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西周時代の身分制

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(1)

西周時代の身分制

著者 木村 秀海

雑誌名 関西学院史学

号 39

ページ 107‑131

発行年 2012‑03‑20

URL http://hdl.handle.net/10236/00025777

(2)

西 周 時 代 の 身 分 制

木 村 秀 海

一 は じ め に

!

周 知の よう に殷

・西 周時 代の 身分 制に つい ての 論考 は多 い︒ 専論 以外 に記 述中 に言 及し たも のも 多い

︒た だ︑ それ らに は奴 隷身 分に 偏っ てい ると いう 傾向 があ った こと は否 めな い︒ 特に 一九 五〇 年代 以降 一九 八〇 年代 まで の研 究に はそ の傾 向が 著し い︒ これ はこ の頃 の古 代史 家が 中國 古代 に奴 隷制 時代 を強 いて 措定 しよ うと した こと と無 縁で はな い︒ この 傾向 は無 くな った わけ では ない

︒今 も残 滓を 引き 摺っ てい るこ とが ある

︒ 西 周時 代を 研究 する 場合

︑奴 隷よ りも

︑当 時の 社会 基盤 をな して いた 庶人 の研 究こ そが 重要 であ ろう

︒庶 人は 主要 な農 業の 従事 者で あり

︑軍 事に も関 わり

︑社 会全 般が その 行為 によ って 支え られ てい た︒ 庶人 と田

︑庶 人と 徴税

︑庶 人と 官制

︑庶 人と 兵役

・徭 役な ど︑ 庶人 と諸 般の 関係 を明 らか にし ては じめ て西 周と いう 王朝 の性 格や 構造 がわ かる と思 う︒ 今 まで は奴 隷制 に注 力さ れ︑ 庶人 以上 の階 層に 対す る研 究が 少な かっ た︒ 本稿 はこ のよ うな 反省 から

︑少 なく とも 西周 時代 の身 分制 の上 から 下ま での 骨組 みだ けで も明 らか にし たい と思 って 書い た試 論で ある

︒よ って 細部 まで 検討 一

〇 七

(3)

して いる わけ では ない 二 ︒ 邑人 と 身 分の 骨 組 み 西

周早 期の

$作 周公

%に 臣三 品と いう 語が ある

︒ こ

の臣 三品

︵州 人・ 重人

・"

人︶ は︑ 州族

・重 族・

"

族 の族 人で はな く︑ 州邑

・重 邑・

"

邑 の三 邑に 居住 して いる 邑人 を指 して いる

︒采 土の 賜与 や諸 侯の 封建 のと きに はこ のよ うに 複数

︵或 いは 単数

︶の 邑人 が采 邑或 いは 領土 とと もに 与え られ るの が普 通で あっ た︒ 邑人 の内 部が どの よう な構 造を して いた かは

︑次 に挙 げる 宜侯

#% と大 盂鼎 の銘

!

文か ら知 るこ とが でき る︒

西 周 時 代 の 身 分 制

〇 八

(4)

2 は封 建の 例で ある が︑ まず 土田 が賜 与さ れ︑ 次い で人 の賜 与が 行わ れて いる

︒そ の賜 与さ れた 人を 整理 する と次 の二 種に なる

①在 宜王 人十 又七 姓│

││ 宜庶 人六 百又

□︵ 十︶ 六夫

②鄭 七伯

││

││

││

││ 盧﹇ 千﹈ 又五 十夫

① の﹁ 在宜 王人 十又 七姓

﹂は 宜国 の中 心邑 にな る宜 邑に 居住 する 一七 の姓 族で

︑姓

・氏 を有 し︑ 宗・ 分族 とい う宗 組織 を持 つ人 々の こと であ る︒ 彼ら は王 人と 呼ば れる よう に王 の臣

︵王 臣︶ であ るが

︑宗 周に 出て 中央 政府 の官 にな るほ ど勢 力は なく

︑邑 の自 治的 管理 が委 ねら れて いる 後世 の豪 族・ 士の よう な者 とそ の一 族の 人々 であ る︒ それ に隷 属し てい るの が﹁ 宜庶 人六 百又

□︵ 十︶ 六夫

﹂と 数え られ てい る庶 人で ある

︒庶 人は

﹃左 伝﹄ 襄公 九年 の 其卿 譲於 善︑ 其大 夫不 失守

︑其 士競 於教

︑其 庶人 力於 農穡

︒商 工! 隷︑ 不知 遷業

︒ によ れば 農民 であ るが

︑三 年衛

"

︵ 集成

九 四五 六︶ 西

周 時 代 の 身 分 制

〇 九

(5)

によ れば

︑庶 人が 商人 とし て仲 介業 を果 たし てい るの で︑ 商業 が未 発達 なこ の時 代に は庶 人に は商 人が 含ま れて いた よう だ︒

② の﹁ 鄭七 伯﹂ は伯 とい う貴 族的 呼称 から 見て

︑① の一 七姓 と同 様に 姓・ 氏を 有し

︑金 文所 見の 多く の某 伯と 同様 に宗

・分 族と いう 宗組 織を 持つ てい た士 であ った

︒恐 らく 彼ら は鄭 地の 複数 の小 邑か ら自 己の 宗氏

・分 族や 隷属 する 盧と とも に集 めら れた ので あろ う︒ 盧は 来母 魚韻 で来 母魚 韻の 虜と 同音 通仮 する

︒虜 は﹃ 史記

﹄李 斯列 伝﹁ 慈母 有敗 子而 厳家 無格 虜者

︑何 也﹂ の司 馬貞 索隠 に﹁ 虜︑ 奴隷 也﹂ と云 うが

︑隷 民と いう ほど の意 味で あっ たは ずだ

︒大 盂鼎 の人 鬲︑ 即ち

﹁自 馭至 庶人

﹂と 同じ 人々 を指 して いる と思 う︒ 3 はす でに 采邑

・采 土を 有す る貴 族の 盂に さら に人 が賜 与さ れた 例で ある

︒こ のと きに 賜与 され 新た に邑 人と なっ た人 々を 整理 する と︑ 次の よう にな る︒

③邦 司四 伯│

││

││

││ 人鬲 自馭 至于 庶人 六百 又五 十又 九夫

④夷 司王 臣十 又三 伯│

││ 人鬲 千又 五十 夫︑

④は 後文 に﹁ 亟か に!

︵意 義不 明︶ し︑ 厥の 土自 り遷 せ﹂ とあ るの で︑ いず れも 他の 邑か ら転 入さ せら れる 人々 であ る︒

③の

﹁邦 司﹂ は名 称に よれ ば周 邦内 の某 邑の 支配 層で あっ たよ うだ

︒伯 とい う呼 称か ら彼 らが 宗・ 分族 とい う宗 組織 を有 する 士で あっ たこ とが わか る︒ 人鬲 以下 はそ れに 隷属 して いる 人々 をい う︒

④ の﹁ 夷司 王臣

﹂と はも と東 夷或 いは 淮夷 の邑 の支 配層 であ った のが

︑周 邦に 組み 込ま れ︑ 周王 から その 邑の 管理 を任 され た者 とい う意 味で あろ う︒ 十又 三伯 は③ の四 伯と 同様 に宗

・分 族と いう 宗組 織を 有す る士 のこ とで ある

︒人 鬲に つい ては

③の よう に﹁ 自馭 至于 庶人

﹂と 内容 を説 明し てい ない が︑ 略記 して いる ので ある

西 周 時 代 の 身 分 制

一 一

(6)

④の

﹁人 鬲﹂ は人 と鬲 でで きた 連語 で︑ 人は 庶人

︑鬲 は庶 人を 除く 馭に 至る まで の数 種の 隷民 を指 す︒ 鬲は 来母 錫韻

︑隷 は来 母質 韻で あり

︑双 声近 韻で

﹁隷

﹂と 通仮 する

︒人 鬲︑ 即ち 人隷 とい う語 は﹃ 後漢 書﹄ 周嘉 列伝 に罵 詈の 語と して 見え るが

︑元 代ま でも 使用 され た隷 民を 指す 語で ある

︒こ の人 鬲︵ 隷︶ とい う語 は﹃ 左伝

﹄定 公四 年の 故 周公 相王 室以 尹天 下︒ 於周 為睦

︒分 魯公 以大 路大 旂︑ 夏后 之璜

︑封 父之 繁弱

︑殷 民六 族︑ 条・ 徐・ 蕭・ 索・ 長勺

・尾 勺︒ 使帥 其宗

︑輯 其分 族︑ 将其 類醜

︒以 法則 周公

︒ に見 える

﹁類 醜﹂ に近 い︒ とい うよ りは 同じ もの を指 すだ ろう

︒条

・徐

・蕭

・索

・長 勺・ 尾勺 の六 氏は 宗・ 分族 とい う宗 組織 を持 って いて

①②

③④ の士 と同 種の もの であ る︒ 類醜 はそ れら に将 いら れる 人々 であ って

︑六 氏と は直 接の 血縁 関 係 はな い

︒杜 預 注に

﹁醜

︑衆 也

﹂と 云 い︑

﹃ 国語

﹄周 語 上﹁ 况 爾小 醜 乎﹂ の 韋昭 注 に﹁ 醜︑ 類 也﹂ と 云い

︑曖 昧に 表現 して いる が︑ 具体 的に は﹁ 自馭 至于 庶人

﹂階 層の 隷民 を指 す語 であ ると 思う

︒ こ こま で所 論は 別稿

﹁衆 人新 解│ 衆人 為邑 人説

│﹂ の一 部を やや 詳細 に述 べた もの であ り︑ その 骨格 を図 示す ると 次の よう にな る︒

︻ 図Ⅰ 士 ︼

︵ 宗│ 分族

︶│

││ 庶人

⁝⁝

⁝⁝

⁝馭

│王 人・ 王臣

│└

│人 鬲︵ 人隷

︶│

・宗 族

│└

││

│類 醜│

││

└ 1

の栄 と3 の盂 はこ のよ うな 構造 をし た邑 人を 銘文 作 成 時に 賜 与 され

︑も と か ら 所有 し て いた 邑 の 邑人 に 加 え て︑ 西 周 時 代 の 身 分 制

一 一 一

(7)

盂の 邑の 新し い邑 人組 織を 作っ た︒ こう いう 場合 には 新し い邑 人組 織は どの よう に変 化し ただ ろう か︑ 散氏 盤を 見て みよ う︒ 散

氏 盤 には

!と 散 の 紛争 の 決 着 が田 の 譲 渡で は か られ た こ と が記 さ れ てい る

︒田 の 譲渡 の 次 第 が詳 細 に 記 し て あ る︒ 紛争 の当 事者 の! は銘 文末 尾に

﹁! 王﹂ とあ るよ うに 邦君 であ り︑ 畿内 に独 立国 家を 擁し てい た︒ もう 一人 の当

西 周 時 代 の 身 分 制

一 一 二

(8)

・官正で田の実地検証に出た者︵四人︶││司徒逆︑司馬︑人司工君︑宰徳父

・散人小子で田の実地検証に出た者︵六人︶││戎︑微父︑効䗙︑襄之有司︑州就︑倐従

事者 の散 は散 邑︵ 銘文 冒頭

︶の 釆主 で︑ 散伯

"

︵ 集成

三 七七 七︑ 三七 七八

︑三 七七 九︑ 三七 八〇

︶に 散白

︵伯

︶乍

︵作

︶! 姫宝

"

︑ 其邁

︵万

︶年 永用 とあ るよ うに 姫姓 の貴 族で

︑! に娘 を嫁 がせ るよ うな 一族 の当 主で あっ た︒ 田譲 渡の とき に! 側か ら一 五人 の有 司が 出席 した が︑ 邦君 の有 司な ので 検討 対象 から 除く

︒散 側か らは 一〇 人の 有司 が主 席し た︒ その 内訳 は次 のよ うに なっ てい る︒ 正

︵官 正︶ の四 人は 司徒

︑司 馬︑ 司工

︑宰 とい う散 側の 官組 織の トッ プ四 人で ある のに

︑な ぜ散 人の 小子 が出 てく る必 要が ある のか

︒小 子と は分 族の 長︵ 小宗 の長

︶で ある

︒そ れが 官正 とと もに 実地 検分 をし てい る︒ 官正 は官 のト ップ であ るか ら︑ 官正 によ る実 地検 分が あっ たら それ 以外 の者 の実 地検 分は 必要 ない のに

︑な ぜ小 子に よる 実地 検分 が必 要な のか

︒恐 らく 釆主 の宗 氏・ 分族 の承 諾な しに は宗 族の 共有 財産 であ る土 田の 増減 が承 認さ れな かっ たか らで あろ う︒ この よう に小 子は 宗族 にと って は重 要な 族員 であ った が︑ 彼ら は必 ずし も官 正の 地位 を占 めて いな い︒ 散氏 盤に 見る 限り

︑そ の就 いて いる 官職 は低 い︒ これ は小 子が 邑に 原住 して いた 士︵ 王人

・王 臣︶ と同 じ身 分と して 処遇 され てい たこ とを 示し てい ると 思う

︒時 とと もに 釆主 の宗 氏か ら分 族し てい く者 は身 分が 一段 落ち てそ の家 臣で ある 士の 列に 加わ った から であ ろう

︒ こ こま での 所論 を図

Ⅰに 加え ると 図Ⅱ のよ うに なる

︒ 西

周 時 代 の 身 分 制

一 一 三

(9)

5  鼎︵集成二八三八︶

隹︵唯︶王四月既省︵生︶霸辰在丁酉井︵邢︶叔才︵在︶異為□□使厥小子以限訟于邢叔﹁我既贖

汝五︹夫効︺父用匹馬・束絲﹂限許曰﹁則俾我償馬効︹父則︺俾復厥絲束﹂・効父廼許曰﹁于王

参門□□木楞用徴﹃誕売茲五夫用百䑿非出五夫則□﹄廼有覬金﹂井︵邢︶叔曰﹁在王人

廼売用徴不逆付毋俾弐于﹂則︵拝︶︵稽︶首﹁受茲五︹夫︺曰曰恒曰劦曰曰省事︵用︶

䑿︵

︶ ﹂

︵以︶告﹁廼卑︵俾︶郷︵饗︶︵以︶酉︵酒︶︵及︶羊絲︵茲︶三䑿︵︶用䫎︵致︶

茲人﹂廼毎︵誨︶于︹曰︺﹁女︵汝︶其舎矢五秉﹂曰﹁必尚︵当︶卑︵俾︶処厥邑田厥田﹂則卑

︵俾︶復令︵命︶曰﹁若︵諾︶﹂

︻ 図Ⅱ

││

小子=

釆 主の 分族

│┘

─ 釆 主︵ 宗︶

│┴

庶 人│

│⁝

⁝馭

│王 人・ 王臣

︵宗

・分 族︶

│└

大夫

││

││

││ 士│

││

││

│└

┌│

人 鬲

││

└ 三 庶

人 春

秋・ 戦国 時代 の庶 人は 自由 人だ とさ れて いる が︑ 西周 時代 の庶 人は 僕と とも に人 鬲と 称さ れて いる こと から わか るよ うに 隷民 とし ての 要素 が強 かっ た︒ この こと は鼎 銘文 から も窺 える

西 周 時 代 の 身 分 制

一 一 四

(10)

はその小子を遣わして限を邢叔に﹁我は汝を仲介して五夫を買た効父には代金として匹馬・束絲を渡

した﹂と訴えさせた限が認めて﹁は我に馬を返還させ効父は絲束を返還させた﹂と云た︵︶と

効父はそれを認めたが云う﹁王の参門□□木楞で徴︵文契 ︵3︶を作た﹃ここに茲の五夫を売る百䑿を

支払うもし五夫を出さなかたら則ち︵契約違反︶と□す﹄とは︵契約違反︶し銅を得ようと

︵銅払いを︶強いている ︵4﹂と井︵邢︶叔が判決を下した﹁王人が徴︵文契︶をして売たのにに人を引き

渡していないに契約違反をさせてはならない﹂とは拝首し﹁茲の・恒・劦・・省の五夫を受け取

り︵銅貨︶で支払います﹂と云た邢叔は告げた﹁には饗宴をしを酒と豚で饗応させよ裁判費

用の三䑿はに納入させよ﹂とそこでは︵︶に誨して﹁汝はに矢五秉を与えよ﹂と云た又﹁必ず

︵この五夫を︶その邑に処らせその田を耕作させよ﹂と云たは﹁諾﹂と返事をした

こ こに 記す 裁判 は人 物関 係が 錯綜 して いる ので

︑そ れを 説明 して おこ う︒ 銘

文を 直訳 に近 い形 で書 くと 次の よう にな る︒ こ

れに は! と"

の間 で百

#分 を銅 で支 払う か代 貨︵ 匹馬

・束 絲︶ で支 払う かを めぐ って 売買 が中 止さ れた こと から 裁 判 沙 汰 に な っ た 経 緯 が 記 さ れ て い る︒ 本 稿 で 注 目 し た い の は︑ 売 買 さ れ て い る 五 夫 が

︑銘 末 に﹁ 必 尚

︵当

︶卑

︵ 俾︶ 処厥 邑︑ 田厥 田﹂ とあ るよ うに

︑売 買さ れて もも と の邑 に 居 住す る こ と が許 さ れ︑ 自 己所 有 の 田で 耕 作 す るこ 西 周 時 代 の 身 分 制

一 一 五

(11)

とも 許さ れて いる こと であ る︒ 僕や 臣妾 など の奴 隷は 売買 され ると 身柄 が移 動す るの に︑ 彼ら は身 柄が 移動 して いな い︒ これ らか ら見 て︑ 彼ら 五夫 は奴 隷以 上の 身分

︑す なわ ち庶 人で あっ たこ とは 間違 いな い︒ 庶人 の売 買は 臣妾 など の売 買と は違 う︒ 身柄 が引 き渡 たさ れる こと はな く︑ もと の田 と宅 の使 用権 も移 動し ない

︒い った いな にが 売買 され たの かと いう と︑ その 名籍 と地 租徴 収権 が売 買さ れた とし か考 えら れな い︒ つま り︑ 庶人 の売 買は その 名籍 と地 租徴 収権 だけ の売 買し か許 され なか った ので ある

︒彼 らは 人で あっ て︑ 奴隷 のよ うに 物扱 いが 許さ れな い身 分だ った から であ る︒ 公食 貢︑ 大夫 食邑

︑士 食田

︵受 公田 也︶

︑ 庶人 食力

︵各 由其 力︶

︑工 商食 官︑

!隷 食職 こ の﹃ 国語

﹄晋 語の 記述 にい うよ うに

︑士 は原 住し てい る邑 中の 田の 占有 権を 持ち

︑庶 人は 田の 使用 権を 持っ てい た︒ 田か ら得 られ た収 穫は 地租 とし て士 に納 入さ れ︑ 士は その 一部 を後 世の 大夫 に当 たる 釆主 に納 入し てい た︒ 士が 原住 して いる 邑が 釆邑 とな った 後は

︑邑 内の 全て の土 地の 占有 権は 釆主 に移 り︑ 士は 分与 され た田 の二 次占 有権 を持 つ形 にな った が︑ 庶人 は引 き続 き田 の使 用権 を持 って いた

︒士 は庶 人か ら地 租を 徴収 し︑ その 幾分 かを 釆主 に納 入し た︒ だか ら釆 主は 一次 徴収 権を 持ち

︑士 は二 次徴 収権 を持 って いた ので ある

︒庶 人の 名籍 や地 租徴 収権 は売 買で きて も︑ 庶人 の田 の使 用権 は誰 も奪 うこ とが でき ない 権利 であ った

︒庶 人が 他の 隷民 と違 う点 は︑ 庶人 が自 己の 身柄 と田 の使 用権 を誰 も奪 うこ とが でき ない 権利 とし て保 有し てい る点 にあ った

︒た だ庶 人に は釆 主が その 名籍 と地 租徴 収権 を売 買で きる とい う一 面を 持っ てい る︒ この 点で 完全 な自 由民 では なか った ので ある

西 周 時 代 の 身 分 制

一 一 六

(12)

四 百

工 百

工は 単純 な工 人の 集団 では ない

︒種 々の 工種 にわ かれ てい るう えに

︑上 層か ら下 層ま であ る︒ 作冊 令方 尊に 見え るの はそ の上 層部 であ る︒ こ

れに

﹁卿 事寮

︑諸 尹︑ 里君

︑百 工﹂ とあ るの によ れば

︑周 邦の 行政 官の 末端 の里 君よ り下 に位 置す る︒ この 百工 は戦 国晩 期の 金文 西

周 時 代 の 身 分 制

一 一 七

(13)

に 見 え る 工 師 に 相 当 し

︑工 人 中 の 上 層 部 で︑ 官 の 一 員 で あ っ た

︒そ の 属 下 に は こ こ に 見 え る﹁ 冶 工 隷 臣"

︑ 西 都

⁝⁝

﹂や

﹁工 隷 臣#

﹂の よ う な奴 隷 の 臣が あ っ た︒ 上 層部 は 賜 与に さ れ るこ と も な く︑ 売 買 さ れ る こ と も な か っ た が︑ 下層 の工 臣は 賜与 の対 象に され た︒ 孟!

で は毛 公と 遣仲 の無 需征 伐で 功績 を立 てた 孟の 父が 毛公 の所 持す る百 工か ら工 臣を 賜与 され てい る︒ 百 工が 官︵ 有司

︶を 含ん でい るに もか かわ らず

︑他 の奴 隷と とも に奴 隷身 分中 に挙 げら れて いる のは

︑そ の大 部分 が工 臣で あっ たか らだ ろう

︒ 五

馭 ま

ず師

$! を見 てみ よう

西 周 時 代 の 身 分 制

一 一 八

(14)

こ こ で 師! に管 掌 す るこ と が 命 ぜら れ て いる の は﹁ 西 偏・ 東偏

﹂と

﹁僕

・"

︵馭

︶・ 百 工・ 牧・ 臣 妾﹂ で ある

︒西 偏︵ 西 鄙︶

・東 偏

︵東 鄙︶ の 小邑 に は 庶人 が 居 住 し︑ 農耕 に 従 事し て い た︒ 文中 の

﹁僕

・"

︵馭

︶・ 百 工・ 牧・ 臣 妾﹂ は庶 人以 外の 隷属 民を 列記 した もの で︑ 西周 金文 には これ 以上 に隷 民を 詳述 した 例は ない

︒ 僕 は以 下の 例に ある よう に賜 与の 対象 にな って いて 奴隷 であ るこ とは 間違 いな い︒ 西

周 時 代 の 身 分 制

一 一 九

(15)

僕 と い う語 は 多 様な 使 用 の され 方 を して い る︒ 第 一が 11〜 14に あ る よ うに 奴 隷 の僕 で あ る︒ 第 二 は 僕 馭 の 僕 で あ る︒ こ

れは

!田 での 藉田 の帰 りに 王が 騎馬 で先 導す る令

・奮 とど ちら が先 に着 くか 賭を した とき のこ とを 記し たも のだ が︑ 王が 馭と なり

︑濂 仲が 馭を した

︒馭 が御 者で ある こと は明 白だ が︑ 僕の 職掌 はは っき りし ない

︒お そら く通 常は 車長 の雑 務を こな し︑ その 護衛 をす るの が職 掌で あっ たの であ ろう

︒だ から

︑こ の僕 はそ の役 割や 仕事 の名 であ って 身分 を表 して いな い︒ 第三 16が の車 僕の 僕で ある

西 周 時 代 の 身 分 制

一 二

(16)

こ の場 合は 乗員

・車 徒を 含め て一 括し て車 僕と 呼ん でい る︒ 第二 の僕 を広 義に 用い たた めと 考え られ る︒ 第 四が

﹁僕

"

﹂ の僕 であ る︒ この 僕"

につ いて は︑ これ を﹁ 僕馭

︑百 工︑ 牧︑ 臣妾

﹂と 関連 づけ て奴 隷の 一種 に含

!

める 説が ある

︒郭 沫若 は土 田に 附随 する 労働 奴隷 とし てい るが

︑確 かで はな い︒ 僕"

は奴 隷の 名称 とは 思え ない

︒そ れを 明ら かに して おく 必要 があ るだ ろう

︒ 僕"

と いう 語は 17〜 18の 三器 に見 える

︒ 西

周 時 代 の 身 分 制

一 二 一

(17)

確 かに 17で は臣 妾︑ 19で は徒 と連 称さ れて いて

︑臣 妾と 同類 のよ うに 見え る︒ 18の

﹁僕

!土 田﹂ が﹃ 左伝

﹄の

﹁土 田陪 敦﹂ や﹃ 毛詩

﹄の

﹁土 田附 庸﹂ と同 じも のを 指す こと は王 国維 の時 代に すで に指 摘さ れて いる

︒僕

・陪

・附 が通 仮す るこ と︑ 敦が

"

字 の誤 であ るこ とも す で に知 ら れ てい る

︒﹁ 土 田 陪敦

﹂と い う 語は

﹃左 伝

﹄定 公 四年 で は 次 の場 面に 使用 され てい る︒ こ

こに は魯 公封 建の とき に分 与さ れた もの が書 いて ある のだ が︑ 前後 の分 与物 は異 なる 分与 物で はな い︒ 同じ こと を前 文と 後文 に繰 り返 して 述べ てい るの であ る︒ これ を土 田を 除い て整 理す ると 次の よう にな る︒

西 周 時 代 の 身 分 制

一 二 二

(18)

つ まり

︑﹁ 備 物典

"

︑ 官司

#器

﹂の うち 備物 の典 型的 なも のが

﹁大 路大 旂︑ 夏后 氏之 璜︑ 封父 之繁 弱﹂ であ り︑

﹁陪 敦︑ 祝宗 卜史

﹂の うち の陪 敦が

﹁殷 民六 族

︑条 氏 徐氏 蕭 氏 索氏 長 勺 氏 尾勺 氏

﹂で あ る︒

﹁祝 宗 卜 史﹂ はそ の 内 容 を説 明し たも ので

︑六 族中 に祝 宗卜 史を 職掌 とす る宗 族が 含ま れて いた こと を表 現し てい る︒ こ うし て見 てく ると

︑僕

!と いう のは 士・ 庶人

・類 醜な どを 指す 語で

︑釆 主と その 分族 を除 く被 支配 者を 意味 して いた と推 測で きる

︒ こ

の﹁ 附庸

﹂も そう 考え れば 理解 がし やす い︒ 17に

﹁僕

!臣 妾﹂ とあ り︑ 僕! と臣 妾と ある のは

︑僕

!に は広 義と 狭義 があ り︑ 狭義 の場 合に は臣 妾を 含ま なか った と思 う︒ 奴隷 は士

・庶 人の 所有 物で あり

︑士

・庶 人と いえ ば︑ 奴隷 に言 及し なく ても

︑当 然彼 らに 附随 して いた から であ る︒ 僕! は 本来

﹁附

!﹂ と書 くべ きも ので あっ たは ずだ

︒! は城 の古 字で 城壁 で囲 まれ た邑 を意 味す る︒ 釆主 がそ の城 邑 を 賜 与 さ れ た と き に は

︑2 で 宜 地 に 封 建 さ れ た 宜 侯 か ら 見 る と︑ 宜 邑 と い う 城 邑 に 原 住 し て い る 士・ 庶 人

・鬲

︵ 隷︶ など は邑 に附 随し てい た人 々と 見え たは ずで あ る︒ 封建 領 主 や釆 主 か ら 見た 場 合 の邑 の 原 住民

︑即 ち 邑 人 を表 すの がこ の語 であ った と思 う︒ 西

周 時 代 の 身 分 制

一 二 三

(19)

六 臣妾

・ 牧 臣

妾は 次の 金文 にあ るよ うに 賜与 の対 象に なっ てい て奴 隷で ある こと は間 違い ない

西 周 時 代 の 身 分 制

一 二 四

(20)

29

  作冊令︵集成四三〇〇四三〇一︶

隹︵唯︶王于伐楚白︵伯︶才︵在︶炎隹︵唯︶九月既死霸丁丑乍︵作︶冊令俎于王姜王姜商︵賞︶

先 に挙 げた 師"

!の

﹁僕 馭︑ 百工

︑牧

︑臣 妾﹂ とい う表 現を 見る 限り

︑僕 と牧

・臣 妾は 奴隷 中の 異な る身 分に 見え るが

︑果 たし てそ うな のだ ろう か︒ すで に見 てき たよ うに 西周 金文 中に は﹁ 僕某 家﹂

﹁ 臣某 家﹂ を賜 与し た例 はあ る︒ しか し︑ 僕と 臣を 同時 に賜 予し た例 はな い︒ 臣と 他の 奴隷 を同 時に 賜与 した こと を記 述し てい る唯 一の 例外 が次 の銘 文で ある 西 ︒

周 時 代 の 身 分 制

一 二 五

(21)

令貝十朋・臣十家・鬲百人公尹白︵伯︶丁父兄︵䵳︶于戍戍冀︵司︶乞︵訖︶令敢揚皇王︵貯︶丁公

文報用︵稽︶後人︵享︶隹︵唯︶丁公報令用︵深︶︵張︶于皇王令︵命︶敢︵張︶︵貯︶

用乍︵作︶丁公宝用事于皇宗用郷︵饗︶王逆︵造︶用寮︵僚︶人婦子後人永宝冊

こ 29の に﹁ 臣十 家・ 鬲百 人﹂ とあ って 臣と 鬲が 同時 に賜 予さ れた と記 述し てあ る︒ これ を以 て臣 と鬲 は別 種の 奴隷 であ ると する こと がで きよ うか

︒む しろ この 場合 は家 庭を 有す る奴 隷十 家と 独身 の奴 隷百 人と いう こと を表 現し てい るの であ って

︑そ れ以 上の 意味 はな いだ ろう

︒臣 と他 の奴 隷を 区別 した もの は存 在し ない

︒恐 らく 奴隷 身分 は臣 妾の 一つ だけ で︑ 他は 職掌 の違 いに よる 呼称 の違 いで あっ たと 思う

︒放 牧し なが ら牛

・羊

・馬 を飼 う臣 を牧

︑厩 舎で 馬を 飼い

︑車 の馭 を勤 める 臣を 馭︑ 主人 の身 の周 りの 雑務 をこ なす 者を 僕︑ 工房 にあ って 工人 とし て働 く臣 を工 と呼 んだ と思 う︒ 季姫 尊︵ 新収

三 六四

︶に は狩 り用 の畋 臣と いう もの が見 える

︒ また

作冊 麦方 尊に は諸

!臣 とい うも のが 見え る︒

西 周 時 代 の 身 分 制

一 二 六

(22)

こ のよ うに 臣に は武 臣も あり

︑田 猟用 の畋 臣も あっ た︒ 金文 に出 てく る臣 は奴 隷と いう 共通 項以 外に 一つ に括 れな い︒ また 臣妾 も他 の奴 隷と 異な った 待遇 にあ った 様子 がな い︒ 職掌 によ って 奴隷 の名 称が 僕で あっ たり

︑馭 であ った り︑ 百工 であ った りす るだ けに 見え る︒ 奴隷 の中 が幾 つか の身 分に 分か れて いる と考 える のは 無理 であ る︒ 身分 は臣 妾が 一つ だけ だっ ただ ろう

︒﹃ 左 傳﹄ の﹁ 人有 十等

﹂に 記す 奴隷 の等 級は

︑本 当に その 通り であ った とは 思え ない が︑ 後世 の職 業観 に基 づく ラン ク付 けと 考え られ る︒ 雲夢 秦簡 には 鬼薪 白粲 や城 旦舂 など とと もに 隷臣 妾と いう もの があ り︑ 鬼薪 白粲

・城 旦舂

・隷 臣妾 とラ ンク をな して いた とさ れて いる が︑ 労働 刑の 肉体 労働 の軽 重の 名称 であ り︑ 奴隷 のラ ンク では ない

︒ 臣 妾は 田の 耕作 にも 用い られ た︒ この 場合 の呼 称は 臣妾 のま まで ある

︒ 西

周 時 代 の 身 分 制

一 二 七

(23)

文 中の

﹁賜 汝邢

!# 田于

$︵ 峻︶

︑ 以厥 臣妾

﹂は 田を 臣 妾が 耕 作 して い た こ とを 示 し てい る

︒采 邑 を与 え ら れ た貴 族は 釆主 とな る︒ 新し く邑 を作 った ので ない 限り

︑そ の邑 には 士・ 庶人 など が先 住し てい た︒ 釆主 は士 が占 有し てい る公 田を 安堵 して

︑第 一次 占有 権を 持つ

︒そ の時 点で 士の 占有 権は 第二 次占 有権 とな る︒ 庶人 は新 たに 釆主 が登 場し ても 公田 を使 用す る使 用権 を持 ち続 ける

︒"

鼎に ある よう に庶 人が 他の 釆主 に名 籍と 地租 収益 権を 売買 され ても

︑田 の使 用権 を持 ち︑ もと の邑 に住 み続 けた ら︑ 売買 され たり 賜与 に使 われ る田 は一 体ど こか らき たも のだ ろう か︒ 殷・ 西 周時 代 に は開 墾 で きる 未 耕 地 が多 か っ た︒ 人さ え い れば

︑田 を 増 や すこ と は 容易 で あ っ た

︒だ か ら

︑買 い 入 れ た り︑ 王か ら賜 与さ れた 臣妾 を使 って 開墾 する こと が頻 繁に 行わ れた に違 いな い︒ こう して 増え た新 田は 売買

︑賜 与に 使わ れる こと もあ った が︑ 多く は自 己の 臣妾 に耕 作さ せた と思 われ る︒ 田 作に 用い られ た臣 妾は

﹃左 伝﹄ では 臺と 呼ば れた とさ れて いる が︑ これ また 職掌 によ る名 称の 違い だけ で︑ それ 以外 に意 味が あっ たと は思 えな い︒ 結

び こ

こま で述 べた こと を纏 める と次 のよ うに 図示 でき る︒

西 周 時 代 の 身 分 制

一 二 八

(24)

︵小 子︶

┐│ 僕

│釆 主の 分族

│┘

┬│ 馭

─ 釆主

︵宗 氏︶

│┴

庶 人│ 百工

︵工 師︶

┬│ 百工

︵工 臣︶

│王 人・ 王臣

│└

┬│ 牧

┬│ 馭

︵宗 氏・ 分族

┌│ 臣妾

┌│ 大夫

│└

││

│士

││

│└

┌│

││

││

│└

┌│

鬲︵ 隷︶

│└ 釆

邑と して 釆主 に与 えら れる 前の 邑に 原住 し︑ 姓を 有し

︑宗 族組 織を 有す る王 人・ 王臣 層は 釆主 と庶 人の 間に あっ て︑ 春秋 時代 以後 の士 と呼 ばれ る階 層に 相当 する

︒西 周時 代に この 層が 士と 呼ば れて いた とい う確 証が ある わけ では ない が︑ 本稿 では この 層を 士と 呼ん だ︒ この 層が 士に 発展 した こと は間 違い ない ので

︑決 して 誤っ た名 称で はな いと 思う

︒後 に士 は大 夫か ら分 族し た者 を加 えて 増加 する

︒大 夫の 家臣 であ る士 の中 に異 姓の 士が 含ま れて いる のは

︑春 秋時 代に 氏族 が分 解し て氏 族成 員が 他の 大夫 の下 に身 を寄 せる よう にな って から 始ま った こと では ない

︒異 姓の 士の 一部 は釆 主が 釆邑 を与 えら れた とき には すで に釆 邑に 原住 して いた

︒釆 主は これ を士 とし て家 臣に 取り 込ん だ︒ その 後︑ 分解 した 氏族 から さら に流 入し てき て春 秋時 代の 士の 層は 構成 され たの であ る︒ 邑 中の 氏族 は長 い年 月の 間に 士の 階層 と淪 落し た階 層に 分化 し︑ 前者 は宗 を中 心と した 血縁 組織 であ る宗 氏・ 分族 を形 成し

︑後 者は そこ から 除外 され て庶 人と なっ て︑ 邑の 主要 な二 階層 にな った

︒よ って 庶人 は士 と遠 祖が 同じ とい 西 周 時 代 の 身 分 制

一 二 九

(25)

う意 識を 共有 し︑ 邑中 の自 己使 用の 田は 誰に も奪 われ るも ので はな く︑ 自己 に属 する 田と いう 意識 を持 って いた いた と 考え ら れ る︒ なお

︑こ れ ら のこ と は ま だ多 く の 検証 が 必 要で あ り

︑今 後︑ さ らに 深 め た研 究 を し な け れ ば な ら な い︒

略 称 集 成 中 国 社 会 科 学 院 考 古 研 究 所 編

﹃ 殷 周 金 文 集 成

︵ 修 訂 増 補 本

︶﹄ 中 華 書 局

︑ 二

〇 七 年 新 収 鍾 柏 生

・ 陳 昭 容

・ 黄 銘 崇

・ 袁 国 華 編

﹃ 新 収 殷 周 青 銅 器 銘 文 曁 器 影 彙 編

﹄ 芸 文 印 書 館

︑ 二

〇 六 年 注

︵ 1

︶ 非 常 に 多 く の 論 文

・ 著 書 が あ る の で 代 表 的 な も の を あ げ る

︒ 郭 沫 若

﹃ 十 批 判 書

﹄︵

﹃ 郭 沫 若 全 集

﹄ 歴 史 編

︑ 第 二 巻

︑ 人 民 出 版 社

︑ 一 九 八 二 年

︑ 所 収

︶︒ 同

﹃ 奴 隸 制 時 代

﹄︵

﹃ 郭 沫 若 全 集

﹄ 歴 史 編

︑ 第 三 巻

︑ 人 民 出 版 社

︑ 一 九 八 四 年

︑ 所 収

︶︒ 陳 夢 家

﹃ 殷 虚 卜 辞 綜 述

﹄︵ 中 華 書 局

︑ 一 九 八 八 年

︶︒ 楊

!

﹁ 論 殷 末 周 初 的 社 会 性 質

﹂︵ 歴 史 研 究 編 輯 部

﹃ 中 国 古 代 分 期 問 題 討 論 集

﹄︶

︒ 胡 厚 宣

﹁ 殷 代 非 奴 隸 社 会 論

﹂︵

﹃ 甲 骨 学 商 史 論 叢 初 集

﹄ 斉 魯 大 学 国 学 研 究 所

︑ 一 九 四 四 年

︶︒ 趙 錫 元

﹁ 試 論 殷 代 的 主 要 生 産 者

﹃ 衆

﹄ 和

﹃ 衆 人

﹄ 的 社 会 身 分

﹂︵

﹃ 東 北 人 民 大 学 人 文 科 学 学 報

﹄ 一 九 五 六 年

︑ 第 四 期

︶︑ 同

﹁ 再 論 商 代

﹃ 衆 人

﹄ 的 社 会 身 分

﹂︵ 吉 林 大 学 科 学 学 報

﹂ 一 九 八 二 年

︑ 第 四 期

︶︒ 束 世 澂

﹁ 夏 代 和 商 代 的 奴 隸 制

﹂︵

﹃ 歴 史 研 究

﹄ 一 九 五 六 年

︑ 第 一 期

︶︒ 韓 連 琪

﹁ 殷 代 的 社 会 生 産 和 奴 隷 制 特 徴

﹂︵

﹃ 文 史 哲

﹄ 一 九 八 二

・ 六

︶︒ 張 永 山

︵ 胡 厚 宣 等

﹃ 甲 骨 探 史 録

﹄ 新 華 書 店

︑ 一 九 八 二 年

︶︒ 金 景 芳

﹃ 中 国 奴 隷 社 会 史

﹄︵ 上 海 人 民 出 版 社

︑ 一 九 八 三 年

︶︒ 陳 福 林

﹁ 試 論 殷 代 的 衆

︑ 衆 人 与 羌 的 社 会 地 位

﹂︵

﹃ 社 会 科 学 戦 線

﹄ 一 九 七 九 年

︑ 第 三 期

︶︒ 裘 錫 圭

﹁ 関 于 商 代 的 宗 族 組 織 与 貴 族 和 平 民 両 個 階 級 的 研 究

︵﹃ 文 史

﹄ 第 一 九 輯

︶︒

︵ 2

︶ 本 稿 は 別 稿

﹁ 衆 人 新 釈

﹂ と 前 後 し て 書 い た

︒ ど ち ら が 先 に 出 版 さ れ る の か わ か ら な い の で

︑﹁ 衆 人 新 釈

﹂ と 記 述 が 重 な っ て い る 部 分 が あ る

︒ 衆 人 の 論 証 に も 庶 人 の 論 証 に も 同 じ 論 証 が 必 要 な の で そ う せ ざ る を 得 な か っ た

︒ 読 者 の 諒 解 を 乞 う

︵ 3

︶ 徴 は

﹃ 戦 国 策

﹄ 斉 策

﹁ 譲 王 為 太 子 徴

﹂ の 鮑 彪 注 に

﹁ 徴

︑ 猶 信 也

﹂ と 云 い

︑﹃ 尚 書

﹄ 胤 征

﹁ 明 徴 定 保

﹂ の 孔 安 国 伝 に

西 周 時 代 の 身 分 制

一 三

(26)

﹁ 徴

︑ 証

﹂ と 云 い

︑﹃ 論 語

﹄ 八 佾

﹁ 杞 不 足 徴

﹂ の 朱 熹 集 注 に

﹁ 徴

︑ 証

﹂ と 云 う

︒ 文 意 か ら

﹁ 文 契

﹂﹁ 信 文

﹂ 即 ち 契 約 書 の こ と

︵ 4

︶ 覬 は

﹃ 広 韻

﹄ 虞 韻 に

﹁ 覦

︑ 覬 覦

︑ 欲 得

﹂ と 云 う

︒ 盗 み 得 る こ と で

︑ 詐 取

︵ 5

︶ 沙 文 漢

﹃ 中 国 奴 隷 制 度 的 検 討

﹄︵ 上 海 社 会 科 学 院 出 版 社

︑ 一 九 八 四 年

︶︒ 陳 連 慶

﹁ 春 秋 奴 隷 考 略

﹂︵

﹃ 中 国 古 代 史 論 叢

﹄ 八

︑ 一 九 八 三 年

︶︒ 西

周 時 代 の 身 分 制

一 三 一

参照

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