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話芸と文学、言文一致運動の嚆矢について 渡邊洋一*

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近代日本文学の夜明け

話芸と文学、言文一致運動の嚆矢について 渡邊洋一*

DawnofModernJapaneseLiterature

—AbouttheStorytelling,Literature,andtheBeginningof the“GenbunItchi”Movement—

WATANABEYouichi

       

1.はじめに

“日本の話芸”,その伝統は殊の外古いことはよく知られている.このこと は“話芸”に限らず日本の伝統芸能全てに言えることではあるが,宗教,特に 仏教の影響を受けて一般民衆の中に根付いた風俗・習慣の中で培われてきた ものと言えよう.

さて今回は,その伝統芸能の一つである“日本の話芸”の中でも江戸後期以 降に寄席芸として確立し,“日本の話芸”の中心的役割を果たしてきた“落語(主 に江戸落語)”に焦点を充てて,その成立過程と展開,寄席芸としての確立と 職業人(プロ)としての噺はなしか家の成立,そして題材(ネタ)となった古典を含 む文芸作品との関係等について歴史的背景を考慮しながら紹介する.また,

幕末期の江戸に現われて幕末期から明治前半期に活躍し“近代落語の祖(落語 の神様)”と称された三遊亭圓朝の芸と人、そして当時の世情を考慮しながら 当時成立期にあった日本近代文学への影響について、さらには圓朝以降の落 語界と確立期の日本文壇における関係について当時の世相と文芸作品を参考

 東北文化学園大学 総合政策学部 准教授

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に,明治20年代初頭以降顕著になった“言文一致運動”から口語体文学の成立 についても併せて考えて見よう.

2.落語の歴史

⑴ 落語の源      落語前史   

よく噺家が噺のまくら(導入部)で落語のルーツを語ることがあって,「よ く芝居(この場合は歌舞伎を指す)と落語を比較して落語が格下のようにい われるが,芝居は安土桃山時代に“出雲の阿國”という女が京都加茂川河畔の 四条河原に小屋掛でやったのが始まりで,いくら“(市川)団十郎”がいいと か“(尾上)菊五郎”が千両役者だといっても出自(そのルーツ)は大てえしたこ とはねえ.それに引き換え落語の方はてえと大てえへん変なもんで,その始まりは平 安時代(後期)まで遡る.当時,京都の宇治川の畔に別荘を構えていた“宇治 大納言”という御方が御家来衆を集めて“落とし噺”をしたのが始まりだ.その 証拠に『宇治拾遺物語』という落語の本がある.だから芝居は“小屋”で実演 るが,落語は“高座”で実演る.それだけ落語の方が格が上なんだ.」等と尤ら しく言うことがあるが,実際にはどうだったのであろうか.

確かに現在の落語の中には先の『宇治拾遺物語』をはじめとして『今昔物 語』や『日本霊異記』といった平安~鎌倉初期に成立したとされる「説話文学」

にそのネタを有するものが数多くあることは確かである.しかし,それが即“落 語のルーツ”か⁉というと事は飛躍しすぎと言えよう(勿論、全くでたらめだ とは言い難い部分もあるが).ここで問題となるのは,特に平安後期の永承6 年(1051)以降(仏教で云う“末法の世”)目立つようになる浄土教の布教僧(遊 行僧)の存在である.彼らは諸国行脚の旅の中で,一般民衆への布教を目的 として各地で説教をして廻ることになるのだが,教養に乏しくその日暮らし で“食うか食われるかの毎日”を過ごしている庶民にとって,高尚な仏教の理 論や経文の内容をそのまま話してもスキルがないため何を言っているのか分 からないのが道理で,そのままでは誰も聞く者がないことは目に見えている.

そこでそうした人々にも“仏教の教義”を理解してもらうため,話し手である 僧侶の方でも聞いてもらえるような工夫が必要となった.そうした中で生ま れたのが比喩的な説話等を説教の中に導入しながら話していくという方法で

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あって,そうした話が教養の乏しい一般庶民にも分かるような“仏教の教え”

として布教へと繋がっていった.これが落語に限らず“日本の話芸”の基となっ たと言うことが出来よう.現在でも浄土真宗の一部(名古屋周辺の寺院)に 簡単なジェスチャーを交えた演出をした上で言葉に節(抑揚)を付けて聴衆 に語り掛けるように訴える“節ふしだん談説せっきょう教”1)と言われているものが残っているが,

そうしたものの中に当時の布教僧が一般民衆に行ったものと思われる説教の 片鱗を見ることが出来る.このような比喩説話が文字として残されたのが前 述の『宇治拾遺物語』や『今昔物語』等の説話文学であり,従ってここに“落 語のルーツ”を見出すことも可能と言えよう.とはいえ,それが“即,落語へ”

とは言い難く,落語を含めた話芸全般(浄瑠璃・講釈・浪花節等を含)及び講演・

演説・講義等の人前で“語る”“話す”といった行為全ての源の一つと考えるのが 妥当で,前述の如く“日本の話芸”は仏教の影響を受けつつ民衆の中に根付き 培われたものといえよう.

⑵ 落語の成立      落語とは   

“近代落語の祖”とされる三遊亭圓朝は「落語及一席物」2)の中で、「太閤殿 下の御前にて、安あんらくあんさくでん楽庵策傳といふ人が、小さい桑の見けんだい臺の上に、宇治拾遺物 語のやうなものを載せて、お話を仕たといふと云々…(中略)…落語のはじ めは安楽庵策傳と申す者云々」と記しているが,一般的にも“落語の祖”とい うと必ずその名が挙がるのがこの“安楽庵策伝”であり,またそれ以外に名が 挙がる人物として“曾しんもん3)が有名である.

策伝は本来浄土宗の僧侶(説教師)で,自らが落とし噺を高座で実演する と共にその小咄を『醒せいすいしょう睡笑』という書物にまとめて後世に残した人物として

1) 日本の仏教布教手段を指す「説教」の一つで,浄土真宗に固有の名称.一般には仏教全体の

「節ふしつき付説教」を表す言葉としても用いられる.仏教に馴染みのない聴衆に伝わりやすくするために,

話す文句に抑揚が付き(多くは七五調である),人々の情念に訴えかけるように工夫されたもので,

楽器なしの素語りである.賽銭を投げ銭方式でもらうため,実力差も出やすい.その芸能性により,

浪曲・講談・落語等それぞれの話芸の母体となったとされる.

2) 春陽堂版『圓朝全集』(昭和2年刊行)巻十三所在

3) 新左衛門の経歴等を記した『曾呂利狂歌咄』は前述の策伝の作であるとも言われており,また同 書の中に収録されている咄の中には後述の『醒睡笑』と重複する咄が三十余あることから,実は曾 呂利新左衛門は安楽庵策伝本人であるとの説もある.

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有名である.また,新左衛門の方はというと“刀の鞘師”という職人でありな がら,安土桃山時代の天下人豊臣秀吉の側にあって秀吉の御機嫌を伺った

“御おとぎしゅう伽衆”4)の一人として知られている人物である.

さて,落語の成立を考える場合「落語とはどういうものであるか」という

“落語の定義”を決めて始めてその成立の問題を論議することが出来る.従っ て,単に“笑いを含む可笑しな話”をする人やそれを集めた本があるからといっ て,即それが“落語の発祥”であるとはいえまい.つまり,笑いは人間に与え られた固有の本能であって,同時に他の動物との厳然たる違いであることは 周知の事実である.しかも,人類の歴史が始まって以来ずっと我々の祖先は 可笑しい時は笑っていたろうし,可笑しなことを言う人や人を笑わす材料を 見出してきたことは想像に難くない.この様に考えた場合,確かに策伝にし ても新左衛門にしても笑い噺をして人を笑わせ,その内容を書き残したとい う点では確かに落語的ではある.しかし,それをして後世いう所の“落語(噺家)

の租”といいえるだろうか.策伝には説教師としての,新左衛門には御伽衆と しての顔があり5),また策伝は僧侶として,新左衛門は鞘師としての生業を有 していること等,寄席演芸の中の“落語”とは少々趣を異にしている事は認め ざるを得ない.

では,寄席芸としての“落語”とはどの様なものを指すのであろうか.演芸 評論家の小山観翁氏はその著『落語鑑賞の基礎知識』の中で“落語の定義”を 次のように規定している.

ⅰ.民生が安定したこと ――江戸後期以降の庶民の勃興

ⅱ.庶民が情報と教養の必要に目覚めたこと

ⅲ.その情報と教養が交際社会で実際必要になったこと

ⅳ.夜間照明費(灯火代)の支出よりも、寄席の木戸銭の方が効率がよい こと

ⅴ.文盲者にも教養が必要になったこと

ⅵ.談林俳諧の盛行に伴いこれを利用した懸賞ゲームが流行したこと

4) 室町時代後期から江戸時代初期にかけて,将軍や大名の側近に侍して相手をする職名.雑談に応 じたり,自己の経験談、書物の講釈などをした人.御迦衆とも書き,御おはなし咄 衆しゅう・相そうばん伴 衆しゅうなどの別称 もある.江戸時代になると談だんぱんしゅう・安あんざい西 衆しゅうとも呼ばれた.現在の為政者のブレーンに充たる.

5) 策伝にも前述の秀吉の他徳川家康・秀忠の御伽衆であった形跡がある.

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ⅶ.生活の安定と共に笑いが必要になったこと

ⅷ.武家政治の弛緩によって町人階級相互間に「家柄」・「身分」等の区別 が生じ,この相互間に対立意識が生じたこと

ⅸ.「芸」を鑑賞する気運が生じたこと

ⅹ.洒落文学が流行したこと

 等の歴史的背景があって始めて成立するものであって,言い換えれば,

聞き手となる聴衆を笑わせるための話術を以って客となる聴衆との対話的 状態で演じられる「一人芝居」を指すのであり,話し手となる演者(噺家)

はプロとしてのまとまりをもって始めて“落語”としての芸が成立する.

従って,策伝や新左衛門については“落語”が成立する歴史的背景を持たない 存在であることから“落語(噺家)の祖”としては認め難いものとなる.そこ で実質的な“落語(噺家)の祖”ということになると,それより多少時代が下っ た江戸前期(17世紀後半)の延宝4・5年(1676・7)頃より始まる京都の露つゆ の五ろうの“辻話”,同じく延宝末年(1681)頃より始まる江戸の鹿もんの“座敷噺”,やや遅れて天和年中(1681 ~ 84)頃より始まるとされる大 坂の米よねざわひこはちの“辻話”あたりを指すのが妥当であろう(“落語の三祖”).

ところで,“落語”という言葉が何時頃からあったろうか.確かに“落語”とい う言葉自体は江戸時代から見え,前述の幕末・明治期に活躍した三遊亭圓朝 の記した書物にも著されていることは知られているが,当時の読みは通常“ら くご”とは読まず“おとしばなし”と読んで,“オチ(サゲ)”の付いたある程度 まとまった“滑稽噺”や“人情噺”を指したのであり,文献としての初見は貞享4 年(1687)刊行の井原西鶴の浮世草子『武道傳來記』とされているが(暉峻 康隆説),実態はもっと早くから使われていたものと考えられる.しかし,こ れを“らくご”と呼ぶようになったのは大正14年3月1日試験放送開始のラジ オ放送が始まって以降で,従ってそれまでは演者も“噺家”と称されていたが,

それ以降“落語家”という言葉が生まれたといっても過言ではない6)

6) 試験放送開始二日目の3月2日社団法人東京放送局(NHKの前身)が日本の放送史上初の演芸放 送として当時東京芝浦の東京高等工芸学校図書室を改造して設置されていた仮送信所から五代目柳 亭左楽の「女のりんき」(「悋気の火の玉」の改題か?)を放送するが,その折に“噺家”ではなく「落 語を演じる人」の意から“落語家”と紹介,それが定着したとされる.なお,当時は逓信省からその 演題が「公序良俗に反する表現がある」とクレームがついたと言われる.

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なお,旧来の“おとしばなし”が寄席等で行われるようになった時期が“落語 の成立期”ということが出来ようが,寄席等の営業下において生業としての噺 家が活躍出来る様になるのは江戸中期以降の社会・経済の発達による庶民の 生活水準の向上を待つことになる.

⑶ 職業人としての噺家の出現

17世紀後半,京都・大坂・江戸の三都で図らずも“落語の祖”と呼ばれるべ き三人の噺家が出現したことは前述の通りであるが,それが即現在の落語に 繋がったかというと必ずしもそうとは言えない.

まず,京都の露の五郎兵衛についてであるが,彼は元々日蓮宗の説教僧で あったとされており,京都の町の辻々で民衆を集めては“辻説法”7)を行ってい た.その内容が後の“落語”に通じるということから“落語の祖”の一人と数えら れている.しかし,彼は元来僧侶ということで生業として咄をしていたので はなく,しかも五郎兵衛一代限りでその門人にその跡を継ぐ人物がなかった ようである.なお,現在上方落語の方に露の五郎という名跡があるが,この 名跡は露の五郎兵衛に肖って後世作られた名跡で,彼とは直接関係はないと 思われる8).また大坂の米沢彦八についても,特にその伝記に不明な点が多く はっきりしないが,正徳4年(1714)6月3日(旧暦)に名古屋の巡業先で 急死したことが尾張徳川家の家臣朝日重章の日記である『鸚おうむろうじゅうき鵡籠中記』9)に見 える.彦八没後まもなくの享保5年(1720)に発刊された絵本『鳥さんごく』 には「生玉よねさわ彦八かほ見せ・かほ見せ、ひやうはんの大名・大名」とあっ て,烏帽子長袴姿の彦八が共演者と共に描かれている絵が見える.これを見

7) 人が大勢集まる野外の町角や道端,寺社の境内などで仏教の教義等を大声で語ったもの.日蓮宗 の僧が行うことで有名であるが,そもそも古代・中世では野外での説法は行われた記録はない.当 初は修行僧等の説法であったと思われるが,後世は辻能・辻放下・辻狂言・辻談義・辻咄・辻講釈・

軽口物真似ともいわれるように,道行く人から金銭を芸能の一部となっていく.

8) 現在は十代目と言われているがその代数も必ずしも確かではない.

9) 筆者の朝日重章(1674 ~ 1718)は通称文左衛門,後に定右衛門と称し,尾張徳川家の中級の家臣

(知行取百五十石)で御畳奉行に進む.貞享元年(1684)8月29日から享保2年(1717)12月29日ま での日記.その内容は自身の生活・藩情から世相・風俗・芸能関係に及ぶもので,『鸚鵡籠中記』と したのは「鸚鵡の口真似よろしく,題材を選ばず見聞をそのまま記した記録の意」であると記され ている.なお,この日記は当時の風俗・習慣を伝えている数少ない史料として価値が高い.

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た限りでは彦八自身,落とし咄ばかりではなく他に“俄にわか風”の芝居,もしくは

“万まんざい歳”的な芸をやっていたとも考えられる.その後二代目が出来たことも知 られており,こちらの方も初代を凌ぐ芸の持ち主であったことも分かってい る.とはいえ,この彦八については,“落語の祖”とはいえ必ずしも噺家とし てではなく,雑芸で人気を得たようである.

以上,上方の二人については史料的にも分からないところが多くはっきり しないが,一人江戸の鹿野武左衛門については全く関係ない事件への関与に よってかなり詳しいことまで分かっている.武左衛門は,元々上方出身の塗 師といわれ(京都もしくは難波の出身と言われる),江戸に出て堺町(現中央 区日本橋人形町三丁目付近)・長谷川町(現中央区日本橋堀留町二丁目付近)

等に住まいしたとされている.芝居掛りの“座敷仕しかたばなし方噺”を得意として,江戸在 住の大身の武家屋敷や豪商宅に招かれて“座敷噺”を現在でいうサイドビジネ ス(副業)として行っていた.ところが,当時江戸でソロリコロリ(コレラ のことか?)という伝染病が流行した折に“ソロリコロリの予防には南天の実 と梅干が効くと、あるところの馬が教えた”との風聞が流れ,南天の実と梅干 の値が通常の二十倍以上に跳ね上がる事件があった.町奉行所でその流言の 出所を探索した処,浪人筑紫園右衛門と八百屋惣右衛門の謀議と判明,筑紫 は斬罪,惣右衛門は流罪となって一件落着したと思われたものの,このヒン トとなったのが鹿野武左衛門の書いた『鹿しかのまきふでの巻筆』という“軽かるくちばなし口噺”を集めた 草子本であった.その中に「馬の顔見せ」なる部分があってそれをヒントに そうした流言が流されて今回の事件になったとして,筆者武左衛門は伊豆大 島へ遠島,版元である本屋弥吉は江戸十里四方処払いの上,『鹿の巻筆』の版 木は没収の上焼却処分(絶版)となるという憂き目に遭うことになった.勿 論これは冤罪ではあるが,当時武左衛門の様に“座敷噺”を行うものが多くお り,“座敷噺”の風をあまり面白いものとは思っていなかった幕府ではこのこ とにかこつけて“座敷噺”の廃絶を狙ったものであった.その罠に武左衛門が まんまとはまったものと考えられる.なお,武左衛門はその後元禄12年(1699)

に6年の刑期を終えて江戸に戻るが,服役中の過労が祟ってその年の内に没 することになる.また,このことは幕府の思惑通りに当時武左衛門同様に“座 敷噺”を行っていた他の噺家達(勿論,それを生業としていた職業人ではない と思われるが)にとっても“見せしめ”としての役割を果たしたこともあって

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か,その後暫くの間(約百年間)はこれに類似する噺家は途絶えることにな る.では何故,幕府では“座敷噺”の風を面白くないとしたのであろうか.前 述の通りそうした“座敷噺”を贔屓としていた旦那衆の中には大身の武家が多 く,しかもその中には御政道に関与するべき幕臣も多く含まれていたからに 他ならないからで,幕府では幕藩制度の根幹を揺るがす身分制度の崩壊に繋 がり兼ねないという危惧を抱いたからであった.そもそもこうした“話芸”は,

その時その時の知識人階層の遊びの部分で成立したものであって,そうした 知識人の意識の根底にある反体制的精神が包括された芸でもあったことから,

この時のみならず以後何度か同じような制裁が加えられていくことになる.

こうしたこともあって,江戸では武左衛門の禍以後暫くの間は“軽かるくち口噺ばなし”等 を生業とする者は途絶えてしまうが,享保以降(18世紀前期)次第に文化的 にも成熟期を迎え,江戸の文化が上方(京都・大坂)の文化を凌駕するよう になると,文化の担い手にも変化が生じてくる.それまでの主な文化の担い 手であった支配者階級の武家に替わって,その陰に隠れていた被支配者階級 の町人階層(とはいっても当初は経済的に余裕の生まれた大店の商人や一定 以上の日銭が入る一部の大工等の職人)の中にも文化の担い手となる者も現 われてくるようになる.そうした町人階層の中には世相を捩った洒落を尊ぶ ような風潮が幅を利かす様になる.そうした中で生まれたのが和歌に対する 狂歌、俳諧に対する川柳、漢詩に対する狂詩、古典・漢籍(散文)に対する 洒落本等であり、“軽口噺”についても当時の知識人・教養人の中で行われる ようになる10).その中から生業とはしないまでも,セミプロ的存在の人々が 発生してくる.このことは上方・江戸を問わず行われるようになり(上方で は“素人咄の会”として発生),この素人連(セミプロ)による“軽口噺の会”が 盛行となって,そこから現在いうところの直接の“噺家の祖”となる人々が出 現することになる.

こうした時代的背景を背負って出現するのが烏ていえん(狂歌名:鑿のみのちょうな釿 言ごんすみ

かね

)や山さんしょうてい椒亭花らく(後の初代三笑亭可楽)といった人達で,ここに初めて 江戸に於ける“プロの噺家”が誕生することになる.ところで,江戸の場合は

10) 江戸では狂歌師・俳諧師・洒落本作家等が行っていた狂歌・川柳を行う寄り合いの中で,“素人咄”

として盛んになる

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武左衛門以来の伝統もあって(?)“座敷芸”としての落語が主流となり,従っ て後世寄席が出来てそこが噺家達の主な活躍の場所となっても,寄席の収容 人員数は精々百人余の小さな席が殆どである(現在の上野鈴本は破格の大き さ)のに対して,上方では辻咄に始まったという伝統の違いから数百人も収 容出きるような寄席(現在の演芸ホール的劇場)が多かったという違いが生 じてくる.

とはいえ,江戸・上方を問わず多少の違いこそあれ,同じ状況下でプロの 噺家が出現したことには変わりはなく,それが江戸時代を通じてそれぞれの 発展を遂げることになる.なお明治以降は江戸・上方の交流が頻繁に行われ るようになると,演題・作法等に於いても交流がなされるようになり,現在 の落語界の状況になっていく11)

3.三遊亭圓朝について

⑴ 人となりとその時代

三遊亭圓朝は天保10年(1839)4月1日(旧暦),江戸湯島切通(俗にいう 根生院横丁:現文京区湯島四丁目)に生まれる.父は音おんぎょく曲師橘家(立花屋)

圓太郎(本名 出淵長藏)、母はすみといった.本名出いずぶちじろうきち淵次郎吉.出淵家は元々 武家の出で,父長藏の父(次郎吉には祖父)出淵大五郎は加賀大聖寺藩江戸 勤番出淵新左衛門盛方を父としたが,妾出であったため大五郎自身は当時江 戸近郊の在郷であった葛飾村(現葛飾区)で帰農して一子長藏を本家に預け て武士にしようとしたものの,それを嫌った長藏は二代三遊亭圓生の門下に 入り天性の美声と器用さで音曲師として売り出した.また母すみは,最初深 川富吉町(現江東区佐賀町一丁目付近)の糸商藤屋七兵衛に嫁ぎ,一子徳太 郎を儲けるが夫と死別,後に徳太郎を日暮里の南泉寺(臨済宗妙心寺派)の 小僧に出して自らは実家に戻った後に長藏と再婚した.よって,次郎吉(後 の圓朝)にはこの異父兄徳太郎以外に三人の弟・妹があった.こうした一家

11) 演題については,幕末・明治期に江戸へ上方のネタが多く移入されることになるが,江戸では大 抵の場合,江戸前にあった噺に改良して演じられることが多く,本来の江戸ネタのように思われて いるものもある.

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において徳太郎は放埓無頼の芸人生活を送り家庭を省みなかった義父圓太郎 に代わり一家の精神的・物質的支えとなると共に,特に次郎吉には深い愛情 を寄せ,次郎吉自身も精神的にかなりの影響を受けた.これが後の圓朝とし ての人間性を形成していく上の支えとなったことは言うまでもない.

そうした中,七歳となった次郎吉は父圓太郎やその同業者の勧めもあって 江戸橋(現中央区日本橋本町付近)にあった“土手倉”という寄席に父圓太郎 の名に肖って橘屋小圓太と名乗り初高座を勤めることになる.以後,生活苦 もあって江戸市中の場末の寄席を廻るようになるが,母及び義兄の反対もあっ て一年弱で寄席廻りは退き,自宅近くの池之端の“山口”という寺子屋へ通う ようになる.しかし,暫くしてやはり生活苦もあって弘化4年(1847),9歳 の折に正式に父圓太郎の師匠である二代三遊亭圓生の門下となり,内弟子と して本格的に噺家の修行を始めることになる.この時点が明治の大看板三遊 亭圓朝のスタートとなった.

翌嘉永元年(1848)には,その年発行の『落は な し か語家奇ぶ る い類』(烏ていせんきょう橋撰)

の中に前座ながら「湯島住 橘家圓太郎 二代三遊亭圓生門人,音曲を好くす」

と父圓太郎の紹介の隣に「橘家小圓太 圓太郎の倅なり」とあって,父圓太 郎の芸人としての実力もさることながら,この時点で既に将来を有望視され ていたことが窺える.ところが寄席からの給金は微々たるもので,しかも芸 人としての将来性への不安からまたもや母や義兄の強い勧めもあって一時噺 家を辞めて商家に奉公したり,画工の技術を身に付けようと絵師歌川国芳の 内弟子となったりした.しかしそれも長く続かず,その都度病を得たりして,

14歳の時三度高座に上がることになる.なお,この画工修行が後に“芝居噺”・

“怪談噺”といった“仕方噺”の道具建の背景を自作する上で重宝し,それがまた 噺家三遊亭圓朝の出世の糸口となった.しかも国芳の内弟子時代に同じ釜の 飯を喰った月つきおか岡芳よしとしや落おちあいよしいく合芳幾が後年には圓朝の作品の速記本に挿絵描くこ とになるのであるから因縁とは恐ろしいものである.安政2年(1855)3月,

17歳の時に師匠圓生の許しを得て芸名を小圓太から圓朝と改名,亭号も三遊 亭と改めることで,ここに大圓朝が誕生する.しかも身分はまだ二つ目なが ら圓左・小勇の二人の内弟子とすることを許されるが,この内小勇が後に師 匠圓生との絶縁の原因を作ることになる.

安政5年(1858),圓朝21歳の時に真打に昇進,下谷御数寄屋町(現台東

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区上町二丁目付近)の“吹ぬき”という寄席で真を打つ機会を得,師匠圓生に 助を頼むことになる.ところが助演のはずの師圓生は圓朝が真と り打で演ず る予定であった「累かさねぞ う し紙」という演題を先に高座に掛けたため,やむなく

「累かさねがふちごじつのかいだん

ケ淵後日の怪談」なる怪談噺を即興で作り初演することになる.これが後

年の「真しんけいかさねがふち景累ケ淵」へと発展していくことになる.また,この年師匠に預け

圓太と改名していた小勇の高座を許可なくして客席から聞いたのがばれて師 匠圓生から破門同然の扱いを受けることになり,これは圓生存命中ずっと変 る事なく続くことになる12).しかし,圓朝は後年師圓生が病に伏せるとその 面倒を一手に引受けて死に水まで取り,しかもその遺児三人を引き取って身 内として養う等圓生を終生師匠として立てていた.

ところで,圓朝は文久年中(1861 ~ 64)には当時の通人・戯作者等とも親 交を持つようになって“粋すいきょうれん狂連”や“興こうしょうれん笑連”といった連れんぢゅう中へ参加,ここで三題噺 の創作に打ち込むことになるが,ここで養われた経験が後に人情噺の大作と

なる「鰍かじかざわ沢」(玉子酒・身延山のお札・熊の膏薬)や「芝浜」(酔っ払い・芝浜・

革財布)といった名作を生み出すことになる.

幕末期から明治維新にかけての時代は江戸落語にとっても変革の時代で,

それまでの聴衆とは異なった新たな客層が増えた時代でもあった13)。従って 寄席の方でも以前のような噺ばかり高座に掛ける噺家は受けなくなり、それ まで噺のツマ的存在であった“色いろもの物”14)や“音曲噺”・“仕方噺”といった正規の

“素はなし”から見ると一段低い評価しか与えられていなかった噺が受けるように

12) 噺家の仁義として人の噺は高座の袖(楽屋)できくのが本来であり,どうしても客席から聞きた い場合はそれなりの断りを入れ,許可があってはじめて聞くことが出来るのだが,圓朝はそれをせ ずして客席に廻ったことを咎められたとされる.

13) 明治維新を経て江戸の様相は一変,江戸は東京と改称され,それまで“浅黄裏”と称してばかにさ れていた国侍,特に尊皇派の中心となった薩・長・土・肥の藩士が中核となって官僚・軍人となり,

またこれらと結ぶ三井・三菱(岩崎)・住友といった後の財閥となる御用商人が東京の実権を握る ことになる.そうした状況は江戸っ子(江戸の通人趣味)の目から見ると野暮の骨頂であり,彼ら 自身も鳴り物入りで筋立のはっきりした歌舞伎等の芝居や軍談・御家騒動・忠臣蔵等を読む講談は 理解出来るものの,江戸に生活している庶民の一断面を江戸っ子の通人向けに演出した粋な落語

(特に素噺の人情物等)は理解出来ず、自然に寄席の中から江戸前の落語が衰退していくことになる.

14) 落語・講談等寄席の本芸以外の萬歳・粋曲・大神楽・手品等を指す.高座のめくり(高座脇に置 かれる出演者名を記した紙札)やプログラムには本芸は墨でかかれるが,その他は主に朱で書かれ たことからこの名がある.

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なり,江戸末期には町内に一つはあるといわれた寄席も百席前後に統廃合さ れていった.そうした時代背景の中,たまたま圓朝の初期の芸風というのは,

生来陽気な芸であり,しかも初期のネタはというと音曲師であった父圓太郎 譲りの鳴り物入りの音曲噺や仕方噺が主流であったため,新興の客層に受け が良かったものと思われる.しかし,反対に昔気質で“時の流れ”を理解出来 ない師匠圓生にすればそうした圓朝の芸風を苦々しく思っていたと考えられ,

それがまた師匠との不和の原因の一つであったとも言えよう。現に圓朝自身 も明治に入り自分の芸にも自信がつくと,これらの仕方噺は弟子の初代三遊 亭圓楽(後の三代三遊亭圓生)へ譲り,自らは素噺のみで高座を勤めて見事 に新興の客層まで掴むことになる.これがまた後世の噺家をして“落語の神様”

と言わしめた所以であった.また,それまでの寄席は席亭と噺家等芸人とが単 なる人と人との繋がりだけで成立していたのに対し(場合によっては芸人が 席亭に隷属していたとも解釈出来るが),明治8年当時,柳派の頭取であった 三代麗れいれいていりゅう柳橋きょうと語って噺家を中心とした寄席芸人の団体である“睦むつみれん連”の結 成に奔走,その頭取には柳橋を据えて自らは六代桂文治と共に柳橋を補佐す る形態を取って席亭との関係を組織的に改善,これが後の協会運営15)に繋が ることになるのであるが,これがまた“落語中興の祖”たる評価を受ける所以 でもあった.

このように圓朝は幕末・明治初期の変革の時代から進行性麻痺兼続発性脳 髄炎(現在のパーキンソン症候群か)によって明治33年62歳で没するまで,

人気・実力共兼ね備えた三遊派の長として落語界に君臨することになる.し かし圓朝自身はというと“八丁荒らし”16)と呼ばれながらも傲慢さは見られず,

義兄徳太郎17)の影響が強かったこともあって性格は至って温厚で面倒見が良 く,仏縁を大事にするところから人望が高かった.このことは,前述の師圓 生の扱いを見ても分かる.

従って門弟も多く,前述の初代三遊亭圓楽を始め,後に芸に関しては圓朝

15) 東京では現在落語協会を筆頭に落語芸術協会、立川流等に分かれ,大阪では上方落語協会等があ る.

16) 圓朝が高座に上がる寄席の周囲八丁内外にある別の寄席は閑古鳥が啼いたといわれた.

17) 最後は小石川極楽水にあった臨済宗妙心寺派是照院の十三世住持となり、文久2年(1862)に33 歳で遷化.

(13)

をも凌ぐとまで言われた大正期の名人四代橘家圓えんきょう18),二代三遊亭金馬19)等 の本格派に加えて,当時の文明開化の申し子として“(珍芸)四天王”と称さ れた“ラッパの圓太郎”こと四代橘家圓太郎,“ヘラヘラの萬橘”こと初代三遊 亭萬まんきつ,そして芸自体は本格派には引けは取らないもののあまりにも時代の 兆児として持て囃されたためにその評価が分かれるのが残念な“ステテコの圓 遊”こと初代三遊亭圓遊20)等の幅広く活躍した名人・上手を輩出,彼らの全て が明治・大正期の落語界には無くてはならない存在となった.また,前述の麗々 亭柳橋をはじめその師匠で芸には圓朝に匹敵する才を持ちながら圓朝の陰に 隠れてしまった初代談洲楼燕枝,その弟子の三代春風亭柳枝,二代禽きんご ろ う楼小 さん(二代柳家小さん),そして時代が少し下って二代小さんの弟子で明治後 期から大正期にかけて前述の四代橘家圓喬と並び称された三代柳家小さん21)

及び初代柳家小せん(盲小せん)等の柳派の面々と凌ぎを削ることになる.

⑵ 圓朝の噺(ネタ)と近代文学

圓朝はその初期の時代こそ仕方噺を中心としたネタで聴衆を集めていたが,

前述の粋狂連・興笑連等に参加する頃よりその芸風は変ってくる.勿論,明 治初年頃迄は仕方噺も屡々高座に掛けてはいるが次第に素噺が多くなり,後 には前述の通り弟子の圓楽に仕方噺を譲り素噺一本で高座を勤めるようにな る.ところで,圓朝の噺の真骨頂というのは,それまで伝えられてきた噺を そのままの形で継承するのではなく,自らが創作・実演するところにあって,

前々からある噺についても自分なりに消化して時代に合わせた形に改題・改 良していく点にある.それも代々三遊派が御家芸としていた人情噺を基調と

18) 性格的には問題もあって人望は師圓朝には遥かに及ばなかったと言われている.

19) 晩年には二代圓朝を継ぐ話があったが襲名披露の前に他界し,幻の二代目となった.以降圓朝の 名跡は伏名となって現在に至っている.

20) 前述の“ヘラヘラの萬橘”や“ラッパの圓太郎”と共に“(珍芸)四天王”の一人としてのイメージが 強く,その芸についても誤解されている部分が多いが,たまたま時代の要請もあって珍芸もこなし たものの,元来が圓朝の門弟ということで彼の芸自体は確かであって,本格派の実力者であったこ とは忘れられている.圓遊の最大の功績というのは,東京において“滑稽噺”というジャンルを確立 した点であって,師圓朝ですら無し得なかった落語の近代化・大衆化に寄与した点は大きい.なお,

“(珍芸)四天王”はこのほかに“釜堀の談志”こと四代立川談志がいる.

21) 上方のネタを江戸落語に移殖して改作,現在の東京落語の演目として独立させた功績も大きく,

夏目漱石はその著『三四郎』の中で前述の初代三遊亭円遊と共に絶賛している.

(14)

したものが多く見られるところに特徴がある.こうした点が弟子初代三遊亭 圓遊へ伝えられたということが出来よう.

さて,圓朝の主な作品には「塩原太助一代記」・「双ふたつちょうちょう蝶々」・「文七元結」,そ して前述の三題噺から一席にまとめられた前述の「鰍沢」・「芝浜」等の人情 話をはじめ、「真景累ケ淵」・「牡丹燈籠」・「怪談乳房榎」・「鏡かがみがいけみさおのまつかぜ

ケ池操松風(江 島屋騒動)」等の怪談噺,当時の世相を反映した「英国孝子傳」・「名人長次」・

「死神」等の翻訳噺等,現在古典落語と称されているものの大ネタの数々を手 がけていることが分かると共に,現在の落語の基礎を築く働きをした点でも 評価が高い.つまり,江戸時代の寄席の興行というのは,通常一度の興行が数 日から十日前後であるとすると,その構成は前座を別としても助演となる噺家 が1・2人と膝ひざがわ替り22)となる色物の芸人、そしてその席の主任(真打)の噺 家という構成が多く、真打は大抵の場合“続き物”と称する大ネタを興行期間 で読切るのが普通であり23)、長講となる真打の腕次第で客の入りが決まると まで言われた24).勿論,圓朝の時代になっても一興行の寄席の演者の構成や 人数は変化して現在の寄席の形態に近づいたとはいえそうした伝統は残って おり,真打の演題は続き物の大ネタが多く用いられていた.町内に一軒時代 の寄席とは異なり客の方も続き物だからといって毎日寄席通いをする訳にも 行かず,初日の入りを興行期間中見込める訳てもなく,また続き物を興行途 中で聞こうものなら前後の関係が分からずに客足を遠のかせる原因ともなっ ていたことから,真打によっては続き物の大ネタというよりは一席ものの大 ネタを興行の期間中取替えながら多用する様になっていった.これは圓朝自 身もそうした時代の要請によって一席物の大ネタを創作することになるので あるが,そうした一席物の大ネタとして圓朝の作品は他の真打の間でも重宝 されるようになり,これが寄席の定番として根付いていくことになる.圓朝 にはそうした一席物の他にも前述の「塩原太助一代記」や「真景累ケ淵」・「牡 丹燈籠」等は続き物の大ネタであり,彼自身はその興行毎にネタの使い分け

22) 略して“膝”ともいい,寄席に於てその興行の主任(真打)の前に高座に上がり,客の状況を探り ながら時間の調整を行い主任の噺に繋げる役割のこと.色物の粋曲(音曲)・女道楽・紙切り等が多く、

主任の噺に邪魔にならず、客席を温めるような演目で客席のご機嫌を窺う.

23) 現在でも講談では『赤穂義士銘々傳』の様に一本のネタの部分を読切りとしているものもある.

24) 現在の独演会の続き興行のようなもの.

(15)

を行ったことは想像に難くない.

なお,こうして圓朝作の大ネタが他の噺家間に定着していくと,これらの ネタは歌舞伎をはじめ講談・義太夫等の他の演芸や演劇に取り入れられ,ま た当時西洋から移入したばかりの速記術によって,寄席で圓朝が口演したま まの形で(とはいえ、ダイジェスト版であったとは思われるが)いち早く活 字化されて,実際に噺を聞くことが出来ない地方の人々まで普及していくこ とになる.こうして作られた活字本は,元来“語り物”という性格上,全てが 口語体によって記してあることから,明治10年代後半から20年代前半にかけ て坪内逍遥や二葉亭四迷等が提唱した“言文一致運動”による口語体文学の先 駆けとなった.この点については圓朝自身が企んだ訳ではないにしろ,近代日 本文学史を考える上で重要な意味を持つことになる.

⑶ 怪談噺とそのルーツ

ここで、圓朝の真骨頂の一つである“怪談噺”について記してみよう。怪談 のルーツを尋ねてみると,仏教的な因果と輪廻を説いた怪か い き た ん異譚,つまり『日 本霊異記』から『三宝絵詞』・『今昔物語』・『宇治拾遺物語』といった平安時 代に始まる仏教説話まで遡る.それが近世には庶民の間に古くから伝承され た仏教的な民俗信仰と結び付いた怪異談として寺方の説教で語られるように なった.特に寺方では因果応報を説くことで,当時の庶民の秩序を護り生活の 安寧を図ることを目的としたため,宗派を越えて全国的に広まっていった.

江戸時代の“怪談ブーム”の先駆けは元禄期(1688 ~ 1704)に興り、享保期

(1716 ~ ’36)を経て文化・文政期(1804 ~ ’30)に至って全盛を迎える.こ れは当初寺方の説教として始まった怪異談が当時の知識人階層の人々等によ り書き留められ,それらをもとにプロの戯作者や書肆達が脚色して冊子とな り,上田秋成の『雨月物語』のような怪異文学を生み出した.また,それらが 近世後期に全盛を迎える木版による出版文化とあいまって「黄表紙」のよう な形で大流行するのである.その後こうした怪談本の内容がやはり当時の流 行となっていた歌舞伎等の演劇にも取り入れられ,四代鶴屋南北の『東海道 四ツ谷怪談』のような当り狂言を生み出すことになる.

このような社会の背景の中で落語の一ジャンルである“怪談噺”も出来上 がっていくのであるが,現在その確立者と言われているのが初代林屋正藏25)

(16)

である.この正蔵は噺家としてばかりではなく文才にも優れ,浄瑠璃語りと しても長じていたことから,後の圓朝に似通った点も合せ持っている.なお,

こうした“怪談ブーム”は何も江戸に限った訳ではなく上方においても同様で あって,怪談は文化・文政期から幕末期にかけて東西を問わず流行すること になる.

ところで,この怪談は中国においても明代以降盛んであったが,中国では“冬 の夜話”として流行したのであり,日本のそれとは趣を異にする.日本の怪談 が“夏のもの”という風になった原因については“盂う ら ぼ ん え蘭盆会”との関係が考えられ る.そもそも盂蘭盆とは本来逆さ吊りにされるような非常な苦しみを指し,霊 界において死者がその様な苦しみを受けることから救うために祭儀を設けて 三宝(仏・法・僧)に供養することで、元は安あ ん ご26)の終わりの日に多くの僧 侶に飲食を振舞うことを指していたが,後には祖先の霊を供養して餓鬼に施 す行方を指すようになった.それが現在の“お盆”であり,民間ではあの世に旅 立った祖先の霊がこの時期に家に帰って来ると信じられる様になり,その霊 を慰めるための行事として盆踊り等の民間芸能も行われるようになった.そ の一つとして歌舞伎の方でお盆の民間行事に合わせて怪談物の狂言を舞台に 掛けたのが始まりで,日本の怪談というものが夏の専売特許となり,今日で は“怪談=夏”イメージが定着することになる.

そもそも落語における怪談噺というのは、三遊派の噺家が得意とした人情 噺の一ジャンルで、特に圓朝の作品は前述の如く殆どが仏縁に帰したもので あることからも分かる様に,通常の人情噺といわれている作品の中で怪談仕 立てに脚色されている噺のことで,現在当り狂言となっている圓朝作の「真

25) 江戸落語黎明期の文化・文政期の噺家.前述の初代三笑亭可楽門下“十哲”の一人で,一時期二代 鹿野武左衛門を名乗る.文化10年(1813)発刊の式亭三馬の代表作『浮世床』初編には,この初代 正蔵を「リンオクセイゾウ」と呼び「ハヤシヤショウゾウ」と正される部分があることから,この 時期には正蔵を名乗っていたものと考えられる.また,文化12年(1815)には三馬が『林屋物語』

なる小冊子を発刊していることから,当時の落語界を陰で支えていた戯作者三馬に気に入られてい たことが分かる.

  なお,何故彼が“怪談噺の祖”とされたかについては,彼の定席“林屋の席”が当時の江戸きっての盛 り場であった両国広小路にあったため,江戸見物に来た客をターゲットに昼席を中心とした興行を かけ,しかも客の度肝を抜く様な目立つ物として“怪談噺”をメインにしたからに他ならない.亭号 の“林屋”が現在の“林家”になるのは五代目以降.

26) 正式には“夏あんご居”といい,特に浄土系の僧侶が土用の暑い時期に洞窟や寺に籠って写経三昧等の 修行をすることで、これを受けて大回向の行事が営まれる.

(17)

景累ケ淵」と「牡丹燈籠」の二席とも江戸時代の“仏教説話”にそのルーツを 見つけることが出来る.

まず「真景累ケ淵」であるが,先にも述べた通り圓朝の師匠である二代三 遊亭圓生が「累草紙」という噺を持ちネタとしていたため,その骨子はそれ に由来するものと考えられる.しかし,圓朝の「真景累ケ淵」は前述の如く、

圓朝の真打襲名披露の席で真打で掛けようとしていた「累草紙」を助演で先 に高座に上がった師圓生が演題としたため,急遽その続編として「累ケ淵後 日の怪談」と銘って高座に掛けたのが最初であり,その後噺を膨らまして一 席の怪談噺としてまとめたものである.とはいえ,このネタ本としては元禄 3年(1690)刊行の『死しりょうげだつものがたりききがき

霊解脱物語聞書』を元に書かれた『祐ゆうてん天上しょうにん人一い ち だ い き代記(累 解脱物語)』等に見られる累の恐るべき因果の物語が強く影響しているものと 思われる.また「牡丹燈籠」については,一般には中国明代の怪奇小説『剪せんとう

し ん わ話(句かい)』(瞿く ゆ う佑撰)にある「牡丹燈記」がネタ本であるとされていたが,

関山和夫氏はその著「仏教と怪談噺・人情噺」(『落語風俗帳』収録)の中で,

圓朝の「牡丹燈籠」のネタ本は通常言われている『剪燈新話』ではなく,近 世初頭の浄土真宗の説教者(僧)浅井了意が書いた『御お と ぎ ぼ う こ

伽婢子』27)であると した.それは同書の巻三に「牡丹燈籠」というものがあり,その中に萩原新 之丞なる人物が登場するが、それが圓朝の「牡丹燈籠」にある萩原新三郎の モデルと考えられる等の理由からで,如何に圓朝が古い怪事譚に造詣が深い とはいっても中国の原典まで読んでいたかというと疑問があるとの見解も含 んでいる.いずれにせよ、圓朝がこの様な長編の怪談噺を作るに当っては仏 教への深い関わりがあったことは間違いなく,これには先にも述べた通り異 父兄徳太郎(後の是照院十三世永泉)の影響が大きかったことを示している.

27) 寛文6年(1666)刊行の神仙奇異譚を集めたもので,全13巻からなる説話集.『剪燈新話』等中 国明代の怪奇小説の翻案本的性格を有する.江戸時代前期に数多く編まれた同種の書物のさきがけ となった.

(18)

⑷ 圓朝時代の歴史的背景

以上,三遊亭圓朝の人となりと作品について掻い摘んで記してきたが,圓 朝がこれだけ後世に影響を及ぼすことが出来たのはその実力もさることなが ら,幕末期から明治前期にかけての時代に活躍出来たという時代的背景も見 逃せない.本来,落語という芸は時の権力者のお側に控えて権力者の御機嫌 を伺った御伽衆に始まった座敷芸で,最初は時の権力者・知識人と称される 一部の人々のみが楽しむものであったとされる.ところが江戸時代も後期の 文化・文政期以降になると一般庶民にもこうした芸が開放され,この時点で 現在の落語の原型が形作られていったともいってよかろう.

つまり圓朝が活躍した時代というのは,落語という芸が寄席の演芸の主要 な芸として完成されて江戸を中心とした都市部の庶民の娯楽として定着した 時代であり,幕末・明治の動乱期,庶民は世の中の混乱を忘れんがために寄 席を中心とした娯楽に走った時代でもあった.またそれまで都市部とその周 辺の人々に限られていた対象についても,明治になると地方にまで広がりを 見せ、西洋から新しい文化が移入されることでそれまでのものとは異なる文 化が形成されていった時代にあたった.このことが圓朝の芸とマッチしたが ために圓朝の名が大きくなったのであり,一面的には時代の要請が“大圓朝”

を作り上げたともいうことが出来よう.現在落語界では圓朝をして“近代落語 の祖”と呼んでいるが,それには彼の実力にも増して時の力が大きかったとも 言うことが出来よう.

4.落語と文学

⑴前近代の文学とその状況

江戸時代という時代は日本の文化史上画期的な時代である.そもそも中世 以前の日本文化を考えると,その担い手は全て支配者階層の知識人のみであ ることは周知の事実である.勿論,これは日本のみならず世界的にいえるこ とではあるが,当時被支配者階層の一般庶民は,日常の生活で精一杯であっ て文化活動にまで関与できる程の余裕は持てなかったからといっていい.と ころが江戸時代になるとそうした状況は一変する.それまでの戦乱の時代は 終結し,技術革新等による生産性の向上もあって日本全体の経済力が底上げ

(19)

され,庶民階級もどうにか生活に余裕を見出すことが出来るようになった.

そうした中で初めて庶民階級も文化の担い手となり得,上方の町衆に始まり 貞享・元禄期に頂点を迎える上方の町人主導の元禄文化,宝永・享保以降将 軍家のお膝元として富を蓄積して上方のそれを凌駕して文化・文政期に頂点 を迎える江戸の町人主導の化政文化と庶民階級主導の文化が花開いていった.

このことは文学についても同様で,中世以前の文学というのは知識階層のみ の所有物であったが,江戸時代になって初めて庶民を含めた文学へと変貌し ていった.勿論,文学においても他の文化同様その前半は浮世草子に代表さ れる上方主導のものであったが,江戸後期には浮世草子より発展したとされ る洒落本・滑稽本・草草子等の江戸主導の“戯作文学”がその主流を占めるこ とになる.こうした戯作文学は江戸時代以降次第に経済力を増し新たな文化 の担い手となった庶民階級に持て囃された文学で,当時の知識階層の人々は これらの戯作文学を経典や詩集28)そして歴史書等とは区別して“稗はい”または

“稗史小説”といって蔑んだ風潮もある.

戯作者自身もそうしたことは自覚しており,その地位もあまり高いとは言 い難いため,勿論戯作による収入(現在の原稿料・印税)も安く,戯作のみ で生計を維持するのはかなり大変であったことが窺える.それは当時の戯作 者でも“売れっ子”作家であった読本の滝沢馬琴や滑稽本の式亭三馬が戯作の 著述の他に薬屋等を副業としていたし29),化政期の超売れっ子作家で『東海 道中膝栗毛』の作者十返舎一九などは戯作を正業としていたために生涯借金 取りに追いまくられていたといい30),殆どの戯作者は出版元となる書肆の食 客(居候)のような生活を余儀なくされていたことからも想像が付く.とは いえ,江戸後期の文化の担い手の中心が江戸在住の町人層であったというこ とで,その間で持て囃された戯作文学が近世後期の文学史上重要な位置を占 めたということの証明である.

ところで,これらの戯作文学はどの様にして当時の文化の担い手たる町人

28) この場合の経典とは“四書五経”等の儒学書を,詩集とは『古文真宝』『文選』等の“漢詩集”を指す.

29) 式亭三馬は元来書肆の婿養子であり,勿論そちらの方が本業であるし,滝沢馬琴についても小間 物屋の収入が多く,戯作の方が副業ということも出来る.

30) 一九の場合は見入り以上の浪費家であったことが禍いしたためといわれる.また,浮世絵師葛飾 北斎も同様であった.

(20)

達に読まれたのであろうか.勿論,これらの本を書肆より購入して読んでい た者がいたのは事実である.しかし,当時の本の値段は現在のそれとは比べ 物にならない程高価で,俗に“蒟こんにゃく蒻本ぼん”と称される紙葉5枚程度の端本1冊で も10 ~ 15文(文化・文政期頃),洒落本・滑稽本,そして絵入りの読本・人 情本でも通常の5~ 12葉1冊5冊組が一部で銀1匁(180文)~4匁(720文),

正規の文芸書となると『平家物語抄』が3両2分、『宇治拾遺物語』が銀90匁

(4両2朱),学術書である『孝経大全』が3両,『貞観政要』が5両と,いく ら江戸後期には町人階層に経済力が着いたとはいってもおいそれとは購入出 来るものではなかったことは想像が付く31)

では如何にしてこの様な本が町人の間に広まったかというと,書肆(現書店)

と読者との間に“貸本屋”なる職業が介在したからに他ならない.貸本の場合、

幕末期でも高価本で40文,通常の読本クラスで10 ~ 20文の間で五七日(35日)

貸してくれる.従って,江戸後期の町人達は貸本屋を大いに利用して戯作等 の本に親しんだのであり,江戸後期における貸本屋の役割というのは大変重 要な存在であったことを意味する.

なお当時の貸本屋というのは,その殆どが店構えをして商いをしているの ではなく,明け荷を背負った行商人で、取扱う本の内容についても硬軟取り 混ぜてはいるものの読み手の多い売れ筋の本を中心に持ち歩いたことは商売 の上からも当然であって,誰にでも気軽に読める戯作文学がその中心となっ ていたと考える事が出来よう.またこうした製版本の他にも当時“禁書”の扱 いとなっていた「赤穂義士物」とか「伊達騒動物」といった“実録物(「実録 体小説」)”32)等も“写本”という形態で持ち歩いていたことが想像出来る.

⑵近世文学と落語

江戸落語成立の背景には,当時の狂歌師や戯作者がかなりの割合で関与し ていたことは前述の通りである.それは当時の知識階層の文人達の間にあっ

31) 経典・史書の類の“唐本漢籍”(中国からの輸入本)に至っては2 ~ 300両したものまであった.

小野武雄編著『江戸物価事典』・稲垣史生著『時代考証事典』参照.

32) 正式には“近世実録体小説”といい,近世の小説のジャンルの一つ.寛文事件・赤穂事件等の江戸時 代に実際に起きた事件・事象を元に風聞を交えて記したもので,幕府では御政道批判に繋がるとして 発禁としたため,写本のみで伝わった当時の“現代時事小説”(現在の“時代小説”).詳細は、拙著「実 録体小説について~伊達騒動物を中心として~」(『仙台市民図書館所蔵和漢書目録』解説三)参照.

(21)

た世相への風刺・体制批判がその根底にあり,出発点は狂歌・川柳、洒落本・

滑稽本等の戯作を含む“近世庶民文学”のそれと何ら変りない点にあるという ことを認識する必要がある.よく「噺家は世情の粗で飯を喰い」等と言われ るが,狂歌・川柳、洒落本・滑稽本の類はこうした世相の粗を“文字”で表現 したのであって,これに対して落語の場合はそれを“言葉(台詞)”で表現し たということが出来る.こうして考えてみると,当時の狂歌師や戯作者が落 語に対して力を入れて後援したということも理解出来ると思う.なお初期の 落語ではそうした文人達が文筆ではなく自らが噺家として言葉にしようと表 面に出ていたのであり,それが後には為政者との軋轢の内に裏側に廻ったと いうだけである.従ってこうした文人達と噺家達との間には相関関係があり,

噺家の中にも戯作を書く者、狂歌・川柳を発する者等が居たりするのはこう した部分からである.また、現在でも狂歌・川柳については噺家の必須科目 であることも上記の点からも理解出来よう.

ところで為政者との軋轢の中,舞台裏に廻った文人達がどの様に落語と係 わったのであろうか.まず,初期の烏亭焉馬・初代三笑亭可楽の時代より落 語と共に生きた文人に式亭三馬という戯作者がいる.彼の代表作である戯作

(滑稽本)『浮世風呂』・『浮世床』は現在も落語の演題(ネタ)となっている 様に噺家の陰の後援者であったことが知られている.彼自身,洒落本が全盛 期を過ぎて衰退期に入った頃に文筆活動に手を染め,洒落本の系統を引いた 滑稽本に活路を見出し,後には本業である書しょの顔で草草子系の読本や黄表 紙をも含めた一大戯作の集大成となる“ 合ごうかん(がっかん)巻 ”を作り上げた人材であるが,彼 の作風の根底には世の風刺があり,戯作者でもある彼は“言葉の洒落本・滑稽 本”である落語に黄表紙等の草草子系の戯作に押されて衰退していった洒落 本・滑稽本の残像をみたとも考えられよう.その他の文人についても多かれ 少なかれ事情は同様で,そうした認識の上で噺家を同じ目的を持った同志と して後援したものと考えられる.このことは時を経た明治以降についても同 様であって、幕末・維新期の粋狂連・興笑連といった文人の集まりに始まり,

後にはこれが母体となって文人・ジャーナリストをも含む後援団体へと発展 していくことになるのであるが33)、こうした文人達の後援が現場サイドの噺

33) 後の“演芸評論家”なるものが発生する母体となる.

(22)

家達にはある時には強い後ろ盾となり,またある時は目の上のたんこぶ的存 在となる.しかしこうした文人達の後援があってはじめて落語を中心とした 寄席芸が市民権を得るのであって,また落語自体が文人達に及ぼした影響も 多大なものがあつた.

⑶ 明治維新と文学界

日本文学史上,明治維新というのはあまり意味を持たない。勿論,政治史・

社会経済史上で言えば“江戸”が“東とうけい京”となって天皇が京都から東京へ移り(遷 都),それまでの徳川幕府から薩長土肥を中心とした明治政府へと為政者が代 り,西洋の文化・文物が急速に移入される大変革期ではあった.しかし文化 史的にいうと,当初は文化の担い手の中心であった江戸の町人はそのまま存 在し,しかも明治政府の中枢を占めた薩長土肥出身の官僚達についても必ず しも文化の素養のあるような人材ではなかったため,江戸の文化をそのまま 引きずっていったからに他ならない.とはいえ次第に江戸の名残は消え,明 治の新しい文化がその中に芽生えていくのではあるのだが,そうなるのは10

~ 20年の年月が必要であることは文化史では常識であり,この場合文学にお いても同様なことが言えよう.

つまり,江戸後期以降の文学の中心的存在であった戯作文学は明治維新後 も依然健在であって,数少ない文学史上の変化としてはそれまで禁書に指定 されて印刷出版が出来ず写本という形態でのみ流通していた実録体小説が印 刷されて流通34),禁教が解除されたキリスト教関係の書物が出版されたこと35), 戯作の中に新しい西洋の事情を盛り込んだものが発刊されたこと36)等である.

また、印刷技術上ではそれまでの木版製版に替り西洋の活版印刷術が導入さ れたことと,洋書に倣って綫せんそう・大や ま と和綴とじといった和そう本に替って洋ようそう本が作 られ始めたという点が挙げられる.とはいえ,明治維新による文学の変容が 顕著となるのはもう少し時を経てからということが言えよう。

34) 明治16 ~ 29年に春陽堂から刊行された「実録文庫」や明治15 ~ 20年に栄泉社から刊行された「古 今実録」,そして昭和3・4年に早稲田大学出版部から刊行された「近世実録全書」等がある.

35) 『新約聖書』の翻訳版である明治16年刊行の「訓點新約全書」(横浜北英国聖書会社版)等がある.

36) 福沢諭吉著『西洋旅案内』(慶応3年刊)に始まり,仮名垣魯文著や『西洋道中膝栗毛』(明治3

~9年刊)等がある.

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