ジョン・D・ロックフェラー1世の企業家活動と富の 集積, 1839‑1911年(2)
著者 鮫島 真人
雑誌名 經濟學論叢
巻 62
号 4
ページ 583‑633
発行年 2011‑03‑20
権利 同志社大學經濟學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013621
【研究ノート】
ジョン・D・ロックフェラー 1 世の 企業家活動と富の集積,1839-1911年(2)
鮫 島 真 人
目 次 は じ め に
1 ロックフェラー家のルーツと企業家ロックフェラーの誕生 1. 1 ロックフェラー家のルーツとビッグビル
1. 2 企業家ロックフェラーの誕生 1. 3 恐慌とロックフェラー
2 水平結合・垂直統合戦略とスタンダード社の設立 2. 1 南北戦争と石油産業の誕生
2. 2 水平結合・垂直統合戦略と盟友フラグラー
2. 3 スタンダード社の設立と南部開発会社事件(以上,前号)
3 スタンダード社の増資とタイドウォーター事件とトラストの形成(以下,本号)
3. 1 スタンダード社の増資(1)と「クリーヴランドの大虐殺」
3. 2 スタンダード社の増資(2)と石油パイプライン輸送の独占 3. 3 タイドウォーター事件とトラストの形成
4 反トラスト運動とスタンダード社の解体
4. 1 トラスト形成後の垂直統合戦略の拡大と技術開発 4. 2 反トラスト運動とアイダ・ターベル
4. 3 ジャージー・スタンダード社の解体と富の集積 お わ り に
3 スタンダード社の増資とタイドウォーター事件とトラストの形成
3. 1 スタンダード社の増資(1)と「クリーヴランドの大虐殺」
南部開発会社計画(SIC計画)が進行している最中,1872年1月1日ロック フェラーは,精油会社の買収とスタンダード社の増資をおこなうという2つ の決議を同社の役員会で決定した.彼は競争相手の多かったクリーヴランド の精油会社の買収と輸送部門への設備投資(輸送タンクの製造,パイプライン建 設)の目的のために,同社の株式数を1万株から2万5,000株に増やして,資 本金を100万ドルから250万ドルに増資した1).
ロックフェラーがクリーヴランドの精油業者22社を40日足らずで買収し たことは,のちに「クリーヴランドの大虐殺(Massacre in Cleveland)」2)と呼ば れ,水平結合戦略の始まりであった.彼は,まずクラーク・ペイン会社およ
びJ・スタンレーの会社を買収してからクリーヴランドの精油業者を効率的に
速く買収するというスタンダード社の成長目標を定めて,そのために同社の 資本金を100万ドルから250万ドルに増資を行うという自己管理によるマネー ジメント(目標管理,Management by Objectives and self-Control)を決めたのである.
ロックフェラーは一旦目標を定めると,その目標のために無駄を排除,節約,
効率性を追求する一連の政策を打ち出した3).
スタンダード社の第1回目の増資について,第 12 表の1872年1月1日現
1) スタンダード社の経営状況について,クリーヴランドの銀行家ダン・イールス(Dan P.
Eelles)がニューヨークの銀行に対して財務状況を述べているので,Nevins (1940) op. cit. Vol.1.,
p.273.から引用する.「この会社は100万ドルの資本,36万ドルの精油及び不動産の投資,残
余60万ドルは事業運営へ投資され,その負債は現在15万ドル以内で,大資金余剰(a large surplus of funds)を持っている」と同社の強固な財務状況を述べている.ロックフェラーの「実 体のある投資」を示すものとして,輸送タンク車を1870年に78台所有しており,石油輸送に 積極的に投資していたことがうかがわれる.Nevins (1940) pp.268-269.
2) ロックフェラーは,1872年2月17日から3月28日までの間に,クリーヴランドの競合する精
油会社26社のうち22社を吸収した.クリーヴランドだけでも大小合わせると,50の精油業者が いた.「クリーヴランドの大虐殺」に関しては,Abels (1967) op. cit., pp.83-93.(訳書,pp.99-109.)
3) ロックフェラーが石油産業に参入して約10年でアメリカ最大級の石油精製業者となった理由
の1つに彼の経営政策があり,利潤の内部留保および利潤の再投資が挙げられる.
在の株主のなかに4名の新しい株主が出でくるが,3名はクリーヴランドの3 つの主要銀行の銀行家であった.1人目はセカンド・ナショナル銀行のアマサ・
ストーン2世(Amasa Stone, Jr.),2人目はコマーシャル・ナショナル銀行のス ティルマン・ウイット(Stillman Witt),そしてマーチャンツ・ナショナル銀行
のT・P・ハンディ(T. P. Handy)の3名である.各々が頭取で資金調達の天才
であったロックフェラーの陣容の一角を形成した.もう1人のベンジャミン・
ブルースター4)(Benjamin Brewster)はフラグラーの鉄道仲間であり,スタンダー ド社の油送管(パイプライン)部の責任者であった.
ロックフェラーは第12表のスタンダード社の増資分1万5,000株のなかか ら,クリーヴランドのクラーク・ペイン会社(Clark, Payne &Co.)の買収に4,000
4) ベンジャミン・ブルースターの業績に関しては,晴山英夫(1976)「第一次大戦前のアメリカ における企業支配―その準備的一考察―」『商経論集』(北九州大学)第12巻1号,pp.37- 74.
第 12 表 1872年1月1日のStandard Oil Co. of Ohioの増資による株主の変化
(単位:100ドル)
(出所)Nevins (1953) op.cit., pp.134-135.
1872年1月1日
現在の株主 持株数 額面 増資分
15,000株の株主 持株数 額面
John D. Rockefeller 2,016 201,600 John D. Rockefeller, H. M.
Flaglerを除く現株主への
比例配分 4,000 400,000
William Rockefeller 1,459 145,900
H. M. Flagler 1,459 145,900 Clark, Payne & Co. 4,000 400,000 Samuel Andrews 1,458 145,800 John D. Rockefeller 3,000 300,000 S. V. Harkness 1,458 145,800 H. M. Flagler 1,400 140,000 Amasa Stone, Jr. 500 50,000 John D. Rockefellerへの委託 1,200 120,000
Stillman Witt 500 50,000 Jabez A. Bostwick 700 70,000
O. B. Jennings 500 50,000 J. Stanley 200 20,000
T. P. Handy 400 40,000
P. H. Watson 500 50,000
Benjamin Brewster 250 25,000
10,000株 1,000,000 15,000株 1,500,000
株およびJ・スタンレーの会社買収に200株,ペインの友人であったニュー ヨークの石油販売業者ジャベズ・A・ボストウィック5)のロング・アイラン ド・オイル社(Long Island Oil Company)買収に700株と,合計4,900株,額面 50万ドル相当を直接ふりむけた.そして彼は南部開発会社事件のキーマンで レーク・ショア鉄道の貨物輸送総代理人あったピーター・H・ワトソン(P. H.
Watson)へ500株,額面で5万ドル相当を与えた.また増資後のロックフェラー
の持株数は2万5,000株のうち,5,016株で約4分の1強の株式を所有した.
同年ロックフェラーは,クリーヴランド地域および全国市場で競争する有 力な精油会社を傘下に入れる目的でスタンダード同盟(Standard Oil Alliance)を 結成した.同時に彼は小規模の精油会社に対する力を強める目的で,のちに「中 央精油業者協会(Central Refiner’s Association)」となる「全国精油業者協会(National
Refiners’ Association)」を設立した.彼はスタンダード同盟と「全国精油業者協会」
を表面上は精油業界の秩序維持6)に利用して,裏ではスタンダード社による 独占化の目的のために有力な同業者を傘下に収め,弱小な同業者を次々と排 除した.
ロックフェラーは南部開発会社事件(SIC事件)で怯むことなく,スタンダー ド社に競合するクリーヴランドの25社の精油会社をひとつひとつ買収する凄 まじい攻勢に出た.彼は40日間足らずで22社を買収して,同社の精油能力
を全国の20%に引き上げた7).これが,「クリーヴランドの大虐殺(Massacre
in Cleveland)」である.彼の説得に最後まで応じなかったクリーヴランドの精
油会社は大小合わせて約30社あったが,やがてそのうちの多くは倒産した.
倒産した業者のなかには,ロックフェラーへの恨みを抱いたまま亡くなっ た人,石油関連の樽業者であった父親をもつジャーナリスト,アイダ・ター
5) 同社の社長がジャベズ・A・ボストウィック(Jabez A. Bostwick)で早くからスタンダード 同盟の一員となり,1873年にロックフェラーとアメリカン・トランスファー社(American Transfer Company)に出資してパイプライン・ビジネスに進出した.
6) 精油業界の秩序維持とは,同業者の乱立や精油価格の乱高下を防ぐことである.
7) Eloit Jones (1926) op.cit., pp.48-50.
ベル8)のように生涯をかけてスタンダード社やロックフェラー批判を繰り広 げる者もいた.アイダ・ターベルについてはあとの章で扱う.
ロックフェラーはスタンダード社が生き残るために精油業界の秩序維持は 必要不可欠であるという信念を持って9),「クリーヴランドの大虐殺」後も精 油業者へ働きかけて強引な買収をおこなった.彼が同業者の買収を継続して いるときに,南北戦争後,はじめての恐慌が1873年におこった10).
この恐慌の被害は全米に及んだことで労働者たちの不満が爆発して,彼ら の抗議活動が激しいときには暴力事件に発展した.この恐慌はスタンダード 社にとっても苦しかったが,ロックフェラーは抵抗する相手に徹底した値下 げ競争を仕掛け,ニューヨークをはじめ全米の精油会社を強引に買収した.
1873年の恐慌は,結果として水平結合戦略におけるロックフェラーの同業者 の買収をあと押しする結果となった.
ロックフェラーはスタンダード社の国内販売を強化する目的で,1873年ア メリカ南部の有力な石油仲買業者チェス・カーリー社の権利を半分買収した.
彼は矢継ぎ早に石油卸売業者を買収し,1875年にはセントルイスのウォーター ズ・ピアス社も傘下に収めて垂直統合戦略の前方統合を進めた11).
南北戦争後,はじめての恐慌がおこった1873年を第2表,第4表,第5表,
の3表から分析すると,アメリカの原油の生産量・精製油生産量・石油総輸
8) アイダ・ターベルのスタンダード社やロックフェラー批判に関しては,Tarbell, Ida M. (1969) The History of the Standard Oil Company, (Chalmers David C., ed.) New York: Norton.
ターベルの他の有名著作としてはU. S. SteelのJ.P.モルガンの右腕であったエルバート・ゲ アリーに関してのTarbell, Ida M., (1933) The Life of Elbert H. Gary: A Story of Steel, New York: D.
Appleton-Century Company, Inc.がある.
9) ロックフェラーのこの信念に関して,チャーナウはアメリカ合衆国の歴史において,ロック フェラーほど自分のしていることが正しいと信じて疑わなかった実業家はいないと述べている.
またロックフェラーは常人には無い驚異的な記憶力の持ち主である反面,自分の都合の悪い事 は本当にすっかり忘れてしまうとも述べている.
10) 南北戦争のつけがまわってきた1873年の恐慌は,ミズーリ・カンサス・アンド・テキサス
鉄道がニューヨーク・ウエアハウス・アンド・セキュリティ社への期限内の支払いができなかっ たために,その影響でジェイ・クック社,キーオン・コックス社などの金融会社が破綻して引 き起こされた.ブルナー/カー(2009),前掲書,pp.12-13, p17.
11) 安部悦生(2002)「ロックフェラーと石油産業―経営戦略と企業形態―」安部悦生,壽 永欣三郎,山口一臣(2002)『ケースブックアメリカ経営史』有斐閣,所収,p81.
出量は次のようになる.
1873年のアメリカの原油の生産量は989万バーレルであったが,貯蔵およ び運送途中の消耗によって原油の実質出荷量は950万トンであった.そのう ち,国内の原油出荷量は904バーレルで生産量の95.2%を占め,原油輸出量 は46万バーレルで4.8%と20分の1以下であった.
精製油生産量は675万バーレルでそのうち,精製油国内出荷量は185万バー レルと精製油生産量の27%を占め,精製油輸出量は490万バーレルで73%
と7割を占めた.原油と精製油を合わせた石油総輸出量は536万バーレルで,
そのうち原油輸出量が46万バーレルで9%を占め,精製油輸出量は490万バー
レルで91%と石油総輸出量の9割をこえた.
精製油輸出量は1862年対比で約54倍,1870年の258万バーレルから約2 倍の490万バーレルに伸ばした.石油総輸出量が1862年27万バーレルから 1873年536万バーレルと11年で約20倍とすると,精製油輸出量が石油総輸 出量の大半に寄与したのである.
1873年合衆国からの石油の輸出先として,第6表から,ヨーロッパが原油 の輸出先として44万バーレルで96%,灯油は1870年対比と変わらず90%を 占めたが,数量は約1.5倍に増加した.英国の石輸入量は1870年対比で2倍 に増加したが,合衆国からのヨーロッパ向けの10分の1に低下した.その分,
ドイツとフランスの比率が高まり,特にドイツが原油および灯油輸入量伸ば した.
精製工場は,当初,広い地域に分散していたが,1860年代半ばには,ピッ ツバーグ,ニューヨーク,石油地帯,クリーヴランドの4大石油精製センター を形成した12).第 13 表から,1865年の合衆国における主要な精製地域の精 製能力日量は11,680バーレルであり,4大石油精製センター(ニュージャージー を含む)は10,560バーレルで90%を占めた.
最大の石油精製センターはピッツバーグで精製能力日量は4,500バーレ
12) Williamson and Daum (1959) op.cit., p.289. Abels (1967) op.cit., p.51. (訳書,pp.65-66.)
ル(39%)あり,クリーヴランドの800バーレル(6%)の5倍以上であった.
1870年代になると石油輸送の主流は鉄道輸送になるが,1860年代半ばは河川 輸送であった.そのために,オイル・クリークとアレガニー川を利用できるピッ ツバーグが石油輸送において,他の石油精製センターと比較して有利であっ た.
1873年の合衆国における主要な精製地域の精製能力日量は47,600バーレ ルであり,1865年対比で4倍になった.クリーヴランドの精製能力日量は
12,500バーレル(26%)とピッツバーグを抜いて最大の石油精製センターとし
て台頭した.スタンダード社は,日産1万バーレルの精製能力を持っていた.
クリーヴランドが台頭した理由は,鉄道輸送および水上輸送もできる立地 上の有利さ,資材調達,人件費の安さなどあるが13),これらの地理的条件を うまく活用したロックフェラーの経営政策にあった.しかも,4大石油精製 センターにおいて,ピッツバーグの24工場,ニューヨーク19工場,石油地
13) Abels (1967) op.cit., p.51. (訳書,pp.65-66.)
第 13 表 主要な精油地域における原油処理能力日量の推移
(単位:1バーレル=42ガロン)
精油地域 65年 % 73年 %
ピッツバーグ 4,500 39 10,000 21
フィラデルフィア 600 5 2,000 4
ボストン 500 4 600 1
ニューヨーク・
ニュージャージー 3,100 26 10,000 21 クリーブランド 800 6 12,500 25
石油地帯 2,160 19 9,200 20
エリー …… …… 1,200 3
ボルティモア 20 …… 1,200 3
その他 …… …… 900 1
総 計 11,680 100 47,600 100
(出所)Williamson and Daum (1959) op.cit., p.325, p.332, p.291.
帯27工場に対して,クリーヴランドは6工場14)に集約しピッツバーグの精 製能力を上回った15).
ロックフェラーは,フィラデルフィア,ピッツバーグおよびニューヨーク といった地区の大手精油所会社の社長たちにスタンダード社の買収に応じる ように説得し了解をとりつけて,同社の増資とパイプライン輸送業への新規 参入の準備を進めていた.
3. 2 スタンダード社の増資(2)と石油パイプライン輸送の独占
1875年3月10日ロックフェラーは,2社の大手精油会社の買収目的のため に,スタンダード社の株式数を2万5,000株から3万5,000株に増やして,資 本金を250万ドルから350万ドルにする2度目の増資をおこなった.
今回の増資は第 14 表から,フィラデルフィアおよびピッツバーグといっ た地区の大手精油所であったウォードン・フルー社16),ロックハート・フルー 社17),ニューヨークの精油会社チャールズ・プラット社18)の買収目的に93 万7,500ドル,S・V・ハークネスに6万2,500ドルペンシルヴェニアであった.
ロックフェラーは今回の買収で,フィラデルフィアおよびピッツバーグの精 油能力の半分以上を占有した19).
ウォードン・フルー社のウィリアム・G・ウォドン(William G. Warden)とチャー ルズ・ロックハート(Charles Lockhart)は1872年の南部開発会社(SIC)の株 主であったが,どちらかといえばペンシルヴェニア鉄道のスコットから推薦
14) 6社は,スタンダード社,ハンナ・チャピン社,スコフィールド・スクワイア・アンド・ティ
グール,ビショップ・アンド・ハイゼル,W. H.ドーン,コリガン社である.Henry, J. T. (1877) Early And Later-History of Petroleum, p.317.
15) Williamson and Daum (1959) op.cit., p.147.
16) ウォードン・フルー社(Warden, Frew & Co., 665 barrel/day,精油所名アトランティック精油 所.) Henry (1877) op.cit., p.319.
17) ロックハート・フルー社(Lockhar, Frew & Co., 670barrel/day,精油所名ブリリアント精油所.) Henry (1877) op.cit., p.318.
18) チャールズ・プラット社(Charles Pratt & Co., 1,500barrel/day,精油所名プラッツ精油所ブルッ クリン.) Henry (1877) op.cit., p.316.
19) Williamson and Daum (1959) op.cit., p.348.p.417.
を受けたロックフェラーの反対勢力に属していた.チャールズ・プラット社 のチャールズ・プラットはSIC事件のとき,反ロックフェラー派の急先鋒で あった.そのような彼らが2〜3年後の1875年には,ロックフェラーの説得 に応じて彼の陣営に参加したのである.
ロックフェラーは彼らのような敵に好条件を提示して懐柔し,最後には味 方につけて忠誠を誓わせたのである.彼は,ニューヨーク,フィラデルフィア,
ピッツバーグといった精油業の盛んな地区の大手精油所を買収して,当時の 第 14 表 1875年3月10日のStandard Oil Co. of Ohioの増資時における株主
(単位:100ドル)
〈1875年3月10日現在の株主〉J. Huntington John D. Rockefeller D. M . Harkness
S. V. Harkness Josia Macy
H. M. Flagler W. H. Macy
S. Andrews W. T. Wardwell
O.H. Payne D. P. Eells
B. Brewster S. F. Barger
T. P. Handy W. H. Vanderbilt
O. B. Jennings H. W. Payne
William Rockefeller J. J. Vandergrift
J. Stanley John Pitcairn, Jr.
A. M. McGregor
L. G. Harkness W.C. Andrews
A. J. Pouch 〈増資分1万株の株主〉 持株数 額面
F. A. Arter Warden, Frew & Co. 6,250 625,000
P. H. Watson Charles Pratt & Co. 3,125 312,500
J. A. Bostwick S.V. Harkness 625 62,500
10,000株 1,000,000
(注)1875年3月10日現在の株主の持株数は不明.
(出所)U. S. Bureau of Corporations (1907) op.cit., pp.50-51.
Nevins (1953) op.cit., p.210.
アメリカの3大鉄道(ニューヨーク・セントラル,ペンシルヴァニア,エリー鉄道)
沿線の主だった精油所を全ておさえたのである.その結果,1877年に,スタ ンダード社はアメリカの石油精製品の約70%を生産した.
ここに至るまでのロックフェラーの努力は並大抵ではなかった.資金面1 つをとってみても多額の融資を受けており,わずかでも資金繰りが狂えば,
スタンダード社は崩壊する危険性を常に持っていたであろう.彼はさきに述 べたクリーヴランドの3つの主要銀行20)やハークネスを筆頭とする投資家か ら融資を受ける天才(資金調達の天才)であり,かつここぞというビジネスの 勝負時には投資できる度胸を持った人物であった.
そしてロックフェラーは利潤の内部留保によって,同社が強い財務体質をも つようになると次第に銀行に依存しなくなり,1882年のスタンダード・オイル・
トラスト(S.O.T.)成立以降,同トラスト内の会社は相互に資金を融通しあうの である21).1885年に彼は次のように「私は,スタンダード・オイルのように巨 大な事業はそれ自身が資金をもち,ウォール・ストリートに依存すべきでない と考える」22)と彼の見解を述べている.また彼が引退後,力説した言葉に,「我々 は最初から大利潤を獲得し,そして我々はそれを事業に留保した」23)とある.
SIC事件の運賃リベートの協定で煮え湯を飲まされて以来,ロックフェラー はフラグラーとブルースターに相談しながら,スタンダード社を鉄道依存の 高い輸送体制から自前のパイプライン輸送のできる会社へと転換する計画を 立てた.
ロックフェラーのパイプライン輸送業界の独占についての考察に先だって,
20) クリーヴランドの3つの主要銀行(銀行頭取)とは,セカンド・ナショナル(アマサ・ストー
ン2世),コマーシャル・ナショナル(スティルマン・ウイット),マーチャンツ・ナショナル
(T・P・ハンディ)で,ロックフェラーの陣容の一角を形成した.3人の銀行頭取はスタンダー ド社の株主であったが,ロックフェラーはのちにストーン2世の存在が邪魔になり,スタンダー ド社の株式を買い取り排除した.ロックフェラーは一時的であったがオハイオ州国法銀行の重 役を務めたこともあるが石油の仕事に集中したいために熱心ではなかった.Abels (1967) p.85,
(訳書,p.101.) Nevins (1953) op.cit., p.100.
21) 井上忠勝(1959c)前掲論文,pp.37-39.
22) Hidy and Hidy (1955) op.cit., p.607.
23) Nevins (1940) op.cit. Vol.1, p.273.
パイプラインの建設と分類について述べると,最初のパイプラインの建設は 1865年にヴァン・シッケルが馬車輸送を除去するために行った24).石油パイ プラインの大まかな分類についていえば,直径2ないし4インチの小口径の ギャザリング・パイプライン(gathering pipeline)と直径6インチ以上の幹線 パイプライン(trunk pipeline)に分かれる.幹線パイプラインは,原油幹線パ イプライン(crude trunk pipeline)と精油幹線パイプライン(gasoline or products
trunk pipeline)に分かれる25).彼はコストダウンをするためにパイプライン輸
送を原油と精製品の両方に利用したので,ここでは原油幹線パイプラインと 精油幹線パイプラインを取り扱う.
ロックフェラーはニューヨークのジャベツ・A・ボストウィック(Jabez A. Bostwick)と 提 携 し,ア メ リ カ ン・ ト ラ ン ス フ ァ ー 社(American Transfer
Company)に出資して1873年にパイプライン・ビジネスに進出した.同社の
パイプライン建設26)を請け負ったのが,のちにスタンダード社のパイプライ ン担当重役になるダニエル・オディ(Daniel O’Day)27)であった.
スタンダード社がパイプライン・ビジネスに進出した翌年の1874年にロッ クフェラー夫妻にとって,念願であった長男ジョン・D・ロックフェラー2 世(John Davison Rockefeller Jr., 1813-89,以下,ロックフェラー2世と略記)が誕生した.
同年ロックフェラーは,船舶運輸業者ヤコブ・J・バンダーグリフト28)(Jacob
24) クルースH. E. / ギルバードC.(1974)『アメリカ経営史』下,東洋経済新報社,p.310.
25) ギャザリング・パイプラインは,2 or 4インチの小口径で油井からセントラルポイントへの
集油のパイプラインである.トランクラインとは,直径6インチ以上でパイプライン・システ ムの主要ラインである.パイプラインの効果,建設コスト,種類については小谷節男(2000)
前掲書,pp.114-117, 257-258.
26) アメリカン・トランスファー社(American Transfer Company)のパイプライン建設とは,ク ラリオン油田からアレガニー川沿いのエムレントンまでの約80マイルのパイプライン建設で あった.小谷節男(2000)前掲書,p.274.
27) エネルギシュなダニエル・オディはロックフェラーの好む人物であった.またオディと血縁 関係だとされるジョン・オディ博士は,彼の著作である『Oil Wells in the Woods』の中でスタ ンダード社を擁護してアイダ・ターベルの同社への批判を攻撃した.Abels (1967) op.cit., p.269.
28) ピッツバーグの船舶運輸業者バンダーグリフトは蒸気船ではしけを曳くアイディアを用いて アレガニー川で儲けて,下流油田地帯にバンダーグリフト・アンド・フォアーマン・パイプラ イン社(Vandergrift and Foreman Pipeline Company)を設立してスタンダード社の役員となり,
パイプラインの大資本家となる.Abels (1967) op.cit., p16. (訳書,p.25.)
J. Vandergrift)が下流油田地帯29)のパイプライン5社を統合して設立したユナ イッド・パイプライン社(United Pipe Line Company)に,23万3,333ドルを出 資して3分の1の株式を取得した.彼は同社の9人の重役のなかにダニエル・
オディを含むスタンダード同盟の役員6名を派遣した30).バンダーグリフト は南部開発会社計画(SIC計画)のとき,反ロックフェラー派であったがロッ クフェラーの陣営に参加したのである.
ロックフェラーはこのときから,スタンダード社の精油能力と運輸部門か ら引き出した利潤を背景にパイプライン建設とターミナル施設を拡大して既 存のパイプライン会社を支配する方向に舵をとった.彼は1878年,最後に残っ たペンシルヴェニア鉄道の子会社で石油地帯最大の輸送サービス事業を行う エンパイア輸送会社31)(Empire Transportation Company)を340万ドルで買収し,
既存のパイプラインの輸送業界を独占した.32)
スタンダード社は長距離パイプラインを建設して原油と精製品の両方にパ イプライン輸送を利用し33),コストダウンを図った.当時,長距離パイプラ インの建設は,鉄道会社の物量を大幅に減少させるものであった.そのため にギャザリング・パイプラインに対してとっていた従来の鉄道会社の好意的 な姿勢は異なり,幹線パイプラインに対して敵対的な姿勢となった.同社は 鉄道会社と激しく輸送価格を競争した.特に同社とペンシルヴェニア鉄道と の競争は熾烈を極めた.結果的には,同社が鉄道会社との間で繰り広げた競
29) 下流油田地帯とはペンシルヴェニア油田のバトラー,クラリオン,アームストロング郡を指 し,上流油田地帯とはアレガニー川の上流地帯のオイル・クリークを指す.小谷節男(2000)
前掲書,p.259.
30) 小谷節男(2000)前掲書,p.274.
31) エンパイア輸送会社(Empire Transportation Company)は1865年に設立されたペンシルヴェ
ニア鉄道の子会社で翌年にパイプラインに参入した.Abels (1967) op.cit., pp.122-125. (訳書,
pp.136-139.) Eloit Jones (1926) op.cit., pp.52-54.
32) エンパイア輸送会社(Empire Transportation Company)は1865年に設立されたペンシルヴェ
ニア鉄道の子会社で翌年にパイプラインに参入した.Abels (1967) op.cit., pp.122-125. (訳書,
pp.136-139.) Eloit (1926) op.cit., pp.52-54.
33) ロックフェラーは原油と精製品の両方をパイプライン輸送するために,原油幹線パイプライ ン(crude trunk pipeline)と精油幹線パイプライン(gasoline or products trunk pipeline)を建 設して利用した.
争は鉄道業界の運賃低下と安全性やサービスの向上を促し,ある面では鉄道 業界を活性化させ拡大させた.
第 15 表から,19世紀の最後の四半世紀の間に石油製品はアメリカ国内だ けでなくヨーロッパを中心に世界各地へ輸出され,石油製品の生産量は765 万バーレルから4,970万バーレルへと約6.5倍に増加して,主力製品であった 灯油の生産量も約652万バーレルから3,000万バーレルへと約4.5倍と飛躍的 に伸びた.1890年代に入ると,灯油だけでなく重油,潤滑油およびその他の 石油製品の需要も世界的に拡大され,石油産業は世界規模のビッグ・ビジネ スとなった.
ロックフェラーは多くの主だった精油所をスタンダード社の傘下におさめ,
スタンダード同盟は11社になった.また彼は東部の主要鉄道における原油輸 送と精油輸送の協定運賃と運賃リベートをも支配し,エンパイア輸送会社を 買収して既存のパイプラインの輸送業界を独占した.石油業界におけるロッ クフェラーの独占が完成したかのように思われたが,まだペンシルヴェニア
第 15 表 石油製品の生産量の推移
(単位:1,000バーレル,カッコ内は%)
製品 年 1873-75
平均 1878-80
平均 1883-85
平均 1889 1894 1899 ナフサ―ベンジン
―ガソリン 894.7
(10.5) 1,482.2
(11.5) 2,442.0
(13.0) 3,900
(14.1) 6,100
(13.8) 6,700
(13.5)
灯 油 6,529.5
(83.0) 10,799.8
(86.0) 15,171.4
(82.0) 20,200
(73.2) 29,500
(66.6) 30,000
(60.4)
重 油 3,400
(7.7) 7,300
(14.7)
潤滑油 225.8
(2.5) 376.1
(2.5) 884.2
(4.5) 1,800
(6.5) 3,300
(7.4) 4,100
(8.2)
その他 1,700
(6.2) 2,000
(4.6) 1,600
(3.2)
計 7,650.0
(100.0) 12,656.1
(100.0) 18,497.6
(100.0) 27,600
(100.0) 44,300
(100.0) 49,700
(100.0)
(出所)Williamson and Daum (1959) op.cit., p.485, p.615.
州の石油生産業者との決着はついていなかった.
3. 3 タイドウォーター事件とトラストの形成
ペンシルヴェニアの石油生産業者は,スタンダード社のエンパイア輸送会 社の買収によって国内販売とヨーロッパ向けの輸出の要であるニューヨーク を中心に東海岸市場への石油を直接販売できなくなる危機に直面した.例え るならば,もっとスケールアップした南部開発会社計画(SIC計画)の再来で ある.それを阻止するためにペンシルヴェニアの石油生産業者と投資家が極 秘に団結して34),石油生産者同盟(Petroleum Producer’s Union)を組織した35). 石油生産者同盟は「石油会議」と呼ばれる会議を重ね,1875年に発見され たペンシルヴェニア州のブラッドフォード油田36)の原油をスタンダード社よ りも低コストで東海岸の巨大市場に輸送する2つのプロジェクトを支持する ことを決めた37).1つは独立業者ルイス・エメリー2世38)(Lewis Emey, jr.)の ブラッドフォード北部油田からバッファローまでパイプライン輸送し,その あとは船積みしてエリー運河を通じてニューヨークまで運ぶというエクイタ ブル(Equitable)計画であったが実現しなかった39).もう1つがバイロン・D・ ベンソン(Byron D. Benson),デビット・マッケルビー(David Mckelvy),ロバー ト・E・ホプキンス(Robert E. Hopkins)たちの3人のベンチャー企業から始まっ たタイドウォーター(Tidewater)計画であった.
34) バイロン・ベンソン(後のダイドウォーター社社長),ロバート・ホプキンス,デビット・マッ
ケルビー,ルイス・エメリー2世,フランクリン・ゴーエン社長(ペンシルヴェニア・アンド・
レディング鉄道会社社長)などである.Abels (1967) op.cit., p.144.
35) 石油生産者同盟は,2,000人以上の石油生産者を代表する172名の代議員からなるものであっ
た.Tarbell (1904) op.cit., pp.213-214. Abels (1967) op.cit., p.135. (訳書,p.150.)
36) ブラッドフォード油田はペンシルヴェニア州マッケ郡,ニューヨーク州カタラウス郡に位置 し,1878年には日産650万バーレルの産油があり,全国産油量の42%を占めた.小谷節男(2000)
前掲書,pp.259-261.
37) Tarbell (1905) op.cit. Vol. 1, pp.213-214. Abels (1967) op.cit., p.135. (訳書,p.150.)
38) ルイス・エメリー2世は石油地帯において石油生産業と精油業を営む,活動的でもっとも資
力に富む独立業者であった.
39) エメリー2世は1878年この計画のためにエクィタブル・ペトロレアム・カムパニー(Equitable
Petroleum Company)を設立した.Abels (1967) op.cit., p.139. (訳書,p.154.)
彼らの計画は,まずオイル・クリークから約300キロメートルの東に位置 するブラッドフォード下流油田(クラリオン郡)からウイリアムズポートま での全長175キロメートルの長距離のパイプラインを敷設して原油を輸送す る.次にその原油をペンシルヴェニア鉄道の系列会社である地元のペンシル ヴェニア・アンド・レディング鉄道を使って運ぶか,船で輸送する計画であっ た40).彼らはその計画のために,1878年11月資本金51万5,000ドルのタイ ドウォーター・パイプライン・カンパニー(Tidewater Pipeline Company, Limited,
以下,タイドウォーター社と略記)を立ち上げた41).社長にはバイロン・D・ベ ンソンが就任し,パイプラインの主任技師にはパイプライン敷設のベテラン であるハーマン・ハウプト将軍(General Hermann Haupt)が選ばれた.
ロックフェラーはタイドウォーター社によって約2年間苦戦を強いられた.
彼はこのパイプライン建設を阻止するために,スタンダード社のパイプライ ン担当重役のダニエル・オディに指示してあらゆる手段をつかい,徹底的に 妨害した.彼はパイプラインの工事現場への資材調達阻止やパイプライン敷 設予定地の買い上げ,議会にも働きかけてパイプライン建設の阻止などを行っ た.さらに彼はタイドウォーター社が販売先として当てにしていたニューヨー クの精油業者6社を同社の建設中にスタンダード社に吸収した.
しかしタイドウォーター側もベンソンやハウプト将軍を中心に結束し,必 死の覚悟でロックフェラーのいかなる妨害に屈することもなく,1879年5月 22日,約75万ドルの投資で長距離のパイプライン工事を完成させた.タイ ドウォーター社の長距離パイプラインの完成について,Abels (1967)は,「計 画は成功であった.石油工業の新しい時代が訪れはじめた」42)と述べている.
こうように書いてくると,どうしてもロックフェラーが極悪非道に映るが,
40) Tarbell (1905) op.cit. Vol.2, p.4. Hidy and Hidy (1955) op.cit. p.21.
41) タイドウォーター社の資本金51万5,000ドルの内,フランクリン・ゴーエン社長(ペンシ
ルヴェニア・アンド・レディング鉄道会社社長)が25万ドル,バイロン・ベンソンが10万ド ル,そして10万ドルから1,000ドルに至る個人の出資金で多数の石油生産が出資した.小谷 節男(2000)前掲書,p.266.
42) Abels (1967) op.cit., p.145. (訳書,p.160.)
規制も無くモラルも十分に無い当時のアメリカでは,パイプラインの工事を 阻止する彼の手法が特にあくどいというものではなかった.ただ彼の場合は 資金も人材も豊富にあり,その分彼のやり方が大規模になり,世間の注目を 引いたのである.立場が代われば相手方も,それぐらいのことはやらなかっ たとは言えないのである.
どんなことをしても諦めないロックフェラーはタイドウォーター社への対 抗策として,自社のパイプラインの料金と鉄道の運賃を大胆にも50%近く下 げた.すると,大幅な値下げの効果が表れ,タイドウォーター社のパイプラ インの稼働率が50%にまで落ちた.それに加えて,ウイリアムズポートでソー ラー精油社(Solar Refining Company)という会社が設立されて日産1,000バー レルの精油所が建設されることになった43).すると,タイドウォーター社の 経営陣はスタンダード社という超巨大企業と戦うことに限界を感じたためか,
完成から1年も経たない1880年3月にスタンダード社の傘下に入った.
1881年4月にロックフェラーは,オハイオ・スタンダード社の子会社であっ たユナイッド・パイプライン社とアメリカン・トランスファー社を吸収して,
資本金3,000万ドルの巨大なナショナル・トランジット社44)を設立した.
ロックフェラーは手を緩めることもなく,タイドウォーター社を乗っ取る
(Take-Over)という指示を腹心のアーチボルドに出した.アーチボルドの工作 によって,タイドウォーター社のベンソンら経営陣は信頼していた投資家に 裏切られ,1882年同社の経営をロックフェラーに渡し,同社はナショナル・
トランジット社に吸収された.
タイドウォーター事件はロックフェラーに従わず対抗するものに対して,
彼がどんな手段を使っても諦めることなく,相手を徹底的に潰すことを世間 に示した事件であった.またロックフェラーが精油部門の支配と運輸部門の 利潤を背景に,名実ともに石油パイプラインの輸送業界を独占し,精油所の
43) Williamson and Daum (1959) op.cit. p.409, p.438, pp.441-443. Abels (1967) op.cit., p.144. (訳書,
p.159.)
44) ナショナル・トランジット社についてはAbels (1967) op.cit., p.150, p.156. (訳書,p.166, p.171.)
立地をマーケティング・エリアに移行させるという石油輸送の新時代を開い た事件でもあった.
タイドウォーター社の乗っ取りを画策しているさなか,ロックフェラーは 異なる州に存在するスタンダード同盟の会社を合体させてきた「プール(Pool)
方式」に限界を感じていた.同方式の企業集中の形態が緩いために,商取引 や輸送の面で拘束力が弱く,そのために協定がしばしば破られた.彼はこの 問題に対処するために,フラグラーにクリーヴランドの2人の弁護士,マイ ロン・P・ケイス(Myron P. Keith,以下,ケイスと略記)とルフス・P・ランニィ(Rufus
P. Ranney)の3人でスタンダード社の株式を受託者(トラスティー,Trustee)に
譲渡するというフラグラーの考案したトラスト45)について何年も研究してい た46).
1879年4月8日にロックフェラーは第 16 表のスタンダード社の37の株主 の信託を受けて,弁護士である3名の受託者,ケイス,ジョージ・H・ビラ ス(George H. Vilas),ジョージ・F・チェスター(George F. Chester)に同社の3 万5千株の株式を預託した最初のトラスト協定(The First Trust Agreement)47)
を成立させた.この協定で3名の受託者に会社の所有権の保有があることを 法律的に明らかにしたことで,同社に不都合なことがあれば株主のために行 動したと言い逃れることができる利点があった.もちろん3名の受託者はダ ミー・トラスティーであり,真の支配者はロックフェラーたちであった.
第16表からロックフェラーはオハイオ・スタンダード社の全株式数3万 5千株のうち8,934株,持分比率では25.6%と4分の1以上を保有し,彼か らサミュエル・アンドルーズの弟ウィリアム・C・アンドルーズ(William C.
45) トラストという言葉はトラスティーシップ(Trusteeship,受託者[理事]の職[地位],受託者度)
を意味しており,昔は寡婦や孤児を保護する時の言葉でもあった.今や受託者のあるなしに関 係なく,巨大な独占の企業体を意味することに使用されるようになった.Yergin, Daniel (1991) The Prize : The Epic Quest for Oil, Money & Power, Simon & Schuster, pp.44-47. (ヤーギン,ダニエ ル(1991)『石油の世紀―支配者たちの興亡―』上,日本放送協会,pp.62-63.) 46) Williamson and Daum (1959) op.cit., p.467.
47) この協定は,「the Keith, Vilas, and Chester Agreement」として知られる.Ibid. p.468, p.814.
Andrews)までの10大株主で同社の8割の株式を保有した.兄アンドルーズ はこの表に記載されていないことから,1879年には独立していたことが窺え る48).
またマーク・ハンナは,Hanna & Chapinという会社名義でスタンダード社 の株式を263株(第21位,額面で2万6,300ドル相当)保有した株主であっ た.パイプライン事業に貢献したニューヨークのボストウィック,ユナイッ ド・パイプライン社のバンダーグリフト,ブルースターらが20大株主に名を 連ねた.同時に3人のクリーヴランドの銀行家が株主から姿を消したことで,
スタンダード社の資本の蓄積が一段と進み資金的に余裕ができたと思われる.
ロックフェラーは,1879年の最初のトラスト協定(The First Trust Agreement)
の成立でオハイオ・スタンダード社の資産の所有権を明らかにした.そのこ
48) サミュエル・アンドルーズは1878年ごろにロックフェラーの会社拡大のための利益の再投
資などの経営方針との違いから,彼の所有する同社の全株式をロックフェラーに100万ドルで 売却して独立した.
第 16 表 1879年4月8日のトラスト設立時におけるStandard Oil Co. of Ohioの10大株主
(単位:100ドル,%)
(出所)Stevens (1913) op.cit., pp.15-16.
順位 株主 持株数 額 面 持分比率(%)
1 John D. Rockefeller 8,984 898,400 25.6
2 H. M. Flagler 3,000 300,000 8.5
3 S. V. Harkness 2,925 292,500 8.3
4 Charles Pratt 2,700 270,000 7.7
5 O. H. Payne 2,637 263,700 7.5
6 J. A. Bostwick 1,872 187,200 5.3
7 W. Rockefeller 1,600 160,000 4.5
8 Charles Lockhart 1,408 140,800 4.0
9 William C. Warden 1,292 129,200 3.7
10 W. C. Andrews 990 99,000 2.8
合 計 27,408 2,740,800 77.9
とで先ほど述べたようにメリットもあるが,デメリットも発生した.同社の 法的身分が明確になり,具体的に同社の資産の所有方法がペシルヴェニア州 法に違反しているのではではないかという問題49)や受託者相互間での利害衝 突などがクリーヴランド・オフィスに集中した.
ロックフェラーはビジネスが大きくなれば,コンビネーションも増大して 権益の衝突も増えると考えた.彼はより良い統合のために,フラグラーと新 たにスタンダード社の主導的法律顧問弁護士となったサミュエル・C・T・ドッ ド50)(以下,ドッドと略記)に,極秘で新しい協定について報告するように要請 していた.新しい協定とは,同社の権益を1つの所有権と指揮のもとに再編 成することのできる1879年のトラストにかわるものであった.
ドッドのトラストについて考察する前に,彼がスタンダード社の顧問弁護 士になった経緯と1863年頃に彼の書いた詩について紹介したい.彼は鉄道運 賃のリベートについて強い反対者であったが,ロックフェラーの度重なる説 得に応じて,1879年4月8日のトラスト協定の成立後に同社の新しい統合に ついて研究する顧問弁護士となった.
ドッドは彼の顧客であったユナイッド・パイプライン社のバンダーグリフトの エクイティ訴訟51)の代理人として,1878年スタンダード社を訪問してロックフェ ラーと面会した.彼はその時のロックフェラーの印象について,「ひじょうに愉快 な,紳士らしい,謙虚な人である.しかし,交渉の各時点で,できるかぎりゆっ くり熟考し,独自の考えを出す」と述べている52).1872年の南部開発会社事件(SIC 事件)の頃から,彼が持っていたロックフェラーのイメージとは違ったようである.
49) Nevins (1953) op.cit. p.390.
50) サミュエル・C・T・ドッド(Samuel C. T. Dodd,1836-1907)はペンシルヴェニア州フラン クリンの出身であった.哲学的で信仰心の深い彼はオイル関係の弁護士をしながらも,世間か らは文学的才能をもつ独創性のある思考家として名声を得ていた.彼は鉄道のリベートについ ては強い反対者であったが,コンビネーションについては強い賛同者でもあった.彼は1879 年から1905年までスタンダード社の主導的法律顧問弁護士として,同社の法律家を育てる仕 事を続けた.Nevins (1953) op.cit., Vol. I, pp.387-389.
51) 株主権の請求に関する訴訟.
52) 小谷節男(2000)前掲書,p.335.(引用)Nevins (1953) op.cit., pp.387-389.
その後ドッドがまだ青年弁護士であったときに,石油産業という新しい産 業の未来について書いた『グリース・ランド(Grease Land)』という詩がロッ クフェラーの目に留まり,彼をたいへん喜ばせた.ドッドは彼の要請を一度 は断りながらも,1879年5月に同社の法律顧問になった53).
『グリース・ランド(Grease Land)』という詩をAbels (1969)54)のなかから引 用すると,「グリースの土地よ,グリースの土地よ.そこでは,燃える石油が 愛され,歌われ,そこでは,販売と借地権の技巧が時めき,そこでは,ラウ ズビルやタールビルの町が現れた.永遠の夏の輝きはなくとも,油井はすべ てに愛を与えてくれる」とある.
1880年頃ドッドはオハイオ・スタンダード社の権益を1つの所有権と指揮 のもとに,再編成することのできる新しいトラスト協定についてのロックフェ ラーの要請に対して,「3つのプラン」を報告した.
ドッドの「3つのプラン」とは,小谷(2000)55)によると,第1案は持株会 社(holding company)の設立であり,第2案は「種々の会社の株主による共同 経営制度(co-partnership of stockholders)の形成」であった.そして第3案は,「ト ラストによる株式保有計画(the plan of holding the stocks in trust)を注意深く発展 させること,および,ビジネスが受益者たちの選ばれた代表によって管理さ れることであった」と述べている.
第1案の持株会社の設立については,ニュージャージー州が1889年に法制 化するまで,当時まだ持株会社制度を認めた州もなく,法律的に設立許可の 獲得が困難であった56).第2案の共同経営制度の形成はニューヨーク州の株 式連合(joint-stock association)の適用で可能であったが,報告書の作成義務が
53) Abels (1967) op.cit., p.18. (訳書,p.31.)
54) “The Land of Grease, The Land Of Grease, Where burning oil is loved and sung; Where flourish arts of sale and lease Where Rouseville rose and Tarville sprung; Eternal Summer gilds them not But oil wells render dear each spot.”Abels (1967) op.cit., p.18.(原文引用)訳書,p.31.(引用)
55) 小谷節男(2000),前掲書,pp.315-320.
56) Williamson and Daum (1959) op.cit., pp.468-469. Nevins (1953) op.cit., p.390. 小 谷 節 男(2000)
前掲書,p.316.
あり,課税対象となることで秘密の保持ができず却下された57).ドッドがもっ とも推す第3案が最終的に採用された.
ドッドのプランとは,1つの州に1つの会社を新たに設立して,その州内 にあるスタンダード社の資産あるいは子会社をその会社に保有させ管理させ ることであった.それによって州政府の課税は新たに設立された会社に一本 化されて,同社の資産への多重課税を避けられた.つまり,各州内にある同 社の資産を統一して,トラストの持ち分に応じ,トラスト証券を発行して受 託者の下に置くことであった58).
イギリス法の信託制度59)から発想されたドッドのトラスト案は,ロック フェラーに採用されて,1882年1月2日にスタンダード・オイル・トラスト
(S.O.T.)60)として成立した.S.O.T.は1879年のトラスト協定と異なり,スタ ンダード社の所有する全資産を3名のダミー・トラスティーからロックフェ ラーたち9名の受託者61)で構成される最高意思決定機関である受託者会(Board of Nine Trustees)に移管した.
スタンダード・オイル・トラストの定款によると,受託者会の責務はトラ スト構成各社についての全般的監視(第3条15項)であり,受託者会の権限は
57) Williamson and Daum (1959) op.cit., p.469. Nevins (1953) op.cit., pp.390-391. 小 谷 節 男(2000)
前掲書,p.317.
58) Nevins (1953) op.cit., p.393.小谷節男(2000)前掲書,pp.318-320.
59) イギリス法の信託におけるトラストという言葉は「ある人が他人のためにその財産を委託さ れる場合に生ずる関係を述べるのに用いられている」Abels, (1967) op.cit., p.151. (訳書,p.167.)
60) スタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)の成立については,井上忠勝(1959a)「スタン ダード・オイル・トラスト前史」古林喜楽・山下勝治編『経営理論と経営政策』中央経済社,
所収,pp.271-302.井上忠勝(1959b)「スタンダード・オイル・トラスト形成史における問題 点」『企業経営年報』神戸大学第9号,pp.51-76.井上忠勝(1966)「企業合同の管理機構―
スタンダード石油トラストを中心として―」『経済経営研究年報』(神戸大学)第17巻2号,
pp.39-56.玉置紀夫(1967)「スタンダード石油トラストの形成・展開・解体―個別的金融 資本の成立過程に関する研究―」『経済学年報』慶応大学,第10号,pp.193-246.谷口明丈(1977)
「Standard Oil Trustの成立」『土地制度史学』第75号,pp.22-48.チャンドラー(1979)前掲書,
下,pp.724-36.
61) 理事会におけるトラスティーとその任期,John D. Rockefeller,O. H. Payne,William Rockefeller
(1885年4月まで),H. M. Flagler,J. A. Bostwick,William C. Warden(1884年4月まで),Charles Pratt,Benjamin Brewster,John D. Archbold(1883年4月まで)U. S. Industrial Commission, (1900) Report of the IndustrialCommission, Vol.2, Trust and Industrial Combinaitions, Washington, p.1223.
62) United States Bureau of Corporations (1907) op.cit. PartⅠ, p.367.
63) Hidy and Hidy (1955) op.cit., p.56.
64) Abels (1967) op.cit., p.155. (訳書,p.170.)
経営委員会及びその他の委員会に委譲されること(第16条)とある.すなわち,
同トラストは受託者会の監視のもと,経営委員会及びその他の委員会によっ て日常の業務は運営され,経営委員会が組織全体の管理をおこなったのであ る62).
1882年から1892年までのS.O.T.における9名の受託者は,J・D・ロック フェラー,W・ロックフェラー,H・M・フラグラー,J・D・アーチボルド(以
上4名は1882年-1892年までの任期),O・H・ペイン(1882-1884),W・C・ワー
デン(1882-1885),J・A・ボストウィック(1882-1887),B・ブルースター(1882- 1888),C・プラット(1882-1891),H・H・ロジャ−ズ(1885-1892),ウィリアム・
ロックフェラーと組んで販売拡張に活躍したH・A・ハッチンズ(1887-1892), 1887年からボストウィックの代理人となったW・H・ティルフォード(1887-
1892)の12名が務めた63).これら受託者の就任時の年齢構成は,最高齢がフ
ラグラーとプラットの52歳,ロックフェラーの43歳,アーチボルドが最年 少の34歳であった.
第 17 表から,S.O.T.は投下資産価値7,000万ドルで設立され,資本金350 万ドルのオハイオ・スタンダード社の株式数3万5,000枚に対してトラスト 証券が20倍の70万株発行され,41人の株主(完全支配下の14社および部分的 に支配していた26社)に分配された.ロックフェラーたち9名の受託者から構 成される理事会が運営する同トラストは,トラスト証券と交換に41人の株主 の株式を受け取った.9名の受託者は同トラストの約6割の持分を占めた.
S.O.T.を構成する完全支配下の14社および部分的に支配していた26社の 利益は,9名の受託者に一旦送られた.受託者が妥当だと考えるだけの配当 金が,トラスト証券の所有者に送られた64).
これはオハイオ・スタンダード社の株式数1株の額面100ドル相当が,ト ラスト証券数20株の2,000ドルに相当したことを意味した.すなわち,350
株主名 持株数 トラスト証券取得数
John D. Rockefeller 9,585 191,700
H. M. Flagler 3,000 60,000
S. V. Harkness 2,925 58,500
Charles Pratt 2,700 54,000
O. H. Payne 2,500 50,000
J. A. Bostwick 1,700 34,000
William Rockefeller 1,600 32,000
William C. Warden 1,470 29,400
Charles Lockhart 1,360 27,200
W. C. Andrews 990 19,800
Estate of Josiah Macy, Jr. 892 17,840
O. B. Jennings 818 16,360
John Huntington 584 11,680
J. J. Vandergrift 500 10,000
Benjamin Brewster 409 8,180
John D. Archbold 350 7,000
D. M. Harkness 323 6,460
H. M. Hanna and G. W. Chapin 263 5,260
C. M. Pratt 200 4,000
J. N. Camden 200 4,000
Henry L. Davis 200 4,000
Henry H. Rogers 190 18,200
A . J. Pouch 178 3,560
C. F. G. Heye 178 3,560
W. P. Thompson 132 2,640
A. M. McGregor 118 2,360
H. A, Hutchins 111 2,220
T. C. Bushnell 100 2,000
第 17 表 1882年1月2日のS.O.T. 設立時のStandard Oil Co. of Ohioにおける株主,持 株数,トラスト証券取得数
万ドルのスタンダード社がS.O.T.のトラスト証券を媒介することで20倍の
7,000万ドルの会社になったのである.
ロックフェラーはS.O.T.の設立時にオハイオ・スタンダード社の持株数が 9,585(持分比率27.3%)だったので額面で95万8,500ドル相当であったので,
S.O.T.のトラスト証券19万1,700(持分比率27.3%)を受け取り,額面で1,917 万ドル相当となった.
ロックフェラーは,S.O.T.を設立した同年8月1日にニューヨーク・スタ ンダード社(S.O.N.Y.)を設立して,弟ウィリアムを社長に,J・A・ボストヴィッ クを副社長に就任させた.彼は4日後の8月5日にスタンダード・オイル・
ニュージャージー社が設立され,フラグラーを社長に,トーマス・C・ブッシュ ネル65)を副社長に就任させた.
スタンダード社の所有する資産および子会社のある州毎に会社を設立する
65) トーマス・C・ブッシュネルは,1882年のS.O.T.の成立時には28位の株主で俸給役員であった.
Jos. L. Warden 98 1,960
D. Bushnell 97 1,940
Wm. T. Wardwell 78 1,560
O. H. Payne 61 1,220
Wm. H. Macy 59 1,180
Warden, Frew & Co. 55 1,100
Louise C. Wheaton 50 1,000
Mrs. H. M. Flagler 50 1,000
Julia H. York 50 1,000
Lide K. Arter 35 700
Wm. H. Marcy, Jr. 28 560
D. M. Harkness 28 560
H. A. Pratt 15 300
計 35,000 700,000
(出所)United States Bureau of Corporations (1907) op.cit., p.68.
というS.O.T.の協定に沿って,「続く数年間にわたって,インディアナ州,ア イオワ州,ケンタッキー州,ネブラスカ州,カンザス州およびカリフォルニ ア州にもそれぞれ設立された」66)のである.
ロックフェラーはS.O.T.の本部をニューヨークに移し,同トラストをロッ クフェラーたち9名の受託者会で構成される理事会(Board of Nine Trustees)で 運営した.受託者会と理事会が実質的に同一であることから,経営の柔軟性 と戦略的な決定を行うときの命令系統や指揮権の実効性が伴った67). ロックフェラーたちスタンダード社の最高幹部がS.O.T.における株式の信 託を受けて,1887年から1892年までの間に,第 18 表にある容器&缶,樽,
国内取引,輸出貿易,潤滑油,石油精製および石油輸送など各々のオペレーショ ンに権限をもつ7つの委員会の実権を掌握してS.O.T.を運営した.
チャンドラー(1979)68)は,S.O.T.の委員会システムをスタンダード社のマ ネジメントの特徴の1つとして取り上げた.委員会を利用する目的について,
「異なった会社で同様の職能あるいは活動を遂行している管理者の業務を調整 するのに,委員会を利用するというのは,理にかなった方法であった」と述 べて評価している.また,井上(1987)69)は,委員会制度の導入によって,ス タンダード・オイルは「central controlとlocal independenceとの間に適当な バランスを確立することに先駆者的成功をおさめたということができるであ ろう」と述べている.
スタンダード社は,第 19 表から1881年度のアメリカ国内における主要精 製地の精製能力9万7,760 barrel /dayに対して8万7,760 barrel /day,約89%
を占めた.前にも述べたとおり,ロックフェラーは,ニューヨーク,フィラ デルフィア,ピッツバーグといった地区の大手精油所を買収して,当時のア
66) 小谷節男(2000)前掲書,p.323.(引用)
67) Williamson and Daum (1959) op.cit., pp.469-470. Nevins (1953) op.cit., p.394.
68) 委員会を利用する目的について,チャンドラー(1979)前掲書,p.726.チャンドラー(2005)
前掲書,pp.75-86.
69) 井上忠勝(1987)『アメリカ企業経営史研究』神戸大学経済経営研究所,p.106.
メリカの三大鉄道(ニューヨーク・セントラル,ペンシルヴェニア,エリー鉄道)
沿線のおもな精油所を全て押さえた.
スタンダード・オイル・トラスト(S.O.T.)におけるパイプライン輸送の支 配については第 20 表から,1884年にアパラチア油田の原油産出量2万3,956 バーレルのうち,2万256バーレルを同トラストのパイプラインで輸送し,
第 18 表 Standard Oil Trust (S.O.T.)の諮問委員会(1887-1892年)
諮問委員会 メンバー(1887年任命) 新メンバー
容器&缶
W. T. Wardwell(議長)
H. H. Rogers H. L. Davis 他2人
A. J. Pouch(議長),1891年 C. H. Pratt
C. W. Harkness 他3人
樽
A. H. McGregor(議長)
T. H. Wheeler W. P. Thompson 他4人
―
国内取引
W. P. Thompson(議長),1889年 W. H. Tilford
H. A. Hutchis 他2人
H. A. Hutchins(議長),1890年 C. M. Pratt
F. Rockfeller 他3人
外国貿易 T. C. Bushnell(議長)
J. McGee A. J. Pouch
C. F. Ackerman 他2人
潤滑油 O. T. Waring(議長)
E. T. Bedford
S. H. Paine ―
石油精製
H. H. Rogers(議長)
J. H. Alexander F. Q. Barstow 他2人
A. M. McGreger(議長)
P. Babcock, Jr.
J. A. Moffett 他2人
輸送
H. M. Flagler(議長)
J. D. Archbold W. P. Thompson 他2人
―
原油生産 不明 不明
(出所)Hidy and Hidy (1955) op.cit., pp.60-61.