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10.4墳

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(1)

Ⅱ 発 掘 調 査

1  発 掘調査経 過

9.6 現 地協 議 (文化庁 ・奈良県教育委員会・奈良県立橿原考 古学研究所・明 日香村教育委員会・奈良文化財研究所)。

9.7 調査対象地 の古墳 北側 ・西側 隣接 地 の車刈 。墳 丘西・

南斜面 に残 る竹 の伐採 を開始す る。

9.10 覆屋建 設作業 開始。資材搬入。足場 の設置。

9.17 覆屋骨組 が完成 し、棟 上 げ をお こな う。

9.23 覆屋壁 面 にネ ッ トを張 り、覆屋 が完成す る。

9.24 墳 丘 を覆 う防水 ・防草 シー トの撤去 に着 手。

9,27 墳 丘東側 よ り上嚢 の撤 去 を開始 。土嚢 下 の表土 (腐

植土

)層

上面 には徹 の発生が著 しい。

9.29 台風21号接 近 の ため作 業 中止。 台風 に備 えて覆屋 の 補 強 をお こな う。深夜 に台風接 近す る も被害 な し。

9.30 土嚢 の撤去 作 業完 了。覆屋 北側 に調 査 現場用 プ レハ ブを建設す る。

10,1 発掘 調査 開始 の記 者発 表。小 型重 機 を使 用 して竹根 の除去作 業 を開始す る。 あわせ て表上 の腐植土層 を トラ ッ クで場外搬 出す る。

10.4墳

頂部 か ら東西南北方 向へ 幅

lmの

土層観 察用畦 (セ

クシ ョンベル ト

)を

十字 に設定。人力 に よる竹根 の除去作 業 は墳 頂 部 か ら中腹 まで終 了。古墳 周 囲の地形 測量 を実施 す る。

10.8 台風22号 に備 え覆屋補 強作 業。被害 な し。

10.12 

墳 丘部 の竹根 と表上 の除去作業 を終 了。

10.13 

表土 除去後 の墳 丘の写真撮影。

0.14 

調査 区 に

3mグ

リッ ドの小 地 区 を設定。

10.20 

台風23号 接 近。覆屋補 強作 業。被害 な し。

10.28 

排土置 き場 を整備 し、ベ ル コンを配列。

11.1 墳 丘封 上 の検 出作 業 を開始。墳 頂部 の昭和 50年 の整 備 時盛 土 を除去す るが 、版築風 に丁 寧 に盛 土 されてい る こ

とを確認。

11.5 墳 頂部 で昭和47年 の調査 区の平面 を検 出。

11.8 墳 丘東裾 で昭和47年 の東 第1ト レ ンチ の落 ち込 み を 確認。一部掘 り下 げ をお こな う。

11.11 

墳 頂 部南東 で 旧発 掘 区の埋 め戻 しに用 い た遮水布

(アス ファル トコー トしたポ リプロピレン布

)を

検 出。 また墳 頂部 の北東で 旧 ミカ ン畑造成時 の段 差 を検 出①

11.15 

旧東 第1ト レンチ を完掘 し、分層 をお こなう。

11,17 

墳 丘裾 部 の検 出作 業続 行 。北 東 部 で は畑 の造成 に よ り墳 丘裾 が大 き く削 られ てい る状 況 を確 認 。堆積 土 中か ら瓦器が 出土。

11.22 

墳 丘部 の調査 が終了 し、写真撮 影 をお こな う。

11.24〜

25 

墳 丘 の地形測量。

11.26 

墳 丘 北側 で 旧 トレ ンチ の 落 ち込 み を確 認。 平面検 出 と掘 り下 げ をお こな う (旧北 トレンチ と命名)。

11.29 

旧東 第1ト レンチ西端 に連続 す る墳丘版築層の検 出 に着手。 また旧北 トレンチ を完掘 す る。

11.30 

恒 久保 存 対 策検 討 会作 業 部会 委 員 の現 地視 察 。奈 文研飛 鳥藤原宮跡発掘調査部 にて第4回作業 部会 を開催。

12.1 昭和47年 の 旧東 第2ト レ ンチ の平面検 出。掘 り下 げ に着手す るが、

 

トレンチ は予想外 に深 い。

12.2 

南東 部 の墳 丘裾 か らモチ ノキ とみ られ る根 の腐朽 穴 と木片 を検 出。根 は版築層深 くに達す るか。

12.10 

墳 丘北東部 の裾 回 りで 中世 の旧地表面 を検 出。

12.14 

北 東 部 の 中世 面 を完掘 。瓦 器 な どが多 数 出土 。不 規則 に並 ぶ小穴 を検 出。

12.17 

北 西 部 の墳 丘裾 回 りの調 査 。 北西 部 で は耕作 土 直 下 が砂 礫 層 とな り、後世 の畑 地造 成 で大 き く削 平 を受 けて い るこ とが判 明す る。

12.24 

墳 丘封上 のボー リング調査用足場 の設置。

12.25〜

1.4年

末年始 のため作 業休 み。

1.5〜

12 

墳 丘封 土試料採取 の ボー リング調査 。

1.6 覆屋外 の北東 と東 に調査 区 を設定 し、史跡 指定地外 の 調査 に着 手 (北トレンチ、東 トレンチ と命名)。

1.7 墳 丘裾 回 りの中世遺構 の平面実測 を開始。

1.11 旧東 第1ト レンチ南壁 の土層剥 ぎ取 り。

1.12 

北 トレンチ で丘 陵 カ ッ ト面 を検 出。東 トレンチ で風 化 した岩盤 の縞状堆積 を確 認 し、斜 面 に堆積 す る中世 の遺 物包含層 を完掘す る。

1.14 

北 トレンチ及 び東 トレ ンチ完掘 状 況 の写真撮 影 。墳 丘裾 回 りの平面実測終 了。

1.17 墳 丘 東裾 のセ クシ ョンベ ル トの北壁 に沿 って断割 ト レンチ を設定 し、掘 り下 げ に着 手す る。灰 色粘 土層上面 か

墳丘部の調査風景 墳丘東裾部の調査風景

Fig 8

(2)

ら土器片が多数 出土。

1.18 

断割 トレ ンチ の断面 で周溝状 の落 ち込 み を確 認。墳 丘側 か ら外 側 に向か って版築層 を精査 し周 溝 の平面検 出 を お こな う。

1.19 橿 考研 共 同研 究員奥 田尚氏 に よる地質調査 。

1.20 

断割 トレンチ の底 面 で径90cm前 後 の柱 穴 を検 出。 昭 和47年 の東第2ト レンチの柱 穴 と連続す るか。

1.24 

断割 トレンチ を墳 丘裾 まで西側 に拡 張。 版築層 下 の 包含層か ら杯

B蓋

(飛

V)が

出土。

1.25 

断割 トレンチ をフェ ンス際 まで東 に拡 張 。 また指 定 地外東 トレンチ を西 に拡張す る。

1.26 東 トレンチ拡 張 部西端 で瓦器 を含 む溝状 落 ち込 み を 確 認 し、掘 り下 げるが薬研堀 風 の遺構 となる。

1.28 墳 丘裾 回 りの精査 。弧状 に巡 る周溝 の内肩 が徐 々 に 明 らか にな り、多角形墳 の可能性 はな くな る。

1,31 周溝 の精査 。埋 土 か ら奈 良時代 後半 とみ られ る須 恵 器杯

B蓋

片 が 出土。周溝 の外肩付 近 に薄 い炭化 物 層 が堆積 す る部分 あ り。

2.2 周溝 の検 出 と掘 り下 げ を終 了。

2.7〜

恒 久保存 対 策検 討 会委員 と作 業 部会委 員 の現 地視 察。埋 め戻 し方法 な どを協議す る。

2.10 墳 丘西斜面封 土の検 出。墳 丘全景写真撮影。

2.14 

冷去,塔移 設 工事 と墳 丘北 裾 を巡 る 2本 の電気 配線 用 塩 ビ管の撤去作業 をおこなう。

2.17 

指定地外北 トレンチ を東方 に拡張。瓦器 を包含す る 暗茶土層下で、地 山粘土 を切 り込む2基の土坑や小穴 を検 出。北 トレンチ拡張部か ら0.8m幅 の トレンチを南 に伸 ば し、

周溝の外肩 を検 出す る。

2.21 記者発表 に向け、調査 区の清掃及 び周辺の環境整備 をお こなう。覆屋タト墳丘西南部を断ち割 り、地形の段差が 後世の開削によることを確認。

2.22 

記者発表。西南裾部の断ち割 りを続行 し、花商岩基 盤層を確認する。現地説明会用見学通路を設置。

2.23 

墳丘東南裾の断ち割 り調査。幅1.lmで 覆屋外の南方 へ拡張する。段差を2カ所で検 出。

2.24 墳丘東裾断割 トレンチの精査及び写真撮影。墳丘東

裾 か ら北裾 の平面実測が終了す る。

2.27 現 地説 明会 開催 。説 明 を午 前 と午 後 の 2回 実施 。報 告者 は午前松村 、午後豊 岡。参加 者 は計2006名 。

2.28東

裾 断割 トレ ンチ を さ らに墳 丘上段 部 まで西 方 に拡 張 し、版築層 の下面 まで掘 り下 げる。

3.1 断割 トレンチ西端 の壁 面 で版築層 のズ レを確 認。地震 に よる断層 か。 木竹 の根 が亀 裂 に沿 って地下深 く伸 び る様 子が観察 され る。奥 田尚氏周辺地質の再調査 。

3.2 指定地外北 トレンチ と東 トレンチ を連結 し、背後 の丘 陵部 の面 的調査 に着手す る。

3,8 京都 大学 防災研 究所 三村 衛氏、産業技術 総合研 究所 寒 川旭氏 に よる地震痕 跡 の調査 。指 定地外 拡 張 区で東西 方 向 の溝や、中世 とみ られる小穴や小溝 を検 出。

3,10 墳 頂部の埋 め戻 しを開始。

3.11 東裾 断割 トレ ンチ南壁 及 び西壁 の土層 断面 を剥 ぎ取 る。 三村 衛 氏 の指導 に よ り、 旧東 第1ト レ ンチ西壁 版築層 の強度測定 (針貫入試験

)を

実施。

3.14 

ボー リ ング調査坑 を利用 してRI水 分 計 に よる含水 比 検層 とPS速度検層試験 を実施。

3,15 指定地外 北側調査 区の遺構検 出終了。写真撮 影 と平面 実測 に着手。墳 頂部の埋 め戻 しが終了。

3.16 地震痕跡 に関す る記 者発 表 。 ラ ジ コ ンヘ リコプ ター を使用 し指定地外北側調査 区の空撮測量 を実施。

3.17 墳 頂北東部の旧 ミカ ン畑段 差 の埋 め戻 しに着手。

3.18 指定地外北側調査 区の埋 め戻 し作 業 を開始。

3.19 墳 丘周 囲の埋 め戻 しに着手。排水用暗渠 を敷設。

3.23指

定地外 西側 調査 区の発 掘 調査 を開始 。調査 現場 用 プ レハ ブ を撤去。

3.25西

側 調査 区の遺構 検 出。 中世 以 降 に段 状 に削 平 され て い る こ とが判 明。南 半部 で東西棟 建 物 の西妻 とみ られ る 掘 立柱柱 穴 を 3個 検 出。北 半部 で は中世 の上 師器小 皿 を伴

う大土坑 を検 出。古墳 関連遺構 はな し。

3,29 西側調査 区の写真撮 影 と平面実測。

3.30 西側調査 区の埋 め戻 しを開始。

3.31 埋 め戻 しが終 わ り、全 ての作 業 を完了す る。

(松村 恵司)

墳丘北裾 を巡 る周溝 の調査風景

.       

・t 一一 一

︲︲

・可

  ′ 健T 一ォ 4預 4 一

日g ll  星宿広場 での現地説明会風景 FigJ o

‑17‑

(3)

2  測 量 と地 区割 り

A  高松塚古墳の基準点測量 (1)座

標値の成果

平成15年度に文化庁が高松塚古墳 の墳丘測量 と、石室 の位置確定のための測量 をおこなった。その際に設置 し た基準点は、気存施設の機械室上部のコンクリー ト面に 設 けたNo.2と、星宿広場南の丘陵上 に設 けた

No.1で

、 その座標値 は以下の通 りである。

文化庁平成15年度測量成果 (日本測地系)

基準点

     X      Y     H

文化庁

No l ‑170,990.270 ‑17,541.980  110419

文化庁

No 2 ‑170,925.423 ‑17,544334  108.385

(=奈 文研No224)

その後、平成14年の改正測量法の施行 に伴い、公共測 量 は 日本測地系か ら世界測地系へ移行す ることになった ため、平成16年度の発掘調査では、世界測地系 を導入す ることにした。 このため世界測地系 による基準点の改測 が必要 になったが、基準点文化庁No.1には桜の木が覆い 被 さ り、

GPS測

量 には不適当であることか ら、その北東 部 に新 たな基準点 (奈文研No225)を 設置 した。その測量 成果は以下の通 りである。

奈文研平成16年度測量成果 (世界測地系) 基準点

     X      Y     H

奈文研配224 ‑170,579,013  ‑17,805,993   108.201 (=文 化庁No2)

奈文研h225 ‑170,645,188  ‑17,796.458   110.336 文化庁設置の高松塚基準点

No.2(=奈

文研No 224)で の 日本測地系か ら世界測地系へのパ ラメー ターを求める と、

X+346.410 Y‑261.659 

を得、 これ を用いて文化 庁No.1を変換する(日本測地系の座標値にそれぞれを加える)

と、次の世界測地系 の座標値 を得 る。

基準点

     X      Y

文化庁

No.1 ‑170,643.860 ‑17,803639 (2)標

高の成果

国営飛鳥歴 史公園事務所が平成16年 2月 に設置 した3 級基準点 (国営公園高松塚地区

No4)が

高松塚壁画館 の南 の植込中にあ り、 この点は水準点 と結合 している。 これ と保存施設の入 り回のNo.224を結合 した結果、その標高 は

H=108.201mと

確定 した。平成15年の測量成果 との 間に18.4cmの差があるが、平成15年の測量成果か らこの数 値 を引 くと今 回の測量 デー タに整合す る こ とになる。

地形測量

前述 したように、平成15年度に文化庁が墳丘 とそれを 含む特別史跡指定地の地形測量 をおこなっているが、発 掘調査、保存整備事業、史跡指定地の拡大 などに備 えて 周辺部 を含めた地形実測図が必要になった。

このため、史跡指定地内の地形測量 は平成15年度の成 果 を活か して上記標高の修正 をお こない、新たに測量す る周辺地形 については、

 

トー タルステーシ ョンを用いた 放射観測 によって実測 し、Fig.3の 地形測量図 を作成 し た。

地 区割 り

高松塚 を含 む当該地区の大地区名 は

5 ALIで

、中地区 の大半は

J区

に入 り、北端部が

H区

、西端部が

Q区

とな る。発掘調査では、中地区を

3m方

眼に分割 した小地区

(東南隅の地区杭名が小地区名となる

)を

設定 して遺物 の取 り上げや遺構概略図を作成 したが、その基準 となる中地 区東南 隅の座標値 は、

 Jで X=‑170,595Y=‑17,598、

Hで X=‑170,541Y=‑17,598、  QでX=‑170,595Y=―

17,820である。いずれ も世界測地系で、国土方眼座標 第

Ⅵ系の座標である。

遺構 の測量 と遺構平面図

発掘調査 に際 しては、上記の3級基準点である奈文研 血224・ 225を用いて4級基準点 を5ケ所 (覆屋内四隅と墳 丘の南西部

)に

設置 した (角閉合差20秒、座標閉合差5 mm、

精度1/17,000)。 これ らの点 を手測 りによる遺構 の平面実

測お よび写真測量の基準点 とした。

平坦部の遺構実測 については、遺構面 に直接水糸 を張 って基準線 とし、手測 りによる平面実測 をお こなったが、

墳丘部ではその作業が困難なため、

 

トー タルステーシ ョ ンの座標値の直読みによって遺構計測 をお こなった。た だ し、 この方法では墳丘部の測量 に時間がかか るため、

写真測量 を併用す ることに し、遺構面 に評定用 ターゲ ッ トを敷設 し、覆屋 内では墳丘上 に組んだ足場の上や覆屋 の梁か ら写真撮影 をおこなった。 また覆屋外 の調査区で は、 ラジヨンヘ リコプターによる空撮 をお こなった。写 真測量 は、平成16年12月20日、17年 2月14日、3月 3日、 3月 16日 の4回 に分 けて実施 した。

遺構 図の作成 は、手測 りの実測図や遺構 カー ドを用い て素図の校正 をお こない、デジタルデー タの編集図を作

成 した (Fig 22)。 (内田和仲)

(4)

IY178∽ IY17,780

X170,550

X‐170,570

80

JG

せ 日

JF

F咆,12  調査地の地区割図

g13 

覆 屋内の写真測量風景

‑19‑

g14 

ラジコンヘ リを使 った北側調査区の写真測量

(5)

︑︑

疹ケ

g。

15 

高松塚古墳調査位 置図

(世界測地系

 

第Ⅵ系)

(6)

3  遺構 と層 序

1.調査 区 と基本 層序

調査区

 

今 回の調査 は、古墳 の旧状 をとどめる墳丘北半 部 を射象 に、発掘調査用仮設覆屋 を建設 し、その内部で 調査 をお こなった。 また古墳 の築造時における丘陵の開 削状況 を明 らかにす るために、史跡指定地 に隣接す る覆 屋北側 と西側 に調査 区を設定 した。 ここではFig 16に示 す ように、覆屋 内の特別史跡指定地 を「本調査 区」(362 耐 、指定地外 の北側 を「北側調査 区J(171∬)、 西側 を

「西側調査 区」(123∬

)と

よぶ。 また墳 丘北裾 と東裾 近 くで、昭和47・ 49年 調査時の トレンチ を検 出 し、再発掘 した。それ らの トレンチは、頭 に旧の字 を冠 し「旧北 ト レンチ」「旧東第1ト レンチ」「十日東第2ト レンチ」 とよ ぶ。 さらに今 回の調査では、墳丘南半部の丘陵斜面 に、

本調査 区の隅か ら2本の トレンチ を延 ば し、旧地形 と墳 丘の関係 を調査 した。 これ を「本調査 区南東 トレンチ」

「本調査 区南西 トレンチ」 とよぶ。

基本層序

 

本調査 区の墳丘北か ら東裾 における基本層序 は、上 か ら表上の腐植土層、墳丘整備時の客土 (暗黄褐 土)、 整備前 の旧表土 (腐植土

)層

、墳丘の開削 ・崩壊土

(橙色土)、 中世 の遺物包含層 (暗橙褐土)、 古墳 の築成土

(版築土・基盤面の造成土

)で

あ り、調査 区の東半部 で は その下層 に古墳築成以前 の遺物包含層 (暗灰色土

)が

存 在す る。その下の基盤 となる地山は、場所 によ り様相が 異 なるものの、更新統の水性堆積である砂層、シル ト層、

礫層が重 な り、以下 に風化 した花尚閃緑岩が続 く。

2.墳丘 部 の調査

墳丘部の調査 は、封土 の損傷状況 を確 認す るために、

表土の腐植土層 (黒色土

)を

除去 し、竹 の地下茎 を取 り 除 きつつ、草木の根 による攪乱層 を掘 り下げ、生 きた墳 丘封土面 を露 出させ た。腐植土層の直下 には、昭和50年 の墳丘整備 時の盛土 (明褐〜赤褐色土

)が

、版築状 に30 cmほど積 まれていた。 この盛土 は、竹 を伐採 した旧表土 上 に直接積 まれてお り、盛土 中に埋 め込 まれた竹根が、

後 に腐朽 して数多 くの空洞 を生 じていた。 また旧表土下 にも20cm近 い厚 さで竹の地下茎が密集 していた。

墳丘封土の表面観察では、調査前 に想定 された断層な どの顕著 な損傷 を確認す ることはで きなかったが、後述 す るように、大規模地震 による亀裂が墳丘内部に も多数 存在す る もの と推測 される。

旧発掘 区

 

墳頂部の整備 時盛土直下で、東西2.5m、 南 北

4m以

上の矩形 を した昭和47年 の調査 区 を検 出 した。

最上面でアスファル トコー トしたポ リプロピレン布 を検 出 したが、 これは昭和49年の埋 め戻 し時 に用いた返水用 シー トである。 シー ト下 には竹の地下茎が伸 び、徹 の繁 殖が認め られた。旧調査 区は墳頂部の盛土 と同様の土で 埋 め られているが、壁画の保存環境 に配慮 し、掘 り下げ

はお こなわなかった。

墳丘の開削

 

墳頂部 の石室想定位 置 の北側で、幅1.6m 前後、長 さ8m、 深 さ

lmの

段差 を検 出 した。 この段差 は昭和47年 調査時に存在 した蜜柑畑造成 に伴 う段 差 で、

墳頂部 と一体的に昭和50年に埋 め戻 されていた。石室の 想定位置 の北東部1.5mの近距離 にあ り、墳丘 内へ の雨 水の浸透 に影響 を与 えている可能性 もあろう。

モチノキ

 

墳頂部の石室 の東

lmに

存在す るモチ ノキの 切 り株 は、緊急保存対策 によって平成15年に伐採 された ものである。根が腐朽 して虫の通 り道 になることが懸念 されたため、恒久保存対策検討会作業部会 において、根 の除去が適切 と判断 されたが、封土 中 に深 く根 を張 り、

その除去 はで きなか った。 同 じく石室 の南2.5mの保存 施設の両脇 に もモチノキの切 り株 が

2株

存在す るが、石 室 との距離か らみて、石室 に及 ぼす影響 は少ない もの と 判断 され る。

その他、墳丘西斜面裾で墳丘部 に向けて穿たれた近現 代 の貯蔵穴 を検 出 した。 これは昭和47年 の高松塚壁画発 見の契機 となった生姜穴 と同 じ性格 の貯蔵穴である。

g16 

調査 区位置 図

‑21‑

(7)

Y‑17,7901

3.墳

丘裾 回 りの調 査

墳丘の裾回 りの調査では、竹の抜根後 に表土の腐植土 層 を場外搬出 した。表土下 には東裾南半部 を中心 に、20

〜40cmの 厚 さで黄褐色の山土層があ り、 これは古墳周辺 の整備時の客土 とみ られ る。その下には、旧表土の腐植 土層、耕作 や木竹 に よる攪 乱層 (明褐色土

)が

40cn前 後 堆積 し、 その下面 で墳 丘 の裾 を弧状 に廻 る溝

SD139と

SD140を検 出 した。

中世溝

SD139 SD139は

埋 土 に瓦器 を含む中世の溝であ

917 

東畦北壁 と断割 トレンチ南壁土層図 1:80

X‑170,5711

g18 

南畦東壁土層図 と既発掘範 囲

 

80

る。後述す る墳丘北東部の開削 と一連の遺構 であ ろ う。

近代溝

SD140 SD1401よ

埋土 に近〜現代の染付磁 器片 を 含 み、検 出面か らの深 さ0.5mを測 る弧状溝 。近代 の蜜 柑畑造成 と前後 してお こなわれた墳丘周囲の地形改変 に

よ り掘削 された溝 とみ られる。

旧 トレンチ

 

墳丘東裾 においては、昭和47年 調査 時 の旧 東 第1ト レンチ と旧東第2ト レンチ を検 出 し、再発掘 し た。北側 の旧東第1ト レンチは、幅1.4mの 東西 トレンチ で、全長

10mの

うちの、調査区内に入 る7皿分 を再発掘

X‑170,5741 H‐11300m

(8)

ヽ ︲ ︲

一ト

H‐11詢われ

111ね 0画

H=11130m

圃 版築主

‐ 周溝SDl10

□ 麹山・基盤層

嚇 嚇

F咆.20 1と畦東壁とl日北 トレンチ西整土層図

 

80

F咆121 北側調査区要璧土層図

 

80

‑23‑

(9)

した。北側 に拡張部分が階段状 に残 る。墳丘側の最深部 で現地表面 か ら

26mの

深 さがあ り、底面 は砂礫層 に達 す る。南の旧東 第2ト レンチ は幅lm、 全長5,7mの東西 トレンチであ るが、調査 区内で

2.7m分

を検 出 した。底 面は基盤の花商閃緑岩で、東か ら西 に向かって20〜30°

の急傾斜 で下 降す る。深 さは西端 の最深部で2.8mを測 る。 これ らの トレンチの土層断面図は F壁画古墳高松塚 調査 中間報告」 に掲載 されているが、再発掘 での土層断 面の検討 によ り、基盤層や墳丘封土、周溝 に関す る新 た な知見が得 られた。

また墳丘北裾の調査 では、昭和49年に調査 された旧北 トレンチ を再発掘 し、今 回は トレンチの南端 を墳丘側 に

07m延

長 した。 トレンチ は

L字

形 を してお り、その東 端で昭和49年 に確認 した土坑状 の落ち込みSK106を平面 的に検 出す ることがで きた。

中世の開削

 

墳丘北東部 は、 中世の開削が著 しい。先述 した蜜柑畑造成時 の段 差 の1.7〜

2.Om外

側が、長 さ

7m

以上 にわた り70° の急傾斜 で弧状 に削 られ、高 さ

lm以

上の急斜面 を形成す る。削 られた墳丘斜面 には版築層が 露 出す る。 さ らにその外側1.5〜2.Omの位置で検 出 した 弧状 の小段差 (高

02m)は

、二段築成の墳丘の下段 部 を削平 した際 に生 じた段 差 とみ られ、墳丘上段部の裾の 位置 を推測す る手がか りが得 られた。段差の外側 は削平 によ り、平坦面 を形成す る。 この ように墳丘北東部 は、

3段にわたって階段状 に削 られてお り、 中世 に墳丘 を蚕 食 しつつ耕地 を拡大 した様子 を窺 うことがで きた。

小穴群

SX132 

】ヒ裾の平坦面 を中心 に、瓦器 を含 む中世 の小穴 を多数検 出 した。古墳周囲が耕地化 した際の野小 屋 的な施設の柱穴 と推測 されるが、建物 としては復元で

きなかった。

一方、墳丘の西裾部 は、後世 に大 きく削平 され、基盤 の砂礫層が露 出す る。東裾 との比高差が1.6m近くあ り、

墳丘下段 部や周溝 は完全 に消失す る。 この削平 は西側調 査 区の棚 田状 の造成 と一体 的にお こなわれた もので、西 側調査 区の東西溝 と

L字

形 に連結す る

SD137や SD138か

ら、墳丘側への耕地の拡大過程 を読み取 ることがで きる。

SD137・ 138に区画 された内部 には、耕作溝が存在する。

古墳周溝

SDl10 

墳丘北裾 か ら東南裾 にか けて、墳 丘 を中心 に弧状 にめ ぐる周溝 を検 出 した。中世の削平 を受 けるために遺存状態 は悪 く、確認で きた周溝幅は

2m前

後、深 さは0.25m前後 にす ぎない。素掘 りの周溝 で、石 組みの護岸施設や、墳丘下 に伸 びる暗渠施設 な どは認め られない。墳丘側の周溝斜面 には版築層が現れ るが、対 岸 の丘 陵側斜面 には版築層が延びず、版築工法で墳 丘下 段 まで築 いた後 に、丘陵の成形 と一体的に周溝 を掘削 し た と推定 される。

周溝 は、土層観察用 に設定 した北畦の西側 では、完全 に削平 されているが、残存部分では北側 に向か って浅 く な り幅 を狭めることか ら、北側 を起点に雨水 を墳 丘 の東 西両側 に排水す るための施設 と考え られる。埋土 中か ら 奈良時代後半の土器が出土 してお り、それ以降に急 速 に 埋没が進 んだ もの と推測 される。

下層遺構SX呵 00・ SX10刊

 

旧東第1ト レンチ と断割 トレ ンチの墳 丘封土下で検 出 した2基の土坑である。

SX100

は、昭和47年 の調査 時 に既検 出の土坑 で、径0,7m、 深 さ約

0.3mを

測 る。SX1011よ 、断割 トレンチの底 面 で検 出 した径0,7m、 深 さ約0.4mの土坑 であ る。 この

2基

の 土坑 は、遺物包含層の直下 に位置す る。両者 は南北 に3

m離

れて位置することか ら、柱間寸法10尺の掘立柱建物 の一部である可能性 もあるが、建物の規模や形式 な どは 不詳。

トレンチの上層断面

 

再発掘 した旧東第1ト レンチ と旧 東 第 2ト レンチの土層断面 をFig。23〜 25に示す。 これ ら か ら墳 丘の下段部の版築層 を切 って周溝が掘 られ た状況 が分か る。版築 は遺物包含層 に乗 るように施工 されてお り、古墳築造の基盤面 として遺物包含層の上面力消U平さ れてい る可能性が高い。遺物包含層 は単一層 で は な く、

複雑 な堆積状況 を示す ことか ら、基盤面造成 に伴 う谷の 埋 め立 て土の可能性 もあろう。

版築土 は3〜5 cm前後 の厚 さで入念 につ き固め られて いる。版築層は、墳丘の下部か ら上部 に向か って、 また 中心部か ら周溝 に向か って、徐 々に傾斜 を緩 めなが ら施 工 されてお り、墳丘下段 の上部ではほぼ水平に近 くなる。

昭和49年 の調査 によ り、石室の組み立て工程 に応 じて第 1次か ら第3次までの版築 をお こない、石室 を被 覆 した 上 で、墳 丘土 を盛 った こ とが 明 らか に され て い るが 、

(I章4節 参照)、

 

トレンチ断面 にみ える版築層 も、 石室 の構築 と一体的に施工 された可能性が高い。 また周溝の 外壁 をなす丘陵斜面 には、地 山の灰色 シル ト層 の上 に4

〜6層にわたる整地土層が認め られる。

(10)

J騨

ド 部∽

g22 

高松塚古墳調査遺構図

 1:200

X‑170,550

X‑170,570

‑25‑

(11)

Yi171Ю9

Fig。23 +日 東第 1ト レンチ南・西壁上層―図 1:60

Y=17,796 Y‑1■3

Fig,24 1巳東第 1ト レンチ北壁土層図

 1:60

ロロロ版築土

周溝sDl10

地山・基盤層 0       2m

F咆,25 旧東第2トレンチ南壁・ 西壁・ 北壁土層 図 1:6Cl

4.北

側調査区の調査

北倒調査 区は、調査開始当初に設定 した東 トレンチ と 北 トレンチを連結 して、最終的に古墳の北東部の丘陵を 面的に調査 したものである。調査前 には、古墳の背面の 丘陵が大 きくカッ トされ、掘 り割 り状の区画施設が存在 すると予想 したが、調査の結果、丘陵の開削が小規模 な ものであることが明 らかになった。 しかも中世に丘陵斜

面が大 きく開削 されてお り、古墳築造時の姿 を復元す る ことは難 しい。丘陵斜面で検 出 した遺構 は、竪穴状遺構 SX130。 131、 溝状遺構

SX135な

どの中世 の遺構 であ る。

竪穴状遺榊 X130・

SX1 31 

調査 区中央南寄 りで検 出 し た重複す る竪穴状遺構 である。SX130とよ南北 2m、 東西

2m以

上、

SX131は

南北

2m以

上、東西

5mの

規模 を も ち、 ともに検 出面か らの深 さは約0。15〜0.2mと 浅い。

(12)

周溝SDl10 4邦

ド\

、 ガ ぃ ヾ\

ィ 十 固

Fig 26  周溝SDl10と 本調査区北壁土層図 1:120

SX131の

埋土 には炭化物 ・焼土が集 中 し、火 を焚いた形

跡が認め られた。底面 は比較 的平坦であるが、踏み固め による硬化面 は認め られない。壁溝状の細溝が北辺 と西 辺 にめ ぐる。SX130。

SX131の

埋土 中か らは瓦器が多数 出土 した。 また、 これ らの竪穴状遺構 に付随す るとみ ら れる小穴 を竪穴の内外 で多数検 出 したが、明確 なまとま

りを見 出す ことはで きなか った。

溝状遺構

SX135 

】ヒ側調査 区の東南隅の拡張部で検 出 し た薬研堀 風 の溝状遺構 であ る。検 出面か ら1.3mの深 さ があ り、埋土 に瓦器 を含 むが、北肩 の検 出に とどま り、

溝幅 な どは不 明。溝の延長部分 も本調査 区内、北側調査 区内では検出で きなか った。おそ らく史跡指定地 を囲続 す るフェ ンス下 を東西 に延 びるのであろう。

この他、中世の開削 による段差及び東西溝数条 を検出 した。 これ らの中世遺構 は、本調査区の墳丘北東部 と一 連の開削 に伴 う遺構 とみ られ、古墳築造時に造成 された 丘陵緩斜面 を改変 して土地利用 した ものである。

5.西

側 調 査 区の調査

先述 した ように、西側調査区は墳丘西裾 と一体 的 に地 下げがお こなわれ、古墳 関係の遺構 は完全 に失 われてい る。検 出遺構 は、掘立柱建物SB120、 中世の土坑SK125、

近世以降の耕作溝や区画溝 などである。

また丘 陵の開削状況 を調べ るために北側 の丘陵部 に も トレンチ を延 ば したが、下段 の耕地造成時に丘陵 は直線 的に削 られてお り、大 きく地形が改変 されている こ とが 判明 した。

掘立柱 建物

SB120 

調査 区の南東で掘 立柱 建物 の西 妻 を検 出 した。連続す る柱穴 を本調査 区の墳丘西裾 部 で検 出 してお り、梁行2間、桁行2間以上の東西棟建物 に復元 で きる。柱 間寸法 は、梁行

1.8m(6尺

)、 桁 行

2.4m(8

)で

、柱掘形 は一辺0.5m前後、削平が著 しいため に深 さは

0.2m前

後 に とどまる。建物 の時期 を示す遺物 の 出 土 はなか ったが、掘形の形状か ら古代の建物跡 とみ られ、

周溝 の埋没後 に営 まれた建物 と推測 される。

‑28‑

(13)

土坑

SK125 

調査 区の北東部で検 出 した東西 2m、 南北 1.7m、 深 さ0.5mの平面 隅九方形 の土坑。 白色粘土 で人 為 的に埋 め られてお り、埋土最上層か ら祭祀 に伴 う土師 器小皿が多量 に出土 した。底面 は皿状 に一段窪み、壁 の 周囲にテラスがめ ぐる。

以上の ように西側調査 区は、後世 に完全 に削平 されて お り、古墳 関係 の遺構 は残存 しなかった。その削平 の時 期 は、上段 に14世紀の土師器小皿 を出土す る土坑

SK125

が存在 し、下段 の西南部斜面 にも中世の遺物包含層が残 存す る ところか ら、中世か ら丘陵の開削が始 ま り、近世 以降に棚 田状 の地形 に造成 された と推測 され る。

6.本

調 査 区南 東 トレンチの調査

本調査 区南東隅か ら、覆屋91・all(南西)に向けて幅 lm、

長 さ約

6mの

拡張 トレンチ を設け、丘陵斜面 と墳丘 の関 係 を調査 した。丘陵斜面 は、粘土プロックを含 む黄褐 〜 赤褐色土 を斜面 に沿 って積 んだ整地層 で、約25° の傾斜 で下降す る。整地土上面 には瓦器等 を含 む中世以 降の土

が厚 く堆積す る。確認 した整地土上面の標高 は、

 

トレン チ南端部で105.80m、

 

トレンチ】ヒ端部で107.60m付近で あ る。 版 築 層 の 端 部 は 、

 

トレ ンチ 北 端 近 く (X―

170,574.000m付近

)で

終わ り、 その部分 で地震 による亀裂 を確認 した。

7.本

調 査 区南西 トレンチの調 査

本調査 区南西 隅において、覆屋 か ら外側 (南西

)の

崖 面 に向か って、幅約0,8m、 長 さ

3.5mの

拡張 トレンチを 設 けた。墳丘西側の裾 回 りは削平 を受 け、耕作上の直下 に礫層が露出す るが、礫層下の上層観察 と、崖状 の段差 の性格 の解明 を目的 として掘削 した トレンチである。調 査の結果、礫層下 に組砂層が20cm堆 積 し、以下 は風化 し た花尚閃緑岩 となることを確認 した。崖状段差 は トレン チ北端 と南端 で比高差約1.8mを測 るが、 これ は古墳築 造時の旧地形ではな く、西側調査 区の棚 田状の耕地造成

に伴い、削 られた もの と考 え られ る。

(渡部圭一郎)

Fig,28  南西 トレンチ全景

 

南から

Fig.27  南東 トレンチ全景

 

北から

(14)

出 土 土 器

1.は

じめ に

本調査 で 出土 した土 器 の量 は、遺物収納 コンテナ に 4箱である。古代 の土 師器 ・須恵器、 中世の瓦器 ・土師 皿、近世〜現代 の陶磁器 な どがあるが、いずれ も細片が 大半 を占め、全体 の形状 を復元で きる資料 は僅少である。

ここでは古墳本体 に直接 関連す る資料 と、後世の開削 や周辺での土地利用がわかる資料 を中心 に報告す る。

また参考資料 として、昭和49年 の石室朱存施設建設 に 伴 う墓道部の調査 で出土 した土器 もあわせ て紹介す る。

なお古代 の土器 についての分類 な どは『飛鳥・藤原宮発 掘調査報告 Ⅱ』(奈良回立文化財研究所学報 第31冊、1978年)

な どに従 った。 日径 につ いて も、 日縁 が

1/6以

上残存 す る ものにか ぎり示す ことに した。

2.古

墳 に関係 す る土器

版築層 出土土器

 1〜 3は

墳丘裾の東畦北側で、断ち割 り調査 を した際に版築土の最下層か ら出土 した土器であ る。1はか え りのない須恵器杯

B蓋

。青灰色 を呈 し、少 量の微細 なクサ リ礫 を含 む。飛鳥V。 2は須恵器杯Htt。

頂部外面 はヘ ラ切 りの まま未調整。明褐灰色 を呈 し、径

l llun程の 白色砂 。長石 を少量含 む。 日径9.Ocm、 器高3.0 cmを測 る。飛鳥 Ⅱ。3は須恵器杯H。 底部外面はヘ ラ切 りのまま未調整。責灰 〜褐灰色 を呈 し、径l lmll程度の長 石 を少量含 む。最大径 は11.lcm、 器高2.6cmを測 る。飛鳥

Ⅱ。同層か らは他 に土 師器の杯 ・鉢・奏、須恵器奏の小 片が少量 出ている。

版築層下層 出土土器

 4・ 5は

版築層の下位 に位置す る 遺物包含層か ら出上 した もので、4は東畦北側での断ち 割 り調査時 に、5はF77地区か ら出土 した。4は須恵器

B tt。 褐灰〜灰 白色 を呈 し、微細 な白色砂 と黒色粒 を

少量含 む。 口径18,Ocm。 飛鳥V。 5は須恵器杯B。 底部 外面 はヘ ラ切 りの まま未調整。暗青灰〜灰色 を呈 し、微 細 な白色砂 を含 む胎 土。底径9,Ocm。 同層か らは土師器 の奏、須恵器 の杯 ・壷 の小片が出土 している。

周溝 出土土器

 6は

周溝

SDl10か

ら出土 した須恵器杯

B

蓋である。頂部平坦面の調整はロクロケズ リ。黄灰色 を 呈 し、焼成 は堅級。器面 はなめ らかで、黒色粒が流れる。

日縁端部の屈 曲は奈良時代後半の特徴 を示す。周溝か ら は他 に土師器の杯、須恵器の杯・甕・甦の小片が出土 し ている。

以 上 、古墳 の築造 時期 に関係 す る出土土器 をまとめ る

と、版築層か らは飛鳥

Vを

上 限 とす る土器が 出土 した。

その下層 に位置す る遺物包含層出土土器 は、飛鳥 Ⅱか ら

Ⅳを中心 としなが らも飛鳥

Vの

土器が含 まれてお り、版 築層 出土土器 と同様 に、古墳の築造時期の上 限が飛鳥

V

であ ることを示 している。 また古墳 の周溝 出土土器 は、

周溝 の埋没年代 の一端が奈良時代後半 にあるこ とを示 し ている。

3.中

世 の上器

7〜

16は 古墳築造後の土地利用 を示す土器。 中で も瓦 器 (7〜

12)が

主体 を占め、総重量 は37.2kgにの ぼるが、

その大半 は細片である。

7は

墳丘裾北東部の小土坑群

SX132か

ら出土 した。 日 縁 が外反 し、日縁端部は段状 に窪む。ヘ ラ ミガキは日縁 部内面で密、外面 は疎 である。

3・ 12は 北側調査 区の竪穴状遺構

SX131か

ら出土。 8 は口縁 が開 く器形で、 口縁端部 を欠損す る。 断面三角形 の低 い高台 をもつ。見込部 に螺旋 ない し連結輪状 の暗文 が あ る。 日縁部 は内 。外面 とも磨・inしてぃ る。 国径14.2

CII10サII越編年の第 Ⅲ段 階

A型

(川越俊―「大和地方出土 の瓦器をめぐる二、三の問題」『文化財論叢』同朋社出版 1983)。21よ完形の小皿。見込部 にジグザ グ状 の暗 文 をも つ。 口縁部外面 は ヨコナデ、底部外面 はオサエ の調整。

日径8.6cm、 器高1.8cm。

9〜

11は 墳丘裾北東部の黒色土層か ら出土。

9は

断面 逆台形 の高台で接地部 に面 をもつ。見込部 は螺旋状 の暗 文。 川越編年の第 Ⅱ段 階。10の 高台 は背 が高 め の断面 三角形 、見込部 は螺旋状 の暗文か。11の 小 皿 は見込部 にジグザ グ状の暗文 をもつ。日縁部外面 は ヨコナデ、底 部外面 はナデ とオサエの調整。回径 は8。lcm。

瓦器 は墳丘裾東南部で も少量 出土 しているが、北側調 査 区を含めた墳丘裾北東部の旧耕作土下層か ら最 も多 く 出土 した。瓦器椀 の年代 の指標 となる高台の断面形態 を 見 る と、逆台形の ものか ら、低い三角形の もの まで存在 す るが、量的には両者の中間的な形態である背 の高い断 面三角形の高台が最 も多 く認め られる。 これ らは川越編 年 の第 Ⅱ段 階B型式 か ら第 Ⅲ段 階

A型

式 に位 置づ けるこ

とがで きる。

これ らの ことか ら、墳丘北東部 における土 地利用 は、

12世紀後半 を中心 に活発化 した もの と推測 され る。

13〜 16は 西側調査 区の大土坑SK125の埋土上層 か ら出

‑30‑

(15)

H

こ 墾 ≧ ≧ ≧ 塾 匡 ≧ ≧ 重 ≧ 当 4

∠ 三 二 塁 型 二 重 量 当 邸 17

ii::::!::::!:::::::::,'19

Fig 29

土 した土師小皿。 まとまった出土状態であったが、完形 での出土はない。すべて底部が内側へ窪むへそ皿である。

明褐〜明黄褐色 を呈 し、胎土 には多量の微細 な雲母 と少 量のクサ リ礫 を含 む。

図示 した ものの口径 は7.1〜7.4cm、 器高 は0,9〜1.3cm で、他の個体 も概 ねこの範囲におさまる。口縁部の破片 は120点あ り、その回縁 長 を合計す ると375,2clllと な り、

日径7 cmの小皿17個体分 に相 当す る① これ らの小皿 は、

祭祀 に伴い一括 して廃棄 された可能性が高 く、その年代 は14〜15世紀頃 と考 えられる。一方、西側調査 区におけ る瓦器の出土は僅少で、墳丘周囲の土地利用の変遷 を示 している。大土坑か らは他 に、須恵器奏の体部片 と焼土 塊が出土 している。

4.昭

和49年出土土器

17〜 22は壁画保存施設建設 に伴 う昭和49年の墓道部の 調査で出上 した土器である。17〜21は 石室の前面部か ら

題 ■

2

: 0       20cm

\ 学 毛

   10

11

13  14

‑L‑15

‑ 16

12

\ \、 ̲魔

21

こ≡三三二三三二とこと!と::二二三二≧≧聖聖

"ぃ

 22 出土 土器

 1:4

の出土。171よかえ りのある須恵器杯

B蓋

。内面 は灰 白、

外面 は灰 を被 り灰黄色。胎土 には長石 と白色砂 を多 く含 む。18も かえ りのある須恵器杯

B蓋

。灰 白色で径l nlm前

後の長石 を少量含む。191よ須恵器杯

Bの

高台部。内外面 は暗灰色で、断面は赤褐色。201よ須恵器杯H。 内面 は灰 色で、外面は灰 を被 り浅黄色。21は かえ りのない須恵器 杯

B蓋

。色調 は暗青灰〜緑灰色 を呈す る。飛鳥V。 石室 の前面部か らは他 に土師器杯

Hの

小片が出土 している。

22は 包含層か ら出土 した、かえ りのある須恵器杯B tt。

かえ りは非常 に組 く、突線状である。外面 はオ リーブ灰 色、内面 は灰色 を呈す る。包含層か らは他 に土師器杯

H

の小片、暗文のある土師器の小片が出土 している。

以上の ように墓道部出土土器は、飛鳥Ⅳの特徴 をもつ 須恵器蓋が 目立つが、かえ りの消失 した須恵器蓋 もあ り、

墳丘版築層出土土器 と同様 に飛鳥

Vを

下限 としている。

(加藤雅士)

̲̲f´:〜̲̲、

(16)

5  古墳の規格 と築造方法

今回の発掘調査では、墳丘北半部 を中心 に面的な調査 をしたことに加 えて、昭和47・ 49年度調査 の トレンチの 主要な部分 を再発掘 し、 さらに断割 トレンチ、南東 トレ ンチ、南西 トレンチ を設けたことで、古墳 の築造過程 を 示す土層 を広 く観察す ることがで きた。その結果、墳丘 の形状や規模、築造方法 に関 して、昭和47・ 49年度の調 査成果 を補 う新たな知見 を得 ることがで きた。

古墳の占地

 

高松塚古墳 は、南の高取 山か ら北西方向に 派生す る丘陵の一つに築造 されている。同丘陵は、現在

の文武天皇 陵 (栗原琢穴・ジョウセン山

)か

ら北 に延 び、

「へ」字状 に屈 曲 して北西 に続 く。古墳 はこの屈 曲部の 南西 に位置 し、緩い丘陵稜線 によって背後 を包 まれた丘 陵斜面 に築造 されている (Fig 30)。 背後の丘陵の標高は

11lm前

後である。

古墳の基盤層

 

丘陵は、風化 した花 尚閃緑岩 (領家式花 商岩類

)を

基盤 とし、その上 に第

4紀

更新統期 の地層が 堆積 した後 に侵食 され、現状の地形 となった ものである

(皿章1節参照)。

4紀

更新統期 の地層 は、下位 よ り礫

g30 

高松塚古墳及びその周辺地形図 (『壁画古墳高松塚調査中間報告』1972年より)

‑32‑

(17)

層・砂層・シル ト層・砂層の層序で、お よそ水平 に堆積 してい る (以下、基盤層と略称)。 この基盤層 を開削 して、

古墳 築造 のための基盤面 の主 た る部分が形成 され てい る。 ただ し古墳 の東裾か ら南東裾 にかけては、基盤層 と 古墳盛土 の間に7世紀代 の遺物包含層や遺構 が存在 し、

この部分 に谷状の窪みが存在 したことがわかる。丘陵の 屈 曲部が侵食 され、浅い谷が形成 されたのであろ う。

外周の成形

 

古墳 の築造 にあたっては、背後の丘 陵の屈 曲地形 を利用 し、丘 陵斜 面 を掘削 して、古墳 の南東 ・ 北 ・北西側 を半 円形 にめ ぐる斜面地形 に成形 してい る。

この掘削成形 による古墳背後の斜面は、周溝のタト斜面 を 兼ねた ものである。多 くの部分が中世以後の開削 によっ て旧状 を失 なっているが、断割 トレンチ東端 においては、

周溝底面か ら約10° の傾斜で立 ち上が る斜面の遺存 を確

認 した (Fig 17)。 また北側調査区か ら墳丘側へ の拡張部

分 では、約38° で立 ち上が る周溝 の外斜 面 を確 認 した。

こうした古墳 の背面 をめ ぐる斜面の傾斜角の差 は、墳丘 裾 と丘 陵稜線 間の距離や比高差 に起 因す る ものであ る。

その距離が短 く、 また比高差の小 さい北東部分 は、斜面 長が短 くやや急角度であったのに対 し、丘陵稜線 と墳丘 裾が離れた南東側 は、緩 く長い斜面であった と復元 され る。 なお傾斜角によって外周斜面の上端の高 さと位置 を 推定 し、それ と丘陵稜線の高 さ・位置 を比較す る と、外 周斜面 よ リタト方では、本来の丘陵地形がその まま残 され ていた可能性が高い。

基盤面の造成

 

古墳築造のための基盤面 は、南北 に連 な る二つの造成面で構成 され る (Fig 31・ 65)。 北側 の造成 面が基盤層 を掘削成形 した ものであるのに対 して、南側 の造成面 は、基盤層や7世紀代の遺物包含層・遺構 を掘 削成形 した部分 と、その南 に続 く盛土部分か らなる。

切 土 に よる造成面 は、墳丘の北裾周辺 に広が り、中央 が平坦 で東西端が緩 く下 降 した三 日月形 に復元 で きる。

その最 も高い部分 は、土層観察用の北畦東側の周溝付近 にあた り、中世 に削平 を受 けなが らも標高109,40m前 の高 さを保 っている。

一方、盛土 による基盤面は、墳丘南端部 に広が る。昭 和49年 の墓道部の調査では、閉塞石の南

6mほ

どの地点 で、約20° の傾斜で下降す る丘陵旧地表面 と、その上 に 整地上 を3〜4層 積み上げた基盤面 (盛土最大厚

18m)を

確 認 している (Fig 7・ 31)。 その基盤面上面 (版築最下面)

の標 高 は107.20〜107.27m(以下新標高に換算後の数値)で、 先 にみ た北 裾 部分 の基 盤 面 との 間 に、

2m以

上 の比 高差 が 生 じて い る。

その中間にあたる石室下の基盤面は、以下の ように復 元で きる。石室床面高 は、 Ⅲ章4・ 5節に詳述 した よう に、南壁下で108.19m前後である。昭和49年 の墓道部の 調査 によ り、床石の厚 さは49 3cmと確認 されているので、

床石接地面の標高 は107.70m前後 となる。 さらに床石下 に も版築層が20cm以 上及ぶ ことが確認 されてお り、石室 下の基盤面 は、標高107.50mよ りも低位 にあ ると推定 さ れる。 この ように石室下の基盤面 と、先 にみた北裾部の 基盤面 (109.40m)と の間に も、

2m近

い比高差の存在 を 確 認で きる。両者 の直線距離 は

6m(石

室北端から測定)

ほ どであるが、旧北 トレンチの南端 を墳丘側 に延長 した 土層断面で も、基盤層がお よそ水平 に連続す ることが確 認 されているので、石室の北

45mま

での間に、

2m近

い 段差が存在す ることになる。

この段差 は、石室の構築 に際 して、人工的に設け られ た可能性 が高 い。 おそ ら く瘤状 の高 ま りを もつ丘 陵側

(石室背面

)の

基盤面 を、石室 を囲む ように掘 り込み、そ の基底部 を版築 によって水平 に整 えなが ら床石 を設置 し たのであろう。段差の壁面 は、石室構築時の版築の支持 基盤 として機能 した もの と推測 される。

一方、墳丘東西の墳裾近 くの基盤面 は、石室 に直交す る東西畦の約

15mの

間で、東側が約0.6mほ ど高 く、(西

側10760m、 東恨110820m)2° 強の傾斜がある。東裾部の 基盤面 は、石室 の床面や墓道面 とほぼ同 じ高 さにあ り、

西裾部の基盤面 は床石下面 よ りもやや低 い位 置 にある。

また東裾部の基盤面が谷状地形 に堆積 した遺物包含層 を 削平するのに紺 して、それ よ りも低位 にある西裾部に基 盤層が現れることか ら、旧地形 は南西方向へ緩 く下降 し ていたことがわかる。

墳丘北西斜面の開削部分 に現れた基盤層 は、開削部北 端 (基盤面の標高

10915m)か

弱 の傾斜 で西畦 (同

10760m)ま

で続 く。

墳丘の南端付近 は、先述 した ように丘陵の急斜面 に盛 土 をお こない基盤面 を南 に拡張 している。基盤面の端部

(版築層南端部

)は

閉塞石 の南9.15mの位置 にあ り、その 標高は106.98mで ある。盛土面 はそ こか ら地 山の傾斜 に 沿 って

2m近

く下降 し、旧水 田面 に至 る。

(18)

墳丘の築成 と版築

 

墳丘の築成は石室の構築 と一体的に なされ、石室 を被覆するように厚 さ約 3〜

5cmの

版築を 幾層にも積み重ね、裁頭円錐状に墳丘を築いている。

昭和47・ 49年の調査 によって復元 された墳丘の築成手 順は、以下のようである。

①基盤面の上 に版築 をおこない、床石 を設置 した後に 床石上面 (墓道面

)ま

で版築 を重ねる (第1次版築)。 版 築の途上には、石室石材 を運搬する道板 となる角材が埋 め込まれている。②次 に石室の狽‖石を立て、四壁を組み 立てた後 に側石上端 まで版築 をおこなう (第2次版築)。

③続いて天丼石 を設置 し、石室全体 を版築で封 じ込める

(第3次版築)。 ④石室前面 に墓道を掘削 し、扉石 を取 り 外 して石室内面に漆喰 を塗 り、壁画を描 く。⑤埋葬をお

こない、墓道部を版築によって埋め戻す。③その後、下 位の版築 に比べ ると厚 く軟質の盛土で墳丘を築 く(版築 状盛土)。 なお、石室石材の仕上げ加工 は、現場でお こ なわれ、石室の組み立ては版築盛土を足場 として逐次実 施 されたと推測 されている。

今回の調査では、墳丘の東半部における後世の開削面 で、版築層の平面的な広が りや施工方法を観察すること がで きた。特 に旧東第1・ 2ト レンチや断割 トレンチの 断面では、版築層の端部が確認され、その傾斜角や積み 方か ら、墳裾や周溝の築成方法の一端が明らかになった。

版築層はその傾斜角 と工程差から、下位、中位、上位の 3群 に大別で きる。 この うち下位の版築層は、15° 近い 傾斜 をもつ。その傾斜 を上方へ延長すると、石室の天丼

IX‑170.580 IX‑170,574

石上面近 くに至 ることか ら、昭和49年 調査時の第3次版 築 に対応 した版築であることがわかる。石室構 築時の第 1〜

3次

版築 は、 同心 円状 に範 囲を広 げ、石室 を被 覆す る第3次版築時 に墳裾 に及んだのであろ う。下位 の版築 の東端 は、石室心か ら約

104mに

位置す る。

中位 の版築層 は、版築層の範囲を周溝側 に拡大す ると ともに、上端面が水平近 くになるように、版築 の傾斜 を 徐 々に緩 め、

lmほ

どの厚 さで積 まれている。版築の端 部 は周溝 のほぼ底面 に位置 し、周溝 の掘削成形 によ り、

結果的に周溝の内壁面 を形成す る。版築の東端 は、石室 心か ら約11.7m付 近 に位置す る。

上位 の版築層は水平 に積 まれているが、断割 トレンチ で確認で きた厚 さは20cm前後 に過 ぎず、端部 の位置 も削 平 のため明 らかでない。中位の版築層か ら水平 な版築層 へ の移行面 (標高10930m付

)は

、石室 の側石上面付近 にあたる。墳丘 は、その後、墓道部の調査 で確 認 した版 築状盛 土 (厚く軟質の盛土

)に

よって築 かれ るが、今 回 はその断ち割 り調査 には至 らなかった。

以上の ように、石室構築 に伴 う第3次版築後 の墳丘の 築成 は、石室構築時の版築 とは逆 に、外縁部か ら石室 に 向か って順次版築 を積み重ね、同心 円の径 を縮小す るよ うに盛土 した様子が明 らかになった。 こうした墳 丘の築 成方法 は、周溝や墳丘下段部の設置計画 と密接 に関連 し てお り、昭和49年の墓道部の調査で確認 された墳丘南面 における築成方法 との相違が著 しいが、それ は周溝や墓 道、下段 部の有無 と密接 に関連す る もの と推測 される。

I X 170562 IX‑170556

I X 170568

/

931 

墳丘南北 断面 図

‑34‑

(19)

また墳丘南東部で版築の作業単位 を観察す ることがで きた (PL 8下段)⑤ 版築の作業単位 は、墳 丘裾 部 を放射 状 に区分す るように連 な り、下位の版築が北か ら南へ 向 かって時計 回 りに施工 されるのに対 して、 中位 の版築 は 南か ら北へ と逆時計 回 りに施工 されている。作業単位 間 の境界 はいずれ も湾 曲 した傾斜面 をな し、側面 を支 える 幕板 や土嚢 などの痕跡は認め られなか った。

墳丘 の形態 と規模

 

高松塚古墳 の形態 と規模 に関 して は、 これ まで必ず しも明確 ではなかった。昭和47年の調 査中間報告では、直径

20mの

円盤状の基壇 を有 した直径

16mな

い しは18m、 高 さ

5mの

円墳 と復元 されている。

これ は旧東 第1・ 2ト レンチの上層断面 と、墳 丘測量 図 を もとに した復元案 である。 また古墳脇 の説 明版 には、

直径24皿の円墳 と記 されている。 これは昭和49年 の墓道 部の調査成果 を受けての復元案 とみ られ るが、その根拠 は明 らかでない。今 回、墳丘の北か ら東南部 を弧状 にめ ぐる周溝 を検 出 したことによ り、高松塚古墳 が円墳 であ る可能性が高 まるとともに、その規模 や墳丘構造 を推定 す る手懸か りが得 られた。

周溝 は上部の削平が著 しく、底面近 くがかろ うじて残 る。周溝の内壁 は、先述 したように版築で築 いた墳裾部 分 を掘削成形 した もので、壁面 に明瞭 な版築層 をみるこ とがで きる。 これに姑 して周溝外壁 は、丘陵斜面の基盤 層 を掘削成形 した ものである。墳丘北 々東裾 の周溝底面 が最 も高 く(標1093m)、 そ こを起点 に墳丘 の東西 に雨 水 を拶:水した もの と考えられる。

Y‑17.817

周溝の内壁が描 き出す 円弧や、墳丘北東部の中世の開 削 による段差 を手懸か りに墳丘 を復元す ると、下段径約 23m、 上段径

18m弱

の二段築成の円墳 とみるのが、最 も 遺構 と整合す る。ただ しこの復元では、墳丘の中心点が 石室の中心 にな く、南壁 の中央 に位置す ることになる。

復元の根拠 とした下段 部の墳丘裾 は、断割 トレンチ南 壁の土層断面 に現れた中位版築の端部で、周溝 の内壁底 面 にあたる (Fig 17)。 また本調査 区の南東 トレンチ にお いて も、復元 ライ ンが版築層の南端部 と重 なるが、 この 部分 には周溝が存在 しない。おそ らく周溝 は、丘陵斜面 の等高線 に直交す るように墳 丘南東 。南西部で消失 し、

下段部の墳丘裾 は斜面長 を仲 ば しなが ら南面 に至 り、墳 丘下の斜面 を形成す るのであろう。昭和49年 の墓道部の 調査では、周溝や段築の形跡 は確認 されず、古墳 の南正 面 における墳丘の形状 に関 しては不明な点が多い。 この 点 に関 しては、墳丘南半部の調査 を待 って検討す る必要 があろう。

一方、上段 部の復元の根拠 は、下段部 を開削 した際 に 生 じた とみ られ る中世 時 の段 差 (Fig 26)を最大の手懸 か りとした。復元 した上段 部の墳丘裾 は、墓道部の東壁 断面に現れた版築の南端部 とほぼ重な り、現在の墳丘の 西側墳裾 とも重 なる。 また断割 トレンチ にみえる上位の 版築層 を、上段墳丘の主たる盛土 と考える と、墓道部東 壁 にみ られる水平盛土 の始 ま りの位置 とも合致す るよう である。 この ように断割 トレンチにみ られた水平版築ヘ の移行面 を、墳丘上段 部の始 ま りと推定す ると、墳丘下

Y‑17,805

g32 

墳丘 東西断面図

(20)

さミ さ ミ

ヾ ヽ

10

段 部 の高 さは

0.9mほ

どに復元 され る。マル コ山古墳 の 下段 部 の高 さが0.8m、 石 の カラ ト古墳 の下段 部 の高 さ が

1.2mで

あ るこ とを勘案す る と、当該期 の古墳 の下段 部 としては妥 当な高 さであろう。

墳 丘上段 部 の高 さは、昭和47年 の調査報告 に よる と

「石椰底面」 か ら5.39mと されている。今 回の調査では、

木竹 による攪乱層直下の墳頂部の標高が112.80mであ る ことを確認 した。 これによって古墳 の総高は、北側周溝 底面か ら3.6m、 東側周溝底面 な らびに石室床面か ら4.6 m、 南 の基盤面端 部か ら

5.8mで

あることが明 らか にな った。 また公 園整備 前 の旧水 田面か らの高 さは7.8mを 測 る。古墳 の北 と南 か らの眺望では、墳丘の高 さに2倍 近い差があるが、 これは南 を正面 として古墳 の偉容 を整 えた結果 と考 え られる。 なお調査区内には、キ トラ古墳 やマ ル コ山古墳 にみ られた暗渠排水施設 な どは存在 せ ず、 また石 の カラ ト古墳、マルコ山古墳 にみ られる墳 丘 外装の石材 も認 め られなかった。

Fじ

33 

高松塚古墳の墳丘規格 l:300

塙丘の設計規格

 

最後 に、復元 された墳 丘 を、当時の設 計規格 とい う観点か ら考察す る。高松塚 古墳 の造営の基 準尺 は、石室の内法寸法か ら1尺 0.295mと い う数値が得 られている。 これを大宝雑令で測地用 と定 め られた大尺 に換算す る と、0.354mと な り、藤原京 の条坊道路 の設 計 に使用 された基準尺 に一致す る (井上和人『古代都城制 条里制の実証的研究』学生社、2004年)。

そ こで この大尺 を使用 して墳丘の設計規格 を検討す る と、下段 の墳丘径が65大 尺 (2301m)、 上段 部 の墳丘径 が50大 尺

(177m)と

い う整数値 に復元 で きる (Fig.33)。

この大尺 による復元案 は、検 出遺構 と整合 し、 また5の 倍数値 を採用 した藤原京の条坊道路の設計理念 に通底す るな ど、最 も蓋然性の高い復元案 といえ よう。

しか しなが ら古墳全体 に及ぶ設計規格 の復元 には、 さ らなる調査デー タの蓄積が必要であ り、墳 丘 の中心点 と 石室心の不一致 について も、その因由の解 明が今後の重

‑36‑

要 な検 討 課 題 で あ る。 (豊岡卓 之 ・松 村 恵 司)

参照

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