論 文
沖縄における「反復帰」.論の淵源
−『琉大文学』を中心に−
小 松 寛*
はじめに
「反復帰」論とは,沖縄の「祖国復帰」が現 実路線となりつつあった1960年代後半に登場し た思想である。その論者として沖縄タイムス記 者の新川明や川満信一,琉球大学教授の岡本恵 徳らが知られている。中でも新川明は「反復 帰」論の代表的論客とされており,1972年の復 帰前後には沖縄の新開,雑誌だけではなく日本 側の雑誌などでも数多く取り上げられた。
この「反復帰」論が30年以上の時を経て,今 日再び注目を浴びている。例えば,2005年には
『世界』に新川明のインタビュー記事,2006年 には『季刊前夜』の9号で「反復帰」論の特集 が組まれ,『戦後思想の名著50』では新川明の 著書『反国家の兇区』がそのひとつに選ばれて いる[岩崎他2006:385−396]。2007年にもこれま でに「反復帰」論に言及した論考として,「再
定する思想であった。そこで本論では,新川明 を中心に『琉大文学』時代(1)に焦点を当て思 想形成の原点を探る。ここでいう「『琉大文学』
時代」とは主に1953年から56年にかけて『琉大 文学』誌上において新川が精力的に執筆活動を 行った時期を指す。しかし,同時期には『琉球 新報』で「短歌へ向けての疑問」といった連載 もあり,また57年にはいわゆる琉大事件に関連 した論考を『沖縄文学』に発表しているので広 義においてはこれらも含む。
本論の目的は「反復帰」論の淵源と考えられ る『琉大文学』時代の新川明の文章を分析する ことによって,「反復帰」論が形成された要因 をあぶりだすことである。
結論を先取りすれば,『琉大文学』時代にお いて「反復帰」論形成へ影響を与えた要因と は,①沖縄民族への目覚め,②日本の文学論争 の受容,③強烈な先輩世代への抵抗心,の3点 考・反復帰論と独立」[多田2007a],「「ウチナー
/ヤマト」をめぐる現実の複雑さと二重性」[多 田2007b:289−292】,『オキナワ,イメージの緑
(エッジ)』[仲里2007]などが挙げられる。
このように今日注目されている「反復帰」論 とは,端的な表現が許されるならば,国家を否
であった。その結果,「反復帰」論の重要な特 徴である沖縄意識や反権力性はこの時期に形成 されたと考えられる。
また,以下の論述の結果,本論は日本におけ る思想動向が沖縄に受容される形態に関する事 例研究の一つともなりうる。
*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程2年
本論の構成は,まず「反復帰」論の特徴を確 認した上で,『琉大文学』に関する先行研究を 概観する。そして,順次「沖縄民族への目覚 め」,「日本における文学論争の受容」,「先輩世 代への強烈な抵抗心」を当時のテクストから抽 出し分析する。そして最後に『琉大文学』時代 の「反復帰」論への影響をまとめる(2)。
1「反復帰」論の概要
1−1 新川明による「反復帰」論
1960年代において最高潮に高まった日本復帰 運動は,新川によれば米軍による圧政下でお きた「民族的な集団ヒステリー症候群」[新川 1996a:397]と表現された。意識的か無意識的か を問わず,沖縄が復帰することによって日本と いう国家へ組み込まれていくことは沖縄の個性 を没することであり,国家という権力に飲み込 まれることであると規定した。さらに1972年の 復帰は日米両政府の権力者によって引かれた不 条理なレールであり,しかもそれは幻影と仮説 に満ちている,と、した。そして新川の「反復 帰」とは「<国家>への合一化を,あくまで拒 否し続ける精神志向」であり,「反復帰すなわ ち反国家であり,反国民志向」であった。新川 にとって国家とは不可視の強制力であり,その 強制力によって人間の思考と行動を規制し,さ
向の「復帰」思想を打破することができる。こ うして沖縄を反国家の拠点として「沖縄の存在 をして<国家としての日本>を撃つ,つまり国 家解体の爆薬として日本の喉元を擁することが できる」というのが新川の「反復帰」論なので ある[新川1996a:81]。
しかし,新川を単純な独立論者として捉える ことは甚だしい誤解である。新川は沖縄が単に 独立することは偏狭なナショナリズムの結果に すぎず,ミニ・ジャパンを作るのと同じであり なんら意味がないと繰り返し語っている(例え ば,[新川・池澤1996b])。国家の否定は「沖 縄国」に対しても適用されるのである。
このような思想が形成された原点として考え られるのが,新川が創刊から関わった『琉大文 学』である。次に,決して多いとはいえない
『琉大文学』に関する先行研究を概観する。
1−2『琉大文学』に関する先行研究
『琉大文学』とは琉大文芸クラブ(後に琉球 大学文芸部に改称)によって発行された同人誌 である。創刊は1953年であり,ほぼ1年に1,2 回のペースで刊行された。1976年まで続いた
『琉大文学』は多くの文化人,言論人を輩出し,
後世からは伝説的に語られている。『琉大文学』
を初めて研究対象として取り上げたとされるの らに国家を補強させる存在様式であった[新川
1996a:303−306]。
ここにあるのは単に日本復帰か沖縄独立かと いう単純な選択肢ではない。国家の持つ,同化
を強いる暴力性が鮮烈にえぐり出されている。
そして,新川によれば沖縄は日本とは根本的 にことなる異質性を有しており,そこを基礎に することによって,同質化を強制される日本志
は鹿野政直である。
鹿野による1987年の「「否(ノン)」の文学
−『琉大文学』の航跡」は『琉大文学』研究に おける先駆的論考である。鹿野は,『琉大文学』
を「若き思想家たちの拠点」して位置づけ,そ の変遷を追っている。特に1954年に刊行された 6号の転換に着目している。その理由として沖 縄戦後文学史に残る批評が掲載されたことを理
由に挙げ,新川明によるものでいえば6号「船 遁義彰試論−その私的小説的態度と性格につい て−」,7号「戦後沖縄文学批判ノート=新世 代が希むもの=」,8号「われわれ内部の問題」
(北谷太郎名義)があてはまる。『琉大文学』は 5号までは芸術至上主義的な意図のもとに作ら れていた同人誌であった。しかし,「経済」学
(すなわちマルクス)を学び,アメリカ軍によ る基地建設に伴う土地接収が進む社会状況にお いて『琉大文学』のメンバーたちは政治へと目 を向けていったのである。同時に国民文学論の 影響にも言及している。
船趨義彰は当時,新聞に小説を連載しており 沖縄の詩壇を代表する人物であった。新川は船 越の小説を「私小説的」「逃避的」態度と決め つける。また船越を支える詩壇自体も批判の対 象となる。鹿野によれば新川による「総否定こ そ,この評論の核心であった(傍点原文)」。そ の評論の画期性は認められたものの,具現化と しての小説や詩といった作品が著しく見劣りす るのも事実であった。
新川の詩では「『みなし児』の歌」,「『有色 人種』抄」を引用し解説を加えている。「『み なし児』の歌」は「しぼられた現実のなかで歩 きつづける決意と,そうした現実を人間の名で 拒査⊥抜⊥意志を示⊥」,目し『有色人種』_抄」」は
「抑圧者のなかの非抑圧層・被差別層にたいし,
おなじ被抑圧者・被差別者としての論理と感情 をこめて,連帯を呼びかけた」というもので あった。なお,「『有色人種』抄」をきっかけ として7人の学生(うち4人が『琉大文学』メ ンバー)が米軍により処分されている(3)。
次に新城郁夫は,2002年の「戦後沖縄文学覚 え書き−『琉大文学』という試み」において,
新川による「戦後沖縄文学批判ノート」,とく に沖縄の戦争文学に対する批評を中心に分析を 加えている。終戦直後の沖縄戦争文学とは日本 軍の視点に立脚していた。すなわち,多くの一 般住民が戦闘にまきこまれたにも関わらず,住 民の描写がなく,自己批判を欠き,さらには占 領者である米軍を賛美するというものであっ た。そのような状況の下,沖縄タイムス社編
『鉄の暴風』,仲宗根改善『沖縄の悲劇』,大田 昌秀・外間守善『沖縄健児隊』といった「沖縄 人の立場」から語られた作品が現れた。これら の作品の意図とは沖縄戦の事実を記録すること にあった。しかし新川はこれらの作品にも批判 を加えていく。それは,被害のみが強調され,
さらには美しい犠牲者として措かれてしまうこ とへの危供である。そして犠牲者を生み出した 日本の絶対天皇主義の本質を見極める必要性を 説くのである。
また,新城は「『有色人種』抄」に対しても 占領下文学としての価値を認めており,今こそ 再評価されなくてはならないとしている。
マイク・モラスキーは2000年に出版された新 川の私史的評論集『沖縄・統合と反逆』を活用 しながら新川の半生をまとめ,その上でやはり
「『みなし児』の歌」と「『有色人種』抄」を 扱っている。その上で新川の「反復帰」論のポ ジションがどのように形成されたかを明らかに しようと試みている。モラスキーはこの二つの 詩をアメリカ軍統治に対する挑戦,憤りである と同時に, 日本に対するアンビバレントな感情 と,リシリズムへの誘惑があるとしている。ま た,黒人との連帯を訴える内容から,後に顕 著となるナショナリズムやネイションステイ
下への抵抗の種が見られる,と指摘している
【Molas桓2000】。
呉屋美奈子は1950年代に『琉大文学』の主要 メンバー,すなわち新川と,後に沖縄初の芥川 賞受賞作家となる大城立裕との論争を整理,ま とめている。この新川と大城の論争は『琉大文 学』が刊行された1950年代中ごろに行われたも のであったが,2000年前後に再燃した経緯があ る。呉屋はこの議論を「政治と文学」の関係を めぐる論争,と規定している。当初芸術至上主 義であった『琉大文学』は米軍の弾圧を受け,
文学でもって政治に抵抗するという姿勢へ変換 する。さらに批判の矛先は既存の作家へも向け
られ,大城も例外ではなかった。
大城が「政治と文学」に言及したのは琉大事 件後,『琉大文学』が復刊したときである。こ れまでの批評の意義は認めながらも政治に偏り すぎた『琉大文学』はもはや独自の文学を目指 したものではなくなったとの批判である。新川 はすぐに反論し,文学と政治の関係を無視し,
割り切って考えてしまうところに極端な閉鎖性 と狭陰性がある,と主張した。ここから議論は
「主体性」とは何か,を問うものとなる。大域 によれば社会主義的リアリズムという借り物で 語り,描くのではなく自身の言葉でつむぐこと が「主体性」であった[呉屋2006]。
浜川仁は『琉大文学』における新川明や川満 信一の論考を批判的に論じたうえで,彼らは目
的とは日本の進歩的知識人へのアピールであっ たとした。その結果として「反戦平和」として の「沖縄文学」という特異な領域を囲い込み,
日本文学から分離することに成功した,として いる[浜川2006]。
以上が『琉球文学』に関する先行研究である が,これらを概観した結果,「反復帰」論に影
響を与えたと思われる要因を五点挙げることが できる。一つ目には米軍の圧政に対する抵抗と しての文学,二つ目には社会主義リアリズムや マルクス経済学との出会い,三つ目には上の世 代に対する批判や対抗心,四つ目には米国内に 存在する差別を看破し,連帯を主張するに至っ
た思想,五つ目には国民文学論の影響,であ る。近年の新川へのインタビューや座談会で も上記のことが確認できる[新川・小熊2004:
126−129,新川他2006:65,70]。
先行研究においてすでに様々な要因が指摘さ れてはいるが,各要因の関係性にまで踏み込ん ではいない。そこで本論ではこれらの指摘を踏 まえた上で,各要因の関係性に重点を置きなが ら考察していく。次章では,まず新川明が琉球 大学に入学するまでの生い立ちをまとめ,そし て『琉大文学』時代において意識されたと考え
られる「沖縄民族」について論じていく。
2 沖縄民族意識の目覚め 2−1 琉球大学入学まで
新川明は1931年,沖縄島中部に位置する北谷 村嘉手納に沖縄出身の父親と本土出身の母親の 次男として生まれる。3歳のときに父親が死去 し,37年,母親と共に石垣島へ移住し,46年ま でそこですごした。幼いうちに父親を亡くし,
ヤマトンチュ(大和人)の母親に育てられた新 川は貧しい生活を送った。
新川は12歳の時に八重山中学校を受験する が,合格できなかった。その理由とは当時の試 験が筆記試験ではなく体力テストだったからで ある。試験当日体調を崩していた新川は体力テ ストを受けなかったため,試験に落ちた。新川 は時代が勉学よりも体力のある,戦争に役立つ
学生を必要としていたと当時を回想している。
また,戦前までは新川は皇国少年であったとい う。しかし敗戦後,規律をなくした日本兵が若 い女性に卑猥な言葉を浴びせ大飯を食らうだけ の姿を見て失望する。しかも,新川は貧困のあ まり,その日本兵から残飯を乞うという生活を 強いられることとなる。戦時下での中学校受験 失敗と,敗戦直後の日本兵の姿,この二つの経 験が成人した後の考え方に影響を与えた,と述 べている。[新川2003:5−6]
日本生まれの母親に育てられた新川は,石 垣島に移り住んだためウチナーグチ(沖縄語 一沖縄島で通用する言葉)を獲得することは できず,ヤエヤマグチ(八重山語)を聞き取れ るようになるのみであった[新川・小熊2004:
112−113]。
このような環境で幼少期を過ごした新川は,
終戦後沖縄島へ引き揚げ,沖縄島中部にあるコ ザ高校へ編入する。そして米軍政府下で設置 された琉球大学の一期生として入学する。『琉 大文学』文芸部は学生会のクラブ活動の一環と して始められたが,その動機は文学的表現の場 を作ることであった。こうして『琉大文学』は 1953年に創刊された。なお,新川は辺土名高校 の代用教員を務めるため,3号から5号までは 編集者を外れており.6号から編集者に復帰し
ている[新川2003:8−9]。
2−2 6号における転換と沖縄民族意識 先行研究ではたびたび指摘されているが,6 号が『琉大文学』にとって重要な転換点であっ た。先述したように,その転換を鹿野は「芸術 至上主義から社会主義リアリズムへの」転換と 一般的に捉えられているとし,その意義をあら
ゆる権威への「総否定であった」とする[鹿野
1987:128−132]。
しかし,6号における転換にはもうひとつ重 要な意味があった。新川による作品および論考 からは6号から強烈な沖縄への民族意識が見て 取れるのである。6号の「船越義彰試論」で は「吾々の言葉を愛し,吾々の島の文化を愛し ておればこそ,そして二十世紀に生きるものと
して現状に安易に背反したり,無関心を装った りすることは,少なくとも詩人しても許せない のではなかろうか」[新川1954a:38−39]と記し ている。このころから新川は自分自身を日本民 族ではなく沖縄民族として認識していた。新川 は『琉大文学』創刊号から5号まで新川は詩や 短編小説を掲載しているが,それら作品に民族 意識を感じさせるものはない。それこそ身の回
りや亡き父を主題にするなど,極めて私小説性 の高いものであった。また,『琉大文学』全体 を通しても,創刊号から5号までは沖縄文化や 伝統に直接向き合った作品や評論はほとんどな い(4)。しかし,6号には「琉歌研究の一考察」
(中村龍人),7号では「戦後沖縄文学の反省と 課題」(座談会),「沖縄文学の課題」(川瀬信=
川満信一),8号では「状況の絵画」(喜舎場順
=喜舎場朝順)「新しい演劇運動の為に」(池澤 聡=岡本恵徳)など文学や美i札 演劇といった 分野にいたるまで沖縄文化および伝統に関する 批評が続く。
『琉大文学』以外にも,新川は母校であるコ ザ高校創立10周年記念誌に「僕たちの民族が帰
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るべき所へ帰し,民族的な独立をかち取るため の困難な仕事の協力な武器として文学を考え,
文学を勉強しようという意味である」と記して いる[新川1955e:34】。
沖縄民族意識を特に印象付けるのが,9号で 行われた座談会「沖縄に於ける民族文化の伝統 と継承」である。新川明や川満信一,池澤聡
(岡本恵徳)らはもちろん,大城立裕や太田良 博らも参加したこの座談会では新川の発言は以 下のとおりである。
沖縄に限らずその国なり,地方なりの文化や 伝統とか云った場合,どうしても民族的なもの ときりはなせないと思います。(吾々の文学と
−引用者注)人民大衆との結びつきも結局,民 族的独立の中でしか出来上がらない[新川ほか
1955a:8]。
後の米軍当局による弾圧から『琉大文学』メ ンバーを擁護した副学長の伸宗根政善による以 下のコメントによって,この強烈な民族意識は より際立つ。
琉球民族と云うような呼び方をする時に,
我々fましばしば言葉にあやまられる。琉球は日 本の一地方である。(中略)日本々土に匹敵す るような,両もそれとはちがった伝統を無理 にもとめようとしても徒労であろう[新川ほか
1955a:14]。
3 沖縄における日本の文学論争の受容 3−1 社会主義リアリズムの影響
当時の新川の主張において一貫しているの は,文学は私的領域に留まらず絶えず社会へ批 判的な姿勢をとらなくてはならない,というこ とである。そしてその標的はすでに沖縄の文 壇・画壇で活躍していた先輩格にあたる世代で あった。
まず新川が批評の題材として取り上げたの は詩および小説であった。1954年に刊行され た『琉大文学』6号の「船越義彰試論−その 私小説的態度と性格について−」がその端緒と なる。「船越義彰試論」では,その私小説性を 批判し近代的自我の成立が必要であると説い た。すなわち,詩を書く動機として船越が「た だ漠然と書く」と述べたことに対し,叙情的で 非現代的であり,ノスタルジーの中で詩を弄ん でいるに過ぎないと批判した。さらにこの姿勢 が現沖縄詩壇の貧困と低調の原因であるとして いる。そして叙情的で非現実的な姿勢から脱却
し,近代的な自我の確立と新しい文学の創造の 必要性を訴えている[新川1954a]。
7号の「戦後沖縄文学批判ノート」では,新 城が指摘しているように,前半では沖縄戦文学
に対する批判を行っている。
6号からの転換とは沖縄民族意識の目覚めで あったともいえる。そこに強く影響したのは,
日本の文学論争であった。そこで次章では,新 川が影響を受けた日本の文学論争として最初に 社会主義リアリズムを,次に沖縄民族意識と強
く関わる国民文学論に焦点を当てる。
怒凰l埠単産連臆の 被害を強調するだけでは,センチメンタリズム
に陥ってしまうと危供している。そして,ひめ ゆりに象徴されるように,彼女たちが犠牲者と なってしまった原因を究明することが不可欠で あり,その原因として日本の天皇制絶対主義を 指摘している。後半では太田良博による「黒ダ イヤ」への批評が中心となっている。太田は戦 時から終戦にわたってインドネシアを見開し
た。「黒ダイヤ」はそのような作者によって措 かれた,戦中および終戦直後における,民族解 放運動を行っている現地少年との親交の物語で ある。新川はこの現地少年との親交を私的関係 のみによって措かれていることに不満を表す。
英軍と戦う少年への「私」のまなざしは,かつ てのインドネシアへの侵略者であった日本軍の ままであり,少年が属する解放軍を「敵」とみ なしていると同等であるという。そして新川が 作者に求める姿勢とは,「英軍と戦う解放軍の 苦悩は吾々沖縄と同じであることを看破し,社 会の全体構造を把握した上で力強い人間を描く べきである」,というものだった[新川1954b]。
新川は他の作品も何篇かとりあげながらも,
一貫して作者の持つ私小説性を批判する。新川 にとって社会構造を見ることのできない私小説 性は,沖縄戦後文学全体に共通する欠陥であっ た。
ほぼ同時期に新川は短歌への批評も行ってい る。1954年琉球新報紙上で行われた「短歌に対 する疑問=九年母短歌会の人達に=」と題され た連載でも,文学と政治および社会の問題が議 論されている。九年母短歌会とは当時の沖縄で 活動していた短歌の同人会であるが,その主要 メンバーの短歌に対して新川は,叙情的で社会 性に欠けると指摘した。31音の短歌で社会批評 を行うことは困難であるとは認めながらも,そ の限界性への疑問を少しも感じない歌人たちを
「アララギ調」「今日的意義のあるはずもありま せん」「旧い歌よみでしかありません」とばっ さり断じている[新川1954:28日,29日]。ここ にも前述したように,社会への批判を求める姿 勢が如実に表れている。
その批評の矛先は文学のみに留まらず,美術
へも向かう。9号で喜舎場順と連名で書かれて いる「美術時評 人間の居ない場所」では,沖 縄でもっとも知られている美術展である「沖 展」への批評という形で,当時の沖縄画壇を評 している。画壇批評に際しても画家たちの姿勢 を芸術至上主義と規定し,伊佐浜と伊江島の米 軍による土地接収に娩言しながら,沖展のお祭 り騒ぎは植民地的華やかさを持っていると皮肉 る。そして新川らは画家たちの政治に無関心な 性格を変革するという立場から批評を行うと宣 言するのであった[新川・喜舎場:1955C]。
以上が新川による詩,小説,短歌および美術 への批評である。繰り返しになるが,そこで一 貫しているのは,私的領域に留まることへの痛 烈な批判であり,沖縄がおかれている抑圧構造 に対時する姿勢を作家たちに求めている。この ような新川の背景として,先行研究においても 幾度も指摘されている通り,日本本土にて行わ れていた文学論争の影響を強く受けていること があげられる(表参照)。鹿野は『詩学』や『荒 地』の影響を指摘し[鹿野1987:129],新川は 小熊とのインタビューで当時読んでいた雑誌と して『新日本文学』『近代文学』『詩学』『歴史 評論』『美術批評』をあげている[新川・小熊
2004:127]。
新川駐二貫_し挫たし私小説性への批判と_政 治への関心からは特に社会主義リアリズムの影 響が読み取れる。『琉大文学』8号では1946年 から49年にかけて『近代文学』と民主主義文学 運動に携わる側の間で「政治と文学」論争が 行われたと言及し,「あの論争と同質なものが われわれの中で幼稚ではあるが,自覚的に話し 合われるようになった」と述べている。また,
「「社会主義リアリズム」というものがどのよ
表:新川明による引用文献一覧
掲載誌 タイ トル 被引用者 出 典 備 考
『琉大文学』 6 号
(1954年)
「船 越義 彰試論 − その私小 説 的態度 と性 格 につい て− 」
木原 孝 一 不明
高橋 宗近 「現代詩の諸傾向 (2)一分類 と展 望の試み−」『詩学』11号 (1953年)
黒田 三郎 「日本の詩 に対す るひ.とつ の疑問」
『荒地詩集』 (1954年)
『琉大文学』 7 号 「戦後沖縄 文学批判 ノ・− ト 佐 々木基 一一「戦後文学の諸相」 『文学 岩波講
(1954年) =新世代 の希 む もの =」 座 第 5 巻』1954年 岩波書店
日本現代 文 『日本の現代文学史』1954年 本 文 に は 学史研 究会 三一書房 「現代 の 日 本文学史」
と記載
『琉球新報』
(1954年)
「短歌 に対 する疑 問 (5 )」 小 野十 三郎 「日本の散文 と韻文」 『岩波講座文 学第 7 巻』1954年
『琉大文学』 8 号
(1955年)
「わ れわれ内部の問題」 佐藤 組孝 「嘘偽の問題」_『近代文学』1954年 8 月号
佐 々木基 一 「戦 後 にお ける批評の問題」 『近代 文学』 1955年 1 月号
『琉大文学』 10号
(1955年)
「批評 ・そ の位 置 とわれ われ 内部の 問題 (3 )」
加藤 周 一 不 明 佐 々木基 一 不 明
『緑丘』 3 号
(1955年)
「新 しい文 学芸術 の課 題 につ いて」
小 田切秀雄 『文学 と政治』1955年 東方社
『琉大文学』 11号 「僕 たち の批評 態度 につい て 佐 々木基 一 「作 品評価 につ い て (二 )」 『新 日
(1956年) (承前)」 本 文学』 3 月号
山村房 次 「ソ ヴ イエ トに おけ る 「文学 上部 構 造 」論 争」 『思 想』 1956年 2 月
号
本 文 に は
「「文 学 上 部 構 造 」 論 争 」 と 記載 小 田切秀雄 「古 典 の生命 と上部構 造一 高橋義
孝 ̄に ̄答えつ つ二三「『新甘 本 文学』 ̄
19 56年 1 月一号
「雑 感二 ・三」 瀬 木 慎 一 書評 「詩 とマル キ シズ ム」 『現代 詩』1956年 2 月号 ・
『沖縄 文学』 2 号 「文学 者 の 『主体 的 出発』 と 小 田切秀 雄 『文学 と政治』1955年 東方社 本 文 に は
(1956年) い うこと」 「政治 と文
学 」 と記 載
*筆者作成。なお,本文中に出典が明記されていないことが多く,出典名が記載されていても不正確な場合が あった。筆者が出典を確認できたもののみを記載し,確認できなかったものは不明と記した。
うなものであるか知らない。それをこれから勉 強し,僕たちの芸術表現(詩や小説にしろ,批 評にしろ)の強力な武器にしたいと希んでい る」[新川1955d:52]という表現もある。さら に1957年の時点では,明確に「五四年から五六 年までの琉大文学の歩みは,本土の民主々義文 学の砦「新日本文学」を目ざしたものだった」
と位置づけている[新川1957:40]。
『新日本文学』とは日本共産党にいた宮本百 合子や中野真治らによって1946年に創刊され た。その基本的性格は,戦前から続くプロレタ
リア文学に反省を加えつつ,民主主義文学の名 の下に新たに発展させていく,というもので あった。その中心は戦前のプロレタリア文学の 流れを汲む文学者であり,終戦によって復権し た日本共産党の強い影響下にある雑誌だった
【住谷他1967:32−37]。
3−2 国民文学論の影響
同時期の新川の主張には国民文学論の影響も 散見される。比較的初期の批評の中で直接的な 記述が見られる。例えば7号の「戦後沖縄文学 批判ノート=新世代の希むもの=」では以下の
ように記している。
国民文学の一要素である沖縄の郷土文学[新 川1954b:39]。
ここで述べられている国民文学とは日本全体 を指すものであり,沖縄文学はその一部とされ ている。それはすなわち日本の一部としての沖 縄という認識である。
しかし,興味深いことに1954年の8号以降は 直接「国民文学」という文言は現れない。むし ろ,沖縄民族を意識した言説が多く発言される ようになっていくのは前章で見たとおりであ る。このことは新川が国民文学論に刺激されて 沖縄民族意識を高めた結果である,と想像する ことは難くない。そして,沖縄民族の独自性を 認識した新川は,国民文学論が目指す日本民族 との距離感を感じ取ったゆえに,国民文学論と いう用語を使うことを回避したのではないだろ うか。換言すれば,日本民族の創造を志向する 国民文学論を,沖縄民族の志向性に自己解釈し た,ということである。
3−3 日本の文学論争の受容
以上のように新川の論考からはマルクス主義 リアリズムと国民文学論の影響が強いことが見 て取れる。1954年の時点で以下のような表現を 本土の旧い世代をも含めて自覚的な文学者た 見るこ
ちの間で,ようやく具体化され,深化されつつ ある国民文学運動などをおもう時沖縄が南海の 孤島だというだけでなく本土と切り離されて占 領下の社会にあるという点でも,二重三重の悲
しみである[新川1954b:29]。
吾々もこのような国民文学への道をはっきり 自覚して吾々の文学を押しすゝめていなねばな らぬ[新川1954b:39]。
とができる。
マ ̄マ
多くの間題をもちながら未解決のまゝ今日に 至っている「主体性」論争や,官本百合子をめ ぐっての民主々義文学運動内の論争など,いく たの模索の中での歩みだったのだ。
そして更には近年国民文学運動として一つ の目標に向い,あらゆる角度の力を結集しつ つ押しすゝめられて来ているのである[新川
1954b:36]。
しかし,ここで確認しておくべきことは,国 民文学論は戦前のプロレタリア文学運動への批 判から生まれた思想である,ということであ る。国民文学論を唱えた人物としては竹内好や 小田切秀雄が知られている。竹内と小田切は 1930年代のプロレタリア文学連動の失敗を踏ま えて,「日本的自我」と日本国家を確立する必 要を訴えた。すなわち,従来のプロレタリア文 学運動は階級闘争を絶対化,万能化し,民族意 識の滴養を軽視していた。そしてプロレタリア 文学運動のいう自我とは階級闘争という西洋的 思想を持ち込んだものに過ぎず,それは誤謬で あるとした。民族・国民意識の確立と自我の確 立は決して矛盾するものではなく,むしろ近代 国民国家確立の必須条件であった[内藤2007:
1010−1011]。
さらには,民族意識を捨て去るということ は,戦争責任を回避するということでもあっ た。竹内によれば,民主化や近代化といった西 洋からもたらされた概念のみに依拠した議論は
「ドレイ根性」以外のなにものでもなかった。
西洋からの導入した概念のみに依拠するのでは なく,日本人が「血まみれた民族」であること を認め, 乾草責任を直現車る_主上が必要_と され た。それによって初めて,「自己改革」を遂げ
「自主的な近代」を獲得することができる,と いうものであった[小熊2002:436−439]。
しかしながら,新川に論考において国民文学 論が台頭してきた背景は一切語られていない。
例えば,「戦後沖縄文学批判ノート」では,日 本における戦後文学の出発点について「過去の 日本文学と作家に対する幻滅と不信であった」
という部分を『日本の現代文学史』から引用し ている。その後に続くのは「本土の戦後文学は 私小説という過去の文章に対するアンチ・テー ゼ」と解説している。しかし,出典の『日本の 現代文学史』には私小説へのアンチ・テーゼを 解説する3ページ前に,プロレタリア文学批判 として登場した『近代文学』同人たちについて 述べられている[日本現代文学史研究会1954:
280−283]。新川はプロレタリア文学批判につい ては触れていないのである。
これは,『琉大文学』以前には沖縄の文壇に おいて,プロレタリア文学運動がある程度の勢 力として見られなかったからであろう。少なく
とも,新川が標的とした先輩世代については,
プロレタリア文学連動を実践していたという形 跡はない。新川も批判の対象としてのプロレタ
リア文学には一切言及していない。新川が先輩 世代を批判する際に問題とされるのは,私小説 性と芸術至上主義のみである。
その結果として,国民文学論および民族意識 と,マルクス主義リアリズムが自然な形で共存 することとなった。『琉大文学』9号で行われ た座談会「沖縄に於ける民族文化の伝統と継 承」で新川は以下のように述べている。
民族文化を人民上敷立さ_せて_考_えるのでは_な く,「民族文化はプロレタリア文化に内容を与 え,プロレタリア文学は民族に形式を与える」
と云われていますが,その意味で広く人民に
(沖縄の文化を一引用者注)解放すると云うこ とが大切だと思います[新川1955a:9]。
マルクス主義リアリズムや国民文学論が渾然 と語られるもう一つの要因には,佐々木基一や
小田切秀雄が好んで引用されていたこともある だろう。『琉大文学』8号には佐々木基一の本 ほしさにサンドイッチマンのアルバイトをする エピソードが語られている[新川1955b:59]。
佐々木も小田切も戦中はプロレタリア文学運 動に関連を持っていた。しかし戦後は『近代文 学』創刊の同人となり,『新日本文学』を中心 とする旧来のプロレタリア文学を批判するよう になる。そこでは思春期,すなわち思想形成に おいて重要な時期を戦中に過ごした30代の使命 として,戦中にいわゆる「転向」した文学者 たちの責任を問うことになる(5)[住谷他1967:
25−31]。
4 先輩世代に対する抵抗心 4−1 痛烈な批判
新川明の抵抗心も一つ上の世代へと向かっ た。その語気は激しい。
(佐々木基一のいうような−引用者注)「東洋 的無常観」すらこの「大家」(通俗小説を書く 作家一引用者注)たちはあの戦争と敗戦を通じ て感ずることの出来ない精神的白痴でしかな かったではないか。(中略)「沖縄の大家」たち は戦争一敗戦の傷痕はおろか,安逸と瀬堕の上 に−ねそべって−い−る丁デーおよ−そ文学−と−は無縁の「そ して沖縄に生活する人民の一人としても否定さ るべき存在なのだ[新川1954b:30]。
僕たちは絶えず前の世代にも働きかけ,その 独善性に挑戦し,その非民主々義的なものへは くり返し批判することによってこそその相互の 固い結びつきも可能であることを信じる。惰眠
を貪る人たちへの覚醒剤的な役目でも果たせば 倖せというものだ[新川1955C:47]。
しかし先輩世代を批判した理由に関しては歯 切れが悪くなる(6)。もっともらしい理由として は,次のような文章が確認できる。
何故ならば第二次世界大戦という拭うべくも ない犯罪行為の無意識にしろ加担者であり,汚 れた手の持ち主でもある旧い世代への僕たちの 不信は大きいからだ。僕たちはこれからの生き る問題として大人たちのそのような精神の位置 について無関心ではおれない[新川1955d:50]。
しかし次号において新川はこの発言を言い過 ぎであったと訂正する。
世代的な不信を,観念的に第二次世界大戦に むすびつけて大人一般に適用したことは少々性 急だったように思う[新川1956a:45]。
なぜ新川はこのような「少々性急」なことを 書いてしまったのだろうか。
4−2 批判構図の類似
第2次世界大戦への加担を非難するというこ の図式はまさに『近代文学』同人達が戦中に転 向した文学者を非難する構図と同じである。新 川−が参照−した謀且本の現代文学史』一には戦後派 といわれる人々が戦争責任の問題の追及から転 向文学の間題について明記されている[日本現 代文学史研究会1954:280]。また,新川が8号 で引用している『近代文学』の座談会の中で,
荒正人は戦争責任の問題と転向文学の問題を指 摘している[佐々木他1955:64]。新川の「少々 性急」な主張の中身はいわゆる日本の戦後派と まったく一緒であった。
新川は先輩世代を批判するために,日本の文 学論争によって理論武装したといえるのではな いだろうか。そのために社会主義リアリズムや 国民文学論,そして『近代文学』の「30代の使 命」を導入した。その中から「私小説性」や「芸 術至上主義」といった先輩世代批判に使える言 葉を取捨選択してきた新川が,誤って「戦争責 任」も選択をしてしまった痕跡が,「少々性急」
な文言として表出したのではないだろうか。
おわりに
繰り返しになるが以上のような性格がはっき りするのは6号からである。新川自身も「琉大 文学が一応はっきりした性格をもったのは第六 号からですが」「戦後の作家の私小説的態度,
あるいは芸術至上主義的な,あるいは功利的商 業主義等にはっきり抵抗することにより,植民 地的な沖縄社会現実の真実の具体的な形象化を 図ろうというのが,合言葉になったわけです」
[新川1957:8]と述べている。
先行研究で概観したように,新川を始めとす る『琉大文学』の初期メンバーはマルクス主義 および社会主義リアリズムの影響が強いとされ てきた。しかし,新川の論稿の中では本来方向 性の違う幾多の雑誌が参照され,それらが共存 していた 。新川は2004年のインタビューで「沖 縄では東京の党派的な事情はよくわからなかっ たし,ぜいたくを言える状況じゃないから,と にかく手に入る限りは入手して読んでいた」
「よく言えばいろんな知識に貪欲だった。悪く 言えばいい加減だったというか,思想にもあま り忠実でなかったとも言えるでしょうね」と述 べている[新川・小熊2004:128]。
このように異なる思想が雑居できた背景には
単に東京の党派事情に疎かったというだけでは ないだろう。先輩世代に対する強烈な抵抗心が その雑居を可能にしたと考えられる。終戦直後 の沖縄文壇で活躍していた船越義彰,大城立裕 らは彼らにとっての先輩で,いわば権威的存在 であったに違いない。彼らを批判することに よって自らの存在意義を見つけ,確認する必要 があったのである。そのために用いられたのが 社会主義リアリズムであり,国民文学論であっ た。そしてそのた捌こ援用したのが,やはり世 代間で論争を繰り広げた佐々木基一や小田切秀 雄だったのである。
このことは単に借り物をするような受動的な 態度では決してない。ある目的のために,あえ ていえば主体的に取捨選択して論理を組み立て たのであった。
このような経緯を経て日本の思想動向の影響 を受けた新川は,社会の抑圧構造へと目を向け ていく。
『琉大文学』8号は米軍当局の弾圧を受け店 頭から回収される。11号は発売禁止となり,4 人の部員が処分を受けた。そしてほぼ同時期に 沖縄島中部に位置する宜野湾の伊佐浜と,北部 の離島である伊江島での土地闘争が勃発した。
後に「島ぐるみ闘争」と呼ばれる反米軍連動の 端緒である。社会へ目を向けた新川は米軍によ る圧政から目を背けることはできなくなってい た。そして占領を植民地的状況と表現しながら 議論された日本の文学論争は,新川にとっては 沖縄においてこそ,現実感をもって受け止めら れたのであろう(7)。ここに,1960年代後半に成 熟する「反復帰」論の淵源を兄いだすことがで
きる。
国民文学論の影響によって沖縄民族意識を強
めていたが,この時期の新川にとっての日本 は敵対する存在ではなく,むしろ希望であっ た。新川の詩には日本への憧憶があることをモ ラスキーは指摘しているが[Molas桓2003],『新 日本文学』に寄稿した記事からもそのことが窺 える。「沖縄の文学事情」という記事では,「本 土の人たちと手を取り合って共通の目的のた めにすすみたいと希んでいます。」[新川1956b:
108],「沖縄の闘いの表情」と題されたルポル タージュでは,「祖国同胞からは温かい援助と 激励の手は伸べられ,共に国土を守り,平和と 民族の独立をかち取る運動はくり展げられて来 たものだった」[新川1956C:40]とある。当時 の新川にとって日本とは草新勢力であり,同胞 であり,希望であった(8)。
思想の雑居性,そして権威への抵抗は1960年 代の「反復帰」論の中につながっていく。その 後,新聞記者として鹿児島および大阪勤務時代 の経験で沖縄人民党(のちに日本共産党へ合 流)とは距離をおき,「反復帰」論を主張する 1960年代には革新陣営と激しく対立することに なる。そのなかで紡ぎ出された「反復帰」論は 権力への抵抗の思想となっていく(9)。
〔投稿受理日2007.09.21/掲載決定日2007.11.29〕
注
(勇一筆者は一新州−の思想形成時期を大−ま−かに◎一千琉大 文学時代」②「鹿児島・大阪勤務時代」③「八重 山勤務時代」区分として捉えている。
(2)本研究を進めるにあたってその資料の多くを西 原町立図書館内にある新川明文庫および『新川明 文庫目録』によった。新川明文庫は,2004年の西 原町立図書館の開館に合わせて,新川明本人によ り寄贈された約9,000点の蔵書によって開設され た。そして2006年には『新川明文庫目録』が編集 され,その中には納富香織による新川明略歴およ び著作目録も所収されている。新川明文庫および
『新川明文庫日録』の新川明研究における有意性に ついては[屋嘉比2007]に詳しい。なお,本論で参 照した[新川1956a][新川1979]は新川明著作目録 に未掲載である。とくに[新川1979]については東 京蛮術大学の金城正妃氏にその存在を教示いただ いた。
(3)「『有色人種』抄」掲載時,新川自身はすでに沖 縄タイムス記者であり処分を受けていない。
(4)5号における川満信一(川瀬信)の小説「流れ 木」は米軍基地と故郷としての沖縄,不正義や権 力に着目した作品である[川満1954:41]。この作 品は6号の転換を予感させる一編となっている。
(5)もっとも,小田切秀雄は後に『近代文学』を脱 退している。
(6)1979年における回想では,沈着している論壇を 括発させたいという意志があったと,述べている
[新川1979]。
(7)「祖国の独立が失われ,その植民地化基地化が日 本全体にわたって進行し,民族が奴隷化されよう とするとき,(中略)自由と幸福をかちとろうとす るたたかいを土台として展開されはじめたのが,
国民文学の論であり,その創造に向っての多面的 な連動である。」[日本現代文学史研究会1954:298]
(8)新川は2004年の時点では下記のように振り返っ ている。「新しい憲法を持つ生まれ変わった国とし ての日本というものが希望として輝いて見えたわ けですよ。その輝きを支えている部分を具体的に 言えば,いわゆる革新的な政党とか勢力であった」
[新川・小熊2004:135]。
(9)2006年11月19日に行われた沖縄県知事選の結果 から沖縄の「自立」と「反復帰」論について考え たい。
沖縄県知事選では自民党と公明党が推薦する伸 一井貴弘多−が丁一野党共一関−が推薦七た糸数慶子一に一約 36,000票の差をつけて当選した。各種メディアが 事実上の「保革一騎打ち」と報道し,泡沫候補と
して扱われていた琉球独立党の屋良朝助が最終的 に6,220票獲得した。
琉球独立党は沖縄において初めての主席選挙が 行われた1968年に琉球独立を公約として掲げて登 場した。その主席選挙では279票,初の国政選挙と なった1971年の参議院議員選挙では2,673票であっ た。36年ぶりの選挙となった今回の県知事戦での 6,220票は琉球独立党自体も驚きであったようで,
そのホームページでは勝利宣言を行っている。
http:〟wbekkoame・nejp/i/a−001/photo/kin痺ou・
html(2007年3月3日参照)。
この全投票数の1%にも満たない「6,220票」に 対して我部政明は「日米両政府への明らかな不信」
[我部2006]であると言及し,伸地博は沖縄タイム スに2006年11月28日付けで掲載されたアンケート 調査の結果「独立支持24%」に比べれば,潜在的 な「独立票」は多数あり,琉球独立党はその潜在 票を回収できなかったと述べている[仲地2007]。
これまで「保守」「革新」ともに共通して主張 してきたことは沖縄の「自立」であった。このこ とは経済重視か平和重視かという差異はあっても
「自立」は「保革」どちらの支持者にも訴えるカを 持つキーワードであったと考えられる。もし,こ れから沖縄政治における重要なテーマが「保革」
対立ではなく「自立」と何か,「自立」の形をめぐ る議論へと転換していくのであれば,やはり復帰 前夜に議論された「反復帰」論の意義はますます 大きくなっていくものと思われる。
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