はじめに
第二次世界大戦の終戦直後、東京都区部では基幹施設の損壊こそ 免れたが80%ともいわれた漏水への対応に追われ、またそれと同時 に区部の人口増加とそれに伴う水道需要の増加に対応する必要が 生じた。確かに占領下においてGHQ(連合国軍最高司令官総司令 部)の指導の下で水道水への塩素注入が徹底されるなど水道水質面 への配慮も行われ、また昭和30年代後半には特に多摩川下流の水源 汚濁が課題となり始めてはいたが(1)、終戦以降、長い間、東京都 水道局では何よりも水量の安定確保が社会的なニーズとみなされ た。 そこで東京都水道局では戦前に策定された多摩川水系の水道拡張 事業(第二次水道拡張事業)、すなわち小河内ダム建設の再開を決 め、昭和32年にはそれを完成させるに至った。しかし高度経済成長 期に入っていた東京では水需要増大の勢いは容易には収まらず水不 足の傾向が続いたため、東京都水道局は水源を利根川に求める大規 (1) 昭和 39 年度水道事業会計予算の附帯決議として「原水の汚染防止措置を進め、 特に多摩川の汚濁防止について対策を早急に講ずること」が議決され、玉川浄水 場汚濁防止対策協議会が設置された(東京都水道局 1966:27)。都市化と大都市水道事業の論理:
東京都水道事業の事例研究
宇 野 二 朗
はじめに 1 水道システムの発展と水道事業運営 2 水不足に対する都民の反応と都水道局-安定給水の論理の拡張 まとめ模な拡張事業や既存給水区域内の給水不良対策を本格化させた。 この論文では昭和27年の地方公営企業法により一定の自律性を備 えるようになった東京都水道局が、都市化という外部環境の変化に 応じて、水道界に存する複数の論理の間で、自らどのような論理を 形成していったのかを、投資政策の実践を追跡することで明らかに したい。公平な取扱いを求める世論の動向を反映して、土木技術者 としての都市専門官僚が重視する安定給水の論理も、その内容が拡 張されることになった。
1 水道システムの発展と水道事業運営
1.1 都政の状況 まず当時の都政の状況を確認しておこう。オリンピック開催前の 1964年夏をピークとする水不足が本格化した時期は、オリンピック 都政とも言われる保守の東都政(1959年~1967年)に重なる。東龍 太郎は医学博士、元東京大学教授、そして国際オリンピック委員会 (IOC)委員であり、1964年の東京オリンピック成功を最重要課題 とした知事であった。渇水対策を含む都政の実務は、直前まで官房 副長官を務めていた鈴木俊一副知事が担った(土岐2003:59)。鈴 木は元内務官僚として地方公営企業制度に熟知し、また渇水対策に も都水道局とともに当たった。 この東都政を支えたのは自民党であった(土岐1995)。1959年4 月の知事選で自民党は東を公認し、また再選のかかった1963年4月 の知事選でも自民党は東を推薦した。 東京オリンピック開催に向かう東都政の時代に、自民党は都議会 で第一党の立場にあった。1959年からの第5期都議会では自民党が 73議席(60.8%)を占め、日本社会党が42議席(35.0%)でそれに 続いていた。1963年からの第6期都議会でも自民党は69議席(57.5 %)を占めて第一党であり、日本社会党が32議席(26.7%)であっ た。公明党(1964年11月に公明会から改称)は17議席(14.2%)を占めていた。なお東京オリンピックの翌年1965年には都議会議長選 を巡る汚職で都議会が解散され、日本社会党が45議席(34.9%)で 第一党となるなど都議会の構成は大幅に変わった(源川2007)。 1.2 都市化と水需要の増大 第二次世界大戦後の東京都区部は、都市化が著しく高度経済成長 の進行とともに過密都市化していく過程の中に置かれた。当然、人 口の増加は著しく、また都市機能の充実とともに水需要も急増した が、都水道局の水道施設能力はそれに追いつかなかった。そのため この時期には渇水が起こるたびに給水制限が実施され、また平時で あっても多くの給水不良地区を抱えるなど需要充足に大きな問題を 抱えていた。まずそうした状況を表1で確認しよう。 第一に、人口(給水区域内人口)の動向である。1970年代に多摩 地区の市町村水道事業が統合されるようになるまで、東京都水道事 業の給水区域は区部(旧東京市の給水区域)に限られていた。昭 和25年度には563万人であった区部人口は、毎年度20万人から30万 人のペースで急激に増加し、10年後の昭和35年度には837万に至っ た。しかしその後は徐々に増加ペースが鈍り、昭和40年度の888万 人をピークとして、ごくわずかな減少、あるいは横ばいの傾向に転 じた(2)。 第二に、給水人口の動向である。水道の普及がまだ途上であった ことから、上記のように区部人口の増加が緩やかになっていって も給水人口の増加は続いた。昭和25年度に419万人であった給水人 口(普及率74.4%)は、年度によっては40万人を超えるペースで増 加し続けた。昭和30年代後半には普及率が90%に近づき、また区部 人口も微減・横ばいとなっていたことで増加ペースが緩やかになっ てはいたが増加を続け、給水人口は昭和42年度に816万人(普及率 (2) なおこうした傾向はその後も続き、昭和 47 年度には 873 万人まで減少した。もっ とも翌昭和 48 年度からは多摩地区の市町水道事業を段階的に統合していったこ とからそれに伴い給水人口は増加した。
92.1%)に達した。 第三に、配水量の動向である。こうした人口動向に対して配水 量、すなわち年間総配水量、一日平均配水量、及び一日最大配水量 のいずれも昭和30年代半ば頃から昭和40年代初頭にかけて変わる ことなく急増を続けた。例えば一日最大配水量は昭和25年度には 1,521千㎥であったのが、昭和35年度には2,600千㎥に増加し、さら に昭和42年度には4,119千㎥へと増加した。区部人口の増加が収ま っていく傾向にあったのに対して水需要は高まり続けたのだ。 第四に、施設能力増強の動向である。施設能力は昭和25年度には 1,193千㎥であった。この時点でも一日最大配水量1,521千㎥を下回 る規模でしかなかった。都水道局は急増する水需要を追いかけて相 模川系からの分水協定締結による増強、江戸川系の拡張、中川・江 戸川系の緊急拡張、あるいは戦前からの念願であった小河地ダム建 設による拡張(第二水道拡張事業)によって段階的に施設能力の増 強を図ってきたが、水需要の増加ペースが常にそれを上回り、需要 充足が難しい時期が続いた。 第五に、制限給水等の状況である。施設能力が常に需要量を下回 っていたとしても水運用によってやり繰りしながら東京都水道局で は安定給水に努め続けていた。しかし昭和32年度と昭和33年度には 一時的な給水制限を行い、そして昭和36年度から昭和39年度まで約 3年5か月にわたって制限給水を行った。さらに東京オリンピック 直前の昭和39年夏には最大50%の制限給水を余儀なくされ、このと きは自衛隊による応援給水も実施された(東京都水道局1963;小林 1964)。東京オリンピック開催にも影響を与えかねないこの水不足 は、後に見るように国政をも動かす大問題となった。
表1 東京都水道事業の発展(昭和25~42年) [出所]東京都(1999c:28-31, 170-179)に基づき作成。 給水区域内 人口 給水人口 年間配水量 一日平均配 水量 一日最大配 水量 施設能力 (万人) (万人) (百万㎥) (千㎥/日) (千㎥/日) (千㎥/日) 昭和25 563 419 491 1,344 1,521 1,193 応急拡張 26 598 465 521 1,424 1,608 1,199 応急拡張 27 627 491 539 1,477 1,707 1,222 応急拡張 28 659 517 556 1,524 1,722 1,222 相模川拡張等 29 681 533 588 1,611 1,813 1,222 30 703 563 622 1,698 1,918 1,222 31 734 598 651 1,784 2,039 1,222 32 763 640 676 1,853 2,117 1,222 給水制限(3.18-4.30、5.22-6.10) 33 791 656 700 1,918 2,187 1,222 城南地区時間給水(5.7-5.8)給水制限(7.1-7.23) 34 817 677 775 2,119 2,372 1,526 相模川拡張等 35 837 701 847 2,320 2,600 1,676 第二水道 36 853 729 921 2,524 2,924 1,859 第二水道 37 865 751 909 2,491 2,930 1,954 江戸川系拡張 38 874 774 970 2,649 3,089 2,046 第二水道 39 882 789 1,044 2,860 3,168 2,446 中江戸緊急 40 888 800 1,156 3,167 3,784 2,746 第二水道、一利根 41 886 806 1,208 3,308 3,870 3,346 一利根、二利根 42 886 816 1,306 3,567 4,119 3,346 制限給水(昭和36.10.20-昭和40.3まで) 拡張事業 制限給水等の状況 1.3 水道拡張事業の発展と水道システムの転換 -多摩川系から利根川系へ このように昭和25年から昭和42年(1950年代から1960年代)にか けて都区部の人口は急増し、また水需要はそれを上回る勢いで増加 していた。こうした水需要の急激な増加に対して、都水道局は応急 的な施設拡張を行いつつ、抜本的な解決策として利根川系の拡張事 業に乗り出していくこととなった。では利根川系水道拡張事業とは どのような事業であったのだろうか。その特徴とそれが東京の水道 システムに対してどのような変化をもたらしたのかを以下にまとめ ておこう。 そもそも東京都水道局における利根川系の水源開発の構想は戦前 に遡る。多摩川系の「第二水道拡張計画」に続く東京市水道事業の 拡張計画として昭和10年代半ばには利根川上流に水源を求める「第 三水道拡張計画」が策定されていた。東京都内を流れる多摩川の水 の有効活用を目指した第二水道拡張事業(小河内ダムの建設)をも ってしても東京の水需要を賄いきることは難しいであろうことは、 すでに昭和11年頃には認識されていた。そこで第二水道拡張計画を 策定したときと同様に関東全域の様々な水源、すなわち利根川、三 島湧水、相模川、荒川、等の調査検討が行われた。その当時、群馬
県によって「利根川河水統制事業」(昭和15年認可)として奥利根 にダムを建設することが計画されていたため、昭和16年3月、東京 市水道局がそれに参画し、また、「第三水道拡張計画」の水源とし て利根川を採用することを東京市会は議決した。しかし群馬県によ る「利根川河水統制事業」が戦争により事業着手に至らなかったこ とから「第三水道拡張計画」は認可を受けることなく頓挫すること となった(藤田1965a:39;東京都水道局1993:1-20)。 第二次世界大戦後の利根川の水資源開発の計画策定は建設省と水 資源開発公団が主体となり進められた。都水道局も利根川を水源と する拡張事業を模索していたが(3)、それが本格化するには国政で の動きが必要であった。昭和27年に「利根川河水統制事業」を国が 実施することが決まり、「利根特定地域総合開発計画」が昭和32年 に閣議決定された。一方で取水量をめぐっては東京都、群馬県、東 京電力の各関係者間での調整がつかないままであったが、昭和33年 に建設省が特定多目的ダム法に基づいて利根川水系の二つのダム (八木沢ダムと下久保ダム)を直轄施工することとなった。東京都 はこれに参加することで必要となる水量(16㎥/秒)を確保した (西山1960:71)。その後、昭和36年にいわゆる水資源二法(水資 源開発促進法・水資源開発公団法)が制定されると、昭和37年5月 には経済企画庁に水資源局が設置され、また水資源開発公団が発足 した。それに伴い建設主体は建設省から水資源開発公団へと変更さ れ、水資源開発公団を中心に関係各所への調整と計画策定が進めら れた(藤田1965a:41-42;水資源開発公団利根導水路建設局1968: 3)。 こうして策定されたのが、水資源開発公団が中心となって策定し た「荒川利用案」、すなわち「利根川導水路計画」であった(水資 源開発公団1982:15)。これは利根川の中流部(見沼代用水取入口 (3) 例えば昭和 29 年には都水道局が戦前の「利根川水道拡張計画」を復活させよ うと計画していることが報道されている(『朝日新聞』1954 年 1 月 7 日、8 頁(東 京版))。
付近)で都市用水と農業用水を合口取水し、それを新設の水路(武 蔵水路)によって荒川に流入させ、再び荒川の秋ヶ瀬橋付近で取水 し、これを水資源開発公団が新設する朝霞導水路を経て埼玉県朝霞 に新設する朝霞浄水場の接合井にて受水するというものであった (藤田1965a:38)。 一方で東京都水道局はこうした国レベルでの水資源開発に基づき 自らの水道拡張事業計画を進めた。昭和38年11月15日、水道法に基 づく厚生大臣の認可を受け、都水道局は第一次利根川系拡張事業に 着手した(4)。その計画目標年度は昭和45年度であったが、昭和39 年10月の東京オリンピック開催を前に水不足が深刻化するとそれへ の対応として、昭和39年8月25日、利根川-荒川間の水路が未完成 のまま荒川から暫定的に取水を開始することになった。そして翌年 の昭和40年3月には利根川と荒川を結ぶ武蔵水路の一部が通水し、 利根川からの水供給が終に実現した(藤田1965a:40;東京都水道 局1993:2;東京都水道局1999b:210-211)。さらに昭和40年から 45年度にかけて第二次利根川系拡張事業(昭和40年~昭和45年)が 実施され、その後も第三次(昭和45年から昭和50年、昭和47年に計 画変更)、第四次(昭和47年~昭和55年)と利根川系拡張事業は続 けられた(東京都水道局1993:29)。 もちろんこうした利根川系拡張事業によって施設能力は増強さ れ、量的な充実が図られた。利根川系拡張事業が開始される直前 の昭和39年の施設能力は約244万㎥/日であったが、そのとき一日 最大配水量は約317万㎥/日であり、充足率は約77%に過ぎなかっ た。しかし第一次利根川系拡張事業により120万㎥/日分が拡張さ れると施設能力は約364万㎥/日となり、また第二次利根川系拡張 事業により140万㎥/日分がさらに拡張されてその終了年度である (4) 利根川系拡張事業の水源は「利根川水系及び荒川水系における水資源開発基本 計画」(通称フルプラン)に基づいて計画・実施された水源施設によっている。 第一次利根川系拡張事業及び第二次利根川系拡張事業は、第一次フルプラン(「利 根川水系における水資源開発基本計画」(昭和 37 年~昭和 45 年、矢木沢ダム、 下久保ダム、利根導水路が完成)に基づく(東京都水道局 1993:26-29)。
昭和45年度には約488万㎥/日(5)まで増強された(東京都水道局 2015:152)。このときの一日最大配水量は約513万㎥/日であるこ とから充足率は約95%となり、拡張事業の甲斐あって不足幅は狭ま ってきた(6)。 こうした総量レベルでの量的充実を個別の需要充足に結び付けた のは既存の配水管網充実のための建設投資であった。都区内全域に 水を行きわたらせるためには給水不良地区を解消する必要があり、 そのためにさしあたっての需要に応じるための配水小管整備に加え て、工事費が多額であるために後回しとなっていた配水本管の整備 が昭和31年から着手された(「配水本管整備五ヵ年計画」)。また 漏水防止作業も同時に進められた。 そうした量的充足に加えて、利根川系拡張事業は次の二つの観点 から東京の水道システムを質的に転換させる契機を含んでいた。 第一に、主たる水源の転換をもたらした。東京の水道システムは 昭和10年頃には多摩川系が7に対して江戸川系が1と言われたよう に、その水源を多摩川水系に大きく依存し、また両水系間での相互 融通が難しいシステムとなっていた(小野1973)。もちろん戦後の 急増する水需要への対応として多摩川系の増強(「第二水道拡張事 業」)の一方で相模川系からの分水なども行われるようになり、水 源は分散されるようになっていた。しかしこうした状況を一変させ たのはやはり利根川系水道拡張事業であった。各水系別の水源量に 占める割合が現在では利根川・荒川水系78%、多摩川系19%、その 他3%となっていることからもわかる通り(7)、東京の水道システ ムの主要水源は多摩川系から利根川系へと転換されていった。 第二に、水源間の連携への展開を可能とした。まず、第一次利根 (5) なお、昭和 45 年の施設能力からは水質問題のために昭和 45 年9月 28 日から 取水が停止された玉川浄水場分 152,500㎥/日を除いている。 (6) 一日最大配水量の数値は東京都水道局(1999c:31)を参照。 (7) http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/suigen/antei/02.html[2018 年2月5 日アクセス]。
川系水道拡張事業(昭和38年から昭和45年)について見てみよう。 この事業は主に原水連絡施設、浄水施設(朝霞浄水場の新設90万㎥ /日と東村山浄水場の拡張30万㎥/日)、送水施設、配水施設の建 設から構成される総工費752億円の大規模事業であった。水源間の 連携という観点から注目に値するのは埼玉県朝霞市(朝霞浄水場) から東京都東村山市(東村山浄水場)の間を結ぶ原水連絡管であ る。利根川中流の利根大堰で取水された毎秒30㎥の水は、武蔵水路 (利根川~荒川)、荒川、そして朝霞水路を経て、新河岸右岸の接 合井まで導水され、その後、朝霞浄水場内の原水ポンプ場まで導水 されるのだが、このうち毎秒7.7㎥はさらに原水連絡管を通じて東 村山浄水場まで送水されるのである(東京都水道局1993:5-26; 東京都1999b:113-117)(8)。東村山浄水場にはもともと多摩川系 から原水が導水されているのだが、ここに利根川系の原水が導水さ れることで、その分、多摩川系の原水を平常時には小河内ダム等に 蓄えておくことが可能となるなど、二つの系統の水源が結び付けた 運用が可能となった。 さらに、第二次利根川系水道拡張事業(昭和40年度から昭和45年 度)ではこうした水源間の連携が深められた。この事業には各系統 の浄水場を結び付ける送配水幹線の整備が含まれていた。多摩川 系、利根川系・江戸川系の各浄水場が相互運用機能を備えること で、複数の水源からの水を効率的に運用することや事故時等の断水 の回避が目指された(東京都水道局1999b:118-120)。より詳細に 見ると、まず東京東部を流れる江戸川系の金町浄水場と東京都区部 の西部に位置する和泉水圧調整所とを結ぶ東西幹線が建設され、ま た金町浄水場と東京都区部の中央部に位置する本郷給水所とを結ぶ 南北幹線、さらに本郷給水所と東京南部の品川区西戸越とを結ぶ南 北支線が建設された。こうした東西幹線と南北幹線・支線の建設に よって東京都区部内の浄水場は相互に結び付けられ、その下にある (8) 残りの 22.3㎥は朝霞浄水場で処理され、区部及び多摩地区へと給水される。
配水管網は統合されていった。 要するに、昭和7年の近隣町村合併を経てそれまでの旧町村等の 異なる水道システムを内包するようになり、また多摩川系と江戸川 系とが別個に存在していた東京の水道システムを、利根川系水道拡 張事業の進捗は大きく変えていった。それは、多摩川系と利根川・ 江戸川系という複数の水源間を相互に連携させることで給水区域全 域の水道システムを統合する新たな水道システムへの転換への第一 歩を意味していた。
2 水不足に対する都民の反応と都水道局
-安定給水の論理の拡張
こうした東京の水道システムの転換を推し進めたのは誰のどのよ うな論理であったのだろうか。 この期間の鍵である利根川系の水源開発に関してすぐに思い出さ れるのは、第二次世界大戦前の第二水道拡張計画策定のきっかけと なった東京市会決議においても利根川への言及がなされていたとい う事実であろう。しかし当時は、交渉過程における他県との対立か ら利根川を含めて東京の行政区域を超える水源開発は実現すること はなかった(宇野2015)。 当然ながら戦後の利根川開発も東京都だけで実現できるものでは なく、国を巻き込みながら進められる必要があった。こうした複雑 な組織関係の中で、顕在化していた水不足への対応として、なぜ新 たな水源確保に留まらず、すでに見たような新たな水道システムへ の転換が構想されたのであろうか。国を含む組織間関係の中で都水 道局がどのようにその自律性を制約され、あるいはどのようにそれ を発揮したのかに注目しながら利根川系水道拡張計画の策定過程を 検討し、その中での各アクターの実践と思考習慣を見ていくことで こうした転換に影響を与えたのが都市専門官僚の論理であったことを以下に見ていこう(9)。 2.1 都民の反応 この時期に特徴的であるのは水不足、言い換えるならば共同需要 の充足が損なわれていたことであろう。利根川系水道拡張事業が本 格的に議論をされるようになった昭和30年代半ば頃には給水量の不 足がまさに顕在化し、都民の間で不満が募っていた。東京の水不足 は昭和7年の隣接町村合併を期に生じるようになったとも言われる が、都内全域での制限給水の実施は、記録的な渇水により実施され た昭和33年7月が初めてのことであった(10)。その後、こうした状 況は悪化するばかりであり、昭和36年10月から昭和40年3月までの 3年5か月にわたって制限給水が実施され、都民生活に少なからぬ 影響を与えることになった。節減目標が20%から30%程度であると きには主に深夜間(22時~5時など)の給水が制限され、さらに節 減目標が30%を超えると深夜間に加えて昼間(10時~17時など)の 給水も制限された(東京都水道局1963;小林1964)。主に貯水池系 17区の54.5万世帯から60万世帯が影響を受け、プールの利用が制限 され、給食が取りやめられ、また風呂屋や蕎麦屋などの商売に悪影 響が及んでいた。 もっともこうした水不足は必ずしも天候不良と渇水によってのみ もたらされていたわけではなく、配水システムの問題に由来するも のでもあった。東京の水道システムは昭和7年の近隣町村合併に伴 ってこれらの地域の町村営や私営の水道施設を合併・買収しながら 発展してきていたため、その配水施設は特に郊外部(旧町村部)で は断片的なものをつなぎ合わせたようなものとなり、当時盛んにな (9) 利根川導水路計画の策定過程に関する先行研究には直江(1968)がある。また 東京都水道局(1993)にも詳細な記録が残されている。 (10) 『朝日新聞』昭和 33 年6月 26 日夕刊3頁。このとき、特に城南地区(大田区、 品川区の一部、世田谷区の一部、目黒区の一部)では1日2時間の時間給水が実 施された。
っていた都心部(旧市域)から郊外部への人口重点の移動に対応し きれず、各地に給水不良地区を生んでいた(11)。 こうした水不足に対して都民はどのように反応していたのだろ うか。昭和37年の渇水騒ぎに際して都水道局長(当時)の小林重 一が水不足に対する都民の反応を振り返っている(小林1972:67-73)。それによれば都水道局にはもちろん水不足の実情を理解した とする意見や、都水道局の施策を激励する内容のものもあったが、 多くの批判が寄せられた。まず、「台風待ちの水道」と都水道局が 事前に無策であったことを批判するものが見られた(12)。こうした 批判は場合によっては官僚制批判とも結びついて「税金で生活して いる役人の事業経営は無理だ。都民に迷惑をかけて何とも思わぬ役 人共、ぐずぐずせずに水道部を水道株式会社にして、民間人に経営 させたらどうだ」という、今でいう民営化を求める投書すらあっ た。その他にも水道局に対する批判には「局長は責任をとれ、月給 泥棒め」というような罵詈雑言も含まれていたが、一番多く見られ たのは給水制限の不公平さに対する苦情と水道料金減免や代替水源 確保(井戸掘削)のための助成を求める陳情であった。さらに漏水 や他者の水浪費を通報するものも多く見られた。 こうした都民の反応は必ずしもその全体の意見を正確に代表する ものではないが、少なくとも当時の都民の間には、東京都水道局の 無為無策を責め地方公共団体の直営よりも民間企業が優れていると する雰囲気や、給水制限を料金減免や助成に結びつけるような経済 的な利益や節約を重視する見方の存在が確認できるだろう。 (11) こうした状況について、例えば『朝日新聞』昭和 34 年6月 29 日9頁は「貯 水池はあふれているが、まだ都内には水不足地区」と題して「水はあるのに給水 施設が不十分であるため、水枯れの昨年とは違ってこんどは、「豊水の中の貧困」 という現象があちこちで起きているわけだ。」と報じている。 (12) なお『朝日新聞』も東京オリンピックを目前に控えた昭和 39 年7月 24 日の 社説で、東京の水不足の原因を取り組みやすい多摩川系の水源開発を優先したこ とに見られるように都水道局が消極的であることに求めていた(『朝日新聞』昭 和 39 年7月 24 日2頁)。
2.2 水不足に対する都水道局幹部の認識 都水道局は、こうした都民の反応に直接接する中で施設能力の増 強による安定給水を志向する一方で、地域間での公平な給水の実現 を志向するようになった。 小林・都水道局長は昭和36年以降の水不足の原因を渇水と施設 能力不足に求めていた。そのため彼にとっての抜本的対策は、当 然、施設能力の増強であった。小林によれば、特に昭和39年の東京 オリンピック開催を目前にした夏は、6月6日から7月20日まで の75日間も30mm以上の雨が降らない異常事態であり(小林1972: 11-12)、その結果、5月、6月、7月の降雨量は、平年であれば 524mmであるところ、その半分程度261mmに過ぎなかった。こう した異常気象への対応策として小林は、少なくとも20年くらい先を 見据えて最渇水のときでも給水に支障を来すことのないように計画 するのが常識であり(小林1972:81)、天候任せの不安定な状態か ら脱出するための本格的な対策として拡張事業の完工による給水能 力の増強を挙げた(小林1972:51)。 しかしより興味深いのは、水不足が地理的に見て不公平に生じて いる場合に都民の不満が増幅されるという小林の認識であろう。彼 に限らず都水道局の幹部は東京の水道システムの欠点として昭和7 年の周辺町村合併以降に編入した様々な給水システム間の連携の悪 さを挙げていたが、こうした欠点は制限給水時に増幅された。すな わち制限給水を強化すればすればするほど、各配水系統間の連絡や 配水施設の整備の不十分さゆえに給水のアンバランスが生じ、バル ブ操作等の操作技術を屈指しても、そもそもの水量不足や地形な どの要因から地理的に公平な給水が実現できなかったのだ(小林 1972:85)。こうした状況の下で小林は次のように「足らざること よりも等しからざることに不平がある」とし、配水系統相互を連携 させる水道システムを展望した。
「制限給水がやむを得ない場合には、制限給水による使用者の 苦情を最小限にとどめることである。使用者の最大の苦情は給 水のアンバランスで、一般に足らざることより等しからざるこ とに不平があるのである。もし配水施設がよく整備されてい て、全体に平均して公平な制限が実施できれば、使用者に制限 水量だけ自発的に節水してもらうことによって、ほとんど支障 のない給水が確保できるのである。(中略)要するに制限給水 の実施には公平な給水ができるよう配水施設が整備されている ことが第一の要件で、給水区域がいくつかの配水系統からでき ているときは、相互に本管連絡が必要である。」(小林1972: 82)。 小林水道局長に代表される都水道局の幹部は、需要充足が不十分 である現状に対して配水計画を凝らして給水を確保しながらも長期 的な視点に立った十分な水源確保を求めた。ここで注意を促してお きたいのは、都水道局の幹部がそれと同時に地域的に不公平な制限 給水がより大きな不満を生むと考え、配水の均てん化を重視し、そ のための配水施設の整備や配水系統間の相互連絡を可能とする施設 整備を必要と考えていた点であろう。 水不足という共同需要充足が損なわれる事態に直面することで頑 健さ、すなわちより高い給水の安定性を求め、複数水源の確保と複 数の配水系統間での相互融通が彼らの水道システム設計の論理とな っていった。 2.3 都議会の反応 一方、都議会では、都民の声を反映した料金減免などの負担軽減 の要望が一部で出されたがそれは支配的な意見とはならず、総量と しての水資源の確保を求める主張が多かった。また議論の争点も流 量推計のような技術的な問題が中心であった。 そもそも都議会本会議で渇水問題が大きく取り上げられるのは東
京オリンピック開催の直前となる昭和38年7月のことであり、それ までは大々的に議論された形跡はみられない。 もっとも与野党を問わず一般質問では水資源問題が取り上げられ ることもあった。昭和34年以降の都議会本会議の議事録を見ると、 制限給水について取り上げられたのは昭和37年4月の第二回臨時会 でのことであった。東知事から昭和36年10月から開始された制限給 水の強化が報告された際、社会党の高橋清人議員からこの制限給 水に関連して緊急質問が行われた。また当局の緊急対策を促すとと もに水源確保と施設拡張及びその財政計画の確立を目的に「渇水対 策に関する決議」が決議された(東京都議会議会局議事部1975: 642)。その後も、例えば、昭和38年の第一定例会(2月20日から 3月12日)で、将来の水資源をどこに求めるのか(佐々木恒司議 員)、原水確保の努力の要請(川口清治郎議員)、小河内貯水池の 補充貯水の可能性(高橋清人議員)、当局の失策の追求(竜年光議 員)、都下の水需要への対応(山川国蔵議員)への言及が一般質問 の際にあった(東京都議会議会局議事課1975:852-932)。 しかしこれらはいずれも単発の質問に留まり、また当局が現に進 める利根川系の水資源開発やその他調査中の水資源開発について質 すものが多く、総じて言うならば、総量として水資源の確保を重視 するものであり、水道システム内部の連携のように、水道システム の転換に踏み込む内容ではなかった。 そうした中で東京オリンピック開催直前の昭和39年7月24日、制 限給水が第三次制限(節減目標35%)に引き上げられるに至り、利 根川導水建設に関して水不足解消の切り札とされていた暫定的な荒 川から取水が予定通り行えるのかどうかについて、社会党議員から 緊急質問が出された(小林1972:25-40;東京都議会議会局議事課 1978:573-581)。荒川の流量から取水が不可能ではないかという 趣旨の社会党側からの質問に対して、流量の把握が難しいことから 都水道局も知事・副知事も十分に回答できずに都議会が紛糾するこ
ととなった(13)。 本研究の関心からここで確認しておくべきは、その議論において 都議会ではどのような論理に基づいて議論が繰り広げられていた のかということである。そうした視点からこの「水問答」(小林 1972)を検討すると、議論に主に荒川の流量推計という水道設計の 技術的な問題を巡る議論であった。それゆえその「水問答」を解説 する新聞も河川の専門家である建設省関東地建河川部長の見解を紹 介した(小林1972:33)。争点はあくまでも流量推計という技術的 な問題であった。 もっともその「水問答」の中では大々的に議論とはならなかった が、共産党議員(梅津四郎)は異なる角度から質問に立った。彼が 取り上げたのは荒川から想定流量を取水できるのかどうかというこ とではなく、主に漏水問題と料金減免の問題であった(東京都議会 議会局議事課1978:589)(14)。 (13) その経緯は概ね次の通りであった(小林 1972:25-40)。まず前提として東京 都は1日最大 40 万トン取水を建設省(荒川を管理)と埼玉県(荒川を利用)に 対してお願いをし、過去(昭和 31、32、33)の水量を基に取水の可能性を検討 していたが、上流のダム完成や測定地点の変更などの事情から直近の数値での正 確な予測は難しい状況であった。こうした状況の下で昭和 39 年7月 24 日の都議 会本会議で日本社会党が荒川取水の可能性を質し、鈴木副知事が埼玉県土木部長 の協力的な発言を紹介する答弁を行った。さらに公営企業委員会で社会党委員か ら7月 16 日現在の流量を基にすると一日 40 万トンの取水はできないのではない かという趣旨の質問があったが、このとき小林水道局長が正確な数値を持ち合わ せず明確な答弁ができなかったため、紛糾することとなった。これに対して翌7 月 25 日の都議会本会議で公明会所属議員が緊急質問に立ち、自らの調査によれ ば 40 万トン取水が可能である旨の発言を行い、知事もそれに応じる答弁を行っ た。これに反発して日本社会党は公明会の見解と知事の答弁に対する疑問を都議 会議長に質問書を提出した。その後、都水道局は社会党に対して正確な流量調査 の難しさに触れつつも限られた資料から取水が可能と判断していることを文書に て回答した(質問に対する文書回答7月 27 日、質問書に対する回答8月6日)。 しかし8月6日の公営企業委員会でも、再度、社会党委員は荒川取水の問題につ いて言及し、16 時から 21 時頃までの長時間にわたり質疑が続けられたが、結局、 議論がかみ合うことはなかった。なお、8月 15 日の 50%制限給水へ強化されたが、 8月 20 日に待望の雨が降り、8月 25 日からは荒川取水が開始された。開始され てみると実際に1日 40 万トンの取水は可能であった。 (14) なお、東知事は漏水について、欧米大都市に比べて漏水が多いことを認め漏 水対策の強力推進に言及する一方で、料金減免については「基本料金は使用水量 の多寡に関係のない、事業を維持経営するために必要な最小限度の基本的な経費
こうした主張は、都民が支払う水道料金が漏水対策に有効に活用 されているのかを質し、また減水・断水した分については水道料金 を減免するべきという趣旨であり、すでに見たように都民から出さ れていた批判の一部を汲み取るものであった。新たな水資源開発よ り前に無駄となっている漏水を防止し、また自らの支払っている水 道料金との対比で給水サービスを評価しようとしているという点 で、こうした主張は経済性や節約を重視する論理を内包していると 言っても差し支えないだろう。 以上に見たように、渇水による制限給水が現実となり都民の需要 が充足されていない状況においても、都議会ではそもそもこの問題 が大きく取り上げられることは少なくとも本会議では稀であった。 しかも取り上げられた際にもその内容は総量としての水資源確保や 安定給水のための技術的な議論が中心であり、都水道局が現に進め る水源確保の試みや拡張事業を確認するものに過ぎなかった。上述 の都民による当局批判に含まれていたような制限給水における不公 平な取扱いや漏水防止や料金減免といった経済性・節約に関する議 論が大きく取り上げられることはなかった。 2.4 利根導水路計画の策定を巡る各アクターの論理 そこで次に利根導水路計画(及びそれと密接に関連する都水道局 の利根川系水道拡張事業計画)を主導した各省庁や水資源開発公団 や都水道局の論理を見てみたい。結論を先取りするなら、国の各省 庁は、当初は、省庁固有の技術的な論理を背景としたセクショナリ ズムに直面しながらも、顕在化していた水不足問題を解決するため に総量としての水資源の確保を早期に確保するように行動した。一 方で、都水道局は総量の確保と同時に既設の水道システムとの連携 を志向していくことになった。 であるので、納めていただかねばならぬ。」と答弁した(東京都議会議会局議事 課 1978:589-590)
さて昭和37年5月に始まり、およそ1年半にわたった利根導水路 計画の策定過程を、直江(1968)は計画立案(昭和37年5月1日~ 8月22日)、基本計画立案(昭和37年8月22日~昭和38年3月28 日)、実施計画立案(昭和38年3月28日~10月14日)の三段階に分 けている。この直江の研究(15)と東京都水道局側の資料によりなが ら各段階での各アクターの主張をまとめると次のようになる。 (1)前段階 もともと利根導水路計画の計画立案段階(昭和37年5月1日~8 月22日)に至る以前には、建設省・東京都と農水省との間には、そ れぞれの依拠する技術的な視点から取水地点をめぐり対立があった (東京都水道局1993:21-23;直江1968:268-269)。 建設省は治水と建設促進の視点から矢木沢ダム付近の上流部か ら、また下久保ダムからは直接取水し、埼玉県本庄市付近から埼玉 県西部山川を隧道で東村山に送水する「第一幹線案」を昭和33年12 月に「利根川開発計画」として発表していた。上流での取水である がゆえの水質の良さと導水原価の安さ、隧道方式をとるがための 用地補償の少なさと導水中の水質変化の少なさがその特徴であった (東京都水道局1993:21;直江1968:268-269)。 しかしこれに対して農林省は農業利水保護の観点から反対した。 農林省にとって「第一幹線案」は下流農業用水に対する理解と配慮 を欠いているものであった。つまり上流部で都市用水を取水するこ とは下流の農業用水が不利になるため、より下流での取水が求めら れとし、合口取水とすること、農業用水の合理化によって生ずる余 剰水の都市用水転換を可能にすること、また見沼代用水路の改修を (15) 直江の研究には詳細な引用が示されていないことから、それが基づく1次資 料を確認することができなかった。そこで元 NHK 記者による利根導水路計画策 定に関するノンフィクション(高橋 1996)と照合し、内容を確認した。なおこ のノンフィクションは水資源開発公団の内部資料である「利根導水路建設の経緯」 (水資源開発公団、平成3年4月、未見)に基づき、関係者に対するインタビュー により制作したものである(高橋 1996:238-239)。
合わせて行えることは有利であることなどから、昭和36年6月、農 林省は「見沼代用水利用案」を対案として提出した。これは「第一 幹線案」よりもさらに下流にある、既設の見沼代用水路の取水口付 近に合口堰を新設し、そのうち都市用水については板橋北部に新設 する浄水場に送水し、東京に給水しようとする案であった(直江 1968:269;東京都水道局1993:22)。 都水道局は水質維持と水量確保の両者を睨みながら、建設省の 「第一幹線案」に賛同し、農林省の「見沼代用水利用案」に反対し た。都水道局はもともと水質の観点からさらに上流部(弱酸性水の 吾妻川との合流地点よりも上流の群馬県岩本の利根川右岸)での 取水を計画していた(東京都水道局1952:292)。しかし水量確保 のためには、当初から予定していた群馬県奥利根の矢木沢ダムに加 えて群馬県と埼玉県にまたがる神流川の下久保ダムも水源とせざる を得なくなっていた当時の情勢の中で、都水道局は埼玉県本庄市付 近まで取水地点を下流に移すことに妥協せざるを得なかった。それ は水量確保の観点から「止むを得ない変更であった」(藤田1965: 40)。 都水道局が矢木沢・下久保の両ダムを水源とすることを前提に策 定した「利根川系水道拡張事業計画」(昭和36年10月)では、矢木 沢ダム分は本庄市付近で取水し、第一接合井、第二接合井を経由し て、埼玉県入間郡武蔵町に新設する浄水場まで導水し、一方、下久 保ダム分はダムから直接取水し、第二接合井まで導水して合流させ る計画であった。さらに、この新設する浄水場から既設の山口貯水 池まで原水連絡管を敷設し、利根川系と多摩川系とを連絡させよう というものであった(東京都水道局1993:22)。 こうした構想について「東京都水道利根川系事業計画説明書」 (昭和36年9月)には次のように記述されていた。 「利根川系拡張事業は、羽村系施設との間に原水及び浄水の有 機的連携をもたせることが首都水道の将来を安泰ならしめるた
めに欠くべからざる条件である。かかる意味において将来拡張 計画は、まず第一に利根川の原水を山口貯水池に導水し、羽村 系施設の弾力的操作を保証することを根本方針として計画を樹 立したのである。」(東京都水道局1993:22-23) こうした構想からわかるように、都水道局にとってはもともと多 摩川系のために建設された既存の送・配水施設を有効に活用するた めに、原水を既設の浄水施設に連絡することこそが重要であった。 (2)計画立案段階 次に、利根導水路計画の計画立案段階(昭和37年5月1日~8月 22日)を見てみよう。この段階ですでに東京では長期の給水制限に 入っていたこともあり(昭和36年秋から)、取水地点で対立してい た建設省、都水道局、農林省も早期解決を目指して水資源開発公団 による「荒川利用案」で原則合意に至った。 「荒川利用案」とは導水路として荒川を利用しようという案を指 すが、その取水施設としては見沼代用水取水口付近に合口堰を新設 するというものであったことから、この点については農林省の「見 沼代用水利用案」と同様であった。しかし農業用水の合理化によっ て生ずる余剰水の都市用水への転換までを含むものではなく、その 点で「見沼代用水利用案」と異なった。 この荒川利用案の計画立案過程を概観するならば次の通りである (直江1968:269-273)。 まず、水資源公団内での検討の段階である。その検討の中心にな ったのは建設省出身(前河川局開発課長)の小西理事、農林省出身 の小山計画部長(前農林省農地局建設部災害復旧課長)、及び建設 省出身の佐々木計画課長(前建設省河川局開発課長補佐)らの技官 であった。彼らは昭和37年5月の公団発足直後から内部で検討を進 め、同年6月17日、経済企画庁水資源局での関係各省担当官との協 議で荒川利用案についてよい感触を得ると、それを公団案とするこ
ととして「利根導水路計画」と呼ぶことした。その後、公団内部で 代替案の比較検討を進める一方で、建設省次官への働きかけ、また 建設現場となる埼玉県や同県行田市への訪問など調整を開始し、7 月17日には公団役員会にて「荒川利用案」の推進を決定し、経済企 画庁水資源局にその旨を伝達した。 次に関係各省、すなわち農林省(7月19日)や建設省(7月20 日)への意見聴取に加えて、通産省や厚生省からの要請を受けるな ど関係各省との協議が開始された。各省ではそれを受けて省内で検 討を進め、また現地での意見聴取を行いながら自らのスタンスを固 めていった。都水道局に対しても、8月9日に、都水道局出身の佐 藤・公団監事(元水道局長)から「荒川利用案」の説明を行った。 こうした関係各省との協議を経て公団として「利根導水路計画案」 を固めた。8月17日には「利根川水系開発基本計画」が閣議決定さ れていたが、それと並行して公団の要請を受け、8月22日に経済企 画庁水資源局が各省連絡会議を開催して「荒川利用案」の調査実 施を決定した。このとき公団の小西理事は「荒川利用案」につい ての各省の原則的同意が得られたと判断したという(直江1968: 273)。 ではこの段階で各アクターはどのようなスタンスに立っていたの だろうか。 まず、計画策定を主導した水資源公団では、早期の東京の水道問 題解決こそが重視された。公団はそれまでの各省の計画や関係都県 の意見を分析し、利根川からの導水の問題点として、(1)建設工 期、(2)利根川中流以下の各種水利権者との調整、(3)導水路 建設のために埼玉県の地元了解、(4)将来の水需要増大への対策 の四点を課題として認識した。特に利根中流以下の地域開発を考え た合口取水計画を基本方針とするという小西理事の指示もあり、従 来の建設省案(「第一幹線案」)とは異なる「荒川利用案」が形成 されていくことになった。建設省出身の小西理事と農林省出身の堀 田理事(設計担当、前農林省農地局参事官、技官)及び小山部長の
協議では、荒川を導水路として利用することを農林省案である合口 堰計画と結びつけることで、上記の問題点がほぼ解決すると考えら れるに至った(直江1968:270)。 もっとも公団内でも農林省出身者(渡辺調査課長・前農林省農地 局技術課課長補佐)が、「利根導水路計画」には農林省の「埼玉合 口事業計画」の柱の一つである農業用水合理化による都市用水転換 が含まれないことを理由に反対した。しかし農業用水合理化には調 整のための時間がかかり過ぎることから、早期の取水実現を優先さ せることで公団内もまとまることとなった。 水資源公団の発足にあたって、総裁に就任した進藤武左ヱ門は池 田勇人首相から「来年は東京オリンピックの年だから、水不足にな らんようにしてくれ」と言われたことを述懐している(河野一郎伝 記刊行委員会1966:47)。公団内部では国政の示した目標に基づ き、かつての出身省庁の計画に悪戯に捉われることなく、急迫して いる東京の水不足への対応が優先されていたことが窺い知れるだろ う。 建設省も、公団とほぼ同様に、緊急の問題となっている水不足へ の対処のためにこの段階では当初の計画(「第一幹線案」)に拘ら ずに荒川利用案に対して協力的なスタンスに立った(直江1968: 271)。 これに対して農林省は、当初、利水の合理化を目指す埼玉合口事 業計画に拘りをみせた。しかし農業用水の合理化、すなわち既存の 土地改良区の水利権の削減が地元に容易には受け入れられないこと を現地での意見聴取で把握すると、農業用水合理化による都市用水 の確保を含んだ、自らの「見沼代用水利用案」がかえって東京の水 不足解消の妨げになることを恐れ、「公団の「荒川利用案」にあえ て反対しないとの態度を決めた」(直江1968:272)。 厚生省は給水システムの合理化という視点から新設浄水場の位 置、すなわち導水地点を東京北部とすることを主張した。加えて都 水道局の要望として良好な水質維持のための下久保ダムからの直接
導水と既存施設の高度利用のための東村山付近への導水を要請した (直江1968:272)。 都水道局は「荒川利用案」の説明にあたった公団の佐藤監事(元 都水道局長)に対して早期の利根川導水、すなわちオリンピックま でに東村山浄水場へ利根川の原水を導入することを最も望んでいる ことを伝えた(直江1968:273)。 以上に見たように、「荒川利用案」を主導した水資源開発公団は もとより建設省や農林省も、水不足が顕在化するに至り、また東京 オリンピックという国を挙げての国際イベントの開催を直前に控え ていることからそれへの対応を迫られていた。そのためそれぞれの 既存計画の一部を放棄、又は棚上げにして「荒川利用案」に合流し ていった。しかし、その一方で、農林省は都市用水に偏らず農業利 水をも考慮に入れた合口取水堰については譲らず、また都水道局も 既設の水道ネットワークとの連携、すなわち東村山付近への導水の 主張を取り下げることはなかった。 (3)基本計画立案段階 これに続く基本計画立案(昭和37年8月22日~昭和38年3月28 日)の段階では、計画の具体化に合わせて各アクターは妥協を迫ら れ、その結果、各アクターにとって優先度のより高い主張が明らか になった。 この間の動きは概略次の通りである(直江1968:273-277)。 第一に、関係都県の検討とそれを反映した公団案の作成である。 すでに見たように昭和37年8月22日の第1回各省連絡会議で「荒川 利用案」の基本方針が固まったことから、都水道局はそれへの対応 を局内で検討し、その結果を厚生省と水資源開発公団に伝えた。一 方、埼玉県は、県南部での都市用水の見込みから3.4㎥/秒の導水 を下久保ダムから行いたい旨を要望した。これらを踏まえて、公団 は9月下旬には「荒川利用案」を作成し、経済企画庁水資源局に提 出した。
第二に、水資源局における調整と水資源開発審議会での審議であ る。10月3日、水資源局は関係各省連絡会議を開催し、提出のあっ た「荒川利用案」を検討した。これを受けて、10月24日には埼玉県 が利根川系の土地改良区の代表との協議を行い、また、11月9日に は第4回の各省連絡会議が開催され、費用負担が話し合われた。11 月16日の各省連絡会議では、これまでの検討を踏まえ、荒川利用、 50㎥/秒、拡大部分の浄化用水への暫定利用という3点の了解点が まとめられ、11月29日の関係各省局長会議ではそれが了承された。 また合口堰建設も了解事項として追加された。さらにこれを基に水 資源局が基本計画案を作成し、12月21日の水資源開発審議会におい て答申を受けた。 第三に、各都県知事に対する意見照会と基本計画組み入れの閣議 決定である。翌昭和38年の1月16日には水資源局が各省連絡会議を 開催し、その後2月には内閣総理大臣から各都県知事に対する利根 導水路建設事業の基本計画組み入れについての意見照会が正式に出 された。その回答を待ち、3月6日の関係局長会議での確認、さら に3月7日の次官会議を経て、3月8日、利根導水路建設事業は基 本計画(「利根川水系における水資源開発基本計画」)に組み入れ られることが閣議決定された(16)(17)。 この閣議決定で、利根川導水路建設事業の範囲は「利根川中流部 の取水施設、この地点から荒川中流部までの水路および既存の水利 施設への連絡水路、荒川中流部における取水施設ならびにこの取水 地点から東京都水道事業の新設予定浄水場までの導水施設を設置す るもの」とされた(18)。この利根川導水路建設事業は、都水道局の 新設予定浄水場までの導水施設を対象としたものであり、それと東 (16) 『朝日新聞』1963 年3月8日(1頁)。 (17) なお、その後導水路諸施設の主務大臣についての協議に時間を要したが、3 月 25 日の次官会議で了解事項として決定し、3月 28 日、各主務大臣から各施設 に関する事業実施方針が公団に指示が出され、また、実施計画の作成が求められ た(直江 1968:277)。 (18) 閣議決定(1963 年3月8日)。
京の既設の水道システムとの接合のあり方までも含むものでなかっ たことには、ここで留意しておきたい。 さて、こうした過程において各アクターはいかなる論点に対して どのようなスタンスに立ったのだろうか。 まず水資源開発公団は、前段階に続きやはり早期の問題解決を重 要視した。昭和37年9月14日の自民党水資源対策特別委員会で小西 理事が荒川利用案を「水質汚濁、河川利用、農業水利権等の調整 等解決すべき問題は残してはいるが、緊急化している東京の水不足 と、2年後に控えたオリンピックという時間的な制限を考慮した次 善の策」(直江1968:274)と説明し、協力を求めたことからも、 公団が何よりも早期の水不足解消を目指していたことがわかるだろ う。 次に建設省は1962年10月3日の関係各省連絡会議において水量拡 大に向けて自ら事業に直接参画する意向を示し、また、治水の観点 から合口堰に対して異論を唱えた。将来の水需要増大を考慮に入れ て水路を拡大してほしいという各省の要望も踏まえて建設省は、隅 田川の水質改善のために利根導水による余剰水を活用することを提 案し、これに関係各省担当官は賛成した。一方、建設省は「荒川利 用案」で利根川中流部の本川に合口堰を設けることになっている ことに対して、これを治水上好ましくないと問題にし、そもそも 合口堰を設けずにより上流での単独取水を示唆した(直江1968: 274)。 これに対しては農林省が農業利水の立場から都市用水優先の単独 取水に反対した(直江1968:274)。 このように建設省と農林省との取水地点をめぐる対立は依然とし て完全に解消したわけではなかったが、早期建設を第一とする公団 は利根導水路建設を円滑に進めていくためには合口堰を求める埼玉 県の協力が必要であることを説明し、建設省に対して協力を求め、 取水地点決定に際しては治水上の問題を慎重に調査することとして 建設省の了解を得た(直江1968:274-275)。
このほか農林省は合口堰建設の費用負担についてできうる限り都 の負担とすることを1962年11月9日の第4回各省連絡会議で主張 し、この点についても合口堰建設は農業用水側の必要から生じてい るとして農業利水側の応分の負担を求める建設省側と対立をした。 もっともこの費用負担問題については、都の水不足が深刻化してい く状況を前に先送りすることとされ、利根導水路計画の策定は進め られた(19)。 一方、都水道局のスタンスは早期の建設開始を重視するものであ ったが、同時に既設水道システムとの連携を追求するものでもあっ た。昭和37年8月22日の第1回各省連絡会議を経て「荒川利用案」 の全体像が固まっていく中で、都水道局は、取水地点や取水方式に ついてより上流での取水を求めていた従来の主張を取り下げて、合 口取水を進める国に任せることした。また、導水地点についても厚 生省の主張に配慮し城北地区を受け容れることする一方で、水不足 への緊急対応を可能とするために、その導水地点から東村山浄水場 への連絡水路の建設を追加することを主張することとした(直江 1968:273-274)。 以上に見たように、昭和37年夏から昭和38年初頭にかけて行われ た基本計画策定の過程の段階では、東京都の水不足が深刻化し、ま た昭和39年秋の東京オリンピック開催が近づきつつあったことか ら、治水と利水という建設省と農林省との対立も合口堰建設という 基本合意を崩すほどのものにはならなかった。東京オリンピックの ための東京のインフラ整備を担う建設省が、隅田川浄化を理由によ り直接的に「荒川利用案」に参画することになるなど利根川からの 取水量はこの時期に固まった。一方、都水道局が関心を持つ荒川で の取水以降の導水施設や原水連絡管のあり方に関する決定は、次の (19) その後、昭和 38 年9月以降に東京都と埼玉県との間で費用分担についての交 渉が行われ、都市用水と農業用水は身替わり建設費法で、都市用水については都 の優先支出法で配分を決定することとした上で、身替わり建設費法の採用で増加 する地元農民の負担については、都が別途処置することとなった(10 月 14 日覚書) (直江 1968:279)。
実施計画の段階に持ち越されることとなった。 (4)実施計画立案段階 最後に、特に荒川での取水以降の導水施設に注目して実施計画立 案(昭和38年3月28日~10月14日)の段階についてみてみよう。す でにみたように、昭和38年3月8日の閣議において事業目的、事業 実施主体、及び取水量などの事業の大枠が定まり、また昭和38年3 月25日の次官会議で各施設の主務大臣が決したため、残るは事業実 施のために細部を詰める作業だけとなった。この段階で問題となっ たのは都水道局の専有施設の施工区分であった。 ことの経緯はこうであった(直江1968:277-278)。 すでに前年の昭和37年9月には、都水道局は埼玉県朝霞付近に浄 水場を新設することを決定していたが、この新浄水場までの導水路 や、また新浄水場から東村山浄水場までの連絡水路についても水資 源開発公団が自ら施工することとなっていた。これに対して都水道 局は自らが施行したいと考えていたが、資金面で公団債を利用する ことが有利であったため、建設完了後の専用施設の管理権と建設に あたっての都の意見への配慮を要望するに留めた。しかし昭和38年 に入ると都の専用部分に対しては公団債が認められないことが判明 したため、都水道局は専用部分の施工を自ら行いたい旨を表明し た。しかし一方で基本計画の決定を遅らせないために利根導水路事 業に正面から異議を唱えず、実施段階で公団と協議することとして 昭和38年4月以降にその協議を行った。当初、都水道局は沈砂池以 降の施設を自らの施工区分に組み入れたい意向であったが、公団は 東村山まで施行して将来の維持管理も都の指示に従いながらも公団 が実施する意向であったことから隔たりは大きかった。そこで都水 道局は、原水送水ポンプ場の管理権を確保することにその交渉目標 を後退させ、その確保に努めた。その結果、同年7月、公団が原水 送水ポンプ場前の接合井までを施工し、原水送水ポンプから東村山 浄水場との原水交換水路は都水道局が施行することで決着をみた。
なぜこのように都水道局は、一方で基本計画の決定と利根導水路 の早期建設を重要視して水源や取水地点などのいくつもの妥協を重 ねてきたにも関わらず、専有部分の施工区分には拘りをみせたのだ ろうか。この間の経緯について、都水道局の技術者の中でも中心的 な地位にあった藤田は次のように振り返っている。 「都としては、最初は荒川取水ゲートからを主張したが聞き入 れられず、次いで浄水施設の一部であるからと沈砂池からとい う点まで譲歩したが折り合わず、遂に原水ポンプだけは確保し なければと主張したのであったが、これも公団が「浄水場まで の導水施設」という字句にこだわり、相当に時間をかけたトッ プ交渉により、最終的に現在の形で決定されたのである。 しかし、自分としては朝霞浄水場の完成像を考えたときに、 少なくとも原水ポンプ以降を都水道局の施設として確保できた ことは、当時交渉の遅延に対して批判もあったが、今後の東村 山浄水場を含めた浄水場運営において非常に有利であったと確 信し、自負している。」(藤田1991:108) 都水道局が専有部分の施行区分に拘りをみせたのは、確かに費用 負担に応じた施設所有権を確保したいという経済利益の観点からで もあったのだろうが(20)、上記の藤田の言葉によるならば、水道シ ステムとしての技術的な優越性を求めたがゆえであったと理解しう る。都水道局は、利根導水路と東京の水道システムの接合面を明確 に切り分け、また利根川系(新設する朝霞浄水場)と多摩川系(既 設の東村山浄水場)とを連携させるために必要となる、原水連絡管 と原水ポンプ場の自律的な運営を確保しようとしたのだ。 (20) 直江(1968:278)は、公団債の活用が認められないことが判明した後に都水 道局が専用部分の直接施工を求めた際に、それに反対した厚生省に対して「都水 道局はこの厚生省の説明では都水道局の財産権が不明確となり議会の承認が得難 いとして再考を求めた」としている。
まとめ
以上に見てきたように、水不足の顕在化に対して都民による東京 批判の一部には料金減免や漏水対策など経済性・節約を求める論理 が見出された。しかしこうした論理が都議会で大きく取り上げられ ることはなく、むしろ都議会は都水道局と同様に総量としての水資 源確保やその技術的な論点を重視した。一方で、都民の中には制限 給水時の不公平な取扱いに不満を持つものも多く、都水道局の幹部 はこれを重大な問題と認識するに至った。 これに対して、各省庁や水資源公団の技官たちは、主に治水(建 設省)と利水(農林省)の立場から技術的な優越性を探りながら も、東京オリンピック開催に間に合わせるという政治主導の下で、 将来にわたって十分な水量の確保と早期の建設完了を目指して利根 導水路計画の策定と実施に奔走した。 都水道局もやはり水量の確保と早期の建設完了を重視しながらも 基本計画を巡る各段階での組織間関係において、世論から学んだ公 平な給水という論理も念頭に置きながら、単なる水量の確保を超え て公平な給水が可能となる、より頑健な水道システムへの発展を見 据えていた。安定給水の論理は、都民の世論を受けて、総量の充足 に加えて公平な給水をも含むように拡張されたと言えるだろう。 こうした拡張された都水道局の安定給水の論理は、サブ・システ ム間の相互連携を志向する水道システムへの転換をもたらしたと言 えるだろう。 追記 本研究は平成29年度札幌大学研究助成制度による研究成果の一部 である。文献一覧 宇野二朗(2015)「市町村公営水道と都市専門官僚制」『札幌法学』第26巻第1・ 2合併号、23-70頁。 小野基樹(1973)『水到渠成』新公論社。 河野一郎伝記刊行委員会(1966)『河野先生を偲ぶ』春秋会。 小林重一(1964)「東京都水道における異常渇水とその対策」『水道協会雑誌』第 361号、11-35頁。 小林重一(1972)『東京サバクに雨が降る』。 水資源開発公団利根導水路建設局(1968)『武蔵水路工事誌』。 水資源開発公団(1982)『水資源開発公団二十年史』。 高橋哲郎(1996)『砂漠に川ながる』ダイヤモンド社。 東京都議会議会局議事部(1975)『東京都議会史第五巻下』東京都議会議会局。 東京都議会議会局議事部(1978)『東京都議会史第六巻』東京都議会議会局。 東京都水道局(1952)『東京都水道史』東京都水道局。 東京都水道局(1963)「東京都水道の異常渇水対策の経過並びに今後の方針」『水 道協会雑誌』第341号、58-84頁。 東京都水道局(1966)『昭和39年度 東京都水道事業年報』。 東京都水道局(1993)『東京都水道第一次第二次第三次利根川系拡張事業誌』東京 都水道局。 東京都水道局(1999a)『東京近代水道百年史 通史』。 東京都水道局(1999b)『東京近代水道百年史 部門史』。 東京都水道局(1999c)『東京近代水道百年史 資料・年表』。 東京都水道局(2015)『事業概要平成26年度版』。 土岐寛(1995)「解説東京都知事選」村松岐夫編『東京の政治』都市出版。 土岐寛(2003)『東京問題の政治学 第二版』日本評論社。 直江重彦(1968)「首都圏の水資源開発に関する政策決定過程-利根導水路事例 -」蠟山政道、一瀬智司編『首都圏の水資源開発』東京大学出版会。 西山三七雄(1960)「東京都の上水道」『水利科学』第4巻第2号、57-73頁。 藤田博愛(1965a)「利根川系拡張事業の一部通水について(Ⅰ)」『水道協会雑 誌』第368号、38-48頁。 藤田博愛(1965b)「利根川系拡張事業の一部通水について(Ⅱ)」『水道協会雑 誌』第369号、29-48頁。 藤田博愛(1965c)「利根川系拡張事業の一部通水について(Ⅲ)」『水道協会雑 誌』第370号、33-43頁。 藤田博愛(1991)『水道人生55年』ヨシダ印刷。 源川真希(2007)『東京市政-首都の近現代史』日本経済評論社。