九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
An Essay on the Types of Inheritance:
especially on so called Ultimogeniture
内藤, 莞爾
https://doi.org/10.15017/2328743
出版情報:哲學年報. 27, pp.37-132, 1968-03-25. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
相 続 形 態 の 試 論 的 分 析
ー い わ ゆ る 末 子 相 続 を 基 軸 と し
て
l
内
藤
......(4‑
フじ
=
爾
} 土
じ
め
乙の文章は︑別に新しい立場を展開しようとしたものではない︒問題を整理するために書いた︑
一一
砲の
メモ
にす
ぎ
P弘 ︑ ︒
ふp
v
とい
うの
は︑
われわれはこのととろ︑相続慣行の調査を続けている︒それもいま話題の﹁農家の後継者問題﹂
といった種類のものではない︒西南日本︑特に九州でよく見られる︑いわゆる末子相続の問題である︒だからこんに
ちの農業問題に対処する︑
そう
いっ
た姿
勢は
︑
はじ
めか
ら欠
いて
いる
︒
とこ
ろで
末子
相続
は︑
日本家族制度の柱であ
った長子家督という線からすれば︑これは大きな例外であった︒そういうと乙ろから︑民俗学の方面では︑すでに戦
前から注目していたし
2
︑また私法学では︑中川善之助が早くから信州諏訪地方の研究を発表している2
︒フレ
ーザl
︵ト
﹃・ 司円
MW
NO
円 ︶ やピノグラドフ
︵司・︿宮0↑
m g
3など︑先学の諸説を紹介したのも︑また乙の中川であった与 え
︿3
︶ ︒
相続形態の試論的分析
七
相続 形態 の試 論的 分析
/¥
︿1
︶久 保清
・橋 鴻泰 雄﹁ 五烏 民俗 図誌
﹂︵ 昭和 九年 三 瀬川 清子
﹁五 島雑 記﹂
︵﹁ 旅と 伝説
﹂九
|十 一︑ 昭和 十年 三 橋浦 泰雄
﹁民 間伝 承と 家族 法﹂ 昭和 十七 年︒
︿2
︶中 川善 之助
﹁末 子相 続﹂
︵﹁ 家族 制度 全集
﹂史 論篇
V︑
昭和
十三
年︶
︒
︿3
︶戸
の・
可話
回柑
♂
J司 同
H叩
司 向
岡M
.の
.当
ロ︒
伺吋
包︒
毘.
︒ロ
邑
50
同 呂 田 件
︒ ユ
n曲
目官
民名
目骨
8回・忌
MO JM
・M
というわけで︑われわれの調査は︑むしろ古典的な領域に属しているともいえる︒ただわれわれの動機としては︑
せっかく資料が近くで生きている︒そしてそれが法の改正︑特に最近の全国的な社会流動によって︑大きく変わろう
としている︒だからその実態を︑遅蒔きながらとらえておきたい︒それにどうせ手を着けるならば︑社会学の立場か
ら︑なにか発言の場所はないか︑という乙とであった︒しかし社会学の立場といっても︑乙れはまだ構想の段階に至
ウていないT︶︒ただ断片的なモノグラフとして︑家庭内の人間関係というものに注目して︑報告した乙とがあった
にすぎない︒もっとも乙れでさえ︑問題点としては︑すでに先学の指摘があった︒われわれは︑それを実証的・計数
的に裏づけただけの乙とである
2
︒︵1
︶社 会学 的な 分析 とし ては
︑戦 前︑ 及川 宏の おこ なっ たも のが 見ら れる
︵及 川宏
﹁信 州諏 訪塚 原村 にお ける 分家 に就
てl
所謂
末子
相続
の一
例と
して
|﹂
︵﹁
民族
学研
究﹂
第四
巻三
号四
一一
一|
四四
四頁
︑の
ち及
川宏
﹁同
族組
織と
村落
生活
﹂所
収︶
︒
︿2
︶内
藤莞
爾﹁
いわ
ゆる
末子
相続
につ
いて
﹂︵
﹁村
落社
会研
究﹂
第三
集﹀
︒ 内藤 莞爾
・野 口英 子﹁ 末子 相続 の家 族関 係的 分析
﹂﹃ 社会 と伝 承﹂ 一
ol
一 二 ︶ ︒
と乙ろでこうした分析をおこなっているあいだ︑だんだん判ってきたのは︑
この テ
1マがかなり多岐にわたる課題
をかかえているということであった︒近ごろは︑報告例がふえるにつれて︑新しい提言や想定がなされるようになっ た︒それに農業経済学のように︑別の領域からのアプローチもなされている︒むろんこうした文献の充分な消化は︑
われわれの能力を出るものといってよい︒
ただ それ
にし
ても
︑ これからもこの仕事を続けていくとすれば︑
アタ マの 整理 だけ は︑ やっておいたほうがよいのではないか︒
いうなれば末子相続についての一応の﹁交通整理﹂である︒レ たがって以下︑述べることも︑作業仮説や分析図式といった︑戦略的なものを考えているのではない︒せいぜい乙れ
から外れると危険状態になる︑そういった﹁寛容圏﹂︵
N S
ゆえ
ZZ
ER
︶をしめす程度にすぎない︒O
それ とと もに
︑
われわれの仕事を含めて︑
この方面の研究がさらに進むならば︑
こうした﹁寛容圏﹂でさえ︑大きく塗りかえられる のは 当然 であ ろう
︒
いわゆる末子相続の場合︑
こ乙でいう﹁末子﹂と﹁相続﹂の実態は︑
どう であ るか
︒ 乙の点は︑あとで述べること
にな
るが
︑
一般
に末 子相 続と は︑ この﹁末子﹂といわれる者がイエを継ぐ︑
そういう意味に解されている︒
つま
り一 種の家督相続だということになる︒果たしてそうであるかどうか︒第一の問題点である︒
ところでこのさい﹁家督﹂
とは武家に限られる︑という見かたもある︒すなわち主君の認許にもとづく相続に限定して︑農工商などのそれは︑
︷1︶
﹁遺跡﹂相続その他と呼ぶべきだとする︒法制史家の発言である︒ただ乙の区別が︑単に呼称の乙とだとすれば︑こ
れはさして問題はない︒
けれども多少でも実質的な意味があるとするならば︑
この
区別
は︑
おそらくそれぞれの相続
相続形態の試論的分析
1t
相続形態の試論的分析
四 0 がどの程度︑制度佑︑特に法制化されているかに対応するものであろう︒もっとも事実問題としては︑明治民法以後︑
乙とばのうえでは﹁家督﹂相続に一元化されてきた︒
とともに武家は亡びたので︑形式的に﹁家督﹂と﹁遺跡﹂との 区別に乙だわる必要はないといってよい︒ただ問題は︑実際の慣行面で残される︒第一に︑藩政期の乙ろでも︑支配 者である武家層の﹁家督﹂的パターンというものは︑禄︵武家︶
と私有財産︵農工商︶という物的基盤がまったく異 なるにもかかわらず︑被支配者層にまで浸参した乙とが考えられる︒特に農工商それぞれの上岡胸部では︑
かれらに対
する準武家的処遇ともあいまって︑家督的パターンの導入は︑抵抗なく︑
いやむしろ進んでおこなわれた︒
これ
は︑
史実のしめすところである︒第二は︑維新以降︑
なるほど身分制は廃止された︒
けれども明治維新そのものが︑政治 革命ではあっても︑市民革命ではなかった︒また乙の革命の推進者は︑第三階級の人たちではなくて︑同じく武家層
であ
った
︒ とすれば︑家庭主活あるいは相続のパターンについても︑旧時代のものが︑維新後も持ちこされる︒
そ ャ つ
いう根拠が容在する乙とになる︒
つまり家督的相続と遺跡的相続との混在である︒
︵1︶
三浦
周行
﹁法
制史
の研
究﹂
︵下
︶︒
柳田
国男
﹁族
制語
集﹂
昭和
十八
年︑
一八
八頁
︒ しか し﹁ 遺跡
﹂と いう のが
︑ど の程 度︑ 用公 語と して 適用 した かは 疑問 あで る︒ 関東 地万 では
︑あ とと り息 子︑ ある いは 息子 一般
にも
用い
れら
る︒
人類学者が﹁武家的文佑﹂
︵支配者の文佑︶と﹁古民文化﹂とを区別し︑族制のうえでは前者の単系制︑後者の双
系制︑婚制のうえでは前者に宮
E
−o g
−︑後 に者 自民 民 1U
白
H
E R
−
m
を配 置し よう とす るの も︑ この線に沿うものとみ
るととができるT
︶ ︒
それ は別 とし て︑
﹁家 督﹂ と﹁ 遺跡
﹂と を︑ 制度化・法制化の程度と考えた場合︑それでは制
度化・法制佑で求めたものはなにか︒
乙れ は抽
象的
には
︑
いわゆるイエの観念だとしてよいであろう︒論旨がやや飛
躍するけれども︑いおうとするのは︑次の点である︒すなわち武家的な家督では︑イエを重視し︑したがってそ乙で
は︑例外はあっても︑一般に総領制が採られた︒とすれば︑庶民的な遺跡では︑イエ観念が稀薄であるとともに︑
乙
こではアトトリとして長子にこだわらない︒そういう乙とになりそうである︒ではここでイエといい︑家督というの
は︑なんであるか︒
乙う
なる
と︑
おわりに言おうとする乙とに︑はじめから答えなければならない︒それで乙れを避
けるために︑とりあえず次の三つの指標をあげてみたい︒現象的な指標である︒
て家昼敷・家名・位牌など︑いわゆるイエの象徴と見られるものを承継する︒
二︑親の老後を扶養する︒
ゴ一
︑親
の葬
儀︑
あるいは祖先・亡親の供養をおこなう︵2
︸
︒
こういった点に注目すると︑われわれの見たかぎり︑いわゆる末子慣行地帯では︑これらすべてが揃っているとは
いいえない︒極端な例として︑後で述べるカトリック家族など︑もともと位牌は存しない︒けれども決定的なのは︑
これら三つの指標︑すなわち象徴の承継者︑親の扶養者︑葬儀・法要の主宰者がかならずしも同一人に帰着しない︑
乙の点であろう︒特に象徴の承継者をかりに﹁家督﹂と考え︑親の扶養者をア卜トリあるいはカカリ子とみた場合︑
乙の両者には︑時としてズレが認められる︒また葬儀や法要にしても︑父のそれは長男︑母のそれは次男のように︑
主宰者が分佑している場合もある︒さらに石碑の建立などになると︑兄弟の共同出資というように︑責任の主体がは
っきりしない例も少なくない︒これもイエ観念が稀薄なため︑そういってしまえばそれまでであるが︑とにかく乙う
相続形態の試論的分析
四
相続 形態 の試 論的 分析
四
した事実のために︑次のことがいえる︒つまり長子総領制では︑承継者日扶養者リ祭記者という等式がほぼ成りたつ︒
乙れに対して︑われわれの扱う末子相続では︑この点が複雑となってくる︒とともに当然の乙とながら︑本家・分家
の家格的な格差は少ない︒特に総本家を頂点とした家連合のハイラルキーなどほとんど認める乙とができない︒とい
うよりも兄第同士で︑どちらが本家なのか︑これさえ判然としないような事例も見られる︒
︵1︶
給大 近逮
﹁日 本文 化の 地域 性と その 構造 的理 解﹂
︵﹁ 民族 学研 究﹂ 二一
l一 二 ︶ ︒
︵2︶
イエ の承 継︑ ある いは 扶養 など と関 連し て︑ 財産 の分 与が 大き な問 題と なる が︑ これ につ いて は︑ あと で述 べる
︒ 川島 武宜 は︑ ィエ の特 異性 がし ばし ば指 摘さ れる のに
︑正 面か らこ れに 取組 んだ 人の ほと んど ない こと を指 摘す る︒ そし て かれ は︑ この イエ を次 のよ うに 説明 する
︒イ エは
﹁世 帯の 同共 とは 関係 のな い血 統集 団の こと であ って
︑構 成員 の死 亡・ 出生
・結 婚な どに よる 動変 はあ って も︑ その 閲一 性を 保持 して 存続 して いく もの だと いう 信念 を伴 うと ころ のも の﹂ であ る︒ これ だけ では
︑は なは だ抽 象的 で︑ っか みど ころ がな いの であ るが
︑な お﹁
−岡 性﹂ につ いて は︑ イエ の﹁ 同一 性は
︑姓
︵氏
・家 名︶ およ び祖 先祭 澗の 同一 性に よっ て象 徴さ れる
﹂と 述べ てい る︒ とす れば
︑わ れわ れの げ挙 た三 つの 指様 のう ち︑ 一︑ はあ きら かに 該当 し︑ 三︑ は一 部が イエ の規 定に 含ま れる こと にな る︵ 川島 武宜
﹁イ デオ ロギ ーと して の家 族制 度﹂
︶︒
ところがいわゆる末子慣行では︑
このようなイエ意識︑
したがって川島のいう信念とか象徴とかいった点は︑あま
り考慮されない︒それで﹁相続﹂といっても︑そこでは﹁家督﹂としてのそれよりも︑むしろ﹁扶養﹂としての意味
を強くしてくる︒われわれの指標からすれば︑第一のそれよりも第二のそれである︒また第三のそれにしても︑もと
もとイエのハイラルキlが欠けているため︑遠祖の祭杷はまずありえない︒したがって意識としては︑親の葬儀とか
法要とかにいきおい傾斜する乙とになる︒一言でいえば︑精神的・象徴的なものよりは︑現実的・感覚的なものであ
る︒だから川島のように︑もしイエを﹁世椿の共同とは関係のない血統集団﹂と割切るならば︑末子慣行地帯の家族
は︑イエというよりも﹁世帯﹂の性格が強い︒生活体としての家族である︒だから相続の意味も︑
イエ を継 ぐよ りも
︑ 世帯を継ぐという点が強く意識される︒とりわけ老後における親との共同生活と︑その遺産を承継するということで ある
︒と する と︑ このように類型佑した場合︑長子家督と米子慣行とを同じレベルで扱うということ自体︑論理的に はおかしい︑ということになってくる︒承継すべき対象が︑まったく異質だからからである︒少なくとも比重に置き かたにおいて︑方向を別にしているといえる︒殊に末子相続の場合︑家督と扶養とが人を異にする︑というような
ζ
とになると︑長子家督と同一の扱いは︑一層困難のようであるT︶O
︵1
︶鹿
児島 農村 の一 部で は︑ この 傾向 が見 られ る︒ 肝属 郡串 良町 では
︑長 男を 分家 させ ても
︑そ の長
男を
家替 相続 人と 考え る︒ まこ とに 実体 なき 相続 人と いえ る︒ かれ は︑ 家・ 屋敷 も継 がな けれ ば︑ 祭記 権も
不明
であ る︒ 財産 分与 も︑ 分割 であ って
︑長 子ゆ えの 特権 もな い︒ なる ほど 戸籍 回で は︑ この 長男 が﹁ 家督 相続 人﹂
にち
がい ない
︒た だ︑ この よう な法 制化 が︑ 形式 的家 督と 実質 的家 督と を分 離さ せる こと にな った か︒ この 点は
︑後 考を 待た なく ては なら ない
︒
それで以上のことをごく大胆に類型化してしまうと︑次のようになろう︒
相続類型
ー︑家督型Hイエ的H精神的リ制度的
E︑遺跡型リ生活︵扶養・老後保障︶的H実質的H慣行的
ただ
Iは︑もともと支配者のパターンなので︑殿上公卿はいぎ知らず︑被支配者たる庶民の遺跡的相続に影響を与
える︒前述のとおりである︒そして乙の影響は︑三様の仕方でおこなわれる︒すなわち一万では︑分地制限令や長男
への特権附与のような形で︑
乙れ
が強
制さ れる
︒
とともに︑他万では︑一部の被支配層︑特に各層の上層部では︑む
相続 形態 の試 論的 分析
四
相続形態の試論的分析
四 四 しろ長子家督を理想型のように考えてーーその背後には支配層への接近と︑同一身分層内での優越の姿態も考えられ るーー積極的にこれを受容する乙とにもなる︒
そしてこれらは︑すでに藩政期に始まった︒ところが明治になって︑
華士族の称号を新設しながも︑形式的には四民平等のスローガンが掲げられる︒
乙れに呼応して︑相続も︑武家的パ
ターンの﹁家督﹂に一元化される乙とになる︒
それだけではない︒長子は︑法定の推定家督相続人として︑相続順位
とし
て第
一位
を占
める
︒ つまり乙れをあえて犯せば︑法違反に問われる︒といった次第で︑絶対政府の権力のもとで の法制佑が進行する︒また相続人としての長子を擁護する目的で︑
一時は徴兵免除の特権さえ与えられた
3
︒そ し
てあ
げく
のは
ては
︑ さきの鹿児島の例のように︑家督と遺跡とが分離される︒
そういう事情も考えられてくる︒
﹁←
強制
︵制
度化
︶︸
−
︷
→ 対 応
︸
E
︷
← 法 制 化
﹄
︵1
︶福
島正
夫﹁
明治
前半
期に
おけ
る家
制度
の形
成﹂
︵日
本法
社会
学会
編﹁
電鉄
制度
の研
究﹂
︵上
︶歴
史︶
︒ それでこのように体制的には︑長子家督への道が聞かれた︒
そしてこの道を通ることが求められ︑
かっ
誘導
され
た︒
にも
かか
わら
ず︑
いわゆる末子慣行がなお残存した︒
このことは︑どうとらえるべきであるか︒
﹁抵
抗﹂
の姿
勢と
し
てみ
る乙
とも
︑ できるかも知れない︒また慣行の惰性とする乙とも︑可能である︒けれどもかりに為政者・権力者の 側からは﹁抵抗﹂とみられたにしても︑相手方ではそう意識していたかどうか︒また慣行の惰性︑
﹁制
度の
おく
れ﹂
ある
いは
の巳
宮門
包
E m
など
とい
う乙
とは
︑ これを概論的に理解するのは︑きわめて容易である︒
だがかりに抵抗あ
るい
は情
性で
あっ
ても
︑ それにはそれ相当の理由がなければならない︒というのはこの慣行は︑明治民法の施行から
・
少なくとも新民法の実施まで残害した︒
つまり法規制にもかかわらず︑半世紀以上も続いた︒
このことの説明ができ
にく いか らで ある
︒
乙れは後に述べる乙とになろうが︑われわれは︑かれらに抵抗の姿勢を強く認める乙とはできな
ぃ︒抵抗の必要がなかったからである︒端的にいえば︑かれらにはイエが要らなかったし︑またその意味では﹁家督﹂
の必 要も なか った
︒ ではなぜイエが要らなかったか︒したがって家督の必要がなかったのか︒
乙れは︑歴史的・社会
的・経済的な諸条件から説明されなくてはならないのが︑いまはその場所ではない︒
しかしこうした論議にさきだって︑実は欠けたものが存在する︒それは家督型・遺跡型それぞれの実態︑特にわれ
われの問題点としては︑後者のうち末子相続の実態である︒といって︑われわれがこの実態を充分にとらえている︑
というのではない︒ただわれわれが直接見聞した西南九州の諸地点についていえば︑
一般に﹁末子﹂相続と呼ばれて
いるにもかかわらず︑実際にはカカリ子が末子になるとはかぎらない︒統計的に処理すると︑末子の場合もあるし︑
仲兄がカカリ子となる場合もある︒bろん︑長男の場合も数多く見られる︒なるほど末子が望ましいという考えかた
は︑ところによっては認められる︒しかし末子でなければならない︑
とい うの では ない
︒
つまり規範化されているの
では
ない
︒
したがって末子以外があととりとなっても︑
その乙とにはなんの非難もない︒長子家督とくらべて︑
い↑ り
じるしい差異である︒だからこの点でも︑いわゆる米子相続を長男家督との対概念で見ることはできない︒なお末子
にこ だわ らな い︑ 乙の 点に 注目 して
︑
﹁非長子相続﹂ということばも用いられる
2 0
けれ ども この こと ばも
︑
また
適当 では ない
︒ いわ ゆる 末子 相続 は︑
カカリ子を非長子にかぎるのではない︒いいかえると︑長子を排除してはいな
いからである︒要するにひろく末子慣行というのは︑実は末子であっても︑なくてもよい︒仲兄であっても︑なくて︑
相続形態の試論的分析
四 五
相続
形態
の試
論的
分析
四六
もよい︒長子であっても︑なくてもよい︒
﹁末
子﹂
相続
でも
なけ
れば
︑
﹁非長子﹂相続でもない︒われわれがあえて
不定相続の乙とばを用いたゆえんである
2 0
︵1
︶菊
池博
﹁長
崎県
諌早
市小
野に
おけ
る末
子な
いし
非長
子相
続制
につ
いて
﹂
︵2
︶前
掲︑
拙稿
参照
︒
︵﹁
法社
会学
﹂第
4号 ︶ ︒
とすれば︑問題はさかのぼって︑およそ庶民家族の相続形態について︑その祖型はなにかが気がかりとなってくる9
もっともわれわれは︑そうした相続形態も︑社会的・経済的諸条件によって異なってくると考える︒したがって文字
どお
りの
﹁祖
型﹂
︵ロ
ユヨ
5
︶を求
める
こと
に︑
それほどの意義を認めるものではない︒ただおおまかな変遷の跡が
たどれるなら︑たどってみたい︒それだけのことである︒が︑
それ
にし
ても
︑史
家で
ない
われ
われ
には
︑
乙れ
につ
い
ての積極的な発言はできない︒しかし神代の乙とは措くとしても︑律令制以後の上代では︑すでに長子家督の線がか
なり決まっていた︑といわれる
T Z
もともと大宝令は︑唐令の輸入であるから︑長子家督をスジとしていた︒
し か
し財産相続に関しては︑唐令と異なって︑いわゆる嫡庶異分主義を掲げて︑嫡子の取分を多く認めていた︒しかも︑
乙の傾向は︑養老令では︑さらに強まった︒要するに庶人の家でも︑一戸主H嫡子の優位性は︑律令制支配の浸透とあ
いまって︑嫡長子の優先的相続を一般に示したといわれる︒が︑同時にそれは︑長子単独ではなくて︑長子優先であ
った
点に
も留
意し
なく
ては
なら
ない
︒
乙れに対して長子単独への姿勢は︑中世武家聞の総領制とともに開始される︒
所領
の防
衛の
ため
︑
一門の家督は︑惣領として一門・庶流に対するわけであるが︑
この
さい
所
領は
︑諸
子に
分割
相続
させる︒諸子は︑それぞれ住地の地名を姓とレて︑乙乙に同族図的な所領支胞を実現していく︒惣領制というのが乙
れである︒そして乙の体制は︑平安末までさかのぼる︑といわれる︒ただこ乙で諸子分割といったが︑それは所有権
の分割ではない︒占有・利用権ともいうべきものであった︒が︑やがて諸子の独立への姿勢が強まり︑と乙に惣領制
の解体がうながされることになった︒幕府は︑庶子にも安堵状を与えるようになる︒蒙古襲来に際してのいわゆる
﹁庶子総領相ひ並ぶベし﹂の形である︒とすれば︑惣領の側でも︑これへの対応策を考えなければならない︒具体的
な過程ははぷくけれども︑惣領単独相続は︑このようにして実現する
2
︒︵1︶
一二
浦周
行﹁
古代
親族
法﹂
︵﹁
法制
史の
研究
﹂上
︶︒
亀田隆之﹁律令時代の相続制﹂︵日本法社会学会編﹁家族制度の研究﹂上︵2
︶新 田英 治﹁ 中世 の相 続制
﹂︵ 同右 書︶
︒
歴史
︶︒
ではこのような支配者の相続方式とその変化とが︑身分と経済的基盤とを異にした農民・庶民層に︑どのような影
響を与えたか︒その点は︑充分にはわからない︒ただ鎌倉時代の﹁嫡子﹂については︑触れておく必要があろう︒こ
の時代でも︑長子相続の伝統は続いた︒けれどもまったく別の原理として︑父祖はその自由意志で︑嫡子を立てるこ
とができた︒また室町から戦国時代にかけては︑主君の干渉が強く作用する︵江戸時代︑家臣の跡目相続には︑幕府
・主君の許可を要した︒このことは︑その延長と見る乙とができる︶︒それで中世を通じてみると︑長子を差置いて︑
非長子が跡目を継ぐとともあった︒また相続人が幼少のときは︑成人までその所領を知行する︑特殊な後見制度も現
相続形態の試論的分析
四 七
相続形態の試論的分析
四 /¥
われるようになったT
︶ ︒
︵1
︶新
田英
治︑
前掲
論文
︒ けれども問題は︑近世︑特にこの時代の農家の相続形態についてであろう︒
これに関しては︑後にも述べることに
なろ
うが
︑ とりあえず大阪府三島郡三箇牧村柱本の史料工と︑
これについての大石慎三郎の見解とを挙げると︑次 のようである︒すなわち同村には﹁惣百姓歴代控﹂が残され︑これには元禄から安永に至る聞に︑財産の全部または一
部を相続した五三O
件が
記録
され
てい
る︒
いまそれを家長との続柄によって分類すると︑表ーのようになる︒
これ
に
表1「惣百姓歴代控」の分析I
r τ 1
I sso
1 1 0 0
姓歴代控」の分析E
明書官|元禄一事保|事保一安永
長男仁川?州印刷
0)長男
柄次男以下 女 子 養 子apmH
長男死 10 14
次 。分家 9 1
男 。他出 14 9
。養子 3 7
以 分 家 35* 2
下 その他 4 6
言
十 75(24.6) 39(17.1) 男子無 21 26 女 。 死 (上に含む) 15
。他出 2 ** 1
。養子 2 3
分 家 4
。
子 その他 2
。
音1・ 31(10.5) 45(19.8) 実子無 16 13 養 。~(上t乙含む) 17
。他出 7 *** 16
。養子 1
。
分 家 2
。
子 その他 3 3
計− 28( 9.4) 39(17.1)
計 j300吊~劉附
長男分家か半分家か,不明7 を含む。
紳記載なきため「無」の項1.:::移 ホキキす。
A 日
*
% 51. 5 21. 5 14.3 12. 7 続
よると︑長男が半分をやや出る
︵五
一%
︶
けれ
ども
︑
なお次男以下合二%︶
や女子︵一四%︶︑養子︵一二拍︶が 合わせて︑残りの半分を占める︒ただこれだけだと︑財産相続について︑相続人の単独でないことはわかるにしても︑
家督
の点
不は
明で
ある
︒ 乙とに長子家督かどうかは判明しない︒
それ
長で
男以
外の
人た
ちで
︑
なぜ相続したかの事由
を分類したのが︑表2
であ
る︒
乙れを見ると︑次男以下の男子相続では︑長男の分家・他出・出養子がかなり含まれ
る︵
計四
三件
︑三
八%
︶︒
また女子相続では︑男子があるのに乙れらが他出・出養子したための件数が若干見られる
︵計
八件
︑
一一%︶︒また養子の場合では︑実子が他出・出養子の事例が数えられる
︵計
二四
件︑
三五
%︶
︒そ
れで
大
石は﹁以上より本村には︑長子相続の原則も︑単独相続の原則もなかったと云える﹂︑
2
乙う
結論
して
いる
︒
︵1
︶こ
の資
料は
︑ る ︒
︵2
︶大
石慎
三郎
﹁江
戸時
代に
おけ
る農
民の
家と
その
相続
形態
につ
いて
﹂
宮川
満﹁
近世
家族
の動
向|
特に
大阪
府三
島郡
三箇
牧村
柱本
の場
合|
﹂
︵﹁
生活
文化
﹂一
九五
三年
六月
号︶
によ
︵前
掲﹁
家族
制度
の研
究﹂
︶︒
当時の状祝は不明であるが︑大阪近郊の乙となので商品佑が進み︑都市化・流動化が高まっていた︑という事態も
予想される︒長男の他出者がかなりを占めるのも︑乙れと関連するかと考えられる︒したがって以上の数字を︑特殊
地域
のも
のと
する
か︑
それとも十七世紀後半から一世紀のあいだの一般的な表現とするか︒乙れは︑まだ残された問
題といえよろ︒ただ大石は︑江戸時代の農家について︑次のように言っている︒すなわち長男以外の者が相続する形
態︑特に末子が相続するというのは︑けっして信州の一角︵諏訪︶だけの乙とではない︒全国的にかなり広く見られ
た現象だと考える︒もちろん大石は︑このためには多くの実証的な研究が必要だ︑とするのであるが︑
﹁た
だ私
の少
ない見聞の限りでは︑長子相続・末子相続といった︑どちらか一つのみの処があれば︑それ乙そ全く特殊地域の特殊
現象だと考えている︒両者は入雑り混合して︑
E
ちらかの言葉で規定し去れないもののようであるZ
﹂︒
乙う
書い
て
いる︒全国的にそうであったかどうか︒それは別として︑少なくともこんにち末子慣行地帯の実状は︑大石のいうと
相続
形態
の試
論的
分析
四 九
相続 形態 の試 論的 分析
五
。
とろに近い︒ただわれわれの見かたは︑前述のように︑
いわゆる末子相続を長子家督との対概念としては理解しない︒
つまり末子地帯では︑家督相続にともなうと乙ろの︑イエ的・精神形象的な色彩はうすい︒反面︑親との最終的生活
を軸とした︑現実的なカカリ子という性格が強くなってくる︒だから乙の生活的・カカリ子的相続では︑たとえ長男 があととりとなっても︑
それは長子家督の場合と︑まったく性格を異にしてくる︒それは長子・末子・仲兄いずれで
もよ
い︑
そうした場合のひとつに過ぎない︒極言すると︑諸般の事情でそうなっただけの乙とである︒長子家督の場 合のように︑長男たる地位の優越的な保証に立つものではない︒後に述べるように︑末子慣行では︑多く財産の分与 がともなってくる︒しかもその配分は︑均分またはこれを上下している︒そしてこの場合︑かりに長男があととりと なっても︑長子家督の場合のように︑単独あるいはそれに近い形は実現しない︒均分あるいは親の隠居分を加えた程 度の 乙と が多 い︒ これ らの 点も
︑
ふたつの相続が質的にちがうことを示すものであろう︒
︵1
︶大 石︑ 前掲 書︒ 乙のように家督相続といわゆる末子相続とは︑ともに相続といわれるけれども︑相続の性格を異にしている︒
で は このふたつの相続形態のうち︑時代的にはどちらが先行するのであるか︒史料としては︑
乙の検証はできそうもない︒
ただこれについて斯界の草分け︑中川善之助は︑米子相続の先行を示唆しているしT
コ
たま 民族 学で も︑ さき の
﹁古民文佑﹂の考えかたなどには︑
あきらかにこれが見られる︵三︒
なお古い時代はしばらく置いても︑
大石の所説
などからすれば︑近世の前半︑
いわゆる長子家督は︑農民層ではまだ定着していない︒とすれば︑われわれのいう不 定相続あるいは生活的相続の先行が想定されないわけでもない︒それで史学の立場からは︑
この よう
な状
態か ら︑
や
がて長子単独制への移行︑という形で﹈事柄が説明される︒
法制的には分地制限令を起点とした分家の抑圧
3
︑さ らにその背後にある農地開発の頭打ち︑あるいは商品的農業の展開とこれにともなう人口の流動化などがそれである
︷4
︸︒ 社会 学者 でも
︑ 一部にはこの見解が採られる︒たとえば及川宏は︑寛文以降︑明治の初めまでの期聞について︑
信州塚原村を対象として︑相続慣行を分析している︒
ここでも時代的な移行が見られるのであるが︑かれは乙の移行
の鍵 のひ とつ を︑
やはり社会・経済的な要件に求めている
S
︒︵1︶
中川
善之
助﹁
末子
相続
につ
いて
﹂
︵2︶
前掲
−大
給近
達論
文︒
︿3
︶大
石慎
三郎
前掲
論文
︒
︵4︶
谷口 澄夫
・柴 田一
﹁近 世に
おけ
る
d家
族構 成の 変質 過程
|一 試論 とし て﹂
︵﹁ 岡山 大学 教育 学部 研究 集録
﹂第
一号
︶︒
︵5︶
及川 宏﹁ 信州 諏訪 塚原 村に 於け る分
家に
つい て| 所謂 米子 相続 の一 例と して
|﹂
︵﹁
民族
学研 究﹂ 四ノ 三︑ のち
﹁同 族組 織と
村落
生活
﹂所
収︶
︒
︵﹁
家族
制度
の研
究﹂
上︶
︒ このように歴史については︑不明の点を多く残している︒
それでこれらを保留したまま現行の慣行をながめていく
乙とにしたい︒さきにも述べたように︑
いわゆる末子相続では︑多くの場合︑財産の分与がおこなわれる︒
つま り財 産に関しては︑共同相続の色が濃い︒けれどもカカリ子自体は︑終局的には一人である︒もっとも乙の表現には︑若 干の説明を要する︒だいたいこの慣行では︑結婚した男子から︑したがって多くは長男から分家させる︒そして乙の分
相続 形態 の試 論的 分析
五
相続
形態
の試
論的
分析
五
出過程が円滑に進めば︑カカリ子としての末子相続が実現する︒けれども乙れは︑かならずしも予定のコ1
スで
はな
ぃ︒仲兄にとどまる乙ともある︒また末子まで分家させて︑両親は隠居ともなんともつかず︑カカリ子のないままに
世を終わる例も出てくる
さらにいったん分家させた子どもの一家を呼ぴよせて︑改めてカカリ子に直すとともT v ︒
あるし︑逆に両親が分家した子どもの家に入り乙む乙ともおとなわれる︒イエ意識の稀薄といわなければならない︒
が︑とにかく極端な例はあるとしても︑かなり老境まで生きるとすれば︑あととりHカカリ子は︑終局的には一人で
あっ
て︑
乙れについての共同相続はない︵&︒ところでこのようにあととりが一人に限られるとすれば︑ひとり子
︵ 独
子 ︶
の場
合に
は︑
ζれは問題がない︒男子ならば︑当人が相続人となり︑女子ならば︑
乙れ
にム
コを
−む
かえ
る︒
後者の場合︑戸主権がムコに移るのは当然であるが︑いずれにしても実子を差置いて︑他家から養子を取るととはな
ぃ︒
乙の
あた
り︑
一般の家督相続と同じである︒けれども数︵男︶子がある場合には︑とにかくそのうちのだれか一
人に落着かなければならない︒それで乙の落着きかたであるが︑乙の点が不定相続といわれるゆえんである︒
つま
り
制度︵モlレス︶として基準を欠いている︒またそうであるので︑いわゆる長子家督が決定主義に立つのと区別され
る乙とにもなる︒対比の意味で︑長子家督の場合︑乙の決定にあずかる基準といえば︑第一には子の性・続柄という
乙とになろう︒そして性・続柄のうち︑性が優先するので︑たとえば長男死亡のときは︑姉を差置いて︑二男が相続
することになる︒また長姉といっても︑弟のいる場合は︑相続人にはなりえない︒第二に︑母の族制上の地位が考慮
される︒すなわち嫡出・庶子・私生子などの別である
S
︒︵1︶
川口 諦﹁ 鹿児 島の 農村 社会
﹂︵ 石黒
・川 口・ 窪谷
﹁鹿 児島 農業 の諸 問題
﹂第 三章
︶︒
︿2
︶も ちろ ん母 を含 めて
︑親 がカ カリ 子の 決定 を見 ずに
︑死
亡す るこ とも ある
︒こ うし たと きに は︑ カカ
リ子
とい う表 現は おか しい し︑ 葬儀 の主 宰者 も未 定の まま
で出
棺と いう こと にな ろう
︒こ のよ うな 場合
︑で
はあ
とと りと は︑ なん であ るか
︒そ の決 めか たは
︑ど
うな るか
︒こ れら は︑ 後に 触れ るこ とに なろ
う︒
ただ いお うと する のは
︑こ うで ある
︒長 子家
督で
は︑ 相続 人と
して
の地 位が
︑法 律的
・慣 行的 に保 証さ れて いる
︒だ
から 父が 世を ゆず る前 に死 亡し ても
︑相 続人
の決
定に は︑ 問題 がな い︒ 法定 の推 定家 督相 続人 とい われ るゆ えん
であ
る︒
︿3
︶慣 行的 には
︑別 に母 が先 妻で ある か︑ 後一 安で ある かも 考慮 され た︒ そし て後 妻の 子︑ した
がっ
て煎 家督 の例 も現 われ た︒ け
れど
もモ
lレ
スと して は︑ これ を非 難し た︒ この 点︑ 不定 相続 での 長男 分家
︑あ るい は末 弟相 続と は︑ まっ たく 異な るわ けで
七仰
ゆ匂
︒
ただこのさい︑
やや逸脱するけれども︑特殊慣行としての姉家督について検討しておきたい︒というのは乙乙では さきの性の基準よりも︑続柄のそれが優先するように見えるからである︒確かに文字だけからすると︑姉家督では︑
男女にかかわらず︑最年長者があととりとなる︒したがって長女が長男の姉であるときは︑
この長女が相続人となる
ように見える︒けれども東北の一部︑北関東︑西国その他の報告が示すように
3
︑これ
は︑
長子相続までの過渡的
な措置と見たほうが正しい︒
つまり弟である長男が︑幼少または未成年のとき︑戸主交替の必要が生ずる︒その便宜 的な措置として︑姉がムコをむかえて︑相続した形態を取る︒しかし長男が一人前になれば︑姉夫婦は︑隠居ないし 分家 する
︒ それでこうレたムコは︑ミツギ養子や仲継養子といわれることにもなるす︸︒阿波の看抱養子は︑
乙れ が
さらに徹底していた︒
一戸主老病等ニテ隠退ヲ欲スルトモ︑相続スヘキ男子幼沖ナルトキ︑鯵︵方承諾ノ上︑養子トナシ家督セシメ︑右 嫡男成長ノ上︑養子隠居シテ︑家督ヲ嫡男ニ譲ル事ナリ︒
コノ看抱養子ハ決シテ嫡妻ヲ置カス︑妾ヲ貯ルヲ例ト 相続
形態
の試 論的 分析
五
相続 形態 の試 論的 分析
五 四
ス︒蓋シ子女ヲ挙ルモ︑其家ヲ継クヘキ権利ヲ与へサルノ意ヲ表スル事ナリ
3
︒看抱養子は︑婚姻しないから︑姉家督ではない︒しかし仲継的な性格では︑姉家督と同様だといえる︒では姉家督
あるいは看抱養子の発生基盤は︑なんであったか︒一般には労働力説が有力のようである
Z
︒すなわち経営に対して︑家族労働力の不足したとき︑こうした措置が取られる︒竹内利美によると︑東北地方には乙の姉家督︵または
﹁一
家督
﹂︶
と呼ばれる慣習が︑明治初年まではひろく杏在した︑というす︶︒東北地方では︑こんにちでも二町以
上経営層が一五・一%を占める
︵都府県の平均は四・七%︶︒しかも水田一毛作の労働集約性を考えれば︑
かつての時
代︑姉家督のおこなわれた乙ともおよそ推定されるわけである︒
︵1︶
中川 善之 助﹁ 姉家 督相 続﹂
︵﹁ 家族 制度 全集
﹂史 論篇
V︶
︒
︵2
︶柳 田国 男﹁ 族制 語録
﹂一 九七
|八 頁︒ ミツ ギ養 子は 香川 県の 用語 であ るが 徳︑ 島県 では
︑こ れを シツ ケ養 子と いい
︑丹 波で はナ カモ チと いう との こと
︒
︿3
︶司 法省
﹁全 国民 事慣 例類 集﹂ 日本 評論 社版
︒
︿4
︶小 林三 衛行 初生 女子 相続 の一 形態
|相 続と 労働
力l
茨城 県︑ 特に 新治 郡に つい
てl
﹂︵
﹁法
社会
学﹂
6︶
︒
田竹
日一
﹁姉
家督
と養
子制
﹂︵
﹁民
間伝
承﹂
一五
l一 二 ︶ ︒
︿5
︶竹 内利 美﹁ 農村 家族 の動 態| 分家 慣行 を中 心と して
|﹂
︵﹁ 東北 大学 教育 学部 研究 年報
﹂第 巻二
︶︒ なお 前掲 の﹁ 全国 民事 慣例 類集
﹂で も︑ 姉家 督と 労働 力と の関 連は
︑文 章の うえ でし めさ れて いる
︒ 農家 ニテ ハ長 女ア レハ 婿ヲ 迎へ テ相 続セ シム ルヲ 例ト ス︒ 力役 ノ便 利ニ 従フ ナリ
︵陸 中国 胆沢 郡︑ 十三 年版
︶︒ 農家 ニテ ハ男 子ア ル者 モ長 女ア レハ 婿養 子ヲ 迎へ テ相 セ続 シム
︒カ 役ノ 労ヲ 分ツ カ為 ナリ
︵羽 前国 閏川 郡︑ 十三 年版
︶︒
。
。
いずれにしても姉家督あるいはそれ類似のものは︑これを独立の相続形態と見ることはできない︒それは長子家督
への準備段階︑あるいはせいぜい準相続とすべきであろう︒また乙の点からも察せられるように︑乙乙では長子が幼
少であって︑まだ相続の実質的要件を備えていない︒
にもかかわらず︑相続をおこなおうとする︒そのための便宜的
な措置が︑姉家督となるわけである︒とすれば︑長子家督への姿勢は︑乙のことでも裏書きされてくる︒少なくとも
不定相続のように︑相続人はだれでもよいというたぐいとは︑あきらかに一線を画するわけである︒
四
なお特殊慣行としては︑
姉家 督と は別 に︑
いわゆる隠居分家が注目されるであろう︒竹田
E
によ
れば
︑
およそ隠
居は︑居住によって次のように分類される︒さらに細別される部分もあるけれども︑われわれの関係分を挙げれば︑
図l 隠居の諸類型
| | | 分 別 同 住 居 居 隠 隠 隠 居 居 居
「−
y嗣 親 子 別 別 居 居 型 型 |
| | 家 単 族 独 隠 隠 居 居
| | 別 隠 居 居 隠 分 居 家
別図のようである︒同居分家は︑隠居があととり夫婦︑そ の他
の子
ども
︑
あるいは孫たちと同居しているので︑
乙 れ にはとりあえず問題はない︒第二の別居隠居は︑あとに廻
して︑第三の分住隠居とは︑次のようである︒乙れは︑五
島あたりによく見られるが︑要するに隠居後︑両親はそれぞれ隠居する場所を異にする︒多くは父は長男に︑母は次 男とか米子とかのところで生活する︒しかし乙の分住隠居は︑
いわば親の居つくさきのことであって︑相続・分家な
ど家族集団が変動する︑
その原因ではない︒むしろその後の個人的な移動といった点が感じられる︒それで問題の別
居隠居について述べると︑われわれの関心は︑
このうち竹田が親別居型といっているものに向けられる︒なお乙れに
対する嗣子別居型というのは︑
乙とばとしては異様にきこえるが︑伊豆七島あたりに見られる︒
乙れは︑若夫婦の卜
相続形態の試論的分析
五 五
相続形態の試論的分析
五六
マリ宿の慣習とも関連するが︑要するに子どもでもできると︑トマリ宿を引払って︑夫の実家あるいは妻の実家へと
戻っ
てく
る︒
そのとき隠居家が空いていれば︑
そこに若夫婦が居をかまえる︒
そして両親が本当に退隠するときには︑
隠居家と母屋とが入替わる︑という寸法である︒
隠﹁
居﹂
とい
うか
らに
は︑
この
さい
一戸
主権
移の
譲が
なさ
れた
か︑
が
問題
であ
ろう
︒ とともに乙の慣行では︑隠居家という物的施設が重要な役割を果たす乙とにもなる
2 0
︵1
︶竹
田日
一﹁
民俗
慣行
とし
ての
隠居
の研
﹂究
o
さて親別居型の隠居であるが︑
このうち単独隠居は︑老人夫婦だけが別居するので︑
これは比較的容易に理解され る︒それでもう一つの家族隠居であるが︑
乙の型では隠居は︑老夫婦だけではおこなわれない︒家族員をともなって︑
別居
がな
され
る︒
そしてこれが二つのタイプに分かれる︒別居隠居と分家隠居とである︒第一の別居隠居とは︑竹田 によると︑隠居者が別棟の隠居所に引移るとき︑相続人夫婦とその子を母屋に残して出る︒
そしてそれ以外の兄姉・
弟妹など︑通例未婚の子女をすべてつれていく方式の乙とである︒隠居所では︑
これらの子女を分家・養子・嫁に出
す乙
とに
よっ
て︑
やがては単独隠居を形成することになる︒
これにはさらに嫁入婚型と婿入婚型とがあり︑竹田は︑
前者の代表として豊後姫島︑後者のそれとして志摩国府を挙げるが︑
乙の
点は
省略
する
︒ 乙の別居隠居に対して問題 の隠居分家では︑相続夫婦とその子とを残レ︑他の世帯員をともなって別居する︒
乙の
点は
︑別
居隠
居と
同じ
あで
る︒
ととろで別居隠居では︑二︑三男の分家は乙の隠居所で準備して︑適当な場所に分家させる︒しかし隠居分家では︑
乙む隠居所そのものが分家︵特に二男︶
に充
てら
れる
︒ それで親は︑二男の分家創立とともに︑三男以下をつれて︑
もう一度︑隠居分家をしなくてはならない︒
そして乙の過程を最後までたどれば︑現象的には末子相続が実現するわ
けであるT
︸
︒
︵1︶
竹田
E︑
前掲
書︒
吉 ぎ れ
けれどもそうなるとは限らない︒五島・久賀島のカトリック部落細石流では︑
乙の意味での﹁完全隠居分家﹂がお
乙なわれるT一︒が︑同じ久賀島で︑しかも同じカトリックである外上ノ平は︑居付部落︵カトリック部落︶
のひ と つであるが︑隠居分家の繰返される点は︑同じである︒
しかし子どもが全部片付いてしまうと︑老夫婦は︑自分の好
きな子どものところへ移っていく︒
しかし十人のうち九人までは︑長男のもとに帰る︿
2︶︒また乙れは仏教徒だが︑ 福江島の本山では︑長男が妻を取ると︑両親は家を長男にゆずって︑二男をつれ新しい家に移っていく︒が︑
やが て 二男のくらしが落着くと︑長男の家へ帰る︒三男以下は︑当人の自由に出稼ぎさせ︑
乙れには財産を分ける例も少な
い
2
0
同じく福江の崎山では︑二男の隠居分家が完成すると︑父は本家の長男のところに戻る
2
︒また宇久島も︑本山と同じで︑分家は二男までで打切りで︑両親は長男に養われることになる
5 0
竹田のいう﹁不完全隠居分家﹂
であ
る︒
︵1︶
瀬川
清子
﹁五
島雑
記﹂
︵﹁
旅と
伝説
﹂︑
九l
十 一 ︶ ︒
︵2︶
竹田
旦︑
前掲
書︑
第三
編第
一章
︒
︿3
︶橋
浦泰
雄﹁
日本
の家
族﹂
︒
︵4︶
久保
清・
橋浦
泰雄
﹁五
島民
俗図
誌﹂
︒
︿5
︶井
之口
章次
﹁肥
前宇
久島
﹂︵
﹁民
間伝
承﹂
十六
ノ三
︶︒
なお竹田によると︑
乙の隠居分家にも嫁入型と婿入型とがあるという︒が︑
いまはそ乙までの言及を避けたい︒た
相続形態の試論的分析
五七
相続形態の試論的分析
五八 だ一般に隠居分家というものが︑以上のようだとすると︑
ζれはわれわれの末子相続にかなり近いものとなってくる︒
特に細石流のように︑完全式のものについて︑
このことがいえる︒また後に述べるように︑
この隠居分家では︑財産
の分割がおこなわれる︒そして長子家督がかならずしも乙の分割を要しないとするならば︑
乙の点でも末子相続への 接近︑少なくとも長子家督との距離が認められる︒
とともに親夫婦と子夫婦の同居は︑子の結婚後︑しばらくのあい だは別である︒が︑最終的にはこれが成立しない︒
つまり︑長子相続でひろく見られる︑直系家族が育たない︒
の乙
点で
も︑
いわゆる末子慣行と類似してくるわけである︒なお対比的にいうならば︑
ここでは長子家督に特徴的なイエ 意識も︑あまり強くない︒和歌山県本宮町渡瀬を調査した山本登らは︑当地の慣行を汁父分家﹂というのであるが︑
その内容は完全隠居分家と同じであるT
︶︒
渡瀬
では
︑ 親は終局的には末子のととろで生謹を閉じる︒
そして次の代
デ﹂+晶︑
乙の末子家が本家と見なされるという︒なるほど長子家督でも︑隠居の別居はお乙なわれる︒けれどもこの隠 居家のあととりという乙とは︑まずありえない︒
いわんや乙の隠居家を本家とする乙とはない︒長子家督とのちがい
であ
︒る
︵1︶山本登・中川喜代子﹁父分家制に関する一考察和歌山県東牟婁郡本宮町渡瀬の場合|﹂
︵﹁
社会
学評
論﹂
o
一ー一
︶︒
ただそれにもかかわらず︑隠居分家の場合︑家督とはいえないにしても︑親の家屋敷は長男にゆずられる︒また不 完全式の隠居分家では︑親はついには長男のもとに帰るという点も︑検討にあたいする︒なお五島や伊豆諸島の例で は︑親はたとえ分家しても︑位牌は本家︑
つまり長男のと乙ろに残しておく︒渡瀬でも同様であるが︑特に年忌・法 裂は︑本家中心で営まれる︒選守りも本家の仕事とされる︒なるほど親の葬式は︑親の死亡した山本から出し︑喪主も
そのインキョあるいはサンキョの主人が乙れを勤める︒にしても経済的な負担は︑兄弟たちが分けるといわれる︒も
ちろんところによって︑両親の葬儀は・もちろん︑位牌そのものも父と母とに分けてまつる慣習がある︒あとのものが︑
いわゆる分牌式である
3
︒ただ両親の葬儀についていうと︑たとえば薩摩長島︵出水郡︶では︑父のそれは長男︑母のそれは︑母が生を終えた分家︵多くは米家︶で営まれる
2 0
われわれの調べた鹿児島県甑烏︵薩摩郡︶
では
︑
母の葬儀は次男のと乙ろから出すというが︑おそらく長島と同系の慣行と思われる
3
︒な
お位
牌に
つい
ても
︑
長島
では︑父のそれは本家に置かれ︑母のそれは分家で記られる︒
︵1︶
竹田 旦﹁ 民俗 慣行 とし ての 隠居 の研 究﹂ 第五 篇第 三章
︒
︵2︶
大藤
時彦
﹁陸
摩長
島﹂
︵﹁
民間
伝承
﹂一
一一
l一
六 ︶ ︒
︵3︶
内藤 発爾
・吉 田禎 吾﹁ 離鳥 村落 の社 会人 類学 的研 究﹂
︵﹁
民族
学研
究﹂
三
O| 一
二 ︶ ︒
したがって長島のような場合︑なるほど分家では︑母を先祖と考えるような乙とはありうる︒が︑それにしても︑
全体的に見ると︑隠居分家では︑なにほどか長男をたてる傾向が認められる︒決定的な点は︑長男が家屋敷を受継ぎ︑
そこにとどまるという乙とであろう︒
いわ
ゆる
末子
相続
では
︑
とれとは反対に︑長男から順次出ていく︒理想的にい
けば︑そういう乙とになる︒ただ現実には不定相続なので︑そうなるとはかぎらない︒前述のように︑長男がとどま
って︑次男以下が分家する場合もありうる︒また仲兄を残して︑長男や仲兄以外の兄弟たちが出る場合もありうる︒
ただ親だけは本家を動かない︒それは︑隠居分家の場合︑親が転々として動き︑最後に本家H長男のと乙ろに帰って
ノ︑
文一
町︑
乙れとは大きくちがうわけである︒
相続
形態
の試
論的
分析
五 九
相続形態の試論的分析六O
五
それでこういう乙とになろう︒なるほど長子家督の場合でも︑事情によっては︑長男が継ぐとはかぎらない︒不具・
廃疾のような個人的事情はしばらく置いても︑特殊な技能や役職が世襲化されている家柄では︑それに不向きな長男
は︑従来とも相続人にはなれなかった︒鹿児島の士族階層は︑長子家督のステロ版のように言われている︒が︑その
権力志向的なパターンは︑長男を医者や法律家に仕立てようとする︒それでかれらを都市に学ぱせ︑都市に居住させ
る結果となった︒家督の線が崩れたとはいえないにしても︑実質的には非長子があととりとなるととも少なくない︒
このように内外の諸事情から︑非長子の家督も実現したであろうが︑ただ次の乙とだけはいえる︒すなわちそこでは︑
長子相続が規範化され︑したがって以上の例のようなのは︑
いわ
ば﹁
偏椅
﹂
2 2
g
ロ︶として扱われるという点でS
ある︒長男でなければならない︒相続人には︑原則として選個別の余地はない︒その意味では︑これを決定式というこ
とができるであろう︒ところで決定式というかぎり︑乙れに対する方式として不定式が考えられなくてはならない︒
いわゆる末子相続がこの不定式に当たるのは︑いままでの記述からもあきらかであろう︒少なくとも長子家督のよう
に︑続柄が規範化されていないわけである︒
ではこれらと対照させて︑隠居分家の位置づけは︑どうなるであろうか︒乙こでは︑長子にあとをゆずる姿勢は見
乙の場合︑長子との同居は︑最終段階において実現する︒そして︑
られ
る︒
しか
しと
の姿
勢は
︑正
しい
・も
ので
はな
い︒
それまでは︑別居が原則とされる︒また最終段階のこの同居でも︑実際には隠居部屋をつくるというから︑完全な同
居ではない︒長子家督における親︵隠居︶と長子︑末子相続における親と未子︑このこつでは︑終世の同居が前提と
されている︒隠居分家は︑
これらとは大きくちがってくる︒とともに乙の隠居分家では︑いわゆるイエの観念も︑きわ
意識にもとづくとは︑ めて稀薄だといえる︒なによりも財産は分割される︒
こういう表現もあながち不当で
はないからである︒
となんら異ならない︒ それに最終段階で長男のもとに戻るとはいっても︑乙れが本家
かならずしもいえない︒扶養の場所を長男のところに求めた︑
とともに長男のところへ戻らない例も指摘されている︒そしてこの場合には︑いわゆる末子相続
このことも注目されるわけである︒いずれにしても︑隠居分家の結果生まれる親・長子の同居
これを長子家督とみる乙とはできない︒長子もここではカカリ子に過ぎない︒類似するのは長子という点で
ということだけである︒とすれば﹁相続﹂の本質は︑不定式に属する司
形態
は︑
あり︑また乙の方向がかなり予定されている︑
こう見てよいであろうT
︸
︒ 図2 相続形態分類
決定式一家督相続一長子←i
(姉家督)ーl
不定式一世帯竺聖竺空二|
l̲rー末子相続
' 」隠居分家
︵1
︶さ きに 挙げ た鹿 児島 の場 合で ある が︑ ここ では 長子 は﹁ 家督
﹂︑ カカ リ子 は非 長子 のよ うに
︑い わば 分 化が 見ら れる とい う︒ けれ ども ここ でい う﹁ 家督
﹂は
︑き わめ てあ いま でい ある
︒そ れは 士族 社会 から の借 用で ある か︑ ある いは もっ と大 きな もの とし て︑ 明治 民法 の﹁ 法定 家督 相続 人﹂ の戸 籍上 の表 現に
すぎ
ない
︒
本筋に戻ろう︒不定式の柱をなす︑いわゆる末子相続である︒不定式といっても︑さきにも述
べた よう
︑に
カカリ子は結局︑
とす
ばれ
︑
乙の点では共同相続はありえない︒
ひとりに絞られる︒
不定式という相続のパターンを生んだ諸条件は別としても︑それぞれの家族集団では︑だれをカ
カリ子にするかを決めなければならない︒ところで報告されているかぎりでは︑乙れには二つの
相続 形態 の試 論的 分析
ムノ
、