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医療技術の発展と刑事規制 : 「人間の尊厳」とい う視座

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医療技術の発展と刑事規制 : 「人間の尊厳」とい う視座

著者 田坂 晶

雑誌名 同志社法學

巻 69

号 7

ページ 3247‑3285

発行年 2018‑02‑28

権利 同志社法學會

URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000320

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    同志社法学 六九巻七号一二一九三二四七

――「人間の尊厳」という視座――

             

第一章  はじめに 第一節  医療技術の進歩の光と影   近年の医療技術の発展は目を見張るほど著しい。今や﹁医学の常識﹂とさえなっている技術のなかには、数十年前、あるいは数年前であれば到底考えられなかったであろうというものも少なくない。二〇世紀は、医療技術などの科学技術がいわば﹁盲目的﹂に突き進んできた時代であるともいえよう 1

。こうした科学技術の発展は、人類の﹁知の営み﹂の成果として、人類の進歩に大きく貢献し、今日の私たちの生活にはかり知れないほどの恩恵をもたらしている。しかし、それは同時に、人類に大きな損害を与える可能性もはらんでおり、科学技術も突き進めば人類の生存自体を危うくする

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    同志社法学 六九巻七号一二二〇三二四八

おそれすらある。とくに、生殖補助医療、クローン技術、ヒト胚性幹細胞(ES細胞)研究など、人間の﹁生命のはじまり﹂にかかわる先端医療技術は、従来の﹁生と死﹂、﹁自然と人為﹂、﹁正と不正﹂といった区別をあいまいなものにし

)2

、これを無制限に突き進めてしまうと、人間や生命そのものを見失ってしまう可能性もある。人とは何か、生命とは何か、という根源的な社会的合意が失われかねない。これは、いわば﹁人間の根幹﹂に関わるともいえるような重要な問題なのではなかろうか。しかしながら、わが国の現状を見てみると、技術の進歩がもたらした﹁光﹂の部分にばかり脚光があてられ、こうした技術に付随する﹁負﹂の部分については議論が追いついていないように思われる。

第二節  先端医療技術と「自己決定」   いうまでもなく、先端技術を用いた医療・研究は、人間の英知を用いて長年研究された結晶である。ましてや、今日では、医療の分野において﹁患者の自己決定権﹂が広く定着している。こうした点から、患者本人がそれを望んでいるのであれば、その恩恵を受けてもいいではないか、という意見もありうる。たしかに、その人の生命がかかっていたり、人生がかかっていたりする場面で、その人が何とかしてその苦しい状況から抜け出すために、ある技術を受けたいと思うことを、部外者が一概に非難することはできないであろう 3

。また、﹁患者の同意(インフォームド・コンセント)﹂を尊重しなければならないということはすでにコンセンサスがとれているという点には異論はみられないであろう。患者の自己決定を重視し、最優先するならば、自分の生き方は自分で決めることにこそ、最高の価値があるという結論に行き着く。こうした立場からは、いかに当該行為にともなうリスクが高く、当該行為から患者本人が得られる利益がきわめて少ないものであったとしても、患者本人が同意しているのであるから、当該行為も正当化されるはずである。しかし、筆者は、これまでの研究において、治療行為が正当化されるためには、インフォームド・コンセントだけではなく、

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    同志社法学 六九巻七号一二二一三二四九 ①疾病の存在を前提として、治療行為が、患者の生命・健康を維持・回復するために必要なものであること(医学的適応性)、②施された治療行為が医学上一般に承認された医術準則に則った治療行為であること(医術的相当性)という要件も充足している必要があるということも明らかにしてきた 4

第三節  先端医療の治療行為性   そもそも、先端医療は、﹁治療行為﹂といえるのであろうか。これを﹁治療行為﹂であると捉えるならば、前述した三要件を充足しているといえなければ治療行為としての正当化を認めるべきではない。先端医療技術は、患者の希望を受けて実施される場合が多いので、ほとんどの先端医療技術に関しては、インフォームド・コンセントは得られている。したがって、とくに問題になるのは、前二者の要件、すなわち、①医学的適応性と②医術的相当性の要件である。このうち、②医術準則に則ったものであるという要件については、臨床の現場において、実際に患者に施されている医療行為の多くは、クリアされているであろう。むしろ、臨床現場において患者に実施する以上は、その安全性・有効性は確立されていなければならず、クリアされているべき要件であるといえる。これに対して、①治療行為の必要性はどうであろうか。先端医療技術が施される場面では、その﹁治療行為﹂を必要とする﹁疾病﹂が存在しているのであろうか。実際の医療の現場では、﹁その技術を必要としている患者がいるから﹂﹁目の前の患者が望んでいるから﹂という患者の意思が最優先されているように思われる。これは、患者の意思・希望が当該医療の﹁必要性﹂にすり替えられているのではなかろうか。本来、治療行為の正当化要件として要求されている﹁医学的適応性﹂は、疾病などの存在を前提とし、医学的な観点から客観的に判断されるべき要素であり、﹁患者本人が切望している﹂という主観的な要素をもって当該治療行為の必要性の要件(﹁医術的適応性﹂)が充足されると考えるべきではないであろう。

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    同志社法学 六九巻七号一二二二三二五〇

第四節  先端医療行為の限界   このように考えると、患者の機能的疾患などのゆえに、患者の希望をかなえるためにはその技術に頼るほかない、という場合にはこの技術を受ける﹁必要性﹂が認められやすくなろう。それでは、患者の希望をかなえるための技術があり、この技術に頼らなければその患者の希望はかなえられないという状況にあり、当該技術の人体への安全性・有効性も確保されているという場合には、その技術は、﹁治療行為﹂としての﹁必要性﹂を充足しているといえるのであろうか。たとえば、﹁自分たちの子どもが欲しい﹂という夫婦の願いをかなえるためであれば、代理母や、クローン技術を使ったヒト個体の産出なども許されるのであろうか。こうした技術の人体への適用については、今日においても批判はたえない。しかし、上述した要件を充足していれば、基本的には﹁治療行為﹂として正当化されるはずである。それにもかかわらず、なぜ批判されるのであろうか。おそらく、多くの者がこうした技術を受け入れられない理由のひとつに、﹁自然でない﹂という感覚があるのではなかろうか。しかし、﹁自然でない﹂という理由だけで、当該技術を規制することはできない。ましてや、後で詳述するが、クローン技術については、違反した場合には処罰も予定されている。先端医療技術の行き過ぎを止めるために、強制力をともなう法律で規制するのであれば、その﹁根拠﹂を明らかにする必要がある。とくに、刑法の発動は謙抑的でなければならず、刑法によって処罰するためには、そこに刑法をもってしても守らなければならない﹁法益﹂の存在が不可欠である。患者が望んでおり、その患者の希望をかなえることができる技術があるにもかかわらず、法律その他の手法によってこうした技術を規制することによって、何を保護しようとしているのであろうか。

  本稿では、こうした問題意識から、先端医療技術、なかでもとくに﹁生命のはじまり﹂にかかわる技術への規制について考察してみたい。今後もますます科学技術の進歩が加速するであろうことにかんがみると、今日において、この問

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    同志社法学 六九巻七号一二二三三二五一 題について検討する意義は小さくないものと思われる。

第二章  新型出生前診断の実施と人工妊娠中絶 第一節  新型出生前診断とは 型断稿本、下以﹂(診お前生出は新、﹁ににい、こで)す指をれはて﹂断診前生出﹁主 5 が検いし詳、てしと断診前出生、に合場たっあが望希の査か行いここ、がるあが類種わくつ、うれる。はこした検査に た人本婦妊はま拍のどな量水羊、認確婦確心や査検波音超、もが認診が夫、や合場るれわ疑常さ異のから何、がるれで   ﹁生天異体色染や気病の性先前に児胎、はと﹂断診が常出な称健婦な的般一。るあで総いの査検るべ調をかうどか妊

に焦点をあてて検討してみたい。新型出生前診断とは、母体から採取した血液で胎児の染色体異常を調べる検査のことであり、日本では二〇一三年に認可された。現在、わが国では、新型出生前診断は、すべての妊婦が自由意思に基づいて受けることができるわけではない。①出産予定日時点で妊婦が三五歳以上を迎える高齢出産の場合、②妊婦本人あるいはその配偶者に染色体異常が見られるため、胎児がダウン症候群などの先天性疾患を罹患している可能性が高い場合、③過去に実際に一三トリソミー、一八トリソミー、ダウン症候群を患った子を妊娠・出産した経験がある場合が対象となっている。

  出生前診断が行われる目的としては、主に、①胎児治療を目的とするもの、②分娩方法の決定や出生後のケアの準備を目的とするもの、③妊娠の継続・中絶を決定するための情報提供を目的とするもの、の三つが挙げられよう 6

。ここでは、人工妊娠中絶の可否と関連して問題になる③に該当するケースについて検討してみたい。つまり、出生前診断によって胎児が障がいをもっているかどうかを検査し、もし陽性であった場合に、妊娠を継続するかどうかを判断するとい

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    同志社法学 六九巻七号一二二四三二五二

う場合である。

第二節  人工妊娠中絶の現状   わが国の刑法においては、胎児はいまだ人ではないが、堕胎罪の客体として保護されている。胎児を堕胎する行為は犯罪であり、原則として、刑法により禁止されている(刑法二一二条以下)。例外的に、母体保護法一四条一項に規定するケースに該当する場合に、違法性が阻却されるにすぎないのである。そして、母体保護法一四条一項によって正当化されるケースとは、①妊娠の継続または分娩が身体的または経済的理由により母体の健康を著しく害するおそれがある場合、②暴行もしくは脅迫によってまたは抵抗もしくは拒絶することができない間に姦淫されて妊娠した場合、のいずれかに該当する場合のみである。この規定からも明らかなように、わが国の母体保護法には、胎児が障がいを負っている可能性があることを理由とする中絶を認める、いわゆる﹁胎児条項﹂は含まれていない。わが国において、出生前診断を行った結果、胎児が障がいを負っている可能性があると判明し、それを理由に妊婦が人工妊娠中絶を希望したとしても、それは堕胎の罪を構成し、母体保護法によって正当化されないのである。

  しかし、実際の医療の現場においては、母体保護法の規定、とくに﹁経済的理由﹂という要件がきわめて緩やかに解釈されており、事実上は、胎児の異常を理由とする人工妊娠中絶も可能なのである 7

。わが国では、ヨーロッパ諸国に比べて、宗教の社会的・倫理的影響が薄く、人工妊娠中絶は、もっぱら個人的な問題として考えられている。そのため、﹁経済的理由﹂による人工妊娠中絶が年間数十万件行われている 8

。それにもかかわらず、わが国においては、胎児の障がいを理由として堕胎した妊婦および医師が堕胎罪で起訴されることはほぼ皆無である 9

。実際に行われた人工妊娠中絶のなかの、どれだけの件数が病気を理由として行われたのかは明らかではない。しかし、出生前診断の普及に比例して、

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    同志社法学 六九巻七号一二二五三二五三 障がいをもった子どもの出生が減っているのが現状である。ここから、出生前診断の結果を受けての選択的妊娠中絶が急増したのではないか、と予想しうる。

第三節  障がいをもった子どもの出生をめぐる訴訟   さらに近年では、いわゆる﹁ロングフルライフ訴訟﹂や﹁ロングフルバース訴訟﹂と呼ばれる訴訟が散見されるようになってきた。これは、胎内の子が障がいをもっている可能性があることを、医師が認識していたにもかかわらず、出生前診断の受診をすすめなかったり、障がいの可能性を妊婦に知らせなかったために出生前診断を受ける機会を逸し、そのため障がいを持った子どもを産んだことについて、妊婦あるいはその家族(ロングフルバース訴訟)や、先天性の障がいをもって生まれてきた子ども本人(ロングフルライフ訴訟)が、医師や親に損害賠償を請求するものである。こうした訴訟は、もともと、英米において多くみられたが、近年ではわが国においても見られるようになってきた。わが国においては、医師の過失により胎児異常を理由とする中絶の選択が妨げられたとして、両親が医師や医療機関を訴えた事件は、これまで五件あった。いずれも母体保護法の前身である優生保護法の時代のもので、そのうち四件は先天性風疹症候群 ₁₀

、一件はダウン症候群をめぐる事件であった ₁₁

。風疹症候群をめぐる四件の裁判例では、理由づけはそれぞれ異なるが、結論として、いずれも医療側に両親に対する慰謝料の支払いを命じる判決が下された。ダウン症候群をめぐる訴訟では、原告が敗訴している。この五件の裁判例では、医師の過失により、中絶の機会を逸したとして、人工妊娠中絶の可否に焦点があてられた。しかし、問題は、中絶の可否だけにとどまらない。現実問題として、障がいをもった子どもが出生した場合には、医療費・付添費用や特殊教育費用などが必要となる。医師が、障がいを持った子どもが生まれる可能性について妊婦やその家族に対して説明を怠ったために、こうした費用を負担しなければならなくなったと

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    同志社法学 六九巻七号一二二六三二五四

して、両親が医療機関に対して、慰謝料に加えて、損害賠償を求めたというケースもある ₁₂

  こうした事案をめぐる民事上の問題もさることながら、より深刻な問題は、障がいをもつ子どもの出生によって必要になった費用を﹁損害﹂と捉えると、子どもの出生を﹁損害﹂と評価することにつながりかねない点である。このような考え方を突き進めると優生思想につながりうるし、すでに生まれている障がいを持った者に対する差別にもつながるおそれがある。原告側の請求を肯定した裁判所も、こうした点には配慮し、以下のような姿勢を示している。すなわち、原告の請求の当否は、子どもが障がいをもって出生したことと、出生前に人工妊娠中絶されて出生しなかったこととを比較して、損害の有無を判断することになるが、このような判断は司法裁判所のなしうることではなく、少なくとも、﹁中絶されて出生しなかった方が、障がいをもって出生してきたことよりも損害が少ないという考え方を採用することはできない﹂と示しているのである。民事訴訟において、その医療に過失があったために障がいをもった子どもが出生した場合、生じた損害の補てんを医療側に求めるためには、損害発生の証明が必要になる。この立証をする際、障がいをもった子どもの出生が損害なのではないという視点は重要であろう。たしかに、現代においては、医学の進歩によって、障がいをもった子どもの出生の回避という選択肢が現実的になってきている。しかし、医学の進歩によって選択肢が増えたからといって、それら全てを提供し、保障しなければならないということには直結しない ₁₃

第四節  出生前診断における「自己決定」   出生前診断に肯定的な立場からは、出生前診断を受けるかどうか、また、受けたうえで人工妊娠中絶を行うかどうかは女性の﹁自己決定﹂であるから、優生思想にはつながらないという主張がなされる。しかし、出生前診断の有効性を力説する医療と、実際に障がいをもった子どもを育てることが大きな困難をともなう社会的な現実を前にすれば、出生

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    同志社法学 六九巻七号一二二七三二五五 前診断を受けることの拒否や、胎児の異常の可能性を知らされたうえでの中絶の拒否という選択は容易ではないことも想像にかたくない。なぜなら、出生前診断を受けていれば胎児の障がいの有無は分かった可能性は高く、障がいをもっている可能性があると分かれば、産まないという選択肢が用意されているにもかかわらず、自らの意思でそれらの選択肢を選ばなかったとされることもありうるからである。ここでは、社会的に解決されるべき問題が、﹁自己決定﹂の名のもとに、個人(とくに女性)の責任に転嫁されている。そもそも、妊婦である女性の﹁自己決定権﹂に基づいて行われているというが、堕胎によって抹消される生命は﹁自己﹂のものではない。生まれてこようとしているのは﹁自己﹂ではなく﹁他人﹂であり、その生命の芽を摘んでいるのである。

第五節  出生前診断・着床前診断の普及にともなって考えなければならないこと   出生前診断と同様に、生命の選別の方法として、着床前診断がある。着床前診断は、体外受精で発生している胚を調べて、着床させるか、させないかを決めるので、﹁人工妊娠中絶﹂にはならない。そのため、母体に対する心理的・生理的ダメージがはるかに少なく ₁₄

、むしろ着床前診断を肯定的にとらえる声もある。現在、わが国においては、着床前診断について規制する法律はなく、この診断は禁止も許可もされていない。他方、着床前診断は、産科婦人科学会会告において、重篤な遺伝的疾患に限り適用されるとされており、実施にあたっては、事前に当該医療機関の倫理委員会の許可を得たうえで学会に申請し、許可を得なければならないとされている。このため、現実には、体外受精は不妊治療のためにのみ許容されており、一定の条件をクリアしなければ受けることはできないものであるが ₁₅

、いずれは着床前診断をするために、体外受精を望む人が現われる可能性があろう ₁₆

  今日のわが国においては、着床前診断、出生前診断が現に行われており、﹁望ましい生命﹂と﹁望ましくない生命﹂

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    同志社法学 六九巻七号一二二八三二五六

の選別が黙認されているのである。こうした状況にあるわが国では、生命の価値基準がきわめて恣意的に設定されているといわざるをえない ₁₇

。しかし、前述したように、現行母体保護法では、胎児に障がいがあることを理由とする人工妊娠中絶は正当化されない以上、胎児に遺伝子疾患があることが判明したときには人工妊娠中絶をすることを予定した出生前診断を行う根拠はなく、基本的には認めるべきではない。人工妊娠中絶が基本的に刑法上の犯罪であること、これが正当化されるのはあくまでも母体保護法に規定されている要件を充足している場合だけであることを改めて認識する必要があろう。

第三章  生殖補助医療の限界 第一節  生殖補助医療の種類   一般的に﹁不妊治療﹂といわれるものは、﹁一般不妊治療﹂と﹁生殖補助医療(ART)﹂とに分けられる。前者は、不妊の原因となっている疾病や器官の障がいを治療して、自然の妊娠、出産を実現しようとするものであり、まさに不妊﹁治療﹂といいうるものである ₁₈

。これに対して後者は、たとえば、精子や卵子の問題あるいは生殖器官の摘出などによって生殖を実現できない者に施される、生殖を補助する技術である。人工授精や、取り出した卵子と精子を体外で受精させる﹁体外受精﹂、顕微鏡下で卵子に精子を注入する﹁顕微授精﹂などがある。ここでは、精子および卵子の提供元は夫婦であることが第一段階であるが、夫婦間で、夫の精子、妻の卵子や子宮の問題で生殖を実現できない場合には他者の精子や卵子の提供を受け、あるいは、他者の子宮をかりて(つまり、代理母)挙児することもありうる。さらに、他者の生殖細胞や子宮を用いれば、単身女性や、女性同士のカップルが精子提供を受け、男性同士のカップルが卵子提

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    同志社法学 六九巻七号一二二九三二五七 供、代理母を利用して挙児することも技術的には可能である。

第二節  生殖補助医療における「自己」決定   わが国には、子どもが欲しくても恵まれない夫婦が、約三〇万組いるといわれている。このような夫婦にとっては、生殖補助医療技術の進歩は、まさに希望の光である。﹁自分たちの子どもをもつために、生殖補助医療を受ける﹂という夫婦の﹁自己決定﹂を尊重することは、基本的には他の誰かに対して﹁危害﹂を加えることはない。このことから、生殖補助医療技術に関しては、個人の問題であり、他者がその是非を問うべきではないという考え方もありうる。

  しかし、一定の領域を超えると、個人の問題ではなくなるという面もあるのではないだろうか。たとえば、夫婦以外の者から精子や卵子の提供を受けて行う場合、関係するあらゆる人にとって﹁恩恵﹂と呼べるかどうかは疑問が残る。とくに、配慮するべき﹁関係する人﹂の範囲に、そのような技術の適用を受けて誕生する子どもを加えた場合には、この疑問は大きくなる。はたして、このような技術の適用は本当に有益な側面のみなのであろうか。育ての親以外の第三者の遺伝的形質を受け継いで誕生することは、現在のわが国においては、その子の法的な存在の安定性を欠くことが予想されるからである。自分が誰の子どもなのか分からないということは、その子のアイデンティティを不安定なものにするし、また、精子や卵子の提供者が親の近親者であれば、容易に特定できてしまう可能性もあるがゆえに複雑な問題も生じうる ₁₉

。親になろうとしている夫婦の﹁自己決定﹂を尊重して生殖医療技術をおこなったとしても、生まれてくる子どもは、親にとって﹁自己﹂ではないのである。

  わが国においては、一九四九年に初めて人工授精児が誕生し、一九八三年に最初の体外受精児が誕生した。当初は、人工授精が内包するさまざまな問題が指摘されていた。技術が未熟であれば、人体や生命に対する危険があるので、﹁や

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    同志社法学 六九巻七号一二三〇三二五八

ってはならない﹂という倫理観が働く。しかし、技術の進歩によって、安全性が高まり、一定の効果も立証されると、頻繁に行われるようになり、広く普及していった。今日において、人工授精は、国民にあまり抵抗なく受け入れられているように思われる ₂₀

。このことは生殖補助医療のみに限ることではないが、安全性が確立されているということは、その技術の適用の正当化を補強する﹁盾﹂となる方向に傾く。したがって、安全性の未確立という視点からの生殖医療技術の歯止めは脆弱であろう。むしろ、生殖医療技術も、﹁医療行為﹂として、人体に対して行われるものである以上、その安全性は当然に確保されていなければならない要件であろう。

第三節  生殖補助医療の治療行為性   そもそも、生殖医療技術を用いて子を出生させることは、﹁治療行為﹂といえるのであろうか。一九八三年に、日本産科婦人科学会が公表した﹁体外受精・胚移植に関する見解﹂の前文において、﹁ヒトの体外受精ならびに胚移植等は、不妊の治療として行われる医療行為であり、その実施に際しては、わが国における倫理的・法的・社会的な基盤を十分に配慮し、本法の有効性と安全性を評価したうえで、これを施行する﹂と記されている。これは体外受精を不妊﹁治療﹂のひとつとして位置づけたものとみることができよう。この問題について、旧西ドイツの連邦通常裁判所は、以下のように言及している。すなわち、﹁子がないことは疾病ではないが、子を欲する夫婦にとって生殖能力は生物学的に必要な能力であり、したがって、器官的原因による不妊は異常な身体的状態であるから、健康保険上の疾病といえる。体外受精および胚移植は、すくなくともその疾病を緩和するものである﹂と。このように考えると、生物学的な機能障がいがある場合に、その機能を補助するために行われるかぎりは、その生殖医療は﹁治療行為﹂とみることができるであろう ₂₁

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    同志社法学 六九巻七号一二三一三二五九   他方で、他人の精子提供を受けるAID人工授精や、代理母等による出産となると、もはや不妊症の患者について不妊原因を除去し、その機能の回復をはかるという意味における﹁治療行為﹂とはいえず、子をもうけるためのひとつの技法としか言いようがないという指摘もある ₂₂

。諸外国においても、こうした方法を用いた子の誕生を﹁Assisted

Reproductive Technology(ART)﹂といっており、﹁治療﹂を意味するCure もしくはTreatment とはいっていない。もっとも、AID人工授精などの生殖補助医療については、﹁治療行為﹂として扱うことができないからといって、ただちに倫理的・法的に妥当性が否定されるわけではない。生殖技術と標榜したうえで、その技術の活用が法と生命倫理の観点からどこまで許容されるのか、と論じる余地はあろう。

第四節  ヒト受精胚を利用した研究1  余剰胚とは   生殖補助医療(とくに体外受精)の過程において、体外で作られるヒト受精胚を研究利用することができるのであろうか。周知のとおり、医療の現場において、研究の用に供されているのは、体外受精のために創出したが、母胎内に戻さず余った胚(余剰胚)である。体外受精を行う際には、いくつかの受精卵を作り、そのなかからひとつを選んで母胎内に戻す。したがって、一度の体外受精で数個の余剰胚ができる。その過程においては、母胎内に移植した胚が確実に着床、懐胎に至るとは限らないため、あらかじめ予備的に複数の胚を作成しておくのである。この予備的な胚は、先に移植した胚が着床・懐胎に至った場合には、使われないまま残存することになる。その数は、年間五〇〇〇個に及ぶともいわれる。この余剰胚は、凍結保存も可能であるが、挙児に使用するために保存しておく必要がなくなれば、最終的には廃棄処分される。体外受精・胚移植は、子どもをもつためという目的については、社会的妥当性があるとしても、手段としては、余剰胚の廃棄を予定せざるを得ないという点で非難を受けている ₂₃

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    同志社法学 六九巻七号一二三二三二六〇

⑵  ヒト受精胚の取り扱い   ヒト受精胚は、それが母胎内に戻され、順調に育てば、いずれは胎児となり、さらに生育すれば﹁人﹂になる可能性があるものであるので、その扱いには慎重になるべきである ₂₄

。わが国においても、ヒト受精胚の作成および利用について、慎重な議論が重ねられてきた。二〇〇四年に総合科学技術会議で﹁ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方﹂がまとめられた。ここでは、ヒト受精胚は、﹁人﹂と同等に扱うべきではないとしても、﹁人﹂へと成長しうる﹁人の生命の萌芽﹂として位置づけられるのであり、﹁人の尊厳﹂という社会の基本的価値を維持するために、とくに尊重されなければならないとされている。それゆえ、原則として、その目的のいかんにかかわらず、胚を損なう取扱いは認められない。しかし、基本的人権として人の健康と福祉に関する幸福追求の要請にこたえる場合には、例外として胚を損なう取扱いも認めざるをえないと考えられている。﹁ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方﹂によれば、生殖を目的とした胚の利用は、この例外に該当する。上述したように、体外受精・胚移植には、胚の廃棄の可能性をともなうため、﹁胚を損なう取扱い﹂になるが、母体に配慮してこのような方法で行うことには、十分な科学的合理性と社会的妥当性が認められることから、今日においては、余剰胚の発生は容認しうるとされているのである。

3  余剰胚の他の女性への譲渡   では、生殖を目的として作成されたが、使われずに残った余剰胚を、子どもを希望している他の女性の胎内に移植して、挙児をはかることは認められるのであろうか。余剰胚の他の女性への譲渡は、胚の廃棄を回避できるという点で有意であるが、日本産科婦人科学会の会告﹁胚提供による生殖補助医療に関する見解﹂(二〇〇四年)は、生まれてくる子の福祉を最優先するべきこと、親子関係が不明確になることを理由に、これを禁止している。これに対して、﹁専門委員会報告﹂ならびに﹁生殖補助医療部会報告﹂は、生まれた子の福祉のために安定した養育のための環境が十分に整備され、子の福祉が担保された場合には、当該夫婦が使用しないことを決定したもの(余剰胚)に限り、他の女性の胎内への胚の移植を認めている。

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    同志社法学 六九巻七号一二三三三二六一   余剰胚の廃棄を前提とすると、余剰胚を、生殖以外の目的での利用も認めるかどうかが問題になる。わが国においては、生殖補助医療研究の場面では、これを利用しうるが、そのほかに、ヒト胚性幹細胞(いわゆる﹁ES細胞﹂)の樹立のためにも使用が認められている。最終的には廃棄が予定されている余剰胚とはいえ、胚の破壊が前提となるものであるから、その扱いには慎重になるべきである。

第五節  生殖補助医療の規制 1  生殖補助医療の規制の必要性   わが国においては、生殖補助医療についての立法はなく、もっぱら医学界の自主規制に委ねられている。日本産科婦人科学会は、会告で、非配偶者間人工授精や体外受精・胚移植、顕微授精についても、一定の条件下で認めるとしている。しかも、これらの生殖医療技術は国民の間にも広く受け入れられ、実際の医療の現場で少なくない数が実施されている ₂₅

。こうした現状を踏まえると、これらの技術のうち、相当程度社会的な合意が得られている部分についての適正利用は保障されるべきであろう。ただし、その前提として、一定のルールは必要であろう。その理由として、以下の三点が挙げられよう。第一に、侵襲を受ける女性の身体的・心理的な負担である。採卵から始まり、妊娠に至るまでのプロセスにおいて、健康面からみて女性が負う負担は小さくない。また、成功率も決して高いわけではないので、精神的なプレッシャーも大きい。第二に、子どもの福祉という観点からの問題である。これは、配偶者間以外での人工授精・体外受精で問題になる。精子や卵子の提供者は匿名とされているため、こうした技術によって生まれてきた子どもが、自分の父親(あるいは、第三者の卵子を使用した場合には母親)がだれなのか分からず、自己のアイデンティティが不安定になるという懸念である。こうした子どもの福祉については、わが国では十分に議論が尽くされていない。第三に、体外受精において、母胎内に戻す前の体外受精卵(初期胚)の濫用を防ぐという観

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    同志社法学 六九巻七号一二三四三二六二

点からの規制である。これを毀損したり、売買するなど商業主義的な濫用については、やはり法的規制の対象としなければならないであろう。⑵  生殖補助医療の規制をめぐるわが国の現状   こうした点を加味して考えると、生殖補助医療についても、やはりある時点で線引きをして、一線を超える行為については規制をする必要性があるように思われる。問題は、その方法である。前述したように、何らかの理由で自然には自分の子どもをもつことができない夫婦にとって、生殖補助医療技術は最後の希望である。この技術の進歩は実際に多大な恩恵をもたらしているのである。その反面、出産を人間の手によって操作することに対して疑問視する声がないわけではない。生殖補助医療技術の安全面への不安 ₂₆

、出産への﹁反自然な﹂介入への抵抗感、親子関係の確定を困難にし、当該技術によって出生した子の地位を不安定なものにすること ₂₇

、ひいては、﹁正常な﹂家族関係をみだしかねないことへの懸念などが指摘されている。しかし、わが国においては、子どもをもちたいという親の希望が優先され、この希望をどの程度汲むのか、最終的な判断は現場の医師の裁量に委ねられているのが現状である。こうした問題について考えるときに重要なことは、﹁子どもをもちたいという親の願望﹂と、﹁生まれてくる子どもの福祉と人権﹂のどちらを優先させて考えるか、ということである。たしかに、夫婦となったふたりが子どもをもって、家族で幸せに暮らしたいと願うことは、憲法一三条で保障された幸福追求権に含まれると解することもできる。しかし、他方では、子の福祉と人権も憲法でうたわれている﹁個人の尊厳﹂に含まれよう。そして、生命の誕生に人為的な操作が加えられる生殖補助医療の実施にあたっては、子どもの福祉と人権の方が優位であることが十分に認識されるべきである。生殖医療技術によって生まれてくる子どもの福祉と人権が脅かされる場合があるとすれば、そのときは、﹁子どもをもちたい﹂という親の願望は、一歩ひかなければならない ₂₈

。生殖補助医療の分野に属する技術は、その実施を﹁患者の自己決定権﹂に委ねることが非常に危険な領域のひとつであるとの指摘もある ₂₉

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    同志社法学 六九巻七号一二三五三二六三   現在、わが国においては、生殖補助医療とかかわる事項のうち、研究目的での胚の作成や利用、管理については、法律(クローン技術等規制法)や各種の省令による指針が存在し、公的な統制のシステムにしたがって実施されている。これに対して、生殖補助医療のための胚の作成や利用、精子・卵子を含めた保存、管理などについては、そのほとんどが産科婦人科学会や生殖医学会の会告やガイドラインなどに依拠しているのが現状である ₃₀

。したがって、学会に属さない者がそのシステムの外で生殖補助医療技術を利用したり、精子・卵子の売買やあっせんをおこなったりしても、これを有効に排除・統制することはできないのである。しかも、これらの学会への加入は強制ではなく、仮に会告違反などにより学会から除名されたとしても、医師として医療行為を続けることに何ら支障はない ₃₁

。また、法規制のない外国に行って子どもをもうける技術を受けることもできる。そのため、生殖補助医療の安全な実施および子の福祉の観点から、生殖補助医療の規制については、強制力をともなわないガイドラインでは不十分であると指摘し、こうした行為を規制する立法を望む声も小さくない ₃₂

。しかし、法令による統一的な規律といっても、法律でどこまで規定するのか、あるいは、大枠を規制する規律を設けて、あとはそれに依拠してガイドラインなどに落とし込むのであれば、いかにして拘束力を保つのかなど、慎重な議論が必要である ₃₃

。刑事規制を考えるならば、﹁財産罪に関する規定を拡大解釈するのではなく、むしろ、人の生命、身体に対する侵害行為に準ずるものとして拡大解釈する方が、受精卵を人の生命もしくはその萌芽とする限り法的対応の仕方としては妥当であるように思われる ₃₄

﹂という指摘もある。生命・身体に対する罪、堕胎の罪などを規定する刑法体系のなかに﹁受精卵(胚)の不法破壊﹂とでもいうべき犯罪類型を設けるか、特別刑法として受精卵や胚を保護する規定を設け、一定の規制をかけるという手法も考えられよう。3  人工妊娠中絶の現状とのバランス   なお、胚を使った研究を規制しようとする際には、人工妊娠中絶の実情とのバランスも考慮しなければならない。すでに述べたとおり、人工妊娠中絶は基本的には堕胎罪を構成する。ただ、母体

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    同志社法学 六九巻七号一二三六三二六四

保護法に該当する範囲で正当化されるものがあるにすぎないのである。わが国においては、厳密にいえば、母体保護法の要件を満たしていない人工妊娠中絶が多く行われているという指摘もある。それにもかかわらず、母体保護法指定医による妊娠中期までの人工妊娠中絶は、実際にはほとんど処罰されることなく、事実上自由に行われている。このように、胎児に成長した段階の﹁生命の萌芽﹂はほとんど処罰されることがないという現状があるのに、こうした状態をそのままにしておいて、それよりさらに前の段階であるヒト胚の侵害を新たに処罰の対象とすることは、バランスを欠く ₃₅

という指摘も傾聴に値する。

第六節  人の生命の始期   ヒト受精胚の取扱いについて考えるには、人の生命はいつからはじまるのか、ヒト受精胚にどのような価値づけを与えるのか、という理念にまでさかのぼって検討する必要がある。生命のはじまりをいつと見るかについては、さまざまな分野からの検討が必要なのではなかろうか。たとえば、哲学や宗教の観点から、あるいは発生学の観点から、そして法の立場からは、受精卵という生命体にいかなる法的保護を及ぼすべきか、という観点から考察を加える必要があろう。1  民法的観点   民法上は、﹁私権の享有は出生に始まる﹂(民法一条の三)というのが原則であるが、不法行為による損害賠償、相続、遺贈の三つの項目については、﹁胎児はすでに生まれたものとみなす﹂という規定がある(民法七二一条、八八六条、九六五条)。この規定によって、たとえば、胎児のときに父親が死亡したようなケースにおいて、胎児が無事に生まれてきた場合には、その子にも相続権を認めるということになる。この相続が認められるためには、父親が死亡した時点において﹁胎児﹂であることが必要であるが、ここでいう﹁胎児﹂とはいつから始まるのか、という問題が生じる。着床の時点からなのか、それとも、受精のときからなのであろうか。従来は、いつ着床したのか、い

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    同志社法学 六九巻七号一二三七三二六五 つ受精したのか、明確には知ることができなかったので、このような議論は必要なかった。しかし、体外受精が行われる場合には、母の卵子と父の精子を体外で受精させ、母胎内に戻して着床させるので、受精や着床の日時が明白になる。こうした現状においては、受精の時点ですでに﹁胎児﹂であるといえるのか、それとも、まだその時点では﹁ヒトの生命の萌芽﹂にすぎないのか、という点は重要な分岐点となろう ₃₆

⑵  刑法的観点   それでは、刑法的な観点からみると、生命のはじまりや受精卵の法的性格はどのように考えるべきであろうか。わが国の刑法においては、人の生命については、殺人罪(刑法一九九条)の規定が直接﹁人間の尊厳﹂を保護するべく存在しているし、身体については傷害罪(刑法二〇四条)の規定が生命に次いで﹁人間の尊厳﹂を保護するべく存在している。また、胎児については堕胎罪(刑法二一二条以下)の規定が﹁生成中のヒト﹂として、すでに生まれたヒトの生命よりはやや縮小した形で﹁人間の尊厳﹂を保護するべく存在している。これに対して、ヒト受精胚や受精卵については、現在のところ、わが国には直接の規定はなく、その法的位置づけについては、議論が戦わされ続けている。いまだ人格権を有する﹁ヒト﹂とはいえないが、これが順当に成長すればいずれは胎児となり、さらには人になりうるものであることを考えると、やはり﹁モノ﹂ともいえないであろう。

  本章第四節において、ヒト受精胚を壊したり無用な実験に供したりするなど、濫用は防止するべきである、と述べた。その根拠は、ここから導かれよう。すなわち、ヒト受精胚は、人・胎児・動植物あるいは物のいずれとも違う、人の萌芽としての尊厳性と要保護性を具備した、﹁人の生命の萌芽﹂とみるべきであり、法秩序のなかでもそのような法的地位をもつものとして、尊厳をもって扱うべき存在だからである。3  欧米諸国との比較   欧米では、受精の瞬間から人であるとして、胚の人為的操作に反対する世論が強く、胚を使った研究や胚の法的地位の確立を求める議論が展開されてきた。人の胚は、﹁人そのもの﹂ではないが、﹁人の生命の萌

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    同志社法学 六九巻七号一二三八三二六六

芽﹂であり、潜在的な人間存在である。したがって、純粋な﹁モノ﹂として扱うことはできないので、医療や研究に用いる際には、法的規制によって保護する必要がある。欧米の議論の根底には、こうした考えがある。これに対して、わが国では、人の生命のはじまりに対する社会の関心は低く、胚に与えられるべき道徳的位置づけや法的位置づけは明らかにされてこなかった。

  欧米とわが国との議論状況の相違の一因として、両者における宗教的価値観の相違が考えられよう。欧米では、キリスト教文化が背景にあるため、生命の始まりについて厳しい態度がとられている。なかでも、生命の尊厳に対してもっとも敏感な反応を示すカトリック教会は、﹁人間は、受胎の瞬間から人間として尊重され、扱われるべきである。そして、その同じ瞬間から人間としての権利、とりわけ無害の人間だれにでも備わっている不可侵の権利が認められなければならない﹂という公式見解を示している。こうした考えを背景とする文化圏では、生殖医療技術についても、かなり規制の枠が出されている。これに対して、わが国においては、このようなキリスト教信仰という共通の土台がないため、人の生命がいつはじまるのか、という点について、欧米のようなこだわりがない ₃₇

。もちろん、宗教観の違いというのは、両者の相違の一因にすぎないのであり、ここにのみ問題を帰してはならないであろう ₃₈

。このヒト受精胚の保護をより普遍的な原則に高めるためには、その原則を、特定の宗教的な背景なしに基礎づけることが必要である ₃₉

第七節  ヒト受精胚の法的保護   前述したように、二〇一三年四月以降、わが国においては、新型出生前診断が行われるようになった。この診断によって、胎児が障がいを持っている可能性があるとされ、妊娠を続けるかどうかを選択できた妊婦のうち、九割以上の妊婦が中絶を選択しているという報告がある ₄₀

。こうした動向がみられる近年では、母体保護法が成立した頃には想定でき

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    同志社法学 六九巻七号一二三九三二六七 なかった状態が生じているのであり、堕胎罪、母体保護法で違法性が阻却される堕胎行為を検討し直さなければならない時期がきているようにも思われる。胚・胎児というものの意味を、さまざまな角度からもう一度総合的に問い直さなければならないのではなかろうか ₄₁

  ヒト受精胚は、純粋な﹁モノ﹂として扱うことはできない。これが順調に生育すれば、将来は胎児になり、ひいてはヒトになる存在である。﹁生命の萌芽﹂ともいえるヒト受精胚を、恣意的に操作したり、毀損したりするなどの濫用は、何らかの手段で規制する必要はあるように思われる。堕胎罪や母体保護法のあり方を問い直すことができれば、これに準ずる﹁生命の萌芽﹂であるヒト胚を恣意的に操作したり、これを毀損したりするなどの濫用を何らかの手段で規制することもありうるのではないだろうか。この規制の根拠は、当該具体的なヒトの生命の侵害のほかに、ヒトの﹁生命の尊厳﹂に反する不当な侵害に求めることができよう。ただ、かりにその規制を正当化できるとしても、このことが直ちに刑事規制の妥当性を肯定することにはならない。

第四章  クローン技術の許容性 第一節  先端医療を取り締まる唯一の立法   最後に、クローン技術の規制について検討してみたい。クローン技術のヒトへの応用について、わが国においては、二〇〇〇年に成立した﹁ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律﹂(以下、﹁クローン技術等規制法﹂)で規制されている ₄₂

。本法は、クローンなどの技術が、その用いられ方しだいでは、人クローン個体や交雑個体を作り出し、①人の尊厳の保持、②人の生命および身体の安全の確保、ならびに、③社会秩序の維持に重大な影響を与える可能性があ

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    同志社法学 六九巻七号一二四〇三二六八

ることから、これらの技術を禁止・規制し、社会および国民生活と調和のとれた科学技術の発展を期することを目的としている(第一条)。本法においては、規制に違反し、人クローン胚などを人または動物の胎内に移植した場合には、刑事制裁を課すことが明記されている。これまでにも、﹁臓器の移植に関する法律﹂のように、医療と法との関わりが問題になった法律がないわけではない。しかし、生命倫理と法とのかかわりが正面から問題とされ、さらに規定に違反した場合には刑事制裁まで予定している法律を規定したのはわが国においては初めてのことであった。驚異的なスピードで進歩を遂げる生命医療技術がヒトの生命のあり方に介入し、これを操作する可能性を生じさせていることを目の当たりにして、具体的な立法の問題として議論する必要性があったのであろう。

  クローン技術等規制法では、人クローン胚、ヒトと動物の交雑胚、ヒト性融合胚またはヒト性集合胚を人または動物の体内に移植するという、害悪のきわめて大きい、なおかつ医療・研究上も有用性がほとんどない行為、いわば﹁核心的行為﹂については法律により禁止し、これに違反した者には、一〇年以下の懲役もしくは一〇〇〇万以下の罰金、または両者の併科という重い法定刑による処罰が予定されている ₄₃

。これに対して、その﹁周辺的行為﹂、すなわち、これらの胚の作成という、害悪が比較的小さく、医学研究上も有用性が認められうる行為については、よりソフトなガイドラインで規制するという姿勢がとられた。一定の特定胚を人または動物の体内に移植する行為が禁止されており、体外での胚子の培養による再生的クローンや余剰胚の作成は、監督官庁の許可を得ていれば処罰の対象とならないのである ₄₄

第二節  クローン技術等規制法の保護法益   刑事規制を課すことを予定してまで、クローン技術等を規制する根拠は何であろうか。 1  倫理違反説   第一に考えられるのは、クローン技術等によって人間が生命個体を創出することは、生命倫理その

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    同志社法学 六九巻七号一二四一三二六九 ものの侵害であるという点である。たしかに、人間の生命は﹁モノ﹂ではないし、他の動物の生命とも異なる存在である。生命倫理は守るべきもので、どこかで歯止めをしなければならないであろう。しかし、これを保護法益として、侵害した者については刑事罰を課すると、倫理と法を同一視することになり、ひいては、国家が特定の倫理観や価値観を国民に押し付けるものになってしまいかねないという問題がある。倫理と法(刑法はとくに)は峻別しなければならないのである。⑵  クローン人間侵害説   そこで、次に考えられるのが、クローン技術等によって人工的に生を与えられた者の人権を侵害しているという立場である。すでに存在している人間のコピーとして生まれてくる者の、人としてユニークな存在として生まれてくる権利を侵害し、人工的に生まれさせられたクローン人間の、人としての尊厳に反するというのである ₄₅

。こうした考え方に対しては、すでに存在している存在を保護することは可能であるが、まだ存在していないものをどうして保護することができようか、という批判がある。すなわち、いまだ生まれていない存在を生まれてこないようにすることが、その人の保護にあたるとは考えにくいという批判である ₄₆

。受精卵や胚が保護されるのであればわかるが、ここで問題になっているのは、受精卵や胚以前のものの保護なのである。

3  体細胞提供者侵害説   第三に、クローニングのコピー元の人権が侵害されているという考え方もある。つまり、唯一無二である自己の存在が侵害されているということである。この考え方によると、コピー元になる者がクローニングに同意している、あるいはそれを望んでいる場合には、法益保護の価値がなくなり、処罰の根拠がなくなる。また、すでに死亡した者のクローニングも同様に禁止の根拠を欠くことになろう ₄₇

。4  テロメア仮説   第四に、技術の安全性を理由に規制を主張する立場もある。それぞれの生物には、最初から細胞分裂可能な回数がセットされており、寿命がおのずと決まっている。それゆえ、たとえば三〇歳の女性の体細胞からク

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    同志社法学 六九巻七号一二四二三二七〇

ローンの人間をつくった場合、最初の段階からその﹁人間﹂は細胞分裂を一定回数(三〇歳分)繰り返した後の生命体としてスタートする。人為的に寿命が短い状態の﹁人間﹂を作ることになるというのである。しかし、研究が進み、将来、この問題をクリアした場合、それどころか、むしろ、自然に生まれた人間よりも強い生命力をもたせることができるようになった場合には、この考え方によると、規制根拠を失うことになる。5  シャッフル理論   第五に、いわゆるシャッフル理論である。つまり、いろいろな組合せ、巡り合いのなかから、新たな生命体が誕生するという多様性があるからこそ、人間はひとりひとり存在意義があり、尊いのであるとする考え方である。﹁個性﹂というものもまさにここに見出すのである。たしかに、この指摘は倫理的な側面からはなかなか乗り越えられない規制根拠であろう。しかし、これは倫理的根拠としては有力であるが、この点をもって刑事規制の根拠とは言い難いであろう。

6  人間の尊厳侵害説   第六に考えられる規制根拠として、﹁人間を道具としてのみ使ってはならない﹂というカントが提示した命題がある。これを超えてしまうと、やはり、﹁人間の尊厳﹂を侵害しているというべきであり、これは法をもって規制しなければならない領域であろう。自分が臓器を必要とするときに、自分の身代わりに臓器を提供してもらう、という目的のためにクローン人間を作るという場合、クローン人間はまさに﹁道具としてのみ﹂存在する人間である。たしかに、利己的な目的のためにクローン人間が作られ、これを商業化することは安易に容認するべきではない。また、クローン人間を用いた治療法以外に他にとるべき手段がないようなケースでは、特定の人と遺伝的形質を同じくする人間を意図的に作り出し、人を﹁育種﹂するという優生学的理由で用いられるおそれもある。これは人間をもっぱら手段として扱うことであり、憲法で保障する個人の尊重の理念に反する。しかし、こうした弊害、反社会性は、生殖補助医療技術の濫用や遺伝子工学の人間への適用によっても生じるものである。これらに対する法規制がなされて

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    同志社法学 六九巻七号一二四三三二七一 いない現在、このような理由によってヒト・クローンの産出だけを禁止し処罰する根拠とすることはできないのではないか、との指摘もある。

7  検討   それでは、クローン技術等を、刑事規制によって制限する根拠をどこに求めるべきであろうか。刑法は、個人法益に関する犯罪については、法益の主体が法による保護を放棄している場合には、処罰しない。ただし、刑法は無限定に法益の放棄を認めているわけではなく、限界がある。二〇二条の規定からもわかるように、刑法は、生命の放棄を認めていない。また、判例でも、法益の主体が法による保護を放棄したとしても、社会倫理に照らし、相当でないと判断されるものについては、主体の意思表示は無効とするとされている。人間は単に個として孤立的に存在するのではなく、社会的存在であることからすれば、やはり生命処分については内在的な制限がある。したがって、﹁殺害を請求する権利﹂や﹁自殺の権利﹂としての自己決定権を認めることはできない。自己決定権は重要ではあるが、万能ではない。一個人だけの問題にはとどまらない領域については、その個人の意思に沿った行為を行うことが﹁人間の尊厳﹂を侵すおそれのあるものであれば、許容するべきではないのである。法益主体の意思表示の社会的相当性を判断する際に、﹁人間の尊厳﹂の侵害につながるかどうかがよりどころとなるのではなかろうか。クローンの問題は、まさにこの領域の問題であるといえよう。つまり、個人の自己決定とは本質的になじまない領域であり、クローン人間を作り出すことは、たとえ個人が望んでも正当化されないのである。クローン技術等規制法で保護しようとしている法益は、個人法益の枠を逸脱しており、むしろ﹁人間の尊厳﹂という新たな社会的法益として考えるべきなのである ₄₈

。ヒト・クローンの産出は、特定の個人の遺伝的形質を複製するものであり、たとえその者が複製元の個人とは別人格を持ち、形質においても完全に同一ではないにしても、人間の尊厳を侵害する行為である。また、クローン技術等を用いた人の生命の誕生は、親子関係、家族関係に混乱をもたらすことが必至である。こうした事態を放置、または甘受する社会では、人

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