町長として末尾に連記   ︵17︶ している。        ︵18︶  線路踏査は﹁熊川村国境ヨリ今津、勝野ヲ経テ大津マデ﹂のメイン・ルートのほか、比較線として朽木・市場経由の踏 査も併せて申請した。朽木経由はかっての﹁若狭街道﹂の本流ルートも検討しようというものであった。この際にも福井        ︵19︶ 県は滋賀県知事宛に当該﹁願書中黒意想ササル廉モ有之豆苗共、其辺轟然御含空相成度﹂と添書きしている。二七年四月 大津、京都市、大阪市に出張し、﹁大越滋賀県知事及寺原同県書記官二面謁⋮計画ノ主旨ヲ申述べ御賛助ヲ仰キ、且ツ滋賀弓長、 大津町長ヲ初メ滋賀県有志共数十名会合協議ノ結果、小浜町ヨリ京都市二至ル線路ヲ改メ、小浜、大津間ト変更シ、江若鉄道ト名 ケ﹂︵前掲速記三六頁︶た。この寺原長輝書記官は後に当社の強敵となる京北側に味方して、当社から京北への発起人の 乗換を画策した長輝なる人物と思われる。頼りとする滋賀県側の意向を汲んで﹁近江﹂を先に、﹁若狭﹂を後に置いた﹁聖 天鉄道﹂︵第一次︶と命名したことは、後年の江若鉄道︵第二次︶が当初案の﹁湖西鉄道﹂なる名称を小浜、熊川等の若 狭側出資者の意向も汲んで﹁江若鉄道﹂に変更した史実と、立場が正反対になっている。        ︵20︶  ﹁鉄道二関スル線路及旅客貨物調査ノモノヲ印刷シ広ク之ヲ有志者ノ単二頒布シ、傍ラ県庁モ之ヲ郡村長二伝へ、有志者二誘導﹂ せしめた結果、二七年五月一七日﹁︵小浜︶郡役所二於テ⋮転圧鉄道︵大津ヨーー小浜マテ︶ヲ目論見タル十二各省二於テ賛成ア        ︵21︶ リテ充分株券ノ募集二尽力スヘキ旨依頼アリ、且発起人タラン廉ハ一人五十株一目ト定ムル由﹂が郡役所・村長の公式ルートに

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よって小浜港の有志から郡内各村に伝えられた。   ︵1︶鉄道省編﹃日本鉄道史﹄中篇、大正一〇年、六九九頁。   ︵2︶前掲﹃日本鉄道史﹄下篇、﹂五九頁。   ︵3︶﹃日本国有鉄道百年史﹄第四巻、昭和四七年、付録=二頁。   ︵4︶前掲﹃若越小誌﹄四五七頁。   ︵5︶遠敷郡教育会編﹃遠敷郡誌﹄︵以下﹃郡誌﹄と略︶大正一一年、三七頁。   ︵6︶﹃郡誌﹄六六〇頁。   ︵7︶小畑岩次郎は当社創立委貝三〇〇株、若狭鉄道発起人一〇〇株、福井県遠敷郡松永村、農業、安政五年二月生れ、田三町一反一着二〇歩、概価額     入七〇〇円ほか、地租三一円四銭五厘、所得税なし。   ︵8︶前掲﹃日本鉄道史﹄中二八頁。   ︵9︶前掲﹃若越小誌﹄四五七頁、四五三頁。   ︵10︶﹁若越街道修繕費﹂﹃明治十二年 滋賀県議会申牒毒悪冊﹄︵前掲﹃史料県令籠手田安定1﹄二三二頁所収︶。   ︵11︶前掲芝田論文、二六頁所収。   ︵12︶吉岡喜兵衛は小浜・塩竈、質商、慶応三年三月生れ、当社創]四〇〇株、若狭鉄道発四〇〇株、諸株券三万円、公債四・五万円、田四町五反十七     歩、地租五入円七入銭、所得税三一円七〇銭、雲浜蕗綜監、日生二〇株、二十五銀行取。   ︵13︶武田清右衛門と追加発奮〇〇株の武田英蔵︵小浜町酒井、清酒製造・樽屋、雲立蕊緕監、所得税五円二五銭、営業税二二円七二銭︶との続柄未詳。   ︵14︶志水源兵衛は小浜・今宮七、海産物商、木綿屋・木源、当社追加三三〇〇株、江戸後期には小浜一の廻船問屋、町年寄であった家で、代々源兵衛     を襲名︵﹃小浜古史﹄諸家文書編一、昭和五四年、五=二頁︶、一五年商三組筆頭︵﹃小浜市史﹄諸家文書編一、昭和五四年、五〇六頁︶、肥料商、     小浜銀行監、所得税四五円四〇銭、営業税六﹂円三三銭、小浜織物監。   ︵15︶古河久太夫は福井県遠敷郡西津村、醤油・味噌︵古河醸造場、天保三年創業、職工数男五、工︵四四︶、︼二三三頁︶、当社追加発三〇〇株、代表     的な北前船の船主・古河嘉太夫の﹁出店﹂︵﹁宝暦十三年に末子古稀を別家させ、久太夫と名乗らせ、酒造業を家業とさせた﹂﹃小浜市史﹄通史編上     編、平成四年、九七六頁︶、若狭銀行頭、若狭漆器監、西津︵株、金銭貸付、資本金一・五万円︶社、小浜貯蓄銀行頭、日生、日本海陸株主。   ︵16︶田中長次郎は小浜町津島、回漕業・蛮骨、当社発三〇〇株、雲浜轟綜取、所得税六一円八四銭、営業税四三円九〇銭、二十五銀行取、小浜織物監。   ︵17︶︵18︶二七年五月二六日滋賀県知事宛﹁鉄道線路踏査願﹂﹃省文書﹄。   ︵19︶二七年五月二九日滋賀県知事宛福井県知事書簡﹃省文書﹄。   ︵20︶二九年一二月一七日松本鉄道局長宛、荒川福井県知事副申書、﹃省文書﹄。 明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 四九

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 五〇 ︵21︶﹁若狭小浜鉄道発起事務取調帳﹂従明治二七年五月一七日、逸見勘兵衛家蔵、﹃福井県史﹄資料編一〇、近現代︼、昭和五八年、九四]頁。 ︵三︶駅伝業の村・熊川村の鉄道計画受容  ここで当社ルートの沿線の郡内各村の中で、当社の計画に積極的に賛成した村の例として、江戸時代に近江との国境に 位置する特異な宿場町として繁栄した熊川村を取り上げよう。熊川は古来、﹁若狭近江の間を通ずる交通の要衝﹂︵﹃郡誌﹄ 六七頁︶で、﹁小浜より上り来る人足伝馬は此々を継立として近江の国より来るものと交代し、諸荷物輻憂し、人馬の往来頻多な る町﹂︵﹃郡誌﹄選入頁︶であった。そこで人馬継立の中継基地として繁栄し、十三軒もの問屋・脇問屋が並んだ﹁熊川村 ノ如キハ駅伝業ヲ以テ村是ト定メタル事、是三二百有余年、而ルニ此鉄道竣功ノ三二ハ村童ヲ改革セザル可ラス、傍テ本村二停車        ︵1︶ 場ノ設置ヲ是非希望﹂し、まず*尾中二七の名義で株式を申し込み、二九年三月二七日には﹁東京本部迄⋮発起人一名を       へんみ  ︵2︶        ︵3︶        ︵4︶ 出す。名称*逸見勘兵衛﹂となった。熊川村での賛成者は*尾中理七、*森下利兵衛︵取︶、*田辺利八、*荻野八左衛        ︵5︶      ︵6︶        ︵7︶ 門、逸見源右衛門、*井上三左衛門、*中村吉兵衛、山田忠兵衛、田辺儀八、亀井五兵衛︵取︶、逸見嵩、伊藤宗助等で あった。︵*印は熊川銀行発起人、沿一五六頁︶   ︵1︶︵2︶尾中理七﹁若狭小浜鉄道発起事務取調帳﹂明治二九年四月=二日﹃福井県史﹄資料編︼○、近現代一、昭和五入年、九四二一五頁。逸見勘兵     衛は酒造業、熊川銀行初代頭取、当社二〇〇株。   ︵3>尾中理七は熊川銀行取、安永七年創業の清酒、味琳、焼酎の尾中酒類製造場主、職工=二名、工︵大一〇︶、一〇二二頁、後に江若鉄道︵第二次︶     発五QO株。   ︵4︶荻野入左衛門は問屋業・倉見屋、大正二年木炭業開業、後に若狭林産取︵帝三頁︶。   ︵5︶逸見源右衛門は熊川銀行取、呉服商︵帝四頁︶、後に江若︵二次︶発五〇〇株。   ︵6︶井上三左衛門は二代頭取、井上三蔵は後に江若︵二次︶発五〇〇株。   ︵7︶伊藤宗助は三方郡耳村、後に熊川銀行取。

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︵四︶日清戦争による近若鉄道挫折と小浜鉄道への改称

二七年七月・滋賀高岳郡委員谷沢等外三哲小浜町に出張地方発起人高集会協議ノ渠早言鉄道を近若鉄道と

改称﹂︵速記三六頁︶した。しかし二七年七月以来﹁朝鮮交渉事件延ヒテ日清戦争ノ事発リ、此戦争タルや我国開關以来未曾有 大戦争トナリ、此影響忽チ株式市場二及ホシ、有名ナル鉄道株モ其価格非常二低落シ、新事業ハ悉ク中止ノ形トナレリ。伍テ小浜       ︵2︶ 有志者モ時ヲ考へ戦争ノ終局ヲ待ツ有様トナリ﹂、﹁企業ノ集会モ一時為二休止﹂︵速記三六頁︶に追い込まれた。  近若鉄道と改称後の二八年に刊行された﹃近若鉄道創立主意書﹄︵本文一四頁、貨物乗客明細表=二頁、近若鉄道比較 線略図︶添付の﹁貨物乗客明細表﹂では小浜発、大津着の米穀、材木、魚類、油、紙、生糸、生魚、漆器、羽二重、大津 発、小浜着の米穀、石油、砂糖、金物、茶、書籍、呉服、洋物をベース・カーゴとして掲げ、本文では﹁我力率若線ニシ テ一朝完成ヲ告クルノ日二至テハ北海北陸ノ諸州ハ勿論、因伯雲石諸国二二リテ其便益ヲ得ル、広大無比ナルコト瞭トシテ火ヲ見 ルヨリモ明ラケシ⋮小浜港ハ⋮北陸ノ一隅二僻在セル偏地ナリト錐モ⋮北海唯一ノ良港ト呼モ五言ニアラサルヘシ⋮余輩此等アル 固リ一地方ノ末利二汲々セス、広ク全国ノ大勢ヲ通観シ、遠ク将来ノ公益ヲ期シ、国家ヲ富増、民福ヲ進撃ント欲スル愛国ノ至情 ト興益ノ正義トニ出スルモノニシテ、彼ノ虚心空計目前ノ私利二塁ルカ如キモノニ非ラサル﹂点を強調していた。  二八年三月日清戦争の終結により、﹁株式市場人気近年未曾有ノ極度二達ス。是ヲ以テ小浜有志者⋮東京表へ運動二上京セラ       ︵3︶ レ、終明治二十入年七月二十二日二到リ、東京二号発起人粗成立タル座付、小浜会堂二於テ会議アリ、而シテ続々歩ヲ進メ﹂た。 京滋地区よりも東京での発起人獲得が進展したためでもあろうか、恐らく﹁採血﹂というイメージの湧き難い社名が東京 で不評なのか、同年十月﹁地方及在東京賛成発起人共決議ノ上、近若鉄道ノ名称ヲ小浜鉄道株式会社ト変更﹂︵速記三六 頁︶した・熊川の尾中理七は・其後東京発起人尺断テ小浜鉄道ト艶ししたと回顧している・  ﹁孤立の姿となり﹂劣勢を強いられた小浜側では﹁同町の宿望は小浜より京坂へ鉄道の通ずれば足ることなれば、今津以南 明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 五一

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 五二 の線路は捨てて京北に依ることとし、小浜より今津に達する鉄道敷設の義を此頃其筋に出願したる由L︵国入・一一・二日出︶と 報道された。確かに二入年一〇月三一日には﹁小浜町ヨリ滋賀県近江国里津二至ル鉄道ヲ布設シ、目下出願中ノ京北鉄道    ︵5︶ 二接続スル﹂ことを出願した。この段階では福井県知事も二八年一一月四日付の東京府知事への回答で﹁京北線ハ京都ヨ リ起り、大津ヲ経テ今津二止メ、其以北ハ小浜、若狭両線二依リ以テ敦賀二連絡スルニ於テハ敢テ交通上不便ヲ来サスシテ大二布        ︵6︶ 設ノ費用ヲ減シ、随テ将来維持ノ経済ヲ保チ、彼我共二大二得策ト認ムル﹂との﹁彼我共二・:得策﹂の今津での南北分割案を 提案していた。当社側はその後﹁追申書﹂で、逆に﹁京北鉄道二於テハ⋮唯々二重複スル今津、大津間ノ許可ヲ得ン事二        ︵7︶ 汲々タルモノノ如シ﹂と批判しており、京北側でも福井県知事の提案した﹁京都ヨリ起り、大津ヲ経テ今津二重メ﹂ると の縮小案が検討された可能性がある。  福井県がこの妥協案で両者の調停工作にまで現実に乗出したかどうかは未詳ながら、当社側のその後の説明では、まず 第一段階として﹁二+八年+月三+一日付ヲ以テ当初計画全線小浜、大津間ノ中、先ツ小浜、今津間鉄道敷設ヲ出願、尋テ+一月        ︵8︶ 十六日小浜、絵指間︵舞鶴二軍近地︶及今津、大津間線路延長ヲ申請﹂したとなっている。延長点を港湾都市の舞鶴とせず、 近傍の面部にとどめたのは既に京都鉄道が京都∼舞鶴∼籐幽間の免許を得ており、これに接続するためであった。        ︵9︶  いかなる理由かは判然としないものの、結局﹁当初計画シタル通、小浜大津間鉄道布設ノコトニ願書訂正﹂したため、 この今津以南切捨て報道はすぐに﹁若狭国小浜より近江今津に至る鉄道敷設出願の件は先頃の紙上に記載したるが⋮今回更に今 津大津間の線路及官設予定線の小浜舞鶴間を追加﹂︵二軍・一一・二三日出︶したと修正された。したがって福井県知事の﹁京 北線ヲ今津二止メントノ意見ハ自然艶﹂した・  こうした複雑な経過を経て二入年﹂二月﹁今後商業ノ発達二従ヒ、単二小浜今津闇ノ線路ノミヲ以テ交通運搬ノ需用二重ス ルハ未タ充分ナル能ハサル義ト奉存候二付⋮資本金一百万円ノ処、更二ニヲ増資シ、合計三百十万円ト改メ、本線路ヲ延長シ、西

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ハ小浜ヨリ、本郷、高浜ヲ経テ、丹後国加佐郡饒部上達スル鉄道ヲ敷設シ、以テ京都鉄道ト連絡セシメ、又西南ハ今津ヨリ、勝野、 小松、堅田ヲ経テ大津二尊リ、官線ト接続シ以テ鉄道輸送ノ便利ヲ完全ナラシメ﹂︵速記四三頁︶ようと延長・増資を決定した。 熊川の尾中理七は﹁十二月十日東京派出委員帰国ニテ会議アリ、此時曇二申込タル発起株五十株二対スル五割ノ増株割当    ︵11︶ リ有ルナリ﹂としている。   ︵1︶谷沢龍蔵は大津町下堅田、大津事件弁護士として著名な人物。当社二〇〇株、四三年所得金額二千円。   ︵2︶︵3︶︵4︶︵11︶前掲﹁取調帳﹂﹃福井県史﹄九四二∼三頁。   ︵5︶﹁小浜鉄道株式会社創立請願書﹂﹃府文書﹄。   ︵6︶︵9×10︶前掲鉄道局長宛福井県知事副申書。   ︵7︶︵8︶二九年九月二五日付﹁追申書﹂﹃府文書﹄。 ︵五︶若狭鉄道の敦賀延長申請と合併  二八年一一月五日、酒井捨吉外一六名は﹁小浜鉄道株式会社ノ小浜、今津間鉄道布設ノ計画有之ヲ幸ヒ、同線路中若狭国遠       ︵1︶ 敷郡熊川村ヨリ分岐シ一線ヲ設ケ、同国三方郡三方、佐高等ヲ経テ越前国敦賀郡敦賀町田至ルノ鉄道ヲ布設﹂する目的で、資本 金入五万円︵一・七万株︶の若狭鉄道創立を請願した。小浜、若狭両鉄道の発起人はほぼ同一であり、﹃日出新聞﹄も﹁同 ︵小浜︶鉄道諸氏は此鉄道線路の熊川より敦賀までを若狭鉄道と称し発起出願したる由﹂︵二八・一一・二三日出︶と小 浜、若狭両鉄道の一体性を報じている。﹁孤立の姿となり﹂一時期は今津までの短縮をも検討した当社が、逆に敦賀まで の実質延長を試み、京北との全面対決路線に踏み切ったことを示している。おそらくこの時期に東京での大物発起人の獲 得等、強気に転じる契機が存在したものと考えられる。別会社名義での申請はすぐにひつ込め、﹁小浜、若狭両鉄道線路ノ 性質タル旅客貨物運輸上、個々独立スヘキ線路二無銘、且ツ露営画業経済上二重テモ亦其不利甚シク、合同一致ノ必要ヲ認識﹂し 明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 五三

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 たとして、﹁小浜、若狭両鉄道株式会社創立発起人協議ノ上、 することを決めた。   ︵1︶﹁若狭鉄道株式会社創立請願書﹂︵速記四五頁︶。   ︵2︶﹁小浜、若狭両鉄道株式会社合併願﹂︵速記三一頁︶。 右若狭鉄道株式会社一切ヲ挙ケ、 五四       ︵2︶ 小浜鉄道株式会社二合併L ︵六︶京北鉄道との競願  当社の願書では﹁唯名称相同シキ﹂﹁新旧京北線路ノ相違及小浜、京北両鉄道ノ企業沿革ヲ陳述﹂して、まず、﹁現時ノ 京北鉄道株式会社発起人力公然唱道スル如ク果シテ旧京北鉄道ヲ継承シタルノ実﹂あるかは疑問として、﹁別種ノ線路ヲ 別種ノ発起人二於テ単独二発起出願シタル迄﹂と﹁其継承ノ実ナキハ瞭然﹂と主張した。  ﹁其調査ヲ精密二致不為メ自然数多ノ日子ヲ費シ﹂た慎重な当社と比較して、﹁当初ヨリ徒ラニ文書上ノ先願権ヲ取得セン トスル﹂﹁京北鉄道ハ之二反シ線路ノ難易、運輸ノ得失ヲモ深ク窮メス、京都ヨリ大津二面テ一直線二七里半越ヲ飛過シテ常宮湾二        ︵1︶ 達スルノ図面上一見甚タ捷路ナルカ如キ線路敷設ヲ設計シ、当会社請願二先タツ僅二二十日前二願書ヲ提出シタ﹂として、﹁活線        ︵2︶ 草中至難ノ箇所ヲモ顧ミス一直線二敦賀ト京都トヲ連絡シ、又近畿鉄道ト相首尾シテ南北両海ヲ連絡セシムルト云フノ主旨﹂の京        ︵3︶ 北に対して﹁出願前平タ曾テ一回ダモ実地踏査等ヲ為ササリシ事実二徴スルモ固ヨリ確実ノ計画ト電界メラレサルモノ﹂ と厳しく非難している。﹃日出新聞﹄も当社発起の記事の中で﹁小浜鉄道発起人のいふ所に依れば京北鉄道の線路なる今津敦 賀間中には七里半越なる大難工事あるも、︵当社ルートの︶今津より熊川に出で敦賀に至れば少しく迂回なるも、工事の難少なく、 且線路中乗客貨物も多く、将た敦賀舞鶴間の線路と兼ね合ひ、結局国家経済上得策なりとするにあり﹂︵二入・一一・二三日出︶ と紹介している・高島郡県議らの・陳情書﹂でも・七里半越ト称スル峻断層坂ヲ越へ警二達スル跳躍しと表現しており・

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       ︵5︶ 京北への当社側からの共通した攻撃ポイントであった。京北の計画路線の難所の存在については鉄道会議で子爵堀田正養 も﹁其線路二戸テハ⋮大変悪ルイト云フコトハ吾々モ、アノ地方ノ者デアリマスカラ敦賀引出ル線路が悪ルイト云フコトハ知ッテ 居りマス﹂︵速記六六頁︶とのべている。        ︵6>  当社の発起は﹁其由来スル所既二四ケ年以前ヨリ計画罷在候義ニテ、所謂世ノ流行ヲ逐ヒ候モノト即自ラ其趣ヲ異二致 候﹂と一時の鉄道熱に踊った京北との差異を盛んに強調した。   ︵1︶︵2︶︵3︶二九年九月二十五日付﹁追伸書﹂。   ︵4︶二九年一一月付﹁陳情書﹂﹃滋賀県文書﹄滋賀県庁所蔵。   ︵5︶堀田正養は旧近江宮川藩主、旧石高︼万三千石、筑豊興業鉄道專、鉄道会議議員、鉄道国有調査会委貝。   ︵6︶二九年三月四日付﹁追願書﹂︵速記三五頁︶ ︵七︶小浜鉄道への仮免状下附  後に見るように滋賀県内では京北側が圧倒的多数を占め、有利に展開したが、小浜を管轄する福井県の判断は徹頭徹尾 当社側を強力に支持したと見られる。その理由は﹁小浜鉄道会社発起人置多ク管下若狭国遠敷郡在籍者二付勢ヨーー其沿革ハ略 ホ承知致候得共、京北鉄道ハ其会社創立二際シ、東京府知事ヨリ紹介越シ初メテ了知シタルモノニ付、其会社ノ申立ハ事実判明難        ︵1︶ 致⋮其前後二於テ京北鉄道二関シ取扱ヒタルコトナシ﹂と、節々で﹁︵福井︶県庁ハ益々業務ノ進行奮助ヲ与へ⋮発起人ノ申 立ノ事実ナリレ謡﹂めた当社側とは全く異なり、直接の接触がなく、地元への根回しの乏しい京北に不快感を隠さなかっ た。        ︵3︶  福井県の東京府への回答の大要は当社を﹁収利及交通の便益は共に大に望を逸せり﹂と全面的に推薦する一方で、﹁之 二反シ京北潮曇チ今津ヨリ湖西直二敦賀脚達スルモノハ線路頗ル険難、曾テ本県二於テ予測セシモノニ拠レハ、全国多ク其比ヲ見 明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 五五

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 五六 サル難線ニシテ随テ布設ノ工費ヲ増スハ必然ト信セリ。且富江二号テーノ海津ヲ除ク外ハ名邑首府ノアルナク、又其湖東ニハ官設 鉄道在リテ既二交通ノ不便モ極しと・万両断に切り捨てた・  実態的には管轄外でありながら、単に本社所在地が東京であるに過ぎない、次々に殺到する、他地方での鉄道敷設計画 の進達処理をこなす必要に迫られていた東京府知事の鉄道局長への副申書では﹁京北線ノ今津ヨリ敦賀二至ルノ線路ハ地勢 険難、全国多ク其比ヲ見サル難線ニシテ、為二多額ノ工費ヲ要スヘク、且此間継妻ーニノ海津ヲ除ク外、首邑ノアルナク、又其時        ︵5︶ 東田ハ既設鉄道アリテ別二交通ノ不便ナカルヘク﹂と、﹁曾テ本県二於テ予測セシモノニ拠レハ﹂等を削除の上、ほぼ機械的 に福井県側の挙げた京北側の問題点を挙げた。  監督官庁である鉄道局の判断も、福井県案を鵜呑みにした東京府の意見に従って、当社の全面勝利であった。三〇年四 月五日の鉄道会議に提出の鉄道局の説明書には﹁小浜鉄道株式会社発起人ヨリ出願セル鉄道線路ハ鉄道局ノ調査セル所ニヨレ バ其地形経済ハ別紙調査報告書二記載セル如クニシテ、発起人ヨリ提出セル起業目論見書ヲ照査スルニ起業ノ大体二於テ不都合ナ キト認ムルヲ以テ、本甲ノ如ク之力実地測量ヲ許可セントス﹂︵速記三〇頁︶とあり、三〇年四月五日の鉄道会議で幹事代理 の藤田虎力は﹁京北ノ方が小浜ヨリ少シ早イノデアリマス。併シナガラ、此小浜鉄道ノ成立二付テハ余程沿革が沢山アルノデゴザ イマシテ⋮依テ出願ノ前後二曲ラス小浜鉄道ノ方へ敷設ヲ許可シテ然ルベシ﹂︵速記六五頁︶と説明した。  鉄道会議では中橋徳五郎から﹁先願論ト云フ方カラ行キマスト京北鉄道が先デアリマス、夫カラ小浜ハ後トデアリマス﹂ ︵速記七一頁︶との先願論が蒸し返されたものの、大勢には影響なく、結局審議の結果、中橋を含め全員賛成で原案通り 当社への仮免状下付が決定した。一方の京北に対しては﹁今津敦賀問及朱雀野村粟田口間ハ現今地方ノ状況鉄道敷設ノ必要ヲ 認メサルヲ以テ、粟田口大津間二限リ本案ノ如ク之力実地測量ヲ許可セントス﹂︵速記四九頁︶として、﹁粟田寸恩リ大津二至 ル間上勝キマシテハ⋮京北鉄道ノ出願が早ウゴザイマスカラ﹂︵速記六五頁︶との理由で京津間のみの一部仮免状下付と

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なり、当社の﹁余程沿革が沢山アル﹂点を強調した、沿革重視作戦が見事に実を結んだ。京津間のみに短縮を余儀なくさ れた京北では減資、証拠金の一部払戻等、姉妹会社の近畿鉄道では解散を決議するなどの苦渋の対応を迫られた。︵三〇 ・山ハ・ 一二東経︶       ︵6︶  これにひきかえ﹁全線希望通リ可決セリ安心セヨ﹂との電報を受けた当社小浜支部では﹁恰モ敵将ノ首ヲ取テ降伏サセ        ︵7︶ シトキ一再クモヤラント思ハレ﹂るほど、拍手と万歳の声に包まれたという。強敵の京北に競り勝った小浜の町は﹁若狭 人民野口小浜町民ノ如キ挙手雀躍恰モ大旱二雲鶴ヲ望ミ長雨ノ柿然タルニ遇ヒシが如キ悦ビヲ為シ、欣喜其ノ措ク庭ヲ知ラズ、殆        ︵9︶       ︵8︶ ド狂セシバカリ斗リノ有様﹂で﹁﹃鉄道サへ許可ナレバ﹄トノ単純皮相ノ観念ノミ﹂に包まれていたという冷静かつ客観的 な観察記録も残されている。   ︵1︶︵2×3×4︶二九年一二月一七日松本鉄道局長宛、荒川福井県知事副申書、﹃省文書﹄。   ︵5︶二入年一二月一四日松本鉄道局長宛、東京府知事副申書、﹃府文書﹄。   ︵6︶︵7︶前掲芝田論文、一入頁所収。   ︵8︶︵9V槍海生﹁小浜鉄道仮免状下見二二キ若狭人民ノ覚悟如何﹂明治三〇年四月︼○日︵前掲芝田論文二一頁所収︶ ︵八︶株価暴落と鉄道計画への打撃  当時の定期市場における鉄道株は二九年一一月末には﹁前周来低落に低落を重ねて殆んど底止する所を知らざるが如き有様 なるに⋮本吉は又不況に始まりて忽ち場面総崩れの業態を現し、物凄まじき暴落を告げたるが、下落の潮勢は薙に止まらずして、 翌も亦意外の瓦落を為し、炭磯の如き、終に七十円台を呼ぶに至りたり﹂︵﹃鉄道雑誌﹄二八号、四五頁︶という惨落で、特に 北炭株等に偏重した投資を行っていた糸平派ら東京の当社発起人の資金状態は地元小浜の狂喜乱舞とは全く異なり、既に       ︵1︶ 当社等、遠隔地の低収益路線への投資意欲を次第に喪失しつつあったと考えられる。当時の﹃東京経済雑誌﹄も﹁事業熱 明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 五七

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 五入 に浮かされて︸時に春著の如くに籏生したる諸会社の中には随分怪しきものも少からず⋮近頃経済界の雲行愈々不穏なるより、諸 会社の寒九愈々甚しく、解散、株式公売単相尋て起り来るに至れりし︵三〇・八・二八東経︶と新設企業の困難を報じている。 さらに鉄道局が着工等を躊躇する鉄道企業に対して﹁天災事変の澄め予定通り遂行する能はざるものの外は一切延期を許 可せざる﹂︵=二・四・三〇東経︶という厳しい方針を貫いたため、三一年頃にはたとえば前年に免許されたばかりの駿 甲鉄道が﹁経済社会の現況に徴し、到底株金払込の完成を期し難き﹂︵三一・七・三〇東経︶として解散、同じく酒田鉄 道や筑後鉄道等も期限内に登記完了できず、免許状を返納したが、﹁亦以て如何に民間事業家が其資金を得るに困難なる かを知るべし﹂︵︸一二・六・一一東経︶と記している。  当時の当社近辺の鉄道企業の置かれた環境を見ると、例えば大阪財界の巨頭・松本重太郎が出身地方面への鉄道として 肩入れしてきた丹後鉄道は三二年五月﹁到底成算の見込なきを以て去る五日、宮津町に予て解散案を決議﹂︵三二・軽銀︶ している。また将来﹁善部に於て⋮小浜鉄道に連絡﹂︵三四・一・二五鉄︶する予定の、既設の京都鉄道でさえも﹁尚ほ 七十余哩の未成線を有し居るも、数年来引続ける経済社会不振の為め到底急速に敷設し得るの見込みなきを以て、同会社は畏きに 政府に向て買収の儀を請願﹂︵三三・一一・二五鉄︶する始末であった。当時未成線を有する私鉄各社は資金難に苦しみ、 社債発行限度の引上げ、日本勧業銀行等による鉄道抵当貸付実施等を両院へ請願している。︵三﹂・六・=東経︶三四 年の金融恐慌時には豊川鉄道が帝国商業、愛知等の銀行に差押えられ、﹁世人をしてその乱脈なるに驚かしめたるが、こ の種の鉄道会社はただ一二に止まらず﹂︵三四・五・三〇国民︶として、房総、二相、尾西、近江、中越、七尾、西成等       ︵2︶ の鉄道も﹁すこぶる窮迫の有様なり﹂︵三四・五・三〇国民︶と報じられている。   ︵1︶例社の例で遠隔地株主であった弘遠助三郎らは三一年時点で当社と同様に﹁未だ事業に着手せず前途遼遠なる大社両山鉄道の如き﹂9=・五・    四大朝︶は﹁山間僻地の地方のみを多く通過するものなれば、旅客・貨物等の収入多からざるに反し、工事費用は斯て多額を要するを以て営業を

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 開始するも利益の見込なければ、寧ろこの際解散するに如かずしとして、﹁解散同盟会﹂を組織した。︵一︼=・九・二二中外︶ ︵2︶事相鉄道、高野鉄道、太田鉄道など明治後期の困窮私鉄に関しては拙稿﹁明治・大正期の困窮私鉄再建と生保金融⊥旦相鉄道の資産継承会社の性  格を中心に一﹂、﹃彦根論叢﹄第二九入号、平成七年一一月、同﹁明治末期の民営社会資本の挫折と再建−高野鉄道のデフォルトと財政整理を中心  に一﹂﹃滋賀大学経済学部研究年報﹄第二巻、平成七年一二月、同﹁明治期銀行融資のデフォルトと自己競落・証券化による不良債権回収一十五銀  行の太田鉄道融資と水戸鉄道新設を中心に一﹂﹃彦根論叢﹄第二九九号、平成八年一月等を参照。 ︵九︶仮免状下附後の小浜鉄道の動静  折田平内滋賀県知事は三一年五月の時点では当社の成立を確信していたのか、大津商業会議所に対して﹁近く小浜・京       ︵1︶      ︵2︶ 北洋鉄道の開通⋮に付、之が商工業に及ぼす影響如何﹂との諮問を行い、会議所では五星の委員でその影響を調査している。 また三二年三月二+九日付の京北免許の際に・京北・京阪両鉄道発起人の子忌は・京阪線の京北線と共に目的とする処は 北国地方と大阪の連絡にあれば、奮に関西線および官線に影響を及ぼさざるのみか、将来軍事上には非常なる利益あるべく、故に 小浜鉄道にして敷設せずんば京阪線より此線路の敷設を出願せん見込なりL︵三二・三・二五鉄︶と当社線の取込み意欲を語っ ている。三二年三月という時期はちょうど当社が必要な株主を確保できず、九ケ月間の仮免状の更新をようやく許可され たタイミングに当る。おそらく東京の当社株主の失速状況を熟知した岡部ならではの﹁小浜鉄道にして敷設せずんば﹂と の露骨な挑発的発言になったのであろう。  三二年八月五日の﹃鉄道時報﹄は﹁京阪付近の諸鉄道﹂紹介記事で、﹁京都市岡崎より市の東部を糸回り、稲荷付近を経て 淀川の東岸に沿ひ、入幡、枚方、守口等を経て大阪布天満橋付近に出つるの計画あるものは京阪鉄道にして、岡崎に於て京北鉄道 に接続せり。京北線は岡崎より東に進み、大津に出つるものにして︵京北、京阪両鉄道は已に合併の約成れり︶、琵琶湖の西岸に沿 ひ、小浜に出つるの小浜鉄道に接続する設計なり。此三鉄道一帯の線路は北国地方と京都大阪を連絡するものにして、兼て京阪地 明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 五九

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 六〇 方の運輸交通を敏活ならしむる重要の線路なるべし﹂と依然として当社を重視しているが、これ以降当社に関する情報は残 念ながら﹃鉄道時報﹄誌上にも見当たらない。﹃鉄道時報﹄に限らず、当社に関する情報は﹃鉄道雑誌﹄、﹃東京経済雑誌﹄ 等でも極めて少ない。﹃東京経済雑誌﹄で言うなら、仮免状蓋附時点︵三〇年号月一〇日号︶、﹁明治三十年度鉄道事務報 告要領﹂の中での仮免状下竪︵一一二年一〇月二二日号︶の二回程度で、いずれも一覧表の中の社名のみの扱いとしてであ る。このように当社の報道量が極端に少ない理由としては①遠隔地、②未開業、③地味、④不活発などが考えられるが、 ﹃鉄道雑誌﹄等には他の遠隔地の未開業線も数多く報道されており、要するに報道するに値するような活発な活動︵内紛 等のマイナス活動も含め︶が見られず、地元小浜では本免許獲得に向けた地道な株主募集面等での努力が継続されていた としても、少なくとも中央レベルにおいては当社には前向きの積極的行動が見当たらなかった可能性が高く、極めて地味 な、忘れられた存在であったと考えられる。しかし当社の本社は遠隔地の小浜ではなく東京であり、発起人中にも鉄道資 本家として著名な人物が少なからず含まれており、決して小浜の︵全国的レベルでの︶無名資本家のみによる地元集団で はなかった。したがって当社の東京での中心人物が鉄道業との関係が薄く、鉄道専門誌に登場する機会が乏しく、あるい          ︵4> は適切なスポークスマンを欠いてマスコミ等と没交渉であった可能性がある。さらに次項で述べるように、このことは仮 免状蝉吟以降に中心人物を失い、求心力が低下し、既に東京での株主募集能力を喪失した、いわば開店休業状態に陥って いた可能性をも示唆しているものと考えられる。   ︵1︶﹃大津商工会議所沿革史﹄昭和一入年、大津商工会議所、四一五頁。   ︵2︶大津市私立教育会編﹃大津市志﹄中巻、明治四四年、一〇六六頁。   ︵3︶岡部廣は東京日本橋、紙商、江戸川製紙監、北埼玉鉄道発起人総代、関東鉄道発起人、相模鉄道取、成田鉄道取、京浜銀行頭取。   ︵4︶たとえば京都鉄道の場合、支配人伴直之助は﹃東京経済雑誌﹄主宰の田口卯吉と特別な関係があったためか、同誌に度々紹介されている。

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︵十︶小浜鉄道の結末  結局、﹃明治三十三年度鉄道局年報﹄によれば三〇年九月一三日付で仮免状を下附された当社︵九五三二〇鎖、資本金 三九五万円︶は期限が経過したため仮免状が失効となり、﹁明治三十三年六月二十入日附免状返納を命ぜらる﹂︵﹁目次﹂﹃省 文書﹄︶に至り、現実の仮免状返納は三三年七月一二日であった。﹃鉄道省文書﹄等では残念ながら仮免状下付から仮免状 返納までの経緯そのものは解明できない。  仮免状返納後の三四年三月一六日の﹃近江新報﹄は︵好景気になれば︶﹁彼の久しき以前より計画せる京北鉄道︵京都大津 間︶並びに小浜鉄道︵大津小浜間︶は各工事に着手することとなる⋮此二つの鉄道の終点は大津である。大津の繁栄は是に至って 大に面目を改めるであろう﹂︵訥堂﹁大津市の未来﹂︶と地元・大津市民の感情として金融恐慌突入の最中においても景気回 復による当社や京北線の工事再開になお大きな期待を寄せていた。当社は返納直後の入月五日経済界回復の機会を待って 当初目的の通り寡黙提出することを最後の発起人会で決議、そのためか株主への証拠金の返還が行われたのは実にその二        ︵1︶ ○年後の大正六年であったという。半永久的に返還されない証拠金を拠出させられた当社株主や証拠金の拠出資金を当社 の権利株担保に融資した関係銀行にとって、﹁小浜鉄道﹂という名称は忘れることのできない苦い思い出として子孫に継 承されたことであろう。例えば昭和二年一二月福井弥平大溝町長は﹁私達は久しい間鉄道開通を待ちわびた。明治二九年       ︵2︶ 京北鉄道、ついで小浜鉄道の発起があったが立ち消えとなった﹂と回顧している。   ︵1︶前掲芝田論文、二〇頁一六頁。   ︵2︶和田昌胤執筆﹁会社の生いたち﹂﹃江若﹄︵江若交通社内報︶昭和四五年九月一五日∼四豊年一月五日連載、江若交通所蔵。 明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 六一

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 六二 三、小浜鉄道の設立を阻害した諸要因 ︵一︶中心人物の相次ぐ離脱  当時の当社が、株主を確定できぬま・、身動きとれない窮状に陥っていた原因としては推量も含めて、いくつかの要因 をあげることができる。まず第一に考えられることは、中心人物の相次ぐ発起人からの離脱である。まず三〇年三月三日         ︵1︶ 筆頭発起人の酒井捨吉が﹁溺死﹂︵﹁死亡御届﹂、﹃省文書﹄︶し、発起人名義からの削除を余儀なくされた。酒井捨吉が実 質的な筆頭発起人として活発に活動していた場合はもちろん、たとえ名目的な象徴的存在であったにせよ、地元小浜と東 京株主をつなぐ連環機能が喪失したことは間違いない。さらに三〇年三月一九日発起人山本直行も﹁病死﹂︵﹁死亡御匙﹂、 ・省文書﹄︶し・削除された・このた些一6年五月二二日付で酒井捨吉の代りに酒井中墨・池上幾飯島気象・平沢

寒噸矢島潅の計襲名を発起人に追加した・しかし旧小浜董の酒井忠道以外は串平八の部下か田中の手先たる株

式仲買人に過ぎず、急肥えの弥縫策であり、大物の追加はできなかった。本当なら創立委貝長和田国四郎との人出から見 ても大物発起人として当初からの参加が当然に期待されるはずの雨宮派の総帥・﹁相場師社会にての利者﹂︵==・一・ 二報知︶雨宮敬次郎は当社の増資・延長出願が行われた二豊年一一月一六日の直前の八日に日本鋳鉄不正納入黒血で拘束 され、晴れて無罪となって﹁二十九年の五月五日に出獄﹂︵事蹟一入九頁︶するまでの間は身動きできない状況に置かれ ていた。出獄直後﹁丁度武相中央鉄道の社長になれと友達に勧められた時で真逆牢から出た計りではと﹂︵事蹟一九〇頁︶ 一旦は就任を躊躇したのと同様に、仮に当社発起への参加を勧誘されたとしても雨宮の方から辞退した可能性もあろう。 ・うした事情からか・雨宮のダミーとして・後に養子となる古屋豊飽が担ぎ出された可能性が高い・  さらに出願時点でこそ一旦退官して無職であった和田自身のその後経歴も﹁三十年製鉄所長官となり、三十五年官を退

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き、日本鉱業会長に推さるL︵正一五六二頁︶とあり、製鉄所長官への官職復帰により、当然ながら発起人総代を辞退す ることとな・たものと委られる・和田は・前記の雨宮によれば野畳窺︵同上事件に琵︶・長谷川芳誕とともに・鉱 山学者として頻りに鉄を製造したい﹂︵事蹟一七八頁︶と念願していた人物とされ、この三名の著名な技術者に、松方正 義、有島武︵武郎の父、税関の役人︶、雨宮を加え﹁二十五年に六人枕流館に集って是非製鉄所を起そうちゃないかと相 談した﹂︵同上︶という。現に官営製鉄所設置の原案となった﹁第九議会に提出したる製鉄所設立案は野呂技師の起草せ しもの﹂︵二九・五・二二東朝︶であった。こうした和田のかねての主張から、﹁諭旨に依り予て辞表奉呈中なりし﹂︵三        ︵11︶ ○・入・一四東経︶製鉄所長官山内提雲が三〇年入月九日解任されたのに伴い、一〇月六日急遽後任の長官に抜擢された と考えられる。前任の山内長官任命時にも﹁久しく未定なりし製鉄所長﹂︵二九・五・二二東朝︶と言われた曰くつきの ポストであったためか、山内長官解任から和田の就任まで約ニカ月の空白がある。和田側の事情としては三〇年四月五日 の鉄道会議で当社への許可方針が可決され、鉄道会議の議を経て三〇年九月=二日置で正式に仮免状を得た時期に重なる。 恐らく和田としては最低でも発起人総代の義務として仮免状受領時までは発起人総代の辞退に繋がる製鉄所長官就任を固 辞したのであろうか。︵ただし九月一六日の現実の受領行為そのものは請書の名義が田野となっており、和田本人ではな かった。︶製鉄所長官は﹁農商務大臣ノ指揮監督ヲ承ケ、所中一切ノ事ヲ掌理シ、所属職貝ヲ監督ス﹂︵﹁製鉄所官制﹂第 三条︶る勅任官であり、民間営利企業の役職兼務を許されぬ官職であることは当然であるが、仮に名目的な関与が許され たとしても、とても郷里の鉄道に割く時間的余裕すらない超多忙状態であったと思われる。それは官営製鉄所が和田の着 任当時は﹁わずかに官舎十五棟の建築に着手せしのみで、未だ他の準備は少しも出来居らざる﹂︵三〇・八・一八日本︶ 状態にあり、三二年にはドイツ人技師招聰のために和田長官自身が欧米に出張するなど多忙かつ過酷な重責を担わされた ことから推定される。和田の努力にもかかわらず﹁経験乏しく、且つ技術甚だ幼稚であったため、作業開始後幾多の故障 明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 六三

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明治中期における近江・若狭越前連絡鉄道敷設計画の挫折と鉄道投機 六四         ︵12︶ が相次いで起ったL心労も加わってか、和田長官は三五年二月三日休職となり、その後九州帝国大学総長就任を要請され       ︵13︶ たが﹁二度と官職に就かなかった﹂事情からもその難業激職のほどが察せられるところである。  さらに滋賀県側の当社発起人であり、積極的な推進派であった高島郡、滋賀郡選出県議である前川源次郎、高島信茂、 前川理入、榎市次郎、小村孫右衛門、木戸良貞、橋本甚吉郎の七名がそろって三一年日月一五日の選挙で落選し、政治的 影響力を喪失したことがあげられゑこれはこの時から県議会の定数が五三名から奉に三〇名に些した︾とを直接の 背景としている。 ︵1︶酒井捨吉は旧小浜藩主の養弟。明治入門二月生、発起人就任時は二〇歳、﹁職業ナシ﹂︵二入年一一月一二日付東京府宛牛込区長回答︶。 ︵2︶酒井忠道は旧小浜藩主、第十五国立銀行創立時四八四名中主四六位の大株主、三〇年末現在の日本鉄道六三七五株、.第二〇位の大株主︵﹃日本鉄  道株主名簿﹄三〇年一二月目であり、三一年時点の主要銘柄での酒井忠道の持株の評価額に占める、十五、日鉄二社の比重七〇・一%はほぼ大名  華族中の平均値に近かった。︵伊牟田敏充﹁華族大資産家1その株式投資の展開と特質一﹂渋谷隆一、加藤隆、岡田和喜編﹃地方財閥の展開と銀行﹄   一九八九年、日本評論社、五三五頁︶ ︵3︶池上伴造は二〇〇株、日本橋区、田中銀行取、第百十二銀行下支五〇株、帝国貯蓄銀行発・五二〇〇株、所得税=一五円四〇銭。 ︵4︶飯島千代弥は七〇〇株、日本橋区、北海道鉱山監。 ︵5︶平沢春太郎は神田区旅寵町、銀行貝、所得税入六円六二銭。 ︵6︶矢島平造は三〇〇株、日本橋区、東京株式取引所仲買、東京商品取引所監、日本昆布監、所得税三九円七五銭、二九年井上角五郎らと大船鉄道発   ︵﹃鉄道雑誌﹄六号、三二頁︶。三一年四月一九日横山源太郎と﹁自店の得意なる十五銀行の山本直成、根室の柳田藤吉、佐賀の諌早など﹂︵野城久  吉﹃投機﹄明治四三年、巻末入四頁︶北炭買占グループが﹁自分の手先として働かした仲買﹂︵南波礼吉﹃日本買占史﹄昭和五年、五五頁︶買占仲  買の一人であった。 ︵7︶雨宮敬次郎は二七年一月から株式会社に改組した日本鋳鉄の社長として関与を始めており、白柳によれば﹁此犯行は浜野茂が冠血敬次郎に代って  社長となってからも依然として続けられ﹂︵白柳秀湖﹁東京市不正鉄管事件の真相﹂﹃実業之世界﹄昭和六年入∼↓○月連載、野依秀市編﹃財界実  話﹄昭和七年、実業之世界社、三四七頁︶たとされ、﹁日本鋳鉄会社が不正手段を用ひて、イカサマ鉄管を納めて居るといふ噂が風のやうに何処か  らともなく起って来た。さうしてそれが市参事会あたりの問題となった﹂︵白柳前掲稿三五三頁︶ため、日本鋳鉄側では二八年梅月三一日鉄管請負  契約の解除を申請、当社発起人集会の行われた一〇月三一日の当日には浜野社長が拘留され、家宅捜査を受けた際に﹁雨宮より浜野に宛てたる書  面一通を得﹂︵二八・一一・=一日出︶、ここには﹁市会の庭は曇れ応手を回はし置きしが、尚ほ足下も十分手を回はさるべし⋮﹂︵白柳前掲稿三五

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