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鎌倉鎌倉本当に HomeoftheSamurai だったのか? 亀井ダイチ 利永子 はじめに世界遺産登録にむけた動き 二〇一三年四月三十日 鎌倉を世界遺産に として活動 してきた人々の期待を裏切る評価結果が 国際記念物遺跡会 議 ( イコモス : 二〇一三年六月十一日開催講演会 第 2 回世界遺産か

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鎌倉 : 本当にHome of the Samuraiだったのか? (

日本研究所主催講演会 要旨)

著者名(日)

亀井ダイチ 利永子

雑誌名

神田外語大学日本研究所紀要

6

ページ

90-100

発行年

2014-06-30

URL

http://id.nii.ac.jp/1092/00001094/

asKUIS 著作権ポリシーを参照のこと

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鎌倉

亀井ダイチ・利永子

はじめに 世界遺産登録にむけた動き 二〇一三年四月三十日、 「鎌倉を世界遺産に」 として活動 してきた人々の期待を裏切る評価結果が、国際記念物遺跡会 議 ( イコモス : In te rn at io na l C ou nc il onMo nu me nt sa nd Sit es ) からもたらされた。 二〇一二年九月二十四日から二 十七日に行なわれた現地調査に基づき、イコモスは武家によ る政治と文化の伝統は理解できるが、現在残っている資産で はその価値を証明することができない、として鎌倉に「不登 録」を勧告したのである。 鎌倉の世界遺産登録への歩みは、約二十年前の一九九二年 から始まっている。その歴史的遺産が「古都鎌倉の寺院・神 社ほか」として、初めてユネスコ世界遺産委員会の暫定リス トに掲載されたのを起点として、それから十二年後の二〇〇 四年に「武家の古都・鎌倉」というコンセプトがまとめられ、 二〇一二年一月には「武家の古都・鎌倉」の正式な推薦書が、 国からユネスコ世界遺産センターへ提出されたのである。し かし、イコモスから今回「不登録」の勧告を受け、文化庁は 推薦を取り下げる方針を発表した。イコモスの勧告は登録の 可否を決定づけるものではないが、もし最終決定がなされる 世界遺産会議 (1) で正式に「不登録」が決まると、原則として再 推薦は望めず、登録は絶望的になるからである。この点、今 回の文化庁の判断により、鎌倉の世界遺産登録は後に希望を 残したともいえよう。 しかし、この鎌倉は本当に世界遺産登録のコンセプト通り に 「武家の古都 H ome oft heS amu ra i」 で あったので あろうか? 「鎌倉」という言葉から想起される一般的なイ メージがどれだけ中世日本における現実を反映しているのか、 《二〇一三年六月十一日開催 講演会「第 2 回 世 界遺産から見た日本」要旨》

鎌倉

本当に Ho me of th eS amu ra iだったのか?

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考えてみたいと思う。 鎌倉とは? 一般的なイメージを探る 「鎌倉」 という言葉から浮かぶ一般的なイメージとしては、 どんなものがあるだろうか? 休日には大勢の観光客でにぎ わう鎌倉。鶴岡八幡宮や高徳院の大仏、長谷寺や明月院、円 覚寺などの寺社仏閣や紅葉・紫陽花の名所などの観光名所を 思い浮かべる人が多いかもしれない。しかし、世界遺産登録 のために 「武家の都 H ome oft heS amu ra i」 という言 葉がコンセプトとして打ち出されたように、武士の、武士に よる、武士のための都 貴族社会とはまったく無縁な武骨、 しかし質実剛健な武士が街中を闊歩し、日常的に武芸鍛錬に 精を出し、将軍に忠義をつくす、団結した武士団 そんな イメージを浮かべる人も少なくはないのではないだろうか。 鎌倉が 「 武家の都 H ome oft heS amu ra i」 というコ ンセプトを打ち出すことになった主な理由は、日本の最初の 武家政権である鎌倉幕府が、この地に成立したことにある。 この鎌倉幕府がいつ成立したか、という点についてはいろ いろな議論があり、それをまとめると大まかに次の諸説に分 けることができる。 ①一一八〇年末 頼朝が鎌倉に居を構え、侍所を 設け、南関東と東海道東部の実 質的支配に成功したとき ②一一八三年十月 頼朝の東国支配権が朝廷から事 実上の承認を受けたとき ③一一八四年十月 鎌倉に公文所(政所)と問注所 が設けられたとき ④一一八五年十一月 頼朝が守護・地頭の任命権など を獲得したとき ⑤一一九〇年十一月 頼朝が右近衛大将に任命された とき ⑥一一九二年七月 頼朝が征夷大将軍に任命された とき 一昔前までは、鎌倉幕府の成立は源頼朝が征夷将軍に任じ られた一一九二年だというのが通説であった。 「いい国つく ろう、鎌倉幕府」という語呂合わせとともに覚えた人も多い だろう。しかし、今では「頼朝が守護・地頭の任命権を獲得 した」 一 一八五年を鎌倉幕府の成立の年とするのが主流となっ ている。このように、鎌倉幕府の成立年に関して、上記のよ うにいくつかの説が出るのはなぜだろうか。現代であれば、 例えば二〇〇九年八月に政権が民主党の手に移った、などと

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はっきりした区切りをす ることが可能だが、この 時代、幕府は「何年何月 何日をもって始動する」 というような始まりかた はしていない。実際の鎌 倉幕府は、いろいろな権 限を実質的に勝ち取りな がらその形を整えていっ たのであり、最初から、 歴史の教科書で見るよう な組織ができていたわけ ではない。そのため、鎌 倉幕府がいつ成立したか、 というのは、鎌倉幕府が どういう存在だったか、 という理解によって変わっ てくるわけである。 「武家の都」 と いわれ るきっかけとなった鎌倉 幕府の成立の年ひとつとっ ても、いくつかの異論が あるなか、この鎌倉幕府も、本当に武士の、武士のための、 武士による政権だったと単純に理解してしまってもよいのだ ろうか? 次には幕府の頂点にあるべき「将軍」について考 えてみたいと思う。 将軍=武士 「武家の棟梁」 ではない  将軍の出身を考える 鎌倉時代は十二世紀後半から十四世紀の前半まで、約一世 紀半続いた。その間、幕府の頂点ともいえる将軍職についた 人物は九人いる。その九人の将軍をまとめると、上の表のよ うになる。 鎌倉幕府の後に続いた室町幕府、徳川幕府では初代将軍の 子孫が代々将軍職についているが、鎌倉幕府では初代将軍源 頼朝の子孫は二代目の頼家、三代目の実朝で絶えてしまって いる。そして次の将軍として選ばれたのが、藤原頼経。彼が 第四代将軍として選ばれたのは頼朝の遠縁であることによる が、頼経は摂関家の子息であった。そして将軍として鎌倉に 連れてこられたときはわずか三歳。とても武士の頂点に立っ てリーダーシップを取るようなことはできない。この四代目 と五代目は、 その出身が摂関家であったことから 「摂家将軍」 と呼ばれる。そして六代目から七代目。これは名前を見てわ かるように、全員「親王」である。 こうしてみると、武家政権である鎌倉幕府の頂点にある将 代 姓 名 出 身 在職期間 初 代 源 頼朝 源氏将軍 1192年7月12日~1199年正月13日 第二代 源 頼家 源氏将軍 1199年正月26日~1203年9月7日 第三代 源 実朝 源氏将軍 1202年9月7日~1219年正月27日 第四代 藤原頼経 摂家(藤原)将軍 1226年正月27日~1244年4月28日 第五代 藤原頼嗣 摂家(藤原)将軍 1244年4月28日~1252年2月20日 第六代 宗尊親王 宮(親王)将軍 1252年4月1日~1266年7月4日 第七代 惟康親王 宮(親王)将軍 1266年7月24日~1289年9月14日 第八代 久明親王 宮(親王)将軍 1289年10月9日~1308年8月4日 第九代 守邦親王 宮(親王)将軍 1308年8月10日~1333年5月21日

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軍のほとんどが、京都から迎えられた人間であることが分か る。四代目の藤原頼経には、かろうじて初代将軍頼朝の縁者 であるというつながりがあるが、六代目から九代目の宮将軍 には、頼朝や源氏との血縁関係はない。また、こうして京都 から迎えられた摂家・宮将軍は、 死 ぬまでその将軍の座にあっ たわけではなく、ある程度の年齢になると廃位され、京都へ 送り返される例が繰り返されている。 では、なぜ、そして誰が、幕府の頂点であるはずの将軍を 廃位し、京都へ送り返しているのだろうか? ここで注目し たいのが、源頼朝の正室である北条政子の一族・北条氏であ る。 北条氏は、源頼朝が流人として滞在していた伊豆国の豪族 であったが、もともとは決して有力な一族ではなかった。そ れが、北条時政の娘・政子が源頼朝と結ばれることにより、 幕府ができてからは有力御家人としての地位を占めるように なる。そして、北条氏は「執権」という幕府の最高実力者の 地位を世襲していく。将軍を京都へ送り返す決断権を持って いたのは、この執権である。幕府の仕組みとしては、執権は 将軍の下 いわばナンバー 2 の地位にあるわけだが、幕府 の実権は基本的に将軍ではなく、執権の手にあった。将軍は 旗印として必要だが、実権は持たせたくない、持たせると自 分たちが困る。摂家将軍や宮将軍の登場の裏には、こうした 思惑が存在していた。 たとえ摂家・宮将軍がただのお飾りであったとしても、初 代頼朝やその息子は、武家の棟梁としてふさしい武士だった のではないか そう思う人もいるかもしれない。しかし、 三代続いた源氏将軍も、武士として優れた才能や技術を持ち、 それをもとに圧倒的な権力をふるっていたわけではない。頼 朝は流人として関東におり、自分自身で手持ちの規模の大き な武士団を持っていたわけではなく (2) 、武芸に秀でていたとい う記録はない。また時には関東の有力武士の一族たちのいう ことを優先し、自分の意見をひっこめてもいる。また二代目 の頼家は、将軍になってまもなく訴訟の直断を停止され、北 条と比企に代表される有力御家人の権力闘争の中で幽閉・暗 殺という末路をたどる。三代目の実朝は武芸より和歌を好み (3) 、 その婚姻に際しても、有力御家人の娘からという周りからの 勧めを退け、京都から天皇ともつながりのある女性を妻に迎 えている。そして、最後には右大臣就任を祝って詣でた鶴岡 八幡宮において、甥である公暁に襲われ、命を落としている。 つまり、鎌倉将軍は組織としては幕府の頂点に立つものの、 武力を背景に絶対的な実権をもつ存在ではなかったのである。 鎌倉将軍の価値は、 自 らが 「武士」 として、 またそのリーダー として有する武力や軍 事 力に 依 っていたわけではなく、 む し ろ武士 集 団のまとめとなる存在、あるいは 象徴 としての存在

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であることに意味があった。だからこそ三代将軍実朝のあと で源頼朝の直系の人間がいなくなっても鎌倉将軍は絶えるこ となく継続し、摂関家の子息や皇子たちといった高貴な血筋 の人間が、武力とは関係なしに将軍という地位につき続けた のである。 武士の忠誠は褒美次第  「いざ鎌倉」 の幻影 将軍の次には、幕府の主要構成メンバーである御家人たち について考えてみたい。 そもそも 「御家人」 と はどういう人たちのことを指すのか? 基本的に、御家人とは将軍に仕える武士のことを呼ぶ。将 軍と御家人は「御恩」と「奉公」という関係で結ばれており、 将軍への忠誠を誓い、戦のときには一族を引き連れて出陣す る労役などの「奉公」で仕える御家人に対し、将軍は御家人 の土地を保障したり、手柄に応じて新しい土地を与えるなど の「御恩」で報いる。それが一般的な理解であろう。その御 家人の忠誠を示すのによく使われる表現として「いざ鎌倉」 という言葉がある。鎌倉に何か一大事があれば、御家人はす ぐに鎌倉へ駆けつける義務があったことを示すこの言葉。こ れは鎌倉時代の当初から使われていたわけではなく、鎌倉幕 府第五代執権・北条時頼にまつわる伝説をもとにして作られ た「鉢の木」という謡曲をもとにしている。有名な話だが、 簡単に紹介しよう。 ある大雪の日の夜、上野国佐野にあるあばら家に一人の僧 が宿を求めてきた。あばら家の主人は、自身の貧乏のため、 何ももてなしはできないと最初は断るものの、思い直して僧 を自宅に泊める。 そ して囲炉裏の火がなくなると、 秘 蔵の梅・ 松・桜の鉢植えを囲炉裏にくべて、できるだけのもてなしを した。僧が主人の素性を訪ねると、もとは佐野荘の領主だっ た佐野源左衛門尉常世と名乗る。 佐 野常世は僧に「 一族に領 地を取られたため今は落ちぶれているが、 『いざ鎌倉』 とい うときには鎌倉に一番に駆けつけ、 命を捨てて戦う覚悟だ」 と語った。翌朝、僧は礼を述べて家を辞した。それからしば らくして、鎌倉幕府からの動員令が諸国の武士たちに下され る。佐野常世もそれを聞き、破れた具足を身に付け、やせ馬 に乗って鎌倉に駆けつけたところ、そこに雪の夜に泊めた旅 の僧がいた。その僧こそ、前執権の北条時頼。北条時頼は佐 野常世の言葉が ではなかったことの褒美として、佐野常世 の領地を取り戻してやり、また大切な木をくべたもてなしの 礼として、梅田・松井田・桜井の三カ所の土地を与えたとい う。 この話自 体 は大 半 が 虚 構だと思われるが、ここで 問題 にし たいのは、この話の 真偽 についてではない。 真 実であれ、 虚 構であれ、こうした御家人の忠義を 強調 した話が謡曲に作ら

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れ、後世に伝えられたのはなぜなのか、という点である。 後世まで語り継がれるということは、それだけの価値があ る つまり、よくある日常的な出来事ではなく、非日常的 な出来事であったことを意味する。この話に出てくる「いざ 鎌倉」も、もし鎌倉幕府からの動員令があったときにすぐに 駆けつける御家人の姿が、ごく当然のことであったなら、こ うした謡曲として後世に伝わることはなかったはずだ。つま り、 裏を返せば、 「いざ鎌倉」 で 何をおいても駆けつける、 そういう御家人はむしろ稀だったということができよう。 もうひとつ例をあげよう。今の話の佐野源左衛門常世の場 合、時頼が動員令を出したのに応じて鎌倉に来たわけだが、 こうした臨時の召集とは別に、御家人の参加が義務とされた 鎌倉の行事がいくつかあった。その代表的なものが毎年八月 十五日、十六日に行なわれる放生会 (4) である。十五日には鶴岡 八幡宮に参詣する将軍のお供をするのが御家人の大切な仕事 であり、二日目の十六日には、流鏑馬 (5) が行なわれる。この二 日間にわたる行事は、将軍と御家人の主従関係や御家人同士 の関係を確認するためにとても重要な儀式であり、御家人が 鎌倉に参って行なう勤めとされていた。しかし、彼らはどう にかしてこの勤めから逃れようとしている。その言い訳を見 てみると、 ・鹿食禁制の事、未だ承り及ばざるの上、所労を治さん がため、これを服ましむ ・忽御制の事を忘れおわんぬ ・或る会合の砌において、他の物と間違え、誤りて鹿を 食す などの「鹿を食べてしまったから」というパターンがよく見 られる (6) 。神事の前に肉食は禁止だということを知らなかった、 忘れていた、などといっているが、鶴岡八幡宮の放生会は毎 年八月十五日と日付が決まっており、ここであげた理由が奉 仕したくないためだけの言い訳であることは一目瞭然であろ う。質素で、毎日武芸の鍛錬にはげみ、強い忠誠心を有して いたイメージのある鎌倉武士だが、その勤務態度は勤勉とは 程遠い。だが、これがもし、こうした年中行事ではなく、幕 府の存在を左右するような大きな戦いなどであればどうだろ うか? やはり「いざ鎌倉」と、何を犠牲にしても幕府に奉 仕したのだろうか? 鎌倉時代にはその前後を含めてかなりの数の戦闘があった が、最大の戦闘としては一二七四年と一二八一年に起こった いわゆる元寇 蒙古軍との戦いがあげられる。 『蒙古襲来 絵詞 (7) 』にはこの戦いの様 子 が 描 かれており、見たことのある 人も 多 いだろう。しかし、この絵 巻 は鎌倉武士の 勇猛 な戦い

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ぶりだけを伝えているわけではない。この絵巻を作らせたの は肥後国御家人竹崎季長という人物であるが、戦闘に向かう 場面、戦闘そのものの場面のほか、季長が幕府の御恩奉行で ある安達泰盛に軍功を報告し、恩賞を要求している場面があ る (8) 。 元寇を無事にやり過ごしたとはいうものの、特に敵側の領 地を得たわけではないため、幕府にはすべての御家人に恩賞 を与える余裕はなかった (9) 。竹崎季長は安達泰盛への直訴が功 を奏し、肥後国海東郷の地頭に任じられたが、これはむしろ 幸運なケースであったといえる。 鎌倉幕府の御家人として、 自らの働き= 「奉公」 に対して、 「御恩」 =恩賞を求めることは当然といえば当然なのだが、忠 誠心だけで図ることのできない現実的な計算も、御家人には 働いていたのである。 鎌倉幕府は要害の地だったのか? その地が選ばれた理由 鎌倉幕府の成立時期、将軍、御家人と検討してきたので、 次はこの幕府が開かれた「鎌倉」という土地について考えて みたい。鎌倉幕府を開いた場所として、なぜ他のどこでもな く、鎌倉が選ばれたのか。それについては、鎌倉が攻め難く 守りやすい要害の地・城塞的な都市であったからというのが 通説である。三方が山に囲まれ前方は海、その地形は地図で も確認できるが、 本 当に攻め難く守りやすい、 要害の地であっ たのだろうか? 鎌倉が「要害の地」として語られる際に、よく引用される 文章がある。 当時の御居所は指したる要害の地にあらず。また、御嚢 跡にあらず。速やかに相模国鎌倉に出でたまうべし。常 胤門客らを相い率いて、御迎えのために参向すべきの由 これを申す ( ) 。 これは『吾妻鏡』のなかで千葉常胤がいったとされる一文 である。千葉常胤は、南関東における代表的な有力武士の一 族である。その千葉氏が「頼朝が今現在いる場所(安房国) 」 は 「 要害の地ではない」 。 だから 「鎌倉に移れ」 と勧める。 だから「勧められた鎌倉は要害の地である」という理解が成 り立つ。しかし、この一文で千葉常胤がいっていることは、 それだけだろうか? 歴史学者の秋山哲雄は、ここのポイン トは大きく、 ①当時の御居所は指したる要害の地にあらず。 ②また、御嚢跡にあらず。 ③速やかに相模国鎌倉に出でたまうべし。

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④常胤門客らを相い率いて、御迎えのために参向すべき の四つに分けられるとし、そのなかでも特に四番目に注目し、 「千葉常胤の本意は、 実は後半にあるのではないだろうか。 (中略) 深読みかもしれないが、 頼朝の鎌倉入りを、 千 葉の 軍勢が頼朝軍に加わることの条件として提示したとも考えら れる」と述べている。 この当時、頼朝は石橋山の戦いで大敗を喫した後であり、 軍勢を立て直すために関東武士団の参加を必要としていた。 千葉常胤の一族は、南関東では有力な武士団であり、もし頼 朝の鎌倉入りという条件で千葉氏が味方についてくれるのな ら、と頼朝が受け入れる気になったのは、想像に難くない。 秋山哲雄は、さらに千葉常胤が鎌倉に頼朝を呼び込んだ理由 として、鎌倉は南関東の武士たちにとって重要な交通の分岐 点だったことを指摘している。直轄の軍事力を持たず、有力 武士の一族に頼るしかない頼朝にとって、彼らの意向は無視 できるものではなかったはずである。また、二番目の「御嚢 跡にあらず」 。 現 在頼朝がいる場所は祖先の由緒ある土地で はない、という点も等閑にできる点ではない。秋山が指摘す るように、鎌倉には頼朝の父・源義朝の住まいがあった。つ まり、鎌倉は頼朝にとっては父祖が所有し、暮らしていた所 縁のある土地であるということになる。 ここで東国の武士たちにとって、先祖代々の土地を守ると いうことがどれだけ大切であったか、ということを考えてほ しい。私たちが普段生活の中で使っている「一生懸命」とい う言葉があるが、 これはもともとは 「一生」 で はなく、 「一 所」 と書き、 一 つの所のために命を懸ける、 という意味を持っ ていた。ではその一所とは何か? それこそが、先祖代々の 土地であった。 将軍が与える御恩の中に「本領安 」という言葉がある。 これは、父祖伝来の所領の所有権を認めるということであり、 それが将軍が御家人に与える「御恩」に含まれるほど、東国 の武士たちにとっては重要事項であった。頼朝が父祖にゆか りのある鎌倉に拠点をおく、ということは、京都育ちの頼朝 も、東国武士と同様に父祖伝来の土地と結びつくという武士 の感覚のなかに取り込まれる、ということにつながっていく のではないだろうか。その点、頼朝を鎌倉に移すことによっ て、頼朝を支持した武士団は、自分たちのまとめ役としての 将軍として戴くことになる頼朝に、自分たちが大切にしてい るものは何か、それを知らしめたのだと理解することもでき るのではないかと思うのである。 終わりに 鎌倉は本当に Ho me of th eS amu ra iだったのか ? 鎌倉を「要害の地」とする、その物理的な証としてあげら

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れることが多いのが、朝比奈切通や名越切通など、鎌倉の地 にいくつかある「切通し」である。切通しは、武家が自然地 形に積極的な働きかけを行ない、防御的な政権所在地の整備 の象徴となるものであり、「 武家の古都・鎌倉」 の資産を最も 特徴づける要素だ、ということになっている。確かに、そう した岸壁に挟まれた細い道に囲まれているのであれば、敵が 一度に大軍で押し寄せてくるのは難しく、鎌倉の守りは完璧 だ、という印象を受けるだろう。しかし、そうした考えは、 味方はつねに鎌倉内部にいて、敵はいつも外からやってくる、 という条件のもとでだけ成り立つ。 前述したように、盆栽を火にくべた佐野源左衛門も、蒙古 襲来絵詞を作らせた竹崎季長も、一年中鎌倉にいたわけでは ない。佐野源左衛門に対して、北条時頼が「裁判などで鎌倉 に来るときがあったら」といったことを覚えているだろうか。 佐野源左衛門は佐野荘が自分の本領地であったからそこにい たのであり、貧乏だから鎌倉を離れて田舎に住んでいたわけ ではない。それと同じく、鎌倉の武士は基本的に自分の本領 にいるのを常としていたのである。つまり、鎌倉内部には、 つねに大勢の武士団がいたわけではない。そうすると、もし 鎌倉に何かあった場合は、援軍の武士団を外から呼ぶ必要が ある。敵がすでに鎌倉に入っている場合は、切通しなどの道 は敵を防ぐのに役に立つどころか、かえって援軍を呼ぶのに 不利に働く、ということにもなりかねない。また、鎌倉が本 当に防御に優れている地形ならば、鎌倉時代を通して何度も 起こっている戦の際に、その地形を利用した戦いが見られて もよさそうだが、そうした例は見られない。むしろ、鎌倉幕 府が滅亡した時の戦闘も、そのあとの北条氏による鎌倉奪還 の時の戦闘も、足利尊氏がその北条氏から再び鎌倉を奪還し たときも、鎌倉を舞台とした戦いは、ほんの数日ですべての 決着がついている。鎌倉が本当に要害の地であったならば、 こんな簡単に攻め込まれたり、奪い取られたりすることはな かったのではないだろうか。 武家の古都と称される鎌倉。そこは、確かに日本で初めて の武家政権が拠点を据えた土地であり、またその武家政権で ある鎌倉幕府が生まれたことにより、日本の歴史は大きく動 いていく。しかし、鎌倉は武士たちの生活の拠点として機能 していたわけでもなく、幕府の頂点に位置する将軍が武士団 全体を掌握していたわけでも、圧倒的な軍事力を誇っていた わけでもない。また当時の武士たちも、盲目的に将軍に忠誠 を誓っていたわけでもないのである。 私たちが鎌倉という土地や鎌倉幕府、鎌倉時代という言葉 から一般的に抱くイメ ージ はさま ざ まだが、その多くが、 後 世 に作られたものの 影響 を受けている。当時の 社会 では 実 際

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どうだったのか? そんなことを考えながら鎌倉の地を歩い たり、鎌倉時代に作られた絵巻や文書などにも目を通してみ てほしい。そうすると、きっと今まで皆さんが知らなかった 鎌倉が姿を現してくるであろう。 付記 この講演会原稿作成に際しては、秋山哲雄『都市鎌倉の 中世史 吾 妻鏡の舞台と主役たち』 (吉川弘文館、 二〇 一〇年)を大いに参考にさせていただいた。ここに記して 謝辞を申し上げる。また、講演会においては神田外語大学 日本研究所の中村司氏に大変お世話になった。中村氏、日 本研究所の皆さま、当日参加してくれた多くの学生の皆さ んに感謝の意を表したい。  (1) 第三十七回世界遺産会議は、 六月十六日にカンボジ アのプノンペンで開催された。 (2) 頼朝の挙兵といわれる一一八〇年八月十七日の山木 攻めにおいて、頼朝の兵力は本隊八十五騎、援軍五騎の 合計九十騎に過ぎなかったと『源平盛衰記』は伝えてい る。援軍の約束をした佐々木兄弟四人が挙兵前日の日暮 れになっても来ないことに対し、頼朝は「いよいよ人数 なきの間 (ますます人数が少ないから) 」 を 理由に、 挙 兵の延期を検討しているが、これは頼朝の兵力の貧弱さ を示すものともいえよう。 (3)実朝は『金槐和歌集』という歌集を編んでいる。 (4) 放 生会とは、 捕 獲した魚や鳥獣を野に放し、 殺 生を 戒める宗教儀式。 (5) 流鏑馬は、 疾走する馬上から鏑矢を放ち的を射る弓 術の一つ。鶴岡八幡宮の流鏑馬は、一一八七年(文治三 年)八月十五日、源頼朝が放生会の後に奉納したのがそ のはじまりとされる。 (6) 『都市鎌倉の中世史』二四~二五頁。ここで出てくる 「鹿」 は 、 肉 食全体のことを 指 すのだろうと秋山哲雄は 述べ る。 ( 7 ) 全 二巻。 現 在 は宮 内庁 所 蔵 。 寛政 年間 (一七八九~ 一八〇〇)に 松 平 定信 が 写 させたという 楽翁 本など、四 十 種類 ほどの 摸 本が知られている。 ( 8 )文 永 の役の巻において、 竹崎季長 は鎌倉にある 安達 泰 盛の 屋敷 まで出 向 いている。このとき 季長 は 徒 歩で参 上しており、 泰 盛から馬を 拝領 した 場面 が 次 に 描 かれて いる。弘 安 の役では、当時 肥 後 守護 であった 安達泰 盛の

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代理として嫡子の安達盛宗が肥後に下向していたため、 盛宗に軍功を報告していた。 『蒙古襲来絵詞』 は、 竹崎 季長が一二八五年の霜月騒動で平頼綱に滅ぼされた恩人・ 安達泰盛への鎮魂と報謝のために作成したとする説があ る。 (9) 御家人だけではなく、 異国降伏の祈 を行なった寺 社や御家人ではない武士らも、恩賞の対象であった。 ( )『吾妻鏡』治承四年(一一八〇)九月九日条。

参照

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