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[The History of Disease and Healing in Indonesia : In Search of an Alternative Approach to Indonesian History]

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東 南 ア ジア研 究 34巻2号 1996年 9月

病 と癒 しの歴史-

もうひ とつの

イ ン ドネシア史研究 を目指 して

昌*

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AkiraOKI*

Thisisanattempttocallattentiontothehistoryofdiseaseandheahg(or,simply,medicalhistory) asanalternativeapproachtoIndonesianhstory. Thoughthisaspectofhistoryhasbeenstudied veryhttle,itisimportantandusefulforthebetterunderstandingofhistoryfrom broaderperspec -tives. Tobeginwith,disease(implicitlyincludingdeath)andhealingmayhavebeentheprimary concernofthemaJOrltyOfpeople・ Thus,itrrnybeimportanttoknow whatdiseasespeoplesuf -fered丘.om,how diseaseswereperceived,andwhatkindsofhealingmethodswereappliedatsp e-cifichistoriCal tn1ieS. Theseissuesarerelevanttomanyotheraspects,suchasliVingconditions,

thenaturalenvironment,demographicstructure,andsoforth. Ontheotherhand,changein the healingsystem mayoccurwi ththeintroductionofanew religionandtheacceptanceofnew medi

-cine(C.g.,IslamicandWestem medicines). Inpolitical andeconomichistory,thehealth andthe sizeofthepopulationweredecisivefactorsofeconomicforceandstatepower.Economicdevelop一 mentmightimprovehealthconditionsthrough improvednutrition,buttheincreaseofpopulationden -sityandthedevelopmentoftransportadonprovidedfavorableconditionsforthespreadofdiseases.

Keeplngtheseperspecdvesin mind,wewillfirstseewhatkindsofdiseaseswereprevalentin Indonesia,particularlyJavaandSumatra. Indescribingthis,Iwilltrytorelatecertain diseasesto

social andeconomicconditionsofthetimeconcerned. Next,Iwilldescibeher alingpractice. FinallytwillexaminetheuseofherbalmedicinesinJavain the1870sandaroundthebegirmingof thetwentiethcentury. は じ め に 本稿 は,「もうひ とつの イン ドネシア史」研究の分野 として, 「病 と癒 し」 の歴史 を提 唱す る 問題提起 である。 現在 まで, この分野の体系的 な研究 は, イ ン ドネシアだけで な く東南 アジア 全体 について もほ とん ど行 われて こなか った。 この理 由 としては,病 と癒 しにかんす る資料が 得 に くい, とい う事情 の他 に, これ らの問題が一般 の歴史家 に とっては専 門外 との印象 を与 え る とい う事情 を も反映 している と思 われる。 筆者 についていえば,医学的知識 をほ とん ど持 ち

*八 千代 国際大学 ;YachiyoInternationalUniversity,1-1Daigaku-cho,Yachiyo,Chiba276,Japan

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東南 アジア研 究 34巻2号 合 わせ ていないばか りか, これ らの問題 を歴史一般 とどの ように接合 させ るのか についての枠 組 み もなかった。 しか しここ数年,病 と癒 しとい う問題 は,たんに個 人的 に興味深 いだけで な く, イ ン ドネシア史の理解 に新 たな光 を当てて くれ るのではないか, と考 える ようになった。 上記 の問題提起 の背景や具体 的 な内容 については次節 で詳 しく説 明す るので, ここでは病 と 癒 しの歴史の問題 に対す る筆者 の立場 を述べ てお きたい。一 口に病 と癒 しの歴 史 といって も, その研究 の方法 は決 して単純 で はない。研 究 の基本的 な方向 と して,大 き く分 けて,少 な くと も次 のふ たつ の立場が可能であ る。 第 1は,病 と癒 しそれ 自体 の歴史 を直接 の課題 とす る, い わば医療史 ない しは医学史の立場 であ る。 ここでは,人 々がいつ ごろ, どの地域 で どの ような 病 に握 り, どの ように癒 していたか を明 らか にす ることが主要 な課題 となる。 この場合,病 と 癒 しにかんす る生理学,病理学,薬学 な どの医学 的 な知識がある程度 は必要 となろ う。 第2は,病 と癒 しを手掛 か りとして, よ り総合 的 に歴史 を理解 しようとす る立場 である。筆 者 の立場 は基本 的 には第 2の立場 であ る。 この場合,病が発生 した歴史的背景,人 々の病 に対 す る意味づ け,癒 しの方法 に現 われる人 々の生命観や 身体観 に大 きな関心が向け られる。 もっ とも,上記ふ たつの立場 は必ず しも相互 に排 除 し合 う関係 にあるわけではな く,実際 には,両 者 の中間には さまざまな立場 があ り得 る。 以上 を念頭 に置 いて,以下 にまず 「病 と癒 し」 の歴 史 を問 うこ との意味 を, そ してイ ン ドネ シアにお ける病 と癒 しの歴 史 を順次述べ てゆ きたい。 ただ し冒頭 で述べ た ように,本論文 は全 体 として問題提起 として企 図 された ものであ り,以下 の記述 は, この分野で具体 的 にどの よう な問題が検討可能であるか についての アイデ ィアの域 をでない ことを予め こ とわってお く。

Ⅰ 「

病 と癒 し」研 究の意義

病 の文化 史研 究家,立川氏 がペ ス トの資料収集 の ため ヨー ロ ッパ各地 を訪 ね歩 い てい た さ 中, ピサの埋葬堂で,あるいはオース トリアの田舎町のペス ト供養塔 の前 で,彼 の心 にふ と浮 かんだのは,鴨長明の 『方丈記』 の次 の一節であ った とい う。 こつじき 乞食,路 のほ と りに多 く 愁へ悲 しむ声耳 に満 て り 中世の ヨーロ ッパ は,ペス トを筆頭 に,次 々 と襲 いかか る疫病で多 くの人々が死 んでいった, 文字 どお り死臭漂 う懐惨 な光景 におおわれていた。帰 国後立川氏 は, なぜ ヨー ロ ッパの町で不 意 に 『方丈記』 の一節が よみが えって きたのか を考 えた末,歴史家 に とって容易 な らざる間 を 発 し,そ して 自らそれ に答 えている。 少 し長 い引用 になるが,重 要 な記述 であ るので,煩 をい

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大木 :病 と癒 しの歴史 とわず示 してお こ う。 ときに源平 争乱 の渦 中,貴族 の世 か ら武家 の世- と時代 が大 き く転 向 してい くさなか, その 「世 の 中の有様 」 を冷酷 な まな ざ しで観 照 し, -管 の筆 にそ れ を託 した とき,鴨長 明 は, と りわ け政 治 的関心 の強 い男長 明 は, なぜ 政権 の交替 ,戦乱 の帰趨 な ど, 天下 国家 の こ とに一言 もふ れず, あ えて火災,地震 ,大風 そ して飢餓 な どに 目を向 けたの か- 。 保 元 ・平 治 の乱 ,頼朝挙 兵,平家 滅亡 -- あ るい は彼 自身が,ま きこまれていた宮廷 サ ひぐちとみ こうじ ロ ンの盛衰 を, なぜ こ う もあ っ さ りと実車殺 したのか。 そ して, なぜ ,「桶 口富の小路とか まひび と や と か り や 辛,舞 人 を宿 せ る仮屋 よ り出で」 た火 で,京都 が 三分 の一 も焼 けお ちた とか,辻風 が吹 い て,不具 になった人が た くさんで た とか,地震 で堂 舎塔 廟 が たお れ, その とき築地が くず ひ ら れ て, ひ と りの子 供 が 下敷 きに な り, 「平 に うち ひ さが れ て,二 つ の 目な ど一寸 ばか りず つ うち出 され た る を, 父母 かか- て,声 を惜 しまず悲 し」 んだ, な どとい った こ とを, な ぜ こ う も執掬 に書 き込 んで い ったのか。 そ れ は 「世 の不思 議」「めず らか な り し事」 だか ら記 したの か, そ うで は ない。天 変地 変 の 自然 観 察 か, 社 会 混 乱 の 世 情 ル ポ か, そ うで は な い。 そ うで は な くて, こ う した 「国 々 の民」 の生 き死 に こそ,歴 史 とい う もの をつ き動 か して い く根 源 で あ る こ とを, 長 明 は冷 たい 目で見 す え, そ して声 をひそめ て語 ろ う と したので あ る。 [立 川 1984:37] 立 川氏 は さ らに, 『方丈記』 の記述 を引用 した後 , 「歴 史 をつ くって きた もの, い わば歴 史 の 実 在」 は, 「数 も知 らぬ」 これ ら 「飢 ゑ死 ぬ る ものの た ぐひ」 で はなか ったか [同上書 :38], と も述 べ て い る。 氏 の投 げか け た容 易 な らざる間 とは, 「歴 史 の実 在 とは何 か」 とい う, 通常 は敢 えて問 われ る こ との ない (あ るい は問 うこ とが暗黙 の うち に タブー視 され てい る)根 源 的 な問題 で あ る。 氏 に よれ ば,歴 史 をつ くって きた もの, いわば歴 史 の実在 は,天 下 国家 の一大 事 や宮 廷 そ の他 権 力 者 た ちの動 向 で は な く, 「数 も知 らぬ」 「飢 ゑ死 ぬ る もの の た ぐひ」 で あ る。 氏 が病 の文化 史 とい う立場 に立 って い る とい う点 を差 し引 い て も, これ はか な り鋭 い指摘 で あ る とい わね ば な らない。 歴 史 をつ くって きた もの, 歴 史 の実在 が何 であ るか を安易 に断定 す るこ とはで きない。 なぜ な ら, それ は個 々の歴 史家 の歴 史観 や世 界観 に よって異 なるか らで あ る。 しか しこの問 い は, もっ と実践 的 で切 実 な問題 と して次 の よ うな問 いか け を も含 んで い る。 つ ま り,結 局 の ところ 歴 史家 は歴 史研 究 に よって何 を明 らか に しよ う と してい るのか, とい う問題 であ る。 あ る歴 史 家 は,政 治史 を歴 史の 中心 で あ る と考 え,他 の歴 史家 は経 済史 こそ歴 史の本 質的部分 であ る と み な し, また他 の歴 史家 は精神 史 を歴 史 の核 と考 え るか も しれ ない。 どの よ うな立場 を とる に せ よ,個 々の歴 史家 は 自分 の研 究 を正 当化 す る何 らかの根拠 を もってい るはず で あ る。 341

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東南 アジア研究 34巻2号 ところで筆者 は,病 と癒 しの歴 史 こそ歴 史 の最 も重要 な部分 であ る と主張す るつ も りは な い。 しか しこれは,好事家 の気 ま ぐれ, あるいは, とるに足 りない付随的 なテーマである とも 考 えていない。少 な くともそれが,独立 して研 究す るに値 す るひ とつの歴史研究 のテーマであ ることは間違 いない。 さらに,病 と癒 しの歴史 は, これ までの伝統 的 な東南 アジアの歴史研 究 ではほ とん ど顧 み られることの なか った人 々の生活 の諸側面 を も明 らか に して くれ る可能性 が ある。 この点 も含めて次 に,病 と癒 しの歴 史の意義 と展望 を述べ てお きたい。 まず,病 はその延長線上 に 「死」 を含 んでお り, これ らは人間の存在 その もの に直接 かか わ る根 源的 な問題 である とい う意味で,個 々人 に とって,最 も切実で重要 な関心事 の ひとつであ った と考 え られる。 そ うだ とすれば,病 をどの ように癒 すのか も当然 の こ となが ら個人 に とっ て も社会 に とって も重要 な関心事 である。 イ ン ドネシアについてい えば, この地域 の人々がい つ ごろ どの ような病 に雁 り,病 をどの ように認識 し,癒 していたか, とい った ことが らは, イ ン ドネシアの歴 史 を知 る うえで意義 のあ る問題 である。 しか も,病 とはそ もそ もある特定 の時 代 の 自然 的 ・人為 的環境 を反映 してお り, その時代 の社 会 ・文化 的文脈 の中で定義 される もの なのである。 同様 に,癒 しの方法 も時代 によって異 なる。 この ように考 える と,病 と癒 しとは 優 れて歴史的 な存在 であることがわかる。 この点 を少 し補足 してお こう。 まず, 自然お よび人為 的環境 と病 との密接 な関係 については,改 めて強調す るまで もない。 た とえば,あ る時代 に流行 した病 は,その時代 の生活条件一般,外部世界 との接触状況,栄養 状態,人口構造, 自然環境 な どを直接 ・間接 に反映 している。 これ らの具体 的事例 は本稿 のⅠⅠ で触 れるので, ここでは病 をとお して,あ る時代 の生活環境や状況 を多少 とも推測 す るこ とが 可能であ る, とい う点 だけ を指摘 してお きたい。 次 は,病 を どの ように認知す るか, とい う問題 であ る。 た とえば療病 は,世界 の多 くの国で 社会 的 ・文化 的 な偏見 を もってみ られて きた。 また,現代 におけるガ ンやエ イズ な ども,通常 の病 とは異 なる社会的 ・文化的意味づ けが な されてい る。 しか も, こうした意味づ けは,時代 とともに変化 す る。 かつ て多 くの命 を奪 った結核 は もはや 「死 に至 る病」 で はな くなってい る。 エ イズ に対す る社会的,文化的意味づ け も変化 しつつ ある。 なお,後 に触 れ る ように,住 民が病 に政治的 な意味づ けをす ることもあ る。 癒 しの方法が歴 史的 に変化 したことは よ く知 られてい る。 イ ン ドネ シアは,土着 の医療体系 の上 に, イ ン ド, イス ラム, 中国,西欧 な どか らさまざまな癒 しの方法 を受 け入れて きた。 し か し一般 にヒン ドゥー文化や イス ラム文化 な ど,いわゆる 「大伝統」 の受容 について語 られ る 時,癒 しの問題 はほ とん ど無視 されて きた。 た とえばイ ン ドネシアにおける 「ヒン ドゥー化」 の中身 として王権思想, ヒン ドゥー ・仏教 の教義,港概技術 ,官僚機構 な どは取 り上げ られる が

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, イ ン ドの癒 しや健康法 について触 れ らる こ とはなか った。 同様 の ことは 「イス ラム化」 について もいえる。 しか し後 に述べ る ように, これ らの 「大伝統」が

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大木 :病 と癒 しの歴史 イ ン ドネシアに浸透 した過程で,新 たな癒 しの方法 も伝 え られた。筆者 は,大多数の住民 に と って,宗教教義や王権思想 よ りはむ しろ癒 しの方法 こそ, これ ら新 たな文化 を受 け入れる際の 直接 的な動機であったので はないか と考 えている。 さまざまな癒 しの体系が イン ドネシアの個 々の社会 に受 け入れ られていったが, それ らは し ば しば当の社 会の文化 的 な形式 で表現 されて きた。バ リ島の伝統医療 を研 究 した ロブ リック (BarbaraLovriC)によれば,バ リの人々の生活 において最 も際立 った特徴 の大部分,つ ま り寺 院,供物 , ダンス,儀礼 な どは,そ もそ も病 の経験 や認識 に起源 を もち, 病 の流行 に脅 か さ れた り実際 に直面 した場合 に,人々の平安 を維持す る とい う役割 を果 た して きた ようである [Lovri

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つ ま り,われわれが一般 に伝統文化 と呼ぶ もののあ る部分, それ もか な り中核的部分 は病 と癒 しに関連 していることが珍 しくない。 これはバ リ島だけでな く, ほ とん どの社会 についていえる。 た とえば 日本では,京都 の祇 園祭が疫病退散 のための儀礼 であった ことはよ く知 られている し,そのほか多数の伝統行事や儀礼 が無病息災祈願であることはい ま さら説明 を要 しない。 これ らの儀礼,行事の形態,病の意味づ けの変化 は,その社会の文化史 を解 く鍵 ともなる。 政治史や経済史 において も病 と癒 しの問題 は無視 で きない。た とえば,住民 の健康や人口規 模 は,王国の経済力や軍事力 に とって決定的な要因である。 また,経済発展 は住民 の栄養摂取 を改善 し,健康 を増進す る可能性 がある。 しか し,人口密度の増大,交通網や交通機 関の発達 は疫病 の蔓延 を促進す る要因 ともなる。 なぜ な ら,疫病が連続 的に蔓延す るためには,感染者 となる人々が一定以上の密度で生活 しているか,交通が便利で病原菌が容易 に移動で きた方が 好都合 だか らである。 さらに,人口過密 な都市で衛生状態が悪化 した場合 も,疫病の蔓延の好 条件 となる。 なお,医療 は東南 アジアの近代化,具体的 には西欧化 と深 くかかわっている。 日本 において も,幕末か ら明治 にかけての 「近代化」は,「蘭学」,つ ま りオランダ医学 を学ぶ ことが重要な 推進力 になっていた。当時の 日本人は,西欧医学の,特 に外科的な領域での優越性 に庄倒 され た。明治期 に入 り,西欧医学 だけが政府公認 の医学 として認 め られ,「東洋医学」は法律 で定 める医療行為 としては今 日にいたるまで認め られな くなって しまったのである。 日本の場合, 西欧医学 は医学 とい う一分野 を越 えて,西欧の近代科学, さらに西欧文明の象徴 としてその優 越性が社会 に受 け入れ られていったのである。 日本 と同様 に東南 アジア諸地域で も西欧医学 は, 自然や生命 に関す る既存の概念 とはかな り 異 なる解釈 を住民 に示す こ とになった。 フ ィリピンのホセ ・リサール (Jos6Rizal), ジャワの チ プ ト・マ ング ンクスモ (TjiptoMangnkusu umo)千, ドク トル ・ジャワ (doktorjawa)と呼 ば れた,植民地時代 に西欧医学 を学 んだイ ン ドネシアの知識 人たちが 「近代化」の旗手 として活 躍 した ことは周知の ごとくである。

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東南 ア ジア研 究 34巻 2号 西欧医学が,従来の伝統医療 では対処 が困難 な伝染病 を退治 した り,公衆衛生 を改善す るな ど,住民 に とって否定 で きない恩恵 を もた らした こ とは事実であ る。 ベ トナムで は,1910年代 には フラ ンス植 民地政府 に よる天然痘 の予 防接種 に消極 的であ った住民 も,1937-38年 に襲 っ た コレラの大流行 に際 しては, ほぼ半分 が進 んで予防接種 を受 けるようになった [Marr1987: 183]。 こう した側面 とは別 に,西欧医学 は植民地支配 の随伴物 と して東南 アジアへ もた らされ た, とい う経 緯 を もってい る。 このため,西欧医学 の適用 が植民地支配 を正 当化 す る理 由づ けの ひ とつ として利用 された とい う側面 も否定 で きない。 この ように,植民地権力 によって, 時 には警察力 を動員 して,上 か ら強引 に押 しつ け られた医療 をオー ウェ ン (Nom anG.Owen)

は 「帝 国医療」(imperialmedicine)と表現 してい る [Owen 1987b:19-21] 。 後 に見 る ように, こう した態度が住民 の反発 をか うこともあ った。

東南 アジアの 「民俗 医療」 にかんす る人類学的研究 としてWatsonandEmen [1993], イ ン ド ネ シ ア に つ い て はJordaan [1988], マ レ イ シ ア に つ い て は Landem an [1991],Roseman [1991]な どがある。 しか し, これ ら人類学 的研 究の記述 は非歴史的で, 「時 間の経過 に ともな う変化 について は全 く伝 えていない」 [Owen 1987b:20]。 また, ボームハ -ル ト[Boomgaard 1993:77]は, イ ン ドネ シアの 医療 にか んす る歴 史的研 究 は 「悲 しい ほ ど無 視 され て きた分 野」 である, と表現 している。 そ して彼 は,医療史 にか んす る資料 も,探せ ばか な り存在す る ので はないか とい う見通 しを述べ ている。 結局,医療 の歴 史的研 究が ほ とん どないのは, この 間題 にたいす る歴 史家 の関心が これ まで欠如 していたか らにはか な らない。 た とえ利用 で きる資料が十分 にあった として も,病 と癒 しの歴史研 究 にはい くつかの障害が ある。 おそ ら く東南 アジアの医療 史 にかんす る体系的 な研 究 としてはほ とん ど唯一 の研 究書 で ある 『東南 アジアにおける死 と病』 の編者 であるオーウェ ンは,その 「イ ン トロダクシ ョン」 で, この分野 の歴史研 究の難 しさを次の よ うに告 白 してい る。 当初, この トピックその ものは比較的単刀直入 にみ えた。死 と病 は事実 の問題 である。 それ らは18世紀 のジャワ人貴族や20世紀 の フィリピン農民 の とらえ どころのない精神 よ り は "客観 的"特 質 をもってお り, したが って,それだけ主観 的な解釈 や先入観 な どによっ て歪 め られる ことが少 ない はずである, と思 われた。 [Owen 1987b:4] つ ま りオーウェ ンは当初,科学 的医学の立場 を採 るか ぎ り, さまざまな社 会の価値体系や文化 的な要 因に煩 わ され ることな く死 と病 の問題 を理解 し研究す ることが可能 である と考 えたので ある。 しか し研 究 を始めるやい なや彼 は,体 の状態や健康 は心 の状態 と密接 に関連 しているこ と,人 々の病 にたいす る認識 や表現が歴史的 に変化す るため,病 を特定す るこ とさえ しば しば 困難であ ること, な どの問題 に直面 した。 しか も,利用 で きる資料 は,資料 を書 いた人が記録

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大木 :病 と癒 しの歴史 するに値 する と判断 した病 に偏 りが ちで,結果的 に療病,天然痘, コレラな どに集 中 していて いる [loc.cit.]。 資料 の この ような制約 を反映 してか,上記 の研 究書 に掲載 された論文 の内容 は,大部分が主要な疫病,その雁病者数や死亡者数 にかんす る もので, 日常的病や人々の癒 し の方法 を扱 った ものは非常 に少 ない。 オーウェンが挙 げた医療史研究 にまつわる実際的な問題のほか に,住民が行 っていた伝統医 療の呪術 的,宗教的側面 にたい して歴史家が偏見 をもって しまう危険性 もある。 と りわけ,磨 史家 自身が西欧医学の恩恵 を受 け,それ に依存 している場合,住民 の医療 を …非科学的''で, 実際 にはほ とん ど有効性 ももたない怪 しげな呪術 である, とい うふ うに決めつけて しまう危険 性がある。 もし我 々が この ような態度 をもって しまうと, イン ドネシアや東南 アジアに暮 らす 人々の営みの重要な側面 を見逃 して しまうことになるであろ う。現段 階ではイ ン ドネシアにお ける民衆 レベルでの病 と癒 しの歴史的研究 は皆無 に等 しい し,資料 の発掘 もこれか らの課題で ある。 しか し筆者 は, もしこの分野の研究が進 んでゆけば, イ ン ドネシアや東南 アジアの歴史 を理解す るうえでひ とつの有効 な切 り口になるのではないか, とい う期待 をもっている。 以上 の問題意識 を念頭 において, まず, イン ドネシアの歴史 において人々は どの ような病 に罷 って いたのか をみてみ よう。 ⅠⅠ イ ン ドネ シア史 の中の病

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年代以前 のイ ン ドネシアにおいて,人々が どの ような病 に雁 っていたのかはほ とん ど分 か らない。 とりわけジャワ以外の地域 について知 り得 ることは少 ないので, この時期 の病 につ いては主 としてジャワを対象 に説明 したい

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世紀以前 のイ ン ドネシアで最 も恐れ られていた 病 は天然痘,療病,そ して性病 (梅毒)であった。 これ らの病 は死亡率の高 さのため とい うよ りも,外観 か らもわか る肉体 的 な変形 の ため に恐 れ られていた ようであ る

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世紀初頭 の沿岸低地ではマ ラリアがか な り一般的であったようである。 た とえばクー ン (J.

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は 「マラ リアの巣」 と呼 ばれていた

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同様 の状況 は他の沿岸都市や湿地地帯で見 られたであろ う。

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世紀初頭 にかけてのジャワにおける病 については,断片的ではあるが若干の記 述が兄いだせ る。 た とえば, アマ ンクラッ ト (A

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代 初めの年齢 に達 していた。彼 は当時最 も一般 的な病 のひ とつであった赤痢 に罷 り,激 しい出血 を ともな う重篤 な健康状態 にあ った。そ してつい に

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年彼 は吐血 (luntakrah)して死 ん だ [

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世紀初頭の ジャワで は赤痢 , コ レラ

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世紀初頭 にアジア各地で大流行 した

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であろ う), さまざまな皮膚病,主 としてマ ラ リアやチ フス に起 因す る熱病, イ ン ド痘 も

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東南 アジア研究

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号 一般 的 な病 であ った

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. 王 とい え ども当時一般 的で あった病か ら逃 れることはで きなかったのである。 ちなみ に, アマ ンクラッ トⅣ世 は晩年 に腫 れ物,腹痛,悪寒, 胃腸 内のガス充満, さらに心 不全 をも患 っていた

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年 に失神 して倒 れた時,彼 は曜吐 し,続 いて赤や青 の斑点が皮膚 に 現 れた [

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。 この場合,彼 の病が当時一般的であ ったか否かは記録 され ていないが, アマ ンクラッ トⅡ世 もⅣ世 も消化器系 の障害 に悩 まされていた ことは興味深 い。 おそ ら く,当時 は王宮 内において も飲用水 や食物 は必ず しも衛生的ではなか ったのだろ う。 戦争 も病 の流行 の原 因 となった

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年 に行 われたオランダ軍 の軍事行動 は東 ジャ ワに食料不足 と飢餓 を引 き起 こ し, これが もとで,マ ラリア と思 われる高熱や 「さまざまな疫 病」が発生 した [ibid..

・1

6

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]

o ここで,「さまざまな疫病」 とは正確 にどんな病であったかは明 らかではないが,おそ ら く赤痢 と下痢 であ った と思 われる。 とい うの も, これ ら二つの病 は飢 餓の随伴物 として知 られているか らである。

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年代 の ジャワに滞在 した クローフ ァー ド (J.

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は,熱帯気候 の下 にあ るジャワ の人々の方が,温帯気候 の ヨーロ ッパ人 よ り化膿症 にたい して抵抗力 もってお り,彼 らは ヨー ロ ッパ人 な ら死 んで しまうか もしれない ような怪我 を負 って も健康体 を回復 す るこ とが で き る, とコメン トしている。 クローファー ドは, ジャワ人の優 れた回復力の原 因を,柔軟 な筋 と 強健 な骨格 にあ ると指摘 している。確 かに,当時のジャワ人 は怪我 には強かったか もしれない が, ヨーロッパ人 よ りも化膿症が少 なかったか どうかは確認で きない。他方彼 は,熱帯気候 は 人々 に熱病 と赤痢 を もた らす, とも述べ てい る。 ここで "熱病" には 「湿地性 の毒症

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。特 にマラ リア毒性 を指す- 筆者注)によって もた らされ,特定 の季節 に蔓延す る弛 張 熱

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と間欠熱

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とが あ り,前 者 の方 が致 命 的 で あ る

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。 これ らの説明か ら判断す る と,彼 が熱病 と表現 したのはマ ラリアであった可能 性が高い。ただ し,発熱 をともなう病 にはマ ラ リアの他 にデ ング熱,赤痢,チ フスなどがある ので, これ を断定す ることはで きない。 以上のほか にクローファー ドは,当時 イ ン ドネシア,特 にジャワで見 られた病 として次の も の を挙 げてい る :天然痘 (当時 ジ ョクジャカル タ (Jog]'akarta)で生 まれた子供の うち十分 の-は,

1

5

歳以前 にこの病気 で死 んだ, と説 明 されている),性病, イ ン ド痘 (中国人 に よって も た らされた, と注釈 されている),痛風,卒 中, テ ンカ ン,多数の皮膚病,子供 に とっては最 も致命的 な障害 となる消化器系 の寄生虫 libid.:

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。 ところで, ジャワの王室 は領内の病 について臣下か ら報告 を受 けていた。 クローファー ドが ジ ョクジ ャカル タに滞在 してい た

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年, スル タ ンのハ メ ンクブウ オノ

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Ⅲ世 は, デ イポネゴロ

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を含 む重 臣たちに,宮廷 の外 で人々が病 に雁 っているか どうか を尋ねた。 これにたい して重 臣たちは皆 口をそろえて,非常 に多 くの住民が発汗 をとも

(9)

大木 :病 と癒 しの歴 史 なう悪寒 と胃腸病 に悩 まされてい る, と答 えた。当時, スル タン自身が深刻 な震 え (langkung kekes)の発作 と胃腸病 を患 ってい たので ある

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。以上 の状況 か ら推 測 す る と

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年代 当時の ジャワで はさまざまな熱病 と胃腸障害が最 も一般的な病 で,天然痘が最 も 危険 な "命取 り"の病であった と思われる。 なお,直接的証拠 を資料で兄 い出す ことはで きな いが,単独 の疾患 として,あるいは赤痢 の ような病のひ とつの症状 として下痢 もか な り一般 的 だったのではないだろうか。

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年 の ジ ャ ワ で 蔓 延 した 病 につ い て は

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がすで に詳 しく論 じてい るので, ここではそれについては簡単 に触れるに とどめ よう。 オラ ンダ植民地期 の大部分 を占めるこの期 間 には新 た な病が広が り, また病の蔓延 に新 たな 状 況が生 じた。 これ らの変化 の一部 は生物学 的要 因か ら,他 の一部 は環境 の変化 によって も た らされた。 まず

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年 には, ジャワお よびその ほかの イ ン ドネシア諸地域 で最初 の コレラ

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が発生 し,多数の死者がで た。 これ以後

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年 間にわたって コレラは間欠的 に 発生 し, ジャワにおける高死亡率の重要 な原 因 となった

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年代以降の交通体系の発展 (道路や鉄道網 の発展) によって,それ まで外界 か ら比較的 隔離 され健康的であった地域 に もチ フス熟が流行す る ようになった

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年代 にはマラ リア も 広範 な地域で発生す るようになった。 これには森林の伐採 と耕地, とりわけ水 田の拡大が重要 な要因 としてかかわ っていた と考 え られ る

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。 とい うの も,マ ラ リアの病原体 を媒介 す る蚊 は, 日の当た らない森林 の中では繁殖 で きず, 日光が当たる湿地 を必要 とす るか らであ る

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年代 といえば, ジャワで は

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年か ら始 まった 「強制栽培制度」 の最盛期 か ら衰退期 に向か う分水嶺 にあたっている。 つ ま り,強制栽培制度のため に森林が切 り開かれ,最盛期 を す ぎる とその土地は水 田 な どの耕地へ転換 され た。 また, この制度 とは直接 関係 はないが,

1

9

世紀後半 には人口の増大 に ともなって水田開発 が盛 んに行 われた。 これ ら全 てはマ ラリアの 発生 に とって好条件 をもた らした。今 日で もマ ラリアは,経済開発 に ともなって発生す る典型 的 な病

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の ひ とつ として挙 げ られている [フ ォス ター ・ア ンダー ソ ン

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]。

ジャワをは じめ イン ドネシアでは

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年か ら

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1年 にかけて最初のペス トの流行が見 られ, その後

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年 にかけて繰 り返 し流行 した。 この間のペス トに よる死亡者 は

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人 に達 した と見積 もられている

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ヨーロ ッパ における中世のペ ス ト大流行 の経験 か ら, ペス トにたい して極度の恐怖心 を抱 いていたオラ ンダ人の植民地政府 は, イン ドネシアで最初 のペス ト発生 を契機 に,伝染病 の蔓延 を厳 しく監視す るようになった。す なわちペス トのほか に,天然痘, コレラ,チ フス熱,バチルス赤痢, ジフテ リアについて, さらにパ ラチ フス

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, 伝染性脳脊髄膜炎,小児 まひ,マ ラリア, さらに

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年代以降は トラコーマ,結核 について, その発生 と死亡 を報告 す る こ とが関係 諸機 関 に義務 づ け られ たので あ る

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東南 ア ジア研 究 34巻2号

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]。 これ らに加 え て,植 民 地 政 府 が 全 く予 想 して い な か っ た病 も登 場 し, 多 数 の命 を奪 った。 す な わ ち,

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年 に世界 的規 模 で猛 威 をふ る っ た イ ン フル エ ンザ は イ ン ドネ シ ア を も 襲 い, こ れ に よ り約

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万 人 も の 人 が 死 亡 し た と 見 積 も ら れ て い る

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]。

イ ン ドネ シ ア世 界 と外 界 との接 触 が 密 接 に な れ ば な る ほ ど, 病 も世 界 の 動 向 を即 時 に受 け る よ う に な っ た の で あ る。 これ まで挙 げ た病 は, ジ ャ ワない しイ ン ドネ シ アで発 生 して い た病 の全 て を含 ん で い る わ け で は な い。 オ ラ ンダ人 に よっ て特 定 の名 称 が 与 え られ なか った病 も多 数 あ っ た で あ ろ う し, 住 民 自身 が病 と見 な さな か った もの もあ っ た で あ ろ う。 あ る地 域 にお い て人 々 が どの よ うな病 を 患 っ て い た か につ い て あ る程 度 包括 的 な状 況 が 分 か る よ う に な るの は,20世 紀 初 頭 以 降 の こ と 表1 中部スマ トラ (タルク, グヌ ン ・サ ヒラン地方) における病 :20世紀初頭 Ⅰ 皮膚病

癖 癖 (kudisorkodal,PunL), フラ ンベ シア,kuれ砂 longsong,kuraphayam,kuraPbest,kuraP biring,kayab,iuka,banDka,S砂akPuyu,白子1)

Ⅱ 熱病

マラリア (Lkmam kuyu),demankapiala (下痢 をともなうチ フス様 の熱)

Ⅲ 妊娠,出産,避妊,堕胎,婦人病

sakitdidalam 妙an (妊娠 中の高熱 ・頭痛 ・悪寒 ・四肢の倦怠),流産,難産,sakitbantan (産 裾出血,産後の悪寒 ・頭痛,腹部の重圧),産後の長期出血 (sandokmantong),避妊,堕胎, 生理不順 Ⅳ 小児病 下痢,胸の病気,熱病,衰弱 (sakitinawan) Ⅴ 性病 Ⅵ 眼病

結膜炎 (sakitkaibann),角膜損傷, 白内障,眼病 (sakitbular)

外科的疾患,傷 出血,骨折,脱 臼 (takilier),潰癌 (tukat.特 に傷, ヒルの岐 みあ とか ら感染 した もの),腺癌 (部位 によ りban

,

pir10,bisulなど名称が異なる) Ⅷ 虫歯 Ⅸ 甲状腺腫 Ⅹ 感染症

結核 (sakitbatok),療病 (sakitkuta),天然痘 (ketumbohan) XI 脳精神疾患

テ ンカ ン (sakitsawan),先天性痴 呆 (bongak),後天性 錯乱 (bingung),女性 の流行性 錯乱

(sljundai),悪霊悉 き

虫,動物 によ り由来す る疾患 ヘ ビ, ヒル,ムカデなどに岐 まれたことか ら生ずる諸疾患 出所 :[Zwaa

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注) ここに挙げ られている病,疾患 は,現地で生薬 による対応処置 をしているものだけである。 1)白子 (albino)とは先天性 メラニ ン欠乏症 のこ とで, これ を皮膚病 に入れてよいか どうかは疑 問が残 るが,Zwaanはこれを皮膚病の1つ として取 り上げているので, ここで もそれに したが った。

(11)

大木 :病と癒 しの歴史

である。 ここではズ ワ- ン (氏.vanZwaan)が20世紀初頭, ミナ ンカバ ウ (Minangkabau)族 の

住 む中部 スマ トラの タル ク (Taluk)とグヌ ン ・サ ヒラ ン (GunungSahilan)を中心 と した地域 でお こなった調査記録 をひ とつの事例 として示 してお こ う (表1)。 表1は, ズ ワ- ンが現地 の治療家 (ドゥク ンニdukun)か ら聞いた内容 を筆者が分類 した ものである。 表1に挙 げ られ た病 名が全 てであ った とはいえない。 た とえば,分類IIには胃腸障害 としてdemankapialaL か挙 げ られていないが, これ には もっ と多 くの種類があったはずである。 さらに, これ らは全 て,住民が薬草であれ呪術 であれ,何 らかの対処 の手段 をもっていた病 だけである。 上記 の問題 はあるに して も,ある地域 の,ある時代 における病 の種類 をこれほ ど包括 的 に示 した記録 はあ ま りない。 この意味でズ ワ- ンの調査記録 は非常 に貴重である。 この表か らうか が える興味深 い点 をい くつか指摘 してお こう。 まず,住民 によって多種の皮膚病が分類 され認 知 されていた ことである。 これは,当時 この地方では皮膚病がかな り蔓延 し,人々が 悩まされ ていたことを物語 っている。そ して皮膚病 の蔓延 は, この地方の高温多湿 な気候条件 に由来 し ている と思 われる。次 に,出産 に関連 した さまざまな障害 と婦人病が挙 げ られてい る。おそ ら く, 出産 は住民 に とって非常 に重 要であ ったが, 同時 に危 険 を ともなう難事業 だったの だろ う。 最後 に,精神疾患 または脳神経疾患 と考 え られる病が多い。一見 の どか に見 える人々の生 活 に も,意外 と人間関係 か ら生ず る精神 的葛藤やス トレスがあ ったのか もしれない。 この分類 の中の 「悪霊悉 き」 とは具体 的 には どの ような症状 を呈す るのかは分か らないが, これ につい ては後 に もう一度触 れ よう。 なお,当時同 じくミナ ンカバ ウ人の住 むほかの地域 で,幼児死亡 率 が50%ほ どに も達す る地 区が あ った [Zwaan 1910:163]が, それ らの幼児 が どの ような病 で死 んでいったのかは分 か らない。筆者 の推測では,幼児の死亡原 因 もまた大人の主要 な疾患 である赤痢 やチ フスな どの消化器系疾患 お よび天然痘 であった と思 われる。

イン ドネ シア史の中の癒 し

特定 の地域 や民族 で行 われ てい た民 間医療 は しば しば 「民俗 医療」 (folkmedicine)または

伝統 医療」 と呼 ばれ る。 しか しこれ らの呼称 は,伝統医療が本当 に土着 の ものであ る とい う ことを意味す るわけではな く,漠然 と非西欧医療 とい う意味で使 われる。 ボームハ-ル トは, イン ドネシアの伝統医療 には少 な くとも,(1)文字 どお り土着 の医療,(2)イ ン ドのアーユ ルヴ ェー ダ (AyuⅣeda), (3)中国 (漢方)医療,(4)イス ラム (ユ ナニUnani)医学, の 4つ の医療 システムの影響がある としている [Boomgaard 1993:83]。1) 1)アーユルヴェーダの正確な起源は分からないが,現在の 『チャラカ ・サンヒタ-』の形態は紀元前 7世紀に集大成されたもので,文字通 りの意味は 「生命の科学」である。アーユルヴェーダでは, 宇宙と同様,人体は5元素 (也,水,火,風,空-エーテル)からなり,地は固定部分,水は体液, 火は体温,風は気息,空は中空の身体器官 (腔)および内部空間,に代表される。また,身体の状 / 349

(12)

東南 アジア研究 34巻2号 確 か に, ジ ャワにおい ては, イ ン ドの医学書 が翻訳 され た こ と

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1988:53], スマ トラ の ガ ヨ

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の教 義 にか んす る伝承 には病 と癒 しに か んす る記 述 が あ る

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1987]こ とな どか ら, イ ン ドネ シア に これ らの医療体 系 が伝 え られた こ とは確 かであ ろ う。 また,後 に述べ る ように, イ ン ドネシアで病気 治療 の際 に用 い ら れた薬草 や呪文 には, イ ン ドお よびイス ラム的要素が確認 で きる し, いつ ごろか ら導入 された のか は分 か らないが,漢方薬が イ ン ドネシアで も売 られていた ことも確 かであ る。 ただ し現段 階で は, これ らの外部 の影響 が, 身体論,原 因論 ,治療理論 な どを体系 と して取 り入 れていた のか,特 定 の部分 を利用 していたのか は分 か らない。 これ らの うち, イ ン ド文化 お よびイス ラ ム教 の影響 は, イ ン ドネ シア にお け る医療 の歴 史 的変化 を理解 す る うえで と りわけ重 要 で あ る。 この点 を もう少 し補足 してお こう。 イ ン ドネシアの伝統 的医療 で は,病 の原 因 を西洋医学 の ように細菌 その他 の 自然科学 的要因 で説 明 しない。 しか しこれ は,人 々が病 の原 因 につ いて何 の考 え ももってい なか った こ とを意 味す るわ けで はない。彼 らは しば しば病気 の原 因 を,体 か ら精霊が離 れて しまった こ とや悪霊 の侵 入 に求 めた

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1906] 。 この ような場合,病 の治療 には精霊 に呼 びかけた り悪霊 を追 い出す宗教 的, あ るい は魔術 的要素が介在 す る こ とが多 い。 こ う して,20世紀初頭 ころ までの 資料 に現 れ るイ ン ドネ シアの人 々の癒 しには,宗教 的色彩 が色濃 く見 られ るのであ る。 病 と癒 しにかんす る この ような観念 は,現在 で もあ る程度 は受 け入 れ られてい る。 た とえば,1980年 代 にマ ドゥラ島で人類学 的立場 か ら住 民 の医療 を調査 した ジ ョル ダー ン

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に よれば, マ ドゥラ人の 間で は現代 において も医療 ・魔術 ・宗教 の三者 は不 可分 な一体 で あ る と考 え られ てい る

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1985:162]。 以上 の事情 を考 える と, イ ン ドネ シアの人 々は新 しい宗教 を受容 した際, よ り強力 な癒 しの 力 を期待 したであ ろ うこ とは十分推測 で きる。 東南 アジアにお け る宗教 の受容 と癒 しの関係 に つ いて リー ド (A

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は 「もし,病 にたいす る解 答 を もって い なければ,新 しい宗 教 が 栄 える こ とはで きなか った で あ ろ う」 と述べ てい る

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1993:155]。 これ は, イ ン ドネ シアにお け る ヒン ドゥー ・仏教 , イス ラム教 の受容 について も妥 当 しよう。 住民が新 しい宗教 に従来 よ り強力 な癒 しの力 を認 め た と して も, それが無条件 で受 け入れ ら れ たわけで はない。新 しい宗教 お よび癒 しの方法 と,既存 のそれ らとの間で どの ような葛藤が \ 態は3種類の, ド-シャ.と呼ばれる体液 (粘液,胆汁,風素または空虚)のバランスによって決 ま ると考えるので,これに基づ く理論は トリ ・ド-シャ理論 とも呼ばれる。 ユナニあるいはイスラム医学は,もともと,ギリシャのヒポクラテス(B.C.460-?)によって始 められ,ガレノス (A.D.130-200ころ)によって発展 させ られた体液理論を, 5- 9世紀 ころにア ラビア人が取 り入れた医学である。この医学では,宇宙 と人体は4元素 (土,水,大気,火)からな り,人体の健康はこれら4元素に対応する4つの体液 (血液,粘液,黒胆汁,黄胆汁)のバ ランス によって決 まる, とする。 これらの医学については多数の著作があるが,さしあたって以下の文献 を参照 されたい。 [バ ンナ-マ ン ・バー トン ・陳 1995:74-97;フォス ター ・アンダーソン 1987: 70-83;ユアール他 1991:23-135]。

(13)

大木 :病 と癒 しの歴史 生 じ, どの ように融和が はか られたのだろ うか。 これはイ ン ドネシア史 における重要 な問題 で ある。 4- 5世紀 に始 まった 「ヒン ドゥー化」の過程 で もた らされたであろ うイ ン ドの,宗教 や信仰 をも含 めた癒 しの体系 と,それ以前 か ら住民 によって実践 されていた癒 しの体系 とが ど の ように対立 ない しは融合 していったのか については現在 の ところ明 らかではない。 しか し, イ ン ドネシアの 「イス ラム化」 の過程で生 じたであろ う葛藤 と融合の状況 については若干の手 掛 か りがあ る。 ミナ ンカバ ウ族 が住 むスマ トラ西海岸のアイ-ル ・ハ ジ (A

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世紀初頭 に現地の ドゥク ンか らの聞 き取 りをつ うじてオラ ンダ人によって記録 された伝承 は, この問題 を考 えるうえで非常 に示唆的である。次 にこれ を検討 しよう。 ミナ ンカバ ウの地 にはかつて ヒン ドゥー文化 の影響 を受 けた王国が成立 し,それについては 現在で も

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世紀 のサ ンス クリッ ト語碑文が現地 に残 っている。その後

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世紀 ころか らイ スラム教が徐 々にこの地域-浸透 し始めた と思 われる。 そ して18世紀末 にはイスラム化が急速 に進み,19世紀初頭 に勃発 したイス ラム改革運動,通称 「パ ドリ戦争」 によって, ヒン ドゥー 系 の政治勢力 は ミナ ンカバ ウの地か ら最終的 に抹殺 されて しまった。 これ以後, ミナ ンカバ ウ はイ ン ドネシアで も最 もイスラム化 した地域 のひ とつ となったのである。 この地域 におけるイ ス ラム化 のプロセスは

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年以上 もの年 月 を経 て徐 々に進行 した ことになる。 これに よって変 化 したの は政治権力 や宗教 だけで はなか った。癒 しの方法 に も重要 な変化 が生 じた ようであ る。以上の歴史的背景 を念頭 に置いて,すで に触 れた伝承 をみてみ よう。 ア イ-ル ・ハ ジの人々は,彼 らが幾千 もの精霊 に囲 まれてい る と感 じていた。伝承 に よれ ば,精霊 は人間に とって有害 にな りえるが,常 にそ うであるわけではない。元 を正せ ば,全 て の精霊 はニエ ツ ・ピタロ ・グル

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の子孫 で,人間 と共存 していた。 しか し, この共存 はある時か ら変化 し始め た。 ダウラ ッ ト

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。語源的 にはアラ ビア語で 「王権 の 聖 なる要素」 とい う意味。資料 の注では 「パ ガルユ ンの王」 としている)が新 しい教 え (イス ラム教) を導入 したい旨を精霊 たちに告 げた ところ,7人の精霊 はこれ を拒否 した。 ピタロ ・ グルは これ らの精霊 を原野 に追放 した。そ して,追放 された精霊 たちは復讐のため に人間に危 害 を加 えるようになった,つ ま り悪霊 になったのだ と伝承 は語 っている。 ただ し, ピタロ ・グ ルは 7人の精霊 を追放す る際 に,彼 らに次 の ように申 し渡 している。 もしお前 たちが人間 を病 にさせ,彼 らがお前 たちに治 して くれ るよう頼 んだな らば,そ して彼 らが ア ダッ ト(adat)とリンパ ゴ (limbago)[つ ま り現地 の慣 習- 筆者注]に従 っ ているな らば,彼 らの病 を治 しな さい。 さもなければお前 たちはアラー とコーランの聖 な る言葉 によって打 ち砕 かれるであろ う。 野 に追放 された悪霊 の数 はその後

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に も増加 し, い くつかの階級 に分類 され た。悪霊

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東南 アジア研 究 34巻2号

の頂 点 に は,RajaSoleimanPutih (自),RajaSoleimanKuning (黄),RajaSoleiman Ijau(緑), RajaSoleima

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tam (黒), とい う 4人 の ラー ジ ヤ ・ソ レイマ ンが君 臨 してい た。 それぞれ の

ラージヤ ・ソレイマ ンは配下の悪霊 を監督す るための監督官 として ドゥバ ラ ン (dubahmg)を 従 えていた。 これ ら監督官 も,MambangPutih,MambangMerah (赤),Kuning,Ijau,とい う,

それぞれ特定の色 を含 む名前 を与 え られていた。 これ ら4人の監督官 の下 に,一般 の悪霊が置 かれ, それ らはハ ン トウ (hantu), セ タ ン (setan), ジ ヒン (jihin), ウビ リス (ubilis)とい う

4つの グループに分 け られた。 これ らの うち,ハ ン トウが人間に対 して最 も有害である とされ た [Kreemer1908:439-440]。 上 に紹介 した ミナ ンカバ ウ族 の伝承 はい くつかの点で興味深 い。第1に, この伝承 は宗教 や 信仰 と癒 しが いか に密接不可分 に結 びついていたか を明確 に示 してい る。 第2に, この伝承 は, イス ラム教 の浸透 によって ミナ ンカバ ウの人々の癒 しの体系 に変化が生 じた ことを伝 えて い る。 悪霊 にされ,人々に病 を引 き起 こす ようになったのは, イス ラムの教 えを拒否 した精霊 だけであった, とい う伝承 の構 図は非常 に象徴 的である。 とい うの も,全 ての精霊 は ピタロ ・ グルの子孫 であるが, ピタロ ・グル とはマ レー世界 で ヒン ドゥー教 の神 を指すバ タラ ・グル (BataraGum)と同格 の存在であ る と考 え られ る。 したが って,精霊 は もともとはヒ ン ドゥー 的要素の象徴 であった。 ここか ら, ミナ ンカバ ウにおいてイス ラム とヒン ドゥーの両文化 ・宗 教 が どの ような位置関係 に変化 していったか を読み取 ることがで きる0 イス ラム教 はヒン ドゥー教 や土着 の信仰 ・慣行 との間で対立 と妥協 を繰 り返 しなが ら徐 々に ミナ ンカバ ウ社会 に浸透 していったのであろ う。伝承 の中で, ヒン ドゥー的権威 の象徴 である ピタロ ・グルは, イス ラム的権威の象徴 であるダウラッ トの意 に反 した精霊 を自ら追放 しただ けでな く,約束 に反 して病 を治 さなかった悪霊 を, アラー とコーランの言葉で罰する と述べ て いるのである。つ ま りこの伝承 か ら, ヒン ドゥー的要素 は ミナ ンカバ ウにおいて完全 に排除 さ れて しまったわけではないが, その権威 はイス ラム教 の下 に組み込 まれていった ことがはっ き りとうかがえる。 一方, ミナ ンカバ ウの慣習 (アダッ トとリンパ ゴ) を順守 している住民が病 を癒 して くれるよう頼 んだ場合,悪霊 たち もそれに応 えなければな らない, とい う部分 は, イ ス ラムが土着 の慣習や信仰体系 とも妥協 しつつ浸透 していったプロセスを示唆 している。 イン ドネシアの 「イス ラム化」 とは,宗教 と癒 しの領域 に限 られたわけではな く,社会的, 文化的,政治的,経済的側面 をも含 む広範 な歴史過程 を指す。そ して, ミナ ンカバ ウにおける イス ラムの受容 は,結果的にではあれ,既存 の癒 しの方法 に何 らかの影響 を与 えた と考 え られ る。 さらに,一部 の人々にとっては,癒 しの力 に対する期待が, イス ラム教 を受容す るひ とつ の きっかけになった可能性 も否定で きない。 ミナ ンカバ ウについては分か らないが, た とえば ジャワには, イス ラム教 の受容 を疫病 の蔓延 と関連づ けている伝承 があ る [Reid 1993:156]。 そ こで次 に, イ ン ドネシアにおけるイス ラム教 の浸透 と,病お よび癒 しとの関係 を, もう少 し 352

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大木 :病と癒 しの歴史 広 い歴史的文脈 の中で考 えてみ よう。 イス ラム教 は15-17世紀 にかけてイ ン ドネシア地域へ浸透 し始めた。 これは, リー ドのい う 「交易 の時代」 と時期 的 に重 なる。 世界的 な規模 で交易 が発展 したことに ともなって,性病 を は じめ,それ までの住民の癒 しの方法では対処 で きない新 たな病気が イン ドネシアに持 ち込 ま れたであろ う。 この ような状況 の もとで,人々は既存 の ヒン ドゥー教 や土着の信仰体系 と結 び ついた癒 しの方法 よ り強力 な力 を待望す る ようになったので はないだろうか。癒 しの効果があ る と信 じられた呪文 として,1600年 ころ まで には ドア (doa)とい う言葉 が標準 的 なマ レー語 として定着 したが, これはアラ ビア語 の ドゥア (du'a)に由来す る言葉 である [ibid.:157]。こ の事実 は,上記 の過程 と時期 的 に も符合す る。 後 にみ るように, ミナ ンカバ ウに伝 えられてい た呪文 はアラビア語 を混 じえたイス ラム教世界 の ものであった。 クロー ファー ドは,19世紀初頭 の ジャワでは, アラビア医学 に精通 していない ドゥクンで さ えア ラビア医学の術語 (jargon)を使 い たが った と述べ てい る [Crawfurd 1820:328]。また, 1850年代 と60年代 にイ ン ドネシアで働 いたあるオランダ人医師は,研鎌 を積 んだジャワ人 ドゥ ク ンのあい だで はアラ ビア医学 の理論 が顕著 であ った と述べ てい る [Boomgaard 1993:83]。 ただ し, クロフ ァー ドはジャワ人 ドゥクンが使 っていた具体 的 な 「医学の術語」 を示 してい な い し, オランダ人医師の コメン トにある 「アラビア医学」が,何 を意味 しているのか も示 され ていない。 これ らの記述 か ら,当時の ドゥクンが, イス ラム教 と結 びついたアラビア伝来の医 学的知識 をひけ らかす ことによって 自らの権威 を高めた り治療能力 を誇示 しようとしていた こ とが分 か る。 そ して, この ことは,患者の側 に もイス ラム教 とアラビア医学 の病気治療 の力 に 対す る期待があったことを示唆 している。 「ジャワ年代記」 には, だれ も治す こ とがで きなか った娘 の病 を治 して くれた イス ラム聖者 (WaliLanang)に, その父で あるBlam banganの王が彼 を娘 と結婚 させ た話が登場す る [Babad TanahDjawi1987:21]。ジ ャワにイスラム神秘主義 (sufism)を広 め た聖者 た ち (walisongo)

にかんす る伝承 に も,上記 と同様 の逸話が, もう少 し詳 しく措 かれている。 つ ま り,王の使 い は イス ラム聖者 (SyehMaulanalsak)に,王女 の病 を治 し,王 国 に広 まっていた疫病 を退散 さ せ て くれ るよう頼 んだ。やがて王女 の病 は治 り二人は結婚 した。 この イス ラムの癒 しの力 はた ちまち国中に知 れ渡 り,た くさんの人々が癒 しを求めて彼 の もとに集 まる ようになった。彼 は これ らの人々に治療 を施 す と同時 にイス ラムの教 え も説 いてい った, と伝 え られてい る [Abu

KhadilandAsnanWahyudin.d∴ 30-32]。イ ン ドネ シアにお けるイス ラム教 の受容 とい う大 き な歴史の流れが,新 たな癒 しの方法-の期待 を主要 な動機 としていた とはいえないが, イスラ ム教 の伝播 には宗教教義 だけで な く,癒 しの方法 も含 まれていたであろ うとだけはほぼ確認で きる。 同様 の状況 は,かつて イン ドネシア諸地域 にヒン ドゥー教が浸透 した過程 で もみ られた であろ う。

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東南 アジア研 究 34巻2号 ジャワや ミナ ンカバ ウとは宗教 的文脈 が異 な り,今 日まで イス ラム化 を拒否 し続 けているバ リ島の事例 も興味深 い。 これ を, ロブリックの研 究 に従 ってみてみ よう。 バ リ島にはウサナ ・ バ リ (UsanaBali-「バ リの歴 史」) と呼 ばれ るバ リの年代 記 や, ウサ ダ (usada-医療,医学) とい う言葉 をタイ トルに含 むい くつかの医療 に関する文書がある。年代記 では, ジャワはイス ラム勢力 に破 れて しまったが,バ リはこれ を拒否 し続 けていることが強調 されている。 一方,

天然痘 を例 に とる と, これ に関す る ウサ ダ文書,"Tutur WekasingMajapahit:UsadaKacacar"

(「マ ジャバ ヒ トの終幕 に関す る秘密 の,神秘 の知識 :天然痘 の処方」)やその他 の ウサ グ文書 には,人々が イス ラムの力 を借 りてこれ に対処 しようとした ことが記 されている。 まず,バ リ の人 々は,他 の病 と同様,天然痘 の流行 も超 自然的現象である と考 えてお り, これ を撃退す る ため に,宗教 的呪文 (mantra)を重要視 していた。バ リが天然痘 に襲 われた とき用 い られた呪 文 には, アラー を初め, イス ラムの聖人や聖地,称号 な どが頻繁 に登場す る。 また,患者 は豚 肉の ように と りわけ "危険 な"肉や,闘鶏 によって死 んだ鶏 (闘鶏 によるギ ャンブルの禁止 を 暗示 している) の肉 を食べ てはいけない, とい うような,明 らか にイス ラムの教 えを意識 した 事柄が,患者 の禁止事項 として こまごまと示 されている。 これ らを総合的 に判断 してロブ リッ クは,「この呪術 ・医療 テキス トか ら,バ リ人 たちが イス ラム と, その新 しい種類 の魔術 的力 を意識 していた ことは明 らかである」 とコメ ン トしている [LovriC1987:130-131]。つ ま り, バリ島の人々は宗教 としてのイス ラムを受 け入れることは拒否 したが,癒 しの力, とりわけ呪 術 的な力 の源泉 としてのイス ラムをある程度受 け入れていた ようである。 宗教 と癒 しの方法 との関係 については上 にみた とお りであるが, これ とは別 に西欧医学の影 響 に も触 れてお く必要があろ う。 西欧医学 は東南 アジアにおいて,一般 に想像 され るよ りも早 くか ら影響 を与 えていた ようである。 ヨーロ ッパ人医師はすで に16-17世紀 にはアジアの諸都 市 で望 まれていた。 とりわけ切断,骨折治療,腫癌 の除去

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鴻血 な どを行 う外科医が必要 とさ れた [Reid1988:53]。 おそ ら く, これ らの医術 にかん してはアジアの医療 はあ ま り得意 では なか ったのであ ろ う。 もっ とも, 当時 の西洋医学 もそれ ほ ど完全 な もので はな く,「ヨー ロ ッ パの "科学的"医療 は治す よ りも多 くの人 々を殺 して しまったであろ う」 とい う状況 にあった

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。 当時 ヨー ロ ッパ 人医 師の治療 を受 けたの は,主 に王侯貴族 や富裕層 であ った と考 え られる。 ただ し,彼 らは ヨー ロ ッパ人医師 を新 しい タイプの呪術 師 と見 な していた ようであ る [Boomgaard1993:82]。 しか し, イ ン ドネ シアの支 配層 の間で は,時 の経過 とともに西欧 医学 は着実 に浸透 していった。 18世紀,19世紀 の ジ ャワの王室家族 は, ジャワ人 ドゥク ンとヨー ロ ッパ 人医 師双方の治療 を受 ける こ とが普通 であ った [Carely 1992:186,191]。 そ して彼 らは しば しば, ドゥク ンよ りもヨーロ ッパ 人医師の方 を信頼 した ようである。マ ンクヌガ ラ (Mangkunegara)Ⅱ世 はその 1人であったO王室年代記 (babad)の中で,彼 はジャム- (jamu)と呼ばれ るジャワの伝統 的

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大木 :病 と癒 しの歴 史 生薬 についての専 門知識 の権威 とい うこ とになってい る。 しか し1796年 に王位 に就 いた少 し後 に病 を患 った と き,彼 は ジ ャワ人 ドゥク ンが処 方 した ジ ャム- を全 て拒 否 し, ス ラ カル タ (Surakarta)在 住 の ヨー ロ ッパ人 医 師 の 治療 を受 け る こ と を強 く主 張 した [ibid.:420,note lO7] 。 19世紀末か ら20世紀初頭以 降,植民地政府 は,予防接種や公衆衛生 な どの西欧医学の方法 を 集 中的 に実施す るようになった。 これ らは感染病 の治療 に一定の有効性 を発揮 したため,西欧 医学 に対す る住民 の信頼 を高めたであろ う。 しか し他方で,その実施 にあたって とった政府 の 強引 な態度 は,住民 の西欧医学- の不信 や政府- の敵意 を も呼 び起 こ した [Owen 1987b:1 9-20] 。 政府の医療行政 や西 欧医学 を住民が どの ように受 け止 めたか を,東 スマ トラの ジャ ンビ (∫ambi)地方の事例 でみてみ よう。 教育制度 の導入 と同様 に,政府 は医療政策 を実施す る際 には力 で押 しつ ける, とい う態度 を 採 る こ とが多か った。天然痘 の予 防接 種 を受 け させ るため に,政府 の医療官 は現 地 人の郡長 (Demang)と警察官 を ともなって村 を訪 れた。 また,1909,1913年 に コレラが流行 した時,政 府の医療 ス タッフは交通遮断や感染 した家屋 を焼 くため に警察力 を用 いた。 この ような政府 の 行為 にたい して住民 は抵抗 し続 け, その過程 で警察官1人 を殺害 し, 3人 にけが を負 わせ た。 住民 に とって,病 とはたんに肉体 的 な状態 を指す のではな く,超 自然的力 による懲戒,あるい は個 人や集団 によって投 げかけ られ た呪文 の結果 で もある と信 じられていた。 したが って,そ れは呪術 的,社会的 に癒 されるべ きもので, ドゥクンの手 にゆだねなければな らない。 この よ うな認識 の もとで,住 民 はコ レラの流行 をカフ ィール (kaPr:イスラムの教 え を信 じない者。 ここで は オランダ人)の支配者が, ジャ ンビ古来の習慣 と対立す る変化 を引 き起 こ し, それが 社会 に不調和 をもた らしたため に生 じた, と解釈 したのであ る [Muttalib 1981:20122]。 上 に紹 介 したジャンどの事例 は,植民地政府 による西欧医学 の導入が,具体 的 に どの ように 行 われ,住民がそれ をどの ように受 け止 めたか を明 らか に している。 同時 に,住民がそ もそ も 病 とい うもの を どの ように考 えていたか も分 か る。 病 を超 自然的存在 の作用,既存 の秩序が乱 れた結 果 である とい う考 え方 は, ジ ャンビだけで な く東南 アジア全体 に共通 していた [Owen 1987b:16-17] 。 住民 は具体 的 な問題 を, この ような観 念 に基づ いて解釈 し,一定の歴 史的文 脈 の中で対応 していったのであ る。 以上 の ような住 民 の観念 は,病 をあ くまで も "科学的日 に理解 し, "科学 的" に治療 すべ き であ る とい う西欧医学の立場 と大 き く異 なった。そ して医療 に関す る観念 は,その社 会の価値 観 と深 く結 びついているため に,政治的不満 を表 明す る際 の象徴的 な問題 とな りやすい。植民 地期 イ ン ドネシアでは,医療 の問題が直接 的 に歴史的大問題 として登場す ることは少 ないが, 人々の 日々の暮 らしにおいてはかな り重要 なことが らであ ったはずである。 以上で病 と癒 しに か んす る歴史的背景の検討 を終 わ り,次 に,住民が実際 に行 っていた癒 しの方法 を,呪術 と生 355

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東南 アジア研 究 34巻2号 薬 に焦点 をあててみてみ よう。

癒 しの方法 :アイール ・ハジの事例 にみる呪術 と生薬

イン ドネシアで19世紀お よび20世紀 に行 われていた癒 しの方法 は呪術 と生薬 だけではない。 これ らのほかマ ッサ ージ,刺絡 (鴻血),手術 ,護符 な ど,治療者が患者 に施す方法があった。 さらに隈想,祈 り,供物 な ど患者 自身の行為 も広 い意味では癒 しの方法であった。 しか し,本 稿 で これ ら全 て を論ず る こ とはで きない。そ こで ここで は まず, ミナ ンカバ ウ地方 の アイ-ル ・ハ ジで行 われてい た呪術 を中心 と した癒 しの方法 を検討 し,次 のV で ジャワの生薬 を取 り上 げることにす る。 アイ-ル ・ハ ジについてはすでに伝承 を紹介 したが, この伝承 を20世紀初頭 に記録 したオラ ンダ人 ク レーメル (J.Kreemer)は, 当時実際 に行 われていた呪術 的癒 しの方法 や呪文 を も詳 しく記録 した。呪文 は治療家 たちが口伝 えで覚 えてゆ くものであ り, テキス トに文字で書 かれ ているわけで はなか った。 したが って,通常 は記述資料 で呪文 をみ るこ とはほ とん どで きな い。 この意味で クレーメルの記録 は稀 な事例 で非常 に重要である。 さて, ミナ ンカバ ウでは主 として男性 の ドゥク ンが病一般 お よび抜歯 な どを担 当 し,女性 の ドゥク ンはマ ッサー ジ,少女 の割礼,産婆 (dukunbalian)な どを担 当 した。 ドゥク ンは多 く の場合,父母か ら息子,娘へ と受 け継がれていった。 しか し,親族以外 に も,見習い として ド ゥクンについて修業す る子供 もいた。 これ らの少年,少女 たちは呪文,生薬,儀礼 について教 え られ, 17-18歳で独立 した [Zwaan 1910:355]。 アイ-ル ・ハ ジで は原則 として ドゥクンは 敬度 なイス ラム教徒 で,祈藤 (mandoa)がで きコーランの朗唱 (mengaji)が で きることが要求 された。彼 らは,悪霊 を追 い出すための超 自然 的力 (alemu)を もってい る とみ な され,非常 に尊敬 されたが,外見 か らは他 の村民 と区別 はつかなか った [Kreemer1908:447]。 ドゥクンが患者 に呼 ばれる と,次 の ような手続 きで診断 を した。 まず, キ ンマの葉, どンロ ウジュの実, ガ ンビアの葉,石灰 よ りなる, シ リー (siyih)と呼 ばれ る噛 み タバ コを患 者の家 族 に用意 させ た。 シリーを しば ら く噛 んだ後, ドゥクンは口の中の物 を容器 に 3回に分 けて吐 き出 し, それ を注意深 く検査 した。 も しそれが生温 かけれ ば (nilu-nilukuku), その病 は外部 の悪霊 に よって引 き起 こされ た もの と診断 され, リマ ウ (limau)を用 いた癒 し,つ ま りマ リ マ ウイ (malimaui)が適用 された。 リマ ウ とは レモ ンや オ レンジ, ライムな ど柑橘類 の果実の こ とであるが, ここで は IimaukaPas(Citrusmitts)と Iimaumi,is(Citrusawantlfoli)2)の ライ

2)ここで示 された 2つのリマウのラテン語表記は Wilkinson[1959:692]によった。なお,柑橘類 とり わけライムを病気治療に使う風習はマレー世界では一般的であ り,Kreemer[1908:450,notel]に よればヨーロッパでも同様であったCただし,インドネシアでは,ライムには悪霊を追い払 う霊的 な力があると信 じられていたようである。たとえばガヨ族は現在,悪霊 (jim)を追い出し病を癒す際 /

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