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ノベルティの原型・絵付の技術・技能と職場事情 : 「瀬戸ノベルティのパイオニア・丸山陶器㈱論」続編

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(1)

ノベルティの原型・絵付の技術・技能と職場事情 :

「瀬戸ノベルティのパイオニア・丸山陶器?論」続

著者

十名 直喜

雑誌名

研究年報

18

ページ

23-65

発行年

2005-12-30

URL

http://doi.org/10.15012/00000859

Copyright (c) 2005 十名直喜

(2)

名 古屋学院大学研究年報 第18号 (2005.12) 23

ノベ ル テ ィの 原 型・ 絵 付 の技 術・ 技 能 と職 場 事 情

「瀬戸ノベルティのパイオニア 0丸山陶翻 論」続編―

目次

1.は

じめに

2.ノ

ベ ルテ ィの生産工程 とその特徴 2.1.ノベルテ ィ生産工程の概観 2.2.ノベルテ ィ生産 における原型製作 と原型師

3.原

型 師の技術・ 技能 と原型職場事情 ― 原型 師・宮石 功氏 の仕事人生 を通 して ― 3.1.青年期 の原型づ くりと職場 事情 3.2.丸山陶器 の原型 を担 った 巨匠・海老沢三一 と宮石 功 3.3.フ リー原型 師 としての新世界 3.4.原型 師人生 の 自負 と反省

4.絵

付職 人の技術・ 技能 と職場事情 の変遷

-3人

の絵棚 人が語 る戦前 ・戦後 にわた る絵付労働 と職場 の世界 一 4■

.戦

前 にお け る絵付職人 の技術 ・技能 と職場編成 4.2.戦後 の絵付職場 と労働・ 技術

5.お

わ りに

1.は

じめ に

小論 は,「瀬戸 ノベルティのパ イオニア・丸山陶器帥論」(『名古屋学院大学 論集 (社会科学篇)』 Vol.41 No.4,2005年 3月

)の

続編 にあた る。前編 で は,

70数

年 にわた る丸山陶器(抑の経営 お よび技術 の沿革 をた どる とともに

,そ

の 歴史的 。国際的評価 を東西磁器交流 の視点および芸術的 。文化的視点か ら行 っ た。 しか し

,ノ

ベルティ (陶磁器製の置物・装飾品

)の

生産工程 と職場状況 に ついては

,論

文のボ リューム的な制約 を鑑み

,原

料調合 と焼成管理の工程 にア

(3)

プローチす るに とどま らぎ るを得 なか った。 そ こで,小 論 で は ノベ ルテ ィの生産工程 に視 点 をす え,そ の要 をなす原型 (お よび石膏型

)製

作 な らび に絵 付 の両工 程 にス ポ ッ トをあて る。 丸 山陶器 の生産 現場 の分析 を通 して

,瀬

戸 ノベ ル テ ィの技術 。技 能 と生産現 場 の歴 史 的変遷 を 明 らか に した い。 ノベ ル テ ィの生産 工程

,そ

の全体像 お よび各工程 の機能 と特徴 につ いて は, これ まで幾つかの冊子 な ど公表 された ものが あ るが

,説

明が大 ざっぱ あ るいは 一 部 に偏 る

,シ

ス テ ム的 で はな い な ど問題 点 も少 な くな い。 そ こで

,丸

山 陶 器 の加 藤 豊 社長 (および今井俊 夫氏

)へ

の再三 の ヒア リング (2005年 9月) をふ まえて全面 的 に ま とめ直 した。 原 型製 作 の仕 事や職場事情 につ いて は

,丸

山陶器 の元原型室長 で原型師 の宮 石 功 氏 か ら

4回

にわた る ヒア リング調査 (2004年 9-12月

)を

行 い

,書

き下 ろ した。原型 師 に関 して は

,

これ まで もヒア リング調査 す る機 会 に

2度

め ぐ`り あ い

, 2本

の論文 に ま とめて い るの。 それ らも参 照 しつ つ丸 山 陶器 を舞 台 に し て集大成 を図 ったのが

,今

回の小論 に他 な らない。 一 方

,絵

付工 程 の技術 ・技 能や職 場 状況 につ いて は

,丸

山陶器 の絵 付工程 を 担 って こ られ た

3人

の シエ ア絵 付職 人・ 管 理者 か ら1997-8年に

2回

にわ たっ て ヒア リング調 査 に行 い

,拙

稿 (98年

)に

ま とめ た②。「原型 を肉体 とすれ ば 絵 付 は顔 」(3)といわれ るよ うに

,

ノベ ル テ ィ生産 にお いて絵 付 は原型 とな らぶ 重 要 な工程で あ る。 ノベルテ ィを生かす も殺 す も絵付職 人 の筆一本 にかか って い る といわれ る(4)。 に もかか わ らず

,技

術 ・ 技 能 や職 場 事情 につ いて系統 的 に (1)「ノベルテ ィ原型師の技能 と哲学 一陶磁器原型1級技能士・ 山田兼幸氏 に聞 く―」『地域 研究会』第18号 ,名占屋学院大学,1996年。 お よび,十名直喜 「世界一の鳥 ノベルティ と自社 ブラン ドづ くりをめざ した大東三進卸 (DAITO)の経営・技術・文化」『名古屋 学院大学論集 (社会科学篇)』 Vol.40 No.4,2004年 3月。 (2)「 セ ト・ ノベルテ ィの絵付職人 と絵付職場 ―丸山陶器 にみ るノベルテ ィ絵付の技能 と労 働 の足跡 ―」『地場産業研究』第20号,1998年。 (3)小出種彦『黒 い煙 と白い河 ―山城柳平 と瀬戸の人形 ―』貿易之 日本社,1959年 ,138ペー ジ。 (4)瀬戸陶磁器工業組合パ ンフレッ ト,1994年。

(4)

ノベルテイの原型・絵付の技術・技能と職場事情

25

ま とめた もの はほ とん ど見当た らない。今 回

,絵

付 につ いて の新 た な ヒア リン グ調査が難 しか った こ とか ら

,98年

に ま とめた拙稿 を見直 し,小論 に編集 した。

2.ノ

ベルテ ィの生産工程 とその特徴

2.1.ノ

ベルティ生産工程の概観 ノベルテ ィ生産工程 は図 1に み るよ うに

,基

本 的には18工程か らな るが, 製品によっては一部の工程が省略 され るな ど若干異なる。 く見本製作〉<―――― ― く見本 完成・承認 〉 〔下絵付製品の場合〕 〔上絵付製品の場合〕 ︱ ︶

iCI

・ …‐r‐‐ V 『『 ] ._1 ﹁ ︼ ¨ 一 T 一 σ 一 颯 コ 一 ︼ σ 一     σ 一 ハ ー ー ー ー ︲ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︲ ︱ ︱ ︱ ︲︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︱ ︲︱ ︱ ︱ ︱ ン ハ ー ー ー ―――→>l 荷 注:E:=:コ(点線太枠)の工程は省略する場合もある。 図

1

ノベ ル テ ィの生産 工 程

(5)

下絵付製品の場合 は

,上

絵付お よび上絵焼成が省略 され

,16工

程か らなる。 一方

,上

絵付製 品の場合 は

,下

絵 付が省略 され

,17工

程 か らな る。 ただ し, 下絵付製品に も上絵付 を

,ま

た上絵付製品に も下絵付を施 す場合が稀 にある。 なお

,素

,施

釉 の

2工

程 は

,い

ずれの製品の場合 も省略 され ることが ある。 下絵付製品にはスペインの リャ ドロ

,上

絵付製品には ドイツのマイセ ンを代表 例 としてあげることがで きる。 以下

,各

工程 について

,そ

の機能 と特徴 をみていきたい。 ①デザイン ノベルティの生産 は 「原画」か ら始 まるが, これはデザイナーがお こす。輸 出を主体 として きた瀬戸 ノベルテ ィの場合

,欧

米のバイヤーが持参す るデザイ ン(5)が「原画」 となるが

,前

面 (プラス背面

)か

らの

1∼ 2枚

程度の もので し かない ことが多か った。 自分の ところでスケ ッチ して持 って くるバイヤーは, む しろ少なかった といえる。 また

,バ

イヤーが持参す る実物見本や写真 をもと にバイヤーの指示に従 って書 き直す こともあった。 ②原型製作 原型師 (modeler)は ,「原画」をもとに して

,全

体お よび細部 をイメージ し, 粘土や石膏 を使 って,「原型 (モデル)」 を製作す る。バイヤーが持 って くるデ ザインや写真な どに沿 って

,表

情 。しく゛さや人体の骨格バ ランス

,さ

らには製 造 コス トにも注意 を払いつつ

,ひ

たす ら作 る人であった。原型技術 の有無 は, デ ッサ ンカ,彫塑力 に依 るところが大 きい。 そ うした原型技術 をもっているか, また研究心

,注

意力

,熱

意 な どがあるか どうかが

,い

い原型師か どうかの分れ 日で もあった。 他面

,ノ

ベルティとりわけ人形 には

,風

俗習慣や宗教な ど欧米の生活文化が 深 く投影 されている。それゆえ高級品を作 る場合 には

,種

々の実物見本 な どを 参考 に し

,文

化的な背景の理解 にも努めるな ど

,バ

イヤーの意向を汲む原型製 作が求め られた。原型師は会社専属 とフリー (自営

)の

二種があるが

,

とくに フリーの場合 は

,バ

イヤーの意向な どの情報が より間接的ゆえに想像 と手探 り (5)バイヤーは「アー トワー ク」 とも呼んでいたが,瀬戸で は 「スケ ッチ」 と呼ばれていた。

(6)

ノベルティの原型・絵付の技術・技能 と職場事情 27 のなか

,そ

うした課題 にも立ち向かわぎるを得 なかった。 原型の素材 として は

,一

般 的には粘土

,油

土(6),石膏 な どが使用 され るが, 瀬戸 ノベルティの原型 は

,瀬

戸で産 す る木節粘土が原型土 として使用 され るこ とが多かった。 しか し

,昨

今 は木節粘土が貴重品 となったため

,蛙

日粘土の混 じった粘上の使用や

,製

品の種類 (プラモデルや ブ リキな ど

)に

合わせて原型 の素材 を変 えることも多 くなつて きている。 原型 は

,素

材 を種々の形状のヘ ラな どで彫刻 し

,形

を創 ってい く。原形土の 場合,良 く練 った うえで大体の形 にす る「粗作 り」か ら始 め,製造上の観点 (コ ス ト

,生

産性 な ど

)か

らのチ ェックを行いなが ら,「仕上 げ」 な どの工程 を経 て完成す る。原型づ くりにおいて考慮 しなければな らないのは

,粘

土の 「収縮 率」である。材質 (磁器

,半

磁器

,自

雲陶器な ど

)に

よって異なって くるため に

,材

質毎 に収縮率 を計算に入れ

,求

める焼 き上が りの寸法か ら原型の大 きさ を割 り出す。 原型が出来 ると

,簡

単な形状で1個の型か ら全体像が抜 けるもの (ポン抜 き 型

)を

除 き

,各

パーツヘの分割 (切断

)を

行 うが

,

これ も原型師の重要な仕事 である。一つの原型 は

,数

個か ら数 十個 くらいまでのパーツ (頭

,手

,足

,胴

, 台な ど

)に

分割 され る。 この分割作業 は

,生

産工程 における作業の効率性 を考 慮 に入れ

,製

型部門や製造現場 と相談 しなが ら仕事を行 う。 ③ 「見本型」製作 分割 した原型のパー ツか ら,「見本型」(石膏

)を

つ くり

,

さらに 「見本型」 か ら見本製品を作 る。すなわち

,サ

ンプル として数個鋳込み

,各

パーツの仕上 げ

,接

,組

み立て

,生

地焼成

,絵

,焼

成 を行い

,製

品化で きるか どうか判 断す る。 ④ 「ケース型」製作 製品化が可能 と判断 され ると

,

この 「見本型」 は

,バ

イヤーの見本承認 と発 注の後,「元型」 とも呼ばれ るようにな り

,そ

こか ら「ケース型」(石膏

)を

製 作す る。 (6)油土 とは 「彫刻・鋳造 な どの原型 をつ くるのに用 い る,オ リー ブ油 。硫黄・蝋 な どをま ぜ た人工の粘上。緑色 を帯びた暗灰色で,放置 して も固化・乾燥 しない。」(『広辞苑』)

(7)

⑤ 「使用型」製作 「ケース型」は,「使用型」(石膏

)を

製作す るための型である。「使用型」は, 数十回 (通常

50∼

80回

,高

級品では

30∼

50回

)鋳

込む と磨耗 して使 えな く な るので

,再

度,「ケース型」か ら「使用型」 をつ くるとい うプロセスが繰 り 返 され る。 以上,原型の分割か ら「使用型」製作 に至 る③∼⑤ の工程 (原型の分割→「見 本型」製作→ 「ケース型」製作→ 「使用型」製作

)は

,石

膏型製作の工程 とし て一括す ることもで きる。 ⑥原料調合・製土 陶磁器の素地原料 には陶石

,長

,粘

土な どがあ り

,

これ らを適当な割合 に 調合 しトロンメルで粉砕 して 「水泥漿」にす る。 瀬戸地 区に産 出す る木節粘土および蛙 目粘土 は

,可

塑性の高い粘土で

,

これ らを配合 してつ くった「不土」で鋳込み成形 を行 うことが

,瀬

戸 ノベルティの 原料面の特徴である。 ⑦不土作製 。寝か し 泥漿は

,フ

ィルタープレスにか けて水 を絞 ると

,板

状 (ケーキ

)に

なる。 そ れ を土練機 にか ける と,「不土」 にな る。杯土 は

,一

定期間(7)寝か してお く。 寝か してお くと

,バ

クテ リアな どの有機物がで きて可塑性や耐火強度な どにプ ラスに作用す るか らである。

③鋳込み泥 漿 作製

「不土」に水 と少量の珪酸ソーダ

(流

動性を高めるため

)を

加え

,攪

拌 して

石膏型に流 し込みできる状態

,す

なわち「鋳込み泥漿」

(「

鋳込み ドロ」

)に

する。

⑨鋳込み成形

雌 型 (凹型

)で

あ る「使用 型 」に「鋳込 み ドロ」を流 し込 む こ とを,「鋳 込 み」 とい う。石膏型 の吸水性 を利用 して

,必

要 な肉厚 にな る (「分 が つ く」 とい う) まで放置 した後,「 排 泥」す る。 「排泥」後,しば ら く時間 をお くと,生 地 は,中 の水分が「使用 型」に吸収 され, (7)丸山陶器の場合

,2∼

3ケ月か ら半年 ほ ど杯土 を寝か していた。

(8)

ノベルテ ィの原型・ 絵付の技術・ 技能 と職場事情 29 わずかに収縮 して硬 くなるので

,型

か らスムーズに取 り出す ことがで きる。 「使用型」か ら生地を取 り出す ことを「型起 し」(「離型」)と い うが,「鋳込み」 か ら「型起 し」 までの時間は

,40分

(薄手

)か

2時

間 くらい (厚手

)ま

で かか る。 ⑩仕上げ 型か ら出 した生地 には

,型

の合わせ 目にバ リ(ハミ出 し

)が

ある。一つの製 品は

,数

個か ら数十個 くらいに分割 されたパーツか らなるが

,パ

ーツ毎にバ リ な どの余分 な上 を削 り,筆や布で水拭 きしてきれいに仕上げをす る。カタミ(含 有水分)を均一 に した後,鋳込み用泥漿 を接着剤(「ノタ」と呼ぶ)にして,各パー ツを見本 どお りに正 しく組み上げる。 ①乾燥 組 み上 げた製品 は

,全

体 に自っぼ くな るまで乾燥 させ る。以前 は自然乾燥 (「陰干 し」

)で

あったが

,現

在 は乾燥機利用や窯の余熱 を利用 しての強制乾燥 が主 になつてい る。付 けものが多い人形 な どは

,接

着部分や台な ど分厚い部分 に 「切れ」を生 じやすいので注意 を要す る。 ⑫素焼 乾燥 した生地 を窯 (現在 は主 にガス窯

)に

入れ る。棚板 に生地 を並べ

,焼

け ムラのないようにバ ランス良 く詰める。窯詰が終わ ると

,温

度 を800∼ 850°

C

まで上げて焼成す る。焼 き上が ると

,8∼

10時間ほ どの冷却の後,窯 出 しす る。 ⑬下絵付 下絵付す る際には

,素

地が顔料の水分 を吸収 しやす く

,上

絵付 と違 ってや り 直 しが きかない (拭き取 りが出来 ない

)の

,筆

で手早 くかつ慎重 に作業 を進 める。 ⑭施釉 素地 に釉薬をか けることを 「施釉」 とい う。釉薬 をかけると

,素

地 に汚れが つ きに くくな り

,光

沢性・ 防水性 を高め

,素

地の強度 を大 き くし

,光

沢性 をよ くす る。磁器の場合 とは異な り

,半

磁器

,自

雲陶器の場合 は

,必

ず施釉が必要 である。 素地 に吸水性があることを利用 し

,素

地 を釉薬の中に通す。 ゆっ くりし過 ぎ

(9)

た り

,速

度が変わった りする と

,素

地が湿 りす ぎた り

,釉

薬の厚 さが不均一 に なった りす るので

,液

の攪拌 とともに細心の注意が払われ る(8)。 なお,瀬戸 ノベルテイの場合,施釉素地 (グレーズ

)だ

けでな く無釉素地 (ビ ス ク

)製

品が多 く

,特

色なつている。 ⑮本焼成 施釉 あるいは無釉の素地 を棚板 に乗せ

,窯

詰す る。焼成 は

,ガ

ス窯にて次の ステ ップで加熱,焼成す る。焙 り焼成 (酸化焔で900°Cま で)→ネ ラシ焼成 (900 ∼930で 1∼

2時

)→

攻 め焚 き (還元焼成で は1,250∼ 1,350°

Cで

,酸

化焼 成で は1,150∼ 1,250°

Cで

13∼ 15時間

)→

ネ ラシ焼成 (1∼

2時

間)。 焼成す る と形状が変形 して しまう恐れ (主に傾 ぎ

)の

ある場合

,支

えに トチを使 い, 変形 を防 く゛(9)。

⑩上絵付

上絵付 は

,本

焼成 した素地 上 に彩色加飾 す る こ とで あ る。 その技法 は多岐 に わた るが

,大

別 す る と手描 き

,転

,ス

タ ンプ

,そ

れ らの併用 に分 け られ る。 上 絵具 (上絵 付 に使 用 す る絵 具

)は

,低

火 度 (750∼ 850℃

)で

発 色 し

,多

彩 な色 調 が か な り自由 に得 られ る。使 われ るの はほ とん ど洋絵 具(金属酸化 物) で

,和

絵 具 が使 われ るの は稀 で あ る。 また

,金

液 も多 く使用 され る。 ⑦上絵焼成 上絵焼成 には

,(エ

クロム線 を抵抗体 とした

)電

気窯が もっ とも好都合 と されてい る。上絵付 した ものは

,

しば し自然乾燥 した後

,窯

詰 し

,な

るべ く 速やか に油分 を除去すべ く

,酸

化雰 囲気の中で焼成 す る。焼成温度 は750∼ 850°

C,焼

成時間は

8∼

10時間に及ぶ(10)。 その後

,冷

,窯

出 しを行 う。 ⑬検品 。梱包 顧客 もしくは自社の判定基準 に基づ き

,最

終検査 を行 う。主要な検査項 目に (8)瀬戸陶磁器工業組合パ ンフレッ ト,1994年,および 「ノベ ルテ ィの製作工程」せ とも の フェス ト'97実行委員会他編『 セ ト・ ノベルテ ィー 世界へ夢 を贈 るや きもの一 』 1997年。 (9)瀬戸陶磁器工業組合,前掲資料。 00)丸山陶器では,(料金単価 の低 い)深夜電力 をほ とん ど使 っていた。

(10)

ノベルティの原型 。絵付の技術・技能と職場事情

31

,素

地 で は切 れ

,欠

,瑕

,

ヒズ ミ

,パ

ー ツの取 り付 け不 良

,釉

薬 の貫 入, ム ラな ど

,ま

た絵付で は色・塗 リム ラ

,汚

,は

み 出 し

,ズ

,変

,絵

具 溜 ま り

,人

形 の顔 不 良 な どが あ り

,多

岐 にわた る。 ただ し

,

これ らの検査 は各生 産 工程 で実質上行 つてい る。 人形 は破損 し易 いので

,細

心 の注 意 を払 い必要 な梱 包材 を使 って梱 包 す る。 と くに繊細 な商 品 につ いて は

,破

損 を防 く゛工 夫 をす る。 カー トンの落下 テス ト な ども時 には行 う。

2.2.ノ

ベルティ生産 における原型製作 と原型師 原型 と原型師 石膏型鋳込み法 は

,1968年

(明治初年

),政

府 の派遣 した海外伝習生 によっ て もた らされたが

,陶

磁器産業での実用化 は1895年の ことで

,

日本陶器の百 木三郎技師がアメ リカより四段仕様法を導入 し採用 したのが最初である(11)。 石膏型鋳込み法 は

,

ノベルティ生産の基本技術であ り

,原

型製作 な どノベル ティ生産 と深 くかかわつている。使用型を造形物の形態 に従 い

,い

くつにも細 分す ることによって

,い

かなる複雑 な原型 をも製品化で きる。 こうして石膏型 鋳込み法 は

,複

雑かつ高度 な原型づ くりを促 し

,製

品の量産化 に道 を拓いて産 業 としての瀬戸 ノベルテイの生成 。発展 をもた らした。 原型製作は

,ノ

ベルティ生産の出発点に位置するとともに

,そ

の根幹 をなす 仕事である。デザインを基 に して立体的な原型 とい うものをつ くりあげるとい う点で

,創

作性 と個性 に裏付 けられた技能 とセ ンスが必要 とされ る。 この原型 づ くりを担 うのが原型師である。 この 「原型」お よび 「原型師」 とい う言葉 を 初 めて耳 に したのは

,筆

者が ノベルティ産業の ヒア リング調査 を初 めて行 った 1995年の ことである。「原型」(Proto―

model)は ,

日本の産業・技術のキー ワー ドをなす重要な概念の一つであ り

,そ

うした 「原型」が支 える産業 としての ノ ベルテ ィ とは一体何か

,

とい う問題意識が

,

この分野 に関わ る契機 となった。 そ して,「原型師」 とい う響 き

,そ

れが醸 し出す技術的 。文化的な奥行 き と斬 01)小出種彦 『黒 い煙 と白い河 ―山城柳平 と瀬戸の人形 ―』貿易之 日本社,1959年,103-4 ページ。

(11)

新 さも筆者の関心 を くす ぐ`った。 1960年頃の瀬戸 には

,原

型研究会 の会員だ けで も百人 を数 えるな ど百数十 人の原型師がいて

,会

社専属 だけでな くフリーの原型師 も少な くなかったが, 今 日では数分の一 に減 っているとみ られ る。 フィギュア原型師に注がれる熱 い視線 「原型師」が今

,熱

い注 目を集 めている。 といつて も

,熱

い視線が注がれて い るのは瀬戸 ノベルティの原型師ではない。 コンビニな どで売 られているお菓 子 にオマケ としてついている玩具

,す

なわち「食玩」 とい うフイギュアの原型 をつ くる「原型師」(12)たちである。大阪・茨木の小 さなプラモデルシ ョップか ら始 ま り

,1960-70年

代のアニメ 。キャラクターの フィギュアを製作 して

,若

者だけでな く熟年世代 まで もフィギュア・ ブームに巻 きこんだ フィギュア業界 の雄が

,海

洋堂である。海洋堂の原型師たちは

,美

少女 フィギュア

,動

,稼

動型 ロボ ッ ト

,(ア

ニメ

,ゲ

ームの

)ヒ

ロインキャラクターな ど

,専

門の得意 分野が決 まっていて

,圧

倒的なファンをもつている(13)。 瀬戸 ノベルテ ィ,と くに陶磁器製西洋人形 に とって

,西

洋文化 とのギャップ, その文化的な壁 はなかなか越 え難 い ものがあつた とみ られ る。 しか し,「食玩」 フィギュアは

,

この文化的な壁 を軽 々 と飛び越 えたのである。 日本マ ンガやア ニメな どの 日本発 キャラクター

,す

でに東 アジア的 (さ らにはコスモポ リタン 的

)な

ひろが りをもつ これ らの題材(14)を斬新 なセ ンスで切 り取 り

,立

体的に 再構成 す ることによって

,文

化的な壁 を乗 り越 え,「ジャパ ン・ クール」の一 翼 を担 うブラン ドに昇華 させたのである。 輸 出が壊減 し得意先 も激減 した瀬戸 ノベルティのシエア原型師たち。彼 らの 中にはアニメ 。キャラクターな どの原型製作 に関わ る人 も少な くない。 02)海洋堂の宮脇修社長は,「原型師」あるいは「造形師」という言い方を併用 している(『創 るモノは夜空にきらめ く星の数ほど無限にある』講談社,2003年)が,宮脇修一専務は「造 形師」で通 している (宮脇修一『造形集団 海洋堂の発想』光文社,2002年)。

00

奥野卓司『日本発イッ ト革命―アジアに広がるジャパ ンクールー』岩波書店,2004年, 3,190-1ページ。なお,原型師 とその作品にスポッ トをあてた本 (講談社編『海洋堂原 型師 香川雅彦の世界』講談社,2004年 )なども出版 されている。 に

)奥

野卓司,前掲書,137ページ。

(12)

ノベルティの原型・絵付の技術・技能 と職場事情 33 プ レス金型 と石膏型の比較視点 「製品

=情

報 十媒体 (素材)」(15)(すなわち製品 とは 「製品設計情報 の創造 と 転写」(16)である

)と

い う視点か らみ ると, ノベルティの生産 は

,デ

ザイ ン, さ らに素材 を媒介 に して立体化 した 「原型 (モデル)」 とい う設計情報 を

,石

膏 型 を媒介 に して (陶磁器の

)素

地 に物理的・化学的に転写す るプロセスである。 設計情報の転写が難 しい素材

,つ

まり「書 き込みに くい媒体」 に

,設

計情報 を丹念 に移 し変 えてい く「作 り込み」 は

,主

として製造業が担 って きた領域で ある。鉄や プラスチ ック,アル ミな ど,いわば情報転写の容易でない媒体(素材) で構成 されている自動車の生産工程 において要 をなす 「プレス金型」は, ノベ ルティ生産 における石膏型 として位置づ けることがで きる。 プレス金型 は

,鋼

の塊であると同時に情報 の塊であ り,また「作 り込み」ノウハ ウの塊で もある(17)。 「擦 り合わせ型」産業の典型 とされ る自動車は

,エ

ンジン

,ボ

ディーな ど約10 の領域

,数

十のサ ブシステム,1,oooを 超 える機能部品

,さ

らに約

3万

の単体 部品に分解で きる。 数個か ら数十個 くらいの 「パー ッ」(サブシステム

,機

能部品に相当

)か

ら なるノベルティ生産 は

,部

品点数の少なさもさることなが ら

,情

報転写の難易 度 (石膏型に比べての金型

,陶

磁器 に比べての鉄・ アル ミな ど素材 にみ る情報 転写の難 しさ

)に

おいて も

,自

動車 に比べて 「擦 り合わせ」度 は低 く

,海

外移 転 も避 けに くい産業であるとみ ることがで きる。 ノベルティ生産の場合

,1970

年代以降

,円

高化 とともに海外 (台湾

,中

国な ど

)へ

の生産移転が進行 した。 その際

,原

,見

本型 は日本 (瀬戸

)で

つ くっていたが

,や

がて海外で も原型 師が育ってい く。かつての瀬戸 と同様 に

,海

外 (欧米

)の

バイヤーが原型師を 育て る役割 を担 うのである。 こうして

,中

・低級製品生産のアジア化が進行 し ていった。 他方, ノベルテ ィ

,

とくに西洋人形づ くりで際立つ文化の壁

,地

域的なブラ ン ドづ くりの難 しさゆえ

,高

級化へのシフ トも捗 らないまま

,急

激 な円高の大 05)藤本隆宏『能力構築競争』中公新書,2003年

,29,94ペ

ージ。 (16)藤 本隆宏,前掲書,94ベージ。 (17)藤 本隆宏,前掲書,106ページ。

(13)

3

波 に呑 み込 まれ て い くの で あ る。

原型師の技術・ 技能 と原型職場事情

原型師・ 宮石

功氏の仕事人生 を通 して 一

3.1.青

年期の原型づ くりと職場事情 瀬戸窯業高校時代の学びと出会い一 彫塑 と原型づ くリー 宮石 功氏(図

2)は

,終戦直前の1945年(昭和

20年 )4月

,瀬戸窯業学校(旧 制 中学

)に

入学 した。1947年の学制改革 によって,1日制 中学か ら新制高校 に その まま進学 したため

, 6年

,絵

画 と彫刻 を続 けることがで きた。瀬戸窯業 高校 は

,美

術科 (25人

),商

業科 (40人

),普

通科 (40人

)の

3つ

の科があ り, 美術科ではロクロを選択す る学生が多かった。陶芸 をや ろうとす る人はロクロ を選 んでいたか らである。小 さい頃か ら細工好 きで

,木

片を削って飛行機や 自 動車づ くりに夢中になるな ど手先の器用な宮石氏 は

,絵

画 と彫刻 を選択 した。 窯業高校時代 には

,東

京美術学校 を出 られた

2人

の先生が印象 に残 ってい る。彫塑の橋爪英夫先生 と絵画の佃政道先生である。非常 に自由な発想 をもち 図

2

ヘ ラを執 る原型師の宮石功氏 (1970年代) 注)写真は,加藤 豊社長の提供による。

(14)

ノベルテイの原型・絵付の技術・技能 と職場事情 35 生徒 にもそれを伝 えようとされ

,瀬

戸のノベルティメーカーに即戦力 として卒 業生を送 り込む実践的教育 に努めてお られた。宮石氏が高校の月謝が払えない で困つていると,橋爪英夫先生 は「原型のアルバイ トをや らんかね」 といって, メーカーヘいって見つ けて きた原型製作の仕事 をさせていただいた。 そのおか げで

,入

社 した当時

,す

でに原型師 としては即戦カ レベルにあった。 高校時代 は彫塑 ばか りをや り

,他

の勉強 はあまりしていなかった。橋爪先生 は

,校

長 よ りも偉 い感 じで,「単位 は足 りないけ ど卒業 させた る」 といって卒 業の便宜 を図って くれた。同級生の山田兼幸氏 (原型師)(18)は愛新陶器 に就職 したが

,瀬

戸窯業高校 出身者 は製造畑だけでな く営業畑な どの仕事にもよ く就 いた。丸山陶器で も

,管

理職の多 くが瀬戸窯業高校 出身であった。 入社当時の生活事情 1951年に

,瀬

戸 窯業 高校 を卒業 し

,丸

山陶器 に入社 した。 当時 の月給 は

4千

円で

,そ

の うち

2千

円は家の食事代 に出 し

, 2千

円を小遣 いに していた。 入社後 も

,原

型のアルバイ トは続 けていたが

,原

型 を1点つ くると1500円ほ どになった。遊びに金が不足 して

,会

計主任の安川士朗氏か ら給料の前借 りを 頼んだ こともあった。当時

,前

借 りで きるのは職員 (月給者

)で

,そ

れ も工員 (日給者)には内緒であった。遊 び といって も,当時は飲んだ り食 った りが主で, それが大 きな楽 しみの一つで もあった。 当時

,中

学卒 は工員 として

,高

校卒 は職員 として丸山陶器 に入社 した。その 後

,新

しい給料規定 にな り

,重

要部署の責任者 (工員

)は

随時

,職

員に昇格 し ていった。 宮石氏が入社 した1951年頃は

,今

の瀬戸街道 も細 く

,東

は吉田町か ら西 は 市場町 までが瀬戸の南の旧本通 りで

,丸

山陶器 もその通 り沿 いに面 した一等地 に建て られていた。当時

,自

動車の運転免許 をもつ人 は少な く

,丸

山陶器で も

4,5人

しかいなかった。運転免許 を持 つてい るだ けで重宝が られ

,社

内では (18)瀬 戸 を代表す る原型師の一人で もあ る山田兼幸氏 については,1995年にヒア リング し, 次の論文 にま とめてい る。 十名直喜 「原型師の技能 と哲学 ―陶磁器原型一級技能士・ 山田兼幸氏 に聞 く―」『地域 研究会』第18号,1996年。

(15)

専 ら輸 送 係 を担 うな ど

,運

転 免許 を持 って い るだ けで仕 事 が あ る時代 だ った。 丸 山陶器 の原 型職 場 入社 当時,原型部 門 には斉藤,岩田,水野 の各氏 や女性

2人

な ど

5,6人

いた。 彼 らの仕 事 をみて い る と

,誰

が原型 に向 く人か

,誰

が 向か ない人 なのかが

,若

者 の 目に もす ぐにわか って しま う。 岩 田氏 (京都 の美術学校 卒

)は

,手

は遅 いが立体 的な個性 のあ る良い原型 を つ くってお られ た。 しか し

,そ

れ を嫌 うバ イヤーか らは修正 を要 求 され るこ と も少 な くなか った。器用 とはいえない岩 田氏 は

,す

ぐに対応 で きない し

,面

子 もあ る。二代 目社長 (加藤龍 蔵

)は

,岩

田氏 に言 いに くい とな る と

,宮

石氏 に こっそ りと直す よ うに指示 して くる。呼 び出 されて

2階

にい くと,「ヘ ラを持 っ て来 い」 といって その場 で修正 させ られた。個性 を出すので はな く誰 にで も好 かれ る顔 に

,例

えば 目も との二重瞼や おち ょぼ 口

,人

形 顔 に

,直

す よ うに とい う。斉藤氏 (旧姓 は藤谷 で

,常

滑 の美術学校 卒

)は

,

きれ い な仕事 を され る人 だ った。 その後

,原

型 部門 は途 中入社 の人 も加 えて

5人

(男性

4人 ,女

性 1人) 体制 にな った。 元 原 型 室 長 の近 藤 國彦 氏 (図

3)は ,旭

ヶ丘 高校 の美術 科卒 で

,山

国 製 陶 に勤務後

,1974年

に丸 山陶器 に入社 され た。加藤豊社長 に よる と,「 丸 山で一 図

3

元原型室長 の近藤 國彦 氏 (1988年) 注)写真は,加藤 豊社長の提供 による。

(16)

ノベルテ ィの原型 。絵付の技術・ 技能 と職場事情 37 皮 む けた」 といわれた方で

,宮

石氏の退職後 は丸山陶器の原型 を担 ってい く のである。デ ッサ ンに励み社外で も勉強を していたが

,そ

うした蓄積が花開い て

,

レノックス・ シ リーズの原型 を手がけるなかで大 き く成長 し

,丸

山陶器の 誇 るべ き原型 をつ くりだす。 レノックス・ コレクシ ョン (レノックス・チ ャイ ナ系列の通信販売会社

)か

0日

陶貿易商会経 由で人形 (LegendaW Princess Series)注 文 を受 けた際

,先

方か ら送 って きたの はスケ ッチのみで あつたが, 丸山の誇 りとなるようなすば らしい原型 をつ くった。9イ ンチの ものであるが, かつての 15-20イ ンチの大 きな人形 にも比肩す る精緻 なものである。営業停止 後 の1989年

,

ノリタケに入 リノベルティ部門で原型製作 に従事 され

,今

も嘱 託 として勤務 されている。 原型製作 といって も

,テ

ーマだけ与 えられて何インチでつ くれ

,

といわれ る ことも少な くなかった と

,宮

石氏はい う。木節粘土でつ くる原型 は

,焼

成す る とかな り縮小す るので,それを計算 してつ くる必要がある。丸山陶器の生地 は, 本節粘上の配合割合が高い こともあって収縮率が大 き く

,15%(下

請の窯屋 に つ くらせ るものは

13%)収

縮 す る とみていた。原型の焼 き上 げサイズは

,製

品のサイズが決 まると逆算 して求めることがで きる。 図

4 1970年

代 の型場 注)写真は,加藤 豊社長の提供 による。

(17)

5 1988年

の製陶工場 (製陶課) 注)写真は,加藤 豊社長の提供 による。 図

6

造 型 室 長 の横 山正 男 氏 (1988年) 注)手前か ら2人目が横 山正男氏。写真 は,加藤 豊社長の 提供 による。 丸山陶器の各職場の人たち 石膏型製作工場 は,「型場」 と呼ばれていた。型場 には

,増

田正夫氏, _L田 正雄氏

,中

村圭次氏

,鈴

木馨氏な どがいた。丸山陶器か ら独立 した外注の型屋 には

,稲

垣平和氏

,鈴

木正夫氏

,水

野春馬氏 らがあげ られ る。 製陶課 (鋳込み。仕上げの製陶工場

,図

5)に

,祖

父江春海氏 (製陶課長,

(18)

ノベルティの原型・絵付の技術・技能 と職場事情 ず酷_■/ 綺 ヽ ﹁ 〓 図

7

絵具場での元 上絵付室長・井上要 之助氏(1988年) 注)写真は,加藤 豊社長の提供による。 後 に製造部長

)な

どがいた。素地見本の製作部署 も

,製

陶課の中に含 まれてい たが

,1985年

には造型室 として独立 させた。初代 に して最後 の造型室長 となっ たのが

,横

山正男氏 (図

6)で

ある。焼 きぐるいや型取 りの方法 な ど

,見

本生 地 を鋳込 んで仕上 げる際 に気づ いた修正点 な どは

,原

型師や型場 にフィー ド バ ックしていた。横山氏は

,セ

ンスの良い人で

,陶

花 (陶器でつ くる造花

)を

つ くる技術が抜群で

,そ

の先駆者で もあった。 また上絵付課 には尾関錯二氏 (上絵付課長

),そ

の後任の井上要之助氏 (元 上絵付課長

,1988年

当時は嘱託

,図

7)な

どが属 していた。

3.2.丸

山陶器の原型を担 つた巨匠・ 海老沢三― と宮石 功 彫金家・海老沢三―の原型 東京 には彫金家の海老沢三一氏 (図

8)が

お られて

,丸

山陶器か らは大 きな サイズの最高級人形 を依頼 していた。原型 を 1点 つ くると

, lヶ

月は十分 に飯 が食 える く``らいのお金 (現在価値100万円以上

?)が

支払われていた ようであ る。海老沢氏 は

,置

時計 (精工舎

)の

枠の装飾 な どをつ くっていたが

,若

い宮 石氏 には雲の上の人で,「先生」 と呼ばれていた。 瀬戸の木節粘土 は

,本

の葉 な ど腐食 してで きた有機物 を含 み独特 の粘 りが

(19)

あ って

,原

型 づ くりには最適 の もの とい え る。指や濡 ら した布 で きれ い に仕 上 げがで き

,固

くな るので

,そ

の まま 「型 ど り」 に も渡 す こ とがで きた。 海 老 沢氏 の場合

,木

節 粘土 で は な くまず油土 で原 型 をつ くり

,い

った ん石膏で型 ど りした後

,そ

こか ら石 膏原 型 をお こ し

,そ

れ をナ イ フや 金 ベ ラ,サ ン ドペーパ ーで きれ いに「仕 上 げ」す る方法 を とって いた。油土 は

,ベ

タベ タ して きれ い に仕 上が ら ない し固 くもな らないので

,陶

磁 器 の原型づ くりには不便で あ る。 しか し

,東

京 に は木 節 粘 土 が な い た め, 不 便 だ が 使 い慣 れ た油 上 を原 型 づ くりに使 い

,そ

れ を石膏原型 に と り 直 して丸 山陶器 に納 めて いたので あ る。 欧米で は今 も

,油

上 を原型製作 に使 ってい るよ うで あ る。バ イヤーか ら油上 でで きた原 型が送 られて きて

,そ

れ を石膏 にお きか えた こ ともあ る とい う。 海 老 沢三― の原型 力 に託 した大型 人形 づ く り 丸 山陶器 と海老 沢三一 氏 の関係 は

,1949年

春 に端 を発 す る。 ニ ュー ヨー ク のバ イヤーか らの要請 で

,(10イ

ンチ を こえ る大型人形 の第一号 として

)18イ

ンチの 「鳩 もち」 をつ くらね ばな らな くなった丸 山陶器 は

,海

老 沢氏 に原 型づ くりを托 すので あ る。 こう して

,造

型 力の壁 を乗 り越 え, さ らに焼成 の難関 を も突破 してい く。小 出種彦 『黒 い煙 と白い河』 は

,そ

の間の事情 を次 の よ うに 述 べ て い る(19)。 「大 き くなれ ば な るほ ど

,原

型 師の造型 力 は優 劣 の差 をハ ッキ リ作 品 の上 に 図

8

彫金家 の巨匠・ 海老沢三一氏 (後 列 の中央、1950年 代前半) 注)前列右は宮石氏。写真 は,加藤 豊社 長の提供による。

(20)

ノベルテイの原型・絵付の技術・技能 と職場事情 41 あ らわ して くる。龍蔵(二代 目社長)は,この問題 を解決す るため,三郷陶器(龍 蔵 の妻の実家

)の

あっせ ん によ り

,東

京の著名 な彫刻家海老沢三一 を招 くこ とに した。つづいてお こる難関は焼成である。すでに戦前 よ り

,高

級人形の伝 統 を もつ丸山に して もこんなに大 きな人形 を焼 くのは初 めてであった。」(230 ページ) 「しか し

,18イ

ンチの鳩 もちは

,か

つて ビス ク人形か ら高級 ドレスデ ン人形 への飛躍時代にみ られ る困難には出会わなかった。土質の研究か ら焼成の度合 いに至 る一貫 した作業場の長 い経験が新たな試みに対 して も

,十

分 その力を発 揮 したのである。」 (231ペ ージ) 「やがて,海老沢のすば らしい原型 は,みご とに陶磁器人形 として再現 された。 これは, まさに高級人形 に一新紀元 を画す るものであった。 ニ ュー ヨー クでの人気 も爆発的だ った。 この人形一組 は

,93ピ

ースのデ ィ ナーセ ッ トと同 じか,それ以上の値段で売 られたのに,たちまち売 り切れになっ て しまった。続 いて

,同

じ作者 によ り

,さ

らに大 きい 22イ ンチのマス ク人形 がつ くられた。」 (231ペ ージ) 宮石氏による型取 り補正作業 (海老沢氏 との分業関係) 海老沢氏 には

,

自由に腕 をふ るって原型 をつ くって もらった。初めか ら型取 りや 「焼 き曲が り」「焼 き狂 い」(20)な どを意識す る と

,原

型 に制限が入 って面 白い作品ができな くなるか らである。 海老沢氏か ら石膏原型が届 くと, どうした らや きものにで きるかを考 えるの が宮石氏の重要な仕事で もあった。型取 りお よび生産性のための補正・修正 は, 丸山陶器 (宮石氏の方で

)で

や るか らとい うわけである。宮石氏が石膏原型 を じっ と見入 つていると

,

どこで分割 して型取 りす るかが見 えて くる。 金彩色 は金液 を使 うが

,コ

ス ト面か らは金の使用量 と手間 (作業量

)に

制約 (19)小 出種彦 『黒 い煙 と白い河 ―山城柳平 と瀬戸 の人形 ―』貿易之 日本社,1959年,230-1 ページ。 20)「焼 き曲が り」や 「焼 き狂 い」 は

,焼

くとかたちが変形 す ることを指す。例 えば,差し 出 した腕が焼 くと下が る恐れがある時 には,それを見越 してあ らか じめ腕 を もっ と高 く 上げるように補正 した りす る作業が不可欠にな る。

(21)

があ り,台な ど何処 に どれ位効果的に使 うか も

,宮

石氏の腕の見せ所であった。 宮石氏の修正が加 えられた原型が出来上が ると,生地 と絵付の見本係 にみせて, さらに検討 を重ね ることもあった。 宮石氏の原型作品 丸山陶器の主要製品の中には宮石氏の原型 によるものが少な くない。写真 を みなが ら,「これは私の作品,それ もこれ も…」と,どん どん ピックアップされ る。 「馬乗 リナポレオン」「シーソー遊び子供」「ベンチ腰かけ旅行者」「エンジェル 付 きコンポー ト」「

2人

エ ンジェル付 きピッチ ャー」な ど。宮石氏 は,エンジェ ルが得意だった。オムッを替 えた り風 呂に入れた りな ど自分の子供の世話 をす る体験 を通 して, こども特有のプロポーシ ョンな どを肌でつかんでいたか らだ とい う。 原型か ら「見本型」をつ くり,さ らに「見本型」か ら「ケース型」をつ くる。 「ケース型」は型を作 る型であ り,「使用型」あるいは 「荷 口型」 とも呼ばれ る。 量産す る ときには 「ケース型」 を複数つ くった。「ケース型」 は

,形

状や彫刻 にもよるが50回ほ ど利用す ると型が甘 くなって しまうか らである。

3.3.フ

リー原型師 と しての新世界 フ リー の原型 師 に 宮 石 氏 は

,高

校 時代 に橋 爪先 生 か ら「 どこに就職 す る気 か」 と聞かれ た。 そ の際 に,「 丸 山陶器 に入 って勉強 すれ ば

,い

い原型がで きるよ うにな るだ ろ う」 とい うア ドバ イス を受 けた。原型師の場合

,会

社 勤 めの給料 は フ リー に比 べ て 安 いが

,丸

山 に は ヨー ロ ッパ 製 の よい見本 が揃 って いて

,い

い仕 事がで きる。 バ イヤーが イ タ リアな どにい って見本 を買 い こみ,「 これ と同 じもの をつ くっ て くれ」 と持 って来 るよ うな こ ともあったか らで あ る。 丸 山陶器 に

30年

近 く勤 めた後

,40代

後 半 に退職 して

,

フ リーの原 型師 に転 じた。 その理 由は

,給

料 面 の待 遇 が不 十分 だ と感 じて いたか らで あ る。独 立 し てか らは

,丸

山陶器 の仕 事 に加 えて,(抑 ゴ トーや 山サ製 陶 な どの仕 事 も した。 ガ ラス の仕事 宮 石 氏 は

,20年

位 前 か らガ ラス製 品 の原 型 づ くりも始 めた。 陶磁 器 の原 型

(22)

ノベルテイの原型・絵付の技術・技能 と職場事情 43 製 作 と同 じ手法 を使 ったが

,全

国 的 に も先駆 け とな る試 みだ つた よ うで(21),原 型単価 は陶磁器 よ りもか な り良か った。 当時のガ ラス・ メーカー は

,彫

金 の よ うに金属 を直接 削 って型 をつ くって いて,石 膏 で原型 をつ くるこ とはなか った。 そ こで,瀬 戸 の原型単価相場 の

5倍

くらい を請 求 してみたが,請 求通 りに支払 っ て くれた。 ガ ラス食器だ けで な く

,花

模様 や 少女 な どノベ ル テ ィ的 な ものが付 いた製 品 も手が けた。原型 を直接 に金型化 す るのは

,時

間 的

,コ

ス ト的 に もロスが大 き い。 そ こで

,石

膏 で原 型 (模様

)を

つ くるのが宮石氏の仕 事で あった。石膏原 型 をガ ラス・メー カー に渡 す と

,次

の プロセ スの仕事が続 いて い く。 す なわち, 石 膏原 型 を樹 脂 原 型 にふ きか え

,さ

らに樹 脂 原 型 の表 面 にメ ッキを施 した上 で

,電

気 的腐食法 を利用 す るので あ る。 すなわち

,メ

ッキ済 みの樹脂原型 (模 様

)す

なわ ち凸側 を プラス とす る と

,凹

側 の金型 に はマイ ナスの電気 を通 して シ ョー トさせ

,金

型 に模様 を電気 的腐 食 に よって刻 んでい く。時間が結構 かか る作業 なので

,模

様 な ども薄 くして

,薄

い模様 だ けをシ ョー トさせ沈 めてい く。 や き もの の場 合

,焼

成 す る と

13-14%縮

むが

,ガ

ラス は

0.5%位

しか縮 まな いので

,原

型 をつ くる際 はほ とん ど無視 で きる。 お もち ゃの原型づ くり 宮石 氏 の友人 の原 型 師 (桜井 亘 氏

)は

,従

業 員

3人

を抱 えてい るが

,瀬

戸 で は仕事が ない。息子 さんが,東 京 に出か け仕事 を とって きて,子供 のお もち ゃ の原型製作 を して い る。木節粘土で原型 をつ くる と

,そ

れ を樹脂石膏 にお きか え る。寸法 が厳 密で

,陶

磁 器 とは違 う難 しい仕事 との こ とで あ る。丸 山陶器 に しば ら く勤 めてか ら独立 した桜 井氏 は

,ガ

ンダム (おもち ゃ

)の

原型 をつ くっ て い る。 なお

,ア

ニ メの キ ャラクターで は

,大

東 三進 株 式会社 で活躍 され現在 フ リー 原 型 師 の伊 藤春美氏 も原型づ くりに関 わつてい る(22)。 (2〕 陶磁器での原型づ くりに長けたノリタケは,ガラスメーカーを買収 して「ノリタケ・ ク リスタル」をつ くっていたが,宮石氏によると石膏原型をガラスに利用することはやっ ていなかったようである。

(23)

石 膏型鋳込 みか ら樹脂型成形へ の技術 シフ ト 樹 脂 は

,や

き もの に比べ て成形 しやす く

,原

,ゴ

ム型 さえで きれ ば生地 は 量産 で き る。 また

,陶

器 とは異 な って絵 付焼 成 す る必要 は な く, ラ ッカーで絵 付 をすれ ば よいか らで あ る。今 や, 日本 の店 頭 に並 んで い る玩 具・置物 の多 く は樹脂製 品 になつてい る。 『東 陶機 器70年史 』は,衛 生 陶器 の製造 にお け る樹脂型成形 方式 の導入 (1978 年

),す

なわ ち石膏型鋳込 みか らの転換 が もた ら した画期 的 な意義 を次 の よ う に述 べ てい る(23)。 「衛 生 陶器で は

,石

膏 型流 し込 み に代 わ り

,昭

40年

代 か ら研 究 が続 け られ て い た画期 的 な樹脂 型成 形 方式が53年 5月 に開発 をみた。 これ に よって従来 の 1日

2∼ 3回

の常識が破 られて

,多

数 回の連 続流 し込 みが可能 にな る ととも に

,成

形 か ら釉 薬 まで ^貫ライ ンで製 品が流 れ

,穴

あ けな ど加 工工 程 もすべ て

9

原 型 製 作用 の各 種 道 具 注)左よ り,ノギス,彫刻刀 (4本),ハ バ リ,土か き (3本), 切 り出 しナイ フ,ヘラ,竹ベ ラ, コンパス。写真 は

,筆

者の撮影 による。 12)十名直喜 「世界 一の鳥 ノベルテ ィと自社 ブラン ドづ くりをめざ した人東二進の経営・文 化・技術」『名古屋学院大学論集 (社会科学篇)』 Vol.40 No.4,2004年 。

20

東陶機器株式会社編 『東陶機器70年史』東陶機器株式会社,1988年 ,301ページ。

(24)

ノベルティの原型・絵付の技術・技能 と職場事情

45

機 械 処 理 とな り

,次

々 と流 れ て くる製 品 の ライ ンは

,い

ま まで の衛 生 陶 器 工 場 の イ メ ー ジ を一 新 す る もの とな っ た。」(301ペー ジ)

3.4.原

型師人生の自負 と反省 原型製作用の各種道具 宮石氏 は,原型製作用 の各種道具 を自宅か ら持 って きて机上 に並べ られた(図 9)。 寸法 を測 るノギス,石膏 を削 る彫刻刀,土を切 るハバ リ,手 作 りの土掻 き, 土 を削った り押 さえつ けた りするヘ ラ,石膏の原型 を削 る鉄製の切 出 しナイフ, 高 さを測 るのに便利な コンパス(24),土を切 る時 に使 う薄糸のシュッピキな どで ある。 これ らに丁寧 に説明を加 えてい く。 土掻 きは瀬戸独特の もので

,村

上金物店で今 も販売 しているが

,自

分 にピッ タ リあった ものが入手 しに くいので

,宮

石氏 は自分でつ くって愛用 してい る。 つげの本で作つたヘ ラは固いが

,ヘ

ラに上がつかない。ヘ ラの材料 として厚み

lcm強

の板 を村上金物店で入手 し

,金

ノコで切 って棒状 に し

,切

り出 しナイ フで削 ると

,ヘ

ラにな る。濡れた木節粘上 に対 して使 い勝手のいい竹ベ ラは, 枯れた太 い竹の皮の方 を使 う。 シュッピキは

,ナ

イロン製の釣 り糸で

,原

型土 を切 るときな どに使 う。片方 を紐 に巻 くと

,固

い もの も切 ることがで きる。昔 は

,米

粒 を とった藁の穂 を水 に浸 して軟 らか くし縄の ように絢 った もの (いわば細縄

)を

,シ

ョッピキ と呼 んで

,ロ

クロで挽 いた生素地 を切 るときに使 った。古いや きものを裏返す と底 に縄の跡が見える。 ロクロを使 う人 は

,最

近 まで この細縄 を使 っていた。 原型師 としての仕事 と人生の感慨 「

50数

年間にわた る原型師 としての仕事 と人生 を どう思いますか」 と

,宮

石 氏の内奥 に切 り込んでみた。思 いを手繰 り寄せ るかの如 く上 を見や りなが ら, 第一声 は「良かったな と思います」。「自分の器用 さが生かせたか ら」で,「フリー になると仕事をや つていることが面 白かった」。 「頭はぼけて も腕 はぼけません」 と胸 を張 る。最近は物忘れがひどくて

,

日 (24)コンパスは,大きなサイズか ら小 さなサイズ までた くさんあった。 コンパスは,原型製 作 において高 さを測 った りす る場合,モノサ シよ りも便利な ものだ つた。

(25)

頃 使 って い る道 具 の名 前 もす ぐに は出 て こな い。 しか し有 難 い こ とに

,和

裁 をや って いた母親譲 りの腕 と目は大 丈夫で

,現

役 でや れ る。10年ほ ど前 か ら, 細 か い仕 事 をす る ときは老 眼 メガ ネ をか けて い るが

,車

の運転 はメガネ な しで や れ る。軽 い老 眼矯正 メガネ をか けれ ば

,細

か い字 も不 自由 しない。 青年 時代 へ の反省 ― 仕事への 自負 臨 リー サ ラ リー マ ン時代 は

,自

分 の腕 に比 べ て給料 が安 い こ とに不 満 が あ った。原 型 職場 に入社 す る と

,先

輩 た ち と比 べ て も遜 色 が な く何 で も出来 た。「す ごい や つ が 入 つて きた」 との印象 を持 たれ て いた よ うで あ る。「これ だ けの原型 を つ くる もの はい まい」「どん な原型 で もつ くれ る」 といつた若者特 有 の気 負 い が あった。鼻高 々にな り

,そ

れか らの勉強 を怠 った こ とが悔 や まれ る。 ヨー ロ ッパ人形 とその文化 的背景 の重み 若 い頃 は,「 形 さえ良 けれ ばい い

,売

れ れ ば い い」 としか考 えず

,西

洋 人 の 特 徴 (顔 立 ち

,体

形 な ど

)を

ふ まえてつ くる こ とはあ ま りなか った。「形 を同 じにすれ ばいいだ ろ う」 としか認識せ ず

,深

い影響 を及 ぼ して い る宗教や生活 文化 な どに まで思 いをいたす こ とが なか ったので あ る。 日本人が欧米 の人形 をつ くる上で は

,宗

教 のバ ックグラウ ン ドの大 きさを ど こまで深 く理解 で きるかが問われ て くる。 ヨー ロ ッパ人 は

,キ

リス ト教 とは何 なのか を体 でつかんで い る。人形 に もそ ういった ものが泌 み込 んでい る。人形 に は,王家や貴族 か ら農夫 (婦

)な

どに至 るい ろん な階層 の人物,キャラ クター が見 られ,そこに文化 が滲 み出てい る。宮石功氏 に よる と,ノ ー マ ンロ ックウェ ル の絵 か ら原型 をい くつかつ くり

,そ

れが よい勉強 になった とい う。 マ リアや マ ドンナ をつ くる場合

,エ

ンジェルや チ ュラブを付 けるこ とが多 い が

,そ

の場合 に も文化 的 な理解 と考察 が求 め られ る。エ ンジ ェル とチ ュラブ, エ ンジ ェル とキュー ピッ トな ど

,そ

れ ぞれ の違 い は何 か な どに も留意 しな けれ ば な らないので あ る。バ イヤーの要望,それ に コス トの面 もあって,「エ ンジ ェ ル の羽 を取 りま しょうか」 と提案 し了解 を得 るこ ともあった

,

と加藤豊社長 は 言 つ。 簡素 な日本美 を体現す る博多人形 も

,

日本人がつ くるか ら様 になるので

,西

洋人がつ くるとなると至難の ことになろう。瀬戸の原型師が西洋人の人形 をつ

(26)

ノベルテ イの原型・絵付の技術・技能 と職場事情 47 くると, どうして も日本人の顔 と体形 になって しまう。宮石功氏 によると, フ リーになってか らは, ノベルテ ィメーカーが 「直 してほ しい」 といって人形の 原型 を もって くることが少な くなか った。 目を少 しへ こました りす る と,「こ れでいい」 とい う。バイヤーか ら「これをつ くって くれ」 と言われて も

,そ

の 通 りに出来 ない原型師 も少な くなかった。 それは

,主

として技能の問題である が文化的理解度の問題 も絡んでいた と思われ る。

4.絵

付職人の技術・ 技能 と職場事情の変遷

-3人

の絵付職人

が語る戦前・戦後にわたる絵付労働 と職場の世界一

4.1.戦

前 にお ける絵 付職 人 の技術・ 技能 と職 場 編成 丸 山 ノベ ル テ ィの絵付 を担 った

3人

の絵付職 人 ノベ ル テ イの絵 付 につ いて

3人

の絵付職 人 か らヒア リング したの は1997年 6月 (および

98年

5月 )の こ とで,す で に7-8年近 くが経過 しよ うとして い る。 いず れ も

,丸

山 陶 器 で

40∼ 50年

間 にわ た り第 一 級 の絵 付職 人 と して

,

また 親 方 あ るい はその統括責任者

,課

長 として活躍 され て こ られ た方 々で あ る。戦 前 か ら戦後 にわた る同社 の職場状況や絵付労働 につ いて, これ だ けの臨場感 を もって語 れ る人 々 にはその後 も出会 っていない。 そ こで

,当

時 の ヒア リング記 録(25)を基 に して

,そ

の後 に調 査 した他 の職 場 状況 との比較 視 点 を加 味 し

,編

集 し直 し再録 す るこ とに した。 ただ し彼 らの年齢 や経過年数 な どは

,臨

場 感 を 保 つべ く第

2回

ヒア リング時点 (1998年 5月

)を

ベ ース に して い る。 加 納京 ― (80歳

),加

藤 敏 (76歳

),尾

関 力 (68歳

)の

3氏

,第

一線 か ら退 かれ て すで に数年 か ら

20年

近 くに な る (98年当時)。 絵 付職 人 の技 能 と労働 につ いて,戦 前 か ら戦後 にお よぶ変遷 を語れ る数少 ない生 き証人で あ る。 丸 山陶器 の事務室

2階

の シ ョー ルー ムで

, 3時

間近 くにわた って

3氏

に 自在 に 語 って いた だ い た (図 10)。 また

,加

藤 豊社長 も同席 され

,彼

らの語 りに経 営者 の視 点 か らコメ ン トして いただ いた。戦 前か ら戦後 にか けての数十年 にわ

20 +名

直喜 「セ ト・ノベルテイの絵付職人 と絵付職場」『地場産業研究』第 20号,1998年 。

(27)

10

丸 山 陶器 を担 った3人の絵 付職 人 (1997年) 注)1997年6月 10日 に

,丸

山陶器事務所2階の シ ョールー ム室で撮影 した ものであ る。前列の左 よ り,加納京―(当 時,80歳),加 藤 敏氏 (76歳 ),尾 関 力氏 (69歳)で, いずれ も絵 付職 人 として活躍 され た方 々で あ る。 なお, 後列の左 よ り加藤 豊社長 お よび筆者。 た る絵付職 人の技能 と職場 をめ く``る足跡 につ いて

,シ

ョー ルー ム に飾 られ た同 社 の歴 史 的 な ノベ ル テ ィ製 品群 を背景 に過 去 の記憶 を辿 り紐解 きつつ の語 りに 耳 を傾 けて い る と

,い

つ しか数十年 の歴 史的空間 を飛 び越 え

,往

時 の世 界 に吸 い込 まれて い くよ うな錯 覚す ら覚 えた。 さ らに

98年

5月 に は粗稿 を基 に して

,尾

関 力氏 と加 藤 豊 社長 に再 ヒア リング したが

,朝

9時

か らの再 ヒア リングは

3時

間半 に及 ん だ。 ヒア リングを 終 えてか ら

3人

,近

くにあ る岩野屋 (う どん屋

)に

昼 食 に出か け る。 そ こで お会 い したのが

,か

つ て丸山陶器 の残業時の出前 を一手 に担 って いた岩野屋 の 店 主 。江 口文 康 氏 (66歳

)で

あ る。江 口氏 か ら

,40年

ほ ど前 の丸 山陶器 の職 場風 景

,100人

以 上 に も及ぶ 出前 の状 況 な どをお聞 きす る こ とが で きた。 親 方 の も とへ弟 子 入 り 1918年 (大 正

7年

)生

まれ の加 納 京一 氏 が

,丸

山 陶器 か らの請 負仕 事 を し て い た親 方 の も とに弟子 入 りした の は

,1930年

で12歳の ときで あ る。 当時, 丸 山陶器 の工場 は瀬戸市 の滝之湯町 にあ り

,親

方連 中は同社 の仕事場 を借 りて

(28)

ノベルティの原型・絵付の技術・技能 と職場事情 49 請 け負 った仕事 をこな していた。戦時中 (1942-5年

)は

軍隊 に召集 され るが, 復員す る と同社 に戻 り1979年に

61歳

で退職 す るまで50年近 くを絵付の仕事 に携わる。 加納氏が入社 した頃 は,徒弟制が敷かれていた。最初の仕事 は「 した まわ し」(26) といって

,絵

付作業の準備 を した り

,造

花の葉の下 を塗 った り

,台

裏 にゴム印 を押すな どといった簡単 な作業 を受 け持つ ことだった。 加藤 敏氏 (1921年 生 まれ)は 1934年に,12歳で親方の もとに弟子入 りした。 その直前の1932年に

,工

場が滝之湯か ら現在地 (共栄通 り

)に

移転 している。 現在の本社事務所の奥 にある倉庫

2階

の絵付場で

,床

の上 に胡坐をかいて仕事 を していた。ドレスデン調人形の他 にラスター彩の花立てな どをよ くつ くって いた とい う。 新入 りの仕事 当時 (昭和初期

),新

入 りがやることは

,①

絵具を橘 る

,②

犬の目玉を描 く, ③人形の靴を塗る

,④

裏印を押す

,⑤

埃を払 うなどで

,上

絵用の絵具を細か く する作業 もあった。 ①の絵具橋 りは

,絵

具屋か ら仕入れた顔料を (そのままでは粗いので

)ガ

ラ ス板の上におき

,水

溶 きの場合は水を

,油

溶 きの場合はテルピンを加え

,底

の 部分が四角いガラス棒で

3∼

4時

間かけて橘 る作業である。マロンや ピンク系 の絵具07)は

,金

を含んでいて粗いために

,橘

るのに丸1日ほどかかる。 ②の大の目玉描 きはマッチ棒や筆で黒い点をつけることであ り

,④

の裏印押 しは各種マーク (会社のマークなど

)を

裏側に押すことである。⑤の埃払いは 絵付にかかる前に「ケボ」(毛棒の略称

)で

自素地に付着 した埃を払 う作業で, と くに肌色 を塗 る部分 は よ く払 った。高級 につ いて は

,

こ うした作業 に も細心 の注意 を払 う必要 が あ り

,他

社 に比 べ て もか な り徹底 して行 っていた とい う。 16)「 した まわ し」 とい う言葉 は,瀬戸地域 の方言の一つで,簡単 な ところを受 け持つ,あ るいは下準備 をす る とい う意味で使 われていた。 │つ マロンや ピンク系統 の絵具 は, ゴール ド(金)が入 っているので高価で あった。 そ こで 後 には,金の入っていない代用 品が登場す る。代用品 は,従来品の2∼ 3割とい う安 い 単価 で,従来品 と似た ような色が出せ た との ことである。

(29)

「金 つ ぎ」 回収 と親方 の余禄 絵 付 で は

,金

(ゴール ド

)を

使 って いた。絵 付 の際 に

,金

液 を入 れ るガ ラス 製 の容 器 (「金 ち ょ く」と呼 ばれ る

)に

筆 を入れ,その筆で塗 って い くので あ る。 金液 を含 んだ筆 は,「 金筆」 と呼 ばれ る。「金 ち ょ く」や 「金筆」 は

,仕

事 が終 わ る と布 で拭 き取 りきれ い にす る。瀬戸で は 「布」 の こ とを 「つ ぎ,」 といい, 「金 のつ いた布」 とい うことで 「金 つ ぎ」 と呼 んだので あ る。 瀬 戸 には,「金 つ ぎ屋」 といって,いわ ゆ る金 の回収業者が いた。親方 は,「金 つ ぎ」 を集 めてお き

,2∼

3ケ月 に1回ず つ 回収 に来 る と売 って小遣 い に して いた とい う。親方 の小遣 い稼 ぎ として は

,結

構 な金 額 にな った よ うで あ る。加 藤 社 長 に夜 と

,丸

山陶器 が生産 を停 止 した時,「 金 つ ぎ」 が まだ相 当 あ り「金 転 写紙 」 も残 って いたが

,そ

れ らを処分 す る と数十万 円になった とい う。 『帳場」 と親方 「絵 付場 」(28)は

,複

数 の 「帳場 」か ら編成 されて いた。「帳場 」 は

4∼ 5人

位 で構成 され

,親

方1人に弟子

3∼ 4人

が四角 い座 卓の周 りに座 って仕 事 をす る。 図11は 1950年代半 ばの絵 付場 の様 子 で あ るが,戦 前 の面 影 を残 して い る。 図

11

座 り作業時 の絵付場 (1950年 代半 ば) 注)写真は,加藤 豊社長の提供による。 18)「 絵 付場 」 とは,絵付部 門の職場 の こ とで あ る。丸 山陶器で は

,絵

付部 門 を 「画工場」 あるいは 「画工部」 と呼んだが,最終的には 「上絵付課」 に統 ―^された。

(30)

ノベルティの原型・絵付の技術・技能 と職場事情 51 弟子 は

,女

性が半分近 くを占めていた。女性の方が

,手

先が器用であ り辛抱強 く, また給料 も安 い。1935年頃は

,7∼

8班

の帳場があって

,各

親方は下請会 社の社長のような ものだった。会社か ら仕事場 を借 りるが,道具 は自分持 ちで, 弟子 にも道具を貸 し与 える。電気や水 は

,会

社が負担 した。 各帳場では

,親

方 を中心 に座卓を囲んで協 同作業 を していた。親方が顔 を描 く。親方の絵付は

,弟

子 に比べ るときれいで早い。早 く出来た製品はプール し てお く必要があるので

,製

品を載せ る板 をそれぞれの座 る後横 に置 き

,そ

の上 に滞留品 を並べてお くのである。新入 りの弟子 も

3∼ 4年

経つ と, 日玉や 口, 目を描 くようになる。 親方 と弟子の給料 丸山陶器 には戦前

,親

方が10人近 くいた。親方の もとには弟子が

4人

ほ ど いて

,男

女比 はほぼ半 々であ る。弟子 は親方か ら賃金 を時間給で もらってい たが

,賃

金 は能力 に応 じて支払われ親方の判 断で決 まる。加納氏が入社 した 1930年の賃金 は

,時

間当た り

3銭

で1日 10∼ 12時間の労働で あった。 月に

2回

払いで

,16日

と翌 日の 1日 が支給 日であ る。加納氏の場合

, 3銭

3銭

5厘

へ と半年 ごとに上がった。 加納氏 は1942年に

24歳

で兵隊に行 くが

,そ

の時には親方 になっていた。 よ く働 き

,そ

の腕 を見込 まれて

,出

世頭の一人であった。親方になると

,給

料は 戦前で も

20∼

30円で

,市

役所の職員の

3倍

ほ どもあった とい う。 よ く働 いた が

,よ

く遊んだ。親方を していた尾関氏の次兄 (尾関 二氏

)は

,大

阪の宝塚 まで タクシーを飛ば して遊びにいった りしていたが

,弟

子 を連れて行 くことも あった。仕事の帰 りには

,毎

晩の ように寿司屋 に立 ち寄 り

,家

で食事す ること はほ とん どなかった とい う。 絵付技術の レベルア ップ 親方 は

,加

賀の出身者が多かった。加賀出身の絵付職人 には

,上

田清一

,西

,中

,折

坂省山

,伊

藤新一

,斉

田為一

,今

西

,南

一郎

,村

田な どがいた。 加賀の出身者 は

,丸

山陶器だけでな く瀬戸 にた くさんいた とい う。加賀の寺井 町でや っていた職人たちで

,九

谷焼の上絵付の技能が瀬戸 ノベルティにも活か されていたのである。

(31)

12

最後 の見本絵付師・ 山田修氏 注)写真は,加藤 豊社長の提供 による。 彼 らの下で修業 した瀬戸出身の弟子たちが

,腕

を上げ

,師

を追 い越 し

,高

級 品を手が けてい くのである。 そ うした役割 を担 ったのが,加納京一,加藤 敏, 尾関 二

,加

藤繁夫な どの各氏である。 瀬戸 における絵付の レベルを引 き上げたのは, 日本陶器出身で名古屋在住の 三輪吉光で ある。温厚 な性格 の持 ち主で

,丸

山陶器の見本作成係 を1920年代 後半か ら50年代半 ば頃 まで担 当 した。1947年に開かれた汎太平洋博覧会 に, 彼が絵付 した 「二人楽土」が出品 され

,金

賞 を受賞 した。 それ以降,「二人楽 土」は 「金牌」 と呼ばれ るようにな り

,彼

の名前 も一躍有名になる。 その後任 になったのが宮 島正光で,1980年 頃 まで担当 した。そ して最後 の見本絵付係 は, 山田 修である (図12)。 上絵付焼成― 薪窯から電気窯へ

,丸

窯か ら角窯へのシフ トー 滝之湯の工場では薪 を焚いて焼 いていたが

,薪

窯で焚 くのはなかなかの重労 働であった。

1日

,夜

昼間わず薪 を くべ る必要があ り

,朝

2時

間ほ ど体んだ だけで薪 を くべ続 ける。その後

,電

気窯が入 って薪窯 と併用 していたが

,共

栄 通 りに移転 (1931年

)し

てか らは絵付 した ものは電気窯で焼 くようになった。 薪窯 は丸窯であったが

,電

気窯 にシフ トしてか らも戦前 は真中にニ クロム線 を入れた丸窯で焼 いていた。丸窯 には

,品

物 を 「棚積み」方式で積んでいた。 職人が窯の中に入 り込み

,外

か ら品物 を受 け取 り

,そ

れを棚板の上に載せてい

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