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2009
こべる刊行会NO
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ひろば⑫ ケニアのストリートチルドレンと過ごした日々 一 『チヨコラ !Jを語る 小林 茂 四日市から⑩ 躍動する女性たち 坂倉加代子 いのちを生きる@ 『チョコラ!』を観る 長谷川洋 子 映画の現場一写真と文 小 林 茂写真と文一小林茂 「お寿司を食べ終わって会計をするときに、常連のお客さんみたいな人が、 どこから来たのって聞いてきて、札幌から自転車でサイクリングしてるんです よって言うと、すごいねって、感動して、奪ってくれた。お店を出てから3人 でパンザイって喜んだ、ハハハハ
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(遠田ミク) 一一「自転車」(北海道の海岸線を走る子どもたち、 1998年) 「つばさクラブ」では、 6年生になると北海道一同の山転車旅行に出発する。去年の6 年生がゴールした地点をスタートして、 7泊8日、 380キロ。ナベ釜テントを自転車に積 んで海岸線を走る。私はワゴン車の後ろのドアをはねあげて、彼らの表情を移動しながら 幻 真−正商から狙う。大きな冒険に挑む透明な顔がそこにあった。その顔に一人ひとりの声を かぶせた。 「親から離れて一週間l
旅してね、勉強ろくにしなくていいし、一つ一つ注意されなくて いいし、すごく楽しかった」「トンネル通るたびに、後ろから車がきて転けたらどうしよ うと思って、怖くて早く走ってたJ
「自転車でなにか生きるか死ぬかの旅が まずしい食 事で生活するやつがやってみたい。なにかもう戦争時代のような(笑い)Jひ ろ ば ⑫ ケニアのストリートを駆け抜ける子どもたちの、隣− くも力強く生きる姿。思春期の烈しい輝きと真実を見つ一 める、奇跡の映画が誕生した。︵略︶人々に﹁チヨコ一 ラ﹂と呼ばれ、差別される青空ぐらしの子どもたち。そ一 の 命 の き ら め き 。 一 一 束アフリカに位置するケニア共和国。首都ナイロビか一 ら北東へ車で約一時間、人口一
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万人の地方都市テイカ二 街で一番の早起きは、くず拾いや物乞いなどで生計を立一 てている子どもたち。スワヒリ語で﹁拾う﹂を意味する一 さ げ す 一 ﹁チヨコラ﹂と呼ばれ、蔑まれている。寒さや空腹、警一 察による一掃作戦など、ストリートに生きる現実は厳し一 ぃ。しかし今日もまたスラムから、なかには街から遠く一ケニアのストリートチルドレンと過ごした日々
ー﹃チヨコラ!﹄を語る、
﹂
k 川 lA
よ れ T + 戊 ︵ ド キ ュ メ ン タ リ ー 映 画 監 督 ・ 新 潟 県 長 岡 市 在 住 ︶ 本日︵三月二八日︶は、お忙しいところ、こぺる刊行 会﹁人間と差別﹂研究会の講演会にご来場をいただきあ りがとうございます。本日は私の新作﹁チヨコラ!﹄を ご覧いただき、そのあとでご質問にお答えしたいと思い ます。一時間=一四分の作品です。場所はアフリカのケニ アです。五月、東京の劇場公聞を皮切りに全国公開され る予定です。同時に、映画にも登場するNGO
﹁ モ ヨ ・ チルドレン・センター﹂の松下照美さんが﹁子どもの 家﹂建設のキャンペーンのために全国を回ります。本日 の会場は簡便な設備ですので映像が少し粗い面がありま すけれども、ご容赦ください。 コ 同 ﹁ O 丘 C 0 2 0 コ こべる 1赤道直下のケニア。標高1500mの高地 にあるティカの街は朝晩かなり冷え込 む。子どもたちは朝起きると空地に集 まり、マットレス代りの段ボールを燃 やしてl援をとる。誓祭の動向や他愛な い無駄ぱなし。 離れた農村から、ストリートへと子どもたちはやってく る。それぞれの涙、それぞれの苛
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ち、それぞれの強さ。 この街で彼らは仲間と出会い、助け合い、生きている。 カメラの前に立つという覚悟覚悟に寄り添う眼差し 阿賀野川流域に住む市井の人々の生活を捕きながら、 現代日本の抱える問題を鋭く突いたドキュメンタリー映 画﹃阿賀に生きる ﹂ ︵ 佐 藤 真 監 督 、 一 九 九 二 年 ︶ 。 本 作 の と ど ろ 酷督・小林茂がカメラマンとして初めて世に名を轟か せたこの名作の、被写体とカメラの信頼関係を起点とし た映画作りの姿勢は本作にも受け継がれている。﹁なぜ わ か 家出するのか解らない﹂親が、大人たちが繰り返す﹁な一 ぜ﹂に対し、口を閉ざすだけの子どもたち。その姿を映一 画はじっと見つめ続ける。撮影はで﹂どものそら﹄︵二一000
年︶以来小林監督の助監督として活動を共にして一 きた吉田泰三。学童保育の指導員出身の彼ならではの、﹄ 子どもたちへの思いやりあふれる視線が、時代や場所を一 越えた、思春期の珠玉の時間を映し撮る。また、ナレl
一 シヨンを一切排した本作の中で全編を通して流れるのは、一 アフリカの民族楽器﹁親指ピアノ﹂の音色。サカキマン一 つ ぶ や せ い ひ つ ゴーが奏でる肢きのように静誼な響きが、子どもたち一 の輝きを見守っている。︵以上、映画パンフレットから︶⋮ 京都での体験 長い時間ご覧くださり、ありがとうございました。質 間をお受けする前に、京都で講演の機会をいただきまし たので、京都での体験をお話してみたいと思います。私 は新潟県から京都にある大学に進学しまして、東京へ進 学した友人たちと比べてよかったと思うのは、関西はな んでも問題が m 生 u なことでした。たとえば、大学ではじめて﹁在日﹂や﹁部落﹂の問題を知るわけですが 潟や東京にないというわけではなく、身近かどうかとい うことです︶、﹁問題﹂で終わるのでなく、﹁当事者﹂が 友人にたくさんできたということです。障がい者の問題 も、関西は積極的です。﹁そよ風のように街へ出ょう﹂ なんですてきな名前の障がい者関連の雑誌も大阪から発 刊されました。 私は大学在学中に﹁足尾鉱毒﹂﹁水俣﹂﹁ハンセン病﹂ などの人々と交流し、そこから社会を見る目をつけても らったと思います。卒業後にユ
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ジン・スミス、 リ l ン・スミスの﹁水俣﹂の写真展を京都市美術館で開 催するために、私は結局、﹁会社﹂なるものに就職しま せんでした。このイベントが私の写真や映画にかかわる ァ ィ 。 人生を方向づけたように思います。 大学を卒業して、最初にやったのがチリ紙交換の仕事 でした。廃品回収をしながら写真展のポスターをはり、 前売り券を売りました。京都の学生時代はまったく学生 お う か さんに与えられた特権のようなもので、﹁青春誼歌﹂そ のものです。しかし、卒業し、社会人になってから感じ る京都はまったく違った異相を見せ始めます。 新 チリ紙交換を始めた頃のことです。軽トラック使用料、一 ガソリン代、チリ紙代などが、歩合から引かれました。一 一九七三年の第一次石油ショックの時代にはチリ紙交換− で家を建てたといわれましたが、七0
年代の後半はそれ一 ほどでもありませんでした。新聞、ダンボール、雑誌、− ボロと、キロあたりの値段が分かれています。私はマイ一 クで﹁毎度おなじみチリ紙交換、ご不用になった:・﹂と− 流 し な が ら 、 京 都 の あ ら ゆ る 路 地 を 回 り ま し た 。 一 3 倉庫の前を通ったとき、﹁おい、兄ちゃん、この倉庫 のダンボール、夕、ダでええから皆やるわ﹂と声をかけら れました。﹁いいんですか﹂と私は答え、ダンボールを もらうことにしました。しかし、乱雑に積み上げられた 倉庫いっぱいのダンボールは箱の形のままで畳まれては いなかったのです。それでも、私はうれしくて、箱をつ ひ も ぶし、紐で縛っていきました。かかった時間の割には、 たいしてお金にはなりませんでした。箱をつぶす手が痛 くなったほどです。芦をかけた人は私を新米と見て、て いよく倉庫の片づけをさせたのかもしれません。 また、西陣の路地を流していたときのことです。車の こベる 前にドサっと薄茶色のボール紙の束が投げられました。﹁兄ちゃん、これやるわ﹂と男の人は言いました。私は ﹁ありがとうございます﹂とお礼を言って、引き取りま した。それを料問屋に持っていくと、﹁これは、引き取 れんわ。あんた踊されたんやで﹂﹁えっ、どうして﹂﹁細 長いボール紙に穴が聞いているやろ、これは布を織ると きの型紙や。そのボール紙一枚一枚、タコ糸でつながっ ているやろ。この糸が製紙工場で溶けないんやな。この タコ糸をみんな取ったら引き取るで﹂。仕方なく、タコ 糸を切りました。手間のかかるやっかいな作業でした。 西陣のおじさんは私に型紙の処分をやらせたのです。 いずれも、﹁プロ﹂ならば、上手に断る例です。パカ にされたとわかって、私はとても腹がたちました。そし て、その腹立ちを、自分にこう言って納得させたのです。 ﹁いま、自分は仮の仕事としてチリ紙交換をしているの だ。水俣の運動を続けるための手段や・:。ちり紙交換な ど、大学を出た人聞がやるような仕事ではない!﹂。 このようなことをたくさん経験しました。そのたびに 私はいま言ったように自分に言い聞かせたのです。そし て、私はいつしか気がつきました。自分がその仕事をや っているにもかかわらず、﹁ちり紙交換の仕事と人を差 別しているのは自分だ﹂と。 それからの私は﹁プロ﹂に成るべく、努めました。の んべんだらりと車を流していたのでは、回収量が上がり ません。路地を回りながら、見るのは前方ではなく、バ ックミラーです。古新聞を出そうと車を待っている人は ほとんどいません。車が通り過ぎたあと、あわてて町屋 の格子から手招きするのです。その手がミラ l に 映 っ た 瞬間、ギア
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をパックに入れ、キユキユツと車をパック して、﹁毎度ありがとうございます﹂。町中を走っていて も、捨てられているダンボールなど、﹁金﹂に見えるよ う に な り ま し た 。 結婚して勤めた運送会社は、酒問屋からピ l ルや日本 酒を小売店に運ぶ、重くてきつい仕事でした。荷物を積 み込みながら、問屋の人が言うのです。﹁あそこへ行っ たら、ょう注意しとけよ。荷台から︵酒ピンを︶抜かれ るな﹂。その地区は被差別部落や在日の人々が多い場所 でした。実際、そんなことは一度もありませんでした。 私は頭では﹁そんなことを言つてはいけない﹂と思いつ つ、何も言い返せませんでした。 そのほか﹁漬物訪問販売﹂﹁看板屋﹂などさまざまな仕事をしながら、記録映画の助監督を続けました。大学 を卒業してからも一一年間、京都におりましたが、それ らの経験が今の私をかたち造ったように思います。一言 宣言うなら、﹁自分の固定観念に向き合い、自分の意識 を変える﹂ということではないでしょうか。なかなか人 聞は自分を変えるということはむずかしい。しかし、そ のことを、ドキュメンタリー映画の制作のなかで考える のです。わかっていることを映像化しただけでは、おも しろくもなんともありません。﹁被写体﹂や﹁撮る側﹂ の変化、また、その両方の﹁関係性の変化﹂が映りこむ ことが、ドキュメンタリー映画の真髄であり、おもしろ さ だ と 思 い ま す 。 アフリカへのイメージ アフリカとの出会いは一九九四年、ウガンダのエイズ 孤児の写真取材でした。子どもたちは市場で荷物運びを しながらストリートで生きていました。子どもたちの写 真を撮るまでは、アフリカは遠く、自分とは関係がない 世界でした。その後、過酷な状況にあっても笑顔を失わ ない子どもたちを記憶にとどめてきた十数年でした。そ れがこの映画﹃チヨコラ!﹄にもつながっています。 最初、私のアフリカに対するイメージは実に浅く、 し、 ま思えば偏見に満ちたものでした。まず、頭に浮かんだ のは﹁少年ケニヤ﹂。テレビが普及し始めた昭和三
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年 代に白黒画面で放映された子ども向けの番組です。アフ リカで父親とはぐれた日本人少年の冒険物語で、少年は や り 盾と槍をもち、さまざまな動物たちが登場したように思 います。昨今のテレビの番組の影響も大きかったように アフリカ奥地の部族を訪ね、風習・奇習をク 思 い ま す 。 イズに仕立てる。﹁ではここで問題。これは何を意味す スタジオで回答者が答える。こん る も の で し ょ う か ﹂ 。 な番組をご覧になったことがおありでしょう。 アフリカの社会的政治的な問題としては、紛争 や政治の腐敗、飢餓や貧困の問題などが取り上げられる ことも多いようです。 幸 A F h∼ 、
実際のアフリカは、町や道路には人があふれ、活気に 満ちていました。もちろん高いピルもあります。ナイロ ビなどは大都会でした。一方、ナイロビ郊外の国立公園 では、雄大な自然と動物が見られ、そこから空を見上げ こベる 5るとジャンボジェットが飛来しました。 農村部では、子どもから大人まで、水を運ぶ姿をしば しば日にします。土と木の枝を練り込んだ家。子どもの 死亡率は高く、ビニールを丸めて作ったサッカーボ
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ル け を蹴る子どもたちの写真に﹁子どもはみんな成長して大 人になるーーというあたりまえに思えることがここでは 難しい。命は軽く、子どもは死ぬものである﹂というキ ヤプシヨンをつけました。 アフリカではマラリアやエイズでたくさんの人々が亡 くなります。そういうマイナス面はたくさんあります。 しかし、人々からは生きるエネルギーを強く感じ、実際、 アフリカにいると元気になり、生きているという充足感 わ が 湧 い て き ま す 。 そのウガンダに同行したのが、松下照美さんです。彼 女はそれ以来アフリカに移住して、子どもたちのケアを す るNGO
を立ち上げ活動してきました。その松下さん から﹁アフリカの子どもたちの今を映像にしてほしい﹂ じ ん という話が今回の映画のきっかけです。私の腎不全は進 行しており、透析の直前でした。﹁行くなら早い方がい い﹂と排合えたのを覚えています。その半年後、多くの人 たちのカンパをもとにアフリカに旅立ちました。人とい一 うのは﹁今しかない﹂と思ったときには力が出るもので− すね。元気だったら、﹁そのうちに﹂という一言で終わ一 っていたかもしれません o 万て様態が悪化したときケ一 ニアで透析ができるように、動脈と静脈をバイパスする一 シャント手術を受けてから出発しました。帰国後、透析一 となり、一年半の編集作業を経て、昨年、完成しました。一 ︵以上は、京都で講演するなら、お話したいと思って一 いたことでした。実際は会場の皆さんからのご質問にお一 答えするのが精一杯で、落ちてしまいました。講演録の一 掲載にあたり、付け加えますことをお許しください︶,質疑応答
最後にずっと名前が出るのは、撮影した子どもた ち で す か 。 質 問 質 小 間 林 はい、全部そうです。 撮影にあたって一番困難を感じたのは何だったん ですか。撮影するなら金をとるという場面が出てきます よ ね 。 何 回 も 。 ﹁ お 金 を 払 え ﹂ と 。小 林 撮 影 隊 に ? に翻訳されてはじめてわかりました。現場ではそういう 雰囲気は感じましたが、そういう時には都合よく﹁全く わからない﹂というふうにします︵笑︶ 0 それは言葉がわからないので日本語 質問ああいう形で撮影にスッと入っていっても、トラ ブルとかは起こりませんでしたか。 小林いや、街ではカメラはなかなか回せません。カメ ラを持ちだせば、そこに二、二一
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人の輪がすぐできます 自分で稼いで食べる。スラムから毎日やってくるチェ ゲ(12)と、くず鉄回収業者のアレックス。彼は子ど もたちの良い兄貴分だ。鉄・プラスチックは1キロ8 シリングで買い取られる。チャイ(ミルクティー)と マンダージ(揚げパン)の朝食セットで10シリング。 稼げる年齢になると、街へ出てくる。 るようになってから、入って行けるようになりましたね。一 から。撮影どころではありません。﹁チョコラ﹂を撮っ あ ふ ているわけですし、正義感の溢れる人もいますから。 ﹁ な ん だ 、 お前ら。チョコラを撮ってどうするんだ﹂と いう感じですよね。そういうときには現地で協力してく れた通訳に事情を説明してもらいました。街中で撮影で きるようになるために三、四カ月かかったということじ ゃないでしょうか。︵撮影期間は五カ月間です︶。そのた めに、たとえばパスターミナルの食堂には何回も入りま した。パスの運転手、食堂のオーナーと顔見知りになっ て で す ね 。 子どもたちが鉄やプラスチックを拾う自動車修理の工 場地区がありますが、そこではアントニ l ︵ 比 ︶ と チ エ ゲ ︵ ロ ︶ の二人が﹁ついてきてもいいよ﹂と言ってくれ ﹁ ハ パ リ ガi
一 こ 、 あ い さ つ すけど、挨拶して。握手ですよ、選挙運動みたいですけ スワヒリ語でこんにちわという意味で ど 笑。
﹁チヨコラ!﹂という声も飛んできます。そういうと きには、子どもは声の方を見ないで、通りすぎました。 チェゲの夢はサッカー選手。英語のタブロイド版の新 こベる 7夢はサッカー選手。汗を流し、支 給されるパンを食べる。NGOfモ ヨ・チルドレン・センター」と子 どもたちがサッカーを通して近づ いていく。 聞を拾って、サッカー選手の写真を食い入るように見て いたのを覚えています。アントニ l の仕事は職人的でし ︿ ぜ たね。小さな釘も見落とさないし、手先の速いこと。私 も拾ってみましたが、腰は痛いし、ダメでしたね。 質問撮影隊の宿泊先は。 小林宿泊は松下さんと同じ地区で、支援してくれてい る方の敷地内にある使用人部屋を借りました。この地区 にモヨの孤児院もありましたし。日本人であるというこ と、機材のことを考えて安全を確保しました。松下さん との意思疎通をよくして、車も借りなければなりません し。街中の安いホテルはうまく利用しました。子どもた ちにわからないように、街はずれのホテルをとりまして、 朝、出掛けていく。夜討ち、朝駅けの世界ですね。’ 質問﹁ゴミと希望﹂というタイトルがありましたが、一 U と み 一 監督として子どもたちの瞳や表情、振る舞いなどを通. して、どんな希望を観る人に伝えたいのでしょうか。一 小林そうですね。大変むずかしいご質問だと患います。一 ぷ ベ つ 一 チヨコラと呼ばれ侮蔑されている子どもたちですね。彼一 らはおそらくわれわれが体験する以上の苦しさや悲しみ− を抱いていると思います。子どもって、全部知っていま一 すから。自分の子ども時代のことを考えてもそうです。一 そ の 子 ど も た ち が 、 ﹁ 俺 た ち は チ ヨ コ ラ だ ぜ ! − それで も生きているんだ﹂といって歌って踊るシ i ンが出てき ますが、そういう侮蔑の視娘を跳ね返していく。﹁チヨ コラ﹂と呼ばれることの、あるいはそう呼ぶ人間の哀し みも、ある種、含んでですね。彼らが﹁生命体の原石の かがやき﹂のようなものを具現化しで生きているという こ と が 、 僕 は 、 も し 吾 一 う と 思 い ま す 。 途中で川が出てきて、子どもが出てきたんですけ ど、これは出てきた子どもに誰かが何かを託しているん ですか。映画の演出ということなんですか。 質 問
林 さあ、どうでしょう。 いい質問なんですけど。も うちょっと家に帰ってから考えませんか︵笑︶。あの子 はチヨンパという一三歳の男の子で、川の部分でしか出 ’ イ E1 アチヤイ てこない。彼は﹁
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て B 叩 印 各 自 ︵ お 茶 代 を お く れ ︶ ﹂ マタトゥという乗り合い自動車があるのです と 言 っ て 、 が、その乗り場でお金をもらうために歩いていた子だっ たんですね。言い方がとてもチャーミングでした。五人 げんか きょうだいで、夫婦喧嘩がたえなかったようです。お母 さんが亡くなるんですね。 さんが他の女の人と結婚してどこかに行っちゃっている。 弟妹と一緒におばあさんに預けられるんですね。おばあ エイズかもしれません。お父 さんはチヨンパが外から帰ってくるたびに、﹁お前はも いない方がいいんだ。どこかへ行ってしまえ﹂とい つも言うもんですから自分で意を決して、出てきたんで すね。知り合ったころはまだ街へ出てきて聞も、なかった 、 ﹁ ノ 、 で す 。 チョンバに、﹁どこでからだを洗っているの?﹂と聞 くと﹁街外れの川で洗っている﹂というものですから、 撮影を頼んだらO
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してくれまして、それがあの映画の シーンです。からだを洗うというから、ちゃんと洗うの 寝 ち ゃ っ た 。 枝がゆれると太陽がまばたきました。一 9 かと思ったらザブンと入って、冷たいのでプルブルっと 震えて上がって。洗濯もしたんですが、シャツが一枚し かないですから木漏れ日のところにそれを並べて、乾く まで横になって空を見ていました。そのうちチヨンパは 私もチョンパの見た空が気になって、草原 に 横 に な り ま し た 。 その高い青空を映画にいれであります。 私 も ぐ っ す り 唇 一 寝 を し ま し た ね 。 はだかでひとり水辺でたたずむ少年チヨンパは、わが 身ひとつだけであることの象徴です。その静寂な姿に、 この映画に登場するたくさんの子どもたちの思いを託し ました。そのシl
ンは何回か映画に出てきますが、その アフリカの楽器リンパ た び に 、 ︵ 親 指 ピ ア ノ ︶ の音色が 響 き ま す 。 質 問 いらっしゃる間に女の子のストリート・チルドレ ン と 会 い ま し た か 。 小林女の子はほとんどいませんね。親がなくなって親 戚に預けられたら子守をしたり、家事の手伝いをしたり こべる していると聞いています。 質 問 ま ん 、 え ん チルドレンのシンナーの蔓延度は高いんですか。「日本に戻るなら、誰かl人連れてけよ。いいか、じゃあなjテイカを去 る前の晩、マウラは私たちにこう言った。マウラ(14)は、ティカの街か ら西へ約100km、ナイパシャ出身。家は貧しい小作農家。責任感の強い彼は、 子どもたちのリーダー格。シンナーや麻薬には一切手を出さなかった。撮 影から半年後の2007年6月9日、パスターミナルで転倒し、死亡。 常習性もありますし。 酒で酔ったような状態になります。一
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林 の り ム糊というもので、接着剤です。プラスチックの酒ピン の容器に入れて吸うわけですね。九割がたの子どもは吸 ってましたね。もちろん身体にいいわけがありません。 シンナーというのは正確に言いますといわゆるゴ 子どもたちからシンナーを離すの がとてもむずかしい。 寒 さ や 空 腹 感 、 嫌なことを忘れてしまおうということで す ね 。 私もシンナー会二度吸ってみたんですけど、頭
が 痛 く て 、 あれが気持ちよくなるには相当訓練がいるんじ ゃないかと思います。 質問ストリートチルドレンの社会的な背景は。経済的 に今、言われているような格差、グロ l パリゼ l シ ョ ン とかと関連があるでしょうか。 小林貧困とエイズの蔓延など多様な原因が考えられま す。さっきチョンパのおばあさんの話をしましたけれど も、実はアフリカの人々は相互扶助の精神がとても強い と言われています。身内、きょうだいをすごく大事にし ます。ところが働き盛りのお父さん、お母さんが亡くな って、おじいさん、おばあさんのところに子どもが何人 も 来 る と 、 やっていけないわけですね。小さい子どもの時はしょうがないけど、 一
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歳くらいになれば追い出す とか。親戚にはやっぱり、居にくいですから、町へ出て いくということが起こります。 世界的にはグロ l パ リ ゼ l ションの波が経済格差を広 げ、ケニア国内の格差も広がっています。私がウガンダ に行った一五年まえはインターネットもありませんし、 携帯電話もそんなに普及していませんでした。いまは世 界の情報が同時期に流れます。自分たちは食べ物にも困 る生活ぶり。食べ物がないわけではなく、胃マえないので ぜ い た く す。それと食べ物を捨てている先進国の賛沢な暮らしぶ り。その違いをみて、どう思うでしょうね。 質問お祈りがありましたが、キリスト教ですか。 小林キリスト教です。イギリスが統治していた関係で。 ただしアラブも近いですからイスラムもあります。伝統 的な宗教もありますね。 ル l シーさんというHIV
に感染をされた二六歳のお 母さん、それに五歳のマイケルと一O
歳のマーガレット の家族が出てきます。離婚してスラムに引っ越したばか りだったんですね。その三一人の食事の場面を撮影させて マーガレットがお祈りしたときに、﹁お もらいました。 母さんに仕事が見つかりますように。コパ の病気がよくなりますように。ケニアの国をお守りくだ 、 、 、 、 ︵ 私 の こ と ︶ さい﹂とお祈りしてくれています。撮影している時はわ からなかったんです。編集に入って日本語の字幕がつい たときに、はじめでわかりました。非常にショックでし た。マーガレットは純粋に私のことを祈ってくれたわけ です。私はそんなふうに子どもたちのことを祈っただろ うか・:。﹁なんとか映画にしなきゃ﹂という雑念ばかり で す よ ね 。 また、他の子どもたちも私のことをとても心配してく れていました。それが翻訳されるとわかる。私はね、彼 らをどうしたらいいのかという思いで、どちらかという と上からの目線で撮影に入ったと思、つんですね。でも結 果的には、心配されていたのは私の方でした。それをよ くよく考えました。それがこの映画の核になっていった のではないかと思います。 ﹁日本では今、年間三万人もが自殺で死んでいて、子 どもも自殺することが多いんだよ﹂と、子どもたちに話 したこともあります。彼らはとても信じられないという のです、豊かな日本で。大きな枠組みで言えば、この日 こペる 11本や世界の人たちが、 アフリカを常に﹁援助﹂する側で あり、﹁心配﹂する側であるということは、実は、違う んじゃないかと。逆に、ストリートの子どもたちが、毎 日自殺する大人や子どもが絶えない日本のことを心配し ているのではないか。僕はそういうふうに思うようにな りました。彼らは一日一日を生きていくことがサパイパ ルですから大変なんだけど、﹁生きること﹂そのものが おもしろいんだと思います。今日は大人をどうだまして やろうかということだって、ありうるわけですよね。 グ ロ j パリゼ
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ションの問題とか、あるいはストリー トになぜ子どもが出てくるのか、それを監督だったら聞 かれるだろうなと思ってね、 もうそういう答え探しはやめました。 いろいろ考えましたけど、 ただただ、子どもたちの心情に寄り添って、日常を丁 寧に撮影しました。そこから浮かび上がってきたのは ﹁思春期﹂の川を泳ぐ子どもたちの哀しい心情です。﹁思 春期﹂にアフリカも日本もありませんから。そんなふう に身近な存在として映画の中の子どもたちを感じとって もらいたいと思います。 どうもありがとうございました。 ︵ 二 O O 九 年 一 一 一 月 二 八 日 、 京 都 市 中 京 区 こ ど も み ら い 館 ︶ * 小 林 茂 編 著 ﹃ チョコラ!アフリカの路上に生きる子 ど も た ち ﹂ ︵ − 岩 波 ブ ッ ク レ ッ トm o
六 六 七 円 + 税 、 五 月 八 日 発 行 ︶ 。 撮 影 の 現 場 と 子 ど も た ち を 活 写 。 ﹃ チ ヨ コ ラ ! ﹄ ホ lムペlジ Z G H \ \ 4 2 ヨ ︿ ロ F o r o 円山﹂日︶\ * 映 画 ﹃ チ ョ コ ラ ! ﹂ 公 開 予 定 六 月 二 七 日 j 大 阪 第 七 婆 術 劇 場 、 叶 巳 B I S O N − N 0 3 七 月 四 日 i名古屋シネマテl ク 寸 乙 司 O 叩M
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︵ と も に 初 日 、 小 林 茂 ・ 松 下 照 美 の 舞 台 挨 拶 あ り ︶ 京 都 み な み 会 館 ほ か 全 国 で 順 次 公 開 。 * 映 凶 へ の お 問 い 合 わ せ 束 風 、 同 冊 ]u
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女 N 共 P 同O 参 法 商 人 研 四 究 日 所 市 ) 男躍動する女性たち
三重県男女共同参画センターが﹃三重県女性史﹄の発 行に着手したのは六年前のことだ。私も編集・調査研 究・執筆などの役割を引き受けた。 立派な﹃三重県史﹄があるではないかと、その必要性 を問う声もあるが、﹁三重県史﹄には女性の記述がほと んど見られない。三重県下の市町村史を見ても同じこと、 まさに地方史も男性中心の歴史なのだ。女性は天の半分 の下で生きていたというのに。そこで女性に視点を当て、 明治、大正、昭和の三重を見つめてみようというのである。 調査手段のひとつとして中日新聞や伊勢新聞の三重版 を分担して読むことになり、私には昭和二十九年からコ一 十一年の三年間が割り当てられた。ところが新聞を繰る 手がなかなか先へ進まない。女性史づくりの材料探しを 忘れ、紙面の隅から隅まで読んでしまう。何しろ私の 中・高校生時代の身近な社会がそこにあるのだから。 とりわけ広告が面白い。四日市市内にあった洋画専門 の 封 切 り 館 ﹁ 一 二 重 劇 場 ﹂ の 広 告 に ジ ェ l ムス・ディ l ン一 主演の﹃エデンの東﹄を見つけ心が騒いだ。当時四日市一 には映画館が十六館もあったことが分かる。﹁タ l ザン一 ふ ︿ し ゅ う の復齢﹄も観た。﹃戦争と平和﹄も﹁ロミオとジユリエ一 ット﹄も﹃鞍馬天狗﹄も。薄汚い映画館や満員の観客の一 中の息苦しきまでもが頭の中をかけ巡る。思春期にいろ一 んな質の楽しい映画と出会ったことが私にとって、理屈一 抜 き に 、 と て も 貴 重 な 体 験 に 思 わ れ た 。 − 今の﹁ジャスコ﹂の前身﹁岡田屋﹂の商業広告が自に− 留まる。何の変哲も無い広告。岡田屋は私の実家の前に− あった。そこは当時のメインストリート。浮んできたの一 は岡田屋の店員さんが万引きをした中年の女性を店の前一 で捕えたシi
ン。中学生の私にはショッキングな出来事一 だったのだ。強者である店員さん、万引きした女性は弱− 者の姿として私の心に残っていた。その当時、岡田屋の一 並びにあった化粧品屋のおじさんの顔や、八百屋のおば− さんの髪型や声が遠い記憶から引き出されてくる。あの E 頃の生き生きとした商店街の空気は、もう今はない。一 昭和三十年三月の新聞。県立四日市高校の合格者が紙一 面いっぱいに公表されている。その中に自分の旧姓を見一 つ け た 瞬 間 、 高 校 生 に 一 民 っ た よ う に 気 が 若 や ぐ の だ っ た 。 一 中学校時代の同級生三人が家出し保護された記事もあ− こペる 13る 。 全体的に善行の記事が目立つ。落とし物を駐在所に届 けた話とか、里親になり何人もの子どもを育てている話 とか、教師が両親を亡くした子どもを家に引きとった話 とか、いい気分で読んでしまう。 中卒者の就職は上々という見出し。同じその季節、私 は何も考えずに進学を決めていた。 ご多分に漏れず三年間の紙面は男性社会を反映してい た。ずらりと並んだ県会議員や市町村会議員の当選者の 顔写真は男性ばかり。女性も参政権を獲得しているのだ が。たまに﹁あっ!女性の顔写真がある﹂と思えば、 ミス四日市とかミス津とかなのである。 それでも、じっくり腰をすえて読んでいくと女性たち の 動 く 姿 が 見 え て く る 。 まず日に付いたのは活発な婦人会活動。家庭巡回健康 診断や、さま、ざまな学習会の開催など、新生活運動とい う明確な目標があってこその活動であり記事だろう。嫁 し ゅ う と め と 姑 が 同 席 す る グ 嫁 と 姑 学 習 会 μ ってどんなだった ろう。簡単にまとめられた記事の行聞を想像すると顔が ほ こ ろ ん だ 。 母子家庭の子どもたちが就職する時、保証人になるた め に ν 母子後援会。が結成されたニュースを読み、 そ の 頃 の 社 会 の や さ し さ が 伝 わ っ て き た 。 一 熊野の漁村の女性たちが﹁女性にもぶり敷︵水揚げ分一 配︶のグ株 μ を!﹂と結集した記事には思わず拍手を送一 る。結果、彼女たちはぶり敷を得ることができたのだろ一 うか知りたくなった。 昭 和 三 十 年 六 月 一 一 一 日 の 新 聞 。 四 日 市 市 の 出 張 所 長 に 初 − めて婦人がなったと書く五 j 六行ほどの小さな記事。昨一 年四月に三重県庁で初の女性局長が誕生した時の記事は一 ハガキ大の写真入りのものだった。その違い、その重み一 を測ると同時にまだか初の女性がが続いている現実を憂一 え て し ま う 。 一 ひ 一 保育所もか狭き門 μ との見出しに惹かれ読んでみる。− 四日市では入所希望者が定員の五倍もあったとか。それ一 は 働 き た い と 願 う 女 性 の 数 だ と 私 は 受 け 取 っ た 。 一 ﹁欲しい自分の自由、女中から転向組増加﹂の記事の一 下欄に﹁女中さん急募一名﹂の広告。﹁海女の加配米復一 活を||空腹で、もぐれぬと陳情﹂﹁普及した産児調節、一 四 日 市 の 出 生 率 減 少 ﹂ な ど な ど 。 一 三年間の新聞を読み終えた時、その時代をしなやかに、一 大らかにそして着実に生きている女性たちに会ったよう司 な 気 が し た 。 ﹃ 三 重 県 女 性 史 ﹄ は 今 秋 刊 行 さ れ る 。
いのちを生きる⑪
﹃
チ
ョ
コ
ラ
!
﹄
を観る
長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶ 一 一 一 月 二 八 日 こぺる刊行会の研究会兼総会で小林茂監督作品﹃チヨ コラ!﹄を観た。ケニアのストリートでたくましく生き る子どもたちのドキュメンタリー映画。小林さんは ぺる﹄に素晴らしい写真と文章を掲載されている方だ。 母は﹁人権問題﹂に拒否反応を示すこともあるのだが、 小林さんのこのベ l ジだけはいつも食い入るように読む。 きっと小林さんが写真の中の人々だけでなく、母が生き つ F ら てきた辛さも包み込むように書いているからにちがいな しミ。
今回の映画は期待を上回るものがあり、ひと月たって も映画の中のわきたつような感触が心に残っている。た ~司、 , <._. と え ば 、 ジ ュ リ ア ス 君 ︵ で し た つ け ? 一 ごめんなさい︶が久々に母の元に帰るシl
ン。問題を抱一 え仏頂面で帰った彼を、母は複雑な顔で迎える。そして一 彼が久しぶりに体を洗おうと除み置きの水をたらいにぶ一 す き 一 ちまけると、母は﹁洗濯ができないじゃないか!﹂と凄一 まじい声で怒鳴るのだ。母の声はそのまま私につき刺さ一 り、小さかったころの記憶、貧しくて、大人の喧嘩が絶一 よ み が え えなかった私の家の記憶を瞬時に匙らせてしまう。一 ル l シ l の家族の夕食の場面も忘れられない。HIV
一 に感染し離婚した彼女は二人の子どもを帰山命に育ててい一 る。撮影のため母が夜の仕事に行かないので、娘は喜び一 う れ 一 嬉しそうな声で食前の祈りをする。部屋はほの暗く、灯− りが食卓をわずかに照らす。町の騒音が遠く響いている。一 私も食事に参ノ加しているような錯覚に捕らわれる。なぜ一 小林さんの映像はこんなにひとを呼び寄せるのだろう。一 カメラが子どもたちのフトコロに入り込んでいること一 間違えていたら にも驚く。ふ?っ大人は子どもを引き寄せようとする。 学校はその最たるものだ。私もそうやってきた。だから 小林さんのスタンスにひたすら感動する。 小林さんの、自然だけれど相当な覚悟とガッツが要る こペる 15生 き 方 と ﹃ チ ョ コ ラ ! ﹂ の映像は、私の友だちになって くれそうだ。小林さんの他の作品をぜひ拝見したいと思 っ た 。 四月一六日 大阪高等裁判所で﹁休憩時間裁判﹂の判決が出された。 五年前、私を含めた小中学校の教員五人は、与えられな かった休憩時間の損害賠償と未払賃金請求を訴えた裁判 を本人訴訟で起こじた。結果は全面敗訴。 勝訴だったら、日本中の自治体は日本の教員ほほ全員 ば く だ い に莫大な未払賃金を支払わなければならないから、勝訴 はありえないとは思っていたが、七
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頁におよぶあっけ らかんとした判決書を読むにつれ、﹁これは終わりでは ない。始まりだ﹂という気持ちが強くなる。 数日前、テレビで不況のために知的﹁障害﹂者作業所 に仕事が入らなくなったニュースが流れた。作業所の女 性が﹁上の人も仕事がないのだから、私たちも我慢しな ければ﹂と切々と語っておられた。 休憩時間裁判のことを異業種の方々に聞いてもらうと、 ﹁もっとつらい条件で働いている人もいるのだから我慢 せねば﹂という返事が圧倒的に多いのだ。これでは日本 中のひとがお互いに我慢し合っていることになる。日本 的な良い気質かもしれないが、 一体、誰のために、どん な我慢をしていると言うのだろう。﹁我慢﹂とはこの場 合、相手に自分のことを理解してもらう手間を省いてい るということではないか。この五年間、﹁休憩時間は働 く人の健康や生命を守るためにある﹂という自明の理を ひとに理解してもらうのが本当に難しかった。それなら このひどい判決を、我慢を破る小さな契機にしたいと思 λ ノ 。 今年九月に職場復帰したとき、﹁早く自分の仕事をや り終えてしまいたいから、休憩時間︵小学校ではたいて い放課後四五分︶に職員会議を繰りあげよう﹂と同僚が もし提案したら、﹁休憩時聞がないと私の体が持ちませ ん﹂としっかり言うつもりだ。迷惑顔をされてもいい。 見えないところで誰かが助かるかもしれないのだから。 同時に、主義をひとに押しつけるのではなく、小林監督 みたいにしなやかにひとのふところに入っていけるよう な、そんな器に少しでもなりたいと願う。 私ではちょっとガツツ不足かな。直苛レ作日 u 悶 W μ J q 引 一 − = ロ マ ﹁ 三 歳 の 童 子 と い え ど も 導 師 た り ﹂ 0 先ごろ亡くなった囲碁の藤沢秀行さん を 悼 む 文 章 ︵ 秋 山 賢 司 ﹁ ﹁ 強 烈 な 努 力 ﹂ 碁 界 に 遺 言 ﹂ 、 朝 日 新 聞 名 古 屋 本 社 版 、