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福 島 可奈子

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新発見の楳茂都夫妻の欧米視察旅行 写真にみる1930年代舞踊運動の日欧交流

福 島 可奈子

はじめに

今回あらたに楳茂都陸平・吉野雪子夫妻の欧米視察旅行のプライベート写真(ネガを含 む63枚)が発見された。本写真群は、映像文化史家で戦前の視聴覚メディア蒐集家の松本 夏樹が2004年に大阪で購入したものであるが、永らくその詳細は不明であった。しかしこ のたび筆者の調査によりその身元が判明し、日本とドイツの近代舞踊史上きわめて重要な 一次史料であることがわかったため、本稿でその報告をおこなう。また松本夏樹コレク ションには本稿に関連する内容の一次史料(ブロマイド等)が多数存在するため、補足資 料としてそれらの写真もあわせて提示する1

まず今回身元が判明したプライベート写真群には、ポストカードサイズのポージング した関節人形の写真2枚とベルリンとパリの写真店の現像引換券、ウィーンのコダック・

ラボによる撮影時の注意書きが付属していた。ベルリンの写真店KAGEEの引換券には、

1932年2月19日という日付とともに「Frau Washitani(鷲谷夫人)」と手書きで書かれてお り、そこからこの「鷲谷夫人」が上方舞楳茂都流三代目家元である楳茂都陸平(本名・鷲 谷陸平、1897-1985)の最初の夫人で、宝塚少女歌劇団第二期生で娘役主演スターの吉野 雪子(本名・鷲谷千鳥、1902-?)であることが今回判明した。吉野は第二期生中の最年少 で「石童丸でも鼎法師の宝珠丸でも、見物に涙を絞らせる可憐の少女、ヴアイオリン、声 楽、舞踊、ダンス何でも巧いとの定評があ」ったが、1919年に楳茂都陸平と結婚するため に16歳で退団した【写真1】2。楳茂都陸平は日本舞踊のひとつである上方舞二代目家元 楳茂都扇性(1865-1928)の長男である3。1917年から宝塚少女歌劇団(のちに宝塚音楽歌 劇学校)の舞踊教師兼振付・演出家としても活躍し、1921年には西洋のオーケストラ音楽 を用いて、日本舞踊と西洋舞踊、舞楽の動きの要素を取り入れた新しい形式の舞踊『春か ら秋へ』を上演し、上方の舞踊界に革新的な「新舞踊」運動を起こした人物として知られ ている4

楳茂都は1931年から1934年にかけて、文部省の委託で欧米視察旅行をおこなった。この 欧米旅行については楳茂都自身が執筆した『舞踊への招待』(1958年、全音楽譜出版社)

等で言及され、先行研究でも幾度かその視察内容について取り上げられてきたものの、同 行していた当時の妻の吉野雪子については管見の限りこれまで言及されていない5。例え ば渡欧中に宝塚少女歌劇団発行の雑誌『歌劇』に投稿された楳茂都の現地報告や関連記事

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においても、掲載された写真では楳茂都の横に吉野の姿が確認できるものの、キャプショ ン等で彼女についての言及はない6。しかしながら今回新発見の写真群は、ドイツ・オラ ンダ・イギリス・アメリカの旅行先での吉野と楳茂都の姿を収めたプライベート写真であ

り、「Frau Washitani」の引換券からみても吉野の旧蔵品だった可能性が高い。そのため本

稿では、元タカラジェンヌで上方舞家元の楳茂都陸平の妻として渡欧した吉野雪子の(そ して吉野を撮影する楳茂都の)プライベートな記録の視点から、日独の舞踊家・芸術家た ちとの知られざる交流や、ナチス政権誕生前後のドイツの姿とその日独の芸術界へ与えた 影響を明らかにする。

1.楳茂都陸平・吉野雪子夫妻の欧米視察旅行と新資料との関係

楳茂都陸平・吉野雪子夫妻は1931年2月に日本を発ち、約1年間のウィーン滞在と2年 弱のベルリン滞在を経て、パリ、ロンドン、アメリカ経由で1934年3月13日に帰国してい る。楳茂都が文部省の委託で外国遊学することができたのは「宝塚の小林一三氏のお世話 と、坪内逍遙博士の御奔走に加うるに当時の外務大臣小村欣一氏の御尽力」によるもので あり、当初は半年か一年の滞在予定であったが「向うへ行ってからいろいろ感ずることも あり、とうとう長びいてしまった」という7。楳茂都は1928年に父親で二代目扇性が死去 してから三代目を襲名していたため、当初は外国遊学の決心がつかなかったが、宝塚少女 歌劇団の創設者で阪急電鉄・阪急百貨店の経営者の小林一三の再三の後押しがあった。当 時「一度ははなやかに開花した新舞踊も、昭和にはいると再び行きづまりが感じられるよ う」になってきており、関西の新舞踊を牽引してきた宝塚少女歌劇団にとっては、楳茂都 が欧米から新たな舞踊改革の風を吹き込んでくれることに期待したのであろう8。また楳 茂都は当時の日本の状況について「世状も満州事変の前夜の何かしらいらだたしさを感ず るこんとんたる形勢で、日本の文化人も漠然とした不安を感じ始めていたころでした」と 述べており、欧米の「自由な芸術と文化の空気を呼吸する」ために夫人と共に渡欧を決断 したのである9

写真1:宝塚少女歌劇時代の吉野雪子(1919年、左から2人目)

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次に今回新発見の写真資料一式(以下、新資料)の内訳をみると、以下の通りである。

・紙焼き写真:61枚

・写真ネガフィルム:4枚

・写真現像引換券等:3枚

紙焼き写真のフォーマットは6種類ある。インデックス用の密着ポジ(25×37㎜)が42 枚、密着ポジ2フレーム版(34×78㎜)が6枚、61×87㎜サイズが8枚、57×80㎜サイズ が3枚、93×136㎜が1枚、119×163㎜が1枚である。前者4種の写真(計59枚)は、お もに楳茂都夫妻のプライベート写真(旅行写真、集合写真など)である。後者2つのポス トカード大に引き伸ばされた写真(計2枚)には振付が施された関節人形が映っている。

そのうちプライベート写真一式(紙焼き59枚)は、人物とともに写り込む風景や写真裏面 の走り書き、写真用紙の材質・サイズなど複合的な観点から精査したところ、1932年2月 にベルリンに滞在後、ドイツ、オランダ、イギリス、アメリカで撮影されたものであるこ とが判明した。ただし新資料には日本出航時のネガやウィーンのラボ名義のカメラ撮影時 の注意書き1枚も含まれているため、本稿では楳茂都夫妻の足跡を年代を追ってみていく こととする。

2.神戸港からウィーンへ

1931年2月26日、楳茂都陸平・吉野雪子夫妻は神戸港から箱根丸で出航した。1931年4 月発行の『歌劇』(宝塚少女歌劇団機関誌)には、出航前の箱根丸の船上で見送りの宝塚 音楽歌劇学校の女生徒らに囲まれて微笑む楳茂都夫婦の写真が一枚掲載されている10。今 回見つかったネガフィルム(83×98㎜)では、無数の紙テープを手にした見送りの群衆が 映っており、出航直前の楳茂都夫妻の目線であることがわかる。被写体の中央右には、日 本髪で和装の婦人たちが写っており、楳茂都が指導していた大阪新町の芸妓たちかもしれ ない【写真2】11

写真2:神戸港から出港する箱根丸より撮影した見送りの人々

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上海、シンガポール、ペナン、コロンボ、アデン、スエズを経由して約5週間に及ぶ船 旅を経て夫妻はフランス・マルセーユから下船し、ニース、モナコ、ミラノ、ヴェニス経 由でオーストリア・ウィーンに到着している。到着して間もない4月28日に楳茂都は、駐 墺公使の有田八郎(1884-1965)の依頼を受け、オーストリア大統領や閣僚その他の政府 高官、駐墺の各国大使の前で早速日本舞踊を披露している。それはウィーンのインペリア ル・ホテルで開催された日本の天皇誕生日を祝う天長節前夜祭であったが、その席で楳茂 都はウインナ・シンフォニー楽団のオーケストラの伴奏で『三番叟』を踊り、『越後獅子』

を自身が持参したSPレコード伴奏で披露している。当時のSPレコードは重くて割れやす かったため、ヨーロッパ中を持ち歩くのに大変苦労したという12。SPレコードでは一曲が A面・B面(各約3分)に続けて収録されているため、レコードを裏返す時間ロスが必ず 生じてしまう。そのため楳茂都は同じレコードを2枚ずつ用意していたのである。

10月31日にはウィーン・コンツェルトハウス(Wiener Konzerthaus)大ホールにて、

ボーデン・ヴィーゼル舞踊学校の生徒たちを振付けた『ソナータ・アッパッショナータ

(熱情ソナタ)』と『カッポレ』を披露している。『ソナータ・アッパッショナータ(熱情 ソナタ)』は楳茂都による創作舞踊で、ウィーンで「神様」の如き存在であるベートー ヴェンの音楽を日本人が振付けることに当初反発が出たが、最終的に「桜花の下のアッ パッショナータ」や「日本はウヰーンで踊る」などウィーンの新聞で評されるほどの好評 を博したという13。新資料のなかにはウィーンでの写真は一切見当たらないが、ウィーン のケルントナー通りのコダック・ラボによるカメラ撮影時の注意一覧がある。また、振付 けられた関節人形の写真が2枚ある(93×136㎜、119×163㎜)【写真3】。この関節人形 がどの振付に使用されたものかは特定できないものの、楳茂都が欧州滞在中にウィーン以 外の地で第三者に振付け指導したという記録は管見の限りないので、この人形を使用して ボーデン・ヴィーゼル舞踊学校の生徒たちのために創作舞踊の振付を練っていた可能性は あるだろう。

またウィーンで楳茂都は、ハラルド・クロイツベルク(Harald Kreutzberg、1902-1968)

とイヴォンヌ・ゲオルギー(Yvonne Georgi、1903-1975)の舞踊を鑑賞し、「終了後親しく 両舞踊家に逢つてその芸術を讃へ、日独舞踊親善の意味から日本舞踊の扇子を贈呈し、伯

写真3:舞踊振付け用の関節人形

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林での再会を約して別れた」という14【写真4】。その後、クロイツベルクとはアメリカ での再会、日本公演で来日した際も会ったことが『舞踊への招待』で語られている15。し かしゲオルギーとの再会に関する言及はなく、1933年にベルリンでクロイツベルクの師匠 であるマックス・テルピス(Max Terpis、1889-1958)に会った際、テルピスから「ゲオル ギーは今アムステルダムで三、四人の同僚とグルッペを作っているはずです」という話を 聞いた旨の記述があるのみである16。しかし実際に楳茂都はゲオルギーとも再会していた ことが新資料から分かるのであるが、それについては後述する。

3.ベルリンでの舞踊研究生活

1932年2月から楳茂都夫妻は拠点をベルリンに移した。新資料には裏面に「1932 昭和 七年二月新宅にて写 ベルリン」と鉛筆書きされた写

真があり、ベルリンの新居アパルトマンのエントラン スでポーズを取る吉野雪子の姿が確認できる【写真5】。

また楳茂都はベルリンへ来た理由として次のように述 べている。

伯林へ来てから第一の仕事は、ヴァリエテの研究と各 舞踊学校の視察です。流石は大伯林だけあつて、斯 うした種類の方面を研究するのに充分過ぎる程の機 会と材料とがあります(。)欧州大戦其後に来る独逸 舞踊一般の風潮は矢張り女性男性共その健康美を礼 讃する国民思想に立脚した力の舞踊に傾きつつある 事は事実で、今日、大小二百五十に余る舞踊体育の 学校を区別すると大体に於て、ルドフ、フォンラバー ン派とリトゥムスを主として絶対的に各ベヴェーグ ンク(動き)を解釈しやうとする例のダルクローズ

写真4:ハラルド・クロイツベルクとイヴォンヌ・ゲオルギー

写真5:裏 面 に「1932  昭 和 七年二月新宅にて写 ベルリン」

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派、及び、スウェーデン体操からヒントを得て、之にダルクローズメトーデを結びつけ やうとするボーデ派及び、嘗てはラバーンの門弟で目下、一方の旗頭として、依然人気 を背負つてゐるマリィ・ウィグマン派、とからなるでせうが、それが又大小様々のイン ステイテウトに分れて、共に春秋二回のセーゾンに鎬を削つて夫々自派のデモストラー チオンをやつてゐる処正に群雄割拠の状態であり、将たまた舞踊界華やかな時代であり ます17

そのなかでも一番の理由は、ベルリン国立劇場舞踊主任のルドルフ・フォン・ラバン

(Rudolf von Laban、1879-1958)に舞踊譜をはじめとした舞踊学理論を学ぶためであった。

楳茂都はウーファ映画の『美と力への道』(ヴィルヘルム・プラーゲル、1926年)を見て、

「ラバーンもグルッペと共に演じている舞踊「生ける偶像」の最終場面の動きを見て以来、

ほとんど彼の仕事の全般を推察することができて、より以上彼の芸術ことにその作舞術に 敬服し」たのである18。それは上方舞楳茂都流が独特の舞踊譜を持っていたことにも起因 している。先代から続く楳茂都流の舞踊譜は「術語で記された動きや形の記録」であり、

「何の基礎知識もない門外漢にとっては難解で不思議な記録にすぎ」ないことから、楳茂 都は楳茂都流の舞踊譜がまだ完全な譜と呼べるものに達していないと考えていた19。楳茂 都によれば、舞踊もまた西洋音楽における五線楽譜のように、誰にでもわかる一定の記号 で記録することが重要であり、その舞踊の記譜法の完成形が一種の「空間征服の基礎理 論」から出発したラバンの「舞踊譜」なのである20。楳茂都の帰国後の1936年にドイツ留 学した舞踊家の邦正美(1908-2007)によればラバンの一番の功績は、舞踊が空間芸術で あることを発見したことにあるという21。それまでの舞踊は時間的芸術であるとされてお り、舞踊は音楽の形式に依存する芸術であるとみなされていた22

2月18日に初対面したラバンと楳茂都は、互いの舞踊譜を見せ合って「東西舞踊譜の太 刀合せの一場面」を演じ、互いの東西舞踊の方向性の一致点を見出したという23。その結 果楳茂都はラバンが「舞踊譜を自ら懇切に教えて呉れる」機会を得た24

また3月頃にはベルリンのヴィクマン・シューレも訪問している25。ラバンの弟子でノ イエ・タンツの代表的舞踊家としても名高いマリー・ヴィクマン(Mary Wigman、1886-

写真6:ヴィクマン・シューレの群舞

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1973)の舞踊学校である【写真6】。本校はドレスデンにあり、この訪問の際に楳茂都は ヴィクマンとは会っていないようである。同じ頃、ドレスデン校では日本から舞踊家の江 口隆哉(1900-1977)、宮操子(1907-2009)夫妻が留学中であった26

楳茂都がベルリンに滞在していた当時のドイツの政治は激変の時期であり、ベルリンも その只中にあった。楳茂都は1932年5月発行の『歌劇』に、次のような記事を寄せてい る。

目下大統領の選挙で、町角々々の丸い広告燈はヒンデンブルグ、ヒットラー、ドゥス タァベルグ等の大きな宣伝ポスタアで埋められて、他の催し物一切のポスタァが為に 影を潜めてゐる中独り、ヴァリエテ、スカーラ、及びウィンタアガルテンと映画では、

ウーファ・パラストの広告のみが、堂々これ等大統領候補の大ポスタァと列を伍して各 地下鉄道、高架鉄道の駅に貼り出されてゐる。これだけでもこれ等大衆演芸物の人気が 如何に一般の民衆に喰ひ入つてゐるかが解るだらうと思ひます27

これはちょうど3月のドイツ大統領選挙時に執筆したものであろう。翌4月の決選投票に は無所属で保守派のパウル・フォン・ヒンデンブルク、国家社会主義ドイツ労働者党(ナ チス)のアドルフ・ヒトラー、ドイツ共産党のエルンスト・テールマンの3名で争われ、

最終的にヒンデンブルクが大統領に選出された。それでも7月と11月の国会選挙ではナチ スが第一党へ大躍進してヒンデンブルク指名のフランツ・フォン・パーペン首相を失脚さ せ、翌年1月にはヒトラーが首相に就くのである。新資料の1枚には、1932年5月15日の ペンテコステ(聖霊降臨祭)に行われたドイツ共産党の軍事組織である赤色戦線戦士同盟

(Roter Frontkämpferbund、RFB)のベルリン行進の様子が記録されている【写真7】。お そらく楳茂都夫妻のどちらかが新宅のアパルトマンの窓から撮影したものであろうが、翌 年2月には「ドイツ国民と国家を保護するための大統領令」が発布され、テールマンを含 む4000人の共産党員が逮捕され活動中止に追い込まれているため、最後のベルリン行進の 記録である。赤色戦線戦士同盟は1929年の血のメーデー事件以降、法令によって武装解除 となっていたが、1925年より始まったペンテコステのベルリン行進だけは「赤色動員」と

写真7:1932年5月15日の赤色戦線戦士同盟のベルリン行進

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して続行されていたのである。また新資料には、1933年2月のナチスの陰謀ともいわれる 国会議事堂放火事件や1945年のベルリン攻防戦で破壊される前の、華麗で荘厳な国会議事 堂の前で吉野が記念撮影した写真もある【写真8】。

4.バウハウスとの知られざる関係とクルト・ヨース夫妻との対面

新資料のこの写真には遊覧ボートに乗る日本人たちの姿が映し出されている【写真9】。

後ろから二列目の右側に腰掛けるのが吉野雪子であるが、その左側に座る女性は、茶道家 の山脇道子(1910-2000)である。また吉野の後ろには山脇の夫で建築家・写真家の山脇 巌(1898-1987)の姿がみえる。山脇夫妻は、1930年から1932年6月までデッサウのバウ ハウスで建築やフォトモンタージュを学び同年に帰国した。また最後尾の左側には、笹川 和子(1910-2001)がいる。笹川は山室光子(1911-1999)とともに自由学園からの留学生 としてチェコスロバキア経由で1932年3月19日にドイツ入りし、山脇夫妻の勧めで6月ま でベルリンのイッテン・シューレとライマン・シューレでテキスタイルを学んでいた28。 1933年には画家の竹久夢二(1884-1934)がイッテンのもとで日本画を紹介している。バ ウハウスとイッテン・シューレの色彩学授業にはイッテン考案の体操と呼吸法と瞑想が行 われていた。『ヨハネス・イッテン―造形芸術の道』に収録されたライマン・シューレの

写真8:国会議事堂前の吉野雪子

写真9:ボートに乗る吉野雪子、山脇巌・道子、笹川和子

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課題として笹川が描いた「三番叟」(1932年)は、三番叟の衣裳を身にまとって扇子をか ざす男性の姿が色彩のコントラストで表現されており、三番叟を踊る楳茂都を彷彿とさせ る29。彼らの芸術表現における交流についてはさらに詳しい調査が必要であるが、研究対 象が舞踊と絵画という違いはあれど在独日本人留学生として現地交流があったことが本写 真から確認できるのである。

また楳茂都は1932年7月3日にラバンの誘いでフランス・パリのシャンゼリゼ劇 場(Théâtre des Champs-Elysées) で 開 催 さ れ た 第1回 国 際 舞 踊 コ ン ク ー ル(Archive

international de la dance)に招待されており、その時の会場の様子を次のように記してい

る。

定刻の午後八時シャンゼリゼー大劇場の大広間は数千の盛装した観衆で埋つてゐた。去 年の如くに今年も黒色の流行で総てに落付いたシックさはあるが、なんだか陰気だ。然 し会合になると彼女等が正体を表した様に赤に水色に青に白にと色とりどりのドレース を着飾るから実に美しい。(中略)高い舞台アーチの天井に近い両隅にはパイプオルガ ンの銀管が顔を出してゐる。赤黒いビロードで飾られた楕円形の観覧席の、舞台に真正 面、丁度私の背の処が審査員達の特別席になつてゐる。入場料を払えば私の席が一人百 フランだから円相場に直して驚く勿れ金拾六円に当る、次が八十フランに六十フランと いう階級だから普通の者には一寸二の足を踏ましめる催しである30

この舞踊コンクールでは、古典的なバレエをはじめ、構成派式、黙劇式、ギムナスティッ ク式など様々なジャンルが出揃っていた。その中にはバウハウスのオスカー・シュレ ンマー(Oskar Schlemmer、1888-1943)構想の『トリアディッシェス・バレエ(Ballet

triadique)』もあったが、楳茂都の目から見ると「絵画の悪い影響を受けた悪尖端趣味で

感心しなかつた」ようである31。そしてその後バウハウスの芸術一切は、1933年に誕生し たナチス政権下で弾圧を受けて解散を余儀なくされ、「退廃芸術(Entartete Kunst)」の烙 印を押されることとなる32

このコンクールで第一位を獲得したのが、ラバンの弟子のクルト・ヨース(Kurt Jooss、 1901-1979)一派の舞踊劇『緑のテーブル(La Table verte)』であった。この作品は、反戦 をテーマに、戦争を死の舞踊として描き、不毛な会議からはじまり会議で終わる形式で表 現されている。楳茂都はのちにこの作品を「不安をはらむヨーロッパの大衆の心を反映し た切実な表現であ」ったと評している33。「この時はまだ私もベルリン市民も、後になっ て自分たち自身がひどい目に会うことなどは、予測する事もできませんでした。そしてベ ルリンの空気は依然としてはなやかにのどかなものであ」ったという34。だが翌年ナチス が政権をとると、他政党への弾圧とともに反ユダヤ政策がはじまり、芸術家や文化人たち もその影響を蒙るようになる。公務員再建法(4月)、文化省設置法(9月)、著作権法

(10月)などの政策によるユダヤ人の強制解雇問題は、被雇用者のユダヤ人側だけでなく、

雇用者のドイツ人側にも大きな影を落とすこととなる。ラバンやヨースなど有名な舞踊団

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もユダヤ人を解雇するように要請が来たが、ラバンはそれに応じたもののヨースは拒否し た。そのため彼は逮捕を免れるために、9月中旬にグループを率いてオランダ経由でロン ドンへ亡命したのである35

新資料には、裏面に「1933 フランクフート ヨースシューレ」と鉛筆書きされた写真 がある【写真10】。吉野雪子の左側にはクルト・ヨースがリラックスしたポーズで、その 右にはヨースの妻でダンサーのアイノ・ジーモラ(Aino Siimola)が微笑みながら立って おり、カメラを撮影したのはおそらく楳茂都自身だろう。楳茂都は『歌劇』や『舞踊への 招待』で、直後の亡命の件もあってかクルト・ヨース夫妻との直接交流について全く語っ ていないが、実際にはドイツ脱出直前にフランクフルトのヨース・シューレにおいて面会 していたのである。

5.オランダ公演旅行とイヴォンヌ・ゲオルギーとの再会 楳茂都はベルリン滞在中、デンマーク・コペンハー ゲン、オランダ・アムステルダム、ハーグでも日本舞 踊の講演並びに実演をおこなったと1933年7月の『歌 劇』で報告している36。また『舞踊への招待』の158頁 には、アムステルダムの東洋博物館館長室の掛軸と桃 の花をいけた青磁の花瓶の前で腰掛ける楳茂都の写真 が掲載されているが(撮影日時の記載なし)、新資料に は同アングルで映る吉野の写真が残されていた【写真 11】。アムステルダムの東洋博物館では楳茂都の「越後 獅子」をトーキー映画で記録した。この記録映画はベ ルリンのアパルトマンに郵送されたものの、楳茂都は 関税50マルク(当時の日本円で25円)を惜しんで受け 取らず、後に後悔したと語っている37。しかしこの公演 旅行の帰路にハノーヴァーの宿で偶然ヒンリッヒ・メ

写真10:裏面に「1933 フランクフート ヨースシューレ」

写真11:東洋博物館館長室の 吉野雪子

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ダ ウ(Hinrich Medau、1890-1974) に 再 会 し、 ベ ル リ ンへ戻ってすぐにメダウ・シューレでリトミック体操 について学ぶこととなる38。ヒンリッヒ・メダウは、動 きのリズムと音楽のリズムを対応させて体感的に学習 する教育法であるリトミック(rythmique、律動)で有 名なエミール・ジャック=ダルクローズ(Emile Jaques- Dalcroze、1865-1950)の教え子ルドルフ・ボーデ(Rudolf Bode、1881-1970)の弟子である39。ボーデはリトミッ クと体操(ギムナスティク)を結びつけ、リトミック 体操(律動体操)を創案した。邦正美によれば、「ボー デの主眼とするところは音楽にあるのではなく、先づ 体育にあった。(中略)元来ギムナスティクの目的と するところは健全な身体をつくり上げることにあるが、

ボーデは更に進んで健全な精神・感情・思想教育まで もその目的の中に加へてゐる。人間生活に於ける肉体 文化の理想的なものを求めてゐる。(中略)更に律動体 操は精神や感情を健全に美しくするものであるから舞 踊と同じものだ」と考えたのだという40。そしてメダウ

はボーデの理論をさらに発展させ、例えば小さなボールを用いた女性のための体育を考案 した。その後女性の体育の推進は、ナチスが掲げるアーリア民族の母となるべき健康な肉 体を育むための教育、つまり当時の言葉を引用すれば「女性の強化は決して一個人の健康 といふやうな問題ではなくして、実に民族死活上の大問題であるから、ぜひとも国家が規 約を設けてすべての女性に一定期間、強制的に体育訓練を施さねばならぬ」といったナチ ス理論に大いに利用されることとなる【写真12】41

また新資料には、楳茂都とイヴォンヌ・ゲオルギーが共に写っている写真がある【写真 13】。明確な日付と場所、ゲオルギーと楳茂都の間に立つ小柄の男性が誰なのかは判明し ていない。しかし男性はそのしなやかな体つきからみて、ゲオルギーの新しいダンスパー 写真12:「ヒットラア・ユーゲ ント第五回競技大会 の際参加した「信仰 と美」ドイツ婦人団」

(中村秋一書より)

写真13:楳茂都陸平とイヴォンヌ・ゲオルギー

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トナーかもしれない。ゲオルギーは、邦正美によれば

「夫君がユダヤ系なる故を以て最近ドイツを去り和蘭の アムステルダムへ行ってしまった」とある42。新資料の なかには裏面に「昭和八年二月 オランダ」と鉛筆で 書かれている写真が複数含まれることから、同様にオ ランダ旅行中に撮影されたものとも考えられる。いず れにせよ、新資料の紙焼きプライベート写真はすべて 1932年2月のベルリン滞在以降のものであることから みて、1931年にウィーンで初対面した以後に、楳茂都 とゲオルギーが再会を果していたとみて間違いなかろ う。

ドイツが国際連盟とジュネーヴ軍縮会議から脱退し て欧州情勢がきな臭くなってきた1933年11月に、楳茂 都夫妻はフランス・パリ経由でイギリス・ロンドンへ 渡った。ロンドンではすぐにクラシック・バレエの専 門家で批評家のシリル・ボーモント(Cyril Baumont、 1891-1976)と面会している。『舞踊への招待』の168頁 には、彼の直筆メッセージ入り写真が掲載されている が、新資料では本屋の前で一緒に写っている【写真14】。

ボーモントは大英帝国舞踊教授協会(Imperial Society of

Theachers of Dancing)の副会長でもあったが、彼の尽

力で当協会主催、日本大使館後援の日本舞踊紹介の会

(1933年12月10日、ポルトマン・ルーム)を催す機会を 得た楳茂都は、大英帝国舞踊教授協会の名誉会員証を 授与されることとなった。ロンドンでも舞踊鑑賞に明 け暮れ、翌1934年1月にロンドンからドイツ船ブレー メン号でアメリカ・ニューヨークに渡った【写真15】。

そしてアメリカではニューヨーク、サンフランシスコ 等で舞踊やレヴューを鑑賞し、クロイツベルクにも再 会を果して、1934年3月13日に帰国するのである。

6.楳茂都夫妻帰国後の日本とドイツの舞踊

帰国後すぐに楳茂都は宝塚少女歌劇団のために「ジャ ブジャブコント」という日本物のレヴューを作ってい る(1934年8月、雪組公演)。小林一三から「まア、そ んなにあわてなくてもいいから、ゆっくり一度温泉へ

写真14:楳茂都陸平とシリル・

ボーモント

写真15:ブレーメン号船上の 吉野雪子

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でも行って休養してからやるんだね」と言われたのを機に、山間の温泉地で休養しながら 思いついた内容であった43。かつて宝塚少女歌劇団も温泉地から花開いたように、日本の 温泉地を舞台にした全場三十四景にも及ぶレヴューには、これまでのオーケストラにジャ ズバンドを加え、従来数個だったステージのマイクロフォンを16個に増やし、舞台装置に ネオンサイン、ドライアイスを使う派手な演出で、「映画を併用」した連鎖劇の試みでも あった。楳茂都は自らの仕事について次のように述べている。

劇場の外では世界の歴史が大きく動いていましたが、劇場の内では私自身が私の歴史を 創造しているつもりでした。私の芸術が外の政治と関係があろうなどとは考えもしない で、ひたすら芸術を追い求めることが芸術家の正しい純粋な姿であると信じていまし た44

しかし日独ともに舞踊家たちも国家イデオロギー推進運動に巻き込まれていくことに なる。1936年のベルリン・オリンピックのオープニングでは、ラバン、ヴィクマン、メ ダウ等ドイツを代表する舞踊家たちが要請を受けた。ヴィクマンは第一次世界大戦の死 者のレクイエム『死者の嘆き(Totenklage)』を80人のダンサーとともに踊り、メダウはオ リンピックの輪のシンボルを用いた体操を披露した。ラバンもまた約1000人のダンサー から成る群衆のコレオグラフィー『春の風と新たな歓びから(Vom Tauwind und der Neuen

Freude)』を作り、会場でリハーサルをおこなったものの、ヒトラーとゲッベルスから「あ

まりに知的」かつ「我々と同じ衣服を着ているが、内実は何ら関係のないもの」とみなさ れ、中止に追い込まれた45。ラバンが忌避された理由のひとつは、彼(そしてヴィクマン)

がアスコナ時代からフリーメイソン的結社に属していたことが挙げられよう。さらに翌年 にはラバンがユダヤ人スタッフを解雇しなかったとして抑留されたのを機に、弟子のクル ト・ヨースのいるロンドンへ亡命したのである。ヴィクマンの弟子であったレニ・リー フェンシュタールは、その後女優・映画監督となり、ヒトラーに認められて1934年ニュ ルンベルクのナチス党大会記録映画『意志の勝利』、1936年ベルリン・オリンピック映画

『民族の祭典』『美の祭典』を監督してナチス政権下に不動の地位を確立した。ヴィクマン は一時期ゲッベルス宣伝省配下のベルリン国立舞踊学校で教鞭をとったものの、1942年に はドレスデンの舞踊学校が閉鎖に追い込まれ、自身の公演活動も「自由主義的」という理 由で禁止に追い込まれた46。クロイツベルクは、錬金術師パラケルススの没後400周年記 念の国策映画『パラケルスス』(G・W・パプスト、1943年)に出演したり、自身の公演 活動も続けたが、1944年には戦線に駆り出されることになった47

そして日本の宝塚少女歌劇団においても、日独伊防共協定締結後の1938年、訪独伊芸術 使節団の名の下に渡欧し、帰朝後にイタリア・ファシスト運動やヒトラー・ユーゲント等 の題材も含む軍事色の強い国策的歌劇を次々と上演することになる。1941年には、ベルリ ン・オリンピックを日本風にアレンジした厚生日本『美と力の讃歌』(1月、月組)、日独 伊枢軸三部作として『イタリヤの微笑』(8月、月組)や『新しき旗』(11月、花組)を公

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演した【写真16】48。また同年3月には、楳茂都が制作・振付をした『総力』(雪組)を発 表した。これは山田耕筰の弟子で楳茂都と同時期にドイツ留学をしていた宮原禎次(1899- 1976)が作曲した大作であった。100名のダンサーを使い、一大障害にぶつかった全員が、

今度は一致団結して大障害を打破するという内容で、ラバン作品と同様「大東亜の団結」

という一見「同じ衣服を着ているが内実は何ら関係ない」芸術表現だったかも知れない。

おわりに

以上みてきたように、吉野雪子旧蔵と思われる新資料の写真を通じて、これまで知られ ていなかったクルト・ヨース夫妻との直接交流やイヴォンヌ・ゲオルギーとの再会、同時 期にバウハウスやイッテン・シューレに留学した山脇巌・道子夫妻、笹川和子とも現地交 流があったことがはじめて明らかになった。楳茂都は、第一次世界大戦後には「自由な 人」や「自由を求める人」が集まると云われていたベルリンを拠点に、今回取り上げたラ バンやテルピス、メダウを含む一流の舞踊・体操の振付師たちと純粋に芸術表現の追究に 没頭できた最後の世代だといえる49

また楳茂都の写真と外遊記から分かるように、日本と欧州の舞踊の範疇に留まらない芸 術全般の密な交流があったことは、日本の芸術全般の歴史においても大変重要であろう。

なぜならその背景には1910年代にドイツ留学した山田耕筰や、20年代に渡独した石井漠、

30年代の竹久夢二をはじめ、日露戦争後に西洋文化移入にある種の自信と落ち着きをみせ た日本において、大正期とともにデモクラシーを基盤とする大正の自由教育(自由学園、

成城学園、トモエ学園、後には文化学院、玉川学園など)が、上層階級に限られていたと はいえ活発化していく思潮の存在があるからである。

そして日欧の舞踊や体操という時間芸術を表現し、記録し、普遍化するために当時重要 な役割を果たしていたのがメディア、写真・映画・音響等の記録装置であったことは間違 いないだろう。日本で観た映画を通じてラバンの舞踊を把握した楳茂都が渡欧し、現地で 写真16:イタリアのファシスト党やバリッラ少年団、ドイツのヒトラー・ユーゲントに 扮したタカラジェンヌ(左から『イタリヤの微笑』の佐保美代子と室町良子、

『新しき旗』の楠かほる)

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の自身の日本舞踊はレコードで披露し、その様子を映画や写真に記録する50。しかしその 一方で、すべてが機械化されていくことへの反動から、芸術表現そのものは、新たな身体 表現や手による記録(ラバンの舞踊譜やイッテンの「手仕事に帰れ」という考え方)を模 索し、ナチス台頭までの短い時期ではあったが、舞踊・歌劇・音楽・絵画といった垣根を 越えた自由な芸術表現を次々と生み出したのであろう。

[付記]本稿掲載の写真は、文献からのものを含め全て松本夏樹コレクションによるもの です。本稿執筆にあたり、松本夏樹先生に参考文献の提供や助言をいただきまし た。この場を借りてお礼申し上げます。

1 本稿で提示した写真のうち、吉野雪子旧蔵と考えられる写真群によるものは、2、

3、5、7、8、9、10、11、13、14、15番である。

2 藤波楽斎『歌劇と歌劇俳優』文星社、1919年、109頁。

3 初代扇性(1786-1841)は能楽・歌舞伎・舞踊を総合して「てには狂言」を起こした 人物である。そして二代目扇性は初代の残した独特の舞踊譜を完成させるとともに新し い形式の舞踊も積極的に創作した。

4 楳茂都陸平作品の新舞踊としての形式と特色の分析は、桑原和美「楳茂都陸平と藤 岡宏の二つの『流線美』をめぐる考察」(『就実論叢』第43号、就実大学・就実短期大 学、2013年、75〜90頁)に詳しい。また大正期に坪内逍遙や小山内薫らが起こした新舞 踊運動に先鞭をつけた日本舞踊家としては、藤間静枝(のちの藤蔭静樹)がよく知られ ている。藤間静枝の新舞踊運動については、佐藤多紀三「新舞踊の思想」(『舞踊學』第 18号、舞踊学会、1995年、11〜12頁)を参照。また藤間による勉強会「藤蔭会」のメン バーでもあった童謡作曲家の本居長世は、自身が作曲した「でんでん虫」(野口雨情作 詞)の振付けを娘の貴美子に踊らせている。この映像は9ミリ半小型映画として伴野商 店から売り出されており(パテーベビー映画目録「日本物映画」部門No, 26)、その舞 踊の映像が松本夏樹コレクションで確認できる。

5 桑原和美「楳茂都陸平の欧米視察旅行:ヨーロッパにおける日本舞踊の紹介につい て」、『舞踊學』第18号、舞踊学会、1995年)、「楳茂都陸平が観た1930年代ヨーロッパの 舞踊」(『舞踊學』第24号、舞踊学会、2001年)、「楳茂都陸平の欧米視察(2)ヨーロッ パで観た舞踊について」(『研究年報』第18号、就実女子大学教養課程、2001年)などが ある。

6 吉野と楳茂都の関係について1929年の『サンデー毎日』(8月11日号)では、「温厚に して美貌の楳茂都氏には、周囲に常に一人二人の熱愛を傾倒する女性があ」ることが原 因し、吉野が強度のヒステリーに陥って別居状態であると報じており、もしかすると退 団後の吉野と宝塚少女歌劇団の関係も良好ではなかったのかもしれない。

7 楳茂都陸平『舞踊への招待』、全音楽譜出版社、1958年、120頁。

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8 同書119頁。

9 同上。

10 楳茂都陸平「危ッかしい足元で踊を 欧米舞踊行脚第一信」、『歌劇』、宝塚少女歌劇 団、1931年4月、28〜29頁。

11 別の角度から撮影された写真が『舞踊への招待』の122頁に掲載されている。

12 楳茂都前掲書、126頁。

13 楳茂都陸平「維也納の日本舞踊會」、『歌劇』、1932年1月、28〜29頁。

14 楳茂都陸平「維也納の舞踊」、『歌劇』、1932年3月、12〜13頁。

15 楳茂都前掲書、142、182〜185頁。

16 同書165頁。

17 楳茂都陸平「伯林のヴァリエテ・ビューネ」、『歌劇』、1932年5月、10〜13頁。

18 楳茂都前掲書、144頁。

19 同書111〜112頁。

20 同書88頁。

21 邦正美『舞踊の文化史』、岩波新書、1968年、159〜160頁。

22 ラバンは最初この舞踊譜を「kinetographie」と名付けた。「kineto-(運動)」の「graphie

(記述法)」である。これはエジソン社のキネトスコープ用カメラ「kinetograph」(「kineto-

(運動)」の「graph(記録する装置)」と対比するとその差異がより鮮明になる。前者は 空間芸術を手で記述するものであり、後者は映像という時間芸術を機械で記録するので ある。

23 楳茂都陸平「ラバーンの舞踊譜」、『歌劇』、1932年8月、10〜15頁。

24 同上。

25 楳茂都陸平「ウヰッグマン舞踊学校訪問記」、『歌劇』、1932年4月、8〜11頁。

26 江口隆哉・宮操子の舞踊を小型映画作家の服部茂が撮影し、ANPCA関東支部主催

のパテーベビー第5回コンテストで入選した作品『舞踊』(1929年)が松本夏樹コレク ションにある。これは渡独する前のダンスであるが、すでにヴィクマンの影響を感じさ せる。

27 楳茂都陸平「伯林のヴァリエテ・ビューネ」、前掲。ベルリン市内では1940年以降空 襲が始まってからもオペラや音楽の演奏会、舞踊公演も数多く行われ、市民は空襲の 危険をおかしても芸術鑑賞に駆けつけたという(邦正美『ベルリン戦争』、朝日選書、

1993年、119頁)。

28 『ヨハネス・イッテン――造形芸術への道』、宇都宮美術館、2005年、56〜58頁。笹 川・山室両氏のイッテン・シューレでの学習内容については、金子宜正「イッテン・

シューレにおける造形教育の我が国への受容過程に関する一考察:山室光子・笹川和子 両氏の業績をふまえて」(『美術教育学:美術科教育学会誌』第16巻、美術科教育学会、

1995年、85〜99頁)に詳しい。

29 同上。かつてバウハウスでも教鞭をとっていたヨハネス・イッテン(1888-1967)は、

(17)

色彩を音楽理論に対応させて、色彩のハーモニー(コントラスト・リズム・バランス)

を表現することを目指した。色彩環は、1オクターヴをいくつの音に分割するか(例え ば12平均律ならば12音)によってインターヴァルが変化し、色彩が変化すると考えたの である。

30 楳茂都陸平「巴里の万国舞踊競演会」、『歌劇』、1932年10月、8〜11頁。

31 同上。

32 舞踊家の邦正美(1908-2007)は、1936年に渡独した際にバウハウスの創始者で建築 家のヴァルター・グロピウスに教えを乞いたいとデッサウまで出かけたが、バウハウス はすでにもぬけの殻だったという(『ベルリン戦争』前掲書、25頁)。

33 楳茂都前掲書、150頁。

34 同上。

35 クルト・ヨースの足跡については、鈴木万里子「ドイツ表現主義舞踊家―Kurt Jooss について―」(『大阪信愛女学院短期大学紀要』第44号、大阪信愛女学院短期大学、2010 年、35〜41頁)を参照。

36 楳茂都陸平「伯林での近況」、『歌劇』、1933年7月、8〜13頁。楳茂都がベルリン滞 在中におこなった日本舞踊の紹介について、桑田和美によればドイツ国内外を含めて少 なくとも8回はあったという(「楳茂都陸平の欧米視察旅行:ヨーロッパにおける日本 舞踊の紹介について」、前掲)。

37 楳茂都前掲書、158〜159頁。

38 楳茂都陸平「伯林での近況」、前掲。メダウの体操教授法については、菅井京子「メ ダウとその体操教授法について―『ヒンリヒ・メダウ、75歳の誕生日を祝して』よ り―」(『びわこ成蹊スポーツ大学研究紀要』第5号、びわこ成蹊スポーツ大学、2008 年、123〜132頁)を参照されたい。

39 新資料にはヘルラウのダルクローズ学院の建物を写した写真もある。そのことについ ての楳茂都の言及は管見の限りないものの、実際には視察に行っていたことがうかがえ る。またトモエ学園創立者の小林宗作(1893-1963)は、1923年にパリのダルクローズ 分校で約1年間学び、1930年にはパリのボーデ体育学校で約2か月間学んだ。帰朝後は 成城小学校、石井漠舞踊研究所でもリトミックを教授した。成城小学校は学校劇や映画 学習などを先駆けておこなった学校としても知られている。

40 邦正美によるドイツの近代舞踊の分類によれば、音楽派・体育派・精神派の3つに大 きく分けることができるという。音楽派はダルクローズや「音楽の視覚化」を訴えたデ ニショーン舞踊団、体育派はボーデやメダウ、精神派はルドルフ・シュタイナー(1861- 1925)のオイリトミーであるという。オイリトミーは芸術的要素よりも哲学味と宗教味 が勝っており、舞踊は霊教育のために使われていると解説している(『芸術舞踊の研究』、

冨山房、1942年、116〜129頁)。

41 中村秋一『ドイツ舞踊文化』、人文閣、1941年、164頁。

42 邦正美『芸術舞踊の研究』前掲書、140頁。

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43 楳茂都前掲書、76〜77頁。ラバンとヴィクマンが1910年代にエソテリックなダンスス クールを置いたスイスのアスコナも、シュタイナー派や心霊主義者の集う日光浴サナト リウムで有名な保養地であった(マーティン・グリーン『真理の山』、平凡社、1998年。

松本夏樹「アスコーナに波及したオカルティズムの世界―テオドール・ロイスを中心 に」、『モンテ・ヴェリイタ、アスコーナ芸術家コロニー 写真展&シンポジウム』カタ ログ、1987年)。

44 同書150頁。

45 斉藤尚大「コレオグラフィーの遺産 ルドルフ・フォン・ラバンの1920〜30年代にお ける振付と演出に関する一考察」、『舞踊學』第26号、舞踊学会、2003年、11〜20頁。

46 邦正美『ベルリン戦争』前掲書、119頁。

47 同書150〜151頁。

48 『宝塚年鑑 附宝塚歌劇団写真集』、宝塚歌劇団、1941年、61〜72頁。

49 1936年に邦正美がベルリンに留学した頃は、彼が会いたいと思っていた作家のトーマ ス・マンもベルトルト・ブレヒトも、作曲家のクルト・ヴァイルも画家のワシリー・カ ンディンスキーもエミール・ノルデも既にドイツにおらず、ラバンも1937年には亡命す るため、「僕が憧れていたベルリンは、僕が夢見ていたドイツはいつの間にか変わって しまっていた」と述べている(『ベルリン戦争』前掲書、25頁)。

50 本稿に掲げた写真4と6は、ドイツとオーストリアの舞踊家たちのブロマイド写真81 枚を収めたアルバム2冊に収蔵されていたもので、これは新資料と同じく2000年代の大 阪で松本が入手したものである。このアルバムにはベルリン・ライプツィガー通りに あった大型百貨店ヴェルトハイムの写真用品売場のレジNo. 33で1933年11月3日にアル バム2冊購入のレシートが挟んであった。本アルバムには楳茂都が『歌劇』や『舞踊へ の招待』に掲載した写真と同じものも複数枚あり、さらにレシートの日付が楳茂都夫妻 がベルリンを離れる期日と一致するため、夫婦どちらかがドイツ他で収集した舞踊家の 写真を整理するために購入し、所蔵していた可能性が高いと思われる。

参照

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