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昭和初期における「訓練」「訓育」概念の展開過程−大正自由教育の終焉と再編− [ PDF

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Academic year: 2021

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(1)昭和初期における「訓練」 「訓育」概念の展開過程―大正自由教育の終焉と再編― キーワード:訓練,訓育,大正自由教育,昭和初期,自律性,教育実践 発達・社会システム専攻 永江 由紀子 1.目的. 自由教育の理念や授業実践の解明に集中し、それが児童. 本論文の目的は、明治末期から昭和戦前期にかけての. の自主性を重んじる教育であったと位置付けている。ま. 「訓練」 「訓育」概念の展開過程を通じて、大正自由教育. た児童中心主義的立場から教授法の革新が行われた点で、. と戦時下教育との接続関係を解明することである。. 大正自由教育の近代性を評価する。このように、近代日. 研究の背景にある問題関心は、大正自由教育をめぐる 研究史の描かれ方、すなわち大正期に展開された自由教. 本教育史における大正自由教育は、輝かしき実践を残し た<正の遺産>として描写されている。. 育と、戦時下における国民教育との二元的把握に対する. しかしながら、大正自由教育に<正の遺産>としての. 再考である。本論文を通じ、こうした大正自由教育に関. 評価を与え、積極的に評価することは、一方では大きな. する研究史の枠組みを再検討することを最終的な目的と. 問題を残している。それは、大正自由教育と戦時下教育. する。. との断絶であり、このことは戦時下教育理念構築過程の 分析を、未解明のままにしている。. 2.目次. 本論文では、上述の問題関心に基づき、大正自由教育. 序章. と戦時下教育との接続関係について考察を加える。その. 第一章:大正自由教育の誕生と変容. ため、 明治末期から昭和戦前期にかけての 「訓練」 「訓育」. 第一節 大正自由教育論者による自由教育批判. 概念の変容過程に着目した。 「訓練」 「訓育」は、自由教. 第二節 大正末期における自由教育批判. 育と重複しながら語られる一方で、戦時下教育理念であ. 第三節 昭和期における自由教育論の変容. る「錬成」に結び付いていく。自由教育論者・反自由教. 第二章: 「訓練」 「訓育」概念の創出と多様化 第一節 ヘルバルト教育学における「訓練」 「訓育」 の定義と日本での需要. 育論者の双方に受け入れられた「訓練」 「訓育」は、多様 な意味を付与され、小学校現場での教育実践として展開 していく。こうした「訓練」 「訓育」の展開過程をたどる. 第二節 「教授」における「訓練」 「訓育」の在り方. ことによって、大正自由教育と戦時下教育との接続関係. 第三節 「教授」外における「訓練」 「訓育」の展開. を明らかにしていくことが、本論文の課題である。. 第四節 自由教育論と「訓練」 「訓育」との重複. 【第一章 大正自由教育の誕生と変容】. 第三章:学校現場における「訓練」 「訓育」の実践 第一節 明治末期における「訓練」 「訓育」の多様な 展開 第二節. 豊浦尋常高等小学校における「訓練」「訓 育」の在り方. 第三節 豊浦尋常高等小学校における「訓練研究会」 の開催と『訓練の実際』 第四節 奈良女子高等師範学校附属小学校における 「訓練」 「訓育」の変容過程 終章. 第一章では、明治期の教育学批判として誕生した大正 自由教育が、大正末期から昭和初期にかけて教育実践上 の改善を要求され、 変容していく過程について分析した。 この前提として、自由教育の理念の基盤を確認してお く必要があるため、第一節では沢柳政太郎と谷本富の教 育学説を素材とし、大正自由教育が明治期教育のいかな る部分を克服課題としていたか、という点に着目した。 沢柳は、明治期の教育学説が空漠であることを非難し、 教育学が教育の事実に向き合う必要性を説いた。このよ うに、教育学説上での改善を唱えた沢柳に対し、谷本は 教授法に関する革新を促した。彼は、明治期においては. 3.概要. ヘルバルト教育学の信奉者であったが、明治末期にヘル. 【序章】. バルト教育学から転向し、 「新教育」を樹立するに至る。. 大正自由教育に関する先行研究は、主に教育方法史や. 谷本は旧教育を機械的・画一的教育であると批判し、児. 教育実践史の視点から論じられてきた。 そこでの研究は、. 童の「自家発展」を重視する。 「自家発展」とは、児童の.

(2) 自由な活動に任せることによってその才能を引き出すこ. という概念が生み出されていった。. とであり、教師が彼らの活動に干渉しないよう要求され. 【第二章 「訓練」 「訓育」概念の創出と多様化】. た。. 第二章では、本論文で検討対象となる「訓練」 「訓育」. 第二節では、明治期教育学への批判として生じた自由. 概念の誕生と、その変容について焦点を当てた。ここで. 教育の、大正末期における見直しについて分析した。こ. は、 「訓練」 「訓育」と称される教育作用に、多様な意味. こでは、自由教育実践の主要な担い手であった師範学校. が付与されながら展開してきた過程を明らかにした。. 附属小学校の訓導から出された、自由教育に対する要望. 第一節では、ヘルバルト教育学における「訓練」につ. に着目した。当初、訓導らの自由教育に対する批判は、. いて、その定義を踏まえながら論じた。ヘルバルトによ. 自由教育の理念そのものの否定ではなく、行き過ぎた自. ると、 「訓練」とは教材を介して児童と接する「教授」と. 由教育に対する配慮であった。 過度な児童本位の方針は、. は異なる直接的な教育作用であり、品性の陶冶を目的と. かえって授業を阻害する結果となり、真の自由を達成で. する。こうしたヘルバルトの説く「訓練」が、明治期の. きないというのが訓導の主張であった。このように、学. 教育学者によって受容されたことを明らかにするために、. 習内容保障の観点から自由教育に対する要望を述べてい. 沢柳政太郎の著書『実際的教育学』における「訓練」の. る。また、児童の自主性にまかせるあまり、授業が勝手. 語られ方に着目した。当時、 「訓練」の具体的方法として. 放題に進み、教師もそれを放任している現状を批判して. 論じられたのは賞罰と命令であったが、沢柳はこうした. いる。こうした放任主義に対する危惧は、自由教育非難. 効果の少ない「訓練」を、学校現場で役立つものに改善. の際には常に矛先が向けられるようになっていった。昭. しようとした。沢柳は、著書の中で「訓練」の機会につ. 和期には放任主義への打開策として、一度批判された注. いて述べているが、それは大きく「教授」内における「訓. 入主義が再度議論にあがってくる。. 練」と「教授」外における「訓練」とに二分される。第. 第三節では、こうした新注入主義を唱えた丹沢美助の. 二節においては前者、 第三節においては後者をとりあげ、. 論文「自学自由主義の没落」に端を発する、自由主義を. 沢柳の説く「訓練」と学校現場での「訓練」の在り方に. めぐる論争に着目した。丹沢は、大正期に展開を見せた. ついて考察した。. 自由教育が、昭和に入っても有効的な効果をあげ得てい. 第二節で扱う「教授」内における「訓練」について、. ないことを非難し、これを非能率的な教育と攻撃する。. 沢柳はこれを教科目に関係するものと、関係しないもの. こうした丹沢の論文に対し、 当時の自由教育論者5名は、. とに区分して論じている。教科目に関する「訓練」とし. 「自学自由主義の本義を説いて丹沢氏に酬ゆ」という特. て沢柳が重視したものは、 「訓練」 と修身科との関係であ. 集を組み、丹沢の自由教育批判に対する反論を繰り広げ. った。沢柳は、両者の関係は極めて密であるとするもの. た。彼らは、丹沢のいう新注入主義には賛同できないと. の、修身科の目的は道徳に関する知識を授けることであ. しながらも、自由教育に含まれる欠点を認めている。す. り、修身=「訓練」ではない、とする。しかしながら、. なわち、昭和期の自由教育論者にとって、当時の自由教. 当時の学校現場においては、修身=「訓練」という構図. 育は完璧なものとは見なされておらず、自由教育論者自. でとらえられていたことが訓導らの主張から確認できる。. 身もその修正を求めていたのである。彼らは、新しい自. また、教科目に関係しない「訓練」としては、 「教授」を. 由教育の理念として「自律性」という概念を登場させ、. 行う前提としての位置付けがなされ、具体的内容として. 児童が自らを律していくことを求めたのである。 これは、. は授業態度の養成があげられている。こうした授業態度. 児童の天性を自由に伸ばす「自家発展」とは異なり、児. の養成を通じて、忍耐・克己・恭敬の徳を養成すること. 童自身で自らの行動を省み、実践していくことに主眼が. が求められ、これらは特に低学年の児童にとって必要な. 置かれた。このように「自律性」の概念は自由教育論者. 「訓練」であると見なされていた。. から発せられたものであるが、 以後昭和戦前期にかけて、. 第三節においては、「教授」外にわたる「訓練」につ. 自由教育論者・反自由教育論者の双方から受け入れられ. いて言及した。沢柳は、こうした「教授」外の「訓練」. たという点で、非常に重要な教育理念であると考える。. の例として、儀式等の学校行事をあげている。また、校. 以上述べてきたように、明治期教育学批判として誕生. 訓や校歌の制定、級長・組長の選定なども、 「訓練」の一. した大正自由教育は、大正末期になると過度な児童本位. 部であると沢柳は位置付ける。こうした「教授」外にわ. への見直しが進められるようになった。さらに、その放. たる「訓練」が、以後の学校現場においては定着してい. 任主義的側面についても自由教育論者から非難されるよ. く結果となる。それは、 「教授」 「訓練」において著しい. うになる。こうした自由教育改善の動きから、 「自律性」. 効果をあげたとされる優良小学校の事例を見ていくと、.

(3) 「訓練」の拡大と定着が明らかになる。優良小学校にお. 校や掃除の際は、児童の「自律性」によって作業がなさ. ける「訓練」には、先に沢柳が指摘した賞罰や命令、あ. れることが理想とされた。すなわち、 「訓練」 「訓育」の. るいは校訓・校歌の制定等の他にも、出席奨励や貯金奨. 作用に、児童の自治活動を促すことが含まれていたので. 励、操行調査などが含まれている。また、登下校時間の. ある。合わせて、 「訓練」 「訓育」は談話会の開催など、. 厳守、教室への出入り、階段の昇降といった、児童の日. 学校と家庭との連絡にも活用され、教育勅語の理念を訓. 常生活に関する細かな規程が、 「訓練」 の名の下に実行さ. 練要目にそのまま反映させたものを「訓練」 「訓育」と称. れていた。こうした「訓練」の「教授」外にわたる拡大. する学校もあった。このように、小学校における「訓練」. によって、 「訓練」の方法が具体化するとともに、小学校. 「訓育」の解釈は様々であり、またその実践も多岐にわ. 現場に定着していったと考えられる。また、こうした「教. たっていた。その理由として、 「訓練」 「訓育」概念が一. 授」外への「訓練」の展開は、より児童の生活に近い部. 定の基準を持たない故に、様々な教育的要求が「訓練」. 分で実践され、児童の学校生活を規定していく役割があ. 「訓育」に付加されてきたためと考えられる。訓練要目. ったことは見逃せない。. は、学校生活における児童の活動を細かく規定するもの. 第四節においては、こうした「訓練」をめぐる議論が、. であり、また学校運営の細則を補う役割も担っていた。. 自由教育論者にどのように受け入れられたかについて考. こうした「訓練」「訓育」の実践についてより深く考. 察した。当時の千葉県師範学校附属小学校の訓導であっ. 察するため、第二・三節においては山口県豊浦郡豊浦尋. た石井信二は、熱心な自由教育論者として著名であった. 常高等小学校における教育実践と、当小学校で大正5年. が、彼は自由と「訓練」を一元的なものと見なしていた。. から昭和8年まで校長を務めた椿惣一の教育観について. また、形式的・画一的な従来の「訓練」を批判する構図. 紹介した。ここでは、 「椿惣一先生資料」として下関市立. は、明治期教育の限界を批判する自由教育論者と共通の. 文書館に所蔵されている史料群をもとに、第一次史料を. ものである。自由教育論者の提唱する理想的「訓練」と. 用いながら大正・昭和初期における一公立小学校の「訓. は、 「自律的」人間の養成に求められた。ここでいう「自. 練」 「訓育」実践に焦点を当てた。. 律性」は、外面的な規矩準縄と対照的に描かれており、. 第二節では、豊浦小学校における教育実践の基盤を見. 内心の自己構成として説明されている。このように、自. ていくにあたり、椿校長の自伝や『豊浦小学校百年史』. 由教育―「訓練」―「自律性」という三者を同一文脈上. から彼の人間像を分析した。椿が豊浦小学校に赴任した. で語る構図は、自由教育論者に見られる主張である。石. 大正5年当時は、第一次世界大戦の最中であり、社会的. 井は、こうした「自律的」人間の養成のために、自由な. 変化の非常に激しい時期であった。こうした時代背景の. る「訓練」や、自由への「訓練」が必要であると説くの. 中で、椿が就任時から心掛けていたことは、 「中正」の道. である。. を外さないことであった。こうした椿の教育観は、すべ. 以上見てきたように、明治末期から昭和初期にかけて. ての方面において欠陥のない人間を養成するという意味. の「訓練」は、 「教授」内外おける応用方法を模索される. で、 「特色のないのを特色とする」 教育を信条とした点に. 過程で、様々な意味が付与されてきた。児童の生活を細. 象徴されている。椿は自由教育を一部に偏った教育と批. かく規定した一方で、自由教育論者にも受け入れられる. 判し、自由教育実践校を特殊の学校と見なしていた。こ. など、 「訓練」概念はその内容を拡大する中で、一見する. うした自由教育に対する椿の懸念は、具体的に半夜会と. と矛盾した展開を見せてきたのである。. いう研究会の創設へと結び付き、青年教師の思想面での. 【第三章 学校現場における「訓練」 「訓育」の実践】. 「中正」を保たせた。このように自由教育に対する危機. 第三章では、「訓練」に関する言説を扱った第二章を. 感を有していた椿であったが、自由教育に全くの無関心. 受けて、学校現場における「訓練」 「訓育」の具体的実践. であったわけではなかった。 「椿惣一先生資料」には、自. について焦点を当てた。第一次史料を用いながら、 「訓. 由教育に関する手書きメモや、研究ノートも数点存在す. 練」 「訓育」に関わる実践と、それに伴う理念について解. る。ここで、椿は自由教育が画一的教授の克服を目指し. 明した。. ていた点については、評価している。しかしながら、自. 第一節においては、先に紹介した優良小学校の事例か. 由教育の過度な児童本位の姿勢や、放任主義的な側面に. ら、 「訓練」 「訓育」 の多様な展開について明らかにした。. ついては、強く非難する。反自由教育論者であった椿が. 各小学校によって訓練要目は異なるものの、この時期の. 展開する「訓練」 「訓育」論とは、児童が自らを制裁する. 小学校における「訓練」 「訓育」が児童の生活に密着した. ように仕向けることであった。. 内容について規定している点に注目できる。また、登下. 第三節は、豊浦小学校において、昭和5年に実施され.

(4) た「訓練研究会」と、当校の「訓練」について紹介した. さらには「錬成」へと読み替えられていくのである。. 冊子『訓練の実際』に基づきながら論を進めた。 「訓練研. 上述のように、第三章では「訓練」「訓育」として学. 究会」は、主に実地視察と豊浦小学校の「訓練」に関す. 校教育現場に持ち込まれた実践の具体像を明らかにした。. る実践報告から成り立っていた。ここでの「本校訓練ニ. 訓練要目は、国家主義的理念を含みもつ一方で、児童が. 関スル発表会」において、 『訓練の実際』が紹介されたと. 自ら「実践」できる内容が盛り込まれていた。自由教育. 推測される。 『訓練の実際』 に記された豊浦小学校におけ. 論者が、自身の教育を改善していく中から生まれた「訓. る「訓練」の中で、第三節で具体的に紹介したのは自治. 練」 「訓育」概念は、こうした多様な展開を見せながら、. 会の開き方に関する規程である。自治会は、学級委員を. 最終的には戦時下教育理念である「錬成」に行き着くの. 中心として月1回開かれた集会で、児童が定めた「実行. である。. 問題」が確実に実施されたか議論し、日々の活動の中で. 【終章】. 感じた経験について語り合うものだった。この会は、児. 本論文では「訓練」 「訓育」概念の展開過程を通じて、. 童が自らの行動を反省し、さらなる「実践」について考. 大正自由教育と戦時下教育との接続について考察した。. 察する機会を与える場となっていた。このように、児童. 「訓練」 「訓育」概念は、自由教育論者にとって自由と一. の「自律性」の育成に、自治会が与えた影響は大きかっ. 元的なものとして解釈される一方で、反自由教育論者に. たといえる。合わせて、学校文書に綴られている昭和初. とっても徳目を「実践」させるための有効的な教育作用. 期の「児童訓練必行事項」についても紹介した。ここで. と見なされていた。 「訓練」 「訓育」概念が両者に受け入. は、皇室や国歌に対する敬意の表示と、児童の日々の生. れられた最大の要因は、この概念に「自律性」の養成と. 活上で守るべき行いとが、同一の規定の中に記されてい. いう理念が付与されたためと考えられる。この「自律性」. るという特徴がある。すなわち、 「訓練」 「訓育」は国家. は放任主義的な自由教育を改善する目的で登場した理念. 主義的な要素を含む一方で、それが児童によって日常的. であるが、児童の行動を規制していく要素を含み持って. に、容易かつ「自律」的に「実践」され得ることが求め. いたのである。このように、 「訓練」 「訓育」概念に関す. られていたのである。. る教育実践の解明を通じて、大正期と昭和期に共通する. こうした「実践」重視の「訓練」「訓育」の在り方に. 教育理念の存在を確認した点が、本論文の成果である。. ついて、第四節では奈良女子高等師範学校附属小学校で. 今後の研究としては、大正自由教育と戦時下教育とを. 実践された修身科との関わりで論じた。修身科における. つなぐ教育理念のより多角的な解明が必要となる。本研. 「訓練」 「訓育」が、その「実践」や「体験」という側面. 究においては、 「訓練」 「訓育」概念から両者の接続関係. を重視しながら展開してきた様子を、昭和戦前期の授業. を考察したが、広く人間形成を含めた教育として、戦時. 記録 「学習指導要項」 (奈良女子大学文学部附属小学校所. 下教育理念の構築過程を把握していくことが求められる。. 蔵)から窺うことができる。昭和に入ると、 「訓練」 「訓 育」を「実践」するためのひとつの方法として、修身科. 4.主要参考文献・史料. が位置付けられるようになる。これは、 「訓練」 「訓育」. 中野光『大正自由教育の研究』 (黎明書房、1968 年). における「実践」 「体験」という作用が全面に出されるこ. 中野光『増補訂正 大正デモクラシーと教育 1920 年代の. とによって、 知識面を補う修身が後退したと考えられる。. 教育』 (新評論、1990 年). すなわち、 「訓練」 「訓育」の修身科に対する優位が見ら. 木村元「自由教育学派の教育学と国民学校論―長田新の. れるようになるのである。こうした「訓練」 「訓育」の重. 教育学における「教授」と「錬成」―」 『日本の教. 視は、 「児童訓練」 「生活訓練」など「訓練」に関わる名. 育史学』第 33 集(1990 年). 称が多様化したことにも示されている。さらに、修身に. 前田一男「戦時下教育実践の史的研究―東金小学校・国. おいても日々の日常生活における活動を実践することが. 民学校を事例として―」 『日本教育史研究』第. 要求されるようになっていく。昭和 10 年代になると、. 14 号(1995 年). 「訓練」 「訓育」と国民教育とが結び付けられ、時局下に. 『教育研究』 (東京高等師範学校附属小学校). おける「訓練」の役割が認識されるようになる。また、. 『学習研究』 (奈良女子高等師範学校附属小学校). 「生活訓練」 の生活が指す意味ついても変化が見られる。. 『学校教育』 (広島高等師範学校附属小学校). ここでいう生活とは、苦節を含む生活であり、困難に打. 『自由教育』 (千葉県師範学校附属小学校). ち勝つ力が児童に求められていく。こうした動きの中、. 「椿惣一先生資料」 (山口県下関市立下関文書館所蔵). 「訓練」 「訓育」 の語で語られた教育要素は、 「鍛錬」 へ、. 「学習指導要項」 (奈良女子大学文学部附属小学校所蔵).

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