戦間期の英国における交戦権論争
著者 新井 京
雑誌名 同志社法學
巻 63
号 1
ページ 527‑593
発行年 2011‑06‑30
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013795
戦間期の英国における交戦権論争 五二七同志社法学 六三巻一号
戦間期の英国における交戦権論争
新 井 京
︵五二七︶ はじめに
本稿の目的 本稿は︑戦間期に英国の外交上の重大問題であった交戦権︵
Belligerent Rights
︶に関する英国政府内の議論を素材として︑この当時の英国政府が交戦権に関わる海戦法規をどのようなものと見ていたか︑国際連盟規約や不戦
条約による﹁国際法の構造転換 ︵
﹂が海戦法規にどのような影響を及ぼすと考えていたか︑そのような英国の考え方が海 1︶
戦法規の発展にどのような影響を与えたかについて検討しようとするものである︒特に︑交戦権問題が深刻かつ集中的
に議論された︑一九二七年から一九三〇年ごろまでの内閣︑帝国防衛委員会︵
Committee of Imperial Defence,
以下C ID︶交戦権問題小委員会︵Sub-Committee on Belligerent Rights
︶および外務省での議論を中心的な素材としたい︒戦間期の英国における交戦権論争 五二八同志社法学 六三巻一号 ︵五二八︶
交戦権の意味 ここでいう交戦権とは︑戦時に海上で封鎖や禁制品の没収など海上経済戦措置を実施する交戦国の権利
である︒一九〇九年のロンドン宣言で確認されたところでは︑封鎖とは︑敵国港湾または沿岸を実力により封鎖して︑
すべての船舶の立ち入りを禁止し︑通過しようとする船舶およびその積荷の没収を認めるものである︒また捕獲とは︑
海上で敵国および中立国商船を臨検捜索し︑捕獲審検を経て︑その船体および積荷を没収することである︒ここで捕獲
対象とされうるのは︑原則として敵船およびそこに積まれた敵貨であるが︑敵船内の中立貨ならびに中立船内の敵貨お
よび中立貨も︑戦時禁制品である場合には捕獲されうる ︵
︒ 2︶
他方で︑伝統的な国際法では︑中立国私人にはすべての交戦国およびその国民との貿易に従事する権利があった︒中
立国は︑国家としてはいずれの交戦国も支援してはならず︑いずれの交戦国にも公平に対応しなければならなかったが
︵中立義務︶︑自国民による交戦国との通商を保護することは中立国の権利として認められていた︒海上における交戦権
は︑敵国の戦争継続能力を低減させるために必要な措置と認められたが︑このような中立国の権利と本質的に衝突する
ものだった︒海上における交戦権としてどのような措置をとる権利が与えられるか︵海上中立法︶は︑両者の権利また
は必要性が均衡するところに規定されてきた︒そのようにして成立した一八五六年のパリ宣言や一九〇九年のロンドン
宣言は︑そもそも妥協の産物であるため︑交戦国の権利を行使しようとする国はそれを逸脱する実行を繰り返し︑中立
国の権利を擁護したい国はそれら宣言において不明確な点を自国に都合のよいように解釈する傾向があった︒実態とし
ては︑海上中立法が安定的に解釈適用される時代は存在しなかったのである︒
交戦権をめぐる英米対立 英国は︑強大な陸軍を持たない海洋国家として︑このような交戦権行使によって敵国︵主と して念頭にあるのはヨーロッパの大陸国家
Continental Power
︶に対する物資の供給を制限することを︑最大のかつ唯戦間期の英国における交戦権論争 五二九同志社法学 六三巻一号 一実効的な戦争手段としてきた︒しかし英国の交戦権行使は︑英国・大陸国家間の戦争の局外にある中立国の権利を大幅に制約する︒一八世紀後半以降のヨーロッパの戦争において︑中立国としての利益をもっとも強く主張したのは米国であった︒米国は︑一八一二年の英米戦争︵一四年終結︶のように︑自国の中立国としての権利を守るために英国に宣戦することすらあった ︵
︒その意味で︑米国は中立国の権利擁護のチャンピオンであった 3︶︵
︒ 4︶
一八一四年以降︑英米間において交戦国の権利をめぐって最大の緊張が発生したのは︑第一次世界大戦時であった︒
第一次世界大戦初期︑すなわち一九一四年八月の英国による対独宣戦から一九一七年四月の米国参戦までの間︑米国は
中立国の立場にあったが︑英国とドイツの両陣営による海上作戦により︑米国国民の貿易が著しく脅かされ︑米国国民
の生命が危険にさらされたのである︒このような第一次大戦における経験から︑戦間期において︑英米間で交戦権に関
する深刻な意見の対立が引き起こされることになった︒米国人の多くは︑自国が英国側に立って参戦し︑その後は英国
並みの海上経済戦措置を実施したにも拘わらず︑大戦初期に起こったような中立国としての権利の英国による侵害を二
度と許してはならないと感じていた︒他方英国でも︑世界大戦を海上経済戦措置によって勝利した事実が︑英国にとっ
て交戦権の維持が絶対命題であることの最大の証拠となった︒
本稿が検討しようとする一九二七年から三〇年にかけては︑この対立が現実の外交課題として浮上した時期である︒
英国政府は︑当時深刻化していた海軍軍縮をめぐる英米対立を解消するために︑両国間で交戦権についての妥協が必要
ではないかを︑CIDにおいて検討することとした︒さらに︑同時期に米国は︑英米間の仲裁裁判条約を更新するにあ
たり︑英国が交戦権問題を裁判対象事項から除外することを許さないような提案を行っていた︒
議論は︑一九二九年の英米両国の政権交代の結果︑無事に着地点を見いだした︒フーヴァー新大統領とマクドナルド
新首相のイニシアチブにより︑また労働党政権の新しい外交政策の結果︑交戦権に関する議論は両国間で真っ向から対
︵五二九︶
戦間期の英国における交戦権論争 五三〇同志社法学 六三巻一号
立する形で議論する必要がなくなったのである︒しかし英国政府内でこの間行われた議論は︑戦争が違法化された今日
の国際社会において海上交戦権がどのような法的評価が与えられるべきか︑さらに海戦法規・海上中立法が﹁最強の海
軍国﹂によってどのようなものとみなされていたかを考えるうえで興味深い素材を提供してくれるのである︒
本稿の構成 本稿は右記のような理由で︑一九二七年夏から二九年春まで英国政府︵保守党政権︶内で交戦権がどのよ
うに議論されたかを検討し︵Ⅱ︶︑二九年春以降労働党政権下でどのように問題が終結したかを付言する︵Ⅲ︶︒その上
で若干の論評を加えることとする︵おわりに︶︒ただし︑そのような議論に入る前提の予備的考察として︑第一次世界
大戦時の実行について戦中と戦争直後に英米間でどのような意見が交わされたかについても検討しておくこととする
︵Ⅰ︶︒
Ⅰ ﹁先の大戦﹂をめぐって
1
第一次大戦における実行 第一次世界大戦では︑連合国側・同盟側を問わず海戦法規の著しい違反が繰り返された︒当初は︑海上経済戦のあり方をロンドン宣言などの既存の枠組みに一致させる努力が見られたが︑違反が復仇を呼び︑復仇が再復仇を呼ぶという
悪循環に陥り︑最終的には海戦に関する既存の国際法の有効性を大きく疑わせるような事態となった ︵
︒本章では︑特に 5︶
戦間期における交戦権の議論に関わりのある英国と米国の実行に限って振り返っておくこととする︒
第一次世界大戦時に英国が行った海上経済戦の諸措置で中立国米国による法的非難の対象となったのは︑一九〇九年 ︵五三〇︶
戦間期の英国における交戦権論争 五三一同志社法学 六三巻一号 のロンドン宣言に合致しない様々な実行であった︒一九一四年夏の開戦の時点で︑ロンドン宣言は英国の批准が得られず発効していなかったが︑多くの規定が国際慣習法の確立した原則を反映していると理解されていた︒米国等は当然それに則った行動を求めたのであるが︑英国は︑ドイツに対する復仇として︑さらに海戦の現実にロンドン宣言︵およびパリ宣言︶が合致していないことを理由として︑ロンドン宣言のいくつかの規定を無視したのである︒ 開戦当初︑米国は交戦国各国に対してロンドン宣言全体の遵守を求めた︒ドイツ︑オーストリアは敵国の同意を条件として遵守を約束した︒他方英国は︑一九一四年八月二〇日の枢密院令において︑ロンドン宣言の規則を一般的に遵守すると約束したものの︑﹁海軍の作戦行動に不可欠と判断される追加または変更を伴うものとする﹂と表明した︒そして︑
同令および同年一〇月二九日に追加された枢密院令は次のような﹁変更﹂を宣言したのである ︵
︒ 6︶
第一は︑条件付禁制品についても継続航海主義を適用するという決定である︒ロンドン宣言は︑いかなる場合にも敵
国への輸送が禁止される絶対的禁制品と︑敵国の軍隊または行政官庁に仕向けられている場合に没収対象となる条件付
禁制品とを区別し︑中立国港宛の貨物であっても敵国に転送されるであろうものを捕獲対象とする継続航海主義のアプ
ローチは前者についてのみあてはまると規定していた︵三〇条︑三五条︶︒このような区別がなされるのは︑もっぱら
戦争の用に供される絶対的禁制品は中立国港宛であっても最終目的地が交戦国であることを容易に想定できるのに対し
て︑軍事用にも民間用にも用いうる条件付禁制品が中立国港に宛てられている場合に︑その最終目的地を推定すること
が困難だからである ︵
︒英国は︑戦争の総力戦化と鉄道をはじめとする﹁陸上輸送手段﹂の発達により︑そのような前提 7︶
を維持することができないとし︑さらに開戦後の市場の動向︵中立国向け輸出の急増︶をも踏まえて︑中立国向け貨物
への干渉の度合いを強めたのである︒
第二は︑第一の条件と関連するが︑貨物の最終目的地が敵国であることの証拠について︑船舶や貨物に付着した証拠
︵五三一︶
戦間期の英国における交戦権論争 五三二同志社法学 六三巻一号
︵書類等︶以外の﹁外部証拠︵
extraneous evidence
︶﹂を導入するという決定である︒ロンドン宣言では︑条件付禁制品の場合に船舶書類が船舶の航路および貨物の陸揚げ場所の完全な証拠とされたていた︵三五条︶︒英国の方針は︑ド
イツから中立国︵主に米国︶への通信ケーブルの傍受結果︑さらには全般的な輸出入量の統計的証拠など船舶書類や船
荷書類以外の証拠を用いて積荷の﹁敵性﹂を判断するものであった︒現場の臨検士官が敵性の推定を働かせて拿捕引致
の決定を行う方針も同時に採用された︒これは︑ドイツ潜水艦による攻撃の危険がある海上では十分な積荷の検査がで
きないため︑また︑積荷や船舶書類を偽装・不実記載するような不正行為が相次いでいるため︑結局︑総力戦において
は︑中立国港向け貨物の多くを敵国向けであると推定せざるを得ないことが根拠とされた ︵
︒ 8︶
その他︑英国による戦時禁制品のリストは拡大の一途をたどり︑一九一六年三月には絶対的禁制品と条件付禁制品の 区別を廃止するに至った ︵
︒またドイツによる英国近海での戦争水域設定 9︶︵
に対する復仇として︑英国は︑一九一五年三月 10︶
一一日の枢密院令により︑ドイツおよび中立国を含む広大な海岸線の実質的な封鎖を決定した ︵
︒これは中立国沿岸を封 11︶
鎖対象としていること︑継続航海主義の考え方を封鎖にも転用していること︑かならずしも封鎖の要件を満たすもので
はないにも拘わらず封鎖と同じ効果をもたらそうとしていることなどの点でロンドン宣言の規定を無視するものとなっ
た ︵
︒さらに英国は︑最終的に一九一六年七月七日の枢密院令により︑フランスと共にロンドン宣言に関するコミットメ 12︶
ントを撤回し︑実質的に同宣言を﹁廃棄﹂したのである ︵
︒ 13︶
中立国であった米国は︑これらの海上交戦権の拡大について︑ロンドン宣言を根拠にその都度抗議を繰り返した︒ウ
ィルソン大統領は︑一九一五年五月には︑英国による米国通商への干渉が度を過ぎていることから︑﹁米国から英国向
けの軍需物資の輸出を完全に断絶することも﹃無いではない﹄﹂と述べた︒また︑一九一六年一一月の時点でも︑側近
のハウスに﹁米国民は︑中立国の置かれた状況を耐え難く感じており︑彼らの英国に対する感情はドイツに対するのと ︵五三二︶
戦間期の英国における交戦権論争 五三三同志社法学 六三巻一号 同じぐらい過激になっている﹂ことを﹁最も強い言葉で﹂英国のグレイ外相伝えるよう指示したという ︵
︒ 14︶
ただし第一次世界大戦における米国の態度が中途半端なものだったことも否定できない︒上記のウィルソンの言葉か
ら明らかなように︑英海軍の優位性に守られて米国から英国への軍需品の輸出が続けられる一方で︑同盟側への軍需品
の輸出は行われておらず︑米国は交戦国間の公平義務を果たしていたとは言いがたい ︵
︒結局のところ︑米国は︑ドイツ 15︶
による無制限潜水艦戦 ︵
開始を契機に一九一七年四月に対独宣戦した︒確かに米国は︑中立国としての利益を﹁相対的に 16︶
深刻な﹂侵害であるドイツの攻撃から守るために参戦したとも言え︑また英国による交戦権の解釈を拒絶するために︑
﹁連合国
Allied Powers
﹂の一員となるのを拒否したとも指摘される ︵︒しかし︑参戦してからの米国は︑英国の海上経済 17︶
戦措置と同様に厳しい措置を発動し始めた︒禁制品のリストは長大なものとなり︑対独封鎖に参加し︑英国のとった様々
な中立国貿易制限措置を採用したのである ︵
︒ 18︶
2
ウィルソン大統領の﹁海洋自由﹂論 米国と英国との間の交戦権をめぐる議論は︑第一次世界大戦休戦交渉の過程でもみられた︒ウィルソン大統領は︑一九一八年一月八日の議会演説でいわゆる﹁一四箇条﹂を発表した︒その第二原則は︑
﹁平時戦時を問わず領海外の海洋における絶対的な航行の自由︒但し︑国際規約を強制するための国際的活動によ
って︑海洋は全面的にまたは部分的に閉鎖されうる︒﹂
を謳っていた︒これは第一四原則の﹁一般的諸国連合を設立すること﹂と表裏一体とされており︑完全な中立国国民の
︵五三三︶
戦間期の英国における交戦権論争 五三四同志社法学 六三巻一号
貿易の自由とそれを﹁武装中立 ︵
﹂によってでも守り抜こうという伝統的な米国の主張とはニュアンスが異なっていた︒ 19︶
本原則の趣旨は︑﹁一四箇条﹂起案者とされるフランク・コブとウォルター・リップマンによれば︑
﹁国際連盟が国際規約を強制するために行う﹃全面戦争
a general war
﹄では︑問題がないであろう︒なぜならば︑戦争は違法国家に対して行われ︑当該国家に対する完全な断交が予定されているからである︒だが︑国際規約の違
反を伴わない﹃制限戦争
a limited war
﹄では︑⁝国際連盟は中立である⁝提案の意図は︑そのような戦争では中立国の権利は交戦国に対して維持されなければならず︑交戦国・中立国の権利は明示的かつ正確に国際法によって
定義されなければならないということだ ︵
20︶
︒ ﹂
と説明されている︒
しかし︑ドイツによる﹁一四箇条﹂受諾後に行われた連合国側の協議では︑第二原則に関して議論が紛糾した ︵
︒英国 21︶
のロイド=ジョージ首相は︑
﹁この原則はいかなる条件でも受け入れられない︒この原則が採用されれば︑封鎖を実施する権限を失うことにな
る︒ドイツは封鎖の効果によって崩壊しつつあるのだ⁝︒この原則が意味するのは︑封鎖を実施する権限を国際連
盟に完全に委譲するということであるが︑英国が国の存亡をかけて戦っているときに︑いかに国際連盟といえども︑
封鎖を適用する権限を奪うことはできない︒⁝第二原則は︑国際連盟が完全に設立され機能することが証明されて
から︑議論の対象とすべきだ︒連盟設立後でも︑議論する用意があるというだけだ︒﹂ ︵五三四︶
戦間期の英国における交戦権論争 五三五同志社法学 六三巻一号 と強い調子で第二原則を批判した︒フランスのクレマンソー首相もこれに同調した︒ウィルソンの代理として出席していたハウスは︑大統領には他の提案はなく︑本提案が受け入れられないなら米独﹁単独講和﹂もやむを得ないと述べた︒
対するロイド=ジョージも﹁それならそれで︑戦争を継続するのみだ⁝わが海軍を用いる権利を放棄することは︑英国
の誰も同意し得ない事柄である﹂と強硬な態度を崩さなかった︒
ハウスは︑ウィルソンの支持をうけて︑﹁海洋の自由を含まない講和交渉には参加出来ない﹂として︑これまでの議
論を﹁公開する﹂という脅迫すら行った︒ハウスの考えでは︑米国は﹁プロシアの軍国主義を除去するためにのみ戦っ
ているのではなく︑世界中の軍国主義を除去するために戦っている﹂のであり︑
﹁︵英国が合理的な妥協をしない限り︶アングロ・サクソンの連帯という希望は潰えるだろう︒米国は海上の権利を
擁護するために一八一二年に英国との戦争を開始した︒同じ理由でドイツとの戦争を一九一七年に開始した︒わが
国民は︑平時であれ戦時であれ︑わが国船舶が航行する権利を英国または他の政府が規定することを許さないだ
ろう ︵
22︶
︒ ﹂ 数日の議論の末︑第二原則について妥協が計られた︒ロイド=ジョージが﹁海洋の自由とその適用について議論する
用意がある﹂ことを認めるのと引き替えに︑ウィルソンは第二原則の議論を講和会議に持ち越すことを認めたのである︒
ウィルソンは︑一九一八年一一月五日︑連合国が﹁一四箇条﹂を承認したことをドイツに伝え︑同月一一日に休戦協定
が調印された︒しかし︑この過程で︑海洋自由原則に関する言及は一切なされなかったのである︒
ロイド=ジョージは︑英国政府内部から︵または海軍からさえ︶その強硬姿勢を懸念する声が上がったものの ︵
23︶
︑結
局︑
︵五三五︶
戦間期の英国における交戦権論争 五三六同志社法学 六三巻一号
休戦条件の討議においてウィルソン流海洋自由原則の検討を回避することに成功した︒それだけではなく︑海洋自由の
問題はヴェルサイユ講和会議でも十分に議論はなされず︑講和条約にも含まれることはなかった︒大戦末期の英国の継
戦能力に対する米国の影響力の圧倒的大きさからすれば︑このようなウィルソンの妥協は驚くべき敗退であるとも考え
られる︒アーノルド=フォースターは︑ウィルソンのこの決定について︑﹁彼は︑当時あまりにも多くの問題を解決し
ようとしていたため⁝海洋自由の議論は︑講和条約が無事採択されてからあらためて国際会議を招集して議論するべき
だと考えた﹂のではないかと指摘している ︵
︒いずれにせよ︑ここでの議論は︑戦間期の英米間での対立へと発展したの 24︶
である ︵
︒ 25︶
Ⅱ ﹁次の戦争﹂をめぐって
︱
第二次ボールドウィン︵保守党︶内閣における議論
1
小委員会の設立⑴ 海軍軍縮交渉難航の原因としての海上交戦権問題
一九二七年夏︑英米関係は深刻な状況に陥っていた︒クーリッジ米大統領が主催したジュネーヴでの海軍軍縮会議が
完全に決裂したからである︒同会議における争点は︑一九二一〜二二年のワシントン会議において積み残された補助艦
︵中規模艦︶についての英米間の均衡︵パリティ︶の是非であった︒米国がワシントン海軍軍縮条約において合意され
た保有艦の総排水量比率︵英米日=五五三︶は︑条約が明記した主要艦︵戦艦と航空母艦︶のみならず﹁海軍
力全体﹂にあてはまると主張したのに対して︑英国は︑自国の国家政策を維持する必要性から﹁艦船数の絶対量﹂に拘
った︒英国は︑自国の海上交通路を保護するために七〇隻の中型巡洋艦を要求していたが︑対立の根本原因は海上捕獲 ︵五三六︶
戦間期の英国における交戦権論争 五三七同志社法学 六三巻一号 の権利に関する英米間の不一致にあったとされる︒英国は︑海上における広範な捕獲措置および封鎖措置を実行するために中型巡洋艦が相当数必要だった︒それに対して米国は︑中立国として英国の封鎖を突破するために︑大型巡洋艦が必要だったのである ︵
︒ 26︶
ジュネーヴ会議の失敗は︑その原因が相手の頑なな態度にあるという世論の批判を英米両国で巻き起こした︒米国で は︑﹁大海軍主義者﹂が勢いを増し︑膨大な数の軍艦を建造しようという﹁艦船建造法案﹂が議会に提出された ︵
︒英米 27︶
関係は著しく悪化することとなり︑英国でも米国でも︑英米戦争の可能性というある種のタブーに触れる発言が見られ
るようになった︒当時大蔵大臣だったチャーチルは︑ジュネーヴ会議直後に︑﹁米国との戦争が﹃ありえない﹄と言い
続けるのは︑平和のためには正しいのだろうが︑それは真実ではないと皆が知っている ︵
﹂との警句を発した︒ 28︶
これは︑英国が米国以外の国家︵ヨーロッパ大陸の国家︶と戦争状態となり︑米国が中立国となっている状況で︑英
国が第一次大戦と同じような広範な海上措置をとれば︑米国が反発して英国に対して宣戦する可能性があることを真剣
に懸念するものだった ︵
︒第一次世界大戦についても︑ 29︶
﹁英国の巡洋艦は米国の貿易を制止しようとしていたが︑ドイツの潜水艦は米国国民を沈めていた︒もしもドイツ
人がそのような過ちを犯していなければ︑われわれは間違った側︵ドイツ側︶で参戦していたかも知れない︒﹂
という︑ある︵親英派に属する︶米国将官の言葉をハワード駐米英国大使が本国に伝えている ︵
︒この将官も︑過去の戦 30︶
争の経験を踏まえて︑﹁英米間の戦争は︑両国間の直接の意見対立を理由としては﹃考えられないこと﹄だろうが︑英
国と第三国との間の戦争状態が生じた場合に︑英国の封鎖が米国の要請に沿った形で実行されなければ︑両国間の戦争
︵五三七︶
戦間期の英国における交戦権論争 五三八同志社法学 六三巻一号
は﹃ありうる﹄ことになるだろう﹂と警告したとされる ︵
︒ 31︶
駐米大使からの報告を受けたオースティン・チェンバレン外相は︑外務省アメリカ局の意向を汲んで︑英米関係の改
善と軍縮交渉の進展のために︑交戦権の範囲について米国と交渉し何らかの合意を形成するよう︑内閣に働きかけた︒
﹁世界の状況は︑︵世界大戦︶当時とは︑われわれに不利なかたちで変わっている︒過去に可能だったこと︵海上措
置の実施︶が将来不可能になるかも知れない︒ゆえに︑この問題を内閣か帝国防衛委員会︵CID︶の特別委員会
による検討に付すべきだ︒﹂
というのである ︵
︒ 32︶
⑵ 交渉の是非
米国との交渉の必要性については︑内閣や外務省内にさえ反対論があった︒
まず︑チェンバレンの問題提起に対して︑当時内閣書記官長を務め政府の﹁生き字引﹂ともいわれたモーリス・ハン
キー ︵
が反論した︒ハンキーの反論は︑英国の戦争において交戦権行使がいかに重要であったかということ︑世界大戦の 33︶
実行により現行の国際法︵パリ宣言とロンドン宣言︶が現代の戦争の現実に適していないことが示されたことを強調し︑
米国とのいかなる妥協も許されないとするものであった ︵
︒ハンキーは︑ロンドン宣言を強く批判して︑概略次のように 34︶
述べていた︒ ︵五三八︶
戦間期の英国における交戦権論争 五三九同志社法学 六三巻一号 ﹁ロンドン会議における英国代表は︑過去の戦争︑フランスとの戦争︑海上パワーが特に重要ではなかった戦争の
経験を念頭においており︑将来起こりうる戦争︵ドイツとの戦争︶は想定していなかった︒英国の世論もロンドン
宣言に反対したが︑同宣言が英国の海上戦闘能力を妨げるという最大の欠点を批判するのではなく︑戦時において
英国が受ける物資供給︑あるいは英国が中立国である場合の通商への制約について批判していた︒本来考慮すべき
点を考慮しなかったロンドン宣言は︑大戦の当初の成り行きにより早くも十分ではないことがあらわになった︒﹂
外務省法律顧問のセシル・ハーストは︑ハンキーのような海軍派の典型的とも言える強硬論とは異なる観点から︑チ ェンバレンの提案に反対する意見書を書いた ︵
︒彼はまずハンキーのロンドン宣言に関する議論の前提に誤りがあること 35︶
を次のように指摘した︒
﹁CIDの第一代議長サイデンハム卿は︑ボーア戦争︑日露戦争などの経験から︑禁制品を没収する権限は英国に
とって最重要ではなくなりつつあることを認識した︒また︑英国による禁制品没収によって中立国に生じる反感︑
敵にあまりにも多くの権限を認めざるを得ないこと︑および英国が中立国となった場合の損失は︑禁制品没収の権
利により英国が得られる利益を大きく上回っていると考えた︒その結果︑一九〇七年のハーグ会議に派遣される英
国代表団は︑すべての中立国通商は︑臨検と封鎖以外の制限を受けないという条約の締結を目指すよう指示されて
いた︒捕獲措置による戦時禁制品の没収権を廃止し︑近接封鎖のみを維持するという方針である︒これにより英国
は交戦権行使を制限することにコミットしており︑それが国内捕獲審検所の裁量を国際捕獲審検所設立によって制
限しようという提案につながった︒一九〇八〜九年のロンドン会議はこの国際捕獲審検所で適用される実体法規の
︵五三九︶
戦間期の英国における交戦権論争 五四〇同志社法学 六三巻一号
整備を目指したものであり︑そこで採択されたロンドン宣言は︑禁制品没収の権利を全廃する︵または制限する︶
ことによって英国に得るものがあるという信念に基づいて作られたのは明らかだ︒﹂
ただし︑ハーストは︑ロンドン宣言当時のこのような英国の判断が誤りであったことを認めている︒
その上で︑ハーストは︑いくつかの理由から交戦権に関わる米国との交渉が不要であると述べている︒第一に︑英国
海軍の置かれた現状を理由として次のように分析する︒ある国が交戦権を行使する場合︑国際法上の根拠があるかどう
かよりも︑海上での優位を確保していることが肝要である︒すなわち︑交戦国にそのような優位性がなければ︑仮に国
際法に合致した措置であっても︑中立国は通商への妨害を許容しないからである︒提案されている米国との交渉・合意
は国際法上の規制のみを問題にしているが︑ハーストによると︑英国が将来も過去と同じように海上における優位性を
確保できない限り︑そのような合意をするのは無意味だということになる︒
ハーストは︑第二に︑国際連盟の存在を考慮すべきだとも指摘する︒彼によれば︑連盟がより普遍的になれば︑仮に
米国が国際連盟に加入しないとしても︑問題は生じない︒すなわち︑英国が国際連盟の協調下で全面的に交戦権を行使
して中立国米国の貿易に干渉しても︑大戦時のような反発を受けることはない︒その根拠は次のようなものである︒ま
ず︑すべての連盟国は︑侵略国に対する制裁に協力して︑自国領域内を通過して物資が侵略国に輸送されるのを阻止す
る義務がある︒したがって︑英国が海上措置により妨害しなければならないのは︑中立国︵非連盟国︶米国と侵略国と
の直接の
0 0
海上輸送のみとなる︒先の大戦で問題になった英国の実行は︑中立国・交戦国間貿易で別の中立国経由でおこ 0
なわれるものに関する措置︵連続航海主義による捕獲・封鎖︶のみであり︑中立国・交戦国間の直接通商を阻止する権
利が交戦国に認められることは国際法上確立している︒以上の論拠により︑ハーストは︑制裁に協力する連盟国が増え ︵五四〇︶
戦間期の英国における交戦権論争 五四一同志社法学 六三巻一号 れば︑既存の国際法が必要なものを十分に与えてくれているのであり︑﹁次のアルマゲドン︵世界大戦︶﹂を想定した交
戦権に関する米国との合意は必要ないと結論している︒
チェンバレンは︑ハンキーとハーストの反対論についても公平性の観点から内閣に回覧したものの︑交渉の早期開始 を求めた︒その結果︑一九二七年一一月二三日︑内閣はCIDに交戦権小委員会︵BR小委員会︶の設置を決定した ︵
︒ 36︶
⑶ BR小委員会での議論に影響を及ぼした諸要素
BR小委員会が設置された一九二七年末から最終報告書を提出した一九二九年春までの期間は︑紛争の平和的解決お
よび戦争に関わる国際法の発展がみられた時代であり︑また諸国による海軍軍縮問題に関する動きもみられた︒いくつ
かの展開は小委員会での議論に影響を及ぼした︒
第一に︑海軍軍縮に関する英米間の軋轢は︑一九二八年秋から冬にかけて最も深刻な状態に陥った︒一九二八年三月 から七月にかけて交渉した結果︑英仏間で海軍軍縮問題に関するある種の妥協が計られた ︵
︒これは軍縮をめぐって主要 37︶
海軍国のなかで孤立することをおそれる英国が︑陸軍の軍縮問題について譲歩することでフランスから引き出した合意
であった︒この合意は︑新たな軍縮交渉の基盤として他の主要海軍国に提案された︒内容に関する詳述は避けるが ︵
︑こ 38︶
の英仏合意は︑米国の目には︑﹁ジュネーヴ会議で米国が同意できなかったことを︑中小海軍国から得ようとする裏取引 ︵
﹂ 39︶
と写った︒米国はこの提案を拒否しただけではなく︑ケロッグ国務長官が不戦条約調印後に予定していた訪英をキャン
セルするなどして ︵
︑強い不快感を示した︒米国世論では英国の不実さに憤慨する声が渦巻き︑孤立主義者ボラー上院議 40︶
員︵当時上院外交委員長︶が﹁一九三一年に予定されている海軍軍縮会議までに︑海戦法規の法典化のための国際会議
を開くべきだ﹂と大統領に要請する決議を提案した ︵
︒英米関係がさらに悪化したこと︑またボラー決議案により米国が 41︶
︵五四一︶
戦間期の英国における交戦権論争 五四二同志社法学 六三巻一号
交戦権に関して英国に対して強い態度をとる可能性が高まったことは︑BR小委員会の検討内容の重要性を高め︑早期
に結論を出すようにという圧力を強めることになったのである︒
第二に︑当時英国では︑一九二八年六月に失効する米国との仲裁条約を更新するかどうかが外交上の重要課題となっ
ていた︒小委員会の会合が始まる直前の二七年一二月三〇日︑米国のケロッグ国務長官はフランスとの仲裁条約更新案
を駐米英国大使にも提示した ︵
︒旧仏米仲裁条約は旧英米仲裁条約とほぼ同内容であり︑ほぼ同時期に期限切れを迎える 42︶
からである︒一九〇八年の旧条約︵ルート条約︶は︑仲裁裁判の対象事項から締約国の﹁死活的利益︑独立︑または名
誉﹂に関わる紛争を除外していた ︵
︒このような留保は︑ケロッグが述べているように︑当事国の主観的判断で広く裁判 43︶
義務を逃れることを可能にするものとして批判対象となっていた ︵
︒提案された新条約は︑そのような﹁死活的利益﹂留 44︶
保条項を含んでいなかった︒英国︵特に保守党政権︶は︑常設国際司法裁判所︵PCIJ︶の選択条項制度や米国が主
導しようとした﹁より強制的な﹂仲裁裁判のような一連の強制裁判管轄制度の発展によって︑交戦権問題が国際裁判所
の司法判断に服す可能性を極度に警戒していた ︵
︒英米関係が悪化している状況下での米国の﹁包括的仲裁条約﹂の提案 45︶
により︑関係悪化の原因でもある交戦権問題を仲裁裁判の対象から除外するべきかというさらなる難題を英国は突きつ
けられたのである︒この問題は︑一九二八年一〇月の閣議決定によりBR小委員会の第二の諮問事項として追加された ︵
︒ 46︶
第三に︑一九二八年八月に不戦条約が調印された︒不戦条約は﹁国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争﹂を放棄するもので
あり︑国際連盟における集団安全保障制度とあわせて︑戦争の法的性質を大きく変化させるものであった︒これは当時
の英国の政治家や官僚にも十分に理解されていた︒将来の戦争が﹁公的戦争﹂︵不戦条約および連盟規約に違反した侵
略国に対して行われる戦争︶とそれ以外の﹁私的戦争﹂とに区別されうる状況で︑英国の交戦権行使がどのように正当
化されうるか︑連盟外にありながら不戦条約に参加した米国との関係はどのように説明されるかについて議論が必要と ︵五四二︶
戦間期の英国における交戦権論争 五四三同志社法学 六三巻一号 なった︒さらに︑不戦条約が戦争放棄の義務と同時に﹁平和的手段ニ依ルノ外﹂紛争の解決を求めてはならないと規定しているように︑戦争の違法化は︑戦争に代わる平和的紛争解決手段の重要性を強調することになる︒不戦条約の交渉は︑仏米二国間条約により両国間で戦争を放棄しあうというフランス提案に対して︑米国側が多国間条約として逆提案したことに始まるが︑この逆提案の際︑同時にフランスに提示され︑英国にも通知されたのが︑先述の新しい仲裁条約案であった︒すなわち︑提案の当初から︑不戦条約と﹁より強制的な﹂仲裁条約は相互補完的な提案とされていたのである ︵
︒不戦条約締結によって︑英国に対して米国との新仲裁条約早期締結の圧力が強まったことは確かであろう︒ 47︶
2
小委員会における交戦権の議論 BR小委員会は︑一九二八年一月一一日から一九二九年三月一日までに計一六回の会合を重ねた︒ただし︑上記のような英仏合意や不戦条約締結のためか︑一九二八年秋まで会合は散発的にしか開かれなかった︒内閣が仲裁条約問題を
委員会に追加諮問した後︑二八年一二月から翌三月までの短期間に後半の九回の会合が集中的に行われたのである︒
⑴ 交戦権の範囲をめぐる対立
会議では︑交戦権制限の必要性をめぐって︑外務省の妥協的姿勢をチェンバレンが︑海軍の強硬姿勢をブリッジマン
海相︑マッデン第一海軍卿︑ハンキー内閣書記官長らが代弁した︒交渉を進めるべきだと考える外務省派の論拠は次の
ようなものであった︒英国が広範な海上措置を行いつつも︑結局は米国が対英宣戦しなかったという第一次大戦時のよ
うな幸運は﹁もう二度とない﹂のであり︑それを前提として交戦権を従前通り主張し続けることはできない︒米国は第
一次世界大戦時に︑英国に宣戦することが可能であったし︑英国の封鎖を打ち破る能力を持っていた︒また対英宣戦す
︵五四三︶
戦間期の英国における交戦権論争 五四四同志社法学 六三巻一号
るまでもなく︑英国への物資供給を断絶するだけでも︑英国を十分に圧迫し海上措置を停止させることが可能だった︒
その事実を米国は十分に理解しており︑次の戦争ではそれを行使するだろうから︑英国は過去と同じように交戦権を行
使することは不可能であろう ︵
︒ 48︶
これに対して海軍派は︑米国との︵あるいは多数国間の︶合意がないまま次の戦争が起こった場合は外務省の挙げる
ようなリスクが存在するとしても︑現時点での米国との交渉によって英国はより多くを失うと反論した︒マッデンは︑
現実の必要性を考慮しても︑交戦権についての英米合意は不要だと述べている︒海軍の見解では︑次の全面戦争は五〇
年後か一〇〇年後まで起こらないであろうし︑五〇年後に全面戦争がどのように戦われるかを予測することはできない
ので︑現時点では交渉する意味がないというのである ︵
︒また︑そもそも︑英国の交戦権行使を﹁もう二度と受忍しない﹂ 49︶
という警句は︑米国が過去に繰り返し述べてきた決まり文句にすぎないともされる︒ハンキーによれば︑米国は七〇年
以上にわたって英国の交戦権行使に異論を唱え︑﹁もう二度と﹂は先の大戦時にも叫ばれたのであるが︑それでも米国
は何もしなかった︒米国は︑もし望むなら英国の戦争遂行能力を容易に阻害することができると気づいていたのにも拘
わらず︑である︒よって将来の戦争でも︑米国が英国の行動を実力により排除することはないと予想される ︵
︒第一次大 50︶
戦において米国が英国の側に立って参戦したのはドイツが﹁より酷い﹂作戦を行ったからに過ぎないとしても︑海軍派
の見解では︑すべてを英国に不利に想定して︑将来の戦争で同じようなことが起こらず︑交戦権が従前通りに行使でき
ないと考える必要はないとされる︒
これに対してチェンバレン外相は︑世界大戦初期の状況︑すなわち英国による対米外交の成功により米国の強硬な反 応を抑えられたという幸運を無闇に信じて安心するよりも︑今米国と合意することが望ましいのだと反論している ︵
︒ 51︶
このような対米関係改善のために交戦権に関する妥協が必要かどうかについての対立に加えて︑そもそも交戦権の行 ︵五四四︶
戦間期の英国における交戦権論争 五四五同志社法学 六三巻一号 使を制限することが英国自身の利益となると考えるランカスター公領相カッシェンダンのような立場もあった︒この立場の第一の根拠は︑英国が海上での優位性を米国に奪われつつあることである︒ワシントン会議の結果︑英国は少なくとも主要艦に関しては米国が対等であることを認めた︒さらに︑米国の富と人口の増大をみれば︑今後は︑英米海軍力︵国力︶は対等性を維持することすら難しい︒米国は自己のそのような潜在力を意識するようになっており︑一般大衆
の中でも︑交戦国が米国の通商を妨害することへの反感が強くなっているというのである︒その結果﹁勝てない相手﹂
との海軍軍拡競争が生じ︑多大で無駄な出費を迫られることになる︒そのため︑﹁やむを得ない状況を受け入れ︑求め
られている妥協をはかるべきではないか﹂と主張される ︵
︒ 52︶
第二の根拠として︑海に囲まれた英国の封鎖措置に対する脆弱性が主張される︒第一次大戦時に︑英国の通商は︑ド
イツ軍の海上レーダーや潜水艦により壊滅させられた︒そのような状況では︑英国の安全を﹁国際法﹂に依拠して確保
することが︑危険を回避するもっともよい方法であると指摘される︒米国との交渉により交戦権を狭く制限する条約を
締結することにより︑英国の通商は︑英国が交戦国として中立国から供給を受けようとする場合にも︑英国が中立国と
なったときにも守られる ︵
︒ 53︶
これに対して海軍派が反論している︒彼らは︑海上の優位性が失われつつあることは︑以前から明らかであるという︒
そのことは︑パリ宣言やロンドン宣言を受け入れる根拠として英国内で主張された︒仮に交戦権に関する英米合意が成
っても︑海軍軍拡競争は別の理由で続くことになるだろうから︑米国との交渉が現時点で必要とは言えない︒
さらに︑英国が貿易に依存しているゆえに交渉が必要だという主張を踏まえて︑海軍派は次のように議論を展開する︒
すなわち︑英国の貿易は﹁英国籍﹂船舶によって維持されており︑交戦権を大幅に制限して戦時の中立国貿易を保護し
たとしても︑英国が交戦国である場合に英国の船舶の安全は保証されない︒世界の船舶輸送量に占める英国船舶の比率
︵五四五︶
戦間期の英国における交戦権論争 五四六同志社法学 六三巻一号
が大きいので︑﹁保護される中立国船舶﹂のみによって英国の戦争需要を満たすための貿易を行うことは難しい ︵
︒ 54︶
このように英国を﹁米国に海上での優位を奪われた国﹂︑あるいは中立国と想定して︑交戦権を制限することが英国
の利益につながるという考え方は︑BR小委員会内ではカッシェンダン以外に賛成する者はなかった︒一九二八年二月
六日の第二回会合では︑﹁小委員会での議論の前提は︵中立国としてではなく︶交戦国としての英国の必要性を追究す
ることにあり﹂︑﹁︵外交上の難局を考慮しつつ︶可能な限り広範に交戦権を維持していくこと﹂が小委員会の方針であ
ることが確認された ︵
︒そして︑この方針はそのまま最終報告書の結論となったのである︒ 55︶
⑵ 不戦条約のもたらした影響?
一九二八年八月に締結された不戦条約が戦争の法的性質を大きく変え︑国際関係の新しい時代を切り拓いたという期
待は︑BR小委員会における交戦権の議論にも影響を及ぼした︒
一九二八年一二月中旬︑外務省やハンキーはあるアイディア ︵
に注目し始めた︒このアイディアによると︑不戦条約に 56︶
より戦争は二つのカテゴリーに分けられることになった︒一つは公的戦争︵
public war
︶︑すなわち不戦条約に違反した国家に対する自衛のための戦争で︑全世界の信頼を裏切った国家に対して︑世界全体の信義のために戦われる戦争で
ある︒それ以外の戦争は私的戦争︵
private war
︶とみなされる︒そのような私的戦争では交戦権は放棄されるか︑狭い範囲に制限されるべきだという主張もあったが︑BR小委員会において注目されたのは︑米国も不戦条約締約国であ
る以上︑公的戦争における英国の交戦権行使に抗議できないのではないかという点である︒
委員会の第七回会合において︑このアイディアに依拠した交渉の可否が検討された︒この会合の前に︑議長ソールズ
ベリー侯爵は︑大規模な戦争︵
major wars
︶と違って︑小規模な戦争︵minor wars
︶では交戦権の広範な行使は不要で ︵五四六︶戦間期の英国における交戦権論争 五四七同志社法学 六三巻一号 あるため︑後者に限って交戦権を放棄することも可能ではないかと提案していた ︵
︒チェンバレン外相は︑このように戦 57︶
争を区別してその一部に限って交戦権を放棄するというアプローチが︑米国との交渉の新しい方法となるのではないか
としたうえで︑公的戦争と私的戦争の議論を委員会に持ち込んだ︒彼によると︑フランス外務省は﹁英国が交戦権を放
棄することで国際連盟規約一六条の制裁措置への支援が出来なくなれば︑規約の制度は崩壊してしまう﹂と英国に通達
してきており︑国際連盟の戦争において英国が交戦権を広範に行使することはフランスに支持されているという︒また
アメリカの世論でも︑侵略国への第三国による支援は望ましくないと考える傾向が出始めているという ︵
︒ 58︶
これに対して公的戦争と私的戦争を区別することが困難であるという懸念︑あるいは公的戦争において大戦時と同様
に広範な交戦権を行使するというのでは︑米国からは英国が大幅な譲歩をしたようには見えないだろうという懸念も示
された︒しかし小委員会の全般的な流れとして︑英国が交戦権についての米国との交渉に着手せざるを得ないとすると︑
不戦条約を基盤にして議論を開始するのが得策だろうとのコンセンサスに至った︒公的戦争において広範な交戦権を維
持しつつ︑私的戦争における妥協を計るというのである︒この方針についての予備研究を委任されたハンキーは︑委員
会のこのときの意図を﹁もし公的戦争において合意ができるなら︑私的戦争についてはそれを適宜修正を加えて当ては
めればよいことになる﹂と説明している ︵
︒ただし海軍派のハンキー自身は︑私的戦争における交戦権の制限・放棄を歓 59︶
迎しているわけではなく︑﹁英国は︑私的戦争であっても公的戦争であるかのように世界に信じさせるよう努力しなけ
ればならない﹂と付言している︒
ところが︑﹁研究﹂の結果ハンキーは意見を修正し︑このようなアプローチ自体が適切ではないとの結論に至った ︵
︒ 60︶
彼によると︑英米間で﹁私的戦争における権利の行使を排除する﹂という合意がなされたとしても︑将来の米国政府が
国際連盟の決定に基づく英国による封鎖の実施を公的戦争として正当なものと見なす保証はない︒さらにハンキー自身
︵五四七︶
戦間期の英国における交戦権論争 五四八同志社法学 六三巻一号
が望んだように︑英国の私的戦争を封鎖措置正当化のため﹁公的戦争﹂であると国際世論に納得させることは︑非常に
困難である︒したがって︑英国にとって︑公的戦争と私的戦争を区別することで得るものはほとんどない︑という︒
ハンキーは︑公的戦争/私的戦争という枠組みに基づく捉え方の淵源は︑米国自身にあると指摘している︒先述のよ
うに︑ウィルソン大統領は休戦協議や講和会議で﹁一四箇条﹂中の﹁海洋自由﹂原則︵第二原則︶を強く主張しない方
針をとった︒この原則について︑ウィルソンは﹁今後の戦争は︑国際連盟により違法国家に対して行われる以外には存
在しえないが︑その場合中立国は存在しえないだろうから︑中立国貿易への干渉の問題も生じない﹂と述べていた ︵
︒ハ 61︶
ンキーは︑米国が連盟に加入しなかったことでこのアプローチは成り立たなくなったと結論している︒連盟国は︑侵略
国に対する敵対行為は﹁公的戦争﹂とみなすだろうが︑米国はそのような立場をとる必要はない︒さらに不戦条約も︑
戦争を放棄しながら侵略国を有権的に決定する制度を持たないため︑このギャップを埋めることはできなかった︒
ハンキー報告を検討した第八回会合は︑彼の主張を説得力有るものとして受け入れた︒さらに︑チェンバレン外相は︑
公的戦争/私的戦争という枠組みに基づくアプローチが米国世論に﹁米国を国際連盟に引き込もうという試み﹂と解釈
される可能性があり危険であるというハワード駐米大使の見解を紹介した ︵
︒また︑不戦条約違反国に対する制裁を米国 62︶
に約束させようとしているという印象を与えることも懸念された︒さらに︑英国が﹁すべての戦争を公的戦争だと宣言
する﹂権限を持とうとしているという印象を与えるというマイナス効果も指摘された︒
結局︑小委員会は︑交戦権が行使され問題が生じるのは︑私的戦争の場合︑すなわち個別国家︵群︶が戦争を戦い︑
しかし連盟理事会が合意にいたらず︑連盟国も侵略国だと認定するのを恐れるような場合であるということを前提とし
てアプローチするよりほかないと結論した︒ ︵五四八︶
戦間期の英国における交戦権論争 五四九同志社法学 六三巻一号 ⑶ 英米間の立場の﹁相違﹂①一九一七年合衆国海軍指令の意味 小委員会は︑対米交渉の前提として︑あるいは交渉の必要性を判断する材料として︑米国と英国の交戦権をめぐる立
場に実際にどのような相違があり︑英国としてどのような譲歩が可能であるのかを検討するため︑技術的問題作業部会
を設置した ︵
︒一九二九年一月一七日に提出された作業部会報告書は︑英国と米国の立場にはほとんど相違がないと結論 63︶
した ︵
︒ 64︶
作業部会は︑米国が中立国として英国に対して主張した内容ではなく︑一九一七年の対独参戦時に発行した﹁合衆国 海軍指令︵
the United States Navy Instruction
︶﹂の内容を精査して︑その内容を英国の立場と比較した︒その結果︑同指令の多くの点が︑参戦以前に米国が示していた態度を大きく変更するものであり︑英国にとっても戦時の海上作戦を
実効的に遂行するための十分な基盤となりうることが発見された︒将来の交渉において︑米国が交戦国として発表した
指令に基づいた議論を行うのか︑あるいは中立国として表明した立場に沿った議論を行うのかは不明である︒しかし︑
作業部会報告書によると︑
﹁仮に米国政府がこの指令を撤回したとしても︑戦中戦後の一〇年に渡って指令が有効に存在していたという事実
は残る︒どのような政府も︑自国艦隊のために発行し︑一〇年もの長きにわたって有効だった指令の内容が国際法
に反していたとは主張できないだろう ︵
65︶
︒ ﹂
作業部会の結論は︑このような論理を出発点にしており︑一九二九年の時点で米国と英国との交戦権に関する意見の相
︵五四九︶
戦間期の英国における交戦権論争 五五〇同志社法学 六三巻一号
違がないということを証明しているわけではない︒しかし︑米国と交渉する際に︑英国の﹁広範な交戦権﹂の主張を米
国が国際法に反するものとして否定できないはずだという有力な根拠を提供した点で意義が大きかった︒
②英米の見解が異なる点
作業部会は︑英米間で交戦権に関する見解がいくつかの例外を除いてほぼ一致していることから︑見解が一致する分
野について英米間で合意すること︑あるいは許容できる妥協をすることは容易であると判断している︒作業部会が英米
間のほぼ唯一の乗り越えがたい対立点として指摘したのは︑捕獲審検所における﹁外部証拠︵
extraneous evidence
︶ ﹂ の採用可能性であった ︵
︒ここで問題になる外部証拠とは捕獲対象となった船舶・積荷に付随していない証拠のことで︑ 66︶
伝統的な捕獲法の規則では捕獲・拿捕の有効性を裏付けえないものとされていた︒
ロンドン宣言は六四条において︑﹁捕獲審検所が船舶・貨物の拿捕を無効であると検定した場合や審検に付さず拿捕
物件を解放した場合︑利害関係人に損害賠償を支払わなければならない﹂としながら︑﹁当該船舶又は貨物を拿捕する
十分な理由があったときは﹂その限りではないと規定している︒ここでいう﹁拿捕を正当化する十分な理由﹂を拡大解
釈すればするほど中立国貿易に対する干渉の度合いは高まる︒第一次世界大戦中︑英国の捕獲審検所は︑拿捕の正当化
根拠をきわめて幅広く認めて︑船舶・貨物の拿捕または捕獲を容易にしていた︒これは︑そもそも︵捕獲・拿捕を避け
るため︶船舶書類などに貨物の真の宛先が書かれないことがあるためであり︑またドイツ潜水艦による攻撃の危険があ
る海上で長時間にわたる船舶検査が難しいことから︑当該中立国船舶が交戦国出先機関発行の﹁無害証明書︵
Navicert
︶ ﹂
などにより明確に無害性を証明できない限り︑船舶を港に引致して取り調べなければならないという事情があったから
である︒この実行に対して米国は︑船舶・積荷の有害性は船内の証拠のみによって判断されなければならないと主張し︑ ︵五五〇︶
戦間期の英国における交戦権論争 五五一同志社法学 六三巻一号 このような﹁引致﹂という新しい実行を﹁英国による新しい交戦権の創設﹂と批判した︒一九一七年の合衆国海軍指令は︑﹁外部証拠﹂を禁止する︵﹁内部証拠﹂しか許容されない︶という規則を含まないが︑海上での検査によりその場で
無害性を決定すべきことを前提にした手順を定めている︒英国の見解によれば︑このような米国の立場は︑今日の現実
の下で実質的に海上捕獲権行使を不可能としてしまう ︵
︒したがって︑外部証拠の採用可能性の問題は捕獲審検所におけ 67︶
る手続の問題にとどまらず︑捕獲制度のあり方に深く関わる問題だった︒ただし︑外部証拠排除原則が捕獲権行使をほ
ぼ不可能にするのであれば︑将来︑米国自身が交戦国となった場合にこの立場が維持されるのかは疑わしかった︒
同じように︑英米に立場の相違はあるが交戦国としての利益を考慮してもなお米国がその立場を維持するのか不明な
問題として︑中立国軍艦による自国商船護送が指摘されている︒ロンドン宣言の六一条︑六二条は︑本国の軍艦の護送
を受ける中立国船舶は交戦国による捜索を免除されることを規定した︒捜索免除は︑護送軍艦指揮官が護送対象船舶お
よびその積荷の無害性を保証することを前提としている︒一九一七年合衆国海軍指令も同様の規定を置いている︒しか
し︑作業部会は︑第一次大戦の経験から︑この制度は全体として廃止されるべきだと述べている ︵
︒すなわち︑中立国側 68︶
︵護送軍艦側︶は︑交戦国が投げかける疑いよりも︑自国の輸出業者による積荷の無害性の主張を信じる傾向があり︑
指揮官による保証自体が機能しているとは言えず︑またこの制度を認めればすべての中立国が自国商船を護送して︑捕
獲制度自体が立ちゆかなくなるからである ︵
︒ 69︶
外部証拠排除原則と商船護送制度は︑海上交戦権の行使を実質的に不可能ならしめる︒それゆえ作業部会およびその
報告を受けたBR小委員会は︑これらの問題に関しても︑交戦国としての利益を想起させつつ米国と交渉すれば︑合意
が可能であると考えたのである ︵
︒このように︑英国と米国の法的見解はほとんど食い違っておらず︑食い違いの見られ 70︶
る問題についても交渉により米国に英国の立場を理解させることが容易であるとの判断から︑たとえ米国と交渉を行っ
︵五五一︶
戦間期の英国における交戦権論争 五五二同志社法学 六三巻一号
ても︑英国の伝統的な交戦権が大幅に損なわれることにはならないとの見通しが立ったのである︒
3
仲裁条約に関する議論⑴ 仲裁条約更新と交戦権問題
①仲裁条約問題の困難さ
一九二七年末にケロッグ国務長官から新しい仲裁条約案を提示され︑英国は米国との間に交戦権に関する新たな難題
を抱え込むことになった︒英国は︑交戦権をなるべく無傷で維持しつつ︑対米関係のさらなる悪化を避けるため︑﹁死
活的利益﹂留保を伴わない仲裁条約を締結しなければならなかった︒﹁死活的利益﹂を裁判対象から除外するという旧
条約の留保とは別の形で︑どのような留保を付せば英国の交戦権行使が﹁英国に対する偏見に満ちた﹂国際裁判に持ち
込まれずに済むか検討が始まった︒
仲裁条約問題の取り扱いが非常に難しかったのは︑第一に︑ケロッグ国務長官は条約案の実質的修正を受け入れる意
思がないと考えられたからである︒なぜならば︑米国は︑同じ内容の新しい仲裁条約案を諸国に提示し︑同時に交渉し
ていたので︑英国にだけ特別な配慮を行うとは考えにくかった ︵
︒また︑提案時にケロッグが示唆したように︑新仲裁条 71︶
約は不戦条約を手続面において補完する制度と位置づけられていた︒
第二の困難は︑新条約が米国連邦議会上院において承認される必要があったことである︒上院外交委員会を牛耳る孤
立主義者ボラーは︑英国による交戦権の行使を制限するため︑海戦法規法典化会議の開催を呼びかけていた︒そのよう
な上院において︑英国の付した留保が︑たとえ明示的な言及でなくても︑実際には交戦権の裁判管轄事項からの除外を
狙ったものであると受け止められてはならなかったのである ︵
︒ 72︶ ︵五五二︶