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北朝鮮の一人支配体制の強化と日朝関係

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(1)

北朝鮮の一人支配体制の強化と日朝関係

― 帰国事業を中心に ― 趙 允英

*

The Consolidation of North Korea’s one-man dictatorial system and Relationship between North Korea and Japan:

With a Focus on North Korea’s Repatriation Project Yun Young Cho*

Abstract

North Korea’s Repatriation Project, which brought total 93,340 of Korean Japanese or Japanese to North Korea between December 1959 and 1984, was a de facto interstate project between North Korea and Japan. Existing studies have approached the Project as a North Korean effort to grasp the opportunity to lay the foundation for future normalization of the relations with Japan. By extending the scope of analysis to all stages of the Project, this paper finds that the purpose and the role of the Repatriation Project changed as Kim Il Sung-led one-man dictatorial system was consolidated. After the establishment of the one- man dictatorial rule in 1956, North Korea aimed to use the Repatriation Project to increase autonomy vis-à-vis the Soviet Union and China, as well as to improve its image as a socialist state. Following the May 25th Instructions which strengthen Kim’s political power in 1967, North Korea both pursued self-reliant foreign policy and attempted to improve the relations with Japan. These domestic political change and new foreign policy affected the Repatriation Project, which was brought to a halt in 1967 but resumed in 1971.

Pyongyang’s willingness to improve the relations with Japan, therefore, plays a greater role when the Repatriation Project was recommenced than when it first initiated the Project. Due to the consolidation of Kim’s personal rule, meanwhile, the General Association on Korean Residents in Japan (Chongryon) became more dependent on North Korea, which influenced the Repatriation Project. Once considered as the opportunity for the normalization of North Korea-Japan relations, the Project caused the reputation of North Korea to be tainted due to Pyongyang’s typical rigidity. The failure of the Repatriation Project potentially contributes to the failure of the normalization of North Korea-Japan relations even after the end of the Cold War.

早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士後期課程:PhD Program, Graduate School of Asia-Pacific Studies, Waseda University Email : kinye79@gmail.com

*UDGXDWH6FKRRORI$VLD3DFL¿F6WXGLHV:DVHGD8QLYHUVLW\

-RXUQDORIWKH*UDGXDWH6FKRRORI$VLD3DFL¿F6WXGLHV No.38 (2019.9) pp.1-18

(2)

1.はじめに

(1)問題提起

1991

1

月、国交正常化のため、戦後初めて日本と朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮 という)との政府間交渉が始まった。冷戦終結後、韓国は

1990

9

月ソ連と修交し、中国とも 交渉の最中だったので日朝国交正常化交渉への進展は自然な流れのようにみえた。しかし、現在 に至っても北朝鮮と日本の国交正常化は実現していない。

これをどのように考えればいいのだろうか。本稿の問題意識はここから出発した。北朝鮮と日 本の国交正常化が実現していない直接的な理由としては北朝鮮の核問題と日本人拉致問題があげ られる。しかし、このような理由の中に潜在している根本的な理由があるのではないか、そして これについての糸口を見つけるためには日朝関係の始まりである、「帰国事業」について今一度 議論する必要があるのではないかと考えた。

帰国事業は

1959

12

月から

1984

年まで計

93,340

人の在日朝鮮人又は日本人が北朝鮮に渡っ た、事実上日朝の国家間の事業だった。国際冷戦体制の下で、まだ日韓国交正常化が行われてい ない状態で進められたため、帰国事業は、北朝鮮が日朝国交正常化への意志を盛り込んで提案し たものと理解されてきた。

しかし、北朝鮮は本当に日本との国交正常化まで考えたのだろうか。これに対する答えを探す ために、本稿はまず、今までの帰国事業に対する研究が帰国事業開始段階の交渉過程と展開に集 中していたということに注目した。実際に、帰国事業は

1959

年から

1984

年まで長期にわたって 展開されており、その間、1967年に一度中断され

1971

年に再開された。

帰国事業の全期間を分析の範囲に入れることにより、北朝鮮は

1956

年の「8月宗派事件」を 通じて金日成一人支配体制を確立した後帰国事業を提案し、また、1967年の「5.25教示」で金 日成個人崇拝を強めるなど一人支配体制が更に強化された後、帰国事業の再開に積極的だったと いうことが分かった(1)。つまり、北朝鮮が帰国事業を展開、再開する過程で金日成一人支配体制 の強化が影響しており、こうした急激な政治変化が帰国事業の始まりと再開に対する北朝鮮の態 度と意志を決める要因であることが明らかになった。

「8月宗派事件」で金日成一人支配体制を確立した北朝鮮は、中ソ依存からの脱却が重大な問 題になり、北朝鮮が中国やソ連とも肩を並べられるような社会主義国家であることを見せつける 必要があった。ちょうど在日朝鮮人の帰国運動が視界に入ってきており、これを帰国事業に拡大 させたのだ。つまり、北朝鮮の社会主義国家としてのイメージ向上が帰国事業を始めることに なった重要な動機になった。

しかし、帰国事業の過程において様々な問題が発生すると、日本政府は帰国事業を

1967

年に 中止させた。帰国事業の中止が決定した後に発生した

1967

年の「5.25教示」事件は、北朝鮮に 金日成個人崇拝が更に強化されただけではなく、金正日後継体制までに構築されるきっかけと なった。このような北朝鮮の変化は、ただ社会主義国家としてのイメージ向上だけを外交目的に していた日本への態度を変化させた。

つまり「5.25教示」事件以後、北朝鮮にとって日本はいままでの「他」の体制の国家にとどま らず、「自主」的な対外政策の対象に転換された。それだけに、北朝鮮は帰国事業が日本との関 係を拡張するのに役立つものと判断して、再開会談に積極的に臨んだ。北朝鮮が国交正常化まで

(3)

念頭に置いた積極的な対日意志はむしろ帰国事業の再開により作用されたとみられる。

それから、帰国事業全体像と日朝関係を把握する際、帰国事業において事実上北朝鮮の領事館 としての役割を果たした在日本朝鮮人総聯合会(以下、朝鮮総連という)の思わくと役割が重要 な基準になると見られる。

したがって、本稿は北朝鮮と朝鮮総連の関係も帰国事業の時期区分と北朝鮮の一人支配体制の 強化という分析枠に入れ、分析してみた。その結果、朝鮮総連は北朝鮮との連携を強化し、在日 朝鮮人社会における存在感を高めるため、帰国事業を積極的に取り組んだ。しかし、帰国事業が 再開された後からはむしろ帰国事業により北朝鮮に従属してしまったことが分かった。

朝鮮総連は

1955

5

25

日に結成された。当初の課題は、路線転換と弱体化されていた組織 を正しく立て直すことだった。つまり、日本共産党の指導から抜け出すための努力をしながら、

在日朝鮮人団体としての地位も確立させなければならなかった。そのためには何よりも祖国北朝 鮮との緊密な連携と日本国内で在日朝鮮人団体としての地位を高めることができる機会が必要 だった。そのとき視界に入ってきたのが帰国事業であった。

実は、帰国事業は

1955

年朝鮮総連結成初期の頃から議論されていたが、大村収容所の収監者、

進学を望む若者など対象が限定されており、小規模なものであった。ところが

1958

年から在日 朝鮮人全体に拡大され、朝鮮総連の最優先事業となった。在日朝鮮人社会はもちろん、日本社会 にも積極的に帰国運動を展開した朝鮮総連は

1959

8

月日朝間の帰国事業が決定されると、ま だ日本と国交を結んでいなかった北朝鮮に代わって帰国者募集と案内など多様な業務を担当する ことになった。このような過程を通じて朝鮮総連は会員

50

万人に、中央組織及び

48

か所の地方 本部、それに

260

か所の支部と約

1,300

か所の地方分会がある組織として急成長を遂げる。つま り朝鮮総連は「帰国事業」により、北朝鮮との関係を更に強化しただけでなく、在日朝鮮人社会 で最も強力な影響力を持った団体に成長したのだ。

しかし、1967年に中断し、1971年に再開した帰国事業は「5.25教示」以降の北朝鮮の政治社 会的変化が反映され、朝鮮総連が積極的に推進した以前の帰国事業とはその姿が変わってきた。

劣悪な日本での生活を変えようとした多種多様な階層の在日朝鮮人の代わりに、朝鮮総連幹部の 子弟や金日成の誕生日を祝う使節団が募集されるなど、帰国者の性格が政治的に変わった。これ は、今になっても朝鮮総連が北朝鮮との関係性を変えることが難しい主な原因になった。そして

70

年代以降、徐々に拡大してきた北朝鮮への経済的支援が再開した帰国事業の中にも見られた。

つまり朝鮮総連は帰国事業を北朝鮮の海外公民団体として在日朝鮮人社会における影響力を拡大 するとともに北朝鮮との緊密な関係を構築する機会として進めたが、結果的には北朝鮮の出先機 関に転落してしまった。

帰国事業は、冷戦時代の下で日朝関係が国交正常化まで進展する「機会」と考えられてきた。

しかし、帰国事業の全期間を通じて分析すると、帰国事業は北朝鮮に金日成一人支配体制が更に 強化することに応じてその目的と役割が変化しており、これは朝鮮総連にもあてはまることであ る。したがって、帰国事業はむしろ日朝関係が冷戦後にも発展的な関係へと繋がることができな いようにする「制約」の一つとして作用するのではないかと考える。現在に至っても国交を結ん でいない日朝関係を理解するために、全期間にわたる帰国事業を北朝鮮の金日成一人支配体制の 強化と関連付けて把握することが必要である。これが本稿の研究目的である。

(4)

(2)先行研究と研究課題

本稿と関連した先行研究は大きく三つに分けることができる。一つは、戦後の日朝関係に関す る研究であり、二つ目は、北朝鮮の政治体制に関する研究である。最後に朝鮮総連に関する研究 が挙げられる。1965年日韓国交正常化以後、日韓関係が日朝関係を圧倒し、戦後の日朝関係に 関する研究も日韓研究の一部として行われる場合が多かった。

さらに、北朝鮮は、資料へのアクセスの問題もあり、限定された範囲で研究が行われざるを得な かった。したがって本格的に日朝関係を扱った研究は余り多くなく、日韓関係、南北関係、そして在 日朝鮮人運動に関する研究の一部として扱われることが多い。しかし、最近、日韓両国の外交文書や 赤十字国際委員会(以下ICRC)の文書が公開され、帰国事業に対する研究は活発に行われている。

日朝関係に関する代表的な研究としては、辛貞和の『日本の対北政策

1945−1992』

(2)が挙げら れる。辛貞和は、戦後日本政府の対北朝鮮政策の展開過程を国際情勢と日本国内政治、そして南 北朝鮮関係の脈絡の中で説明している。とりわけ、辛貞和は、日本の国内政治勢力を、自民党を 代表とする保守勢力と社会党を代表とする革新勢力に分けて、彼らの力関係を通じた日本の対北 朝鮮政策を分析した。しかし、実際の日本の対北朝鮮政策には日朝関連の社会団体の圧力も作用 し、北朝鮮もこれらの社会団体との関係を重視しているという点も大きい。辛貞和の研究はこの 点を見逃し、日朝関係を余りにも党を中心に図式化してしまったという面で限界がある。それに 日朝関係においても、日本の対北朝鮮政策という一面的な分析にとどまっていることも指摘すべ き点である。

次に、和田春樹・高崎宗司の『検証日朝関係

60

年』(3)が挙げられる。この著書は一貫した観点 から日朝関係を分析したというよりは問題点別に整理したものであり、日朝関係を本格的に扱っ た研究として見ることは難しい。しかし、日朝国交正常化の問題に焦点を当て、日本国内の各政 党が持つ対北朝鮮認識の差、各メディアの対北朝鮮認識の変化、そして帰国事業など、日朝関係 における問題点を明確に整理している。

更に、帰国事業に関する研究である。帰国事業に関する研究の主な論争事項は、帰国事業と関 連している主体の思わくが何であったかにある。これに関しては、北朝鮮が労働力不足とプロパ ガンダのため、帰国事業を先に提起したということが定説として受け入れられている。しかし、

最近の日本と韓国の外交文書、ICRCの文書が公開され、これに反論するか、もしくは証明する 内容の研究が活発に行われている。

朴正鎮の『冷戦期日朝関係の形成、1945〜65年』(4)は、冷戦時代の日朝関係という側面から帰 国事業を分析しているだけに、帰国事業をめぐる両国の外交関係に焦点を当てて分析している。

とりわけ、朴正鎮は北朝鮮が労働力を補充するため日本に帰国事業を提案したという定説に異議 を申し立てた。その上、日本政府及び赤十字社が在日朝鮮人を追い出す目的で帰国事業に積極的 だったというテッサ・モーリス−スズキの主張にも反論した。つまり、朴正鎮は、北朝鮮が日朝 国交正常化のため帰国事業を取り組んだと主張している。

朴正鎮の研究は日韓外交文書だけではなく、ICRCの文書を始め、ソ連、アメリカなどの多様 な外交文書を駆使している。それだけでなく、各政府をはじめとする関連政党及び社会団体まで もすべて分析対象に入れ、冷戦時代という国際環境の中での日朝関係を包括的に分析したものと 見られる。しかし、分析時期を

1965

年までに制限しているため、冷戦時代の日朝関係に対する

(5)

全体的な流れはもちろん、1984年まで続けられた帰国事業も限定された内容だけしか扱ってい ない。そのため、開始されてから終了するまでの帰国事業の性格の変化と、これによる日朝関係 の変化の推移を指摘することはできなかった。

テッサ・モーリス−スズキの『北朝鮮へのエクソダス「帰国事業」の影をたどる』(5)は、帰国 事業の研究において初めて

ICRC

の資料に基づいて分析したという点から高い評価を受けてい る。とりわけ、テッサ・モーリス−スズキは、帰国事業の推進背景について、労働力補充とプロ パガンダのため北朝鮮からの希望があったことを認めながらも、究極的には日本政府及び赤十字 社が在日朝鮮人を追い出すため始まったと主張している。

今までの研究において北朝鮮と朝鮮総連の思わくだけが強調されたのとは異なり、初めて

ICRC

の資料を利用し、日本政府及び赤十字の思わくを明らかにしたと同時に、インタビューを 通じて当事者の視点も反映しようとしたことは大きな研究成果であると言える。しかし、テッ サ・モーリス−スズキも朴正鎮と同様に、帰国事業の推進過程及び交渉だけに注目して、帰国事 業の性格の変化までは分析できていない。

次は、北朝鮮の政治体制に関する研究である。北朝鮮の政治体制に関する研究は大きく政治体 制の形成過程や変化、そして政治体制の性格に関する研究に分けて見ることができる。

徐 大 粛 の『The Korean Communist Movement, 1918〜1948』(6)とRobert Scalapino・ 李 庭 植 の

『Communism in Korea』(7)は初の本格的な北朝鮮研究とされている。徐大粛とRobert Scalapino・李 庭植は日本の植民支配下から始まった朝鮮半島の共産主義運動が信託統治、南北分断などを経て、

どのように展開されてきたのかを北朝鮮体制の形成過程を中心に分析している。とりわけ、

Robert Scalapino・李庭植の研究は、朝鮮戦争を始め 1960

年代の金日成の権力闘争まで分析の範

囲に入れ、北朝鮮にどのように金日成一人支配体制が構築できたのかを詳しく分析した。しか し、両方とも北朝鮮政権をソ連に移植されたソビエト化だと理解され、北朝鮮の政治体制の形成 における金日成の役割、そして北朝鮮の政策において北朝鮮とソ連の葛藤まではきちんと分析で きていなかったと考えられる。

Charles K. Armstrongの『The North Korean Revolution 1945-1950』

(8)は、1945年から朝鮮戦争 が起きるまでの北朝鮮体制の形成過程を分析した。著者は

5

年間の北朝鮮で起きた変化を「北朝 鮮の革命」と定義している。北朝鮮体制の形成においてソ連の影響が大きかったのは事実である が、ソ連の理念と政策をそのまま受け入れたわけではなく、朝鮮の諸条件に合わせて変えたとい うこと、すなわち朝鮮のソビエト化ではなく、ソビエトの朝鮮化と主張している。Charles K.

Armstrong

は金日成に対する再評価にとどまらず、北朝鮮が初期には、ソ連の影響を受けたが、

次第にソ連の影響圏から離れていったことを明らかにした。

次は、徐東晩の『北朝鮮社会主義体制成立史

1945−1961』

(9)を挙げる。徐東晩はアメリカ鹵獲文 書の中にあった北朝鮮の公刊資料をもとに北朝鮮の社会主義体制を解放後から

1961

年までを

5

時 期に分けて分析している。著者は北朝鮮の社会主義体制は

1961

年第

4

次党大会前後に確立された と主張している。北朝鮮の公刊資料をどのように分析できるのか示唆を与えた。

李鍾奭の『朝鮮労働党研究―指導思想と構造変化を中心にして』(10)は北京と延辺で発掘した北 朝鮮の労働新聞をもとに朝鮮労働党の思想や政治構造を中心に北朝鮮体制を分析した。北朝鮮体 制を、党を中心に分析したのは李鍾奭が初めてである。その上、李鍾奭は

1967

年以降の北朝鮮

(6)

の急激な政治変化も注目し、金日成一人支配体制の強化も綿密に分析したと見ることができる。

1990

年代から旧ソ連の資料が数多く発掘され、より活発に研究されてきたが、そのひとつに 下斗米伸夫の『モスクワと金日成―冷戦の中の北朝鮮

1945

年−1961年』(11)が挙げられる。下斗 米伸夫は、北朝鮮の形成にかかわる法律、制度、経済計画、外交関係などあらゆる分野において ソ連の関与及び忠告が行われてきたことを旧ソ連の外交資料を使って分析した。特に

1955

年の

「南日声明」は平和共存をめぐるものとみられたが、実際は北朝鮮とソ連の関係に意見の違いが 現れているという事実を明らかにしたと分析し、金日成一人支配体制の構築後、対外政策の転換 において対日接近が持つ意味を考える契機になった。

Andrei Lankov

の『From Stalin to Kim Il Sung: The Formation of North Korea 1945-1960』(12)も、

旧ソ連の資料を土台に北朝鮮の形成過程を分析した研究の一つである。Andrei Lankovは政権樹 立初期には事実上政治的・経済的にモスクワに依存するソ連の衛星国家だったが、1956年「8月 宗派事件」をきっかけにソ連と中国の影響力から次第に抜け出そうとしていると主張している。

2004

年に出版された『Crisis in North Korea: The Failure of De-Stalinization, 1956』(13)

1956

年「8 月宗派事件」をより詳しく分析している。当時、多様な勢力の連合となっていた北朝鮮の政治体 制が、金日成を追い出そうとした「8月宗派事件」によりむしろ金日成一人支配体制を確立させ る契機になったことを具体的に描いた。

Balazs Szalontai

の『Kim Il Sung in the Khruschev era: Soviet-DPRK Relations and the roots of

North Korean Despotism, 1953-1964』

(14)はウッドロー・ウィルソン・センターの国際冷戦史研究 プロジェクトで発掘されたハンガリー大使館の文書を土台に

1953

年から

1964

年までの北朝鮮と ソ連の関係の変化を分析した。著者は

1953

年朝鮮戦争後、経済復旧をしつつ支配体制も確立し なければならない状況に置かれた金日成がどのような政策を決めたのか、そしてその過程でソ連 との関係がどのように変化してきたのかについて分析している。とりわけ、著者は

1964

年に北 朝鮮とソ連の関係がもっとも悪化し、これらは東欧の社会主義国家とソ連の関係とは異なるもの であったと主張しており、朝鮮戦争後、北朝鮮の対外政策がどのように変わってきたのかについ て考えさせられることが多い。

最近、注目される研究として沈志華の『最後の「天朝」―毛沢東・金日成時代の中国と北朝鮮 上・下』(15)が挙げられる。沈志華は中国共産党や政府の公文書とともに旧ソ連の資料などを用い て「血の同盟」といわれる中朝関係が朝鮮戦争、「8月宗派事件」などを通じてどのように変わっ てきたのか分析した。つまり革命的な『天朝』を構築しようとした毛沢東に対し、金日成は北朝 鮮の独立的地位と個人の支配の確立を目指して中朝の間には潜在的矛盾ができたということであ る。北朝鮮がソ連とともに中国の影響力から脱皮した過程が詳細に描かれていたため、本稿は影 響を与えている。

最後に朝鮮総連に関する研究である。朝鮮総連に関する研究は在日朝鮮人史の一部として研究 される場合が多い。特に、終戦後、日本社会に在日朝鮮人が置かれた現状を示しながら在日朝鮮 人団体が結成された歴史的背景と成長過程を説明する中で多く議論された。田駿の『朝鮮総連研 究』(16)は在日朝鮮人史を論じる中で朝鮮総連の歴史と背景を分析している。特に日本社会内での 朝鮮総連の位相と役割に焦点を合わせて時期別に説明している。

秦熙官の『北朝鮮と朝鮮総連との関係変化に関する研究』(17)は朝鮮総連の形成の背景と特徴を

(7)

説明した後、北朝鮮とどのように連携を強化してきたのか、政治、経済、教育などの分野に分け て分析した。何より北朝鮮の一人支配体制の強化により朝鮮総連の活動指針も変わってきたこと を指摘し、北朝鮮の政治変化が朝鮮総連にも影響を及ぼしたことを強調した。これは、北朝鮮の 政治と朝鮮総連の関係に注目している本稿に多くの示唆を与えた。

先行研究の成果を踏まえ、本稿の研究課題と論点をまとめてみると以下の通りである。

第一に、金日成一人支配体制の強化が帰国事業に及ぼした影響である。この課題のため、二つ の研究課題を設定した。一番目は、今までの先行研究が帰国事業のはじめの段階だけに注目した こととは違って、帰国事業の全期間を分析の範囲に入れ、金日成一人支配体制の強化が帰国事業 の全期間の間どのような影響を及ぼしたのか、またこれが帰国事業に対する北朝鮮の態度と意志 をどのように変化させたのかを分析することである。二番目は、事実上日本国内で帰国事業を担 当した朝鮮総連が金日成一人支配体制の強化により帰国事業での役割がどのように変わったのか を把握することだ。これを通じて北朝鮮の政治が帰国事業の性格をどのように変えたのかを総合 的かつ包括的に分析する。

そして第二は、帰国事業の性格の変化が日朝関係に及ぼした影響は何かということである。帰 国事業は日朝関係の出発点として認識されていた。実際に帰国事業が始まり、日朝間の民間交流 も急増し、北朝鮮に帰国した在日朝鮮人たちの事例が日本のマスコミに紹介された。その結果、

日本社会における北朝鮮に対するイメージも良くなってきた。しかし

1965

年日韓協定が結ばれ、

北朝鮮の挑発も続き、帰国事業も中断されてしまったが、1971年に帰国事業が再開されてから は日朝間の交流も再び活発化した。したがって、今まで帰国事業は日朝関係を進展させる「チャ ンス」として認識されてきたのだ。帰国事業が日朝関係にどのように影響してきたかについてそ の性格の変化をたどりながら分析する。

研究方法は一次資料を基に歴史的な経緯などを実証的に解明するとともに北朝鮮の政治過程と の関連を分析することを中心とする。そのため、まず、日本と韓国の外交文書を始め、関係諸国 の公文書、関連団体及び政党の刊行物と新聞などの文献分析をする。日本外交文書の中「北朝鮮 関連領事事務」(請求番号

2010-00484)は、今回本稿のため請求して初めて公開されたものであ

り、1970年代から

1972

年までの帰国事業の再開と関連した日朝交渉過程に関する内容が含まれ ている。さらには日本に帰って来た帰国者、いわゆる脱北帰国者をはじめとした日朝関係と関連 した団体及び政党関係者とのインタビューも実施し、文献分析を補完する考えである。

2.金日成一人支配体制の確立と帰国事業

1955

2

25

日、北朝鮮の南日外相は「対日関係に関する朝鮮民主主義人民共和国外務相の 声明」を発表した。この声明は、1955年

1

30

日に鳩山一郎首相が参議院で「中国・ソ連との 国交正常化及び北朝鮮との経済関係を改善する用意がある」と表明した後、それに答える形でな された。これは北朝鮮が終戦後日朝国交正常化を呼びかけた初めてのことであるといわれる。北 朝鮮はなぜこのタイミングで「南日声明」を出したのか。

北朝鮮は

1953

年から北朝鮮の国内政策や中国支援軍の撤収問題などでソ連、中国とそれぞれ 微妙な神経戦を繰り広げていた(18)。中ソから脱皮しようという意志は

1955

年に登場した「主体」

というスローガンから更に確認できる。ところがここで強調したいことは「主体」は対外的な意

(8)

味より対内的な意味が強かったということである(19)

すなわち、金日成は、ソ連の支援の下で北朝鮮の指導者になったが、常に他の派閥の牽制と批 判が存在していた。特にソ連と中国政府に深い影響を受けていたソ連派と延安派に対する粛清は、

単純に北朝鮮内に支配体制を確立するための派閥粛清というだけではなく、ソ連と中国の介入構造 から脱することまで含んでいた。したがって

1955

年の「主体」は、北朝鮮内で反対派閥の粛清を 通じてソ連と中国の介入構造から抜け出すことに重きを置いたものと見ることが妥当だと考える。

「8月宗派事件」でソ連派と延安派の粛清に成功して金日成一人支配体制を確立した後、「主体」

は金日成の北朝鮮内での政治的正当性を妥当化するための言説として利用された。金日成の独自 の政策である「千里馬運動」を大々的に展開して宣伝したのもこのような理由であると考えられ る(20)。もちろん「主体」が中国とソ連の介入構造からの離脱を企てるという意味から、対外的 な意味も含まれているとみることができる。しかし、これは社会主義陣営で中国、ソ連の介入構 造から抜け出して自ら外交を推進するという意志を持っている程度と理解することが妥当だと考 える。すなわち「南日声明」は中・ソ介入構造からの離脱による中国、ソ連からの支援減少を念 頭に置いた代案(21)とみなすには無理があると考える。むしろ、社会主義陣営の政策を受け入れ ながらも、社会主義国家としての北朝鮮が自分なりの外交を推進するという意志として解釈する ことが正しいのではないかと考える。

1958

9

月、建国

10

周年記念式において金日成は在日朝鮮人の帰国を歓迎するという旨の演 説を行った。以後、11月には在日朝鮮人帰国協力会が結成され、1959年

4

月にはジュネーブで 日朝赤十字会談が開催されるなど帰国事業が迅速に展開する。大村収容所の収監者および大学進 学を希望した学生などに限定されていた帰国運動が、突然

1958

年に入り在日朝鮮人全体を対象 にした議論に変わったのはなぜなのか。

よく言及されることは、「労働力の確保」のために帰国事業を進めたということである。当時、

北朝鮮が戦後復旧に拍車をかけていた時点であり、中国支援軍が多くの役割を果たしたことを考 慮すると、北朝鮮の労働力不足は当然のことであろう。しかし、中国支援軍の撤退は既に予見さ れていた問題であった。さらに、北朝鮮は対策として、1958年

12

月、中国政府に中国東北地域 の朝鮮人を北朝鮮へ移住させるよう要請した。実際に

1959

年の

3

月から

4

月まで、約

5

万人が 北朝鮮へ移住した(22)。したがって、在日朝鮮人帰国事業問題が提起された時点では、中国支援 軍の撤退による労働力不足の対策は既に立てられていたとみることができる。

さらには、脱北帰国者の証言によると居住地及び職業の選択において既に計画されてはいた が、本人の意思が尊重され、任意変更も可能であった(23)。つまり、北朝鮮が徹底的な労働力配 置の計画がなかったことからも労働力確保のために帰国事業を実施したとみることは難しい。た だ、鉱山地域あるいは農村に配置されたという脱北帰国者の証言が多かったことを考慮すると、

帰国事業を進める過程において労働力不足を感じていた地域(24)に配置するという副次的な労働 力補完はなされたと考える。

1956

年「8月宗派事件」を契機に北朝鮮は金日成一人支配体制を構築することができ、中ソ介 入構造からもある程度抜け出したという確信を持つようになった。その上、「千里馬運動」など の成功により、1958年に社会経済制度を備えたと宣言できるようになった。このように、政治・

経済分野において社会主義国家としてそれなりの水準を備えたと考えた金日成は、より有効的な

(9)

方法で社会主義国家としてイメージを向上する必要性を感じた。しかし、これは社会主義陣営の 中で中・ソ介入構造から抜け出したとのことを喧伝し、それなりの地位を確保するためのもので ある。つまり、中国とソ連の支援縮小により生じた安保と経済問題を解決するための脱陣営外 交(25)だとは考えにくい。

3.帰国事業と朝鮮総連、そして日朝関係の形成

北朝鮮が帰国事業を決定し朝鮮総連に指示を下した結果、「集団帰国決議」がなされたという ことから、同事業が北朝鮮主導で実施された(26)という見解がある。もちろん、帰国事業が事実 上国家レベルの事業であり、朝鮮総連による「集団帰国決議」のあと北朝鮮がすぐさま対応した ということを考慮すると、帰国事業を決定したのは「北朝鮮」であることは間違いない。しか し、ここに朝鮮総連の意志が全く含まれていない「指示」と見難いところもある。

朝鮮総連が結成されてから二カ月後の

1955

7

15

日、「在日朝鮮人帰国希望者東京大会」が 開催された。そして

1956

4

6

日には、約

50

人の在日朝鮮人が日赤本社を訪問し、「北朝鮮残 留の日本人を引き揚げに行く北朝鮮船舶の『こじま』に乗せ、帰国させろ」と要求する籠城事件 もあった(27)。このように朝鮮総連は結成当時から一貫して在日朝鮮人帰国運動を推進してきた。

しかし、朝鮮総連の帰国運動が帰国事業の次元へと拡大されたのには、「1958年」に注目する 必要がある。1958年に朝鮮総連は四人議長団体制から韓徳銖一人議長体制へ転換されたのであ る(28)。これは、金日成と韓徳銖がほぼ同じ時期に一人体制を構築したことであり、帰国事業に 関する朝鮮総連の意志を考えるに当たって示唆をあたえるところがある。

テッサ・モーリス−スズキは、韓徳銖が大量帰国の熱烈な唱導者であったと主張している(29)。 実は、韓徳銖が金日成に「帰国事業」を進めることを提議したとの資料を見つけることは難し い。しかし、朝鮮総連が韓徳銖を中心とした体制になった後、「帰国運動」が続けて展開されて きた。また

1956

5

27

日、ICRCの使節団が日本を訪れた際、日赤外事部長の井上益太郎が 設けた面談の席で韓徳銖は「現在北朝鮮へ帰ることを望んでいる在日朝鮮人の数は

3

万人ぐらい である。在日朝鮮人の

4

分の

3

は朝鮮民主主義人民共和国の公民であるが、帰国事業が始まった らほとんど北朝鮮行きを選択するはずである。」(30)と発言した。これは、韓徳銖が帰国運動を在 日朝鮮人全体の帰国事業へ拡大しようという考えを持っていたように見受けられる(31)

当時、朝鮮総連が在日朝鮮人社会で民団と比べて規模も大きく、勢力も強かったことは事実で ある。しかし、全在日朝鮮人社会を掌握していたとはいえない。よって、朝鮮総連にとっては、

結成当時から強調してきた祖国北朝鮮との連携を一層強化しながら在日朝鮮人社会における影響 力を拡張する「機会」が必要だったのだろう。

「8月宗派事件」によって金日成一人支配体制も整った北朝鮮は

1958

年に入ってから戦後復旧も 完了、社会経済制度も備えた。同年

4

月に朝鮮総連の一人単独議長になった韓徳銖は、この時こ そ「機会」だと考えただろう。結果的には、帰国事業の後、朝鮮総連は、50万人の会員、中央組 織及び

48

か所の地方本部、それに

260

か所の支部と約

1,300

か所の地方分会がある組織として急 成長を遂げる。規模だけではなく在日朝鮮人全体を代表するほどの影響力も持つ団体になった(32)

このような事実は、帰国事業がすべて北朝鮮の「指示」だけでなされたと見なせない理由であ る。そして、帰国事業が展開される過程において朝鮮総連は帰国者募集や帰還案内を担当し、帰

(10)

還申請も朝鮮総連が組織した集団別に行われた。そのため、北朝鮮は帰国事業への朝鮮総連の介 入をずっと主張(33)し続けた。これは朝鮮総連が「帰国事業」を通じて北朝鮮の領事館の役割を 持ったといえる。つまり、北朝鮮との連携も更に強化された。

4.金日成一人支配体制の強化と帰国事業の再開

1967

5

月、朝鮮労動党の第

4

15

次全員会議で「党の政策教育と革命伝統教養を邪魔した 上に、ブルジョア思想、修正主義思想、封建儒教思想など、あらゆる反革命的思想を喧伝し、党 と人民を思想的に武装解除させようとする策動をした」(34)という名目で朴金喆、李孝淳など、甲 山派が粛清された(35)

1956

年の「8月宗派事件」以後、甲山派との連携の基で支配を強化していった金日成が甲山派 まで粛清したのである。これにより、金日成は朝鮮戦争直後の南労党派、1956年の「8月宗派事 件」で延安派とソ連派、そして、1967年の

15

次全員会議で甲山派まで、党内において金日成一 人支配体制に妨げになる部分はすべて取り除いた(36)(37)。さらには、15次全員会議で決まった内 容は「5.25教示」として党組織及び北朝鮮住民に伝達されたが、これはそれ以後の北朝鮮社会の 体質を変えるのに決定的な役割を果たすことになる。

このように

1967

年の

15

次全員会議の持つ意味とは、単に派閥粛清を通じて支配体制を整った だけではない。「唯一思想体系」(38)の確立のため、金日成個人崇拝が一層本格化されたし、これ は、北朝鮮社会が今までとは全く違った方向に向かう契機になったからである。ここで注目すべ きことは、金日成一人支配体制の強化が全て金正日の主導によって行われ(39)、これは金正日へ の後継につながるようになったということである。

つまり、金日成の唯一抗日革命闘争を内容にする個人崇拝に取り組んだ金正日は

1973

9

月 の党中央委員会第

5

年期

7

次全員会議で、書記局組職・宣伝担当書記に選任された。さらには、

1974

2

月に開かれた第

5

8

次全員会議では、中央委員会政治委員会委員になり、後継者とし て指名された。

1950

年代中盤に支配体制を確立し、中・ソ介入構造から抜け出した金日成が、ますます深刻 化する中・ソ紛争を利用して北朝鮮内ではもちろん社会主義陣営内でも自身の地位をより一層確 かにしていった。1960年

10

月、81回労働党共産党大会を基に親中に傾いた北朝鮮は、1964年に フルシチョフが失脚し、コシギンの北朝鮮訪問がなされてから再び親ソ側に傾倒し始めた。

そのような中、1966年に中国で文化大革命が起き、金日成に対する批判が行われた。それに対し 金日成は、ソ連の右傾修正主義にも中国の左傾冒険主義にも反対し、自主的な革命路線を堅持する とし、1966年党代表者会議でソ連と中国の誤った路線に反対するという労働党の主体的路線を内 外に宣言するに至った。特に、第

3

世界国家と非同盟諸国を対象に自主外交を標ぼうし始めた(40)

すなわち北朝鮮は、中国、ソ連のどこにも偏重しない「自主」外交路線を歩むと宣言したので ある。ここで注目されるのは、この時からの「主体」、「自主」は、1950年代のそれとは異なり、

対外的な意味が強調されているということである。もちろんこのような北朝鮮の「自主」宣言 は、対日接近に対する態度が変化することも暗示する。

「自主」外交を宣言した北朝鮮にとって、帰国事業の中断は残念なことであった。日赤は

1967

4

月の「閣議決定」によって、1967年

8

12

日に帰国申請を締め切り、11月

12

日にカルカッ

(11)

タ協定を終了する事にした(41)。しかし、締め切りの一週間前に日本全国の帰国申請窓口に約

15,000

人の申請者が殺到し(42)、「帰国未了者」問題が懸案問題として浮かび上がった。

1967

8

25

日から

9

23

日までモスクワにおいて、帰国未了者処理のための日朝両赤十字 代表団の実務者会談が行われた。この会談で朝赤は協定の無修正延長を再提議し、また、朝鮮総 連の代表をこの会談に参加させるべきであると主張した(43)。これは事実上「帰国事業」において 朝鮮総連に領事館の役割をさせ、引き続き積極的に帰国事業に臨もうとしたものとみられる。し かし、両赤の意見は平行線をたどり一致する見通しがつかず、正式交渉十五回で会談は決裂した。

1968

年に相次ぐ北朝鮮の挑発行為により帰国事業の交渉が中断されている間に発生したのが

「よど号事件」である。「よど号事件」を速かに処理したことをめぐって、日本国内では北朝鮮に 対する好感が高まり、「よど号事件」に対するお礼で引き延ばしになっていた「帰国事業」の再 開が行われなければならないという主張も出始めた(44)。実際に、「帰国事業」の再開に対する交 渉が

1970

12

14

日にモスクワで行われ、1971年

2

月に合議に至った。

金日成は帰国事業が再開した後、1971年

9

25

日の朝日新聞とのインタビューにおいて、「日 本との国交はもちろん、与党国会議員の訪問も歓迎する」と発言し、日本との関係を改善する意 志を表明した。そして実際に

1971

11

月北朝鮮と友好促進および国交樹立を目的とした「日朝 友好促進議員連盟」が結成された。

これは、1966年に中国とソ連の路線に影響を受けない「自主」外交路線を宣言した北朝鮮が、

「帰国事業」の再開を契機に日本との国交正常化を積極的に模索しようとしたとみることができ る。すなわち、1959年に帰国事業が始まる時は社会主義国家としてのイメージ向上に焦点を合 わせていたとすれば、帰国事業の再開は北朝鮮の「自主」路線を反映し、日朝国交正常化を積極 的に進めようとした。北朝鮮が国交正常化まで念頭に置いた積極的な対日意志はむしろ帰国事業 の再開により作用されたとみられる。

5.帰国事業の性格の変化と日朝関係の変容

北朝鮮が日朝関係へ積極的な意志とともに帰国事業の再開に向けて考えたもうひとつは経済的 な利益であろう。「自主」路線をとった結果、国防費が増加したことに比べて中国とソ連からの支 援は減少し、急速に成長した北朝鮮の経済も停滞した。そのとき日本は高度経済成長期であった。

毎年北朝鮮は朝鮮総連から経済的支援を受けるようになったが、この傾向は再開された帰国事 業にも確認できる。カルカッタ協定による帰国事業期間(1959. 12. 14〜1967. 12. 22、第

1

次〜

155

次)には世帯当たり平均貨物の個数は

195.5

個、重さは

1.5

トンであったのに比べ、モスクワ 会談による暫定協定措置期間(1971. 5. 14〜1971. 10. 22、第

156

次〜第

161

次)には世帯当たり 平均貨物の個数は

54

個減ったが、重さは

9.14

トンで大幅に増えた。貨物の内訳もバス、自動車、

機械設備など広範なものであったが、これは(45)帰国者の貨物という形で財貨の搬出が一層拡大 したと見られる。

当時、帰国事業を担当していた元朝鮮総連幹部のチャン・ミョンス氏も、「再開された帰国事 業のときは、技術者集団を大々的に募集し、彼らが持っていた設備と装備を一緒に帰国させた」

と証言した(46)。韓国政府も「帰国船一隻当たり

1

億円分の財貨が搬出され、プラントを分解・

組み立てる方式で北朝鮮に工場が建てられる」(47)と懸念していた。

(12)

1967

年の北朝鮮の急激な政治社会的変化以後、朝鮮総連は在日朝鮮人の利益を代弁する「海 外公民団体」というよりは、北朝鮮の「出先機関」としての性格を強めたとみることができる。

一つ目は、「唯一思想体系」確立のための思想教養事業及び金日成個人崇拝が朝鮮総連にもそ のまま適用されるようになったということである。1967年

11

月、朝鮮総連の第

8

2

次中央委 員会において「総連の活動家たちは金日成著作集をはじめとする首領の労作と教示などを学習し ながら革命伝統を体得している」(48)という報告がなされたことから、「5.25教示」による思想学 習の強化が朝鮮総連でも行われていたことがうかがえる(49)

思想教養事業は、1970年代に入ってから一層本格化している。金日成は

1973

年、平壌を訪問 した朝鮮総連幹部らに「朝鮮総連は在日朝鮮人の利益を代表する在日朝鮮人の代表機関」と述べ ながらも、「行政機関ではなく、思想団体」(50)であることを強調し、朝鮮総連が金日成の「唯一 思想体系」確立を目標にした北朝鮮の海外「出先機関」であることを明確にした。これは

1974

2

23

日、朝鮮総連の第

10

次全体大会で「金日成主義」が決議(51)されたことによって、北朝 鮮の「思想団体」であることが更に露骨になった。

二つ目は、日本を拠点としているという地理的特徴を活用し、北朝鮮の思想及び政策を「宣 伝」し「支援」する役割が拡大された。1967年以降、朝鮮総連は多様な方面において北朝鮮を 宣伝・支援する、事実上北朝鮮の「海外活動」の拠点としての役目を拡大してきた。親善大会な どを通じた非同盟国家との交流、金日成及び金正日の著作の英語、日本語版の出版、国際セミ ナーを通じた主体思想の伝播など、北朝鮮を宣伝・広報する役割を担当している(52)。さらには、

対北朝鮮送金及び愛国工場建設など、経済的部分でも北朝鮮を支援したが、これを

1970

年代中 盤・後半以降一層強化してきただけでなく、重点事業にする傾向も見せてきた(53)

このように

1967

年以降、朝鮮総連は在日朝鮮人の利益を代弁する「海外公民団体」というよ りは、思想性が強化された北朝鮮の「出先機関」としての性格に偏るようになったと見られる。

このような従属的関係をさらに強化したのが「帰国事業」であろう。1967年

12

14

日には開 催された第

4

期最高人民会議の第

1

次会議で初めて朝鮮総連の幹部らが代議員に選出されてい る。帰国事業が中断された直後、このように朝鮮総連の幹部らが代議員に選出されたのには、帰 国事業に対する今までの成果を総括すると同時に、再開されるよう尽力を尽くしてほしいという 意味も含まれている。これは北朝鮮が帰国事業を通じて朝鮮総連の「価値」をさらに活用したい ということでもある(54)

それから、朝鮮総連の幹部子弟が帰国事業の主な対象になっていたということである。もちろ ん、最初の帰国事業の時も朝鮮総連の幹部子弟が含まれていたが、帰国事業の再開後には現役の 中央及び地方主要幹部らの子弟が朝鮮大学や青年団体などを通じて組織的に送られていたという ことだ。1971年帰国事業が再開された後、2回目の帰国船のリストには、韓徳銖朝鮮総連中央議 長の息子

1

人と金炳植朝鮮総連中央副議長の息子

2

人が含まれていた。韓徳銖の息子は現われな かったため、金炳植の息子のみ帰国した(55)

これと関連して金日成は、「総連の活動家が日本で子供を勉強させにくければ、祖国に送って も良いでしょう。総連の活動家の子供が祖国に来て勉強するからといって、大きな負担になるこ とはないです。しかし、総連の活動家が子供を祖国に送ってお金持ちの子供と同様にぜいたくな 暮らしをさせようと思ったらそれは間違いです。」(56)とし、朝鮮総連の幹部子弟を北朝鮮に送る

(13)

ことを積極的に勧奨している。

実際に、再開された帰国事業の時からは一人で帰国した朝鮮総連の幹部子弟のため、合宿所も できた(57)。朝鮮総連の幹部子弟を募集して平壌に帰国させることは、結局、朝鮮総連の幹部ら は子供が平壌にいる以上、引き続き朝鮮総連事業をするしかない状況に置かれることになる。こ れは、1979年から祖国訪問団として訪問し、経済的支援をせざるを得なくなったことからも明 らかであり、朝鮮総連が北朝鮮に更に従属する結果にもつながったともいえる。

6.結 論

帰国事業は、冷戦体制の下で日朝関係が国交正常化まで進展できる「チャンス」だと考えられ てきた。しかし、全期間を通じて分析した帰国事業は、金日成一人支配体制の強化に応じてその 目的と役割が変わってきたことがわかる。1956年「8月宗派事件」後中ソから脱皮することが目 的だった北朝鮮は、社会主義国家としてのイメージを向上させるため帰国事業を決定した。また

1967

年「5.25教示」以降には自主路線宣言をしたことにより、幅広い外交関係を持ち、更に経 済的な利益を考えて帰国事業を再開に力を入れた。

しかし、帰国事業初期に日本のマスコミなどを通じて「地上の楽園」と報じられた北朝鮮は、

北朝鮮に渡った帰国者らの証言を通じて北朝鮮の画一的かつ冷酷な現実が更に知られるきっかけ となった。社会主義国家イメージの向上を目指して帰国事業を進めていた北朝鮮の最初の目的 は、結局は失敗したのである。北朝鮮は

1960

年代半ばから進めた自主外交の一環として日本と の関係改善を念頭におき、帰国事業を再開したが、国交正常化は成し遂げられなかった。

また、金日成一人支配体制の強化は朝鮮総連が北朝鮮に従属されることにつながり、これは帰 国事業でもそのまま反映された。つまり朝鮮総連は帰国事業を北朝鮮の海外公民団体として在日 朝鮮人社会における影響力を拡大するとともに、北朝鮮との緊密な関係を構築する機会にした が、結果的には北朝鮮の出先機関に転落する契機になってしまったのだ。その結果、日本におけ る朝鮮総連のイメージも悪化し、立場も弱くなった。

このように帰国事業はむしろ北朝鮮に対するイメージが悪化する原因になっており、朝鮮総連 にとっても在日朝鮮人団体としての立場はもちろん、北朝鮮をつなぐパイプの役割としての権威 が徐々に縮小される主な原因になった。

これまで、帰国事業は北朝鮮の核、拉致問題のような日朝間の懸案として認識されてこなかっ た。しかし、帰国事業は

1959

年に始まって

1984

年まで続いており、日朝の間で北朝鮮がいかな る体制であるのかを最もよく見せる出来事であった。しかも帰国事業の推進背景や過程などにつ いては余り明らかになっていない。何より北朝鮮に渡った在日朝鮮人、日本人が北朝鮮でどのよ うな待遇をされたのかについては、ほとんど知られていない。したがって、日朝関係正常化の過 程で帰国事業は過去の歴史問題として浮上する可能性があり、これは北朝鮮の核、拉致問題とと もに日朝関係の制約となりうると考える。

(受理日 2019年

4

25

日)

(掲載許可日 2019年

7

29

日)

(14)

注 記

(1)1956年「8月宗派事件」後、金日成中心の支配体制が形成されたことについては、研究者により、「一人 支配体制」「単一支配体制」「単一指導体制」などといわれているが、本稿では「一人支配体制」という 用語を用いることとする。それから1967年「5.25教示」以降、金日成の絶対権力化、個人崇拝の強化な どの変化については首領制(鈴木昌之)、遊撃隊国家(和田春樹)、唯一指導体制(李鍾奭)などと説明さ れている。鈴木昌之(2014)『北朝鮮首領制の形成と変容―金日成、金正日から金正恩へ』明石書店。和 田春樹(1998)『北朝鮮―遊撃隊国家の現在』岩波書店。李鍾奭(1995)『朝鮮労働党研究―指導思想と 構造変化を中心にして』歴史批評社。

(2)辛貞和(2004)『日本の対北政策1945−1992』オルム。

(3)和田春樹・高崎宗司(2005)『検証日朝関係60年』明石書店。

(4)朴正鎮(2009)「冷戦期日朝関係の形成、1945〜65年」東京大学大学院総合文化研究科博士学位論文。

(5)テッサ・モーリス−スズキ(2007)『北朝鮮へのエクソダス「帰国事業」の影をたどる』朝日新聞社。

(6)Dae-Sook Suh. (1967) The Korean Communist Movement, 1918〜1948. Princeton N.J.: Princeton University Press.

(7)Robert Scalapino and Chong-sik Lee. (1972) Communism in Korea. Berkeley: University of California Press.

(8)Charles K. Amstrong. (2005) The North Korean Revolution 1945-1950. New York: Cornell University Press.

(9)徐東晩(2005)『北朝鮮社会主義体制成立史1945−1961』ソンイン。

(10)李鍾奭(1995)『朝鮮労働党研究―指導思想と構造変化を中心にして』歴史批評社。

(11)下斗米伸夫(2006)『モスクワと金日成―冷戦の中の北朝鮮1945年−1961年』岩波書店。

(12)Andrei Lankovi. (2002) From Stalin to Kim Il Sung: The Formation of North Korea 1945-1960. New Jersey:

Rutgers University.

(13)Andrei Lankovi. (2004) Crisis in North Korea: The Failure of De-Stalinization, 1956. Hawaii Studies on Korea.

(14)BalazsSzalontai. (2005) KimIlSung in the Khrushhev Era: Soviet-DPRK Relations and the Roots of North Korean Despotism, 1953-1964. Washington, D.C: Woodrow Wilson Center Press.

(15)沈志華著・朱建栄訳(2016)『最後の「天朝」―毛沢東・金日成時代の中国と北朝鮮上・下』岩波書店。

(16)田駿(2010)『朝鮮総連研究』高麗大学亜細亜問題研究所。

(17)秦熙官(1995)「北朝鮮と朝鮮総連との関係変化に関する研究」『安保研究』25号、東国大学校安保研究 所、169頁。

(18)1953年、スーズダリョフソ連大使は、金日成のソ連への援助をマレンコフなど最高指導部に打電した中、

「現在では重工業に基本的な支柱がおかれ、軽工業や農業振興に不十分にしか関心を払われていないか、全 く関心を傾けない」といった。下斗米伸夫(2006)『モスクワと金日成―冷戦の中の北朝鮮1945年−1961 年』岩波書店、149頁。

また、中国に対し、金日成は朝鮮労働党第3次大会で「朝鮮問題を朝鮮人同士で解決するため、米国の軍 隊と中国人民支援軍を含めた外国の軍隊を撤退させ、わが国に対する外国の干渉が一切ないようにするべ きである」と言い、中国支援軍問題が北朝鮮への内政干渉につながることを懸念した。崔明海(2009)『中 国・北朝鮮の同盟関係―不便な同居の歴史』オルム、94頁。

このような北朝鮮とソ連、中国との神経戦について、沈志華は、中・ソ両方とも指導者交代まで考えたわけ ではないと主張している。つまり、当時中・ソは金日成をやはり支持すべきで、彼が過ちを是正することを

(15)

助けなければならないと、それが朝鮮の情勢を安定させることにつながると考えたということである。沈志 華著・朱建栄訳(2016)『最後の「天朝」―毛沢東・金日成時代の中国と北朝鮮上下』岩波書店、265頁。

(19)「主体とは、それまでソ連、中国に求めていたマルクスレーニン主義のイデオロギー解釈権の源泉を北朝 鮮国内に移すことによって金日成に対する挑戦者がイデオロギー論争に形態を取る権力闘争を封鎖する、

ある意味において安全装置としての意味を持っていた」小此木政夫(1972)「北朝鮮における対ソ自主性

の萌芽1953−1955―教条主義批判と主体概念」『アジア経済』第7月号、52-54頁。

(20)Balazs Szalontai. (2005) Kim Il Sung in the Khrushhev Era: Soviet-DPRK Relations and the Roots of North Korean Despotism, 1953-1964. Washington, D.C: Woodrow Wilson Center Press, p117.

(21)高崎宗司・朴正鎮(2005)『帰国運動とは何だったのか』平凡社、68頁。

(22)「195812月、北朝鮮政府代表団は訪中し、中国籍朝鮮族と北朝鮮僑民を動員し北朝鮮の建設事業に参 加できるよう中国側に求め、中国はこの計画に同意した。中国は19593月から4月にかけて延べ52,014 名(その中、僑民は1,084名で、吉林省36,274名、黒竜江省9,817名、遼寧省5,383名、内モンゴル540名)

を送った」。档案(文書)番号118-00777-01「外交部関於組織中国籍朝鮮族人民和動員朝鮮僑民去朝参加 建設工作的綜合報告」1959-12-10。同資料は、金伯柱(2010)「中朝同盟の形成動因に関する一考察」『中 国研究月報』5月号、38頁)から得たものである。

(23)姜ミョンホ(偽名、男、70代、日本出生、1976年帰国、2008年韓国入国)とのインタビュー、201903 21日、ソウル。

(24)V.I Pelishenkoとの対話で金日成が「労働力不足を感じた」と述べたことと一致する。

(25)朴正鎮(2009)「冷戦期日朝関係の形成、1945〜65年」東京大学大学院総合文化研究科博士学位論文、

220頁。

(26)朴正鎮(2009)「冷戦期日朝関係の形成、1945〜65年」東京大学大学院総合文化研究科博士学位論文、

220頁。

(27)金英達・高柳俊男編(1995)『北朝鮮帰国事業関係資料集』新幹社、349頁。

(28)朴斗鎮(2008)『朝鮮総連その虚像と実像』中央公論社、58-60頁。

(29)テッサ・モーリス−スズキ(2007)『北朝鮮へのエクソダス「帰国事業」の影をたどる』朝日新聞社、198頁。

(30)テッサ・モーリス−スズキ(2007)『北朝鮮へのエクソダス「帰国事業」の影をたどる』朝日新聞社、116頁。

(31)黄長燁氏も、北朝鮮が帰国事業を実施すると発表する前に、韓徳銖が金日成に数回提議していたと証言し ている。黄長燁(元朝鮮労働党国際秘書)とのインタビュー、201010月1日、ソウル。

(32)当時、帰国事業には日本の社会党も人道上の理由を挙げて協力した。この過程で朝鮮総連と社会党の連帯 感も強くなったと和田春樹は分析している。これは、帰国事業が朝鮮総連にとって日本の政界とも関係を 持つきっかけになったということを示す。和田春樹・高崎宗司(2005)『検証日朝関係60年』明石書店、

38頁。

(33)「北鮮帰還クロノロジー」、日本外務省文書、開示請求番号2010-00480、文書番号18。

(34)朝鮮労働党中央委員会党歴史研究所(1979)『朝鮮労働党略史』朝鮮労働党出版社、599頁。

(35)当時金道満、朴容国など金英柱の支持勢力もともに粛清されたが、それをきっかけに後継体制問題をめぐ り叔父の金英柱と競争していた金正日が優位に立つことになった。

(36)19691月、人民軍の党委員会第44次全員会議の拡大会議を通じて当時民族保衛相であった金昌奉、

対南総局長であった許鳳学などパルチザン出身の軍部官僚も粛清された。1960年代半ばから強調されてき

(16)

た経済・国防並進建設と自主国防路線が進まれるなか、軍部たちが権力を握るようになるのではないかと 懸念した金日成が挑戦する可能性を予め遮断したことである。玄成日(2007)『北朝鮮の国家戦略とパワー エリート―幹部政策を中心に』ソンイン、61頁。

(37)李鍾奭(1995)『朝鮮労働党研究―指導思想と構造変化を中心にして』歴史批評社、310頁。

(38)唯一思想体系とは金日成が提唱した主体思想を党と社会の唯一のイデオロギーとするものであり、事実上、

マルクスレーニン主義と決別したことである。

(39)李鍾奭(1991)「金正日研究Ⅰ:後継者への浮上と権力構造の再編」『歴史批評』秋号、275頁。

(40)金日成が19654月にインドネシアで開催されたバンドン会議の10周年記念行事に参加したことは、北 朝鮮が国際関係において第3世界や非同盟国家との外交に関心を持つようになった決定的なきっかけと なった。玄成日(2007)『北朝鮮の国家戦略とパワーエリート―幹部政策を中心に』ソンイン、77頁。

(41)「自民党外務・法務・厚生合同部会における大臣発言ご参考」、日本外務省文書、開示請求番号2010-00484、

文書番号3。

(42)法務省入国管理局(1971)『出入国管理とその実態』第7月号、96頁。

(43)日本外務省(1968)「わが外交の近況」第12号、166頁。

(44)『朝日新聞』197049日。

(45)「外務部着信電報、1972316日」、大韓民国外交通商部外交文書、分類番号791.25、登録番号5623、

『在日同胞北韓送還、1972』、フレーム番号7。

(46)ジャーナリスト堀信の張明秀氏とのインタビュー、200315日。

(47)「外務部着信電報、197129日」、大韓民国外交通商部外交文書、分類番号791.25、登録番号4738、

『在日同胞北送再開、1971』、フレーム番号142-144。

(48)『朝鮮新報』196711月11日。

(49)秦熙官(1995)「北朝鮮と朝鮮総連との関係変化に関する研究」『安保研究』25号東国大学校安保研究所、

169頁。

(50)金日成(2003)「総連幹部らに提起された課業に対して」(総連幹部らとの談話、197361日)『金日

成選集52』朝鮮労働党出版社、1-19頁。

(51)金正日(1995)「総連事業を助けてあげることに対して」(朝鮮労働党中央委員会責任幹部らとの談話、

1975325日)『金正日選集5』朝鮮労働党出版社、70-82頁。

(52)朝鮮総連活動日誌、http://www.chongryon.com/k/cr/diary.html。最終閲覧は20193月25日。

(53)朝鮮総連活動日誌、http://www.chongryon.com/k/cr/diary.html。最終閲覧は20193月25日。

(54)帰国船で思想学習及び北朝鮮からの政策指示学習が行われ、経済的には帰国者の荷物というかたちで機械 設備やコンピューターなどの戦略物資も多く搬出された。「外務部着信電報、197125日」、大韓民国 外交通商部外交文書、分類番号791.25、登録番号4738、『在日同胞北送再開、1971』、フレーム番号79-83。

(55)「外務部着信電報、1971514日」、大韓民国外交通商部外交文書、分類番号791.25、登録番号4738、

『在日同胞北送再開、1971』、フレーム番号357。

(56)「総連組織を更に強化することに対して」(在日朝鮮人祝賀団との談話、1972614日)

(57)金ホ(偽名、男、50代、日本出生、1971年帰国、2008年韓国入国)とのインタビュー、20190320 日、ソウル。

参照

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