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(1)

わが国の義務教育家庭におけるDeath Education‑‑

その必要性の視点から

著者 田中 敦子

雑誌名 白山社会学研究

号 9

ページ 101‑113

発行年 2001

URL http://id.nii.ac.jp/1060/00007540/

Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja

(2)

はじめに

わが国の義務教育課程におけるDeathEducation  田中

わが国の義務教育課程における D e a t hE d u c a t i o n   ーその必要性の観点からー

田 中 敦 子 *

E・キューブ、ラー・ロス (E・KubulerRoss)著/i'On death and dyingJJが1969年に発刊さ れ,わが国では1971年『死ぬ瞬間JJ (川口正吉訳,読売新聞社)として翻訳発売されてい る。この計三世界において大きな反響を呼んたことは周知のとおりであるが,なかでも,

E・キューフフー・ロスが がん"患者を講堂に招いて,医学生「対しレクチャーを行な った?とは,道徳的,倫理的見地から多くの批判がなされたりも

L

た。しかし, E キユ

二 ; 7 ‑ A Z Z 2 L f f

蒜 : 三 「 死 に つ い て の 教 育J• i Ed山恥ωωωu山悶叫叫Cωat

ω

iぬionn 近年,一般市民の間では死を見つめ,死と真剣;こ向かいムおうとする動きが見られるなか },義務教育の現場かごも死の教育に関するいくつかの長告がなされている。 (2) (3 

なせ,いま,義務教月課程においてD thEduωionが必要であるのかについて,Death 

ZZ 之官 2 2 2

の 理 論 と 実 践 の 発 展 経 過 を 醜 し 現 問 状 に 刷 る 課 題

稿 泣 い な E 2 4 ? ? ; L T t t

には,後述のとおり複数の解釈があることから本

1.日本におけるDeathEducationの概念・定義

全国組織である「生と死を考える会Jの発起人の一人であるアルフォンス・デーケン (Alfons D印刷)は, i死の準備教育」を推進した第一人者である。アルフオンス・デ ーケン (5)によれは,

D

伺 叩ucationを「死への準備教育Jとし,その意義について「人 間は『死へり存在JJ Cあり,この世に生を享けた瞬間からつねに死に向けて歩みつづけて いる。、したかつて,私たちは人生において,いつかは身近な人々の死と自分自身の死に直 面せざるを得ない。死そのものを前もって個人的に体験することはできないが,死を身近

2 5 ; 二 三 iJ272fE 三 竺 t J f E f f f ? 2 7 ご の ; ナ

生のあらゆる段階において,われわれは愛する者(他者)の死に幾度も遭遇しなければな らないし,自己の死は,遅かれ早かれ到来する。もし,何の準備もなしにこのような死に

t i : ; ? ; : Z J J 2 ; ; ; 5 3 ; ; L T f ?

ことが,死生反応の程度をある好ましい水準にまで高め,現実の死に対して適切に対応で

*東洋大学大学院社会学研究科福祉社会システム専攻修士課程修了 101 ‑

(3)

きると述べている。

しかし, Death Educationの第一人者である,ミネソタ大学「死の教育と研究センター」

所長のロパート・フルトン (RobertFulton)は, 1993年初めて一般向けの講演のために来 日した際のインタビ ューで(7), I Death Education (死の教育)Jとは, I死に対する深 い洞察」であり, I個々人が死すべき限界を知り,自分自身がどう生きるかを考えること。

人間性のバランスがとれた人間になることである。 Jと述べ,日本では「死の 準備"教 育Jとして広まっていることに対して,死の準備とは,観念上の話で実在するものではな

く,死は死であることを強調し,これに気づいて考えるべきことを指摘した。

そして,平山(8)は,死の教育は未来と現在の生き方そのものを問い直し,より充実し た生活を送ることを目指す必要があると考え,欧米諸国で使われている「死の教育J

(Death Education)は, I死の準備教育Jという消極的な色彩の強い内容をもたせるより も,むしろ積極的な意味を含む「生と死の教育」とすべきことが適切であると説いている。

さらに,大倉(9)も, I子供Jの時からどんな死に方が望ましいか,各自に自覚を持たせ ることが重要であり,若い時から不断に死に向かい合うことが即ち毎日の生活を充実させ る動機づけとなり,死を覚悟することが,生命をうとんじるのではなく,生命を尊重する ことにつなげるようにしなければならないと述べている。

わが国における IDeath EducationJには, I死への準備教育J I死の教育J I生と死の 教育Jなどの意味が内包されている。

さらにまた, Death Educationは,谷(1引が指摘するように,タナトオロジー(τbanatology: 

死学)を背景として,生物学,医学,分子生物学,遺伝子工学などの自然科学系学科,心 理学,哲学,倫理学などの人文科学系学科,社会学,人類学などの社会科学系学科なども包 括した死に関する広範な学問領域における教育をも意味する。すなわち,Death Educationの 概念には,広義と狭義の意味が内包されており,我々の生活と共に存在するDeathEducation  は「学際・学問的」とも解される。近代以前のDeathEducationが家庭で行なわれていた

ことや「死Jそのものが定常化されたものであったことから, Death Educationはこれまで はあえて「学際的」意義を有する学習事項で、はなかった。しかし,今日におけるDeath Educationは,我々の生活のなかで学際的なもの,また,日常的なものとして存在してい

るのである。

2 .  

Death Educationの発展の経過

2 ‑

1) Death Educationの発祥

ロパート・フルトンは, Death Educationがアメリカで生まれたものであると述べている。

(川 1978年5月l日号の「ニューズ・ウィークJ (特集:Living  with  Dying)によると,

米国では1964年ごろから死の学問が盛んになり,それまでタブー視されてきた「死」が,

教育者や宗教者によって語られるようになったとある。そして,その理由のひとつには,

1959年から1975年まで続いたベトナム戦争があげられている。米国における死の見直しは,

ベトナム戦争により平和な家庭のなかに,愛する夫や父親,恋人の遺体が運び込まれ豊 かさと繁栄のシンボルであった米国のイメージが幻想でしかなかったことが否応なく露呈

されたことがきっかけであったとされている。(12)

‑ 102  ‑

(4)

わが国の義務教育課程におけるDeathEducation  田中

米国のミネソタ大学において「死の準備コース」と称する科目が設けられたのは1960年 代のことであり,これが契機となり,その後,多数の大学において死に関するコースや学 科が設立され, 1974年には全米で千百ものコースが設けられている。また, 1966年には死 の教育に関する専門的な雑誌「オメガ (Omega) J , 1977年には専門研究誌「デス・エデ ュケーション (Death Education)  Jが創刊されている。

2 ‑ 2 )

米国におけるDeathEducationの実践

現在,米国では,保育園,幼稚園レベルの子供から,年齢,学年に応じたDeathEducation  のカリキュラム,学習目標が設定されている。(13)

具体的に述べると, 5歳から6歳以下の子供への教育は, i生命の誕生,成長,死Jにつ いて植物や動物を教材にして行なわれる。また,墓地を訪れ「墓の意味Jや「墓参りの意 味」などを学ぶ。小学生

2

年から

3

年の子供への教育は,魚,植物,水などの生態系を観察 する一方で,新聞や雑誌の死亡記事のスクラップを作り,葬儀屋見学を行なったりする。

そして,小学生4年から5年の子供への教育は,生命の寿命を調べたり,人口動態統計を調 べる。小学校上級から中学の低学年の子供への教育は,死に関する法律を学び,血圧計や 聴診器を使って身体の反応をみるようになっている。さらに,学年が進むにつれて,自殺,

中絶,安楽死,末期患者に対する医療処置,植物人間といったテーマに対する学習などが 行なわれる。

Death Educationの有効なカリキュラムは,米国に学ぶものが多いといっても過言ではな い。

2‑3)戦後の日本における DeathEducationの発展経過

一方,わが国でも,産業の発達,経済成長の進展は,人々の豊かな生活を生み出し,さ らに,医療技術の発達は,疾病の克服,延命を追求し, i生Jが正義であるかのごとくに 人々の価値観を変化させた。その結果,死は社会において忌み嫌われる,隠蔽されるもの と化してしまった。 (14)しかし,死が隠蔽された近代社会のなかで人々がなぜ iDeathEdu‑

cationJ に関心を持つに至ったのかについて,平山川は, i病院死に対する反省J i現代 医療における人間の疎外化に対する反省J i死の定義があいまいにされたことJ i人口の 高齢化J i疾病構造の変化J i生涯教育の一環としての社会風潮」をあげている。

がん"が死因の第l位を占めるようになる(1日以前の1973年,柏木は,大阪の淀川キリ スト教病院に

O C D P '

(官leOrganized Care of Dying Patient :死にゆく患者の組織的ケア)チ ームを発足させ,ホスピス・ケアに取り組み始めた。また,その後1977年には,河野,乾 が発起人となり「日本死の臨床研究会J, 1984年にはアルフォンス・デーケンらの「生と 死を考える会」が発足している。わが国における人々の「死」への関心は,医療の領域か ら草の根的に生じた医療者・市民を交えた iDeathEducationJの会を発展させるに至った。

また,このような会においては, Death Educationは生涯学習の一環として位置づけられる ものでもあった。

しかし,わが国では,先に述べた米国とは異なり,教育機関におけるDeathEducation  は,医学教育・看護教育の分野においても,また,義務教育機関においても未だ十分な展 開は見られていない。 (17)1(8)わが国では, Death Educationが明確な概念規定がなされない

‑ 103  ‑

(5)

まま一般市民に浸透しつつあることや,世俗的教育と解され学校教育の内容に値するもの ではないという固定観念,教育勅語や修身教育復活に対する懸念などが大きな壁となり,

義務教育現場に立ちはだかっていることは否定できない。これまで,義務教育の実践現場 においてはDeathEducationの是非をめぐる議論が交わされながらも大きな進展をみるま でには至らなかった。

3 .

現代日本の初等教育・義務教育課程におけるDeathEducationの現状 3‑1)学習指導要領(道徳)とDeathEducation 

小学校ならびに中学校学習指導要領(第1章総則)によると州,道徳教育は,

r

教育 基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間尊重の精神と生命に対 する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心を もち,個性豊かな文化の創造と民主的な社会及び国家の発展に努め,進んで平和的な国際 社会に貢献し未来を拓く主体性のある日本人を育成するため,その基盤としての道徳性を 養うことJが目標とされている。道徳、教育は,人間は「人生をいかに生きるべきかJを課 題に,国語科,社会科,算数科・数学科,理科,生活科,音楽科,図画工作科・美術科,

体育科・保健体育科,技術・家庭科,外国語科,特別活動の特質と深く関連するものであ

る 。 ( 加 ( 2 1 )

わが国では1958年に道徳の時間が設置されてから,これまで4回の学習指導要領の改訂 がなされているが,なかでも平成元年の改訂においては,従来の人間尊重精神の一層の深 化を意図して「生命に対する畏敬の念 (22)Jが加えられ,さらに,平成10年においては,

「生きる力」の育成が重視され,その核となる豊かな人間性のひとつに「生命を大切にし,

人権を尊重する心などの基本的な倫理観」があげられた。

r

道徳の内容」山,特に「主 として自然や崇高なものとのかかわりに関すること」を学年段階・学校段階にみると表l のようになっている。

これら平成10年改訂の学習指導要領内容は,平成14年4月1日より全面実施される。なか でも道徳では,児童・生徒が,より学習に意欲的に取り組み,学習への充実感をもち,道徳的 価値の内面的な自覚を深める資料の選択具備要件として5つ仰があげられている。このひ とつに「生や死の問題,人間としてよりよく生きることの意味などを深く考えることがで きる資料Jが示されたことは,義務教育課程におけるDeathEducationの礎をなすものとし て高く評価できよう。しかし,わが国の教育現場における「生と死の教育Jの実践は,平成 の時代を機に道徳教育における人間教育のひとつとしてかろうじてその緒についた状況に ある。

3‑2)教育現場におけるDeathEducationの実践

坂上(25)や村井 (26)が指摘しているとおり,

r

学校教育法J

r

教育基本法」に規定され た現行のカリキュラムでは,これまでほとんど「死jに関する問題は扱われていなかで、

た。ルしかし,小学校低・中・高学年段階における教育内容の試案は検討もされつつあり ω , 作文教育実践などの書籍も刊行されている。 (28)また,近年,ささやかではあるが rDeath

EducationJの実践報告をみることができる。なお,ここでは, Death Educationを「人間

‑ 104  ‑

(6)

わが国の義務教育課程における DeathEducati 田中

表 l 道 徳 「 主 と し て 自 然 や 崇 高 な も の と の か か わ り に 関 す る こ とJの 学年段階・学校段階一覧

小学校 中学校

第1学年及び第2学年 第3学年及ひ漕A学年 第5学年及び第6学年

1.身世旨自然に親しみ, 1.自術っすばらLdや不 1.自脚准大さを知り,自 1.自然を愛護し,美ししもの山惑 動植物に優しい心で 思議さロ惑動し,自然 然環境を大切にす& 動する豊カな{.そもち,人間の 接すと九 キ場姫物を大切にす Z生命がカりがえのない 力を超えたものに対する畏敬の 2.生きることを喜び,生 ξ』 ものであること枚目り, 念を深めと』

命を,大切にする{;そ 2.生命の尊きを感じ取り, 自他の生命を尊重す 2.生命の尊きを瑚干し,制対決

主"Jo 生命あるものを大切に .9,̲  のない自他の生命を尊重す&

3.美ししものに角封1,す 主語L 3.美ししものにJ惑動する 3.人間口語誌や醜さを克服する がすーがしい心剖〉つ。 3.美ししものや気高しも 心や人間の力を超えた 強さや気高おもること剖言じ

のf=l惑動する'L吃も ものに対する畏敬η念 て,人間として生きることに喜び

ペコ。 をもっ。 を見いだすように努める

・ー一一一一一一一一ー一̲..̲..‑一一 ‑ー一一一一一一一ー一一一一一ー一一一 一ー一̲..̲..‑一ー一ー一一一ー一一一 一ー一ー一ーー『日ー一ーーー・・ー一ー一一一ー一一

2の指導¢嵐長この段階 21T..指導¢戯事:この段階 2O!J旨導傍聴:この敦蝿 2の指導¢嵐長指導に当たって においては例えば朝元 になると,現実性抗って死 におし、ては生命の誕生か は人間の生命のみならず身述旨 気に起きられふおし、しく を理解できるとし、われム ら死に至るまで羽島程を理 毅植物をはじめ生きとし生けるもの l

朝食カミ食べられる学校 宇都ここの時期に,生命の尊 解することができゑそれあ の生命の尊厳に気づかせ,生命あ に来てみんなと楽しく学 さを感得できるおに指導 を通して,生命

σ

コ制対決 るものは互いに支え合って生き,生 習や生活ができゑこのよ する必要抗あとL例えは自 のなさを自覚できるようにす カされてしもこと口調約念抗つ うな極めて当たり前のこと ノがコ誕生や生育の過程, ることが重要であ五そして, ょう指導す忍とが重要な課題とな で慰晶ごLがちな「生きて 病気やけがをしたときの様 人間の誕生の喜びゃ死の ふもちろん,自らの生命の大切さを しも証」を実感し,そのこと 子などを思し、浮かべること 重さ,生きることの尊さを知 深く自覚させると誌に他の生命を に喜びを見し、だすことに から,自分の生命の尊さを ることカら自他の生命を尊 尊重する態度を身f:'{寸けさせること よって生命の大切さを自 知り,同様に生命あるものす 重し力強く生きぬこうとする が大切であと』さらに人間の生命 覚できるようにす丘とが ベて討て切にしようとする 'Lを育てると国メ己生命に は人間関系の中でf呆グゴ1るとしち 求められム 'Lを育てることができゑ 対する畏敬の念を育てるこ 側面抗わることも考えさせたしL一 とが大切であと九 人一人の自舌,居場開鴇証され ることで,人聞はその生命を全うで きるとし、うことも尉1てl拾臼弘、

資料:

文部省『小学校学習指導要領解説一道徳編』大蔵省印刷局:平成11年;p.  3839. p. 44. p.  5051  文部省『中学校学習指導要領(平成1012月)解説一道徳編』大蔵省印刷局:平成11年;p.47 

※表は,文部省『中学校学習指導要領(平成1012月)解説一道徳編』大蔵省印刷局:平成11年;p.  134135  より一部抜粋したものに筆者が加筆。

‑105  ‑

~

(7)

の生物学的な死そのものjならびに「人間の生物学的な死に関わる事柄」を取りあげた 教育とする。

具体的に述べると,先駆的な実践例としては,金森の実践をあげることができる。 (29)

金森は, 妊婦"を通して命を教え, がん"患者を通して死を教え,さまざまな活動を 通して生きる喜びを生徒に教えている。なかでも, がん"患者を教室に招き生徒が患者 と関われる場面を設けたことは,先に述べたE.キューブラー・ロスの匿学生に対するレ クチャーと類似している。しかし,この活動は,金森が意図的・計画的な教育内容を携え て臨んでいたとは必ずしもいえない取り組みであった。金森の実践の特徴は,生徒のニー ドに基づき,生徒の関心を真正面から受けとめ,その答えを導くために側面から援助しよ うとするものであり,

r

死」の洞察を深めた生徒もいれば,

r

死」の恐怖を感じた生徒も 存在した。また,金森自身もこの がん"患者が死を迎えたと知ったのちに,深い自己嫌 悪感に苛まれた事実を明らかにしている。

さらに,相原側は,自分が肺のう胞症の手術をして教育の現場に復帰した際,生徒た ちに,手術を受けたときの様子や,病院で死んだ人の話などをよく話題にしていたことか

ら,ある日, 5年生になる男子生徒から「先生の,背中の傷を見せてほしい」と要望され,

教卓に座り上着をめくって見せている。生徒たちは,驚きの声を発し,長時間見ており,

なかには傷口をそっと撫でる生徒もいた。そして,生徒の「そんなに切って良く死ななか ったね」との発言に対し「生きる力」について話したとある。さらに,理科の公開研究授 業では,

r

生命の尊重」を学習のねらいとして,

r

人間がどのような状態になると死ぬの か」について理解させるため,聴診器で生徒同士の心臓の音を聞かせたり,自分がけがを して出血したときどのくらいの量になったら命が危なくなるかを計算させたり,水を入れ たゴム風船を麻袋で覆い,膝で蹴りを入れさせ,腹部に蹴りを入れることが跨脱破裂を招 き死に至らしめる危険性があることを実験させている。

また,木幡(31)は,

r

死」に関わる作品を提示し,生徒がどう捉えるかだけに照準を合 わせる授業を考え,実施している。いわば,生徒が普段考えてもみないことを提示し,寝 た子を起こすような授業,生徒次第でどうなるかわからない授業を企画し,実践している。

対象は,小学校6年生で,教材は,永島慎二の漫画「夏休みj 聞であった。生徒は,さま ざまな感想を持ちそれらが詳細に記されているが,木幡は,

r

この授業はあくまでも導入 に過ぎず『死』を自分の意識のもとにほんの少しだけ接近させたに過ぎない。 Jと述べて いる。

長妻仰は,朝の学級指導の時間に小学校2年生に末期がんである医師の新聞記事(刊を 紹介している。長妻は,

r

世のなかには確実にやってくる死と正面から向かい合い,病気

と戦っている人間がいることを伝えたいと思ったことがきっかけであった。」と述べ,生 徒に「この先生(医師)のように,

w

あなたはあと3ヶ月しか生きられませんよ』といわ れたら,みんなどうする?Jと問いかけたとある。そして,生徒の発案で,この医師に 励ましの手紙を書き,全員の手紙を入れて医師に郵送したところ,

1日でも長く生きの びたいjと返事が寄せられ,長妻は,

r

自分自身も生徒たちも,命について,そして死に ついて,深く考える機会が得られた。」と述べている。

さらに,大塚山は,小学校6年生に『アコロー食うものをくれ!

~

(三留理男撮影,集

英社)と題した東アフリカの餓えた子供たちと大人たちの姿を撮ったl冊の写真集を見せ

106 ‑

(8)

わが国の義務教育課程における DeathEducation  田中

ている。なぜ,この写真集を見せたかについて,大塚は,飽食しきった現代の子供たちが,

いま,現に「食うものをくれ!Jと叫ぶ子供たちをどのように感じ,何を考え,何を想像 し,それらをどのような言葉で書きとめるべきかについての必要性を感じたことをあげて いる。そして,きわめて安易な「かわいそう」の表現が少なく,子供たちの作品の想像力 に驚かされたと述べている。生徒が書いた詩の題は, w死にたくない~ w苦しみ~ w美し い目の中~ w 生と死~ w心の中のアルコールランプ』などであった。

これら死について踏み込んだ、教育を実践する教師に対する批判もある。それは, Iいの ちの大切さJ I生きる力J I心の教育」と「死の教育jは「表裏一体」とする考えに対し て,求められるものは「死の教育」ではなく「生の教育J Iいのちの大切さ」であると主 張するものである。つまり, I死の教育」による子供たちの「ゆらぎJや「つまづき」へ の危倶を懸念することから,一方では否定的な見解が存在しているというわけである。し かし, Iゆらぎ」や「つまづき」は教育上好ましくないものと一概にはいえない。子供の 学習の深まりや人格形成の過程においてはこの「ゆらぎ」や「つまづきJが不可欠な要件 とも捉えられ,これらを閉じ込められた動揺や失敗の域から解放させる教育のあり方こそ が真の論点といえる。(日)

先に記した実践例は,教師らが思考錯誤しながら死をテーマに人間教育を行ない, I生 の教育J Iいのちの大切さJ以上のものを生徒と共に教師もが学習していることを明らか にしている。熊団側は,教科書検定においてD thEducationに関する内容が認められな かったことを述べているが,教育現場においてDeathEducationに対する十分なコンセン サスが得られていないことの問題は,結果として新たな教育実践を規制することにもつな がり,それはまた新たな視点を携えた教育実践を開発することへの視点の欠如であるとも 指摘できよう。 I教育への権利」が,能動的な理性と生きた道徳的意識を創りあげるのに 必要なもの全部を学校のなかに見出す権利でもあることからすればりぺこの権利を守る 視座からの死の教育に関する議論と実践が積極的に行われることが必要不可欠であること はいうまでもない。

4 .

義務教育課程におけるDeathEducationの必要性と課題

小倉ら (39)は,死の教育の必要性を5視点から論じているが,本稿の命題である義務教育 課程における DeathEducationの必要性について整理すると以下の3点にまとめられる。

まず,第ーには:Death Educationは,生涯教育のひとつであり,全人的な教育内容であ るということにある。人間にとって,日常生活の出来事を含め多くのことを学び知る活動 は,人聞が人間であることの証である。科学・技術の急速な進歩に伴って,社会のあり様 や生活のし方も大きく様変わりしたがゆえに,変化しつつある社会を人間らしく生きてい くためには,学び知ることが求められている。 (40)P.ラングラン (P.Lengrand)が1965年 に提唱した「生涯教育」の理念や内容は, Death Educationにもあてはまるものであるとい える。死について児童期からあれこれと考えつつ、けているものの,成人後期に至って完全 に解決されるわけではない。川しかし,子供の潜在的能力は,学習を通して次第に,現 実に何事かをなしうる能力へと発達していくことも否定できない事実である。義務教育課 程におけるDeathEducationは,人間教育の第一歩であり,人間が生涯に亙って人間とし

‑ 107  ‑

 

(9)

て生きる,生活することの意味を思考・追及できる基礎をなすものである。

また,熊田川が指摘するように「自分の死を選ぶJ I自分の死を創る」時代に生きる なかでDeathEducationは有用といえる。脳死が人の死と認められ,安楽死,尊厳死,リ ビングウィル (LivingWi11)附の提唱など死をめぐる社会の変革には教育が必要である。

自分にとっての死" どの様に死にたいか"の思索過程において「自分の死を創る・自 分の生を作るj素地を学校で培うことの意義は大きい。生命の起原や終意,人間のあり方 などについては,子供,成人,老人(44),医療専門家が共に語り合うことが必要であり,

いうまでもなく,個々人の生命,身体,精神は個人のものであって国家や政治権力,宗教 団体に従属されるものではない。利益追求の社会体制から「人間の主権」を取り戻し,生 命工学や先端医療の暴走を押さえるためにも,すべての人が真剣に自分の死,そ?死ま での生き方について考えなければならないことはいうまでもないことであろう。叫

第二に,わが国における子供たちの多くは,核家族のなかで育ち,他者の死に遭遇せず に成長している。核家族では,高齢者不在,仮に高齢者がいても病院で亡くなるため,死 の場面に遭遇する子供は僅かでしかない。 I死のタブー化J I死の医療化J I死の病院化 附J I死の周辺化川」により,現代に生きる子供たちは「死」から 隔絶"されがちな 存在といえる。パトリシア・ウィールノルセン (PatriciaWeeno1sen)  (削は,親たちが死

を隠蔽する事実を指摘し,子供たちに死の事実を正確に伝えることの必要性を説いている。

また,アルフォンス・デーケン州は,

I子供は『死とは何か~

wどうして人は死ぬの

か』,『死んだら後はどうなるのか』という3つの根本的疑問をもつことから,子供たちが 小さな頭をひねりながら探していること,その際,親から何らかの手がかりを与えてもら う権利を子供が有していることに親が気づかねばならない」とし,子供の知識への探求心 を無視することは後になってさまざまな情緒的問題,たとえば死に対する激しい恐怖とい った問題を生むことにも成りかねないことを指摘している。

さらに,最近では,特に,青少年犯罪があとを絶たない状況にあり側,その背景のひ とつとして青少年の「生と死」に対する軽視があげられる。 1997年9月5日,兵庫県教育委 員会は,定例教育委員会において全国でも例のない「生と死の教育」の必要性を明らかに している。委員会は, 1997年6月神戸市須磨区で起きた中学生による小学生殺人・死体遺 棄事件, 1995年l月の阪神・淡路大震災は,子供たちへの「命」の教育の必要性を問うも のであったとして, I生と死Jは, I生Jをみつめる性教育 (SexEducation)の場で扱うこ とが妥当であるとの方針を出している。しかし,教室で本当に「死」に触れられるか守 うことの論議がなされ「生と死に関する手引書」の作製は困難を極めたのも事実であるいO

L

かしながら,大人が子供たちと真正面から向かい合い,命の尊さや真に生きることの意 味を学ぶ機会を与えない限り,人間の死や生に鈍磨したともいえる悲惨な青少年犯罪をな

くすことは不可能であるといえよう。

第三は,先に述べた米国の教育プログラムやわが国のDeathEducationの実践結果を見 ても,生徒のニード・関心に合致したものであるという点にある。さらに,生徒だけでな

く教師も共に学び得ていることが注目すべきことである。勿論 生徒の関心が即座

?T

の必要性につながらないことは理解できる。小倉ら聞によると,死に対する子供の認識 の発達段階は, 6歳で死ということに情緒的反応を起こし始め,死は不可逆的なものであ ることを徐々に理解し始める。そして7歳では,自分が死ぬことは否定的であるが,死は

‑108  ‑

(10)

わが国の義務教育課程における DeathEducation  田中

苦痛を与えるものであることを理解し,

8

歳では,人間はいつか死ぬということを理解で きるようになり,自分を含めて人が死ぬことを冷静に受容する。 9歳では,死の不可避性 を認識し,成人に近い死の観念を持ち, 10歳以上になると,大人の死生観に近づき,死に 関心を持ち,科学的に死とは脈が止まり,呼吸しない状態であるとみなすようになる。す なわち,生徒の「死」に対する関心に応じたDeathEducationは,生徒の発達段階に応じ た合理性あるものでなければならず,さらに教師がそれを的確に捉えることにより,教師

自身も学び,その教師の取り組みを通して生徒は更なる学びを得て成長が期待できるとい えよう。

生徒のニード・関心を尊重した教育こそが生徒の思考を高め,問題の解決や新たな課題 発見・追及へと向かわせる。それは,知的学習にとどまらない,人間学習,すなわち人間 として生き,死を迎えることへの学習であることにほかならないといえる。 DeathEducation  は,教育プログラムの立案や実践なくして真の価値を見出すことは困難といわざるを得な い。なぜならば,

r

死Jや「生」そのものが未知なるものとして我々と共に存在するから である。

わが国において,教育の場に「死」を持ち込むことの壁として,戦後の学校教育が「天 皇のために死ぬ教育」から「生きるための教育」へ転換された歴史的な経緯や,死と宗教 との結びつきの観点から政教分離の原則などがあげ冒られている。これからは,こうした壁 を壊すためにも死の教育のねらい間,目的,目標,教育方法の検討が重ねられることと,

Death Educationが教師を含めた市民への生涯教育として位置づけられることが重要な意味 をなすものと考える。佐々木(刊は,イギリスのホスピスについて,ホスピスというひと つのコミュニティのなかで,その研究と実践を進めていく道を選んだことにより,ホスピ スは医学界以外の社会に多くの影響を与えたとし,ホスピスが,単なる末期患者の収容施 設ではなく,多くの人々に生や死に関わる学習の機会を提供している学習センターとして の側面を持っていることを指摘している。今後,わが国でもDeathEducationを義務教育 における人間教育として位置づけ,教師と共に地域の一般住民もがDeathEducationの教 育計画や実践を担えるようにする取り組みが課題であるといえよう。

生命尊重の教育は,国民のコンセンサスに基づいた教育から時代に即した教育のあり方 へと変化を遂げ始めている。つまり,死を積極的に取りあげる教育が必要とされているの である。

r

死J

r

生」を広く取りあげた「命Jの教育を中心に据え,そのなかで死に関す る事柄を積極的に取りあげて地域の中で学べる教育体制の確立と日々の教育実践が求めら れているのである。

おわりに

Death Educationの必要性を唱える声がありながらも,実践までには結びつかない理由と して, Death Educationの教育内容,教育方法,教育する人材の問題があげられる。特に,

教育内容については,教育のねらいを明らかにしなければならないことが指摘できる。

「死J

r

いのちJ

r

生命倫理J

r

死を取り巻く社会問題jなどの中から,いったい何を教 えるのかについて検討が重ねられなければならない。また,教育方法については,いつ,

どこで,誰によって,どのように実施していくかが課題とされるが,重要なことは,発達 109 ‑

(11)

段階を踏まえ,地域社会のなかで学べるように組み立てていくことが必要であろう。さら に 教育を行なう教師自身の課題(死生観・人生観・価値観・学習)があげられるが,生 徒と共に教師もが学び続ける姿勢を持ちつづけることが何よりも求められていることはい

うまでもない。

(1) 1977年「死の臨床研究会J, 1984年「生と死を考える会」のほか, 1983年「日本・生 と死を考える会(大阪)J , 1984年 iD・E.S ‑臨死問題研究会(東京)J , 1987年「仏 教者ビハーラの会(新潟)J i東京仏教ホスピス会(東京)J i神戸生命倫理研究会

(兵庫)J , 1988年「群馬ホスピスケア研究会(群馬)J , 1990年「終末期を考える市 民の会(東京)J iささえあい医療人権センター・ COML(大阪)J , 1991年「患者権利 法をつくる会(福岡)J , 1992年「ホスピスを考える横浜市民の会(神奈川)J , 1993  年「育ち合う患者と医療者の会(福岡)J , 1995年「自分で選ぶ自分の医療を進める会

(岡山)Jなど,全国市民組織は百を超えている。柳田邦男『死の医学への日記』新潮 社:1996 

( 2 )金森俊郎・村井淳志『性の授業・死の授業』教育史料出版会:1996  ( 3 )熊田亘『高校生と学ぶ死一「死の授業Jの一年間一』清水書院:1998 

(4)小倉学・相馬水香「死の教育の目標と内容について一第2報小学校段階の教育内容につ いてJ i学校保健研究J32(3) :1990;p.150‑157 

( 5 )アルフォンス・デーケン「死への準備教育の意義一生涯教育として捉える」アルフォ ンス・デーケン編『く叢書〉死への準備教育・第1巻』メヂカルフレンド社:1986 ; p. 2  (6 )山本俊一『死生学のすすめ』医学書院 :1992;p.112

(7) 1993年11月21日付け毎日新聞(朝刊) i W死の教育』とは何なのか.社会学者,ロパ ート・フルトン教授に聞くJ

( 8 )平山正実「生と死の教育ー特に生涯教育の中で‑J樋口和彦・平山正実編『生と死の教 育ーデス・エデ、ユケーシヨンのすすめ』創元社:1985; p.144‑170 

( 9 )大倉透「老人と子供と死の教育」樋口和彦・平山正実編『生と死の教育ーデス・エアユ ケーションのすすめ』創元社:1985; p. 57‑58 

(10)谷荘吉「医学教育Jアルフォンス・デーケン編『く叢書>死への準備教育・第1巻』 メヂカルフlシンド社.:1986 ; p.  163‑164 

(1)ロパート・フルトンは, i W死の教育』は,米国で始まった学問であり,認知された のは, 1965年ニューヨークで聞かれた 死"についてのシンポジウムである。」と述べ ていふそして, i死を隠すことは,その人が今まで生きてきた価値や意義をわからな くすることであり,工業社会,消費社会の進展で 若さ"こそが良いとされ, 死"と いう現実を無視して生きるようになった。このことは,人の命がわからないだけでなく,

自分の感情もわからない人間になってしまうことに結びつく。 Jと指摘している。 1993 年11月21日付け毎日新聞(朝刊) i W死の教育』とは何なのか.社会学者,ロパート・

フルトン教授に聞く」

(12)若林一美「アメリカにおけるデス・エデ、ユケーション」アルフォンス・デーケン編

‑ 110  ‑

(12)

一ー司圃・町F

わが国の義務教育課程におけるDeathEducation  回中

f <

叢書>死への準備教育・第1巻』メヂカルフレンド社:1986; p.314  (13)若林、前掲書;p.316322

(14)近代社会においては,性はタブー視されると岡崎に密かに楽しまれるポルノグラフィ の対象となってきた.これと同じように.日常的に死が見えにくくなった社会においては,

死についての言説はタブーであると同時に,密かな好奇の対象ともなっている.こうした 傾向をGゴーラー (GeoffrcyGorcr)は「死のポルノグラフィ(pornographyof death)  と呼んだ。死の隠蔽性をあばきだし,それを積侮的に考察の対象としようとする姿勢は,

Ph.アリエス (PhilippeAries)をはじめ,その後多くの研究者に影響を与えた。 r福祉社 会事典』弘文堂:1999 

(15)平山、前掲書;p.148150

(16)死因としてのがんの割合が首位を占めるようになったのは1981年のことである。

(17)小倉学・森永浩一朗「児童生徒の死別経験と死に対する態度について一死の教育のた めの基礎調査結果ーJ r学校保健研究J29  (6)  1987;  p.281288 

(18)熊田、前掲書

(19)文部省『小学校学習指導要領解説ー総目JI制』東京書籍:平成11年 ;p.  12 122. 128 129 

(20)文部省『小学校学習指導要領解説一道徳島両』大蔵省印刷局:平成11年 ;p. 85 ‑87  (21)文部省『中学校学習指導要領(平成1012月)解説一道徳編』大蔵省印刷局:平成11

年 ;p. 90 ‑95 

(22)人間存在そのものあるいは生命そのものの意味を深く問うときに求められる基本的精 神であり,生命のかけがえのなさに気づき,生命あるものを怒しみ.畏れ,敬い,尊ぶこと を意味する。文部省『小学校学習指導要領解説一道徳編』大蔵省印刷局:平成11年 ;p.  23 

(23)道徳教育の目標を達成するために桁将すべき内容項目は次の4つの視点から示されてい る。①主として自分自身に関すること。②主として他の人との関わりに関すること。③ 主として自然や崇高なものとの関わりに関すること。④主として集団や社会との関わり に関すること。

(24)資料選択の具備要件として次の5つが示された。①児童・生徒の感性に訴え,豊かな感 動を与える資料,②人間の弱さやもろさに向き合い,生きる喜びゃ勇気を与えられる資料,

③生や死の問題,人間としてよりよく生きることの意味などを深く考えることができる 資料,④体験活動や日常生活などを綴り返り,道徳的価値の意義や大切さを考えることが できる資料,⑤多様で発展的な学習活動を可能にする資料.

(25)坂上正道「教師教育Jアルフォンス・デーケン編

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叢書>死への準備教育・第1 巻』メヂカルフレンド社:1986;p.140‑143 

(26)金森・村井、前掲書;p37 (27)たとえば,小倉・相馬、首ij掲書参照

(28)日本作文の会編『子供の作文で綴る戦後50年⑫いのちの開き』大月書応:1995  (29)金森・村井、品開

1 m

(30)相原昭「入は何デシリットル出血したら死ぬかJ rひと』編集委員会編『死と性を教 える』太郎次郎社:1990 ; p. 613 

‑ 111  ‑

(13)

(31)木幡寛「授業・ 死"についてJ Wひと』編集委員会編『死と性を教える』太郎次郎 社 :1990 ; p.  14‑23 

(32)この漫画は,一人の老人の死をきっかけに千平という少年がどう変わったかを問いか ける作品である。

(33)長妻真智子「死なないで!お医者さんでしょJ Wひと』編集委員会編『死と性を教え る』太郎次郎社:1990; p. 24‑31 

(34)記事は,末期がんに冒された医師が自分の死を予告する随想を地元の医師会報に掲載 したというもの。

(35)大塚博「アフリカの写真が子供の心につきささる,写真集『アコロ』を見て誌を書 くJ Wひと』編集委員会編『死と性を教える』太郎次郎社:1990 ; p.44‑48 

(36)岡本夏木「つまづきとゆらぎJ W岩波講座教育の方法2学ぶことと子供の発達』岩波書

!苫:1987 '  p;.  110‑144  (37)熊田、前掲書;p. 36‑39 

(38)堀尾輝久「学ぶことと子供の発達J W岩波講座教育の方法2学ぶことと子供の発達』

岩波書庖:1987 ; p. 23‑24 

(39)小倉らは,死の教育の必要性の観点を5つあげている。①死に関する経験・認識の不足,

②死の非日常化,③医療の諸問題の発生,④Dyingへの対応の教育,⑤高齢化社会に伴う加 齢の問題への対応.小倉学・中村邦子「死の教育の目標と内容について一第l報死の教 育の必要性と目標について一J I学校保健研究J31  (11)  : 1989; p. 53540 (40)堀尾、前掲書;p. 2‑7 

(41 )パーパラ・M・ニューマン著・福富護訳『生涯発達心理学』川島書庖:1988 ; p. 462  (42)熊田、前掲書

(43)日本尊厳死協会(東京都文京区)は ILivingWillJを「尊厳死の宣言書」とし,死 んだのちに効力を発生するのではなく,生きている本人の,生きた遺言書を意味するも のであるとしている。

(44)堀は, I高齢者に対する死への準備教育は,それ以前の時期の者に対するものとは質 的にやや違ったものが勘案されても良いとし,死を受容して成熟するという高度な依存 性を獲得することこそが求められている」と述べている。また I高齢者を対象とした 死に関する生涯教育においては,具体的な死の事実をもとに実践を進めることが有効で あり,同年代の人からその人の体験を『模範的事例』として展開されることが望まし い」と述べている。堀薫夫「高齢者の死への意識と死への準備教育の可能性に関する調 査研究J I日本社会教育学会紀要JNo. 32  : 1996 ; p. 86‑94 

(45)横山利弘監修『在り方生き方教育』学陽書房:1994; p.159‑164 

(46)  1997年における,わが国の施設内(病院・診療所等)死亡割合は81.1 %。厚生省大臣 官房統計情報部『人口動態統計』

(47)伝統的社会では,村落共同体のなかで人々が生まれ,老い,死を迎えていた。核家族 化の進展に伴い病院死の時代が到来し,死は身近な存在でなくなってしまった。

(48)パトリシア・ウィーノルセン著・寿美子コパレック訳『死のバイブル』原書房:1997 

; p.  54‑60 

(49)アルフォンス・デーケン「死への準備教育(デス・エデ ユケーション)J河野友信・

‑ 112 ‑

(14)

わ が 国 の 義 務 教 育 課 程 に お け る DeathEducation  田中

河野博臣編『生と死の医療』朝倉書店:1985 ; p. 83 

(50)  1997年6月神戸市須磨区で起きた中学生による小学生殺人・死体遺棄事件(中学3年生 が小学校6年生の首を絞めて殺害し,死体を損傷した上,その一部を中学校の正門に遺 棄した) , 1998年l月栃木県黒磯市で起きた中学生による教師殺人事件(中学 l年生が授 業に遅れたことを注意した女性教諭をバタフライナイフで刺して出血死させた)などを はじめ多数の事件がある。

(51)報告連続児童殺傷事件・第5部教室の中の「生と死J : http://www.kobe‑ne.co.jp/  news/jiken/toku/kyositu.html) 

(52)小倉・相馬、前掲書

(53)小倉・中村は,参考文献にみられた目標を整理し,死の教育の5つの目標を明らかにし た。目標は,ブルームの3領域を視点として,①認知:死の基礎的知識の理解,②情意:生 と死に関する価値観や健全な態度の育成,③行動:ライフスタイルの中で各段階に応じ て生と死をめぐる問題に具体的で適切な対処ができる,などがあげられている。また,

死の教育の目的は,次の内容である。①生命尊重の教育,②生き方の教育,③人格の教育,

④予防教育,⑤平和教育.しかし,現代においては,社会の変貌・変革の現状に合致した ものとは言い難い。小倉・中村、前掲書

(54)佐々木裕子「生と死に関する成人の学習活動一イギリスのホスピス・ムーブメントを 中 心 に ‑J i日本社会教育学会紀要JNo. 29 : 1993 ; p. 672

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