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日本女医史の研究(三)

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(1)

吉岡“B本命殴酉史の研究 六六

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徳灘時代の女馨

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纏晒 @︵ノナカエン︶  女流讐家 野中兼山第三女なり、安履亭と熟す。母は池氏、萬治三年高知に生る。幼にして聰敏、好みて書を讃む。 寛丈四年五歳にして父の故を以て幡多郡宿毛に蓬り禁鋼せらる玉こと四十年、學を勤め怠らす、後谷重遠を師として其 の説を尊信し、能く四書五経を講談す。譲居中詩歌を︷詠じ自ら逡る。また書を善くし、殊に楷書に工みなり。當時書籍 に乏しきを以て四書の如きは手・爲して之を富む。元亨十年赦されて錦り.土佐郡朝倉村に讃し,讐を費釦以て肖ら給す、 面して其の術⋮頗る妙に至る。仕官の者來のて治を乞ふときは相見るを黒目んぜす、縣を患者の寸口に結び葛障を隔て為懸 端を執の.以て脈を診し治を施す。また効.瞼あり。故に裡千番の精妙に至る者を稔して娩子の綜診と云ふと。藩主其の 貧を謀れみ、俸八入口を賜ふ。僻して受けす。客臣等量の母老いたるを以て強ひて拗めて之を受けしむ。常に家中に居 て外に出です若し偶々出つれば必ず一刀を似び面を覆ふ。一日寵して城下に到る。一老臣野遊するに遇ふ。狂夫將さに之

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香美郡野地村野中謬論

所墓山条の見高引潮

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  を避けんとす。姉署して曰く、妾は野中兼山の女なり。大天何ぞ避くるに足らんと。藩主嘗て内識して其の奮臣某に嫁   せしめんとす。言解して臼く、妾不幸にして零丁依るべき無しと難も、實に前執政の女なり。然るを志を屈し身を辱し   め奮臣の妻.となり、以て温飽を圖るが如き妾が願ふ所に序すと。終に從はす。居常眉を創らす、歯を浬せす、長挟の衣   ︵俗、振袖︶㌘服し,金蘭露訳の装を愛ぜす、寳永五年組先の洞堂を建て﹂諸臣の壷飾ある者を合祠し、自ら祭文を作り   て憩に告ぐ。亨俣十年十二月二十九日、病んで超す。年⊥ハ十六︵名女.傳︶  是は﹁、大日本入名僻書﹂にあるコ野中擁しの簿である。そこで、試みに、野中碗の父、﹁野中兼山﹂なる入の経歴を、同じ く﹁大日本入名鮮書﹂で調べ、その要領を記蓮すれば,次の如くである。

野中藻麹

  儒者︵山崎闇齋と同輩︶。土佐藩の執政な動。無山の組帯は山内一豊の妹を煮る。兼山執政になるに及び宿弊を除くの   志あり。撒十條を具して上る。藩圭鑑く之を瞑す。雪月俗吏培克を以て事を干す者あり。是に於て町議喧棄す。寛文三   年七月老臣連署して之を訟ふ。兼山自謝しで致仕を請ふ。之を許す。乃ち香美郡中野の別業に屏居。年四十九にて残す。.   ︵先哲叢語、先折口叢談、野更、論定便臨見︶明治四十五年・一月二十六日、粛正四位。  是だけを讃めば、大燈、野中碗が徳川蒔代の﹁女讐ごとしで趣ぬて興味のある亀寧ろ素読的入物であると同時に女傑であ った事が分るし、・野中筆山といふ入の事も朧町鳶ら察する事が出來る。依て、暫く、私は﹁野中息子﹂に就いて、更に詳細 に、その傳記を物語って見ようと思ふ。  然しながら、順序として、野中妨子に就いて述べる前に、野中兼山に齪いて. 一三,彼れの傳記を書かなければなら ぬ。 野中家の組.先の記録に明かなるものは、墨黒道永と具した。足利氏の末世に括り.大垣の近傍なる三輪村伊尾に居住し、    士口h両∬Rn本革懸史の研究       六七

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   士口岡醒日本女醤史の研究       六八 家資財に富み多く山林田畠を買ったといふことである、そして後世伊尾の入が伊尾山を呼んで、道永山と啓するものがある のに依ると匂尋常の人でなかったのが察せられる。是が兼山の高組である。  組父は良軍といひ、道永の孫に當る。妻は山内お合といひ、山内但馬世盛豊の女で,實に一豊の妹である。然るに、、良李 は年歯僅に三十一で天折したので、妻お合は弟盆纒の妻となった。  父は、此の良李の長男良明と云った。嘗ては、山内一豊に仕へ、土佐にて二萬九千石を領して居たが、粂山が出生の頃は 既に浪々の身の上であった。而して、兼山四歳の時、京都の僑居で帝居してしまった。母は、良明の後妻で、尼ケ崎の豪家 尼崎叉右衛門の娘で、秋田万といった。  兼山は、此の二人の子で、元和元年正月二十一目に幡州姫路の城下に生れた。此の年、大阪夏の役起り、秀頼の滅亡した 年である。正に徳川三百年の治世開けんとした時であったことを知る。 一代の大政治家として、誠にその誕生。博を得たと いふべきである。  兼山、名は止,字は良繹、.兼山或は高山と令した。幼時佐八郎と介し、長じて傳右衙門と改め、叉主計ともいった。  然るにゃ兼山は、十三の年,部ち寛.永四年、彼の叔父、土佐の奉行,野中直雛の養子となった。それは、直織が嗣子を失 って養子を求めて居た際.小倉少夢想卒なるものが仕置役として直織を助けて居た。政卒は嘗て堺にあって兼山を見、其器 局の大なるに感じ.帰って之を直纒に薦めた。そこで直轄は喜んで之に從ひ、兼山を高知に迎へたに依るのである。直継は、 入となり最も峻哨嚴烈にして國中の士庶悉く憎伏したといふことである。後年籍山里格を以て続々の畏敬する所となったが、 直営は﹁諸人恐怖せしこと良縫君︵即、粟山︶よりも越え給ふと古き者申す﹂と兼山遺事略にあるのを見ると、其の威嚴の 程が察せられるのである。  斯る嚴絡なる養父に加ふるに。彼の母秋田氏は一世の賢夫入にして,夫の覆するや、 一族皆再婚して裕な鯨生を途らんこ とを勧めたが、彼女の節藻は凛乎として奪ふべからす、貧騰に居って梅津愈女固く専只管兼山の成長を期しみ其教養に注意

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して難苦の身に迫るを知らざるものX様であった。而して彼女は蕾に鶴崎の堅固な了しのみならす、思慮品挙国に婦入の模 範と稔するに充分であった。彼女が兼幽の妊娠中は已に胎教の心得を持ち,其出生後は戴苦の間にこれを育て玉感化教導非 常に努めたといふことである。  愚垣般の事情を考察して見ると勘難山の組父無軍及其笹野継が幽内賃と婚を通じて之に仕へてから、山内,野中の爾氏は最 も深き間柄となって距代々重用せられ亀殊に兼出の養父直纒が藩のために功勢があってから、一暦其位置を高めた感がある。 更に一方,野中氏代々の入物を見るに.何れも峻烈の資を備へたるが上に.兼山の父良明は最も嚴直傲岸にして、其妻子に さへ容易にものを言はなかったと云はれも養父母緯亦上述の如く甚しく嚴烈の入であったから、兼山の性行が、其の環境と 遺傳よりして、是等祀先に類似せし事は,想像に難くない。是を要するにな彼は租先の開拓せる位置を織承し、その連署を 享けて生れた入物であるといぴ得るのだ。  こ玉で、私は、彼の系圖を記して見よう。

野 中 氏 系 翻

野申道永ーー白

   麺

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ー薪太郎

i女

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 妹   へ後秋田氏  直縫に養はる

難鵬  ﹁遮

        乾備後和

一合

       7 三に嫁す

驚縣衛 ﹁少松警世

吉岡”日本女馨史の研究 六九

(8)

吉岡目日本女騰史の研究 七〇   1 寡妻盆 婦兄  良 雫糧 の

一途織

i風

1直 縫

早世 妻安東可氏 の妻

一稻々子

 石川利左衛  門に嫁す

一勝 政

 幕士松田庄  右衛門政行  に養はる

一辰之助

 早世 農 縫 實は良明 の子

i男夫死

一合

 深尾帯刀  重行妻  一− 一﹂d  良纒妻後  別居す

 順

 早世 母公文氏

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 高木四郎左衛門要 一一 明︵溝七︶  母池氏

一明縫︵欽六︶

 母公文氏

一顧一郎

 早世母池氏

−畏三郎

 早世母美濃部帰

一繊業︵爺四郎︶

 母池氏 !寛  母美濃部氏

一鍵

 母池氏 一將  母美濃部氏

!行 謹寅四郎︶

 母池氏

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 斯くして、寛呼永十三年十一月、彼二十二歳の時、養父たる奉・行直維残せしょり,直に其跡を襲って奉行たるキ命ぜられた。 即ち、斯る若年に於て、事實上一藩の.執政となった繹である。龍は正に雲を得たのである。其後、彼が寛文三年四十九止威に 於て失脚して退隠するに至るまでの二十八年間は、嵐眞に順風に帆を墨げた、最も華な時代であった。  銘に於て、その時代に於ける大政治家としての彼の治績を一鷹同柔して見ようと思ふ。彼の事業は、大野、次の九種に 分けられる。 一,南學振起。二、土地の.開磯及郷士の取立。 三,築港築堤。 匹、政治。 五。殖産勧業。六、林政及貿易。 七、経濟界の整理。八、風俗改善。九、折衝及断獄。此等に就いて、麺めて簡罪なる読明をなして、粂山の八物を知る縁と しよう。  回、南學振起。徳川氏が江戸に幕府の基礎を定めし後,元和、寛永の頃より漸く紅蓮が隆盛となった。而して、その學派 は凡そ三つあった。其一は,穂川氏三百年閥を通じて官事として用ひられた程朱の學である。之を京學と稔した。其二は、 王陽明の學派である。樟脳が、粂山が振起せしめた南扇で、海南朱子學派と照した。此の學派は前二者と全く系統を異にし、 戦國の世突如として海南の一隅に起り、徳川幕府に至り大に天.下に踏貫せられたものである。  此の學の特長とする所は、朱子學派の分椋的で學究的なる思想に暉學の直蔵簡易なる傾向を加味した風である。殊に、そ の學を實践に役立てしめしこと、現代の言葉で云へば理論と覇権の統一が、明確なるスローガンであった。  而して兼山は谷時中を師とし,響町入に小倉三省、山崎闇齋等があった。それ故小倉、山崎等とは同門の弟子といふ繹で ある。篤くて、彼は陶或は私邑本出に於て講習會を開き、或は儒書の蒐集に努め、或は自ら書生を召して之に教へ、或は其 得たる典籍を練刻出版せしめた。それ故、南海の徳川時代に於ける嚢展の一瓢は、彼兼山に資ふといっても過言ではないの である。  農、土地の開平誓事士の軍立。兼山の事業の最大なるものであって、荒蕪に委ぜられ旋廣漠たる土地を沃田と化せしめ、 それに伴って郷士を取り立てたのである。土地の開嚢︵目維の圖蓼照︶としては、彼の垂井本山附近の開渠拓地、物部川水    吉岡理日本女塵目史の研究       七一

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   虫尉岡n日本女殴圏史の研究      七二 域の開墾.仁淀川の治水工事及其爾岸の開拓。幡多郡に於ける開拓、土佐郡北部に於ける開渠治水等が墨げられる。彼が直 接たつさはのし是等の事業は。通覧すると、實に、溝渠大立三十流、忌門なる幹線の延長通計三十鯨里、舟筏を通するもの 五流、灌概面積四千飴町歩に及んだ。土佐の原野爲に大に面目を改めたといふも宜なる哉である。  次いで,此に彼の取立てた﹁郷士﹂なるものに就いて述べようと思ふ。當時,前藩主長曾我部氏の逡臣圭に離れ豫を失ひ, 山野に隠れて風雲の乗ずべきを窺ふもの所在頗る多・\特に彼等は土佐特有の氣象を有し張硬にして制すべからす、慶長以 來實に閨國の一大憂患であった。そこで,兼山は、寧ろ此者等を敵に廻すより.武士の資絡を興へ、豫を給するが最上の策 と考へた。其着眼の高遠なるを見るのである。けれども匂當時の耕地はセ既に譜代の士に頒給して醸す所がなかった。そこ で、前記の土地の開蛮といふことは。此の錨からも必然的要求であった。故に、粂山は、土地の開磯に依り、経二五富張及 び郷士の設置といふ一石二鳥の政策を行った謬である。かくて、面内に一郷五十人の郷士ある所あるに至り、本内を通じて 千を以て撒ふるに至った。此の制度は、寒山の業として、誠に成功を取めたもので,土佐藩にとって少からざる証本をなし たのである。  三、築港築堤。兼.山の海の方面に於ける大事業として見逃すべからざるは、此の築港築堤の事業である。土佐の地は南海 に僻在し、他地方と接する地方は高峻が多かった。是を以て他地方と交通貿易せんには、必ずや海蓮に依らざるを得なかっ た。然るに沿海の地に良港と稔すべきものが少かった。そこで、此の良港の鍛乏は、土佐の一大憂患で、愈愈築港の必要を 感ずること切であったが、極めて難工事である爲徒に手を重いて長大息するの主なかったが塾寒山は断乎として此の大事業 を決行し、途に完成せしめたのである。彼の手掛けし港名︵口弁の圖墾照︶を愈愈すれば、手結港,室戸港︵現今津呂港と 稔す︶、柏島港,浦戸港等である。その敏朧、實に驚くべきである。  、四、政治。兼山は儒學の研究に依て、自己の人物と才幹を修養し,政治上に於ても深い識見を蓄へた。彼の政治主義は, 別に組織的に述べたことはないけれども、其治績の跡を回顧して見ると、ほゴ訳の如き喝のであった様だ。

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 彼の政治方針は馬積極的の干渉主義で、部ち,政癒の力を以てせば個八の一掬力に放任するよりも一身有効なる場合に限り. 積極的に之に干渉して生民の状態を改善すべきものである。而し叩、其範圏は翠に吻質帥方面に止まらす,更に巴鴨生活にも 及んだ。換言すれば、道徳の向上をも包含した。それが爲に竜賞罰を嚴にした。  更に彼は匂政府は個人を認むると共に.入民亦國家に封して其永遠の幸藤を計るべき義務を賢ふと考へた。  是等の思想より、種々の法令を焚布し,かなり細い事まで規定し且つ数へた。本山の人民に令したる掟、沖の島弘瀬浦の 掟、昏惑に令したる掟等は著名なもので.それらを通覧するに,極めて用意周到.彼が絶大の爲政家。上溝家たるの面目躍 如たるものがある。  五,殖謹勘業。前述の土地開嚢と共に,彼が意を注ぎしは.産業の磯達を計り吻血の塘殖を企劃したことである。以下其 梗概を簡軍に叙述しよう。  特筆すべきは、彼の農本圭義である。前記の政漕の條下に遽べた沖の島弘瀬浦の掟にも.﹁地下人耕作を鋤め是を以爲二渡 世一鞭等はうき者と可二相心得一事﹂とある。郎ち.島民は農事を霞みこれを以て生計の基本とせよ、何故なれば、漁獄は射倖 的の業にして確實なる生業でないからだ.と言って居る。蜘、ち.王覇望事農業を重んじ.之を立憲の基本、入民生活の根元 としたのである。  更に、此の農業の副業を大に奨働した。養翼菌煙草歯二四茶の栽培等も之である。その他、蜜蜂、椎茸、鯉総、蛤鯛等の 移殖、捕鯨.製陶、絹織業,恒産の虚報.實に枚學に蓬がない。此の中.蛤蠕の移殖については,極めて面白いエピソード があるから、此に紹介しよう。   野中兼山良纏は   土佐の城主の家臣な夢   或る年江戸よゆ書状にて     吉岡11日本女職酉史の研究        七三

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   吉岡日日本女励醤典の硯究       七四   土佐の海には嘗てなき   蛤貝といふ貝を   土産にせんと言越しぬ   かくて程なく・兼山は   蛤あまた船に積み   波風無事に蹄り着く   人々港に出で迎へ   疾く蛤をと云ひさわぐ   兼山やがて指圖して   船に積みたる蛤を   残らず海に沈めけり︵下略︶  これは、嘗て國定敏科書に掲載されて居たもので、兼山を讃へた唱歌の一節である。此の文面に表はれて居る通り、彼は 土佐に是迄なかった蛤蝟を持って蹄つたのであるが、その蛤鯛をいきなり全部海に投じてしまったといふのである。成書に 依れば、その際、﹁衆籔き怪みて故を問へば、兼山笑って曰く、これは濁り諸学に寄るのみならす叉特等の子孫をして之に飽 かしめんがためなりと。後年果して多く之を産せしかば衆始めて其遠謀に服しぬ。﹂と書いてある。彼の魚島を物語る逸話と して興味津々たるものがある。殖産勧業に就いては、更に多く書くべき事があるが、後に記す事としよう。  畿、林政及貿易。林政は殖産勧業に入るべきものであるが、特に土佐の大産業であるから項を分けるとする。山林は實に 土佐有撒の財源である。廣表四百方里亀群薄起伏して南海に臨み、氣候温暖雨量頗る多き故に、森林の繁茂極めて速で、満⋮ 幽悉く等色滴るの観がある。森林は斯の如く土佐に於ける主要の富源なる故に、兼山夙.に之に着目し、永遠不渇の法を立て

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大に保護干渉を加へた。  先づ彼は、木材の伐採に就きて輪伐の法を定め以て森林を保護すると共に,伐採制限の手段として木材輸出の船激を定め た。これ、森林の経理と貿易とは密接の閣係を有するが故である。この林制に俘って新川町の取立といふことを行った。此 のことに航する詳細は額愛する。また賀易に就いては、長崎倉を建て、通詞を養成する等、彼の識見は遽急なるものであっ た。  七、輕濟界の整理。経濟問題に就きても,兼山は卓見を有し、持ち前の干渉政策’〃.嚢聾したのであったり  現代に於ても屡々問題となる米績公定を薄行したのであった。郎ち、毎年入を大阪及び下の關に派遣して全國穀儂の大勢 を観望せしあ、叉隣藩三國の穀債をも蓼善し、之を折衷して四民共に苦しまざる程度に於て二一國の標準穀債を官署し、麹 秋に至って更に公定債絡の布令あるまで、其贋を越えて責買するを禁じた。  然⋮しながら、かく布令をしても、其群籍の憂動を防がんには.種々の方法を講じなければならなかった。その爲に、彼は 古の常李倉の制を復活⋮癒用したのである。誠に彼の學識の深遠なる、驚くべきものがある。  その他、山海扇地方の経濟を融通せしめ、量翻を一定せしむる等、経濟界に封ずる功績は鮮少ではなかった。  八、風俗改善。象山が政治家として,民衆の道徳の向上を企賛したことは既蓮の如くであゆ,且つ彼の儒教の素養からい っても當然のことである。彼の道徳的布令は嚴粛圭義を特長として、嚴絡を極めたものであった。それ故に、相撲及び踊り の類を禁じ.飲酒を鰯資し、朝寝するを禁じた。土佐の諺に、﹁赤面三匁千鳥足十匁なま醇五匁﹂とあるが、是は當時醇漢に 課せし科料の階級によって起つたのである。また農夫が鮮焦を買ふのを禁じた。それは、國内の諸物債の公定を破るのと、 農夫等が﹁うまいもの宥に食へ﹂主義にて一時に之を消震するの弊があったからである。兼山の令に依り、痘瘡患者の看病 を訂峰にせしめた。かく、彼は令して、病者の看護を鄭重にせしめ、其起たざるや充分に之を悲しましめ、叉火葬を禁じ棺 榔の制を用ひ、土葬を漿働した。    士口岡目日本・女殴隣史の研究       七五

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   由尉岡菖田本女殴四史の研究        七六  かくて、土佐藩の風俗は、日にぐ改善せられたのである。  九、折衝及出獄。是迄述べ來つた所は,蕪山の土佐一雨内に揮った手腕に外ならぬ。けれども、彼の本領は、決して一國 内に賜賞して居るに止まらす、幕府或は隣藩との交渉の際に、其態度,其機略に依り.外交家としての面目を嚢揮した。  正保元年、後光明天皇即位し給ふや,彼は藩主忠豊公に代って京都に至ρ、帝の御部位を慶賀し奉った。立時年三だ三十 二歳であったが、堂々たる至論格と整然たる容姿とを以て、列座の諸侯の間に名聲を博したQ明腰二年土佐第二世侯忠義公 退隠して忠豊公の襲封ずるや、彼江戸にありて名を二心と改め、新公を奉じて柳管に昇り、家督の御呼を申上げ、稗の大廣 間に於て將軍家綱に葬謁し、銀筋代及時服を献上して天晴れ功名を施し、磨いて老公の名代となり忠豊公を助けて御三家を 訪ふや、紀州公は自身茶を貼じて忠軽口及彼に進めて無心勲の挨拶あり、又水戸公の如きは盛宴を張り、自身彼に酒を強ひ激 待到らざるなく、其待遇振り寧ろ藩公よの窓簾山に重きを置くもの曳如く、四方山の談話等ありで非常の面目を施し、彼の 名聲は忽ち列侯の問に喧傳さる玉に至ったといふことである。  然れども、彼が翼に外両父的辣腕⋮を揮って、樽狙折衝の任を全うしたのは、隣國宇和島藩との境界問題であった、元來、土 州藩と宇和島藩との聞に於ける幽境問題は、正保二年頃より明暦年度に渡ったもので、漸く萬治二年に至って終結したもの であるから,約十四五年間に亘る紛糾問題であった。其事毒茸の第一は土佐幡多郡の西海面オシメ歩脚扇島を南に去ること 約三里の洋中にある沖の島︵口維の圖郵亭︶で、第二は土佐幡多郡と伊豫宇和島郡の國境に聾ゆる篠山の頂上にある笹灌現 ︵口維の圖導管︶であるG前者は習事弘瀬方面の牟島土佐に厨し、母島方面の唾罵伊豫に属せしものにて、其境界に付き雨 國の人民が多年境界及綱代を事つたに始まり、後者は里程現の所厨如何の問題である。  上童論は最初人民と人民との問に起れるもので、明暦二年二月八日に至って、宇和島藩は沸の島庄屋六渋難をして幕府に 訴願せしむるに至り、鼓に初めて藩と藩との測器となった。土佐藩は之に蓋し同年八月十八日弘瀬浦庄屋源五郎をして辮駁 書を出さしめ,其結果土州藩の串條正長にして其勝訴たらんとするの形勢あるや、豫概藩は萬治元年十月に至り前記篠山に

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於ける笹構現灰薦問題に付き叉々幕府に訴願するに至り、盆々事件の紛糾を棄した。  然し、沖の島問題は、萬治二年五月十二日裁決があって愈々土佐の勝訴となり、又篠山問題も豫州に不利の瓢があったの と、此上箏を継聾するは幕府に封し強訴がましき嫌なきに嘉すとて、原告自身訴訟を取下げて,松卒美作守に仲裁を依顧し, 同年十一月十五日仲裁者の裁断があって落着を告げたのであった。此の間にあって、兼山は或は江戸に上りて大官の間を奔 走し、或は國に蹄って有力なる圭頭の讃左を蒐集する等、專ら樽姐の衝に當つた。而して斯C総て勝訴となったのは、元よ 砂正確なる謹撮のありたる爲とはいへ、彼が敵薬の間に大なる外交的手腕を奮ひしに依るは、鼓に喋々する迄もない。  兼山は斯く外交的手腕を有せるのみならす、司法断獄の官としても卓越して暑つた。著名なる一例を基げて見れば、明暦 元年夏紀州の商人、介三郎なるものが.同乗の算入,紀州人次郎、土佐入九郎兵衛なる二入を、豊前沖で殺し、其財賃を奪っ た上、自ら穿れん起電を海賊に齢し、種々抗辮せし時に當り、彼は前後の状況から直に虚備の申立てたることを看破し、自 ら精密なる調書を作り、之を紀州に通じた。その調書は極めて詳密のものであったQ而して此の際に、一方に於て公儀の内 意を伺ひ、他方に於ては紀州家の面目を重んじた取扱振りは、彼が外交的鮮令に慣れたること玉、其用意の周到を見るに足 るのであって、司法官としても亦立派なものであった。  私は是迄稽冗長の嫌ある程.兼山の事績を述べたのであるが.腕子を理解するには、是非とも、兼山を知るの必要があっ たからである。  かくて、兼山は山内家の執政として二十有七年聞、 一藩の政治を双肩に搭ひ、非常の精力と載群の才識とを以て、⋮縦横目 無に財政を改革し、國[力を充實して、 一日も倦怠の色がなかったから、彼の名聲は赫々として内外等しく謄仰し、寛文の頃 に至っては殆ど其の生煮に達した。上下京の際には、隣輝輝州藩より迎へ船を出し、其儀宛然藩圭に封ずるが如くであった。 江戸にあっては、薄青伊豆守、酒井雅樂芸西久世大和守等に推重せら,る玉こと甚しく、伊豆守嘗て兼山を其藩邸に訪ふや, 兼山盛宴を張って之を饗したといふことである。これ實に幕麻の執攻が外⋮様の陪臣を蟹江に訪ふこと絶えてなかりし當時の     吉岡ほ日本女鍛酉史の研究       七七

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   ・吉岡薩日本女㎜醤史の研究        七八 一大異例であった。彼の名望を想見するに足りるのである。然し、彼が血肝名聲を堅げたのは、例の宇和島藩との折衝問題 の勝訴に依るのである。  斯くて,彼の生涯は璃誠に順風に帆を無げし感があった。然し、喬木風多く、盛名あるもの嫉覗の府となるのは、世の常 である。多年彼の勢力に歴せられて背後に喘ぎしものは、機を覗って、彼を陥資しようとした。此の時に當り、彼の爲終世 の知己であった小倉三省父子は既に山しく、幕府は彼の行動に若目して感喜侯松戸勝由 をして監親せしめ、加之、彼を知り、 彼も亦其知遇に感激して下身的に犬馬の螢を取った第二世忠義公は、齢已に七十有二に上りて世事に疎く、静力縞紳共に衰 へて、政治は第三世忠豊公に移り、而も此の時に登り、彼はこれら隠謀者に愉し何等警戒を加へす、その施政亦周團の情況 に顧ることなく盆々嚴烈を樋めたから、藁逐に反昂騰をして乗ずる機會を與へたのであった。  果然、寛文三年七月十五目、藩弱毒豊の江戸よゆ薫るや、國老佐川の頒圭深尾出癖重昌、素子因幡車照、山内下学豊吉三 名連署して.當時の失政を訴へ筆山を弾劾した。  此に看て、忠義公の如く蕪山を信じなかった藩主は、其後三々なる経緯を経て。形式上兼山が鳶職を申出で,それを聞き 届けたことに依て、同月二十八日兼山の執政を菟じた。時に兼山采邑を本山、森及中野に有して様一萬石,配下に五十人の 郷士を從へて居たが、退職した彼は、最早多くの食腺を欲せす、叉世の猪疑者より此上の嫉覗を斯くることを好ます、此年 八月二十日を以て,寛文元年の加俸一千石と郷士五十入を返上し、家を長男清七一明︵叉の名賀纒︶に譲り、自分は其領地 香美郡中野村︵ロ繕の曾比照︶なる別業に退隙した。兼・山、時に年四十九。寛永十三年十二月職を襲ふて以來二十七年、鼓 に全く公生涯を出で玉閑雲野鶴を友とするの入となった。  此の兼出の失脚は、迅雷耳を掩ふに遷あらざる底の出來事であると共に全く、意想外のことであったから,量入其何故なる を知るもの少く,古儀疑問の裡にあって、未だ眞梧を得たものがない。或は輩に深尾ご仮の猜疑的陥 播に依れるものとなす か、或は寧ろ幕府の當時の抑塵主義に反し、粂山が絵りに敏腕を振ひたる爲、幕府の忌避に降れしことが圭原因となす等、

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諸説紛々たる有襟であるが、兎も角,是等種々の原因が錯綜して、斯.る事態が生じたのであらう。  兼山は、かくて申野の瑚業に退逸してからは、門を⋮撫し交を鞭ちて扇町講學を以て自ら遣る。偶々彼を慰籍せんが爲に來 れる奮友等、時政の得失を論ずることあるも,唯微笑して答へす,殆んど奮時とは平人の観があった。暉々として樂まざる こと三ク月、此年十二月十五日、癩疾の疫喘急迫し血を吐いて残した。年四十九。越えて、十七日。高知城南潮江村高見山 に葬る。.僻世に曰く、

      わかれ行く名残は、露ものこらじぞ

       連枝の中をやわらげてすめ

 誠に、兼山の一生は,劇的場面の連績であった。その最後の悲劇は、肚年期の豪華なる場面に比して、涙なしには見られ ないのである。  本論文の主入筆、野中七子は、兼山の卒去の年以前二年,即ち寛文元年高知城下に四女として生れた。母は池氏で、側室 である。兼山は,斯る偉人であったが、婦入關係に就きては、量りに嚴格でなかった様であるが、當時の男女道徳に於ては. 何等之を以て責むるに當らないことは、いふ迄もない.彼の妻市女は養父直撃の娘で、彼が直縫の家に入った時妻としたも のであるが、彼は其後儒學を學んで同姓黒黒らざるの義を知るに及んで、直に彼女に告げて翔居をしてしまった。それ故、 兼山の子女は、すべて側室の出である。然し、思子は、兎も角.一藩の執政の娘として、飛ぶ鳥も落す時代に生れたのであ る。  けれども,思子の蓮命は誠に悲憾なものであった9是は或は女傑をして、その才幹を練磨せしむる天の思召であったらう か。無山残響の翌年,寛文四年春三月三鷹、腕子未だ年齢四歳の時,諸家は嬉々として春の日も短かしと遊び興ぜる厨に、 突如として、課の如き宜告書が下された。是に依て、死せる兼山を彊罪し死屍を鞭打ち、且一家取潰、領地寒害の嚴命を傳 へ、東西も分瀧ぬ小児赤子迄も、國の西端なる宿毛︵口繧の圖蓼照︶に諦せられ、親戚の故を以て、國老安盗塁衙門佐節の    吉岡ーー日本女馨史の研究       七九

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   吉岡口肩本女馨一史の研究      八○ 許に預けられ、悉く囹圖の入となった。  其追罪の罪状書は次の如くである。   野中傳右衛門儀一國の御仕置一入に被二論壇一候塵、申付悪敷通聞届、仕置召上宿づ隠居申付置、間中仕置方途二吟味一候   所、傳右様門年來不届之所行絶ご言語晒候、急度可二申付・候所無・程去冬令・病死一濫漫不・及ご是非一画、就・夫清七儀先左   一禰門一佐へ細狽皿直候に付、傳右街門一科の條々申渡如覚。  一、私欲を專にし,上を蔑にし傲を極め.第一依枯を以て諸事取扱、諸士上へ撫し恨を含み下民及二困窮一候事。  一、我々父子の間用事の使仕節、中にて申掠め以二其上一三に勤和事。  一、一読の算用寛文元年の秋勘定差上候、水火の難をも可二相濟一働銀過分有レ之通申聞せ候.然所に今度改替之後途二吟味一   候所、半年の算用相滞申に付、諸弊用並諸色引渡不二罷成↓其上一環の金銀恣に仕散候、自然國中水火煙鰹之難難レ有   レ之,可二相救一藏銀唱無・之、案外之仕合に候事。  一、改替之拗非をかざり過を不レ改、翁面に非分申立候襟に言を巧、他國迄も申鰯才豊仕要事。  一、金銀を食り爲レ可・達二私用嚇近年南庭を掛聯の者に至るまで商をさせ申に付、我々悪名世上無二塵隠’事。  一、一國の諸法度申渡候所緩にして聯の儀をも甚正し、諸侍にも當坐に恥を與へ、其身は諸法度を寄らす、上方上下の笥   浦々より引船出させ、津々浦々に火を立させ、是式の儀に濫立我々父子同然之非法に候,箇⋮檬之非難不作法黒々有レ之事。    右之條々清七若輩者にて不レ存儀とは乍レ申、父科難レ逃如レ此申付者也。

     三月三日

 此書を護むに.殆んど取止めもなき事或は噴飯に慣する事が多いけれど、斯る非法の措置も君命もだし難き當時の鮭會は、 野中家をして之に服從せざるを得ざらしめたQ  此時家を継いで國常職にあった長男清七舞縫︵一名一明︶は僅に十七歳、面子は既述の如く四歳︵或は五歳とも云ふ︶に

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して、其一族はあはれ配灰の月に泣くべき身となつだ。是を﹁寛文の改替﹂といふ。それ故.寛文改替記には、此の折の記 録として。次の如く記されて属る。

一、七拾入扶持杜六類鱗 華、衰糞之

 一、知行二胃皿石︸       堂蕃後室へ

 一、同百石       

購入娘市へ   是傳右⋮衙門養父立蕃儀馬科無レ之者に付右二入へ被レ下半。  此の如き僅の扶持で,途に宿毛に配流せられてしまった。此の配所の家は.前記の安東民であるが、此の入は,椀子の頑 父直縄の中妻の里方に昇るのである︵系圖蓼照︶◎かくて旬銘の日む三月三覇辱安貰民は撃て用意せし船二艘に清七の一族を分 乗せしめて,直に宿毛に拉し去った。其入数次の如し。       母四紅八甘凶ハエ﹂丘ハ左に記レ之  一、拾七歳  丑の歳   きさ子  溝 七  一、八 歳  酉の歳   同 腹  希四郎  一、五 歳  丑の歳   同 腹  ゑ ん  一、三 歳  卯歳   同腹  貞四郎   〆四人きさ腹也 池民也  一、拾六歳  寅の年    かち子  欽 六   右かち 出所大怨者之由也 公丈践也  一、八 歳  戊 年   つま子  くわん

 一、四歳 寅年 

同腹 せう

由口 ェ11日本女殴璽丈の碍究 八一

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   吉岡“日本女蟹史の研究      八二   〆 武 人   右つまは美濃部團亟類中、同名甚兵衛子也、但甚兵衛儀は喜右衛門家來召仕由也。  一、十九歳  寅の歳   やな子  よ ね   右やな出所伊野者之由也。   〆子八人一母四人    家來之若窯六人 宿毛に附遣はす 内三入自二宿毛一罷蹄。  彼等は斯の如く罪人を以て遇せられつ玉、囹圃の中に投ぜられ、婚嫁を禁ぜられたので野中家は終に断射してしまった。 英雄の=琢としての悲鰺、誠に之に過ぐるものはないであらう。實に爪子の一生のスタートは、此の悲惨事を以て初められ たのである。さりながら、此に問題となるのは、如何に封建杜會とはいへ、此の如く、死屍に鞭ち、=琢を断絶し、一族を 禁果する如きは、蝕りに非道と思はざるを得ないのである。此の理由に就きても、種々の読があり、眞相を把握し得ないの である。主因としては、反乱派が多年の屈抑と欝憤を晴らし、且つ無山の蕪類と絵勢を抑へ、新に政柄を握れる自派の勢威 を示し、新政令の施行を容易ならしめんとせしに依ることは推察し得られるのである。即ち、當時猫蕪山の政を慕ひ徳を稽 するもの多くして其潜勢力甚だ大であったから、兼山の罪賦を撒へて改憲の理由を明白にすると共に新政に服せざるの士を 塵服するととが、必要であったからだらう。然し、一説には、斯る区点派の策謀よりも、寧ろ幕府の干渉によって事解に至 りたるならんといふ。いつれにしても、實に残忍な仕打といはねばなるまい。  此の如くにして、年子は世にも稀なる、四歳といふ幼年より流罪地の生活が初まの、前後四十年、斯る生活が諾いたので あった。然し、兼山の養母安寅民は左衛門佐節浅の叔母に浸るから、名は幽閉と云っても、實は安慰の生活を途ったらうと 想像せられるが、事實は柔々悲惨であった様である。兼山の一族が諦せられて訳業二十蝕年を纏た後、碗子の師、谷重遠泰 山が兼山の三男希四郎浄業を幡多に訪はんと欲し、往きτ見るに、一族は猶牢含の中に在って獄吏の監睨を受けつ玉あった

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爲途に面會の機會を得なかったといふことである。之に依て見れば.其待遇が如何に酷薄残忍であったかを知ると共に.奮 知親族に至るまで如何に冷酷であったかを想像するに足るのである。娩子の名丈﹁曾池⋮祭祀置文﹂︵後文蓼照︶、に﹁不レ知レ 道忘レ知レ義者堂堂レ之﹂とあるを見ても.その事情が察せられる。野中民一族は,此の如ぐ幽囚にあること實に四十年、其 間全く外の人との交際を繕ち秘遭難妻帯を禁じて一門の断縄を計つだ。量人生の悲痛の極みではないか。谷重遠が縫業に寄 せて其窮居を哀みし詩に曰く.

  禦魑三十載  一室朱東西﹃ 書承犬論議

  花過禽不レ脚 乾坤三径上 萬古寸心中

  休・問二故山夢ハ斗魁連二太空殉  娩子等兄弟は、斯る悲滲の幽囚裡にあること.寛文四年よゆ元豫十六年に及んだ。此で,一意,彼女の兄弟姉妹に就いて 述べて見よう。前述一疋で見らる玉如く薯兄弟を見ればも長男は清七郵縫︵一名一明︶にして,延寳⊥ハ年六月、三十二歳で 重した。次男欽之は、精神異常にて,天和三年九月.年三十四で残し.三男希.四郎悪業は元豫十一年、 四十二歳を以て残 し、末弟貞四郎行縫は元豫十六年途に諸兄の跡を遙ふ潅。兼出には六男あったが.顧一郎.畏三郎は天賦したので、貞四郎 が死するに及んで画野中家の男子は断碧してしまつ潅のでも女子は初めて赦晃に逢った。邸ち、碗子四十四歳の時、赦発に 逢ったのである。是等兼山の男子中希四郎継業が最も傑出して居った。彼は八歳にして幽囚の身となってから、讃書講學を 以て自ら慰め、文藻大に見るべきものがあった。軍票の碩學谷秦幽︵谷子城子欝五世の祖︶とは一面の識がなかったが.文 豪をなし、秦山は纈業を大に敬慕して居ったといはれて居る。猫聖算が早業の思した時。群馬に與へた悼惜の書があるから、 次に掲げる。  令兄賢丈徳島騒然.盗難レ不レ接二其顔.饗難読詩﹃玩読其藝詳知“意ハ徳入君テ当無。不幸難壁二朝講痛哉綴音。賢弟妹傷 感悲哀、不・知何調膳堪,僕荷二最愛看・年.夙夜庶幾.慶鋼一除、同堂合席.有三以呈二白総堂不・意今日忽至下披・瀧文一    由口周H口本・女蟹史の研究       八三

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   士口岡Hロμ本女殿酉史の灯耕究      八四[ 起ゆ龍門原上之盤上也。夫以・先國老之徳之堕而嗣息之卒・於囚諦者、弗二二而星霜非常之理数,不・可得而知一者, 量荘周所レ商人之君子、天之小雛者耶、豊平近來河内嘉酒井主、編二日本名臣言行録噛載二先頃老者↓而極二其翫賞噛俗間亦  刊二遣事一以著二其功業州則連人口碑、蓋不レ可レ磨製、︵中略︶伏願賢弟妹倍堅二操執一団俊二陽復噛僕要所レ不レ得二於先令兄↓  其亦未レ維二於企望噛正惟諒察、蒙レ謝恩祭文噛恐櫻周レ措、一鑑別録云々。︵芝山集第+一撃︶  次に女系を見るに、兼山には五女あった︵系圖蓼照︶。長女順は早出、二女米は高木四郎左術門に嫁して一女を産んだか、 野中家疑講の際其諸弟妹と共に宿毛に移され、居ること三年、寛文七年五月二十一歳を以て獲した。三女寛、五女將.共に 赦免後も宿毛に留まり、寛は享保十四年十一月亨年七十二を以て蓬き、將は享保六年七月豊年六十を以て残した。  娩子は、上述の如く、元亨十六年、四十四歳の時赦発に會って、彼女のみは他の姉妹と異って、高知城西朝倉に回り、再 び天日を葬するを得たのである。此時、前述の谷秦山は大に喜び、彼女に詩序を瞼つた。それは蕾に名族を敬するの意に出 でたるのみならす、亦以て娩女の風絡を想見するに足る。其序に曰く、  野中黒蜜得レ赫、自扁一宿毛一至二於朝倉噛顧兄弟四人、皆以二肚歳一卒二黒黒鳥↓兼山先生之胤意涙焉。夫人英妻下節、周一﹁施螺  璽蜴・心孝友↓三二思典豪奢有年 。遍日以・零丁孤苦之単二旦忽爾見・天喜其悲喜翰墨之感、聞入且莫・不・流・涙。  而借入懸二尊君命画謝二別罪証械布置委曲皆揺々可・記。至・旅中歌詩一重情厚而不語、所レ謂健婦果勝ご大丈夫H者歎。今也提二  携大蜜一搭二員遺書噛霜露欧渉就二於新居幻壷錐レ非二大家昔日之門客↓堅牢レ能レ無レ感二於任安之義目閃賦ご呈一律哨伏乞清覧。       ︵秦山集第四雀︶  腕子は實に秦山が﹁健婦果勝二大丈夫こと賞したるが如く、 一世の烈婦であった。叉其時の詩に曰く。  君恩許レ過朝倉里、桑梓相望水一方,父租官勲星落々、弟兄墳墓艸蕩々、蹄レ郷族霊藝郎女、踵・業書成班令娘,手澤嘗聞  蓬累至.定知金石叙二丈章ゆ︵同上︶  是は實に當侍に於ける娩子の心情を審せるものであらうσ

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 此に於て、私は﹁女讐野中娩子﹂の眞面目を吻語らうと思ふ。  ﹁兼山の諸子中最も能く渠の風絡を存し、逡鉢を亨けて演乎たる精紳と嚴去たる意志を備へ、且つ學識文藻に富み旋るも の四女聖子に及ぶものなし。﹂とは、西内青藍氏の言である。誠に量子女史は﹁偉人の化身﹂であった。女史が四歳の時より 四十年噛宿毛に幽閉せられたことは既述の通りであるが、其間讃書講學を唯一の悔みとし、兄縫業の畏友たのし前桐の谷秦 山を師として其説を奪撫し、書を以て疑義を正し學漸く進む。李居詩を賦し歌を詠じ、以て世の無情を急くの氣を慰む。叉 書を能くし。殊に楷書に巧であった。諸居中素より書に乏しかったから、多く自ら筆窮して之を編んだ。覆後、遺物の出買却 された捲の玉中には、女史の手冠した絹表紙の経書無貼本、朱子行状などあったといふことである。また朝倉砒司大宮越中 の家には娩子自筆孟子集註を藏して居るとも云ふ。其學殖の凡でなかったことを示すものである。  女史は、いふ迄もなく、讐術に通じて居たのであるが、是は如何にして習得したものか、また其師は誰であったか、詳で ない。土師清二氏は、その大衆小読﹁帯刀の娘讐者﹂︵キング昭和⊥ハ年五月號所載︶に於て.孟子を主人公として小説を書い て居ちれるが、それには、宿毛郷に生垣師といはれた老讐悪騒といふものが居て、之が姉子の師であったとしてあるが、素 より小説であるから、其眞儒は保謹し兼ねる。  腕子は仲々の女傑であったから、逸話も多く残って居る。元豫十六年、前述の如く、弟貞四郎廉して、野中氏の男系悉く 維ゆるに及んで、老母大に愁み、將に地下に其子を彊ふとした。其時書斎が諌めて曰く、﹁我家不幸にして此に到抄、祖先を 祭るべき後昆なく、今存するものはロバ我等母子あるのみ。若し我等にして租先を祭るべき謀を講ぜすんぱ愚意必す飢えん。 思ふに我家男子已に云えしかば,遠からずして赦に逢はん。此時に認り須らく島先祭祀の計を定むべきのみ。今にして徒死 するは甚だ當を失ふ。﹂と。誠に條理の整った諫言であったので、母が女史の言に服して思止まったといふことである。椀子 の言の如く、幾程もなく赦されたのは既述の通ゆである。  斯くて、彼女四十四歳の時、母を奉じて高知城西一里なる土佐郡淺倉村に住み、木の丸瀞就の傍にて讐業を行った。然⋮し、    吉岡H琵本女躍目史の硯究      八五

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   由口岡目日本女黙闇史の研究       八六 好んで貧者の病を治し、偶々仕官の者が診察を乞ふことがあれば,面接することを避け、障子を隔て玉脈所に糸を引いて診 断し治療した。其術が頗る妙で技憩に入って居った。爲に技術の巧妙なことを、﹁お椀さんの縣脈﹂といふ土語が畠た位で あった。  此の面素に就いて、上記の﹁二刀の娘子者﹂に於ては、面白い解輝を下して居る。此の小説の骨子は、兼山の家臣に古棋 次郎八重固といふ武士が居て、此者は粂山に殉死を途げた忠義者であるが、其伜の重春︵此者は實在の入物なるや否や分明 せす恐らく土室的人物ならん︶が、二子十九歳の時.宿毛の配所に訪訟て來て、二子母子に仕へ、途に結入の聞にプラトニ ック・ラブが生じた。而も、二人置許嫁であったのだ。然し乍ら、亡子は感情では非常に重春を落して居たのだが、理性で 完全にそれを抑へて居た。一方、娩子は重春が來てから、男子にのみ綜脈といふものを使ひ初め、女の患者には柑攣らす直 接腋を診た︵勿論此小説にて︶。所が、重春は皇子の家に來てから三月にして、病母とな砂床に就いてしまった。而も腕子 は、重春にも此の綜脈のみを用ぴた。そこで、心する重春は堪り兼ねて、怠る日、直接手と手と繰れ合ふ定量をしてくれと 碗子に懇願した。其時、碗子は云ふた︵以下作者の言を借る︶。 ﹁腕は、貴方のお父襟が此世にお潔しなされた士道の手本。貴方のお父様の御殉死の光を曇らせまいために、今日まで燃え  立つ我が心を抑へ、抑へして蓼りました。私と貴方様と夫婦に。⋮⋮夫婦になれば⋮⋮﹂  それから、妨子が諄々と自分の心を説き聞かせて居る。それは次の如くである。   土佐山内心はいふまでもなく隣藩諸事まで﹁古田重固が兼山に殉死した行爲は士道の鶉鑑である。己を知る人のために  殉じた古槙重固は、鴬世稀な臣節の入だ﹂と今墨筆ぐ直ゆ草となって居るQ   しかるに旧離、その重固の伜が兼山の娘と縁を結んだといふ取沙汰が行はれるやうになると世間の入津は異なもので、  軍固の殉死と縁組とを結付けて何かと云ひたがる。  ﹁双方の子と子の婚姻の約束まであったのか一それなら殉死したところで大したことではないではないか﹂といふくら

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ゐは未だ優しい方で、世間といふものは人の渦ひを好みがちである。しか誌褒め讃へられてるるもの瓦反動ぼ恐しい。折 角の重固の忠死がむ二入の婚姻のために後世に傳はらぬやうな事になるかも知れぬ。  若しそうなれば重固の忠死は無駄になる。  それは兼山の子たる腕子として忍びないことだ。叉重固に饗して工まぬことになる。  また一方私情を捨て﹂大きな眼から考へても、折角士道の手本となった入の鯨光を、少しでも薄がらせるといふことは、 世道人臣のために良くないことだ。  私は.親同士の約束や母の心持も思ぴ遣って見たけれど、それは、結局私ごとであって,士道といふ天下の公道の前には 物の撒ではないと豊つたのだ⋮⋮。  腕子は、胸に萬鰭の涙を堪へながらも.瀕死の重春に向って、二人が結婚すべからざる理由を.諄々と読いて聞かせる のであった。  これが十九歳の娘の思慮か?  あまりに情を殺した意志ではないか?  不携不屈の意志に生きた野中兼山の魂を。.腕子は十二分に享け斎いでるたのだと見るよりほかはない。 そこで、重春も納得した。そして、その時の聯繋に作者は腕子の蒼黒の由來を説明して居る。 ﹁⋮⋮察け者重春には綜腋、綜脈すら重春には勿燈なうございます﹂  重春は.凝つと目を閉ぢ首垂れるのだった。 ﹁重春⋮檬。その綜脈は⋮⋮﹂ と俄に涙聲になった碗子の言葉に、 ﹁綜脈は⋮・:?﹂と重春。   吉周口揖本女讐史の研究      八七

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   吉岡H日本女⋮醤史の研究      八八  ﹁椀が⋮⋮生涯.かゆそめにも.男の肌に燭れまいと始めた石盛でござります﹂  ﹁えつ?﹂  ﹁碗は、生涯嫁がぬ娘でござのます。娘で︼生を過します⋮⋮重春四一﹂  っ一生⋮⋮嫁㎜がぬとは。⋮⋮私奴へ、義理を立て曳の御決心か・:⋮?・L  ﹁はい!﹂   と娩子は思はす、重春の手を緊と握った⋮⋮火のやうな手と手だ⋮⋮  一斯ういふ風に、此の作者は、碗子の前門の直黒を説明して居る。師ち、重春の義理立てを、その原因として居る。  止し、勿諭斯ることは、正しき資料にはない。上述の如く、仕官の者に封ずる嫌悪からと読明されてある。また之が事實 であらう。加之、重固の伜に重春なる入物が存在する筈はないと考へられる。小説を詮議立てするのは、聯か野暮だが、重 固の殉死の事情を此に明にして、正傳の肇考に供しよう。  兼山の家臣に古義訳郎八重固と構して百年十八歳の若侍があった。古豪八左衙門の訳男でも兄理左衙門及弟市左衛門と共 に.悉く難山の臣下にして忠烈衆に秀で居た。兼山が中野に退窮してから、日夕.其側に侍してまめくしく働いて居たが、 兼山が卒するに及んで、彼の落膿と悲嘆に加ふるに、一応の上大夫等の曲りに残怨なる振舞を見て憂憤措く能はす、八知れ す深き決心をなした。愈々十二月十七日兼山の盤を宣るの日となると,一旦生家に古り、其事から小袖一領と杯一妻を貰ひ、 要れとなく永別の意を寓して、兼山の心馳に臨んだが.其葬途が終ると、かねて認め置いた一封を出して、痴漢大九郎なる ものに托し、之を同僚の伊藤著書に途り、自分は兼山の螢域よウ一階を下った所で見事切腹して殉死を遽げた。忠烈悲牡、 見る入戯款しかつたものはなかった、といふことである。  斯る事情であったとすると、其時重固が十八歳であったのだから、常然子供があらう筈がない。假にあったとして志、一 歳か二歳の子であらう。然るに、その時、椀子は既に四歳であるから,此の小説の重春は.恐らく作者の室想より出でたも

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のであらう。  閑話休題。前述の如く、姉子は開業をして居たが,利腺の念に薄い彼女は、讐に潤て財を得ようとせす、鷹島伊藤盆右衛 門なるものをして、自製の越鞠丸といふ費藥を販費せしめ、僅に糊口の資に供した。それ故、其家庭は常に赤貧洗ふが如き であった。  そこで、藩圭其不幸を欄んで。八入扶持を下賜する旨の達示があった所、彼女は之を遍くることを潔しとせす、固冷した。 けれども、奮臣等は,老母及び彼女の家に奉行して尤も患實であった老いた乳母を養はん爲に、強ひて之を受けんことを勧 めた。彼女止むを得す、母と乳母のために泣いて之を受けたと。叉金時、藩主から奮野里の所へ嫁せよと多められたが、彼 女は頑として鷹ぜすして曰く、﹁黒甜不幸にして遜るべき身なりと難、素これ前執政の女なり。今卑賎に起るに苦しみ、志を 屈し身を辱めて奮臣の妻とな砂、徒に芝居混抱を契りて先考を古しむるに忍びんや。﹂吉云って、終に從はなかった。  彼女は氣象かくの如くであったから、居常家居して外出せす、身を持すること極めて嚴であった。偶々所用があって、門を 出る時は必ずζ首を懐にし、面を覆ひ、夜に入って出た。而して如何なる揚合に於ても、前執政の娘たる品絡をば固く保持 して嘗て一歩も譲ったことがなかった。朝倉の赫職大宮丹波の伜因幡は、若年の時より出入して書物の講繹など學んだから, 彼女が高知を出る時には若齢となって籠の書するのを常としたが、同入の云ふに、﹁お姉様は卒常澄しせらる玉こと男子の如 く、御家老中を影にて咄さるるに殿付をせられす.昔喜右衛門全盛の標なり。又或時高知へ出でられけるに、観音堂の畷に て山内監物殿の御息、舎古殿に逢はれけり。含斎殿、馬にて來られける故,こなたの駕昇等よけさうにしけるを駕籠の中よ り﹃よけな﹄といはれて、よけすして通られけの、、﹂と。父の氣象を遺憾なく傳へたといふべきだらう。女讐ともならう婦入 は,常凡の婦入とは、よほど異って居るものと見える。  而して,終・焦慮を染めす、眉を剃らす、振袖を着て、 一生塵女の姿をして居た。渡邊金右衛門といふもの嘗て朝倉を巡視 した時聴彼女の家に到り、暫し物語などして,後に入に話して撒く、﹁お碗殿は年は六十ばかりにて候へども、皮膚は三十ば    吉岡11日本女馨史の研究       八九

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   吉岡”日本女警史の研究      九Q かりなる婦入のやうに見えるQこれ一生不犯にて身の養生も宜敷故なる。へし。﹂と。門生の謹⋮嚴克己の相を窺ふに足ると共 に、築山の奪嚴、威信及び品絡を墜さ虻らんとした心の用意を推察するに充分である。  彼女は此の如く世間から遠ざかったが、鼠壁り谷賢島先生①霊徳を慕ひ.書を以て交際をして居た。嘗て=度先生を尋ねて 其骨導に接し様としたが、口善悪ない世人があやしむことを恐れて宿志乞果さなかった。野山が残すると、彼女は哀悼措か す、文を作て之を弔した。文、・次の如くであるσ

祭秦山脊先生文

嶋呼昔我々・先生慰二世相遇岡本氏家嚇始饗御壷↓先生志豪力雄、獣識釣・深窮・微洞門暢古今墨差無・不悪阻予難・無・ 交奮惰↓甘辛兄密隔一萬里一有二師弟親↓働レ鼓予叉三二骨肉﹂野爪先生﹁難レ然世樹冠レ姦久不レ通二欺文↓今年六月先生有レ受・赦、 予讃レ之甚、九月行一ρ岡本家一等・祭レ紳然則聴講先生↓予猫撫欲レ解二今文↓鳴呼哀哉,七月二日聞・計,何痛加レ之.先生之死爲 レ可・恨、庶英需琴其來受二予非鐸哀哉街饗。  禮を蓋し、敬を致して、祖先を祭るのは、彼女の父の最もカを藍した所である。彼女は長じて之を母に聴き.其思想が父 の信奉した露岩から出たのを知り、叉平芝風である事を知った。而して今や其家系が將に絶え、租先の露が祭られない⋮標に ならうとした。これは彼女が焦慮した所で、彼女の晩年の心思は專ら之に五って傾注せられた。弟貞四郎有するや、母悲嘆 の量り我を忘れて其後を追はんとせしを諌めたのも、この故であった。藩圭から其奮臣に嫁せんことを勘められた時僻して 從はなかったのも、亦野中家をして一日たりとも蛍に存生せしめんためであった。  斯くて、寳永五年、其素志を果さんが爲に、香美郡野地村上野に、完先の祠堂を建てた。是を野地村野中神杜︵口維参照︶ と云ふ。其際、古意重固以下奮忠臣を合せ祭って,疋田五反歩を寄附した。また潮江高見の墓地にも、兼山年酒個の石碑︵口 絡蓼照︶を建てた。蓋し野中家は前述の如く悉く噺絶したから、生残つた椀子女吏の精神には,せめては墓表紳祠だけでも

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立派に遺し、以て野中氏の偉業功績を世に傳へようとしたのは、明な事である。其苦箇と苦衷とを察すれば、 断腸の思あらしむるのである。其租先を祭る文︵口縮参照︶に曰く、 入をして轄た

縄 朧 祭 文

選奉レ告。配所四+年。伯兄仲兄叔兄山。季弟毎語・翌日。先人所・成之神圭、吾命終無・可・符如何。若有二野中氏族可ジ椅, 其時裡面安東氏つ吾封、勿・言汝有・幸而得・赦、子孫可・有・綾・祭祀幻若夫亡者無・所・遁不・知・道不・知・義者、量椅レ之。癸末 六月二十有九日季糞壷。其時老母日、仰レ天賦レ地流涕、生無・盆可■二共死刃吾封、共レ死安.然季弟一世不幸、生不レ充二五 月一糸二配所幻不生奨籠身。今後共・死、有三雲隠レ戸清二死路一乎。又神圭之事如何。暫期レ時而賠二其命幻天與二面生一者、必可 ・得・赦。抜綿二他所一而期二其時↓造二組廟一廓。九月十有縁日夜百工。其時既爲レ訟、古臣行二井口氏家↓則得レ志。井口氏通 レ書、早島老人三+里不レ遠島。既恵賜宿毛一時、貧乏家学二巴去一難,女子三入。及二貧窮三山不レ忘レ恩。誠可レ言レ有レ義 。正 蓮院生レ腱レ愛、盗而順調、定盤寛。到二野女叫如ユ自生子博家内者見二脚高院開単二父母一慕レ之焉。乳母壮年之時、伯兄欲レ嫁 レ之。乳母流レ涙不・從。四+斜壁・改。女子身居・愛.不・立哨丈夫一山也。我於二朝倉一跨二扶助忍事幻吾流・涙日,翻心。或人怒 日、有二老母一有二乳母一勿レ僻。此時早言不レ得レ僻焉。時費永五年戊子九月二十有二日、姉志之租廟成就,使巨悪主安置日向來 古棋重矩者、土塁香我美郡之内、佳二山田村殉重矩有二家地東北之聞四方三問一構レ債永代買二求之幻重短自レ家運・艮、租廟一 間四面、造二管野相井青田五反、賎女後、重矩子孫如レ今週レ爲噛祭事鱒爲二破損甲如・此。祭事九月+有一日以二強飯醇酒一可・祭 レ之。必哉謳柾而勿レ汚二神奥叩勿レ博二僧尼鱒可レ使二号棋子孫主刃今日謹以二強飯醇酒↓食二璽前一瓢伸二野情殉難古臣之者欲・報二 勲功↓而予不レ得レ志。忠誠之者左記並。敢以告二干鬼紳↓  思ふに煎子が四十年の久しき間配所に在って唯一の心願としたのは、気嵩の祭事を管み、以て一族酬門の苦節悲鰺の状を 樋門に奉・告せんとするにあったであらう。心情の代る曳所、黙血の濃ぐ所、實に古今の名文である。小者をして、流涕禁ぜ    吉岡H旧本女殿憲史の研究        九一

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   士同岡羅日本女殴酉史の研究       ・九二 ざらしむるのである。就中、彼女の乳母が、妙齢の年より途に一生嫁せす、彼女と共に生を終ったことを記し、季重病殻の 状を記し、其母を慰めし心情の如きは、言はんとして云ひ得ざる熱誠と赤心が感喜して居る。  前記の如く、同時に家臣中忠義義烈の士を祭った。其中には、殉死した重固の弟.重鉦を祭ってある。其文に曰く、

古愼興左衛門重箆

 此者父者八左衛門有レ忠興レ義。其長螺左衛門及・愛重二君臣之義剛不レ仕二二君幻其次子次郎八重固主君之會レ愛、又哀レ死殉 死、.實丁番哉。基レ世有下爲二殉死一躍下、自・本同レ日導流レ可レ語、可レ使二鬼泣幻代々忠臣於レ此使レ位二亀甲論評貯蓄棋與左衛門 重矩、綾交兄雌馬↓事レ我三二租文目書見レ之我慮一忠前之璽・家古語一一組廟事ハ日脚自・素無二百銭之儲ハ先人章魚之有二重器一以 昔造二組廟嚇日諾。姶終不・歩一人司レ之成・功。堅塁レ思二選先一男レ僑二重矩一者如何成二就之幻古今無下爲二雑録一仕卵切貧窮之時 愛二圭君戸者、吾於二古棋之家一見レ之、忠哉。  閣外、井口長左衛門正康、伊藤盆右衛門重敏、門主丑之助正基、近藤務右衛門安興、刈屋喜兵衙、野村與三右衛門等、皆 夫々其動功を記した文がある。  此に於て、古今烈女の鶉鑑であり、女丈夫であり、且つ玉音であった量子女史は、實に牢乎たる大決心を以て、其終世の 心願とした組先の祭祀と冠着建立の目的とを達して、最早思ひ残す事もなかったΩこれ以來、其日課としては、只管二業を 働み、璽堂上の浸みを取るの外。人事の榮達と安樂とを望もうとするの心毛頭もなく.壮烈義憤、途に其苦難を押し通して 一面罵せす、享保十三年十二月、享年六十六を以て眠るが如く逝いたQ高知城差潮江村高見山上の兼山の墓地の側に葬られ た。誠に。女讐の租として、將た兼山の七子として、立派な一生を下ったといふべきである。是に於て、野中家は全く断維 してしまったのである。今更ながら、惜しむべきである。  秦山嘗て彼女に詩を塗り、詳して曰く、

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      和二野中夫入見贈

  揮・涙観・君筆鱒 名卿種不室。 詞源小町妙。

  経術大家風U 如レ日鏡奮底。 有レ天鐵圖中。

  務慮・存・碩果ゆ 明月出・塵蒙幻 といひしも、まことに盗美の言にはあらす、女史を評して威す所なしといふことが出來る。﹁偉人野中兼山﹂の著者は、女史 を評して、﹁偉人の化身﹂と稻して居るが宜なる哉である。  娩子は.此の如く、學識深遠にして詩文に秀で。其容姿端然として、麗質玉の如く、才色兼備の女傑であった。女讐とし ても、一章からざる人物であった。そして、女史の名文、名作が今に至るまで、少からず撃って居る。安履亭、貴亭亭、柳 陰亭等は女史の全心である。有名な朧夜の月、藍の下根等の作を始めとして、詩歌漢文等心々多い。手に入れ得たものを、 次に掲げて、女史の文藻の如何に秀麗であったかを想見するのよすがとしよう。

安履・亭女吏の詩歌

     ○朝 倉書懐

朝倉三月暮、山緑野花稠、草舎乖レ母地,柴門闘レ日舞、弟兄汎涙眼、父母在二心頭↓ 塞去高官念、恰俘小蝶遊。     ○歳     旦 三陽無・跡一天春、入物目然共歳新、寒暖不レ齊村落裏、庭梅未・愛嚢生仁。 士口 ェ甜日本一女殿冨史の研究 九三

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  吉岡H日本女讐史の研究       九四      〇呈安田道立良讐 風輕日暖暮春天、腱々繁花眼底.聯、寄語爾來文會少、別離爾畑道三千。      ○奉謝景福輝師一物垂慈愛 雲海沈々粘二異光叫妙香錘鍵到二朝倉噛佛縁未レ維窮二藍、智擁無レ心座一奪霜幻      ○古臣の末とて最とせちに賎の伏屋を       とふらぴ給ふ蝕り嬉く懐かしくて いそのかみ古き昔のなご塾とて契りかわらす代々のことぶき。      ○ うれしさは春の光のへだて激く木の間の櫻ほころびにけり。

     ○月前行客

夜牛もまた杉の木の聞を漏る月に行人たどるあふ坂の山。         麓 の 下 根          本編は内山の聖子丸子女史が享保六年卯月中旬物せしものにて彼女六十一歳の時の作なるべしと竹屋溝孝大人は註

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せり。原本には芦の下寝とあるも下根に正す。假名文宇にて意の了解に難澁なる所を翼字に直したり、        ズ      よろづ       しるし  近き頃は年の加は図り允る験にやむ物事およすけ給びぬれば.こうやうの事もお愚しわきまふべし、萬におとなしく見蓼       もろり  ゴ らせ候程に御覧じとむる節々もやと狼にやまと唐の文の肉かたはし見.及び聞豊えたる事前書き付け侍りぬ。  一,凡そ人の子の中に師を窓て文を學びも身を修むる道を習はしむるもあれど.女ばいとけなきより深窓に養はれて入に        うさ    まみゆる事もなげれば奄自から道の数も疎く幾程なからで他の家にゆき夫に順ふるものなれば親の元に留まり居る事     しばし    も暫時の内ぞかし.萬づに心を添へられんこそいと目出度からむ。       すがひりゆ       む      いらづら      さだ  一、人は心にて侍る、如何に姿美しくなほ世に勝れる共心定まら・ずうつ玉と噛解かぬ様にては徒事にて候。定かなる心を       あだ       しな    本とし假初にも仇なる事有可かす勤彼の雨夜の品さだめに竜心癖ま診たらん入をこそ家とうじとも定めて誠のよるべ    ともし侍るぺけれと.轟々書かれたれば只正直に落窪を知の陀らんより外は何事か侍るべき,扱萬つの事如何程も    やわ    柔かになよやかに勤なかよく侍る事にや.假初の言の葉にも,さがなき事を云はす,物言少なくし給ふべし。惣して    男も女の八の心は外に見えぬものにて侍れば言葉と行ひにて知る、ことにて候そや.甘々臨み給ふべし。       いと  一、女に三從の道あり、幼けなくして親に從ひ噛入となりて夫に從ひ,老いては子に從ふものなれぽ、我身を立てぬ事と        ひじり    じのたま       たとへ         うやま    古しへの聖だちも給び置かれしと承る埼他の家を我家とし滴夫を天にもたとへ重葬にも警侍る故に仰ぎ敬ぴて從ひ仕    ふまつる事舳女の道なρ。男は外を勤め.女は内を蔑むる,是天地陰陽の自然の道なり。女は内の事を司とりて外の    事には脚かも預る可らす。内外男女の別ちを愼むべし。物事濁の我心の儘にす可・からす、 一生身を終ふる迄⊥大に從ぴ        したし    背く可らす、爾かあれば夫の心を只管にとのうかめ,愛になれ、省みを求む可からす、我操正しく一丁目誠を本とし.       ふたり    たがひ給ふ可からす穂忠臣はこ君に仕へす樋貞女は二瀬の夫にまみへすとかや,女の操を立つるは忠臣の簡を守るに      もろこし      んびす    同じ、唐の構文叔が妻令女は父母の命に背きて耳を切9聡王民が妻は夷國[へ捕らはれて夫の爲に命を喪ふ。我朝にも     たぐひ    此類多し、貞心の守は女の道な動と皆入事に知る所なれども.身によく塗す事はいと安からぬ業ぞかし。清少納言が    士口岡祀日本女甦目皮の研究        九五

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